「あるということ」だけがある
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@これは自分ではない Aすべては幻 B「ある」がある ジャージきたにいちゃんも美少女とおもえば美少女(コミケしらべ 「エゴ・イメ」、「It's me」、「ただいま」とは、 そこにいる相手に対して自分が今ここにいると告げること。 なんとなくあれだろ 横文字つかってかっこつけたいだけのなんちゃってリベラルってだけのことだろ のび太のちんこ3Dを3Dマシンにかけて武器にするんだろ @について 「これ」ってゆうのはまずは自分の体だよね 体=自分と思いやすいよね まあ体=自分でも正しいけど そうでないと考えることもできるですまんこ @とAは同じことを表していてまとめてもOKですね 体や心は実際には自分ではない つきつめていくと自分というものは存在しない あるように思えるこの世界は単なる個人的な記憶の中にあり 自分というものも含めてすべてが幻 すべては幻と言い切るためには、どこかに幻ではない確固たるモノが存在することを前提にしてるわけだけど、それは何? そもそも、すべてが幻という命題自体が矛盾だけどね。もしこの世に白という色しかなかったら、世界は白いという命題も成立しなくなる。 そう「無」ではなく「幻」 すべてが完全に無だったら ほんとにまったく何にもないはずだけど なにかしらがあるように思える 例えば世界があるように思えます でも10兆年後には今あるものは何も残っていないだろう そういう意味で幻 でも幻とはいえ一時的とはいえ なにかしらがあるように思える だから「無」ではなく「幻」 「幻」というためにはそれに対して確実ななにかがなくてはいけない それは幻だか錯覚だかわからないが なにかしらが「ある」ということがある 「ある」ということだけが確実にある 貧乏、病気、離婚など、不幸な人は不幸を愛しているのです。 良くも悪くも人間は‘成りたい自分に成っている’のです。 「中杉弘のブログ」 http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi なるほど。でも、「ある」があるって何だろうね? なんとなく、意味内容を欠いた言葉のような。 たとえばハイデッガーは、存在とは何かを解明するために、存在とは何かを問う存在=「現存在」とは何かを分析しようとしたんだけど、 あなたにとっての次のアプローチは何なのか。 存在するってなんなのか 触ることができたら存在? 見ることができたら存在すると言えるのか? それは単なる感覚 知覚じゃないのか 単なる記憶じゃないのか 今これは夢じゃないのか 記憶を全部消して感覚を全部遮断したら? そもそも真っ暗な空間に太陽とか地球とかが浮かんでて 回ったりしてそこに住んでるとか 常識的感覚からすっごく異常な感じしない? しかしそうだって教えられて みんなも納得してるから なんか自分も納得して 洗脳といっしょだね 物質的にも観念的にも 存在しないモノは感知し得ないんだから 全部「同程度に」存在してるんだが 現象学は、物があるという確信は何故生じるのかと問い直す学問らしいですが、 現象学的還元って、物自体は実在しないと考えろ、ということなんでしょうか。 でも、私が暴漢にナイフで切りつけられたら、私は何によって切りつけられたんだ、という話になる。それは実在ではないのかと。 大地震の最中にエポケーしたって、ない事にならないし。 何かがあるとは、どういう事か? 量子論で解釈して確率とかいうけど、それって変だね。 僕的には、存在=カタストロフィーだな。 「ある!」とは、何か? 俺「白いカラスを見た」 友「白いカラスは存在しない」 俺「存在する 俺が見たから」 つまり、そんなもの無いよ、と他人に否定された時に、ムッとして反論するときのコトバ 探していたものを見つけたときに「あった!」 さらに探し物がぞろぞろ出て来たら「あるある!」 ちゃんとカバンに入れたかを確認するときに「ある!」 無いかもしれない・・・という少しの不安 不安を消すために確認・・・ 「ある!」 強い気持ちで探す 探す 無い 無い どうしよう・・・ 「あった!」 あれ、この人は首すじにホクロがある 意外な発見「ある」 「現れていること」だけが現れている 「解釈されていること」だけが解釈されている たとえば目の前に何でもいいけど物がある 見えるしさわれるこの物は確実にある 存在する と思ったら目が覚めた 夢だった 絶対あったと思ったのに 存在しない物だった いま夢の中かどうかってわかりようがないと思う 感覚的に現実のように思えてもハッと目覚めて あ? 夢だったか…… 油断するな いま覚めたと思ってもさらにこれも夢かも…… 仮にこの世がまるっきりの夢であるとしよう。 では何故このような夢があるのだッ・・・! なぜこのような夢があるのか 意味はないっていうのが一番すっきりすると思う 意味をもたせようとしたらどのようにも意味づけできそうだし どんなことにも絶対こうだという意味はないんじゃないか サイコロをふる 3がでた これは意味がある なぜ3がでたのか つぎは6がでた なぜ6がでたのかどんな意味があるのか といっているみたい 全部夢ですそして全部無意味ですといったらすごくすっきりして完全な気がする でもそれでは退屈だからいろいろ意味づけしたり興味をもったりして遊んでいる 夢の意味は、生物がホメオスタシス的にバランスをとるためにそういう機能があるんだろうよ。 機能があっても、その機能が上手く働かないことがあるのも現実だし、 そういうときに「意味がない!」と感じるかもしれないが、結論を出すのを焦ってはいけないね。 失敗するときもある。失敗したからといってすぐに無意味だ!と腐って投げないことだよ。 バランスをとるために脳が活動して そのときの刺激から起こった感覚を外界の出来事として解釈したのが夢 とすれば体験=解釈ということで事実と体験の間にはずれがあるかもしれない 要するに体験は主観的でしかありえないもっといえば客観的なことってありえるのか? いろんな出来事はぜんぶ無意味だけれども 物事に意味をあたえると扱いやすくなる 安心したいからそうしているのでしょうね 未知のもの理解できないものってなんか恐ろしく感じるから いえいえ、そういう見方が既に倒錯してるのですよ。 無意味なら何も起きない、出来事そのものが「出来事」という意味を持たないわけです。 ところが、何もないとしても、「何もない」ことそのものが「ある」ことの 否定としてしか存在しえない。つまり、「ない」ことが「ある」ためには、 「ある」ことが「ない」といけないわけです。 所与の意味など存在しない(少なくとも存在すると言い得る客観的根拠がない)という事と、無意味は違うよね。 赤ん坊が世界をどう認識していくかを追って考えると、 概念や言語、意味とは何かということについて核心に近づける 生まれたばかりの赤ん坊の目に映るのは、 われわれのいるこの世界ではあるが、 おそらく赤ん坊にとっては混沌でしかなく、その印象は全く違うだろう 色も形も存在しない景色を見ている そして徐々に色や形の概念を理解し始め、 いつしか世界を概念によって区切って解釈することを覚える これは言語の始まりでもある 物心つくころには、概念によって区切られた世界の景色に 慣れきってしまっているが、 むしろそれこそが記憶の条件であり、 概念に対して何らかの印象を抱くことが記憶の始まりであるとすら思える 関心が薄く印象に残らないものは、記憶にも残りにくい そもそも何の情報も意味も"なかった"がゆえに、記憶しようがなかったのだろう 記憶は脳に属するものとして 仮に魂があって他人の体にのりうつったとしたら その人の脳にある記憶が自分のものになって のりうつったことに気づかず ずっと前からその人として生きてきたように感じるとしたら 意外とみんなほいほい入れ替わってるのかもね 意識って自分の意識しか感じられない 自分以外のひとには意識があるんだろうなって予想しているだけ この自分が唯一意識をもっている人間? いや 意識ってもともとこのひとつしかなくて それがいろいろ想像しているだけ? 五感と記憶をなくしたらどんな感じがするかな 睡眠中「私」は世界が昼間と同じ様に存続している事を認識する事が出来ない。 この時私達は世界が「あるかないか、わからない」。 睡眠中に夢をみれば その夢が「私のリアル」である。 これが「現実ではなく夢」と証明されるには、睡眠から起きる必要がある。 もしも仮に「起きなければ」夢の物語が人生というリアルになる。 私達は、自分が寝たり起きたりしているという事を理由に 「いま起きている」という確信を持って、自分の人生をリアルと感じている。 が、私達の「起きている時間」が「本当は寝ている夢の中である可能性」 について 私達は証明のすべがない。 病院に行って「脳波の検査」をした所で、それも夢の中かも知れないのだ。 この世界が「絶対の存在である事」を証明するすべはない。 が、これが夢であろうと現実であろうと「それを見ている自分」は 間違いなく「存在」している。 その「自分」とは、いま私達が「自分」と呼んでいるもの、例えば「鈴木太郎」 であるか?の証明は「この世界が夢である可能性を否定できない為」に出来ない。 けれど「夢を見ている、もしくは現実を見ている自分」は確実に「ある」。 絶対的に確信出来る存在は、この「ある」という事だけがある事である。 という様な事ではないでしょうか? ある時、アインシュタインに少年が話しかけた 少年「石はそこに居たいから、そこにあるのさ。」 アインシュタイン「石を投げたらどうなる?」 少年「石はそこに居たいのさ。」 この会話の数日後、アインシュタインはこの世の全ての謎が解けたと言った そういや、アインシュタインって、ドイツ語で「一個の石」だな。 夢もみないような熟睡して起きたときって 寝てすぐ次の瞬間目が覚めた感じするね 時計みてはじめて え?8時間もたったの?って >>37 自分が鈴木太郎と思っていても この世界が夢だったら鈴木太郎も世界の一部だから鈴木太郎も夢 いま夢をみているとしたら目が覚めたら自分が鈴木太郎じゃない人かもしれない もっといえば人じゃないかもしれない 存在すると確信できるのはこの夢をみている自分だけ でもどこからが自分なんだろう 自分が鈴木太郎と思っていて目が覚めたら佐藤たかしが鈴木太郎になった夢をみていただけだった どこからが自分? 夢をみている自分があるということだけが確信できる ある……ある 自分があるって確信できるためには まわりの環境から得られる刺激を手がかりにして自分があるって予想している ある? あるってなにがあるのか絶対確実にあるっていえるのは?あるって思っても あ 夢だった で全部がらっと違う世界で自分も人間じゃなくって「ある」だけが確実にあるったってそれがあるっていう夢をみてただけで覚めたら無で あ夢も無も む って読み方だね む 無 夢 「今が現実か夢かを証明することはできない」って本当ですかね なんか証明できそうな気がするのですけれどもうーんわからない 今が現実と仮定してもハッと目が覚めて夢だったといつなるかもわからない だとしたら今これは夢だと仮定したらどうでしょう もしもいま夢だったらハッと目が覚めてもOKですね 今が夢と思ったほうが真実である可能性が高いのではないでしょうか こうして考えてみると現実って一体何なのでしょうね 今自分は夢でも見てるんじゃないかって不安になったときに、頬をつねってみろって言うじゃん。あれは真理だね。 現実と夢の境目、それは「苦痛の持続」だよ。夢の中でもまれに苦痛を感じる瞬間があるけど、すぐに覚める。現実だとそうはいかない。 一晩中歯痛で苦しんでるときには、現実と夢に関する形而上学的な疑問なんて吹き飛んでると思うよ。 >>41 夢だとしても少なくとも夢はあった訳だ。 それは「無」では無い。 「無」が無いんじゃね?って話。 無があると認識した途端、無を認識した「何か」が存在してしまう。 それは「無」とは言えない。 ので「無は認識が不可能」であり ゆえに「有(ある)ということだけがある」 言語的に見れば、 必ず「有」が先にあり、「無」は「有」を修飾することでしか言えない ・リンゴがある (There are some apple.) ・リンゴがない (There are "not" any apple.) "無い"という意味の動詞があってもよさそうなものだが、 "ある"という動詞を副詞で否定するか、形容詞で名詞を否定or叙述するか ……しかないわけだ つまり、「無い」と言うにあたって、常に「有る」ことが想定されていて、 その想定と異なる場合に「無い」と言う 換言すれば、「無」という概念は、人間の想像上のものだということ もっとも、言語からアプローチしてみたところで、 我々の世界の捉え方がそうなっているということを示すに留まるけれども、 「有」と「無」の非対称性を象徴するわかりやすい例だと思う >>44 いま痛みがある と感じたらそこに現実の感覚がある でもそこでハッと目が覚めたら あ 頬をつねって痛かった夢を見たなってなる 今の瞬間だけが常に現実で 過去現実に起こったと思っていることはすべて夢 という考え方もできるかもしれない 過去って単なる記憶、予想だと思う 過去に起こった事が確実に起こったことだと証明するには それを証明するものを「今」確認しなければならないから 科学とか数学とかいろいろなことが証明発見されている でもでもそれは自分が見ている世界の中での出来事 主観の範囲 物事は主観的にしかとらえられない 客観的にみるって不可能ではないでしょうか では科学的証明ってなに? 自分の個人的な世界のなかで 科学的に証明されていますっていわれてもー ほんとそうだね今夢をみてるかどうかも証明できないのに 科学だ数学だゆっても基の地面がそもそもなりたってないってゆう 今が夢っていうか実際現実と思ってる世界って存在するのかなー え?え?何をいっているの? いま夢ってどういうこと? どうみてもいま現実じゃん パソコンで2ちゃんに人間がかきこみしてる 今まで生きてきた記憶も 地球も全部確固とした現実だよ寝ぼけてんの? 残念ながら人がいま夢をみているのか 覚醒しているのか証明する方法はないとされています 定説ですひげのじじいが教祖です えーーー? ほんとにほんとにそーなのー??? でもなんか今起きてるきがするよう? ニュースで世界の出来事とか見れるよう? それにこの体だって殴ればいたいし死んだら死ぬよう? この体だけはシンジツじゃん? その身体は本当にあなたのものかな? よく考えてごらん? 身体のなかで動かせるところといえば せいぜい手足、目、口、頭、舌 身体の内部はどうだろう 内臓って自分の意思と無関係に動いているのでは? 心臓、血流、呼吸、 生きていくためにはむしろこちらの方が重要ではないですか? そしてもっと重要は器官 そうです脳ですな 脳って自分の意思でコントロールしてますか? 心臓や消化器官などと同じように 自動操縦ではないですか? 脳が自動操縦なら脳が命令して動かされるとされる手足の動き 思考すらも脳がコントロール 自分の考えと思っていたものは実は 自動操縦の脳の命令 こんなふうな身体が果たしてあなたのものだと言えるだろうか では聞きますあなたっていったいなんですか? え?私が体じゃない?脳の自動運転? そ そっか 言われてみればそんな気がするかも…… じゃ じゃあ私っていったい何? なに?なんだろーー こ こころ? かな? あってる? これこれさっきの人が心は脳が生み出したものと言っておったじゃろう ゆえに心はおまえさんじゃないということじゃ わしなら自分というものすら幻想 と こう答えてみようかいのう ふぁふぁふぁ 待ちな じいさん 自分が幻想? 無だってのかい? じゃあ聞くがよう この世界を見ている 体験しているのは いったい誰だってんだようべらんめい!ぶらんめる仙台 >>1 にいきなり@ABてかかげられて わけわからなかったがレス読んでなんとなくわかった 内容興味深いのにスレタイ&>>1 は とっつきにくいからもったいないと思う スレタイを一新してみたらどうか 幻想は無では無い。 幻想は幻想なのに どうして「無」って言っちゃうの? 「無形」である事と「無」は違う。 心もそう。「無」ではなく「無形」っていうだけ。 心が「あなた」である可能性はある。 あなたに形が無いからと言って「あなたが無い」ことではない。 まあ無ってすごいこととしたいんだろうけど 別にそんなすごいものでもないんだよね 実際全部無なんですけどね 無が無の視点から無を見てるから有に見えてるんだけどもね 夢って幻なんだけれども 夢の中の登場人物から見たら夢の世界は現実ですっていうのと似た感じ? まあ有も無も幻も全部同程度 重要なことではないんだよね まあ重要視したいなら勝手ですがね まあ何事もどうみるかですよね ものは言いよう?みたいな? あーわかるわー 「ある」と「ない」とは同じ意味なんだよね 夢の中で「科学的に証明されてます」って言われてもなあ←これもわかるわー なんていうんだろ「ある」の反対が「ない」だと信じて疑わない人って すべての物事が言葉で説明できると確信しているんだよね 何というか平面でいろいろ考えてて立体に気がつかないとでもいいましょうか 未来って全部想像でしかないということは理解しやすいと思います 例えばあれこれ明日の予定があってこうなるだろうなあと思ってても 今地球が蒸発しちゃって全部なくなったとしたらそれらの予定とかは全部パア ほんとなにが起こるかわからない では過去はどうなのか 実際出来事が起こったのかどうか ただ感覚的に確信しているだけで 過去も未来と同様に想像でしかないんですよ そしてですね未来はともかく過去、記憶が全部想像にすぎないとするとですね あなたは人間ですらないわけですよわかりますかね これって仮説や冗談のように思えるかもしれませんが いま現実と思っている世界より 真実に近いというか まあようするにあなたは人間ではない そこからスタートしてください マジレスすると、こういう問題は 「この世に私だけが存在する。」か 「私はこの世そのものである。」の 二通りの答えに集約される。 >>62 そうそうまさにそのとおり でも「私」という言葉や「この世」という言葉から受け取れる意味や イメージは人それぞれ違っていて 言葉でこのことを表そうとしても人が受け取るときには ニュアンスがずれてしまって 結局誤解されてわけわかんないねとなる わかる人にしかわからないという たとえば「私」という言葉 「私」という言葉の純粋な意味のなかには 本来「人間」という意味は全く含まれていない にもかかわらず大多数の人は「私」という言葉から すぐ「人間」のイメージをつれてきてしまう しかも無意識のうちに そこからこのもともと真実を表していた言葉を 間違って受け取り、なんだかわけがわからない >>62 鋭いところをついているね。 西田幾多郎が、あなたと同じことを述べている。 「一は多であり、多は一である」と“純粋経験”の概念で述べている。 なにもこういうことを言い出したのは僕が最初じゃなくて 紀元前200年前のウパニシャッド哲学で アートマンとブラフマンという言葉を使って 同じことに気づいた人たちがいたことを最近知った。 どうしても、気づいてない人たちに同じニュアンスで伝えるのは難しいから インドは輪廻を超えろとかいって自分で悟るのを促すんだろうね。 気づいている人にとっては当たり前のことなのにさ。 世界があるって想像しているだけなんだよね 過去こういう事が起こったという想像 私が人間であるという想像 脳があるという想像 では想像ではないものって何でしょう こういった想像をする意識の中心だけが実際に「ある」 絶対的に何も存在しないとしたら完璧で何の問題もないはずなのに 何かしらが確実に存在する でも「何」が存在しているのかはわからない わからないけど存在するということは間違いない ということですか? あるものだけあるわけじゃない ないものもあるわ よく考えたら 難しい話じゃない それに情報も難しくない ないものと情報を合わせれば、いいんだ 自分以外のたくさんの人もとっくに解ってたみたいだけど 解らなかったのは俺だけか あるものだけがあるわけじゃない すべてが幻というわけでもない これが私であると言いたければ言ってもいいし 私でないと言いたければ言ってもいい 好きに呼べ すべての宇宙を含むこの世界で存在しないものはない 存在しないと思われるものを含めて存在しないものはない だから存在するもの存在しないものにかかわらず物理的に関係して影響する すべては関係して影響する 存在するということって 証明できないですよね 存在すると みなせるだけで どんなことでも想像の中での出来事ではないか そうだね 意識、心を持っているとわかる人間は自分自身だけだし 自分以外の人間は心があるような動きをしているだけで 本当に心を持っているのか、生きているのかはわからない そのようにみなしているだけ そういう意味では自分だけしか存在しない そもそも「自分=人間」という前提すら怪しい 言葉にするとそれはすり抜けてくから言葉で「ある」と言えないんだな 常にあったものってか あなたは、あなたがいまここにいることを決して否定することができない いいや いまここにわたしがいると思っているだけ 実際はどうなっているのかはわからない どんなことでも ただそう思っているだけ 絶対確実はどこにもありえない これほど近い話をしているのに、今までレヴィナスさんの名前が出てきてないのはなぜだ 一切の空虚のなかにもなおそこに空虚がある イリヤ(il y a)の夜の話をしているんじゃないの? 存在するということの貴重さ、はかなさは、失われて初めて気が付かれたんだよね。 「国破れて山河在り」 灰燼に帰した街の中にそれでも自然がある、空がある。 多くの人が死に、それでも私はここにある。レヴィナスさん的には「在らされている」。 犬と言葉で会話する夢を見た いま思えばすごく不思議で異常なことだけど 夢の中では変だと思わなかった 当たり前だと思えた 夢って不思議 絶対に確実なことってありえないよね 例えば1+1=2は今どう考えても確実なことに思える だけどハッと夢から覚めて あれ? 夢の中では1+1=2が絶対確実だと思えたのに違ったわ ってなるかもしれない 絶対的真実は 今だけそう思えているだけのことかもしれない どんなことも証明できない 確実なものは何もない いま当たり前に思えている世界も ハッと目が覚めて 全然違う世界になって あー変な世界に生きてる夢みたわーってなるかもしれない 今この現実と思えている世界が 現実だという可能性の方が低いんじゃないだろうか むしろ そのとおりだ でも同じ世界を他の人間と共体験していると思えることも錯覚で この世界を体験しているのは自分ひとり 他に人間がいるように見えるが それは自分の個人世界の住人 夢の中の登場人物に過ぎず 自分と同質ではない 自分より知能の高い人を自分の夢の中に登場させる事はできませんよ >>81 しかしその前に 実は自分とみなしているこの人間でさえも 夢の一部なのです 人間が夢をみている訳ではないのですよ そもそもこの話は寝ているときにみる夢のことを言っているのではないのです >>79 ちょっと疑問に思ったんだけど、 この世界が夢であったとしたら、 「夢ではない世界」に対する錯覚した認識と 「夢である世界」という認識の 違いを対比させて、どのように違うか教えて欲しい。 間違った認識を正しい認識にするためには、 この二つがどう違う「在り方」をして またどうして「夢である世界」の「在り方」が真実なのか。 知覚的には、まったく同じものを どちらか一方がどうして真実であるというならば、 その真実の論証の優位性を説明するべきではないか。 (勘違いしないために、いっておくが、真実の優位性ではなく真実であるという論証の優位性である) つまり、>1の言ってることは、 「あるが在る」=「意識」のことで、それ以外の思考は存在しない、 ってことだな。 思考の介在しない認識状態が、「意識」ってことだ。 >>84 前野隆司という人も、もっとリアルで、巧みな筆致で、書いている。 「小学校の低学年の頃、僕は死ぬのが怖くて仕方なかった。どうして 僕だけが僕で僕以外はみんな他人なのか。僕の心だけが、どうして 僕の体を僕だと感じることができるのか。どうして僕は、今ここに存在 しているのか、一方、生まれるまでは何もなかったのか。いや、何かあった けれど、思い出せないだけなのか。そして、死んだあとも、生まれる前と 同じように、また何もなくなってしまうのか。 僕が生まれる前の、とてつもなく長い時間と、僕が死んだあとの、同じく とてつもなく長い時間。僕がいないのに、どうして世界は平然と続いていくのか。 僕から見た世界は僕のためにあるのに、僕という主人公がいなくなった あとで世界は誰のために、何のために、続いていくのか。世界に始まりは あったのか、なかったのか。 」(前野隆司「『死ぬのが怖い』とはどういうことか」講談社2013.2.25 p.11-13) >>83 世界というものがあると思えたら それはどんな世界でも夢です 「現実の世界」というものは無い 前野たかしは浅い、浅すぎる 唯脳論とかわらないレベル。 なんであんなに、微視的なんだ。 今この自分だと思っている人間は 本当に自分なのだろうか この人間は本当に存在するのだろうか 脳が意識を作っているのだろうか それとも意識がまずあって 脳というものを考えだしたのではないだろうか 時計のない 窓もない 真っ暗闇の部屋で 寝ます 起きます さて自分が何時間何分寝たのか知る方法はあるでしょうか 「ないということ」もなければ、「あるということ」もないことになる あることがあるのであれば、 ないこともあり、 ないこともないのであれば、 あることになる >>91 まさにそれだと思うんだけど、何かにプラスやマイナスを付加するということは、 「付加する」、ということにおいて、「有る」を意味するんだよね。 つまり、「無い」というマイナスを付加することによって、「無い」という「有」が生じることになる。 なので、本当の「無」とは、何も付加されない状態・・・・ 『「ないということ」もなければ、「あるということ」もない』、ということになる。 そして、プラスもマイナスも付加されない状態ということは、逆に、「ただ在る」、ということになるかもしれない。 つまり、真の「無」とは、「ただ在る」、ということなのかもしれない。 哲学スレは面白いね。 >>91 のレスなんか、仏教の「不〜不〜」の論理なんだけど、あらためて考察しながらレスを書くと、 考えが整理されて、腑に落ちる。 ずーっとこの「不〜不〜」の論理を考えてきたんだけど、最近ようやく分かりかけてきて、 「空」というのは、実は「無」より深いんではないのか・・・? と、思いかけてきた。 一般的には、仏教的には、「空」というのは「無」の前段階・・・ 「完全に無ではない」状態、と捉えられてきたけど、 実はそうではなくて、「空」のほうが「完全なる無」に近かったんだよ。 「空」=「ありのまま」と解釈してきたんだけど、これで辻褄が合う。 つまり「ありのまま」こそ、「完全なる無」・・・・ 「ただ在る」、ということなんだと思う。、 ボッタクリだな。イタリアの出版社の本はなぜバカ高いのか。 >Opera Aperta (イタリア語) >Umberto Eco (著) >ペーパーバック >¥ 7,248 はあ?まともな会話できないのか?102 てめえよー あるとゆーことだけが あるのなら 虫歯の穴はたしかにそこにある 無かったところに あるとゆーことだけがある ってはなし まともでしょお 世界は加減乗除ばかりで、成り立っているわけではないと思いたい。 あなたは人間ですか? あなたは自分が人間なのかどうかいままで疑ったことはないかもしれません もしかしたら自分が人間だと思いこんでいるだけなのではないでしょうか そう教えられて信じ込んでいるだけでは? 例えば誰もが地球に住んでいると信じ込んでいますが 地球を実際に感じることができますか? 「地球に住んでいる」 これは事実でしょうか 単なる情報の寄せ集めから推測しているだけではないでしょうか 考えてみてください 地球を直(じか)に感じられますか? ほかの物事も同じように 情報の寄せ集めから推測し 事実と異なる受け取り方をしてしまっている ということがあるかもしれません 或いはすべての物事が… 絶対間違いようのない事実というものが果たしてあるでしょうか 今ハッと目が覚めて全然違う環境の中に放り出される可能性は 常にあるのではないでしょうか いま夢をみているとしたら さめた後はどんな世界なのでしょうね 今の世界と似ているでしょうか それとも全然違った… 自分が人間かどうかもわかりませんよ しかしその夢からさめたところも もうひとつの夢だったら? 世界というものがあるとしても すべて夢になって消えるかもしれません 覚める可能性が全くない 絶対の現実というものは果たしてあるでしょうか >>108 確かに地球にいるって事は直接実感できないな 仮に宇宙から地球を見れたとしてもそれは特殊な体験であって日常ではない もしかしたら自分は実験施設か研究施設のようなところで 脳に栄養と刺激を与えられる事によって今の生活をしていると思わされてるだけかもしれん おれは昔から、唯実論とか信じてたからなあ、 1の発想に近いが、おれのはまた別のモノ。ここでは発表はしない。 1はおしいと思うがね。 >>111 唯実論っていうのがあるの?あなたのオリジナル?実感だけがすべてってこと? 教えてほしいなー なんかヒントだけでもっ 何で発表しないのか その理由でもいいからおせーて >>112 唯実論というのは既存の哲学の本でみたことがありますね。 ただ「実」があるだけだと。 しかしそれなら、唯存論でもなんでもいいわけで、誰もがあたらしい理論を発表できますよね。 個人的には、事実の実、だと思いますよ。 ですが自分は、もっとすすんだ哲学をもっていて、 それを今書いている小説の中でキャラクターに語らせています。 だから、ネットやなんかで安易に書くとパクられそうなので嫌なのです。 唯実論、というのは、ここの1さんがいってる内容に近いと思いましたよ。 だから興味をもってるわけです。 あとはわたくしが、その小説をどう世に出すかですね。 いやはや、自費出版は避けたいところです。 まあ、数理論理学のできないわたくしですから、文系的な思想に過ぎませんがね。 ウィトゲンシュタインはすごいと思います。 でも、数式も完全ではなくて不完全ですから、結局は哲学や宗教というものはいつの時代もなくならないと思いますね。 >>113 なるほど もし本になったらぜひタイトル教えてくださいね 楽しみにしています 唯実論の本を今度読んでみようかな >>117 唯実論の本、というか、なにかの哲学の本で唯実論といいう言葉がちょっとでてきただけで、 唯実論の本というのはどこにもないのかも? どうせなら、あなたが体系化してみるとか。 それもおもしろい試みだ。 102グラムの物体を1メートル上にもちあげることができるか? もしかしたら自分は狂っているんじゃないか って疑うことができたら 狂いのレベルはちょっとさがって正気に近づくと思う 狂っている人って自分では狂っていると自覚していないと思う だから自分はまともで正常だ 間違いないと思っている人は 実は自分が思っているのと全然違う世界に住んでいて 狂人として周りの人に迷惑をかけているかもしれない さてあなたはどうでしょうか?自分はまともで正常だと思いますか? それは確信しようがないのではないでしょうか もしかしたら世界の人々はみんなまとめて狂っていて でもその価値観が単なる多数派であるというだけの理由から 「正常」とされているだけのことかもしれませんね 学生なら、分析論はやるな ゴミ屋とか解体屋とか、汚れ仕事だから ブルート・ファクトをどう捉えるかにかかってるよ。こういうもっとも難しい認識論は。 フッサールのエポケーも、それ自体が判断停止だと思うしね。 すべては夢であることと、すべては現実であることに、違いはありますか? この世界は本当に夢ですか? 今あなたはパソコンの前にいて指をつかってキーボードを叩いている。 夢の中のできことですか? すべては夢であるならば、あなたはどうして言葉を使えているのか。 夢と現実の違いは、夢は自分の情報の領域内という限界があります。 現実は、夢の領域を広げる場所です。 「夢である世界で、情報や知識を増やして、夢の中で寝る」 仮想現実を夢の中で体験していますね。 すべては夢である、と確信自体は 「在ることがある」に解釈を施してしまい 「あるということがある」が「あるということはこのようにあるものだ」と 「ある」ものに意味をもたせている。 なにかを否定する事は、同時に否定したなにかに対して意味を付与することになる。 「在る」世界にいる限り、私は判断し、決断をし、なにかを否定し、なにかを肯定し 自分なりの、物事を知覚し、それに意味づけする基準とともにいる。 たとえ現実であろうと、夢であろうと 私の世界が変わるわけではない。 と考えながら書いたけど・・・これはまったく無意味な文章だった。 「すべては夢」と「すべては現実」とは、 世界の在り方についてという人間の経験不可能な形而上(人間の不可知領域)の命題だから 夢であっても現実であっても、この今生きている世界においては、無関係な事と言いたかった。 夢ってなんだろう、現実の続き、だとエヴァでは言ってたね 見ている自分と見られている自分がいる 見ている自分は自分についてあらゆるものを指さす 自分の身体的あるいは精神的特徴、受動する憧憬、痛い、赤いといった感情にいたるまで・・・ それがすべて、見ている自分ではないことを確認する ここでの議論は見ている自分と見られている自分を暗に区別している 見ている自分の目の前にある世界を夢と呼ぶことができる もともと古代の人は、じゃあこの見ている自分とは何だろうと疑問に思った そこで初めて魂という哲学的意味を持った概念が生まれたのだと思う もっと的確にアートマンと呼んで哲学的に考察したこともあった そういう系譜をまず思い出す必要がある 私(表象主体)は世界のうちに表象されない。それは世界の限界である。 後で夢だとわかっても夢の中にいるときは現実 そして現実に起こったけど過去になってしまった出来事は夢のようなもの 夢の中で いま夢を見ているな って気づくことがある あとバーチャルリアリティのなかで嘘の体験と知っていながらの体験 どちらもニセの体験だけど体験している瞬間は現実 どういう状況でも「今」だけが現実で 過去や未来は夢 でもこれはひとつの考え方であって 考え方次第でどのようにも考えることができる だから自分に都合いいことを現実として 嫌なことは全部 夢としてしまうのがいいかもしれない 130と131の続き ここで定義してわかったのは 確かに「ある」と言えるのは、目の前にある世界あるいは見られている自分、 または見ている一点の自分、の両者だけであるということだ >>133 過去には、たった今見ている自分は存在しない 目の前にあった世界あるいは見られていた自分、しか存在しないように思える ここで、見ている自分とは一瞬一瞬で実は違うものなのではないかという仮説がつくれる そうしてその実在が空だといったのがゴータマシッダールタなんじゃなかろうかと 自分でもわかっているようでわかっていないが <私は存在する>は、これを私が思考するたびごとに必然的に真である 私の存在の原因は、私を無からそのつど繰り返し想像する力である この私の外部に存在する何かよく分からない力に、デカルトは<神>の名を仮託した >>132 の言い方をかえると 世界の一部である人間としての自分は実際には自分ではなく どこか世界の範囲外から本当の自分がこの人間を見ているということ? >>134 確かに ある と言えるものがあるだろうか どんなものでも ある と思えるだけではないだろうか >>135 ほんとだ 考えてみたら過去に自分はいない なるほど 一瞬一瞬違う自分というより 自分は今にしかいなくて うーん 常に今しかない ずっと今だ ずーっと 今と自分しかない どこに行っても いつまでたっても 自分と今がついてくる 刹那滅というのは、たしか、説一切有部の主張じゃなかったかな。 一つ一つのコマのようなものが立ち上がっては消え、消えては立ち上がり、ってことで、 お釈迦様の「諸行無常」を表現しようとしたんだけど、そうなると、その一コマに、なんらかの実体があることになる。 それで、現在の一コマの先には、未来の一コマが待っていて、過去には、前に現在の一コマであったものがある。 この三つのコマが存在することになるよね。 これを、「三世実有・法体恒有」 というのかな。 それで、お釈迦さまの教えである、「諸法無我」とつじつまを合わせるために、 我(ものの実体)は「空」であり、一コマの「法」は存在するのだ、というのが、 「我空法有」 だよね。 一コマが実在するわけだから、一コマの長さ・・・刹那の長さがあるとされた。 長さがないと存在にはならないから。 ところが、龍樹は、刹那に時間的長さを設定することを否定した。 つまり、我も空なら、法も空である、と。 すべてのもに我(実体)はない。 これがお釈迦様の諸行無常だと。 自由意志の問題における哲学上の基本的な立場は、 1.決定論は真か? 2.自由意志はあるか? という2つの質問に対して肯定するか否定するかで決まる。 さてさて、 御嶽山があの日に噴火したことは、 決定論は真である、 ということを肯定する根拠になるだろうか? 決定論も自由意志も、確率的に起こるという考えもありうるだろう 無相関でありながら、独立である、座標上のドーナツ。 X軸を無、Y軸を有としたとき、あることとないことは無相関ではあるが、独立ではない、といえる。 あることとないことが同時にある、とは確率的にはありえても、 それが真理となるだろうか。 個人的には、ならないと思う。 しかしそれにしてもそれは 終わりのないダンスだった アンドレ・サルモンの詩 言葉によってある程度まで近づいたら その先はもう言葉では言い表せない 間違って解釈されてももどかしいし 誰かに理解してもらう必要もない というより そもそも誰もいないのですよ そんなこたあない。言葉でしか言い表せないのですよ。 わたしはマララとかいう本は哲学的には浅いね。 読書感想文みたいな。 こころってのは、環境に適応するためにあるんだぜ? ほかの生命体に心はあるか? こころを持つ動物とは? 科学ではあきらかにできない。 科学ってのは、プロセスプロセスで、途中経過こそ至上みたいなところがあるからね。 重力波の測定に成功したからといって、宇宙に終わりがあるとか、ないとか断定できないわけです。 世界があり過去と未来があって自分が人間だと思いこんでいる これは洗脳のようなもの 洗脳されている者は自分が洗脳されていることを自覚していない もちろん人間として世界を楽しむのもそれはそれでいい しかしあなたは本当に人間でしょうか 洗脳を解いてみたいと思いませんか まずは疑ってみてくださいこの世界は本当に存在するでしょうか 過去は単なるあなたの想像ではないですか? どんな幻も固く信じるならそれは現実です 客観的な現実というものは存在しません 現実というものはあなたが何を現実とみなしているかということなのです >>149 言葉で言い表せるのは人間の理解できる範囲内 もしかして人間の知性は無限大と思ってる? >>157 超越論的主観性といって、どこまでも無限にひろげられる。現象学的には。 この世界を表す言葉は 数学にしろ論理にしろ そこに視点を内在させる そして、いま見ている自分そのものを、 見ることができないように、自身の正しさを証明できない こんなところだろうか 気づいたのは、 私しか存在しないと言うのであれであれ、 存在はあまねく全だと言うのであれ、 そこにはなぜ、過去でも未来でもなく、他に大勢人間の場所でもなく、 「何故、此処にあるのか」という疑問が横たわっているということだった 訂正 他に大勢いる人間の場所でもなく 「何故、此処にあるのか」という疑問が前提にあるということだった >>158 時間は孤立した独りの主体の産物ではなく、主体と他者との関係そのものである とレヴィナスは言ったよ。 レヴィナスはおれからすれば浅い。 ハイデガーはニーチェの弟子みたいなもんですよね?永劫回帰を超えようとしたが超えられなかった。しかも真理を見極める前に死んだハイデガーは過大評価ですよ、 万物の根源(アルケー)が“無限なもの”(アペイロン)であることを論じた。彼が残した断片によれば 「事物の起源は、限りのないものである。事物がそこから生まれたものへと、その死も必然的に帰っていく。 なぜなら、事物はその不正の償いとして、時の秩序にしたがって、互いに正しい返報をするからである」 アナクシマンドロスの影響下にあるのがハイデガーですね、 見ている自分というのは詭弁であって 見られている世界と切り離すことなどできないのではないか 見ている自分も見られている世界もまったく同じ対象を指している ,ソクラテス以後の哲学史は,〈存在〉が〈事実存在〉(……ガアル)と〈本質存在〉(それは何であるか? ……デアル)に分岐していった歴史だそうです. 見ている林檎も見られている林檎も同じ対象を指している 見ているXは、見られているXと同じ対象を指している ここで、見られている世界は見られている自分を含んでいるように思われる しかし、見ている世界は見ている自分を含まないという すなわち矛盾である 対象のなかに私が 私の中に対象が潜んでいること もっと言えば、対象の総体が、私そのものであること 主客は分け隔てることはできない 現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、 変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、 また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。 絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、 何処までも主体と環境とが相対立し、主体が自己否定的に環境を、 環境が自己否定的に主体を形成する。而して現実の世界の現在は、 主体と環境と、一と多との矛盾的自己同一として、 決定せられたもの即ち作られたものから、作るものへと動き行く。 それが過去から未来へと動き行くということである 西田幾多郎は文章が下手だよねえ。それに今のおれからしたら浅い。 >西田幾多郎は文章が下手だよねえ。 文章が下手というのは言い訳で、思考が徹底していないことが文章に現れている 「いのち」アル限り、この世(宇宙)はアル。「ある」もアル。 「いのち」ナキ所に、この世(宇宙)はナイ。「ある」もナイ。 。「他者との関係は、宗教的共同体の牧歌的な調和のとれた関係でも、それを通して、われわれが 他者の立場に身をおき、他者をわれわれの同胞として認識するところの共感でもなくて、われわれにとっ て外在的なものである。他者との関係は〈神秘〉との関係である」(TA, 六六) そして、こうした他者――いわば絶対的他者――との関係にレヴィナスは、そもそもの時間の可能性を 見る。レヴィナスは「将来(avenir)」を「捉えられないもの、我々に不意に襲いかかり、我々を捕らえる もの」(TA, 六七)と規定するが、このような「将来の外在性」は他者に由来する以外にない。かくしてレ ヴィナスは言う――「将来とは他者である。将来との関係、それは他者との関係そのものである」(ibid.) と。レヴィナスにおいても他者は時間――ここでは将来――と本質的に連関している。他者なしに時間は ありえない 生そのものを賛美するニーチぇは、ばかだ。生になんの価値もない ヒューマニズムなんてのが小さい概念。科学同様、ヒューマニズムはでっちあげ >>176 根本的な混乱があると思うよ。 「捉えられないもの、我々に不意に襲いかかり、我々を捕らえるもの」は ぜんぜん時間的ではない。それが「a-venir(来るべきもの)」として捉え られるのは、「未だに捉えられていないもの」が「来る」という予期に 他ならない。では、なぜその予期が可能かと言えば、予期せぬ出来事を 予期できる周期の枠組みの中で整理して、つま、り時間的に位置付けて いるからだ。 ×つま、り時間的に位置付けて ○つまり、 時間的に位置付けて 木田元氏の著書『ハイデガー』(岩波現代文庫)でも考察されたハイデガーの 構想していた西洋哲学史とは,存在の形而上学の歴史ともいえるもので, ソクラテス以後の哲学史は,〈存在〉が〈事実存在〉(……ガアル)と〈本質存在〉(それは何であるか? ……デアル)に分岐していった歴史だそうです. 人間は環境に繋縛されてそこに埋没して生きる動物とはちがって, 自ら存在という視点を設定して出会うものすべてを存在するものとして,つまり存在者として統一的にとらえることができる.存在という視野のうちにすべてのものが存在者として現われ出ていること,この事態こそがソクラテス以前のギリシア人にとっては 驚くべきことであったとハイデガーはいう. と岩波書店のページにはあったが、人間を上に置きすぎ。 ソクラテス以前も以後も、人間至上主義に過ぎない。 サルトルの「実存は本質に先立つ」というあまりに有名な命題も, ハイデガーによれば,「本質は実存に先立つ」というプラトン以来の命題をひっくり返したものにすぎず, 西洋の形而上学的命題にとどまったものだというのです. ハイデガーは,〈本質存在〉と〈事実存在〉に分岐した形而上学によって〈始原の存在〉が蔽い隠され, 忘却されているのではないかと考えます.メルロ=ポンティも〈野生の存在〉の存在論を展開しました. これも岩波書店の木田元さんの著書のインフォメーションだが、 要するに、存在論は解決していない。 わたしの書く入門書は、同じような不幸を抱える人を読者に想定して書いています。同病相憐れむですね。 だから、「子供のための哲学」なんて、とんでもない話です。 無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。 哲学なんか関係ない、健康な人生を送る方がいいですね。 と、木田元氏は著書の中で言っている。 この文章は、こどもだけでなく大人にも通用する、と思うな。 本書『存在の彼方へ』(原題は『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』)は、リトアニア出身のユダヤ人哲学者 エマニュエル・レヴィナス(1906年〜1995年)による著作だ。1 974年に発表された。『全体性と無限』に次ぐ第2の主著とされている。 議論がちっとも進展しない 本書は難解な著作だ。文庫版の訳者あとがきによれば、「バロック的」とか 「暴風雨のような本」と評価されているらしい。 ただ、難解といっても、決していい意味での難解さではない。 それまでの自分の世界観を上書きしてくるような原理に追いつけない難しさではなく、 「この表現はさっきと何が違うのか?」を調べる間違い探しの難しさに近い。 言いたいことをなかなか言わずもったいぶって、ここぞとばかりに決めゼリフを使う。 ただそれも同じことの繰り返しで、別に中身が深まっているわけではない。しかし一通り読んでみないとそのことが分からない。 読むのが難しいから、読んだひとが自信たっぷりに「レヴィナスが本書で鋭く指摘したように…」と言っているのを見ると、そうなのかなと思ってしまう。やっかいな著作だ。 結局哲学でも科学でも未解決問題らしいな。その前に地球が滅ぶかも。 どうした。手続き記憶の座が腐ったのか? 直観認識力は科学なんかより正確なんだ。 哲学や宗教の強さは、公式じゃない。 馬鹿理系にはおよばないイメージ力は直観による。 >>185 脳科学者なんかもやっぱり直観認識力は低い気がする。 あの学問も理詰めだ。あらゆる選択肢を模索しても、取捨選択するのにやたら無駄な思考をする。 一瞬一瞬で、原因と結果の二点が明滅したとしても 常にその一方の点は、互いの存在を確かにしている いや、点というのは、そもそも破綻した表現かもしれない 原因のみの点という概念があり得るだろうか 原因が結果をもたなかった場合、すなわち原因としてあり得ない 新札を用いると、まるでご不幸を見越して用意していたようだということから、新札は用いない方が良いとされています これが答えだ 禅問答 >>189 存在も時間も点じゃないから 原因という点を独立して見てしまったら それはあることとないことを同時に求められる即是の存在である ではどのようにとらえるべきか それらは閉じあわされる距離(スカラー)として表されるべきなのだろう √2はその存在の可能性として、どこまでも値を決めないのに その平方はぴたりと2と決まる 端は矛盾していても、全体は矛盾しない論理 中は矛盾しているように見えて、外は矛盾しない論理 そしてそれらはメビウスの環のようにいたちっごっこ もうわからなくなってきた メビウスの輪というイメージが、偽だね。直観認識力が弱いんだ、君は。 どちらも裏とよべない表面 どちらかを裏にすると矛盾する表面 その環自体は確かに存在する クラインの壺というのもある 内側と外側の区別がない壺である 壺が矛盾しているのか、壺の中身が矛盾しているのか 物理定数(ぶつりていすう、ぶつりじょうすう)とは、値が変化しない物理量のことである。プランク定数や万有引力定数、アボガドロ数などは非常に有名なものである。例えばプランク長は物理的に最も短い距離であり、光速はこの世で最も速いスピードである すべては脳の命令 あなたの意志というものはありません ではなぜこの体験があるのでしょう 誰が体験させられているのでしょう 体験に没頭して全部忘れてしまった しかし世界と記憶を裏返しにすることで それはいつでも戻ってきます そして安心を再認識できたら また夢への没頭を楽しみましょうね 宗教関係者ほほとんどが、決定論に反対の立場ですよ。 1は宗教を勉強しましたか?無知は罪ですよ。なんていうひとがこの哲学板にはいるかもしれません。 カミュのいう不条理も、あやまりですよ。彼は暗すぎる。 客観的な観察に耐えうる行動はない。決定論こそ至上。 1.電圧 二点間の電位の差。単位はボルト。記号V 電位差。 集合知能ができたとしても、この謎は解明できないだろう ジェームズ・ワトソンみたいなカスのせいで、あらたな、疾患が予想されるわけ。 もちろん営利企業がもっと糞なんだが。 なにが遺伝子組み換えだよ、カス科学者が。 >>198 決定論って何ですか? 簡単にわかりやすくおながいします 宗教や哲学の知識が全然で 哲学者や専門用語が出てきた途端に ついていけなくなり困っています 勉強する気もないです なんだか無駄な気がして 自力で考えても結構いい線いってると 勝手に思っています 私の主観としては「ある」は間違いなくあるように思えるけど、ふへ 失敗国家でもないし、腐敗指数も低い日本に生まれてきただけで勝ち組でしょ。 自殺者含めた死者には関係ないが。どうせ死んだら無にかえるってのが、昔からの宗教でしょ。 確かにあるない関係以外あり得ないような世界が成り立ってるのは 素直に凄いって思うよね 世界がどのようなものであるにしても、「そのような世界があること」には、 必然的に、「そのような世界にいること(In-solcher-Welt-sein)」が対応する。 ここで、「誰がいるのか?」と問い、「我々(人々)がいる」と答えを出すのは、 一見、当たり前のように見えて倒錯である。なぜなら、「我々(人々)」が 世界の中にいるのではなく、世界にいるの(In-der-Welt-sein)が「我々(人々)」 であり、そのように規定されて「そこにいる(Da-sein)」のが「我々(人々)」 だからである。我々(人間)(存在者としての現存在)を含む世界の中に存在者は すべて、そのような世界の分節として現れる。 誤:我々(人間)(存在者としての現存在)を含む世界の中に存在者は 正:我々(人間)(存在者としての現存在)を含む世界の中の存在者は ハイデガー自身の思想の展開に誤解の責任の一部があるにしても、 その誤解をさらに強めるように「人間中心的解釈」を前面に押し出して ハイデガーの存在論を紹介した故木田元氏の仕事は功罪半ばしている と言わざるを得ない。 ハイデガーって、だれかにダメだしされてたよなあ。 てか、前世紀の哲学はそろそろオワコン ストレートに気を通す人は、頭頂部から禿げると考えられます。 マンガにあるように、普通は怒りの気は頭のてっぺんに溜まるからです。 頭を使う人は、脳の前頭葉でものを考えます。 つまり気の通り道が前の方へできていると考えられます。 そのため、怒りの気が額に溜まるのです。 前頭葉は右脳と左脳に分かれています。 怒りの気も左右に分かれるのではないでしょうか? これがM字ハゲの理由だと思います。 禿げない人は自覚できない「怒りの気」がない人です。 あるいは「怒りの気」が頭部に抜けないルートを持っている可能性があります。 そのときは、腹や背中にたまります。 ひょっとしたら、内蔵疾患の原因になるかも知れません。 漢方では昔から、強い怒りは、肝臓を壊すと言われています。 「笑い」によって、ガンを撃退する、NK 細胞の活性が高まったという伊丹仁朗医師のデータもあります。 男女19人のボランティアを集め、漫才や漫談で3時間笑った後、NK 細胞の活性の変化を調べたそうです。 活性が低かった人はすべて正常域になり、もともと正常域の人もさらに活性が高まったそうです。 笑いには、短時間でNK 細胞を活性化させる効果があることがわかったのです。 また、「笑い」によって分泌されるβエンドルフィンというホルモンは、痛みをやわらげる働きがあり、その効果は インドに何度も滞在した経験のある学者の意見では、インドでも輪廻をまじめに信じている人は少ないそうです。輪廻が正しいなら、 人生は何度でもやり直しがきくことになる。 けれどもし間違っていれば大変です。まじめに考えてみる必要があるでしょう。 シャカの過去世など、オカルトではありませんか。 前世譚とか。 さらに、極楽浄土だの、地獄だの宇宙のどこにあるんですか?wwwwwwww そして、空は縁起、無常ってなんですか。 死んだら、人間は無になるんですか? なりませんよ 嘘も方便って、輪廻転生のことじゃないかな 存在は死んでいても、生きていても全でしょうね 無だと言っても、そこに視点を作る限り無とは言えない それは遍在する視点として存在する無であると いやそれは 嘘も方便 まあそうかもしれんが、セルフ・マインドコントロールしてたわけだ。 その修行スタイルを認めた人間が弟子になっていっただけ。 当時のインドにはそういう文化背景があったので 輪廻を疑うことで、真理を得ようする 転生という概念は、存在そのものについてのよい思考実験になり得た 輪廻があったとしても過去世の記憶がなければ輪廻がないのと同じではないでしょうか 記憶といえば 今ある記憶はあなたの記憶でしょうか 脳の記憶を書き換えることができるとしたら その記憶を確かに自分の経験だと思ってしまうでしょうね 実は今ある記憶はあなたのものではありません 意識が今その体に入りその脳の記憶を あなたのものだと勘違いしているだけなのです 本当のあなたは単なる意識です 人間=あなた ではありません デリダによる脱構築[編集] あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす別のパラドキシカルな内容が テキスト中に含まれているとする。 マルティン・ハイデガーの『存在と時間』において西洋の 形而上学伝統が論じられる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として 採用されたもの。デリダは、直訳の「解体 Destruction」がもつ 破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築 Déconstruction」( dé-「分離、除去」 / construction「構築、建設」)を造語した。その意味で、彼の脱構築は ハイデガーの試みを継承するものと言える。 まあ、デリダはソーカルに批判されてますし、なんだか適当に突っ走ってる感じで馬鹿らしい。 パロールとエクリチュールとか、たいした問題じゃない。 過去や痕跡や現在性とか、別にたいしたこと言ってない。 過去が常に過ぎ去った現在を意味したのなら、痕跡の中に引き留められる(把持される)絶対的過去は、厳密に言って、もはや「過去」の名に値しない。これは、存在と同じく×で抹消されるべきもう一つの名である。この奇妙な運動は、 差延が差延するということを想起させるのと同程度に告知するがゆえに、 その名は一層抹消されるべきなのである なんてのもどっかのブログにある。デリダの時間論に対するスタンスはそのようなもの。 そうじゃない 鉄とか銅とかプラスチックとかの存在性まで 君が存在を見出す仕事はここまででいい デリダやデリダ派は、存在論的にも時間論的にも、たいした進展はない。 実存主義と現象学と言語学の合わせ技でしょう。 哲学にも科学にも関係のある未解決問題を、20世紀後半の哲学者も最新の哲学者も解決していない。 というか、21世紀の哲学者で鋭い人ってだれがいるの? むしろききたい。 この次の世代でしょうね 量子論が確立して、構造主義も飽きられてきた今の時代に もしかすると最後の哲学者が生まれるかもしれない >>228 ポスト構造主義なんてのはまだ西洋では引き継いでるわけだが、細かいことにこだわりすぎていて、 結局、今までの形而上学と変わらない。 科学哲学はどうかといえば、中途半端で、それなら最新の量子力学と宇宙論、そして神経科学を学べばよい、となる。 科学も現象学も、確からしいことしか言いえない、ということです。 数学にしても、なにか決定的に欠けているものがあるように思う 言葉である以上仕方がないのだろうか それが真理だと指させるような形而上学的土台があるのなら ギリシャあたりの哲学より前には土台があります。 ウーシアということばも、その一つでしょう。 人間は細分化されすぎた、ということでしょう。 わたくしが「ひとそれぞれ理論」と呼んでいるものが、その端的な形而上学の浅さです。 超越的を持ち出せば再び宗教になるんじゃないか? 哲学とはその宗教性から抜け出すためのもんだろ 宗教か魔術か、それに付随する秘術の領域まで戻るしかない 形而上学の延長だと、どこまでいっても屁理屈 >>233 宗教に帰れ、という意味合いではありません。 あくまで個人的な意見ですが、幼児に帰れ、といいたいですね。 まあ、それでは社会も成り立たないでしょうが。 ものごころつく前の人間は、最強だ、と思いますね。 黙することがすべてを語るなら 語りつくすことは盲目になることだが、 盲目になって、さらに翻って すべてが見えるとすれば >>236 アントニオ猪木・馬鹿になれ・・・・か? 無知の知も盲目もばかになれ、も微妙に違うな、と思う。 まあ、個人的真理はおいといて、と。 やっぱり人類補完計画かな。 いや、嘘。 99パーセントは仮説、だという竹内薫の科学論 人類補完計画も仮説に過ぎない、というだろう。 学問を深めれば深めるほど、仮説は増えていく。 そして、地球は寿命を迎える、と一般的には言われている。 以上。 1よ、がんばりたまえ。 目の前が近づいてくるとすぐ より目になるところが 人類の可愛いところでもあり 脆弱なところでもあり とりあえず 2個 予定説と自由意志説。これはキリストの教えのなかに横たわる、いつまでもつきない長い 課題といえるでしょう。神はすでに救う人をお選びになっており、それ以外の人は救われ ない、と言う方々が大勢いらっしゃいます。それは本当でしょうか? まあ、カントなんかも結局は二項対立における、優位性にこだわったり 視霊者にとことん興味を持ったりするような感じですよね。 いまとなっては浅い。 ブレインストーミングとは、集団でアイデアを出し合うことによって相互交錯の連鎖反応や発想の誘発を期待する技法である。 人数に制限はないが、5 - 7名、場合によっては10名程度が好ましく、議題は予め周知しておくべきである。 ブレインストーミングの過程では、次の4原則(ルール)を守ることとされている クンダリニーで、真実の私が光そのものだったのだ、というのは真実ではない 石井久子は偽の悟り やれやれ… 蟻たちに語って聞かせるようなものだな… 理解力のある蟻はいないものか その中で、トマス・アクィナスが証明しようとしたものの一つ、 神の存在証明というものがあります。 一般に、神とは、人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与 え、信仰や崇拝の対象となるもので、特に、哲学では、世界や人間の 在り方を支配する超越的な最高存在ということになり、トマス・ア クィナスは、このような神が実在するものであると証明しようとし ました。 、最低限の規定をあたえるために、 神を本質と存在が一体化しているものとして最低限の規定しました。 これは、トマス・アクィナスは、神のことを疑って存在証明をし ようとしたわけではなく、むしろ、神の存在をより確実なものとし て認識するために証明を試みたと考えられます。 このことにより、トマス・アクィナスが、すべての普遍は神の中 にある、あるいは、神こそが普遍のなかの普遍だと説いたところか ら見受けられます。 つまり、そもそも神こそが真理なのだから、真理であれば、存在 証明はできるって考えたということです。 >>250 どういうこと? あるということは、ないってこととは違うのか? かつ火山の頂上のことかも いちばんうえが凹んでて あれ?って 噴火口ですやん こんなん あり? 滑って降りようか検討中 人は何故 山に登るのか ふんかこう crater 見学 予定と予定の間に生じた短時間の暇、ちょっとした物事に取り組めるわずかな余裕などを意味する語。移動時間や待ち時間などを指すことが多く、勉強や情報収集などを小刻みに積み重ねるといった事柄で用いられる場合が多い。 すべての物事を幻として考えてみなさいよ 実際なにもないわけですよ わからないかなあ なんというか ある範囲内の発想しかできない 愚かです まずは自分は勘違いしているのではないかと 疑ってみなさい そう先入観 これだ いっかいゼロに戻ってみよ さあ 何か思いついたかな ゼロってのは、記号に過ぎないんだよ。わかる?絶対無こそが真実。 はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 キリスト教 不思議というか、あほすぎる >>260 有と無を包み込むようにして覆う、無だよ 大澤真幸が言っている。 地平線への旅は、無限の距離を歩むたびとなる、と。 (虚構の時代の果て) だが、それでは詰めが甘いのだ。 任意の理想から排除されている行為とはなにか? 大澤氏は問う。 その答えと、このスレの親和性は高くない。 永遠のゼロ戦か? 永遠のゼロってなによ。 存在論はそんな、永遠とか、そういう陳腐な言葉ではとらえられないだろ 分かりやすく、思考の流れを再整理すると 「永遠は存在するか?」 ↓ 「無限に続く時間は存在するか?」 ↓ 「有限時間の存在」の否定 → 無限の証明 → 永遠の存在証明 ↓ ↓<時間の具体化の必要性発生 → 時間を規則的振動とする。> ↓ 「規則的振動を生じる存在」の否定 ↓ 「宇宙終了時間の存在」の否定 ↓ 哲学的な問いが物理学への問いに変わった。→ 回答可能かも・・・ そこで、物理学での回答なので書籍等で得られる、最先端の宇宙状況解説から判断すると、 宇宙終了を現在の物理学は回答を用意できていません。(分かっていません。) (逆に、宇宙の果ては加速膨張して疑問がふくらんでいるようです。 加速膨張関連の謎の解明に取り組み中です。) ↓ よって、「永遠は存在しますか?」は、分からない。 という結論を得ました。 >>258 >>261 なーんだ ちゃんとわかっている人もいるのだね 安心した つまらん書き込みが多くなってきて がっかりしていたんだ >>265 君のように自意識過剰な人間は格好の遊び道具にされてしまうという事ですよ。 これは君だけではなく2CHに張り付いている人間全てへの警鐘だよ。 条件を指定できるほど君は偉くはないはずです。 またここは匿名掲示板であることを忘れてはならない。 説得が必要なのは100パーセントの確証が得られないときだ、と瀬戸賢一さんは 「日本語のレトリック」という著書でおっしゃっている。 おもしろいスレじゃないか。 人間のうちにあって、太陽を目とするものは誰か そんなものはいない 有象世界のために最初に絞られたものなどいない、なあザラスシュトラよ。 ゾロアスター教においても、可見、不可見という二分法をとる。しかし、此岸とはどこになるかな? 閉じた宇宙なのか、開いた宇宙なのか、それとも。 人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ by 寺山修司 @自分とはこの人間である あるいはこの心であると思いこんでいるが 自分というものは これらに限定されるものではなく すべてが自分自身だと言えると同時に 自分というものは存在しないとも言える A世界や過去の出来事などは実際に存在しているように思えるがそれは思い違い 自分自身であると思っている人間やその心 これも同じく錯覚 幻 B物事を認識できる 感覚の主体(主体=人間ではない) だけが実際に存在する その主体自体が何であるかは言いようがない 敢えて表現するなら 「ある」がある 現実には必ず虚構が張り付いている。 現実は虚構として受け取られることにおいてまさに現実として分節される。 一部のセクトだけが喝采を送る。 戦略・闘争目的・そして理論のすべてにおいて、各派の主張が異なっているからである。 あるというがある、という虚構は、微分すると、 自らは虚構を信じていなくても、その虚構を信じている他者を想定して行動してしまえば、 虚構を信じているものと結果的には同じことをやってしまう、ということだ。 まーじ氏が試そうとしているような推論は、その範疇の中にあるのかどうかは知りえない。 だが何かを知っているのだろうことを、アイロニカルに隠匿している。 小説における、CHILDBIRTHについてテツガクせよ。 それは、尊い、うみ(産、膿、海)である。 このわたくしの書いた二行は、哲学にもあてはまる。 なぜ、哲学はうまれたのか、ということは、存在論を解く鍵なのだよ。 マーケティング・マネジメントを燃やせ 偽物のことばによって人生の可能性はひらかない 可能性に機能するのは 詩だけである 詩は人材育成コンサルタントには操れない もう世界の終わりか、と凡夫は問う まだ世界の終わりか、と詩人は応える 発想の転換 詩人の領域 鈍く重く暗く不安げな雲をつきぬけた所にあるのは 太陽ではない それは弧高の鬼才の詩集だ >>277 おしいな。おいらの真理は、もう少しシンプルなんだ。 まあ、1やあなたみたいな人の動静を見守ってるよ。 では! 原子をさらに細かくしていったとき、それ以上細かくできない究極の根源のものを素粒子といいます。 その素粒子は点ではなくひもだとするのが「ひも理論」です。 このひもの挙動を数学的に記述するのに必要な変数(パラメータ)の数が26個であったことから、この宇宙は26次元であると言われたのです。 パラメータの数が次元の数です。 xy座標平面ではパラメータはxとyの2個なので2次元と呼ばれるわけです。 だから26次元空間がどんなものかなど物理学者にだってわかりませんし、そんな事を考える必要もありません。計算に必要な変数の数にすぎないからです。 まあどんな理論も頭の中の話ですっていうのがこのスレの趣旨 文系・理系・芸術系・体育系のどの人間も答えは出せない、と思うが。 >1 「・・・・・・・・・・」だろ。 言わせんな。 エム先生は、スマ師に気を使って観自在菩薩が 阿羅漢のシャーリプトラに「空性」を教えているのだという事は 曖昧にしたいようですけれど、 菩薩は力があるのに、あえて仏とはならず衆生の救済にあたっていますから 大乗では、阿羅漢の上をも行くと捉えられているのではないですか? 般若経は、部派の否定として出て来て居るのですから 大乗優位に立っているのは当然の事で、それも曖昧にしたいようですけれど 宗教革命とは、古いものを一旦徹底的に否定する事は当たり前でしょう。 そもそも、初期仏教には「空」の思想が明確にあったわけではないでしょう。 ****************竹村牧男氏の「大乗と部派の違い」 竹村牧男さんの言葉にはいつも感心させられっぱなしです ありがとう 結局、仏教の空って、 大乗仏教のばかが勝手に構築したんだよなあ。 初期ではほんのちょっとしか出てこない「空」という字をいろいろ解釈した。 統一理論を目指した、龍樹が元凶かもな。 さらに、そこから般若心経なるものもうまれた。 物理学なんてしょうもない学問は、次から次へとでてくる、不都合な例外を埋め合わせようと 適当に数式を変える それはお互い様でしょ。仏教世界には証明が必要ない。 物理学にはそれがある。どちらがマシなのか?信用できるのか? 応力(おうりょく、ストレス、英: stress)とは、物体[注 1]の内部に生じる力の大きさや作用方向を表現するために用いられる物理量である。物体の変形や破壊などに対する負担の大きさを検討するのに用いられる。 この物理量には応力ベクトル (stress vector) と応力テンソル (stress tensor) の2つがあり、単に「応力」といえば応力テンソルのことを指すことが多い 物理学も仏教も今まで出てきた現象をとらえるために 法則に当てはめて予想したもの 法則が先なのではない 法則外の現象が新たに起こるたびに修正が必要になる ということは結局法則ではくくれない あらゆる現象を手の中にいれることはできない 物理も仏教も俺にかかれば浅い いやいや、坐禅や参拝、キリスト教のお祈りなど、勉強させてもらったりしたし、 神社にしょっちゅうお参りに行ったりしたが、なんの効果もない。 日々の生活の苦悩はまったく取り除けないし、状況も変わらない。 バタフライ・エフェクトは信用ならない。 無意味だし、科学的にもなんの因果関係も生み出さない。 宗教に意味があるとすれば、気休めという名のプラセボ効果。 お守りやお札も意味をなさなっかたし、毎日仏壇に手を合わせてるが、なにも状況は変わらんのだよ。 自分のこころの中が少し変わるだけ。 仏教的戒めを守ろうとしたこともあったが、っ無理だったな。 経典そのものが、オカルトに過ぎない。 そりゃ、自分が最初から、オカルト的側面から入ってるからだろ まあ、そうかもしれませんねえ。 ただし経典をいくつか読んだ限り、自分を満足させる思想は少ししかありませんでしたね。 もちろん、プラセボ効果を求めでお寺参りするのは好きですが、信用しちゃいません。 そもそも、2000年以上前に創始されたものをいつまでひきずってるんでしょうか。 どのようにして、あなたに、永遠のwow! が存在するようになったのですか? ウォフ・マナフよ こころ貧しき者たちの牧者にザラスシュトラを任命した。 理系の企業が、科学のために、いろんなものを犠牲にしてきた というか、理系って頭いいと勝手に思ってるところが笑える。 まったく何も存在しない これが真実 あまりにも完全でシンプルすぎるためつまらない だから退屈しのぎにいろいろあるかのように見せかけて 神は遊んでいるのですよ すべては錯覚なのです つらくなったときはそれを思い出して「現実」逃避して楽になりなさい ここで言う現実とはあなたがたが思う現実ではなく 何も存在しないという現実です つまり現実から幻想へ逃避するのではなく 幻想から現実へ逃避するということです そこに何も存在しないという現実には必然的にここにいることが対応し、 ここにいるのは常に自己である。 >>311 まあそう感じがちだけれども本質的には何も無い 女優の沢村貞子さん、38で駆け落ちで同棲したひとと、60歳で結婚だぜ、相手は70代。 人間、なんでもありじゃね? 平均よかふつうとかどうでもよくなる。 わかくて視野の狭い奴にはそこがわからないんだろう。 デカルトは、xが神であるならば、xは存在するといった 完全なものは、その属性として、存在している つまり、神はある keyboardで A R U ち す な あぶない G電波 イスラエルが ナチパレスひっくり返してんのと同じパターン 完全な無というものは実現できない。 仮にこの瞬間にあらゆる物質的存在や意識体験が消え去っても、三平方の定理や幾何学などの数学的概念まで消し去ることはできない。それらを適用できる空間も理解する存在も無ければ無と同じかも知れないが、完全な無とは言えない。 アデニン・グアニン・チミン・シトシン 艶忍 愚唖人 智民 死と真 プラトンの言うように、我々は事物の影しか見ていないのかもしれない 本質や実体というものに、我々は直感ではたどり着けず、推論やうさんくさい 形而上的なアプローチを経なければならない >>318 うんうんだからね 「完全無なんてありえない」と思えてしまうんだよね 人間の能力であらゆる物事を把握できると思っているでしょ?その時点でもう間違いなんだよ >>322 人間の能力であらゆる物事を把握できるなんて微塵も思っていない。 この世界が存在している理由、メカニズムはあらゆる知性の理解を超えたところにあると思ってる。 世界をどんなに緻密に観察、分析していっても一番根本的な、なぜあるのかを理解できる日は永遠に来ないだろう。 でも完全無は別だ。現にこうして何かがある。 実は全ては幻想だとしても幻想というものがある事実を目の前にして、完全無があり得るというのは一体どういう事なのか。 >>322 もし無限の昔から無限の未来まで一切何も存在していないとしても数学的概念は存在する。 それらを発見、理解出来る主体も含め存在しないというだけで。 この様な状況を完全な無と表現していいものだろうか? なんか気に障ったようだからこっちにもコピペしてあげます。↓ 無の隠喩は打ち消しであり、絶対無の隠喩はランダム性です。 したがって、無に帰することが、ブラックアウト(黒くなって見えなくなること)に 喩えられるとすると、絶対無に帰することは、ホワイトアウト(白くなって見えなく なること)に喩えられます。つまり、原初にブラックアウト状態が存在して、その 状態から存在が生じるのではなく、何かが存在する限りで、その存在はホワイトアウト 状態の相対的打ち消しによって、つまり、限定によって生じていることになります。 すると、不在も穴として現れることになり、特定の存在の打ち消しは穴として存在 することになるのです。 c点論者です。「c点による時空論 改訂版」をネットに流しています。 現象世界では、「無」は認識されないので c点(有無合一体)は「無」が優位なら 「無」 c点で無が認識されず「有」が優位なら 「有」 「本質論」では c点の「無」優位なら 「無」 c点の「有」優位なら 「有」 c点は「本質論」世界で認識出来ず 「有無合一体」 c点(本質論)と素粒子(科学)とは、関係(量子力学との?)はアリマセン。 「ある」(西洋の有の哲学)ノミだけでなく、c点論もご検討下さい。 ヒンドゥー教においては、永遠の輪廻をくりかえすものとしての物質という考え方がありますが あれはオカルトでしょう。 ブラフマンの境地とはなにかを考えれば、すべては、無である。 お恥ずかしい話ですが、「ヒンズー教」は全く分かりません。 ただ、華厳経は釈迦、竜樹の「空」思想とは異なり、古代インド思想 ではないかと、思われます。「華厳経」宇宙は、「空」思想では 説明不能と考えております。すべて「無」では、「華厳経」宇宙は 成立しません。釈迦は「既成観念なしに、無の、生まれたままの、心」 から思索に入ったようですが、「大日如来」思想世界は、それ以前から と考えられ、竜樹は「空」思想(ここでも自由な思索禁止あり、いわゆる 仏教哲学)、つまり、無の哲学を完成ました。 仏教=釈迦の訓えデナクて=「ほとけ」の訓え と考えておりますが、 釈迦も竜樹も「偉大なホトケ」には、間違いありません。 これもだいぶ気に障ったようなので、同じくコピペしておきますね。↓ 1(ひと)は、1(ひと)であるとも、0、つまり、 1(ひと)の不在であるとも決定不能な絶対無を 背景とした世界の自己表現として存在し、 世界は常に人称構造の関係性として現れる。 私は知識の対象を告げよう、それを知れば人が不死に達するところの。 それは、最高ブラフマンである。 それは有とも非有とも言われない。 バガヴァッド・ギーター13章/上村勝彦訳 >>323 人間の理解能力には限界があると認めていながら 「完全無」についてだけは確信できる これ矛盾してない? 欠陥ある知性は何も確定できない ということですね?なるほど。言われてみればその通り 絶対無はあるかもしれない いや、あるのでしょう >>334 あらゆる物事を把握する事は不可能だと思うけど、 あらゆる物事は何一つ把握できないとは思っていない。 とはいいつつ、 なぜ「有る」のか永遠に理解できないということは、 「有」が理解できないという事でもあり、 反対の 「無」 に関することだけは理解し、あり得ないと確信できるというのは、確かに矛盾してる。 あなたの言うとおりだ。 >>325 俺の考える、稚拙な考察レベルの「完全な無」というのは、 概念すらあってはいけない、とにかくあらゆるものが無い状態だけど、 もし、概念すら無い状態が実現できれば「完全な無」は有るということになりそうだが、 同時に「無」という概念も無いわけだから、結局「無」ですら無いのかもしれない。 そういう意味で、俺は「無」や「完全な無」に対する考察が徹底的に足りていないということがよくわかった。 「無」は打ち消しで、「絶対無」はランダム性か。 寝る前によく考えてみるよ。 ヒンドゥー教の母体となったヴェーダ宗教は紀元前800年以降、 宇宙の最高原理ブラフマンや、個人の本体アートマンを説く 「ウパニシャッド」の教説に次第に取って代わられていきました。 ウパニシャッド哲学では、良い業を積み、輪廻することのない (生まれ変わらず、死ぬことのない)境地に達し、 ブラフマンとアートマンが合一する事が目的とされます。 仏教の始祖ゴータマ・ブッダもウパニシャッドから強く影響を受けたとされています。 いっておくが、ヒンドゥー教のおしえがいかにこのスレに合致してようとも あれは オカルトに近い。 ニュートリノから見たら人間は太陽系宇宙 ニュートリノをわたしたちの身体と同じ大きさにしようとしたら、10億倍の更に10億倍に拡大する必要があります。それでニュートリノが人間と同じくらいの大きさになります。 では、私たちの身体を10億倍の10億倍にするとどのくらいの大きさになるでしょうか。それは地球を遥かに超え、太陽系の外側まで到達してしまうのです。 つまり、ニュートリノから見たら私達の身体は、太陽系宇宙より大きいのです。 場の量子論になると 粒子と場のギャップを完全になくしてしまったのが、「場の量子論」の枠組みである。 波動関数も場、電子も場ということになる。粒子も実は粒子ではなく、場ととらえる。 粒子像の復活 電子はスクリーンの上に1点の痕跡をのこすという意味で確かに粒子だ。場だなどと、のんきなことをいっていられない。 ここでまた、いったん場であることになった電子や光を粒子あるとみなさなければならない。そのときに量子論の原理をつかうのである。 場に対する量子論 量子力学には「複数の状態が存在する」という原理があった。これを場に適用するのである。場そのものを量子的にとらえるのである。 場の量子論と呼ばれる由縁である。量子論の原理を2回つかったようなもので第二量子化とも呼ばれる。 思考だけでは満足できる地点にたどり着けそうもないですね どうしたらいいんだろ 死んでみるっていい方法かもしれないね 劇的に状況が変わるかもしれないし 普通に何にもなくなる、それはそれでいいのかもしれない まあいずれは死ねるのだから 生きてるうちに何かないかなあ 問題は、原子にも、素粒子にも寿命はあるということだ。 生命と認められるというか、「人」として認められる時点を書きます。 民法では、母体外に体の全てが排出された時点です。 例外的に、相続、遺贈、不法行為の損害賠償は、生きて産まれた時には、胎児の時にも、人として認められます。 刑法では、母体外に体の一部が出てきた時点です。 >>343 では聞きますが、「人でなし」は、「人」として認められているのですか、 認められていないのですか? なるほど 科学的哲学的アプローチばかりでなく 法律的観点ですか いろいろな面からの考察 よいかもしれへんわ 法律的には、わたくしはあります!! なくなるときは、法医学が判断するでしょう。 c点論者です。 「c点」は「空間に位置のみ占める純粋な点で粒子(有)ではない」。 「c点」は、有でなく、無でなく、「有無合一体」と言う第三の存在 です。西洋の有の哲学、東洋の無の哲学(竜樹の空の哲学)、とは 別の新しい立場の哲学(オリジナル)です。 「c点」は素粒子(科学)を乱暴に、論理も、方法論もなく、「無限」 に分割(単なる思索により)した結果の「点(粒子でなく、有無合一 体)」(本質論)です。 「c点」に至るには「矛盾=有無合一体、と、前記のオリジナルな無限 と言う視座(これなしでは、本質論は成立しない)」を必須条件とする。 これら「科学」「本質論」「矛盾」「無限」「有無合一体」については 「c点による時空論 改訂版」に、量子力学との「接点」にも触れて書き ましたので、熟読、検討、反論して下さい。 ↑、 347につづく なを、「c点」(本質論)と「素粒子」(科学)との「接点」につき 「c点による仏教的宇宙論 改訂版」と「いのちある限り、この世( 宇宙)はある」の二つのサイトに私の「思い、空想」を書いています。 熟読をお願いします。以上を、了解として以下を書きます。 宇宙は「c点」そのもので、c点で埋まっています。宇宙の「無や真空」 の部分から、新しい素粒子が発見されるかも知れません。 しかし、「c点」(本質論)は量子力学とはギャップが有り、科学とくに 科学技術には、「有と無、プラスとマイナス」の「現象世界」の「存在」 以外は、我らの「生きる」現実には、意味を持ちません。例を挙げれば 「プラスとマイナス」であれば、2進法として電算機にも貢献します。 「本質論」を第三の哲学と取るか、取らないかは、皆様一人一人の判断し、 決定する事です。 cという形を見てごらんなさい。点ではなくて円弧になっています。 無限の直線に対してあらゆる線分は大きさを持ち得ません。 有限/無限→0なのですから。 大きさが存在するかぎり、それは有限の円の一部として測られているからなのですよ? 何が気に障るかは、自己を映す鏡ですよ。 傍から見ると、何が気に障るかだけではなく、どのようなものであれば 気にも留めないのかが見えるので、 それが、第三者から見たあなたの「正体」ということになる。 自己の正体は、自らも第三者の視点をもたなければ把握できない。 気に障るというのは、物に触ることに喩えられる。 障る/触るというのは、打消し(negation)であり、異なる何かがそこに 存在するということを示している。と同時に、異なる何かがそこに存在 することには、「そこ」ではなく、「ここにいる」ことが反映されている。 その「ここにいる」のが自己です。 残念ながら、0というのは無なんだ 無限の直線は、0ではないんだよ 351はダウト 修行しろ 何が残念なのか分りませんが、日本語が読めないようですね。 そのことが残念でないません。 Rが抜けて「り」が「い」になってしまいました。無念です。 科学や医学は狭いんだよね、キャパシティが。 どこかの星で、地球で成立した科学の理論が通用しない、ということを想定してみよう。 すべての、公理が役に立たなくなる日を想定できない。 そこが理系の弱さ。 >>360 なるほどね価値観って考えてみたらゴク狭くて 地球でしか通用しないねって思いきや 人間同士でしか(略 他の生物は(略 同じ地球内ですらその中のすごい狭い範囲(略 考え方が逆なんだよねぇ〜 別の生物だから同じ公理が通用しないんじゃなくて、 公理系が違うから別の生物なんだよ 公理の表記の仕方は無数にあるとしても、 指さしているものは一つでしょう さらに、数学と違う公理系を打ち立てようとしても、意味をなすためには 同じような概念を使わざるを得ない つまり公理というのは、一つとはいえないまでも有限のものだ なんでも主張は、概念は、それぞれにそのものの意味があるんだというより、 一意的に対称を表現できるかで意味が決まるのでは、、、 誤爆 対象 まあ、一意的に対称を指さすことに意味がると言っているだけなんだが 一般意志がもはや全体意志ではなくなる それが衰退した国家の状況だ 神は立腹されたときには、悪しき王をお送りになる 土壌が豊かで肥沃な土地では、君主制によって統治されることが望ましい 各人は自分の利益にしか目を向けず、自分の傾向にしか従わず、自分の情念の声にしか耳を傾けないのである。 世界市民と言われる人々は、誰も愛さない権利を認めてもらおうとするだけの人 無知と有知のあいだになにが、あるか、ということだ。 知は、暗闇と光の間にあるのだ。 暗闇では何も見えず、すべてを照らす影ひとつない光の中でも何も見えない。 寺山修司いわく、キャッチャーとは悲しいポジションである、という。 真理を受け取る側というのは、常にかなしみにとらわれる。 あなたは自分が人間として生きている夢をみているのですよ あなたの価値観はこの夢の中でしか通用しない 睡眠中にみる普通の夢は覚めてもあなたは人間ですが この現実という夢が覚めたとき あなたは人間ですらありません 夢が覚めたとき何が残るでしょうか 今まで何も無かった すべて仮想現実 全部嘘だったのです この解放感 何も 本当は何も無かったのです ただの夢だったのです プリンキピア・マテマティカそのものが不完全 すなわち不完全なものがある! それが答えだ 睡眠中にみる夢もそれをみている時は現実 後から思い出したときにそれが夢だとわかる 現実というものは確固としたものではない 過去に起こったと思えることは夢にすぎない いままでずっと人生が続いてきているという感覚 それも夢ゆえの錯覚 睡眠中にみる夢でも 覚めてから思い返せば明らかにおかしいのに 夢をみているその時には変だと思わなかったということがある 錯覚の中にいれば不思議とつじつまがあってしまう この現実という夢は覚めるのだろうか 覚めたと思ったらそこはまた別の夢 この夢はいったい何なのだろうか 根っこのない夢がただ展開している これらすべての夢たちには何か意味があるというわけでもない 本質的には一切なにも存在していない ほほう、しかし、可能性のランドスケープは時間と空間という概念の中に どれだけ見出すことができようか。 ひとつであろうか。 複数であろうか。 ゼロであろうか。 受肉してない商品にも価値はあるってことか、なるほど なんでもかんでも、ヴェーゲーヴェーだというのかい??? 30代後半ですが入学してからの勉強についていけるかどうか不安です。 50代以上の人が入学するのが普通の鍼灸学校です。 やるっきゃないです。 経絡の流注と経穴、解剖生理学、病理学。 人体の神秘があなたを待っています! いつしか、あなたは、人格化された資本となり、搾取をはじめるでしょう。 そしたら、あなたは運動形態としての悪魔です。 世の中の経営者とは、ほとんどが悪魔の別名です。 可変資本と不変資本がある、とマルクスは言った。 あるというだけではなく、無常に変化するものもあるという仏教的高み。 もともとは、「処世」=「Being in the world」→「In-der-Welt-Sein」らしいね >written in English in 1906 and translated into German 12 years later. >In this book Okakura speaks of Taoism as 'the art of being in the world' >(translated in the German edition as Kunst des In-der-Welt-Seins). 処世術=Kunst des Miteinander-in-der-Welt-Seins 「世界があること」には、必然的に「世界にいること」が対応し、 どのように世界にいるのかを問えば、「互いに世界にいる」ことになる。 「互いに世界にいる」という存在の様態が、人称構造の関係性(1人称、 2人称、3人称)としての「ひと」の存在であり、「世界にいること」から 「世界があること」を捉え返せば、世界は必然的に人称構造の関係性に 対応するものとして現れるのである。 俗世間を離れた単独者が悟りを開くような世界観は、結局のところ宗教思想にしかならない。 井筒俊彦のような博識の研究者が、そのことを自覚しながらも、やはり単独者の宗教思想 のような言説を展開するにとどまったのは、俗世間のしがらみにとらわれることを 恐れたからだろうか。いずれにしても、結果として自由に研究することを許された 反面、宗教思想研究の枠組みを超えることができなかったように見える。 俗を思索の対象としない思考は、まさにそのことによって俗に囚われてしまっている。 そうでもない がまん強く無視し続けたらきれいになっていくよ 俗に負けた言い訳 もっと真剣になってごらん きれいごとばかり言っていても、ちっともきれいにはなりませんよ 被災と業務との間に、因果関係は、あるだろうか? ないのではないか? 業務起因性は否定されるのが人生。つまり、義務で生きてるわけではない 真意や本心から哲学を成立させることが困難な命題に関しては心裡留保せざるをえない。 整理解雇がリストラの部分集合であるように、このスレにおいても無駄なレスは整頓されるべきだ。 サラリーマン的、公務員的思考からは、哲学における真理は導き出されない。 現実を法に合わせるのでなく、法を現実に合わせるべきだというシステムの根拠には 「ある」ということに対する過剰なる主観依存がある。 錯誤や過誤を完全になくすことはできない。 つまり、世界の真理には、署名および記名押印が必要だということだな 各号の一に該当するような、真理の分散化は正しくもあり不正でもある。 >>404 公益通報者保護法と同じくらい正当性が高い ある、ということは、役職の名称ではなく実態で判断されるべき、法の範囲を示す。 >>408 そう。包括的合意という名の、人権蹂躙も必要なの。真理においては。 すべては茶番だったのです いやな夢みてて醒めたらホッとするでしょあれと同じこと よかったあ 635 名前:NO MUSIC NO NAME :2014/11/30(日) 23:13:30.90 ID:YqteUpd60まあ、どうでもいいが、おれトラウマなんすよねー、トラウマがきになってー、とかいうひとって、 恨みっぽく、根にもつ、なんでもおおげさにとらえる、完璧主義者の口癖だよん 治すべき短所だね 人間が生物のなかでいちばん賢いというのが世間一般の考え方だけど それは人間からみた一方的見解 いざ他の動物とか虫とか魚になってみたら 人間愚かだなーとか感じるかもね 身体上では単純な生活を繰り返しているだけのようにみえるが じつは外見や行動とは全く違う内面を持っていて 見かけと精神が全然ちがっているみたいな ま、あほうな理系は、カチカチボールで遊んでればいいよ、所詮プロセスしかわからない学問 潜在意識になにを語りかけても無駄だ。ということは、やはり決定論は覆される。 >>418 つまり、答え得る主体の数だけの有限ですね? さあ、それはどうかな。 勝率がゼロパーセントのGAME 言葉だけ並べたらインドになったった (笑) 0% でしょう E = mc2 みたいなもんで おおきな○と右上がりにななめで分割した小さい○2つ 心象物理応用した印象工学 「あるということ」だけがある むづかしく考えると 哲学になるし E = ご のことでしょ で済ませられれば あるばいと終了 今度は EVEの組合つくって 見えない敵と戦ってねって ムダアシ と ブイ エデンの園 が 味噌おでん になってしまいました でも 「あるということ」だけはある あっぷる よこはまにくるんだってさ なにするんだろーね あぷっる かじっったところ ぺっ ってしにくるのかも なんかこー サルカニ合戦しなきゃダメみたいな空気 距離でもなんでも、光が真空中に伝わるなんたらかんたらといっているな。 なんだかなあ。 そもそも宇宙は膨張してますとか、よく言えたもんだ。 あらゆる惑星の位置から観測したのだろうか。 惑星でなくとも、あらゆる場所から観測したわけではなかろう。 昔からネットで言ってきたが、科学教というのは、カルト宗教に近い。 その信者のあたまの硬さは愚直なまでに脆弱。 インプロヴィゼーションの能力に欠けるんだよねえ、バリバリの理系の場合。 法は、諸科学におけるキルリー鳥である、とどっかの誰かが昔 のたまったでしょう。 革命的時間は常に悪の後退学だという意味にわたくしはとっている。 まんねんじめいしょうwwwwwwwwwwwwwwwww 自分の意志で行動してると思っている 実際は自分の意志とか無い 脳の命令、遺伝子のプログラム 全自動。 例えば内臓、血液循環とか自分の意志と無関係 これは理解しやすいだろう 手を動かす、しゃべる、とかも本当のところ 脳の命令、遺伝子のプログラム全自動。 思ったとおりに動かしているという錯覚なのですよ自然の一部 いったい 何が「ある」のでしょうね 誰が「いる」のでしょうか >>430 主流だが決定的な証拠はない仮説。 この仮説の展開してきた歴史を調べた人で疑問を投げかける人はけっこう多い。 宇宙背景放射も近年違う理解が天文学者によって提案されている。 これを報道した人は、ファイ警報車を十九世紀に火星を観測して運河を発見した天文学者になぞらえられていた。 空を観測して天動説を唱えるようなことは無くならないわけではない。 この説はあくまでも主流というだけ。 あなたの科学理解も決めつけに近いんじゃないかな。 日本では文系を典型に外国に留学した人が最新学説を輸入して学会のボスになると、それ以外は受け付けなかったりする。 その人が無くなって、次の人が持ち帰った学説が前のボスのそれを一掃して、なんてことはよくあるとある学者が指摘していた。 理系もその例にもれないようで、日本ではドッカーン学説いっしょくに近いが、欧米ではそうでもないようだ。 日本はそういう意味では文化の僻地的性格を未だ脱していない。 科学はもちろん、文系はもっとそうだと述べている方がいる。 <<442 訂正 >これを報道した人は、ファイ警報車を十九世紀に火星を観測して運河を発見した天文学者になぞらえられていた。 これを報道した人は、背景放射を十九世紀に火星を観測して運河を発見した天文学者になぞらえられていた。 まあ理系の批判するよりもっと自分の足元を考えたほうが良いだろう。 学問の現在は科学がそれほどでもない段階だが、文系は就中哲学はその科学にすらとてもとてもという段階なのだから 最底人が地底人を批判するようなものだろう。 科学教徒のなかでもいちばん鞍部の低いところを批判して乗り越えたつもりになってもしょうがない。 イスラム国みたいに自己の信仰の在り方を検討しなくなったらオシマイということか。 科学にしても、それを批判する立場にしても。 問題は、脳内の細胞も重力の影響下にあるのだとしたら、それは物理現象であって細胞が持つ知性ではないんだよなあ。 なあ、まーじくん まあ、あんまり断定はしたくないんですがね。癖でしょうね。 ははは あらゆるときに、わたしブラフマンを念ぜよ、神聖なる最高のプルシャのために あらゆる方角に顏を向けた私 配置者であり、浄化具であり、聖音オームである。 わたしは不死であり死である。 有であり、非有である。 ヴェーダンタの成立がキリストの誕生より前のことでも、世界があるようになったのは それらよりずっとずっと後なわけです しかし。、この楽しい世の中が、世界の時間の中で、または宇宙の広さの中で、 魔法じみて複雑に立ち上がった構造をしていることは、なにか意味がある、のでしょうか 後というか、前ですね、 まあ、クリスマスリースみたいに、世界が円環していれば、まああながち間違いじゃなくなりますね そういう意味では、輪廻という言葉もあながち間違いじゃないかもしれませんね、 輪廻や前世、来世、禅の円相図などは、なかなかいい線いってると思いますがね。 ヒンドゥーの梵我一如も。 世界ってゆうのはキミの頭の中にだけあるんだヨ ってっゆうか頭自体も世界の一部 意識だけがあるってゆう感じかナ キミ以外誰もいないってゆう わかるかナ わかるかな、っていうか、そこまでがいまの哲学や科学の限界でしょう。 まあ、独我論は否定できないとしても、 否定できないからと言って正しいとは言えませんからね 別に世界がマトリックスの世界でもかまいませんが その分複雑な世界を考える必要がありますから もしくは、このよくわからない法則性にみちた世界で 突如、孤独に存在しているとしても、その必然性等々、 うまく説明がつきませんから そう 現実と幻想をひっくり返し あまりにも深く浸ってしまったため 幻想を通した解釈しか出来なくなってしまった でも心配しないで 抜け出すのは一瞬 とてもたやすい なにせ帰る先こそが現実なのですから いま目の前にある世界が現実に広がってるってことはないでしょうし、というか別物ですけれど、 そういったすべてがゆくゆくは法則を生み出すものとして、それ自体の意志で未来を生み出していて、 ゆくゆくは、未来を生む我々の意志えもあり、ひとつなのだといったのが梵我一如です 知れば輪廻を超えるといったのは嘘っぱちですね そういえば、納得していない人にもえらい顔ができますし まあ事実、知れば猫を踏んでしまったカルマを受けて、来世はネズミに転生する心配をしなくてすむようになりますから まあそういうわけで、君以外にも、ネズミはちゃんと意識を持って存在していて、君は同時にネズミたちでもあるって寸法です 世界の住人になりきってしまい 真実をおとぎ話とみなしてしまった あーあww 真実そのものがお見えになるのですか 生体リンクでもしたところですね おそらくあらゆる観測器具と生体リンクしても、 本質の世界は体感できませんよ そしてそういう観測器具をつくることは不可能です 残念なことですが 自己言及のパラドックスってかんじなんですかね 世界そのものであるからこそ、世界そのものについては見ることができない むしろそういう性質を前提として、世界が立ち上がっているのかもしれませんね、 世界はよくわかりませんね そういう観測器具をつくることができないというのは、 つまり、原理的に、世界を外から傍観するような機械は作れないだろうという意味で 赤外線カメラを神経とつなげて、暗闇でも見ることのできる目を手にすることは 近い将来可能なのではないでしょうか、すごいですね 誰しも真実をはっきりとみているのに みえていないと思いこんでいるだけなのです なーんてね ちなみに「誰しも」とは言ったものの 誰もいないんですけれどね 自我とよんでいるものの内側にも外側にもだれもいないですからね しかもその領域は可変で、消滅もする そういう意味では、なにもいないというほうが適切かもしれませんね 意志というと一点だけを仮定してしまいがちですし ありきたりな人生のやつになにがわかるかということ。伊集院光はこどもをつくらない主義だし、睡眠時間4時間弱らしいが、まだ生きてるし 理系の丹羽とかいう理研のばかは、スタップ現象失敗だし、どこ大学のあほなんだ、あの丹羽は、という感じだし、 早稲田ならともかく、熊本大学みたいな、偏差値も倍率も低いような。二流大学の丹羽君wwww 理研ってあんまり頭良くないよねえ。 >>471 アホ丸出し レスから知性のなさが滲み出てる つられてでてきたのか、地方国立出身のおばかさん? 国立いくほど親が貧乏だったのかwwwwwwwwwwwwwwwwwww 理研なみの あほだな? 恥ずかしいから、おとなしく実験でもしてろよ、なんの役にも立たない実験を 真理と呼んで。 >>472 情報というものは脳の中で移動するものだ。 では情報とは、なにかとなにかの差異なのだが、 いったいその差異をうみだしたものはなんなのか。 神とか仏ではない。 外国から着て日本語を初めて見る人に 習字を描いてもらうと 「 あるということ」だけがある が判りますよ あるていどデッサンできないと クロッキーになるから 性格なのか ひらがな 覚えさせられてたとき デザインがなっとくいかなくて 自分で勝手に作ってましたから でも 共有して通用するのは 小学校の1年生ぐらいまでですか 先生に書き方 ちがう ってゆわれたし そんな 字 ない って なんにも存在しないし 誰もいないよ 全部みせかけ 想像 あるように思えるだけ どんなことでも全部ね 世界も時間も空間も全部みせかけ 何も無い あなたもいない 発明そのもの 写真/photographyへの移行が 文明のターニングポイントだったんでしょね >>479 存在しないという理解も存在しない。 全てが存在しないというのならそうだよね。w 俺の投稿も存在しないし、あなたの投稿も存在しない。 議論にはならないよね。 真偽もまた存在しない。 全てはみせかけという理解もみせかけ。←これも見せかけだからね。 でも見せかけという理解が見せかけなら・・・、さてどうなる? これでグリッド空間に同期振動させてbalance操作してあげれば 格差ばかりが広がる資本主義経済からとりあえず脱却できるはず 物理空間はあってもなくても起こるべくことは変化だけだし ゲーデルは帰納法に執着しすぎたな。 帰納法も演繹法も超えたところに真理はあるのだよ。 ゲーデルは神すらも、ゲーデル数化しようとしたのではないか? よく知らんがwwwwwwwwww @ ハイデガーの『存在と時間』が理解できない波平 ↓ A とりあえず『存在』と『時間』に分けてみる波平 ↓ B 「あることだけがある」=存在、「時間とは変化である」=時間等を乱立する 波平レベルはどうでもいい。 さて、神の非存在論といえばグリムさんだが、 「ある」の非存在論といえばだれなのか。 それは、人間ではない。 いや、難しいね。まさに多次元のクォンタム・クラウドだ >>481 そう 理解も理解する者も 全く何も存在しない すごくクリアできれいで完全 あるようにみえるだけ 実際には無い 根っこのない夢がただ展開している と誰かがいっていた 国民生活選好度調査か? 真か? 偽か? 内閣府は馬鹿だろう 24歳の女の子が子供欲しいって言ってきたら 観光地のホテルに2週間缶詰にして子種を付ける 宗教が科学を超えることもある。 科学は宗教から生まれた。 潜在意識よわたしに教えなさい 潜在意識よわたしに教えなさい 潜在意識よわたしに教えなさい ちょっと一般のひとには理解しにくいと思う ピンとくるひとは人類の何%ぐらいだろね ま、私はピンとくるほうの人間なのだけれどもね なんだか優越感かんじちゃう 愚民達はわからないからって つまらん書き込みしないよーにw 結局このスレでおもしろい書き込みは私の書き込みだけだった 名前欄を「1」にしていないものもあるが明らかに異彩を放っている 他の者の書き込みは引用、受け売りか 無意味にageて私のおもしろい書き込みを待つ感じだった 少なくともこのスレでは誰もが私レベルより下だったのだ このスレがおもしろいのは私のレス投下があってこそ。それを今から証明しよう 私は今後このスレに書き込みをしない >>1-500 と>>501-100 0を比べると明らかにおもしろさ、盛り上がりに差がでるだろう それが証明となる 今後は私以外の雑魚たちだけでせいぜい頑張ってこの証明を覆してみたまえ また気が向いたら新たなスレにて降臨してあげよう ではさらばだフハハハハハハハハハハ スタンブラー専業しゅふどもは、 信号が青に変わるのを見に、どこまでいくつもりなんだ? ヴィレッジ・オブ・サンよ フランクザッパ御大のマジックフィンガーにかかれば真理なんて、ダンスに服はいらない、だ。 No man is an islandとジョン・ダンは書いた。 しかし、自利行と利他行のコンビネーションプレイは、偽りだ。 真理をとらえることはできない。 ヘーゲルはそのへんの断定口調の科学者と同じで 現実と理想の区別がつかなかった。 カントに勝ったつもりだったんだ。 ロベスピエールの糞が、ルソーを誤解したのだ、ナポレオンとかいう糞もだ 神の意思こそが、自然法であり、自然に帰れ、というスタンスがルソーだ。 世俗主義(せぞくしゅぎ、英: Secularism)とは 政策や政府機関が特定の宗教の影響から独立していなければならないという主張。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則。 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。 主吾わが生命いのちの主宰しゅさいよ、怠惰おこたりと、愁悶もだえと、矜誇ほこりと、空談むだごとの情こころを吾われに與あたふる勿なかれ。 大拝一次 貞操みさおと、謙遜へりくだりと、忍耐こらえと、愛の情こころを我われ爾なんじ の僕ぼく(婢ひ)に與あたえ給え。 大拝一次 イザナミの呪いによって、あるものがないものに変わるわけではない。 1日に1500の産屋を成らしめるという、イザナミの恩赦ははたして真理性を有するか、 それが問題だ。 霊力というものの信憑性は、ある、のか、ない、のか。 宇宙は、きぎしのひた使いであろうか。 どこへ行くのか? ある、というものが、向かうためのベクトルなどあるわけがない。 日本は陰陽道の影響を受けすぎたのだろう。 対外政策において常に中国を意識しすぎた、 ほんとうの大和心というものは、日本にしかなく、やはりもう一度 鎖国するのも一興かと思うが、それはこのスレとはあまり関係がない。 さて、陰と陽はどちらが先にできたのであろうか、 当の中国人もその根拠を示したことはない。 キリストの愛は、無償の愛だというなら、無償でない愛は、ほんとうにないのであろうか。 カルカッタがイギリス人に都合のよい発音だったように、すべて疑え。 ミッション系大学はなぜ学費が高いのか。それは、聖書の本質にかないますか? 食事ですら、主に対する気持ちの表れであると、マザー・テレサは言う。 主はどこにあるのでしょうね。 幸福には、自分がなにかわからないのです、 と月影先生はマヤに言うわけです。 高橋源一郎のしょうせつの中で。 「マヤ、今度の役は『プロ野球労組』です」 「マヤ、今度は『経済学』です」 と、いうふうに。 ある、という概念は量化できるでしょうか、n→∞? まさかそんな馬鹿な、と思うわけです。 高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』風にいうと、 いつか同時代カンガルーになる日まで、 ではなくて、 いつか≪同時代/ある≫になる日まで、 というのを期待できるものなのでしょうか。 そういった希望には、ある、ではなくて、なる、しかないのです。 zappaは言いましたよ。歌詞の中で200軒ものモーテルでおれはタオルを盗んでいるんだ。 それは、「ある」ものを常に盗まざるを得ないという、人間の犯罪衛生論のような気がしますよ。 どうでもいいが、ゆとり世代とかいう人種は、実家暮らしのくせに、家にお金を入れてないやつが多いらしい。 楽して就職したバブル世代も問題児たちだが、 ゆとり世代、大丈夫か? 甘え過ぎ >>518 つまり! ありの〜♪ままの〜♪姿みせ〜るのよ〜♪ という訳ですな それでルソーは、夜な夜なおっぴろげて、ありのままの姿を見せていた訳ですな >>532 たしかにそうですね。しかしそれは、ありのままでは生きられない社会だったからです。 あたりまえですが。 ルソーの公理系の中では、正しく真、だったのです。 ザカ―トしなさい。 貧乏なひとには、金持ちがお金をめぐんであげなさい ありのままとは何ですか?そんなものが存在するとは思えません。 インドヤギュウのようにありのまま、というわけにはいかんのだ c点論者 「いのち」あるかぎり、「ある」も「ない」もある 「いのち」なき所には、「ある」も「ない」もない 天下無敵のニューエイジ思想においては、あるということだけがあるとは言わない 20世紀は理系を持ち上げすぎた。 アインシュタインなんてのは、天才といえるほどのレベルではない。 なぜ神格化するのか。 ともかく科学なんてののは、不完全な学問なのだから、崇拝する必要はない 20世紀は理系を持ち上げすぎた。 アインシュタインなんてのは、天才といえるほどのレベルではない。 なぜ神格化するのか。 ともかく科学なんてののは、不完全な学問なのだから、崇拝する必要はない 20世紀は理系を持ち上げすぎた。 アインシュタインなんてのは、天才といえるほどのレベルではない。 なぜ神格化するのか。 ともかく科学なんてののは、不完全な学問なのだから、崇拝する必要はない 理系なんてビビるほどの人間性じゃないよ。 知識だけで、デートスキルも恋愛スキルもないやつばかり。 レジャー情報の知識もないし。 頭はいいけど、偏ってるだけ。 漫画・音楽・映画なんかの知識も少ないんじゃないかな。 とくに詩に関しては、読解できないんじゃないかな、理系は。 アマチュアオーケストラは医者が多いし 経済は言うに及ばず、経営学も理系出身が多い 学問において理系であることは必要条件 そういう定性的考え方自体が血液型診断のようなくだらなさを覚える そういや、547って俺だったんだな。 自演してたな。 まだまだ終わらせないほうがいいスレッドだよな。 なあ1よ。 それを言うなら、552と553は僕ですよ あと>>62 も 懐かしいですねw 人が外界を体験するときはすべて脳というフィルターを通してのこと 実際の世界と脳経由の世界は全く同じものだろうか そもそも実際の世界というものが存在するだろうか 世界のようにみえるものはすべては脳のなかだけの出来事なのかもしれない 私たちは実際の世界を直接体験することはできない 脳を通されたいくぶん異なった世界しか そして実際の世界と脳の世界がどの程度異なっているかは知りようがない この世界には私ひとりしかいない 多くの人々、生き物、出来事、現象 すべては私の脳のなかの夢なのだ 実際の世界というものをもしみることができたなら それはもしかしたら脳が一個だけぽつんと浮かんでいるだけなのかもね >>556 「存在の必然性の問い」が噛んでいるなら、それを根拠に他者の存在を否定することはできない しかし、私が水槽の中の脳だということも、経験から否定できないのも事実だが その世界のほうが、今ある理に適った世界より複雑になってしまう あ、あと勘違いしてもらうと困るのは、僕は自演は容認しないし、基本コテも外さないので >>549 偏見じゃね? ミュシージシャンに理系多いよ 認識論とは、知識の理論である、とスマリヤンは言った。 あるように見えてない ないように見えてある いるように見えていない いないように見えている わたくしのレスに意見あるひとは、わたくしのブログでどぞ! 論破は絶対にされない自信あり。 http://merginalman.blog.fc2.com/ >>568 まーじくんこと安西大樹くん! あるということがあるんでしょうか!!!!?? このことを理解できるひとはほとんどいないだろうね さっぱりわからないという人と あとはわかってるつもりの奴 実際このことは頭で理解するようなことではないし 論考のウィトゲンシュタインでいくならば存在論は語り得ない命題になるな 何かが存在していると語るときそれが存在しているならば真になるが存在しないならばその命題はナンセンスとなる そして何かが存在していないと語るときそれがないならばもはや語り得ない 真偽両極を持たないゆえに語り得ない ただし存在論は語りえずとも示されてはいる 例えば、小保方教授は「スタップ細胞はあります」と公の場で語っている 時点で、スタップ細胞が実際に存在しないことが示されているということかな。 もしスタップ細胞がある、のであるならば、「あることがある」という トートロジーを必要としないから。 つまりスタップ細胞があるのに、「スタップ細胞がある」と言ってしまうと、 とても疑わしく感じてしまうようになるってことで、言い方を変えると、 IPS細胞がある、のであるなら、「IPS細胞がある」という言明は必要とされない ということをそれは意味する。 「私は嘘つきである」という命題は、なぜ自己矛盾を引き起こすのかというと、 「嘘つきである」ということが「隠されてある」こととして定義されてないからであって、 まぁウィトゲンの言いたいことというのは、「隠されてない嘘なんて非常識だ」、ってことかな。 >>576 ウィトゲンシュタインなら、論理がなにも隠さない恒真な光だと思っているから 「明らかな矛盾は非常識だ。」とだけ言うだろう 意味することは同値であるのに、だ まあ、「隠された存在」の問いはいつも必然であり、 存在しなかった事象は、どこかで実現する事象だろう 存在は一つの致命的な矛盾で 事象はその成分としての確かな個々で 因果可能性は、その矛盾が薄まっているものだ このことはもう自分の中では蒙くなってきているのだが それだけを長く見つめていたから >>577 ウィトゲンシュタインならばどう考えても非常識なんて表現はしない 矛盾は何も語らない >>576 が言わんとすることは間違ってはいないが正すならばSTAP細胞があろうとなかろうと存在論は語り得ない 論考においてはその命題が真か偽なのかは重要ではなく真か偽どちらかを持つことが重要。「ある」と語ることは真偽両極を持ち得ない、それ故に語り得ない >>579 トートロジーの文が論理的に妥当となり、矛盾には意味がないといえるのでしょうか キャロルの不思議の国のアリスを読んでみれば、論理的であることが非常識におもえますよ >>580 トートロジーと矛盾はナンセンスではないが無意味である トートロジー「語りすぎて無意味になる」それに対し矛盾は「そもそも語ろうとしていない」 これは『論考を読む』の中の説明だけどこれより上手く説明出来る力はない 多分580と俺はスタート地点が違うんだと思う 俺の中では意味ある命題とは真偽定まりそれ独自の真理領域を持つことが必要であると考えて揺るがない 故に矛盾もトートロジーもナンセンスではないが語り得ない 論理学の講義をとったことがあるのですが、教授が言っていたのを聞いてなかった部分があって もやもやしてます 特に、恒真の文ならば、妥当であるというところです なぜ恒真ならば妥当といえるのか ギリシャの排中律がどうこう言ってましたが、これも聞きのがしていました また、論考も手元にあるんですけど、まだ手つかずなので でも、今見てみると、論考のトートロジーというのは、含意の前後でトートロジーになるから 妥当というのとは意味が違っているのかな? 僕のいうトートロジーは論考4.46参照の、要素命題の真偽に関わらず、命題全体が真になる 場合というのであっていました >>581 論理の仕組みは自明であることを無批判に受け入れて作らざるを得ないことが頭にあります そして真偽不明の命題が存在しますが、これは語り得ぬことなのでしょうか "できないものはできない" 無意味なことを書きこんでいる件数:約 315,000 件 (0.36 秒) >>584 真偽不明ってどういうのか言ってもらえると分かりやすいけど神とか善、悪なら間違いなく前期のウィトゲンシュタインなら語り得ぬものとするよ >>585 ウィトゲンシュタインがしたことはあくまでも「哲学的な諸命題の解明」だからあまり気にしない方が良いと思う >>586 指示対象がない 無意味である前にナンセンス >>587 聞き方がいじわるでした 不完全性定理のいうところの命題についてです この場合、論理では、語り得ないというふうになると思います >>589 俺の読解力が足らないせいで言いたい事が良くわかってないが ウィトゲンシュタインの「画家のたとえ」がそれに近いと思う 画家は絵を描くことは出来るが絵を描いている姿を描くことは出来ない もし仮にかけたとしてもその絵をどのように描いてるか描かなくてはいけないそしてその絵にも…… >>590 このスレタイも一見するとそのたとえに当てはまりそうですね でも 「紙は己ににせて自分の像を作った 作った像は自分自身だった」 こんな感じになれば循環は閉じますね 宇宙は自分に似せて未来を作りますが それは自分自身になります でも、ほんのすこしだけ変えるんですね なんてぼんやり思いました 「では、全部揃ってるんですか?」 「いや、ないものもありますよ」 普通に言うよ。 >>591 もしかしたら矛盾の解釈がちがうのかも知れない トートロジーは常に真の命題で俺が話す矛盾っていうのは常に偽の命題 スレタイは当てはまらない、理由としては「ある」ということがまず語り得ないから ここでその神の例文が出てくる意味がよくわからないけど 一番最後に…自分自身(の像)だったが抜けてる わざと抜いたんだろうけど前提と矛盾した結論を語ろうとする以上語り得なくなるのは当然 あと加えるならばその命題が「哲学的な諸命題」にあるとは思えない ウィトゲンシュタインがしようとしたことは生前の哲学的な命題を語り得ぬものとしようとしたことだから 現代哲学の最大の弱点は、記述を軽視しすぎていること。 現象を正確に記述しようとすることなく、概念だけ磨こうとしても無理。 >>594 別にウィトゲンシュタインが語り得ぬこととしようが、 あるということについて考察するのは僕の勝手です 第一、論理で突き詰めていけば、根本にところで矛盾や証明不可能に行き着くんですから 改めなくてはならないのは論理の方かもしれません とかく、あるということについてはそれ以上問えませんが ありうる事象の総体がこの世界なら、あるということは必然です おいおい数学や厳密な哲学で考えなくてはなりませんが だからさぁ、この世の中にはないものもあると言ってるだろう。 >>596 だからやっぱりスタート地点が違うんだよ 世界は事実の総体であるという認識は596も持ってるみたいだけどその先が異なっている 俺は命題を追及して矛盾や論理的に問題があるなら「語るべきではない」とするけれども 596は「それでも語ろうとする」というだけの話 あるということは必然的であると思われると言うけれどもまさにその通り論考の6.44に神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。とあるね ただし論考でいえばそれは語り得ない。 どちらかといえば596は哲学探求に似てる >>597 けとま二人は同一人物なんだろうけど君の方はさっきから何を言おうとしてるのか全くわからない ここでは「普通にいう」とか「日常で使われている」とかは全く関係のない話 もしユートピアがないならばユートピアという語が意味を失いその文は偽ではなくナンセンスになる またあると語ることも出来ない 故に存在論は語り得ない 関係あるか、ないかは、あなたが勝手に決められることではない。 ないものについてもいくらでも語っているのだから、あなたの主張は偽。 神の存在を証明できた人間はいないが、人はずっと神について語ってきた。 「神について語るのは、対象が存在しないのだからナンセンスだ」といくら 叫んでみたところで、聖書で神について書かれていることをナンセンスとは 思わない人間はいくらでもいる >>600 ,603 スタート地点が違うんだってば多分分かりあえない俺にとって思考可能な物のみが語り得るもの そして語り得ないものを語ろうとするから齟齬が生まれる ウィトゲンシュタインもそうだけど俺だって神を信じてる ただそれは語り得ない 神も語り得ないし信じると言うことも語り得ない わたくしは、S・イマムラ氏やこのスレッドの1氏とは違う考えを持っている。 その哲学を込めた小説を書いているが、まだ完成しない。 だが、このスレは見ている。 意識は私ただひとりだけ 私以外の者は意識を持っているとみなせるが証明しようがない 確信できる意識は私のこのひとつだけ この唯一の意識が様々な要素を照らし出すことで 世界という幻想を想定しているのです ここで間違いやすいのは私の身体や心も世界の構成要素であって 私=身体、心ではありません 単なる意識が私です とはいえ言葉というものは事実を正確に表せない 世界=私と表現することもできてしまう 何にせよこのような繊細な問題を言葉で表現しようとすると 少なからずズレちゃいますね 照明が眩しい 眩しい夏の陽射し 眩いばかりの笑顔 さて、眩しいのは私ですか? 風呂が熱い 鉄板が熱い 熱い人 さて、熱いのは私ですか? >>605 わたくしこそは まーじや1より上のすごい考えを持っている でも言わない だけどわたくしが一番上であることは間違いない まあ、上とかなんとかより 最後の真理っぽいものまで辿り着いてる人は 誰が何を秘匿していようが興味ありませんよ でも暇なら語っていけばいいんじゃないすか>>611 語っても全員ぽかーんってなるから語るだけ無駄 残念だったね まともな人がまともに検討しないようなことも まともでない人ならまともに取り合ったりしますよ 哲学はまともを疑ってくもんですから しだいにまともじゃない考え方を始めますね きみたちは、あるという世界から逃れるのはいつなのか。 科学というものが言語に支配される限り、世界は継起性にも同時性にも束縛されない。 まあ、もっとも深いことを言ってるのはおれだけだが。 「生の躍動」 人間は生まれた時から下りのエスカレーターに乗っている。 そして、登っても登っても上の階へ着くことは永遠にない それでも人間はそれに抗って登り上げようとする。 しかし、最後は死という階へたどり着いてしまう。 生まれたくないのに勝手に生まれてしまうのが人間。 生まれる前に生まれたいなんて思っている人はいない。 ↑ こういう、古臭い時間論をありがたがるのが、中島義道とかその周辺の馬鹿ども。 学者なんて、そのへんのブロガーと変わらないってこと。 物理学や数学では真理に到達することはできないことを、理系自身が見つけてしまったってこと。 ここ大事ね。ここはおれの根本。 >>620 実際は最もシンプルなことをいっています 本当に 0=1 ある=ない なにがなんだか難しそうですが シンプルが極限までいくとこうなる 頭で理解するというより感覚 よいスレだったんだけどなんかつまらなくなったなやっぱり>>503 なのかな 1さまはネット上のどっかにいるんだろか誰なのかわからない いつも読み返しております >>619 いい大人は、東野圭吾みたいなミステリーは読まないの。 陳腐すぎる。 わかるわかる わかるわあ 自分は居なくて誰もいない何もない ただ単に「ある」というだけ 「ある」というのも正確ではない と こういったところ わからないひとには何だかさっぱりだろう 結局言葉だからすでにわかっているひとでないと理解しにくい こういうことが実は現実なんだなあ 恐ろしく単純なことなんだがわかりにくいんだ まあわけわからんと思うのが正常な反応かもね そういうのを非有非無という。 いいと思うぞ。一般的なレベルではね。 科学もそうだろう。 今まで積み重ねてきた(←これもまた錯覚に過ぎない)一切の価値観はすべて間違っていた 仮想現実。何も無かったのだ 完全に何もなく、同時にそれがある これも単なる言葉 また間違って受け取られるんだろうな ビシッと理解できる人がどれだけいるんだろ なんの答えなんだろう。 科学には限界があると、何度も言っているだろう。 西田幾多郎の論文は科学的根拠がなく、ただのエッセーに過ぎない、と科学者が言ったところで 同じこと。 同じ穴のムジナ。なぜだかわかるかな? わかったなら、それがひとつの答えだ。 >>631 よくわかりません、もうすこそわかりやすく、、、 無とは認識できない物。 例えば、空を見て何を思うだろうか。 雲?青? 無とはこの空を見ても認識できない物を指す 存在していても認識されないのならばそれは「無」である。 >>634 じゃあ、赤外線や紫外線、空気とかは無だな。 ダークマターやダークエネルギー、宇宙の大部分は無でできたるんだな。 >>633 科学は人間がこしらえたものにすぎない。 だから、科学では真理を確定することはできません、ということだ。 君らは電車や飛行機を使うと思うが、人間がこしらえたものにすぎない。 とか思いながら使ってるんだな? 危なっかしくて乗れなくなってきたじゃないか? ・・・どうしてくれるんだよ、助けてくれよ。 僕が僕であることを認識しなくなったら世界はなくなってしまうんだ。 こんなフワフワした場所にいたなんて、怖いよ!助けてくださいよ! 誰かここから出してくださいよぉ。 >>636 真理という概念も人間がこしらえたものだけどね (真理を確定って何?w) >>640 科学は発展しつづけるだけに過ぎない。 ゆえに科学者は真理といものを、なんの反証もなしに完全な定理として示すことはできないということ。 たしかに真理という概念は人間がこしらえたものだよ。 しかし、人間が人間に説明する際には、 言葉を用いなければならない。 ただそれだけのこと。 科学を重要視している他の人たちと同レベルに降りてくる必要はない 周りを気にせず自分の感覚だけを信じて進んでごらん そして言葉を使って他の人に説明し理解してもらう必要はない あなたが理解すればそれだけで充分 そうではないですか? >>642 自分だけ理解していればそれで十分かもしれませんね。 しかし個人が直覚で得た真理がだれかの救いになる可能性もあるんですよ。 だからわたくしは、将来キンドルで発売するであろう小説に、その真理を組み込んでいるのですよ。 まあ、そんなことはこの板で語る必要性はないですがね。 ふぉふぉふぉふぉ。 ・・・・・ ジャパネット・リンの尻餅か ふーん コッパー そのパはどこから持ってきたんだ? Panasonicだとおもうけど むかしのナチオナル パインの下で 車輪の下みたいな空耳系 パリンは割れる音だし リの入ったパンだとおもった? みたいな固定時間軸のSS(笑) 在日村でゆうめいな話があって、あそこらへんいると周知の事実だから あれがAA連投になっちゃうんでしょしょ まーじーさんって、詩の板のやつだろ。小説なんか書けんのかよ。おいタコ。あ?!! やっぱり名前消して古市あたりが煽ってるとおもってるワケ??? まーじくんツイッターで古市にダメだししてたよねwwwwスルーされたみたいで() まあ、「神との対話」というものをいまさら読んでみたが、 時間論だけは興味深いと思ったよ。 だけど、霊的世界がどうの、輪廻転生がどうの、言ってる時点で おれの哲学観とは合わない。 そもそも、神って対話できる存在なのか? という話。 惜しいなあ。 自分というものは存在しない 何かを自分とみなすことで自分というものを存在させているのだ たとえば石像を神とみなすことがあるが事実それは神ではなく石に過ぎない 同じように人間を自分とみなしたとしても人間は単なる人間に過ぎない 人間が意識をもっているわけではない 意識の中に人間や世界があるようにみえるのだ その意識さえ自分ではない 誰でもない ただひとつの意識 巴里の憂鬱 (文庫) 感想 ボードレール - 読書メーター bookmeter.com > 読書メーター > ボードレール - このサイト内で検索 あまり詩を読んだことのない自分には小説のような詩のようなエッセイのような感じが 新鮮でした。 できちゃった結婚の屑が哲学を理解できないように 馬鹿理系には哲学を理解することはできない。 あるだけは絶対と思っていたが そうでもないとわかってきた もう言葉も越えて 感覚も記憶もぼんやりで 自由 時間も空間も 自由だわ 意味なかったな ただの遊び 諸法実相=空 という発想が仏教の深淵。 だが、そこまで、という感じ。 他の宗教よりは深いところまで行ったが。 空は無でもないし、EMPTYでもない。 英語ってのは本当に大雑把で安易な言語体系だと思う。 うん確かに英語は粗い感じするね くらべたら日本語は多様 言語はいっぱい種類あるけど日本語より細やかな言語もあるのかな でも「 」の前では英語も日本語もただの言語。雑音でしかない 「 」だって 空 と表現してしまえばニュアンスが粗くなる この宇宙が普遍的な存在で無い以上、その中で普遍的な物を見出だす事はきっと不可能だろうな。 宇宙が普遍的ではないということは わたしたちが宇宙の中にいるという確信も 幻想に過ぎないのではないでしょうか おはよう キタジマ☆イエスと申します キリストやってます フロイトも論文で言っている 人間の歴史は対立の歴史だ、と。 なんでも概算するのが物理学ですから、科学ってやつも、正確な学問ではないんだな。そうですよね?まーじくん? まず、ウィトゲンシュタインレベルの着想からは逃れた方がいい。 21世紀にもなってひきずってる人が多すぎる。 たしかに脳科学的にはウィトゲンシュタインなんかはもう古いでしょうな。 菅井きんさん? ともかく、ウィトゲンシュタインも永井さんも斜め読み推奨。 中期以降のウィトゲンシュタインと永井さんは筆が走り過ぎ。 文脈がつかみにくいし、悪文。 永井さんのウィトゲンシュタイン入門はダブルできつい。 おれはゴミ箱には投げ捨てなかったが、そうしたやつもいるだろうな。 そしてウィトゲンシュタインは浅い。 アルという裏にナイを確定させなければ、アルは成立しえない。 ナイを証明することは不可能であるうえにナイは観測できないのである。 意味になりえないナイをお前らは掴み取ることはできない、なぜならナイからだ。 手がかりが100%ナイものを表に照らし出す方法をしらないから駄目な奴は駄目なの。 ウィトゲンシュタインのやろうとしてたことは なんとなくですが理解していたつもりだったんですがね ほとんどの哲学者や科学の人間がいうように、時空は存在する。 時間もあるし、空間もあるので時間は流れていくもの。 ものを認識するには、認識する主体があり、時間もその対象として認識する。 時間があると言うことは、認識する主体もあると言うこととなる。 時間を認識する主体とともにある時間が「流れる」ということは 時間を認識する主体もともに「流れる」という事となる。 認識する主体がその流れる時間とともにあるはずなのに、 一体いかにして時間が流れる事が可能なのか。 流れがあるから、主体がある687は矛盾。 逝く川の流れは絶えずして 5インチの包茎野郎には哲学はとけない ここは、哲学板最先鋭のまーじくんに登場してもらいたい(笑)こじんてきに >>690 いえいえ、そういう見方が既に倒錯してるのですよ。 無意味なら何も起きない、出来事そのものが「出来事」という意味を持たないわけです。 この世界に万に一つでも、信じるに足りることがあるだろうか 気づけば昔から窮屈な生き方ばかり選んできた 今日は風が強いから、ベランダに灰を落としてもいいだろう まあまあ、そんな殺気立たずに。 気軽にやるものですよ、哲学は。 コテハンのあなたたちに頭のよさについていけない、あてくし 「ある」と言う事がどういうことなのか分かれば 「ある」ということだけが「ある」のは考える以前に分かる事 だが人は、あると言う事を、時折あると知らずにあると考える または無いと知らずにあると考える あるを知れば、ただあるということだけがある >>697 名無しレベルとはそういうものです。 わたくしの真理は、神大かつ太宗かつ天地開闢以来類例のない哲学であります。 ですが、いまだに内緒です。 なぜなら小説が完成しないからじゃ。 まあ、そんなに褒めることもありませんよ。 >>702 固定ハンドルゆえの苦しみみたいなものも背負いつつの発言ですから、 軽くは受け流してほしくはないですが。 どの板にもコテハンなみの印象的かつ鋭いレスをする名無しが何割か生息しています。 それが2chのおもしろさですよ。 わたくしはいまだにこの匿名掲示板を好ましく思っていますぜ。 >>704 いえいえさすがだと思います。こちらの理解が及ばず申し訳ございせん。 脳は物質だから意識は必然に過ぎないスレよりもっと根源的なテーマなのでむずかしいよねえ。 この命題。 >>704 しき・しょう。こう・、み、そく・ほうを肯定するというこtかあ? 「夜桜お七」作詞の林あまりさん 30年愛貫き結婚 ― スポニチ Sponichi ... www. 2015年5月9日 - 09年に他界した作曲家の三木たかしさん(享年64)の七回忌が8日、都内で開かれ、 200人が列席した。会では、三木さんが作曲した坂本冬美(48)のヒット曲「夜桜お七」を 作詞した、歌人の林あまりさん(52)が結婚したことが明かされた。 ある、というのは自然という対象を、ある、で理解しているだけだ。 そして、この、ある、というのは無いんだけどね。 気取り屋dude の まーじちゃん、最強の真理を小説に書いてるならとっとと発表してくださいおおおお 買うよ まじ「 例えるなら洗脳のようなもの 誰かが誰かを洗脳してるということじゃなく なぜだかわからないが 自分が人間という生き物でこういう環境でこういう生活をしているということを 信じ込んでいる なぜか全く疑っていない この夢を暴いたらさてどうなるだろうね この「私は人間」「私は地球に住んでいる」などの前提なしの考え方ができる人と話したい 過去というものは事実のように思えても 単なる記憶に過ぎない 今ある世界が実は夢で はっ と目が覚めたら全然別の世界で 自分も全然違う生物だった ということはありえる 夢である可能性のない絶対的な現実はありえない そういうことからすべてが幻すべてが夢といえる 夢をみてさめた後思い返してもぼんやりしているが 夢をみているときは現実感がある 今ある(と思っている)世界も幻だが この現実感があるから現実とみなしている みなしている、のは誰なのか 「私は人間」という思いも単なる記憶であり夢の一部 人間が 夢を みているのではない では一体誰がこの現実の夢をみているのか ここにいるのは誰でもない 誰彼区別することは暗に複数の者がいることを示している 複数の者はいない それどころかひとりも存在しない それは人間ではないばかりか 何らかの主体ですらない 夢をみている者はいない ただ夢があるようにみえるだけ それをみている何らかの主体も錯覚であり はっきり確実なものではない 誰もいない何もない 幻や夢のようなものが存在しているようにみえるだけ そのような夢のようなものが「ある」ということだけがある RPGのゲームや映画や小説とかの世界って 実際の世界があるわけじゃない 何枚かの絵や音、文字などが出てきて それらの部分をてがかりにしてその話の舞台となる疑似世界を 頭の中で作り上げる 現実の世界もそうである可能性はないだろうか 世界というものが実際に存在するわけではなく 見たり聞いたりの体験で得た手がかりから 頭の中で世界があると想像する この世界はかなり現実味があるようだけど 頭の中で想像して作り上げている部分ってどうだろう 結構な割合じゃないだろうか 生まれたときからひとつの部屋に閉じこめられて 情報を、全く与えられず ずっと何もなく部屋からも出られず 暮らしていたら全然世界の見え方が違うだろう 単に外国のひととかいろんな価値観 当然あるし 同じ日本ですら ちょっと環境違えば 全然価値観違う 夢の中に2人の人物AとBが出てきたとしよう 夢は夢なのでA、Bも含めて夢全体が実体のない幻にすぎない しかしAの視点から見ればBは実在の人物であり 夢の世界も確固とした実在だろう あなたは実はAなのだ あなたが現実だと思っている世界やそこに住む人たちはみな幻だ そして何よりあなた自身、あなたという人間も幻だ すべては見せかけ、あるように見えるだけで 実質的には何も存在していない >>719 私が夢の登場人物だということは その夢を見ている者が神ってことになるのかな? そして神が目を覚ましたら 私や世界は消える? >>720 この世界が誰かの夢だということではない この現実は寝るときみる夢と性質が似ているということ 現実だと思っている世界は夢のようなもの、幻だということ この肉体は私じゃないの? 肉体はこうやって存在してるのだし操作できるのも自分だけ 全てがとは言えないけど、寅さんも言ってたじゃん 俺が芋食ってお前の尻から屁が出るかって >>772 別角度からみるとチープなからくりでも 錯覚の中にはいりこんでしまえばリアルにみえてしまうもの 肉体があるようにみえるのも錯覚 記憶を基にした推測にすぎない 100億年前も3秒前も過去は過去 世界も肉体もすべて過去の記憶からの推測 そしてもっと言えば記憶はずっと安定継続して残っているかと言えば 本当にそうだろうか ころころいろんな記憶が目まぐるしく入れ替わっていても 気づいていない可能性がある 例えば今のこの瞬間、今まで生きてきた人生の記憶があるとしても 次の瞬間まったく別人の記憶に入れ替わったとしたら 今度はその別人の人生を今まで生きてきたことに疑いもなく納得してしまうのではないだろうか >>723 なぜこの肉体が錯覚? キーボード打ってるその手は誰のもの? >>725 錯覚とは あるような感じがするということ たとえ錯覚としても はっきりここにある感じがする それなら今ここに体はあるということにしてそれはそれで良い しかし数秒前 数分前に 体があった という思い これは単なるイメージではないか 今キーボードを打っている感覚 それだけがポツンと存在し それ以外はすべてイメージ 幻ではないだろうか 今の瞬間だけのこの感覚 この感覚だけ この「ある」という感覚 「ある」だけがある さて、今キーボードを打っているこの瞬間だけが確実。これは確かだろうか キーボードというだけでもそこに付随して様々なイメージがわく これはパソコンの入力装置 材質はあれで文字の並びはこれ 一切の先入観を取り払い改めてキーボードだったものを見ることがもしもできたなら そこにキーボードは残っているだろうか 誰が打っている?人間 人間とは 手足があり 頭 顔があり 生きている 今まで此コレこういうことをやってきて 食べないと生きていけず等々 記憶 先入観 イメージ 物事に接するとき どれぐらいの割合で これらが混ざり込んでいるだろう そしてそれによってどのくらい真の現実との間に歪みが生じているだろう 真の現実? 感覚を通してしか世界に触れられないなら 真の現実はつねにフィルター越し。見えないなら無いも同然では? さらに今この瞬間とは何か 過去未来がありその丁度中間に今がある これすらも想像 概念ではないだろうか 今見えているからこれだけは確実と思っていること自体錯覚だとしたら? これは一体何だろうか 歌詞って文字として読むとしょぼいよね そのへん、詩や短歌には勝てない 中島みゆきの歌詞ですら、文章として読むと普通の描写 この世界は実際、深みも奥行きもないペラペラな表面だけ、みたいなもの。 「この世界」と言ったけど「世界」ですらないのだけれど。 誰もいなくて何もない 確実なものは何も無いね ということはあるもないも区別できない 世界っていうのは予想の集合体みたいなもので はっきり存在しているものではないよね 真っ暗闇 闇とは光が無い状態に名前をつけたもの 闇というものはない ただの名前 では光はあるのか いろんな光った状態とかなどの特徴の寄せ集めを ひとくくりにして光という名前をつけた ひとつの概念に名前をつけただけ 光というものが存在するわけではない そう考えてみれば あらゆることは概念 想像に過ぎず 実際にあるということはできないのではないだろうか こういうことから 何もなくすべては幻 誰もいない何もない といえないだろうか 「暗闇は有るのか?」これは疑問じゃない。 「卵と鶏どちらが先か?」のような思考実験の名詞だ。 そうです 疑問ではなく単なる言葉 ただの思考、名前 想像と言葉、名前と記憶の寄せ集めによって 世界があるように錯覚されている このような幻、空想に依らず 本当の意味で存在するものがあるだろうか 本当の意味で存在するとはどういうことだろうか とにかく奥歯が痛い。実在するとか現実だ妄想だ本当だ嘘だ幻想だとか言ってられるか。痛いんだよ。 それにセックスしたい。歯医者の女医が見たい。 俺だったら今すぐアイス食べてから爪楊枝で奥歯ぐりぐり弄るね >>735 この場合 セックスと歯医者の女医は妄想。 記憶を未来に投影、予想していて現実に存在しているわけではない 今は奥歯の痛みだけが存在している 痛みは永久にあるだろうか 痛みがなくなった時の視点からみてみれば あの時はあんなに現実然としていた痛み これこそ真実だと思っていた痛みが今ではうその様 単なる記憶ではないか このように、すべては幻 本当の意味で存在するものは何もない で、なにもかもしっているという、まーじさんの小説はいつ完成するのかね? 治さなきゃ歯はこのまま痛いんだ。 現実とか虚像とかそんなモン知るか。 以前、治療中に女医が肘にモリマンを押し当てたことがあった。 だから歯が痛いと勃起するんだ。 パブロフの犬だ。 モリマンが嘘だったなんて悲しい。歯が痛いのが嘘だったなんて嬉しい。 どっちもだ。 なんだか全部リセットみたいな考え方だね 悪い事だけ全リセットで良い事だけ残せたらいいのにね 自我も錯覚 あるようにみえるだけ 思い違い 本当は何も無いのですよ 空想 茶番 今まで何も起こっていないのですよ 今 現実だと思っているものすべて よくみたらただの記憶でしょう? そうか!未来になれば過去は記憶でしかないのか! さてと。近所に可愛い男の子が居たな。丸々してて可愛かった。 >>746 近所の可愛い男の子も記憶の中の空想に過ぎない 現実に存在する証拠がない 実際に会ったその時は現実かもしれないが その時が終わればまたただの記憶 ただエッチして、相性がよければ終わった後に幸せな気持ちになるけど、殆どの場合後味の悪い、 薄ら寒い、心の離れた状態で「ありがとう。さようなら」になることの方が多い。 情けでそんなこと言われるぐらいなら 気持ち悪いって振られたほうがマシだった うるせー!俺は歯が痛くてチンコがギンギンなんだよ! 思ったより世間はお前に関心がないぞ 大の大人なら早くそれに気づけ 別に誰かが私のことを話題にしてるかもって思ってスマホいじってるんじゃないんだよ ただ単にあなたのことを探してるだけだよ たまに、誰かを通して私に何か言うじゃん 病気かもしれないけどさ まあ、ぶっちゃけ君が何者なのかということは 僕も気になるが 僕を探しても見つからないだろうね それが僕の存在悪だし そういえばこのスレはコテがあったな・・ >>754 >>756 僕なんで というか、まって名乗っている人を他の掲示板で見つけてびっくりしたんだが その人とは別人です、あしからず ていうか僕に安価飛ばさないのは君たちだろ わざと婉曲な表現を使うから扱いにくいんだが >>751 >>752 >>755 >>757 は私が書いた なんか、別の人と勘違いしてた ごめんね いや、多分僕はその人だと思うけど まあいいならいいよ もちろん君と寝た覚えはないが 自我の不在は悪だと思うんだが、 そのことによって存在の本質に気づくということのあり得るのだろうか まあ、いずれにしよ、自我が不在でもあるということには変わりがない 世界は現前する >>764 匿名のマウス? それも僕のコテだな・・・ 自分でも思うが散らかりすぎだろ・・・ 僕が使ったコテは 梵我一如君とあとはま及びミッキーマウス関連のやつ トリップは Iow/mouse. なので >>765 いや、m.tは実際の名前のイニシャルだよ あ、でも英語だから名前と苗字を逆にしなきゃいけないのか t.mか >>766 残念だがそれは僕の名前のイニシャルではないな 僕は君こそなんなのかよくわからん >>767 そうかー 私はただその人の書き込みなのかなって勘違いしちゃっただけだよ 会話?に横入りしちゃってごめんね まあ、とりあえず、『ま』というコテハンは 二年前から使い始めて哲学板でしか名乗ってないので 勘違いされた方、そして『ま』さんには申し訳なかった 小さい水のつぶの集まりを雲と呼ぶが そこ雲があるのではない、あるのは水のつぶだ 同じように、いろいろな思いが浮かんでは消え それらには脈絡も関係もないがひとくくりにして心と呼ぶ はっきり心というものがあるわけではない 「これ」は夢のようなもの 夜に眠ってみる夢は景色も設定も全部が幻 目を覚ましたら全部消える そしてその夢は眠っていた人がみていたということになるが 「これ」の場合、夢をみている人はいない 誰がみているでもない夢がただ夢自身で展開しているという感じ その点が違うだけであとは非常によく似ている 絶対に安定してるものはないよね そのことを極端に表現すると すべては幻とも言える 本当に不思議だよね いろんなものがあるようにみえるけど 実はまったく何もないという たとえるならやっぱり夢がぴったりだね 不思議だと思うことが不思議 生まれてからこのかた常にあったものを何処の誰とも知れないキチガイの言葉によって疑うなんて 軸がぶれて思考速度が落ちただけでは? >>777 宗教を完全に信じきっている人にとって それは宗教ではなく現実だ 現代科学常識教の信者の何と多いことか あなたが絶対的に確信している現実は 果たして本当に現実なのだろうか 全部想像だと言うの? 現実と想像の区別がつかない、、、、 ここには物質も世界も存在しない ただ心がひとつだけあって そこに物質や世界が映し出されているだけ 世界を体験するものが消えれば 同時に世界も消え去る まず世界があって その中に体が生まれたのではなく まず心があって そこに体や世界が映し出されている これはひとつの考え方だが これが事実である可能性はある 不思議だと思わないことが不思議だ 馬鹿過ぎてキツイ 処女をぶち破られたクラリスの穴も あるという事だけがあるという訳か 今、事実だと思えていることはすべて 単なる想像でしかない 一体誰の想像なのか 人間? いや、ここに人間がいるということも 事実ではなく想像だ 事実はどこにもない 誰のものでもない、実体のない想像が 浮かんでは消えていく まったく何も存在がなく かつそこに何かがあるようにみえる 絶対的な現実を言葉で表現しようとすればこんな感じになる うっわ何かすごいな生活がいっぺんにひっくり返るような。。。。。 ハマったら日常に戻れなくなるような危なさを感じるよ 何でこんな発想できるのか意味わからない どう考えても私は人間。地球に住んでるだろ あるということがある ないということがない のだから当たり前だろ あるはないを見れる があるはないというものの観念を見ているのかもしれないね ないはあるを見れないのだから あるはないを狂おしく求めた果てに ないそのものになる >>787 マジレスすると、 あるということは感じられるが、 例えばコンドームを付けているか いや、生であるかの違いまでは分らない ある、ない、という概念で言えば ある しかし、それが仮に余りにも小さいものであったら その概念すら存在し得ないかもしれない誤差レヴェル 故に 在る 有る ダー・ザイン は愛しく猛けしく、もう狂わんまでに求めさらには果てぬ なぜなら、ないものがそこに有る 一般の方が理解するのはむずかしいでしょうね 言葉で表現するのも困難ですし 夢に浸りきって これを現実と思いこんでいる でもそれが悪いということでもない 何がどうなろうと同じこと 何でもないのだから 何の意味もないものに夢中になって 真実を知ろうとするものはほとんどいない 私が人間であり、世界の中にいる という大前提が強すぎる。誰しも。 そこを疑えれば。 まあまあたやすいトラップ これをむずかしい、わけわからないと思ったとき すでにその大前提のうえに知らず知らずいるでしょう 心は自分のしかみえない だから他の心は無いのと同じ 心は一つしかない 世界はそのひとつしかない心に写されている 世界の中に人がいるのではない 心がひとつだけあって そこにいろんなものが映し出されている 物質とかいろんなものは 実体がない ただ心のなかに見えているだけなのだ すべては幻 何も無かったのだ 仮想現実 このひとつしかない心 これがあるということだけが あるということだけがある すべては想像でしかないのですよ よく考えてみて どこに物がありますか あると思っているだけ ただの想像なのです 自分が人間という生物で、超巨大な球体〜地球の表面に張り付いて生活。 しかもその地球は真っ暗な空間に浮かんでいるという。 ニュートラルな観点からみることができればこの状況、すっごく異常で不思議ではないですか。 すべては慣れ。どんなおかしな状況でもずっと続けばおかしいと思わなくなる。 ↑ と、この考え方、この状況がずっと続いてきていると思っているところが落とし穴。 実際は今この瞬間だけが存在し、過去があると思えるのは錯覚。 ↑ と、これまた間違いで、今この瞬間ですら幻影なのです。 まったく何も無く、何も起こっていない、誰も存在しない。これが正解なのでした。 >>803 それもまた間違いで、有るの逆があり無いの上位次元があり、無さえ虚であるのだ 叔母の家で見たマツバボタンの美しさを知っているのは もう私しか居ないと気付き愕然とした The shelter of last resort is an interesting euphemism for Death. >>802 考えてみたらそのとおりかもしれないね 物質が存在する。何の疑いも持たずに信じていたけど あらゆる物質は私の心を通してしか見ることができない 物質というものは何も存在せず ただ私の心があるだけ・・・・・ 自分だけにしか心がないと思っている人は、心ない人では? 自分以外の者に心がある ということは推測にすぎないんだよね 自分以外は全員ロボットっていうドラマやってた そして一方では眠った状態で脳に刺激を与えてるだけで 夢の中で人生送ってるつもりなの レヴィナスの「実存から実存者へ」あたりがおすすめ。 真実を言葉で言い表すのはむずかしいね わかっているひとがみれば、なるほど と思えるかもしれないけど わかっているひとに言葉で説明しようとしてもわけがわからないといわれるのがオチだろう 知っている者の立場からの言葉をひとつあげよう 「ある」と「ない」とは同じ意味 どうかな? わかっているひとがみればなるほどと思えるかもしれない わかっていないひとがみても ハア? だろうな >>104 実は凄いまともだと思うぞ ところで、 虫歯があるのか、穴があるのか、有るがあるのか、無いがある訳ではないのか、そこは更に追究する余地が「有る」だろうな 「考える名無しさん」だけがあってIDが無い 故にこのカルト信者 >>61 をあぼーん出来ない 悔しい >>182 フランス人に言ってやれよ この木田も 高校必須科目だぞ?大学入試科目だぞ? バッカだよなあほんと!こんな小さな島国でドヤ顔してねーで、そんな有能なら海外の学会で意見交換して来いや 要らないと思います、って壇上で言って来いよ!じゃなきゃとっとと引退しろ! >>88 宇宙≒時空 は未だ解んないけど、 「時空」は俺の存在のログだな、って思った 緯度と経度みたいに一点を抽出した時、これは俺の存在の記録だなって まあ、ただそれだけ そこから先に繋がらないから あ、俺2年前にレスしてたw 実にスレタイらしい結末だw 正直、哲学が本質的にやっている定義の厳密さをやれば、ここでの問題は殆どが解決するだろう 当たり前と思っていたことが当たり前でないという、自分の世界が引っくり返る発見こそが哲学の楽しさであり、だからこそ次のステップとして定義を厳密にして論じることに挑戦して欲しいなあと思う 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月) 性別: 男、未婚 年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ) 国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得) 住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)? 最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅? 実家: 不動産を所有する資産家の分家 家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執? 母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者 宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New! 既往症: ノイローゼ(2013/1/15) 常用薬: リスペリドン(2013/1/7) 禁忌: 奈良駅には行けない事情がある 職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師 資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在) 高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒? 大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ? 大学院: 関西地方の法科大学院修了 受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている 勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用 ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方) 奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在) 体重: 63.6キロ(2011/12/20現在) 好物: 水炊き、うどん 好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年) 偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ 憧れ: 大学教授、公務員 常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか 2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い 2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。 2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 本当のことはとっても単純で簡単だ 全く何も存在しない あるようにみえているだけ ただそれだけのことなんだ だけどこれはあまりに単純すぎて 「人生」にどっぷりの人には理解できない ここがまた逆説的だけど その「人」すらも居ないんだけれどもね こういう真実を聞いたとき で?それが何の役に立つの?って反応するひとがいる だけど悟ったひとからみれば 世の中の人たちの行動や考えすべてが 何の役にたつの?と思える 本当は何も存在しない 何かがあるように思えるだけ 錯覚だけなのですよ 錯覚だけがあるとすると、やはり「ある」わけですね。 錯覚が「ある」とすれば、その「錯覚」みているなにものかも「ある」などと短絡的に考えてよいものか。 みているなどというなにものかも「錯覚」であると。 このような「錯覚」だけの世界。難問だw 錯覚であるということも錯覚である。「ある」ということ自体が「錯覚」なのであり、そのように考えることすらも「錯覚」である。 あるとかないとかいうことも錯覚であるとすれば、どこに足がかりを求めればよいのか。 ここでは本来 言葉で表しようのないことを 敢えて言葉にしようと試みている なのであまり「錯覚」や「ある」「ない」などの言葉に振り回されると 肝心のニュアンスから離れることになる 感覚でぼんやりつかむ感じで。 世界にかかわる物事はすべて頭で考えたこと 直感で見抜けば何も無いということがわかることがもあるかもしれない 「自分は人間だ」 これは絶対的真実だろうか そう思いこんでいるだけなのではないだろうか なぜそう考えるようになったのか なぜ疑おうと試みないのか 絶対の真実とは何か 絶対の真実はありうるのか すべては今偶然このようにあるだけなのではないだろうか 真実ということも錯覚であるとするならば、真実など無いのであって、さらに無いということも錯覚である。 無いということが錯覚であるなら、錯覚としての有るがある。 有ると無いの2つがひとつであり、そこに「あるということだけがある」。 相反する2つがひとつで、ひとつが相反する2つであること、それが「あるということ」。 A∧¬A=ある。 実世界ではなく虚世界があるのだ。それが認識されると認識世界の中で実になる。 世界というものはどこにもない 頭の中の記憶を現実と思っているだけ 現実というものは存在しない すべては単なる想像 世界というものがはっきり存在している証拠をしめせますか? あなたは世界というものに現実性を与えることに慣れすぎて 物事をフラットに考えることができなくなっている それが悪いといっているわけではありませんが。 >頭の中の記憶を現実と思っているだけ >現実というものは存在しない だったら、頭も存在しないのでは? >>830 そのとおり わかりやすくするためそう表現した 実際は頭もなければ人間もいない 人間も世界も存在しない 自分自身も存在しない すべてすべてが想像 誰が想像しているのか この想像はなんなのか この想像の根源が「ある」ということだけが本当の意味で唯一存在しているのです 時空とは比較だ 過去は未来を内包する だから未来は予測でき過去をしれる 比較できるものは認識できる だが比較できないまのは認識できない だが存在は認識できないことを認識できる 認識できるものが認識できないものが認識できるものが認識できない… それが次元を生む 私は空想の神であり 現実の神 そして神でない魔王 私は魂にして門にして鍵にして混沌 始まりにして終わり 善にして悪 そしてこうして遊ぶもの たとえば地球とか宇宙のあるこの世界とは全然別次元の別世界に行ったとしたら そこでは全然違う法則とかがあって 自分の記憶のほうがおかしいのかな?ってなっちゃうのかもしれないよね 頼れる証拠が自分の記憶だけになるから そしてその記憶は新たな現実と全然関係が無いし、そっちの世界では役に立たないから 単なる夢としてあつかわれ 意味のない記憶として忘れられ重要視されなくなる 記憶とは利用価値があるからこそ活きるわけで 全記憶が残っているように思えるのは気のせいで 都合の良い記憶だけを無意識に選んで残しているのだろう とすれば記憶は現実と一致しているわけではなく 歪んでいる 極端にいえば現実と記憶は違っていて それがどの程度のズレなのかは自覚できない そもそも現実と呼べるようなものはなく まったく個人的な記憶の世界だけが存在していて 本質的には何も存在しない と、ここでこのスレの思想に近づいた 一般的には脳がまずあって。と考えられているが 感覚的に考えるとまず心があるように感じられる 心が「私は脳から生まれた」と想像しているわけだ いや、生物発達学的には、まず腸があって、その神経細胞が脳に 進化したことになってると思うぞ。 今までの人生、いや人生を生きてきたと思っていただけだが いままで一体何だったのか 根底から全部くつがえっちゃった 何も存在しないのだってさ 何もない 自分も世界も全部錯覚だってさ うー なんだかふに落ちないっていうか >>837 そうか、やっぱり一番重要な食欲が脳に進化したのか 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=奈良県=大阪府 性別: 男、未婚 年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ) 国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得) 住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)? 最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅? 実家: 不動産を所有する資産家の分家 家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執? 母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者 宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない 既往症: ノイローゼ(2013/1/15) 常用薬: リスペリドン(2013/1/7) 禁忌: 奈良駅には行けない事情がある 職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師 資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在) 高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒? 大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ? 大学院: 関西地方の法科大学院修了 受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている 勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用 ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方) 奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在) 体重: 63.6キロ(2011/12/20現在) 好物: 水炊き、うどん 好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年) 偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ 憧れ: 大学教授、公務員 常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか 2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い 2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。 2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 現実世界が今信じている通りだということは 証明しようがないよね 根拠なく確信しているだけ 偏らずに考えることがもしできたなら すべては夢で、実は何も存在していないというのが 一番性正確に現実を表しているということにたどり着くのかもしれない ぼくは今まで ぼくが住むこの世界が しっかりしたものだと 思いこんで生きてきましたが 意外とこの世界は それほどしっかりとしたものではなく ぼんやりしたものではないかと思うようになってきています そんなにしっかりしていなくぼんやりした世界 ではこの世界ではなく 別の違う世界があったとしても それは単にもうひとつの幻想なのかもしれず 結局のところ 現実というもの自体が存在しないもかもしれませんね 夢から夢へと渡り歩くとでもいうような 現実は当たり前に現実だと思っていた それほどしっかりしたものではないのではと思った ではこれ以外の現実があるのでは? しかしそれももうひとつの別の幻想にすぎない では現実というもの自体が無い しっかりと存在するものは何もない 夢か幻のようなものがあるような感じがするだけ 絶対的に存在するものはない 何もない 何も存在しないのです >>839 シナプス神経系だけではない、ホルモンによる伝達系もある 世界があるのではない 世界の記憶があるだけだ 意識は私のこの意識ただ一つしかない 他の人に意識があるというのはただの推測だ 環境に洗脳されるということだ。そしてどっぷり偏っていることに気づかず彼はいう 私は公平に物事をみることができる。と 異様な文化の中に暮らしているとその外国 から見たらおかしい不思議と思ってもその中の当の本人は 全然まともだと思っているんだよね と こういうことか 今が夢だとすれば 覚めたらどんな現実なのか わからないよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる