Martin Heidegger 1889-1976
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1889年9月 標高600mの小さくてきれいな町ドイツのメスキルヒで生まれた 。
1911年 フライブルク大学で神学から哲学に専攻を変更。
1919年 フライブルク大学でフッサールの助手となり教壇に立つ。
1920年 フッサール邸にてカール・ヤスパースと出会う。以後ナチ加担による中断を
はさみながら戦前は互いに往来し戦後は往来はないものの1963年まで文通は続いた。
1924年 学生ハンナ・アーレントと既婚のハイデガーの愛人関係が始まる 。
1927年 『存在と時間(有と時)』前半部が「現象学年報」第8巻に掲載。同時に別刷刊行。
なお「前半部」の前置きは1953年第7版以後は削除された。
1933年 フライブルク大学総長となる。
1933年 ナチに入党 。
1934年 ハイデガーの進めたナチ化改革により学内が混乱し総長を辞任。
1938年 『哲学への寄与』(刊行は没後)
1946年 ハイデッガー裁判の結果、大学の職務と講義の停止命令が下された。『「ヒューマニズム」に関する書簡』
1951年 名誉教授として大学に復帰。
1959年 『放下』
1961年 『ニーチェ』上下2巻
1962年 『技術と転回』
1975年 ドイツでハイデガー全集刊行開始。第1回配本は第24巻『現象学の根本諸問題』
1976年5月 フライブルクにて逝去 。 343続き
柄谷の例をたまたま挙げたが、似たような例は他にもある。そして柄谷の例が特徴的だが、
このミスがどうして発生したかという背景に、柄谷に限らない偏見が介在していると俺には
思える。柄谷はあそこで、ハイデッガーには特殊性はあっても単独性はないとした。引用
つきで。だが、実はそれは彼の不注意だった。何故あのような不注意が起こったかといえば、
彼の脳裏に「ハイデッガーはナチ協力者。また思想もナチズム」という先入観があり、それは
ある程度事実だが、その一部だけで裁断したがるということになったからだと俺は思う。
テキストを読む場合に先入観を優先させるとどうなるか、という好例だと思う。 >>339
>個体としての〈私〉が如何なる素因から形成されるのか
>一体A氏の生涯とB氏の生涯との差異とは何か。何も分からない。
そんなのみんな違うんだから、考えても意味がないだろ?
そういう「不可知論」を踏まえて、類型を分類して分析するから、精神医学は成り立つんだろ?
「単純な同時に安易な分析」では、ないと思うよ?
まして「A氏の生涯」や「B氏の生涯」など、他人が「捉えるべき」ことなどではない。
余計なお世話としか言いようがない。
サルトルがそんなことを言っているとは、とても思えない。 >>340-344
柄谷的に取り上げなければ、ハイデガーというのはただの神秘論者ということだろ?
不可知論どころか不可知なものを自分で作りだして、「存在」とかいう名前を付けているだけ。
その中で、ひとつだけ取り上げられるものがあるとすれば、「現存在」という、人は(物は、事柄は)、環境の中にある、という点だけだ。
ハイデガーに限らず、哲学者に限らず、誰でもがそう考え、そう感じていることに過ぎないが。
「存在」一般などというものを設定しても、宇宙はある、以上のことを言っているわけではない。
なぜ宇宙があるのか、を問うことに意味がないように、「存在」を問うことにも意味はない。
ハイデガーがナチスを礼賛したのは、その「存在」なるものが、民族(国家)を通して実現されるという、ヘーゲルの絶対精神の焼き直しだからだろう。 >>345
サルトルがギュスターブ・フローベールの生涯を膨大な資料を基に書いたこと
も知らないのかな。全4巻だがサルトルは幼少期に右目を失明。残る左目だけ
で生活していた。1973年に残る左目が眼底出血を起こし、影や輪郭だけが視える
ほどに視力下がり、完成はできなかった。サルトルはこれを通して、「今日、一
人の人間について、何を知り得るか」を究めんとしたのだとフローベール論の
冒頭で語っている。そしてその主題のために膨大な言葉を費やしている。
あなたはサルトルの問題意識には縁のない人間なんだろうな。本は人を選ぶ。
あなたは関係ないということだ。 >>347
一人の生涯をいくら追っても、なんの共通性にも到達しないよ。
類型化して、モデルを立てれば、そこになにごとかの共通性を見ることはできるだろうが。
サルトルと僕の関心がまったく違うのはあたりまえだろ?
別人なんだから。 >>347に補足すると、フローベール論は生前3巻まで出た。残る第4巻は完成させられなかった。
日本では第4巻まで出ていると思うが、これは日本での編集で4分冊までになったのだと思う。
他人のブログで調べたが、日本では第5巻まで出ることになっているらしい。
サルトルはこれを視力の低下、老齢と戦いながら必死で書き継いでいた。分量が多いが、
彼の遺作と言える作品であり、サルトルに興味のある読者は避けては通れないだろう。 >>349
サルトルに興味がある人はそんなこと知ってるだろうし、興味がない人には無意味な情報だから、わざわざ補足するほどのことではないと思うよ?
少し冷静になって、自分や他人を客観的に見るようにしたらどうだろう? >>348
目も通さずに何を先入観でまた言ってるのかね。というか、傲慢な他には何も文面から
読めないのだがw読んだこともないし意味も分からない。ということだけは分かった。
サルトルは個体を知解するための視点をいくつか取り出しているが、それは個体と言う歴史
をどう捉えるかというための概念でもあった。この概念を必要な記録に使えば、誰であっても
知解は可能だという前提を持っていた。
>>348は読まなくてもいいし読んでも意味が分からないだろうが、サルトルは個体への知解
のために大きな寄与をしてみせている。やはり大きな存在だし、力業を駆使する知識人だった
。他の人にはああい仕事は難しいだろう。
>>346
柄谷の誤読はしばしばある。またかと思ったが、誤読も気合いで押し通しwいまだに
『探究U』も店頭にある。ああいうのをまともに受け取って済ましているようにだけは
なりたくないものだと思ってきたが。
あの読みに妙な意義をみているそういう暇人もいるということだけは分かった。 >>351
結局、なにも反論できないないんだね。
君がなにを分かろうと、それは君の中だけでの自己満足だ。
他人からは、なんと貧しい思考だろうとしか見えない。
他人は君が思うより、遥かに深く考えているし、遥かに多くの読書をしている。
まず、そのくらいのことには気が付こう。
趣味的な読書と自己愛のような著者理解では、なにも理解することはできない。
君のレスにまったく具体性がないことがそれを示している。
具体的に出てくるのは、書名や著作者名だけだ。
せめて、「個体と言う歴史をどう捉えるかというための概念」とはどういうもので、「個体への知解のために」どんな「寄与をしてみせている」のか具体的に書いてごらん。
君より遥かに深く考え、多くの読書をしている柄谷を批判するのは、それからだよ。 >>346
>柄谷的に取り上げなければ、ハイデガーというのはただの神秘論者ということだろ?
>不可知論どころか不可知なものを自分で作りだして、「存在」とかいう名前を付けているだけ。
>その中で、ひとつだけ取り上げられるものがあるとすれば、「現存在」という、人は(物は、事柄は)、
>環境の中にある、という点だけだ。
一般的にいう環境やら世界やらは有るものの集合として記述されているがハイデガーでの
世界内存在での世界はそういった有るものの集合ではないんだが。そのくらいのことも
知らないで論じて行くのがそもそも無理なので、貴方がハイデガーなど論じるのはそもそも
無理がある。
柄谷は私が丁寧に>>340-344で指摘しておいたとおり、おそらくハイデガーのナチ加担でしか
読めないがため、ハイデガー哲学は共同体の共同性哲学だという偏見でしか読めなく
なっている。彼の誤読はそのために生じた。
で、貴方の言う「人は環境に中にある」という命題はせいぜい初期サルトルによる歪曲
(意図的か否かはともかく)止まりな陳腐なものだ。それで「分かった」と勝手に妄想している
のが馬鹿と言われる理由なんだが。
>「存在」一般などというものを設定しても、宇宙はある、以上のことを言っているわけではない。
宇宙はどこまで拡がるのか分からない無限性をもつ。だが存在と言う場合、ハイデガーでは
有限である(生命としても、世界としても)ところに特徴が有る。知ったかぶるのがいつもの
癖だが退屈な男だ。 >>352
>他人は君が思うより、遥かに深く考えているし、遥かに多くの読書をしている。
>まず、そのくらいのことには気が付こう。
貴方は読書してるのか知らんが読みとることができない人なんだな。丁寧さが足りないのでは
ないかね。読んでるのに読めない人間w或いは勝手に合点している。
そういえば柄谷にもそういうところがあるな。読んでいるのだが勝手に誤読して書いている。
足りないところが貴方と同じだ。さすがに柄谷の文の方がまだ品格はあるがね。
>君のレスにまったく具体性がないことがそれを示している。
>具体的に出てくるのは、書名や著作者名だけだ
おいおいw>>340-344を読んでから言って欲しいな。ここまで柄谷の論法を逐一辿って
誤読を指摘した論者はそうはいないだろう。
それに私のレスには書名も著作名もあんまり出ては居ないだろう。柄谷にでもそういう
文句は言った方が良い。彼の『探究』など人名のオン・パレードだぞw
>せめて、「個体と言う歴史をどう捉えるかというための概念」とはどういうもので、「個体への
>知解のために」どんな「寄与をしてみせている」のか具体的に書いてごらん。
貴方に説明することほどの徒労は私は感じたことがない。自分で勉強しなさい。考えなさい。 >>353
>世界内存在での世界はそういった有るものの集合ではない
だから、ハイデガーの世界というのは、神秘主義だと指摘してるんだけどねw
そんなものをありがたがっても、なんの意味もないし、もちろんハイデガーとナチスの親和性の根拠が見えてくるわけでもない。
他人が知ったかぶってるんじゃなくて、君が「存在」という無意味な妄想に囚われてるんだよ。
>>354
>ここまで柄谷の論法を逐一辿って誤読を指摘した論者はそうはいない
自信を持つのは結構だが、神秘の自信では現実に触れ合うことはできない。
柄谷はハイデガー誤読しているんじゃなくて、ハイデガーの言説からわずかにでも意味のあることを救い出そうとしているだけだ。
>貴方に説明することほどの徒労は私は感じたことがない。自分で勉強しなさい。考えなさい。
なにひとつとして、具体性のあることを表現できないということの告白でしかないよ。
そうやって、いつも逃げてばかりいないで、少しは現実に向き合った方がいいと思う。 具体性と言えば勝てるという頭の悪さがあんた哲学向いてないよ >>356
僕が哲学に向いてないんじゃなくて、哲学が現実から遊離してるんだよ。
現実を見る人間にとって哲学とは、哲学を否定すること。
それを証明してみせたのが、フォイエルバッハであり、ヴィトゲンシュタインだ。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
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Q7OS3 木田元の「ハイデガーの思想」と轟孝夫の「ハイデガー『存在と時間』入門」を改めて読んだけれど、
現実世界を現状分析した上巻だけで結局、自分の哲学を展開する予定だった下巻は出せなかった。
木田元がいう《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と称したものの、結局中味無く挫折した。
轟孝夫先生は10年かけてハイデガーを理解しようと努めたようだ。
それを読んでもハイデガーに大した中味は無いようだな。
《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と木田元は言うけれど、
そのプラトン哲学が3学4課となって、
そえが今のリベラル・アーツ&サイエンス(大学教養課程)になっている。
それを乗り越えるとは何だろう。
それに含まれ、或はその上にはそこから分枝した専門的な数学や物理学、天文学がある。
それでこれをどう乗り越えるのか。ポスト・モダンは答えを知っているのか。不可解である。 竹田青嗣「プラトン入門」1999年 あとがき
わたしが哲学の世界に足を踏み入れたのはふとしたきっかけからだ。
学生のころわたしがぶつかった大きな問題は、自分の民族問題と「政治」(つまり自分と社会の間)の問題である。
その後、三十前になって出会った現象学の思考法は、
この問題についてある核心的な考え方を示しているように思えた。
ところが、その後読んだ現象学についての一般的な議論と意見は、
自分が理解した現象学とはおそろしく違ったものだった…
既成の現象学理解は、現象学を「真理の基礎づけの学」と見なしていた
(そしてこの点で現象学を激しく批判していた)。
だがわたしの理解では現象学の核心はその正反対のもの、「確信成立の条件を基礎づける学」だった。
わたしは、自分の理解と一般的な現象学理解の大きな落差の理由を確かめないわけにはいかなくなった。
これがわたしが哲学の世界に深入りすることになったきっかけである。
フッサール、ニーチェ、ハイデガー、プラトンは、
わたしが長く、その通念的な理解像を書き換えたいと思っていた哲学者たちだった。 結局わたしは彼らについての入門書を書いたが、
哲学の世界に深く足を踏み入れるほど、自分の哲学理解と既成の哲学理解の溝は深くなり、
その違和感はヨーロッパ哲学全般に及んできた。
はじめわたしは、個々の哲学者たちの通念像のゆがみを個別的なものと考えていた。
しかしこの間、それがもっと構造的な理由をもっていることに気づきはじめた。
たとえば、現代の趨勢では、近代哲学は、
総じて「主観―客観」という虚妄な問題を作り出した観念論的な営みだとされている。
ヒュームは独我論者であり、ヘーゲルは形而上学的汎神論者であり、ニーチェは解体主義者…であり、
フッサールはこれまた、絶対的真理の擁護者である。
そして極めつけに、プラトンは、この近代哲学における形而上学的性格の絶対的源流とされている…
ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、
ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤な?、
一切が“反転させられた”奇怪な「あべこべ」の哲学像、ということになる。
これをどう理解すればいいか。 いまのわたしの考えをいうとこうなる。
デカルトもヒュームもカントもルソーもヘーゲルもひっくるめて、
つまり近代哲学の総体が、その適切な像を、たぶん“二度”ねじ曲げられた。
一度は、マルクス主義によって。もう一度はポストモダニズム思想によって。
前者の基本命題は、「近代ヨーロッパ哲学は
結局市民社会と国民国家に奉仕するブルジョワジーの哲学だ」というものだ。
そして、後者は、「近代ヨーロッパ哲学の基本性格は、主観性と観念論の哲学、
つまり独我論的な真理の形而上学の哲学である」と主張する。
そして、この二つの命題は現代の哲学像を深く規定している。
いま、哲学を学ぶ人間は、まずたいてい、こういう哲学の基本像を通して問題を組み立てる。
ところがこの哲学の像が、もし近代哲学
(あるいはフィロソフィー)の本質をまったくつかみそこなっているとしたら、どうだろうか。 近代哲学の基本方法が独我論的な観念論であり、
主観―客観が近代二元論的な空疎な問題設定であり、
…近代哲学のそのような「真理主義」や「普遍主義」の虚妄は現代哲学によってすっかり証明された、
などという通念が、およそ誤解にもとづくありもしない虚像だったとしたら、どうだろうか。
もしそうだとすれば、それは要するに、
哲学の方法の本質が人々に長く隠されたままになっているということ以外ではない。
哲学の本質はそれが方法的な思考法だという点にある。
そしてその最も核心的な理念は「普遍性」という概念によって示される。
プラトン哲学は、まさしくこの理念の創始的な表現だった。
このような言明は人をとまどわせるかもしれない。
現代思想では、「普遍性」という概念は第一に否定されるべきものと見なされているからだ。
「普遍性」とは、異なった信念の間から了解の共通項を見出すための原理をめがけるものだ。
それは、現代の思潮が主張するような、
「一切の事柄について唯一の正しい考え方がある」という絶対的思考と、むしろ本質的に対立する…
「普遍的」思考ということの本質を考えるのに難解な形而上学を行なう必要はない。
普遍的思考の端的なモデルは、自然科学の方法である。 かつて人々は、嵐や稲妻や地震などといった
もろもろの自然現象の因果を、さまざまな「物語」によって説明した。
それはたいてい、神々や祖先や何らかの霊的なものの意志の結果と考えられていたが、
そのディティールは共同体によって違っていた。
自然科学の根本の公準は、
いかにして共同体を越えた共通了解を可能にするような説明の体系を作り出すか、
という点にあった。そして自然科学はそれを実行した。
しかしこの場合、注意すべき点がひとつある。
もしわれわれが自然科学の方法の意味を「客観的現実」に到達する方法、と考えれば、
自然科学は「絶対的真理」の学ということになる。じっさいしばらくの間人々はそう考えていた。
しかし、われわれはいまではこれを、「客観的現実」に到達するための学ではなく、
現象の因果についての共通了解を作り出すための学と考えることができるし、
またそう考えたほうが、はるかに自然科学の方法の本質を普遍的に説明できる。 哲学についてもこれと同じだ。現代思潮に影響を受けた多くの論者は、
哲学を、「客観現実」に達しようという野望をもった「絶対的真理」の学であった、と強弁する。
しかし、自然科学の場合と同じく、われわれはむしろこれを、
普遍的思考への方法的努力と考えたほうがはるかに深くその本質をつかむことができるのである。
近代の自然科学を「絶対的真理」への野望をもった方法であるとして否定するとしたら、
それほど馬鹿げたことはない。現代の思潮は、哲学においてほとんどこれに類することを行なっている…
プラトンは、長い間絶対的真理の形而上学の創始者とみなされていた。
事実は“さかさま”で、彼は「客観的真理」という考え方ではない仕方で
思考の普遍性の可能性を見出そうとした、はじめての思想家だった…
プラトンの独創は、なによりも思考の「普遍性」の根拠を、事実の因果の系列ということから引き離して、
価値の生成と関連の場面に基礎づけた点にある。「イデア」という概念の核心もまたそこ以外にはない。 現代の思潮は「普遍性」という概念を否認する。その中心の理由は、ヨーロッパ出自の資本主義を否認し、
国民国家原理による歴史の悲惨の罪障感をうち消すためである。
しかし、「普遍性」の視点を失うことは、ある感情に押されて思考を反動形式へと投げ入れること…だ。
それは結局思想の根拠自体を投げ捨てることである。
この簡明なことが、しかし現在、哲学と思想から見えなくなっている。
ギリシャ哲学においてソクラテス=プラトンが果たした役割、
近代哲学においてデカルトとイギリス経験論が果たした役割、
そして二〇世紀に現象学が果たした役割は、
時代の混乱のなかで死にかけた「普遍性」の概念をもう一度蘇生させようとするモチーフにおいて、
見事な相似形をなしている。
わたしたちは、いまもう一度、哲学という方法の原型に立ち戻らなくてはならないが、
まさしくその中心にプラトンの哲学がある。 ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/152
柄谷行人「隠喩としての建築」
古代ギリシャの一般的素地においては、
プラトンやアリストテレスは、生成を制作とみることにおいて、…むしろ少数者であったというべきである。
彼らの「建築への意志」がその素地のなかに溶融してしまわない為には…、ある非合理的な強力な思想、
つまりGod as the Great Architectという思想が不可欠だっただろう。
私は…次のことを指摘しておきたい。
しばしば合理的思考の源泉とみなされるギリシャの思想における「建築への意志」が、
ヘブライズムに劣らず、非合理的な選択にほかならなかったということである。 ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/174-177
木田元『日本人に「哲学」がわかるか』新潮45 1995年10月号
たとえばデカルト哲学の中心概念の一つである「理性」の概念にひっかかったところにある
近代の哲学者の言う「理性」とはそんな生やさしいものではない
われわれがもっているような理性概念を持ちこんだりしたら、
近代の哲学書は一ページも理解できないにちがいない
それは、神が世界創造の最後の段階でおのれに似せて創造したすべての人間に分け与えた特別の能力
こんな理性概念は、どう考えてみても、
キリスト教的世界創造論のような特殊な前提の上に立たなければ生まれえない
こんな「理性」が、そうした神学とまったく無縁なわれわれのうちに見当たらなくても当然
哲学の勉強をはじめた当初、私にはこのプラトンのイデア論も分からないものの一つであった
この種の考え方には、われわれ日本人にとって決定的に分からないところがあるし、あって当然なのである ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/178-181
木田元『「哲学」とは何であったのか』中央公論 1998年2月号
しかし、そうした難易とは違う独特の分からなさを、私はデカルトに感じた
この世のもので最も公平に配分されているのは良識(ボン・サンス)である」というくだりがある。
そして、すぐあとでこの良識は理性(レゾン)と言いかえられ、
これはわれわれに平等に与えられている能力だから、
この能力を正しく使えば普遍的認識を手に入れることができる、と言われる
デカルトの考えからすると、この能力を正しく使えば、単に普遍的であるだけではなく、
さらに客観的妥当性をももった認識を手に入れることができるということになるらしい。
つまり、その認識は、世界の存在構造に正確に対応もする、というのである。これが私には分からなかった
デカルトの言っているのは、どうもわれわれの考えている理性とはまるで違うものらしいと思うようになった
テキストを読めば読むほど、デカルトの言う<理性>は、われわれ人間のうちにはあるが、
なにか超自然的なもの、つまり神の理性の出張所とか派出所のようなものとしか思えなくなってきた
つまり、デカルトはキリスト教の世界創造論を前提にしてものを考えているのである
こんな理性は、そうした神学的前提を共有していないわれわれ日本人にとって分からなくても当然である
こういう理性概念を中軸に組織された知の体系であるから、
近代哲学はわれわれにとって決定的に分からないところがある
だが、それは、必ずしもキリスト教が前提になっているからというわけではなさそうである。
キリスト教の出現のはるか以前のプラトンにも似たような考え方があるからである
プラトンのイデア論がそうである
むろん、プラトンにキリスト教的前提などあるはずがない。にもかかわらず、
キリスト教的神学やデカルトなどと同じように超自然的原理を設定した上でものを考えている。
これをどう考えればよいのか 反時代的密語 梅原猛 朝日新聞
近代という時代は二つの哲学によって支配されている。
一つはデカルトの哲学…それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然を対立させ、
人間が自然の法則を認識することによって自然を支配し…
武力と経済力を獲得することを最大の善とする思想…
もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブスの哲学…
それが理性によって人間が他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。
この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。
デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。
天台本覚論は、動物…すべての生きとし生けるものに仏の性があり、それらはやがて仏になるという思想…
プラトンに始まる西洋合理主義の文明が科学技術文明を生んだが、
今この科学技術文明は人類の滅亡を招く危機を生んでいる…
この人間中心主義が、近代哲学の開祖となったデカルトにおいてより明確に現れる。
文明の危機を免れるには、
このような人間のみが持つ理性を聖化する人間中心主義を厳しく批判しなければならない。 再考 エネルギー 朝日新聞 2012年1月1日 哲学者梅原猛
原発事故は「文明災」。自然との共存に帰ろう
――震災や原発事故で、何を考えましたか
「文明が変わらなくてはいけないし、文明を基礎づける哲学も変わらなくてはいけない。
現代の科学技術文明を基礎づけたのは17世紀のフランスの哲学、つまりデカルトですね。
科学が発展すれば、人間は自然を奴隷のように支配できるという彼の哲学が人類の思想となったわけです」
「…今回の原発事故をみて、すぐ『文明災』という言葉が浮かんだ…事故は文明の災害でもある…
哲学が、今や大きく揺らいでいる…文明は…最初は森林を伐採してエネルギーにした…
ところが20世紀になって原子力が発見され…救世主のように思われたけど…悪魔のエネルギーだった…
自然エネルギーを安く手に入れることができれば、この問題は解決する…
政府は自然エネルギー研究に予算を出せばいいんですよ…核融合研究…地球に太陽をつくる…研究。
思い上がりですよ…やはり自然との共存という思想に帰らなくてはならない。
人間は自然を征服できるという西欧の思想に対し、
日本には、動物はもちろん植物も鉱物もみな仏だという『草木国土悉皆成仏』の思想がある… 一方の西洋文明にとって森は未開の象徴。
古代メソポタミアの叙事詩『ギルガメッシュ』で、
王様のギルガメッシュが最初にしたことは、森の神フンババを殺すこと…
そういう文明、哲学まで変わらなくては」
「若い時…トインビーに会った…『17世紀になって、それまで最も強力だったイスラム文明に代わり、
科学技術文明を生んだ西洋諸国が世界を征服した…
しかし21世紀には、非西洋諸国が科学技術文明を採り入れながら、
自分の伝統的原理に基づいて新しい文明をつくる…』と語った…
『どういう原理でしょう』と聞いたら、『それはお前が考えることだ』ってしかられました。
それから40年考えて、今、やっと答えを出せた」 順序だった勉強や哲学じゃ才能が発火しないわけじゃ? 国対国のえせ戦争じゃなくて、国文学対日本文学の方がまし。詳しさ。 日本語 は日本人を語るためではなく、国語は、日本軍を語る言葉でない。
日本語は、世界と戦うためにあって、国語は敵国を打ち破るために使う。 NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』國分功一郎
まず最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus」というスピノザの有名な概念です…
「ある傾向を持った力」と考えればいいでしょう。
コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。
医学や生理学で言う恒常性(オメオスタシス)の原理と考えればよいでしょう。
例えば…個体の中の水分が減ると、…水分への欲求が生れ、
それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。
私たちの中ではいつも、自分の恒常性を維持しようとする傾向を持った力が働いています…
「自分の存在を維持しようとする力」のことです。
大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、
ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、
その物の「本質 essentia」であるとスピノザが考えていることです。
「本質」は日常でもよく使われる言葉ですが…
「本質」が「力」であるというスピノザの考え方は…
哲学史の観点からみると、ここには非常に大きな概念の転換があるのです。
古代ギリシャの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。
ギリシャ語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。 これは「見る」という動詞から来ている単語で、
「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語では「form」です。
…このエイドス的なものの見方は、道徳的な判断とも結びついてきます…
「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。
エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしく、ということになりかねないわけです。
それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。
物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。
そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。
「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。
…このような本質のとらえ方は、前回見た活動能力の概念に結びついてきます。
活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。
一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです…
どのような性質の力を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。
それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。
ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、
私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。 …スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。
するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、よく生きるコツだということになります。
世間には必ずネガティヴな刺激があります。これがスピノザの非常に強い確信でもありました。
それによって自分をダメにされないためには、
実験を重ねながら、うまく自分の合う組み合わせを見つけることが重要になります…
人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、
常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯するなかで生きている。
その中で出来上がる力としての本質は、一人一人大きく異なります。
どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけでは分らない。
「お前は女だからこうしろ」「子どもだからこうしろ」「老人だからこうしろ」というのは、
その人の本質を踏みにじることになる。
これはドゥルーズも指摘していることですが、
このようなスピノザの考え方を、「エソロジー ethology」の考え方になぞらえることができます。
「エソロジー」というのは、「生態学」や「動物行動学」と訳される、生物学の比較的新しい分野です…
「エソロジー」の語源は…「エチカ」の語源とまったく同じ、ギリシア語の「エートス」です。 …属性はスピノザ哲学の中でも最難関の概念の一つなのですが…
スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」への批判としてとらえることができます。
デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました…
それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、
というか、そもそも精神と身体をそのように分けること自体がおかしいと考えました。
精神で起ったことが身体を動かすのではなくて、精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。
これを「心身並行論」と言います。
たとえば怒りに駆られた時、怒りの観念が確かに精神の中に現れますが、
同時に体が熱くなったり、手が震えたりします…
それらは私という様態の中で同時に起っていることです…
精神は精神、身体は身体と考えてしまう。スピノザはそれを批判しました。
同じ一つの事態が、思惟の属性と延長の属性の両方で表現されているにすぎないと考えたのです。
…スピノザは精神が身体を操縦しているという考え方を何としてでも斥けようとしているわけです。 …デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。
真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。
…デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、
ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理なのです。
それに対して…スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。
そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。
だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです…
真理に向き合えば、真理が真理であることは分るというわけです。
スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。
真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、
かつそのことの真理を疑うことができない。(第二部定理四三)
ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思います。 >>383
真理ねえ・・・
結局は、真理というのは人間にとっての、誰かにとっての心理じゃないのかなあ?
自然科学的な真理というものを想定しているなら、それはたんなる事実であって、事実の発見に過ぎないからね。 ttps://twitter.com/lethal_notion/status/1072656623833878528
KoichiroKOKUBUN國分功一郎? @lethal_notion 2018年12月11日
昨日は丸の内でビジネスマンの方々に中動態の講演。
質問タイムでも終了後も、分かりやすいだけの話にはもう飽き飽きである、
意味のある難しいことを理解したいとのパッションを感じました。
学生にもこのパッションを感じます。
これはこのどうしようもない世の中で僕が感じ取っている唯一の希望です。
ttps://twitter.com/levinassien/status/1072719125376462849
内田樹? @levinassien
内田樹さんがKoichiroKOKUBUN國分功一郎をリツイートしました
NHKの人に伺ったら、
國分さんの100分de名著のスピノザ『エチカ』のテキストブックはなんと5万部出たそうです。
『エチカ』を理解したいと望んでいる人が今の日本に5万人(!)いるんです。
希望を失うことはないと思いました。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ttps://www.amazon.co.jp/
スピノザの方法 単行本 ? 2011/1/21 國分 功一郎 (著)
安冨歩5つ星のうち5.0
スピノザの方法を明らかにした2011年3月20日
本書の最大の功績は、デカルト思想が説得のシステムであるのに対して、
スピノザ思想は説得を拒絶し、理解に徹するシステムであることを明らかにした点だ。
説得という行為は、究極的に他人に自分の考えを押し付けるハラスメントの契機を含んでいる。
そのため、近代の諸学は、その根源にハラスメントを含んでしまった。
スピノザは、まさにこの点を明らかにしてデカルトを否定し、
自分自身のための理解の哲学を構築したのである。
私が『経済学の船出』で指摘したように、スピノザの哲学は、
ホイヘンスの非線形力学の実験の影響を強く受けている可能性が高い。
スピノザはホイヘンスの実験の哲学的意味を汲み取り、
同じ見解の共有を目指す説得のかわりに、相互の理解を尊重する調和の重要性を示したと私は考える。
同書で主張した後期スピノザ思想の非線形力学的解釈は、
本書が明らかにしたスピノザの方法と完全に整合している。
私とは全く独立にスピノザを読み、エチカ以前を中心に議論した國分氏が、
エチカに焦点を絞った拙著と、整合した見解をほぼ同時に提出したことに私は、強い興味を覚えた。
ただ、國分氏はスピノザをデカルトに対する「脱構築」として解釈しているが、私は賛成できない。
スピノザ/ホイヘンスの非線形的世界観は、デカルト/ニュートンのそれを乗り越える上で、
決定的に重要な方向性を示しているものと理解しているからである。 NHK「3.11後を生きる君たちへ〜東浩紀 梅原猛に会いにいく」
ナレーター:
原発事故を「文明災」と位置づけた梅原さんは、その後、
現代文明のベースにある西洋哲学を一から洗い直す仕事を始めました。
そしておよそ400年前に唱えられた或る考えに、大きな問題があると確信しました。
17世紀、フランスの哲学者ルネ・デカルトが唱えた『我思う故に我在り』
デカルトは世界で唯一確かなものは、考える自分自身であるとしました。
一方、目の前に在る自然は数式に置き換え、容易に支配できるものだと考えました。
人間が自然の上に立つというデカルト哲学の下、科学は発展し産業革命が興ります。
しかし、それは同時に環境破壊を始め、大きな問題を引き起こして行きました。
梅原:
人間中心主義だな、だからデカルトの文明災は…デカルトは『我想う故に我在り』って『我!』、
『我(われ)』が世界の中心なんですよ。
そしてそれに対する自然は、対象的世界で、それは自然科学的法則よって、数学的法則によって理解できる。
そういう数学的法則によって自然の法則を明らかにすることによって、人間は自然を支配できると。
自然支配の論理だと思うんですね。
それで科学技術文明を作って正に自然支配、人間支配のそういう“意志の文明”を作った。
そういうような“意志の文明”ではもう、人類はやっぱり自然破壊、或いは人間破壊、
そういう“意志の文明”の権化がまあ原子力なんてもんじゃないかと思いますけどね。
で、私はだから、そういう西欧哲学の原理を超える、
現代文明を超えるような、新しい文明の原理が日本の思想の中に潜在しているんじゃないかと。 ナレーター:
西欧哲学では人類は存続できない。
梅原さんが新たな文明の原理として打ち出したのが、日本に古来から在る、自然と共存する思想です。
それは草木國土悉皆成佛という仏教の言葉に象徴されると言います。
草も木も、土や風に至るまで、地球上のありとあらゆるものに仏が宿る。
人間と同じように魂を持つという考えです。人間だけが特別な存在ではなく、
全てのものが地球の一部に過ぎない。
この思想は、縄文時代以来の日本人の考えを受け継いだものであると、梅原さんは考えています。
梅原:
だから私は近代思想というのは、近代に天動説から地動説に変わったというけれど、
哲学としては天動説じゃないかと。人間の周りをずっと回っている。
ナレーター:
20世紀に入ると、科学技術文明は原子力など人類の存在を脅かしかねない問題を生み出します。
西欧では多くの哲学者がこの問題について解決策を探ってきました。
20世紀最大の哲学者といわれるマルティン・ハイデッガー。
原子力技術の背景には自然を人間の役に立つものとしてしか捉えない考え方があると批判しました。
そこで、詩人のように、自然の本来の姿を見ることが大事だとしました。 東:
ハイデガーはそういう意味でいうと、正に梅原さんが今日おっしゃったみたいに、
ギリシャ・ヘブライ以降の、なんていうか、人間主義中心哲学のほんと完成度、完成形態としてあって、
で、あそこからどう出るか。
梅原;
ヨーロッパの或る種の自己批判、があるんだけど、やっぱりそういう人間中心主義を克服できないな。
これはやっぱりあの大きな問題だと。
ナレーター:
二人はハイデッガーの、自然と人間を分けて考える限り、人間中心主義から抜け出せていないと考えています。 東:
人間中心主義というか、人間と自然というものをカッチリと分けて、
人間だけが主体で、自然というのは客体であるというふうに発想するのは、
これは科学を可能にした発想なんだけど、これ自体は何の科学的根拠もないし、
(梅原:そうそう、そうです)
実際、現代科学の知見はこれを恐らく色んなところで否定していると。
だから思うんですね。人間だけが主体であると、
人間と自然っていうのがきっかり分かれるっていうふうには世界が実はなっていないので、
科学の最先端のことが明らかにした知見を思想的に理解するためには、
実は科学の最初にあった、主客の分離というか、
人間と人間以外のものの分離みたいな前提を実は変えなければならないと。
ナレーター:
議論は、今、日本人が世界で果たせる役割は何か、というテーマに進みました。 梅原:
やっぱり、その、ヨーロッパ文明は、科学技術文明を創って、日本人は大変恩恵を受けたんですよ。
恩恵を受けたんだけどやっぱり、それに対するやっぱりマイナス面を二つ経験した。
それは広島の原爆ですよ、それから今度の福島の原発ですよ。
これはねー、その、不思議なことで、
日本のような、西欧文明の取り入れに成功して、立派な国を作った、日本が、
物凄く西欧が経験しないような、西欧文明のマイナス面を受けたと。
これはやっぱり、日本の教訓じゃないかと。
これを超えて行かなければならない(東:或る種の世界史的役割ですね)。
…役割、それを私はあのー、強調したいな。
で、私はトインビーがね、40年前に来たときに、私と対談したんですよ。
それに対してトインビーはね、やっぱりあの、
『西欧文明は科学技術文明を生み出すことによって、世界を征服して、そして世界を一つにした』と。
そしてその西欧文明を取り入れない、国はやっぱり生きて行けない、植民地になるか、…
『日本は大変賢い民族で、それの取り入れに一番成功した』と。
だけど、そういうやっぱり『西欧文明を取り入れる時代は終わった』と。
そしてやっぱり《新しい歴史》は、そういう《非西欧国家》がですね、
『非西欧文明が、自分の文明が現在持って、科学技術文明をそこの中で考える』、
そういう新しい文明を創らなくちゃならない。
『だから創るであろう』ということを、トインビーが予言しているんですよ。 で、私はそれを話して大変その、いい話だけどね、
『じゃあ、どういうような原理で、日本はそういう新しい文明が出来るでしょうか?』って言ったら、
そしたら『お前が考えろ』と。『お前は若いから考えろ』と言われたですけどね。
長い宿題が…40年経ってやっと、答えられるようなあれになったと思うんですよ。
やっぱりね、“大変”西洋文明によって…して、豊かな国になったことは感謝しなくてはならない。
ところが西欧の方で『もうちょっとこれは限界がある』と、いうことを感じていると思うんですよ、
感じていると思う。
だからこの『東洋文明のこういう考え方を取り入れたらどうですか』と言って、
西欧に対して、『西欧は間違っとる』と言わずに、
『取り入れたらどうですか』ということをやっぱり提案できる。そういう風に私は思うんですね。 梅原:
私はあれ(東北大震災)を見たときに、戦争中のことを思い出した。
私は直接戦争で戦わなかったけど、名古屋の大空襲に遭って、
丁度私は最初名古屋の空襲に遭ったときは、三菱重工業という、ところで勤労奉仕をしていたんだ。
そうしたら最初のときの空襲でB−29がきて、『ダン!』っていった。
物凄く命中率が良くてね、100%工場の中に落ちた。
そうすると一波来て、外を見て来ると人間の死骸がね、鉄骨のところに引っかかっているんですよ。
ほんとにもう死ぬ、死ぬと思っていた。
そのときちょっとサボってね、友人のところでお喋りしとったんですよ。
それで友人の入る防空壕へ入った。僕が入る防空壕に直撃弾がぶつかってね、人がみんな死んどった。
防空壕の中で座ったままね。ほんとに青白くなってみんな死んでたんですよ。
それがどっかに頭のイメージに、どっかにあるんですね。
だから私はやっぱりそういう死というものをまともに見たという、
そこから私のやっぱりあの、そこから青春が始まってるんですね。
だからねーあのー、どこかねー、先ほど戦争のことは余り語らなかったけどね、
僕らの世代は生き残った者がやっぱり一種の罪悪じゃないかと、
どこかこう、ほんとに勇敢に戦った人は死んで、
自分たちはあまり勇敢に戦えんで生き残ったりして、そういう気持ちがずっとあるんですよ。
それでやっぱり広島と、長崎に原爆が落ちて戦争が終わったと。
やっぱりそういう、広島長崎の、死んだ人に対する後ろめたさみたいなものがね、
私の中にずっと今、残っている。
これはまあ、戦争中の世代と私より上の人じゃないと解らない、やっぱり感覚ですよね。
それはやっぱり、何かやっぱり、どこか私は後の人に伝えてほしいと思うな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています