大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し

1人を内務衙門主事に、1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。

慶尚道に於ては直接に東学徒の糾合を呼びかけた。その呼びかけにより 10、11月に相次いで蜂起する。

大院君は、東学に対し 数十万で大挙 して漢城に来るように命じ

平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。

これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。

日本公使の追及によって、国王、大院君、李呵Oが謝罪して、そのことを認める事態となる

このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく 日本を放逐せんとする大院君の思惑と謀略に よるものであった。

以上、終わり

参考・・【無名指導者の遺骨】
1906年、全羅南道珍島郡で処刑された無名の反乱指導者とみられる遺骨が北海道大学に搬出。
「韓国東学党の頭領」と記された頭骨は、長らく大学で保存されていた後、返還運動を通じて1995年に韓国に戻り全州歴史博物館に収蔵された。
2019年時点では、東学革命記念緑豆館の敷地内に埋葬する計画が立てられている