【てつがくがたり】池田晶子3【犬と夫と冷蔵酒】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレがカオス&過疎を起こしていたので思い切って次スレいきます 禰宜さん、管理人交代でガンガンここを仕切ってくださいね では皆さんも盛り上がって参りましょ〜 レーーッッツてつがく!! >>2 また思い切ったことをされますねw 基本マジレス厨の自分には荷が重いですが、了解しました。 池田晶子という哲学者、もとい哲人は一体なんだったのか、そして彼女の存在の なにが新しく、そして彼女の可能性不可能性には果てしなく意義があるにも関わらず 語られることが質量ともに圧倒的に不足してる感はあるので、時間のあるときにつれづれ なるままに問題提起してみようとは思います。 ますので、 まあ、まずは最近の時事からちょっと斬り込んでみましょうか。 巷では参院選で自民党が圧勝しねじれ解消ということでわいてますが、果たして この自民党勝利は繰り返される政治現象のひとコマに過ぎないのか、それとも高度 に一回性のある本質的歴史事象なのか? ネットに潜む沈黙せる天狗諸兄ならいくらでもこれに裏の事象は読み取れるはずだけれ ども、それをどこまで本質に深めることが出来てるでしょうかね? 確か衆も参も自民だけで過半数だったはず 公明切ってしまったら面白いんだが 公明党といえば、廃仏毀釈の落胤も同然の存在ですか かの呪われた半島の因業も含め込んで、切られないまでも生半な地獄を見る くらいでは済みそうにないような気もしますね〜 ああしたものを生んだのは寺社の堕落なのか、はたまた寺社を見限った大衆なのか 参院は自民単独過半数じゃないんだけど、そこはつっこまないんだ。 公明党が廃仏毀釈の落胤っていうのはどういう意味かね? >>7 その「希望」がかの党や例の「維新政党」の絶望の種とも限りませんしね。 むしろ今、自民党単独過半数じゃなかったことをのちのち彼らが恨めしく 思うような展開にならないとも限りますまいw ああいう本家の名門日蓮正宗に破門されながら、その本尊を正当性もなくあがめ ゾンビのように存続する「カルト(邪宗)」が存立するにはそれ相応の因果がある、 とそれだけの話ですよ ほんとにオウムのときもそうでしたけど、自己の生死なんて究極の問題を安請け合い できるああした歴々の度し難さたるや、ちょっとぞっとしないものがあるのも確か ですねー ほんと、考える、て難しいです バカしかいないな 池田が見たら笑いそう、むしろ笑えなさそう 私が書いた本はここまで読まれてなかったのかって >>9 ソクラテスシリーズでもプラトンとソクラテスにそんな嘆き方させてますねー まあ、本人も「自分の本は初めから古典みたいな(売れ行きの)動き方をする」 といってますし、あせらないあせらない、じゃないでしょうか? >>9 あなたみたいな人がいる限り、池田は死なない。 このスレの惨状こそ彼女がドン・キホーテだった証だし、みんなそこに惚れるんでしょ? あと、コテハンはたいがいキチガイ。経験的にも理論的にも。 いや、前スレ見たけど少なくとも池田の核と魂胆は理解できてないな これくらいの人ならそこらじゅうにわっさわっさいる、問題は本物かどうか まああの人の本は無理な人にはどれだけ読んでも理解は無理だと思う >>13 ど〜もですw >>14 ふふふ、実に刺激的な挑発ですね。 自分が本物かどうかはさておき、その池田女史の「核と魂胆」について は是非ともご教示願いたいものです。 とりあえず、彼女への理解を妨げるものを貴君は何だとお考えになります? ↑このレスを見れば、賢明な池田読者ならすぐに察しがつくだろう >>16 やれやれ自身の振った「核と魂胆」の内容には一切言及せず、だんまり黙して 高みから印象操作的勝利宣言、ですか。 禅宗系の破戒僧にありがちなロジックですが、それなりに概念に裏打ちされた 語彙のある相手にやるにはあまり上等な戦術とは言えませんね。 沈黙は時として全てを語るとはいえ、充溢なる沈黙と空虚なる沈黙は画然として いますのでご用心。 ただ、「核と魂胆」という言葉は面白いので拾わせてもらいます。 自分は前々スレでそれを「魂への問い」と「哲学エッセイの可能性」 という言い方をしましたけど、はたしてこれを問題意識として持続できる ようなつわものはいないものなのでしょうかね? >問題意識として持続できる 答えは出すつもりないんだ。 >>20 出そうとして出るような代物だとでもお思いで? まあ、あなたがその問いを全身全霊で生きているのなら、そこにその解答 はその限りにおいて、あるといえるのかもしれませんが、それなら揶揄などでは なく是が非でも、言及でもってお答えください。 こちらの答えもそちらの答え次第です。 「出そうとして出るような物ではない」 「その問いを全身全霊で生きているのなら、そこにその解答はその限りにおいて、あるといえるのかもしれない物」 答えは出てるじゃないか。 >>23 座布団1枚w もっとも、「お思いで?」と問いで訊いているものを「ない」と断言調にし、 そして肝心要の「あなた」を意図してかせずか外してるのは失点ですがw さて、出そうとして出ないならどうすればでるのか?また、いかにしてその解答 たる「問いを生きること」は可能になるのか? 出ないと言っているのに出てる。 問い続けると言いながら、出ている答えに気付かない。 相手の意見を執拗に求める。 導かれる答えは、 「負けを恐れて決断から逃げている。」 >>26 あなたは己の阿修羅に気づいておられない。 語るべき「決断」としての「言葉」なら自分にはそれこそ腐るほどあります けど、それを自分がただ語るだけではなんの意味もないので、諸君の思惟の 残滓としての「意見」をこうして求めているのですよ。 以前、「某」というコテハンを使った方も君のような話し方をしていましたが、 自分を負かそうとする限りは貴方の沈黙も先に言った「空虚な沈黙」に過ぎないですよ? さて、語りて黙すを同時になせるか? >>26 > 「負けを恐れて決断から逃げている。」 それはおまえだろ 勝手に禰宜に投影するなよ 不自由な奴だな いいね。煽りあいに創価認定。2chらしくなってきた。 あとはネトウヨとチョーセンジンか。 長●●もいっとくか? >>28 いやいやw答えが問うこと自体にあるとわかったなら、さらに問い続けなければ ならないのであって、 「問うこと自体が答えニダ!(キリッ)」 と立ち止まってしまうことにはよくよく気をつけなければならないかとw >>31 ネトウヨはともかくとして、チョーセンジンは最近めっきり減りましたね。 まだ巷には成人前のなりすまし君たちがスケボーで往来して通行者に迷惑かけ たりしてますが。 そういえば最近、アニメ「進撃の巨人」が本国のほうで流行りまくってるそう ですけど、本質として巨人崇拝者の彼らにはむべなるかなな現象なんですかねー >>37 もうちょっと具体的なご批判を 中朝韓いわゆる特アの話題はともすれば嫌悪と憎悪に始まり、それに終わる、 ということがありがちですけど、たとえば、八百万の神々を精神の土台とする 日本人とどこまでもこの地上精神の卓越性(つまり、巨人・タイタン)を精神の 土台とする彼らの本質にまで踏み込めた論考とかないもんでしょうかね。 そこまでいけば彼我の相容れなさとかは(どーしようもないがゆえに)どーでも 良くなっていろいろと物事を先に、建設的に、進められるようにもなるはずなんですが。 >>38 日本人はかつて一度も八百万の精神なんて土台にしたことねえんじゃねえかな 日本人の精神の土台はいつだって島国根性だと思うけどな >>39 いやいや、太古の昔から花鳥風月に天地自然のもののあはれとか、もののをかしとかを愛で 詩歌にし楽しむなんて高度に精神的な在り方をしてきたくせにそれを精神的だと自覚してない 当のそのことこそが、八百万の神々を土台にしてる、てことなんですよ。 それに比べれば島国根性なんてのはあえて己の外形を保つために被ってる殻や衣のような もので。 どうも池田さんもそうでしたが、日本という国を「数ある国一般のひとつの形」と捉えて ほかの国と平等、というか悪平等に捉えるとかえって日本という国は見えなくなるように 思えますね。 >>40 民衆一般は島国根性だと思うよ 閉鎖的な雑草魂 日本は飛行機の出来る前は台風などの為、船での侵略が難しかったこともあり、大陸からの移民も少なく、支配層が変わりにくく、基本的に文化は支配層で作り上げられている 江戸時代などにみられる大衆文化も基本虐げられた民の文化的逆襲とみていい 現代でも島国ならではの卑屈さが日本人に深く根ざしている その卑屈さは実は昔から支配者層が天候等に外海からの侵略に助けられていて自分達の実力ではないという事実からの卑屈さがベースになっている 民を虐げるのもそのストレスの出しどころ やられる民はたまったものではないんだが 八百万の思想は支配層上流階級層のいわゆるファンタジーの幻想世界観で 神話に該当するもので 大陸先か島国先かでいえばおそらく大陸が先とみて間違いないと思うよ 島国で育まれるスケールではないと思う まあこの辺は歴史学者やジブリに任せた方がいいんではないかな 千と千尋もいいけどコクリコ坂なんてたまらんもんがあるよ >>41 有意義な長レスありがとうございます。 いろいろと批判せざるをえないところもあるのですが、ちょっと長くなりそう ですので、簡単に 民衆の島国根性、というところはあえて否むところもありません。 ただ、民衆も当然ながら十杷ひとからげではないわけで、路傍の地蔵様やお社祠に 水と供え物と祈りを欠かせない民衆もいれば、それを省みない、どころか揶揄し 内心で嘲笑するような民衆もいるわけで、後者がいわば地上精神のわだちといえる 島国根性に囚われるのは自然な帰結、といえるでしょう。 大衆文化にはそうした崇高に向かうベクトルとともに俗悪に向かうベクトルもまた 内包されており、あえてもののわかった「支配者」が崇高なベクトルをとりあげて、 大衆の田楽や猿楽を能楽に昇華させる、というようなことも江戸以前にはあったよう ですね。 また、海により外界の半端な侵略からは助けられていたのは確かですが、 それは裏を返せば、そんな海をも越えてくる力を持った強大な超国家の 外圧にのみ晒されていた、ということですね。飛鳥時代の隋しかり、鎌倉時代 の元しかり、江戸幕末の欧米列強しかり。 とくに神風なんかは祈れば吹く、というような他力本願的な守護では決して なくて、元の侵略のときは壱岐・対馬・五島の流血に加え九州はじめ西日本の 民衆の代表としての武士の多大なる貢献、公家や寺社の捧げ物に祈祷と日本中 心をひとつにして人事を尽くし、ようやく吹いた、ということがどうも真相ら しいです。 元の史上最初の火薬を使った戦術と集団戦法に一騎討ちしかしらない御家人 が苦戦した、なんてのは戦端の最初も最初の悲喜劇でしかなくて、むしろ大事 なのは、その最初の邂逅において元の猛威から日本の御家人を救ったのは遠く 古代の御世に隋や唐を警戒して築かれた古代の防塁・水城だった、てことでしょう。 あのときは神のみならず古代人も当時の日本人を救った、ということで、そこまで 筋金の入った戦意に島国根性や「大陸が先」として好しとする卑屈なんてのは、 ちょっと入り込む余地はないかと思えます。 では、神風の「吹かなかった」、「あの戦争」はどうなのか、というとそこには 池田晶子さん亡きいま現状で最先端を行くと思われる女流哲学者・長谷川三千子さん の論考をとりあえずおすすめしておきます。 >>42 ジブリ、というよりは宮崎駿さんも漫画版ナウシカとか見る限りはそんな 虚無の孤独を知りえた稀有な才能だったんですが、今の惨状は見るに耐え ないですね。 たぶん、かの敗戦でわれわれ日本人が例外なく味わい、戦後世代も時空を 超えて捕える死に至る病に負けてしまったんでしょうね。 禰宜氏は博物学者になれるね 長谷川三千子でググりました 非常に優秀な家系で育った人のようです 著書など読んでみようと思います >>46 う〜ん、せんだっての長レスは歴史哲学からの演繹のつもりだったんですけどねw とりあえず、おすすめは「バベルの謎〜ヤハウィストの冒険〜」と「神やぶれたまはず」 です。 あと、訂正 >>45 ×かの敗戦 ○かの終戦 なんかいろいろな素材から考えれば考えるほど、あの戦争に日本はほんとに 「負けた」のか?って気がしてしょうがなくなってくるんですけど、世間は (主にマスコミ関係で)毎年恒例の辛気臭い年中行事の時期ですね〜 リソースの限られた島国では、敗者を追い詰める事、ひいては敗者を生まないために勝負そのものをしない。 それをいい面からみれば、八百万という寛容になるし、悪い面から見れば曖昧、卑屈な島国根性になる。 支配者も腹を切らせるための神輿でしかないし、服従と軽蔑は常に表裏一体だ。 コミュニティ内から敗者を生まないシステムを作り上げた創価とネトウヨはその同じ根っ子から出た。 ネトウヨの在日告白のスレを前にどっかで見たけど、気持ち悪かったなぁ。 >>48 そうですね。日本的大衆(マス)を説明するものとしては非の打ち所が ないです。問題はその大衆の枠を超え出でるものもまた、たしかにいる という事実ですが。 ある意味ネトウヨの元の右翼も創価もあの戦争という「川に入って入ってない」 「人」たちですからね。 日本人のように「絶望」してるふりしてもまったく絶望を知りえないものですから、 どんなに日本人のふりをしようとしても浅薄でしかないのは哀れなものです。 「足りない人に悲劇はない。」 これは、はるか昔に小林秀雄さんがたしか満州事変と秀吉の朝鮮出征に絡めた論述で 語った言葉ですが、なによりもそのへんの事情をいいあててますよ。 逆だな。 資源的リソースに恵まれた日本では頭数を減らす必要がなかった。だから、強力な一神教に進化する必要がなかったし、馴れ合いが閉鎖的な島国根性を生んだ。 支配者は分配者で、服従は安定への期待だ。 資源の限界が来た今日では、力が必要になり、その先駆者としてネトウヨが生まれた。 事象の裏に流れる世界精神なんてホントにあるのかないのか あるといえばあるしないといえばない と返すのはやめてね ある夫、ない夫 >>51 どうやら弁証法が理解できてきたご様子ですね。 ご安心を。歴史哲学を持ち出した以上、そこを「はぐらかす」必要はありません ので、はっきりと、ある、と答えておきましょうw >>50 ネトウヨをずいぶん憎んでらっしゃいますね。 それはともかくとして、残念ながら、論拠が間違ってます。 資源の限界なんてのは、国力の全てを出し尽くした元寇の折はもとより、 タタラ製鉄で森林(=エネルギー資源)を使い果たした古代出雲人が とっくに経験済みの事象ですよ? 一神教関連は先に挙げた長谷川三千子さんの著作を読んでいただければ おわかりいただけるかと思いますが、マスコミが用いるような「支配者⇔被支配者」 の二分法自体、日本の事象を捉えるには苦しいものがあると思われます。 政治、宗教の形はそれが生まれた緯度≒平均気温≒食糧の量による。 日英の気質の違いは緯度によって、日中韓のそれは海流による平均気温の差の為に起こる。 そして、日本は相対的には恵まれた環境にある。 >>53 相対的に恵まれた、どころか、主食作物にして土地面積コストパフォーマンスが チートもチートな稲を栽培するのに向きすぎてる風土、というのは大きいですよ? もっとも豊作と凶作の差が激しすぎて下手に人口増やすとえらいことに なるから、昔の村落では一見理不尽極まる口減らしもあったみたいですが。 しかし、食糧の量や気温の差は経済現象の土台になりこそすれ、そもそも 民族のあり方の前提たる宗教にまで関わる、というのはどうでしょう? よろしければ、もう少し御持論の展開をお願いいたします。面白そうな話でも ありますのでw 奪い合う必要がない国、奪い合わなければ生きていけない国、奪い合う余裕すらない国でその規範となる宗教や最適な政治体制が異なるのは当然。 キリスト教、イスラム教が砂漠で生まれたのは偶然ではない。 仏教が生まれたインドに現在仏教徒が少ないのは何故か? >>55 そこはそもそもの土台となったユダヤ教とヒンズー教に突っ込む必要がありそうですね。 キリスト教はカナンの荒野、イスラム教はアラブの砂漠で生まれたが、そもそも そうした風土がなぜ流民ユダヤの妬み深い独神を欲し、さらにその版図を拡げなければ ならなかったのか? キリスト教が寛容なるローマの神々を排斥しつつ展開したのをお忘れなく。 仏教においては事情は少し異なり、そもそも仏とは「状態」という概念に近く、 いわばヒンズーの神々が悟り解脱したら「仏」になるという教説であるため、あえて 仏になった神々を拝むか仏にならずとも尊い神々を拝むか、というだけの話でしか なくかの地でもヒンズーとブッダの神仏習合は(地域的特色差として)成立している ものと思われます。 高山の厳しい風土ゆえに仏を選んだはずのチベットの現状がああなのは本当に 痛ましい限りですが。 VIPで以下の書き込みを見たんだが 太初に言葉なし 万物を別つは神なり ロゴスに槍を突き立てなさい あなたは一なる全を知るであろう 実に面白い いや面白いですねw言わずもがなですけど、ヨハネ福音書、 太初に言葉あり 神は言葉なりき をひっくり返してるわけですねw そこのところはよ〜くわかりますよwスレを回すためとはいえ饒舌に過ぎる 自分が言っても説得力ないかもしれませんがw が、そこを矛盾ではなくあえて逆説でまとめるとするなら、神仏習合の話も 出たことですし、こう言い換えてみましょうか 太初に沈黙あり 万物を総べるは仏なり ロゴスに槍を突き立てなさい あなたは全(禅)なる一を知るであろう 本地垂迹反本地垂迹、さて仏が先か神が先か >>60 遺憾ながら、言葉が先、かと。 これは唯識論と唯物論の対立のような低次元な話ではないので、 くれぐれも注意。 あるいは、「言葉」を「考え」といい代えてもいいかもですね。 人間、という考え(イデア)無しに、人間、は存在しうるか? その「考え」を抱いてるのは誰なのか何者なのかをとうてしまったら、まあ、 「貴方が神だ。」 と答えても差し支えないのかも、ですねww >>62 すでに答えてますよ? 沈黙でないもの、です。 このように弁証法で答えるのを許さない、というなら、 無限に語って語りつくせぬもの、 とでも答えておきましょうか。 「最初に言葉ありき」って、お喋りをしているうちに、 神についての話も二次的に出来ちゃった、という意味かな。 それを冒頭に持ってくる宗教って、思いっきりぶっちゃけてるねw お喋りをしている主語を神にしないで、主体無きお喋り、 つまり人間の共同主体性を主語にしてるんだから、20世紀哲学的。 「最初に言葉ありき」と宣言して、後はギミックっていう化け物みたいな宗教。 昔の人は凄い物語を作ったもんだ。。。。という解釈は浅い? >>64 止揚された「合」をあくまでも沈黙のうちに示唆するのに留める点は 弁証法というには苦しい、というのは認めますよ? 自分の提示する逆説の連なりを弁証法として止揚させられるかどうかは、 貴方しだい、ですw >>65 いやその昔の人の反則的な気の大きさを感じられるのなら、充分深いですよw またその「共同主体性」というのは現在過去未来そして実存しえない可能性としての 「すべての人間」を主語にしてしまってるものだから、まともに考えたら気が 遠くなってどこかに消えてしまいそうですねw 俺の勝手な解釈だと、 1.初めにロゴス(宇宙法則・理法)があった [善悪の未分状態] 2.理法は神と共にあった [善悪の分化] 3.理法は神である [善の勝利] 1.ロゴスを、全宇宙を司る法則(理法)であると解釈してみた。 2.ロゴスは生命に対して残酷でもある。愛がある神にロゴスの舵取りをしてもらいたい。 3.善と悪に分かれたロゴスは、神に舵取りが任せられた。 キリスト教は、ロゴスを善と悪の闘いとして捉え、 仏教は、ロゴスを善悪未分のままで捉えているのではないか? という俺の解釈。適当だけど。 いやいや善悪を天(=形而上領域)地(=形而下領域)にまで拡大すれば、 充分通用する解釈ですよw 「天地(あめつち)初めて開けしとき、高天(たかま)の原に成りませる神の 名は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。」―(古事記) しかし、先に誰かが仰ってましたけど、砂漠や荒野で生まれたキリスト教はじめ 一神教の善悪に対する厳しさ、悪に対する容赦なさ、その殲滅の徹底ぶりはすごい ですよね。 仏教のほうは親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」に象徴される ように「善悪の彼岸」の存在論にベクトルが強く向いてるせいで、ああした善悪 に対する容赦なさは怒れる仏、「明王」を持ち出さなければ成立しえないのが 苦しいところですね。 同じ仏教国である日本とチベットの明暗を分けたのはたぶん、その怒りをもって 悪を滅却する明王信仰の有無で、空海上人の天才が偲ばれるところです。 ゾロアスター教は分かりやすい。 ゾロアスター教は、ロゴスの暗黒面を悪神、ロゴスの明るい面を善神としている。 善行、善言を積めば人は救われる、というシンプルな考えかた。 キリスト教は分かりにくい。 なぜ神は、人に災難や試練を与えるのか?それは、 人が神を裏切ったときに、原罪を背負ったからだ、となる。 なんたって、当時のパレスチナは災難続きで、いくら善行を積んでも 救われるどころか、どんどん災難に遭う。この不条理。 神は、子供を鍛える巨人の星の父親みたいなものとして存在すると考えるようになる。 キリスト教の信者さんが言うには、 「はじめに『言葉』があった」の『言葉』とは、イエスのことを意味しているようだな。 まず最初に、イエスの精神(言葉)があったという意味なのかな? 俺は低俗だから、「精神」と聞くと、足のない幽霊みたいなものを想像してしまう。 それか、ヒトダマのイメージ。 精神とは言葉であり、言葉が肉体に成る、という発想が俺には無かった。 西洋人て、こういう発想で生きてたんだな。だから彼らは、お喋りなんだ。 カルチャー・ショックを受けた。 池田晶子さんのウィキペディアを読んでいたら、高校時代は登山に熱中する、と書いてあった。 そういえば、教育評論家の尾木直樹氏の言うことには、「登山を趣味にする女子は素敵になる」のだとか。。。 >>69 長谷川さんの「バベルの謎」もそうですが、梅原哲学の憎悪と怨念を乗り越えた 安田喜憲さんの文明論もおすすめしたいです。 聖書における災難の代名詞「ノアの洪水」が実は森の神フンババ(=自然)を 殺したギルガメシュ(=人類)への懲罰(日本においては八岐大蛇)を独神ヤーヴェ が成り代って成し、その説得力を成しているのが解ると思います。 裏切り原罪を背負った相手が超自然の神ではなく、自然だった、というのはなんとも 皮肉な話ですね。一応、エデン追放でそれを回収してたりもしますが。 一方、日本では自然破壊も関係ない地震のような理不尽極まりない災難に対して は兼好法師の「方丈記」で示されるように、そもそも失うものを持たない、心を身軽 にしておく、という対処をするようになっていったようで、日本に伝統的に大資産家 というものが少ないのもそのせいなんでしょうね。 >>70 (認識的な)精神、というよりは、(行為的な)考え、といったほうがしっくりくる ような気がします。 精神、思考の骸たる言葉はその触媒ですね。 また、ロゴスの方は邦訳としてもっともしっくりくるのはやはり「言霊(ことだま)」 でしょうね。彼らはそれをさらに神の「聖霊」と悪魔の「悪霊」に分けているような節 があります。 まあ、あれだけお喋りだと、すべてをおじゃんにしてしまう悪魔悪霊の「呪文」がうっかり 口をついてしまうとしても無理のないことですがw >>71 いと耐えがたき困難に挑み抜く精神の輝きを持つ女性こそはジャスティス!!! 生きてたら三浦さんみたくエベレストに挑んでたとしてもおかしくないですねー・・・ >>72 タフでなければ生きて行けない。 ジェントルでなければ生きる資格さえない。という台詞があります。 文明における強さを兼ねた優しさとは何でしょうか。 私は、私である。 だから、「私とは何か?」という問いはナンセンスだ。 このような質問をする人には、 「私が、私ではない何かであるのか?」と逆に問い正したい。 >>76 同感です。 >>74 さんには埴谷雄高さんの 「『私とは何か?』ではない。『何が私か?』が問題だ。」 という言葉を捧げておきます。 >>75 自分も一応、池田さんを見習って学府という「野獣の檻内」ではなく、「野」 で生きているのですが、やはり一番大事なのは研ぎぬいた「牙」の剥き時納め時 の見極めでしょうね。 学府内の「賢人たち」には、これがからきし無い(=タフだがジェントルでない)。 野で生きてると、己のそれなりの「知」に対して見当違いの憎悪や嫌悪をむき出して 挑んでくる輩は必ずいますし、目をかけた者に刃向かわれることもざらなわけですが、 そこのベクトルをうまくそらし(時にはあい争わせ)、身を隠し、燃え尽きたころを 見計らって手を差し伸べる、というのも「文明」におけるタフさとジェントルさを 兼ね備えた「野人」の処世、というものでしょう。 そんなものがもはや優しさといえるのか、というとなかなか難しいのですが、それも 優しさ、ということにしておきましょうwでなきゃ、こっちが保ちませんしw(涙) それを心の中で10万回問うのです 10万回それを考えた後に啓けますよ 自分の頭で考えない人には哲学を理解させることは出来ない。 >>78 >>82 食い下がりますねーw。 埴谷さんの諧謔がわからない時点で語るに尽きてるんですけど、 池田さんの言葉からひとつだけヒントを・・・ 「魂と『私』との関係において、『私の魂』はない。『魂の私』が正しい。」 「貴方」を所有するところの魂の感覚を少しなりとも掴み、自我との関係を整理 し、デカルトの一般性としての「私」か、貴方の「私」や禰宜の「自分」のような 特殊性としての「私」かも明らかにした上で、問い直してください。 まあ、そこまで整理できるんだったらそもそも問う必要もないでしょうが。 私とはこの全身全霊である 問いに対し全身全霊で答えようとしない者に哲学は微笑まない 我々は表現者である 全力で応えてみせよ お節介だが 言葉=全知全能 我々はどれだけ巧みに表現できるか? >>77 >燃え尽きたころを見計らって手を差し伸べる 優しさを人生実践で鍛えていくことは辛いものですねえ。 科学的な筋トレで筋肉をつけるように人格陶冶も出来れば どんなに人生が楽なことか。 >>86 とんちんかんなこと言わんでください。 全身全霊で答えられるのは、全身全霊で問われた問いに対してのみです。 あなたの問いは自分が前の問いに全身全霊で答えたあとに、空気も脈絡も 読まずに成された怠惰な問いだったでしょうに。 Q.私とは何か? A.貴方である。 Q.「私」とは何か? A.誰か、である。 怠惰な問いにはこれくらいでちょうどいいんですよ。もっと答えて 欲しけりゃせめてデカルトくらいは持ち出してください。 >>87 無限の全能、から有限の可能(〜できるか?)を切り取るのはさすがにちょっと 空しいですね。 ただ、全知全能の神にも弱点がないわけではなく、神にも創りえなかった、無、 こそはそれ、と言えるでしょう。 だからこそ、自分はこれまでもたびたび無を司る無知無能の仏、の話をしてきた わけです。 >>88 いやホントきついっス。 俗塵の風当たりのきつさ痛さは鍛えた精神力に正比例しますので、池田さん や衆俗の救済のために山を降りた昔の僧侶の苦しみたるやいかばかりかという 思いを味わう日々ですねw まあ、それでも一花咲かせてやろうという思いは一文明人として強く持って ますが。 久しぶりに俺もコテハンにしよう 禰宜さん全力でいきまっせ 「私」を真剣に考えるには、死について考えることが避けられないようです。 でも、死について考えるのが怖いので、そのかわりに無について考えているヘタレの俺です。 死について考えることは、哲学修行入門者が躓く関門ですね。 この関門を通過すれば、人間として凄みが出ると思います。 >>91 なんかRPGのラスボスみたいなコテハンですねw これはこのスレもさらに熱くなりそうですww 勇次郎改めイチナルモノさん、今後ともよろしくお願いしますw。 >>92 「死は思惟不可能、ゆえに怖がることも不可能」というのが、池田さんが その著作中のソクラテスに仮託した、死に対するひとつの結論でしたが、 そもそも闇を恐れるように「思惟不可能」自体が怖い、と躓く人もいるみたいですね。 あと、いわゆる「勇者」という類型の人々が本能的に命の価値よりも魂の価値 に優位を見出すし死の恐怖を乗り越える、ということも世界史には往々にして あるものですが、それに対して「命を大事にしない奴なんて大っ嫌いだ!!」 とか罵る、戦後日本特有の倒錯がさらに問題をややこしくしてたりもしますので、 この話は難しいですね。 「考えられないもの(死)はそもそも怖がりようがない。」 この無門関をよくよく吟味あれ。 訂正: ×見出すし ○見出し あと、そもそも「死の恐怖」とか「無の怖さ」以前に「恐怖・怖さ」自体を 考えてみるのもひとつの手かもしれませんね。 恐怖はあくまでもひとつの感情実体・有、であるのでそれに対置するものと して死・無を考えたとき、果たしてもはやそれは恐怖といえるのか? なんか10年くらい前にそんなことを考えて大爆笑してしまったことをうっすら 思い出しましたw >>92 今のところの貴方の死についての考察を書いてほしいな >>93 「死は思惟不可能、ゆえに怖がることも不可能」 蓋し名言です。 俺が考えた阿呆な迷言は、「次の睡眠は思惟不可能、ゆえに次の睡眠を怖がることも不可能。これから眠ることは死の予行演習なり」です。 自分が眠った後に再び目が覚めるかは、確率の問題であって、二度と目が覚めない可能性は否定できない。 今から眠ることは死と部分的に同じではないか。再び目が覚める確率や、肉体の痛み以外の点は似ている。 それならば、これから眠るのなら二度と目が覚めることが無いという気持ちで眠りに入ろう、と考えました。 現実の死に直面しても、「ううう、痛すぎ、気を失いそうだ、俺はついに死ぬのか、いや、もしかしたら、 このまま気を失っても死なないで次の日に目が覚めるかも♪うふふ♪」と思いながら死んでいった人が 何億人と今までいると思うんですよね。どうでしょう? ありがとうございます 死についての考察を参考にさせて頂こうと思ったのですが、湯川先生風に言って「さっぱり分からない」が今のところの私の考察です 以前言った、池田女史の見事な自他殺の考察、そこに死についての考察を完了できるヒントがあるはずなんですが…いかんせん見つける気力がまだおきないのです すんません 無を考えることは、宇宙も無、他者も無、恐怖を感じる自分も無ですから、無無無で別離が起きなくて怖くないです。 死を考えることは、宇宙は有、他者は有、恐怖を感じる自分は無ですが、有有無で別離が起きるので死は怖いデス。 >>96 原著のソクラテスだと 「死ねばハーデス(冥府)におもむくか、夢を見ない眠りにおもむくか、 のいずれかである」 とあります。 前者ならば、ハデス(冥王)は閻魔同様に究極の番人であるので、悪法をも 法とし毒杯をあおぐ究極の遵法精神をもってすれば、それは恐るるに足りないし、 「夢を見ない眠り」ならこれに勝る楽しみもあるまい、ということで 彼は毒杯を仰ぐわけですが、そのときに仰るとおり、 「毒杯を仰いだとして、なにかの間違いでまた目が覚めることもあるかもしれない。 そうなったらそうなったでクサンチッペがめんどくさいな。」 なんて思いがあったとしても全然不思議ではないですねw 結局、死のみならず、「死ぬ瞬間」というのも認識不可能なんですね。 イチさん、実はそれは自分もまだ見つけきれてないのですが、案外それ は前に自分が「嫉妬心のせいで読めない」と言ったあの死刑囚との対談、 の中で語ってるからなのかもしれません。 まず、陸田(ですよね?)死刑囚との対談から当たってみてはどうでしょう? 訂正 ×究極の番人 ○究極の法の番人 遵法倫理はかの大陸の韓非子とかと比較しても面白いのですが、それは またの機会に・・・ >>98 私も孤独が怖いのかと感じました >>99 奇遇ですね 私も陸田氏との対話は全部読んでないんですよ 気長に探してみます >>100 ヘラクレイトスも法は徹底的に遵守せよと言っていますね >>102 こちらも気長に待ってま〜す。 しかし、池田さんとソクラテスの「自己から見た自己の死」についての 無門関を乗り越えたとして、残るのはイチさんも探してるとおり、 他者の死(もしくは他者から見た自己の死)、そして自己あるいは他者に 死を与える自殺と他殺(殺人)の問題ですね。 存在と生にとっての死の意味、をちょっと考えなおす必要がありそうです。 「わからない」をわかることが哲学の愉しみなのでしょうか。 「そんな事も知らないの?バカだなぁ」って大きな顔が出来るのが哲学の愉しみです。 >>104 「わからない」を「わかれば」わかってた、というのを味わい続けふと気づけば キリマンジェロやエベレストのてっぺんで極上の酒を独り静かに味わってた、 というのが哲学の愉しみです。 >>105 それは「雑学」の愉しみです。 >>106 >それは「雑学」の愉しみです。 愉しそうじゃないか。 どんなに説明されたって、ノンケはホモにはならん。 哲学を愉しむ「魂」を持ってないなら、哲学はあきらめろ。 座って呼吸を整える。自分の中で問いを発する。全身で問いを感じる。 回答する。即座に回答を否定する。再び同じ問いを自分の中で発する。 全身で問いを感じる。回答する。即座に回答を否定する。呼吸を整える。 >>107 べつだん雑学の愉しみを否定する気はないですよ。 自分もこうして2ちゃんにカキコしてる以上、それもひとつの方便 とは認めてるわけですし。 ただ、>>108 さんも仰るとおり、地上(形而下)を決して離陸すること のない魂に天上(形而上)を目指す哲学が不可能、というのは確かです。 池田さんは雑学のような知性を「水平的思考」と呼び、哲学の「垂直的思考」 とは画然とさせてたわけですが、先の長谷川三千子さんも「神やぶれたまはず」 でそういう表現をしてたのには驚きましたw。 >>109 禅の心得ですか、いいですねー。 ただ、問いと回答と否定の循環がただ地上の同じところをぐるぐる回る だけの円環因果、ではなく、天上へと上昇する螺旋止揚であってほしい、 ということは補足(蛇足?)しておきたいものです。 まあ、天上へだけだと日蓮上人が難じる「禅天魔」になったりもしますので、 地下(本質根源)への螺旋潜行、でもぜんぜん構わないわけですが。 >>111 先の先で後の先を破る難しさが解ってない様子ですね。 挑発は持論を展開してからにして下さい。 沈黙逃げは禅天魔の悪いところですね。 >>112 貴方は色々な人にレスをつけているが、一度も相手が誰なのか確認していない。 それは、相手が誰なのかはどうでもいいという事だ。 つまり、相手の持論など聞くつもりはない。 ましてや、それを受け入れて、自説を曲げる事などありえない。 ブッダのサイコセラピーという本を買ってきた。 この種の本では、見つめる、観察する、という言葉が多用される。 眼球の動き、視線の投げかけ方で変化をする意識、といったものを考えさせられる。 池田さんは眼球が裏返って脳を見ている感じと言っていたか。 養老氏との対談だっただろうか。忘れてしまった。 >>113 前々スレまでは、その「相手がだれか」を確認するために「コテハンを名乗って欲しい」 と繰り返し繰り返し言ってたんですけどね。 残念ながら、コテハンと共に持論の一貫性を保つことが出来たのは、前スレまでスレを 管理し、このスレを自分に託してくれた、イチナルモノさんだけだったんですよ。 自分にその「自説」を曲げて欲しければ、まず、その「自説」の曲げるべきところを 摘出し、あなた自身があなた自身で構築した持論自説を、コテハンを以って、その一貫性 において、批判なさってください。 文脈を無視して印象のみで相手を貶めるのは卑怯な行為ですよ? まあ、「色々な人にレスをつけている」と「持論など聞くつもりはない」が矛盾してて いきなり一貫性が頓挫してたりしてるようではありますが。 >>110 禅についてはよく知りません。 脳の働きが鈍って来たので、脳トレのつもりでやってます。 >>114 ああ確かにそんなことを言ってましたね。 昔のギリシャ人は光は目自体から発せられ、それがあたかも蝙蝠の超音波のように 対象に当たって跳ね返り目に帰ってきて初めてものが「視える」のだ、と考えてた らしいですけど、これも仰ることと同様に「観念的認識」そのものですね。 観念的認識、には「視たいものだけ視え、視たくないものは視えない」という欠点 もあるので池田さんの言うように「眼球を裏返して脳を視る」必要も出てくるわけですが。 >>117 おお久々の新規コテハンさんだ。 歓迎しますよ。 是非ともタフな持論を構築なさってください、雑念小僧さんw 今夜はコテハンつけたことで満足したので死の予行演習に向かいます。ねむすぎ >>115 >前スレまでスレを >管理し、このスレを自分に託してくれた、イチナルモノさん そうなの?本人は一言もそんな事言ってないけど。 >>121 それに関しては事実ですよ 途中、コテハンをやめてみようと禰宜さんと話し合いやめていたのですよ コテハンは色々な意味で勇気がいりますから 律儀にレスに返していく禰宜さんの姿勢を尊敬し、まとめ役を託しました 池田女史のスレは荒れる事も多々ありますので 持論に関しては禰宜さんも変わってきてるところはあるし、私もです 皆さんの鋭い洞察は我々を変える力を持っていますから互いに参考にするのがよいかと思います すごいね。以心伝心だ。名無しでも誰が書いてるのか判別出来るんだね。 俺は下らないことしか書いていないのでハンドルネームを名乗る資格はないのです。 全部スルーをされるかと思いましたが、律儀にレスに返してくれる禰宜さんが混乱しないようにコテハンにしました。 ブッダのサイコセラピーという本をこれから読みます。 今の俺は、詩人、富永太郎の「大脳は厨房である」の感覚にあります。 眼球は醜い料理女である。 彼女は大脳の棚の下をそそくさとゆききして… 彼女は…眼球は愚かなのである。 眼球が動くことは何かの観念を追いかけていることになる。 目の動きを止めて観念の追いかけを減らすことを肉体に強いてみよう。 >>118 ギリシャ人て面白い。戦隊ロボのように目から光。 ある空手の指導者は、胸からサーチライトの光が出ていることをイメージしなさい、と指導しているそうです。 目と対象の間に引いた線分にばかり意識が集まると体軸がぶれちゃうんでしょうね。 俺は「池田さん」という言葉は使っていませんが、池田哲学を語っていますので、ご容赦に。 (_ _ ) ヽノ) ヨロシクオネガイシマツ ll >>115 > 文脈を無視して印象のみで相手を貶める のは貴方ではないか?113は理論として構築されている。あくまで仮説だが。 あとは、貴方が自分自身を見つめて、その答えを出すだけだ。 違うのなら反論すればいい。 >>122 いやイチさん、全く同感です。荒れるよりは煙たがられても争点を明確にして、 池田さんの遺志を少しでも前に進められたら、と思います。 自分はほんとに、その先、を皆さんと見てみたいんです。 >>127 まあまあ。 自分も合気道やってるので、以前もそんな話になったことはありますし、 宮本武蔵はインドの元素論である五輪思想を下敷きに兵法体系を構築する、 というような高度に哲学的なこともやってますから、そういう文脈から 哲学がたりするのもおもしろそうじゃないですかw >>125 観念はプラトンも洞窟の比喩で語ってるとおり、ほんとうにほんとうに 手強い相手ですが、自分は雑念小僧さんの勇敢さを支持します。 なんとしてもねじ伏せてやってください。 いいね。 みんなもっと自分の欲望に正直になれよ。 他人の魂を解き明かすのが哲学じゃない。 自分の魂に気付くのが哲学だ。 >>129 「反論」なんて>>115 で完結しちゃってるじゃないですか。 「禰宜」に鏡を見ろ、なんてナンセンスを言うまえに自分がここまでに提示した 膨大な逆説トピックのひとつなりとでもその身で対峙して、そのうえで、 「禰宜、お前は〜〜のレスで〜〜と言ってるが、俺はそれが気に喰わない。 お前は間違ってる。そのレスの本当のところは〜〜〜〜〜だ。 断じて、俺の理論が正しい。」 とでも言えばいいじゃないですか。 一応、確認しておきますが、貴方は前に自分に挑んできた「某」さんや450くん、 453さん、とかではないですよね? 以上の歴々でしたのなら、持論の積み重ねがありますから、「理論として構築されている。」 というのもわかるのですが、>>113 くらいの分量で「理論」、とか強弁されてもちょっと困るの ですが^^; >>131 そうそう。 かつて孤高の侍、バサラは己の欲望、己の魂を兜の前立てにし、戦場を 駆けたといいますが、コテハンなんてのもそんなものと見做して、名乗り まくっちゃえばいいんですよ。 >>133 勝手に解釈するな。 俺の言いたい事と全然違う。 >>132 > 自分にその「自説」を曲げて欲しければ、まず、その「自説」の曲げるべきところを >摘出し、あなた自身があなた自身で構築した持論自説を、コテハンを以って、その一貫性 >において、批判なさってください。 つまり、私がコテハンを以って、一貫性において自説を構築し、貴方を批判しない限り、貴方は自説を曲げないという事だ。 > 以上の歴々でしたのなら、持論の積み重ねがありますから、 しかも、自説の構築には持論の積み重ねが必要。 結論は 「名無しの1つ2つのレスでは貴方は自説の間違いを認めない」 いまさら なんだけど Plinius と Immanuel Kant と Man Ray と Andy Warhol と Simone Weil と Carl Gustav Jung と Albert Einstein を 繋げてくれたのは ・・・・・ 実は ずーっとまえ 朝生で 彼女がたった 一言 言い放った 閃光 「 ・・・・・・ 時間は止まっている 瞬間の連続なの! 」 この一言なんです これで 時空間における 確定座標 ゆー概念と 応用科学や 物理学上における 論理的 sound system の展開 および 「G」を使った ベクトル記号による 言語論を 超えた相対的原理構成の イメージが なんとなく 解った気がして現在に至ったわけなんですが たかが コテハン洋楽ですが ここに 書き込みさせていただきます 【 Respect & Requiescat In Permanent 】 ひとこと 余計ですが ・・・・・・ 進行役だった 田原総一郎は 映画監督目指してた人だし 60年代後期の段階で 「 television は時間そのものなのか? 」 について おそらく 本人はとっくに 答えを出しているんでしょう まぁ 番組内容上 彼女の発言には 無視してましたが いまではすっかり ボケもできる バラエティタレントになりましたね 「 CNN が いちばん面白い 」 それで いいとおもいます >>136 「認めない」というか「認めようもない」と言ったほうがまだ近いかも しれないですね。認めるところは認めて進んでいるというのに・・・ 「認めない」にただそれだけで許しがたい依怙地がある、というような ニュアンス、印象を込めるのはおやめなさい。 コテハン名乗って、名無し諸兄のフルボッコ上等で持論を展開し続け、しかも それをジェントルに悉く返り討ち無双する苦労もちっとは斟酌してくださいな。 >>137->>139 なかなかすばらしいミュトスですね、洋楽さん。 まさか外国の方ではないですよね? その挙げられてる名前はちょっと自分も知らない人も多いのですが、 池田さんの、知を収束圧縮する知性の閃きの感じはよくわかりますし、 田原氏の語りがロゴスでなく、一種のミュトスに成るものだというのは よくわかります。 彼のようなタイプの人間はプラトンがもっとも嫌ったタイプの人間の ようなのですが・・・ Respect & Requiescat In Permanent ちょっとググッてみます。 ・・・・・・ググってみたら変なところにばかり飛んだ・・・ 慣れないことはするものじゃないですね。 洋楽さん、関連するサイトとかあったら、お手数ですが リンクとか貼ってはもらえないですか? 追記 >>136 「知を収束圧縮する知性の閃き」という言葉を、いま使いましたが、 貴方の望みは、名無しのまま、論を構築もせず、それでもって、 自分を屈服させることですよね? 大概の場合、それは怠惰に堕ちますが、鬼に遭うては鬼を殺し、 仏に遭うては仏を殺す禅の沈黙のうちの集中力をもってすれば、それも できなくはないでしょう。 ご精進なさってください。 ちなみに前に自分に挑戦してきた「某」さんもそんな禅を志す方の ようでした。自分としては、自分のロゴスを粉砕するために今もなお 沈黙しているのだ、と思っておきたい方なのですが。 >>140 「名無しの1つ2つのレスでは貴方は自説の間違いを認めない」 実践をもって私の仮説の正しさを示してくれてどうもありがとう。 次回をお楽しみに。 >>143 ていうかその「自説の間違い」をまず具体的に指摘して批判するのが 先で、そもそもそこから全ては始まるんでしょうに。 その程度の「正しさ」で満足できるなら、ご随意に。 結局最初に言った、印象操作、の域を一歩も出ませんでしたが。 まあ、その「次回」とかはさして期待もせず楽しみにしてます。 それをできなきゃ貴方はただの怠惰な一匹の天狗、ですよ? >>130 池田さんは武産合氣を読んで、自分は言葉による合氣道をやっていたのだと気づいたと言います。 その真意は掴むのは今の俺には難しいですが、こういう事から言葉と肉体との関係を探りたいとも思っています。 >>145 なんですと!!!!!!??????? いや、それは初耳でした!!!!!!! まさか、池田さんと植芝翁に接点があったとは・・・・・・・・・ 植芝翁の言霊論は馴染みのない宗教である大本教を下敷きにしてて、なおかつ 霊感の域までいった直感で掴まなければ把捉できないところも多すぎて論理とは 相性が悪そうだと少し敬遠もしてたのですが・・・ 雑念小僧さんよろしければ、出典関係をもう少し詳しく >>146 池田さんがサンデー毎日か何かの雑誌で連載していた 短いエッセイの中でのポロリなので。 武産合氣やアフリカの彫刻などの宗教性について 思いを馳せているようでした。 >>147 ふ〜む。 サン毎の連載は亡くなる直近の連載分しかチェックしてなかったので、 迂闊でした。 いや貴重なファクターの提供をありがとうございます。 そもそも武産(たけむす)合氣の産(むす)とは、まえにもちょっと出しましたが 、わが国最古の古典にして聖典たる古事記の冒頭に出てくる造化三神が二柱、 高御産巣日神(たかみむすひのかみ) 神産巣日神(かみむすひのかみ) の「産巣(むす)」から来ている古神道における核心中の核心と思われる 概念(大本教も神道系の新興宗教)なのですが、古事記が神々の因縁生起 ・弁証法止揚的に次々と新たな神々が生まれ出でる、いわば、 「神々の産す」物語である為、 そうした絡みで弁証法の巫女、池田さんが興味を持ったとしても全く おかしくないトピックではありましたね。 いや灯台もと暗し、あまりに身近なトピックだけに盲点でした。 >>148 つまり御武巣日山(おむすびやま)ってことですね分かります >>149 >>150 禰宜の前で神を愚弄するとはいい度胸してますねw まあ、ヤングガンガンてコミック雑誌に造化三神の名前で悪ふざけした セキレイなんて漫画もありますけど、そもそも天照大御神とかと違い 単独で祀られることは殆どない、始まりの神「天御中主大神」同様、 逸話や祀る儀式体系からしても謎も謎の神様ですので、そんな悪ふざけ でもしなけりゃ絡みにくい、といえば絡みにくい話なのも確かなんですがね。 しかし、合氣の「合」が正反合の「合」で、「産」となると・・・ これはなかなかすごい可能性がありますね・・・・ 「オラ、わくわくしてきたぞ。」 さて、大雑把ながら、言霊と神から合気道にアプローチをかけましたが、 雑念小僧さんは身体論を志向されているので、ちょっと身体論的な話をし ましょう。 イチナルモノさん、雑念小僧さん、 『甲野善紀』という人物と『難波歩き』、という話はご存知でしょうか? 知ってるよ 古武道の人やろ 陸上の末續慎吾のお師匠さんや >>153 武術について生噛りではありますが、甲野氏の稽古会に参加したことはあります。 ちなみに通常の走りは右腕と左脚、左腕と右脚が前に出るクロスの走り方だが 難波走りは右腕と右脚、左腕と左脚が前に出るパラレルの走り方で 通常の走りは足裏が地面に対し反発する上へのベクトルだが 難波走りは足裏が地面を押さえ込む下へのベクトルになる 前者は浮き上がるスピードが出る 後者は沈み込むパワーが出る 分かりやすいところで言うと相撲の摺り足をハイスピードで行うのが難波走りで、初動からのパワーを伝えやすいことから用いられる 刀はパラレルの同足で抜刀するため昔から侍は難波走りを用いた 身体は小さいが抜群の瞬発力と脚の回転力を持つ末續慎吾が並みいる海外の強豪に勝つため、スタートからカーブを抜けるまで難波走りを用い遠心力を求心力に変え力強い体勢のまま、直線を駆け抜けたあの200メートルのメダル奪取は感動的で美しかった 御二方とも、どうもありがとうございました。 実際に稽古会に参加した雑念小僧さんもすごいですけど、イチナルモノさんの 分析もお見事です。下準備は万全のようですねw もともと甲野さんは合気道をしていたのが、合気道の自分が先に挙げたような、 ともすれば精神論に陥り武道武術たる本来の在り方を忘れてしまうような体質に 嫌気がさしてそこを飛び出し「古武術研究家」となったわけですね。 自分が甲野さんの存在を知ったのは予備校生をやってた頃なのですが、それまで 人類が腕を振って歩くのは原人のころからの自然な所作、と思ってたのが根底から 覆されたのは本当にいい思い出でしたw まあ、それから甲野さんの捨てた合気道の稽古の中でその動きを実践する、という 矛盾したことを続けてかれこれ十数年になるのですが・・・ >>155 稽古会かあ 興味あるなあ >>157 廣戸聡一でググってみてください 面白いですよ ググッてみました〜。 やはり、「軸」の話が面白かったですね。 難波歩き、というのはセンスを磨けば人体の4つの重心である、 眉間の上丹田、胸中の中丹田、臍下の下丹田、それらを地面に向け一直線 に繋いだ延長上にある外丹田、 に軸の感覚を創り出すことが出来るのですが、これが合気道の基本中の基本 である表裏一体の体捌き、「転換法」と「入身法」においては恐ろしいくらい 応用が利くので、もし、興味があるようならそれから鍛錬してみるのをおすすめ したいです。 それにしても、明治以前の日本人は皆そんな歩き方をしていた、というのに 今は・・・・ 教育は「徳育・知育・体育」の三本柱で成立するといいますが、体育の影響力って 普通思われる以上に強いものなんですね。 程よい沈黙が生じましたねw さすがに、ここまで駆け足気味だったのでペース・ダウンしてじっくり 考えて頂くのも良さそうです。 さてさて、小林秀雄さんが歴史を「第二の自然」と言ったように、 池田晶子さんは身体を「最も身近な自然」と呼んだわけですが、 甲野氏の言うように、沈黙せる名無し諸兄の皆々様にも最も身近なる自然、 であるその身体に明治以来から刻まれた、「腕を振り歩く」近代体育の習慣、 宿阿、を果たしてわれわれは身体論としてどう捉えるべきか? はたまたヘーゲルが「精神と物質の中間」と喝破した魂と、そうした自覚されえ ぬ身体観念との絡みやいかに? 勇気あるレスを待つことと致しましょう。 >>161 一応、自分に言ってるんですよね? もしそうなら、何度も言ってますが、もっと具体的に。 そのテの物謂いは、自分の語ってることに自信のない人に不安をかき立たせて 自滅させるぶんには効果的ですが、己の語ってることにどこまでも自覚的な相手 に対しては全くの無意味ですよ? >>162 アンタには一生理解できない話だ。 あきらめな。 >>163 ふむ。 それはつまり、貴方にとってメディアリテラシーこそは全てだ。 というわけだ。 ふふふふふ。 情報源の情報源の情報源・・・と遡及していったとして、 果たしてその情報の天狗はどこに行き着き、何をみるのでしょうね?ww メディアリテラシー、それが貴方をそれなりに賢くしたのでしょうが、 くれぐれもそれを「呪文」にしてしまい躓かぬよう囚われぬよう、ご用心。 >>164 ほら。やっぱりわかってない。 無理なんだよ。恐ろしいほど才能がない。 >>160 哲学による身体論を探していた時期があって、現象学の意識論や構造主義記号論や言語意味論などを見つけました。 身体をロボットの構造のような工学的構造みたいに考えるものや認知科学などの一元論と 二元論的な哲学がどう繋がるかを考えた時期がしばらくあります。 その結果、理論的に繋げることを考える前に身体感覚の幅を広げるべきではないか、 と思うようになりました。 >>165 その敵愾心と文脈空気の読めなさ・・・ スレ的には大歓迎ですw もっと冴えたずれ方で楽しませてくださいw >>166 身体感覚の幅、ですか。 じつに興味深いテーマです。 そうですね。たとえば、自分がそれを聞いてまず思い浮かぶのは、人類の「武器と身体」 の発展に関するパラドクスです。 すなわち、古代の武器というのは棍棒から剣(つるぎ)弓矢に至るまで、構造はシンプル 極まりないものの、それを扱う身体の側には高度な身体性・精神・意識の練度を要求するもの なのに対し、近代の武器は銃器からボタンひとつで飛ばせる核ミサイルに至るまで、構造は 複雑極まりないものの、それを扱う身体の側には大した身体性・精神・意識の練磨を求めない、 ということですね。 甲野氏が呼び覚ました、近代体育により失われた難波歩きをまず話の端緒にしたのもやはり、 そういうことをまず言いたかったからです。 以前、イチナルモノさんが名乗ってた「勇次郎」の作者である漫画家・板垣恵介氏が近代人の 身体性の代表たる範馬刃牙と古代人の身体性の代表たるピクルの決闘を描かざるを得なくなって しまったのはやはりそのあたりの事情なんでしょうね。 >>165 実在 メディアリテラシー エポケー ノエシス 魂 >>166 と>>167 の雑念小僧さんと禰宜さんの文章は、別においらの名前があるなし関係なく興味深いし、素晴らしい文章だね >>169 ありがとうございます。 先の文章の「武器」は「文明の利器」と言い換えても差し支えなく、 文明が進むにつれ、我々は「身体」を失っていく・・・そういった論は ここ数十年の身体論の潮流において繰り返し指摘されているわけですが、 やはりそれでも、人類はそれに対する抵抗として「スポーツ」を生み出 したし、甲野氏のように失われた「身体」を取り戻そうとし、事実、失った 以上の形で「身体」を甦らせる天才もまた、存在する、というのは本当に 驚くべきことです。 その一方で、「身体を失ってる」人もまた無数にいる、ということもまた 一面の事実なのですが・・ 100年前の100m走の世界記録は10秒6だった。 あらゆるスポーツで世界記録は伸び続けている。 人間の身体能力は本当に退化しているのか? 科学の発展は、より多くの潜在能力を引き出す事を可能にしている。 問題は、なぜ文明の発展によって身体能力が退化しているという説に人々が共感するのかというところにある。 >>172 アスリートと一般人を同列に考えても仕方がないんじゃない? >>173 アスリートは職種であって、人種ではない。 そもそも、過去の人間と現代の人間の運動能力を正確に比べる事など不可能で、意味がない。 >>174 なんかな〜 伝わってくるものがないんだよな〜 >>175 じゃあ一言。 宮本武蔵と甲野善紀はどっちが強い? >>176 殺し合いなら、武蔵。 競技というか、技比べなら甲野氏、というところでしょう。 しかし実際、昔の達人にとんでもないのがいたゴロゴロいたのは事実みたいですよ。 合気道開祖、植芝盛平翁の師、大東流柔術の武田惣角がある日、丸太に向かって 手裏剣の稽古をしていたところ、片足を引きずったびっこの男がそれを嗤い、 「重心さえ判れば何だって手裏剣になる。」と言って小石を丸太に投げつけ、 引っこ抜こうとしてもとても抜けないくらい深々とめり込ませた、なんて話もあります。 これは、これまた武田惣角の高弟にして化け物みたいな合気の使い手だった 佐川幸義、という達人が直接その師の口から聞いた話だというから信用してもいいかと。 ちなみに、その名も知れぬびっこの手裏剣打ち、というか礫(つぶて)打ちに出逢った 日を境に、武田惣角はすっぱりと手裏剣をやめてしまったそうです。 その手の話は 古今東西武術家ランキングでググるとよいぞなもし もう一つ。 全くルールがないとしたら、世界最強は誰? それは先に言った「巨人」という存在になりますね。 国神(くにつかみ)、大国主命の祝福のあるもの、ともいいますか。 具体的な名を挙げるのは、まあ、野暮というものでしょう。 >>180 禰宜さん。 話の流れ的に、174、176が同一人物と推測出来るのはわかりますね? しかし、174「そもそも、過去の人間と現代の人間の運動能力を正確に比べる事など不可能で、意味がない。」と176が矛盾しているのもわかりますか? この人はこんなに短い時間の中でなぜ矛盾した事を書いたのでしょうか? >>181 いや、フツーにその間のイチナルモノさんのレスに言い方を改めたからの ようにしか見えないですが。 176に誰も答えられなければ、174が正しいことになるし、答えたなら176に 進む、と、そういう岐路に彼は立っていたわけですね。 まあ、例によって自分が出しゃばって答えてしまったわけですが。 >>182 違います。反語です。 池田晶子も「暮らしの哲学」で中学生に反語が理解されなくて困ったと書いていましたね。 あなたの答え、 >殺し合いなら、武蔵。 >競技というか、技比べなら甲野氏、というところでしょう。 はあなたの考えですね?これに反対する人もいるであろうという事は理解出来ますか? 例えば、「武蔵の方が強いはずだ」とか「甲野の方が強いはずだ」という意見を持つ人もありえますね? その時、あなたはその人たちを説得出来るだけの確かな物証を持っていますか? 例えば、「五輪書にこうこう書いてあるから、自分の考えは正しい」とか、「武蔵の体格から筋肉量を推定して、甲野のそれと比べて云々」みたいなことです。 もしあったとしても、それは100人が100人、誰もを完全に納得させられる物ですか? 宮本武蔵は400年以上前の人です。当然ビデオや写真もありませんし、身長体重だって大体しかわかりません。 ましてやどの位の速さで走れたか、どの位の重さを持ち上げることが出来たか、剣を振り下ろすスピードはどの位か、全然わかりません。 そんな中で、武蔵の強さを誰もが納得する形で数値化することは出来ません。 何となくとても強い人であったことがわかるだけです。 現代の格闘家達でも、同じ人同士が戦っても、結果は常に同じではありません。 過去の人間と現代の人間の強さを比べるのは不可能なのです。 178のランキングをググると、すぐに反対意見が出て、議論になっているのがわかります。そして、結論など出せる訳がないのです。 >>183->>184 骨太の論考ありがとうございま〜す。 ところが、ですね。 自分は小林秀雄さんの「歴史は第二の自然」と 池田晶子さんの「身体はもっとも身近な自然」 という言葉を前に引きましたが、その自然に無私に、真摯に、向き合い、 「歴史を『思い出し』」、「身体に『耳を傾ける』」と昔の達人がその身体に 見たものもおおよそ判ってくるものなのですよ。 ちょっと信じられないかもしれませんが。 実際、禅僧は禅を組むことで菩提樹の下で悟った釈迦と同じになるわけですし、 先に自分は甲野さんは失われた「身体」を取り戻した、とも言いましたね? そのへんの「思い出す」感覚に比べれば、こう言っちゃなんですが、仰る「数値化」 なんてのは枝葉末節もいいとこです。 あと、自分は武蔵が強いとも甲野さんが強い、とも言ってないです。 正直、この二方の強さを比べる、という発想自体がそもそもなかったですし、 結論自体出したくない、というのが、実は本音だったりしますw いいじゃないですか。 そうした強さ論議は尽きなくて。 武蔵派にせよ甲野氏派にせよ、それを論じる人にそうした達人への愛があり、 達人を語ることでめいめいの豊かな自己を語ってるとするなら、自分はそんなの を見てるだけでお腹一杯で幸せです。 昔の人が凄いのか今の人が凄いのかは俺には分かりませんが、 昔の天才達の間では、身体レベルで情報をやりとりする場があったように思います。 釈迦や孔子やソクラテスの周囲など、天才が天才を生んでいく場において 所作、間の取り方、呼吸などから以心伝心的に価値を共有していくことがあったと想像します。 現代でもそのような場は数多くありますが、価値の伝達や共有の方法が、 文書による文字や数字を重視するものに少し偏っているのかもしれません。 みなさん気がはやいですね。 172をよく読んで下さい。 「強さ議論には意味がない」は前段です。 主題はその後にあります。 >問題は、なぜ文明の発展によって身体能力が退化しているという説に人々が共感するのかというところにある。 こうして細かく丁寧に考えて行くと、古代人が現代人より優れていたという確実な証拠はありません。 でも、「文明の発展によって、現代人の身体能力は衰えている」という説にはみんな納得します。もちろん僕も納得できます。 なぜ、根拠のない説なのに何となく受け入れたいと思うのか? 不思議ではありませんか? 論理的に正しいものを正しいとして受け入れるのならわかります。正しいのですから。 でも、正しいか正しくないかわからない、正しいかどうか確かめることが不可能なはずなのに、結論だけは何となく受け入れている。 どういうことでしょう? 少しそれた話になりますが、都会の人はよく歩くという話があります。 田舎は車社会が浸透している、車がなければ生活できないので、近くの(といってもそこそこ遠いですが)コンビニにも車で行きます。 なので、田舎の人はあまり歩かないという説です。 東京は大江戸線の様に電車に乗るまでに何階分も歩かなければならない場面が多いです。 近所の駅やバス停まで、また駅やバス停から目的地までも歩きます。 車なら家の駐車場まで、また、田舎は目的地にも駐車場がある場合が多いので、ほとんど歩く距離はありません。 この様に、公共交通網(≒文明)が発達しているから人が歩かなくなったというのは一概に正しいとは言えません。 >>187 以前、イチナルモノさんと「オフ会」をしようか、という話をして延期になったこと があるんですが、この際もう一度考え直してみましょうかね。 >>188 えーっと。 >>172 の後の>>174 で「強さ議論は意味がない」と言ってて、それを「前段」? 「武器(文明の利器)の発展と身体」のパラドクス、でその根拠は既に示した筈なのですが・・・? 周囲に溢れかえる文明の利器の存在そのものがその「根拠」なのに「根拠のない」って・・・? ・・・結局納得するしないはその当人がそうした文明の利器にどれだけ依存してるか、はたまた、 どれだけ意志的に運動してるか、にかかってくるという程度のことでは? 結局のところ、皆、文明の利器で生活が便利になってく一方で、それに頼りきることで失うものを 恐れてる、てことですよ。ご存知ないかもしれませんが、80年代なんかはそれが特に顕著で、もう 文明否定論や文明破壊論まで出たくらいです。幼少時のうろ覚えですので、典拠は出せませんが。 「共感」、の問題はこれでいいですよね? 貴方の負けず嫌いはよーく判りましたが、それで自論を転倒させてしまうのはちょっと関心できませんな。 難しすぎましたか。もう一度行きますよ? まず、172を全て再掲します。 100年前の100m走の世界記録は10秒6だった。 あらゆるスポーツで世界記録は伸び続けている。 人間の身体能力は本当に退化しているのか? 科学の発展は、より多くの潜在能力を引き出す事を可能にしている。 問題は、なぜ文明の発展によって身体能力が退化しているという説に人々が共感するのかというところにある。 二つの段落になっていますね?わかりますか? 一つ目の段落で言いたい事はここ。 「人間の身体能力は本当に退化しているのか?」 これも反語です。この文章の後に本当に言いたい事が省略されています。 つまり、「人間の身体能力が本当に退化しているのかどうかはわからない」がこの段落の要約です。 174の要約は、 「過去の人間と現代の人間の強さを比べるのは不可能なのです。」(183、184参照) ですね? これが172の根拠です。 「退化している」という事は、「過去より現代の方が劣っている」という事です。 過去と現在を比べられなければ、退化しているかどうかは確かめられませんね?わかりますか? そこで二つめの段落です。172全体で一番言いたい事はこれです。再掲します。 問題は、なぜ文明の発展によって身体能力が退化しているという説に人々が共感するのかというところにある。 第一段落を加えて要約すると、 人間が退化しているかはわからないのに、人間が退化しているという説は人々に受け入れられているのはなぜか? です。わかりますか? 「文明の発展によって身体能力が退化している」という説は、「文明が発展している」と「身体能力が退化している」が同時に起こっている時、それを結びつける物です。 でも、「身体能力が退化している」かはわかりませんね?確かめようもない。 ならば、「文明の発展によって身体能力が退化している」という説は成り立たないはずです。 「文明は発展したが、身体能力が退化しているかどうかはわからない」という事です。 んーっと。その、なんですね。 まず、完全論破されてる自覚と、独り相撲してる自覚を持ってください。 論理はそもそも思考の骸ですが、そんなふうに「骸の骸」を持ち出されても こちらとしてはあまり、一緒に立ち止まってやる義理もないのですが・・・ そうですね。前進のために、ちょっと荒療治なファクターを提示しましょうか。 貴方はその貴方の『過去より現代が劣っている』に疑義を呈する事実として・・・ 「難波歩き」をしていた昔の庶民は走れなかった。 という事実はご存知でしょうか? これはそもそも貴方の説というか問題提起というかを補強するファクターですよね? 貴方の言う「文明は発展したが、身体能力が退化しているかどうかはわからない」 なんてのは、少なくとも自分にはとっくの昔の前提で、それに沿って語り、 そもそも「身体能力」ではなくもっと広範な「『身体』」を問題にしてきた つもりなのですが・・・ 身体の達人の豊饒の海に背を向け、ミヒャエル・エンデの「文明砂漠」の亡霊 といまだに戦う魂もあるのですね。論旨はともかく、貴方という存在を知ったこと 自体はたいへん為になりました。 >>194 >「難波歩き」をしていた昔の庶民は走れなかった。 昔の庶民が難波歩きをしていた証拠を見せて下さい。 「昔の庶民が難波歩きをしていた」は一つの説、しかもあまり主流でない説にすぎません。 >>195 たとえば、水木しげるの漫画のキャラクターが怖いものを見て逃げ、 走るときには必ず両手を広げますが、それは難波歩きしか知らない、近代体育 の走り方しか知らない人のおおよそ走りと呼べない走り方だったりします。 水木氏はそうした古い古い光景を鮮烈に思い出し、しかも絵にできる作家なのですね。 火事のときに群集が揃いも揃ってそうしてもろ手をあげて逃げる江戸時代の瓦絵、 なんてのもありますし、だから、手を上げて踊る盆踊りが実は避難訓練だったのではないか、 という説もあるくらいです。 難波歩きは重心が低く、近代人や幕末に日本を訪れた欧米人のやってる互い違いに 手を出す「通常」の歩きは重心が高いので、それを奇異に感じた、という双方の記録 もあるようです。 ていうか、武蔵VS甲野氏とかふった割には、貴方は武蔵のことも甲野氏のことも たいして知りはしないし、関心や、ましてや愛もないですよね? この二人の背を多少なりとも追うなら、そんな問いなど在りうべくもないのですが。 その手の「外なる」証拠集めをしないと一歩も進めない、というなら御自分で。 そこまで面倒はみてやれません。反語を強調するなら、その逆説弁証の狭間に 真実を見出すことです。 >>196 訂正:×近代体育の走り方しか知らない ○近代体育の走り方を知らない 先にイチナルモノさんが挙げた、難波走りのような走りは侍・忍者・飛脚くらい にしか出来なかったわけですね。 マンガでしょというツッコミを脇においておいても、水木しげるは大正11年生まれです。当時の映像はYouTubeでも見れますが、難波歩きは見当たりません。 さらに、「明治以降の教育によって難波歩きが駆逐された」とするあなたの主張とも矛盾します。 僕はこの書き込みで最後にします。 最後に禰宜さん。 あなたは自分の病気を自覚しておられますか? 日常生活で、 空気が読めないとよく叱られる 普通の会話をしているのに突然相手が怒り出す みんなが笑っているのに何がおかしいかわからない の様な事はよくありませんか? もし、その事で仕事や人間関係がうまく行かない、社会生活をストレスに感じるなどで苦しんでいるのでしたら、精神科で相談されると、改善するかもしれません。 172氏の問いかけの主旨は、現代人の身体は退化している説への不満のようですね。 それで、172氏は「身体能力」という概念を使って、筋力、持久力、瞬発力などの比較要素に 注目してくれと主張しているのでしょうか。 現代のスポーツ選手の方が筋肉増強剤やBCAAクレアチン等を効率的に摂取しながら 科学的な筋力トレーニングをしているからパフォーマンスが凄いではないか、 都会人も早足で通勤しているから腿の筋肉がカッチカチやぞということですね。 そのような現象が、生物学の進化論において進化と呼べるのか退化と呼べるのか 俺が無知なせいで分かりませんが、それぞれの身体が置かれている環境に対して順応しようとする過程の 一形態を示しているのだとは思います。 ナンバについて時代考証する力は俺にないので、実際に当時の歩法や走法がどうだったのか というよりも、今の体の使い方とは異なる動きの可能性を示したことに価値を感じています。 私的な程度で言わせてもらうと、身体を考える上で、筋力、持久力、瞬発力等の やや外的な出力系が重要だと考えますが、俺は身体のさらに内的なもの、息の感覚、気配の感覚、 方向と勢いの感覚、間の感覚、拡張と収縮の感覚、円の感覚、平衡の感覚、 重みの感覚、運びの感覚、静止の感覚、粘り付く感覚、折り畳む感覚など、 様々な感覚が立ち上がる場として、身体と意識の関係を見て行く、みたいなことに興味があります。 >>198 その駆逐にも時間差があることを他ならぬあなたの「都会の人のほうがよく歩く」 という話が証明してるんですけどね。瓦絵の話はスルーですか。はいそうですか。 他にも西南戦争で「走れなかった」農民兵が薩摩武者にいいように斬られた、とか 「証拠」は枚挙に暇がないんですがね。 まあ禰宜さんは、のらりくらりと人を欺く双極性哲人だが 精神科行っても意味ないだろう >>204 また的確な人物評をしてくれますねw まあ、「欺かれる」人にはちょっと内省が足らないわけですが。 しかし、それをおいても水木氏のあの尋常ならざる絵を「漫画でしょ」 で済ませられるなら、まあ、大正気が狂気や病気に見えたとしても、 しゃーないですねえ。 >>201 いやほんとうに凄い分け方をされるものですね。 武蔵が自身の兵法を五輪書で「五輪」に分けたのもそうした身体感覚を 「分ける」必要があったからなのですが、実戦においてはそうして分けたものを 一つに統合する必要があるので、 地・水・火・風で「分けて」、最後の空、で「合わせる」という構成にしたよう 見られます。 仰るそうした感覚は、光(視覚)に惑わされたりすることも多いので、自分は明かりを 消した夜稽古でその感覚を研いだりもしてます。 欺くというよりは「いなす」の方が的確だったかな 俺もその空で合わせる、つまりユナイトの技法を使ってるよ 腹圧を高めていくのさ 身体哲学については確かメルロ・ポンティが研究してる筈 池田さんは身体を使って考え続けよとは言っていたが、あまり身体論について言及しなかった ここまでの流れをぶち切るようですまないが やはり死と生について考えるのに、なにゆえ自他殺が否なのかについて芯を突く考察をみんなでしてみないか? そこから死生を考えみようよ >>208 以前、魂の宿る部位、という話になった、腹、ですね。 臍下の感覚はほんとうに身体のすべてをまとめてくれますね。 >>209 自分はそんな話もいつでもオッケーですが、ちょっと立て込んだことがあって 2〜3日他のことに集中しないといけないので、その後でしたら。 了解です 待ってます 東京くることあったらオフ会の件もお願いします 禰宜さん 9月の14・15と尼崎に行くことになったんですけど飲みにいきませんか? ああどうも。 14日なら大丈夫かもしれません。 次の日は仕事なので、あまり遅くまでは無理ですがw 禰宜さんが不思議だなと思うのは、 池田の愛読者でありながら、 どうして >巷では参院選で自民党が圧勝しねじれ解消ということでわいてますが、果たして >この自民党勝利は繰り返される政治現象のひとコマに過ぎないのか、それとも高度 >に一回性のある本質的歴史事象なのか? なんて問題に興味をもっているのか。 単純に考えて、池田的なものと正反対な問題意識でしょ。 そんな問題どうでもいいじゃんとかおもったりしないの。 >>213 了解です ここのスレで待ち合わせするのもなんなんで 近くなったら哲学板に待ち合わせスレ立てるんでそこで待ち合わせしまひょ それともオフ会板の方がいいかな? >>214 歴史と政治と哲学は別に分離しているわけじゃないと思うよ 学問の原点が哲学と認識されている体系の中で歴史学・政治学他様々な学問体系がある 哲学が原点になってない学問体系を池田晶子さんが嫌ってただけでは? 禰宜さんは様々な学問の裏に流れる哲学性を高度に読み解こうと沢山の書物を読んでいるようだ 以前私は禰宜さんに、博識は知ではないと釘を差したが、私の杞憂だったようで、彼の志は私と同じところにある 只、禰宜さんはアリストテレスを嫌ってるようでいて、非常にアリストテレス的パルメニデス的な哲人なのに本人が気がついているのかは分かんないけどね ヘラクレイトスもパルメニデスもソクラテスもプラトンもアリストテレスも非常に素晴らしい学者 禰宜さんは現実の仕事ではのらりくらりと逆説でかわす技法でタヌキおやじって感じでやってるんだろうし、その癖がここでも出るんだろう 私は本質を射抜かなきゃ気がすまないヘラクレイトス的ソクラテス的性格なのでお互いいい関係だ ここは禰宜さんが管理人だから禰宜さんに対して思う事はズバズバ言って皆で洞察を深め合おう よかったら14日の飲みに来れる方は参加して友好を深めようよ すいません名前書き忘れました >>216 はイチナルモノです >>214 更に付け加えるなら プラトンという人は、例えるなら執念の哲人だった 池田晶子さんはプラトン的な執念の哲人だった 巫女ともてはやされたりもしたが、彼女の素晴らしさは哲学に対する執念だった その姿勢を私も禰宜さんもとても尊敬し見習って、プラトン・池田晶子という先輩を越えることが礼儀だと思ってるんだ ここに集まる皆は池田さんの執念に魅力を感じて集まってるんじゃないのかい? 14・15の出張キャンセルになった 禰宜さんまたの機会に飲みましょう >>220 うわわ、それは残念です。 ちょっとここ数日所用でこのスレを空けながらもいろいろ考えてたのですが・・ イチナルモノさん、次の機会を楽しみにしてます。 >>214 遅ればせながら、よくぞそこを突いて下さいました。 池田さんはあのとおりのイデア体質ですから、「国を考える」にしてもその「国」は 日本だのアメリカだのドイツだのフランスだのの、具体的・現実的な「国」というより は、古今東西・もう存在しないローマ帝国だのギリシャポリス国家、そしてまだ生まれ てない「可能性」でしかない国、紙上の架空の国、すべてをひっくるめた「国一般」と しての「国」だったわけですね。 だから、自分がそれを知りつつ自民党の勝利、なんて「国一般」に比べれば多分に 現象的なことを俎上に出すのを訝るのもわかりますが、まあ、今のところは、ヘーゲル の歴史哲学的な関心と、「国一般」を突き詰めても存立しうる「愛国心」の問題、とだけ 答えさせてください。 >>216 >>219 アリストテレスについては、450君ともずいぶんとやりあいましたね。 「知」を推移させる学問的な知については仰るとおり、アリストテレスは たいへん素晴らしいのですが、自分は卒論で学長賞取ったりもしたのですが、 その「知」で存立する学府を飛び出てしまいましたのでw(涙) 執念については、あるとき、一点に集中するような執念からはちょっとベクトル を変えて、いわば、拡散・・・「気を散らす」ことに集中し、執念を燃やす、といった ことをやったこともありまして、それがタヌキ親父に見えたりすることもあるかも しれません。 どちらにしても池田さんの執念には惹かれてやまないわけですが。 さて、飲み会でどう話したものかといろいろ考えていたのですが、イチナルモノさんが 先に提起していた問題、「殺人」の問題にちょっと手をつけておきましょうか。 まず、池田さんが提示したのは 「考える人間は殺さない。」 というものだったと思います。 これに示唆を与えたのはドストエフスキーの「罪と罰」で、池田さんはソクラテスシリーズ でもその主人公ラスコーリニコフを登場させたりしているわけなのですが、 先の「死は絶対不可知」とこれがどう繋がってくるのか・・・ まずそうしたことから考えてみましょうか。 禰宜さん本当にすみません 必ずお会いしたいと心底ねがっておりますので今回の事ご容赦ください 私はどうも謝るのがダメな人間で文が失礼になっていること重ねてご容赦ください 自殺の件なのですが、彼女が平易な言葉で書くようになってからのもので 老若男女、子供たちが読んでも、つまり万民向けに書かれたもので 自殺がいかにノーかを書いてありました 自殺がいかにノーかを論理・倫理・道徳全てが完璧に融合し、これを読めば自他殺を完璧に防げるのではないかと思い 私はリアルで色々な事にさいなまされていて全然探せてない自分に嫌気が差すと共に その文章を発見し、死生を深く洞察し、これまでの自身がイエスなのかノーなのか、または新境地に至るのか、全く分からない未来を想像も出来ないで、今もリアルでもがいています その文章を探すという作業が苦しくて苦しくて、俺にしか分からないのに、もう嫌なんです 彼女は時に輝きを放つも、論理が未成熟だと思えて読むのがつらい はまる時が少ないのです彼女は 続き 私は学問は最初に弁証法ありきだと考えているので、つまり、論理→倫理→道徳だと 論理の自覚が不十分かと思える彼女の奇跡に戸惑いを覚えます しかし、私よりずっと死生を考えた彼女の倫理性が奇跡を産んだとしか思えない道徳の文章を一秒でも早く探し出し 自他殺を防ぎたい、それでいいのかどうかを考えたい、真理をつかみたい 彼女はヘーゲルの様な論理の天才ではない しかし彼女は道徳の天才です 論理型の私がそれでも探し出さなければならない文章 私は全力で死に物狂いにならなければならない あまりの強迫感に気がおかしくなりそうです ただ私は、それを読んで、自他殺はノーだとだけ、その文章は忘れてしまったのに、これまで遂行してきたのです 今の俺は禰宜さんに会う資格がないのでしょう 結果が全てです 俺はいつまでここで弱音を吐き続けるのか 俺から言えるのは、俺が探し出すまで、自身を殺すな他者を殺すな、です ぶっちゃけ自殺というワードを彼女の全著作に検索をかける機械があればそれでマジで楽に探したいっす なんかいい案ないすか? 不精者が楽する方法ないすか? 超長文すいません イチナルモノさん、どうかお気になさらずに。 池田さん本人としては、道徳=外的強制は嫌い、自分を倫理=内的自由な人間だ、 と言っておられたようですが、やはり、高度に倫理的な人というのはどうあっても 人を惹きつけ、人の範となり、そうした形で道徳、となってしまうものなのですね。 とうぜん、それはその光を眩しがる人の心には憎しみを生み出してしまうものですが。 他殺、でなく自殺については、ソクラテスシリーズで、クサンチッペに心中を引き合い に出して、わりと乱暴なことを言わせてもいたようですが、『14歳からの哲学』では青少年 相手、ということで柔らかいことも言ってたように思います。 いまはちょっと忙しくて読み直す時間がないのですが、時間ができたら、ちょっと探してみようと 思います。 前に「考えは頭に」「心は胸に」「魂は腹に」宿る、というような話をしたことがあると思いますが、 とにかく、考えや心が千々に乱れるときこそ、腹を据えましょう。 思えば、自分もそんなときに池田さんに出逢ったような気がします。 あれから改めて池田女史の著作をいくつか読みおそらくこれかというのもあったが それよりも 池田女史の論理でどうしても合点がいかないものがあるのでそれを議題にしたい 何故、彼女は「生死」と「有無」を同一の論理で語るのか? 生死と有無とは各々別々の概念だからそれぞれにその言葉があるのだろう あるはある、ないはない、は有無の説明なら分かるが、生死の説明では断じてないのではないか? 死生観と存在論とをごっちゃにしてもらっては困る っても彼女、死んでしまわれたのですが >223まず、池田さんが提示したのは「考える人間は殺さない。」というもの それはそうかもしれないけども、人間にとり、思考を情念、愛や憎悪や 心が上回る、それによって思考が無化されることはある。殺したところで 解決にはならないとしても、なおも殺したい、殺す。実行。というふうに 。 228の続き 人間にとり思考は存在の中のいち要素ではないのか。池田さんの生前の 旦那さんがいたはずだが、彼を愛していた女がいたとして、彼と結ばれた 池田さんは誰よりも憎い、殺しても飽き足らない人間になった可能性があ る。その場合、殺しても誰も救われない、何も解決しない、分かっても 殺してしまう、そういうケースはある。たまたまタイミングが合わなくて 殺人にはならない。 思考が解決できても、行為はそれを無化する、あるいは情念が無化する、 愛は無化する、それが真理じゃないのかな。 229の続き 池田さんの本とかを読んで感ずる疑問のひとつがそれ だった。やたらと思考を訴えるんだけど、思考は人間存在のすべて ではない、よって無化されてしまう局面も存在する。思考が無化され る局面は池田さんの思考にはない。でもそれもまた人間であって。そ ういうアスペクトが見られない以上その人間観は不十分にならざるを えないのは致し方ない。 230の続き 「社会は幻想」とか本当に言ったのかは知らないけど。 例えば池田さんは生前多くの本を出し、死後もいまだに新刊が出る ほどの人気作家なわけ。で、出版業界とか、たいていは細々とやって るのが多い、とか読んだことがある。零細だとかね。その中で作家 が本を出す。当然原稿料やら印税やら振り込まれる。やりくりしな がら作家に払ってるわけでしょう。それが契約であり報酬であり、 出版業界であり、労働ということですね。いやでもそこでは一人の 法的主体たらざるをえない。そこで社会は幻想とは言えないと思う のですけどね。 >>230 >思考は人間存在のすべてではない 横レス失礼。 まさにそのとおり。 池田があれほどまでに「自分で考えること」を強調したのは、 じつは池田自身に「自分で考える力」が微塵もないから。 「自分で考えるしかない仕事」に就いているにもかかわらず。 ふつうに「自分で考えること」ができる人間ならば、 そこまで「自分で考えること」を主張せず、 もっとも肝心な「自分で考えた結果」を述べるはず。 また「自分で考える能力」がゼロのくせに「自分は特別な存在」 という思い込みを保持するため、池田が「懐疑主義者、独我論者」になったのは、 きわめて必然といえる。 なぜなら「懐疑主義者、独我論者」であるならば、「真理の実在」は、 「自分の恣意」に置けばいいのだから、他者との論争や「真理の証明」をしなくてもすむ。 なにしろ、どのように反論されても「自分がそう思うから、それは真理なのだ」 と言っていればいいのだから。 このスレの人すべてに言うが、反面教師的意味合い以外で、 あんなバカからなにかを学ぼうなんて、 ムダなことはおやめなさい。 >>232 へ〜えらい自信あるんだね。 昨日親戚の叔父さんが人の死を当たり前に見せる重要性を説いていたよ。 池田さんのは不可知論じゃないでしょ。今生きてる不思議を考え実感 しなさいってことでしょ。そもそも生が原因で死ぬということを知って しまっている人間とはいかなる存在か。 なにしろ大多数の人間は少々急がねばならないようだ。 でも例えば悠々と急ぐにはそれなりの自分ひとり立たされたときの感慨や思考が 必要だ。よく生きるためには良く深く考え、行動しせねばならない。 不思議とは独りで立ったときの感慨だと思う。それが基盤で考えねばならないの がおおかれすくなかれ個という存在だ。 >>233 >池田さんのは不可知論じゃないでしょ。今生きてる不思議を考え実感 >しなさいってことでしょ。 俺から見たら池田の場合、「だれにも解けないから、その事象については不可知」ではなく、 「池田自身がわかっていないから、強引に『不思議だ、謎だ』と言ってる」 ようにしか見えない。 池田が以前、新潮で「存在論」を語った言葉で 「結局、あるものは、あるからあり、ないものは、ないからないのだ」 というのがあった。 悪いがこれなら、小学生でも言える。 ヘーゲルを学んだのなら最低限、「理念としての存在」「いまだ個体を獲得していないが、抽象的には存在する “純粋有”」「その純粋有が、実体をもつために仮の宿として存在する“仮象”」 おなじ“有”であっても、これくらいの概念はわかっており、かつ使いこなせなければ、 「哲学者」とはいえない。 >おおかれすくなかれ個という存在 池田の場合、この“個”に対する認識が、著しくゆがんでいるのが問題。 池田のように、すべての“現象”を“本質(個)”から切り離して考えると、 それは「自立」ではなく、「孤立」にしかならない。 池田はある程度は売れていた著述家であり、その印税のおかげで、明日のメシの心配もなく、 好き勝手が言えたわけだ。 そんな池田の言葉を真に受け実践したら、「社会的存在でありながらも、人とつながって、しっかりと自分ひとりで生きていける」 という正しい自立はできない。 「どんな物事も“現象”=『自分と関係ないもの』ととらえ、”自我”以外のあらゆるものとの関係を排除し、 自分勝手な解釈に生きる」というようにしかならない。池田の主張を実践した場合。 「池田の概念や思考」は、そうした孤立を前提としたものである以上、 池田の言うとおりに生きたら、「イタすぎて見てられない、いいトシした中二病患者」 にしかならない。 >>234 >そんな池田の言葉を真に受け実践したら、「社会的存在でありながらも、人とつながって、しっかりと自分ひとりで生きていける」 >という正しい自立はできない。 正しい自立をするために哲学を学ぶのか? 久々にレスします。 >>227 それはやはり、在ることと考えることと生きることがどうしようもなく一致するしかなかった あの人ならではの諧謔だったのではないでしょうか。 >>228 「考える人は殺さない」についてですが、 これはあの神戸の児童連続殺傷事件についての論評にも関わるもので、 あのとき池田さんはあの酒鬼薔薇について、 「書く(考える)人間は普通は殺さない。書くという行為自体がそもそも世界を殺す行為 なのだから、殺した人間が書く、ということはあっても、書いてから殺す、というのでは 話があべこべなのだ。 なのに、彼はあのとおり、『書きつつ』殺している。 そういう『存在』を人は『化け物』と呼ぶ。 『化け物』とは善悪の極の狭間に星ぼしのごとく漂う無数の魂たちの間になんの前触れ もなく現れ、深い深い傷を与えたと思ったらすぐに消えてゆくものである。 そんな『自分』を求めて永劫の時をさまよう『彼』のような善悪の彼岸の『魂』が、 私には哀れでならない。」 という具合に論理展開し、あの酒鬼薔薇の思考以前の『思考』である、 魂、 の問題にぶち当たることとあいなったわけですね。 個、の問題も皮相としては社会性に自立や自我、思惟である程度は説明がつくのですが、 結局、この魂にまで深めるのでなくては、どうしても、なにか割り切れない部分が残って しまうことと思います。 小林秀雄という人は様々なる文学者の様々なる意匠に様々なる魂を見出し、他の追随 を許さない形而上性をもった批評文学を大成しえたところに池田さんを惹きつけたものが あったんでしょうね。 >>234 それは、新潮における池田さん亡き後の影、である川上未映子に言うならこのうえなく 妥当ですね。 まあ、池田さんの論は本質的すぎて、出会い頭だと現象へのピントの合わせ方を見失って 社会的に孤立しがちになるのもはたしかなんですが、「正しいこと」の価値が解ってくるなら、 福も舞い込んできますよw なるほど。禰宜さんの説明によれば酒鬼薔薇事件にたいする解釈として 出てきた、ということですね。それは知りませんでした。ありがとう。 ただ、化け物として生きた少年の孤独な魂、というのは、池田さんの批評 としては分かりますけど、それがあの事件を真っ芯で叩けているのか、とな ると、そこはやっぱり疑問がありますね。例えばあの事件にたいして、当時 同年代の人間から、「あれは分かる」という声があがっていた、という。 つまりそこには社会性に起因するものが多分にあったんじゃないか、と 考えざるを得ない。酒鬼薔薇自身、「僕を透明な存在にした学校への積年の 怨み」と書いていた。社会や学校が要請する用材性、価値あるものたれ、と いう要請、分析的理性による人間の対象化、その場合、人間は存在を奪われる 運命をたどる、なぜなら人間には理性をはみ出す動力、侵犯性があり、わけ の分からない暗さを抱え込んでもいる。そこで社会的な動力からの剥離とし て、殺傷があったことが窺われる。 239の続き あの行為が共鳴を生んだとしたらそこにあると思えます。 決して一人の問題とはいえない面がある。「化け物」とい う呼び名は切断操作をさせるものですね。ああいう事件にたいし、 特殊な精神の行為として処理する動きも社会にはおこるでしょう。あの 事件の場合、それはあまり良くない、と思えるんです。今、何が起こ っているのか、という意識がないと、池田さん的な批評だけでは足り ないと思いますね。魂の問題、を捨象することはないわけですが、 それだけでは届かない面も世の中にはあって、形而上だけで読めない 面もある。そこは限界があったんじゃないですか。 >>235-240 悪いけど、あの件についても池田はなにもわかってないよ。 事件直後のコメントが、「私は”考える”前に“信じる”という態度をずっと批判してきた。 だけどの件にかんしては、信じてもいいのではないか? 彼には悪魔がついたのだ」 だからねー(w 俺はあの事件にかんする、いろんな識者のコメントを読んだが、 これほど"本質的な”見解は見たことない(爆笑)。 >>234 で語ったように、池田は自身の手に負えない事象に出会うと、 そこで自分の無能力を素直に認めず、現象のほうに「不可知」のレッテルを貼る、 ただの無能な卑怯者というだけ。 もう一度設問 あれから改めて池田女史の著作をいくつか読みおそらくこれかというのもあったが それよりも 池田女史の論理でどうしても合点がいかないものがあるのでそれを議題にしたい 何故、彼女は「生死」と「有無」を同一の論理で語るのか? 生死と有無とは各々別々の概念だからそれぞれにその言葉があるのだろう あるはある、ないはない、は有無の説明なら分かるが、生死の説明では断じてないのではないか? 死生観と存在論とをごっちゃにしてもらっては困る っても彼女、死んでしまわれたのですが >>241 それは池田さんが引用した霊能者の弁ですよ。 まあ、悪意の観念にいくら突っ込んでも無意味ですんで、これ以上は言うこともないですけど。 >>239->>240 まず、「解釈」というところでボタンを掛け違っていると思います。 この問題は、宗教関係者がはるか昔から救済しよう救済しようとして血道をあげてきた 度し難い度し難い精神・魂の問題ですから、池田さんもその文脈のうえで魂を持ち出した、 と見るのが妥当かと。 彼への共感については、「広義」にはそうした悩める若者に見られがちな「度し難い精神・魂への共感」 と、ミも蓋もない「狭義」としてはあの少年K・Hの出自にまつわる「民族」的共感によるもの、で、 説明がつくでしょう。 前者については宗教が、後者については、ネットの天狗たちが、さんざん論ってますからとくに 補足することもないのですが、たしかに池田さんの至らなさを補足するとしたら、仰るとおり、 ああいう魂が必ずしも「個」としてあるものではなかった、とはいえるのかもしれませんね。 それでも、あの「少年」の突き抜けた異様さは際立つわけですが。 >>242 そこに突っ込むとなると、ハイデッガーの「存在と現存在」が不可避になりそうですが、イチナルモノさん、 ハイデッガーへのチェックの具合はどうですか? 酒鬼薔薇事件について今一度言い直すと、社会の駆動力とは何かを抜きにし て論じるのは論じ方として足りない、ということ。で、同世代の共感も、そこ で為されたとみるのが妥当だと思いますが。在日の問題ではなくね。そこで の共感、いわば行為自体への、と言い直していいと。で、池田さんなりが 故意に外しているのかもしれないけども、動物や人間の殺傷と侵犯性、近代的 個我の解体の関連というのは、エロティシズムの問題とともにジョルジュ・ バタイユが追究したことでもありますね。つまり「魂の救済」という課題と は別個に、思想が問題にもしているわけです。それは20世紀の前半の話しで すね。悪とか殺しの問題について思想が救済のみの課題としていたわけでもな い。「哀れな彷徨える魂」としてのみ見ていたわけでもないわけです。そうい う欠落は池田さんに限りはしないですが…バタイユ研究からさえなかったわけ だから。社会的な関連、また、20世紀思想との関連ですね。〈個の問題とは 限らない〉どころではないわけです。そうみてくると、池田さんの思考の 意外な狭さというのがみえてくるとも思えるんですけどね。 >>243 禰宜さん ハイデガー未チェックです これから読んでいきます >>244 その「狭さ」というのがいかなる次元象限における広さ狭さなのか、というの は訊くだけ野暮というものなのでしょうけど、池田さんはあの事件に対してバタイユ等 近代思想の無力を強く感じたそうです。(曰く、『これは古典的な事件だ。』) 前にも言いましたが、哲学というのは分析によって水平方向に展開して行く科学 とは逆に、総合によって垂直方向に遡及して行く知性ですから、「思考の狭さ」という 批判もあまり意味はないのではないでしょうか。(問題は思考の『深さ』) 埴谷雄高という人はそのへんを踏まえ、哲人というものを 「樽の中のヘラクレス」なんて喩えてたりしてます。 >>245 ぼちぼちいきましょう〜 存在、が概念として完結的なのに対し、現存在は推移的であり、そこのところが 常に推移的な生、と完結的な死、と深く絡んでくるわけですが、池田さんが「生死」 と「有無」を同一にしたのには、ハイデガーの跡を継いで現存在を追っていた あのカダマー教授も関係してるかもしれませんね。 >242 何故、彼女は「生死」と「有無」を同一の論理で語るのか?生死と有無 とは各々別々の概念だからそれぞれにその言葉があるのだろう あるはある、ないはない、は有無の説明なら分かるが、生死の説明では断じ てないのではないか? ハイデガーにおける有とは、〈〜にとって…が有る〉〈〜にとって○○は △△で有る〉といういわば現前や判断をあらわす。それらは自己が有って はじめて為される世界の開けなわけですね。有無と生死が連結されるとしたら そこで、じゃないかと思いますけどね。 バタイユが現代思想で、だから現代のことだけ思想したわけ、ではないです ね。未開の儀礼そこでの供儀を禁忌と侵犯の例証として思想しています。ただ、 善悪のありかたとして、池田さんが永井均と対話してるのを読むと、人間が 悪を為すのはなぜかといえば、自己にはそれが悪ではないからだ、善だからだ というとらえかたをしてますね。私はそこは意志や理性による行為に限定し てるからじゃないか、と思えます。悪だと思わないから為す、はたしかに一理 有るけども、悪だと思っていても、必然や自然によって殺人は為されるし、ま た、必要性があれば略奪もありうる。何らかの解放があるから衝動的にやって しまう場合もある。そこで悪だと認識されていたところで絶対的な抑止には ならないわけです。 >>247 繰り返しになりますが、「ハイデガーにおける〜」と「池田さんが〜」以下を ハイデガーや池田さんの「ひとつの」解釈とみなすのにはくれぐれもご注意。 自己の問題を持ち出すなら、ハイデガーよりはデカルトが妥当ですし、池田さんの その捉え方は、そもそもソクラテスの「悪と知りて成す者なし」に由来するもので、 実は既にキルケゴールが「死に至る病」によって「悪に対する捉え方としては素朴すぎる。」 と批判してたりもしてます。 殺人の是非については、池田さんもヒトラーとかを引き合いに出して、「殺すか殺さないか、 結局、人は悩むもので、『賭ける』ものだ。」 というような言い方をしてて、やっぱり結局、答えは出してないですよ? まあ、あの酒鬼薔薇は殺人の是非以前に「人を殺すのが好きで好きでたまらない。」なんて どこぞのナチ残党みたいなことを平然と言い切る、『退治』するより他のない『化け物』なので、 結局そうした『人間』の苦悩なんかともどこまでも無縁で、そもそもそうした一般化のしようが ない存在なわけでもあるわけなのですが。 バタイユを経由せずとも、そうしたことについては民俗学からもいろいろと示唆は得られる ようで、池田さんは知り合いの民俗学者から 「ああしたことは実は珍しくない。だけど、それはとてもじゃないが(世間に)言えない。」 なんて言われた、という話ですね。 「一般化しようのない存在」とか「化け物」とか、それもまた、だけどれっ きとした人間で。人から生まれて成長した存在ですね。で、今は既に刑期を 終えて社会復帰してるという…。「化け物」という言い方は人間を二分法する ところがある。ハイデガーの思想には、個体における他者性、互いに交渉し がたいもの、の発生について考えをめぐらすところがあります。池田さんの 云い方はそういう人間の個体性について、有限性について、届かないこと、 分からないということをもってじゃあそれは何故存在してるのか、と問い 直す労をせず、反対に排除を意味する、まあ何となく云ってみたのかも しれないけども、ついていけない気がします。そういう「化け物」という しかない人間の存在こそ、人間存在とは何かを深める契機なんだけど。ただ 遠ざけたいだけにも見えますけどね。「存在が存在を考える」とか云う 割には遺された人間観が狭く浅いんじゃないですか。そこで止まっちゃ いけないところでもう止まっているでしょう。結局答えを提示する気はなか った、ようにも見えますね。まあ良く云って自由言論人ですか(笑)そう 形容するしかないんじゃないかな。 池田さんのそういう止まり方に、ハイデガーなりが哲学は「有る」をおろ そかにしてきた、とした理由がみえるようにも見えますね。池田さんはそう おろそかにしている気はないんだろうけど、個体を知るための方法が欠けて います。だから今からみれば安易さの残る言い方に…。もっとも、そういう 云い方しかできなかったのは池田さんに限らないし、彼女だけを責めるのは 酷だとも思いますけどもね。哲学の達人だったわけで、その達人がそういう 云い方、あと哀れな魂ですか、そういう表現。人間観として納得しがたいで すね。習い憶えてきた哲学では解けなかったことは確かでしょうし、でも そうは言わないところが(笑) デカルトとハイデガーでいえば、「我思う、故に我有り」は転倒されるべき で、「我有り、故に我思う」である。で、デカルトのいう〈我〉とは無世界 的に、他の事物と同じように有る。無世界的であるというところでこの〈我〉 は有の忘却の一種であり、とされていますね。『有と時』の第43節 現有と 世界性と実在性 b)オントローギッシュな問題としての実在性 に書いて ます。デカルトとハイデガーの思考はかなり異なり、デカルトの自己論を 破壊することが有論的には必要だとみなしていたんじゃないか。 ここでデカルトを無世界的と規定していることで、近代世界や学における有 の忘却性に、焦点を定めようとした。あと、世界は有るものを超越する、とも 云われる。だからこそ一般化は不可能なんだ、ということが含まれている。 そういうところでたとえば異常者や怪物について、思索の体系から排除して なかったと思います。 読みづらいので、もう少しお考えをまとめて、かつ、改行にももうひと工夫を。 どうにも、宗教と哲学の間の一線と、自己論と存在論の間の線引きにおいてかなりの 混乱があるように見受けますね。そもそもなんらかの前提のもと、なにかを揶揄したい 意図があるのだけはわかるのですが、「だけどれっきとした人間で。」のくだりで完全に 宗教論からも存在論からもそれてあさっての方向に論理が向かってしまってますので、 どこまでも論旨が見当違いになってますよ? ようするに、「少年Aを『化け物』と言うしかなかった池田は浅く狭い」と言いたいのでしょうか? もしそうだとしても、はっきりいって、貴文はまったく証明の体を成していない文章になってますので、 『化け物』という字面ではなくその本義の喚起する畏怖恐怖と真摯に向き合い、更なるご精進に励むことを お勧めます。 さもなくば・・・ 『喰われます』よ?その『化け物』に。ニーチェみたく。 実際、まだ池田さんが生きてたころの池田スレにはそういう永劫回来に陥った 通称「晶子です。」という荒らしがいたんですから。 さて、人の人たるゆえんやいかに? その、人、の「形」から否応なく外れる『化け物』たるやいかに? まさか、生物として人なら人、なんて言いますまいね?(嗤) >>251 なるほど。 池田は自分の哲学を「世界に生起する諸事象を普遍的意識による個別的現象形態として認識し、それら全事象の存在論の、詩的言語による体系化の試み」としてしまった。 彼女は結局、彼女自身の内にしか潜ら(れ)なかった。哲学者にはなりきれなかったんだな。 >>253 然りといえば然り。 彼女は哲『学』者ではなく正真正銘の哲人。 哲学者になりきれなかったのではなく、正確にはならなかったわけなのですが、 そういう貴方は「哲学者」ですか? 内に潜るのも突き詰めると大きく外に突き抜けてしまったりする逆説は、昨今、「ニート」のほうが 世の動きをよっぽど把握してる、という皮肉きわまりない事実に端的に現れてたりもしてますがね。 >読みづらいので、もう少しお考えをまとめて >どこまでも論旨が見当違い >貴文はまったく証明の体を成していない文章 いやあ、違うと思うな(笑)そういうのは池田さんの本を読んだときに実は 時どき感じていたことがらですけどね。 >宗教と哲学の間の一線と、自己論と存在論の間の線引きにおいてかなりの 混乱があるように見受けますね。 池田さんの存在論からしてそういうところがあったんじゃないですか。でも それを馬鹿にはしないですよ。哲学的エッセイとしては面白い文章だった わけで。考えさせるところもあるしね。私の方はいたってクリアで。そう 見えないなら仕様がないけどねえ。 >なにかを揶揄したい意図がある 池田さんのは突っ込みどころ満載だから(笑)あと、若干好きな思想家が かぶってるのも突っ込む一因かもしれませんね。小林秀雄と埴谷雄高は私も 好きで。 あと、美貌に生まれたことやブスに生まれたことや,精神障害や、身体障害 …。生まれ持ったものを背負って人が生きていかなければならない。幸運も あれば不運もある。「私は可愛いかったからよくもてた。だから辛気臭くても 苛められなかった」って幸運でしかないことをサラッと喋ってるインタビュ ーがありますね。『2001年哲学の旅』に。美貌とブスの一生を左右しかねな い問題について、生まれ持った不幸について自分で問うことは多分なかった んじゃないか。(ありますかね?)やっぱこの人ってどっかでラジカルさが 欠けてるよな、って感じは持ちますね。 >>254 >彼女は哲『学』者ではなく正真正銘の哲人 http://kotobank.jp/word/ 哲人 いんやー。悪いけど池田は「哲人」の域にも達していないよ。 全然、見識が高くないし。 池田の独我論、「経験(思考)のみこそ真実」という見解も、 「じゃあなぜ、お前は会ったこともない(経験していない) ソクラテスやヘーゲルのことを、どうこう言えるのだ。 ソクラテスやヘーゲルのことは、お前が『経験した』のではなく、 学習した(信仰した)から知っているのではないか」 とだけ言えば、論破は完了。 「『信じること』ではなく『考えること』が大切」という池田の見解にしたところで、 これほど逆説的に「池田の考えるチカラはゼロ」といいう事実を表明しているものはない。 創造の天才、たとえばピカソやモーツァルトが、「芸術は模倣ではなく、独創性が大事だ」 などと、当り前の能書きを、いちいち垂れるだろうか? そんな時間があれば、彼らならそれこそ「真に独創的な」作品を創ることに費やすだろう。 学問の偉人、ヘーゲルやアインシュタインも然り。 彼らは「学問とは、自分のアタマで考えることだ」などと当然のことを、 いちいち主張しない。 「自分で考えるチカラ」がゼロの池田の、どこが「哲人」なの? せいぜいが「物知りエッセイスト」だよ。 >>255 >>256 あえて同一人物かを問うことはしませんが、 正直、話しててどんどん詰まらなくなってくるな、という自分の感想は一言だけ、 言っておきましょうか。 美醜に先立つ真善を証明するのも現状のご様子だとこっちがただただ めんどくさいだけですし、懐疑を妄信してる方にはどうぞその場でご勝手に 足踏みを、としかいいようもないですね。 自分はすでに必要なことは充分開示致しました。 まだつっかかれば何か貰える、と子供の駄々をこねるのも大概に。 正直、あなた(方?)が彼女を認めようが認めまいが、心底、自分にはどうでもいいんですが、 嘘つきもほどほどに。 >>256 あ、言い忘れましたが、辞書の類に頼るのは、言葉の意味の「意味」を遡及し探る センスの無さを自ら曝け出してるようなものですよ? 「哲人」と「哲学者」の違いについては前にソクラテス→プラトン→アリストテレス の推移、というような話し方で自分も語ったことがありますので参照あれ。 >>258 >辞書の類に頼るのは、言葉の意味の「意味」を遡及し探る >センスの無さを自ら曝け出してるようなものですよ? お前は以前痛い目にあったもんなwww トリップやIDがないから、信じてもらえないだろうが、 俺は>>255 氏や>>259 氏とは、まったくの別人だよ。 >>257 >美醜に先立つ真善を証明するのも ふーん。あなた、真善美の論理構造が、おわかりになるんですか? あなたはまた、「つまらない」と言って、こちらの提起した問題に、 具体的に答えるということはしないでしょうが、 ここであえて問い。 なぜカントの『批判三部作』は、『純理』『実践理』『判断理』 の順番で発表されたのか? あるいはなぜ、この順でなければならなかったのか? 「人間、もしくは生命にとって、“真善美”はどのように認識されうるか。 または“真善美”のドライハイト(三位一体性)は、どのような発展段階により、 構成されているか」 これを、ヘーゲルにおける認識の発展段階説から解くことはできますか? >>258 このスレ、ほとんど来ないからよくわからないけど、 池田はソクラテスではなくソフィストだと言いたいの? だったら、ほぼ同意するけどね。 自分で考えているつもりで、内容はまったくの硬直した権威主義。 結果として、本当に自分で考えている人の邪魔にしかなってないってとこが(w >>259 あー懐かしいですね。450君、今どうしてるんでしょうね。 あれは本当に可笑しかったw >>256 おお有り難い。 さすがに不特定複数の名無しさん相手の一般論がめんどくさくなってきてましたのでw その順なのは単純に、純理が実践と実践の反省としての判断、という推移に対して先立ち つつも完結・止揚的だからでしょうよ。純理を追う精神のほうの発展はともかくとして、 純理自体に発展を問うのはナンセンスですが、そも>>255 さんの言の次元に応えたものを変な 敵意を以って掘り下げんでくださいな。 何が美しくて何が醜いか。 あえて「美に先立つ真善」という転倒した言い方をしたのは、己の醜さを気にする人への ひとつの諧謔のためです。 しかし・・ 池田さんが邪魔ならわざわざそうしてご丁寧にディスりに来ずともw そのテの言致には、自分もそろそろ反論する必要性も感じなくなってきたので、 池田さんなんか気にせず、貴方の好きなように考えればいいじゃないですか、としか 言いようもないですw まあ、思索の潮流における池田さんのポジションが把握できないなら、多分、 堂々巡りになるかとは思いますが。 自分も「核ミサイルが飛んできたら辞世の一句でも」とかにはちょっとは反感を覚え ますけど、そうした至らなさも含めて彼女を愛してますので、ディスるならそれなりの 覚悟をもってどうぞ。たとえディスりであってもそれが彼女のロゴスの限界と発展性に 啓示を示すものなら大歓迎です。 >>255 >>256 あえて同一人物かを問うことはしませんが 同一ではないです。私としては池田さんの思考の場所というのがただ納得 しがたい。それだけなんで。めんどくさかったらスルーしてください。 〈有るのか、ないのか、それはわからぬ〉がよく出てくることについて。 友人がが池田さんの本の角で私の頭を叩いた。痛い。「止めろよ」と云った が、友人は再度池田さんの本で私を叩いた。「止めろって」と言ったがまた もや私を叩こうとして友人は本を振り上げた。やむなく私は友人の手にする 池田晶子の著書を取り上げ、「これで叩くなら渡さないぞ」と忠告した。「 お前が持ってる池田の本を返せ。俺のだ」と友人が言う。私は言った。「有 るのかないのか、それはわからん」「有るじゃねえか。手に持ってるだろ」 「それはわからん。存在とはそういうものだ」友人は無理やり奪おうとし、 もみ合い。マルクスが巧いことを言ってますね。〈人間的思惟に対象的真理 がとどくかどうかの問題はなんら観想 theory の問題などではなくて、一つ の実践的な問題である。〉マルクスはまさに真理とは実践的に見出されるもの である、実践において、有るのか、ないのか、は自明なことである。なぜ私の 「存在問題」の提示によって友人が納得しなかったのか、マルクスは説明して くれています。友人にとって、「俺の大事な池田の本」を、あいつがそれを 勝手に横取りしたことは自明で、取り返す必要もまた自明だった。マルクス はさすがに良いこと言うと思います。同じ「フォイエルバッハ・テーゼ」で 〈思惟ー実践から切り離された思惟ーが、現実的か非現実的かの争いは一つの 純スコラ的な問題である〉とあります。これまた至言でしょう。 >>262 ご自分自身へのプライドと「納得したい」という思いはあるんですね。 くだらない飛躍をした決め付けディスりをしないのなら、その限りにおいて付き合いますよ。 しかし、何かの受け売りの表現なのかは問いませんが、実に面白い喩え方をされるものですねw 詩人の才能があるんじゃないですか? そういうのはすごくすごく面白くて、めんどうくさいなんてとんでもないですw オチとしては、もみ合ってるうちに池田さんの本はどこへやら跡形も無く消え去り、そもそもそれは 私の本だったのか、友人の本だったのかも解らなくなり、 「池田はそもそも池田のものだが、それは誰のものでもあり、かつ、誰のものでもない。」 とかなんとか天から声が響いてくる・・・なんてなりそうな気がしますねw さて、真理には 座り込んでの思惟と、歩き走っての実践と、 果たしてどちらによってたどり着けるのか? 友人は本の角で殴り、「私」にそれを奪われる、という「実践」によって「池田の本」という 「真理」に辿りついたが、 「私」の「有るのかないか、それはわからん」は「思惟」によって「池田の本」というその真理に 辿りついたこと、とは果たして言えないのだろうか? 真理と実践と思惟のあいだには、さらに有限と無限の問題も横たわっておりますが、そこに突っ込む か否かは貴兄のお答え次第にて。 自己というものを生成としてとらえる、というのが『有と時』を読んだ私の 受け取った命題で。干からびた土壌に育った種は成長しても干からびた姿に なる。芽が出たころに茎の一部が尖った植物は体のどこかに尖ったものを 持っており、また、同類にたいし、どこかで非常な異和をもち、自と他が 同じ生物であると信じられなくなった生物なら、平気で同種を殺し、食べて しまうかもしれない。これは生きた個体が自然である、よって種子が芽を出し 成長するように、刷り込まれたものを大きくなるに従い表現するようになる し、しかしそれがどんな奇想天外であっても生物としては自然のことなのだ。 『有と時』にある自然観はそうだろうし、だから他人から理解不能なことも 起こるが、それは人間が自然である限り、不自然ではない。 少年Aについての文章を読んで感じたのは自己について解剖するための方法 を持たず、手ぶらである。それは不可知論に落ち込む他ない。何らかの方法 がなければ特にああいう特異な精神は分からないというしかないだろう。それ を池田さんから借用して魂の生成過程といってもよいわけです。それが辿る ことができれば、「やっぱり分からない」と言わずにすむ。 もうひとつ、ソクラテスに心酔していた池田さんにとって、「分からない 」こと、「本当は分からない」ことの指摘は現代のソクラテス的で誠実さの 現れを意味していた。少年Aを書いた文章を読んでそう感じました。しかし、 自己を知る方法というのは、色々な文献から読んでいたはずで、あえて手 ぶらになり「分からない」ことにする、魂の問題としてのみ、というのは私 からすると、ソクラテス信徒がそう言ってるのだ、とまとめられる危険もあ り、危うい話でもあったと思います。 あと、wikipediaによると、 〈現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけ で存在と宇宙について思考をめぐらし、その執筆活動は哲学エッセイという ジャンルの草分けにもなっている〉 とありました。「哲学的エッセイスト」という呼称はあながち間違いでは なかった、他にもそう感じた人はいたということだろうなので。私は他人の 用語であっても、自分がそれを語った時点で自分の心の共鳴が入ってると 思うので、そこまで厳密にはやってはいない。また、知の歴史において、 様々な概念が誕生し、行き渡っている。概念が誕生することでそれまで名づけ られなかったものが名づけられた、ということもそこには含まれている。それ は共通の財産として使うことは許されると思うわけです。それによって 難問が解かれるとすれば、概念の作者にも恩返しはできる。また、それを土台 にして新たな概念の生成を生むかもしれない。 あと、Youtubeに彼女がおそらく初めてテレビに出演したのであろう「朝ま で生テレビ 宗教と現代」のVTRが出ていたので、久しぶりに見たんですが。 主に幸福の科学の景山民夫と論争してる場面が出てましたが、この時は 彼女は冴えていたなと思いました。「私は神に語らされている、私は神を 語る、その背反を解決するものとしての神。私が神を考えるとしたらそのよ うなものしか考えられません」という辺り。後年よりもどこかしとやかで 小声なのも良いですね。この時は独身だったのかな。本当に「お嬢様」とい う感じで。長い髪も綺麗だし。シャンプーのCMにも出れるみたいな。誰なん だろうこの人って当時は思いましたけどね。 「有と時」というのは、通例「存在と時間」と邦訳されるハイデガーの著書のことですか? わざわざそんな独自の訳し方をするあたり、ひょっとして、海外の方なんじゃないでしょうね? だとしたら、改行の仕方や、一見詩的なもの謂いも納得なのですが。 >>264 自己を生成と捉える、というのは的確な命題ですね。 もっとも、自己は若さの中にあっては生成なのに対し、老いの中にあっては死滅であって、 そうした生成死滅を含みこんでの(時間・時的)推移である。とするのがより正確かとは思いますが。 仰る「干からびた土壌」はまた、自己を育む文明的な精神土壌と、育まない野蛮な精神土壌、という 話になってくると思います。 人間はたしかに自然の一部ではありますが、その自覚において自然からはみ出してしまうことにもご注意。 少年Aにまつわる魂、のテーマ提示に対する貴方のその警句に関してはまあ、おおむね同意します。 実際、あれ以降スピリチュアルブーム、なる功罪ともに大きい世の動向が起こり、今に至るも尾を引いてたり しますからね。 ただ、不可知論に陥らざるを得ない、というのは魂というテーマ自体に否応なくつきまとってくる課題でも あります。もともとが宗教の領域でもありましたから。 >>265 ちなみに、自分の論理形式や「ジャンル」について暗中模索していた池田さんに 「貴女の仕事は、日本にはあまりない哲学エッセイになるのでしょうね。」 と最初に予見したのが、埴谷雄高氏だったりします。 あと、概念は「誕生する」というよりは「発見される」と言う方が正確でしょう。 ピタゴラスの三角比の概念やアインシュタインのE=mc二乗の概念がその発見以前に 果たして存在しなかったといえるでしょうか?「名づけられなかったものが名づけられた」、 というのは正しいですが。 最後のくだりは彼女が「哲学の巫女」と呼ばれたことと自分が「禰宜」と名乗ってること の核心ですねw『神』の名は「ロゴス」です。 私は専門家じゃないからアレですが、『Sein und Seit』が英訳されて『 Being and Time』になってます。で、もともとハイデガーの問題にしていた 英語での be というのは、日本語でいう〈花がそこにある There is a flower.〉のような、まさに〈…が有る〉という意味の他に〈この花は美しい This flower is beautiful.〉にあるような、判断・感じ方を示す、日本語 でいう〈…である〉また、〈美しい〉〈うんざりだ〉のような形容詞・形容動 詞を成立させる be動詞でもあるそうなんです。つまり、日本語でいう〈…が 有る〉〈…が存在する〉だけだと、ハイデガーの提示した問いの半分しか理 解されない。とある翻訳者が書いており、その人だけが『有と時』と訳して いる。これは納得がいく話で、なので私はそう使っているんですが。 存在問題というけれど、ハイデガーのいう存在問題ではもともと上にあげた ような、あらゆる言語的判断-形容詞・形容動詞・感嘆も含めた-をも包括して いる。つまり〈何かが有ること〉に限らない〈であること being〉をも 包括した〈ある〉を問い直している。存在という用語で、モノの有無の本質の みを問うているわけではない。で題名も、「存在」だとモノの有無が主眼に 読まれるので『有と時』にした、らしい。私が存在問題というときも、単に モノの有無だけでなく、英語でいう第二文型 「S + be動詞 + 形容詞・形容動 詞」 でのbe動詞の〈be〉も含有して云っているつもりなわけです。池田さん の云う存在問題では〈…が有る・ない〉に絞られている感じがしますが、 もともとハイデガーでは存在はそこだけではない。これがどう影響しているか というのも一考したらよいかもしれません。 失礼!『Sein und Zeit』が正しい綴りです。 最近じゃニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」という格式ある訳を単に 「ツァラトゥストラはこう言った」と訳したりしたものもありますが、そういう 格式の硬直を和らげるのも一長一短ですね。 「存在」が非動的な名詞なのに対して「有」が「有る」という動的動詞を思わせ やすいというのは前進、とは言えますが。 池田さんの絞り方については、明々白々な区分ができます。 すなわち、 存在が、 何故(Why)在る(be)のか?・・・・を問うのが宗教、であり、 如何に(How)在る(be)のか?・・・・を問うのが科学、であり、 何が(What)在る(be)のか?・・・・を問うのが哲学、だからです。 ハイデガーは一見、科学や宗教の問いにも踏み込んでいるように見えますが、 それは、「存在論のための『文法』の足りなさ」という忸怩たる思いから来ている ことに留意することが必要です。 当然、この場合の「文法の足りなさ」とは言語自体の構造的限界を意味しており、 それで、ニーチェなどはプラトン等古代の哲学者の簡潔にして重厚なる表現に憧憬 をもってシフトしていくことになるわけですね。 池田さんの哲学エッセイも当然、その延長上にあります。 >>270 影響、というか、論理の必然として、ですね。 存在とは何であるのか? 「哲学は統一性(ユニティ)を目指すのではない。統一性(ユニティ)に身を 起こすのだ。」 哲学ってそこに気付きさえすれば、びっくりするほどひとつながりですよ? すいません。勉強不足で、「そんなこと」もわからないのです。 教えて頂けませんか? ハイデガーがカントから借用して使った命題に〈有はレアールな述語ではな い〉があります。言い直せば〈「有る」は実在を表す述語ではない〉。では何 を表すのかといえば、〈世界〉つまり、現代使われている〈有るもの〉ではな く、〈自己の生による世界措定〉だといえる。必ずしもそこで実在の証明が 為されていくということではない。 たとえば映画『タイタニック』で自分を助けるために沈む舟に残った恋人 の面影を女は恋人の死後長い時がたっても夢見ている。先の命題の意味が 典型的に表されたものだと思えるわけです。そこで、〈有るのか、ないのか〉 という問いが実在を問うものとすれば、その問いそのものが存在問題として はさほどリアリティを持たないものになる。有が夢や引っかかりや心や願望 やを含みこむものだとしたらそうなる。で、実際、人間にとっての有はそうゆ うものなわけだから。で、池田さんの提示していた存在問題とのもっとも 明白な差異がそこであったと思います。想いといってもよいし、夢といって もよいし、記憶といってもよいし。そこでは存在は乾いた場所ではない、 血のめぐる場所になる。ように見えるんですけどね。 >>274 >>269 であえて、いつ(When)を省いてあることと、>>270 の、論理の必然、と、ユニティ、をよくよく 吟味あれ。 それで時間、というものに対する感覚がほどよく退いてきたなら、同じものにぶつかり、異なる道に進んだニーチェと ハイデガーの「後ろ姿」が見えるはずですが、はたして、その分かれ道をどちらが先に通ったか、にいったいどれほど の意味があるのでしょうかね? ニーチェとハイデガーの前後関係をいい加減にしてた非は認めますが、 これはニーチェのギリシャ回帰にも関わってきますし、 小林秀雄という人が「影響」という言葉が「便利すぎる」と疑義を呈していたことに繋がったりもします。 今の場合、気を付けないといけないのは「影響」という言葉の「不自由さ」ですが。 >>275 おお。 それこそは埴谷雄高さんがその大著「死霊」で提示したかった「虚在(虚体)」への 入り口を端的に示すものではないですか。 いかにも、あのレオナルド・ディカプリオ紛する恋人、ジャックという男はもはや、 「実在」はしないが、しかし、「虚在」はしている。 実在、という存在形式に対立する、虚在、という存在形式で、たしかに、『有る』。 恋人の「実体」そのものが、その夢も含めた「虚体」の存在を証している。 「池田さんの提示していた存在問題とのもっとも明白な差異」をもう少し詳述してもらえませんか? 埴谷さんとの親睦の深かった池田さんが虚在、を無視してたとも思えないのですが。 >>276 なるほど、よくわかりました。ありがとうございます。 ただ、ハイデガーはニーチェの後ろ姿を凝視していたという事実に留意する必要がありそうですね。 >>277 ハイデガー「ああはなるまい。」 ・・とw ソクラテスシリーズで、「シンドラーのリスト」にあてつけてニーチェとハイデガーとの 架空討論をさせてたのはおかしかったですねw >池田さんの提示していた存在問題とのもっとも明白な差異がそこであった と思います。想いといってもよいし、夢といってもよいし、記憶といっても よいし。そこでは存在は乾いた場所ではない、血のめぐる場所になる。 自己というのはすべからく根底に、感覚や志向や記憶の想起や生理を、自 己とはかならずしも一致せずして動作し、自己さえもそこでは受動態であり、 その自己における他者性によって、しばしば支配されてしまう。誰かを、ま た何かを、夢みさせてしまう、自己におけるとらえがたい生成。それがSein つまり有とか存在とか言われるものですね。それがあるから自己にとっての 世界はある。ハイデガーではそこの場所が有とか存在とか言われるので、 モノや私の主観のことではない。そこで池田さんの場合、モノの実在を 問い直すことはあるけど、つまり〈私はあるのか、どこにあるのか〉とか。 その先はないんじゃないですか。実は存在を問い時、「S+V+C」のVerbは 語る人間の表現でもあるんですね。「あの風は彼だ」と感じたとき。だから 存在とは語る人間の愛の表明でもあるし。その辺で池田さんの論ずる存在と は血が通ってないというか。生身の人間に到達できてないというか。そう 感じるんですね。それが「血のめぐる場所」の意味です。 で埴谷さんですが。世界の変革を熱望しながら、実は何一つ変わってはい なかった。世界を変革する前衛党は、内部にもう一つの階級を作り上げ、官 僚もまたそこにはいる。裏切られた革命であり、自同律を超えることはでき ない。そこで世界のまた宇宙の彼岸を妄想せざるを得ない。だから虚体という のは怨みや苦しみや挫折や失望の産物ですよね。池田さんが宇宙論や存在論 という文脈で埴谷思想を語るけども、あれは革命、人間にとって革命は本質 的に可能なのか、という問いかけと一体でしょう。そこが埴谷さんは云わない けども、本当は全然違う文脈だったんだと思います。出所が池田さんとは 違っていたと思います。 埴谷さんの存在論は出発点は革命の可能性で。革命とは別個に語る場合で も、〈有る〉を表現してしまう他者=生成、というところには踏み込んでい ないと思います。だから虚体というのも、〈記憶や夢の-「私」という場所 で-生成した表現〉という意味はないと思いますけどね。世界の宇宙の果て であり、彼岸という妄想。でもそれが、現存する社会主義にたいする異議 申し立ての根拠でもあったと思います。 〈政治革命、社会革命なんてのは、しょせんは自己愛の裏返しなのだから、 限界なんか最初から決まっている。他に変革を求める以前に、求めている「 自己の方をこそ、各自の力で変革せよ、埴谷氏は唱えてきたのだったが…〉 と池田さんは書いているわけですが。そういうことを埴谷さんが唱えたこ とはないし、考えてはいないと思います。埴谷さんが階級の消滅の可能を 担うものとして前衛党を考えていたことは『永久革命者の悲哀』に明らかで あるし、階級消滅を担うはずの前衛党が新たな階級を製造している歴史に、 「階級は革命ではなくならないよ」と冷たく言い放つ批評家に、それは 残念ながらそうだった、同時に、その歴史の矛盾を重く受け止めている、と も語っています。「限界なんか最初から決まっている」とは考えてはいなか ったし、その歴史というものを重たい矛盾として見ていたからこそ、自同律 の不快も生まれたと思います。また、政治革命の失敗の現実から、より 根本的な革命を考えだした。「自己愛の裏返しだから限界なんか最初から 決まっている」は埴谷さんの世界から相当ずれた見方だと思います。もっと 政治に深入りしてるし、だからこそ失望も大きく、そこが初めから政治に 距離をおいている池田さんとは違う。若い世代にはあえて云わなかったんだろ うと思います。でも、私は池田さんと同じ1960年生まれで、だけど埴谷さん のそこらへんの思考のプロセスは見えますけどね。 70年代後半生まれの自分がこう言っては心苦しいのですが、 失礼ながら、読み込み方がまだまだ甘いです。 その甘さゆえに「血が通わない」と感じられるのでしょうが、すべては それに尽きてます。生身の人間がそのあまりの情の深さゆえに血の通わない 「鬼」になることも「神」になることもあるんですよ? 自分の口より「血の通わない」ことを言わせていただくなら、貴方はいまだユニテ、 に辿りついておらず、すなわち、あなたの哲学もまた、まだ始まっていない、と言わざるを えません。 「池田さんの場合、モノの実在を問い直すことはあるけど」が既に決めつけであるので、 そうしていると思える文章をまず引用されたし。 また、 >>280 >>281 虚体は妄想なんかではありませんよ? 黙狂の男、矢場徹吾の語る「最後の最後の審判」においてイエス、サッカ(釈迦)の弾劾遡及とともに その果てに現れたものをよくよく吟味あれ。 はじまりは社会革命だったにしても、それ以前の自己愛の裏返しとしての「革命」の矛盾故に仲間を 裏切った男を処刑・・・すなわち、虚体、にしてしまった三輪高志と「夢魔」の対決あたりで既に革命の 対象は社会や政治なんて「ちゃちな」次元の話ではもはやありえなくなってますし。 貴方は自己、という言葉にずいぶん重きを置いておられますが、そうした存在の革命が、 「ひとつの」自己改革、でなくて、いったいなんなのでしょう? ほぼ80年代生まれの若い世代でも「左翼」の自己愛とその解りきった限界や「重い歴史の矛盾」 にはさんざんなメに合わされてたりするんですが、埴谷さんがそういった「『括弧つきの革命者』」 とは一線を画してることくらい解ります。 池田さんのいう存在の問いの場合、問いの基本形は「それは有るか、ないか 」だと思うわけです。で、その周囲をひたすら回るのが彼女の思考ですね。 で、いわゆる現象学的な還元とか、それもない。つまり具体的に問いを問い の構成要素分解に戻すこともない。ですね。である限り、実在、「ここに ある」「あそこにある」という現前に、自然的な直観によるしかない。そう いう意味で池田さんの存在論は実在を問う、と言っているだけです。 虚体については、いろんな説明を施してるのはそうですが、埴谷さん自身 が自分の宇宙論について、 〈いくつかの「妄想実験」のなかでようやく極めて僅かの暗示形としてしかし めせない。(中略)それらの暗示形以上にも有りうる全体の存在形式をも容れ うるものが「虚体」である、というよりほかない。)(「薔薇、屈辱、自同律 」) としていますね。妄想というふうに言うのは中傷でも批判でもない。埴谷 さん自身がしばしば説明していることだしね。 あと、これまた埴谷さん自身が 〈『死霊』には二つの主題があって、一つは地下の革命運動、もう一つは 存在論です。〉 〈極めておおざっぱにいえば、(存在論の導入は)階級廃絶の後、国家の 死滅の後になすべきことの先取りをしているといえるのです。共産主義だけで 行き止まり、なんて小さなものでは私たちの精神は本来ないんです。〉(「 存在と革命」) と語っているところもあります。 社会や政治を埴谷さんが軽視していたわけではないし。実は新左翼の党派 、革マル派の指導者黒田寛一が参議院選に立候補したときに後援会長に就任 してますし、内ゲバが華やかなりしころに「内ゲバを停止することを訴える 声明」(正確な文言と違うかもですが)を出したりもしてますね。左翼のあ るべき姿について一言あるからこそ、だと思えるんですけどね。80年代には 吉本との論争で、日本の資本主義が海外進出し、工場をたて、現地の人を 使って生産をし、という辺りを批判し、「ぶったくり商品」と言いきっていた ことも事実です。左翼思想から離れたことは一度もなく、あるべき左翼の 姿・思想について、ずっと考えていたと思います。そこは政治には関係ない 人間で一生を終った池田さんとは違いますし、池田さん向きに姿勢を立てて いたことがあると思います。池田さんと社会や世界について、本気で埴谷さん が喋っていたか、喋ったことがあったか、は疑問ですね。 あと、集団の論理っていうのがあります。共同性とか。これは個人が立派な 人格とか、であるのと別個に回転するところがあると思うんです。いったん 回転しだすと、止められないところが。内ゲバやってた人が人格が駄目だから 、というのはちょっと違うんじゃないか。テロにしても、アルカイダの人が 日本の工場でアルバイトしていたことが後で判明したことがありましたね。 工場の人の話によると、とても明るく誠実でとてもそういう人には見えなか ったとか。革マルの人とは私も一時期付き合ってたことがありましたが、 普通の人でしたよ。だけど、内ゲバに参加はしていたと思います。一人一人 では話しやすい、一般人で。でも組織の一人となると変わる。そういう原理 、があったんじゃないか思いますね。 >「池田さんの場合、モノの実在を問い直すことはあるけど」が既に決めつけであるので、 そうしていると思える文章をまず引用されたし。 〈人が、「本当に在るのか」「在るのか無いのか」と問い得る限り、明らかに 理解されているその「在る」を、私は問いたいのだ。〉 が『魂を考える』p.86にあります。実は本当は、ガダマーとの対話で云ってる ような、〈存在が存在を考えている〉(実際は考えさせている、が精確なんで しょうが)と言いたいのかもしれません。でも結局自分では展開はしない。 実在で終わることの無意味を云うけども、それはいってみれば現象学的思考 のとば口みたいなもので、そこで止めていくから、どっかで何が指示されて るのか、よく見えないところがある。 ちょっと分かりにくくて、実は実在に留まってはならないと云ってはいる んだけど、そこで現象学の必然について、書いてないんですね。ただそこで 終わる問いではないと。なんではっきり現象学を挙げないのか…。そこで煙 に巻かれているような感が残りますね。まあそれを売りにもしていたのかも しれませんけどね。「ケムに巻くことを覚えた」とインタビューで言ってる ときもありますから。だとしたらうまいというか(笑) ただ、実在の先の問題があることが言われているのは確認しました。勉強 させてもらいました。 そんなハムレットの台詞みたいな断片だけを取り出して「池田は実在しか問題にしてない。」 とでも言わんばかりのおかしな飛躍をせんでください。正直、あなた自身を池田さんに投影してる ようにしか見えません。 「ケムに巻くことを覚えた」のは後期の大衆向けの哲学エッセイにおいてのことなんですから、 現象学うんぬんへの掘り下げを見たいのなら、初期の著作を見ればいいでしょう。 哲学者ってのは例外なく「ゴールから引き返してくる者」なんですし。 「左翼」の人々のその、人当たりの良さの裏の無責任さは自分は反吐が出るほど 味わってますので、それについての話は差し控えたい・・・ ・・・という以前に肝心の「死霊」の内容には踏み込まないんですか? 妄想、については首猛夫、という登場人物が3章において・・・ 「・・・現代の優秀な青年達はみんな詰らぬ同じような場所に押いこめられてしまったんだ。 これぞゆゆしき問題だ。おお、どうだろう! 規格判そっくりの鋳型へはめこまれ、同じレッテル を貼り付けられ、そこらにまったく同じ格好でほうり出された木偶の坊の青年どもが問題なのじゃない。 本来他の稚枝へ延び拡がって異なった形の鮮やかな花を咲かすべき若芽を秘めた青年達が、まだ地底深い 同じ根のところで手足も伸ばせず押しつけられてしまったそのことが、現代の問題なんだ。・・・(中略)・・・ ・・・ふむ、それは、いったい、どういうことだろう! 生きることも、動くことも、何か一つを欲することも、また恐らくは、呼吸することさえ忘れて しまった屋根裏部屋へ、あらゆる優秀な青年達がみんな揃っておいつめられてしまったということ なんだ。 そして、其処にあるのは、いったい、何んだろう? たった一つ ―妄想! それだけだ。 そうだぜ。其処にはぎりぎり頭をぶちつけて考えることしか残ってやしない。それは 恐ろしい場所だ。あっは、現代の屋根裏部屋! それが青年の魂の場所だ。 狭苦しく、 薄暗い、洞窟だ。人間を歪めるやつも人間を信じているものもすっかり同じ灰色へ塗り つぶされて、その顔形はおろか表情のニュアンスさえ判別もつかなくなってしまった、 昼と夜の鏡のような、光も射さぬ場所なんだ!」 ・・・と、現代の青年にも身につまされるような話し方ではっきりと語らせてますが、その聞き役 であり、首猛夫と対立してもいる黒川建吉の語る「虚体」とそれとが一線を画してることには注意は 必要でしょう。 埴谷さんの片言を持ってきて、それが全てであるかのように話すのは明らかに誤解を招くものです。 ・・・て、いうか、わざとやってません? 「妄想」のタームについて、埴谷さんと池田さんの最初の対談で、冒頭で 池田さんが〈「妄想」という言葉は誤解を招きやすいと思うんですが〉っと 尋ねているところがありますね。でそれにたいして埴谷さんが〈自分と同じ 気質を持って、同じようなことを考える人でなければ、読んでもらいたくな いんです、本当は。ほかの人には読んでもらいたくないんです。(笑) (中略)ぼくはほかの人には読まれたくないから、「妄想実験」とわざと 書きました。ですから「妄想実験」という言葉は、本当は「思考実験」その ものでいいんです。〉と返してますね。埴谷さんの返答は『死霊』の序での 文章を言ってるんだろうと思うんですが。 「妄想」とかの言辞は埴谷さんがかなり色んな場所で言っている言葉で。 そこで問題が生じるとは思わなかったですね。「妄想文学」と『死霊』の序 で自己解説のように書いてるし。他のも挙げるとたとえば「私の文学を語る」 という対談でもこう言ってます。 〈ぼくの考え方は、妄想なのですから、それほど自然科学にたよるわけでは ない。出発点にあるのは妄想する自分だけですね。あなたにすでにお話しし たように、ぼくにとっては、ぼくにとっては、自分が自分であるということ が不快なのですね。なぜこうとしか考えられないか、ということは、とうて い持ち切れぬ不快なのです。(中略)。そうした妄想の無限展開には、いって みれば、神の詐欺みたいな感じもありますね。〉 「妄想」は片言ではなく埴谷さんが自己の思考を表しているときによく 使う概念です。 。 あと、池田さんと埴谷さんの対談Tで、池田さんが、〈私の場合にはどうし ても、「不快」っていう動因はピンとこないんですよ。〉と言ってるところが ありますね。『オン!』のp.78に。自同律の不快について。何気ない一言では あるけど、こういう一語に二人の差異を感じるんですね。埴谷さんが『死霊』 という形而上小説をでっちあげる必要とも関わるわけで。彼の思考や妄想の 根本動因だと思われるんですが。それがよく、概念としてはわかるけども、 実感はない、というところかと思うんですが。ここが感じられないと、埴谷 さんの人柄ふくめ、政治論も存在論も本質では触れられないと思います。だ って自同律の不快があって、あの全思索、文学はある。なければ創る必要は なかったと思えるんです。実はこういう地点に決定的な差異が介在していた んじゃないか。 ただ、考えてみると人間として、幸福だったのは池田さんみたいな人、か もしれない。埴谷さんは不幸だったかもしれない。でも、思想家としてどち らに魅力を感じるかといえば、自同律の不快を終生抱えていたであろう埴谷 さんなんですね。資質として自分に近いのが埴谷さん、というのもあるかも しれない。私は池田さんと反対に、自同律の不快ときいてピンとくるし、 実感として分かるものがある。 概念に違いは無いですけど、それは虚体を探る手段であって虚体そのものではないでしょうが。 理想も夢想も空想も絶たれた若者に妄想、がどういう使われ方をするかに配慮はあってしかるべきか、と。 貴方は埴谷さんじゃないんですから、そりゃ問題も生じますよ。 無意味な釣りまがいなことをしなさるな。 で、 繰り返しになりますが、その埴谷さんの述懐はともかくとして、肝心のその「妄想」や「虚体」などの 中身のほうには踏み込まないんですか? >>289 思索者を自己に引きつけるのではなく、自己のほうを思索者に推参させるべし。 以上。 首猛夫の語る若者の苦悩を少しは斟酌してはいかが。 どうも面倒くさがってきたようにも感じるんですが(笑)少なくとも 「釣り」はないですよ。だけど面倒ならスルーそててください。ここは 池田さんの愛読者が語り合うスレで。少なくとも私は愛読はしてはいま せん。 で、概念であり、妄想でもいいのですよ。それで「いや、分かってな いね」とは故埴谷さんは言わないと思います。「中身」については 貴方のほうが言いたいことがありそうだし、存分に語ってみてはいい のではないですか。私には手に余るところがありますしね。ただ、 読むかぎりではやっぱり実感としてそこで虚体が語られるときの 苛立ちや焦燥は分かるという感じはあります。 ある思索がA氏を引き寄せる、A氏がある思索に没入する。これは 相互的でしょう。文学作品を読むことにも関わりますけども。それこそ 運命的な事柄にも思えますね。出会いというのはそうで。人だけじゃな く、モノとの出会い、何が心に残るか、もまた運命的でしょう。出会っ ても心に残らなかったとしたら、縁がなかった、ともとれる。「引きつ け」「推参」についてはそう考えますね。無理しないほうがよいと。 池田さんの思考と虚体との関係とか、展開したら面白いんじゃない ですか。貴方はそれが言いたいのじゃないかとも感じますから。 池田さんは自分の形而上学のかかわりで埴谷さんの思想に入ったとは思う んですが、虚体にしても、どうみても自同律の不快とのかかわりは大きい。 個体にとってのそれじゃなく、宇宙大の、宇宙にとっての自同律が問いなお されたのがそれでしょう。宇宙史の自己反省とかありますね。でその底辺に 、人類史の過誤、そのいっさいの死滅というのも黒川健吉によって語られ てますね。そういう思想というのは、「偉大な完全な自己否定」という文言 もあるくらい、否定的な存在ですね。やはり「不快」は埴谷さんの思考の 根幹にある。あの思想のなかにひとつの過激な、情熱というか、情念という か、がある。でそれは形而上の概念だけではなく、社会や政治をも含みこんだ 視線からくるものでしょう。もっといえば人類史の過誤からの再生は可能か、 という発想が感じられますね。つまり宇宙論であり、政治論、存在論でもあ る。考えれば考えるほど、池田さんの感性とのズレが感じられてくる。とい うのが正直なところです。 面倒くさい、というか、これ以上話を続けるのが、はっきりと無意味になって きましたね。 愛もない対象を話してて空しくはないですか? 結局ディスリ以上でも以下でもならなかったので、お望みどおり、今後は適当に あしらうだけにします。 最後にひとつだけヒントを 「哲学を可能ならしめる驚愕とはなにか?語らぬをもって語るとはいかに?」 あなたの盲点です。 哲学では禁句ではあるが、「なぜ」あのような人が現れたのだろう。 すべての日本人は世界、否、存在史における自分自身たちに課せられた役割を自覚し果たさねば ならなくなる刻が、おそらく、来る。 永らく日本人自身を欺き続け、その「時間」を停滞させていた「悪魔」NHKの新しい頭に、 戦後日本人の「死に至る病」を看取していた保守派の女流哲学者・長谷川三千子女史が据わり、 それを改める、という噂があるが、 自同律の不快、のひとつの側面としての、「死に至る病」、とがぷ四つを組んでいた、超人・埴谷雄高と、 その病を「死ねる神が神であるわけがない。」とし、自同律の愉快、に反転させた哲学の巫女・池田晶子に、 長谷川女史は躓くことになりはしないだろうか。 玉音放送のあのとき、我々日本人は「死ぬ神」天皇を本当の意味で戴いたのだ、と女史は言う。 無時間の、不死の神ではなく、人のように死ぬ神を戴けばこそ、流れる「刻」もある・・・ それは確かに筋が通っているが、そんなことはいにしえの天皇(すめらみこと)がイワナガ姫では なくコノハナサクヤ姫を選んだそのときに既に始まっていたことではなかったのだろうか・・・? 神話、とはロゴス(論理)とミュトス(詩歌)が分かたれていない・・・すなわち、プラトンとホメロス が手を取り合っている、究極の存在論である。 このネット社会が始まるとき、哲学の巫女はすでに新たな神話の始まりを予見していたが、さて、 「死ぬ神」を戴く哲学の女史ははたしてこれから何を見せてくれるのだろうか? 実際空しいんだけど、(笑)何かを否定することで、肯定されるべきものを 浮かばせることもできるかと…思うので。 「私はどこにいる?」という得意の問いかけを真に受けた中学生に取材して るTV番組をyoutubeでみて、暗澹たる気になったんですが。何にも没入できな い、魅惑されない、距離をおきたがる人間なら、「私はどこにいるのだろう」 と分からなくなることがあるかもしれない。何かに没入する、魅惑される、 また、AではなくBを選ぶ自分、何かをひどく好み、何かをひどく嫌悪する自分 。そういう態度について、考えてみれば「私」とは誰か、自然と浮かびあがる もんだと思います。中学生のほうが、そういうことは多感なぶん、分かるの ではと思います。池田女史であれば、形而上にひかれ酒ばかり呑んでいる生活 はあきらかに「私」を浮かび上がらせている。かっこつけずに事実をみつめて みれば難しいことはない。自分について、現象学的に還元したことはないの か、そうすれば何かをなぜか志向している主体について、知ったであろうに …。不思議です。 あと、この人の立場とはつまるところ、無知の状態になるだけ自分を規定し 、それによって自由なスタンスを確保する。自分をしばる、ないし、不自由 さを突き付ける知は最初から遠ざける。無意識も資本主義も遠ざけてしまう。 自由であるという自己の観念を壊すものは遠ざける。または無効とする。 「私」も邪魔なわけです。 池田さんの云う人間には歴史もなければ根もない。たまたま「池田晶子」とか の名前がついているだけ、としか考えられない。 それは独善的といえるところではなかったか。それが通用したのはモノ書 きにしては美人だったのがあると思います。社会はまだまだ男社会ですから。 独善的なところで自同律「A=A」を体現もしていたと思います。自分を変え るものは受け付けないのだから。 ハイデガーでも論証なく決めつけてる、とか言われてる。ただ、ハイデガー の場合、私にとっての世界、私にとっての「有る」という事実性、どのように 有るか、その事実性がどう解釈されうるか、が彼の断定の根拠だと思う。最初に あるのは「私」にとってどう「有る」かの事実である。また言い換えれば 自然的な世界である。自然的な世界、「有る」を停止し、還元したところに その有論もある。いたずらに雲に巻くような言説ではない。 独尊独断的に、「私」を設定し、あるいは「ない」としている言説とは 一緒にはならない。 男には自分の世界がある 例えるなら空を駆ける一筋の流れ星☆彡 Lupin the 3rd >>296 >>298 >>299 突っ込みだすとほんとうにキリがないので、せめて初期の著作をもうちょっと読み込んでから出直して 頂けませんか? 申し訳ないことですが、退役戦士だった老ソクラテスと違い、自分は結構時間に追われておりますので。 前に子供にこれを言ったら、「嫌だ。」と思い切り反発されたトラウマが当方にはあるので、大人の 反応を期待いたしております。 空しさはともかくとして、貴兄のハイデガーへの愛と親和性はよくわかりましたが、哲学の文句はそも 「『存在』とは『何か』である。」が基調なため、断言調に見えるのが当たり前なのでもあってみれば、 肝心なのはハイデガーの断言の背後に哲人の先人たちのロゴスの土台を見、かつ事実性の解釈の可能性なんて せせこましいものではなく、これからの哲学(すなわち、存在)の可能性をもどれほどありありと見れるか、 でしょう。 哲学は先立つ通説を新説が覆す科学とは違い、新説が旧説を果てしなく包括していく、ということにも要注意を。 独尊独断の依怙地な観念による断言などが問題外なのは言うまでもなし。 アニミズムになれば、便器になるのか糞になるのか大きい問題だぜ。 美人のウンコに過度に反応するのは君はフェチだからだよ。 うんこ見ただけじゃそれが美人のうんこか分からないよな >>302 >>305 かの半島の民が糞でお酒をつくるのはなぜですか? また、日本人への悪意の発露として糞を壁に塗りたくるのはなぜですか? 糞を話題にしたけりゃまずそんなところを答えてください。 あえて「なぜ?」で問うのはご愛嬌。 飲むんなら尿だよな。ストレートで。 体にいいらしいよ。 肥溜めに落っこちた幼時体験をばねに宇宙技術用に、尿を飲料水に戻す技術を開発し 喝采を浴びた科学者もいましたな。 ストレートで飲むのはさすがに血中アンモニア濃度が気になってくるものと思われ。 まあ、物質としての糞尿を語るのか、なんらかの隠喩として糞尿を用いるのかも 判然とさせないようでは閑話休題にもなりませんが。 観念が強い割りに、結局コテハン名乗ることもなかったハイデガー読みさんも 去ったようですね。 ハイデガーの「存在と時間」の「存在」と「時間」が実は弁証関係にはなく、 並列関係であるがゆえにえんえんと連なっていく、すれ違いか、もしくは掛け違いの 論理を形成していくからくりに気付いてくれてるといいんですが。 「発語に即『否』を突きつける禅の沈黙とヘーゲルの饒舌は同じ。」 はてさて、池田さんのこの言葉に果たしてたどり着けたことやら。 観念(思い込み)による「否」の無意味を少々晒させ過ぎてしまったことと 埴谷さんの著作を引用とかしたせいで、このスレの敷居もまた少し高く なってしまった感がありますが、 まあ、気長に新たな冒険者を待つことにしましょうか。 >>310 ハイデガーまだ未読で申し訳ないのだが 禰宜さん、死と無を同一論理とする理由を平易な言葉で解説してくり 書き込みしない間に改めて埴谷さんの本をまた読んでいたんですが。 読み進むほどに、池田女史にたいする埴谷の姿勢というのは、例えば 別の対談集の立花隆ほどには気合いを入れてはなかった、という結論に 来てしまいます。埴谷さんのいう「過誤の宇宙史」とかにたいして、池田 さんは答える気もなければ取り上げる気もない。埴谷さんにおける否定の 深さに気付いているようには見えない。 池田さんが自分に思考を展開するのは勝手だけども、埴谷との関連は 私は感じないですね。確かに存在論を二人でやってはいるけども、埴谷 の存在論はただの存在ではないし、色んなニュアンスで語られている。 そのニュアンスこそ埴谷なので。池田さんの埴谷論とか読んで、これは 表層だけのもの、としか思えませんね。これで埴谷を語った、とは言え ないと思います。つまり否定の意義が全然掴めてない。その否定性に 埴谷の重心があるわけで。それが読めない以上駄目としか言えないと いうことになります。 >>312 ああ、そもそもその話をしてたんでしたね。 それで、死と無の逆である、生と有を繋ぐものとして、現存在を語る必要性 からハイデガーの名が出たんですね。 期待に反してハイデガー読みが現存在のげの字も語ってくれず、ひたすら話を どうでもいい方向に脱線させてしまったことですし、ここは発想を逆転させて、 「有無(存在)」ではなく、「生死」の側からアプローチをかけてみましょうか。 まず、「有る(無い)」ではなく、「生きる(死ぬ)」から考えてみましょう。 ここで最初に批判しておかなければならないのは、科学における生の「定義」と言えます。 すなわち、「物」、を生物学の定義と鉱物学の定義に従って「生物」と「鉱物」に分ける ごくごく初歩的な区分法における「生きる」の吟味なわけですが、ここから二つの命題が 立てられます。 「『死んだ』生物は『無く』なったのか?」 「そこに『有る』鉱物は『生きて』いないのか?」 死と無、すなわち生存と存在の関係について考える入り口は、どうもこんな感じ になるのではないかと思います。今のところはこんなところですが、この命題からは 未開社会のアニミズムと文明社会のマナイズム、といった深淵な問題も展けてくる ものと予想されます。 OK。お口直しといきましょう。 漠たる印象や感想で人の評価の上げ下げすることで何か考えてると 勘違いしてる輩にものを考える見本を見せてやるとしましょう。 さて、上記で得られた二つの命題に、さらに池田さんの「生(死)=有(無)」 の図式を導入すると、実に興味深い解答が得られることとなります。 すなわち、 Question「『死んだ』生物は『無く』なったのか?」 →Answer「然り。『死んだ』生物は『無く』なったのである。」 Question「『有る』鉱物(無生物)は『生きて』いないのか?」 →Answer「否。『有る』鉱物は『生きて』いる。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おや?ww さて、この問いとその答えのおかしさが解るでしょうか? ここでこの問いと答えにぶつけないといけないのは、各自各々の「常識」と 「直観」であり、人口に膾炙する「常識を疑え」などという安っぽいスローガン はまったくお呼びではありません。 逆に「生存≠存在」を代入すれば Answer「否。『死んで』も生物は『無く』ならない。」 「然り。『有る』鉱物は『生きて』いない。」 となりますが、はたして、常識と直観に照らして正しい答えがどうしてこうねじれる のでしょうか? (つづき) さて、人は考える葦であり、考えを生きる生き物でもあってみれば、 当然、「生存=存在」をその魂の自由において選び生きる人もいれば、 「生存≠存在」という考えを生きている人もいる。 だからというわけでもないのだが、問題はそのどちらが正しいか?ではない。 そもそも科学における生物と無生物の定義の区引きから生まれた混乱 なのだから、目指さねばならないのはそうしたものを払った上で残る、 ほんとうの「生きる」であろう。 そして、 有るもの一切が生命をもって生きている「生物」である、とする立場を 「アニミズム」と呼び、 有るもの一切が熱力をもって動いている「死物」である、とする立場を 「マナイズム」と呼ぶ。 時として生物学は生物を熱力のマナで説明し、鉱物学は鉱物に生命の息吹を 見るが、これはその定義に覆われてしまった「生きる」の語が、時折その定義 の仮面を脱ぎ捨て、本義の顔を覗かせているから、といえましょう。 ここで、「生きる」の括弧を外し、今一度問わなければならない。 生きる、とはなにか? (さらに続く) >>318 さよう。 このように「生きるのは(それに対する問いも含め)つまんない。」と言いえるためには、 その生がその色を失い、充分に『死んで』いなければならない。 そうした倦怠感・怠惰は実は第二の自然・歴史において種々様々な『死』を経験した文明人 に顕著なものであり、マナイズムを支えているものでもあるのである。文明社会よりも、未開 社会において、騒擾による大量殺人がより絶えないのは、実は未開社会がより「命を大切に」 しているからに他ならないのである。 さて、アニマ(生物)とマナ(死物)とは科学の区分にあっては、その本義性ゆえに 混乱をもたらすのみなのだが、これが宗教においては、画然と整理されることとなる。 砂漠で生まれたキリスト教のごとく、万物一切を絶対神の被造物とみなすマナイズムの 性格の強い宗教にしてすら、創造神が塵(マナ)で出来たアダムにその息吹(アニマ)を 吹き込むことでそれを最初の人間として生み出す・・・という具合にマナとアニマの統一を 果たすし、 アニミズムの性格の強い森の民は生命(アニマ)とモノ(マナ)の間に「精霊」という概念 を見出す。 (まだつづく) 以上のように、宗教においては「生物(アニマ)」と「死物(マナ)」を繋ぐもの として「創造神」や「精霊」が立ち現れ、その統一を形而上の領域で果たしてくれる わけなのだが、これが形而下、すなわち現象の領域においてはどうなるか。 たとえば、生物のうちの鳥類と哺乳類の間のカモノハシ、生物と無生物の間のウイルス、 といったように、現象・現実には理論によるカテゴライズ・分別を頑なに拒む興味深い中間者 も往々にして散見されるものなのだが、 分析知の科学と、総合知の哲学においても、そうした中間者と呼ぶに足る賢者がいる。 池田女史がかつて「哲学史の王道に突如として現れたキノコ」と評した分析哲学の開祖にして 異端の哲人・ウィトゲンシュタインである。 生きる、とは何であるか? 彼ならばこう答えるであろう。 「それは生きる、という語の用法・使い方の問題だ。」・・・と。 >>323 言葉の問題を形而上と形而下の中間と捉えられず、科学の認識も存在と言葉の 問題と捉えらない視座は、このように科学が見せる「物」と「言葉」を別個に 捉えてしまい、科学による「モノ」の定義を完全に忘却する。(それ以前に言葉、 が解らず、子供やオウムのように言われたことをなぞり返すだけでもあるのだが) さて、分析と総合の中間に立っていたウィトゲンシュタインの「語の用法・使い方」 というある意味ミもフタもない指摘を科学の『生物・鉱物』という語と生きる、 の語に当てはめてみると、そこには、 『生物』を主語とする動詞には『生きる』の語を用いてよいが、『鉱物』を主語とする 場合には用いてはならない。 ・・というルールがあるのみであることに気付くだろう。 科学の認識は固定観念ではないが、 「何かあるものを見るとき、ほかのなにかを見てはならない。」という、 秩序立った観念なのであり、ゆえにこそ、 概念にも至れる観念なのである。(固定観念の場合、これがない) 「生物は『生きる』ものであり、鉱物は『有る』ものである。」 認識を進めるために、この科学のルールを破り、ウィトゲンシュタインの指摘 に従って、生きる、の語をマクロなレベルで用いると、隠喩や幻想ではなしに、 次のような言説が可能になる。すなわち・・ 「地球は生きている。」 >>325 さて、我々の寄って立つ天体を「生きている」と口にする言致は自然賛美者やある種の 環境絶対主義者に夢想的に語られるのが常であり、それを揶揄する言致もまた、このように ステレオタイプであるのが巷間の常であるのだが、 両者ともに科学的認識の轍を自覚せず、また抜け出てもいない為、ことの困難さが全く 認識できていないのもまた、常なのである。 地球が生きている・・・ これは先の、有るもの一切を生きているとするアニミズムをただ拡大しただけ、とも見られる が、そもそも地球をカテゴライズする「惑星」「天体」という概念自体、マナイズムによって立つ 化学の「物質」や物理学の「物体」も基礎とする概念なのでもあってみれば、ことはミクロの原子 やウルトラマクロな宇宙、にも話が及んでしまい、 結果、 宇宙は生きている。 原子も生きている。 と、言わなければならない羽目に、必ずなってしまう次第なのである。 夢想家にもそれを揶揄するゲンジツ家にも、これがさっぱりわかってはいない。 これではもはや、アニミズムを越えたアニミズム、ウルトラアニミズム、と でもいった新概念でも生まれかねない話なのだが、やはり、科学観念から脱せ ないかぎり、そんな試みも屋上に屋を架すような夢想に終わるであろうことは 火を見るより明らかなのは言うまでもない。 問題は生きる、の定義ではなく、本義なのであるが、宇宙や原子が生きている、 と言えるときの「生きる」とは何なのか? 池田女史もまた、自らのアニミズムへの傾倒を告白していたのだが、そうした 存在する全存在が存在することとの同義としての「生きる」を本義の遡及において 見出していただろうことは想像に難くはない。 (まだつづく) さて、さいわいというか、なんというか、だが、 ウィトゲンシュタイン同様、分析知と総合知の狭間に立っていた、限りなく 自然哲学者に近い科学者・アインシュタインはその一般相対性理論において、 超高質量天体の存在に伴う時空の歪曲の存在を証明する副産物として、我々の 現象宇宙の「誕生」を予言し、困ったことにホーキンスがそれをビッグバン理論 として理論化してしまい、 「宇宙は生まれるのならば、死にもするだろう。つまり、宇宙は『生きている』のだ。」 と、現象宇宙に関してならば、言えなくもなくなっては、いる。(『いかに宇宙は死ぬか』は 科学者の悩みの種であるが) が、問題はアインシュタインが否定してしまった、 「無限の過去から無限の未来まで時間の流れる」ニュートンの絶対時間宇宙だろう。 問題の次元はこれでさらにはね上がってしまう。 こんな生きても死んでもいないような宇宙でさえも「生きている」と言えないようでは、 池田女史の「存在=生存」は成り立たない。絶対時間は現象として否定されただけで、 自然哲学の思想事実としては、古代の四元素(ストイケイア)や原子(アトモン)と同様、 揺るぎもしていない。 そう、有るものとは、現象のみならず、考え、や思想、も含みこむものである以上、 厄介極まりないことに、 思想も考えも、(あるいは、)言葉も、生きている。 と言わねばならなくなってしまうのだ。 だが、ここにきて、ようやく、生と有は交錯し、この問題を有から考える際に切り口するはず だった、現存在(もしくは、現有)の登場を見られることとなるのである。 生存と現存在をつなぐもの、 それこそは、かの有名な・・・ 「ニワトリと卵」である。 (つづく!!) この問題を生ではなく、有から考えようとした最初に言ったことであるが、 現存在は概念として完結的な存在、に対して、推移的、である。 ゼノンのパラドクス 「飛ぶ矢は飛ばない」の・・・ 『飛ばない飛ぶ矢』が存在、であり、 「現に」飛んでいる『飛ぶ矢』が現存在、である。 現存在は『飛ぶ矢』の「根拠」である弓、と「帰結」である的(まと)、の間に 展開された存在、であって、「根拠と帰結」の二極無しには現存在は存立しえない。 さらにまた、現存在はカントの「物自体」の『物』でもあり、ヘーゲルはその 「小論理学」においてそれを示しつつ、以上のような現存在と『物』の根拠帰結性 とともに物自体を語る者が時として陥る空虚な抽象性を批判したりもしているのだが、 ゼノンやカント、ヘーゲルにおいては目にも止まらぬ「飛ぶ矢」だった現存在のその 根拠帰結性を卵からニワトリに至るはっきりとした緩やかな、生命的な時間の俎上に おいたのがハイデガーであったことは周知のとおりであろう。 ヘーゲルは空虚な抽象性の陥る「物自体は認識できない」という誤解を諭すため、 「人間の『物自体』すなわち、人間自体は子供。」 「国家の『物自体』すなわち、国家自体は族長的国家。」 「植物の『物自体』すなわち、植物自体は胚。」 という具合に具体的に例示するのだが、この線でいけば当然、 「ニワトリ自体は卵。」 となる。ニワトリの根拠は卵。卵の帰結はニワトリ。ことは丸く収まるはずだった。 丸く収まるはずだった。 だがしかし、ここでニーチェが絶対時間ならぬ永劫回帰時間の迷宮より余計なことを問う。 「ニワトリが先か卵が先か?」 近代人が失った古代人の時間・・・『運命』を求めて野に下った彼のように狂うことが許されるはずも なかったハイデガーがモモのように、彼のそれとは違う近代人固有の時間を救い出さなければならなかった 事情は、当然といえば当然すぎるものだった。 (やっぱりつづく) この人の言葉はなんていうかフェミニストに通じる 論理性の破綻が顕著にみられる 女性の内面に潜む男性的なるものはとやかくあれこれに 社会的または学術的意見を出したがるが女性というのは大脳生理学的に 論理性には限界があって知性などたかが知れてるもので この人の場合は自己の意見や主張を無理やり哲学的表現で あらわそうとしてめちゃくちゃになっている印象を受けるな 感性や直観は豊かにあると思うのだが頭脳がそれに追いついていない あとなんか恥ずかしくなるね 自分が女だったら苦笑しているような類のことがちょこちょこ出てきて 普通にエッセイストにでもなってたほうが よほどまともなことや感動的なことかけてただろうに 心の内容物や言語センスは悪くはないが哲学的知性が皆無だ! (つづき) ヘーゲルは絶対時間を「端的に抽象的な時間に過ぎない」とばっさり切り捨てたが、 それでも幾何学上においては、それを積み立てる「更地」であることに違いの無い ニュートンの絶対時間であれ、その時間の偏差修正から割り出されたアインシュタインの 相対時間であれ、素朴な時間観同様、過去から未来へ一方向に流れる、という点には変わりがない。 それに対しニーチェの永劫回帰時間、というのは相対時間の早遅急純はもとより、 順逆逆転はおろか静止停止すらもする別名・無間地獄(※池田晶子女史談)な時間でもあり、 それゆえに可能になる 「ニワトリが先か卵が先か?」 なわけだが、その地獄に開かれたクレバスは「ニワトリが先」としたときに、より顕著である。 現存在と物自体で見たように、卵がヒヨコを経てニワトリになる過程、「成長」は卵がその存在 の本質本性(科学的には遺伝子、など)に従うものなのだから、「現存在の根拠と帰結」や「物と物自体」 にすんなりおさまり、何の問題もない。 だが、ニワトリが卵に成る過程となるとそうはいかない。 そもそもそのニワトリが雌でないといけないし、人間に当てはめれば>>332 のような男自体・自己自体・哲学自体 の憎悪、などという面倒極まりないものを乗り越えて異性にめぐり合い、まぐわらなければ ならないし、厳密に言って、そうして生まれた卵はニワトリ自身ではない。 種としてはともかく、子を成す個体において現存在の「根拠と帰結」・物自体の「物と物自体」はすんなりとは あてはまらないのである。 ウィトゲンシュタインに戻ろう。 ここで我々は自動詞「生きる」の語をその用法・使い方に即して他動詞に変形・活用させ なくてはならない。 即ち、「生きる」→(他動変形活用)→ 「生かす」 ・・と。 ここまでくれば、ゴールは近い。 >332 私もそう思います。エッセイストになっていたらさほど問題はなかったろう 。「私」とはどこにあるのか。あなたの毎夜呑む酒を求める欲求ですよ。酒 に酔って良い気分になる感覚ですよ。哲学に何故か惹かれる牽引力ですよ。 彼女の頻発する「私」不可知論も彼女が勉強したという現象学的還元を使えば 何てことなく説明できる。そんな応用もないとは本当に勉強したのか疑問です ね。 埴谷雄高論は核であり出発点である自同律の不快に納得できない。あれが 掴めないなら何のための埴谷論なのかよく分からない。ただの知的な意匠に なるしかない。自同律の不快っていうのは埴谷の存在論の始まりであり、 あと、自己や世界も宇宙も含めて有るものの全否定、今有ることに対する 怒りや悔しさや悲しみも含まれている。埴谷の優しさと諦念はそこから来て いたし、有ることの不快がないから池田女史は自分好きでいられた。全然違 います。 自然動物現象の次元において、生きること、は殺すこと、でもある。 その宿命の不快が解らないものこそが>>334 のような浅薄な自同律の不快に陥り、 ニーチェの予言した超人、と哲学の巫女、の共通項・・「無間地獄」へのクレバス である無限、を完全に失念する。 超人は、数学者のように、1を0で割り∞を導くこと、を禁じたりはしない。 巫女はただ無限なるもの(たとえばロゴス)をその身に降ろし、託宣するのみ である。 両者は生かし合う男女や親子のように、完全に志を同じくしており、『神は死んだ』 と妄言を言いつつ、その実、神をただただ果てしなく見失うだけの妬み深い観念は、 決してそれを識ることがない。(「死ねるような神が神であるわけない。」は既に示した。) さて、 自動詞・生きる、の他動活用が、生かす(活かす)ならば、 自動詞・死ぬ、の他動活用は、死なす・・すなわち、殺す、である。 卵から生まれた雛は餌たる虫などを食べて(殺して)成長し、ニワトリになる が、それが利己の為の殺害であるのに対し、親鳥は雛を「生かす」利他の為に虫 たちを殺害する。 「諸悪の根源は母の愛」の所以であり、以上のような、「男自体」達が女性と いうものを憎む所以でもある。 「どんな教師よりも優れた教師は、分別ある父親」、という格言もあるが、 キリスト教の創造神が天の父であったこと、父親の「生かす」が自らが生きる ことを以って示す精神的・教育的な「生かす」であらねばならないのはそういう 次第なのである。 さあ、「生存=存在」が乗り越えなくてはならない マナイズムとアニミズムの架橋統一はここに来て示された。 全存在を「死物」とみなすマナイズム自体は、ニュートンの絶対時間同様、 「端的に抽象的な」・・すなわち、そういう在り方において、「生きている」 抽象概念なのだから(逆のアニミズムもまたしかり)、注目すべきは極限的に マナイズムの性格の強いキリスト教である。 キリスト教においては全存在はマナ(死物・被造物)であるが、それを創り出し 最初の人間アダムに生命の息吹(アニマ)を吹き込んだ創造神こそは唯一の生命そのもの である。すなわち、全てを「生かす」創造神だけが「生きている」世界・・・ それがキリスト教の世界なわけだが、アニミズムの世界もその一元性が精霊の多元に 変わるだけで、基本的な構造は変わらない。 精神的・物質的の違いはあれど、父も母も子を生かすことで生きるものである。 生かすことは、生きることである。 子は現存在や物自体で見たごとく、ただ、生きている。 生かされることは、生きることである。 かくして、アニミズムとマナイズムの弁証統一は果たされた。 この宇宙の全存在がマナ(死物)であっても、一個でもそれを見る、創造神の 如き、生きた「自己」もしくは「アニマ」が有るならば、その宇宙は死んでない。 マナは子供のように、生かされることで、生きるであろう。 その子供は「地球」であっても「天体」であっても「原子」であっても、「宇宙」で あっても構わない。全てを「生かす」のはそこにおける自己・・・ すなわち、あなた自身であり、そんな生きる、がしんどいというなら生かされる生きる、 の側に回っても、両者を往還しても全然構わない。 すべては魂の自由だ。 (もうすこしつづく) この論考の終わりも近い。 最後に解かなくてはならないのは、アニミズムとマナイズムのカオスとしての 科学による規定から自由になった、 生きている宇宙(全存在)・生かされている宇宙(全存在) である。 ここにおける宇宙(全存在)には前に見たとおり、思想・精神・言葉、などの 非物質・非物体も当然、含まれる。 アニマ(死物)とマナ(生物)の関係が示されるとともに、ウィトゲンシュタイン の言葉の使い方・用法も吟味されたので、残るのは、 生きることと有ること(死ぬことと無いこと) という考えを科学の束縛以前に遡及すること、である、が、 キルケゴールの「死に至る病」やニーチェの永劫回帰時間を乗り越えた超人・埴谷雄高は すでにニュートンの絶対時間も踏まえた上で、その著作「死霊」第八章「無限大の道」の挿話 においてその示唆を既に提出している。 すなわち、元素(ストイケイア)と原子(アトモン)をめぐる「暗い人」と「笑う人」(ついでに 「遊ぶ人」)の対話である。 現存在と物自体の他動活用「有らしめる=生かす」によってマナイズムとアニミズムの 統一が証明された今、 「存在=生存」を証明する上で残された最後の課題は、以上に見たように 「ト・パン・アペイロン」・・・万物(全存在)は無限である。 から導かれる無限、であり、命題に即して言えば、 「無限は生きている。」 ・・の証明、となる。 当然、その具体性として「楽しむ人」ニュートンの絶対時間、から導き出される 「無限の時間」と「無限の空間」への言及が必要になるのだが、実はこの絶対時間 とは、ヘーゲルが先に「端的に抽象的」と批判したことからも解るとおり、端的に 幼稚な概念なのである。 それは、科学者の知性がある種の子供っぽい知性に支えられる要因でもある。 (余談ながら、科学が『子供の学問』であるのに対し人生、という人間的時間を どうしても前提とせざるを得ない歴史は『大人の学問』である。) それはキルケゴールの「死に至る病」において、死に至る病=絶望、の存在論 において顕著に示されている。 「絶望(死に至る、決して死に至れない病)とは、無限性における有限性の喪失、 もしくは有限性における無限性の喪失である。」 ・・・と。 神(無限者)にとって人(有限者)を失うことは絶望であり、人(有限者)が神(無限者)を 失うことも絶望(すなわち無間地獄の永劫回帰)、というわけだが、これは時間と空間にも言える。 絶対時間(空間)のような、無限の時間と無限の空間は両立しえない。 両立しえる、と思える者はまだ有限というもの、絶望というものを知らない子供だけである。 ここから、古代の元素論と原子論の時間観は開ける。 先の「暗い人」とは元素論者ヘラクレイトスであり、 「笑う人」とは原子論者デモクリトスのことであるが、 えてして科学者が彼らの存在論を理解できないのは、そこに前提される時空 が数学者も避ける無限、から全く目を逸らしていないからに他ならない。 四元素(土・水・火・空気)が移ろう時空は有限の空間と無限の時間(=超時間・永遠) であるし、 原子(アトモン)に満ちる時空は有限の空間と無限の空間(=超空間・空虚)である。 科学の導き出した現象宇宙が始まりと終わりを持たざるを得ず、それを満たす原子(あるいは 素粒子やニュートリノでもいい)の数が無量大数の無量大数乗の無量大数乗の無量大数乗の・・ と、どこまで行っても有限数であるに過ぎないのに対し、 元素(ストイケイア)の宇宙の時間は無限・・超時間の永遠で終わりも始まりもなく、 原子(アトモン)の宇宙に満ちる原子は無限に存在し、やはり無限に分割できる無限の 空間・空虚(ケノン)に偏在している。 そして、「生きる」に即して言えば、元素論者ヘラクレイトスはこうはっきり言うのである。 「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。」 「土の死は水の誕生、水の死は空気の誕生、空気の死は火の誕生、その逆もまた然り。」 と。 訂正 ×原子(アトモン)に満ちる時空は有限の空間と・・・ ○原子(アトモン)に満ちる時空は有限の時間と・・・ (最後) 暗い人ヘラクレイトスの元素論と笑う人デモクリトスの原子論をさらに総合させた 「地・水・火・風・空」五輪思想のインド人の時間は歴史を持たない永劫回帰時間にも似る ものの、生命・人間的な輪廻時間なのだが、非生命・非人間的な歴史時間を生きる中国人が 「皇帝だけが生きている」マナイズムを生きている、というのも興味深い符号だろう。 日本人の時間がその両者の止揚にあることは言うまでもない。 そして、元素論はアニミズムに、原子論はマナイズムに、ぴたりと対応するものなので あれば、今ならこう言える。 無限時間・永遠を生きる者には全存在が生きる物(死ぬ物)であり、 無限空間・遍在を生きる者には全存在が死んだ物であり、生かす物(殺す物)である。 どちらにせよ、全存在は生きている。 生き物だけが『生き』、物は『有る』ものだ、という有限なる科学のくびきは今や完全に除かれた。 「生死≠有無」は有限者のルールであって、それを踏み越え生存と存在を等しくするのは、アダムに アニマを吹き込んだものと同じ、無限者なのである。 哲学の巫女・池田晶子の立場がどちらであったかは言うまでもない。 今こそ言おう。 存在・有無は生存・生死である。 生きることは有ることである。死ぬことは無いことである。 q.e.d 証明終了 「死」は有る。 ならば、「死」は「生きている」。 死=生 無=有 >>343 「死」≠死 生きている≠「生きている」 「死」=生 無=「有」 怠惰なただの天邪鬼は定義と本義、 ウィトゲンシュタインから出直すように。 こんなものでいいですか?イチナルモノさん。 「存在・有無」=生存・生死 存在・有無≠生存・生死 >>345 マシになりましたね。 しかし、出来ればなるべく「」を取った思考を頑張ってください。 >>346 ようこそ「科学者」さん。 と、いうか、子供の遊びはこれくらいにしとくとしましょう。 結論が全てと思われてるのかどうかは知りませんが、そんな短い等式で覆せるほど、 自分の論考はヤワではありませんので。 せいぜい合わせ鏡の無限地獄に落ちないよう、変な遊びもほどほどに。 >>344 禰宜さんお疲れ様です ありがとうございました 玉露を淹れましたのでごゆっくりおくつろぎください 暗い人・笑う人・楽しむ人のあたりはかなりドキドキして読んでました 今回の論考を受けて、長考させて頂きたいので、これ以上のコメントは控えます 長考を中断し禰宜さんに質問 すると、あるはある、ないはない とはどういう事を言っているのかね? >>352 それは端的に埴谷雄高さんが提示した、 単なる繰り返し、ではないところの同語反復、となり 池田さんがその処女作「事象そのものへ!」で論考 したこととも深く関わってくるものと思われます。 こちらにも長考が必要になりますので、自分も少し沈黙しますね。 それでは、Merry Christmas!! 良いお年を!!! 本質とは、シニフィカシオンなのか。 それともレフェランとシニフィエの差異なのか。 >>354 そのテの問いは大概、術語や造語の定義論の堂々巡りに陥るので、人に訊く前に まず自分でその語の例示・分析・展開をある程度やってから問うてください。 おお、お久しぶりですね。450君。 しゃあないじゃないですか。そもそもその手の造語って大人の語彙にかなわない 子供の造語遊び以上のものではなかなかなりゃしないんですから。 そういう言葉の言いだしっぺとその言葉がその使用者にいかに「生きられているか。」 を吟味しなけりゃ、ほんとに、君のような子供の虚栄心を意味なく無駄に満たすだけですんで。 近代言語学の父の仕事を子供の造語遊び呼ばわりかぁ。 すごいね。さすが。 いやいや、相変わらずの小憎たらしさでこっちとしても嬉しいですよ? 言語学の開祖だろうが、言葉の揺るがせにできない本義に外れたことをしていたなら、 それは遊び、ですよ。 よ〜く、自分の論考を読んでください。 自分(埴谷さんやあるいは池田さんも、だが)は科学の開祖、ニュートンのやってた ことすらも「子供の遊び」と言ってますよ? 君と違ってそれにガキっぽい悪意も嫌悪も憎悪も込めず、ただ、そうだ、と言ってるまでで、 そのことの意義もきっちり論じての上ですが。 くだらん煽りや挑発をせずに、その専門用語をまず論述してご覧なさいな。 面白ければ付き合いますよ。 ところで、あれから池田さんの初期の著作を少しは読みましたか? 相変わらず「死は無限の苦しみ」ですか? >>359 > くだらん煽りや挑発をせずに、 > 相変わらず「死は無限の苦しみ」ですか? お手本を示してくれてありがとう。こうやって煽るとくだらなくなるんだね。 450君、 これで最後だ。 シニフィカなんたらとやらを論述したまえ。 それが出来なければ、さらに前に君が自分に言った言葉をそのまま君に 返して君を「無視する。」 君は君が思っている以上には覚えられてはいるものだよ? そのことの意味をよくよく考えるといい。 本当に、これで最後だ。 次にくだらないことを言うようなら、そのまま450を名乗って独り相撲しようが、 名無しに戻ってだらだら愚にもつかないことで絡んでこようが、永遠にその憎悪から 抜けられずそのまま死のうが自分の知ったこっちゃない。 じゃ。 多分、年明けまでレスはしないと思うけど、だからといってあまりスレを汚すんじゃないよ。 禰宜氏の小難しい長レスを読ませてもらったけども。まず、用語として、 ≧有るもの一切が生命をもって生きている「生物」である、とする立場を 「アニミズム」と呼び、 有るもの一切が熱力をもって動いている「死物」である、とする立場を 「マナイズム」と呼ぶ。 とありますが、ネットで調べたところ、 「アニミズム」とは万物に霊魂は宿る、とする信仰。「マナイズム」とは 人やモノに宿る超自然的力の信仰、とある。あと「マナイズム」は 「アニミズム」に先行する「プレ・アニミズム」とする人もいるとあります 。 なので、禰宜さんが使っている用法は独自なもので、分かりにくい話が 余計に分からない話になってるんです。特に禰宜さんの「マナイズム」の 用法は、どうも頑張って読んでると、「唯物論」の意味で使われているよう に見えます。「唯物論」と書いたほうがわかりがいいと思うんですがね。 ≧アニマ(生物)とマナ(死物) とも書いてますが。アニマは「霊魂」、マナは「超自然的力」としてある 著者がほとんどで、こういうことをされると実にこんがらがってくる。 で、要するに「万物に霊魂が宿る」とする立場と、そうじゃなく、「人は 人。生き物は生き物。モノはモノ」と画然とした立場の違いを「アニミズム」 「マナイズム」という名称で言っている、そう呼んでいいわけでしょう。そう ですね。あの呼称だとよくわからない。 あと、死ねばいつかは腐って蛆がわき、肉片になり、乾燥し、ゴミになる 。風に吹かれて無くなる。わけだから、「死=無」。生とはその反対で、意識 は言葉として有る。肉体も姿・形も有る。「生=有」だというのは、単純に 考えればさほど難しい話じゃないと思いますけどね。312さんは何が分からな かったのか、そこも疑問です。 おや、ずいぶんマトモなレスが。 忙しいので、とりま今は簡潔に >>362 >>363 >>258 をまず読まれよ。 あなたの「分かる」は少々素朴にすぎる「無知の無知」の領域です。 こんがらかるならもっと盛大にこんがらかった方がいいです。 「生き物が有る。」「岩が生きている。」と口にした時の違和感をもっと大事にし、貴文 における借り物の言葉である「霊魂」、そして「超自然的な力」とはなんなのか? なにより「生きる」とはなんなのか? をもっと自分の頭で考えて表現する必要があるかと思われます。 おそらく禰宜さんの「マナ」の用法とは、『旧約聖書』で主が降らせるパン のことを言っているのか…。「マナ」の用法とは先にあげた超自然的力と、 ここにあげた主の降らせるパン。それだから、「死物」と言ってるのは後者の 意味で使っているのか…。 難しいんだけど繰り返し読むうちになんとか分かってきましたよ。教養ないの でね。何を言いたがっているのかだけは見えてきた。たしかに哲学ですね。ここ に書かれているのは。なんだけど、同時に、哲学ってのはほんとに一般的な、 万人妥当な事柄について見出して、思考するものなんだな、ということが 見えて、上の長レスにあるのはそういう命題で、そこへ行きつくための証明で すね。俺とかがハイデガーの思索に見出して感銘を受けたのは、だとしたら 哲学的な論証や論証を重ねていく作業の見事さ、ではない。それが禰宜氏の 作業をみてて改めて感じたことです。多分、その感銘というのは、一人の人間 の生を読む仕方が、解釈の方法が、これ以上ないという密度で書かれて、一人 の人間の担う孤独や単独性や有限性の意味が書かれている。そこだったと思 う。 実存というと哲学的で、また語る人間によっても違うけども、たいていの 人間はみみっちくせこせこと、しのぎながら生活している。普遍的な 哲学思考 がそれとどういう関係があるか。ハイデガーの言説を読んで 、乖離を感じなかった。ここに無名のいくつもの生涯が見られている 。という気もした。それが衝撃でもあった。存在論といっても様々で 、ここに禰宜氏がやったのも存在論とも言える。だけど、そこに〈こ の私〉がいる、と感じさせられる、というのは ハイデガーです。それ はだから池田女史が極めて行ったような哲学ではない 。それは池田女 史がヘーゲルに傾倒したことと実は関係あるかもしれないけども。 たとえば宇宙とか世界とか、哲学的議論によく出てくるし、宇宙論とかね。 だけどもそこに、〈たった一人の生世界-その有限性〉ということの意味を どこかで漠然と感じていたと思います。〈没交渉的有限〉すなわち小さな、 ちっとも宇宙的ではなく、宗教的でもなく、真理とも縁がない。そういう 存在というのが、じゃあ無意味か、という問いを抱くわけだけども、〈没交渉 的有限〉ということの意味を、やっぱりハイデガーは書いていたと思う。で、 それが人間にとって、奇怪でもありまた貴重ともいえる分野をなしている。 奇怪でもありまた貴重なものでもある、それが実存てことだと、あれを読んで いると感じるんですけどね。昔、〈個体〉てことと〈単独〉てことを、柄谷 行人て人が差異として書いてたけども、哲学的ということと、実存的って ことでいうと、その柄谷の議論を思い出しますね。 難しいことかいてるね。俺にはわからない。 彼女は人間の不思議とか命の不思議とかを解いている。 考えることぐらいしか残されていないと直感するほどに全ての現象は 不思議だということ。それくらいで、おれはいいのだ。 >>361 シニフィカシオンとは、ヘラクレイトスの「万物は流転する」にも暗喩されている様に、ロゴスの魂と呼べるものだ。 それは、池田晶子のいう「存在の不思議」を紐解く最後の1ピースであり、 彼女の遺言を、それがポスト構造主義の極地であると看破した前提の上で、理解するのに不可欠な概念である。 シニフィカシオンによって補完された構造主義は、ポスト構造主義として東洋哲学と西洋哲学の統一を果たす。 それはつまり、生と死の、存在と無の連脈を繋ぎ、またそれらに無限の断絶を与える物でもあり得る。 あと、禰宜さんの長レスを読んでると、特に最終部に書かれている以下 >「生死≠有無」は有限者のルールであって、それを踏み越え生存と存在を 等しくするのは、アダムにアニマを吹き込んだものと同じ、無限者なのである 。 という辺り、絶対精神の自己疎外と復帰を自然哲学にしたヘーゲルと同じに みえるんですけどね。ここがあの論証の帰結でもあり、結論の前提であるので 、いかにヘーゲルを愛読したか、よく出ている。その辺も池田女史に共感する 要因かもしれませんね。 僕とかは、あのレスにあるほどには無限者を感じているわけじゃない。だ からあの分け方でいえば絶望者ということになる。絶望は否定はしないけども ね。まあそんなところで。 >369 悪いけど、ポスト構造主義自体、 もうオワコンだよ。 ほんの40年ほどで、ほぼきれいに消え去ったし、 未来において再発見されることもない。 あれはただの知的(痴的)トレンド。 もしあれが残るならば、ヘーゲルにおけるマルクスのような後継者、 もしくは発展者がいるはずだが、そんなものは影も形もない。 もちろん池田の哲学(笑)も、同様。 池田は歴史的存在の思想家・哲学者はいうにおよばず、 同時代の評論家のなかであってさえ、三流の人物。 あのバカの思想(笑)は、やたらと独自性を主張しているが、 実質は20世紀中盤までに、使い古された陳腐な実存主義なのが、その証拠。 「ポスト構造主義はオワコン」の矛盾に気がつかないくらいバカなのか。 かわいそうに。 絶対精神の自己疎外としての現実存在、そこで絶対精神との関係がみられる べき、というのがあると思うんですが。無限者が有限存在においてみられるべ き、と。それはその発想は分かると言えば分かるんだけど。しかし、そこは ほとんど私においては、私の存在そのものが奇怪なもので、解きほぐしていけば 歴史的な成りたちも見えてくるものでもある。ヘーゲルのそういう哲学を考え ると、キルケゴールなど実存の発想が分かるところがある。それはなんで俺 がこんな目に遇っているところで、無限者のことを考えなきゃならないのか。 というところなわけでしょう。そこが実存思想の始まりではないかと思うんだ けども。 それはきわめて正当な感覚で、ふざけるなと言っているのだと思うわけです 。で、池田女史がその辺のところをどう言っているか、よく覚えてはいないん だけど、ヘーゲルというとマルクスが、よく引き合いに出されるけど、マルク スによる反論もまた、同じですね。マルクスならこう言う。「関係ないよ、 こっちは生活するのにも苦労してるんだ。黙ってていてくれないか。貴方の神 学の材料にするのは勝手だけど、関係ないですから」というのがまあ要旨だと 思うのです。絶対者を考えるには錯綜しすぎており、それがいわば絶望者の成 立を意味することになっている。それにはやむを得ない事情があると思えます けどね。 で、ガダマーとの対談を見る限り、ハイデガー思想の存在論においてもつだ ろう意味が、池田女史には見えないようにあそこからはみえる。しかしハイデ ガー思想の意義もまた、絶対者との関係を絶ったところでの存在論の探究だった とわけで。しかし池田さんにはどうも不要なものだったようにもみえる。いわば ヘーゲルとその後のポスト・ヘーゲルとの問題が不要だったように。もっとも 際どい問題だったそこが素通りされているような。そこも不審といえば不審 ですね。 えーっと・・・ 一応、確認しときますが、しつこく長レス付けてきてる人って、最初に 現存在を語ろうとしたときにいきなり自己の問題とか持ち出して話を脱線させた 「ハイデガー読み」ですよね? そこまでしつこく食い下がるなら、 いい加減コテハンのひとつも名乗ったらどうですか。 あなたの関心が池田さんたたきを挑発にした「自分探し」なことくらい、 最初からわかってましたけど、それに人をつき合わすなら、それなりの礼儀 のひとつも示してくれないと、こっちとしては、わざわざ付き合う義理もないんですが。 >>369 大胆だね。実に大胆だ。 少々、その言葉のあまりの便利さを訝らないでもないけど、君がその心意気を貫徹 してくれるんだったら、それはとまれ、些細なことなんだろうね。 構造主義には自分の先の論考においても、マナイズムとアニミズムを同列に置く際に 世話になってるし、それが決して無視することも侮ることもできないことも知ってる。 雑音は気にせず、369で示したものを神の摂理も曲げる悪魔の不敵と、仏をも飲み込み 喰らう鬼の大胆さでもって展開してもらえないものかな?その言葉がいかなる民族・文明 ・国語において生まれ、いかなる賢者に見出され展開し可能性を示したか、そして他ならぬ450君が その言葉でもって何を成さんとしているか・・・ 概論してみなよ。 >>377 > 少々、その言葉のあまりの便利さを訝らないでもないけど だから、意味知らないんでしょ? >>378 >>369 これで永遠にさよなら、だ。450君。 せいぜい名無しで人の考えの残骸を喰らっているといい。永遠に。 ネギとのやりとりで、アスペルガーに二つ面白い特徴を発見したよ。 一つは、アスペルガーの特殊な時間感覚。 >>6 とか>>269 とか、時代の前後を著しく誤解する。文章でもそうだけど、因果関係を上手く理解できないんだな。 だから普通の人はしない様な時代の前後の誤解をする。 二つめは、これはおそらく彼らなりの知恵なんだろうけど、何を言ってるかより、誰が言ってるかを重視する。 アスペルガーは相手の心理が読めない、相手の言ってることが理解できないから、相手が自分の敵か味方かを覚えておいて、敵だから皮肉を言っているだろう、味方だから賞賛しているのだろうっていう判別をする。 わからない部分を他の事で補おうとしてるんだろうね。 「イチナルモノ」(本当にいるかはわからないが)もその傾向がかなり強い。 何を″より誰が″を重視するのはネトウヨの特徴でもあって、ネトウヨとアスペルガーが重なる事が多いのもよくわかる。 以上、チラ裏。 晶子みたいに考える事が好きな美人はどこにいるのかな やれやれ、最期の機会をくれてやったというに、結局、徹頭徹尾、方便で しかないこの禰宜の人格の影しか見ていかなかったか。 因業因果はもとよりとして、 単なる礼節や警告とその実践の意味すらも知りえないのぼせきった造語屋の、 屋上に屋を架し続けるだけの不毛な精神とはまことに救いのないことよ。 神仏よ。 何も掴むことのないあの天狗の魂を憐れみたまえ。 教導に時の足らぬ一個の生身たる我を赦したまえ。 恨めしき哉。巷に溢れる哲学古語・古典本質語と拙劣なる子供の術語造語の混沌。 言霊よ。どうか正しき心を導き給え。 畏み畏み申す。 やれやれ、最期の機会をくれてやったというに、結局、徹頭徹尾、方便で しかないこの禰宜の人格の影しか見ていかなかったか。 因業因果はもとよりとして、 単なる礼節や警告とその実践の意味すらも知りえないのぼせきった造語屋の、 屋上に屋を架し続けるだけの不毛な精神とはまことに救いのないことよ。 神仏よ。 何も掴むことのないあの天狗の魂を憐れみたまえ。 教導に時の足らぬ一個の生身たる我を赦したまえ。 恨めしき哉。巷に溢れる哲学古語・古典本質語と拙劣なる子供の術語造語の混沌。 言霊よ。どうか正しき心を導き給え。 畏み畏み申す。 体が死んでも自分は死なないなんて、自分の体も自分だろ それでもいい晶子みたいに考える事が好きな美人に会いたい なんだ。結局無視なんか出来ないじゃんか。 己の精神力の無さを恥じるがいい。 セックスも気持ちいいけど考える事はもっと気持ちいいと思うだから晶子みたいな美人と一緒に考えたい >>385 >>387 あー、それは端的に肉体を介在させた魂、の感触です。 同感です。ほんとにあんな美人、また逢えないもんですかね。 宇多田ヒカルとかはわりといいセンいってると思うんですが。 >>385 >体が死んでも自分は死なないなんて、自分の体も自分だろ それがパロールの優越の批判ってやつなんだよ。 体が生まれなくても自分は生きてるのか?多分、だから時間は今しかないんでしょ 一番単純に言えば、普通の一読者には本当に池田晶子が死んでるかどうかはわからないだろ? それをどんどん広げていく。 語というものはその形式が存在することにより、各々その意味となる内容が相違することは我々の常識として感ぜられている。 生・死・有・無とそれぞれの形式が存在している以上、その意味となる内容はそれぞれ違うことは常識である。 生と有が同一で、死と無が同一なら、どちらか一方の語は不要な存在である。 しかし、確実にそれらの語が存在している以上、哲人きどりの勝手な解釈で同一化してしまってはいけない。 哲人とは常識を感ぜられている人ではなく、常識を知られている人を指さねばならない。 禰宜さんは宇多田ヒカルとか言い出すその真性の変態を治すことから始めなければならない 450君はその自身のアスペルガー症候群が、禰宜さん以外の人からレスをつけてもらえることにより、治療されていくことを知らなければならない ちなみにこれはチラ裏ではなく、おじさんのぼやきである >>390 魂と自分、の関係は 「『魂の自分』は在っても『自分の魂』はない。」(池田晶子) です。 今しかない、というとそうですが、その場合の今、は過去も未来も 含み込んだ全時間である今、とも言えるでしょうね。 先の原子論への第一歩です。日本においては、誇り高きバサラ侍への 道でもありますが。 >>392 悪かったですねww!! ええそうですとも。 無限の彼岸を見ようとも有限の此岸の意義も否定できないのであってみれば、 生死有無の使い分けは処世、てもんですよ。 近ごろAKBだのでやたらと美人が有限平準化されてるのであってもみれば、あれ くらい知的にも無限のベクトルにも尖った美人を懐かしむくらいい、 いーじゃないですかあwww!! 朝日やTBSの調査で結果がアレだったのに操作疑うって…… >>395 そーいう次元の話じゃないですよ。 裏読みばっかしてないで、そこに在る女の子をもっと虚心に見てみなさいな。 >>394 でも宇多田ヒカルは頭パーやし顔もブーやで あんまよく知らんが芸能人だと渡辺謙の娘の杏ちゃんなんか割と知的で好きだな 彼女の頭脳にフェイスが武井咲なら俺2秒でイっちゃうな アーティストだとスキマスイッチあたりはポップで知的だな 昔はイエモンが抜群だった >>397 うーん。 自分は武井咲のイモくささはちょっと・・・ まあこのテのことを言い出すと喧嘩の種だから、 あまり深くは突っ込まないとして・・w 自分がヒカルちゃんに惚れてる理由は昔、彼女が「アルジャーノンに花束を」 の作者のダニエル・キイス、との間でやった対談が大きくて、そこで彼女の誠実 さを知ったのと、近代人の宿唖の「絶望」にも真正面から立ち向かう芯の強さを 感じたこともあってのことです。作る唄の詩もかなりいいですし。 HEY×3のダウンタウンの悪意あるいじりのせいで勘違いしてる人も多い ですけど、コロンビア大学で哲学科を専攻して、近代思想もざっと読み、ブログを 信じれば、あの埴谷さんの『死霊』を読むのも好きっていうくらいだから、相当 頭はいいと思いますよ。 ていうか、合って話がしてみたいくらいです。えてして、頭のいい女は味気も色気も ないものですが、自分はそういうのに惚れる変態ですしw Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. 相手を言い負かすために議論をしかけてくる人と議論するほど、うんざりすることは滅多にないですね。 その人の目的は、相手を言い負かし、自分の意見を主張することであって、真実を知るためにものを考えるなんて、 そんな行為が人間にあり得ることすら知らないような蒙昧な状態のわけです。 そんな人々が集まって、開かれた対話の場と称して、ああだこうだやっているのを見ると、 独善同士がお前は独善だと我を張り合っているとしか見えない。 >400 それはそうかもしれないし、同意する部分もある。 しかし池田の論理(笑)は、まともな論争や批判にもたえられない、 オナニーレベルであることにちがいはない。 また池田の信者たちは、自分の見解を世間にさらして 鍛えるという発想もない。 あるいは池田の理論(笑)自体にも、 哲学上の具体的な命題を解明するなんらのチカラもない。 池田の思想(笑)のすべては「自分は自分」という フィヒテ的な自己完結した、オナニー的満足感しかもたらさない。 また池田本人も、池田の読者も、池田の哲学(笑)が、 現実的問題に対し、まったくの無力であることを知悉しているため、 その点に触れることはタブーとなっている。 「哲学など、役に立たないのが前提だ。重要なのは、 自分の心を満たすことだ」といった感じで(w ♂と ちがって 電波 宇宙してなからじゃないの ・・・・・ time と space の ちがい ヴェイユ電波も 大気圏内の物理 だったし い が 抜けちゃった ぐーてんべるぐ system (笑) あたまおかしい理系は女王様スレを穢すなぉwwwwwwwwwwwwww いて座 まいなす い = て座 哲学で 射精しない タイプ >>401 あんた面白いよ。 恥かいてるの気付いてないとこが面白い。 >>400 そのテの人たちって言葉には意味がある、て大前提すら往々にして解ってませんよね〜。 聞き続けてるともう、鸚鵡のさえずりにしか聞こえなくなってくることってホントにあります。 >>401 wwwww 思い込みや決め付け観念と、『批判』の混乱の手本のようなレスですねw さて、無用の用とはなんなのか? >>407 >さて、無用の用とはなんなのか? 悪いけど、池田の哲学(笑)は、「無用の用」の機能も果たせないよ。 なぜなら池田哲学の体系(笑)自体が、 あなたがいみじくも言うように、 >思い込みや決め付け観念と、『批判』の混乱の手本 のようなものでしかないから。 真に「無用の用」たりえる教養とは、人が困難に出会ったときは彼を助け、 本物の学問を学ぶにあたり、基盤となりえる強靭さをもったもののみだ。 これは2500年の哲学全史を背負った、ヘーゲル哲学などにのみ可能であること。 またそうした本物の教養は、アレンジさえ加えれば、「真に有用なもの」になりえる。 大哲学者アリストテレスに学んだガレノスは、穴だらけとはいえ古代医学を確立し、 臨床レベルの医学を実践した。 池田の思想(笑)の背景はすべて、 美貌だけが取り柄の「わかったふりオバサン」の薄っぺらい人生でしかない。 なんらに連綿たる歴史性も帯びず、 軽薄なオバサンの勝手気ままな思惟と、 幼稚な判断力しかバックボーンのない哲学(笑)など、 犬のフンの価値もない。 価値があるとすれば、どこにも存在しない「あらゆる自然や社会から絶対的に独立した、純然たる自分」 にしがみつき、誇大妄想とともに引きこもって生きる場合のみ。 池田女史の書いていたことで残っていることって俺にはないですね。「思考 せよ」と繰り返していたことは覚えているけど。困難にあたり支えになったこ ともない。『西洋哲学史』を読んでも概観的な話しかないし。ああいうところ で鋭利なことを書けば見方も変わったろうけども。要点が読めない人という 印象は強い。 禰宜氏は「現存在を語ろうとしたら自己の問題に変えられた」と書いてる けども、ハイデガーにおける<有の生成・表出の場としての現有>というのは そのまま<自己-性>の問題であり、自己の問題を考えることは不自然ではな い。 『有と時』に<自己-性>つまり自己とは何か、は重要な論点として出て きている。 禰宜氏の場合、「美貌をもつ評論家」というところで半ばアイドル化して いるようなので、さほど本音では熱意をもって擁護する気もないんじゃない かと思えるんだけど。実際禰宜氏が書いていた長文連投「生死=有無」だった か、ほどの論稿を池田女史が発表したことさえ実はないでしょう。本気で 擁護する気はないんじゃないですかね。 池田女史は埴谷愛読者だったけど、その読み方も換骨奪胎されたもので、 とうてい真っ芯で捉えているとは言えないものだった。プラス埴谷と論争 した後の吉本隆明への読み方もさらにひどく、資本社会礼賛者のように 決めつけ、その裏には「吉本は埴谷の論敵」というのがあったと思うが、社会 への批判を失ったかのように決めつけていた。要点を読めない読者と同じ ことを吉本について書いていたのでここでかなりこの評論家のことは分かった と思う。 >>411 ずいぶん都合よく消えたり現れたりする ドクターKですね。 池田女史で何も残ってないはちょっと違うかもしれないね。ただ引っかかる ものがなかっただけで。それは‘縁のなかった人’ですむ話でもある。俺自身 あの人とは縁がない感は強い。引っかかるものがある人には頑張って考えて ほしい。それだけです。 ああすいませんね。 ちょっと大仕事があって、このスレにもなかなかカキコする時間がなくなりそう なんですよ。 まあ、批判なのか侮蔑なのかすれすれの論致もこの際、面倒くさいから問わないことにしましょう。 問題は、彼女のバックボーン、と引っかかるもの≒功績、ですね。 バックボーンについては、一言で言えば、彼女は小林秀雄を通して、彼が向き合った 本居宣長はじめ「もののあはれ」に通じてるんですが、まあ、これは「ヘウレーカ!」 を実感したことのない方には言ってもしょうがないですね。 それでも知りたければ、それなりの礼節をもって議論吹っかけて下さいな。 引っかかるもの、については、西洋哲学史を概論、と言ってる時点でむべなるかな、ですが、 たとえば、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の訳が実は「思う、故に、在り」で、 通例の訳、「我、思う、故に我在り」の「我」(=エゴ)が抜けている・・とかいった指摘の過激 さとかがわかってないんじゃ、ちょっと話にならないです。 ほかにも、ニーチェの万華鏡にせよ、哲学史に突如として生え出たキノコ・ウィトゲンシュタイン、 とかの表現の妙ももうちょっと楽しんではいかがでしょうか? 何度も言ってますが、ニヒリズムの克服を求めた埴谷の先で「死ねる神が神であるわけない。」 と言うに至った彼女の功績って現状のスピリチュアル・ブームの中ではぼやかされ忘れられてます けど、それが言われた時期を考えるとほんとにほんとに凄いものなんですよ? >>414 池田がただのエンタメ・エッセイストなら、 こちらもなんの文句もない。 しかし我慢ならんのが、実力ゼロのくせに一知半解な哲学、 とくにヘーゲル哲学を語る(騙る)こと。 ほぼ専門化以上の哲学の研究を積めば、 池田の見解が素人の域を出ないことなど、すぐわかる。 >ニヒリズムの克服を求めた埴谷の先で「死ねる神が神であるわけない。」 こんな認識などは、19世紀後半から20世紀中盤までに出つくした、 実存主義の十番煎じ。 たとえばニーチェは、「神の内実」がもはや世界から失われたことを悟り、 「超人思想」「永劫回帰」など、個人が「自分ひとりのための神」になる決意を語った。 その結果、本人が発狂し破滅するほどの重圧を引き受けた。 ひるがえって池田はどうか? ただの自堕落で不摂生な生活により、早死にしただけ。 俺が言いたいことは、ただひとつ。 「身の程をわきまえ、語る資格と能力のないものについては、沈黙を保て」。 禅の沈黙と弁証法の饒舌は実は同じものなんですがね。 彼女の「黙り方」に、まあ、躓いて、それをどうしても越えられない もんだから呪詛を発しないでおれない気持ちも、まあ、わからんでもないです。 肝心なのは、「実存(実体)」に対して「虚体(虚存)」を持ち出した埴谷の 後を継いだ彼女が20世紀末期に何を見たか、なんですが。 「自分とは何か?」と永遠に自分を定義しつづけるニーチェも辛いとは思いますが、 「何が自分か?」と、マラソンランナー並みの走りこみと酒によって、ニーチェの言う 「デュオニソス的陶酔」を自覚的に起こさなければならなかった彼女もどっこいどっこい ですがね。 「ニーチェはずるい。狂うことで逃げを打った。」 彼女の言葉です。 >>416 >彼女の「黙り方」に、まあ、躓いて、それをどうしても越えられない >もんだから呪詛を発しないでおれない気持ちも、まあ、わからんでもないです。 「マラソンランナー並みの走りこみと酒によって、ニーチェの言う 『デュオニソス的陶酔』を自覚的に起こさなければならなかった彼女」 が、行き着いた「“存在”に対する最終回答」が、これ。 結局、あるものはあるからあるのであり、ないものは、ないからないのだ。 (週刊新潮での連載エッセイ) 悪いがこれなら、小学生でも言える。 また、池田が「謎だ、謎だ」とのたまう「存在の謎」など、 ヘーゲル『大論理学』の“有論”を正しく理解できていれば、 まったく謎でもなんでもない、哲学者中級クラスの問題。 池田はつねに、「有と無」を対比させ論理(笑)を展開させていたが、 池田にはヘーゲル哲学における概念、「完全無」「非有・抽象的有」「仮像」「実在」 といった観念をまったく理解できていないのは、明々白々。 この事実からだけでも、池田はヘーゲルの「ヘ」の字もわかっていないのは、確実。 よって池田哲学(笑)が役立つシチュエーションとは、ただひとつ。 池田自身がそうであったように、素人に対し「哲学を、わかったつもりにしてくれる」 場合のみ。 >禅の沈黙と弁証法の饒舌は実は同じものなんですがね。 >彼女の「黙り方」に、まあ、躓いて、それをどうしても越えられない >もんだから呪詛を発しないでおれない気持ちも、まあ、わからんでもないです。 この部分も、意味不明。 俺の思考力では、この部分が意味すると思われる事柄は、次の二択のみ。 @池田は禅者であり、悟った内容をあえて語らなかった A池田は弁証法的思弁者であり、池田の真意は顕わにされず、行間のなかに込めれらている これのどりらかとしても、池田のスタンスからは逸脱している。 なぜなら池田は、「哲学の巫女(笑)」なのだから。 巫女ならば、元来的に難解なものを、一般人にわかりやすく説明するのが役割だろう。 ならば自分の思考を語らずにいることも、また読者に行間を読ませるというやり方も、 いずれも Medium(仲介者) のすることではない。 この時点で、あなたの論旨は破綻している。 現代社会では人間は法に措定され社会化され価値化され主体化される。池田 女史で不審なのはそういった社会化・主体化のきつさがまったく視界に入って ない。「私は誰」は一般的には通用しない。自己責任論でまとめられてしまう。 池田女史のいた場所と社会人のいる場所の距離が測定されてなかったと思う。 埴谷が言った<自同律の不快>もまた、モノ化されてしまうことの不快であって 、自然が価値化されていく歴史的動力と無関係ではない。池田女史はそういう 背景を軽くみていたのではないか。あの文章がどこか調子のいい独善の 様相を帯びているのは、あの姿勢は社会化・主体化の動力の前では押し流され るしかない。その圧倒的な動力を軽視していたようにみえる。軽視していた ことが同時に埴谷の<自同律の不快>への軽視にもなっていく。 「神は死んだ」もね、そういう「死ねる神が神であるのか云々」という ところで言っても仕様がない。なぜなら「神は死んだ」もまた歴史への視線 から発せられたものだ。池田氏の発言は知らなかったけど、ニーチェ のは神自体がどうのとういうより相対性と大衆化の波に飲み込まれていく歴史 を言いあてた言葉だろう。だからそういう発言を聴くと本当に疲労で溜息出 るね。ほとんど痛々しい読めなさだと思う。よく頑張って評論家なぞやってた な、とね。 やれやれ、哲学の巫女が黙れば哲学の尼になるというのに・・・ まあ、いいでしょう。 いかに総合知の怪物ヘーゲルが用いた有に関する分析的「術語」を持ち出そうと、 肝心なところを解らない人には何を言ったとしても解りはしないようですから、 せいぜいあなたの知りもしない論理が破綻している幻想でも見てればよろし。 思い込みに人生を捧げる夢のごとき人生も一興でしょう。 >>419 それで、彼女の活動した20世紀末の歴史性、とは? て、いうか、「礼節」の意味がまったくわかっとらんようですね。 本気で貴方達が貴方達の語ってるようなことを思ってるなら、こんなスレに 書き込むこともないでしょうに。 話に付き合って欲しければ、語られる対象に対する最低限の敬意は払いなさいな。 そもそも自分にあなたがたの話に、これ以上付き合う義理があるとでも思っている のですか? 自分があきれ果てて黙る・・・とか、そんなつまらんことがあなたがたの「勝利」なん ですかね? とりあえず、忙しい事情もありますし、最低でもそのくだらん憎悪が消えるまでは 自分も姿をくらましますので、あとは彼女の姿をした己自身とでも喧嘩しといてください。 >>418 池田さんが書いていることを、全然読めていないのでは? まったく的外れな反論、というか、反発? なるほど(笑)でも私とか、禰宜さんがどうして池田女史批判者に反批判する 役目を引き受けているのか。それも不思議なわけです。「付き合う義理」とか 最初からない。だから何故池田晶子代理みたいに出てくるのか不思議でもある。 他の人はともかく、私は哲学とか思想とか、藁をもすがる気で読むことがあ った。特にハイデガーの作品を読むときはそうだった。ニーチェやウィトゲン シュタインをどう形容されても素通りするしかない。そういう面白い言い回し で立ち止まるほどの余裕はそういう読書ではなかった。埴谷雄高の作品でもそ うだし吉本隆明の作品でも、藁をもすがる気で読むことがある。そこから すると、もって回った言い回しをされても何もこちらには残らない。あと 埴谷や吉本の読みもずれてると思いましたし、禰宜さんが一生懸命擁護する のは何故か、アイドルであるというところ以外は見当つかなかった。なので 「付き合う義理」はない。その通りでしょう(笑)。「勝利」とは何か、 私にもよく分からないけど、「勝利」とここで思ったことはないですよ。 繰り返しますが、池田晶子を擁護する動機が分からなかった。禰宜氏に 限らず分からないですね。私は具体的に詰めが甘いと思えたところや読めて ないと思えたところを指摘しただけです。それも禰宜氏ではなく池田晶子の 思考に向けて書いてる。禰宜氏の考え方はよく知らないし。池田女史の 思考から目を開かれたことはないですね。なので禰宜さんが出てくる義理は ない。と改めて言っておきます。 >>420 は、典型的な「自己紹介乙!」と禰宜氏の敗北宣言ですな。 むしろこちらの発言に対し、いちいち噛みついてきたのは、 禰宜氏自身。>>420 は、典型的な「自己紹介乙!」と禰宜氏の敗北宣言ですな。 こちらは禰宜氏につき合ってほしいなどと思ったことは、 一度もない。 むしろこちらの感覚からすれば、いつまでもしがみついてくる禰宜氏に自分が 「つき合ってやった」気分。 それと>>406 や>>421 に見られる、ミエミエの自演癖もなんとかしたほうがいいと思う。 >>420 は案の定、こちらの論に対する具体的反論はまったくなく、 毒吐いてるだけだし。 「忙しい」を理由にすれば、 「反論できない or 反論に時間がかかる」「スレから退散する」言い訳になるしね。 まぁこちらとしても、池田シンパの哲学的実力と人間性の程度が、 池田同様の「低度」だと確認できたので、いいけどね(w 2ちゃんの著名人のスレで、「礼節」とか ひとりよがりのルールを勝手に持ち込んだり。 自分から一方的に挑んだ論戦から逃げるにあたり、 「お前らとつき合う義理はない」とかのたまわったり。 こちらの論に対する反論はできないくせに、 的はずれな人格批判を展開したり。 生前に、さんざんトンチンカンで独善的な「哲学」を語り(騙り)ながら、 反論者には「検閲」を要求しただれかさん、ソクーリ(w 人力飛行機さんは長々と長レスする割に、 自分でも言ってることだけど、愛と無限と希望がわかってないね。 池田哲学が役立つシチュエーションとは、ただひとつ。 素人に対し「哲学を、わかったつもりにしてくれる」場合のみ。 いい言葉じゃないか。素人にそんなことができたから池田晶子は評価されている。 「そんな事」が出来る人がいったいどれだけいるのかね。 本物の哲学を知りたい人が、店頭に並んでる本とか、日本語で書かれたものとか読んでるようじゃ話にならん。 >>426 >素人にそんなことができたから池田晶子は評価されている。 >「そんな事」が出来る人がいったいどれだけいるのかね だったら、看板をちゃんと書けと言いたい。 『なんちゃって元モデルが読んでみた哲学』とか、 『喪女が引きこもって、哲学した結果wwwww』とか。 まちがっても、『死と生きる』とか『14歳からの哲学』とか、 『考える人』とか、『事象そのものへ!』とか、 さもわかったふりをするなということ。 俺、いちおう物書きなのだが、 このテのバカが書いた啓蒙書(笑)に毒された素人に、 モノをわからせるのは、たいへん。 「哲学」ならば、一般人がどう誤解しようが、本人にとって実害は少なかろうが、 たとえば化学薬品のあつかい方を、素人がいい加減なこと書いて、 事故が起こったら、問題だろう。 いくら哲学だろうが、これは立派な文化だ。 素人のババアが私物化し、世間に誤解を撒き散らすなと言いたいだけ。 >>427 >俺、いちおう物書きなのだが、 ならば話は簡単。 てめえの才能の無さを、他人へのひがみに転化するなんて物書き以前に、人間として最低だ。 プロなら仕事で勝負しろ。ベストセラー連発して、池田晶子なんか過去の物にして見せろ。お前の本で書店から追い出せ。 出来ないならあんたの負けだ。 >>428 たしかに、そっかもね。 とりあえずメジャーになって、 発言力をつけることを目指すよ。 口の悪さっていうか、客は常に素人だっていうのが理解できない奴に表現者は無理。 >>431 悪いけど、俺はわかりやすい文章を書くライターってことで、 クラアントからの評判は上々だよ。 俺のレス、>>417-418 >>427 を読んでみな。 内容が「哲学」であっても、中学生にも理解できる文章だから。 「客は常に素人」は、前提であろうが、 相手が素人であることをいいことに、客を騙すのは問題だろ。 俺が言ってるのは、その点だけ。 まぁ最近は、俺の哲学や歴史にかんする著書発刊の話も進んでいるから、 そのなかでそのへんのことは、述べるかもしれない。 >>432 >俺のレス、>>417-418 >>427 を読んでみな。 本気で言ってるのか? こんな内容のない悪口、読後に嫌悪感しか残らんぞ。 >「客は常に素人」は、前提であろうが、 浅すぎるよ。 求めるもの、求められるもの、その決断の重さがこれっぽっちも分かってない。 もしあんたが十年後も物書きでいられたら、意味がわかるかもな。 池田晶子の大きさもね。 >>433 失礼ながら、論争に負けて名無しに戻って吠えたところで、 なんの説得力もありませんよ、禰宜さん(w >>434 このレスが意味を持つには二つの条件が必要だ。 1、自演を見破られたら、レスの内容にかかわらず、当該レスは無効になる。 2、一度論争に負けた者は、以後レスの内容にかかわらず、説得力を持たない。 勝ちが欲しいならいくらでも負けてあげますよ。 スーパードクターKとダンガンロンパのクロスSS書いてるのってやっぱり禰宜なの? やあ皆さん久しぶり つーか、禰宜さんスレ全然伸びないじゃないかよう 亀さん、あの時は悪かったから、そろそろ帰ってきておくれ ところで私事で恐縮なのですが、この度企業する事にあいなりまして、株式会社なのですが、社名を何にしようか色々と悩んでおりまして、つきましては皆さんに案を出しては頂けないかと思った次第なのです。 皆さんのお知恵とご経験を参考に致したいのですよ。 電話を受けた時なんか「はい、○○です」って言った時に、ふぅーカッコイいってのがいいですねー。 パンタレイとか妻子の名前にちなんでとか色々考えちゃうんですが、ここは皆さんのセンスをアンケートしちゃいます。 よろしくお願いしまーす。 >>437 あ、すいません企業じゃなくて起業でした この人の冴えてたのは1991年『朝まで生テレビ』でオウムや幸福の科学と 同席して景山民夫と論争していた時だったと思う。「私は神を考える。神が 私を考える。その対立を止揚するものとしての神しか私は神として考えること はできません」というこの時の池田は良かった。 しかしその後は論旨の読めない評論家としてしか歩んではいかなかった。 池田の用語に即して言えば「思考は足りなかった」。 >>435 小粋なことをなさりますねw >>437 やあイチナルモノさん、どうもお久しぶりです。 ちょっとこれまでの流れ上、どうしても厄介極まる「無限」について言及しなくては ならないために尻込みしてたことに加えて、こちらもいろいろありまして、暇な煽りさんに も構ってる暇が全くなかったんですよ。 しかし起業ですか・・ 時流を鑑みるになかなかいい試みだと思います。 とりあえず、どんな業務でどう社会に貢献するおつもりなのか・・・適当に ぼかしがてらにでも話してもらえないものでしょうか? >>436 さる創作スレでSSは書きましたが秘密w もうオチちゃったので、どうせ見れないですがw 運営が西村からJIMになって、スレ落ちしなくなったらしいぞ。 まぁ、 氏の言うところの「哲学輸入業者」や「屁理屈屋」には なりたくないな。 とはいえ、 「この世の一切合切は一体全体、何なの?」 と一生かけて向き合う程の変人にもなれないw ホンモノの哲学者は多分そういう問いに一生かけて向き合うことを辞さない 人種だと思う。 世界の一切合切を知りたいと思うけども、変人にはなれんな。 その1 プラトン著作「国家」の重要性 毒親育ちの私の実体験に基づく考察です。皆さんの見解をお聞きしたい。 ・まずスーザンフォワードは毒親と言っているが、そんななまっちょろいものではなく、我々を確実に殺しにきてるので私は「殺親」と呼ぶ ・我々には親のふるさと的・恒久的な愛情が絶対的に必要。 血などつながっている必要はなく、我々には里親が必要。 ・社会公権力が我々を救うことが必要。 社会への信頼につながる。 ・全ての我々毒親育ちに向けた現代の精神医学及び臨床心理学は根本的に間違っている。 我々毒親育ちに対する自助努力的変化の押し付けがそれである。 自身の感情と対話するとか自身が自身の親になるとか瞑想をするとか、その他全ての自助努力的変化技法を柱にすると、やればやるだけボロボロになる。薬物療法も同じくである。 無論、スーザンフォワードも間違っている。 殺しにきている奴らと対話するより、もしかしたらいるかも知れない理解者を期待して、正しさを社会に訴えた方がいいに決まってる。 その2 ・全ての臨床家は毒親育ちの率直な声に素直に従うべき。 難しく分析細分化したものを我々に押し付けるのをやめるべき。 我々の心身・人生を健康的にするのは安心できる親の愛情と癒しである。 繰り返すが血のつながりは必要ない。 ・具体的にまず警察ではなく軍隊(日本では自衛隊)が動き、全ての殺親を隔離する。 その際必要施設として殺親刑務所・殺親収容所・殺親再教育所を各自治体に設け、軍が管理する 殺親の全ての財産は没収。殺親の職業の剥奪。殺親の基本的人権の剥奪。 殺父親・殺母親・殺義父・殺義母・殺里親とそれら全ての兄弟姉妹は全て殺親なので無条件拘束。 ・殺親の親、殺祖父母及び殺義祖父母とその兄弟姉妹達は全て猛毒ならぬ猛殺なので軍の特殊部隊が当たる。 殺祖父母刑務所・殺祖父母収容所・殺祖父母再教育所を各自治体に設け、特殊部隊が管理 ・殺曾祖父母及び殺義曾祖父母とその兄弟姉妹が存命な場合、激毒ならぬ激殺の為、軍のエリート部隊が当たる 殺曾祖父母刑務所・殺曾祖父母収容所・殺曾祖父母再教育所を各自治体に設け、エリート部隊が管理 それ以上の世代に関しても存命の場合、別の場所でエリート部隊が管理 ちなみにそれらの世代の毒は鬼毒、鬼殺と呼ばれる その3 ・公権力が我々から殺家系を完全に隔離してくれることで 我々はまず実質的な殺家系からの被害を受けなくなること、殺家系が罰され再教育されていることで我々の殺家系に対する殺意を公権力が受けもってくれることで、我々自身の殺意が行き場を失って自身に跳ね返ってくる自縄自縛状態から解放される。 それで我々の溜飲はいくぶんか下がるが、我々には公的な保養所で無期限の休養と殺親育ちどうしでのいたわり合いが必要 ・公権力の厳正な教育・審査・認可の元、選ばれた里親達を随時我々にあてがっていく。 ・再教育を終えた殺親の出所は殺親育ち・公権力・里親全てが認めた場合のみ許される。 ・殺親育ちの伴侶も殺親育ちなので共に保養所。伴侶の殺家系は隔離。それら殺親育ちの兄弟姉妹(義兄弟姉妹も含む)も殺親育ちなので保養所。 殺親育ちの子供はダメージが大きいので保養所にて徹底ケア この里親システム及び殺家系隔離再教育システム及び保養所ケアシステムは、殺家系ではない家系の殺親育ちに対する姿勢を最大協力的なものにするし、また殺家系化への抑止力にもなる。 過度に殺家系を増やした行き過ぎた民主主義と資本主義の社会システムを変容させることが可能 その4 プラトン「国家」の哲人統治国家はそもそも産まれた子供全てを子が成人するまで国が預かり育てるところが面白い。 民間人の親は愛情という名のもとに殺意を子にぶつけてしまう可能性を多いにはらんでいると見抜いたプラトンは、国で育てる子達の親を「天」だとして教育することを考えた。 哲学的才能を最大限伸ばす教育プログラムを子達に与え、国が認めたレベルの哲学的才能を開花させた子達が成人を迎えると軍人としてそのまま国に残らせる。 哲学的才能が開花しなかった子達のそれ以外の才能を的確に国が見抜いてあげ、成人を迎えたら民間の親元に返して民間の職業に従事させる。 国に残った軍人候補生は軍人として働く中で、特にその中でも哲人的能力の高い者は国の統治陣候補として選抜され、統治陣になっていく。 哲人は本質を考え見抜く能力に長け、高い倫理性を持ち、軍人を経験しているが故に力強い実行力を兼ね備える。 統治陣ということもあるがそもそも哲人は宗教家ではなく弁論家であるわけでもないので、 親を「天」として育てるからといって盲信的な宗教国家や独裁国家にならず(子供達も成長と共に産みの親は親でいると知る)、かといって過度な民主主義・社会主義国家にも軍閥国家にもならない。 あくまでも哲人統治国家であるし、軍人達も哲学的能力が高い。 その5 軍事核兵器の総量が地上を簡単に滅ぼせる現代において、対外的な軍事力など本質的に意味をなさない。 現代においての軍事力が活きるのは正に殺家系撲滅の為の内治への実行だ。 殺家系は公権力に対し必死の抵抗をする。 警察では無理だ。 殺親育ちは未成年・成年関係なく公権力に救われなければならない。 実際、児童養護施設では、子供達の自助変化をサポートすることに負のスパイラルを見せつけられ、 殺親の再教育を国の指示ではなく現場の有志の判断で行い始めているが、公的な強制力を持たないし、スタッフはそもそも哲人・軍人ではないので、やはり負のスパイラル状態で、 そのストレスを子供達にぶつけて虐待するなど殺化してしまうところもあるし、そもそも殺親がスタッフをやっていることもある。 児童養護施設は国の機関なのだが、現状は負のスパイラルだ。 現実は酷い有り様だが、私はこういう事が見抜ける哲学的能力を、殺意ではなく愛情によって実行したいのだ。 何より人並みに健康で安らぎに満ちて楽しくて幸せな人生をささやかでも実感したいじゃないか。 インターネット社会の現代では一国家単位ではなくグローバルにいっせいに変わる時代でもある。 私はこの文章を書いたことを無駄だとは思わないんだが 皆さんいかがだろうか その6 補足 ちなみに殺親達の再教育後は悲殺家系のジジババ達に殺親・殺祖父母等の里親をうけもってもらう これにより年寄り達のボケ防止と必要以上の高齢化を防ぐことができる いやいやw 流石に世間に対して話すのはばかられる『国家』の歯に衣着せぬ部分をよくぞここまでww よほどの地獄を見てこられたんですね。 プラトンの魂の国家においては、親子の「血の連関」は「魂の連関」たりえない、という ことで子の真なる親は国家である、という世間が到底認めえない真実を突き付けるわけですが、 しかし、毒親ならぬ殺親、とはこれまた壮絶極まりないですねw いや、笑いごとではないんでしょうが。 ざっと見ましたところやはり、『殺意ではなく愛情によって実行したいのだ。』というくだりに 希望は集約されていると思いますが、それには殺親に殺されかけつつ日々を生きているてる子、 となにより国家、の間に「天」を介した愛情が成立していなければならないと思われますが、 課題はその具体的過程や形態の見極め、なんでしょうかね? それがインターネットやグローバルとどう連関していくかも気になります。 >>454 めちゃめちゃ返事遅れました 「天」を親とするのではなく女神「サラ・オレイン」を親として天上にましまして頂くために、私今から彼女にプロポーズしにいって参ります 成功した暁には私めが全知全能の神として女神を独り占めしたい所存であります 後のことは知りません 「天」も「神」も無責任なのでありますが、美弦・品性・美声・理知・美貌を兼ね備えた奇跡の女神「サラ・オレイン」はインターネットでグローバルに拝見できますよ 彼女だけは無責任ではないと思いますよ多分 最近、哲学に興味を持った初心者です。 「41歳からの哲学」を読み、今は「知ることより考えること」を読んでます。 この池田さんという方は、いつ死んでもいい、みたいなニュアンスの文書が 多いような気がしますが、かなりさばさばした性格の人だったのでしょうか? 悪く言ってしまうと、まるで自分の死を予感していたみたいだったのかな? 池田哲学において、「死」は最大のテーマと言っていいと思います。 「死は恐れることのできる物ではない」というのはその一つの結論です。 彼女がそれをテーマにしたのは、おそらくその生涯において死を身近に感じる経験があったからではないかと思います。 個人的には、彼女自身が「死の恐怖」にひどく取り憑かれているだけに思えますが。 若くして亡くなってますし、かなりの酒飲みだったようなので、若い頃から健康な人ではなかったのではないでしょうか。 457です >>458 なるほど、死を最大のテーマにしてたんですね。 週刊誌の連載だからか、歯切れよく、わかりやすい文章で読めるので、 他の著作も読んでみます。 プラトンスレにいい書き込みをしている人がいたので以下にその書き込みと更に以下に私が返信した書き込みを載せます。 池田さんと藤沢さんの後期の良き関係もあるのでこのスレに載せてもいいかなと。 246 考える名無しさん 2014/12/17(水) 16:12:30.91 0 藤沢令夫のプラトン説の批判に対するツッコミは面白い。 みんな、イデアとか目に見えない概念を語ってるプラトンが嫌いらしい。 アレルギーというか、生理的に受け付けないみたいな? 脊髄反射的感情が先にあって、その嫌悪感先にありきで批判するからか、 プラトンをよく読みもしないのに適当な事言って、 批判した気になってる奴が専門家にも多い。 とにかく多くの現代人はイデアという概念がそもそも嫌い。受け付けない。 とにもかくにも、 プラトン説に批判の矢を的に当てるのに、的外れどころか、 的を勝手に変形させてから矢を当てて「ハイ論破」、 みたいな事やってるだけ。 あるのは過去の文献、書き言葉のみ。プラトン本人は死んでる。 藤沢令夫も死んだ。 勝手に解釈し、勝手に歪めて、その上で批判し、「ハイ論破」。 死人に口なし、後世の哲学者はそりゃ何とでも言えるわな。 247 考える名無しさん 2014/12/18(木) 01:24:31.66 0 >>246 全く同感だよ。イデアっつうのは要は言葉の形式と内容の関係性を例えたもので、特にファンタジカルなものでもなく、藤沢さんをも批判するのはどうかしてる プラトンも凄いがヘラクレイトス・パルメニデス・ヘーゲルが凄いと書いたが、ソクラテス・アリストテレスも凄い。 哲学の核となる弁証法の始祖とも言えるヘラクレイトス→ソクラテス→プラトン→ヘーゲルの流れ 合わせ鏡の様に中庸概念の始祖とも言えるパルメニデス→アリストテレスの流れ ヘラクレイトスとヘーゲルは弁証法の鬼。 パルメニデスとアリストテレスは中庸概念の極み。 ソクラテス・プラトンは両方の合わせ鏡の関係をよく理解していて、実は最も見事に最終型まで弁証法を語ったのがソクラテスで書いたのがプラトン。岩波のプラトン全集第一巻が正にそれ。 対話形式でくどいから嫌がられるが第一巻は凄い。だからやはり核は弁証法。それを更に昇華させたのがヘーゲル。 プラトンはアカデメイアを作り、一番弟子でパルメニデスの影響を強く受けたアリストテレスが哲学を原点・頂点として学問を体系化して現在に至っている。 まあ、実際は哲学が原点・頂点だと特に日本では戦後、機能も自覚もされていないのが悲しい現状だが。 アリストテレスが中庸概念派だったからプラトンのイデア批判などが起こりやすい状況になっているが、そもそもヘラクレイトスとパルメニデスは合わせ鏡の考えの持ち主でどちらも正しい。 イデアは弁証法の中の大事なファクターでもあるし、合わせ鏡だからこそ、イデアという例えをプラトンは使ったわけだ。国家なんてホント素晴らしいよ。 アリストテレスだって中庸概念派でありながら形而上学にて弁証法が核であることを示している。 プラトンみたいな大天才やそれを最後見事に研究著作した藤沢さんを批判する奴らのアホさ加減は酷い でもやっぱりそれらを地で生きて死んでみせたタレスが一番凄いなあと思う。凄いロマンティックだし、楽しそうで余裕を感じるし、天才だし。無限大の懐を感じさせる史上最高の人物だと思う。 ところで無限についての考察の進捗はどうだい? マイフレンド禰宜 Fate Stay Night - Unlimited Blade Works The Movie イデアっつーのはまぁ、過渡期の発想っつーか、 のちの「概念」につながる上で通る道だったっつーか。 哲学なんつってるけど、イデアって言っちゃったら「清いもの」 って事だからねぇ。「うんこのイデア」もアリなんやで!w 数学や物理学の論理は万人に理解できるものだが、 残念ながら形而上学は選ばれた人にしか理解できない。 >>461 考える名無しさん 2014/12/18(木) 01:24:31.66 0 全く同感だよ。イデアっつうのは要は言葉の形式と内容の関係性を例えたもので、特にファンタジカルなものでもなく、藤沢さんをも批判するのはどうかしてる プラトンも凄いがヘラクレイトス・パルメニデス・ヘーゲルが凄いと書いたが、ソクラテス・アリストテレスも凄い。 哲学の核となる弁証法の始祖とも言えるヘラクレイトス→ソクラテス→プラトン→ヘーゲルの流れ 合わせ鏡の様に中庸概念の始祖とも言えるパルメニデス→アリストテレスの流れ ヘラクレイトスとヘーゲルは弁証法の鬼。 パルメニデスとアリストテレスは中庸概念の極み。 ソクラテス・プラトンは両方の合わせ鏡の関係をよく理解していて、実は最も見事に最終型まで弁証法を語ったのがソクラテスで書いたのがプラトン。岩波のプラトン全集第一巻が正にそれ。 対話形式でくどいから嫌がられるが第一巻は凄い。だからやはり核は弁証法。それを更に昇華させたのがヘーゲル。 プラトンはアカデメイアを作り、一番弟子でパルメニデスの影響を強く受けたアリストテレスが哲学を原点・頂点として学問を体系化して現在に至っている。 まあ、実際は哲学が原点・頂点だと特に日本では戦後、機能も自覚もされていないのが悲しい現状だが。 アリストテレスが中庸概念派だったからプラトンのイデア批判などが起こりやすい状況になっているが、そもそもヘラクレイトスとパルメニデスは合わせ鏡の考えの持ち主でどちらも正しい。 イデアは弁証法の中の大事なファクターでもあるし、合わせ鏡だからこそ、イデアという例えをプラトンは使ったわけだ。国家なんてホント素晴らしいよ。 アリストテレスだって中庸概念派でありながら形而上学にて弁証法が核であることを示している。 プラトンみたいな大天才やそれを最後見事に研究著作した藤沢さんを批判する奴らのアホさ加減は酷い でもやっぱりそれらを地で生きて死んでみせたタレスが一番凄いなあと思う。凄いロマンティックだし、楽しそうで余裕を感じるし、天才だし。無限大の懐を感じさせる史上最高の人物だと思う。 彼女は、自身の心の病に もっとよく 気づくべきだったと思います。 死を怖れているから自殺・他殺をする 死を怖れていなければ自殺・他殺はしない 哲学は弁証法理解の後はどうしたって言語の問題にぶち当たるんだが 起結転承の言語体と起承転結の言語体が現実に存在している事が非常に不思議でならない 英語などは前者になり日本語などは後者になるわけだが何故だ 誰か頭のいい人教えて 型は2種類だけじゃないから SOV型565言語 SVO型488 VSO型95 VOS型25 OVS型11 OSV型4 基本語順なし189 Nobody賞って何がしたいんだろう はっきり言ってくだらない フジTVの番組ほんまでっかにレギュラー出演しているトンデモ脳評論家の澤口俊之氏。 変人で素っ頓狂な傾向が池田さんと似ている。 明石家さんまさんと池田さんの言葉の遣り合いが見たかった。 Nobody賞の受賞者って、結局は学歴じゃねーか。 今年は筑波、その前が東大、その前が早慶上智かよ。 自然への畏怖・尊敬・感謝・祈りをなくした人の心はあかんと彼女は言っておったが同感だ 言うは易し聞くは難し 学のある人間が人の話を聞かなくなったら戦争が起こる 精神が肉体のメタにくるなんてのは生活常識だろ 何で日本人で勉強出来る奴は医者になりたがんだよ 哲学者とか臨床心理士になれよアホくさい 医術なんてメタフィジカルの調和が崩れた時の心得として勉強出来る奴は誰しも出来とけっていうシステム介入でしかないだろ 日本人は形式にとらわれすぎなんだよ 形式なんて後から調和させてなんぼだろ 弁証法批評哲学者より偉いなと思えるのはカール・ロジャーズ 大学の学部卒編成を哲学部文科理科とすべしと言った池田晶子は賢い 最近読み始めたよ。 考えろっていうけどめんどくさい! 14歳からの哲学を図書館で借りて途中まで読み、この本は買って何度も読むべき本だと感じて書店に走った もうすぐ30になろうかという年齢ではあるが、なにかきっかけを掴めそうな予感がしている ホントはなんぼのもんでもねえんだってことを分かってない奴が多過ぎ >>496 ほんとにねー せめて5年間でも、まともに本物の哲学書ばかりに触れる時間をもてば、 こいつの素人ぶりは、否応なく理解できるはずだが… 出版社やアカデミーの人間も、哲学そのものへの無知か、 あるいは、こいつの著作が売れているからか、 ツッコミどころだらけのこいつの哲学()を、まともに批判しないんだよね ネタとして売れる分にはかまわないが、こいつがまともに啓蒙家としてもてはやされるところは、 日本の知的退廃というべきだな… 池田晶子はヘラクレイトスからの弁証哲学者の系譜に間違いなく入る立派な哲学者やと思う おかしいと思うところもあるけど正しいと思うところもある この方の著した本の楽しみ方がよく分からないのですが 楽しむコツっていうかみなさんどこらへんにポイントを置いて読んでますか? 池田さんはあまり教養がないというか勉強不足の人のように思えて ただ議論の前提を引っくり返して面白がっているだけの文章を書く人にしか思えず それを哲学者の肩書きと美人の顔写真で維持しているように見えてしまって 素直に楽しめないのですがこう読むと面白いよというアドバイスがあったら よろしくお願いします >>501 まず主語であるところの私とは何かを考えよと書いたところは弁証哲学者らしい ただ前提をひっくり返して〜のところは多分にみられるからそこが分かっているならもう池田から離れてよい 私の知る限りヘラクレイトスが最も優れ次いでソクラテス・プラトン・へーゲルは哲学者としてとても優れている その辺の古典並びに著作を読んで理解したなら自分の言葉で哲学を語る事に挑戦してみるのもまた一興だ 池田の優れているところは自殺についての論理考察と無知の無知から無知の知までの導き 無知の知から知の無知までと知の無知から知の知までは先に挙げた四大弁証哲学者の方がその論理性において優れている タレス・パルメニデス・アリストテレス・カントなどのいわゆる中庸哲学者は弁証哲学において意識の狭間とも弁証と社会との現実差違においてのやるせない溜息の様なまたは人間の妥協という弱さと捉えてもいいし 間違いと捉えてもよく試行錯誤のプロセスと捉えてもよい 池田は前者の弁証哲学者で中庸哲学者でない事は間違いないと思うがいささか言葉足らずなところがあり場合によっては鋭く場合によっては鈍い洞察を見せている所が人間味があっていい 61 :ラジオネーム名無しさん:2015/12/18(金) 19:41:32.42 ID:9jjfoQ4s.net>>60 かつて池田晶子という美人哲学者wが早世したとき 「あの人は哲学に憧れてただけです」 と切って捨てたのは誰だったかw 孫崎とか適菜とか悪い筋とは距離とったほうがいいよ おはよう寺ちゃんはB層聞いてないからw 92歳まで生きて欲しかった 曽野綾子のような発言をして若い人達から安定した老害ぶりなどと揶揄されても 意に介さずに自分の言いたいことを言い続けるBBAの一人として長生きしてもらいたかったね >>506 「在る」って何や?「わたし」って何のことや? あ、ヤバい、説明つけへん、どないしよ・・・ と、誰ぞの意識で考えにおいて考えられてるでしょうw 池田さんは「好き嫌い」これだけはどうしようもない。生まれつきなもの。と感じていたようですが 好き嫌いは観念ではないかとわたしは思うのですが皆さんはどう思われますか? 発狂さん名言集 >一日中荒らしていますが、働いていないんですか? これが仕事だよ〜 >一日中荒らしていますがいつ寝てるんですか? 10年間ぐっすり眠れたことないよ〜 >発狂さんは本当に50歳なんですか? 自称50歳だよ〜 >毎日楽しそうですね 生きてるか死んでるか忘れたよ〜 >発狂さんは完全に狂ってますね(笑) 生んだ親が全部悪いんだよ〜 >発狂さん泣いてるんですか? もう自分でどうしていいかわからないよ〜 >まあ頑張って生きてくれ 荒らしてるときだけが生きてる気がするよ〜 >発狂さんは10年間荒らし続けてるって本当ですか? 2ちゃんねるが始まって16年じゃろ? >なぜ人に迷惑かけて平気なんですか? ぐっすり眠れたのはいつだったな覚えてない〜 >発狂さんの座右の銘はなんですか? おれみたいにだけはなるなよだがね♪ >発狂さんって生きてるの大変そうですね(笑) この年で今さらどうしようもない。あとはただ死んでいくだけだ。 >発狂さんって働いたことないんですか? 2ちゃねらーが働いたら負けじゃろ? >じゃあ、どうやって生活してるんですか? 親な全部悪いにきまっとるじゃろ? >発狂さんは、親に食わせてもらっていると。 >でも発狂さんが50なら親は定年してますよね 親の罪は永遠 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=奈良県=大阪府 性別: 男、未婚 年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ) 国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得) 住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)? 最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅? 実家: 不動産を所有する資産家の分家 家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執? 母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者 宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない 既往症: ノイローゼ(2013/1/15) 常用薬: リスペリドン(2013/1/7) 禁忌: 奈良駅には行けない事情がある 職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師 資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在) 高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒? 大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ? 大学院: 関西地方の法科大学院修了 受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている 勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用 ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方) 奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在) 体重: 63.6キロ(2011/12/20現在) 好物: 水炊き、うどん 好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年) 偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ 憧れ: 大学教授、公務員 常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか 2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い 2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。 2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 発狂じいさん、上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。 15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか? こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか? あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。 みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか? あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか? そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 この人と永井均が対談してるやつがどっかにあったと思うんだが、 読めないもんかな。 >>514 持ってるぞ 実家にあるから年明けにでもうpしよか? この人の本で、がちの研究書ってあるの? 自分で考えた哲学じゃなくて、ちゃんとカントとかヘーゲルについての研究したやつ。 >>514 「2001年哲学の旅」(新潮社)の218ページ以下にあるよ。いま目の前に持ってるけど。 これがあがってくるって 左巻きおっさんつながりだろw ヽ、,jトttツf( ノ \、,,)r゙''"''ー弋辷_,,. =、..,,,ニ;ヲ_ ヾ彡r''"^ ,,,,,,,,,,,,,,,,__ ``ミミ, ミミ=- :__ ,彡彡彡ミミミミミx.、 = -三t /~ヽ ,三``''ヾ::, ,彡彡彡彡ミミミミミミミュ、 ,シ彡、 / / ,:ミ'' ,彡彡彡'¨´ `ヾミミミミミ、 . / ^'''/ /''ヾ! ( ,彡彡彡 ,z=x、 `ヾミミミュ、 / / / 、 \ /¨ヾ彡' ::: ,ztッ、` `ヾミミュ、 / ,t- ! ヽ. ヽ' | l!,ィ :::...~`::''´ ::==ニミミミミミ, . / , -〜''ヽ .∧'ヾ. _.ノ i,.=ッ、 }iiミミ l ----,〉 彡itー' ,:' ゙=、_ ノ '::..,イiiミ'' ! ___`, ,彡/ .: ___ ~i!. !ミ'' !. ,ィ__ノ 'V .: :. 匁卅i》 ! ,ィミ トイレの費用は純一が払えよ . l i _,/ヽ .: ::  ̄ / ` . _ノ / _,.イ/ \ :: , / 払えないならイヴァンカは野ションだ __/ヽ /ー─t≦ニ∧ ヽ ` ::...__,;:::'´,イ /ニ,イ. ヽ. /二二/二二ニ∧. ヽ / . /ニ/ニヽ \イ|!二二/二二二二', `ァ、 _ ,ィ . //ニニニ\ `t|!ニニ\二二二ニ', ,イ::::::::::', .,イヽ /二二二二二\_,イi}ニニニ>二ニニニ,_>''´ ヽー-〈V. V:',>。. /ニニニニニニニニ`Z7ニニく二二ニニニニ, l::::::::l Vヽニニ>。、 /ニニニニニニニニニV二二ニVニニニニニ, l:::::::::!. V=\二二>。、 弁証哲学者としては三流だが少年向けに簡素化しようとした試みは二流 感性は1.5流まであったが如何せん旦那が五流だっただけに四流哲学者として死んじまった 世間で思われてるよりずっと賢い人だし学ぶべきものがある哲学者だと俺は思ってるよ 個人的には埴谷や小林より上やと思うとる >>523 小林は言わば日本のカントだからねえ 女性には辛辣な批評と左派的な博識がたまらなかったんだろうが俺は小林は良くていい人って感じの印象を出ないけどなあ 小林の文章が難しいって言う人多いけど、オレ的には埴谷のほうがはるかに難解。 池田さんが亡くなってからぼちぼち11年かな。 早いものだ。 生前にお会いしたかった。。 >>525 埴谷は病んでるでしょ 読み物としても別に面白くない 俺も池田さんには会いたかったよ 失礼 池田さんが亡くなってからぼちぼち11年じゃなくてぼちぼち10だった。なんか去年没後10年だったと勘違いした。 最近池田晶子と田中美知太郎が似てるのに気がついた。 >>530 失礼。 そのとおり。 「2001年哲学の旅」の122ページ以下だね。 万物の根源は愛 そしてそれを支える四つの知があってはじめて正当に優しさが循環する社会 四つの知とは 「立法(無知の無知)」「司法(無知の知)」「行政(知の無知)」「福祉(知の知)」 ヘラクレイトスが理解出来ればどう四則分務化すればいいかも分かる ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 本を先に読んでその後に、池田さんのyoutube初めて見たが、 性格がかわいい人だね 目の動きなんか、本を読んでるときに思った雰囲気に一致してる もっと長く生きていろいろ違った角度から、著作を残してほしかった。 この人は、ものごとの底まで降りた状態で対象を見つめる人だから、 政治思想の左や右などはまったく無関係 アレキサンドリア図書館長ヒュパティアの生まれ変わりか・・・ 「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは 誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか 「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という 彼女(ヒュパティア)のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。 >>540 彼女のその言葉は正しいのですか? そしてそれに対し怒ったキリスト教徒は間違っているのですか? その言葉にあるヒュパティアの姿勢は、謙虚にモノゴトを再度見つめよ、考えよ、 というだけでしょ。 当時のキリスト教徒は、キリストの指す先を見ることなく、キリストを賛美するあまり ただただ尊敬しまくった、その結果がこのヒュパティアの最後。 世間的な言葉での正邪なら、明らか。 >>543 哲学者であられる池田さんが、そのお考えという事は他ね哲学者の方もみんな同じお考えなんですか?それとも哲学者によってはお考えに違いがあるんでしょうか? >>544 まず>>540 に上げてるのは、新プラトン主義の女性哲学者ヒュパティアの主張であって、 池田さんとはまったく無関係です。 哲学者は10人いれば10人考えが違うでしょう(時代の制約はあるので同時代の偏りはあるだろうけど)。 過疎スレだな 池田氏の著作で、ある日本人宇宙飛行士(の生き方)を批判というか、ひどく辛口に評していたものがあったが、 どの本に収録されているか、ご存知の方は教えてください。 気長に待ってます。 >>549 彼女の著作は九割方読んだけどそんなんあったかなあ まあ大体辛口なんでねえ 池田晶子の辛口批評に対する反論は許されないのかな? >>551 やっても無視されるか犬(旦那)に咬まれるよって故人を悪く言うのはやめとく 知識人の言葉に対し反論したり反発する事自体が 一種の社会病理だと気づかないのかな >>553 ケースバイケースだろ 池田晶子はそれなりに立派な人だったと思うよ 読者の手紙にもそこそこ応えてたみたいだし 531 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2018/03/04(日) 17:54:37.80 0 底辺、好きな人と付き合いたい。 底辺、人の気持ちを考えるだけで、セックスとかめちゃくちゃ下手だお(о´∀`о)自信もないし、やりたくもない。正直、いまとなっては、乳首舐められながら手コキされたいくらいしか欲はないおな。気持ち悪くてすまんが。 底辺、誰かと付き合うのは本質的に無理だと思う。 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1519363752/531 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 7H48C 哲学教育の機運を一般化させた貢献者だが続く人がいないからくすぶってる 当スレpart1〜3でスレを立て、一時期、鬼範馬勇次郎≠竍イチナルモノ≠ネどのコテを仮で付けていた者です。 亀≠ウんやテツガクのネギ=E禰宜≠ウんや他にもやりとりした方々やそうでない方々も含め、個人的に相談したい事があるので、以下の当方のメアドにメール下さい。 緊急の事案です何卒宜しくお願い致します。 ichinarumono@gmail.com >>560 いえ違います 宜しければメール下さいませんか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる