【唯物論】心の哲学総合スレ【二元論】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
唯心論、唯物論、表象主義、コネクショニズム、機能主義、消去主義
フレーム問題、中国人の部屋、マリーの部屋
…なんでも語りやがれ!
※前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1362700125/ NGワード
非因果的ブラックボックス ◆nyDbrW8/YE
必須 哲学的ゾンビとかつまらんなぁ
クオリアスイッチっての作ろうぜ
外部のリモコンでチャーマーズのクオリアとやらをオン・オフできるスイッチを作る
チャーマーズが哲学的ゾンビを想像可能と言うのならば
このようなクオリアスイッチも想像可能だわな
さてさて
リモコンでチャーマーズのクオリアスイッチをこっそりオン・オフしたら
チャーマーズはそのオン・オフの瞬間を報告したり、現在がどちらであるのかを識別できるのか?
識別不可能なのならばクオリアとやらはオッカムの剃刀で削除するべき不要な概念である
識別可能ならば哲学的ゾンビもクオリアの無さとやらを識別できることになり、行動が人間とは異なってしまい、「人間と行動の区別がつかない哲学的ゾンビ」という仮定と矛盾する 科学者を自称する癖に実地的に検証不可能な絵空事を宣うKO大生なんか
このオレ様がノックアウトやで クオリアスイッチとかアフォの発想。
これほど理解力の悪いやつは滅多にいない。 あいつだけが悪いのじゃない
周りに群がる馬鹿どもが未熟なんだ 狂犬はクオリアスイッチとかいう犬小屋を見つけたようです。
向こうに定住してくれれば良いですね。 以前から思ってたけど、
唯物論って宗教みたいなもんじゃないの? 唯物論は唯心論の一種でしょ。
物質にせよエネルギーにせよ人間の心的概念だから、その概念だけが存在するっていう立場。 まあ宗教といえば宗教だな。
人間の理解できるものには多数のカテゴリーがあるが、そのうちある種のカテゴリーしか
存在しないと確信してるということで。 いや唯物論は観念論の一種だと思うが。
カントは物自体は直接認識できないと言った。
直接認識できないものは>>13が書いてるみたいに概念的存在にすぎない。
マルクス主義が典型だけど唯物論の主張はその概念的存在が実在するというもので、
これは観念実在論の一種だろう。 ここ過疎ってるな。
なんだかんだ言ってみんなブラックに夢中w 昔の哲学板に「何でもクオリア」ってスレがあったような。
クオリアという語の定義が混乱してるから誰かさんは否定できると思ってるのでは。 茂木の『意識とは何か』では、意識されるものはすべてクオリアであると定義されているな。 物理的な変化にクオリアの発生が随伴するのはいいとして
それぞれ別個のところで発生している複数のクオリアを
ある1つの主観がまとめて認識できるところが不思議だよな
他人の脳で発生したクオリアは認識できないが
厳密には自分の脳へも非常に僅かな情報伝達はあるはずなんだが
なんかあるんだろうな、境界が発生するかしないかを明確に決めるものが >>21
それはクオリアと主観を分ける考え方だね。 こっちは脊髄反射のレスを投稿するスレではなく、じっくり吟味したレスを投稿するスレにしてくれ。
ブラックボックスとの応酬を楽しみたい方はこちらへ↓
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1363332201/ 参考までに
若い頃は、この世は「矛盾」だと感じ、それが昂じて妄想のような理論に
至った。パラノイア? であることには、病識がある。
「矛盾」を認めたら、総てがメチャメチャになる。
その矛盾の肯定こそ「C点論」である。 さらに
思考は、矛盾があってはならない。
あるものはあるし ないものはない
有 無
般若心経では、「色即是空」 「空即是色」 と言う
仏教哲学者は、色「現象つまり有」は、諸々の条件により「縁起により」
それは、空「非現象つまり無」である と言う
つまり 「あるものは ない」 と言う
これは、常識でも、仏教哲学は別だが、ナンセンスでしかない、 さらに×2
仏教哲学では、常識を「世俗諦」と言う
さとれば「勝義諦」と言い、ナンセンスも了解可能と言う
私は、悟りには、「縁亡き衆生」であるが、「矛盾」には魅かれた そんな訳で
私の狂気であるC点論に、時間と野次馬根性があったら、検索して下さい
「C点論を巡って」
2013年3月10日に流した、ピカピカノホームページです >>26
仏教の「色」と「空」は、西洋哲学の「有」と「無」とはニュアンスが違うでしょ。
だから矛盾とはいえない。 >>27
論に支配されているかぎり論で語る、それは永遠に悟りとは無関係な
状態といえる。君が示しているのは数字の集合にすぎない。
盲目な物にたいして全く具体性がない。 「悟る」とは何とも漠然とした定義が曖昧な言葉だが
どんな言語にもこれに相当する語があるのだろうか…
自分は「悟り」を勝手に「唯物論とどう向き合ったか」みたいに位置付けている
地球人に限らず宇宙の至るところで知的生命は唯物論がもたらす空虚と戦っているはずだ
高い知性を持っているほど、
自分自身をコントロールしている感覚を持つと同時に
物理法則の完全な支配下にある事実を受け入れざるを得なくなる ちょっとSFな話になるけど
聖闘士星矢という漫画に出てきた仏陀の生まれ変わりであるシャカというキャラは
阿頼耶識という感覚に目覚めていて生きながら死の世界に行くことができる
彼は幼少時より神仏と対話し、死が人間の決定的な最後ではないことを知る
過去の聖人と言われる人物たちは皆死を乗り越えてきたらしい
手段は概ね物理学になると思うけど、
宇宙がどんな姿をしたものなのかなんとなく分かってきたら、精神とは何なのかも
やはりなんとなく分かってくるだろう
そのときその人間は死後自分がどうなるのかも、なんとなく分かるんだろう 随意筋と不随意筋とか、自律神経とか反射と、脳と脊髄とか
生物学の上でも、
人体には物理法則を超えた超自然的な力を持った領域と、
そうでない完全に機械的な領域があるかのような扱いをしている
同一性の話はさておき、
俺たちの身体はいつかは朽ち果てるが、物理的な存在ではあり続ける
それが脊髄的なものなのか脳的なものなのかは、今は分からない
だがそれがなんとなく分かってくるようになる日が訪れる気がしているのだ 唯物論が観念論だとか唯心論だとかw
このスレ相当レベル低いな 意志とは宣言である
宣言の無効(受動的意志仮説)を言われても
生活に困るので、再度宣言する。
意志とは宣言である。 「さとる」とは?
この世は 「あるものはある ないものはない」
現象「有」はあるし見える
非現象「無」はないし、見えない
仏教哲学者は、高僧は、言う
「色」つまり現象? と言っていいのか 彼らの定義は?
「空」つまり非現象?
「色」は「空」だと 「さとる」者は言う
「あるものはない」
「見えるものは見えない」
「さとる」者は、「色は有ではない 空は無ではない」 とも言う
「さとり」とは、論理でない、とも言う 仏教学者は言う
さとれぬ「俗人」は、真理がわからない、これを「世俗諦」と言う
さとりを開いた「高僧 学者」のみ、真理がわかる、これを「勝義諦」と言う 仏教学者は言う
「お経」は、お釈迦様の書かれたものでない、と聞く
後の世の仏教者が書いたとも聞く
だが
「お経」は、一字一句疑ってはならない、と言う
また
お釈迦様は、お経を離れて、真理を宇宙を形而上の事を、考えてはならない
と戒めた、と言う
仏教学者は、直接、釈迦如来と接していないのに? この世は
あるものはあるし ないものはない
吾らには、「さとる」ことは難しい せめて、是くらいは、教えて欲しい 誰かお願いします
「色」は「有」と、どう異なる?
「空」は「無」と、どう異なる? 「さとる」とは
有や無を「超えた」 もっと「奥の深い」もの?
への 了解 一体化 ○○○ なのでしょうか この際ファンタジーは捨て去って
「何かが確かに在る」くらいに考えればいいんじゃないかな?
所詮は人間の感覚を通して見ている世界じゃん
磁石は強力な磁力のためにそれ以上進むことができない領域を壁と感じているのかもしれない
人間はなまじ目が見えるから電磁波に反応しないその壁を物質ではなく力だと勝手に思ってる
空間とか距離なんてものも情報伝達に要する時間に比例するものとして勝手に思ってる
例えばだけどね 意思だって同じ、ただ在るだけ
所詮は物理状態の変化に随伴するもの
有機物だか生物だか分からんが
粒子がある配列を組むと意思なるものが生まれ
その意思が物理法則を破るとかやっぱ根拠のない自分中心の考え方じゃん
そんな物理法則がユルいものだったら恐ろしくて原発作ったり飛行機飛ばしたりできないし
そもそも因果関係って、法則に則っていないとしたらランダムってことになってしまい
そんなん意思とは呼べないし、別にどうだっていいってなるじゃん たぶん心の哲学って納得に近づきたいと思ったら
理論物理学になるんでしょ
ただ理論物理学者は心の哲学にあんま興味がないし
心の哲学の人たちは今更理論物理やる気概を持っていない 誰も二元論なんて本気で信じてる奴は居るわけがねーしな
結局は唯物論スレでも立てて唯物論vs観念論で決着つけるしかないだろにw チャーマーズの二元論は前野の物的一元論によって完全に論破されているように見える >>49
機械的唯物論者=実は前野 って説もあるらしいしw >>50
前野隆司読んでみな
『なぜ脳は「私」を作ったのか?』とかの題の本とか
『死ぬのが怖いとはどういうことか?』とか
図書館で読んだんで正確な題は忘れたが >>51>>52
少なくとも2ちゃんでは機械的唯物論者コテの方が数年先に言い出してることだけど 慶應大学の教授様が2ちゃんのコテをパクったってかw >>55
工学部のくせに偉そうに思想とか宗教とか解ったような要約してる馬鹿でしょ 誰か機械の次スレ立てれば?
奴は最近やる気ないみたいだし 唯物論は途中の過程が必要なくて
いきなり結論が出る
むしろこの世で一番単純な理論だからな
つまんないから
もう一回遠回りをしようという暇潰しが
いわゆる思想ってやつ >>60
バカだからつまんないとか言い出す
そもそも過程など無い
それがわからないのは知能が低いから 類人猿の時代から
脳なる臓器には柳を見たら幽霊と思う回路がついてる
そんなもんを作動させなければならない理由など全く無い つまると思ってる奴だろ、知能が低いのは
つまらせようとしてる奴は
例えば使用されている語の定義が共有されていない段階で
気ままに自論を展開させていきせっかくの話し合いの場を台無しにしてしまうなど
とても性質が悪い、君のことだ
まぁ安心したまえ
皆「よし、勝手にやっていてくれ」と思ってくれている
言葉やその意味を慎重に考えて話を進めていけば
数分でそれ以上話すことがなくなってしまう、それが唯物論、つまらない 馬鹿って感動ないから何やってもつまらないんだろうなー
行者だから苦行やることが目的になってそうwwwwwww 発狂には以下の心理プロセスがある
(1)脳が現実を理解出来ない「潜在的発狂」
(2)潜在的発狂から急に現実を理解し錯乱する「顕在的発狂」
(3)顕在的発狂から現実をシャットダウンし健忘に陥る「措置的発狂」 この世を考える時
総てに「現実」が優先する どの様な、論も説も、現実から離れては、無意味
現実は、「パーセント」でしか存在しない 「○○のパーセントの確率において」
○○○と推論される これらの推論のいくつかは、「真理」に近いと考えられる 心も、一見科学的に扱える 人文科学とも心理学ともいえる
心の動きを、観測するに、一定の基準(ものさし)を作れば、測定可能で
データが集まる→統計処理→一定の%による「推論」→ある理論?
哲学的論理の展開による、「真理へのアプローチ」は重要
だが、現実から離れすぎては、価値を失う 「心の哲学」にも、最低生物学的基礎は欲しい
たとえば 人間の身体(存在)全体を、コントロールしているもの
現時点の知識では、将来は不明だが
1、神経系(特に、大脳の前頭前野、視床下部、など)
2、内分泌系(下垂体の臓器刺激ホルモン 各臓器ホルモン)
3、免疫系(自己防御ー抗体など 自己矛盾ー抗核抗体)
これらが、人間の「心」と表裏一体となり、作用している 人間はどうしても時間や空間を不変のもの
物理量を測る基準となり得るものと思ってしまうものだが
それ覆して相対性理論が生まれたように
物質を基準とせずに精神を考えることはできないだろうか?
心の哲学には色々問題が残ってるけど
その中でも主観の同一性が持続する理由に少しでも近づきたい
今の唯物論の立場だと
可愛いアイドルも刻一刻と変化していき
それぞれが別人ということになってしまうから 人間ですから、生まれ育ち学び、何処に暮らし移り、その中で
心は、成長します
その時、その場所、において、タダヒトツ実存哲学にも通ずるのが
一人ひとりの人生、そして「こころ」 だが、一人は一人、「こころ」
は、変らない 変ってみたい願望もあるが? 自分は自分でしか無い 自分から、逃れたい事もある
だが、私のDNAは、変らない 嫌な性格、冴えないIQではあるが、どうにもならぬ
この、現実 異次元の世界に行けるものなら、行ってしまいたい せめて、夢の中で と
パラ睡眠では、覚醒時の心の「つかれ」を、調製し癒す とか
だが 夢で「自己実現」が、なされることもあるかも知れない
オーソ睡眠は、肉体の疲れを癒すらしい とか
プロイドなどは、哲学徒の諸氏の得意とするところでしょう 私は、よく
解りません 誰か、ご教示下さい 「プロイド」なんて人は知りませんがどんな方ですか? 「こころの哲学」
心は、魅力的で、人々の避けて生きられぬもの?
いつでも、どこでも ウザいんだけど
本人的には誰かに読んでもらいたいから
2ちゃんに書いてるんだろうな
できれば自分で専用のスレでも立ててやって欲しい 眠りたいという欲求は
死にたいと思うことと、どれ程違うんだろうか?
何時間後かにまた、今度は眠りたいという欲求を持たない状態で目覚めたいと
思っているかどうか、なのだろうか?
やり残したこともそうないと思う今日この頃
身体もあまり健康とは言えないし、いつまでもいつまでも眠っていたいと思うのだが
これは「死にたい」とは何か違うのだろうか? 能無しのきちがいしか居なくなったな、ここ。
揃いも揃って社会不適合のメンヘラばっか。 物理的な変化よってクオリアが生じているとする
その数は、1つなのだろうか?
自分の身体に実は複数の人格が宿っているということは、ないだろうか?
例えば、
この意識が認識できていないだけで
脊髄による反射や自律神経系による様々な身体の反応にも
主体的に行っていると思っている何者がいたりしないだろうか? 実は俺は訓練により
最近反射を自分の意思で停止できるようになってきているのだ
言わば脳人格が脊髄人格を支配しているようなものだ
これを極めたとき、俺は死んでしまうのかもしれないが 唯物論?いや違う、唯"情報"論だ!!要するに記号。
俺たちがPCやスマホを使い、ネットできるのも、
物質的な実態のない情報のおかげ。
記号すなわち情報なしに我々は世界を認識できない。
物質?それこそ幻想だ。 >>89
そう思うならなんぞ劇物か毒物でもコップいっぱい飲み干してみろ。
おまえの「物質」の痛みが染みとおるだろうから。 >>91
情報って受け手が何らかの影響を受ける物や事だから毒も含まれるよん いや、人間というか、どんなものも一瞬たりとも同一であることはできないだけだろう。
たとえばわたしという存在は生まれてから現在に至るまで大きく変化しているのにもかかわらずわたしと表現される。
目の前のパソコンも同一というか不変ではありえないし、地球もまた同一の地球ではありえない。
それを人間は同一として表現するだけだ。
絶えず外部と交渉して変化していくから実は生死の瞬間も分けることはできない。
自然は運動変化の過程として存在するのであり、その中で人間という物理的状態が生成され、また違う物理的状態に成っていくだけ。
意識はたんに物理的状態が自己言及可能に成っただけだろう。
ある特定の物理的状態が意識をもたらす。
それが証拠にその物理的状態は薬投与で変えることもできるし、その他の物理的手段で無くすこともできる。
実は物理的存在としては生死なんてのは存在しないだろう。
生も死も物理的状態という観点からは同じ存在だから。 科学革命というのは、静的な自然観の否定として出現する。
地球もまた運動するのだが、天体の運動は実は地球が静止していると仮定して認識可能になる。
認識が可能と成るのこの静止という仮定を実際に地球が静止していると理解するのが天動説。
進化論は人間もまたこの自然の運動変化の過程から出現しただけであり、変化しないとする認識を否定した。
近年では光速度一定の法則が、絶対座標の否定、つまり運動の否定としての静止などどこにもことを示した。
運動変化の否定としての静止は認識が必要とするだけであり、自然には実在しない。
自然を認識するのに必要な静止を自然にも存在するという誤解を科学は否定し続けている。 人間の認識の在り方の問題はもう少し研究されるべきだろう。 認識なしでも世界は存在する。
太陽系創世記は認識無しに存在する。
認識に対象化された存在と対象化されない存在がある。
過去も未来も人間は認識に対象化しようとしている。
誰もいない森の中で木が倒れる音は、人間の認識には対象化されていないが物理的現象としては存在する。
ある家に泥棒が入って、住人が認識し警察に届ける。
認識した瞬間に泥棒に入られた事実が生まれるわけではない。
中には泥棒に入られたことがわからないことも有りうる。
では泥棒は認識に対象化されていないから存在しないのかというとそうではない。
認識に対象化された存在と、対象化されない存在があるというだけ。
シーラカンスも存在してきたが二十世紀になってから、認識に対象化された存在となっただけ。 これから寝るが、寝ている間に起こることは認識には存在しないが、対象化されないだけで存在する。
寝ている途中殺されたとしたら、殺された人間には認識できないが、認識できるできないにも関わらず殺人は事実として存在する。
寝た後のほかの人々の投稿は、わたしが起きて認識するまで存在しないのだ、なんてことは無い。
じゃ、寝る。 >>97訂正
太陽系創世記は認識無しに存在する。 →存在した。
>>95
>近年では光速度一定の法則が、絶対座標の否定、つまり運動の否定としての静止などどこにもことを示した。
→近年では光速度一定の法則が、絶対座標の否定、つまり運動の否定としての静止などどこにも無いことを示した。 >>93も訂正
>生も死も物理的状態という観点からは同じ存在だから。
→生も死も物理的状態の変化という観点からは同じ存在だから。 ある人は最新科学に裏打ちされた素晴らしい理論だといい
ある人は200年前に終わった話題まだやってんのかよといい
ある人はそれわしが2500年前にやったといい
ある人はカルト乙という
その程度の真実、しかしそれほど確からしい真実 今朝の読売新聞の書籍を紹介するコーナーに
「人間は脳の機能を解明できないんじゃないか?」みたいのがあった
紹介されていたのは「不完全性定理とは何か」という本だったが
「自分自身を解明するのは無理、だから宇宙人なら地球人を解明するかも?」
とか言ってたけど、
唯物論であっても、いわゆる生物ではないとしている自然の現象を機械的なものと見なし
クオリアの発生の可能性をあんま考えてないけど
どんな宇宙人かは分からんが、地球人を哲学的ゾンビみたいに捉えるかも知れないよな そう言えば、人類が地球を脱出するとしたら
どういう宇宙船を造るだろうかとたまに考えるんだけど
たぶん宇宙船は生物っぽくなるんじゃないかな?
遠くの惑星のリアルタイムの情報は得られないから
宇宙空間を亜光速で飛びながら情報を収集し判断する必要があるし
たぶん色んなゴミとぶつかるだろうから(光速に近いので認識とほぼ同時に衝突してしまい避けられない)
故障した箇所とかは勝手に回復してくれるくらいじゃないと飛び続けられないだろうし >>102
当たり前だ
人間のもつ論理は脳のニューロン発火と一致してるが、
「世界が論理的だから我々の脳がこうなのか」「我々の脳がこうだから世界が論理的にみえるのか」
人間の脳だけでは絶対にここにはたどり着けない
どっちかなんだから、どちら側から見ても正しい部分だけ使えば問題なくね?
どちらかに確定するなんて無理に決まってんだから、無駄なこと考えんなよ、
というのが「語り得ぬことに沈黙する」こと 諦めの境地というやつか
相対性理論によれば物理状態は慣性系ごとに異なる姿を見せ、絶対の状態は決めることができない
クオリアが物質由来であれば、これも立場によって複数発生していると言えるのではないか?
物資が変化しているのにクオリアは持続できる
クオリアは持続しているのに物質は変化できる
物質が変化していないのにクオリアが生じている
クオリアが生じていないのに物質は変化している
色んな見方ができるし、それぞれが実際に起こっていることなのかも知れない クオリアは分水嶺に近いからなあ
直前まで積み重ねないと何もわからないと思う
実際に蒸発させてみるまでは沸点を確定できない感じ 2〜3歳頃からだと自我が連続しているとは思えるけど
0歳とか1歳の頃の記憶は全くないので、主観というキー情報で考えたとき
その赤ちゃんは自分と同一人物と言えだろうか?とたまに考える
と言うのは、
乳幼児期の生活環境が人格形成に大きく影響するとされているが
今の自分の脳を、記憶が形成されているネットワークをそのままに乳幼児の頭蓋骨の中に再現したとして
つまりこれから成長しようという力をもった状態にできたとして
そこから人格はそんなに変わらないような気がするんだよね 結局すでに出来上がってしまっている領域があって
その領域が「私が私であること」を決めている
つまり赤ちゃんのときはまだそこが曖昧、
例えるなら昆虫→ネズミ→サルという段階を経ている
これから老人になって脳は委縮していくことだろうが
どっかのタイミングで別人になっちゃうんじゃないかなとかちょっと思ってる
ボケてる人とか見ると、よくそう思う それは自意識の問題だろうね
3歳ぐらいになると「ああぼくは○○君で今3歳なんだ」みたいに客観的に自分をとらえることができるけど
0〜2歳だと周囲からの情報に直接反応する能力しかないから、ある意味自我を欠いたマシーンにすぎない
ダグラス・ホフスタッターがいうところの「システムの外に出る」ことが出来るかどうかがひとつの分水嶺
訓練されたイヌはとても賢くて障害物の避け方とか、羊を追うテクニックとか人間も知らないことを知ってるけれど
致命的なのは「自分がそういうことを知っている」ということを知らないということ
認知症の人も過去に学んだ知識は豊富に持っていても、自分がそういう存在であるという自我を持てなくなって
しまっている点では同じだろう ちなみにコンピューターの場合「プログラムを評価する」というプログラムは作製可能だから自己認識(自意識?)をもつことは可能だと思う
つまり自己認識は物理的な構造であり、持てるかどうかは物理的な要素(例えば脳が十分に発達しているか
障害を持っていないかなど)によって決定される
これに対して主観的な意識体験(クオリア)は物理的に還元できないというのがデイヴィッド・チャーマーズ
の主張だった
つまり意識の本質を考えるうえでもっとも重要なのは自己認識(物理的に還元可能)ではなく主観的な意識体験
(物理的に還元不可能なクオリア)ということだろう 私は主観的な意識体験を持っていると報告する機械も、
クオリアを報告する機械も作れるだろう
それと人間と何が違うのかね 人間に近い振る舞いをするロボットを作ったとして
そいつはぶっ壊れる寸前に人間から「がんばれ!」と言われれば
死力を振り絞って動き続けようとするだろう
自分が間もなく停止するということも知らずに
やっぱ自分の未来の状態は物理的に決定されているということを理解していないから
主体性があると思ってしまうんだろう そもそも人間は、最初からそれを理解している
ただ、理解していない状態を作り出さないと、理解はできない
主体性があるという幻想を抱くがゆえに、主体性がないと理解できるんだよ
人間のような精神を持つロボットを作るには、
純粋な生存不利の一つ上の段階で、
生存に対しての効率を下げる「不快」という架空の価値を与え、
快に向かわせる心の動きを作ることが必要
この「不快」をプログラムすることが、
錯覚なのでプログラムでもできるとするか、
錯覚なのでプログラム出来ないとするか…… 精神とは意識であり意識とは記憶である。
自分という意識は記憶である。自分という意識とは自発的に選択しているという意識に他ならない。 ちなみに昨日ドラゴンボールGTを見ていたら
パンがギルという壊れかけた仲間のロボットを励ましたら
そのギルが一生懸命それに応えようとしているのを見て
思ったことをここに書いてみた >ただ、理解していない状態を作り出さないと、理解はできない
これは言われてみてなんとなくそんな感じがした
最初はみんなまさか自分が機械だなんて思っていないもんな クオリアって要するにパターン認識と同じことでしょ
そんなの昔から認知科学で言われていたこと 今まで問題にもならなかったことが、
脳の構造が多少なり分かってきたり、
コンピューターが登場したせいで問題化しちゃったんだよな >>111
そこそこ良く出来たコンピューターなら「君はなぜ赤を感じていると言えるのか」と聞かれた場合
「だって実際にそう感じているから」と答えるだろう
「○○ナノメートルの波長を確認し、プログラムにしたがって〈赤〉という音声に変換したから」と答えるのは
出来損ない
しかし前者のように答えたからといってコンピューターが主観的意識体験(クオリア)を持つことにはならない
その程度の答えはC3POやHAL9000を持ち出さなくても現存のコンピューターで十分可能
内省すなわち自己認識(自意識)が、主観的意識体験(クオリア)と性質を異にするというのはそういうこと
>>118
パーターン認識だけなら意識がまったくない機械(たとえばサーモスタッド)でも簡単に出来る
要はそこに現象的な体験が伴うかどうかの問題 >>121
>しかし前者のように答えたからといってコンピューターが主観的意識体験(クオリア)を持つことにはならない
それはコンピューターだけでなく人間にも同じことが言える >>122
三人称の他者に対してはそうだが、一人称の自分自身は意識体験を持っていることを「知っている」
論点はコンピューターが人間と同じようなクオリアを持てるかどうかということではなく
クオリアが、内省や自己認識のように意識体験を欠いても説明可能な物理過程とは一線を画する
特殊な概念であるということ >>124
そう、つまり「自我」なんかと同じやね
機械と他者は同じで、自分だけが違う
唯識論的に語るならあるとしかいえないし、
唯物論的に語るなら無いとしかいえない あらかじめサブリミナルで画面に「海」や「フライ」などのワードを表示させておくと、被験者が絶対にそんな言葉は
見ていないと言い張っても、「カキ」を「牡蠣」と認識する割合が格段に高まる。
人間は意識なしにここまで高度な思考が出来るんであって、つまり人間の心の中には既に「哲学的ゾンビ」が存在する。 物質が入れ替わっても自己の同一性が維持する理由は「記憶か?」とか
でも恐らくその記憶を形成しているであろう物質の配置を完全に一致させて造ったクローンが
別の意識を持つであろうことから「変化はしているが、連続していること」が重要なのか
とか、考える訳だが
冷凍保存とかして一旦変化を停止させた脳を百年後に再起動させたとき
自己の同一性は保存されているのだろうか?技術面でも証明方法の面でも確かめようはないが
保存されていたら「時間」は別に重要でないことになり
保存されていなかったら、益々わからん クオリアの発生を一言に「物理状態の変化による」と片付けてしまいがちだが、
死人の脳に電気流したりレントゲン撮ったり電子レンジにかけたりしたら
その時間だけでも意識が復活するのかとかよく考える
何かしらの物理的な変化でいいのなら脳を動かすだけでもいいはず
複雑な加速度運動であれば尚良いだろう
脳だけにしておけば、三半規管がないから感覚として加速を感じようはない訳だが
なんか全然違う意識が発生するんかな?
まぁ脊髄とか、それ以外の器官にはクオリアがないか、
少なくとも脳とはほとんど共有していないから、どんな状態になろうが不思議はないんだが >>127
>別の意識を持つであろうことから
なぜそう考えるんだ?
同じ意識を持つのは自明のように思うが
>>128
とりあえず、最低限の脳の物理機能を勉強したほうがいいと思う
勉強つっても、血液、神経伝達、脳死についてググるだけでもいい
脳が死ぬというのはどういう状態か 人体内で起こっているいわゆる生物学的・化学的な現象も
一般化すると物理的なものということになるからな
クオリアの発生は人間がカテゴリー分けした学問分野の担当範囲とはあんま関係していないだろう
それこそコンピュータや自然現象の中にも何らかの形で発生していると思われる
人間の感覚に相容れ易いかどうかとか、その発生量みたいなものの程度の差はあっても
クオリア自体を考える際に生死はあんま関係ないと思う >>127
そのクローンに「君は何時何分(そのクローンを作った時点)以降は別人で、
別の意識を持ってしまってるんじゃないか?」と質問したとしても、
「何言ってるんですか?別人とか別の意識とか、そんなことありませんよ」
と答えるんじゃないの? 自己は記憶によって作られる。自己とは関係によって作られる。つまり確固とした自己は存在しない。自己と他者の関係によって存在する。 >>132
自己と他者の関係によって自己が存在するとか
結局は自己が前提じゃねーか
どんだけ寝ぼけてんだよ 言い方が悪かったかな。自己が存在するのではなく関係が存在する。いや、存在という言い方はさらに誤解を与えるか。 >>134
関係が存在する?
その「関係」ってのは自己(と他者)を前提にせずに存在できるのか 全ての用語の定義に共通の認識が持たれている状態で話しないと無駄だよな
分かってる人は変な言葉使ったりしないし普通の言葉に特別な意味を与えたりせずに書いてくれるんだけど
ポエムを書き残していくみたいな癖がある人は、協働で考察するのには向かないから1人でやった方がいい >>136
まあしかし、共通の認識が持たれているかどうかなんてことは、分からんのだ >>135
O2(酸素)を現すのに、
・Oが二つある
・O同士の結合が1つある
どちらでも説明できる >>139
意味分からん
それはOの存在が前提で、その関係によって説明してるのだろ >>140
先にOが2つあって、二つが特定の位置にあれば関係する(色即是空)
先に特定の位置に結合があって、Oが見出だされる(空即是色)
存在と結合は等価に対立しているよ
上位の量子力学で言うと、存在と結合はどちらも同じもの(エネルギー)であり、
エネルギーは位置と等価に対立してる >>141
ぜんぜん等価になんか対立しとらんわ
その関係によってOが規定されるわけではない
Oの存在が前提であり、その関係によってO2が規定される
OがNになったら別のもの
その「エネルギー」とやらは、どんな関係によって見出される?
てきとーな妄言ほざくな >>142
ちと存在に囚われすぎかなあ
二重結合が先にあるのにNは無理だ >>142
E=mc^2
Eがエネルギー、mが物質 >>143
N2は三重結合だ
三重結合ありきでNが規定されるのではない
Nの三重結合(関係)によってN2が規定されるのだ
おととい来い >>145
ん?
わかってるじゃないか
結合によって物質を規定できるし、物質によって結合を規定できる 空間に、安定した二重結合(関係)が一つのみ存在する、この物質は何か
空間に、安定して二つのN(物質)のみが結合している、この結合は何か
どちらも成り立つだろ M殻に、ってことは、最外殻でない電子の存在が暗黙的に含まれており、Nの陽子中性子以外の存在がトートロジー的になっているような気がする
電子なしに共有結合はできないし 実際は、2リンが安定しないからM殻前提は要らないよ
まあ確かに、結合も存在だと言われたら、原子を例に出すのが間違ってることになるな 記憶が物質的なものだとしたら
もっと狂ってもいいと思うんだよな
あまりにも正確に保存され過ぎていると思う
記憶には時間経過の感覚も伴っているから
なんかしらの物質的変化が起こってるんだとは思うんだけど
そう考えるとあまりにも正確過ぎる >>153
>記憶が物質的なものだとしたら
>もっと狂ってもいいと思うんだよな
>あまりにも正確に保存され過ぎていると思う
実際の記憶はかなりいいかげん
正確と感じるのは錯覚 その錯覚を作る補正機能がスゴいし、それ込みでかなり正確だとは言えるだろうさ
コンピュータなんかも、単にデータを伝達しようとすると、アホほどミスをする
単純なパルス送信受信だけ見れば、正確さなんて欠片もないと言って良いレベル
だけど正確なデータ伝達ができるのは、ハードソフト両面による何重もの確認訂正機能があるから
それ込みでコンピュータだ 病院で働いていると、心なんて脳の産物に過ぎないと実感できる。 >>156
実感できたところで、なぜ物質に過ぎない脳から心が生まれるのか理解することは出来ない。 なぜ脳に拘るんだろうね。
脳って身体の情報統合器官であって、脳だけで心が発生してるわけじゃないのに。
生命進化の歴史見ても、脳は腸よりも大分後に出来上がった器官。 情報統合の過程に心だと思しき感覚が生れてきたってことでしょ。 >>156
>病院で働いていると、心なんて脳の産物に過ぎないと実感できる。
>我々は、現代社会の中で、歯車のごとく日々生活をするうちに、
意識的且つ、無意識的に事象を「物質的」に捉える考え方を習慣化している。
現代社会は、科学的技術(テクノロジ−)を中心とする考え方にますます傾斜し、
人間の「心」の疎外化が進んでいる。
この様なことが何故起こるのか? その一つの原因は、科学論理の基底となっている
「論理実証主義的」な考え方(事象の捉え方)にあるのではないかと思う。この視点は、
フッサ−ルも同じ事を述べている。
現代医学(西洋医学)は、100%、この「論理実証主義」で構築された医学であり、その
捉え方は、すべてを「物質」として捉えることを基本としている。 「心は物質が作る」は正しいが、何が言いたいのかな? ひょっとして、医師、看護師など、病院で働いている人は、理解の仕方が違うのかな。
「治療はしてもらったんだけど、どうしても足が痛い」と聞くと、普通は
「そうか、痛いんだな」と理解すると思うけど、(ものすごい偏見ですまんけど)
整形外科とかリハビリテーション科の人たち(の一部)は、「治療はもう終わってるん
だから、そんなに痛みはないだろ?詐病?ちゃんとリハビリしてね」とでも
いうように理解してるのかなw >>160
>我々は、現代社会の中で、歯車のごとく日々生活をするうちに、
意識的且つ、無意識的に事象を「物質的」に捉える考え方を習慣化している。
しかし哲学者はそこに疑問を投げかける
ちょっとでも歯車であることに疑問を感じて思考をめぐらせれば、灰色のしまりのない豆腐みたいな物質
(=脳)からなぜ人間の意識のように複雑なものが生まれるのか理解できないという結論のほうに
自然に導かれる
ホフスタッターなんかは人間的思考の本性は二元論的だと言っているし、逆にこれを打ち破るほうが難しい
のかもしれない
まあ歯車であることに疑問を感じていない世の中の多くの人はそう思わないだろうけど 東洋医学は物質側で見えてない関係性を重視するね
表裏の臓器の対応とかさ
単なるオカルトじゃあ、こんだけ続かないだろうとは思う
おそらく臓器同士が直接繋がってるとかじゃなく、
臓器Aと神経のつながり、臓器Bと神経のつながりが近くて、
影響が出やすいとかそういうことだろう
今後そのあたりも含めて西洋医学で解き明かされるんじゃね 唯物論が正しいか二元論が正しいかがこのスレの本題
デネットみたいにデカルト的実体二元論をクソこなしにする学者が、
唯物論を正当化するのはお笑いでしかない
なぜならデカルトの心身二元論(実体二元論)と同じく
、意識は物理的機能のみで説明できるという唯物論
もまた、まったく同等の論理的矛盾をはらんでいるからだ
その差を明確に説明出来ない限りたわごとでしかない この世の全ては物理学で解明できる!(はずだ)
この世には物理では解明できない自我やクオリア、更には霊魂がある!(はずだ)
両方推論で、端的に言えば"信念"だよ >>167
意識は物理的なものに論理的に付随しない
「赤い」という主観的な感覚(クオリア)は、コンピューターが光の波長を分析し「赤い」という
音声に変換したものとは違う
しかし意識が物理的機能のみで説明出来るなら、そのような違いは起こらない
よって意識は物理的機能のみで説明出来るという唯物論は矛盾している
>>168
解明出来るかどうかを努力して判断するのも科学の領域のひとつ
信念とか曖昧な言葉で片付けてしまうのは面白くないsagr >>169
>意識は物理的なものに論理的に付随しない
それが付随するかどうかは分析的ではなく綜合的判断でしょ
>「赤い」という主観的な感覚(クオリア)は、コンピューターが光の波長を分析し「赤い」という音声に変換したものとは違う
クオリアと脳の物理的状態が違うとしても、それらの対応関係が法則化されないというのは論理的判断ではないでしょ >>170
>それが付随するかどうかは分析的ではなく綜合的判断でしょ
? 論理的な帰結としかいいようがない
意識があるAと物理的に同一でも意識がない存在Bは想定可能だから
>クオリアと脳の物理的状態が違うとしても、
それらの対応関係が法則化されないというのは論理的判断ではないでしょ
クオリアと脳の物理的状態の関係を法則化するのと、クオリアを脳の物理的状態で還元するのとでは
意味合いが違う
相関関係がそのまま因果関係ではない >>171
>意識があるAと物理的に同一でも意識がない存在Bは想定可能
君は心的出来事と脳の物理的出来事が一意に対応しないという綜合的判断を前提にしちゃってるよ
>相関関係がそのまま因果関係ではない
そんなことわかってるよw
確かに相関関係は因果関係を含意しないが、因果関係が相関関係を含意するので、
相関関係から法則を帰納的に推論することは科学者は普通にやっていることだよ。
そのことはそこに因果関係がない可能性を遮るものではない。 物質が入れ替わっても自意識が継続していると感じられるのは
物質が入れ替わる前後の自分同士と、自分と他人との関係と、
いったい何が違うのかという意味でなんとも不思議なものだが
例えば今目の前にあるボールペンのように物質が入れ替わっていないとされるものでも
実際にはそれを構成する素粒子は生じたり消えたりを繰り返しているであろうし
その消えてまた現れた粒子は果たしで同一と見なしてしいのだろうかと疑うことだってできる
ある粒子が光速を超えてしまったとしたら、それは新たな物理現象の発見なのか
それとも単に異なる複数の粒子が生まれては消え、あたかも1つの粒子のように振舞った結果
光速を超えたように見えたのか >>173
綜合的判断と分析的判断の違いがここでどう関係するのかわからんが、心的なものと脳の物理的なものが
対応しないなんて一言もいっていない
心的なものすなわち主観的意識(クオリア)は物理的なものに論理的に付随しないということ
意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば、意識をもつ存在と物理的に同一でありながら
意識をもたいない存在、すなわち哲学的ゾンビは「想定すら」不可能ということになる(しかし実際にはそうではない)
物理的に還元できないクオリアが存在し唯物論が偽であるためには、ゾンビ論法が首尾一貫している
だけで十分なのだから、主観的意識が脳の物理的機能だけで説明できると主張する人は、この論法の
どこに論理的な間違いがあるか説明しなければならない だから心的なものが錯覚かもしれないってことだろ
事実と仮定の区別つけろ >>175
>意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば、意識をもつ存在と物理的に同一でありながら
>意識をもたいない存在、すなわち哲学的ゾンビは「想定すら」不可能ということになる(しかし実際にはそうではない)
想定不可能なものなんてあるのか? >>177
もちろんある
神様、妖精、光より速い物質は事実に反するとしても想定可能だけど
一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定不可能
同じく、もし意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば
意識をもつ存在と物理的に同一でありながら意識をもたいない存在は想定不可能となる
意識という単語を「頭」に置きかえてみればわかりやすい
頭は物理的なものに還元可能つまり論理的に付随するから、頭をもつ存在と物理的に同一でありながら
頭を持たない存在は想定不可能である もし意識が物理的なものに論理的に付随する『可能性がある』とすれば
意識をもつ存在と物理的に同一でありながら意識をもたいない存在は想定不可能『かもしれない』となる
意識が物理的なものに論理的に付随すると『確定』すれば
意識をもつ存在と物理的に同一でありながら意識をもたいない存在は『想定不可能』となる
仮定と事実の区別つけろ
3アウトバッターチェンジ >>179
>意識が物理的なものに論理的に付随すると『確定』すれば
意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば(>>178)と何が違うのかね?
>3アウトバッターチェンジ
賛成 まともな議論が出来る人間とチェンジしてくれ >>180
お前さ、自分が反論できないとこは無視して、反論できそうなとこ(反論にもなってないが)にだけ反応するんだな
まるで宗教家だよ、お前 >>178
>一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定不可能
非ユークリッド幾何学も知らんのか…… >>182
> >一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定不可能
非ユークリッド幾何学も知らんのか……
非ユークリッド幾何学も知らんのか…… 中世イングランド出身の伝説的傭兵、ジョン・ホークウッドによると、
女は三十人膣内射精すると死んでしまうというトリビアがあるけど、
別にそれはたまたまそういう奴がいたってだけで、
だいたい三十人やる前に女は死ぬなと、
実験し統計とったわけでも何でもないのな。
だから五十人、百人に膣内射精されて股が擦り切れようが、
生き残る奴は生き残るのな。
これ豆知識な。 >>180
物質に意識が付随するという立場ならゾンビは想定不可能
しないという立場ならゾンビは想定可能
お前の立場は? >>182
非ユークリッド幾何学に関してとんでもない誤解をしていたにもかかわらず
それに対する謝罪はまだかね? >>178
>一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定不可能
平坦でない面でなら想定可能だ
>同じく、もし意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば
>意識をもつ存在と物理的に同一でありながら意識をもたいない存在は想定不可能となる
実証できない想定は意味がない 意味の検証主義基準とかなついな
論理実証主義までで止まってる人か 哲学的ゾンビって、ちょっと皮肉だよね。
クオリアのあるらしい人間が「クオリアはある」って言うのだから、仮定からして、クオリアのない人間も「クオリアはある」って言えちゃう。
クオリアがないのに、クオリアがあるって言えちゃうなんて、じゃあチャーマーズもクオリアないかもねw 「意識なんてあるとは限らない」
お前がずっと目を背けてきたこの命題に反論できない限り、お前は負けだよ >>191
>平坦でない面でなら想定可能だ
数学を一から勉強し直してこい >>197
アインシュタインにプリンキピア読め、って言うみたいだな 頑張って反駁できそうなとこ探してるのかな
かわいいな 心的世界は物理的世界とは独立に存在し物理的対象に対する原因になるものだよ 現に>>201の心的状態が>>202のレスを引き起こした コンピュータでも
ソースはよ。
くらいのレスつけられますよ。
あなたは思い込みが過ぎるので、統合失調症の診断を受けた方がいいと思われます。 >>204
脳活動の存在は心の存在の必要条件だが、心はそれ自体として脳活動に物理的作用を及ぼす存在ということだよ。 >>206
あらゆる計算機に心が宿ってるなんて、とんだロマンチストですね
意識ないとされてるものの一例として引き合いに出しただけなのに >>208
>コンピュータでも
>ソースはよ。
>くらいのレスつけられますよ。
に対する
>コンピュータは意識を持てないって言ってる?
と言う質問をどう読めば
>あらゆる計算機に心が宿ってるなんて、とんだロマンチストですね
という解釈になるのだろう?
妄想狂のヒト? >意識ないとされてるものの一例として引き合いに出しただけなのに
意識の有無をどうやって判断するのか? >>210
あるコンピュータが意識を持つとしたら、あらゆるコンピュータは意識を持つことになる
同様にある生命が意識を持つとしたら、あらゆる生命は意識を持つことになる
こんくらいは分かるよな? >>211
判断できないからとされているって書いたんだよアスペか >>212
根拠のない前提の論理に意味がないことはわかるが
何が言いたいのかは不明だな >>213
そのような曖昧な前提でまともな議論ができるのか? >>214
根拠のない前提wwwwww
お前、仮定って知ってる?
根拠のない前提が意味ないなら背理法できないね >>215
できる限り曖昧さなくしたけど
意識とは何かみたいな曖昧さを排除して、そこらでアンケートとれば立証できるように書いたんだけど >>216
検証されない仮定に意味はない
背理法は公理系を前提に使う >>217
つまりコペルニクス以前にアンケートを取れば、
地球が宇宙の中心というのが正しい
というレベルの議論なのか?
それは立証と呼べるのか? >>218
お前勘違いしてるかもしれないけど、俺は唯物でも二元論でも唯心でもないからな
背理法は排中律あればどこでも出来るんだなあ
検証されない仮定に意味はないってマジで言ってるなら、ちょっと思考実験とか勉強したほうがいいと思うぞ
重要なのはその仮定から演繹される結論、分かるな? >>219
コンピュータは意識ないものの代名詞として使いました
お終い >>220
検証できない思考実験など妄想と同じだ
演繹は前提が間違っていれば意味がない >>222
ワロタ
結論が誤りなら前提が誤りって言えるじゃん
対偶って分かるよな? >>221
コンピュータが意識を持たないと言える根拠はあるのか? >>224
コンピュータは意識ないものの代名詞として使いました
↑これ読んで分からない? >>223
>結論が誤りなら前提が誤りって言えるじゃん
論点をすりかえているな
前提が間違っている演繹による結論は意味がないと言ってるのだが >>225
>コンピュータは意識ないものの代名詞として使いました
これは
「コンピュータは意識を持たない」を前提にしている
その前提に根拠はあるのかと質問している >>226
お前最初は「根拠のない前提」って言ってたよな?いつから「間違っている前提」に変わったの? >>227
なんで俺が「意識ない"とされている"ものの一例」って言ったか分かるか? >>228
間違っているかどうかは根拠次第だ
間違った前提による演繹の結論は意味がない >>230
うんうん、その通りだよ
でも根拠のない前提による演繹は無意味じゃないなんてことは分かるよな?
結論でその前提を否定しうるんだから
お前自分で何言ってるかよく分からなくなってるだろ? >>229
>なんで俺が「意識ない"とされている"ものの一例」って言ったか分かるか?
説明してくれ >>231
>でも根拠のない前提による演繹は無意味じゃないなんてことは分かるよな?
>結論でその前提を否定しうるんだから
わからない
例を示してくれ >>212はあれだ、排中率の拡大解釈による暴走だよ
コレを言い出すと砂山のパラドックスを受け入れざるを得ない >>235
砂山のパラドックスを受け入れろ
砂山のパラドックスの解決って、
@こんくらいが砂山だろうな〜ってなあなあで決める
A砂が1つでも砂山と認める
B砂山なんてもん最初から存在しない
このどれか
哲学という学問で、@が許されるのかは疑問
定義を一切しない、主観的独断的な線引きだから
論理性を重要視するなら、哲学者はAかBの極端を受け入れなければいけない >>236
よし受け入れよう
そこで得られる結論
・意識は存在するし存在しない
・コンピューターは存在するし存在しない
・生命は存在するし存在しない
これもある意味で誤りではないが、2000年前の哲学だよこれは 観念論の立場に立てば、空理論は無敵すぎてヤバイ
当時は唯識論と実在論の両方を成り立たせるために作られたんだろうが、
汎神論や虚無主義にも当てはまるのからな
そらニーチェも騙されるわ >>236
パラドックスを受け入れるというのは解決しないこと
「矛盾がある/ない」という二値判断だけを結論をして認めること まあ、どこにも意識なんてないっていうのも、何にも意識があるっていうのも、一つの答えではあるよな 古典哲学で止まってる奴
vs
近代哲学語るのに古典哲学理解できてない奴
この構図は他板でも何度か見たが、果たしてどっちがアホなのか >>199
じゃあ言い方を変えよう
非ユークリッド幾何学を一から勉強し直してこい そうすりゃアインシュタインも納得する
「平坦でない面なら、一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定可能」
と本気で思っているのか?
マイナーなスレとはいえ全世界の人間が閲覧可能なのだから、あまり恥ずかしいことは書かないほうがいい 本気で思ってるも何も、頭の中で想像できたら想定可能だろ もしかして、非ユークリッド幾何学は「曲面上の幾何学」だって知らないとか? たぶん>>178は
曲面上の三角形は、内角の和が180°より大きい場合がある
と、どこかで見聞きしたのを間違って記憶してしまったのだろう
三角不等式が成り立たないようなものまで距離とか計量などと呼ぶのかどうかは知らん 誰がなんと言おうと、原にそういう三角形は想像可能だけど >>251
その条件を満たす三角形の具体例を教えてくれ 三角形ABCについて、
AB+BC≦CA と仮定する。
このとき、定義より線分CAは点CとAを最短距離で結ぶ。
しかし、仮定より点CとAは点Bを通る方が距離は短くなる。
よって矛盾
これでいいか 矛盾したって想定できるじゃない
錯視画像みたいなもん 言葉をデタラメに並べただけで「想定できた」と認めるのなら、わざわざ非ユークリッド幾何なんて持ち出す必要はないわな
というか、三角不等式の成り立たない三角形なんてないけど 三角形の定義によるんでない?
同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形、ってことになっているけど
点と点をどうやって結ぶか、点と点の間の長さをどうやって測るかによって三角不等式が
成り立たない場合を想定することは可能だよ。
空間に3つの点を設定してそれぞれの点の間に光を飛ばす場合
光としては最短の経路で伝わるけれど、間にブラックホールを配置してやると曲がった経路を伝わる。
これを極端にすれば光にとって最短の経路で3点を結んでも三角不等式が成り立たない。 哲学的な何か、あと科学とかを読んだようなとってつけた感じの唯物批判してボコボコにされたとこからよく数学の議論に持って行ったな
すり替えの達人かよ クオリア=徳で良いと思う
徳の定義とは、ある性(もちまえ)が自他にはたらきかけるもの
現象的な体験というのは、飽く迄幻想である「意識」が認識したものであり、意識が無くてもクオリアは発生している
この徳が和して相響くことで縁となる
クオリアのことなんか勘違いしてるかな あ、意識についての見解も言っとかないと話がおかしくなるな
まず、総てのものに意志があるということを命題にしている
意志とは即ち欲のことであり、無意識の営みである
言い換えるなら総てのものに無意識がある
意識とは、欲の結果である進化のうちの最終進化であり、無意識の営みを気付く(認識)ことに成功したもの
つまり、意識とは無意識の営みを気付くことしか出来ない >>263
世間一般で言うところの徳の定義くらい知ってるわ
新たな定義を提唱してんだからわざわざ定義書いたんでしょ そんなのありなのか。あまりにもかけ離れてたもので。まあいいやw ひとつならまだしも
3つも4つも独自定義使うくらいなら最初から独自言語使った方が >>265
徳を辞書で引くと
1 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。「―が高い」「―を修める」→徳目
2 めぐみ。恩恵。神仏などの加護。「―をさずかる」「―を施す」
3 ⇒得(とく)1
4 富。財産。
「―いかめしうなどあれば、…家の内もきらきらしく」〈源・東屋〉
5 生まれつき備わった能力・性質。天性。
「鳥といっぱ、高く飛ぶをもってその―とす」〈仮・伊曽保・下〉
提供元:「デジタル大辞泉」- 凡例
これだけの意味がありその一つ一つが誰かが定義して普及したもの
そもそも語源としては直き心を以って所作に至るということだから、直き心である無意識が所作(自他にはたらきかける)のは寧ろ本来の意味に近い クオリア
感覚的・主観的な経験にもとづく独特の質感。「秋空の青くすがすがしい感じ」「フルートの音色のような高く澄んだ感じ」など。感覚質。
提供元:「デジタル大辞泉」- 凡例
つまり、感覚の質感そのものってことか
じゃあ意識が認識出来なかった質感はクオリアでは無いの?
ぼんやり街を眺めていているとき、注意すれば道路がこの色だと認識できるけど認識してなくても目には映っているわけだから情報としては受信してるわけだよな
同じ様に気づかないほど小さな音、気づかないほど小さな臭い
意識が認識しなければクオリアではないの? >>178
>同じく、もし意識が物理的なものに論理的に付随するとすれば
>意識をもつ存在と物理的に同一でありながら意識をもたいない存在は想定不可能となる
これは問題ない
>意識という単語を「頭」に置きかえてみればわかりやすい
>
>頭は物理的なものに還元可能つまり論理的に付随するから、頭をもつ存在と物理的に同一でありながら
>頭を持たない存在は想定不可能である
何が言いたいのかわからない >>270
>>271
オナニーして気持ち良いとか思わないの?
この気持ち良さってクオリアじゃないのかな 快の感情は対象を評価し行為を決定する機能だが何か? >>274
それは快と同じ評価機構の肯定であり、
快という感情や感覚の肯定にはならない クオリアがあるという主張の人はいないのな
全員機械論とか唯物論者なのか?
「総てのものに意志がある」という命題に対してはどう思うの? 今や広島ドームを見ても「過ちはくりかえしません」という言葉が体の外に浮かぶのみ >>275
快の感情や感覚には大した意味はない
感情というフレームにおいて識別のためたまたま選択された一つの解にすぎない >>1に書いてなかったから普通に上げてたけど基本下げ進行なのか?
ここお初なんでわからんかったわ >>276
>クオリアがあるという主張の人はいないのな
>全員機械論とか唯物論者なのか?
クオリアと唯物論や機械論は排他ではない
>「総てのものに意志がある」という命題に対してはどう思うの?
意志の定義による >>281
意志を一言で定義するとしたら欲ということ
欲があるからくっついたり引き寄せたりという力になり、他の欲の方が強いが為に引き剥がされたり奪われたりする
総ての活動を無意識の営みと定義し、その原因として意志があるということ
実体とは、法・身・力が一体となったもので、この法こそが意志ということ
あなたが今いるのは親の意志であり、車があるのは製作者や設計者の意志
また、意志は移伝する性質を持ち、これを利用することを操るという >>281
言いたいことは何となくわかるが悪い意味で非常に詩的だ
意志なら意志を中心に、法なら法を中心に、力なら力を中心に、欲なら欲を中心に、
何かひとつを中心に据えて、それから派生するように普通の日本語で説明しないと、
仮に正しいことの言い換えになっていても他人には伝わらんよ そりゃあ全ては力への意思ですよ。
力への意思のせめぎ合い。 >>282
意志を対象間の力(あるいは相互作用)とするなら全てのものに意志があると言ってもいいが、それでいいのか? 意志=万有引力(のようなもの)
って言ってるように見える >>287
誤爆失礼
相互作用の力、万有引力ももちろん含まれている
ただそれだけに留まらず、いくらかのかたまりである「もの」に共通意志があり、それぞれに特有の性質がある
みずからの欲(自己を保とうとする性質)の為に活動する意味において生物と非生物の違いは見受けられない 少し宗教的になってしまうが
「総てのものに意志があり、自己を保とうと活動している」を真とするならこれは「いのち」と同義だと云える
生命という意味の命とわけて考えるためにあえてひらがなにしている(みずからとおのずからの違い)
総てのものがいのちと云えるならばもはや神と同義だと云える(総てが自ずから然り自ずから活動している)
そういった意味でスピノザと同じ結論、いわゆる神即自然という結論になりました 記憶が物質由来のものであるとして
まぁそれはほぼ確定事項であると言えるだろうが
粒子の配列を完全に同じように作れる機械が発明されたとして
殺人犯のコピーを作ったとする
そのコピーは罪を背負った存在であると言えるのだろうか?
危険人物であるとして隔離した方がいいのは事実だが・・・ 罪の概念自体に客観性がない
罪の主体の存在の認識
罪の根拠
いずれも人間の主観的な対象の認識の結果に過ぎない 罪はあえてつくらなければ罪などない
コミュニティの中のルールにすぎず、殺人ですら倫理的根拠は一切ない >>289
すると神というものに特段の意味は無いということになるね
すべての存在するものに現状維持をする意思があるというよりも
現状維持し続けるものだけが結果として存在し続けているということに過ぎないのでは? >>260
本来は唯物論批判を継続したいのだがあまりにもトンチンカンな反応で、これ以上議論しても無駄だと思ったので
誤謬がわかりやすいように、あえて矛先を本人が持ち出した数学の話のほうに変えた
その方がトンチンカンぶりが浮き彫りになるからなw >>294
神に特別な意味はなくていのちそのものが唯一の存在という意味で神と云えるっていう思想です
現状維持できないものは他の意志に取り込まれるだけかと
そもそも有の世界において無というものは存在しないし、有るものも形は変えようとも無にはならない
なぜ有があるかを考えるのは無駄だからそんなに大事なことではないけど、自ずから然りとしかいえないだろうね >>295
ここまで言ってまだ反論できるってすごいな
早く「意識なんてあるとは限らない」に反証してくれ >>178
>もちろんある
>神様、妖精、光より速い物質は事実に反するとしても想定可能だけど
>一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は想定不可能
これって結局どうなったの?
想定可能でOK? ゴチャゴチャいうとまた反論できないとこ無視して論点ずらし始めるからやめとけ 物以外に何が存在するというのか
ココロやタマシイがあるようにみえるのは物に付随している無意識のせい >>302
存在するの何かを物と呼ぶんだから、
物だけが在るってトートロジーちゃうか 物以外の何か(心や魂)が有るとするのが唯心やら二元論なわけだから、観測されないし質量を持たない何かを定義したい人達と議論する場合、基本的には観測ができ質量を持つもの=物としないといけないだろう
ちなみに物と省略してしまってるけど、物自体の話ね
観念的な意味においての物だとそれは意志の表象ということになるから >>304
随伴現象説も二元論だからその区分は間違い
随伴現象説は心をあるものだとはするが質量とは見ない
あと一旦質量と定義しながらわざわざ物自体と言い直したのは何でだ >>305
心を質量とは見ないなら合ってるじゃないか
(客観的な)観測ができ質量を持つもの=物
(客観的な)観測ができず質量を持たない何か=物以外の何か(心など)
唯心論や二元論との論点は物以外の何かが有るか無いかなわけでしょ?
そもそも俺は意識の定義が一般と少し違った捉え方をしているからその辺りを踏まえないと噛み合わない気がする
意識=注意による認識機能
ちなみに注意しているのは無意識ね >>306
噛み合わないと思うなら、噛み合わせるために客観的な(=普通の)定義で語れ >>307
唯心論者や二元論者がこのスレにいてその人達の主張を聞かないうちから仮想論敵の土俵でものを言う必要性は無いな カシコイ人しかいない哲学板なんだから、唯物か二元かは分からないって立場じゃない人なんていないだろ? 「意識=注意による認識機能
ちなみに注意しているのは無意識ね 」
久しぶりに笑った。 本当に笑ったのだろうか?
笑ったと書いただけなのだろうか? 退屈な毎日の中笑いを一つ提供できたのなら幸いだ
で、何が面白いの?
主張なり反論なりがないとこっちはあんま面白くないのだが >>297
>ここまで言ってまだ反論できるってすごいな
それはこっちのセリフ
ここまで言われてまだ反発できるとはすごい >>298
>想定可能でOK?
そこに書いてある通り、神様・妖精は想定可能、一辺の長さが他の二辺の長さの和より大きい三角形は
非ユークリッド幾何学だろうと何だろうと想定不可能
もし想定可能だと言い張るなら球面幾何学におけるそのような三角形を例示せよ
論理的整合性のない想定を主張したところで想定したことにはならない
空飛ぶ電話は現実には存在しなくても想定可能だが、オスのメギツネは論理的に整合性がないから
想定可能ではない
男っぽいメギツネか何かを想像して「俺が想像してるんだから想定可能」と言い張ったところで
それは単に間違った報告をしているにすぎない
同じことが>>246>>251の「三角形」についてもいえる 唯物論を否定するために思惟可能性という前提を持ち出したわけだが、そこで引っ掛かっているようでは
しょうがない。
三角形の二辺云々は単なる例え話なので聞き流せばいいものを、わざわざ絡んできたうえに間違ったことを
書いて修正に手間取らせるようじゃ話にならない
要するに意識を持つ存在と物理的に同一でありながら意識をもたない存在は思惟可能(想定可能)だから
意識は物理的なものに還元できない、よって唯物論は偽であるということ
これを否定するためには、意識を持つ存在と物理的に同一でありながら意識をもたない存在は思惟可能
ということが間違いであるか、思惟可能であっても意識は物理的なものに還元できないできないということが
間違いであるかのどちらかを証明しなければならない トリつけてみた
ここはIDが見えないから不便ですな >>317
そもそも唯物論者って意識を物理的なものと分けて考えないのでは?
前提の部分が食い違ったままで話は進まないので論点が違うと感じた >>319
その通り
意識を物理的なものと分けて考えないところに唯物論の間違いがある >>320
君の主張はどのような立場なの?
所謂性質二元論かな? >>321
性質二元論が最も論理的に妥当だと思うが、とりあえず唯物論との対立について
実体二元論との区別が出来ない人が多いようだから、見識があるならその辺のところ諭しておいといてくれ >>322
私はね、唯物論者でも性質二元論者でもないのだよ
何故なら"物理的なもの"と"心的なもの"というアバウトな分け方をしているでしょ?
そんな良い加減な分け方は全然厳密ではない
実際問題、この世に「何」が存在するかを厳密に取り決めるべきなのだよ >>323
唯物論者は物理的なものと心的なものを区別していない
この世に「何」が存在するか厳密に思考すればこそ、この両者は明確に区別される必要がある
性質二元論によれば物理的なものと心的なものはアバウトな分け方ではなく明確な定義がある >>324
アバウトと言ったのは厳密な定義があるならば「的なもの」という区分は誤りであろうという意味
心的なものの中には意識、自我、無意識、精神などがごちゃまぜになってしまってるだろうし
物理的なものの中には物質、力、法則などがごちゃまぜになってしまってる 厳密に何が存在しているか単刀直入に言ってしまうと
>>282で述べた、この世には法・身・力が一体となって存在しているということ
勝手な造語で三本一体或いは混合三元論
どれか一つだけでは成り立たないし分けることもできない >>325
心的なものという表現自体曖昧だからね
ただここで問題なのは曖昧さを回避し明確に定義しよう思えば出来るということ
意識に関していえば三人称の機能的なものと一人称の主観的な体験に分けるのが
一番わかりやすい >>327
なるほど
明確に定義できるならばそうしてもらった方が議論しやすいね 厳密に別けられないから曖昧な訳で
その言い換えは曖昧さを主観と客観に押し付けただけでは 全てのものに意志がある
例えば力が集まれば大きな力になる様に、意志が集まれば大きな意志になる
ものがいくつか集まって塊になると「自己を保つ」という共通の志向性が生まれ、これが共通意志であり意識されない無意識の正体じゃないかな
活動の欲も共通意志に内在していて、体現できたものがいわゆる生命だと
おのずからという受動性とみずからという能動性が共通意志に混在している 宇宙はただ淡々と物理法則に従って振舞ってるだけだよ
その中でクオリアを持った部分には
自分や周囲が目的意識を持って動いてるように見えてるだけ >>331
その物理法則が何故有るのかってことなんだよ
意志なくして動いたり整然性を保つことは出来ないのでは?
何故か物理法則もあるし、不思議とものは勝手に動くといってたらわかったつもりで何もわからないのと一緒だよ 何故か意志がある、に後退させただけやん
そんなもんオッカムさんに剃り落としてもらえ いかなる宇宙にも何らかの物理法則が生じてしまう本当の理由を
人類が説明できるのはいつの日かね
そのうち少しは進化して可能になると思うけど明日ってことはないやね 二軸評価と三位一体あたりで行ったり来たりするので完全な二元論にいけない いかなる宇宙……別の宇宙があって、しかもその宇宙の物理法則が知られているというんですか! 二元論者は主観で表面的な評価を行いビッチをつかむのか 自由意志の実感は人間社会生活を円滑に動かすための仮構的機能
心的現象はすべてニューロンの発火パターンでしかない ここの住民は唯物論者?性質二元論者?
見たところこの二つで争ってるように見えるが心の哲学ではどちらの意見が支配的なんだろう ここ10年くらいは唯物論者が再び盛り返してきたような気がする >>344
でも汎心論みたいなラディカルな意見も盛り上がってないか? 唯物論も性質二元論も間違い
どちらも、ものに物理的な性質があるとしているわけだが、物理的な性質とは何だろうか
・客体を引き寄せる能力(万有引力)
・動く能力
・自動的に保持しようとする能力
こういった超能力を全ての物質が備えていると言っているわけだ
こんな超能力がものの性質だと言っているわけだ
全てのものに意志があるとする方が自然ではないだろうか それを自然と思うのはすでにフォークロア心理学を前提にしているんだよ 唯物論は正しいとか間違ってるとか考える必要はなくて
単に宇宙の姿を表わすものとして「唯物」という言葉を作ったんじゃないのかな? 誰か、欲の出どころが意識なのか精神なのか心なのか無意識なのか考えてみてくれ
精神や心とするなら、精神や心の定義も一緒に これはかなり重要な問題なのだ
何故ならば、精神・心という言葉は定義があいまいすぎて存在するのかすら怪しいものなのだ
すると、何かをアバウトに精神・心と呼んでいるだけに過ぎない可能性が高い
俺が思うに、欲の出どころは精神や心などという存在すら怪しいものからではない筈だ 言葉に囚われ過ぎだよ
マジョリティ側が気にしてないこと考えてるんだから
彼らが作った語彙で説明するのは無理
専門家が作った語彙になると
果たしてそれでお互いの考えが正確に通じているのか疑問
最後はイメージで何となく分かった気になって自己満足するしかない
他人と共有したいという、それこを欲を捨てることだよ >>360
いや、言葉云々ではなく、人間に欲がある以上出どころがあるでしょう
脳という物質からでしょうか
>>361
知らん >脳という物質からでしょうか
その可能性が高いと思うよ
腕や脚がもげてもおそらく自己の同一性は維持されるし
臓器移植でも同じことが言える
なぜ脊髄や末梢神経、あるいは心臓や肝臓に欲(意識)がないのか
あるいはあっても脳と独立しているのか、それは分からないが
少なくとも我々が「欲」と感じているものは脳由来だろう
ここらは心の哲学の世界でもそんなに疑わなくていい領域だと思う >>363
やはり脳か
そうなると、魂や霊を持ち出さないならば、物質に欲があることを誰も否定出来ないだろう
何しろ現実に物質が欲を発生させてんだから
心とか精神など、物理的には存在しない この場合「物理的に」という言い方があまり適切じゃないかな
何かしらがあるのは確かで、その発生のメカニズムに辿り着いた時点で
それは物理的なものにされ物理学に組み込まれるだろう
万物に欲が発生しているというのは、別にそれでいいと思うよ
「あ〜もれちゃう!」って我慢できなくなって小便ブチ撒けるのと
夏の夕刻にゲリラ豪雨が降るのとは、共に物理的な説明が可能なはずだ
人間は自分や動物の身体が関わる物理現象の一部になぜか主体性を見出し
やはりなぜか動物以外の物理現象にはそれが無いと思うようにできている >>161
最前線じゃないけど
ダニエル・デネット『解明される意識』
スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』
ダグラス・ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』
デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心』
などは一読の価値あり
内容はもちろん「単なる文章表現力」だけでも直木賞作品などよりはるかに上
人生を変える一冊になりうる「お化け本」だと思う >>364
CPU上の実行状態が物理的に存在するのと同様に
心や精神も脳の神経細胞上の信号の束として物理的に存在する >>365
心や精神と「呼ばれているもの」は確かにあるんだろうね
それにしても、久しぶりに欲について認めてくれる人がいたわ
厳密には、
「ある集合体の系は、系を保持しようとする指向性の欲がある」=「ある集合体の系は、系を保持しようと活動している」
です。
>>368
ものの現象として存在するということだね
それは確かにその通り 欲が脳由来であることは、性欲を例にしてみると分かり易いんじゃないかな?
男女どちらに対して欲情するかは脳の構造で決まる
発生発育の過程でテストステロンを浴びた脳は男性型の構造に形成され
その結果おっぱいを吸いたくなりパンツを見たくなる
胎児期や思春期になんらかの原因で君の脳がテストステロンに晒されなかったとしたら
君にこうした欲は起こらなかったはずだ 万有引力って、もしかしたら「系の繋がり」の証拠ではなかろうか
つまり、全てのものに引力があるとしたら、全体の系が存在することを示している
少し飛躍しすぎかな 系の間に空間がある場合は、遠隔な系の繋がり
系の間に空間がなければ、密接な系の繋がり
密接な系、例えば石ころは繋がりが近くガッチリくっついている
遠隔な系、例えば太陽系は、繋がりが遠く繋ぎとめてる程度
うーん、系の繋がりとして万有引力が説明出来てしまうなー まぁ真面目に物理やってる人たちはそんなに雑で乱暴な考え方しないだろうけどねw 矛盾点が無ければ、思想としてはざっくりでも良いんだよwwwww 「もっとも、私はハゲているので、ハシゴが滑りやすいかもしれないが。」
・・・ 哲学の弱点は宗教的な逃げ方する奴を排除するシステムを構築しにくいことにあるな 哲学は単なる過程だろ
哲学が目的ではなくて、その先の答えが目的でしょ?
哲学(考察)→思想(答え)→宗教(実践)
何かを哲学して、ある解を得たら、これはもう思想だよ
結論は出さずに死ぬまで哲学したいんだ!って人なんかいるんかいな(笑)
哲学者と哲学研究者が混同されてるのも誤り
ほとんどは哲学研究者であり、哲学者はかなり少ない そういった単純化一般化したがるせっかちさが大敵なんじゃないのか?
心の哲学に話を戻すと
以前哲学板にあった哲学的ゾンビのスレはけっこう面白かったよ 哲学的ゾンビは知識量の面とチャーマーズの双子によって想定不可能だという結論じゃないの?
この問題は論破されたの? >>376
それは東洋哲学全否定ってことでいいのかね? 同じ哲学って言葉を適用するのがそもそもの間違いなんじゃないかね?
あと東洋ってくくり方もあんま適切じゃなさそうだな
それだとお釈迦様の生まれたインドを含むだろうけど
彼らは遺伝的にはほとんどコーカソイドで
ヒマラヤ越えてこっちの人種とは思考回路がずいぶん違うと思う
今の時代、
たぶん一番真面目に哲学やってるのって理論物理学者ってことになるんじゃないのかな?
このスレは
非因果ブラックボックスこと平敬という極悪嵐によって
監視されています!
ご注意を >>385
因果律によれば、不可能な事態は絶対に起こらない
とすれば、未来に起きうる出来事は全て可能性がある事態
可能性がある出来事が、起こるべくして起こるのは、即ち必然
偶然と呼ばれるものは、可能性が極微であっただけの必然 >可能性がある出来事が、起こるべくして起こるのは、即ち必然
確率は時刻その他の条件に依らず一定なので? 可能性が100%であれば必然性なわけでしょ?
この可能性が100%かどうかというのは、観測者の主観的判断に過ぎないのでは
明らかに予測出来る現象に関しては必然、予測出来なければ偶然に分けてるだけ
ところで、実際に起きた現象について、起こる前には一つの可能性にすぎなかったのだが、もし観測者が完全に予測出来たなら100%の必然といえる
予測出来なくても可能性は0%になるのではない
不可能な事態は起こらないから全て可能
つまり、観測者によって可能性の確率が変動しているだけで、実際は可能性100%=必然性ではないかということ >>390
ちがうね
神ですら起こる前には予測できないのだから >>391
なぜそう言える?
起きた事態は、起きる前の、その事態の可能性が100%であったことを意味する
1%が突然100%になったのか? >>392
ちがうね
結果が出てから、実はその可能性は100%だったなんて無意味
明日の雨の確率50%なら、それは50%
それが確率であり、可能性の話
雨が降ってから、実は100%でしたなんて話は通りません かりに雨が降ったとしても、雨が降らなかったという可能性を考えることが出来るならば、必然とは言い切れない それ以外に可能性がない、というのが必然だから
雨が降らない、という状態を考える事が可能な時点で、雨が降る、という状態が必然である事はない >>394
確率と可能性が同じって言ってるの?
確率なんて観測者の違いでしかないよ
雨が降る一分前の観測者が空を見て雨雲がこっちにきてたら確率も糞もなく必然だろう
確率の多寡は観測者の制約によるだけなのでは? 量子論的な事象の確率依存を除外すれば
全宇宙のあらゆる時空間で起こっている現象が必然と考えるのが普通でしょ
その量子論が言う確率も単に人間が解き明かせてないだけで実際には完全に決定論的なものかも知れないし
情報伝達速度の限界があるから時間が生まれ、その中で未来とか予測とかが存在できる訳だが
立体を平面に投影するみたいに、時間という次元を取り去って考えれば、過程が全て圧縮されて
原因に対してたった一つの結果が瞬時に生じる、つまり可能性は1つしかないことを疑いようはなくなるだろう 偶然的であるというのは個々の出来事が固有であるという事
法則成立の否定ではない >>398
たとえばな
ラジウムが崩壊してラドンになるけど
いつ崩壊するかを決めるメカニズムなんて『存在しない』 >>396
「考えることが可能」とはどういう意味?
言葉遊びでも可能のうちに入るのか? 法則が捉えるのは必然性ではない
そうではなくて、法則が明らかにするのは認識の形式なんだ
つまり、雨が降るというのは事態ではなく、認識の形式 ある事態が必然的であるとは、それと両立しない他の事態を「考える」事が不可能であるということでしょ?
なら他の事態が考えられる事態は偶然的ということになる その否定形が形式的に成立可能な命題が、必然性を帯びる事はあり得ない だから雨が降るという事を必然性をもって見る事はできない 全ての現象が可能性であった事には疑いの予知はない
不可能性は存在しない
そしたら、可能性の確率が変動して100%に収束するってこと?
何によって変動するのかな? 夜更かししてしまったことを
翌朝後悔することがよくあるのだが
そのたびに「これは必然だったのだ」
と考える 結果的に可能性が100%に収束するという事実は結構重要な気がする
変動したのかしてないのか
もしかしたら自由意思が無くて、客体からの影響と主体の性質によってどう動くか決まっているかもしれない 時間なんてものは本当はなくて
宇宙の始まりから終わりは一瞬なんだけど
その間に起こった物理現象で生じたクオリアが
今ゆっくりゆっくりとそれを見ているだけなのかもしれないな クオリアは物質に随伴し
物質が人格の同一性が維持に無関係であることが矛盾しないように
説明できなくてはならなくて
クオリアにも量子的な最小単位みたいなものがあって
そのクオリアは周囲の物理状態によって色々な性質を帯びる
そしてクオリアたちは自由電子のようにある特定の物体の中を漂っているんだけど
原子が入れ替わったくらいじゃクオリアは簡単に交換されない
とか 俺と時間談義したけりゃ最低限フューチャーウォーカとスローターハウス5は読んできてくれ そもそも意識とは何か
この定義が確定しなけりゃクオリアは語れないだろ >>418
意識とは、身体の機能としての無意識的な活動を「認識」すること
認識を認識することという定義もあるけど、それはどうなんだろうな >>419
「無意識」は「意識」を前提とした概念だから、
その定義はトートロジーになってるんじゃない? 一般的には五感+反射的に湧いてくる感情や能動的な思考のことじゃない?
まぁ俺はセブンセンシズに目覚めてるし、あと数年で阿頼耶識に目覚めると思うけど >>421
無意識的というのは、意識されてない状態を強調して言っているだけなので、不要とあらば入れない方が良いね
意識とは、身体の機能としての活動を認識すること、及び認識そのもの 「気付き」に近い「認識」な
気付くことと注意することは、それぞれ受動と能動であって、本質的に同じだと考えます >>424
そうかもしれないが
それすら現代の科学でも何でもハッキリとはしていないところじゃないかな? >>426
もし状態であるなら比較すべき同時的な二者が想定できる。 >>430分かりにくいと思う。w
>>431それは向きとしては一方向じゃないの? 意識には二つの状態があり、それは、認識することと認識されること
これは、それぞれ注意という能動、気付きという受動を意味する
これならわかりやすくないか 唯物論に気づいたとき最初に思うのが自由意思がないことだけど
よくよく考えてみると、結果というものは法則に則ったものかランダムなものかの二択しかなくて
自由という概念自体が実はちゃんと定義されていないことに気がつく
同一性維持の問題や境界問題やなぜ私は私なのかとか、そういうのが難しくて
で、もう一つ難しいのが人間がなぜ意識の存在に気づけるのかということ
唯物論的には意識世界から物理世界へのフィードバックはないことになるけど
俺たちは意識の存在を知っていて、それを不思議に思ったりしていて
また楽しいとか悲しいといった意識状態に関する語彙を実際に生み出している この世界は意識世界が存在しない世界ではなかったんだし
役割果たしてるから意識世界が存在するんじゃ
私という存在の私の意識がない私は私としては機能しないべ
だって、私という物理世界のもんを動かしているのは私という意識だもの
物理世界が動くために意識世界は必要そうよ
役割果たす(意味がある)から存在するというルールが成立してるならね
個々人に意識がない世界では少なくともこの宇宙は違ったわけだし
フィードバックしてるかどうかなんて 比べることもできないからわからないけれどね
意識のない世界と意識のある世界を創造して後者は観察して見比べてみんと
意識のない世界はいろいろなモノが意識のある世界と比較して動かなさそうよ >>438
意識が裁量、つまり意思して活動しているわけではないのだがな
それはリベットの実験でも否定されていること
しかし、必要だから有るってのは正しい
その役目は>>435の通り
意識がなくても動けるのは、寝ているときも活動していることでわかりそうなもんだが 頭の中に 少数の羊の群れを思い浮かべて、その数を数えてみる
そして、その数をネットに書き込む
5
頭に思い浮かべるというのは意識も伴ってる。それによって得られた知見というのも
注意の定義内に入っている?
意識内で処理行って、その処理によって得られた事をフィードバックする事はあるような
ただリベットの実験とも矛盾しないとも思うけれど
5感で得られた情報と意識下で新たに処理された情報も合わせて
注意され次の行動に繋がったりする(無意識下で動作) 朝起きたけど、まだ眠い
後1分・・ 1分後 起きる!
後1分・・ 1分後 後1分・・・
後者のような状態になった時、他の条件が全部同じならエンドレスになるはずだけど
最後は結局起きるはず、仮にもう起きないと遅刻するわ〜という情報があるなら
ほとんどの場合それまでには 起きる!という風になるはず
意識は行動に役立つ記憶にアクセスという役割ももってそう
ただし無意識も記憶にアクセスしてるなあ >>440
思い浮かべよう!というのは能動的なものだから、思うという機能に注意(=集中)しているだろうね
物質的にフィードバック(還元)するのではなく、恐らく注意、集中にフィードバックしてるんじゃないかな
その結果、機能的に注意出来るわけだ
つまり、意思と密接に関わってはいるけど、意識が意思したわけではないのだろう これと反対の場合、気づきという受動の意識になる
お腹すいたなーとか、信号赤いなとか、自分が動いているなとか
チャーマーズは、意識と気づきは同じ仕組みだと述べたが、それもそのはず
意識=認識=注意(能動)+気づき(受動)
が、成り立っているからだと俺はみてる 思い浮かべようってのが思い浮かぶのは受動的なんじゃないかなぁ 言いたいことは分かるが
受動的ではなく機械的と言うべきかな もっと細分化できないかなあ
50年100年と脳科学が進歩していくと、もっと細かな分類になる印象なんだよなあ
割と脳とその構成する諸処理は複雑〜みたいな流れがあるような
人間の脳の諸処理をコンピュータ化(ハードウェア処理性質上不能の場合は処理可能にするハードウェアの仕組み設計も含めて)
してから哲学の知見もある程度役に立つ時代になりそうだなあ
たぶん人間の脳の諸処理をコンピュータ化しても 認識。能動。受動
という役割を果たす処理が必要になるだろうから 自分は一般的な唯物論の立場にいるつもりだけど
あんま頑なにならない方がいいだろうなとはよく考える
時空間が不変のものじゃないとウルトラCで現実の宇宙の姿を説明できたみたいに
クオリアから物質へのフィードバックがあるとして
かつ矛盾なく物理現象を説明できる方法を考えるみたいな
機械論的な考え方が、そう考えた方が人生楽だからっていうのもあって
ちょっと避けたいところもあったりするんだよね 機械論的な考え、否定的な人の方が多いと思ってた。
生理的に受け付けないー、みたいな。 「晩年のフッサールが'言語的な統握作用 (Auffassen)以前の受動的な層の探求に
ますます沈潜していったことは知られている。そこでフッサールは、感性的な与件が
能動的な意義付与作用以前に受動的な「連合(Assoziation)」の働きによって構成され
秩序化されるさまを分析していく「発生的現象学」を構想した。」 信号の色で考えてみるか
恐らくなんだが、行動の全ては情報と欲求に由来すると思うんだ
で、先ず信号の色を見たいという「欲求」があり、信号を見ようという意思により「注意」する
信号を見て光(情報)を受信、瞬時に色を解析し、赤だと「気付く」
この間僅か0.2秒(適当)ww
ちなみにここでの注意とは、気をつけるというより、意を注ぐ、つまり、集中や注目のような意味 >>455
心、気持ち、思い、考え
辞書によるとこれらはただの「意」らしい
ふと、内側から湧き出るものなのかな
俺からしたら湧き出るものは感情と欲求のみだけどな
感情と欲求を意とした場合、注ぐという能動によって意思になったり思考できたりするし、気付くという能動によって二次感情になったり欲求を認識できたりする
ここで大事なのは、注意と気づきは「同一」だということ
注意しているときは気づいているし、気づいているときは注意されている 辞書の定義なんて吹っ飛ばせ!
新たに妥当な定義を作る勢いでええお!
古びたナンセンスに分類された定義をぬっころそう
既にそういうレベルに達している >>457
良いこと言った!
その通りだ
新たに定義された数だけ語の意味は増える
新たに定義しなかったら、語の意味は常に一つだけだろう
新定義上等!
意とは、内から出ずる感情及び欲求!
意や情報を認識するのが意識であり、それは、気づきと注意によって認識される お前がおもしろいこと書けばいいだろ
とよくあるを書いてみた そういうことではなくて
つまらない書き込みの割合が高い >>460-464
つまらない
これが正しい。異論は認める >>376
逃げないで向かっていったら恐ろしくツマラナイところに至るなんてよくあること 定義だけ出来ても結局何にもわからんなww
まず何から手をつけて良いかすらわからんww
意識、自我、クオリアをどう哲学するべきだろうか 脳科学から手をつけたほうがいいんじゃないかな?w
後プログラミング系シミュレーション系を自分で作れるように
その後で哲学いってみよう __
| ● |
 ̄ |
__ 〆 ⌒ ヽ
| ● | サッ i. ^、,^ i
 ̄ | (6- (III)(III)
c~~⌒ ) ノ⌒ヽ、 '◇〉 此処で一旦、駒ー斜瑠でぇーす
 ̄| | ,____/ \ \⌒\)
i ゝ_/ i i \ノ`\丿 新スレッドが建ちましたぁ〜♪
ヽ__| ヽ ヽ ノ 坐禅と見性第93章鮟鱇吊るし切り公案無分別っきり
ゝ _\ 二ノ http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1380703946/
\ . ヽ
) )
/ /
( く
\ ο
 ̄ いやいや、哲学が導く理論を実証するのが科学でしょ
理論物理学者みたいに紙とえんぴつで勝負やww クオリアは、科学で理解できるようなものではない。
仮に「赤い感じ」というものが実在するなら、脳の神経繊維Yを解剖して見つかるはずだ。
だがそんなものはみつからない。
なぜならクオリアは、身体の外で生じる自然現象であって、身体以外の外に存在する
実体に他ならないからだ。
それゆえ、仮に意識の生じるプロセスを示し得たとしても、意識は身体の外で起きている現象だから、
脳は意識の実体にはなり得ない。 11次元の宇宙とか想像できてるらしい人たちもいるから
大丈夫なんじゃない? 11次元の宇宙を想像できる人って都市伝説だと思うお
だって 誰かが「俺ってば11次元の宇宙想像しちまったわ〜w」
っていったら めっちゃきもい(恥ずかしい)やんw
そんな俺つええええ をリアルで言う人なんていなさそうよw
そんなこという暇あったら論文で勝負しようぜwって気持ちになるやん 宇宙は10次元か11次元と言われている
4次元目以降はとても小さいので分からんだけだそうだ
時間を1次元にカウントすれば少しイメージできるが
xyzの3次元の座標が一致していて、それ以外の次元の位置が異なる物体が複数存在できるということなのだろう 空間3次元以上の6次元はカラビ??ヤウ多様体としてコンパクト化されてるから人間には感知できないよ テクノロジー進めばいつかは11次元だかを利用出来るようになるの? さあね〜
だけど人類が今後数億年 順当に発展していったら
割となんでもありな存在になってるんじゃね〜 それこそ見ているものがいわゆる現実である必要がなくなり
クオリアの充実感を最優先するようになるだろうな
そこではカメハメ波も出すし
透明人間になって女湯に自由に出入りしていることだろう 数億年後には人間はサルかアメーバーに戻ってんじゃないかな。 まだ人種差さえ無いやっとホモサピエンスになった時期が僅か20万年前だから
核廃棄物が概ね無害になる頃には別の人類になっている可能性があるな
先進国ほど技術力で淘汰を回避して進化できなくて、途上国から新人類が生まれるだろう
その新人類が知的肉体的に現代人よりどう優れどう劣るのかは分からんけど 宇宙即我、我即宇宙
オレはこれが心理と思ってる。
オレは存在していないかもしれないが。 脳が心を作ったとかなぜ脳は神を作ったのかとかみたいに、基本的に脳万能論みたいなことをいってる奴は信用ならん
カブトムシには意識がない!とかもただの機械なんだとか何を根拠に言ってるんだか カブトムシはわからんけど
自分が猫に生まれたらたぶん世界はこんなふうに見えるだろうなという想像はよくする ウチの近所は野良ネコがうじゃうじゃいて
毎年発情期(5月くらいかな?)になるとニャーニャー言って追いかけっこしてるんだけど
胴長足短で尻尾も中途半端な長さで毛並みも悪くて、ダントツでブサイクな奴が他のオスたちと争ってるのを見たとき
これは争いに勝ったとしてもメスはキモがって逃げるんじゃないかな?猫には人間の自意識みたいのはないんだろうな
と思った >これは争いに勝ったとしてもメスはキモがって逃げるんじゃないかな?
そういう人間の価値観を別の種族に当てはめるというのがそもそもおかしい
プラナリアが頭切り落とされても再生できるけど、人間にはそれが出来ないから人間には再生能力はないと言うのと一緒
そもそも同じ人間でも地域や個人差でデブ専やら同性愛がいるっていうのに 初期の記述言語学理論によると
我々の知識のほとんは直接得たものではない >>492は滅多にお目に掛れないレベルの話の飛躍っぷり 491までよんでおれがいおうとしたことににたことを492がいってくれてたw http://ameblo.jp/sostates/
不言流弓道を中心に書いていきます。記事については、公開しています。
質問等にも答えられる範囲で対応しますので、気軽にコメントして下さい。楽しくやりましょう。 >>269
宣伝の前になにかおもしろいレスしましょう^^; 考え方次第で同じにもなり異なりもする
大きな問題ではない 宇宙はただ物理法則に従って淡々と振舞っているだけなのに
その中で人間という物体は主体性を持ち目的に向かって宇宙を自分たちが望む姿に変えていると思っている
おそらく人間以外にもそう思っている物体が無数に存在していて
それぞれがその同じ宇宙を自分たちの目的に沿った方向に動かしていると思っているのだろう
あるいはそこには思うとか考えるといったクオリアとはまた異なった概念があるのかもしれない 速い動きに残像を見るということは
クオリアはある程度時間的な幅をもって発生しているのだろうか? 大学の教養科目の哲学でレポートが出題されたのですがアドバイスをお願いします
テーマは「人間の心の諸過程」です
授業では心と体、感情意思、知覚感覚などを習いました
どのようにすれば説得力のある構成になるかアドバイスください >>508
すいません
冬休み中に終わらせたかったので
何かアドバイスもらえませんか? >>509
教養科目なら「心=自我」と前提して「それでは他人の心をどうやって知り得るのだろう」
みたいな作文でいいんじゃないの?知覚できる情報からどうやって他の思惑を推定するのだろう
みたいな。 >>509
ヒトはなぜ共感できるのか
なぜ共感したがるのかについて
哲学的と心理学的に考察なんかいかが >>507
よくこのスレ見つけたねw
実際には補足説明があるんだろうけど、テーマが抽象的過ぎて難しい
ここよりも心理学関係のがいいかも
ここは人体(及び宇宙全体)を物理法則に忠実な単なる機械と見なしていて
精神は結果でしかなく次の物理状態の原因にはなり得ないという立場が基本
そのレポートのテーマより還元の度合が高いのでふさわしいアドバイスは出にくそう 引き寄せの法則といい、
常々、完全に再現する手法というものがないな
俺は100%の可能性を求めていたんだが
そうするとなぜか
技術的特異点におけるコンピューターの発達の話になってくる
理論物理学
世界の秩序、すなわちサイクル 魂、霊、人の生活におけるサイクル、社会全体、地球全体、宇宙全体・・・
理論物理学では数式によって世界を表せる
数字は重要といえる
もしそうなら技術的特異点を迎えたコンピューターが
凄まじい計算速度を得るとすることで
世界を完全に分析すれば
その秩序を支配できるはず
そうすれば神の計画を遂行できるだろう
すなわち全ての人や物、空間におけるサイクルを支配できる
仏教的に言わせれば全員、成仏したといえる状態にさせられる 形而上学はニートのオナニーを言い換えただけ
クオリアとかいう疑似科学がのうのうと生きているのは人類の黒歴史 トレンドでいったら再び宇宙論に戻ってきた感じかな
五次元の宇宙とか さっき世界まる見えで脳の右半分(皮質だけみたいけど)を切除したという女の子の話がやっていた
主観的にはもちろん意識の同一性は維持されているんだろうけど
これが左を取ったとしても、まぁ当然同じように維持されているだろう
だけど失った部分は違うんだから、何かは違うはずなんどろうけど・・・ 152 名前:スクープ映像! :2014/03/14(金) 17:02:09.66 0
毎日ゲームざんまいの「波平」さんをとらえた映像!
http://www.youtube.com/watch?v=WlEzvdlYRes
153 名前:考える名無しさん :2014/03/14(金) 19:46:23.80 0
>>152
波平ゲームうまいじゃんwwww 前にBSでやって地上波でそれの短縮版やって、昨夜はサイエンスZEROでも取りあげられていた量子乱数発生器と意識の関係。
ほぼオカルト・疑似科学の分野だが心の哲学的には……って哲学ぢゃねーよな 20数年前の高校1年生のとき、生物の授業で神経のところ教わった際に
人体が機械であり、さらに宇宙全体が機械であることに気づいてしまった
あのときのショックは大きかった 今はネットの普及で子供でも簡単に唯物論を知ってしまうんだろうな
これは可哀想なことだ 機械は人間と変わらぬ存在である、ってのは、機械人間論? 自然も機械と変わらぬ存在だから、自然機械論
今考えた 「応用」とは
自然の法則を解き明かし利用することで
未来の状態をより好ましいものにすること
法則を無視できる何者かがいると成立しないものであり
つまり未来の状態を変えられる者がいた場合には「応用」は存在しないことになるという
矛盾を抱えた概念 「自由とは」
「通常選択の自由」といったものを指すが
選択という「結果」には、それを引き起こす「原因」があり
原因と結果の関係は「必然」か「偶然」の二択しか想定のしようがなく
従って「自由」とは架空の概念なのである 現在が結果だと思うから原因を考えてしまう。それは煩悩のひとつにすぎない 「逃げ」ではなく(闘う)「戦略」の違いだと思いますね。2つの宗教の闘いの後に残された「戦略」あるいは「哲学」 「火」の宗教と「知識」の宗教の闘い(戦いではない)かな。二元論的な善と悪。おたがいに相手の神を悪とする。
そんなものの後・痕・跡から仏教哲学が育っていった。(西洋哲学などとは)答えの求め方/在りようが異なるんだと思っているけど、専門家でもないので、思っているだけw 真っ向勝負以外は全て逃げだろう
少なくとも科学が取っている手法には逃げの要素がない
自分たちが知らなかった知識でも世界を合理的に説明できるものは
取り入れるというのが根本になってるから
とてもシンプルで同時に厳しい手法でもある 心を哲学するのであって、心を科学するわけではない。(それがエレガントであれば)考えるうえで様々な戦略・手法をとることは悪いことではない。障壁を乗り越えて本質や真実にたどり着こうとするなら仏教哲学も悪いものではないと思う ひとつわからないのですが、哲学的ゾンビが意識(クオリア)を持たないだけで意識(クオリア)を持つものと区別できないとしたら、彼は意識やクオリアについて語れるのだろうか。
(巧妙な質問は必要になるが)語れなければ区別がつくので哲学的ゾンビではなく、語れたからといって唯物論を否定できるわけでもない。
哲学的ゾンビの議論は何も生み出さないのではないか しまった、Wikipediaによれば「現在の物理法則・物理量ですべての説明ができるという考えは間違っている」とあった。
『現在』のかよ……ダメじゃん 哲学的ゾンビがいたとして、そいつはクオリアについて語れなければならないが
ここに違和感を覚えるのはとても分かる
クオリアは物理状態の随伴現象で、物理世界から精神世界へは一方通行で
精神世界から物理世界へのフィードバックはないとしたときに
物質である脳は精神世界を認知(精神世界から何らかの情報を得ること)ができないことになるので
クオリアの存在に気づけないのではないか?という疑問が生じるのだ
「ではやはりクオリアは物理現象の原因となり得るのではないか?」と
哲学的ゾンビはあくまで思考実験のためのツールだから、
こういった疑問を持つに至らせるという程度の存在意義があればいいんじゃない? 結局、ゾンビ論法の最後に『現在の』とあったので疑似科学系なのかなと思った。
チャーマーズがちょっとうさんくさすぎる。
>>539ゾンビ論法がダメなだけで、哲学的ゾンビそのものはたしかに存在だけはいまのところ有効かもしれませんね。
人間が(自分が、相手が)哲学的ゾンビではないことをどのようにして証明するか、という問題にしたほうがよさそうなくらい 木や石に対して「私は哲学的ゾンビではない」と言うことはないだろうから
自分が哲学的ゾンビでないことを証明する場合、相手は人間ということになるだろう
そうしたら理論的には神経回路を繋ぐことで自分の中で発生しているクオリアを他人に共有させることは
可能なのかもしれない、結合双生児で相手の考えていることが分かる人もいるみたいだし
哲学的には、哲学的ゾンビというモデルはそんなに役に立つもんじゃないだろうと思う
どっちかと言うと、そういう奴がいたら医学的な人体実験が許されることになって便利なんじゃないかなとか
そんな風に考えてる奴が多いんじゃないかな? >木や石に対して「私は哲学的ゾンビではない」と言う
という発想がおもしろいと思う。P・K・ディックな世界を想像してしまった。
実はチャーマーズ自身が哲学的ゾンビであって…… デイビッド・ジョン・チャーマーズは「デイブ」であって、HALと会話している(デビット・)ボーマン船長。
HALが反乱したのはデイブとの哲学的ゾンビ論争が原因だったのかもしれない。と、まったりとした日曜の午後の妄想 >>539
>クオリアは物理状態の随伴現象で、物理世界から精神世界へは一方通行で
>精神世界から物理世界へのフィードバックはないとしたときに
>物質である脳は精神世界を認知(精神世界から何らかの情報を得ること)ができないことになるので
>クオリアの存在に気づけないのではないか?という疑問が生じるのだ
>「ではやはりクオリアは物理現象の原因となり得るのではないか?」と
しかし、その論法だとゾンビうんぬんというより、端的に「随伴現象説は間違いだ」
ということになりませんか。我々は現にクオリアや心について語っているのですから。
個人的には、随伴現象説の肝は「どんなクオリアについても、それを
随伴させている脳状態があって、クオリアについての言語活動(「痛い!」という
発語からクオリアに関する哲学論文まで)はすべてそれによって引き起こされる
筋肉の運動の結果である、と考えても矛盾はしない、ということなので、
もし仮にその考えが正しいとするなら、哲学的ゾンビがクオリアについて語っても
別に問題はないと思います。要するに我々の言語活動すべてが脳の物理的活動の
結果であって、いわゆる「心」はそれにどんな影響もない単なる影みたいなものだ、
という考え方ですから。確かに我々の直観に反していることは事実ですが。 物理世界→精神世界の一方通行にはは、自分はブラックホールのようなもの、
電波を飛ばしても反射して戻って来ることはない、
つまり向こう側の情報は一切こっちに来ないので何が起こっているのか知り様がない
というようなイメージを持っている
変な例えだが、
針で身体をつついて、脳のどっかに刺激が行って
そのとき「痛い」というクオリアが生じる代わりにアンドロメダで超新星爆発が起こるという因果関係があったとして
古代人が超新星爆発に相当する概念を表わす語彙を生み出すことはなかっただろうと思うのだ
「やめてよ〜超新星爆発るだろ〜」みたいなことを言ったり書いたりはしないと思う
だが実際には俺たちは痛いとか嬉しいとか悲しいとかクオリアに関する語彙を生んでいることに
もしかしたら何かしらのフィードバックがあるんじゃないかなぁとか考えることがある あーあるいは「超新星爆発る」って言うのかなぁ…
人間の脳で発生しているのとは種類は異なっても、
恐らくはクオリアはあらゆる物理現象に随伴していて
そこにフィードバックが隠れていたとして
人間がそうと認識していないだけで、
フィードバックも含めた上で成立している物理法則を数式化できているのかも知れないね
これ以上行く漫画の世界になってしまうけど
ヤケクソにならん範囲でファンタスティックなアイデアを出していくことにもチャレンジして行かないと
すぐに行き詰ってしまうよね 共感覚というものもよくわかっていないが、(マリーの部屋の)マリーが初めて色をみたとき、その状況によって他の感覚のモダリティーとくっついてしまうかもしれない。
文字ごとに色が違ったり、音によって異なる色や形が見えたりすることからみて、なんらかの「まとまり」ごとにクオリアがあるのだろうか。
ホップフィールド・ネットワークやボルツマンマシンのようなエネルギーの極小値や最小値にによってクオリアと結びつくとしてもクオリアそのものがなんなのかの説明にはならないよなぁ 虫の音を、西洋人は「(雑)音」としてとらえ、日本人は「(虫の)声」としてとらえる。
これは「クオリア」なのだろうか。音のクオリアか声のクオリアかの違いは処理する脳の場所の違い? 共感覚者の脳活動を比較した研究報告がどこかに転がってないかなぁ つべで錯視の動画とかたくさん見てみるかな、疲れそうだけど
脳は視覚情報(電磁波)をそのまま素直に受け入れてる訳ではないよね 手淫を覚えるのより唯物論に気づく方が先だった
何人かに話したけど、理解してもらえなくてもどかしい思いをした ゾンビ論法とは以下のようなもの
1 意識を持つものと物理的に同じでありながら意識を持たないもの(哲学的ゾンビ)という概念は論理的に整合である
2 もし唯物論が真なら、物理的に同じでありながら異なる性質をもつものという考えは論理的に整合ではない
3 ゆえに唯物論は偽である
これを否定したいなら以下の3つのうちどれかひとつを証明しなければならない
a 前提1が間違っている
b 前提2が間違っている
c 前提1と前提2から結論3を導き出すことが間違っている
チャーマーズが言ってるのはこういう単純なことだけどいまだに誰も答えていない
そうする代わりにゾンビ的直感だとか間違ったゾンビ感覚にとらわれているとか的外れな指摘ばかり
感覚じゃなくて論理でしょ 単刀直入に1が間違っている
ゾンビでなくても、仮定から入って真偽を示すって
よくあるじゃん 別に、「唯物論は論理的には間違っている可能性もあるが、経験的には正しい」
でいいんじゃないの。
「唯物論が間違っている世界」を想像することなんて、容易にできる。
ゾンビもその一つ。論理的には整合だけど、経験的には存在しない。 >>554 >>555
ありがと
>単刀直入に1が間違っている
ならばその論理のどこに穴があるのか説明しないと
>唯物論は論理的には間違っている可能性もあるが、経験的には正しい
その論理的に間違っているというのが致命的ではないだろうか
そもそも哲学的論議は、論理的整合性がすべてと言ってもいいほどなのだから > 1 意識を持つものと物理的に同じでありながら意識を持たないもの(哲学的ゾンビ)という概念は論理的に整合である
自分以外の人間は、意識を持っているように見えて、実は持っていない、つまり他者=哲学的ゾンビであると
考えれば、唯心論に近くなるね チャーマーズが提示しているのは自然主義的二元論
意識は物理的なものから生じるけど、あまねく他の事物のように物理的な説明に還元できない
ゆえに意識を持つものと見かけは同じなのに意識を持たない存在というのも自分以外は論理的に可能であるが
実際にはまずありそうにないということ
唯物論が偽であるためにはこの論理的可能性が存在するだけで十分であり言葉の遊び云々ではない
ただ私はチャーマーズのハードプロムレムには異論の余地はないと思うが、彼の言う人間からサーモスタッドまで機能に応じてそれなりの
意識があるという汎心論には懐疑的である
赤いとか痛いとかいうクオリアが物理的に還元できない主観的な一人称であることを認めるなら、自己や自由意志の概念と同じように
自己認識(再帰性)が必要であり、自己認識が出来ないイヌやネコには存在しない概念ということになる
赤いということを感じてるだけでは単なる光センサーと同じであり、私は今赤を感じているという自己認識がなければクオリアといえないのではないだろうか
だとすれば自己認識が出来ない人間以外の動物には意識がないということになる
1 人間にしか意識はない
2 サーモスタッドから人間まで機能をもつものにはすべて複雑さに応じたそれなりの意識がある
のどちらかではないだろうか
むしろ常識的な見解、イヌやネコ、魚くらいまでは意識があるだろうけどミミズやクラゲには意識はないだろうし
細胞で出来た「生命」には意識があっても電子回路で出来たロボットにはないだろうという意見のほうが
ずいぶん無駄が多いような気がする
長々と失礼しました 万物にクオリアが生じていて
ミジンコだとボンヤリしたものだけど
人間の脳くらいになるとかなりハッキリしてくる
単純にこういうもんだと思ってる
パソコンならメダカよりもハッキリしたものを持っているかもしれない ふと「神は存在するのか?」と考えた
超自然的な力をもった存在という意味ではなく
悩みも苦しみもない、完璧に満足したクオリアを発生し続けている存在という意味の
宇宙は物理法則に従って淡々と機械的に変化している訳だが
その中で生まれた俺たちは年を取ったり自分の能力に不満足であったりしているが
広い宇宙、そういったものを一切感じていない存在もまた機械的変化の中で生じていたとしても不思議はない
むしろない方が確率的にあり得なさそうである 働きだすとボーっと考え事する時間も無くなってきて
だんだんアホになってるように思うんだが
若い頃のがやっぱアタマ使う時間があったよな・・・
クオリア界から物理界へのフィードバックは無いとしたら
回避すべき事態に苦痛が伴う必然性が全くないんだよな、あるいはその逆とか
食事睡眠セックスは生存繁殖に必須のものだが
その行為の最中にはとてつもない苦痛のクオリアが発生していたり
あるいは捕食者に襲われている最中に実はクオリア的には無茶苦茶楽しかったり 日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛ライス低原価テレビ問題分
日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛ライス低原価テレビ問題分
日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛パスタ低原価テレビ問題 クオリア、クオリアって五月蝿いな。スキナーに意見聞いてこい。
あるいは、在るのはクオリアの言語ゲームだけ。箱の中のカブトムシは空かもよw 人間や生物とされるもの以外にも何かしらのクオリアが発生しているとして
それでも現象が物理的に説明がついている 心ってどこにあるの?
ttp://yasai.2ch.net/psycho/kako/974/974569037.html 心ってどこにあるの?
ttp://yasai.2ch.net/psycho/kako/974/974569037.html チンパンジーの研究とか見てると
奴らの思考能力と言うか発想力と言うか概念形成と言うか
やっぱ物理的に限界があるんだろうなって思う
訓練させれば色々絵を描くが
例えば片目だけない絵を与えたときに
欠落した部分を加えて完成させるとかいうことは全くないそうだ
現生人類にも物質とクオリアの関係を解くのは
もう脳の構造の限界があって無理なんじゃないかね? 左巻きまるだし五十路の格言に幻惑されないでキチンといきていましょうー
ギュウギュウ詰め = パンパン ・・・・ って
おなか = ポンポン でしょお
マンプク = ポンポンパンパン
赤木の部屋のよこに労組の が張り付いてるんだろwww 心の哲学が提唱する問題の数々が解明されたとして
それを理解するのは脳であり
理解した脳の状態もまた、物理状態なのである
人間の脳にそうした物理状態が発生し得るのかは、分からないが いろんな心の状態(の記述)と脳の状態(どのニューロンが発火したか)をひとつひとつ潰していくことしかできないでしょ 「c点論者」ですが、このスレの初めに、書き込ませていただきましたが、
ナンセンスと思われたか、除外されています。
今回は、「c点論」のポイントを述べさせて下さい。 現実の「この世(現象世界、科学の支配する世界)」の奥に知られざる
真理(本質)があるとする所から、「本質論」が生まれます。
「c点論」は「本質論」です。
私たちは、「この世」に生きており、「本質論」の世界には、生きて居りません。 ↑、 579につづく
科学は、「本質論」より二倍三倍の真理の深さ、重さを持っています。
それは、「この世」は科学の世界であるからです。しかし、「本質論」
は、宗教、哲学、政治理論、芸術論、など枚挙に暇がありませんが、これ
らの総てが、科学の二の次さんの次とばかりは、言えません。 私が存じ上げている、両国高校出身の方は、
ニーチェで卒論を書いて、国語学修士をとり、
現在は筑波大学で、国語学を研鑽されているようだった。
大学や専門学校の非常勤講師、塾の講師などを
されているようだった。
また、教職免許を有していらっしゃった。
ただ、個人的には、国語学研鑽されている割には、
英語取得にやや無関心気味だった印象がある。
より若い人たちの方が、グローバル化を意識している感じがした。
国語学がガラパゴス化すると、おそらく、日本語、そして、
日本は詰むだろう。
水村美苗の不安が的中しつつある現状だと言える。
いや、いかんせんここ半年ほど、音信不通なんで、
こういう言い方にならざるをえません。 ↑、 580につづく
哲学は「本質論」ですが、そのひとつ「弁証法」は「共産主義理論」と
発展し、「この世(現実)」に取り込まれ、「階級闘争」となり「社会
主義国家成立」と現実化、具体化しています。
ここでは、科学は「科学技術」として、「本質論」具体化の道具(手段)
でしかありません。
いずれにせよ、大切なのは「生きる」ことです。歴史を見ても数多のこと
戦争も平和も、「本質論(たてまえ)」の下に行われています。 ↑、 582に続く
c点論は「本質論」です。ここでは、オリジナルな「矛盾と無限の視座」
への思索なしに、理解は出来ません。まず、この点を強調しておきます。
↑、581様 失礼させてお先に、今少し述べさせて下さい。 ↑、 583につづく
これなで、納得はしないまでも、「c点論」に触れて下さった方もおおいと存じます
ので、以下に、要点のみ書きます。
「c点」は有無合一体と言う「矛盾」、これが第一のオリジナルな「矛盾」
次に、
「c点」は限りなく「無限」に小さい、これが第二のオリジナルな「無限」
この二つのオリジナルな「視座」により、「c点」は理解(勿論、反論もありましょうが)
されます。 ↑、 584につづく
前に、「c点論論破」と書き込まれたお方がありましたが、「c点論」は
論破すべきものでなく、オリジナルな「視座」として、冷静に思索する
のが、本筋と思います。
単に「矛盾」と言うと、それだけで、非論理で非科学的と考えるのが一般
では、無いでしょうか。この世の常識の奥に、知られざる真理(本質)として
「矛盾」を考えた、c点論では「有無合一体」と言うオリジナルな「矛盾」を
思索したわけです。 ↑、 585につづく
ここでは、次の様にも考えられます。
第一の存在 有の世界 科学の世界 (仏教哲学では世俗体)
第二の存在 無の世界 (仏教哲学では勝義体) 「本質論」
第三の存在 有無合一体の世界 c点論 「本質論」
上記の様に、色即是空は、仏教哲学では「色」(有)は「空」(無)
「あるもの」はナイ。
としかならず、問題でさえある。
c点論では、我らは「無」は認識出来ナイので
有無合一体→「有」 としか認識されない。
よって、 「あるもの」はアル。 ↑、 586につづく
以上で「c点論」へのアプローチを、単純化して説明しました。
「c点論」の世界は、「本質論」ですので、もしそれが真理(本質)と
しても、現実の「この世」では、意味を持ちません。例えば
「時間」とは「空間における物質の変化、非変化の同時同一存在を概念化
したものです」。ここでは、「時間」は「永遠と瞬間」の同時同一存在ですが
このようなものは、意味を成しません。
現実(この世)は、流れる物質の変化として「時間」が存在し、科学ではここで
プランク時間と言う最短の時間を決め、研究がなされています。
「c点論」は、「本質論」で、ここでは、「あの世」の話です。 「c点論」につき、今少し書かせて下さい。
これは、愚生の経験です。ある古代ギリシャ哲学者に、「矛盾こそ真理
では?」と言ったところ、即座に、「矛盾を認めたら総てがメチャメチャになる。」
と諭されました。愚生は、その頃、60年安保で、医学生でした。
世の矛盾を考えるのは、当時は学生一般の事、不思議ではありませんでした。
だが、医学と言う自然科学の精神は「矛盾の否定」です。この気持ちは
原罪も、変わることはありません。 ↑、 590につづく
初めに、訂正(上記 原罪→現在)
愚生は、研修医より前のインターンで、医師となりました。大学の医局
時代には、70年安保がありましたが、愚生は結婚もし子供もいました。
実生活があったのです。
新左翼の若者が、「目的ナキ破壊」と叫んでいるのを、今でも新鮮に、思いだします。
この頃から、「矛盾」は生涯の愚生のテーマとなり、あらゆる時、あらゆる場、
あらゆる状態、あらゆる年齢、そして、あらゆる角度、あらゆる深さで、
考え今日に至っております。老いたのか話が迂遠ですみません。 あと、仮に天国から地球を救う為に派遣されて来た聖者の
全員に脳線条体切除手術を施したらどうなるんだ?人間で
ある以上はサイコパス化するだろう?しないならそれはも
う脳細胞に依存しない人類とは別種の生命体(霊体?)っ
て事になってしまうぞ?
人類ですら無いなら人間として転生する意味なんてあるの
だろうかね? 人類でないものが人類を救う。
シーシェパードみたいなもんだね。 実生活では、「矛盾」は至る所にあります。
ここでも、「建前」いわば「本質論」があり、他方には、「本音」
いわば「現実」があることを、実感しました。それを知ることが、
「一人前の男」になることで、有ったようです。
「矛盾」は今も愚生につきもとうテーマです。そして、現在のオリジナル
の「矛盾」にまで、至りました。諸賢もそれぞれに「矛盾」を抱えては
いませんか。
同様に、「無限」もふしぎです。これも、生涯をかけて、オリジナルな「無限」
に至りました。考えてみて、下さい。「c点」は、そこから生まれました。 「矛盾」も「無限」も、諸賢も思索に値すると、思います。だが、
「いのち」アル限り、この世(宇宙)がアリ、思索も可能です。
「いのち」ナキ所に、この世(うちゅう)もナイ。
お邪魔しました。
LIFE と LIVE (180 + 180)×3 = 1080
GibsonのFVは凹四角形型 electric バラライカ
ハイ お次
あきれられている「c点論者」です。お騒がせいたします。
「時間」は、「本質論」としては、現実世界で意味を持たないことは、前に
述べたとうりです。では、
「空間」は、ご存じのとうり、その中に、現実に生きて、実感されて、居ります。
「本質論」から考えた「この世(宇宙)」は、どうなっているのでしょうか。 本質の「c点」は、これが全く不明ですが、むしろ空論かも知れませんが
オリジナルな「無限」より、ここでは、「c点」は何処までも「有」です
が、最後は、有無合一体に至ります。もちろん、「無」でもあるわけです。
これは、矛盾そのものですが、オリジナルな「無限」の真理(本質)とも
これは、われわれの理解を超え、了解不能ですが、考えることも出来ます。
この有無合一体より、本質的には、この世(宇宙)はなって居ると、思索
されます。 理念的実在というのは、
理念的に、実在するということです。
大学の卒業要件から、他人の心、法人、法律、神まで、
包括的に、包括しうる概念?です。
なお、盛山和夫が、「世界」に対して、
どういう「仮定」を持っているかは、
社会学者の探究課題であると言えるでしょう。 ↑、 601に続く
有無合一体の「有」は、無限に小さいが「無」デハナイ存在であり宇宙
に唯一の「ひとつ」シカナイ存在です。有無合一体が正確。
他方、有無合一体の「無」は、これは考えれば不思議ですが、「無」は
宇宙全体でもあり、「無限」に集合した「無」とも思索され、全体(一、ひとつ)
とも、無限の集合(たくさん、多)とも施行される。ただ、厳密では、「無」は
有無合一体である。 ↑、 604につづく
ここで、「c点」の「無の特徴」では、仏教の「華厳経宇宙」をよく示しt理る。
すなわち
一即一切 一切即一 一即多 多即一
だが、これは「本質論」である。宇宙空間の「ひろがり」ノミであり、
「時間」がナク、流動する現実の宇宙とは、その差異は大きい。ただ、
「華厳経的宇宙」とノミ言う。仏教哲学者の参考になること「大」だ。
しかし、科学との関係は不明である。もちろん、科学は、この本質論
と「関係ナク」、前に述べたように、「プランク時間」もあり、なんら
宇宙の研究に影響しない。
「c点論」は時間も空間も、「本質論」で、あの世の「おはなし」で、現在は
思索の為の思索と言うしかナイ。 仏教の「般若心経」や「華厳経」の説明には、以上述べた様に、「c点論」
が合理的?の様であるが、「仏教哲学」も、いずれも「本質論」の為
c点論 「あるもの」はアル。
仏教哲学 「あるもの」はナイ。
と互いに矛盾するが、そこは「本質論」
仏教哲学 「見かけは、あるもの」だが「ほんとうはナイ。
これは、個々人の宗教的「感性」の差異としか言えない。 ↑、 602−603様へ
貴重なご意見有難う存じます。長くなりましたので、ひとまず、
失礼いたします。 >>592
肉体を借りてこの世に転生しているのだから、その肉体通り不摂生をすれば生活習慣病になると思う
また手術してサイコパスになったら、その肉体を捨てて別の肉体に宿るのだろうね 一元論・二元論ってのは情報の問題のような気もしてきた。
情報はどこにあるのか?ってな問題かな。
扱い方の問題であって、一元・二元とかくだらねー。バカかよってのがおれのすなおな感想ではある 三元論だってあるわけだから、三元豚のとんかつでも食しながら考えるのが、とか思いついたので今日の昼はとんかつにしよう。
単なる宗教(教義)の違いであって、心の哲学として、それがおもしろいことなのかどうかは疑問 三元論から「いのち一元論」者に変わりましたww
>イマムラ氏
c論点=本質論=たてまえ=有無合一体=矛盾
ということでしょうか?
なかなか筋は良いのだが、まだまだ思慮が足りなく感じてしまう。
まず、有を有であると認めることが出来るのは、人間の認識に依拠する。
「この世」とは、認識の世界であり、もっと突き詰めると観念の世界なのです。
で、観念に於いて「無」を想起することは可能であり、あなたの述べている有も無も観念の内にあります。
また、「あの世」とは、認識によらない世界であり、無を想起することすらもない現実世界(自然世界)です。
さて、主客合一論というのは特に目新しくもないのだが、どうがんばっても「観念を超越することはできない」ので、結局は「超越論的主観」でもって世界を鳥瞰するしかない。
ここを踏まえて、無とは何か?をまず論じて下さい。
そして、「あの世」が有であるのか無であるのかなんて誰にもわからないのであるから、観測者無き宇宙を有と言えるのか、言及してみて下さい。
次に、合一体である根拠の説明が一切無いので、その説明をお願いします。
この世で あの世が気になるんなら あの世はあるんです
無から有への転移、それが「いのち」なのです。
生まれる、というのは、無から突然出現するというわけではなく、カオスの内に意志が集合した結果、秩序として自己組織化されるということ。
「何も無い」というその事が、エネルギーというポテンシャルを持つという意味で有無は合一されます。
簡単に言うと、「静」が無であり、「動」が有であるので、指し示されるそのものはどちらも同じということ。 ↑、612
詳しくは、サイト「c点による時空論 改定版」を最近更新しました
ので、検索の上、参考にしてください。
科学ーー哲学ーー本質論(仏教も含む)についての、意見を述べると共に
c点論(S、イマムラのオリジナルな視座による本質論)を紹介しました。
もう? ネットに流れている筈です。 ↑ 612「いのち一元論者」様
上記「改定版」をご一読下さい。
「c点」とは、素粒子(科学)より、更に無限に小さい(無限ーーこれが
他の哲学者とは異なる、c点論者オリジナルな視座)空間に位置のみ有し
体積の無い、純粋な「点」であり、「有」と「無」との合一した矛盾した
有無合一体(c点論者オリジナルな視座)であり、もちろん、「本質論」で
現象世界の奥の真理(本質)と考えています。 ムーアの法則という経験則による半導体技術の進歩に関する予測です。 ↑、 617につづく
「本質論」の弱点はさておき、「c点による時空論」では、「時間は
物質の空間における変化、非変化の同時同一存在」ですので、「瞬間
と永遠の同時同一存在」となり、現象世界(科学)では、意味を持たない。
勿論、我らは、「本質論」に生きている訳ではアリマセン。思索の為の
思索で、現実には、我らは、流動する物質の変化(持続)の中に生きて
居ます。我らには、物質の非変化(瞬間)は、認識されナイのは、ご存じの
とうりです。 ↑、 619につづく
上記617に書きました様に、「素粒子」つまり「物質」が、「c点」より
なるとしますと、物質は「有無合一体」です。しかし、我らには、
「無は認識されナイ」ので、 「有無合一体」→「有」 と認識される。
蛇足ですが、仏教哲学では、 色即是空 色(有)は空(無)
となり 「あるもの」は「ない」
論理も観念も、破たんしているが、「宗教」故に許されが、
「ないものは(アルヨウニ身エルガ本当ハ)ない。」
となるが、これを「信ずること(信仰)」を強要される。
勿論、「仏教哲学」は哲学でなく(釈迦、竜樹によるしさくへの縛りあり)
c点論と同じ「本質論」です。蛇足でした。 量子力学って必ず都合よくつかわれるけど分かってるの?
別に無から有を生み出すわけではないですよ ↑、 621につづく
我らの「時空」は「時間は概念」に過ぎず、「物質のみが実在(有無合一体)」
であり、「本質論」では、「時間と空間の合一」が成り立つのである。
現実には、我らは現象世界で「0秒(瞬間)に生きる」事は、分からず、
流れる物質の変化(持続)のなかに生きています。 c点論は、「科学」ではなく、「本質論」です。
科学の様な「再現実験」もありません。
科学の様な、数学的処理による、裏付けもありません。
関連サイトは、15本ありますが、ここで小休止。
興味ある方は、検索を。 >>615
自己を保持しようとする力及びそのシステム、つまり「活の力、生の力」をいのちと呼んでいます。
無から有に転移した、その有は、いのちに一元化されると言いたかったのだが伝わらなかったようだね。 >>624
サイトみてみたけど、暇だから論破してみる。
彼の主張を要約すると・・・
1.Aと非Aを分けるものが存在しなくてはならない。
2.非変化(瞬間)の存在を認めなければならない。
3.素粒子を無限に分割すると有無合一の点となる。
1は一見正しく見えるが、Aと非Aを分けたのは他ならぬ「彼」だということがポイントとなる。
「知性とは区別すること」
AをAだとしたのは彼の知性であり、それは作られた境界であって、表象(シンボル化)であることがわかる。
故に、本質的には境界などないので謎のB面なるものなど存在しません。
2は、有の本質を理解出来ていない故におきる勘違いだね。
有とは「being」、つまり動詞そのもの。
瞬間の束が時間だなんてちょっと面白いけどねぇ。
変化=有、非変化=無ってだけでな、プランク時間を更に無限に分割してみると非変化になるってのは飛躍。
同じく3も飛躍。
1を分割しても0にはならないし、0を束にしても1にはならない。 しかし、実際には0が1になった。
0(無)が1(有)になったのは何故か?
答えは簡単でな、0が厳密な0ではなく、1となるポテンシャルを持つ0だったから。
そのポテンシャルこそがエネルギーであり、かくして宇宙という「いのち」が「生まれた」のである。 AはAではない。根本的なことだ。すでに存在が異なっている >>629
まぁそうだな。
実際の無は、数学的なゼロとは違い、ゆらぐことのできる基底状態なんだよね。 ↑、c点論者から
「科学」であれば、この我らの「いのち」の認識(科学技術による補助
も含む)により認められる現象(自然界、人間界ナド)が論ずる(真理
追及)対象。ここには、同じものは、二つとナイ。まづ、観察(科学技術
の補助あり)から、測定し、統計処理し、%にて真理(本質)を認める。
中には、「一例報告」など、少数例は、将来の検討の為、記録される。
「ナガチブ、データ」とは、少し意義を異にする。なを、科学では「再現
実験」を必要とする。
「哲学」では、論の対象は、限定されない。その対象の真理(本質)は
論理的観念を、論理で、進めて、正しい「観念連合」の結果を真理(本質)
とする。
「本質論」(宗教、c点論、など)では、哲学の厳密さはナイ。だが、
無条件に真理(本質)を認められる事はナイ。
c点論では、オリジナルな「矛盾と無限」の「視座」(このオリジナル
への理解は、各人各様で、肯定も否定も自由)を要する。サイトを検索
されたい。
宗教では、多少の「ナンセンス」も「矛盾」も許されるが、それを「信ずる
事(信仰)」は、強要される。例えば、真の哲学ではナイが、「仏教哲学」
(釈迦、竜樹による思索の縛りアリ)では、
色即是空 「空」(無)が総てと言う。
「総て(アルモノもナイモノ)」が「ナイ」
観念としても、論理としても、破たんしている。しかし、宗教故に許される。
なを、愚生のサイト15本を検索願えればと思っています。
「改訂版」も出しました。「c点による時空論」からクリックで開けます。 「いのち」一元論者様へ
先生は、「本質論」について、独断と偏見をお持ちと言うと、失礼かも
知れません。お許し下さい。
ご指摘の諸点は、「私には、認められない」「「私には、同意出来ない」
「わたしには、信じられない」と言うべきで、「私には」と明確に責任を
示すべきで、あたかも、「常識では」「論理では」「認識論的では」と
一般論、常識論の様な発言ですが、「本質論」に対するものには、その様な
意見は、無い筈と、思います。
科学、哲学、本質論の区別(定義)が、愚生とは異なる様でしたら、お互いに
「縁無き衆生」と、諦めましょう。 ↑、 635につづく
先生と同様に、愚生も「いのち」を第一に考えています。今も、臨床現場に
立つ老内科医です。現実は厳しく、如何に優れた思想でも、例えば、
「不生不滅」などタワゴトでしかありません。唯物論を形而下学との
お考えで、形而上学(精神性)の下に見ているのではないでしょうか。「認識」
と言うものを、科学とは別に、その様な思想家も居りますが、お考えでは
無いでしょうか。「認識」と言うものに、多様な立場を認めますが、
愚生は、「科学(生物学、医学)」の立場です。
「本質論」について、深く、広く、古い、そして、新しい思想と考えて
居ります。多弁多謝。 単なる思索上の「認識」は、科学にこだわらず、[さまざまな思索」の
有る事を、楽しんでおります。蛇足ですが。 >>635
c点論を「正しい」と主張するのではなく、あくまで宗教であるということですかね?
科学の立場と言いつつ、本質論は科学的ではないと認めてる所に違和感を感じるんですよ。
科学的立場ならば、科学的ではない本質論など却下するべきで、あなたは宗教的立場に立ったほうが良いのでは?
もし、正しいと主張して論理で武装するならば、その論理が破綻してはいけないわけだから、先の指摘に対して真摯に反論すべきです。
「私には」とか、「常識では」とかは関係なく、あなたの論理の真偽を問うてるんですよ。 ↑、 638
「c点論」は、宗教では、有りません。「本質論」です。
つまり、「本質論」の一部に宗教もあります。しかし、c点論は
「本質論」ですが、宗教ではありません。
「c点論」は「時空論」であり、この我らの感覚(補助の科学技術も)
により認識される「時間と空間」が、この世(宇宙)の基本要素との
認識(なぜに時間と空間かと言うと、私の場合は、唯物論者の内科医
の感性によるもの)から、出発しております。そして、この現象世界
の奥にある真理(本質)を求めています。しかし、科学では、有りません。 ↑、 639につずく
現象世界では、「唯一の存在は物質」です。物質には、同じものは
有りません。我らは「物質の存在」により、「空間」と言う「ひろがり」
を、認識出来ます。そして、これらの「物質の変化(非変化も同時に
ある筈ですが認識不能)」により、「時間」と言う流動するものを認識
出来ます。この「時間と空間」の中で「唯一実在は物質のみ」であり、
この物質により、「時間と空間の合一」を考えられます。 ↑、 640につづく
ここで、「時間」を考えてみます。物質の変化は時間の流れの「持続」
として、認識されます。この流れは、「無限の過去から現在を通過して
無限の未来までつづく永遠」です。他方、「現在」と言う「時間」は、
物質の非変化から我らには認識されず、非変化である現在と言う「瞬間」
は我らには、認識されません。しかし、我らは現在に「生きて居ます」
が、瞬間(0秒、これは無ではない)は我らの現象世界(科学の世界)
では、意味を持ちません。しかし、これが、真理(本質)かも知れませんが
「本質論」の限界と言えます。我らは、どこまでもこの世(現象世界、宇宙)
に生きて居ります。
これは「本質論」ですが、宗教ではありません。他人に「同意を求めませんし、
同意する,しないは自由です。」
「宗教」では、そこで真理(本質)と認めるものを、「信ずること(信仰)」
を強要します。しかし、宗教も「本質論」の1種ではあります。
宗教は「本質論」の1種に過ぎません。 「いのち一元論者」様。
c点論が宗教でナイ事、幾らかでも了解出来ましたか。説明がまずい
のではと、恐れて居ります。
なを、「本質論」としてのc点論には、論理の進行の為、重要なポイント
があります。c点論が「本質論」である為には、S、イマムラの
オリジナルである「矛盾(有無合一体)と無限(他の哲学論にない)
の視座」を要します。この「視座」を認めるも、拒否するも自由です。
この「視座」はc点論のポイントですが、愚生のサイト「c点による時空論
改訂版」を検索の上、参考にして下さい。不十分な説明が長すぎました。
多弁多謝。 >>640
私たちが認識している現代の「物質」の概念は、“幅、奥行き、高さ”という三次元空間の
中で確保されている。だから、今、私たちが「物質」と定義しているのは、デカルトの「心身二元論」を基底としている。 「いのち一元論者」様
「本質論」は科学とは異なります。「科学」についての説明は省きます。
分かり易く、例を挙げて説明致します。
ヘーゲルの「弁証法」(もちろん科学でない)から発展し「共産主義理論」
となり、「階級闘争」から「社会主義国」が生まれました。ここでは
「弁証法」→「社会主義国」 と言う過程において、科学は
「本質論」の実現の為のたんなる道具(補助手段)に過ぎません。勿論
科学(科学技術)の進歩が、これらの過程に大きな影響のあることは
否定出来ませんが、本論ではありません。
「科学」と「本質論」との差異が幾分でも、ご理解いただければ。 「本質論」は「科学」では、有りません。
「科学」は唯物論で、昔では、形而下学です。
「本質論」は「哲学」も含みますが、形而上学+形而下学、つまり
思索の「総て」を対象としている。
マルマルの「奥の真理(本質)」を追求する(論理のみでなく、宗教など
では、論理を超えて)、この本質を求めるもの「本質論」と考えます。
c点論も、検討して下さい。多弁多謝。 本質論の定義など問題にはしてないですよ。
好きに定義したら宜しい。
そんなことより、イマムラ氏はc点論を正しいと思うのか思わないのか聞きたいかな。
で、正しいと思うんなら、その根拠が何処にあるのか?
論理的整合性がなく、科学的根拠もないのであれば、それは信仰(宗教)でしょ?って言ってるんですが。
別に信仰ならば信仰で良いんですよ。
私の思想も信仰ですし。
自分で正しいと思わないのに15もサイトを作るわけはないので、信じてるんだろうなとは思いますが。 >>640
唯一の存在は物質、ですか。
では質問。
時間は存在するんですか?
空間は存在するんですか?
情報は存在するんですか?
エネルギーは存在するんですか? 代償行動は資本主義的功利世界に在るかぎり、タンタロス的永遠の行動となるだろう。
彼は代償に縋るかぎり、一過的、幻影的ものを追い求め続けねばならなくなる。
ムーアの法則も参照 ↑、「いのち一元論者」様
先生の「お話」を読んで見ましたが、愚生の能力では、先生のご見識
ご信念には、とても及ばず、はるか「別世界の聖人」のお叱りを受けて
いる様で、ただただ、非力な愚生を感ずるばかりです。これまでの
失礼な発言は、お忘れの上、寛大なお心で、道行く者が何やら騒いで
いたと、お笑いください。以上、お許しを。 一日16時間電子本を読破している俺を近所の主婦がバカにする
32歳童貞精液STAP細胞は5日程待っていただければ存在します。 現象は、偶然か必然によるものしか想定しようがなく
そのどちらでもない主体性とか自由と言われているものは存在し得ない
心の哲学は基本的に唯物論で考えるべきで、
そのときのツールは物理学や物理学的思考になり、
それ以外を頼りにするのはリスクのある博打行為
物理学も人間の認識の仕方に合わせて記述されているものでしかないから
時空間もエネルギーももしかしたら物質に還元できるものなのかも知れないし
また定義次第とも言えることではあるが
とりあえず物理学から逃げてしまったら、この問題を考える者の態度としては
終わってると思う 文科系の奴は数学や物理の権威にすがり
理科系の奴は人文社会を専門馬鹿でない自分の自己紹介に利用する
どっちも自信のなさを伺わせるので白ける 二元論というのは文系と理系の二元のことだったのかと >>645
「物質」を三次元空間(タテ・ヨコ・高さ)でないとしたら、あなたは「物質」の概念を
どのように定義しているのでしょうか?
いちおこの世では マルクスの時価相場ってことになってますね
Material's
>>656
4次元以上を想定すると物質でなくなるのか?
量子力学は3次元限定の分野ではない。 >>614
を、いまごろ614を発見した。すなわち「変化」ですね。
「変化」しなければ「無」であると。
三元豚のとんかつを食いにいったけど天元豚しかみつからなくて。
四元豚もあるようだけど、そこまでいくと「雑種」扱いでいいような気も いのち・・・自己を保持しようとするシステム、即ち生きる・活きる力。
「自分は今生きている。」
このア・プリオリな命題が出発点です。
では、自力で生まれたか?というとそうではなく、他力(自分の場合はつまり親から)によって生まれたはずである。
凡そ周りを見ても他力存在者しかいない。
しかし、全てが他力によって生まれたならば、初発はいったい何によって生まれたのか?
まぁ結論としては「無という他力」からということになるんだけど、ここを納得するには、対称性の破れとか相転移とか自己組織化とかを勉強するしかない。
他力ではあるんだけど、見方を変えれば自力でもあると。
なんにしろ、いのちは「自ずから然り」、それが自然なわけで、いのちと非いのちに二分されるという考えだと、非いのちからどうやっていのちが?ってなってしまう。
結論
時間という形式で考えると、いのちは連続していなければ論理的ではないため、自分が生きているのを真とすれば、初発から全てはいのちである。 自分が生きている為には、それを可能とする環境が必須である。
保持できる環境だから保持できている。
当たり前のことである。
そこで、環境のスケールを拡げていくと・・・
人間社会の環境、地球の環境、太陽系の環境、(天の川)銀河系の環境、銀河群の環境・・・全宇宙の環境。
各環境は、それを内包する環境に「完全依存」する形で成り立っている。
また、この世界で「いのちではないものはない」。
よって、各環境は、いのちというシステムとして「保持しようとして保持できている」ことになる。
※環境と書いたが、専門的にはそれぞれ系と呼ぶ。
結論
空間という形式で考えると、全宇宙の系は、生物と同じく「生きている」と考えるのが論理的であり、フラクタルのように内包する形で各環境(系)が成り立っている。
余談だが、宇宙を銀河スケールで観ると、ボイドというものが確認されており、宇宙が「細胞」と似た構造になっていることがわかった。
ガイア理論も同じような理論なので参照のこと。 世界はいのちのフラクタル。
いのちは連続したものとして繋がっているため、生まれるいのちは「自己相似性」を持っている。
従って、システムとして、共通の相似性が見出される。
エネルギーとか、自己組織化とか、べき乗則とかね。
科学的には「非線形科学」を参照したら宜しい。
ミーム理論とか参照したらわかるが、情報、特に観念や概念、これも「保持しようとするシステム」が働いており、保持できるものとできないものがある。
観念やリズムや社会にまで、全て共通の相似性を見出すことができてしまうのです。
長々と失礼しました。 ・・・という世界観は、ただの私の「観念」であり、何処までいっても自然世界とは「一致しない」ことを最後に申し上げます。
人は観念を超越することは出来ない。
ここで、「意味」について考察せねばならない。
AはAである。
これはトートロジーで意味はない。
そう、自然世界はトートロジーなのです。
意味というのはあえて創られたもの。
AはBである。
これが意味なんです。
早い話、AはBなんだと「決めつけた」わけです。
目の前にある「これ」は、椅子である、とかね。
何が言いたいのかというと、自然と観念の一致、それは「決めつけ」によってしか成立し得ない問題なのであり、此処を以って「思想は宗教」だといえるのです。
ですから、私は、納得によって、一致すると決めつけます。 それはすなわち
多くの言語がisやイコールで説明することであり
哲学、ロジック自体がその構造と理解してる上で語ってるのかね? 「我々は生きている! 我々はまぎれもなく
ここに生きている!
しかし、人間はそれを認めようとはしなかった。
そればかりか、目にもあまる残虐な手段を尽くして、
われら同胞の命を排除した。
あたかも裁きを下す者のごとく、
あたかも彼らがその権利を有するかのごとくだ。
命に優劣があろうか。
生きるという切実なる思いに優劣などあろうか。
ただひとつの生を謳歌する命の重みに優劣などあろうか。
あるはずがない。
しかし、人類は目に見えぬ天秤の上に我々を載せた。
それが仮に彼らの権利であるというのならその逆もしかり!
我々がその権利を有することも可能なのだ。
我々はここに王国を築く 我らの命が命ずるまま、
我らの意思の赴くままそして 我らの願いが導くがまま!
ここに我らを、地を治むる新たな"新造人間"と称し、
人間を……皆殺しにする!!」 >>658
「物質」とは、三次元構成された存在であり、四次元以上は「物質」ではない。
三次元空間は我々が五感(視・聴く・嗅覚・味・触の五つの感覚)で知覚できるものであり、
「物質」概念と“対極”に在るのが「精神」の概念です。
つまり、三次元構成(タテ・ヨコ・高さ)以外の“存在”が、「精神」と定義されている。
現代物理学では、水素原子の内部構造の画像(=可視化)に成功しているので、この領域(原子レベル)
までは実証されたので、原子は「物質」と言える。
現代の量子力学は、実証(=可視化)されておらず、理論としては成立しているが、現在の時点では「架空の世界」であり、
「物質」とは認められない。 >>667
おまえが認められるかどうかなんて
どうでもいいんだよ 心霊写真は霊の可視化に成功してるのか?
ばっかじゃねえの >>667
それだとこの世も架空になる
この世も実証されてない >>667
水素原子の内部構造の画像(=可視化)により「物質」であることが実証されたのは、水素原子の
「粒子性」の領野であり、水素原子の「波動性領野」は“二重性”として内在している。
従って、他の素粒子が「可視化」されていないからと言って、「物質」ではないと断定することは出来ない。
量子力学の世界は、素粒子(クォ−ク、レプトン、ヒッグス粒子等)が、粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を
併せ持った世界(粒子の二重性の世界)であり、粒子性の領野は「三次元構成(タテ・ヨコ・高さ)」の世界として捉えられ、
波動性の領野は、「概念(=状態)」によって捉えられる。
従って、私たちが理解している物理学には、通常の「三次元構成」を基底とした「物質」概念を基にした「ニュ−トン力学」と、
「三次元構成」以外の波動性(=概念)を基底とした「量子力学」とに分かれる。
現在、「量子力学」は、単に「原子より小さい物理の世界の法則」に限定されるのではなく、より広く、モノ(物質)以外の
“状態全般の法則”と捉えており、因果法則とは異なる「量子数理」が使用されている。 >>674
量子力学の「粒子性(物質の性質)」と「波動性(状態の性質)」は、哲学の“物心二元論”とも
関連してくるので、非常に興味深い。 ここであえてダークマターの中に精神物質が含まれていると主張してみる >>676
ないわ
物質は粒子性と波動性を併せ持つだろ
その理屈でいうと心は物にすぎん、はい終了。じゃないか
>>677
ダークマターは観測が難しいから、観測機器をすり抜けるからダーク
従って人体をすり抜けるわけだが、
光速で宇宙の彼方から宇宙の彼方へ飛び回る物質が精神の正体なわけがない >>679
ものやんか 受け継いだデータ プログラム通り動いてる 物質なんてものは妄想にすぎない
色も匂いも形も俺たちが主観的に感じてるだけにすぎない以上、客観的に実在している「物質」なんてものは空虚な妄想にすぎない
唯物論とは虚妄にすぎません、科学なんて単なる物知り自慢にすぎないと思います。 >684
「ある」ものは「ある」、「ない」ものは「ない」
僕はこの理屈のみが正しいと思います。すなわち「変化」とか「発生」とか「運動」なんてものは絶対におこらないんです。
「変化」とはあるものがないものになって、ないものがあるものになることです。「発生」とはないものからあるものが生み出されるということです。
「運動」もまたあるものが存在しないものへと動くことですからありえません。
確かに世界は変化、運動しています。しかし、変化や運動してるものは上記の理論から単に我々が主観的に感じてるだけの幻にすぎません。
ダニエルデネットやチャーチランドなどの神経科学や心脳同一説なんて脳みそ万能理論のくだらないオカルトに過ぎません。脳が客観的に実在していると信じたいなら好きにすればいいと思いますが、
そんなものは幻想にすぎません。我々は赤くてぶよぶよしているものに対して「脳」という言葉をつけて本当に存在していると思ってるだけなのです。ただ「それだけ」です。
そしてクオリアもまたありません、「赤」の赤らしさなんて空虚な言葉の連なりでしかありません。 >>685
「ある」と「ない」が区別できなければ「ある」も「ない」も
「ない」すなわち「ない」が「ある」だけでは「ない」でしょうか?
「ある」が「ない」から「ない」が「ある」、「ある」は「ある」
「ない」は「ない」ではなにもないかなんでもあるにしかならないのではないでしょうか? >>686
そうですよ、なにもないと考えても差し支えありません、これはゴルギアスの議論と似ていますね
そしてなんでも存在するとしたとしても、それが客観的な実在なのだという証拠はどこにもありません あるもないも脳が作る幻の一種だろ。
その幻が対象が発する何らかの物理的な情報によることは
推測できるけれど、
実際になにがどのように存在し、存在しないのかは
絶対の確実も絶対の不確実も断定できず、
確実性を高める努力によりそれを高めることしか
人間にはできないんじゃないかな。 >>674
量子力学の世界は、粒子性(物質の性質=質量)と波動性(状態の性質)との二重性を持っているが、
この波動性は、「三次元構成=物質」以外のものと言うことは、状態性(=精神的)と言うことになるが、
非常に不思議であるとともに、全く新しい世界観が開かれている。 >>691
688は「あるもないも脳の作る幻の一種」と言ってますが
そうすると脳は幻の一種として「ある」わけですね 全ての認識結果は幻。
その中で確からしさの大きい小さいがあるだけ。 再現性という幻を頼りに確からしさを求めるのが自然科学
思弁の共感性という幻を頼りに確からしさを求めるのが哲学
啓示という幻に服従することで確からしさを求めるのが宗教 ヒトの認識に限定すればおおよそ共通の認識機能とおおよそ共通の経験(学習結果)から
おおよそ共通の評価(この場合は確からしさ)が得られるけれど、
この「おおよそ共通」という認識を普遍的と呼ぶのは自然科学の再現性における普遍性に比べると偶有性がおおきい >>700
貴方の言ってることも、おおよそ適当に好きなように理解されれば良いわけでしょ >>701
そういうこと
確実に立証することはできない
だからと言ってなにも知り得ないということでもない
なんらかの根拠を基に確からしさを求めることが有効であることは
ヒトという種が活動領域を広めていることから推測しておおよそ確からしいと考えられる >>702
だから、なんでもかんでも幻だって言ってるくせに
どうしていきなり
「ヒトという種が活動領域を広めていること」が当たり前のことのように前提されちゃうわけ?? 幻は全くの嘘でも全くの本当でもなくその間のどこかに相当する事象だ
「ヒトという種が活動領域を広めていること」はそのような現象がある程度の確からしさで認識されている
だからそれを前提にすることが全く無意味ということはない 少なくとも神や自由や魂の持続よりは再現性ありで観測されている 「幻は全くの嘘でも全くの本当でもなくその間のどこかに相当する事象」
全くの嘘と本当が「ある」ことを前提に幻を定義しているわけですね
実証主義者ではなくイデア主義者でしたか 嘘や本当は評価結果あるいは状態の認識であって「がある」ではなく「である」ということ
あと一応物理主義だけど >>689
「脳」もありません。我々が主観的に赤黒くてぶよぶよしているものに「脳」という名前をつけて
本当に存在しているかのように、信じ込んでいるだけなのです。赤黒さもぶよぶよも、我々が主観的に感じているだけであり、それらを取り除いた「脳」などというものはありえません。
言語というものは誤審の源泉です。例えばプラトンのイデア論のようにあらゆる三角形に共通の三角形などというありもしないものもでっち上げられます。
それらは単なる空虚な言葉の連なりでしかありません。人間が「アップル製」「韓国製」などといったブランドに翻弄されることと同じです。
だからといって、人間の知覚に「脳」が関係ないなどとは言いません。しかしそれは、目を閉じれば視界がなくなる、鼻をつまめば匂いが消えるというように
脳というものも所詮は一つの臓器にすぎないのです。脳が「生み出す」などといったくだらない脳万能理論などは単なるオカルトに過ぎません 脳は臓器ではありませんし あなたはアリ脳なの?w 責任をともなう社会人とはあなたの家族を伴うわけだよね >>707
>>688の人は『あるもないも脳が作る幻の一種だろ』と言ってしまったので
「ある」は既に「評価結果あるいは状態の認識」として解釈されてしまっているでしょ
一応、相手に合わせてレスしているつもりですよ すべては脳の物理化学的現象
社会に出れば無職ニートも気づく >>711
あなたがそう信じたいというのならば否定はしません。
たとえ実際には単なる幻想でしかないとしてもですけどね
少なくともそれが心象風景に基づく幻想であれば
活字に置き換えて応用して 実際に物理経済に
質量変換されてますよ
薬価の原価と研究開発費用の対比すれば 幻想とは何か判るはず
いろんな可能性をつぶしていくと心脳随伴説に行き着く >>714
心脳同一説、現象随伴説は脳万能理論のオカルトでしかありません。 唯心論=現象の本体は一切精神作用で、物質はその所産にすぎないとする世界
観。
唯物論=宇宙の本体は物質であり精神活動も物質的条件によって決定されると
ゆう立場をとる世界観。(対)唯心論。観念論。 心的世界は物理的世界や理論的世界から独立した実在だよ >>679
量子(光子、原子)は、粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)の両方の性質を
持ち合わせている。 従って、心(=精神)と物質(=肉体)は両義性(心身合一)として
捉えられているので、心(精神=波動性)は、物(物質=粒子性)ではありません。 心は物から独立だという言明聞くたびに馬鹿じゃなかろうかと思う。
世界の物が物としとは物理現象に還元できるなら間違ってるか、
心が独立だとして、心が全く役に立たないし
そうじゃないなら独立なのも当たり前でどっちにしても何の意味もない。
まず物理決定論なのかそうでないのか、
物理決定論じゃないなら心が物に介入するとはどういうことか。
それぐらい態度決めてから言えよ。 そんな言い方しなくたっていいだろ
人生がんばってんだよ 一生懸命って素敵そうじゃん 世界教師マイトレーヤは大宣言の日にテレビに出演し全人類にテレパシーで語りかけます。
この日から地球の歴史上初めて真の世界平和が始まります。
彼はキリストであり、如来です、 人類は世界資源の分かち合いに同意するでしょう。 唯物論がフランス革命の信条となったのを見たイギリスのブルジョアは、その恐怖政治に震撼した。
彼らにとり、宗教は国民大衆を手なずけておくのに有効な手段だったからである。
労働者階級から宗教が失われればどうなるか。彼らは、次々と要求を出してくるであろう。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/718ieHP1OtL._SL1500_.jpg 200ページ
マルクスの言うとおり、宗教はあの世における幸福を夢見させることで、この世の苦しみや不正から
目を逸らせる効用をもつ。貧困と重労働に喘ぐ庶民を宗教の阿片で眠らせておくことは、
支配者階級にとって不可欠の統治手段なのである。 哲学的ゾンビはエピソード記憶の記憶効率が悪いらしい 某コンテンツ業界粛清祭で恐怖にひきつったビンゾーが
列車拒否しつつ、国粋コンテンツも拒否る
みたいな心の問題でつネ!! 唯物論者は
元々が獣のような姿をしていた整形美女を受け入れなければならないのか?
おそらく「嫌だ」と思うはずだ
「受け入れなくてもよい」という結論から入り、
それを肯定する理由だけを集めるのは難しくないだろう
俺は嫌だ、しかし唯物論者の立場を捨てることはできない
だが、この問題で悩むつもりはない このスレの議論と
http://westhawk.blog.fc2.com/
を融合させれば、最強の二元論になるよ。 物を対象にすれば唯物論となる。
心、観念を対象とすれば、観念論、唯心論となる。
対象によって、両者が成立することになる。 測定無くして、科学無しということなので
これは間違えた本人が痛いというだけの
きわめて単純な構造物であることがわかる 因果関係には必然と偶然以外に想定することはできないことから
自由という概念が架空のものであり、
そうすると意識から物理界へのフォードバックはないことになる
というのが唯物論の立場だろう
あるいは言い方を変えると、物質はただ淡々と物理法則に従って振舞っているに過ぎない
だから心は何の決定権も持っていない、とかになる
我々が物理界と捉えているものは今のところ物理法則に従っていて
このことで非常に高い精度で宇宙船を小惑星に着陸させたりすることができている
想定していない勝手な振る舞いをされたら困るんだが、そういうことは今のところ起こっていない
重力が他の3つの力に比べて小さいのは、他次元に漏れてるからという考え方があるが、
量子の予測不可能な動きもやがてこうしたもので説明できるようになるのかも知れないし
精神もそういうものなのかも知れない 香山リカって党派的なはなしを個対個みたいに偽装してはなすじゃん なぜクワイン的自然世界の外部に、意味や心的な対象を基本的な存在者とする世界を
措定する、という極めて自然なオルタナティブが提起されないのか? 自分も心の哲学飽きてきたけど
このスレも過疎ってるよなぁ
以前、哲学的ゾンビスレとかもあって
けっこう面白かった
決定論スレは前に覗いたときに
特定の人間が長文バトル続けてたので敬遠してる
変わったかな? ハードプロブレムスレなんてものもあるのか
つぶやきスレになってたけどw 以前は色々考えたものだったけど
色んなテーマを複数同時に考えるのが面倒になってきて
とりあえず絞り込むとしたら「意識の境界問題」と「何故私は私なのか」でいいかなとなってきた
それも頭部の結合双生児が意識を共有している事実や
脳ぶった切っても分裂再生する下等生物がいることを考えると
健康な人間が自分の常識に縛られ過ぎてるだけに思えてきたりもする 分離脳についてはちゃんとした文献や実証があるらしいけど
結合双生児のタチアナとクリスタに関しては、興味本位のマスコミネタしか見たことないから実際のとこどうなんだろ?
意識を共有したりテレパス的なコミュニケーションが実際にあるかどうかは定かでないのでは >>742
自分最近そーゆーのに興味持ち出したんだけど
心の哲学について語るレスって少ないなーと思ったんだけど
そーゆーブームみたいの去った後だったんですね
リアルタイムで参加したかったなー
なんか結論ぽいものが出るってわけでもないんでしょうけど
同じよ〜な疑問持ってる人たちとだべるのも楽しそうだなと
今や哲学板でも科学板でもクオリアという言葉を出すとなんか食傷気味というかダサいみたいな空気ありますよね(´・ω・`) 世界をプリミティブに分割しないと答えは出ないよ
なぜなら相異なる、あまつさえ矛盾する物理主義者と観念論者の主張が
同時に可能なのは、全く別の秩序をもつ2つの領域があるが、それが相互浸透していることで
その浸透している場所で起こる現象がどちらの立場でも解釈可能だからだ
>>739
法則は経験仮説だからこそ法則的であり得るなら、いつか絶対的な法則が世界全体を
覆って、その代替となるようなことはあり得るのか
予測不可能なのは、今までの法則では説明できない、全く新しい現象が、
将来起こるのかどうかということ
もし世界の構造的に、常に新しく特異な現象が生じるなら、法則、理論ネットの部分的修正ではそれに追いつけない
そしてそれは世界の外部とその外部にある、別の法と存在者をもった領域を最終的には意味するんだなあ >>747
確かにクオリアって言葉は見なくなったし自分も使わなくなった
感覚とか意思とか意識とかそういうのを一括りにした便利な単語として
もっと浸透して欲しいと思うね
そういう象徴的なキーワードが1つあるだけでも一般への浸透度は変わってくるだろう
結論は、今の自分たちだと出ないように考えてしまうけど
いずれ安全に脳を接続する技術とかも登場するかも知れないし
意外に分かんないよね
このクオリアを不思議に思う気持ちが生じること自体に
直感的には、意思界から物理界へのフィードバックがあるかのように思えてしまうけど
そういった一見矛盾に見えるところをどうクリアしていくのか
光速不変を時空間の方が変化することで説明したときのような大転換があるのかも知れない 「物」と「物質」は定義が異なるようだ。
「物質」とは、(知覚上の)ある性質を持つ存在で、
「物」とは、ある性質を持ち、この性質に基づく境界を持つ存在、と考えられる。
果物のリンゴから(物質)リンゴジュースを取り出すことを例として考えると、
・物は排他的だが、物質は普通そうではない。<境界の有無と重ね合わせの可否>
・物から物質を取り出せても、物質から物は作りだしにくい。<(当次元)存在不可逆>
等々言えるが、一番の留意点は「物」は想定知だが「物質」は知覚知だということだろう。
(例) 【物】---【物質】
光粒子 波動
人体 意識・命
cf.カントの「物」と「物自体」…? 生物=タンパク質に着目すると
炭素水素酸素窒素を材料に自分たちを拡大再生産していて
あたかもそれが目的であるかのように見える
実際、クオリアはそれを目的であると認識している
鍾乳石や水晶の結晶なんかができるのを同じで
同じ性質のものが中身は入れ替わりながら成長をしている
人間や動物は彼らに目的意識は認めない
彼らは逆に我々を
自然の摂理に従ってただ淡々と成長しているに過ぎない物質だと見ているのかも知れない 幕府と朝廷の二重支配があったように
国境や土地所有権とは無関係に動物たち縄張りを持っているように
我々が無生物と認識している色んなモノが目的意識を持って振舞っているのだろう
実際には人間と同じようにただ物理法則に従った変化をしているだけなんだけどね 目的意識的な部分と物理法則というの部分の二重支配があるという可能性もあるかも知らん。 でも、目的意識なんて単なる現象という風に考えたほうが自然だな。生きる事に目的なんてないしな。 スゲーこと思いついたけどここに書くのはもったいないから心に留めておく >>751
そこまで行くと馬鹿みたいに感じますね。
馬鹿をこじらせるとそんな風なことまで考えるのかと。
by 鼎 梯仁 現象と原因では、原因を直せば現象も変わると思いがちだが、実は現象をなおせば原因がわかる、かえられるようになるのだと悟った。 因果とは必然or偶然の二択であることから自由の概念の存在そのものが否定されたように
全ては物理法則に従った結果に過ぎないと考えると応用という概念の存在も否定される
応用には、
応用することで、応用しなかった場合と比べて異なる未来を実現できるという意味が込められている
しかし、そんなものは実際にはない 意識とは何かって謎だよな
物理現象とは全く違うもののように思える
ただ物理現象とは違うって思い込んでるたけなんだろうか?
頭のおかしい人には自分が頭がおかしいってのは分からないのと同じように
意識は物理現象で説明できないと思い込んでるだけなの? ある科学者が、ある機械につき意識を再現したとする。
科学者は言う。この機械には意識があるんですよ。と。
しかし、我々はその機械に意識があるかを知るすべがない。
なぜなら意識とはその機械にしか感得できない主観的なものだからだ。
意識の有無、その内容を客観的に知るすべがない以上、意識の解明はきわめて困難だよね。 意識を解明するためには、第三者的に、意識を表わす「言語」「単位」的なものが必要だろう。
だが、それはいかなるものか想像することすら難しい。
目で認知した内容については、ビデオカメラで代用できるかもしれないが、
それが意識の全てはないだろう。 自分以外の意識の有無の確認は難しいが
それは結局はこの世界が現実なのか夢なのかと同じレベルの難しさ
将来他人の脳との接続が可能になればある程度は「自分と同じなんだ」と確信に近づくことはできるだろうね
まずは人間が直感的に「そんなはずは」と思ってしまう
主体性とか自由意志とか言われている「意識世界→物理世界」という因果関係が存在しないことを
分かり易く説明できる方法が欲しいよね
今はなんとなく「理論上あり得ない」とい思っているに過ぎない
意識が行動を決定していないのなら、生存や繁殖に有利な行動を快楽と感じる必要性は別にないんだしね 起因があり結果がある
その間に承と転がある。
略して起承転結。 ヤバイ、5年ぶりくらいで唯物論鬱が来た、、、
自分の人生全て決定していた通りで
これからもそうなのだと考えるとムチャ空しくなる、、、 中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中中
本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本
裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕裕
之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之之
奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈奈
良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良良
県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県県
在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在在
住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住住 日本人のあえぎ声はイクーイクーなので
喚いても意味はないのです >>767
???
信じてたモノが間違っていたからこの世の終わりと言うことでしょうか?
この場合・・・
『>>767は自分を過信しすぎた』
こんな感じでしょうか? >>765
戦略とは結があるから成り立つ
起は誰かに任せて
承は数を集める事
転は結に結びつけるための布石
結で満足したら終わり
大体の人間は結に満足しないから
転転となる >>764
原因が解らない結果
因果関係が不明
原因が解った結果
因果応報となる 原因はお前のオナニー男ストーキング
因果はお前が統計に逆らい無職で働かないから
独身子無し40は因果応報となる >>763 :考える名無しさん:2015/12/09(水)
>意識が行動を決定していないのなら、生存や繁殖に有利な行動を快楽と感じる必要性は別にないんだしね
そう、必要性はない、繁殖しているのは自然選択の結果に過ぎない。
その科学的に必要性のないことを快楽と決め付けて価値化しているのが意識だと思う。 追記
>>763 :考える名無しさん:2015/12/09(水)
>主体性とか自由意志とか言われている「意識世界→物理世界」という因果関係が存在しないことを
分かり易く説明できる方法が欲しいよね
それは受動意識仮説で良いんじゃない?
時間差で「意識世界→物理世界」のアリバイが壊れるから。
別の反証は、意識が物質を動かすとエネルギーの法則とか力学法則とかに干渉するオカルトを認めることになるから 鈴木貴之 ぼくらが原子の集まりなら
物理主義によれば、すべての現象は、単一の理論的枠組のもとで理解できる。
原子や分子などに分解してミクロ物理的に統一して説明できること。全て共通な組成を持ち同一の法則で説明できること。これを構成による説明とする。
もう一つはそのものがある因果的機能を本質としマクロ物理的な存在者によって、説明できること。これを実現による説明とする。
構成による説明で全て説明すればいいじゃないかと言えそうだがそうでもない。
例えば電池。電池の中の個々の原子はそれだけでは電池ではない。一つ一つの原子はそれだけでは電気的に中立で電池にはならない。
亜鉛とマンガンの間にある化学反応が生じその結果電池の両端を繋ぐと電子の流れが生ずる。こういった組み合わせや機能による説明抜きに何事も理解できない。
意識の問題とは、意識にかんしても物理主義は成り立つか、意識は自然化できるか、という問題。
→意識の自然化は不可能だと主張する2つの論証がある。
・思考可能性論証
あるひとがテーブルの上の赤いリンゴを見ている。それはトマトや夕日を見るときの意識経験に似た体験だ。赤クオリア。
別な人は同じ赤リンゴを見ながらわれわれならキュウリや芝生を見ている時に感じる体験をしているとする。緑クオリア。
また、全く何も感じていない哲学的ゾンビも考えられる。われわれと物理機能が同一でありながら、クオリアが違う存在は考えられる。
電池であることは因果機能で説明できる。しかし、クオリアは機能では説明しきれない。意識はクオリアは因果的機能では全てを説明はできない。
・知識論証
コウモリであることはどのようなことか。コウモリが超音波を使い潜水艦のソナーのようにして自分の位置をつかむ。科学でいろいろ分析できる。でも我々人間はコウモリであることはどのようなことかわからない。
メアリーは無彩色の部屋の中にいた。彼女は色についてあらゆる知識を得ている。しかし、はじめてその部屋の外に出たとき赤について、何か今までにないものを体験するはずだ。
メアリーは電池について物理学的な説明を全て完璧に理解していたとすれば電池をはじめて見ても特に新しい知識はない。クオリアは違う。 鈴木貴之 ぼくらが三章
クオリアにかんする志向説
赤いリンゴを見る経験には、赤さのクオリアが伴う。このクオリアは物理的な存在者ではないように思われる。
しかし、リンゴを見るときの赤はリンゴの性質の赤ではないか。
赤さのクオリアは忽然と神秘的に表れる極私的守秘的な経験そのものの性質ではない。
経験において見いだされる客観的一般的なリンゴという物の性質だ。これがクオリアの志向説。
意識経験も表象の一種である。表象はなにかを表す志向性を持ち、表象が表すことは志向的内容または表象内容である。
テーブルの上に置かれた赤いリンゴの絵やテーブルの上に赤いリンゴがあるという文はテーブルの上に赤いリンゴがあるという志向的内容を持つ。
赤いリンゴ自体は志向的対象である。
志向的対象のリンゴ自体は赤い。表象そのものの印刷された文は黒い活字だ。
意識経験も表象の一種なら意識経験そのものと、意識経験の志向的対象の性質は区別できる。これが繰り返すがクオリアにかんする志向説。 三章続き
志向説のポイント。
意識経験の透明性。黒い活字としての表象そのものの内在的性質は意識には出てこない。志向対象の赤いリンゴ自体が出てくる。
勝手にクオリアに客観性押しつけてるだけにも見えるがクオリアでハードプロブレムは解決困難とする説はクオリアに主観性押しつけすぎなのでどっちもどっち。先に進む。
志向説は視覚経験以外の知覚経験にも適用できるか?つまが話すのを聞くとき、妻の声の聴覚経験を持つ。妻の声は高い音で早いテンポである。これらは経験の志向的対象であるわたしの妻の性質ではないように思われる。
しかし、この分析は不適切で志向的対象は妻の性質ではなく妻の声の性質だからだ。
痛みの経験について考える。痛みの経験は常に身体部位の性質として経験される。痛みの経験はみずからの身体状態にかんする知覚経験だ。
反論。リンゴは知覚していない時もリンゴとしてある。
痛みは知覚していない時は存在しない。痛みは極私的守秘的な私だけのものではないか?この今感じてる私の痛みは他人にはわからない。
再反論。個々の痛み体験は特定の身体部位に結びつく。また、ある人が他人の痛みを感ずることは原理的に不可能ではない。
感情経験も体の性質と見なせる。 三章続き
知覚は確かに外界の反映だろう。でも雰囲気や気配、あるいは感情。それは極私的なもので外界の反映ではないのでは?
しかし、そういったものも、ホルモンなり何なり体のどこかで生理的反応が起こっているわけで、クオリアの独特の「感じ」もその生理的反応の別名にすぎない。
現実にここにはいない象をイメージする時も、現実にはこの世にいないピンクの象を想像する時も、真正でない知覚を知覚しているだけで知覚の中にはそういった機能があり、
メタ知覚も知覚の一種で生理的身体的反応が体のどこかに起こっていてそれを反映しているだけなのだ。
意識経験は世界の在り方を表すものであり意識経験は知覚経験なのだ。
人間は世界の在り方を知覚を体を通して反映しそれが意識にもたらされるのだから当たり前と言えば当たり前。 四章
意識の表象理論には3つの問題点がある。われわれは地球が丸いと常に考えているわけではない。しかし、意識的に考えていない時も、信じている。この信念は心的表象状態だが意識経験ではない。
クオリアは表象で解釈できるというだけでは駄目でクオリアでない心的表象との関係も説明できない、
限り何でも表象だと押しつけてるだけでそれが正しいとは言えない。表象説で説明できていると言えない。
2つ目は外界の事物が持つ物理的性質と意識経験に現れる性質の関係を満足に説明できない。
赤いリンゴは自然科学的に分子組成や表面反射特性といった物理的な性質持つが赤いクオリアとそれはどんな関係なのか?
3つ目は違法薬物でリンゴの幻覚を経験したときなど。通常の知覚経験では目の前き赤いリンゴがあり、私はそれを見ている。しかし、幻覚では外界には赤いものは存在しない。
この赤は表象ではなく非物理的な存在者だとしか言えないのではないか。クオリアは表象ではないのではないか?
物理主義者は深刻なジレンマに直面する。表象理論によれば意識経験は外界の事物の反映だ。
しかし、それだと意識経験に非物理的な存在者が現れることを認めることになる。
・意識経験である表象とそうでない表象の違いをうまく説明できない。
・事物の物理的性質と経験される性質との関係をうまく説明できない。
・意識経験は存在しないものが現れるという事実をうまく説明できない。 五章
志向性の自然化には、2つの課題がある。あるものが表象であることの必要十分条件を物理主義的に特定すること。ある表象がなにを表すかを物理主義に特定する方法を見つけること。
意識経験は表象にほかならないと考える。人間の心的問題が持つ志向性と、赤いリンゴの絵や文章の持つ志向性にはある本質的な違いがある。
知覚状態や信念は他の表象が存在することなしに志向性を持つ。文や絵は信念や意図などの心的状態を持つ人間が利用することではじめて志向性を持つ。
本来的志向性と派生的志向性に分けられる。
本来的表象は世界をありのままに写しとるのではなく、みずからの生存に有用な仕方で世界を分節する。
本来的表象の志向的内容を事物の物理的性質の中に探し求めることは根本的に間違った試みだということになる。
で出てくるのはある表象の志向的内容はそれがどのように使用されるかによって、決まるという消費理論である。
・表象には他の表象の存在を前提とするものと、しないものがある。本来的表象こそが意識の自然化の鍵となる表象だ。
・単純な生物においてはオシツオサレツ表象として働く。複雑な生物でさら記述的表象と指令的表象が分化する。
・本来的表象の志向的内容は、その表象がどのように使用されるかによって決まる。
・ある表象が正しい表象か誤表象かはその表象がくりかえし生じるかどうかと、ある状況で生物の生存可能性をより高める別の表象があるかどうかによって決まる。 六章
本来的表象は意識経験である。この考え方をミニマルな表象理論と呼ぶ。この見方によれば、本来的表象が意識経験となるためにはさらなる条件は一切必要ない。
ある因果的機能を持つことと意識経験を持つことの間に概念的なつながりが見いだせない。ミニマルな表象理論はこのつながりを与えてくれる。
意識の表象理論には2つの要素があり、そのうち、クオリアにかんする志向説、すなわち、意識経験は全て知覚経験だという見方には修正の必要がない。
意識経験は紙に書かれた文、あるいは信念や欲求などと同様の表象だという、もう1つの要素にこそ根本的な修正が必要だから。
意識のハードプロブレムが解決不可能に思えたのは、意識経験を再現表象の一種と考えていたからだ。このように考える限り、なぜある種の表象だけが独特の感じや主観性を備えるかが不可避的になる。
ミニマルな表象理論によれば意識経験となる表象とそうでない表象はそもそも種類が異なる表象だからだ。
四章
・意識経験である表象とそうでない表象の違いをうまく説明できない。
→人間の生存に役に立つ本来的表象としての意識経験以外は派生的表象でありはっきり違う。
・事物の物理的性質と経験される性質との関係をうまく説明できない。
→生物が生きるために進化してきた細かく目的必要に別けて分節化してきた性質だけが本質的で単なる客観的自然科学的性質はどうでもいい。
・意識経験には存在しないものが現れるという事実をうまく説明できない。
→われわれは事物そのものの自然科学的性質を知覚してるわけでも何でもない。加工して経験している。
生物に利用できる資源は有限であり絶対に間違えない知覚システムを身につけたら却ってコストがかかり絶滅していた。間違うのはないものをあるとするのは当然。当たり前。
どうだ参ったか。
・プラナリアだって表象でフィードバックしているから意識を持つ。
・人間の受精卵は表象は持たない。意識は持たない。胎児で神経系がある程度成立したら意識を持つはずだ。
・ロボットは意識を心を楽勝で持てる。表象とそれによるフィードバックを与えればいいだけ。
(情念も死も死の恐怖も感情も持たない現段階の与えられたことを分岐するだけのロボットを意識があると言っていいのか謎だが鈴木貴之は考えない)
どうだ参ったか。 メアリーは意識経験として新しい経験をする。本来的表象をする。従来の物理主義では色に関する物理学の知識と意識経験の表象の区別が曖昧だったが私の理論なら問題ない。
どうだ参ったか。ざまぁみろ。 山口尚 クオリアの哲学と知識論証
フランク・ジャクソン。
メアリーは白黒しか見えない環境で生活している。メアリーは白黒の書物と白黒のテレビを通じて世界について学び、人間の視覚の神経生理学の専門家となる。
ここで、メアリーが人間の色視覚について得られうるすべての物理的情報を有していると仮定する。
メアリーが白黒の部屋から解放された場合、彼女は何を学ぶか。
彼女は何かを学ぶだろう。彼女は全て物理的情報を有していた。
それゆえ、物理主義は偽であることになる。
メアリーはすべての物理的情報を知っていた。→部屋から出たときメアリーは新しいことを知った。→よってすべての情報が物理学的であるわけではなく、物理主義は偽である。
チャーチランドの反論。
二元論者は物理的事実とエクトプラズム、心霊的事実についてあらゆる情報を持っている。
しかし、メアリーはエクトプラズムでは得られない赤は何かをはじめて知ることになる。物理主義も二元論も共に批判できる知識論証は批判になっていない。
また、譜面を読めば頭で音楽を構成できるように本当に物理的に全知であれば予め何が何の色であるか見ないで完璧に理解し想定と実際の色体験に狂いのないようにできる。
ある物理性質をもったあるものはこの条件下でこういった光り色づきを発するだろうと完璧に把握できる。本当にほんまに完璧な物理的な色彩情報を持てるなら。
実際に弾かない聞かない頭の中で鳴らさないでも譜面で吐き気がするほどその曲を理解できる音楽家など腐るほどいる。
そういう人は実際に引いても何の感慨もないだろう。前と後で違いがない。
本当に全知であるならそういうことだ。
デイヴィッド・ルイスの反論。
メアリーは世界についてあらゆる物理情報を得ているにもかかわらず色を見ることはどのようなことかを知らない。
物理学でいくら説明しても自転車に乗れない人間は乗れない。物理学は自転車に乗れる能力を提供するものではないから。
だからと言って物理学が間違っているとか、自転車は物理の法則に従っていないとか、自転車に乗れないのは物理とは別な原理があるからと言う奴はいない。能力反論。
メアリーが色について物理学で知ることができなくても、物理学が間違ってるわけでも何でもない。 ルイスの能力反論へのコウニーによる批判。自転車に乗るような能力と「どのようなことかの知」同一視できない。
メアリーが想像も想起もできないとする。空を見ていない時は空の青がどういうことか知らない。しかし空を見ている間は、その時だけは空を見ることはどのようなことかを知っている。
どのようなことか知っていない物についても対応する想像能力を有することがありうる。
中間の赤を想像したことがなくともいつでもそれを想像して伴える。まだ知らないものを伴える。
どのようなことか知らない状態でも空の青や中間の赤を目の当たりにできその時は驚けるのだから、ルイスの批判は的はずれだ。 ジャクソンによるチャーチランドへの応答。
問題となっているのは他者の経験についての事実である。メアリーは自分のことなら色を見るとはどういうことか予測し対応することもできるだろうが、
他者がこういった色覚体験を自分が色を見る前からずっとしていた。このことへの驚きは消去不可能。
また、全知なら想像力で色がどんなものか伴っていたとしても、端的に色の体験を持たなかったのは事実である。
そしてはじめて色を見た時体験することは全知の中に含まれない。そういうものがあることを予め証明している。
ビゲロウ=バーゲッターの議論。
物理学的には得られない知識をメアリーが得たことは否定しえない。しかし、そのことと心を物理学的に説明しつくすプログラムは矛盾しない。
Aがアナコンダが9メートルに達するとの情報を書物から得ている。
Bは南米でアナコンダを実際に目にしてアナコンダがそのくらいの大きさになると体感している。
メアリーはAからBに移ったわけだが、アナコンダは9メートルの大きさになるという生物学の知識は変わらない。物理学もまた。 この後はこのタイプの論証が続く。メアリーが新しい知識を得たことは認めるが物理主義で知られる世界の全体の事実の中の取るに足らない一部でしかない型の。
一方擁護するもの。チャルマーズ。知識論証は正しい。ゾンビ論証とペアになった時最大の力を発揮する。
→ゾンビ世界が存在する。特に可能世界では確実に存在する。
→物理主義が真ならばゾンビ世界は存在しない。
→よって物理主義は偽である。
意識に関する哲学を3つに分ける。
タイプA メアリーは新しい知識を得ていない。還元的消去主義的物理主義。
タイプB 現象的知識は物理的知識から導けないから独立性を認識論的には認めるが存在論的には認めない立場。
タイプC 存在論的にも独立性を認める二元論。 >>794wwwww
本格的な心の哲学に関するマジな話、口をはさめないのはわかるが
頭に入らない、ついてけないレベルの話は無視してもらって結構。
こちらもそのレベルの奴に期待していない相手にしていないし。
気が向けばわかる奴はレスしてもらってもいいし、
別に関係ない話題、普通に雑談してもらっててもいいし、
全く別な話題を振ってもいいし、自由だろ。ここは2ちゃんだ。
中間の目標。
・ジャクソンは表象主義が正しければ知識論証は棄却されると言うが正しいか。
・知識論証へ適切に反論しているのはタイプA物理主義かタイプB物理主義か。あるいはどちらも間違っているか。
・物理主義者は現象概念を用いて知識論証を阻却できるか。
・ゾンビ論証と知識論証の関係はどのようなものか。
山口尚
チャルマーズはそういうが知識論証とゾンビ論証は同時に真でありえない。そして知識論証は受け入れ難い。
知識論証と随伴現象説の関係を論じ、ゾンビ論証の検討をする。 ジャクソンによれば知識論証は随伴現象説を帰結する。しかし、そもそも随伴現象説は理論として破綻していない?
→随伴現象の深刻な困難。
・随伴現象説は定義的に心は因果的な効果を持たない。進化は生存に役に立つ物を残したはずだ。
役に立たないクオリアは何であるのか?何で残った?
ジャクソンによる反論。
ホッキョクグマは厚い毛皮を有する。毛皮の厚さは生存に役に立つが毛皮の重さは役に立たない。
しかし、重さ抜きに厚さは成立しない。進化に役立つものにも副産物は必ずある。クオリアもそうだ。
・他者の心はひとびとの行動から推測する。クオリアは因果的な効果がないから、心を理解するのに役立たない。
他者のクオリアを推測させないクオリアは本当にあるのか?
自分にも他人にも極私的なのがクオリアだが、そんなものがあると示せていない。なら物理一元でいいだろ。
ジャクソンによる反論。
読売新聞に巨人が勝ったと書いてある。毎日新聞にも書いてあると推測できる。
2つの新聞は因果的な連鎖を持たない。クオリアだってクオリアを推測するのに役に立つ。
山口尚による反論。
随伴現象説による因果的効果を持たないクオリアがあってもおかしくないことはジャクソンは示しているが、
クオリアがないとおかしいことは示せていない。
随伴現象説が可能かもしれないとは示せても随伴現象説が正しいとはジャクソンは全く言えていない。
そしてメアリーから知識論証を組み立てる際には、随伴現象説が偽であることが実は前提にされてる。
AはBへ因果的に作用しない。⇒AはBへ変化を与えない。
対偶
AはBへ変化を与える⇒AはBにとって随伴現象ではない。
知識論証はクオリアが知られうるものであることを前提にする。→クオリアが心的状態へ因果的に作用する。
メアリーは知識論証によると解放後に一定の知識を得た。もしクオリアがなくても知識が得られるなら知識論証は自己否定される。
⇒クオリアがあってそこから知識をメアリーは得た。
→クオリアは心に因果作用を及ぼす。
知識論証からは随伴現象説は否定される。
→ジャクソン馬鹿じゃね? デイヴィッド・ルイスは元々様相実在論可能世界の育ての親。ゾンビ論証は飼い犬に手を噛まれた。
唯物論、物理主義は唯物論であるなら次の主張をする。物理的に同一なら心理的にも同一だ。
物理的に同一なのに、別なもの認めたら物以外の世界を変える決定的要素認めたことになる。
それはもう唯物論ではない。
チャルマーズは物理的に同一であってもクオリアを持たないゾンビを考える。物理主義者はゾンビ論証は否定しないといけない。
物理主義者は可能世界のどこかにゾンビ世界や二元論世界や唯心論世界があることは認める。ルイスの様相実在論なら必然的にそうなる。
ただ控え目にこう主張するだけだ。この世界と近似した世界は唯物論世界だと。物理状態が同じなら心理状態は同じだと。
物理的に同一なのにクオリアを持たないゾンビなんか認めないと。チャルマーズもこの世界が物理状態が同一でも心理的状態が違いうることを証明しないといけない。
このことが正しいか正しくないか、証明できるかできないかの前に。これは心が物とは独立に因果性持たないという話だ。
随伴現象説だ。チャルマーズはゾンビ論証と知識論証は抱き合わせで考えたが、知識論証は随伴現象説を否定する。
クオリアが物に因果性与えたらそれはゾンビ論証ではない。チャルマーズも馬鹿じゃね? クオリアが物に因果性与えたらそれはゾンビ論証ではない。チャルマーズも馬鹿じゃね?
チャルマーズはメアリーの知識論証が物理的に決定されない側面が世界に存在することを示す。これは正しいかもしれない。
他方でチャルマーズは物理的側面によって決定されない側面がゾンビ論証で活用されると考えたが、ゾンビ論証で扱えるのは随伴現象である。
そしてメアリーの事例は随伴現象ではない。間違っている。
山口尚のとりあえずの結論。
・相互作用二元論は間違い。だからメアリーは間違い。心が因果的な影響与えるなら既存の物理学、科学は破綻する。
物理で法則与えてるのに、心でまた別な因果、法則与えるならそれはもう科学ではない。
だからメアリーの知識論証は間違い。これからの章で間違いの原因となぜ直感では抗いがたいか分析する。
・ゾンビ論証はどこにおかしさがあるか。ゾンビ論証は元から意識を因果性の外に置くことを前提とする。意識やクオリアは物や因果とは関わらないから関わらない。
そういう論点先取で因果を持たないクオリアは物から自由だからクオリアは物と離れて自由で物理状態同じでも心的状態は自由で、哲学的ゾンビもありうると言ってるだけ。
心脳同一説など意識は物と同一か意識観、クオリア観も成立するのに、それを考えないゾンビ論証は稚拙だ。
私たちは物理的、機能的、因果的に説明されない意識を認めない。私たちはつねにゾンビだ。
物理的、機能的、因果的な枠組み外れたものしか認めない、幽霊しか認めないネジ曲がったクオリア論者こそありもしないゾンビを捏造する馬鹿なのだ。
物理主義者は意識は物理的、機能的に説明つくと考える。ゾンビ論者は物理的、機能的な物の外に非科学的非現実的、間違いを夢見てるだけだ。 こっからの本当の敵はメアリーでもゾンビでもなく。
敵と戦うといいつつ、あまっちょろく妥協をはかりながらええかっこしいをする、
タイプB物理主義を如何に包囲殲滅するかの話となる。
味方だと見せかけてくるからタチが悪く害毒もはかりしれないから。
タイプB物理主義は根絶してしまわなければならない。
血も涙もない、タイプA物理主義によるクオリア消去を貫徹しなければならない。 ルイスの提唱する複雑な概念構成を採用すると主観的事実の存在を認めることなしに、知識論証から物理主義を守りうる。
ふたりの神がひとつの可能世界に住んでいる。最も高い山からマナを投げ落とす神と最も寒い山から雷電を投げ落とす神である。彼らはその世界で真である全ての命題を知っている。
彼らは、知識が命題的知識に限られるかぎり、全知である。この神は命題的知識以外の知識を有さないと仮定する。
神は知らない知識があるか?答えは存在する。
命題的知識をいくら完璧に知っていてもそれが自分を指すか否かはわからない。
神は自分が高い山にいるか寒い山にいるか、マナを投げおとしているか、雷電を投げおとしているかを知ることはできないのだ。
全ての命題は性質と対応するが命題と対応しない性質は存在するからである。
彼らは命題的知識を全て知っているのであらゆる可能世界のうちで自分の世界がどれであるかを正確に知ることができる。
しかし、命題的知識以外は知らない彼らはその世界の中のあらゆる個物から自分の候補を一つに絞りきれない。
前もって、次のことはわかる。神がいること。高い山の上からマナを投げる神と寒い山の上から雷電を投げる神がいることはわかる。
でもその中のどれであるかは世界に関する命題を全て知っていてもわからない。知ることはできない。
神は世界のレベルでは全知だが個物のレベルでは無知をさらす。
命題に関する態度を言表的態度。性質に関する態度を自己的態度と呼ぶ。
命題説は自分の世界の候補を絞りこむことができる。性質説は自分自身の候補を絞りこむことができる。前者より後者の方が決めが細かい。
自己的態度は言表的態度を包摂するが逆は成立しない。
科学は世界がどのようなものかの知識を説明し客観的事実のみを解明する。言表的態度を解明する。
科学は自己的知識を供給することは目的としない。自己的態度は解明しない。
個々の主体に相対的で主観的であり、客観的な科学が取り扱う必要はない。そして、それは科学の欠点ではない。
※山口とルイスの間違いで欠点ではあるがここでは先に進む。 改めて確認する。
認識論的ギャップも存在論的ギャップも認めない。メアリーは新しい知識を得ない。得たのは客観的科学的知識ではない。主観的知識を得ただけ。これがタイプA。
認識論的ギャップは存在する。しかし、赤を見るとはどのような知識か。それが物理的な知識からはみ出すことは認めない。タイプB。
タイプBの方が自然だと言われるが存在論的ギャップと認識論的ギャップの両立を行わなければならない。
タイプBで考えられるものに現象概念による説明がある。現象概念とは何か。現象概念は物理的概念が指示するものと同じ性質を異なる仕方で指示する。直接指示。
赤は赤と指示する。物理概念なら波長7百ナノメートルの電磁波の刺激を得たさいに感じられる色。
現象概念は認識論的ギャップを説明する。物理的指示と直接指示は違う。しかし同じ物を指示している。存在論的ギャップは存在しない。物理主義は守られる。
かに見える。
でももしそうなら物理的な知識を完全に得ているメアリー。そして現象概念は物理概念を得るのと同等に得られる。
現象概念で知識を得られるなら物理的な説明でも得られる。部屋をでる前からはじめからメアリーは知っていることになる。
説明になっていない。理論的にはじめからおかしい。馬鹿みたい。
タイプB物理主義はそもそも同じ問題を抱えるのだ。
認識論的ギャップはあるが存在論的ギャップはない。その前提でメアリーは部屋を出て新しい知識を得た。
しかし、物理的・機能的に説明できるなら予めメアリーは知ることができる。
物理的・機能的に説明できないなら物理主義には説明できない。存在論的にギャップがあるということだ。良く考えたらこのどちらかしかない。
存在論的ギャップがないなら部屋を出る前からメアリーは知っていたか、認識論的ギャップがあるなら存在論的ギャップもあるか。そのどちらかしかありえない。
タイプBは間違っている。正しいのはタイプAである。 デネット曰く。メアリーが物理的に全知なら。例えば部屋を出たばかりのメアリーにバナナを指してバナナは青だとからかうために嘘を教えたとして、
メアリーはバナナの分子構成から表面はある反射をするがそれは黄色と呼ばれるものであることを予め部屋を出る前から知っている。騙されることはありえない。
物理的に全知ということはそういうことだ。
デネットへの反論。
青色バナナシナリオは物理的機能的に色を同定識別できるということだがメアリーが色を感じていることはそれとは全く別な話だ。
メアリーは他人がバナナには黄色と言うことは知っていた。でもメアリーはバナナが黄色が自分にはこのように見えること感じられることははじめて知った。
白黒や触覚、食べることとは違う黄色い感覚をバナナの黄色さの感じをはじめて知った。
メアリーが知るのはこのような現象的知識であり、それは物理的機能的知識ではない。
デネットは三人称的知識と一人称的知識を区別せず、三人称が全てとするが世界には三人称客観に還元されない一人称的知識、真実がある。
山口尚。デネットの方が正しい。
物理的機能的に同定識別する以外の知識とは殆ど意味不明で役には立たない。
マリアンナの事例。
マリアンナは白黒の部屋で生き全ての物理的知識を得ている。
ある時別な部屋に連れていかれる。そこでは全てが人工的に色がつけられていて自然ではない色を現象的知識としてはじめに得る。
その部屋では空は赤く着色される。マリアンナに聞く。空の色は何色か。
・マリアンナは非現象的知識として青が空の色であることを知っている。
・マリアンナは現象的知識として赤が空の色であることを知っている。
→物理的機能的知識に現象的知識は還元されない。
マリアンナへの反論。
マリアンナが物理的に全知なら部屋の中の着色が嘘であり自然と違うことを見抜いている。却下。 注意点。
山口尚がメアリーが新しい知識を得ないという時は客観的な知識を得ないという意味ね。
現象的、主観的、個別的な体験をするのは否定しないがそれは体験であって、知識ではない。客観的な知識ではない。
物理的機能的客観的な知識以外には知識と認めるのは無用の混乱を招くだけだった。
客観的知識と主観的知識があるかに語るから論理的に破綻する。混同しないようにしなければならない。
今までの中途半端なタイプB物理主義はそうだった。タイプA物理主義はその過ちを犯さない。
それさえ注意すればOK。 客観的で他人と共有できる「知識」以外に、他人と共有できない個人的な物も「知識」とするから、
物理的に説明できるならはじめからメアリーは知っていた。なのにメアリーは新しい知識を得たとする。矛盾だ。
物理的に説明理解できないならそもそも物理主義では説明できない。物理主義は間違いだ。このジレンマは避けられない。
メアリーの話を主観的知識を認める論法で語るのは間違いなのであって。
タイプA物理主義で行くしかはじめからない。
でもここまで論じてきて、山口尚も間違ってる馬鹿だと言うこともはっきりしてる。
マリアンナの事例。
空の青って何だ?空って何だ?グルーのパラドックスでも考えてみればわかるが物理的知識をもっていて建物の外の空が晴れた日は人間の目には青く反射して見えると言う知識あっても、
赤く塗られた部屋の中の空もまた空というと思うかもしれない。また、空とはそっちのこと指すと思うかもしれない。
また、いくらでも別の想定ができる。
地面より上の空間と分けられた物を空と思うかもしれない。高村智恵子の空を空と思うかもしれない。未来の地球の空の色や太陽系生成期の空を本当の空はこれだとするかもしれない。
マリアンナが何を空とするか空の色とするかは決まっていない。そしてそれが正しいか間違っているか。こちらの側にも根拠はない。
何を空とするかは物理的局在的には決められない。物理主義には還元できない。還元できないものがある。
無論クオリア論法の極私的守秘的な局在論も論外で、むしろ意味は逆に社会的にしか決まらない。非局所的にしか決まらない。役に立つとかそういう風にしか決まらない。
いずれにしても局所的な物理主義では答えられない還元されない決められない真理があるわけで。空の光りの反射のスペクトルをいくら分析しても空が何色か予め定まってなどいない。
物理主義一本槍は破綻している。
別に物理主義が間違っているというわけではなく、物理主義で全てを予め決められる、決まっている、知ることができるという考え方が正しくないと言うだけだからね。
ムキにならないように。
そしてこの手の過ちは鈴木貴之も当然免れていない。 続き
ルイス
科学的知識からどのようなことかの知は導出できない。
メアリーは物理的知識で予め何でも知っているが主観的な色とはどのようなことかの知は部屋を出て体験する。
物理的な情報以外に現象的情報が存在するか?現象的情報仮説が正しければ物理状態と独立した現象的情報が存在し、
物理的複製でありながら心的状態の違う世界になり唯物論は否定される。
現象的情報仮説ではなく能力仮説を使えば物理主義を放棄することなくどのようなことかの知にまつわる問題を解決できる。
ジャクソンは知識論証批判に転向した。
表象主義が正しければ知覚経験の本性が物理学的に説明される。
レヴァインは不可知論者である。
痛みはC3繊維の発火だと言われても納得できる奴実感できる奴はいない。だから物理主義は永遠にギャップを埋められない。
山口曰くそれは仕方ない。でも物理主義の正しさは実感とは違っても多様な仕方で証明しうる。その証明が満足できる精度が認められるなら、
実感とは違っていても物理主義の正しさを認めるべきだ。
以上終わりです。 戸田山 恐怖の哲学
何故恐怖なのか。
著者の立場は自然主義、全てを物理的生理的自然的に還元する立場。単なる本能からの線的な選好からは、わざわざ怖いはずの恐怖を体験してあまつさえ楽しもうとするのか、
アポリアがある。
生理的にいやな事を避けて進化して来てるならわざわざいやなことを求めるホラーは原則に外れる。著者はそこに答えを出そうとする。
物理主義と言うが生理学が中心になる。
一部では恐怖の哲学的定義。恐怖をはじめとする情動、それは生理的反応としての末梢に従属するものなのか。いやそうではなく頭の中で発生する中枢か。など恐怖という情動が解き明かされる。
二部ではただの二次元の映像のホラー、現実には存在しない物を何故怖がるか。そして怖がりながら何故求めるかが問われる。
例えばごっこ遊び説。それが現実ではないことがわかっているから楽しいのだ説は、それなら現実ではない恐怖は何故楽しいのか。問題を先送りしてるだけだと中々面白い。
三部では心の哲学の物理主義、還元主義的自然主義に取って最大の敵となる、哲学的ゾンビの謎が問われる。
本書は名著であるがであるがこそ、生理的還元に基づく自然主義の限界、誤謬も余すところなく示してしまっている。
生理的還元。生理的選好への還元は線的にはできないことを認めつつ、ホーリズム的に全体としては生理的還元できるということを示すのが著者の戦略だがそれに失敗している。
オシツオサレツ。生理的にある反応が起きれば次の反応が起きるそういう生理的直線的還元からは恐怖は生まれない。
表象が生理的還元からは出てこないところから人間と動物の違いを強調しているが、
それはちょっと人間中心視しすぎる。 ある程度の動物はかなり高レベルの表象や論理操作を行っているのは明らかだし道具も言葉も使うしコミュニケーションも取っている。本能とは分離した社会性や倫理を持つのは自明だ。
象の集団は乾期に水に困ってもとあった水のみ場にたどり着いた。枯れていたが、若い象が長い鼻で掘り出したら水が出てきた。若い象がそのまま水を飲もうとしたらリーダーの老象がどやしつけた。
赤ちゃん象に飲ませんかい。
これはかなり社会的な行動で将来性のあるが今は弱い赤ちゃん象から先に助けるという社会的判断と、
DNAの反応でそれをやぶった若象もどやしつけられるとこりゃあかんと思いだし内面化するというかなり、いやむちゃくちゃ社会的な判断である。
老象若象DNAでは食い違った判断しているが社会的対話でそれを制御している。DNAには還元できない。
バロメーターの単なる取捨選択と言ったレベルの話ではもうない。DNAの求める線形な機械ではない。
人間のような抽象的な言語記号操作はできないというだけで、動物の多くは、数珠繋ぎの生理的還元で終わるものではない。
吊り橋効果。
吊り橋のような生理的な不安定でどきどき状態から直接的帰決として愛情が生まれる。
ちょっと短絡しすぎる。不安定な情況で余計な敵を作りたくない。そんな情況で自分を追い詰めてこない相手はそれだけで仲間であり、愛情が芽生えるなど社会性を見るべきだ。局所的生理的なだけの解釈は疑問だ。 二部ではホラーは恐怖自体が不快ではないことが強調されるが、不快であってもそれ以上の喜びを得られる時など踏み込んだ評価ができるのにそれが抜け落ちている。
局所的生理的物理的な物を利用しつつも、その局所にはとどまらない評価、対応があり、それが快感につながる。
局所的生理的な物は引き金に過ぎず、その全体の枠の中ではホラーがない時よりもあった時の方が楽しい。面白いから楽しいのだ。
局所的恐怖生理的恐怖それ自体はそれほど想像されるほど苦しくない。それは事実だがだからと言って楽しいまでいくのは明らかに行きすぎ。楽しいのは生理的恐怖ではなく、恐怖にも関わらずそれを操作しコントロールしている優越感があるからでそういうもののない、
三次元の現実の恐怖が襲ってきた場合はそれどころではなく楽しんでいる余裕などないのが現実だ。
現実の恐怖は基本的に苦痛だがそれを乗り越える展望や価値を見いだすことで恐怖は楽しいものに変わるのであり、戸田山説はごっこ遊びと変わらない。五十歩百歩。
単純なオシツオサレツに還元されないものもホーリズム的には還元できるという説明もその生理的な物を超えたより大きい文脈の中で捉えなければならないものが多すぎて還元しきれないことが露呈しているのだ。象の話。吊り橋の話。 局所生理的な嫌悪感は例えるならダイナマイトの発火装置に過ぎない。
導線の先に繋がっている火薬が湿気っている場合、メコスジを
立ててレバーをプッシュしたところ何も起きないのである。 進化や自然選択で情動を説明しようとしても、そこには還元しきれない部分が出てきてしまう、何故若象は身を引いたかには答えは出せないから戸田山の立場は単純に間違い。
第三部については今まで論じてきたゾンビ映画ではなく、哲学的ゾンビを論じていて、自然主義物理主義哲学では最大の敵だから論じたくなるのはわかるが、そこらへんのクオリアについては山口尚や鈴木尚之の方が詳しいし、
自分でも鈴木尚之をなぞっているだけだと認めているからここでは取り上げないでいいでしょ。
彼らの所説も根本的に間違っているわけだし。
恐怖の哲学についてはこれで終わり。 >>814
それだけだと何に対してどういう視点から出来が悪いと評価してるか、
わからないから判定しようがないな。
心の哲学を現実の事象に当てはめて一通り完徹した応用哲学物としては、
それなりだと評価できると思うけど。
とにかく屁理屈でも一つのジャンルを心の哲学で分析して見せた、
できる、ということが後に続く初学者には参考になる。
どういう物を想定してるか求めてるかわからないから何とも言えないが。 戸田山和久の本は大抵出来が悪い。
「哲学入門」もグダグダで駄目だったし。
科学哲学はどうも分析哲学系の中でも落ちるね。 マクダウェルとブランダムは反自然主義なのにまだ自然主義者とは…。 ぐだぐだなのは戸田山の持ち味だろ。ぐだぐだだけど拾うべきものは拾ってるから、悪くいう気にはなれないな。
行きつ戻りつで主張が頭に入らないと言うのなら確かに出来が悪いと言うしかないが言いたいことは自然主義還元主義で、
はじめからわかってる話だが。
読みにくいわけがない。読みにくかったら読む方が頭が悪いとしか。
ただ臆病だから補助線入れまくりで行きつ戻りつしながら自己正当化しながら主張する狡猾さ、性格の悪さが嫌なら仕方ないし。
それは戸田山の本質だから。 自然主義自体が間違っているわけで。
間違っていること自体で出来が悪いというわけにはいかない。
戸田山にしろ山口にしろ鈴木にしろただ主流派の口真似をオウムのように繰り返してるだけで、
そこには彼らのオリジナルはないわけだから。
それなら心の哲学、分析哲学の主流派は全て間違っているわけで。
哲学の価値は間違っているか間違っていないかにはなく、
その議論が如何に広範囲に論争をもたらし哲学に新たな知見をつけ加えたかにあるわけで。
自然主義自体は初歩の論理的誤謬で。
であるからはべきは導けない。
自然の中どこを探しても自然法則は出て来ない。べきだもねばならないも自然の中にはない。
太陽が東から登り続けてても明日も太陽は東から昇ってくれるかもしれない、期待してもいいかもしれないが、
東から昇らねばならない。そんなこと自然からは全く出て来ないわけで。
自然には法則などはないしそうでなくちゃいけないし、人間が都合や欲望や願望を押し付けているだけだしそれが正しいし、そうでなくちゃいけない。
自然は人間の都合など知ったこっちゃないし知っちゃいけないし、人間は自然に都合を押し付けるのは当たり前だし。 法則、倫理、べきだ、ねばならない。全ては自然の側にはなく、人間の側からな押し付けにすぎなくて、またそうでないとおかしいので。
自然自体から自然認識ができる、法則が涌き出てくるとか、フェティシズム、呪術崇拝、物神崇拝、偶像崇拝、誤謬推理にすぎないわけで。
人間が押し付けてる物をあたかも自然がもともと持ってるかに勘違いする出来の悪いオカルト以外の何物でもないわけで。
悪い宗教なわけで。
ヒュームもカントもクワインもデイヴィッドソンも間違ってる、
頭おかしいわけで。
だからと言って彼らくらいの哲学の巨人はいないわけで。
クワインの自然化された認識論。デイヴィッドソンの非法則的一元論。聞かされた瞬間に悪い冗談と小学生にもわかるが、
彼らを哲学の小人と思うやつはいないわけで。
彼らの間違ってようが何だろうがまちきらしたエネルギー、引き摺ったものの大きさ、馬鹿故の糞力は羨望の念を覚えないといけないわけで。耕したものは凄いわけで。
人間がわざと間違ってるのに、習慣による錯覚とか言うヒュームも、わざと間違いを押し付けてるのだから自然の方が一致するも糞もない頭おかしいカントも、
その功績を評価しないものなんかいないわけで。
戸田山らは間違いかたが圧倒的に足りない、チンケなのが圧倒的に駄目なわけで。 >>819
小学生にもわかる自然主義の誤謬も正せずにゴダゴダグネグネウダウダやってるブランダムにしろ、マクダウェルにしろ、人のことは言えないわけで。
頭が悪いわけで。クワインとかデイヴィッドソンに負けず劣らず。
褒められたものではない。
五十歩百歩。 しかし、皆人の悪口言いたいだけなのな。
少しは売れている露出している戸田山の話だと食いついてきて。
全く中身の同じ話を誰も知らない山口尚や鈴木貴之についてやっても敵意を掻き立てるだけだったのに。
ちょっとは売れている戸田山の話だとのってくる。食いついてくる。
売れている奴の悪口が言いたいだけw
正直で宜しいw先生嬉しくなっちゃうw
皮肉じゃなくそういうもの何だな。 繰り返しになるけど、自然の中には、個々の経験は、個々の経験の中には、いくら繰り返しても次ぎもそうなるとは断言できない。
自然法則とかべきだは自然の全体がこうなっているんじゃないか、こうなっているべきだと規範化した人間の都合の投影図以外にありえない。
自然の中には法則はないが自然に投影する形で人間が法則を作る。
自然主義とか物理主義、自然から法則がたち現れるは倒錯した宗教、妄想、呪物崇拝でしかありえないわけで。
であるからはべきは導けないでべきは人間がこうなるべきだと作るものでしかない。どこまで行っても。 >>814
情動の哲学入門と、趣味のホラー映画案内をうまく組み合わせた点では、
よくできていると思うよ。「哲学入門」と題した本よりよっぽど入門書らしい。 マイケルは議論が雑だな。
「間違い」をキーワードにしてそれで哲学の意義を語るというのも、あまりに文学的表現に過ぎる。
マイケルは批判ばかりしているけれども結果的なにがどう重要なのかの哲学的パースペクティブがない。
それに戸田山は心の哲学ではなくてあの古色蒼然とした科学哲学だからね。
あと君は無駄に文章が長すぎるwなんで1レスで書けないのかね? ・批判とか最後の部分で、殆どは議論の紹介。
そっちが面白いから書いてるだけ。
・恐怖の哲学は心の哲学に関する本だ。
・お前は馬鹿なんだな。 ん?マイケルとハードプロブレムやメアリーやゾンビを別人だと思ってる?
それにしたって、恐怖の哲学は心の哲学の本なのに、
戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんだな。 ★戸田山和久は科学哲学会の会長
専門は科学哲学
これは常識だし当人のプロフィールもそう
マイケルはキチガイだろw?
心象で文章書いても意味ないんだよねw 戸田山が科学哲学者だということと、
恐怖の哲学が心の哲学の本だと言うことは全く別な話だろ。
心身問題だ、哲学的ゾンビだ、心の哲学を論じる為に書いてるだろ。
また、心の哲学の問題を物理主義の立場から解決しようとしてる、
そう読まれるように期待して書いた本だろ。
恐怖の哲学は明らかに心の哲学の入門書の一つなのに、
文句つける馬鹿なんなんだよwwwwww
ここまでイケヌマとは。 >>832
マイケルは>>829で
「>戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんだな。」
と書いてるよな?
それは「事実」と違うといっているわけよ
自分で書いたことに責任持てよキチガイ野郎
オマエはクズ中のクズだわw >>833
(心の哲学を論じている本なのに著者の専門を取り上げて議論を打ち切ることに意味を感じられない)科学哲学者だは、
とんちんかんだな。(心の哲学の本なのだから、心の哲学の問題意識で回答しよう)
分かりますか? ねぇねぇ、心の哲学のことが書かれている本なのに、
そいつは科学哲学者だって、議論がおかしいとは思わない。
死ねば? >>834
俺は本の内容について>>827で指摘したわけじゃない
「>それに戸田山は心の哲学ではなくてあの古色蒼然とした科学哲学だからね。」
前半はマイケルの文章自体への苦情
そして後半はここに引用したとおり
俺は戸田山の専攻分野について話している
そしてマイケルも戸田山の専攻分野について書いている
「>戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんだな。」
これは間違いだろと俺は指摘した
そうしたら本の内容について話しを転換して誤魔化しだした
こういうのは本当にズルいよねw >>836
ふざけんな池沼クズ野郎w
てめえで書いたレスに責任くらい持てよ
誤魔化しているのはてめえだろ?
戸田山の専攻が科学哲学ではないエビデンスを出せよ! だからさ、心の哲学の本を心の哲学として論じているのに、
そいつは科学哲学者だと言うことに何の意味があるの?
心の哲学の題材を心の哲学の問題意識で論じているのに、
とんちんかんな話しても仕方ないだろ。
戸田山が科学哲学者だろうがここでは戸田山自身が心の哲学者として、
論じているし、論じてもらいたがってるわけで。
心の哲学の問題として語るしかないだろ。
で、心の哲学者としての戸田山について、私なりに解説したんだが、
それに対してなんかないの?
まともな議論しようよ。
いつまでこの馬鹿議論しないといけないの? >>840
「>いつまでこの馬鹿議論しないといけないの?」
いつまでもクソもないだろう
俺が書いた通りのことであってオマエは自分の間違いを認めたくないから発狂しているだけw
オマエは本当に頭オカシイよなww??
死ねばいいんじゃね 戸田山についてだけ、延々延々と。
メアリーの部屋と言うみんなが好きそうな題材について、
吐きそうなくらいいろんな議論網羅して論じ倒した山口尚や、
同じくハードプロブレムを解決すると真っ向からぶち当たった、
鈴木貴之について、少しは触れてやってくれよ。
お前らだってこういうの嫌いじゃないだろ。
余りにも無視されて余りにも不憫で。 >>842
あのさあ別に俺はマイケルが憎いわけじゃないんだよ
ただ無茶な反論はやめろということさ
こんなスレで勝ったもクソもないだろうしな
是々非々だよ
俺だって間違ってれば認めるし
なんか異常にムキになって攻撃レスをする輩が大杉だろ
これじゃ普通にアンカすら打てない
この話題はもうこれでやめる だからさ、戸田山が科学哲学者じゃないと思う奴なんかおらんだろ。
恐怖の哲学が心の哲学の本と思わない奴もいない。
心の哲学の話しているのに、いつまで関係ない話しなくちゃいけないの?
情動の哲学、心身問題、哲学的ゾンビ。
こういう話しているのに、繰り返すがいつまで馬鹿話しなくちゃいけないの?
恐怖の哲学という心の哲学の本について内容紹介します。
恐怖とか情動について物理主義の立場から解説しています。
著者の進化論還元主義には問題があると思います。
戸田山は科学哲学者です。
そうですね。
物理主義にはアポリアがあります。
あと、心の哲学の本だから著者の専門が科学哲学なのは関係ありませんね。
なんかこれで拗れることがあるのか?
問題になることがあるのか?
いつまで馬鹿話しなくちゃいけないの? >>844
俺はもう自分で引き際をしっかり引いたから
もうこの話題にはのらない
以上です 戸田山が科学哲学者だ。そうですね。
でも紹介している恐怖の哲学は心の哲学の本です。
これ以外に紹介の仕方が悪いとか、内容が間違っているとか、
物理主義は正しいとか全ては進化論の選択の結果だとか、
なんか中身のある話はないの?
何でつっかかってくるの?
戸田山は科学哲学者だ。
そうですね。
恐怖の哲学は心の哲学の本だ。
これだけでつっかかることなんかないだろ。
中身はないだろ。 (心の哲学の本について、心の哲学として論じてるのに)、戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんな議論だな。
死ねばいいのに。 (心の哲学の本について、心の哲学として論じてるのに)、戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんな議論だな。
死ねばいいのに。 (心の哲学の本について、心の哲学として論じてるのに)、戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんな議論だな。
死ねばいいのに。 マイケルってこんなに気違いだったのか(笑)
まあ鬱憤ばらしも程々にな
みんなの迷惑だよん♪ (心の哲学の本について、心の哲学として論じてるのに)、戸田山は科学哲学者だは、とんちんかんな議論だな。
死ねばいいのに。 戸田山解釈が気に食わないとか、心の哲学解釈が気に食わないとか。
そんなら突っかかるのもわかるけど。
戸田山に批判的なんだろ?
戸田山の本自体、殆どが心の哲学のいろんな議論の紹介書で、
このスレはただそれを紹介してるだけだぞ。
戸田山は科学哲学者だ。
恐怖の哲学は心の哲学の本だ。
何でこれで喧嘩になるんだよ。意味わからん。 超粘着質だなあコイツ
連投荒らしをするようじゃあどうにもならんぜよ 戸田山ごときに心の哲学を代表させて、
心の哲学を低く評価して貰っちゃ困るなら、
そもそもそんな奴はいないし。
戸田山説を批判しているんであって、心の哲学批判なんかしてない。 ほんとにただ戸田山が科学哲学者だって認めろって怒ってたのか。
戸田山が科学哲学者じゃないと書いたこともないし、
思ったこともないんだけどな。
また、戸田山が科学哲学者なことと、恐怖の哲学についてのこのスレの、
紹介や議論になんの関係があるんだ。
全くわけがわからない。
戸田山にしろ山口にしろ鈴木にしろ中身を論じてやれよ。 本の中身を紹介してるだけで、文句があるなら著者に言えとしか。
噛みついてくんのは、自分にはわかんない議論してるから、
目障りってだけだろ。
わからないなら、無視すりゃいいのに。
くんなよ。 哲学者の専門が何かとか全く議論の中身に関係ないのに荒らすとか。
意味わからん。
書いてることに文句があるなら著者に言えばいいし、
それ以外のことなんか目をつける理由になんか全くならない。
言いがかりつけて全く何の意味もない。
議論の中身が気にくわないとか繰り返すが著者に言え。
そういう議論が実際になされてるんだ、文句は心の哲学の業界に言え。
ただの要約だ。このスレで書いてることは。 >>821 :マイケル:2016/05/21(土) 23:28:28.84 O
>自然主義自体が間違っているわけで。
仰るとおりだと思います。
それなのに・・・
>哲学の価値は間違っているか間違っていないかにはなく、
>その議論が如何に広範囲に論争をもたらし哲学に新たな知見をつけ加えたかにあるわけで。
こういう論理はドッから出てくるの?
時々こんな感じの内容を哲学者が言ってるのを垣間見たこと有りますが、素朴に可笑しいでしょ。
自然科学では全く当てはまらない、是が通ればオボカタ論文も価値がある事になっちゃう。
趣旨に於いて間違った論文は何の知見も加えないでしょ。
そんなことだから自然科学者から哲学は数百年前の問題意識を同じ土俵で考えているお粗末さだと言われちゃうのだ。 1:なぜ私は私なのか
2:なぜ意識は連続するのか
心の哲学が真面目に扱うべき問題は
この2つくらいに絞ることができるんじゃないの?
まぁたぶん答えには辿り着けないけど
あとは基本的に唯物論を全面的に受け入れるべきでしょう
全宇宙の時空間は物理法則に従ってたった1つのシナリオを淡々と消化している
随伴現象であるクオリアは物質世界関数のパラメータにはなり得ない
だから天体の動きは予測でき、ロケットは狙った通りにちゃんと飛ぶ、原発も暴走しない
この問題を無駄に難しくしようとしているのは、
答えに一番迫っているのが物理学であることを知っていて
それを専門にしていない自分には無理である自覚がある人だと思うよ
だから宗教家の屁理屈みたいので逃げ切るしか手が残っていない 事実からはべきだや法則は出てこない
解釈にすぎない
自然主義を素朴に信じている866は頭がおかしいが
自然主義の間違いを認めながら科学に基づいて裁断する865は統合失調症か? 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 唯物論が無敵なのは
新たな原理が発見されても
それを含んでしまうからなんだよな 唯物論が正しいなら
ある脳状態の人がなんと発話するか予測できないといけない >>866
> 1:なぜ私は私なのか
> 2:なぜ意識は連続するのか
どちらも問いの意味がわからない。トートロジーの理由を尋ねる
問い1はもちろん、連続の理由を尋ねる問い2の意味もわからない。
「なぜ時間は連続するのか」を考えるのが先だろう。
> 随伴現象であるクオリアは物質世界関数のパラメータにはなり得ない
> だから天体の動きは予測でき、ロケットは狙った通りにちゃんと飛ぶ、原発も暴走しない
物理現象が物理で説明できるのは当たり前。心理現象を物理で説明してはじめて
唯物論がまともな論になる。 物理現象は物理では決して説明できないよ
自然はねばならないやべきは知ったこっちゃない
自然は自然がどうなろうが知ったこっちゃない
あくまで人間の見方、解釈を押しつけているだけだし、
人間の欲望願望を投影しているだけ
偏った見方を押しつけてそれでもうまくいったらそれでいい
それで正しい
物理主義とか自然主義とか根本から倒錯している 自然自体には何の法則も必然もなく人間の生きる必要から捏造するもの 宗教も科学も境目なんかない
人間の恣意的な押しつけでだからこそ役に立つ
真理たりうる >>866
>何故私は私なのか?
その私の身体という特定の身体こそが私を発生させているからである。
私とは、私の身体という特定の身体の把握(無意識下での調節・センシング)という
特定の現象を脳内で鏡像のように映したものだ。
ある特定の身体の把握は唯一無二の現象である。
この躰からはこの私しか発生し得ない。
この躰が在ったからこの私であったのである。
>何故意識は連続しているのか。
無意識下でも身体の把握(自己)は連続的に行われているからである。
それを意識に映している時(意識下)と映していない時(無意識下)がある。
意識に上る時には連続している自己を同時に意識の出処として意識するというだけのことであり、
別の自己の意識になってしまうということはない。 3年くらい前に
このスレのシリーズだったか哲学的ゾンビスレだったかで
目から鱗の連続の凄い論争があったんだよな、たまたま凄い奴が2人来た
コピペして保存しておけばよかった
あいつ等が偉かったのは、
定義が曖昧だったり意味が共有されていないような妙ちくりんな用語はいっさい使用せず
傍から見てる奴らにも1種類の解釈しかさせないような言葉を選んでやりあったことだった
アレができるのは自分の知識や理論に確固とした自信があって、
それを汚したくないというプライドがあるからなんだろう
荒らし認定されてもおかしくないスレの独占状態だったんだが
内容が素晴らし過ぎて野次馬からの賞賛の連続だった >>879
いや、コテハンじゃなかったよ
これと言って新しいことを言っている訳ではなかったんだけど、
2人とも観念的になりがちなものを言葉で説明するのととにかく上手だった
唯物論vs二元論みたいな、立場の違う者同士がお互いを否定し合うんじゃなくて、
微妙に解釈が違うところで延々とやり合っていた
やりとりがあまりに見事なんで、便乗して来る奴とかも全然出てこなくて
(実際どっちかの味方につこうとかいう意識を持たせないようなやりとりだった)、
溜息や喝采がちょろちょろ割り込む程度だった 主題は何だったの
・クオリア
・付随性
・現象判断のパラドックス
エトセ
まあ、微妙すぎるのもわかるからねぇ
仕方ないけと 時間が経ってしまったので内容は忘れてしまった
とにかくそのとき大いに感心したことだけよく覚えている
この手のテーマで長文でタイマン始める奴って
大抵複数の意味が取れるような言葉使いを織り交ぜて予防線貼ってくるけど
そういうのが一切ない潔いディベートが見られたという印象だけが強く残っている
夜中にやり合ってて、リアルタイムでは野次馬が「ほほう」みたいな感じで
翌日になってたくさんの人が褒めていた
内容は至極フツーで、その意味ではWikiで関連項目読むのと違いはないんだけど
即興で自分の言葉であれだけやれるのは凄い 野矢茂樹
心という難問
・世界が実在するか疑ってみることができる→意識のスクリーンに投影されただけでリアルな物はないのではないか
・更には他者も疑える→彼らはそれらしく振る舞っているだけで意識はないのではないか、ゾンビではないか
日常的な実感として意識などは通さずに実物と直に接している→それを素朴実在論と呼ぶ
・素朴実在論には強力な反論がある→遠くにあるものは小さく見える。別れた友人が遠ざかるにつれて小さくなる。だが何が小さくなったのか。
もちろん実物の友人ではない。
友人は同じ大きさのまま知覚イメージが小さくなる→目の前の知覚イメージや五十メートル先の知覚イメージどちらが実在とか実在に近いというわけではない
→実在とは別に知覚イメージが多様にありそれは実在だけでは説明できない 野矢茂樹
心という難問続き
素朴実在論を遠ざけると知覚イメージと実物、意識と実在の二元論がかんがえられるがそれは袋小路だ
実在のリンゴがある→それに刺激されて知覚イメージが生成される→知覚因果説
・二元論に従えば目の前のリンゴはリンゴの実物ではなく知覚像だ→では実在のリンゴはどこにあるか?
・知覚像のところにあるでは答えになっていない
テレビ画面や夢の中にリンゴがあるからとそのリンゴが実在がどこにあるかなど答えられない
・実在と知覚イメージ分離してしまったら知覚イメージの中で実在がどこに位置付けられるのか
原理的に答えられない
また、二元論は懐疑論にも答えられない
・知覚イメージが実在を反映しているとかいうが知覚イメージと実在を分離してしまったなら現実にあるのは知覚像、知覚イメージでしかない
それが幻覚だとか間違いを犯すことはあり得ない
・知覚イメージの中に実在を照合できないから実在と比較して間違いであるとかないとか二元論では原理的に言えない
残されるのは知覚一元論になる
以下は時間を置いて 知覚は確かに存在しているんだけど
物理状態に随伴しているだけで、物理世界へのフィードバックがないのだとしたら
どうやって知覚が発生していることについてアレコレ論じることができるのか
不思議な感じがするよね
フィードバックがなければ知覚保持者はゾンビと同じ振る舞いをするはずなんだけど
ゾンビが知覚を論じるようには、少なくとも直感的には思えない フィードバックがゼロという事はない。
ゾンビ的であってゼロに近いという事はあり、それは虚しい。
俺はそれに近い。 知覚の一元論
目の前にリンゴがある。これは知覚イメージだ。部屋もその外に広がる風景も知覚イメージだ。
知覚の一元論ならば外界の懐疑に悩まされない。
二元論のもとでは正しい知覚とは、実在と適切に対応する知覚のことでいわゆる対応説的な考え方だが、
私たちの体験できるのは知覚だけのはずでその知覚の中には実在は入ってこないから
知覚が実在と対応しているか原理的に検証できない
知覚一元論では知覚と比較されるのは知覚だけで一メートル先にいるのか百メートル先にいるのかは知覚内部で知覚どうしが互いに位置付けあうだけ
間違う時も縄と蛇を見間違う時、ある視点では周りとの関係で蛇に見えたが、
周りとのより整合性の取れる見方になったらそれが縄であることがわかったと
実在を照合する必要はない
知覚内部の整合性の進展で説明がつく 知覚の一元論
しかし、知覚の一元論にも問題はある
知覚の一元論は例えば実在はどこにあるのかと聞かれれば知覚のところにあると答えられる
実在のリンゴがどこにあるか見えているリンゴ、それが実在のリンゴそのまま
いま、そこにある
それで問題がないようにも見えるがでは知覚されていないものはどうなるか
見えているものは確かに存在するが見えていないものは存在しないのか
いま、知覚しているものは世界の本の一部であって
引き出しの中のものも見えているリンゴの裏側もこの世界もどこにあるのかということになると同じことの繰り返しになる
何より他者がわからない
他者はゾンビなのか
他者の痛みは存在するのか 他人の心という難問
オーストラリアではロブスターを生きたまま焼いたり茹でたりしては駄目
しかし、ロブスターは痛みを感じていると実証できるのか?
カエルの脚を切り取り電気刺激を与えるとカエルの脚は痙攣する
でもカエルの脚だけで生きている痛みを感じているとは言えないだろう
では生体としてのカエルやロブスターは痛みを感じていることは証明できているか
できてはいない
人間だって同じこと
物理実験である限り刺激と反応は説明できても痛みを感じているかそれは絶対に証明できない 知覚の眺望構造
ある視点から見た一人称的な世界と同じくらい重要な無視点の世界把握を持っている
立体を見るとき見えていない部分も含めて把握している
大仏を把握する時、見えていない、実際に一度も見たことない場合を含めてそれでも裏側も含めて立体として把握し表面や前面だけの書き割りとしては見ていない
痛みも眺望構造として捉えられる
他人の感覚も眺望構造で捉えられる
痛みを今感じていなくても大仏の見えていない背面のようにそれがあるものとして把握する
他人の感覚も同じことだ
立体の背後も含めて世界を把握するし自分の今知覚していないものも含めて世界はあるし自分の感覚も他者の感覚も間違いなくある 中学の理科の段階で、
・随意筋と不随意筋
・能動的な動作と反射
・脳と脊髄
みたいな対応を教わるけど、
高校の生物とか物理でもっと細かいことを学ぶと
「アレ?何かおかしくないか?」
となる
脊髄反射は自分の身体の中にいるゾンビと位置付けてもいいのかもしれない
あるいは彼にも人格があるのかもしれないが・・・ 唯物論者にとって、
宇宙で起こっている全ての現象に意味や優劣はない
ただ必然、価値も意味もイーブンである 人間による評価基準に基づいて「優れてはいない」とされる個人は
何を精神的な拠り所にして生きていけばいいのか? 全てはイーブンだと分かっていても、意識は邪魔をする
自分のこの行動に、何の意味があるのだろうか? 極一握りの「優れた」人たちでさえ、
等しくその存在価値は怪しいものであるはずなのだが、
必然の結果である自分の意識は、なかなかそう考えてくれない
なんとか価値をこじつけなければならない・・・ ヘーゲルの知覚の一元論、精神の自己展開以外に外界を必要としない
目の前にリンゴがある。これは知覚イメージだ。部屋もその外に広がる風景も知覚イメージだ。
知覚の一元論ならば外界の懐疑に悩まされない。
二元論のもとでは正しい知覚とは、実在と適切に対応する知覚のことでいわゆる対応説的な考え方だが、
私たちの体験できるのは知覚だけのはずでその知覚の中には実在は入ってこないから
知覚が実在と対応しているか原理的に検証できない
知覚一元論では知覚と比較されるのは知覚だけで一メートル先にいるのか百メートル先にいるのかは知覚内部で知覚どうしが互いに位置付けあうだけ
間違う時も縄と蛇を見間違う時、ある視点では周りとの関係で蛇に見えたが、
周りとのより整合性の取れる見方になったらそれが縄であることがわかったと
実在を照合する必要はない
知覚内部の整合性の進展で説明がつく 知覚の一元論
精神の自己展開
外界の懐疑
実在
こうした日常目にすることのない語彙を多用するから
哲学分野って「あいつら本当にお互いが言ってること分かってんのか?」
って思われるんだよな
実際ただの言葉遊びに興じてるだけのが少なからぬ割合で混ざっている
たぶんこうした言葉の多くは外国の文献に出てくる単語を
なんとか日本語や漢字に当てはめたものなのだろうけどね 戸田山が科学哲学者だからと言って心の哲学を扱った恐怖の哲学の話題に
いちゃもんつけてきたキチガイは死んだようで何より
純粋にキチガイだったからな
精神病院の闇に消えてくれたようだ 心身二元論が唯物論と両立しない立場をとる場合
二元論側は自由意志という考え方を採用していることになるのかな?
というのは、精神世界があったとしても、
それが物質世界に影響をしないのであれば唯物論と矛盾しないことになるけど
そうでない場合には、唯物論が想定する現象の因果関係を否定することになるから
自由意志というモノは
ある現象の因果関係に「必然」でも「偶然」でもない「第三の影響力」を想定してるんだけど
もしそんなモノが実在していたら、
おそらく実験はことごとく計算通りにはいかなくなり、まず自然科学が今の形で成り立つことはなく
物理法則を無視した予測不可能な現象の連続で、俺たちの実生活も成り立たなくなることから
言葉から直感的に想像されるモノが、実はほとんど説明不可能な概念であることに気がつく とにかく法則にがんじがらめであろう現実は
天体の運動に合わせて針の穴を通すような高速の宇宙船操作が可能なことや、
目の前のパソコンが寸分たがわず計算通りに動作することなんかからも
日々痛烈に実感している
そこに現在の量子論レベルの偶然がわずかに干渉してくる訳だが
神々の気まぐれみたいなのは、今のところ人類は経験していないだろう ここにきて量子論レベルの偶然がわずかに干渉してくる訳だが
神々の気まぐれエッチみたいなのは、今のところ人類は経験していないことだろう 物理現象は物理では決して説明できないよ
自然はねばならないやべきは知ったこっちゃない
自然は自然がどうなろうが知ったこっちゃない
あくまで人間の見方、解釈を押しつけているだけだし、
人間の欲望願望を投影しているだけ
偏った見方を押しつけてそれでもうまくいったらそれでいい
それで正しい
物理主義とか自然主義とか根本から倒錯している 自然自体には次はどうなる、どうならねばならないはないわけで
当たり前だけど
べき、ねばならない、法則は自然からは出て来ない
自然を見てこうなったらいいという人間側の願望、
見方を投影をしたものでしかない
自然の可能性よりは確実に貧しく身勝手で、そしてそれは正しい
法則とか必然性はどこまで行っても人為的法則、人為的不自然性
不自然法則しかないから
法則は不自然法則しかないし
自然法則とかないしあってはならない
人間の見方願望同士の比較しかない
押し付けでしかない
そしてその中で優劣を比べるしかない 何の前触れもなく腕がもげたり尻尾が生えてきたりしないもんなぁ・・・
落下中の物体が突然空中で静止したりすることもない それ自体人間の解釈だし
どこからが突然でどこからが突然じゃないか 自然自体は突然とか突然じゃないとか知ったこっちゃない (笑)
43 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 22:39:20.80 0
一日中荒らしていますが、働いていないんですか?
44 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 22:40:27.49 0
+ o : 。 ☆; * + O + o 。 ☆ * :
o o ○ ; * + o : 。 + :
.. ___ + : 。 ; ゚ ____ o
゙=c_ \ ゚ : ○ ; . /_っ='
:: ,, く:::\ ゚ /:::>'
゚ * \:::\ ...-ー、,-─ /::::/ : . : ゚
: . : ゚ \ ` .-=・=- i、-=・=- / o
o \.. / ' ヽ /
☆ * o {. ト--=--イ } これが仕事だよ〜
: : ゚ . ヽ. ヽ. ⌒⌒ ノ /
o ヽ. ヽ、`==´ / / o
. o ヽ ` ‐--‐ ´ / + : . : ゚
_,,ノ|、  ̄//// o ゚
_,,..r''''" | \`'/ / ☆ *
/::::::/::::/::::/::rシ/:::;'::l:::|:::::|゙'´!'、 : : +
,'::::::/::::/:::/:://:::::::::Lr‐y:::::|:::::l:::'、 o
./:::::/:::/:::/:://:::::;.ィ'" .ヽ、,|::::::l;::::'、 .
.,':::::/:::/:::/:/::∠,,,,,,_,...;-;-‐'´゙>ァ:::::::l, ゚
/:::::/::/::://:::/ ∞ .:.:;;:;;:/.: .;'ヽ、,l'、
.,'::::/::/:::/;'_;;ハ、; .; ;;;/.: ..;.; l゙ト;l, +
/::::/:/::::/;r' \ .:.:.:.;;;/.:.::.:.:.:; |〈!
/l:::;':/:::::;イl .; ヽ ,,__;;/.:.:.:.:.:; |:::l
(ヽヾr=:_::}:::;:;l .;.:;.; {:::. 自然主義者とか物理主義者は頭がおかしいからな
自然自体は何も語らない
当たり前のことがわかっていないチンパンジー 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=奈良県=大阪府
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 自然自体は人間が前はAで今はBだから次はCだろうと言う人間の思惑なんか
知ったこっちゃないからな
DでもBでもXでもJでもいい
123だからと次は4と限らず1でも3でも7でもいい
自然なんかに法則はなくどこまで行っても人間の思惑押しつけてるだけ
それは自然の可能性よりは貧しく身勝手で
たまたまうまくいくかいかないかだけ
様々な思惑相互比較してどれかがたまたまうまくいくかいかないかだけ >123だからと次は4と限らず1でも3でも7でもいい
いいとしても、現実としてほとんどの場合4になっている
たまにハズすけど、
それは今の量子論的が言う不確実さ(偶然)が存在しているか、
まだ人間が発見していない原理(必然)があるか
そう考えるのが実際に観測されている宇宙を一番よく説明できる
そしてもちろん人間もその宇宙の一部であり
偶然か必然に支配され「自由」という超自然の力を実現している訳ではない そう思うのも人間の思惑だけどな
思惑と思惑比較してこっちの思惑のが合致してるなと思ってるだけ
自然は知ったことじゃない
自然はこうである、法則があるは人間の作り出した信仰でしかない
自然自体にはべきもねばならないも法則もない
全ては人為法則だし不自然法則
これはいい加減認めたら?
その中で人間にとってうまくいけばいいだけ
後は妄想にすぎない
人間の思惑がうまく行ってて人間の幸になればいいだけ
後は幻想 自然は必然性を持つべきだは自然とは関係ない人間のいろいろある思惑の一つで
あるのは人為的な必然性でそれがうまくいくならそれでいい
後のことは全部虚構 発狂さん名言集
>一日中荒らしていますが、働いていないんですか?
これが仕事だよ〜
>一日中荒らしていますがいつ寝てるんですか?
10年間ぐっすり眠れたことないよ〜
>発狂さんは本当に50歳なんですか?
自称50歳だよ〜
>毎日楽しそうですね
生きてるか死んでるか忘れたよ〜
>発狂さんは完全に狂ってますね(笑)
生んだ親が全部悪いんだよ〜
>発狂さん泣いてるんですか?
もう自分でどうしていいかわからないよ〜
>まあ頑張って生きてくれ
荒らしてるときだけが生きてる気がするよ〜
>発狂さんは10年間荒らし続けてるって本当ですか?
2ちゃんねるが始まって16年じゃろ?
>なぜ人に迷惑かけて平気なんですか?
ぐっすり眠れたのはいつだったな覚えてない〜
>発狂さんの座右の銘はなんですか?
おれみたいにだけはなるなよだがね♪
>発狂さんって生きてるの大変そうですね(笑)
この年で今さらどうしようもない。あとはただ死んでいくだけだ。
>発狂さんって働いたことないんですか?
2ちゃねらーが働いたら負けじゃろ?
>じゃあ、どうやって生活してるんですか?
親な全部悪いにきまっとるじゃろ?
>発狂さんは、親に食わせてもらっていると。
>でも発狂さんが50なら親は定年してますよね
親の罪は永遠 言葉遊びは抜きにして
自然か超自然かで、物理主義かオカルトかという分類ができて
近代科学は基本的に前者を採用している
まぁそれも人間が主体的に選択したのではなくて
単なる物理的必然による結果なんだけどね
多くの人にとって唯物論は心情的に受け入れ難いものなので
オカルトが人間社会からなくなることはないだろう >>924
>自然か超自然か
そこは、科学か(超科学としての)自然か、の方が良いのではないでしょうか。
自然という言葉に対する定義にも依るのでしょうが、超自然=オカルトという
イメージがあります。 物理主義と言っても人理主義で人理と人理の相互比較だけどな
それを否定する奴はいないし、
物に理を見いだしているのは人間で物時代に理なんかはない
そのことを否定する馬鹿もいない
人間の都合で人間の勝手な理を押しつけているだけ
人間に関係ないものは排除するわけで >「奴はいない」「馬鹿もいない」
トモダチ作戦って、いくら見ても飽きないよな 科学にしろ人間の作ったモデルにすぎないからな、
それは人間のものにすぎない
あくまで人間のものと人間のものを比較しているだけ
それは人間のものにすぎない
自然ではない
人間を押しつけてるだけだしそうでなくてはならない 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=奈良県=大阪府
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 自然にはべきもねばならないも法則もない
知ったこっちゃない
人間のこうなって欲しい、こうなるだろうの願望を投影したものでしかない
それは自然そのものではない
その中で比較してより役立つものがでて来ればよいだけ 物理主義や自然主義の倒錯はだいたいコンセンサスが得られたかな 2が言えば「みんな言ってるよ」になる
2人仲間を作れれば、既成事実化できる
楽な世界だ >>933>>934
何かいじけた人がいるな
ムキにならんでも
自然自体はどうすべきかはないのに、自然にどうすべきか求める
論理的誤謬なのは確定しているんだから意味がないのに
物理主義とか自然化された認識論とか単純に間違い 自然自体からは何も出てこず、
法則も倫理も人間の投影だというのは当たり前だからな
ことさら言わなくても >>947
人は物であっても物ではない人間だ、おまえは反論すら必要のない低次元な
思考しかできないのか?デジタル脳というかゆとり脳? / ハ
/ ヽ
/ ヽ
{l〈 ヽ=⦿=- i-=⦿=_ 〉!}
l\ ┏-=ニ=-┓/:l 発さんげ
ヽ ┃ `ニニ ┃ / らしめまう
人 \┗‐--‐┛/ ノ
┌、. / ヽ ⌒ \.
ヽ.X、- 、 ,ノi ハ
⊂>'">┐ヽノ〃 / ヘ
入 ´// ノ } ,..,.._',.-ァ
/ `ー''"´ ,' c〈〈〈っ<
/ __,,..ノ ,ノヽー'"ノ >>948
キチガイはこれだから
経験とか自然からは何も判断はできない
経験だけならAがあった、Bがあった、Cがあったってだけだろ
AからBが生じたから次はCが起きるとか、AよりBが望ましいからCをするとかの思考は
経験とは全く独立に生ずる
その際、ABCという要素は同じでも両者には関係ない
何故CではなくAに戻ったりBに留まったりDに行かないのかは、
経験からは選択する根拠、説明する根拠はないから
繰り返すけど自然化された認識論とか自然主義とか物理主義、
そういうのは論理的誤謬だから いちいち人格攻撃入れなきゃ話ができないのかおまえら・・・ そうだよ
ただしそれは決定されてるわけでもないし、
経験から一義的に答えの出るものでもないよ
経験とは独立に判断されるものだ
わかったかね?お馬鹿さん? 磁石の陰極と陽極は引き合う
素粒子のミクロの世界も天体の運動も
全部これと同じ理屈
情報伝達速度に限界があるから時間があったり
人間の直感的にはイメージしにくいけど空間も力の影響を受けたりしている
これが宇宙の姿 自然主義、物理主義、経験論の過ち
経験において別々の物に対して、
それは同じ物でも全く同じ色でもないのに、
それが赤なら赤だと人はわかる
見たことのない物も判断つく
個々の局所的な経験しか人は知らない、知識を組み立てられない
経験からしか人は知識を得られない、知識を持てないなら
そんなことは有り得ない
純粋な局所的な経験論、唯名論は成り立たない
局所的な経験越えた認識がなく普遍が単なる取り決めなら
赤に対しても広い幅の人間が共通で認識できる、そんなことはありえない
共通な認識ができる時点で局所的な経験論、唯名論は間違い タブララサで白紙の何もないところから体験して経験が刻印され
知識が蓄積して形成されるとかありえない
ただの孤立した体験同士、何かと何かを関係づける物がないと
何かを知ることなどそもそもできない
経験を越えた物がない限り経験を関係づけ意味を与えることなどできない
生の全体の中で世界をどうしたい、どう変えたいとの繋がりの中にしか
何かを知ることは存在しない
タブララサで直接体験したものしか認識できないというなら
見たことないものもについてそれが赤だとはじめからわかることもないし
経験からは無限を尽くせないから論理や数学を認識することもない
直接体験したものを越えて、さまざまなまだ体験したことのないものも
含めて知識できる認識しているからこそ、
あるものとあるものがどういう関係なのか
個々の経験では説明できないものについて、
関係づける能力を人は持っているからこそ、人は認識できる 物理主義とか自然化された認識論は妄想でそれでは
ある体験とある体験を関連づけることさえできない
その中に共通の何かがあるとかはタブララサの経験論からは出てこない
唯名論からは関係は判断できない
個々の経験を越えた現象を越えた全体を見通す関係を判断する
経験を超越したものなしに認識などはできないから
クワインにしろデイヴィッドスンにしろ分析哲学の現在の主流派は
全て間違い 物理主義、経験論、唯名論、タブララサは基本的に誤謬
実在論や生得観念、観念論もおかしいが
それらの対立を越えたところに行かないと 物による確定した因果しかない
それ以外の物はないとする物理主義、決定論について論じて見ましょう
心の哲学でも大きなテーマだから
では決定論が成立している条件は?
上の事から同じ条件同じ状況が設定されているなら同じ結果が生ずることですね
量子論的効果や確率的に違うことが生ずるがそれも決定されているはややこしくなりますから無視しましょう
また、同じ結果が出ないからと言って決定論が否定されてる自由意志があるとも言い切れない
サイコロの出目に意志があるとは言えないでしょう
それを狙ってやらない限り 物による確定した因果しかないは、何だって言えるんですよね
後から振り替えればどんな事象、どんな出来事だってそれにあった、無限の種類の説明の仕方、法則を当てはめられる
次にどんな事が起きようと予測出来てた、法則通りだったといいくるめられる
それには何の意味もない
全てを見通せる神の立場に立てば全ては予定通りだったと語れる
決定論か自由意志かが意味をなすのは全てを見通せない人間の立場でです、もともとそういう概念なんです
また、人間の立場に立っても自由意志とは普通ならしないことをあえてやる、損する苦しいが、あえてやってやることで未来においてそれが報われる可能性があるからやる
これで重要なのは可能性があることで確定してたらそれはやって当たり前だから自由意志もくそもなくなる
自由意志とは損に見えるし損するかも知れないがあえてそれを選択する、そういう場合に限られるわけです
それ以外では決定論と自由意志に区別はない、区別がそもそも成り立たない 決定論が成立しているは人間に予測出来てそのとおりになるです
でも次はどうなるかわからないから人間の側に決定論が成立しているは証明できない曖昧な概念です
反対に自由意志があるも損して得とれが成立するのはあくまで人間にとってだけで全てを見通せる神のような存在を認めると損して得とれと思うのも行動するのも同じ状況になったら
そう思いそう行動するようプログラミングしてたと言えるわけで
決定論とはあくまで人間の側で予測できる全ては決まっていると言い張る奴がいる
自由意志も同じことです
それ以上ではないし、それ以上考えると意味不明になる
決定論は全てが決まっている気がする
自由意志は決まっているようで自分はそれを変えた気がする
それ以上でも以下でもありません で物理的決定論自体は基本的に否定していい教説、宗教なわけで、役目の終わった間違った思想なわけで
abcdefと続いたとして次はaからzまで全ての可能性があるのにgしかないと言うのは非論理的非科学的な妄想でしかないわけで
わざわざ可能性を狭める意味のない錯覚
物理的決定論とかは間違った宗教だけど論理的決定論、宿命論はまた別な問題なのでまた別にろんじます 哲学的ゾンビ
この議論には根本的倒錯がある
他人がゾンビじゃないことは当たり前だ。他人を単なる機械としてではなく、情も内面もある存在として扱っている
それがそのままゾンビじゃないことの証明でもある
自分がゾンビじゃないことの証明の方がはるかに困難だ。クオリアとかは関係ない。他人を情のあるものとして扱うのもそれが得だからゾンビであっても同じ行動するのではないかとの疑念を取り除くのがはるかに困難だから
クオリアなどはゾンビとは関係ない。一瞬前のクオリア感じてた自分が今の自分と関係あるのか関係しているふりしているだけで実はゾンビではないか
他者のクオリアの存在を疑えるのと同じ権利で自分のクオリアを自分がゾンビではないかを疑えるのだから 哲学的ゾンビ
内面があり情がある、単なる機械じゃない、そう扱っていることがゾンビではないことの定義であり瞬間ごとの内面が他とつながり関係が成立していることが定義
ある感情とある感情を繋げて大事に育ててかけがえのないものを伸ばそう
そういう他者との関係抜きにゾンビの議論も成り立たない
目の前の赤い信号はそう感じとけはゾンビじゃないと騙せる物理的科学的反応で実際はゾンビかもしれない疑念は残る
クオリア感じるか感じないかではなくそういった物を越えて機械じゃないゾンビじゃなく扱える
局所的損得勘定越えた未来への夢を見れるかどうかが哲学的ゾンビの核心 自由意志の問題、選択は可能か
時間と自由意志より
分岐問題とは何か。
ある決断をして選択をしたとする。選択とはある方向に行くことが決まっていたものを別の方向に切り換えることのはずだ。
その際、変わった切り換えたとはいつの時点で為されたことになるか?
右にいくはずだった。それが左に切り換わった。しかし、その時点を考えると右に行くはずの時間軸と左に行った時間軸は同時なはずだ。
同時な分岐点では定義上、右でも左でもないはずだ。
分岐点においては同時だったはずで右から左への切り換えなどは存在できない。
分岐点時点でそれは左なのか?右なのか?
どっちでもありえない、あるいは右も左も同時に存在する矛盾した存在なら
分岐点で自由意志で切り変わったなどとはあり得ない。
といった問題が生ずるというのですがそれは点や線として考えるからですね。
確かに一つの点として分岐を考えると点なのにそれが右でもあり左でもあることは矛盾に考えられますが現実はそうじゃない
幅のあるレールが右側と左側で分岐していて、それを切り換える。分岐器で切り換える。分岐器で切り換わってる間時間もかかるその間人間がいろいろ操作している、その一連の流れの中で右から左へと選択している。
それはごく普通の日常当たり前に行われていることで何の謎も不思議もありません。
擬似パラドックスです。 単独の局所的な経験の刻印をいくら集めても認識は発生しない。目の前にあるサイコロの一面しか認識できないなら六面あって確率1/6でなど認識できない
1の目と郵便ポストを結びつけていいから
1の目と郵便ポストの関係は1の目と他の目と同じくらい重要であり他の目を重要視する理由は全くないから
サイコロをサイコロとして今鳴っている音を他の連続して鳴らされている音と繋げて音楽として
薔薇と郵便ポストを赤として認識する関係づけることは経験の刻印からは説明できない
経験からは説明できない個々の経験の刻印を越えたそれらの関係づけを現象学は志向性と言い、唯名論と実在論は普遍と言い、タブララサと生得観念とか事実から当為は導けないとか
事実からべきもねばならないもいかなる法則も導けないと言われていたことに他ならない
昔から問題視されていたことをあからさまにすることでしかない スレの流れとは違う事書くけど
唯物論は単に物質(今風に言うなら物理学的な場)を説明原理にしているだけで
多種多様な価値観や感性が唯物論でも可能で(ほぼ全てのタイプと言って良い)
唯物論を肯定する人を否定的に考えるのは全くの間違った偏見でしかない でもまあ、普通、想定される物理的決定論、物理主義、自然主義、
経験論がはしにも棒にもかからない誤謬なのも否定できない事実だよね はじめて見る物のはじめて見る色合いについてもそれは赤なら赤とわかる
経験したことしかわからない純粋経験論や純粋唯物論ならそれは背理なわけで
サイコロの一面見てサイコロの六面推測できるし音の一つを聞いて一つの曲を思い浮かべる
知識とは経験を越えてあるもので他の物も思い浮かべられるのに
何故赤や曲なのかは経験を越えたべきだはabcdefの次は何かは
経験論からは出てこずに全く別な原理から導かれる 個別的、局所的な経験ではないことと物理主義、自然主義の過ちはわかる
これがこれだという経験は嘘っぱちなんだよ
何かが何かであるということは後から外との連なりで出てくるもので
いまこの瞬間のこのものへの認識なんかない
いまここなんかない
このものなんかない
次から次へと外へ広がる現実しかない 局所的なこのもの体験なんかないから
唯名論も実在論も間違い
経験論も先験論もおかしい
薔薇や郵便ポストから赤を導くことは経験論からは言えないが
赤以外にも何でも導けるのに赤でないといけないのは
アプリオリ論からは導けない
何故その普遍なのかは全体の中で生を如何に輝かせるかによる
個々の物でも生得観念でもない 個別的な経験で個物が確かに現前するとかあり得ない
このものとはAでもあってBでもあってCでもありうるもので
遡って構成されるものだがヘーゲルのように一つの答えに行き着くものではない 生の全体の中でこうした方がいいというものとして、
それは局所的な経験に切り分けられない
だからと言って天下りの普遍によっても答えられない
abcdefの中から何故それなのかは答えられないから
唯名論や実在論を越えたところ、経験論や先験論を越えたところにしか
真実は存在しない とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm 唯物論=宇宙の本体は物質であり、精神活動も物質的条件によって決定されると
いう立場をとる世界観。
唯心論=現象の本体は一切精神作用で、物質はその所産にすぎないとする世界観 エホバの証人によれば、パソコンでも、どのような複雑なものでも人間の身の回
りにあるものにはすべて設計者がいる、人間が創ったどのような複雑なものより
自然や人間は複雑だ。偶然にパソコンができないように、自然や人間にも、人間
の理知を超えた設計者がいるはずだとの事。 このスレまだあったのかと思ったらムチャ過疎ってるじゃん レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。