朝鮮の宮廷では、このような物騒千万なものを生かしておいては国家に害を及ぼすとして

「迷世惑民」「邪道亂正」の罪で捕らえて斬罪に処 した。創始者・崔済愚は42歳で処刑された。

この崔済愚には崔時享という教弟があり、東学の教徒は彼を推して『第2世の道主』と仰ぎ

その崔時享も政府、官憲の圧迫を ものともせず、鋭意、東学党の教義を広めることに努めた。

やがて哲宗が なくなり、李大王が王位についたが

その親戚、外戚がバッコ して権大党と結び、李朝の政治は ますます乱れていった。

これが いわゆる『閔族一派専横の時代』といわれるもので

宮廷は閔氏の一族、その郎党が政府のポストを独占し

売官、収賄、などの悪弊は とどまる所を しらなかった。