【ノーサイドの精神】ラグビーW杯フランス大会で、1次リーグD組の日本代表(世界ランキング12位)は8日、
最終第4戦でアルゼンチン代表(同9位)とナントで対戦する。
勝てば2大会連続のベスト8進出が決まる大一番。チーム一丸で白星を目指す。

さかのぼること約1週間前。9月28日のサモア戦でSO李承信(リ・スンシン、22)=神戸=は終盤に途中出場し、
W杯デビューを飾った。最後にボールを蹴り出してノーサイドの笛を聞くと、
チームメートと抱き合って28−22での2勝目(1敗)を喜んだ。

承信は4歳の時、父・東慶さん(58)、長兄・承記さん(27)、次兄・HO承爀(24)=三重
=の影響で楕円(だえん)球を追い始めた。バスケットボール経験者でもあった母・金永福さんの俊敏性のDNAにも導かれ、
すぐにラグビーが性に合った。

だが、自身が11歳で小6だった2012年7月30日。母が44歳の若さで他界した。
数年前から入退院を繰り返しており、乳がんだった。
多感な時期の李少年にとって母の死はショックが大きかった。さらに1カ月後。再び、悲劇に見舞われた。

何らかの感染症が原因で糸球体に炎症を起こす「急性糸球体腎炎」を患った。
医師から「下手したらスポーツができなくなるかもしれない」と告げられた。
「1週間、一歩もベッドから出られなかった」と父が振り返る。悲しみ。不安。承信は病室で泣き続けた。

幸い、病気は快方に向かった。7カ月後。体は回復した。子供たちを養うために必死に働く建築業の父。
ラグビーに励む兄2人の帰宅も夜遅い。午後9時を回ることも多かった。承信は学校から帰ると、ボールを片手に外に出掛けた。

父は回顧する。「オモニ(韓国語でお母さん)が亡くなった当初は僕らが帰って来るまで外におった。
ラグビーをしていた。泣きながら走っていた」。承信は、神戸市内の自宅近くの公園など家族を待つようにして駆け回った。
スポーツ、ラグビーで母の死を紛らわすように…。

そんな李家を、親戚やラグビースクールの保護者たちが支えてくれた。承信は努力を続けた。成長の過程をたどった。

中学時代。兵庫県の選抜チームで主将を務め、全国ジュニアで全国優勝。
大阪朝鮮では2年で高校日本代表に選ばれ、3年で主将として全国大会「花園」に出場した。

東京・帝京大に進学した2019年に再び転機が訪れた。「もっと成長したい」。海外留学を考えるようになった。
父は「オモニは『最後までやり通せ』というタイプだったので。(中退を賛成か反対か)どっち(が良い)か悩んだ」。
家族で何度も話し合った。承信が母の墓前で決意を固めたことを知った父は、中退の決断にうなずいた。

しかしコロナ禍で留学はかなわず。神戸市灘丸山公園や明石市の大蔵海岸で、一人で汗を流す孤独でつらい日々も過ごした末に、
神戸製鋼(現神戸)へ入団。元ニュージーランド代表らと練習し、技術を磨いた。

22年6月に朝鮮高級学校出身者として初めて15人制日本代表キャップを獲得。
韓国籍の在日コリアン3世は「いろんな人に可能性や希望を感じてもらえているんじゃないかな」。
自らのルーツに誇りを持ちながら日本のために体を張り代表デビューから1年余りでW杯メンバー入りした。

フランス大会に向け、日本を旅立つ前に母の墓前で手を合わせた。「お母さんが望んでいた舞台で成長した姿を見てほしい」。
母の死から4077日。父が会場の観客席で見守る中、
22歳になった承信が、W杯で力強い第一歩を踏み出した。(石井文敏)

サンケイスポーツ 10/4(水)12:00
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