[ペ・ジョンドクの歴史コラム] キンメイ天皇(欽明王)は百済聖王だった

数万名の騎馬兵を従えることが出来る聖王が、わずか50名の騎馬兵を従えて新羅に侵攻したということは信じられない。聖王が戦死したように見せかけ風聞を広めて、倭の王室に渡ったと見ることができる。

『日本書紀』では、まるで生きた伝記を見るかのように、聖王とその息子・威徳王について一つ一つ明かしている。威徳王が出家して僧侶になろうとしたことも『三国史記』にはなくて、『日本書紀』にだけ出てくる記録だ。

欽明天皇死去後、第30代ビタツ(敏達、ミンダル)天皇が登場する。敏達は聖王の息子で、百済威徳王とは兄弟の関係だ。『日本書紀』敏達天皇記で、敏達は欽明天皇の二番目の息子という話があって、一番目の息子についての記録が全くないのは、百済威徳王が聖王の一番目の息子であるからだ。

日本の天皇家を長い間研究してきたホン・ユンギ教授(東国大学哲学科)は、欽明天皇が間違いなく聖王である点を何度も指摘してきた。ホン・ユンギ教授は、「欽明天皇=聖明王」と結論付けて、当時の奈良地方倭王室の実権者が百済人のソガノイナメだったから、聖王が倭王室で支配領域を拡張することには、何ら問題もなかったと話す。ソガノイナメは倭朝廷の最高大臣として百済を行き来していた聖王を徹底して支えて、2人の姉(キタシヒメ、オアネノキミ)をどちらも聖王の後宮に入宮させた。

またホン・ユンギ教授は、「556年1月、恵王子が百済に帰国する際、アメシン(阿倍臣)らチョシン(朝臣)たちが従える1千名以上の兵士が護衛して百済に帰らせた。」という『日本書紀』の部分も、聖王が欽明天皇である証拠の一つだと主張する。恵王子は威徳王の弟、つまり聖王の息子として555年に使臣として倭国を訪問した。実際、古代史で護衛兵1千名以上は通常の規模ではなく、父親の聖王が息子を見送りながら多くの軍士を送ったと見るのだ。恵王子は後日、百済の第28代ヘワン(恵王、598~599)として登極する。

古代日本国の地では、歴代の王たちが百済聖王の位牌を祀って、王室の祠堂で祭祀を執り行って来た。794年、第50代桓武王(在位781~806)が奈良の地にあった王都を平安京(現在の京都)に移す際、百済聖王の倭王室管轄の祠堂も、新王都である平安京に移された。そこが現在京都市のヒラノシンサ(平野神社)だ。

この事実は、19世紀の著名な国学者バンノブトモ(伴信友、1773~1846)が既に平野神社の位牌は百済聖王だ、(「蕃神考」)だと究明していて、続いて今日多くの史学者が認めるところだ。日本王室文献(『延喜式』917王室編纂)でも、百済聖王の位牌を祀った平野神社は、日本王室が管掌して祭祀を執り行う祠堂と記録している。

ペ・ジョンドク歴史コラムニスト

ソース 蔚山第一日報(韓国語)
http://www.ujeil.com/news/articleView.html?idxno=305916