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【ショーペンハウアー】ペシミズム [転載禁止]©2ch.net
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0001考える名無しさん
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2014/11/09(日) 22:00:16.010
人生とは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、
それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。
0003考える名無しさん
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2014/11/10(月) 23:18:29.810
age
0004考える名無しさん
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2014/11/12(水) 20:12:58.670
自殺についてなんてどんだけ勇気ふりしぼってレジに持っていったか
0005考える名無しさん
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2014/11/14(金) 10:30:48.360
単なるショーペンハウアー好きのおっさんなのだが、
ショーペンハウアー協会に入ったら楽しいかしら?
0007考える名無しさん
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2014/11/19(水) 01:07:46.290
全集と中公と、どっちの翻訳が良いのだろう・・・。
0008考える名無しさん
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2014/11/25(火) 01:06:42.430
age
0009考える名無しさん
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2014/11/28(金) 18:53:27.830
人間には盲目な生きる意思があるらしい
お前らはちゃんと日々を生きようとしているか?
0010考える名無しさん
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2014/12/02(火) 20:27:39.540
>>9
盲目なのになんでわざわざ「生きること」を見えるように書いてるの?
あほなのか?
0011考える名無しさん
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2014/12/02(火) 20:31:30.520
>>10
お前ショーペンハウワー読んだことないだろ
0012考える名無しさん
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2014/12/21(日) 00:22:12.710
おほ、ショーペンハウワースレなんてあったのかと思ったらこの過疎ぶり
0017幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/08(木) 19:58:59.630
宗教について

第一七四節 ある対話

デモフェーレス: ねえきみ、ここだけの話だけれど、きみがときどき宗教を皮肉ったり、いや、明ら
かに嘲笑して、きみの哲学的能力を示すのは、どうもぼくの気にくわないね。人それぞれの信仰はその
人にとって神聖なものだ。だからきみにとっても神聖なはずじゃないか。

フィラレーテス: そういう推論は否定するね! ひとさまが単純だからといって、なぜぼくまでが欺
瞞をありがたがらねばならないのか、ぼくにはわからないよ。どんな単純な場合も、ぼくが尊重するのは真理
だ。だから真理に反するものは、尊重しないだけのことだ。きみたちがそういう調子で人びとをしばり
つけているかぎり、真理の光がこの地上にさすことは絶対にないだろうよ。ぼくの標語は、「たとえ世界
は滅ぶとも、正義は行なわれよ」という法律家たちの標語をまねて、「たとえ世界は滅ぶとも、真理は
存続してあれ」というんだ。どの部門にも似たような標語があってしかるべきだね。

デモフェーレス: だったら医学の標語は、「たとえ世界は滅ぶとも、丸薬はまるめられてあれ」ぐら
いだろうかね ― こいつはいちばんてっとりばやく表現できるだろうて。

フィラレーテス: まさか! なにごとも「ほどほどに匙かげん」ということがあるさ。
0018幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/08(木) 20:16:48.970
デモフェーレス: まあね。だからこそぼくの気持ちとしては、きみも「ほどほどに」宗教を理解して
くれて、民衆の欲求には彼らの頭に応じてこたえてやる必要があることを悟ってほしいんだ。宗教とい
うのは、低級な営みや物質的仕事に追いまくられている大衆の粗野な心や硬直した頭脳に、人生の高い
意味を告げ知らせ、それに気づかせるただひとつの手段だからね。というのは、普通の人間は、もとも
と肉体的欲求や情欲を満足させることだけに夢中で、それがすめば、おしゃべりとか気晴らし以外にべ
つにこれといって関心はないんだ。こういう人間をその惰眠からゆさぶり起こして、生存の高い意味を
指示するために、教祖とか哲学者とかいうものがこの世にあらわれてくるわけだが、哲学者は少数の例
外者のためだろうけれど、教祖というのは大勢の人たちのため、人類全体のために出現するわけさ。だっ
て、きみの尊敬するプラトンもすでに言っているとおり、「大衆は哲学者たりえず」だからで、まさか
きみもこの言葉は忘れちゃいまい。宗教は民衆の形而上学だ。これは絶対に民衆にまかせておくべき
で、だからわれわれも外面的には尊重しないといけない。これにけちをつければ、それは民衆からこの
形而上学をとりあげることになるからだ。世には民謡といったものもあり、諺には民衆の知恵が出てい
るように、民衆の形而上学もなくてはいけないんだ。なぜかというと、人間にはどうしても人生の説明
が必要だし、それは彼らの理解力に応じたものでなければならない。だから民衆むきの解釈は、いつで
も真理には比喩の衣を着せて、たとえ話に仕立てる。これが実際の場では行動の指針となり、気持ちのう
えでは、苦悩や死に臨んでの安心や慰めになって、真理同様の―といってもわれわれがかりに真理を
もっていると仮定しての話だが―、真理そのものの果たす役割とおそらくは同じ役割を演じるのだ。
その形式が混乱してまとまりがなく、一見理屈に合わないところがあるからといって、腹を立ててはい
けないよ。だって、きみの教養と博識をもってしても、深い真理をたずさえてあの荒削りな民衆に近づ
くには、どんな回り道をしなければならないか、想像を絶するものがあるからだ。いろいろな宗教は、
民衆がそれだけではどうにも把握できない真理をつかんで心のなかに描きだすための、いろいろな図式
といってよく、民衆にとっては、真理はこういう図式と不可分に癒着しているんだ。だから、きみ、わ
るくとってもらっては困るが、きみが宗教を馬鹿にするのは、偏狭であると同時に不公正なんだ。
0021幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/26(月) 11:57:20.340
フィラレーテス 偏狭で不公正といえば、民衆の欲求や理解力にあわせて仕立てあげられた形而上学
以外に、どんな形而上学もあってはいけないと望むことだって、まったく同断じゃないか? 民衆形而
上学の説くところが人間の研究心の境界石であり、あらゆる思惟の基準であるべきであり、したがって
きみのいう少数の例外者のための形而上学も、民衆形而上学を確証し、確立し、解明することに落ち着
くべきだと注文をつけること、つまり人間精神の最高の力を利用せず伸ばさないで抑えておくばかり
か、芽生えのうちにつみ取って、この力の活動が例の民衆形而上学と衝突することがないようにしなく
てはいけないなどという言い分は、やはり偏狭で不公正じゃないか? そして宗教はいろんな要求を
かかげているが、結局はこれと変わらないではないか? 自分では不寛容・無慈悲そのものであるくせ
に、ひとさまに寛容や、やさしい慈悲を説くなんて、おかしいではないか? ぼくはその証拠に、宗教
裁判や異端糾問、宗教戦争や十字軍、ソクラテスの毒杯やブルーノやヴァニーニの火刑をあげる! な
るほど今日こういうことは過去の話になったとはいえ、ほんとうの哲学的努力、誠実な真理探究という
う、最も高貴な人類のこの最も高貴な仕事を邪魔だてしているのは、国家から独占権をあたえられてい
る例の因襲的形而上学で、その命題はだれの頭にもきわめて若い時代に焼きつけられる。それが真剣
に、深く、しっかり刻みこまれるため、奇蹟的な弾力性をもった頭でもないかぎり、どうにも消せな
いほどにこびりつき、健全な理性はこれを限りに調子っぱずれになってしまう。つまり、自分で考えて
偏見のない判断をくだすという、もともと薄弱な能力が、嗜好や判断に関連するすべての点で永遠に働
かなくなって台なしになるというわけなんだ。

デモフェーレス それはこういうことだろう。ともかくそれでいったん信念ができた以上、世間の連
中はそれを捨てて、いまさらきみの考えを受けいれる気にならないだけの話さ。
0022幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/26(月) 12:10:05.060
フィラレーテス ああ、その信念とやらが、認識にもとづいているなら文句はないんだけどね!
そうなれば根拠をあげて迫ることもできるし、双方、同じ武器で戦える場がひらかれるわけだ。ところ
が宗教というのは、はっきり言って、根拠をあげて信念に対するのでなく、啓示をもちだして信仰に頼
るのだ。ところで、あたまから信じこむ力というのは、子供時代がいちばん強い。だからこの気持ちの
やわらかい子供時代をねらうことがまっさきに考えられる。そのほうが、あとから威嚇したり奇蹟を教
えたりするより、はるかに強く教義が根をおろす。つまり、ごく若い時代に、ある種の根本的見解や教
説を、それこそ並々ならぬいかめしさで、その子供がはじめてお目にかかるような厳粛きわまりない表
情で、くりかえしたたきこむ。それに対して疑問がきざすかもしれぬなどということは、完全に素通り
だ。あるいはそれに触れるにしても、疑いをいだくことこそ永遠に堕落する第一歩だというふうにほの
めかすといったぐあいにやれば、その人の受ける印象は深刻で、普通は、ということは十中八九、その
人間が例の教説を疑うことができなくなることは、ほとんど自分自身の存在を疑いえないのと同じこと
になるだろう。そうなれば、「それがはたしてほんとうなのか?」と、まじめに率直に問うだけの精神
の堅固さをもつ者は、何千人中に、ほとんどひとりもないことになろう。それにもかかわらずあえて問
うことのできる人たちを「強い精神」(esprits forts)と呼びならわしてきたのは、だから普通に考え
られている以上に適切な言い方なんだ。ところが、それ以外の人びとにとっては、例の方法で注入され
たのに、いっこうゆるぎない信仰が根をはらぬということぐらい、理屈に合わぬ腹立たしいことはな
い、ということになる。
0023幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/26(月) 12:26:39.830
たとえば、異端者や無信仰者を殺すと、それがあの世で魂が救われるたいせつ
な所業だということにでもなれば、ほとんどだれもかれもがそれを人生の一大事と心得て、往生ぎわ
に、人殺しがうまくいったことを思い出して、そこに慰めと安心を見いだすということになろう。現に
昔はほとんどすべてのスペイン人が異教徒火刑を最も信仰のあつい、最も神意にかなった所業とみてい
たし、インドでこれと好一対をなすのはサグという宗教の秘密結社だ。これは最近やっと大量処刑に
よってイギリス人が弾圧したが、それというのも、この結社の仲間は、女神カーリーに対する彼らの信
心と尊崇をを示すために、機会さえあれば、友だちでも旅の道づれでも暗殺してその所持品を奪うという
ありさまで、しかもなにか大いに賞賛すべきこと、自分たちの永遠の救いのたしになることをやった
と、それこそ本気に盲信していたからだ。こういうふうに、若いときに焼きつけられた宗教上の教義は
じつにすさまじい威力を発揮するもので、その力は良心を眠らせ、はてはあらゆる同情や人情の息の根
をとめることさえできるのだ。ところできみが、信仰を若い時代に植えつける行き方の結果を自分の目
でまぢかに見たければ、イギリス人を見ればいいのだ。世の中のあらゆる国民より自然に恵まれ、悟性や精
神や判断力はゆたかにそなえ、節操もかたいこの国民が、彼らの愚昧な教会的迷信のために、他のあら
ゆる国民のはるか下位に蹴落とされ、いや、まさに天下の笑いものになっていることを見てほしいの
だ。その教会的迷信は、彼らのほかのいろいろな能力のなかにあって、まさに一種の固定妄想、偏執狂
と思われるのだが、それはただただ教育が僧侶の手に握られているせいなのだ。僧侶たちはありとあら
ゆる信仰箇条を、ごく若い時期に彼らの頭にたたきこむように心がける、それは一種の局部的な脳髄麻
痺を引き起こす。この脳髄麻痺は生涯、あの愚鈍な頑信となってあらわれる。
0025幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/01/29(木) 10:52:56.280
彼らのなかで、ほかの点
ではたいへん分別もあり才気も、ある連中でさえこの頑信のために退化し、われわれを途方に暮れさせ
るというわけだ。こういう傑作にお目にかかれるというのも、要は心のやわらかい幼年期に信仰を植え
つけるからだということを考えてみると、布教事業などというのも、現に成果をあげているのが、
ホッテントット族とかカフェル族、南洋諸島の住民とかその他、まだ幼年期の状態にある民族に限られ
ているのもうなずけるが、しかしそれ以上に出ると、もはやたんに人間の厚かましさ・出しゃばり・無
恥の骨頂と思われるだけでなく、馬鹿げたことに見えてくるのだ。インドあたりでも、キリスト教の布
教者の講話となると、バラモンの僧侶たちはうなずくように愛想笑いをしたり、あるいは肩をすぼめて
みせるだけで、概してこの民族のあいだでは、絶好の機会があったにもかかわらず、布教者たちの改宗
の試みはまったく失敗したのだ。『アジア雑誌』第二一巻におさめられている一八二六年の信ずべき報
告によると、布教者たちが多年にわたって活動したあえく、インド全土で(そのうちイギリスの領土だ
けで、一八五二年四月の「タイムズ誌」によれば、人口は一億五千万だ)、現に生きている改宗者は三
百に満たないそうで、しかもその内情は、こういうキリスト教に改宗した者にかぎって品行がきわめて
わるいということだ。つまり億をかぞえる住民のうちで、わずか三百の魂が売りに出され、買い取られた
ということだろう。その後、インドのキリスト教の事情が好転したようすは、どこにも認められない。
もっとも布教者たちは、いまのところ宗教教育でなく、もっぱら世俗的なイギリス式教育をやる学校で、
協定に反して、彼らの精神を子供たちに及ぼそうとつとめており、いわばキリスト教の密輸をはかって
いるが、これに対しては、インド人は非常な猜疑心をいだいて警戒している。なぜかというと、まえに
も言ったとおり、信仰の種をまくには幼年期にかぎるので、おとなになってからでは手遅れであり、と
りわけまえの信仰がすでに根をはっている場合はだめだからだ。
0026幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/29(木) 11:09:26.280
ところで、おとなになって改宗した連
中が新しい信念を得たと称するのは、普通は、なんらかの個人的利害の仮面にすぎないのだ。それ以外
の理由はほとんどありえないということが、だれにでも一見してわかるものだから、いい年をして宗旨
がえするような人は、どこでもみんなから馬鹿にされるのだが、しかしこのことで何か明るみに出て
いるかといえば、たいがいの人が、宗教を理性的な信念の問題とは考えておらず、ただ若い時期に、な
んの検討も加えないで植えつけられた信仰の問題だとみなしていることなんだ。だが、それも無理から
ぬことは、盲目的に信仰している大衆のみならず、どの宗教の僧侶も、その身分上、宗教教典や論拠、
教義や論点まで研究しつくしているにもかかわらず、あげて自分の生まれた祖国の宗教を熱烈・忠実に
信奉しているという事実からも判明する。だから、ある宗教もしくは宗派の僧侶が他の宗教に移るなど
ということは、世にもまれなことなのだ。たとえば、われわれは、カトリックの僧侶が彼らの教会のあ
らゆる教条の真理性をかたく信じているのにお目にかかる。だがプロテスタントの僧侶も新教の真理性
にはゆるぎない確信をもっているんだ。そして双方、たがいに劣らぬ熱意で彼らの宗派の教条を弁護し
ている。だがこの確信は、めいめいが生まれた国しだいにすぎない。つまり南ドイツの僧侶には、カト
リックの教義の真理が完全にのみこめるし、北ドイツの僧侶には新教の教義がよくわかるというわけ
であるに相違なく、植物と同じように、一方の信念はこの土地でだけ、他方の信念はあの土地でだけ栄
えるにきまっているわけだ。ところで民衆は、どこでも、こういう地方的信念居士の確信を、そのま
ま、まともに頂戴するものなのだ。

デモフェーレス 同じキリスト教である以上、本質的に差があるわけでもないんだから、それはそれ
でもかまわないんじゃないか。そのうえ、たとえば現に新教は北に適しているし、旧教は南にうってつけ
だよ。
0027幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/29(木) 11:44:00.340
フィラレーテス そういうふうに見えるね。しかし、ぼくはもっと高い立場から、もっと重要な問題
に目をつけているんだ。すなわち人類における真理の認識の進歩ということだ。この進歩にとってじつ
におそるべき事柄は、ある種の主張が、だれかれかまわず、その出生地がどこであろうと、すでにごく
若い時期に焼きつけられるということだ。しかも、疑えば永遠の救いもふいになる危険があるから、疑
うことは絶対まかりならぬなどと駄目押しまでついているんだから、これはまったくゆゆしい問題なん
だ。つまり、ここで主張といったのは、われわれの他のあらゆる認識の基礎に関係しているような主
張、したがって認識の観点を永久に確定し、もしこの主張自体がまちがっている場合には、認識の観点
をも永久に狂わせてしまうような主張のことだ。さらにその結論はいたるところでわれわれの認識の全
体系に食いこんでくる関係上、人間の知識全体がこの主張のために徹頭徹尾まがいものになってしまう
のだ。これはすべての文献の証明するところだ。とりわけ中世の文献が最も顕著な証明材料だが、十六
世紀および十七世紀の文献だってこれに劣らない。だって、これらのどの時代においても、一流の精神
人までが、例の誤った根本観念のために、まるで麻痺したようになっており、とりわけ自然の真の本質
や活動を見ぬくことになると、目隠し同然であることが見られるではないか。それというのも、キリス
ト教が勢力をもった全期間をつうじて、有神論は、あらゆる精神的努力、とりわけ哲学のうえに、重苦
しい夢魔のようにのしかかり、あらゆる進歩を妨害し、あるいは萎縮させてきたからだ。神・悪魔・天
使・悪霊といったものが、あの時代の学者たちの目から、自然をすっかりおおい隠していた。どういう
研究もとことんまで押し進められることはなかったし、どういう問題もその根本まで掘りさげられるこ
とはなく、明らかな因果関係をこえるものはすべて、神や悪魔といった例の人格をもちだしてきて、た
だちに葬り去られてしまったのだ。
0028幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/01/29(木) 11:49:12.330
そういう場合に、ポンポナッツィ(『魔法について』第七章)の言
うせりふは、この男の皮肉じゃないかと疑えないわけではない。なにぶんこの男の陰険ぶりは、この場
合にかぎらず、世間周知のことだからね。だがじつは、彼はこの言葉で、当時の一般的な考え方を言っ
たまでなのだ。もし実際に、いろいろな鎖を断ち切る唯一の力である珍しい精神の弾力性でももってい
た日には、その著作どころか、おそらく彼自身が、ブルーノやヴァニーニと同じように、火あぶりの刑
にあっただろうからね。―ところで、若い時代に例の形而上学的手ほどきを受けたりすると、凡庸な
頭がどれくらい麻痺するものか。これがいちばんはっきりわかり、しかも滑稽な側面から見られるの
は、そういう頭脳の持ち主が自分とは無縁な、ほかの教義を批評しようとくわだてる場合なんだ。そう
いう場合にふつう見られる図は、ほかの宗教の教義が自分の信じている宗教の教義と合わないというこ
とを、やっきになって証明しようとかかることだ。すなわち、ほかの宗教の教義には、自分の信奉して
いる宗教の教義に説かれていることと同じことが言われていないばかりか、その意味するところもたし
かに違っているということを、苦労して証明するだけなんだ。まことに素朴きわまる話だが、これで本
人はほかの教義のまちがいを論証したつもりなのさ。どちらかが正しいのだろうか、といった疑問を提出
することなどまったく念頭になく、自分自身の信仰箇条はア・プリオリな原理として動かないわけだ。
『アジア雑誌』第二〇巻でモリソン師は、シナ人の宗教と哲学を批評した一文で、この種の愉快な実例
を提供してくれているが、―まったく楽しくなってくるよ。
0029考える名無しさん
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2015/01/29(木) 18:14:42.890
>>4
自殺を考えているときはそんな余裕もなく買ったよ、銀座で。
0030考える名無しさん
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2015/01/30(金) 13:06:57.620
どうだった?
0032幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/02/03(火) 10:02:15.290
そのうえ、女に不自然な権利を与えたことは、ひいては、これに不自然な義務を負わせることと
なって、この義務にそむくことが、反対に、女たちを不幸にしているのだ。たいていの男は、地
位や財産に対する顧慮から、結婚をー何らかの輝かしい条件が附帯しない場合にはー不得策なこ
とと思うであろう。そこで、男は、みずからの選択によって、女とやがて生まれる子供たちとの
運命を確保するために、結婚以外の条件のもとで、女を得ようと望むようになる。ところが、こ
の条件は、男にとって、たとえ、そのように公正かつ理性的であり、また、事態に適合している
としても、女としては、結婚によってのみ与えられる不相応な権利を放擲することになるし、や
はり、結婚は市民的社会の基底をなすものであるのだから、この条件に同意するならば、その結
果、或る程度まで自分の名誉を失い、悲しい日陰の生活を送らねばならぬことになる。というの
も、所詮は、人間の天性が、他人の意志のうえに、それに対し全くふさわしからぬ価値を置くと
いうならわしを有っているからである。しかるに、女が、そのような条件に同意しないときには、
やむなく自分の気にいらない男と結婚するか、それとも、老嬢として味気ない一生を過ごすか、
いずれかの危険にさらされる、何と言っても、女性の結婚適齢期は、はなはだしく短いのだから。
0035幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/02/06(金) 09:42:42.320
デモフェーレス じゃ、それがきみのいちだんと高い立場だというわけだね。。だが、もっと高い立場
があると、ぼくは断言する。「まず生活し、つぎに哲学する」という格言があるが、この言葉は、すぐ
のみこめる意味よりも、もっと広い意味をもっているのだ。―とりわけ肝心なことは、大衆の粗暴で
低劣な気持ちを抑制して、彼らを極端な不正や残虐から遠ざけ、暴力ざたや醜行に近づけないようにし
なければならない。大衆に真理がのみこめるまで待っていた日には、後手になることは必至だ。だっ
て、真理がすでに発見されていると仮定したところで、それは大衆の理解力に余るだろうからね。大衆
に役立つのは、いつでも真理を比喩の衣にくるんだもの、つまり寓話とか神話だけだ。カントも言って
いることだが、法と徳の公的な旗じるしがなくちゃいけない、いや、その旗をしょっちゅう空高くひる
がえしておく必要があるんだ。その旗にどんな紋章が描かれていようと、意図するところをあらわして
さえいれば、どんな紋章だってかまわないのだ。真理のこういう寓話は、時と場所のいかんを問わず、
大衆には、けっこう役立つ代用品の一種で、けっきょく彼らには永遠に近づけない真理そのものや、絶
対彼らにはわかりっこない哲学のかわりをつとめるものなんだ。といっても、哲学は毎日すがた形を変え
ているし、どんなすがた形にせよ、まだ一般の承認を得るまでにはなっていないが、それはここでは別
問題としての話だ。そういうわけで、フィラレーテス君、実践的目的のほうがあらゆる点で理論的目的
より優先するわけだよ。

フィラレーテス むかし、ピュタゴラス学派のロクリスのティマイオスが、「ほんとうのことを言っ
ても実効があがらない場合は、いつわりの話で人びとの心を御してゆく」と言っているが、きみの立場
というのも、ほぼそれに近いね。かんぐるわけじゃないが、きみは、近ごろの流行で、

 でもね、きみ、ゆっくり落ち着いてなにかうまいものでも食べたいと
 思うときが、またやってきますぜ

ということをぼくに説きつけようというんじゃないかな。つまりきみの勧めることは、不平から乱暴を
しでかす大衆にぼくたちの食卓を荒らされないように、いまのうちに気をくばっておけ、ということに
帰着するわけだろう。
0036考える名無しさん
垢版 |
2015/02/06(金) 10:57:31.500
>>34
金森訳の『随想録』は古書店に売ってしまった。
もったいないことした。
0038考える名無しさん
垢版 |
2015/02/09(月) 14:25:29.040
嘲笑 反対 同調
の出典わかるかたいますか?
0039幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/02/14(土) 03:29:46.870
「天才は、時代という惑星軌道の中に飛び込んだ彗星のようなものである。
惑星軌道の、規則正しい、すっきり見渡すこともできる秩序からしてみれば、
彗星の極めてエキセントリックな振動は異様である」

              (『存在と苦悩』ショーペンハウアー著、金森誠也訳、白水社)
0040幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/02/18(水) 23:02:43.170
なんだかそんなふうに邪推したくなるね。だが、そういう立場は、なるほどこん
にち一般的に人気があるけれど、断然まちがっているよ。だからぼくは間髪をいれずに意義を申したて
るわけだ。国家や法や法律が宗教およびその信条の助けをかりないと維持されえないし、司法と警察は
法の秩序を貫徹するために、そのやむをえない補充として宗教を必要とする、と考えるのはまちがって
いる。たとえ百ぺんくりかえされたって、まちがいはまちがいだ。というのは、古代人、とりわけギリ
シア人が、れっきとした事実上の反証をわれわれに提供してくれているからだ。つまり、こんにちわれ
われが宗教と解しているものは、ギリシア人にはまったくなかったものだ。彼らは聖典なんか持ってい
なかったし、若いときからたたきこまれ、すべての人に押しつけられるような教義なんかは彼らのあず
かり知らぬところだった。―同様に、坊主ふぜいが道徳のお説教をしたり、ひとさまの品行を気にか
けたり、一般に庶民のなすこと、なさぬことに頭をつっこむなどということは、まったくなかったこと
なんだ! それどころか神官の任務は神殿の儀式、祈祷、歌唱、供物、行列、清祓式などに限られ、そ
れもひとりひとりの個人の道徳的向上などという大それたことを目的とするものでは、さらさらなかっ
た。当時のいわゆる宗教は、ごく局限されたものだ。つまり、ほうぼうの都市国家に「偉大な氏族の神
神」の、ここではこの神、あそこではあの神を祭る神殿があって、ここでその筋の命令で上述の礼拝が
行われただけなのだ。だから、この宗教的儀式は、つまるところ警察事項だったわけだ。この儀式で
働く職員以外は、だれひとり、参列の義務もなかったし、その神を信じるように強いられることはな
かった。なんらかの教義を信奉する義務を負うというようなことは、古代全体をつうじて、どこにも見
あたらない。ただ神々の存在を公然と否認したり、あるいは神々を誹謗した者だけは、処罰された。そ
れは、この神々に仕える国家を侮辱するものだったからだ。
0041幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/02/18(水) 23:21:13.960
しかしそれ以外には、それをどう考えようと、
めいめい各人の勝手だった。もしある人が、祈禱ををあげたり、お供えものをしたりして、私的に例
の神々のおめぐみを得たいと思うとき、自分で費用を出して損害を負担する気になれば、だれでも自由
にやれたし、そうしないからといって文句をつける者は皆無であり、いわんや国が異議反対を唱えるこ
とは、ぜんぜんなかった。ローマ人の場合は、各家庭にそれぞれの氏神や家神があったが、これらは要
するに祖先を祭ったものにすぎなかった(アプレイウス『ソクラテスの神について』第十五章)。霊魂
の不滅や死後の生といったことについては、古代人は明確な概念をもたず、いわんや教義として固定さ
れた考え方をいだいていたわけではなく、各人各様、きわめて漠然としてあいまいな、動揺して疑義も
多い概念をもっていただけなんだ。古代人の神の表象もこれまた同じことで、千差万別、ひとそれぞれ
に違って、つかみどころのないものだった。要するに、今日の言葉づかいの意味での宗教なるものは、
古代にはほんとうに存在しなかったのだ。だが、それだからといって、古代は無政府と不法の支配する
ところだったろうが? むしろ法律と市民的秩序は彼ら古代人の大事業であって、われわれ現代の法的
秩序の基盤になっているくらいじゃないか? 財産は、なるほど大部分は奴隷から成りたっていたにせ
よ、完全に守られていたではないか? そしてこの状態は一千年以上もつづいたではないか?―

 だからぼくが、きみが示唆するような意味で、あらゆる法的秩序の不可欠な基盤として、宗教は実際
上の目的をもっているから必要だとする、こんにち一般に受けいれられている見方を認めることはでき
ない。それで、意義を唱えざるをえないのだ。だって、そういう立場からすれば、光明と真理をめざす
純粋で神聖な努力も、すくなくともドン・キホーテ的に見えるだろうし、またもし哲学が、こちらのほ
うこそ正しいのだという気持ちから、宗教の権威信仰を、真理の王座をわがものにして、たえずごまか
しつづけることでその王位を主張している簒奪者として告発することにでもなれば、もちろんそれは犯
罪視されることになるからだ。
0045幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/02/24(火) 22:53:26.210
デモフィーレス しかしなにも真理と宗教は対立するものじゃなくて、宗教はそれなりに真理を説く
ものなんだ。ただ、宗教の活動範囲はせまい講堂じゃなくて、世間であり、大きな意味の人類だから、
こういう多数の、いりまじった大衆の要求や理解力に合わせる必要上、むきだしに裸のまま真理をもち
だすことはできないという制約があるだけだ。医学的なたとえを使えば、宗教は真理という薬を大衆に
服用させる場合、真理に混ぜものをする、つまり「転位」させるわけで、一種の溶剤として、神話の衣
をかぶせざるえないだけの話なのだ。この観点からいえば、きみのいう真理なんかも、本来は気体
の、ある種の化学的物質にたとえることもできるわけなんだ。これは放っておけば発散してしまうか
ら、薬として使う場合、あるいはまた保存したり発送したりする場合には、この気体を、固形の、手に
触れうる基底に結びつける必要が出てくるわけだ。たとえば、塩素が、こうしたすべての用途に、塩化
物のかたちでしか用いられなようなものさ。ところで、あらゆる神話的なものと無関係な、純粋で抽
象的な真理なんか、未来永劫、どんな人にも、哲学者さえ、到達できないとすれば、そういう真理
は、単独では絶対に析出できなくて、いつでも他の物質と化合してあらわれる弗素にくらべたらいいだ
ろう。あるいは、―もっと平たくいえば、神話や寓話のかたちでしか言いあらわしえない真理は、容
器がなければ運べない水にくらべてもいいだろう。ところが哲学者たちは、そういう混ぜものを入れな
いで真理を所有しようとがんばっているわけで、彼らは、水そのものを持ちたいばかりに、容器をこわ
してしまう人みたいなものなんだ。ひょっとしたら、これはたとえ話でなくて、じじつ、そういうこと
だろう。ともかく宗教というものは、寓話や神話をかりて言いあらわされた真理なのであり、またそのお
かげで大衆にも手がとどいて消化できるようになった真理なのだ。大衆なんて、混じりけなしの純粋な
真理には、絶対に耐ええないだろうからね。それはちょうど、われわれが純粋な酸素のなかでは生きる
ことができなくて、五分の四の窒素という添加物が必要なのと同断だろう。
0046幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/02/24(火) 23:06:48.190
たとえ話はこのへんで切りあげるとすると、人生の深い意味と高い目標を大衆にもちこみ、これを開示
するには、象徴に限るのだ。だって大衆には、自分の頭でそこまで理解する能力がないからね。これに
反し哲学は、エレウシスの秘儀同様、少数の選ばれた者たちのためにあるべきものなのだ。

フィラーテス もうわかったよ。問題はけっきょく、虚偽の衣をつけた真理ということに帰着する
わけだ。しかしこの組合せは、真理にとって破滅的だよ。だって、真理を大衆のところへ運ぶ車として
非真理を使う権能をもっている人たちに、いかにも危険な武器が手渡されることになるじゃないか!
こうなっては、宗教にくっついている虚偽のひき起こす害のほうが、宗教のふくむ真実がもたらす利益
をうわまわることになるのではないかと、心配になってくる。じっさい、寓話がはっきり寓話と名乗っ
て出てくるぶんには、それはそれでさしつかえないだろう。だがそうなっては、寓話を尊重する気が
すっかりなくなって、したがって効果もゼロになってしまう。だから、寓話が真実なのは、せいぜい比
喩の意味にすぎないのに、本来の意味でも真実としてまかり通り、真実だと言い張らざるをえなくなる
のだ。この点に、どうにもならない害、永続的な弊害がある。だからこそ宗教は、純粋な真理を求める
とらわれない高貴な努力とたえず衝突してきたし、これからさきもくりかえし衝突することになるわけ
なのだ。

デモフェーレス いや、そうはならないさ。そうならないように、ぬかりなく手は打ってあるんだ。
たとえ宗教が、その寓話的な本性をあけすけに白状しなくたって、いやというほどそのことは暗示して
いるんだからね。

 フィラレーテス というと、どこにそういう暗示があるんだ?
0047幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/02/28(土) 09:42:39.290
デモフェーレス 密儀さ。それどころか「密儀」(Mysterium)というのは、結局のところ、宗教的寓
話に対する神学上の術語にほかならないんだ。それにまた、あらゆる宗教に密儀はつきものだ。そもそ
も密儀はあきらかに不条理な教義だ。だがこの教義には、それだけでは粗野な大衆の平凡な悟性のまっ
たく解しえないほどの、高遠なひとつの真理が秘められている。ところが大衆は、彼らでさえ気づくよ
うな不条理な点にはちっとも迷わされないで、素直に、この覆いのままで真理を受けいれ、そのおかげ
で、彼らにできる範囲においてではあるが、事柄の真髄にあずかるのだ。注釈としてつけ加えると、哲
学の畑においてさえ、密儀を使うこころみがなされている。たとえばパスカルだが、彼は敬虔主義者で
あり、数学者であり、同時に哲学者であるというこの三重の特性を生かして、「神はいたるところ中心
であって、周辺ではない」と言っているし、マルブランシュも、「自由とは一種の密儀だ」と、いみじ
くも述べたのだ。―われわれはさらに進んで、もともと宗教にあってはすべてが密儀なのだと、主張
することもできるだろう。というのは、本来的な意味での真理を粗野そのものの民衆に教えこむのは、
あたまから不可能であって、ただ真理の神話的・寓話的な残照だけが、民衆にあたえられ、その心を照
らすことができるからなのだ。なんの覆いもないむきだしの真理なんかは、在俗の民衆の眼前にさしだ
せるものでなく、深々とヴェールをかぶった場合にだけ、真理は民衆の目に触れてもさしつかえないよ
うになるのだ。だから、宗教が本来的な意味で真理たるべしというのは、宗教に対するまったく不当な
要求だし、したがってまた、ついでながら言わせてもらうと、現代の合理主義者も超自然主義者も、筋
の通らぬことを言っているからだ。というのは、両者とも、宗教が本来的意味で真でなければならないと
いう前提から出発しているからだ。そしてこの前提のもとで、合理主義者は、宗教は真ではないというこ
とを証明しようとし、超自然主義者は、宗教こそ真であると頑強に主張しているわけなんだ。
0048幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/02/28(土) 10:15:47.910
あるいはむしろ合理主義者は寓話的なものに刈りこみを加え手かげんして、それが本来的意味で真であ
るようにするわけだが、こうなれば寓話も陳腐な言葉にすぎなくなる。他方、超自然主義者は、なんの
調整も加えないで、寓話こそ本来的意味で真なんだと主張するわけだが、―これはしかし、彼らとて
当然わかるはずだけれど、異端裁判と火あぶりの薪なしには、とうてい貫徹しえないことだ。ところで、
神話や寓話は、実際に宗教の本来の要素なんだ。大衆の頭が低いんだから、宗教がそれを借りること
は避けがたい制約だけれど、それでも宗教はどうにも抹殺できない人間の形而上学的欲求をじゅうぶん
に満足させ、達成のきわめて困難な、ひょっとしたら絶対できないような、純粋な哲学的真理の代用
になるのだ。

フィラレーテス なんのことはない、木製の義足がほんものの足のかわりになるみたいなもんだろ
う。なるほど義足も代理はつとめ、どうにかこうにかその役目をはたし、そのうえほんものの足に見ら
れたいと思いあがり、ときには巧妙につくられたり、ときにはぶざまにできていたりする、といったぐ
あいだ。しかしひとつ違いがある。義足よりさきに、ほんものの足があるのが普通だが、宗教はどこで
も哲学に先んじていたということだ。

デモフェーレス 文句のつけようもないところだが、でも、ほんものの足をもたない者には、義足
だってたいしたものだよ。見のがしてもらっては困るが、人間の形而上学的欲求は絶対に充足を求めて
いるということだ。なぜなら、人間の思想の地平線は、無際限というわけにはいかず、閉じられる必要
があるからだ。ところで、さまざまの根拠を考量して真偽の決定をする判断力は、人間はふつうもって
いない。そのうえ、自然と自然の困苦によって人間に課せられた仕事は、そういう研究をする暇も、そ
ういう研究が前提とする教養の余裕さえあたえてはくれない。だから普通の人の場合、論拠に立脚した信
念は問題にならず、宗教と権威に頼らざるをえないのだ。
0049考える名無しさん
垢版 |
2015/02/28(土) 11:05:11.770
ペシミズム→最悪を想定する→期待どおりでも失望しない/期待を裏切られたときの喜びが最大

オプティミズム→最良を想定する→期待どおりでなければ喜べない/期待を裏切られたときの悲しみが最大
0051考える名無しさん
垢版 |
2015/04/04(土) 21:23:15.160
>>4
自殺について、読書について、どちらもKindleで出たよ。
レジに持っていかなくても済む。岩波文庫を買ったのなら角川ソフィア文庫も
一読の価値あり。逆も言えるが、岩波は99円、角川は500いくら。
選ぶのはあなた。
0053考える名無しさん
垢版 |
2015/04/17(金) 19:21:25.510
今、新潮文庫の「幸福について」を読んでいるよ
孤独な方が心の平穏が保てるみたいな話は
その通りだと思ったよ
0054考える名無しさん
垢版 |
2015/04/18(土) 10:21:15.170
知性の高い人間は非社交的らしい
0055考える名無しさん
垢版 |
2015/04/18(土) 19:05:33.440
お金を稼がなくても生活できる人にとっては
ショペンハウエルは面白いだろう
0056考える名無しさん
垢版 |
2015/04/18(土) 22:53:11.520
金に余裕ができると退屈が敵になるってな
執筆だか詩作が一番高級な趣味になるそうだが
0057考える名無しさん
垢版 |
2015/04/20(月) 13:46:40.460
金がなければこの世は生き地獄だよなあ
0058ドイツ第三帝国
垢版 |
2015/04/20(月) 14:41:51.100
【◆】(^■^<生誕126周年だ余、祝っておくれ!!
0059考える名無しさん
垢版 |
2015/04/20(月) 15:34:26.840
>>56
いいこと聞いたぞ
趣味ないから詩を趣味にしてみる
0060考える名無しさん
垢版 |
2015/04/20(月) 20:43:51.370
何はともあれ、健康が第一だな
0061考える名無しさん
垢版 |
2015/04/21(火) 01:40:42.520
カステラだとおもって踊らされてた白クマさんたち
0062考える名無しさん
垢版 |
2015/04/21(火) 02:25:07.940
なにそれ
0063考える名無しさん
垢版 |
2015/04/21(火) 03:05:11.410
留守番電話に録音されたDarwinismと文明の順番
0064考える名無しさん
垢版 |
2015/04/21(火) 19:34:43.480
ショーペンハウアーは生涯独身だった?
俺も生涯独身になりそう
0067考える名無しさん
垢版 |
2015/04/22(水) 19:54:20.400
俺も資産はあるが収入は少ない。よって女はいない。
いいんだ、女なんて思考のジャマになるだけ。
一利はあるが百害もあるので女はいらないよ。
詩作に耽り哲学書を読む。至高の余生ではあるまいか。
0068考える名無しさん
垢版 |
2015/04/23(木) 18:18:04.690
>>66
じゃあ孤独死ではなかったのか
0069考える名無しさん
垢版 |
2015/04/23(木) 18:19:42.380
>>67
俺も女はいいや
ひどい目にあった
やはり人との関わりは最小限にして心の平穏を保つべきだな
幸い苦痛になるような健康障害はないし
0070考える名無しさん
垢版 |
2015/04/23(木) 19:18:53.610
それって結局、働き蜂や働き蟻のように他人の幸福に尽くすだけだろ
0071考える名無しさん
垢版 |
2015/04/23(木) 19:48:09.520
ショーペンハウアーによると幸福という考え方自体が幻想らしいぞ
0072考える名無しさん
垢版 |
2015/04/23(木) 20:50:51.000
俺は可愛い処女が欲しい
でもセックスが怖いから一緒に暮らすだけでいいんだ
そんな妄想を抱きながらきっと老いていくんだなぁ
0073考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 09:43:01.920
囲碁が趣味で暇な時間は囲碁をやっているが
囲碁は対人趣味だから相手に勝った負けたがついて回る
だからショーペンハウアーの言う高級な趣味とは言えないんだろうな
0074考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 10:15:47.750
ショーペンハウアーは不細工で短小だったから、恥ずかしくて生身の女と付き合えなかっただけ。
哲学に逃避した。

現実はそういうもんだ。
0075考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 10:18:58.490
この世は結局のところ地獄だから、
いかに苦痛を少なくやり過ごして死ねるかが大事なんだろ?
0077考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 10:27:20.140
何もしてこなかったからこれから何をして良いか分からない

友達の小さい部屋に集まってタバコ吸ったり、皆で町に出て色々店を巡るという事がしんどくなったんだよ
何もしないで独りでぼうっとしているのが一番楽だという事になった
勉強も何もせずにただ流してモラトリアム時間を過ごした
でもそうしてもいられない
0078考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 10:29:32.280
モラトリアムが終わったけど、殆ど完全なモラトリアムだったから今後やるべき事がない
0082考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 10:31:30.010
そんな状態で女性と付き合えるわけないじゃん
生活力ゼロだから
0084考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 12:34:57.280
金がないと困窮に苦しむことになるからなあ
退屈に悩まされるのは金に余裕ができてからの話だ
0085考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 15:21:15.860
金だけならまだしも、老いと病気が間違いなく迫って来るからね。

若いうちは貧乏でもそれなりに楽しいけど、それは体力の余裕があってのものだと思う。
0086考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 17:48:22.650
>>85
貧乏でも生活保護と4大疾病だとか障害者の介護制度があって
一割程度負担で介護が受けられる。
若いころは女にモテないことが悲惨に思うかもしれないが、男が欲しい
のは女の優しさと身体だろ。今は優しさとか求めても無駄だ。
だったらいっそ諦めて風俗通いで済ませる手もある。
女だって生活費目当てだからな、変な女が多すぎる。
0087考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 18:06:51.750
女が男に優しさと体を求めて何故悪い
変な男の方が多いだろう
短小キモオタ野郎が舐めんな
0088考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 18:09:18.970
ショーペンハウアーは健康が何よりも大事だと言っているがその通りだな
健康でなければやりたいことはできない
0089考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 18:42:14.200
この世で生きてる意味なんかないよなあ
とは言っても今のところ死にたいとも思わないが
0090考える名無しさん
垢版 |
2015/04/26(日) 19:00:06.810
>>89
何を言いたいのかわからない
お前の感想なんて知りたくも無い
哲学じゃ無いよね
0091考える名無しさん
垢版 |
2015/04/27(月) 21:06:04.910
>>90
ショーペンハウアーが言いそうなレスしてよ
0092考える名無しさん
垢版 |
2015/04/27(月) 21:11:19.710
最近の草食系とショーペンハウアーの相性は良さそう
0093考える名無しさん
垢版 |
2015/04/28(火) 01:07:24.640
>>88
健康を損ねたのでわかる。
生きる気力がなくなった。
安楽死を望む。
0094考える名無しさん
垢版 |
2015/04/28(火) 20:19:27.600
医者にならずに哲学者になったところはキチガイだが

ショペンハウエルみたいな人がいたという事は救いでもある
0095考える名無しさん
垢版 |
2015/04/28(火) 20:28:37.890
さとり世代とかいうのは大卒が増えて
知性が高い奴が増えてきたからなんだろうな
知性が高いほど社交的でなくなるとショーペン先生も言ってるし
0096考える名無しさん
垢版 |
2015/04/28(火) 22:05:17.710
さとり世代ってのは時代が産んだ虚無主義的な子達なんじゃないのかな〜
大卒増えたって言っても単位取っただけって子も多いだろうし
インターネットが普及して、大学に行かなくても図書館に行かなくても色々知ることが出来るって方が大きいと思う
0097考える名無しさん
垢版 |
2015/04/29(水) 07:34:45.890
哲学志向の人ってまだ本当に大人になっていないんだよ

大人になればもっと具体的社会的な方に興味が行くから

まだ自己の殻があるんだね
0098考える名無しさん
垢版 |
2015/04/29(水) 14:52:27.330
>>97
大人になっていたとしても金がなけりゃダメだし病気になれば死ぬことを考えるよ。
ぼくらは子どもってだけじゃない、ある程度お金に困ってないのさ。
0099考える名無しさん
垢版 |
2015/04/29(水) 16:16:49.100
金に余裕がないと毎日の生活に追われるだけで
思索にふけるなんてなかなかできないよな
0100考える名無しさん
垢版 |
2015/04/29(水) 16:20:37.170
イキオクレのクズ婆
0102考える名無しさん
垢版 |
2015/04/30(木) 01:21:47.280
頭が悪い分だけ悟りも得やすいんですよ
賢い人ほど思考迷路から出られない
どちらがいいかはともかくそういうものなんです
0103考える名無しさん
垢版 |
2015/04/30(木) 17:03:20.570
労働しなければメシも食えない奴らではないから
俺たちはその点では勝ち組だな

そこそこの贅沢だってできるわけだし
買い物もするわけだから
0104考える名無しさん
垢版 |
2015/04/30(木) 17:19:38.570
中村元が仏教学者になった原因
【体が弱かったから】

工業系に進んで仕事をするなどとても無理だったらしい
0105考える名無しさん
垢版 |
2015/04/30(木) 18:30:13.600
>>102
頭が悪いと酒や女、美食、パチンコなどに耽って
悟りとは程遠い気がするんだが
0106考える名無しさん
垢版 |
2015/04/30(木) 20:33:26.060
それと悟りとどんな関係が?
0107考える名無しさん
垢版 |
2015/05/02(土) 20:19:53.770
ショペンハウエルには親からの財産・遺産があったから
年金ももらってたし
0108考える名無しさん
垢版 |
2015/05/06(水) 17:44:56.150
>>74 残念なことにショーペンハウアー先生は美人の新進女優と大恋愛をしていた。
いきつけのカフェのオーナーによると「美男子とはいえないが、鋭く深い眼差しで
魅力的な青年だった」とか。母親は流行作家。裕福な家に生まれ、幼い頃からその才能を
ゲーテに認められながらも、ヘーゲルというスターの影に埋もれた孤高の人。
時代の反逆児。コンドルのジョー。モテない要素がなにもない。
0109考える名無しさん
垢版 |
2015/05/06(水) 18:04:24.910
翻訳はいいのに翻訳者が嫌いで買いづらい
0111考える名無しさん
垢版 |
2015/05/19(火) 15:14:31.680
ショーペンハウアー読んでからニーチェを読むと面白いな。ニーチェが尊敬しつつもボロクソ言ってて興味深い
0112考える名無しさん
垢版 |
2015/05/19(火) 23:05:47.570
その後にシオラン読んだら今度はニーチェにボロクソ言ってんだよな
0113考える名無しさん
垢版 |
2015/05/21(木) 13:34:01.790
シオラン読んでる方がいて驚いた。生誕の災厄のみ読んだことあるけど、確かにニーチェに関して言及してた記憶がある
0114幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/05/24(日) 22:22:22.590
よしんばそれが寓話的に表現された真理にすぎないにしてもだ。さてこの真理は、権威に支えられて、
まず第一に人間の本来的に形而上学的な素質に訴える。つまり、われわれの生存の迫りくる謎を解きたい
という欲求や、世界の自然的なものの背後に、なんらか形而上学的なものが、すなわち不断の変化の基礎
となる不変なものがひそんでいるにちがいない、という意識から発する理論的欲求にまず答えるのだ。
つぎにこの真理は、たえず苦しみながら生きている人間の意志に訴え、恐怖や希望に答える。だからこの
真理は、人間どもが呼びかけたり、なだめたり、味方にしたりすることのできる神々や悪霊を、人間の
ために創りだすわけなのだ。最後にこの真理は、否みがたく存在する人間の道徳的意識に訴える。つまりわ
れわれに外部から保証と拠点をあたえてくれるのだ。この支柱がなかったら、さまざまな誘惑と戦いな
がら、われわれはとうてい毅然たりえないだろう。まさにこの側面から、人生の数知れぬ大きな悩みに
さいして、宗教はなぐさめと安心の無尽蔵の源泉となるのであって、この泉は臨終に及んでもわれわれ
を見放すことはなく、むしろ死においてこそその働きを全面的に展開するのだ。だから宗教は、盲人の
手をとって導いてやる人に等しい。なぜなら、盲人は自分ではものが見えないのだし、しかも肝心なこ
とは彼が目標に達するということであって、一から十までなにもかも見ることではないからだ。

フィラーテス その面はじっさい、宗教の頂点だ。宗教が一種の「欺瞞」(fraus)だとしても、た
しかにそれは「敬虔な欺瞞」(pia fraus)ではある。そのことは否定できない。しかし、そうなると、
僧侶というものは、詐欺師と道学者の奇妙な混血児ということになる。
0115幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/05/24(日) 22:35:30.340
というのは、きみ自身がまったく正しく説明したように、僧侶は本来の真理を知らないわけだが、たとえ
知っていたところで、人に説いてはならないからだ。しょせん、真の哲学というものはありうるが、真の
宗教など、まったくありえないものだ。ぼくが「真」というのは、言葉の真実・本来の意味でいうので、
きみがやったように、ただ文章の綾で比喩的にいうのではない。きみがいうような意味なら、どんな比喩
だって、程度の差こそあれ、真だろうからね。ところで、真理のなかで最も重要な、最高かつ最も神聖な
真理が、虚偽を混じえてしかあらわれないということ、それどころか、比較的強力な作用を人間に及ぼす
虚偽から真理が力を借りて、啓示として、虚偽によって導きいれられなければならないということは、こ
の世にあまねく行きわたっている解きがたいからみ合い、すなわち幸と不幸、正直と不正、善意と悪意、
高潔と卑劣といったものが混ざりあっていることと完全に符合しているわけだ。われわれは、最高の真理が
虚偽とからんでいるというこの事実を、道徳的世界の花押とみることもできよう。ところでわれわれは、
人類がいつかは、一方では真の哲学を創造し、他方ではこれを受けいれることのできるような、成熟と
形成の時点に達するだろうという希望を捨てたくはないのだ。だって「単純は真理の印章」というではな
いか。裸の真理はきわめて単純で理解しやすいものでなくちゃならん。神話や寓話(嘘八百)なんか混ぜ
なくても――つまり宗教という覆面をかぶせないで、その真の姿のままで万人に伝えなくちゃいけないんだ。
0117考える名無しさん
垢版 |
2015/05/30(土) 10:12:04.710
ショーペン保守
0118考える名無しさん
垢版 |
2015/06/01(月) 22:35:23.700
この世界は悪魔が作ったんだ、その中で人間が苦しむのを楽しむために作ったんだって言ったのって本当?
本当ならその箇所を教えてください。
0119考える名無しさん
垢版 |
2015/06/04(木) 13:35:13.150
見た覚えはないな..皮肉で言った可能性はあるかも..
0120118
垢版 |
2015/06/06(土) 15:30:29.090
>>119
そうか。。。とりあえずレスサンクス。
0122初カキコ
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2015/07/02(木) 11:58:03.960
先ず健康であれば、
9割の幸福を得たも同等である
健康を捨ててまで享楽を得るのは滑稽である
住む場所や、名誉、財産等は虚栄心の求めるものであり、
賢者は優れた精神活動を行えることのみ望む
0123初カキコ
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2015/07/02(木) 22:21:09.070
ショーペンハウアー氏に感化され、
身体に気遣い、精神活動により高度な専門技術を体得してみたが、
確かに幸福は享楽ではなく、
己自身の精神活動にあると共感できる

だが、虚栄心は捨てきれない
なぜなら、私には少なからず社交が有るからである
0124考える名無しさん
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2015/07/03(金) 14:11:10.860
ショーペンハウアーには非西洋的な要素が流れ込んでて、そのことが思想全体の
パースペクティブをより明確にさせていると思うんだよね。
他の哲学者とは明らかに一線を画している。
0125考える名無しさん
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2015/07/05(日) 22:36:31.500
高校で使う倫理の資料集を買って思想史の復習してるんだけど、
ショーペンハウアーが載ってなくてガッカリ。
なんでだろう?ニーチェは載ってるのに。
ヘーゲルがでかでかと出てるんだけど、これをショーペンハウアーが見たら激怒するだろうな…。
ちなみに清水書院のやつです。
0126考える名無しさん
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2015/07/06(月) 00:21:49.850
意志と表象としての〜一巻を読んでいるのですが、
表象のうちに原因結果の因果性を置きいれるのは何なのですか?
悟性は結果から原因へとさかのぼる働きのみですよね?

因果性=物質ですから、感性による働きですか?
0127考える名無しさん
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2015/07/08(水) 07:22:49.770
仏教学者・インド哲学専攻【中村元】

1999年10月逝去
0128考える名無しさん
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2015/07/21(火) 00:05:17.340
意志と表象としての世界、
中公クラッシックスの3冊買って読んでみた、
1〜3巻はけっこう難しい、
世界は私の表象というのはわかった、
哲学慣れてないなら、4巻から読んだ方がいいかも、
エピクロスの教えみたいに、
体の苦痛が無ければ、あとは平静な心を目指して、
共苦からの同情を経て、
盲目的な意志から解脱するんですね、
人生とは苦悩、ということがよく分かった。
0130幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/07/23(木) 08:36:35.000
フリードリッヒ=シラー著 『メッシーナの花嫁』

Ungleich verteilt sind des Lebens Güter
Unter der Menschen flüchtgem Geschlecht,
Aber die Natur, sie ist ewig gerecht.
Uns verlieh sie das Mark und die Fülle,
Die sich immer erneuend erschafft,
Jenen ward der gewaltige Wille
Und die unzerbrechliche Kraft.
Mit der furchtbaren Stärke gerüstet,
Führen sie aus, was dem Herzen gelüstet.
Füllen die Erde mit mächtigem Schall,
Aber hinter den großen Höhen
Folgt auch der tiefe, der donnernde Fall.
0131幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/07/23(木) 08:37:03.080
Darum lob ich mir niedrig zu stehen,
Mich verbergend in meiner Schwäche!
Jene gewaltigen Wetterbäche,
Aus des Hagels unendlichen Schlißen,
Aus den Wolkenbrüchen zusammen geflossen,
Kommen finster gerauscht und geschossen,
Reißen die Brücken und reißen die Dämme
Donnernd mit fort im Wogengeschwemme,
Nicht ist, das die gewaltigen hemme.
Doch nur der Augenblick hat sie geboren,
Ihres Laufes furchtbare Spur
Geht verrinnend im Sande verloren,
Die Zerstörung verkündigt sie nur.

-Die fremden, Eroberer kommen und gehen,
Wir gehorchen, aber wir bleiben stehen,
0132幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/07/23(木) 08:37:24.780
抄訳

人の世の財貨は儚い人類のあいだに、
不公平な分配をされているが、自然は永久に公平である。
我々には年々歳々あらたに産み出される
果実や穀物が豊かに与えられている限り、
彼らには不敵な意志と、
挫けることのない力が恵まれている。
彼らは恐るべき武力をそなえて、
心の欲するがままのことをやってのける。
そして世界に轟く名声をあげる。
けれども絶頂までのぼりつめた後には、
深い、轟然たる堕落があるのみだ。
0133幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/07/23(木) 08:37:53.030
だからわたしは、自分の力の弱さに安んじて、
低い身分にいるほうがありがたい。
あの、あらしの時には、
無限に降りそそぐ霰や雹や
豪雨などが集まりながれて早瀬となり、
淙々滔々たる奔流は、
橋を流し、堤防を破って、
轟々と大浪うって氾濫する。
その強い力には何ものも歯向えない。
けれどもこの様な奔流も瞬間の生んだ子だ。
その恐ろしい流れの跡も、
やがて砂地に掻き消えて、
ただ破壊の様がその跡かたを示すに過ぎぬ。

―他所の侵略者は来ては往く
吾等は服従はするが、ここに止まっている。
0134考える名無しさん
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2015/07/23(木) 22:23:32.740
人間はマジメに生きることなどできない。

感官を追い求めるブタに過ぎない。
0135考える名無しさん
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2015/07/23(木) 23:41:01.290
生きる意志を否定して、解脱するのです。
0136考える名無しさん
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2015/07/24(金) 13:01:29.390
ラルフ・ウォルドー・エマソンを読んでみてくれ
たぶんセットで読まれるべきものだと思う
0137考える名無しさん
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2015/08/05(水) 12:07:14.780
光文社古典文庫「読書について」の鈴木芳子訳はいいな。
岩波文庫のやつは読みづらい。
新潮文庫の「幸福について」も訳が悪いというほどでもないが、時代がかった古臭い訳文が鼻に付く。
本来は「余禄と補遺」は西尾の名訳を期待したいのだが、忙しそうだから無理だろうな。
光文社から鈴木の翻訳を出してほしい。
0138考える名無しさん
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2015/08/07(金) 09:58:59.020
ttp://www.tulip-k.co.jp/todotoku/0410seimei_1.html
ここのサイトに臨終の際のエピソードが載ってるんだが、これの出典知ってる人いる?
人間臨終図鑑だとかに掲載されてる話とはどうも違うようだし、調べまわっても似たようなサイトしか出てこない
嘘エピソードだと思っているけど、伝記本もまだ読んでない不勉強さだから俺では断定出来ぬ
0139考える名無しさん
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2015/08/07(金) 13:01:56.580
ショーペン先生がいてくれて本当に良かった。
後世への影響の大きさと知名度が比例していないが、その哲学からいって無理も無い。
0140幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 11:49:47.160
デモフェーレス きみは大衆のおそまつな能力をじゅうぶんつかんでいないよ。

フィラレーテス ぼくはただ希望としてそう言っただけなんだが、この希望は捨てるわけにはいかな
い。この希望が実現すれば、単純で理解しやすい形の真理は、宗教が長いあいだ代理的に占めていた座
から宗教を突き落とし、宗教が真理のためにあけておいてくれた座におさまることになろう。そうなれ
ば、宗教はその任務を完遂し、自分のたどるべき道程を完走したことになり、成年に達するまで導いて
きた人びとを手放して、みずからは静かに消え去ることができよう。これこそ宗教の極楽往生だろう。
しかし宗教が生きているかぎり、二つの顔をもちつづけるわけだ。真理の顔と、虚偽の顔だ。そのどち
らかに注目するのに応じて、宗教を愛する人もあろうし、また宗教を敵視する人も出てくるだろう。だ
からわれわれとしては、宗教を一種のやむをえない禍とみざるえない。それがどうしても必要だとい
うのは、真理を把握する能力のない、したがってまたさし迫った場合には、真理の代用品が必要となっ
てくる大多数の人間のあわれむべき精神の弱さにもとづいているわけだ。

デモフェーレス 正直なはなし、きみたち哲学者が真理をもうすでにできあがったかたちでもってい
るとしたところで、そいつを把握するのが問題だってことも、考えてみるべきじゃないか。
0141幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 12:04:25.360
フィラレーテス われわれが真理をもっていないのは、主として、あらゆる時代、あらゆる国々で、
哲学が宗教におさえつけられてきた重圧のせいだよ。真理を口に出して言うこと、伝達することばかり
か、いや、それだけではない、真理を考えたり発見したりすることでさえ、よってたかってできないよ
うにしようとこころみられてきたのだ。その方法は、ごく幼いときに、人びとを僧侶の手にゆだねて、
その頭に手を加えさせることだった。すると僧侶は、これからさき、思想の根幹のところがたどるべき
軌道を、それこそがっちりとみんなの頭にたたきこむものだから、だいたいにおいて、その根本思想は
一生涯、固定して動かなくなってしまったのだ。ぼくは、とりわけぼくの東洋研究のためだけれど、十
六・十七世紀の著作を手にすることがあるが、これらの著作が、最もすぐれた人たちのものえさえ、い
たるところユダヤ的根本思想のために麻痺してしまい、あらゆる側面から束縛されているのを知って、
ときとして驚かざるえないのだ。こういう仕組みじゃ、真の哲学など考えられるはずがないよ!

デモフェーレス その真の哲学とやらが見つかったにしたって、きみが考えているように、宗教がこ
の世から姿を消すことにはならないだろうよ。だって、たったひとつの形而上学で、万人にむくなんて
ものは、ありえないからだ。人それぞれ、精神力にはもって生まれた差異があり、それに加えてその精
神力を育てる違いも出てくるから、ただひとつですべての人間に間に合うということは、絶対ありえない
のだ。大多数の人たちは、全人類の際限もない需要をみたすために不可欠な、重い肉体労働にいやでも
従わねばならぬ。そのため彼らには、教養や勉強や思索の余暇もあたえられないばかりか、刺激性と感
受性の決定的な対立のために、多くの張りつめた肉体労働は、精神をぼけさせ、鈍重・無骨・不可発に
する。したがってきわめて単純な、具体的な事情しか理解できないようにしてしまう。ところで少なく
とも人類の九割はこの範疇に属するのだ。
0142幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 13:11:54.400
 しかし、それでも人びとは、形而上学というものを、す
なわち世界とわれわれの生存についての説明を求める。それは人間の最も自然な欲求のひとつだから
だ。しかも彼らが必要とするのは、民衆形而上学なのだ。これが、民衆のための形而上学であるために
は、じつに多くの珍しい特性をあわせもっていなくてはならない。すなわち、しかるべき点で、ある種
のあいまいさを、いや、不可測性をもちながら、非常にわかりやすいということ。つぎにそのさまざま
な教義に、正しいじゅうぶんな道徳が結びつけられているということを。しかしなににもまして、苦しみ
や死の場合に、汲みつくしえない慰めをもたらすものでなくてはいけないということだ。このことから
すでに、民衆形而上学なるものが、比喩的な意味でのみ真でありうるのであって本来的な意味では真
でありえない、という結論が出てくる。さらに民衆形而上学は権威の支持を得なくてはならないが、そ
れは年代が古いとか、世間一般が認めているとか、聖典があってその語調も文体もすばらしいといった
ようなことから起こってくるのだが、そういう性質がすべてそろっているとなると、なかなかむつかし
いことだ。だからこういう点を考える人だったら、そう簡単に宗教をひっくりかえすことに片棒をかつ
がないで、宗教こそ民衆の宝なのだと考える人も少なくはないだろう。宗教について判断をくだそうと
する者は、宗教が相手とする大衆の性質・状態をつねに注視する必要がある。道徳的にも知的にも、大
衆がおそろしく低いということを念頭におかなくてはいけない。その低調さはお話にならぬが、奇怪な
作り話やグロテスクな儀式のきわめて粗野な被覆の下にさえ、真理が隠然として微光を放っているさま
は、信じがたいものである。それはちょうど、麝香の匂いが、いちどそれに触れたすべてのものにしみ
ついて、なかなかとれないのと同じだ。こういう消息を解きあかすには、ウパニシャッドにこめられてい
る深いインドの知恵を考察したうえで、巡礼や行列や祭典に示されている今日のインドの気違いじみた
偶像崇拝や、当今のサニアッシの荒れ狂う奇怪な行状をながめてみればよいのだ。
0143幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 13:30:24.900
 しかし否定すべくもないことは、こうしたすべての奇々怪々な狂乱ぶりのなかに、右に述べた深い知恵
と一致するもの、あるいはその知恵の反射を示すなにものかが、深くおおい隠されているということだ。
獣じみた大衆には、こういう仕組みが必要だったわけなんだ。――われわれがこの対照で眼前にしている
のは、人類の両極、すなわち個々人の知恵と大衆の獣性だが――しかし両社は道徳の畑で一致する。ああ、
ここであの『クラル』の箴言を思いださない人があろうか。それは「賤民というやつは人間面はしている
けれど、はじめてお目にかかるしろものだ」(1071行)というのだ。――相当程度に教養をもった人
だったら、宗教を適当な匙かげんで解釈することもあろうし、学者、思索的な人だったら、宗教をひそ
かに哲学と取っかえることもあろうが、しかしこの場合だって、ただひとつの哲学で万人にあつらえむ
きというわけにはいかない。それぞれの哲学が、親和力の法則に従って、その教養なり精神力なりがそ
れなりに相応している相手をひきつけるのだ。だからいつの世にも、博識な民衆むきの低級な学校式形
而上学と、選ばれた人むきのそうとう高度な形而上学とが存在するわけさ。たとえばカントの高遠な学
説もフリース、クルーク、ザラート、といった連中によって、まず学校のために引きさげられ、台なし
にされる羽目になったではないか。要するに、この場合こそ、「一事が万人に適合することはない」と
いうゲーテの句が、まさにそのものずばりなのだ。純粋な啓示信仰と純粋な形而上学とは両極端のため
のもので、その中間層のためには、二つのものが無数の組み合わせと等級をなして、入り混じり変化してゆ
くのだ。人間の生まれながらの性質と教養からくる千差万別が、まさにこのことを要求するわけだ。も
ろもろの宗教こそがこの世に充満し、この世を支配している。そして人類の大部分の者が、これらの宗教に
服している。それと並行して、ゆっくりながら次から次と哲学者が物静かに立ちあらわれ、素質と教養
によってそれだけの力をそなえた少数者のために、大きな神秘の謎解きにあたるのだ。だいたい平均し
て、哲学者の出現は一世紀に一人だ。こういう哲学者は、ほんものだとわかると、たちまち歓呼をもっ
て迎えられ、世人も注意ぶかく耳を傾けることになるのだ。――
0144幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 13:58:11.240
デモフェーレス そういう話を聞くと、さっききみが言った古代人の密儀のことを真剣に考えてみよ
うという気になるね。あの密儀の根底には、精神的素養や教養の違いからくる弊害を取り除こうという
意図がひそんでいるように思われるからだ。その意図というのは、ヴェールをかぶらない真理などに、
どうしても近よれない大多数の人々から、ある程度まで、そのヴェールをはいでみせられるような若
干の人たちを選びだし、そのつぎにまた、このなかから、もう少し理解力が進んでいるために、もう少
し打ち明けられるような数名の者を選ぶというぐあいにして、だんだんのぼって、奥義伝授者に至ると
いうことだった。そういうわけで密儀にも、「小さい密儀、より大きな密儀、最も大きな密儀」と段階
があったのだ。人間の知性が平等ではないという正しい認識が、このことの根底にあったわけなんだ。

デモフェーレス 現代では、下級、中級および上級学校の教育が、あるていど、そういう段階をもっ
た密儀の得度式のかわりになっているね。

フィラレーテス ごくだいたいの話にすぎないよ。それも、高度の知識の対象について、もっぱらラ
テン語で書かれた時期に限るのだ。ラテン語で書かれなくなってからは、どんな密儀もすべて俗化して
しまったからね。

デモフェーレス それはともかくとして、宗教については、きみがもう少し理論面は軽くみて、もっ
と実践面を重視するよう、注意をうながしたいと思うね。たとえ人格化された形而上学が宗教の敵だと
しても、人格化された道徳は宗教の味方だろう。もしかしたら、あらゆる宗教で、形而上学的な点は
誤っているかもしれないが、道徳面では、どの宗教も真だ。このことはすでに、形而上学の問題では、
あらゆる宗教がたがいに抗争しているのに、道徳面ではすべて一致していることからも想像される点
で、――

フィラレーテス つまり、誤った前提から、真実の結論が出てくることもあるという論理学の法則の
一例というわけ。
0145幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/20(木) 14:50:29.150
デモフェーレス だったら、その結論だけはつかまえて、宗教には二つの側面があるということを、
いつも忘れないでほしいんだ。たんに理論的な、つまり知的な面から見れば、宗教など、まともに一本
立ちできないにしたって、道徳的な面からすれば、理性をさずかった人間という動物をみちびき、飼い
ならし、なだめすかす唯一の手段なんだ。だって人間は、猿と血つづきだといっても、虎の血を引いて
いないわけでもないからね。と同時に宗教は、人間のもっているおぼろげな形而上学的要求を、普通な
らじゅうぶん満たすものなのだ。ぼくに言わせると、きみはどうも、そのきみの博学な頭脳、考える修
練をつんだ明晰な頭脳と、駄馬同然の人たちの、にぶくて無骨な、濁ってのろのろした意識とのあいだ
に、天と地ほどの差、深い断層があることを、じゅうぶんつかんでいないように思えるのだ。人類のな
かのあの駄馬のような連中の思考は、生計の心配で釘づけになっていて、ほかの方向に動かせるもので
なく、もっぱら筋肉の力だけを働かせる結果として、知性のもとになる神経の力のほうは、ひどく低下
してしまうのだ。あの連中だって、滑りやすくて刺の多い彼らの人生行路を渡ってゆくうえで、頼りに
できるなにか確たるものを、どうしてももつ必要があるわけだ。つまりなにか美しい寓話をもたざるを
えないのだ。この寓話のおかげで、彼らの粗野な悟性が象徴や比喩でしか受けいれられないような事柄
が、彼らに伝えられることになる。

フィラレーテス 正直も嘘、徳も欺瞞だから、せめて寓話の衣でも着せて飾る必要があるとでも、き
みは思っているのかね?

デモフェーレス とんでもない! でもあの連中だって、彼らの道徳的感情や行動を、なにかに結び
つけざるをえない。深い説明や繊細な区別などしてみたところで、彼らの心をつかまえられるものじゃ
ない。宗教の真理は比ゆ的な意味のものだと言うかわりに、カントの道徳的神学がそうであるように、
実践的目的のための仮設、あるいは入門的図式とよんでもいいかもしれない。
0146幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/20(木) 15:03:42.370
磁気を説明するために物理学で電流の仮設を設けたり、化学の畑で化合の関係を説明するのに原子の仮設を立て
たりするのと同じ流儀の調整手段だ。こうした仮設は客観的に真だときめてかかるには用心しなければならぬが、
いろんな現象を結びつけるために使われるというのも、その結果や実験の点では、ほぼ真理そのものと同じ
役割をはたすからだ。こうした仮設は行動の指針となり、思索する場合には主体に安心をあたえてくれ
る。きみが宗教をそういうふうに受けとって、その目的とするところは主として実践面にあり、理論は
従だと考えるなら、宗教だって大いに尊重すべきものだというふうに思えてくるだろうよ。

フィラレーテス けっきょく、目的は手段を神聖にするという原則を、どれほど尊重するかだろう
が、ぼくはそういう原則にもとづく妥協には、応じる気にはないね。たとえ宗教がこの二本足の動物、つ
むじまがりで、鈍感で、意地のわるいこの動物を飼いならし、仕込むには、まことにすぐれた手段だと
したって、真理を友とする者の目には、たとえそれが「敬虔な」ものであろうと、すべて「欺瞞」は唾
棄すべきものだ。嘘や欺瞞は珍しい道徳の手段かもしれぬが、ぼくが誓いを立てた旗は真理なので、ど
んな場合もこの旗に忠誠を守って、効果なんか気にかけず、光と真理のために戦いぬくよ。宗教を敵の
隊列に見かけたら、ぼくは――

デモフェーレス ところがきみは敵の隊列なんかに宗教を見いだすことはないよ! 宗教は欺瞞じゃ
ない。それは真であり、あらゆる真理のなかでいちばん大切な真理だ。しかし、まえにも言ったよ
うに、その説くところが、大衆には直接理解しえないほど高い性質のものであり、いいかね、その光で大
衆の目がくらんでしまうくらいだから、宗教は寓話のヴェールをかぶってあらわれるのだ。そしてその
説くところは、それ自体として真ではないにしても、そこにふくまれた高い意味からすれば真なん
だ。こう解すれば、宗教は真理だよ。
0147幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/22(土) 14:19:11.570
フィラレーテス それはたしかに聞くべき意見だろう――もし宗教がただの寓話としてのみ真だと言う
のならね。ところが宗教は、言葉のまったく本来的な意味で、端的に真だと言いはりながら出てくるの
だ。ここに欺瞞がある。この点こそ、真理を友とする者が、宗教に敵対せざるえない点なんだ。

デモフェーレス しかし、それは必然的制約だ。もし宗教が、その教えの寓話的意味だけが真だと、
その内情を打ち明けようものなら、効果はあがったりで、人間の道徳面・情操面に及ぼしていた宗教の
測りしれない好影響は、そういう厳格主義のために失われることになろう。かたくなに杓子定規をふり
まわさないで、実践面で、つまり道徳や情操方面で宗教が果たしている大きな仕事に注目すべきだ。行
動の指針として、生や死における悩める人間の支えとして、また慰めとして、宗教があげている実績を
見るべきだ。そうすればきみだって、民衆の慰めと安心の無尽蔵の源泉になっているものに、いたずら
に理論的酷評を加えて、これを疑わしいものにし、ついに民衆の手からそれを取りあげるようなことは
しまいと、大いに気をつけるようになるだろう。だって民衆は、われわれ以上につらい運命にさらされ
ており、われわれ以上にこの源泉を必要としているのだ。その意味だけからも、絶対に手を触れてはい
けないのだ。

フィラレーテス そういう論拠なら、免罪符の売買を攻撃したルターを槍玉にあげることだってでき
ることになるぜ。だって、免罪符は、じつにたくさんの人にとって、代えがたい慰藉、完全な安心の源
泉になったんだ。彼らは、臨終の床で免罪符をしっかりにぎりしめ、それに全幅の信頼をよせ、これで
九重の天のどこへでもはいれると確信しながら、安心して死んでいったのだ。――だまされていたのが
わかるという、いわばダモクレスの剣がいつも上にぶらさがっているような慰藉や安心の根拠など、な
んの役に立とう! ねえきみ、真理だけが確実なんだ。永持ちし、忠実なんだ。真理の慰めだけが堅い
慰めだ。真理は不壊のダイヤモンドだよ。
0148幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/22(土) 14:34:13.680
デモフェーレス なるほど、きみたちがポケットに真理を忍ばせていて、お望みに応じて、われわれ
をうれしがらせてくれるというのならね。だが、きみたちのもっているのは、さまざまな形而上学の体
系にすぎぬ。そのために頭をくだくこと以外に、確かなものはなにひとつ、そこにはないのだ。ひとさ
まからなにかを取りあげる以上、なにかそのかわりに、もっとよいものをさしだせなくちゃ。

フィラレーテス そんなことをいつまでも聞かされちゃ、たまらないよ! ある人を誤謬から解放す
るということは、その人からなにかを奪うことではなくて、あたえることだよ。あることがまちがって
いるという認識は、まさに一つの真理だからね。誤謬で有害なものはないんだ。おそかれはやかれ、誤
謬をいだいている人に禍をあたえることになるのさ。ひとをペテンにかけてはいけない。知らないこと
は知らないと白状するほうがましだ。そしてだれにでも、めいめい自分の教義をつくるように任せたら
いいのだ。いろんな教義が出てきたって、さしてひどいことにもならんだろう。おたがいに摩擦し、修
正しあえば、なおさらだ。いずれにせよ、見解の多様性は寛容の基礎になろう。しかし、知識や能力に
めぐまれた人たちは、哲学者の研究にとりかかるか、自分で哲学史を一歩さきへ進めればいいんだ。

デモフェーレス そうなったら壮観だろうて! めいめい縄張りをもって、甲論乙駁し、ときにはな
ぐりあいも辞さない形而上学者がわんさかと出てくるわけだ!

フィラレーテス なあに、たまに棍棒の飛びかうのも人生の薬味さ。あるいは、僧侶政治、俗人の掠
奪、異教徒迫害、宗教裁判、十字軍、宗教戦争、聖バルトロメウス祭の夜の虐殺などに比べたら、少な
くともほんのちょっとした悪だ。こうした事件は、なんといっても天下ごめんの民衆形而上学の結果
だった。だからぼくは、いばらのやぶから葡萄がとれる見込みはなく、欺瞞から救いは期待できないと
いう説を曲げないのだ。
0149幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/24(月) 12:46:34.440
デモフェーレス くどいようだが、宗教は断じて欺瞞じゃない、真理そのものだよ。ただ神話や寓話
の衣をつけているだけだよ。――みんながめいめい自分の宗教の開祖になればいい、というきみの腹づ
もりについては、ぼくには文句がある。そういう分離主義はまったく人間の本性に反しているよ。それ
を許したら、社会秩序なんかすべてめちゃくちゃになるぜ。人間は形而上学的動物だ。つまり、きわめ
て強い形而上学的欲求の持ち主なんだ。だから人生の形而上学的意義をまっさきにつかみ、そこからす
べてが導きだされることを求めるのだ。あらゆる教義が不確かなんだから、とても変に聞こえるかもし
れないが、形而上学的根本見解の点で一致していることが、人間にとって肝要なことなので、それはそ
の点で同じ考えをもっている人たちの間でだけ、真の永続的共同体が可能になるくらいなんだ。そのた
め諸民族の離合集散だって、政府や、それどころか言語によるよりも、むしろ宗教しだいなのだ。だか
ら、社会という建物も、つまり国家も、その土台に、一般に承認された形而上学の体系があってはじめ
て、完全にゆるぎないものとなるのだ。もちろんそういう体系といえば、民衆形而上学、すなわち宗教
以外にはありえない。しかしそれはやがて憲法や、民衆のあらゆる社会的生活様式や、さらにまた個人
生活のあらゆる儀式と融けあう。古代インドでもそうだったし、ペルシア人、エジプト人、ユダヤ人に
おいても、またギリシア人、ローマ人においても、さらにまたバラモン教や仏教や回教の諸民族の場合
もそうだった。シナでは、三種の教義が行なわれている。そのうちいちばん普及している仏教が、国家
から保護されることがいちばん少ない現状だ。しかしシナで一般に通用している、日常使われている格
言に「三教は一なり」というのがあるが、大筋のところで三つの教義が一致するというのだ。皇帝もま
た三教をすべて同時に、一つにして信奉する立場を表明している。
0150幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/24(月) 13:02:14.530
最後にヨーロッパはキリスト教的国家同盟だ。キリスト教が各同盟国家の基礎になっており、そのすべて
の国をつなぐ共同の紐帯になっている。そういう意味から、トルコはヨーロッパに位置してはいるけれど、
ほんらいヨーロッパには数え入れられないのだ。したがってヨーロッパの君主は、神の恵みによって
「天佑を保全せる」君主なのであり、ローマ教皇は神の代官というわけだ。だから教皇は、その威勢の最も
盛んであったときには、あらゆる帝位を彼の授けた采邑とみなすように求めたのだ。同様に、大僧正や僧正
も、そういう立場から世俗的権能をもっていて、現にイギリスでは上院に議席と発言権をもっているわけな
んだ。プロテスタントの君主たちは、その建前上、その教会の長でもあるわけで、イギリスではそれが十八歳
の少女だったのも、そう昔の話ではない。宗教改革は、教皇から離れることだけですでに、ヨーロッパの
国家組織を動揺させたが、とりわけ信仰の共同体を破ることによって、ドイツの真の統一を解体したのであ
り、事実上この統一が崩壊してしまったあとから、人為的な、たんに政治的な紐帯でこれを再興せざる
をえなくなったのだ。こうして見ると、信仰と信仰の統一が、社会秩序および国家とどんなに本質的に
関連しているか、きみにもわかるだろう。信仰はどこでも法と憲法の支柱であり、つまりは社会組織の
基礎なのだ。もし信仰が政府の権威や君主の威厳をあと押ししなかったら、社会という建物の存立も困
難だろう。

フィラレーテス まったくのはなし、君主たちにとって主なる神は、サンタクロースのおじいさんな
んだ。ほかに手がないと、彼らはこのおじいさんを使って大きな子どもたちを寝床に追いやる。そこで
大いに尊重しているわけさ。もっともな話さ。それはそうと、ぼくはすべての君主にすすめたいことが
あるよ。半年に一度、はっきり決められた日に、サムエル記上の第十五章をまじめに注意して読みとも
すことだ。王位を祭壇で支えておくことが、どんなに大切かということを、いつも忘れないためにね。
0151幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 13:58:30.350
そのうえ、「神学者の最後の根拠」ともいうべき火あぶりの薪が使われなくなってからは、宗教を笠に
きて統治するという手は、ひどくききめがなくなってしまった。というのも、きみも知ってのとおり、
宗教は蛍のようなもので、光るためには闇がいるからなんだ。一般の人びとがあるていど無知だという
ことが、あらゆる宗教の条件であり、宗教が生きうる唯一の要素なんだ。ところが天文学・自然科学・
地質学・歴史・地理学・民俗学といったものが、その光を一般にひろげ、最後に哲学まで発言を許され
るとなると、奇蹟や啓示に支えられていたすべての信仰は、たちまち没落の憂き目で、哲学がその座を
占めるということになる。ヨーロッパでは、十五世紀の末ごろ、新しくギリシアを研究した人たちがあ
らわれて、認識と学問のあの一日の明けそめ、その太陽は、実りゆたかな十六世紀、十七世紀において
ますます高くのぼり、中世の霧をはらいのけたわけだ。それにつれて、教会や信仰はしだいに沈まざる
をえなかった。だから十八世紀になると、イギリスやフランスの哲学者どもが、教会や信仰に対して直
接反旗をひるがえすこともできるようになり、ついにフリードリッヒ大王の治下にカントがあらわれ、宗
教的信仰から従来の哲学の支柱を取り去り、「神学の侍女」を解放したのだ。カントがこの問題に取り
組んだやり方は、まことに泰然として徹底的だったから、宗教問題も浮わついた調子でなく、いよいよ
厳粛なおももちを呈するようになったのだ。その結果として十九世紀になると、キリスト教はすっかり
弱体化してしまい、本気に信じる者なんかほとんどなく、それどころか、すでに死ぬか生きるかの最後
のあがきまで見せるようになる。いっぽう、これを気づかう君主たちは、あたかも瀕死の重病人に医者
が麝香を使うように、人為的な刺激剤でキリスト教を助けおこそうとかかるしまつだ。だがここで聞い
てほしいのは、コンドルセの『人間精神の進歩』の一節だ。これはまるで現代の警告として書かれたよ
うにも思えるのだ。「哲学者たちや偉い人たちが宗教に熱をあげたのは、政略的な信心でしかなかった。
どんな宗教も、民衆にゆだねたほうが有利だと思いながら、それでも防衛してゆくというふうになった
ら、長い短いの差はあれ、けっきょく苦悶のはてに死ぬ以外の望みはないのだ。」
0152幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 14:25:23.280
 いままで述べてきた経過全体で観察できることは、信仰と知識の関係が天秤の二つの皿のようなもの
で、一方が上がるにつれて、他方が下がるということだ。しかもこの天秤は非常に敏感にできていて、
瞬間的な影響でも表示する。たとえば、今世紀のはじめ、ボナパルトを首領としてフランスの賤民ども
が掠奪を行ない、その後これらの輩を追いだしたり懲戒したりするのに、たいへんな苦労を払わされた
結果として、一時的ながら学問を等閑視することとなり、そのため知識の一般的普及も、あるていど低
下したとなると、とたんに教会はふたたび頭をもたげはじめ、信仰はただちに新しい活気をみせたの
だ。もっとも活気といっても、時代が時代だけに、一部はたんに詩的な性質のものにすぎなかったけれ
どもね。ところがそれにつづく三十年以上にわたる平和時代には、閑暇と福祉が学問の開拓と知識の普
及を珍しく促進したその結果として、まえにも言ったように、宗教はいまにも解体しそうなくらい衰退
したわけなのだ。もしかすると、宗教がヨーロッパの人間におさらばをする時点が、しばしば予言され
ていたように、やがてやてくるかと思われたほどだ。それはちょうど子供が大きくなって、お守りが
いらなくなると、乳母がさよならをするのと同じことで、こんどは子供は家庭教師に教えてもらうこと
になるわけだ。というのは、権威や奇蹟や啓示にもとづくただの教義が、人類の幼年期だけ適した一
時のまにあわせにすぎないことは、疑いをいれないからだ。ところで、人類の全存続期間は、自然的お
よび歴史的資料の一致して示すところによえうろ、今日までで、六十歳の男の生涯のおよそ百倍以上には
ならず、まだほんの初期幼年時代にあることは、だれでも認めるところだろう。

デモフェーレス ああ、もしきみがキリスト教の没落を予言してそんなに得々としていないで、ヨー
ロッパ人がその真の古い故郷であるオリエントから発して、その後、彼らにつき従うことになったこの
宗教に、どんなに無限に多くを負うているかを見る気になってくれればね! ヨーロッパ人はこの宗教
によって、それまで彼らの知らなかった目的を得たのだ。つまり、人生は自己目的ではありえない、わ
れわれの生存の真の目的は生存の彼岸にあるという根本真理を認識したのだ。
0153橋目町
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2015/08/24(月) 14:30:12.990
秋篠宮殿下が中島町に行ったぞ。
早く責任を取れよ!
0154幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 15:59:39.650
というのは、ギリシア人やローマ人は、生存の目的をまったく生そのもののうちに置いていた。この意味で彼らは、
たしかに盲目的異教徒とよんでもさしつかえないのだ。したがって彼らのあらゆる徳は、公益に役立つもの、――
有用なものに還元される。アリストテレスなんかも、きわめて素朴に、「他の人たちに最も役立つ徳が、
必然的に最大の徳でなければならない」(『弁論術』一の九)と言っている。だから、じっさいまた祖国
愛が古代人の最大の徳なのだ、――といっても、偏狭・偏見・虚栄・良い意味の利己心などがこれに大
いにあずかっているから、もともとこれはあいまいな徳ではあるがね。いま引用した個所のすぐまえの
ところで、アリストテレスはすべての徳目を数えあげ、ひとつひとつこれを説明している。それは、正
義・勇気・節度・鷹揚・雅量・寛仁・温情・思慮および聰明といったもので、キリスト教の徳目とずい
ぶん違っているね! キリスト教以前の古代で超越的な点では比較を絶している哲学者プラトンでさ
え、正義以上の高い徳を知ってはいない。しかもこの徳を、無条件的に、それ自体のためにすすめてい
るのはプラトンだけで、他のすべての哲学者は、あらゆる徳目の目標を「幸福な生活」に置いており、
道徳はそういう生活への手引きだった。キリスト教は、こういうはかない、不確かで味気ない生存に、
平板粗雑に頭をつっこんでいるヨーロッパ人を解放し、

    その目を天に向けさせ
    そのまっすぐな顔を星座に向けさせた

のだ。だからキリスト教はただ正義を説くだけでなく、博愛・道場・慈善・宥和・敵に対する愛・忍
耐・謙遜・断念・信仰および希望を説いたのだ。いや、さらに進んで、この世が悪に由来すること、わ
れわれが救済を必要とするものだということを教え、したがって、現世を軽蔑し、自己を否定し、純潔
を保ち、我意を捨て、人生とその欺瞞的な享楽に背を向けるように説いたわけだ。それどころか、受苦の
救いの力を認識するように教えたのであって、ある拷問具がキリスト教の象徴になっているしだいなのだ。
0155幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 16:32:34.890
 こういうまじめな、これだけが正しいといえる人生の見方が、じつは全アジアで、違ったかたちでで
はあるが、何千年もまえから行きわたっており、キリスト教とは無関係に、今日でも行なわれていると
いうことを、きみに打ち明けておきたいと思うが、ヨーロッパ人にとっては、それは新しい大きな啓示
だった。というのは、よく知られているとおり、ヨーロッパの民族は、追われ迷ってしだいにはいりこ
んできたアジアの諸族から成り立っているわけだが、彼らは民族移動のさいに故郷の原宗教を失ってし
まい、それとともに正しい人生観もなくしてしまったからだ。そこで彼らは新しい風土のなかで、独自
な、かなり荒けずりな宗教をつくりだしたんだが、そのおもなものは、ドゥルイド教、オーディン教、
ギリシア教で、その形而上学的内容にいたってはごく浅薄で取るにたらぬものだった。――

 そのうちにギリシア人のあいだに、まったく特殊な、本能的とでもよびたいような、およそ地球上に
あったあらゆる民族のなかでギリシア人にだけ固有な、繊細で正しい美の感覚が発達してきた。彼らの
神話は、その詩人たちの口をとおし、その彫刻家の手によって、まことにみごとな楽しい形態をそなえ
るようになったものの、人生の厳粛な、真実で深遠な意義は、ギリシア人やローマ人には見失われてし
まったのだ。キリスト教があらわれて、彼らの人生のまじめさに呼びもどすまでは、彼らは大きな子供
のように暮らしていたのだ。

フィラレーテス そしてキリスト教がどういう結果をもたらしたかを判定するには、古代をそれにつ
づく中世とくらべさえすればよいのだ。たとえばペリクレスの時代を十四世紀と比較するといったふう
に。この二つの時代に同じ行き方が見られるなどと思う者は、ほとんどあるまい。ペリクレス時代に
は、人間性が花と開き、すばらしい国家の仕組みがあり、賢明な法律が施行され、参事会員は巧みに割
り当てられ、自由も合理的に規制され、あらゆる芸術・文学・哲学がそれぞれ頂点に立って、数千年の
後にも及びがたい手本として、われわれがとうてい比肩できぬいちだんと高い存在者の仕事かとほとん
ど思われるほどの作品を創りだしたのだ。
0156考える名無しさん
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2015/08/24(月) 17:20:28.210
総悲観はカイというが、まだまだ高いし、悲観の度合が足りないんじゃね?
みんなが投げ売り始めたら、買うわ
0157幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 20:41:51.710
 しかも日常生活は、クセノポンの『饗宴』がそのおもかげを描きだしてくれているように、きわめて高雅な社交に
よって美化されていた。さてこんどは、きみには辛いだろうが、中世を見たまえ。――この時代は、教会が精神を
しばり、暴力が肉体をしばっていた時代だ。それというのも、騎士と坊主が彼らの共通の駄馬である第三身分の者ども
に、生活の重荷をすっかり負わせたためなんだ。そこにきみが見いだすのは、緊密に結びついた武断政治と封建制度と
狂信であり、またその結果としてひどい無知と精神の闇、この無知にふさわしい非寛容、宗門争い、宗教戦争、
十字軍、異端者迫害、そして宗教裁判といったものだ。ところで社交の形態としては、粗野とお
しゃれをつなぎあわせてできた騎士道があった。そこには酔狂きわまることが、ことこまかにきめられ
てひとつの体系をなし、人間の品位を落とすような迷信、猿にふさわしいような女性尊重がつきもの
だった。そのなごりがいまの女性上位の慇懃だが、そのむくいとして女性が威張るのは当然な話で、
あらゆるアジア人にいつも笑い草を提供しており、ギリシア人だってこれに吹きだすにきまっている
よ。これが中世の黄金時代には、形式的で整然とした婦人崇拝に発展した。つまり英雄的行為を務めと
して果たしたり、愛の奉仕をしたり、トルバドゥール流の誇張した歌をつくるといったことだ。最後に
あげた茶番には、それでもどうやら知的な一面があるが、これもフランスが本場だということに注目し
なくちゃならぬ。ところが実質本位で愚鈍なドイツ人ときては、騎士も大酒をくらったり掠奪したりす
ることのほうが得手で、大杯と盗賊騎士の城のほうが彼らの関心事だったのだ。もちろん諸方の宮廷で
は、幾人かの気のぬけた恋愛歌人にこと欠いたわけではない。古代と中世と、どうしてこんなに光景が
一変したのか? 民族移動とキリスト教のためだ。
0158幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/24(月) 21:15:09.400
デモフェーレス その指摘はいい。民族移動は禍の源流だった。キリスト教はその流れをせきとめた
堤防なのだ。民族移動の洪水で押し流されてきた粗暴野蛮な遊牧民にとって、キリスト教はさしずめ彼
らを飼い馴らし仕込む手段になったのだ。粗暴な人間はまずひざまずくことを学び、崇敬と従順を会得
する必要があった。そのうえではじめて教化も可能になったのだ。アイルランドでは聖パトリックがこ
のことをなしとげたのだが、ドイツでそれに相当するのはサクソン人ウィーンフリートで、彼は文字ど
おりボニファキウスとなったわけだ。アジア人種がヨーロッパへとどんどん押しかけてきたその最後が、
民族移動とよばれるわけだね。こういう動きは、アッティラやジンギスカンやティムールのときにも試
みられたが、なんの実もむすばなかったし、滑稽な後奏曲としてはジプシーの流浪なんかがあったわけ
だ。ところでこの民族移動こそ、古代の人間性を洗いおとしてしまったのだが、キリスト教はまさにこ
ういう粗野に対抗する原理だった。それは中世全体をつうじて教会が教権制度でもって、現世の実力
者、君主や騎士たちの粗暴と野蛮を抑えるのに、大いに必要であったのと変わらない。つまり教会はこ
れらの巨大な氷塊の砕氷船になったのだ。ところで教会の目的とするところは、現世の生活を快適にす
るというよりも、むしろわれわれをよりよい生活に値する者にすることにある。このしばしの時、この
はかない夢には目もくれずに、キリスト教はわれわれを永遠の救いにみちびこうとするのだ。そのねら
いは、それまでヨーロッパには知られていなかった言葉の最も高い意味で、倫理的なのだ。さっきも、
古代人の道徳と宗教をキリスト教のそれと対比して、きみに注意したようにね。

フィラレーテス 理論だけなら、それでいいんだ。しかし実際を見てもらいたいんだ。中世期には、
不自然な死の拷問や火刑が無数に行われたね。古代人が、このキリスト教的数世紀にくらべれば、さ
ほど残酷でなかったことは、議論の余地がない。さらに古代人は非常に寛容で、とりわけ正義を重ん
じ、しばしば祖国に身をささげ、あらゆる種類の高邁な性向と純粋な人間性を示した。だから、今日に
いたるまで彼らの行動や思惟を知ることが人文研究とよばれているくらいなんだ。
0159幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 21:43:31.650
宗教戦争、宗教的人殺し、十字軍、宗教裁判、そのほかの異端審問、アメリカ原住民の絶滅、そしてそのかわりに
アフリカ奴隷の移入――こうしたことが、キリスト教のもたらした実で、これに類すること、これに匹敵する
ことは古代人では見あたらない。というのは、ファミリア(familia. 家族)とかヴェルナ(vernae.家
内奴隷)とかよばれる古代人の奴隷は、主人に忠実に仕えて満足している人たちであって、砂糖きびの
農場でこきつかわれて、人類を呪っている不幸な黒人とは雲泥の差があることは、その皮膚の色の違い
と同様だからだ。古代人の道徳でおもに非難の的になっているのは、男色を大目に見ていることだが、
これはもちろん非難すべきことではあるけれど、右に述べたようなキリスト教の暴虐にくらべれば、と
るにたらぬ些事だし、近代人においても、男色は表面化するのは減っているかわりに、珍しくなったとい
うには程遠いのだ。あれこれ考えあわせて、きみは、キリスト教によって人類がほんとうに道徳的によ
りよくなったと主張できるかね?

 デモフェーレス キリスト教の成果が必ずしもその教説の純粋さと正しさに照応しなかったのは、そ
の説くところが人類にとってあまりに高貴・崇高にすぎ、目標があまりに高いところに置かれていたせ
いだろう。異教の道徳に従うことは、回教の道徳の場合と同様、もちろん比較的容易だった。最も崇高
なものほど、どんな場合にも、濫用と欺瞞にさらされている度が高いのだ。「最上のものの濫用は最悪
となる」という格言どおりだ。そういうわけで、じっさいまたあの高遠な教えが、ときとしてじつに忌
まわしい所業やほんとうの犯行の口実に使われたこともあるわけさ。――ところで古代の国家組織が没
落したこと、また古代世界の芸術や学問が没落したのは、まえにも言ったように、外国から野蛮人が侵
入してきたせいだ。そこで無知と粗暴がのさばり、その結果、暴力と欺瞞が横行して、騎士と坊主ども
が人類の上にのしかかる重荷になったことも、避けがたいことだった。こうなったことについては、一
部分はキリスト教の性質から説明することもできる。
0160幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 22:39:59.950
すなわちこの新しい宗教は、現世の救いではなくて、永遠の救いを求めることを教えたのであり、
したがって頭の知識よりも心の素朴を尊いものとみなし、結局は学問や芸術の奉仕するあらゆる
世俗的享楽を好まなかったということだ。しかし学問や芸術も、宗教に仕えるかぎりでは、
奨励もされ、ある程度の花を咲かせることもできたわけだ。

 フィラレーテス そうはいうけれど、人類がそれまでに獲得した知識、古代人の文書のなかに書きと
められていたものを没落から救ったのは、もっぱら僧侶であり、とりわけ修道院の僧侶たちじゃない
か。キリスト教がその直前にあらわれたからよかったものの、そうでなかったら、民族移動でこういう
ものがどうなっていたか知れないではないか!

 フィラレーテス もろもろの宗教によって得られた利益と、それによってひき起こされた損失とを、
いつかきわめて公平に冷静に、どちらの側にも立たないで、厳密に正しく秤る試みがなされるなら、そ
れはほんとうに役立つ研究になるだろうね。もちろんそのためには、われわれふたりの使えるよりも、
はるかにたくさんの量の歴史的・心理学的資料が必要だけれどもね。学士院なんかも、これをひとつ懸
賞問題の題目にしてもよいだろう。

デモフェーレス そんな無茶はやるまい。

フィラレーテス きみがそんなことを言うなんて、おかしいね。宗教に歩がわるいからだろう。もっ
とも学士院といったって、せっかく問題を出しても、うまく調子を合わせるこつを心得ているやつが賞
をもらうといったことが、暗黙の条件になっているような学士院だってないわけではないからな。――
0161幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 22:54:15.170
さしずめだれか統計学者が教えてくれると、ありがたいね。毎年、宗教的動機から犯罪を思いとどまる
者がどれくらいの数になり、宗教以外の他の動機で中止する者がどれくらいの数になるかだ。前者はご
くわずかだろう。というのは、なにか罪を犯そうという誘惑を感じた場合、それを思いとどまらせる第
一のものは、そういう犯罪に課せられた罰と、そういう罰にひっかかるかどうかという可能性であるこ
とはまちがいないからだ。そのつぎに第二の問題になるのは、名誉を損じる危険性だ。ぼくの考え違い
でなければ、地獄に落ちるかもしれんといった宗教的な考えがちょっとでも頭に浮かぶさきに、まずこ
の二つの障害にぶつかって、何時間も考えあぐむのが普通だろう。だがこの二つの犯罪の歯止めを乗り
こえてしまった場合に、宗教だけで思いとどまるなんて、ごくごく稀だと思うな。

デモフェーレス いや、あんがい多いとぼくは思うね。とりわけ宗教の感化は、習い性となって、だ
れでも大きな犯罪にはすぐ尻込みするから、なおさらだ。若いときに刻みつけられたものは、なかなか
抜けないものだ。その証拠に、考えてもみたまえ。いったん約束したからには、とりわけ貴族だが、と
きにはひどい犠牲を払っても、これを果たす人が多いのも、若いときに、「名誉を重んじる者は、紳
士とか騎士は――いつでも固く約束を守るものだ」と、まじめな顔つきで父親から言ってきかせられた
せいだよ。

フィラレーテス 持って生まれた誠実さがなければ、そうはならないよ。この生得的な品性のよさか
らそうなるのに、きみのようにそれを宗教のせいにしてはならない。過失や犯罪をおかした人に、同じ
人間として同情を感じるところから、そういう非行を思いとどまるというのも、持って生まれた性質が
よいからだ。そしてそれは純粋な道徳的動機で、その性質からいって、あらゆる宗教とは無関係なものだ。
0162考える名無しさん
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2015/08/24(月) 23:03:07.660
ニューヨーク市場急落で悲観が拡大するかな
ようやくおもしろくなってきました
0163幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/24(月) 23:11:09.320
 デモフェーレス しかし、大衆の場合、道徳的動機も、これを補強する宗教的動機にくるまないと、
いっこうにききめはないな。きみのいう持って生まれた性質がない場合だって、宗教的動機だけで犯罪
の防止になることは、よくあることだ。だいたい高い教養をもった連中でさえ、寓話的な意味の真理を
根底にもつ宗教的動機なんかの影響ではないにしても、きわめて荒唐無稽な迷信にさえ左右され、一生
そんなものに引きまわされているじゃないか。たとえば、金曜日には新規なことに手を出さないとか、
十三人では食卓につかないとか、偶然的な前兆に従うとか、そのほか、いろいろあるね。大衆の場合が
もっとひどいとあっても、べつに驚くにはあたらないよ。きみなんか、粗野な大衆の偏狭さがどんなも
のか、とても想像できないんだ。それはまっ暗闇なんだ。とりわけその性根がよこしまで、意地わるく
できているのがざらだから、なおさらだ。人類の大部分を占めているこの手合いを、われわれとして
は、ともかくできるかぎり指導したり抑制したりしなくちゃならない。その場合、やつらを動かすの
に、ほんとうに迷信的なものでもかまわないのだ。あの連中に、もっとましな正しい動機を受けいれる
日がくるまではね。だが、宗教が直接ききめをあらわす場合も、ないではない。たとえば、とくにイタ
リアではそうだが、泥棒をしても聴罪師の手をへて盗品をかえすといったことがあるね。これが赦免の
条件になるからさ。つぎに考えてほしいのは、宗教が決定的な役割を果たす宣誓のことだ。これにはい
ろんなやり方がある。フランスあたりでは、簡単に「わたしはそれを誓います」という宣誓方式がとら
れていて、人間はもっぱら道徳的存在の立場に立ち、厳粛に呼びかけられるという自覚を基本としてい
るように思われるし、クェーカー教徒なんかも同様で、厳粛に「はい」とか「いいえ」といえば、それ
で宣誓のかわりになるのだ。あるいはまた、宣誓の場合に口にするとおりに、自分の永遠の至福が失わ
れると本気に信じる場合もあろう。こういう信念は、その人の気持ちを宗教的に言いあらわしたものだ
といえる。
0164幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/24(月) 23:58:58.810
ともあれ宗教的表象は、われわれの道徳的本性をめざめさせ、呼びおこす手段なのだ。偽り の誓いを立てても、
いざとなると、ころりとひっくり返ることもよくあることだ。こうして真実と正義が勝つことになるわけだ。

 フィラレーテス しかしそれ以上に、実際に偽誓がまかり通って、その事件の証人がみんなはっきり
事情を知っているのに、真実と正義が踏みにじられることだって、なかなか多いよ。宣誓は法律家の形
而上学虎の巻だ。だから、できるだけ使わないにこしたことはない。けれども、やむをえない場合は、
いと厳粛に、僧侶の出席のもとに、しかも教会とか法廷付属の礼拝堂でやるべきだ。きわめて疑わしい
場合には、学童を陪席させるのも適切だ。その意味で、フランス式の宗教ぬきの宣誓方式は役に立たな
い。あたえられた既成宗教をぬきにするかどうかは、その当人の教養の程度に応じて、めいめい各自の
思いどおりにまかせるべきだろう。――ともかくきみが、誓いを宗教が実際に役立つ明瞭な実例として
あげたのは正しい。しかし、きみはいろいろ言ったけれど、宗教の実効がそんなにあるなんて、疑わざ
るをえないな。考えても見たまえ。いまとつぜん、おおやけの布告であらゆる刑法が廃止されたとした
ら、きみもぼくも、宗教的動機の保護だけで、ただこの場所から帰宅するだけの勇気さえも持てないと
思うよ。だが同じようなぐあいに、すべての宗教がまちがっていると言われたって、ぼくたちは別にこ
とさら心配したり警戒したりしないで、法の保護だけで従前どおりの生活ができるじゃないか。――も
う少し言わせてもらうと、宗教にはとかく道徳をひきさげる力があるということだ。一般的に言えるこ
とは、神に対する義務さえ果たせば、人間に対する義務が免除されるということだろう。人間どうしの
あいだで落ち度があっても、そのかわりに神さまにとりいれば帳消しだとあれば、そのほうがうんと楽
だからね。だからいつの時代にも、どこの国でも、たいがいの人びとは、善行をつんで天国入りの資格
を得るよりは、簡単にお祈りですべりこもうとするわけだ。
0165幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/25(火) 00:21:02.670
神さまの思召しにかなういちばん手近なことも、道徳的行為なんかではなくて、まず信じることであり、寺院における
いろいろな種類の儀式や礼拝だというふうに、どんな宗教でもやがてなってくる。それどころか、それが僧侶の利益と
結びついて、お寺まいりのほうが、しだいに道徳的行為の代用と見られるようになる。十字架像を寄進したりすること
も、それでひどい犯罪のつぐないができるとあれば、たいへん歩のいい仕事ということになる。この種のもの
には、懺悔、僧侶の権威に対する服従、告白、巡礼、寺院や僧侶への寄付、修道院建設などいろいろあ
るから、ついには僧侶は、賄賂のきく神々との取引を仲立ちする者ぐらいにしかみえなくなる。たとえ
それほど極端にならないとしても、その信者たちが、すくなくとも祈禱や賛美歌やいろいろな礼拝を、
一部は道徳的行状の埋合せと見ないような宗教があるだろうか? たとえばイギリスを見たまえ。あの
国の坊主どもの図々しさったらないね。もともとユダヤ教の安息日に対抗してコンスタンティヌス大帝
が制定したキリスト教の日曜日を、彼らはそんなことにおかまいなしに、ユダヤ教の安息日と同一視し
ているんだからね。名前まですりかえているんだ。エホバが安息日に対して定めたところによると、六
日間の仕事で疲れ給うた全能の神が、この日にお休みにならねばならないとなっているね。つまり安息
日とは本質的に一周の最終の日になるわけだ。それなのにイギリスの坊主どもは、この掟をキリスト教
徒の日曜日にもちこんでいる。日曜日とは「太陽の日」、はなばなしく週の開始を告げる第一日、敬虔
と喜悦の日だ。この密輸入の結果、現にイギリスには、「安息日違反」(sabbathbreaking)とか「安息日
の神聖冒涜」とかよばれるものがあるね。つまり日曜日に、有用あるいは快適などんな軽い仕事をして
も、遊戯でも音楽でも、宗教書以外のどんな読書も、靴下を編むことまで、重い罪に数えられているのだ。
0166幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/25(火) 00:58:29.560
 こうなると、くだらないやつが、その宗教的指導者の教えるとおりに、いつでも「神聖な安息日の
厳守」と「礼拝への几帳面な出席」とを守っているかぎり、つまり日曜日にまちがいなく徹底的に仕事
を怠け、教会に二時間すわることは欠かさず、同じ連祷を千回も聞き、拍子にあわせてムニャムニャ
やってさえいれば、ときに犯すあれやこれやのことも大目に見てもらえると思うのも、当然じゃないか
ね? 北アメリカの諸共和国(奴隷国とよんだほうがよいが)で奴隷を売買したり所有したりしている
連中は、それこそ人間の姿をした悪魔というべきだが、じつは彼らは通例、正統のそして敬虔な英国国
教徒なんだ。だからあの連中も、日曜日に働いたりしたら重い罪だと考えるはずなのに、奴隷には平気
で働かせておいて、自分たちは几帳面に教会へ通って永遠の救いを望んでいやがる。――だから、宗教
が道徳を引きさげる影響力をもっていることは明らかで、どれほど道徳を支える力があるかは眉つばだ
よ。宗教のそういう教化力がとてつもなく大きく、そしてしっかりしていなければ、もろもろの宗教、
とりわけキリスト教や回教がひき起こした暴虐な仕業やこの世にもちこんだ悲歎の穴埋めは、とうてい
できっこないね! あの狂信と果てしのない迫害を考えてみたまえ。まず宗教戦争だ。これなど古代人
には見当もつかない血なまぐさい狂気のさただ。つぎは十字軍だ。愛と寛容を説いた人の墓を占拠しよ
うと、「神意のままに」という鬨の声をあげながら、まったく許しがたい殺戮が二百年もつづいたんだ。
また、ムーア人やユダヤ人をスペインから無慈悲にも追放して根絶したことを考えてみたまえ。聖バル
トロメウス祭のユグノー派の虐殺、宗教裁判、その他の異端審問、三大陸にわたる回教徒の血なまぐさ
い大規模な占領など、考える種はいくらでもある。キリスト教徒のアメリカ占領などもそれだ。彼らはア
メリカの原住民をあらかた根だやしにしてしまった。キューバ島では全員殺戮だ。ラス・カサスによる
と、彼らは四十年間に千二百万人を殺害したという。それがあたりまえと受けとられたのは、「神の栄
光を増さんがため」、福音を普及せんがためであり、とりわけキリスト教徒でない者は人間扱いもされ
なかったせいなんだ。
0167幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 01:25:58.900
こういう問題はまえにも触れたことがあるが、いまでも「神の国からの最新の報
告」が出版されている以上、われわれだってこうした古い報告を思いだすことを怠ってはならない。と
りわけ忘れてはならないのがインドだ。この人類の揺籃、すくなくともわれわれの属する人種の発祥地で
あるこの神聖な国を忘れないでおこう。そこではまず回教徒が、つぎにはキリスト教徒が、人類の原始
信仰の信者たちに対してじつに身の毛のよだつ暴行をあえてしたのだ。思いだすのも忌まわしいことだ
が、マハムード・ガズナヴィーから始まって、兄弟殺しのアウラングズィーブにいたるまで、回教徒ど
もは気まぐれに、またむごたらしく太古の寺院や神像を破壊・毀損したのだ。これは永遠に慨歎に耐え
ないところで、今日なおわれわれに回教徒の一神教的凶暴の痕跡を見せつけているのだ。その後、これ
に敗れまいとして、ポルトガルのキリスト教徒たちも、寺院を破壊したり、ゴアの宗教裁判で火刑を
やったりしたのだ。

 それから「神に選ばれた民」と自称するユダヤ教徒のことも逸してはならない。彼らはエジプトでエ
ホバのきびしい命令によって、彼らを信頼している旧友たちから金と銀の容器を盗んだあと、こんどは
殺人者モーセを先頭にして、人殺しや盗みを働きながらカナンに侵入し、ここを「約束の地」として、
同情は絶対無用という同じエホバのたえずくりかえされた厳命にもとづいて、原住民を、女・子供にい
たるまで、まったく情容赦なく皆殺しにして、この土地を正当な所有者たちから奪い取ったのだ(ヨ
シュア記・第十章・第十一章)――それは原住民が割礼を受けておらず、エホバを知らなかったとい
うだけの理由からだったが、これだけでも彼らにあらゆる暴虐をふるう正当な理由としてじゅうぶん
だったのだ。同様に、同じ理由から、族長ヤコブとその選ばれた部下たちが、サレム王ヘモルとその民
に対して恥ずべき非行を行なったことが、まことに輝かしいこととしてわれわれに語られているが(創
世記・第三十四章)、これらもその理由はサレムの民がエホバの信者でなかっただけのことなのだ。
0168幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 01:46:43.550
 ユダヤ人のカナン侵入…タキトゥス(『歴史』第五巻・第二章)およびユスティヌス(第三十六巻・第二章)が
出エジプト記の歴史的資料を我々に残してくれている。これは楽し読みものであると同時に教えられるところの
多いもので、旧約聖書の他の諸記の資料がどうなっているかについても、われわれはここから推測できるの
である。前記のところ(右に指摘した個所)から知りうることは、潜入してきた不潔なユダヤ民族が、伝染
のおそれのある厄介な病気(らい病)をもっていたところから、エジプト王は彼らが純潔なエジプトにとどま
ることを望まず、彼らを船に乗せてアラビア沿岸に捨て去らせたのである。彼らのあとからエジプト人の分
遣隊が送られたことは事実であるが、これもわざわざ追いだした者を連れもどそうというのではなくて、彼
らが盗みだした貴重品を取りもどすためだったのだ。じつは彼らは神殿から金の容器を盗みだしていたから
だ。こんなやくざ者にかねなど貸す者があろうか! ――上述の分遣隊が自然現象のために絶滅のうき目に
あったことも、これまたまちがいない。当時、アラビア沿岸地帯は飢饉で、とりわけ水飢饉だった。そこへ
ひとりの向こうみずな男があらわれて、自分についてきて言うことをきくなら、なんでも調達してみせると
切りだしたわけだ。この男は野生のロバを見た、などといったことが書かれている。――わたしはこれを歴
史的資料とみなす。なぜならこの散文を基礎として出エジプト記という詩が書かれているからだ。この場合
たとえユスティヌス(すなわちポンペイウス・トゥログス)が、(出エジプト記にもとづくわれわれの想定
からいって)途方もない時代錯誤をおかしているとしても、そのためにわたしは迷わされはしない。なぜな
ら、時代錯誤の百くらいは、わたしにはたった一つの奇蹟ほどにも憂うべきこととは思われないからだ。
――そのうえ右に引用した二人の古典文学者の著作から見てとれることは、あらゆる時代、あらゆる民族に
おいて、いかにユダヤ人が嫌悪され軽蔑されていたかということだ。そのよってきたる一部の理由は、彼ら
が人間の輪廻などというこの生を超えたどういう存在をも認めない地上唯一の民族だったからで、したがっ
て彼らは家畜、人間の屑――だが嘘つきの名人――と見られたのだ。
0169幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 02:08:56.220
 創世記第三十四章…ヘブライ語がわからないで、旧約聖書がどういうものであるかを知りたい人は、七十人訳聖書
を読む必要がある。これこそあらゆる訳のなかで最も正しい、最も純正な、最も美しい訳であり、その調子
や色合いにいたってはまったく別ものの観がある。七十人訳の文体は概して高雅・素朴であり、教会くささ
がなく、キリスト教を想わせる点もない。これにくらべるとルター訳は平凡であると同時に信心ぶったとこ
ろがあり、しばしばまちがっており、ときには故意に誤っているところもある。そして徹頭徹尾、教会的・
教化的調子で語られている。右に引用した個所では、ルターは和らげた表現をあえてしているが、これなど
ごまかしとよんでもいいくらいで、彼が「放逐する」と訳している原語は、じつは七十人訳では「殺した」
となっているのだ。

 ともかく七十人訳聖書を読んでわたしの受けた感銘は、「偉大な王ネブカドネザル」に対する心からの敬
意と愛である。大王のユダヤ人に対する処置があまりにも手ぬるいという難はあるけれど。この民族は、近隣
諸国を彼らに贈与あるいは約束するような神を奉じ、強盗・殺人によってその国々を占有して居すわり、こ
の神のために神殿を建てるような人種だったのだ。近隣諸国を「約束の国」にするような神を奉じる民族な
ど、いいかげんにネブカドネザルどころか、さらに現神主アンティオコスに出会うがいいのだ。そしてその
うえは情容赦などいっさい無用でいいのだ!
0170幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 10:57:38.760
 じっさい、ある宗教の信者が他のすべての宗教の信者に対してどんなことをしようと勝手だと思いこ
み、したがって彼らに対して途方もない残虐無道な仕打ちをするのは、宗教の示す最も悪い面だ。回教
徒がキリスト教徒やヒンドゥー教徒に対する仕打ちもそうだし、キリスト教徒がヒンドゥー教徒・回教
徒・アメリカの諸民族・黒人・ユダヤ人・異端者などに対する仕打ちもそうだ。しかし、すべての宗教
がそうだと言っては、おそらく言いすぎになるだろう。というのは、真理のために付言しなければなら
ぬが、こういう原則に発する狂信的残虐行為は、もともと一神教の宗教、つまりユダヤ教とその二分派
であるキリスト教ならびに回教の信者にかぎられていることは周知の事実だからだ。ヒンドゥー教徒や
仏教徒については、この種の報告はなされていない。仏教がおおよそ西洋紀元第五世紀に、その発祥の
地であるインド最先端の半島から、バラモン教徒によって追いだされ、その後アジア全域に普及したこ
とは、われわれも承知していることだけれど、ぼくの知る範囲では、その普及にあたって腕力ざたや戦
争や残虐行為がなされたというような確たる報道はない。もちろんそれは、これらの国々の歴史が暗黒
に包まれているせいかもしれない。しかし、生きとし生けるものを愛護せよと、たえず感銘ぶかく説い
ているこれらの宗教が、きわめて温和な性格をもっていること、またバラモン教がその身分制度のため
にほんらい改宗者を認めないという事情などは、これらの宗教の信者たちが大規模な流血の惨事や各種
の残虐行為を犯さなかったという期待をわれわれにいだかせるものだ。スペンス・ハーディはその名著
『東洋の修道生活』四一二頁で、仏教徒が非常に寛容である点を賞賛し、仏教の年代記には、他の宗教
の年代記の場合よりも宗教的迫害の実例が少ないという証言をつけ加えている。じじつ、不寛容は一神
教にのみ本質的なものだ。唯一神というものは、その本質上、他のいかなる神をも生かしておかない嫉
妬ぶかい神だ。これにひきかえ、多神教の神々は、その本性上、寛容なものなのだ。これらの神々は自
分が生きると同時に、他の神々をも生かしておく。
0171幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 11:22:46.140
まず第一に、これらの神々はその仲間、つまり同一 宗教の神々をよろこんで許容し、のちにはこの寛容
は他の宗教の神々に及んでゆく。だから、これら他 宗教の神々も客分として受けいれられ、のちにはと
きとして市民権を得る場合だって出てくるのだ。それはローマ人の実例が示しているとおりだ。彼ら
ローマ人は、フリギアやエジプトの神々をはじめとして、そのほか異国の神々もすすんで受けいれ、崇敬
したものだ。だから宗教戦争・宗教的迫害・宗教裁判といった芝居をわれわれに提供し、偶像や異国の神
像を破壊したり、インドの寺院や三千年ものあいだ天日をにらんでいたエジプトの巨像を破壊するといっ
た見物を見せてくれたのは、一神教的宗教にかぎられるのだ。というのも、一神教の嫉妬ぶかい神が、
「なんじ、偶像をつくるべからず」といったためなんだ。

 ところで話を本筋にもどすと、きみが人間の強烈な形而上学的欲求を力説するのは、たしかに正し
い。しかしぼくには宗教というものが、その欲求の充足というよりは、むしろその濫用であるように思
われるのだ。道徳性を促進するうえで宗教が役立つかどうかは概して疑わしいのに対して、すくなくと
もその害悪、またその結果として生じてくる残虐行為がかくれもない事実であることは、右に見たとお
りだ。もちろん王位の支柱として宗教が有効であるという点を考慮にいれれば、話は別になる。なぜな
ら、王位が神の恩恵によって授与されるかぎり、祭壇と王位は親密な近親関係にあるからだ。したがっ
て、自分の王位とその一族を愛する賢明な君主だったらだれでも真の信心の規範として、国民の先頭に
立つだろう。現にマッキャヴェッリでさえ『君主論』第十八章で、君主は信心をもつべきことを切にす
すめている。そのうえ、もろもろの啓示宗教と哲学との関係は、天佑を保有する君主と国民の主権との
関係に対応するという点をあげてもいいだろう。だが、この方程式の二つの前項、すなわち啓示宗教と君
主とはおのずから同盟関係にあるわけだろう。
0172考える名無しさん
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2015/08/25(火) 11:55:01.690
悲観は長続きしなかったな。買いまくるつもりが、下げ止まってしまった。
午後に再び悲観に転じて一段と下げる展開はくるのか?
0173幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 13:31:10.780
 デモフェーレス ああ、そんな調子はやめにしてくれ! そんなふうに言ったら、きみはあらゆる法
的秩序や文明や人道の大敵である暴民政治と無政府主義を謳歌する羽目になることを考えてほしいね。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ。ぼくの議論はまさに詭弁か、あるいはフェンシング教師が
めった打ちと名づけるやつだったものね。撤回するよ。議論というやつは、とかく誠実な人でもどんな
に不正陰険にしかねないものか、わかるだろう。打ち切りにするよ。

 デモフェーレス いろいろやってみたけれど、宗教についてきみの気持ちを変えられなかったこと
は残念だ。しかし、ぼくのほうも断言できるが、きみがいろいろもちだした論点でも、宗教が高い価値
をもっていて必要なものだというぼくの確信は、いささかもゆるがなかったよ。

 フィラレーテス それはそうだと思うね。『ヒューディブラス』にも、

  無理に納得させられても
  心のなかでは意見は変わらぬ

とあるものね。しかし、論争や鉱泉浴というものは、あとからのききめが本当のききめだということ
で、みずから慰めるよ。

 デモフェーレス で、その諺というのは?

 フィラレーテス Detras de cruz está el Diablo.
0174幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 13:33:47.080
 デモフェーレス ああ、そんな調子はやめにしてくれ! そんなふうに言ったら、きみはあらゆる法
的秩序や文明や人道の大敵である暴民政治と無政府主義を謳歌する羽目になることを考えてほしいね。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ。ぼくの議論はまさに詭弁か、あるいはフェンシング教師が
めった打ちと名づけるやつだったものね。撤回するよ。議論というやつは、とかく誠実な人でもどんな
に不正陰険にしかねないものか、わかるだろう。打ち切りにするよ。

 デモフェーレス いろいろやってみたけれど、宗教についてきみの気持ちを変えられなかったこと
は残念だ。しかし、ぼくのほうも断言できるが、きみがいろいろもちだした論点でも、宗教が高い価値
をもっていて必要なものだというぼくの確信は、いささかもゆるがなかったよ。

 フィラレーテス それはそうだと思うね。『ヒューディブラス』にも、

  無理に納得させられても
  心のなかでは意見は変わらぬ

とあるものね。しかし、論争や鉱泉浴というものは、あとからのききめが本当のききめだということ
で、みずから慰めるよ。

 デモフェーレス だったら良いききめがきみに出てくるように祈るね。

 フィラレーテス また一つスペインの諺が胃にもたれてくるのだが、それさえなければ、良いきき
めが出てくるかもしれんね。

 デモフェーレス で、その諺というのは?

 フィラレーテス Detras de cruz está el Diablo.
0175幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 13:38:30.520
 デモフェーレス ドイツ語で頼むよ!

 フィラレーテス よしきた! ――「十字架のうしろに悪魔がいる。」

 デモフェーレス ねえ、あてこすりを言いあって別れるのはよそう。むしろ、宗教には、ヤーヌス神
のように――あるいはもっと適切には、バラモン教の死神ヤーマーのように、二つの顔があり、これま
たヤーマーと同様、たいへん愛想のいい顔と、ひどく暗い顔とがあるということを認めようじゃない
か。ところでぼくたちは、それぞれ別の顔を見ていたわけなんだ。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ!
0176幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 14:12:20.560
  第一七五節 信仰と知識

 哲学はひとつの科学である以上、何が信ぜらるべきか、あるいは何が信じられていいか、といったこ
とには無関係で、何をわれわれは知りうるかだけを問題にする。ところでこの知りうるものが、われわ
れの信じなければならないものと、まったく別のもおであったとしても。それは信仰にとって不利とは
なるまい。なぜなら、知りえないものを教えてくれるからこそ、信仰は信仰なのだから。もしそれを知
りえたとしたら、信仰は笑うべき無用の長物になろう。たとえば数学で教義などもちだされては、無用
なお笑い草になるのと同様だ。

 しかしこれに対しては、哲学の教えうる以上のものを、はるかに多くのものを、信仰は教えることが
できるのだが、哲学の諸成果と合致しないことについては、どうしても教ええないのだ、といった異論
が出るかもしれない。というのは、知識は信仰よりも硬い材料でできてて、両者が鉢合わせになると、
信仰のほうがこわれてしまうからである。

 いずれにせよ、知識と信仰は根本的に違ったものだ。双方の安全のためには、両者はきびしく分けら
れていなければならず、それぞれ他を顧慮するところなく、独自の道を行くべきだ。
0177幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 14:23:25.370
  第一七六節 啓示

 人間のはかない世代は矢つぎばやに興っては滅び、滅びては興り、その間にあってもろもろの個人
は、不安と困窮と苦痛にあえぎながら、死神の腕にだかれるまで踊り狂う。踊りながら彼らは倦まず
に、自分たちがどういうものなのか、この悲喜劇的茶番のすべてが何を意味するのかと問い、その返答
を求めて天に呼びかける。しかし天は黙して答えない。そこへ坊主どもが啓示をもって登場するのだ。

 人間の運命には多くの過酷な嘆かわしい点があるが、そのなかでも、われわれが現に生きていなが
ら、どこから来て、どこへ行くのか、なんのために生きているのか、わかっていないということは、
けっしてささやかな嘆きではない。この不幸感にとらえられ、これを痛感した人は、このことについて
の特別の知らせをもっていると称して、啓示という名のもとでそれを伝えようとしている連中に対して
は、いくぶんの腹立たしさをおぼえないわけにはいくまい。――このような啓示を説く諸氏に対して、
わたしは、今日では啓示についてあまり多くを語らないようにと勧告したい。そうすればいつか、啓示
がほんらい何であるかが、たやすく彼らに啓示されるかもしれない。――

 さて、人間でないような存在者がかつてわれわれに、人類と世界との存在ならびに目的について解明
をあたえてくれたのだと、本気で考えることのできる人は、まだほんの大きな子供にすぎない。賢者た
ちの思想以外に啓示などあるわけはない。もとより賢者の思想といっても、すべて人間的なものにつき
ものの運命によって、誤りにおちいる場合もあり、ときにはふしぎな寓話や神話のよそおいをこらすこ
ともあって、これがやがては宗教とよばれるのである。
0178幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 14:41:42.140
 したがって、そのかぎりにおいては、ある人が自分の思想に頼って生き死にしようと、これを他人の思想に
まかせようと、どちらにしても変わりはない。というのは、彼が頼りにするのは、つねに人間の考えだした
思想にほかならないからだ。ところが人間はふつう、自分自身の頭脳を信じるよりも、超自然的な源から出て
きたと称する他人のほうをとかく信頼するという弱点をもっている。ところで同じ人間でもその知性には雲泥
の差があることに着目すれば、甲の思想が乙の人にはあるていど啓示と思われるかもしれないのである。――

 これに対して、あらゆる坊主の根本秘密と根本策略は、古今東西を問わず、バラモン教の場合であれ
回教の場合であれ、仏教においてであれキリスト教においてであれ、次のようなものだ。彼らは、人間
の形而上学的欲求が非常に強烈であって、抹殺できないものがあることを正しく看破し、じゅうぶんに
把握したのである。そこで彼らは、大きな謎の言葉が異常な方法で直接自分たちには授けられたのだか
ら、この欲求を満足させることができると称するのだ。いったんこのことを吹きこんでしまえば、人び
とを導き支配することは意のままである。だから君主のうちで比較的賢明な者は坊主と同盟を結び、そ
うでない君主たちは坊主に支配せられることになる。ところであらゆる例外中の最もまれな場合とし
て、ひとたび哲学者が王位につくことになれば、喜劇全体のきわめて不都合な混乱が起こってくる。
0179考える名無しさん
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2015/08/25(火) 19:16:11.510
今日は私のオプティミズムが市場のペシミズムに負けた感じ
なかなか最安値をつかむのは難しいw
さて、明日はどうなるか
0180幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 20:25:36.920
  第一七七節 キリスト教について

 キリスト教について公平に判断するためには、キリスト教以前にあったもの、キリスト教によって駆
逐されたものを考察しなければならない。第一はギリシア・ローマの異教だ。これは民衆形而上学と考
えた場合、ほんらい特定の教義もなく、はっきり言いあらわされた倫理もなく、それどころか真の道徳
的意図もなく、聖典さえもっていないきわめて取るにたらぬ現象であって、宗教の名にほとんど値しな
いものであり、むしろ空想の遊戯、民間童話を題材にして詩人がでっちあげたこしらえたものにすぎず、
せいぜい自然の威力の明らかな擬人化にほかならない。こういう子供じみた宗教を大のおとなが本気に
したとは、ほとんど考えられぬことだ。それにもかかわらず、古人の著書の多くの箇所は、それが本気
であったことを証明している。とりわけヴァレリウス・マクシムスの第一巻、さらにまたヘロドトスの
多くの個所がそうであるが、わたしはそのなかでヘロドトスがまるで老婆のような語り口で彼自身の意
見を述べている最終巻・第六五章を指摘するにとどめておく。時代が進み、進歩した哲学があらわれる
と、この子供じみた宗教を本気にすることは、もちろんなくなった。おかげでキリスト教は、この国家
宗教を、外面的には国家の支えがあったにもかかわらず、押しのけることができるようになったのだ。
しかし、この国家宗教がギリシア最盛期においてさえ本気にされなかったということ、それはあたかも
近世におけるキリスト教と同様であり、またアジアにおける仏教やバラモン教や、あるいはまた回教と
同様であったということ、したがって、古代人の多神教は一神教の単なる服数とはぜんぜん別のもので
あったことは、アリストパネスの『蛙』がじゅうぶんに証明している。この作品では、ディオニュソス
がおよそ考えられるかぎりの最も憐れむべき馬鹿者・臆病者として登場し、衆人の嘲笑にさらされるの
であるが、しかもこれはディオニュソス自身の祭典、ディオニシアで公然と演出されたものなのだ。――
0181幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 21:06:30.730
 キリスト教が駆逐しなければならなかった第二のものは、ユダヤ教であった。キリスト教はユダヤ教
の粗野な教義を純化し、言わず語らずのうちに寓話化したが、だいたいにおいてキリスト教はまったく
寓話的性質のものなのだ。というのは、俗世間で寓話とよばれるものが、宗教では教義と言われるの
だからである。愛・宥和・敵に対する愛・諦念・我意の否定といった教えを、もっぱら――といっても
西洋では、ということだが――独自のものとしてもっている道徳においてだけでなく、もろもろの教義
においても、キリスト教がギリシア・ローマの異教やユダヤ教よりはるかにすぐれていることは、認め
ざるえない。ところでどうしても真理を直接に把握できない大衆には、実際生活に対する手引きとし
て、また慰めと希望の錨としてじゅうぶんまにあう美しい寓話以上に適当なものがあるだろうか。しか
しこういう寓話には、寓話につきものの必然的要素として、いくらか理屈に合わないものが混入してく
るのであって、キリスト教の教義を本来的意味で解するかぎり、ヴォルテールの言いぶんは当たってい
るのだ。これに反し、寓話として受けとれば、キリスト教の教義は一種神聖な神話であり、それ以外に
はどうしても民衆の手にはとどかないような真理を、民衆のもとまで運んでやる車の一種だ。それは
ファエッロの唐草模様、あるいはまたルンゲの模様にくらべることもできよう。というのは、こうした
唐草模様はあきらかに不自然また不可能なことを表現しながらも、そこに深い意味が語りでているから
だ。宗教の教義においては理性はまったく無力であり、盲目であり、しりぞけられるべきであるという
教会の主張も、つまるところその意味するところは、これらの教義が寓話的性質のもので、したがっ
て、すべてを本来的意味に受けとる理性だけの物差では評価すべきでないということなのだ。教義の不
合理な点こそ、寓話的・神話的なものの烙印であり、符号なのだ。もっともキリスト教の教義につじつ
まが合わない点が出てきたのは、旧約聖書と新約聖書といった異質の二つの教説を結びつける必要が
あったためだ。
0182幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/25(火) 23:36:01.470
 キリスト教のあの偉大な寓話は、偶然的な外的な事情を機縁として、これを解釈するこ
とにより徐々に成立したものだが、そこには、はっきり自覚されないながらも奥深いところに根ざす真
理が静かにかよっているのだ。この寓話が完成をみたのは、この寓話の意味を最も深く究め、ひとつの
体系的全体として把握する力をもち、欠けている点を補うことができたアウグスティヌスによってであ
る。したがってアウグスティヌスの教説、さらにルターによって裏づけられた教説こそ、完全なキリス
ト教なのであって、「啓示」を本来的意味にとって、救世主ただひとりに限定する今日の新教徒が主張
しているように、原始キリスト教が完全なキリスト教なのではない。――芽は食べられない、食べられ
るのは実であるのと同じことだ。――

 しかしあらゆる宗教の難点は、その寓話的性質を公然と標榜することができず、その点を隠す以外に
手はなく、したがってその教説を大まじめに本来的意味で真なるものとして持ちださざるをえないこと
だ。教義に不合理な点があることは本質的に避けえないことなのだから、このことはたえずごまかしを
つづけることになり、ひとつの大きな弊害となる。さらに困ったことは、時がたつにつれて、その教義
が本来的意味で真ではないことが明白になることで、こうなるとその教義は崩壊するのである。そのか
ぎりにおいては、寓話的性質を宗教側ではじめから認めたほうが、ましであろう。しかし、あるものが
真でありうると同時に真でない場合もあるといったことを、どのように民衆に説いたらよいであろう
か。あらゆる宗教が多かれ少なかれこういう性質をまぬかれないことを見るにつけても、われわれは、
つじつまの合わないことが人類にはある程度かなっているのであり、それどころか生活の一要素であ
り、欺瞞が人類にとって不可欠であろうことを承認せざるをえない――これは他の現象によっても裏書き
されていることだ。
0183幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/26(水) 14:47:38.400
 上述したように旧約聖書と新約聖書を結びつけたために生じたつじつまの合わぬ点の例証となるの
は、とりわけ、神の恩寵によって永遠の救いに予定されるというキリスト教の教義である。これはルタ
ーの導きの星であるアウグスティヌスによってつくられた説で、甲は乙に優先して恩寵にあずかるとな
すものであり、したがってこの恩寵は、来世というきわめて重要な問題について、生まれたときすでに
手に入れていて、そのままこの世にもちこんだ一種の特権ということになる。この説が不合理で気に
くわない点があるというのも、人間が或る他の意志によってつくられたものであり、この意志によって
無から呼びだされたものだとする旧約聖書の前提から来ているのだ。これに反して――純粋な道徳的特
性がほんとうに生得的なものだという観点からみて――バラモン教や仏教の輪廻の前提では、この問題
はもっと筋の通った、まったく別の意義を帯びてくるのだ。というのはこの前提によれば、ある人が生
まれながらに持っているもの、すなわち前世という別の世界から携えてきて、他の人びとよりすぐれて
いる点は、他からの贈り物ではなくて、前世で行なった自分自身の業績の結実にほかならぬからであ
る。――ところでアウグスティヌスのあの教義には、さらに別の教義がつけ加えられている。すなわち
それは、堕落して永劫の罪におちた人類大衆のなかからほんの少数の人だけが、神の恩寵によって選抜
されて、正しいものと認められ救われるけれども、それ以外の者は当然の堕落、すなわち永遠の地獄の
責め苦をまぬかれないという教義だ。
0184幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/26(水) 15:03:25.310
 本来的意味にとれば、この教義はここに至って腹立たしいものとなる。というのは、ときには二十年
にも満たないことのあるこの人生で犯した過失、あるいは不信仰を、この教義では永劫にわたる地獄の
刑罰によって、果てしもない苦悩であがなうことになるからだ。さらに、このほとんど一般的といって
いい堕罪は、もとはといえば原罪の結果なのであり、したがって最初の人類の堕落の必然的な帰結とみ
られていることだ。しかしこの最初の堕落など、神はあらかじめ見透していられたにきまっているでは
ないか。そもそもはじめから人間をあまり上等に創っておかないでいて、そこに落ちることを承知のう
えで、神は罠を仕掛けられたことになる。万物はあげて神の作品であり、神に隠されているものはなに
ひとつないからだ。したがって神は、罪におちるような弱い人間を無から存在へ呼びだしておきなが
ら、そのあとではこれを果てしのない苦悩にまかせて顧みないということになろう。さらに最後につけ
加えていいことは、寛容やあらゆる罪のゆるしを説き、敵を愛せよとまで定めている神が、自分ではそ
れをひとつも実行しないで、むしろその正反対に落ち着くということだ。というのは、なにもかもが過
去になり永遠に終わったというとき、あらゆる事物の最後にあらわれる罰は、改善や威嚇を目的とする
ことはありえぬことで、ただの復讐にすぎないからだ。このように見てくると、――どういう理由に
よってか不明ではるが、恩寵の選抜によって救われる少数の例外者を除けば――全人類はじじつ、永
遠の苦悩と永劫の罰を受けるように決定され、故意にそのために創られているようにさえ思われてく
る。例の少数者を問題外とすれば、まるで神さまは、悪魔にさらって行ってもらうために世界を創造し
給うたような結果になるのであって、それくらいならむしろ世界創造を中止されたほうが、はるかにま
しだったということになろう。
0185幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/26(水) 19:07:28.970
 教義については、本来的意味にこれを受けとめれば、以上述べたようになるわけだが、比喩的意味に
受けとめる場合においては、じゅうぶんな解釈に耐えるものだ。まず第一に、この教義のつじつまの合
わぬ点、腹立たしい点というのは、上述したとおり、ユダヤ教的有神論の帰結にすぎない。ユダヤ教は
無からの創造をとなえ、これと関連して、じつに逆説的に、また不快な話だが、輪廻を否定するのであ
る。この輪廻説というものは、自然な考え方、ほとんど自明的といってもいい思想で、ユダヤ人を除い
ては、あらゆる時代に、ほとんど全人類に受けいれられている教説なのだ。この輪廻説を否定すること
から生じる大弊害を除去し、この教義の腹立たしい点を緩和するために、六世紀、はなはだ賢明にも教
皇グレゴリウス一世は、本質的にすでにオリゲネス(ベールのオリゲネス論、脚注B参照)に見いだ
される煉獄の教説を仕上げて、教会の教義に正式に組みいれたのである。これによって事態はたいへ
ん緩和されたし、いくらか輪廻のかわりにもなった、というのは、煉獄も輪廻も一種の浄化過程を示す
ものだからである。ギリシアの万物回帰の説も同じ意図で唱えられたもので、この説によれば、世界喜
劇の最後の幕では、罪びとでさえ、だれかれの別なくもとのありさまに戻されるのである。――新教徒
だけは、そのがんこな聖書信仰にとらわれて、永劫の地獄の罪という考えを捨てなかった。「ろくなこ
とにならないぞ」――と意地のわるい人なら言うところだろう。しかしこの場合も安んじていいこと
は、彼ら新教徒もほんとうにそう信じているわけではなく、かりにそうしておくだけのことで、心のな
かでは「まあ、そんなひどいことにもなるまい」と思っていることだ。

 アウグスティヌスは、そのがんこな組織的頭脳によって、キリスト教を厳密に教義化し、いかにもき
びしいものとして仕上げた。すなわち聖書ではただ暗示されているにとどまり、なんとなく漠然とした
根拠の上にただよっているだけの教説をしっかり規定して、これに厳格な輪郭をあたえたのである。そ
のためこの教説は今日ではわれわれの気にさわるものとなり、彼の時代にペラギウス主義がこれに反対
したように、われわれの時代では合理主義がこれに反対する結果となったのだ。
0186幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/26(水) 23:05:36.910
たとえば、『神の国』第一二巻・第二一章によれば、事態は、抽象的に解すれば、ほんらい次のようになる
のだ。神は無からある存在者を創り、これにいろいろな禁止と命令とをあたえられる。しかしそれが守られ
ないので、神はこの存在者の果てしのない永遠をつうじて、およそ考えられるかぎりの苦悩によって呵責する。
そのために神は(『神の国』第一三巻・第二章、第一一章の終わり、第二四章の終わり)肉と霊とを不可分に
結びつけられる。それは、この苦悩のためにこの存在者が解体破滅して苦悩を免れることが絶対ないよう
に、永遠に生きて永遠の呵責を受けられるようにするためなのだ。――この哀れなやつは無から創られ
た以上、せめてその根源の無に帰る権利ぐらいはあるわけで、――そうひどいものでは絶対ありえぬこ
の最後の隠れ場ぐらいは、なんといっても正当な相続財産として保証されているべきであろう。すくな
くとも、わたしはこういう哀れむべき存在者に同情を禁じえない。――ところでさらにアウグスティヌ
スの他の教説、すなわちこれらすべては本来われわれの為すこと。為さぬことに依存するのではなく、
恩寵の選抜によってあらかじめ決定されているのだという説をつけ加えると――もう二の句がつげなく
なる。もちろんわれわれの教養高き合理主義者たちは言うだろう。「そんあことはみな、でたらめさ。
ただのかかしだ。われわれは一段また一段とたえず進歩しながら、いよいよ完全の域にのぼって行くの
さ」と。――とすると、いかにも残念なのは、もう少し早くわれわれがのぼり始めなかったことだ。そ
れさえ始めていれば、もうすでに完全の域に行きついているはずじゃないか。こういう言いぶんを聞く
と、われわれの頭は混乱するが、そこへ手ごわい論客で焼き殺されさえした異端者ヴァニーニの声に耳
を傾ければ、なおさらなのだ。「もし神がこの世で極悪・低劣な行為がのさばることを欲し給わないな
ら、神は目くばせひとつであらゆる恥ずべき行為を世界の境界外に放逐されるであろうことは疑いな
い。なぜなら、われわれのなかで神の意志に抵抗できるものがあろうか? 
0187幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/26(水) 23:36:14.630
犯罪者が犯行をやりおおせる場合、なんといっても神がその犯罪者たちにそれだけの力をあたえ給うたので
ある以上、どうしてわれわれは犯罪が神の意志に反して犯されるなどと考えることができようか? ところ
で、もし人間が神の意志に反してあやまちを犯すとするなら、神のほうがその人間よりも弱いということに
なる。というのは、その人は現に神にさからい、またそれだけの力をもっていたのだから。以上のことから
結論されることは、神がこの世を現にあるとおりにもつことを望んでいられるということだ。なぜなら、も
う少しましな世界を望まれるならば、神はもう少しましな世界を持ち給うはずだから。」というのは、ヴァ
ニーニはまえの頁でこう述べていたのだ。「もし神が罪を欲し給うなら、罪を犯すのは神そのひとだ。もし
神が罪を欲し給わないとしても、それにもかかわらず罪は犯されるのである。したがってわれわれは神につ
いて、神は先見の明がないか、無力であるか、あるいは残酷であると言わざるをえない。なぜなら、神はそ
の欲するところを実現させるすべを知らないか、あるいはその力をもたないか、あるいはその実現を怠った
のであるから。」ここで同時に明らかになることは、どうして今日まで自由意志説が頑強に固執されるかと
いう問題である。ホッブス以来わたしに至るまで、まじめで誠実な思想家すべてこの説を不合理なものとし
てしりぞけているにもかかわらず。これは意志の自由についてのわたしの懸賞当選論文から見てとれることだ。
――もちろんあのヴァニーニを反駁するよりも、火刑に処すほうが、ことは簡単であった。だから彼はまず舌
を切られたうえで、焼き殺されたのだ。反駁のほうは、今日だれでもやっていいことだ。ひとつ試みてみられ
るがよい。ただし空虚な言葉をならべることによってではなく、真剣に、思想によって。――
0188幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/08/26(水) 23:48:30.010
 たいていの人間は性格が調和を欠き、むらがあり、動揺しやすいが、これはおそらく次の事情にもと
づくものであろう。すなわち、個人の出生の起源が単純なものではなく、父親から意思を、母親から知
性を受け継ぐということである。両親がたがいに異質的で肌が合わなければ合わないほど、この不調和
と内的な分裂はますます大きくなるであろう。心情で卓越している者もあれば、頭脳で卓越している者
もあるのにたいし、さらにその長所がもっぱら人柄全体の或る種の調和と統一にある人たちもいるが、
これは、次の事情から生ずる。すなわち、彼らの場合には心情と頭脳がたがいにきわめて調和を保って
おり、たがいに支えあい、高めあっているということである。この場合に想像されるのは、彼らの両親
がさぞかし琴瑟あい和していたろう、ということである。
0190幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/28(金) 01:19:26.960
 人間の圧倒的多数は罪びとであり、永遠の浄福に値する者はごく少数だという、それ自体正しいアウ
グスティヌスの見方は、バラモン教にも仏教にも見いだされる。しかしここでは輪廻があるために、わ
れわれの感情を害することはない。つまりバラモン教での「最終の解放」、仏教での「涅槃(ニルヴァ
ーナ)」(ともにキリスト教の「永遠の浄福」と等価)は、やはりごく少数の人にしか認められていない
のだ。しかしこの少数の人も、そういう特権があたえられているというわけではなく、前世でそれだけ
の功徳を積んでこの世に生まれてきたのであり、そしてその同じ道を歩みつづけるわけなのだ。またそ
れ以外の人たちも、永遠に燃えている地獄の池に突き落とされるわけではなくて、それぞれの行状に応
じた世界へ移されるだけなのである。したがってこれらの宗教の教師に、「救済に行きつけなかったあ
の残りの人たちは、いったいいまどこにおり、どうしているのか」とたずねる人があれば、その人には
次のような答えがあたえられるであろう。「きみの周囲を見まわすがいい。ここにいるのが彼らであり、
彼らはこのざまなのだ。この世こそ彼らのどうどうめぐりの場所、これが輪廻(Sansara)、すなわち欲
と苦、生・老・病・死の世界なのだ」と。――ところでいま問題になっているアウグスティヌスの教
義、選ばれる者はごく少数で、大多数は永遠の地獄に落とされるという教義を、たんに比喩的意味に
とって、われわれの哲学の意味で解釈するならば、意志の否定に達する者、したがって(仏教徒が涅
槃に達するように)現世からの救済に達する者はもちろんごく少数の者に限られるという真理と合致す
るのである。そしてこの教義が永劫の堕罪として実体化しているものが、ほかならぬこのわれわれの世
界なのであり、例の大多数を占める残りの者はこの世界に帰属するのである。この世界はまことにひど
いものであって、これこそ煉獄であり地獄であり、そこには悪魔も欠けてはいないのだ。
0191幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/08/28(金) 01:42:15.350
時あって人間が人間にわざわいを及ぼし、考えぬかれた拷問でいじめぬいてたがいに徐々に死に至らし
めるかを考えてみるがよい。そのうえで、悪魔とてもこれ以上のことをなしうるかどうか自問してみるがよ
い。心をいれかえることなく、生きんとする意志の肯定に執心するすべての人にとって、この世の滞在は
果てしもないものとなるのだ。

 じっさい、もしアジア高原地方の人が「ヨーロッパとは何か」とわたしに尋ねたとしたら、わたしは
彼にこう答えざるえないだろう――「ヨーロッパとは、人間の誕生が人間の絶対始原で、人間は無か
ら発したという前代未聞の信じられないような妄想にすっかりとりつかれている大陸だ」と。――

 双方の神話は別として、最も深い根本において、ブッダのサンサラ(輪廻)およびニルヴァーナ(涅
槃)は、アウグスティヌスの二分された国、すなわち「地の国」(civitas terrena)と「天の国}(civitas
coelestis)に等しい。これは彼が『神の国』の諸巻、とりわけ第一四巻・第一章、第一五巻・第一章お
よび第二一章、第一八巻の終わり、第二一巻・第一章で述べていることである。――

 悪魔はキリスト教では、きわめて慈悲深い全知・全能の神の対重として、必要欠くべからざる人物だ。
0192幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/08/28(金) 01:53:52.900
というのは、悪魔がいて、この世の無数・無限で優勢きわまる悪を引き受けてくれるのでなけれ
ば、全知・全能の神の足もとでどこからそういう悪が出てくるのか見当がつかないことになるからだ。
だから、合理主義者たちが悪魔を片づけてしまってからは、ほかの面でいろいろ困ることが出てきた
し、それがいよいよ痛感されることになってきた。これくらいのことはまえから見当のついていたこと
で、現に正統派の信者たちは予知していたのだ。柱を一本ぬけば、建物の他の部分にがたがくるのは当
然だからだ。――ここで確証されることは(これは他の方面からも確かめられることだが)、じつはエ
ホバはオルムズドの一変形なのであり、サタンはオルムズドと不可分なアフリマンだということだ。そ
してオルムズドそのものがじつはインドラの変形なのだ。――

 キリスト教には固有の欠点がある。それは他の宗教のように純粋な教説ではなくて、主として、また
本質的にひとつの歴史であるということだ。つまり一連の出来事、もろもろの事実や個人の行為と受苦
の集合なのであり、ほかならぬこの歴史が教義をなしていて、それを信じることがわれわれに至福をあ
たえるのである。他の宗教、とりわけ仏教も、なるほどその開祖の生涯について歴史的付加物をもっ
てはいるが、これは教義そのものの部分ではなくて、教義と並行しているのである。たとえば『ラリタ
ーヴィストラ』が釈迦牟尼すなわち現世の仏陀の生涯を内容としているかぎりでは、これを福音書と比
較できるけれども、釈迦牟尼の生涯はあくまで教義、すなわち仏教そのものとはまったく別な問題なのだ。
0193幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/28(金) 19:06:15.210
 つまり釈迦以前の仏陀たちの閲歴はまったく違っていたし、また将来の仏陀たちの経歴もこれとは
完全に違ったものになるわけだからである。ここでは教義はけっして開祖の閲歴と癒着しておらず、個
別の人物や事実にもとづいているのではなくて、普遍的な、いつの時代にも同様に妥当する教義なので
ある。だから『ラリターヴィスタラ』は、言葉のキリスト教的な意味での福音書、すなわち救いの事
実についての「楽しい知らせ」ではなくて、めいめい各自がどうして救われうるかという指針をあたえ
た人の経歴にとどまるのである。――ところで、シナ人が宣教師をおとぎ話の話し手だといって嘲笑す
るのも、キリスト教のこういう歴史的性質から来ているのだ。

 この機会に、キリスト教に見られるもうひとつ別の根本的誤謬に言及しなければならない。これは簡
単に解明できない誤謬絵あるが、その恐るべき結果は日々明らかになっているところだ。すなわちキリ
スト教は不自然にも、人間が本質的にそこに所属している動物界から人間を切り離し、動物をまさに事
物と見て、人間だけを認めようとしている点だ。――ところがバラモン教や仏教は、事の真相に忠実に
従って、人間が全般的に自然全体とつながっていること、とりわけ動物界とはいちじるしい親戚関係に
あることも断固として承認し、輪廻その他の方法によって、つねに人間を動物界と緊密なつながりのう
ちに説明しているのである。バラモン教や仏教では動物が断然重要な役割を演じており、これをユダヤ
的キリスト教における動物のほとんどゼロに等しい役割と比較すれば、たとえヨーロッパではそういう
筋の通らぬ話に慣れているとはいっても、完全さにおいてキリスト教はまったく論外なのだ。この根本
的誤謬を言葉でごまかすために――じつはそれによって輪に輪をかけるだけなのだが――すでにわたし
の『倫理学』二四四頁(第二版二三九頁)で槍玉にあげておいたような、じつに浅ましくも図々しい奸
策が弄されている。
0194幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/28(金) 21:56:32.660
すなわち、動物がわれわれ人間と共有しており、人間の本性と動物の本性が一体
であることを立証するすべての自然的機能、たとえば飲食・妊娠・出生・脂肪・死体などを、動物の場
合、人間におけるのとはまったく別の言葉で言いあらわすのである。これはまことに卑劣な策略だ。と
ころでこのような根本的誤謬は、無からの創造ということから出てくるのだ。犬を売る商人でさえ、そ
の手がけた動物を手放すときには、「かわいがってやってください」というとりなしの言葉をつけ加え
るのに、創世記・第一章および第九章によれば、造物主は、そういうとりなしはいっさい抜きに、まっ
たく事物同然に、あらゆる動物を人間にゆだねるのである。それも人間が動物どもを支配するように、
つまり人間が自分の好き勝手なことを動物に加えていいというのである。さらに第二章では、造物主は
人間を動物学の筆頭教授に任命し、これからさき動物たちのもつべき名称をそれぞれの動物にあたえる
ように委嘱する。これこそまさに動物が人間に完全に依存しているということ、すなわち動物がなんら
権利をもたないということの象徴にほかならぬ。――聖なるガンジスの流れよ! われわれの種族の母
よ! こういう造語がわたしに及ぼす影響は、べとつくアスファルトやユダヤ的悪臭のごときものがあ
るのだ! これというのも、動物を人間の好き勝手に使える製品のように見るユダヤ的見解のせいだ。
しかしその影響は残念ながら現代にも及んでいることが感じられる。というのは、これらの物語がキリ
スト教に移行したからだ。だからキリスト教の道徳がこの世で最も完全なものだなどと吹聴すること
は断然やめるべきだ。じっさい、キリスト教の道徳がその掟を人間だけに限って、動物界全体をなん
の権利ももたないものとして放置していることは、ひとつの大きな欠陥であり、本質的に不完全な点で
ある。だから粗暴・冷酷な、ときには野獣にも負けぬような大多数の人間どもから動物を守るために
は、警察が宗教の役割を代行せざるをえぬのであり、それだけではじゅうぶんでないため、現今ではヨ
―ロッパやアメリカのいたるところで、動物愛護協会などが結成されているしまつだ。
0195幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/28(金) 23:22:05.410
しかしこういう協会などは、割礼を受けない全アジアでは無用の長物の最たるものであろう。というのは
アジアでは、宗教が動物をじゅうぶんに保護し、積極的に親切に取り扱っているからで、現にその成果は
たとえばスラテの大きな家畜病院に見られる。この病院へは、キリスト教徒も回教徒もユダヤ人も病気に
かかった動物を入院させることができるが、治療がうまくいっても、まことに適切な処置だが、その動物
を返してもらえないのだ。同様にバラモン教徒や仏教徒は、自分の身に幸運が舞いこんだり、あるいは事
がうまく運んだりした場合はいつでも、「神なる汝を」などとわめきたてないで、市場に行って鳥を買
い、市門のまえでその鳥籠をあけてやるのだ。これはあらゆる宗教の信者が集まっているアストラハン
などでいくらも見る機会があることだ。またこれに類することはいくらでもある。

 これにひきくらべ、われわれのキリスト教の賤民どもが動物を遇する、あの悪逆無道ぶりを見るがい
い。彼らはまったくなんの目的もないのに、笑いながら、動物を殺したり、かたわにしたり、いじめた
りする。そして自分たちを養ってくれた稼ぎ手の馬でさえ、老齢に至っても酷使し、その鞭の下にくた
ばるまで、哀れにも骨の髄までもしゃぶるのだ。じっさい、人間は地上の悪魔で、動物たちは苦しめられ
る魂だ、と言いたいくらいだ。これこそエデンの園におけるあの任命の場面の結果なのだ。賤民どもを
おさえるには、暴力か宗教しかないのに、キリスト教は不名誉にもこの場合、われわれを見殺しにする
のだ。確かな筋から聞いた話だが、ある新教の牧師が動物保護協会から動物虐待に反対する説教をして
くれと頼まれたとき、宗教上なんの手がかりもあたえられていないので、どうしてもできないと答えた
という。この牧師は正直者だったのだ。彼の言うとおりなのだ。たいへん称讃に値するミュンヘン動物
愛護協会が一八五二年一一月二七日付で出した告示は、すばらしいねらいで聖書から「動物愛護を説
いている規定」を集めようと骨折っている。
0196幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/08/29(土) 13:00:10.330
そのあげている個所はソロモンの箴言一二の一〇、ジーラハ七の二四、詩編一四七の九、一〇四の一四、
ヨブ記三九の四一、マタイ一〇の二九であるが、これはだれもその個所をあけて見ないだろうということ
を当てにした一種の「敬虔な嘘」にすぎないのだ。ただ非常に有名な最初の個所だけは、弱いながらも、
この問題に触れたことを述べている。それ以外の個所は動物について語ってはいるけれど、動物愛護の
ことは言っていないのだ。ではその最初の個所は何と言っているか? 「正しい人はその家畜を憐れむ」
――「憐れむ!」とは、なんという言葉か! わるいことをした罪人や犯人ならば憐れむこともあろうが、
なんの罪もない忠実な動物、ときにはその主人に飯を食わせてやりながら、わずかな餌しかあたえられぬ
動物に対して「憐れむ」というのは当たらない。「憐れむ!」憐れみではなくて、公平こそ、われわれが
動物にあたえてやらねばならぬものだ、――しかしこの公平こそ、ヨーロッパ、すなわちユダヤ的悪臭に
みちみちているため、「動物は本質において人間と同じものだ」という明白・単純な真理が、一種不快な
逆説となっているこの大陸にあっては、実現されぬままにとどまっているのである。――

 動物の保護は、したがってそれを目的とする協会や警察の仕事になるわけだが、両者とも賤民ども
のあの一般的な無道な仕打ちに対しては、ほとんどお手あげのかっこうだ。なにぶんにも訴えることの
できない動物相手のことであり、百の残虐行為で見つかるのは一つあるかないかであり、とりわけその
刑罰が軽きにすぎるからである。最近イギリスでは苔刑が提案されたが、わたしには至当のことと思わ
れる。しかし、人間と動物が本質的には同一であるという熟知の事実さえ承認せず、誠実で理性的な仲
間の者が、人間を動物の当該部門に編入したり、あるいは人間がチンパンジーやオーラン・ウータンに
酷似していることを証明したりすると、それこそ躍起になって反駁したりするほど、はなはだ頑迷・愚
昧な学者どもや動物学者までいるありさまでは、何を賤民どもから期待できよう。
0197幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/08/29(土) 13:37:55.150
しかしほんとうに腹が立つことは、きわめてキリスト教的な考えをもった敬虔なユング=シュティリングが、
その著『幽界の光景』第二巻・第一景一五頁で、次のような比喩をあげていることだ。「突如として骸骨は
収縮して、 言いあらわしようのないほど不気味な小さな侏儒となった。それはちょうど、大きな女郎蜘蛛を
沸騰点 にあるビーカーに入れて、膿のような血が灼熱のなかでぐつぐつと煮えたぎったときのようであった。」
つまりこの神のしもべは、こういう恥さらしの行為を自分でやったか、あるいは平静な観察者として傍
観したのだ。――この場合、どちらでも同じことだ。――じっさい、彼はそういうことを悪いともなん
とも思っていないから、話のついでに淡々として語っているのだ! これは創世記第一章、一般にユダ
ヤ的自然観の影響である。これに反して、インド教徒や仏教徒にあっては、偉大な言葉「それはおまえ
なのだ」(Tat-twam asi)が重んじられる。これは動物と人間んお内的本性が同一であることを銘記する
ために、われわれの行動の基準として、どういう動物に向かってもたえず口にする必要のある言葉なの
だ。――まことにいたれりつくせりの道徳ではないか!――

 わたしがゲッティンゲン大学で勉強していたとき、ブルーメンバッハは生理学の講義で、生体解剖の
おそろしい面について切々とわれわれに語った。それがいかにも残忍でおそろしいことであること、し
たがってめったに用うべきではないこと、ごく重要で、直接役立つ研究にだけこの措置に踏みきるべきで
あること、それを行なう場合には、科学の祭壇にささげられた残忍な犠牲が最大の利益をもたらすよ
う、大講堂で最大限に公開し、あらゆる医学者を招待したうえで行わなければならない、と説明して
くれたのである。
0198幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/29(土) 14:58:51.130
――ところが今日では、どんな藪医者でもいろいろな問題を決定するために、その拷問室で残忍きわまる
動物虐待をやる権能があると思っている。じつはその問題の解決はとっくに書物に載っているのであって、
ただ彼らがあまり怠惰・無知であるために、その書物をのぞかないだけのことなのだ。昔の医者は古典的
教養によって、ある種の人間性と気品をそなえていたが、いまの医者はもはや古典の素養をもっていない
のだ。いまはできるだけ早く大学に行って、そこでせめて膏薬塗りだけでも覚え、それで世間的成功を
得ようというわけだ。

 生体解剖ではフランスの生物学者が先例を示したように思われる。そしてドイツ人はフランス人と張
り合って、しばしば大量に、罪のない動物に残虐きわまる拷問を加えるのであるが。その目的とすると
ころは純理論的な、往々愚にもつかない問題を決定するためにすぎない。わたしはここにとくに憤慨に
たえない二つの実例をあげたいと思うのであるが、それはけっして散発的なものでなく、似たような例
は百をもって数えることができる。マールブルクのルートヴィヒ・フィック教授はその著『骨の形の原
因について』のなかで、幼い動物の眼球を摘出したことを報告している。それは何のためかといえば、
そのあとの間隙に骨が成長していくという彼の仮設を確証するためなのだ!(一八五七年十月二十四日
付「中央新聞」を見よ。)

 ニュルンベルクのエルンスト・フォン・ビブラ男爵が行なった非道の仕打ちは、特記するに値する。
彼がその著『人間ならびに脊椎動物の頭脳にかんする比較研究』(マンハイム、一八五四年、一三一頁
以下で、いかにもしたり顔に、不可解なほど素朴に、読者に語っているところによると、二匹の兎を
計画的に餓死させたというのだ! しかもそれは餓死によって脳髄の化学的成分に比例的変化が起こる
かどうかという、まったくのんびりした無益な研究のためなのだ! 学問のために――とおっしゃるの
でしょ? いったい解剖刀や坩堝のこの先生がたは、自分がまず人間であること、科学者であることは
二の次だということを、夢にもお考えにならにのか?
0199幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/08/29(土) 15:50:29.090
――母親の乳を飲んで育っている無邪気な動物を南京錠やかんぬきをかけて閉じこめ、拷問にも似てじわり
と餓死させながら、どうして高枕で眠れるのか? 眠っていてもびくりととび起きはしないのか? こうい
うことがバイエルンでは起こるとは? バイエルンでは王子アダルベルトの保護のもとに、尊敬すべき功績
顕著な宮中顧問官ペルナー氏が、粗暴・残忍から動物を守るために全ドイツに範をたれているではないか。
ニュルンブルクには、大いに成果をあげているミュンヘン動物愛護協会のごときものがないのか? ビブラ
の残虐行為は、たとえ阻止されえなかったとしても、罰せられずにすんだのであろうか?――このフォン・
ビブラ氏のように、まだまだ多くのことを本から学びとらねばならぬような人は、自分の知識を豊富にしよ
うとして、つまりはおそらくはとうの昔に知れわたっているような自然の秘密をしぼりだすために、残忍な
方法で究極の答えをしぼりだそうと考えたり、生き物を拷問にかけようと考えたりしてはいけないのだ。と
いうのは、この種の知識のためならば、哀れなよるべない動物を拷問で殺す必要はさらさらなく、まだ他に
罪のない宝庫がいくらもあるからである。いったいなんのために哀れにも無邪気な兎を捕えて、徐々に餓死
する苦しみをなめさせるような罪なことをするのか? 研究されるべき関係について書物に記載されている
ようなことを、完全にすべて熟知していないような者は、生体解剖をする資格はないのである。

 すくなくとも動物にかんするかぎり、たしかにいまこそユダヤ的自然観に終止符をうつべき時であ
り、われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質を正
しく認識し、保護し、尊重すべき時である。わたしはそれを本気で言っているのであり、たとえ全ヨー
ロッパがユダヤ人の教会堂で蔽われようとも、一歩もゆずる気のないことを銘記しておいてもらいたい!
0200幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/29(土) 17:02:14.480
動物は本質的に、また主要な点で、われわれ人間とまったく同一なものであり、その差はたんに
偶有的属性、すなわち知性にあるだけで、意志という実体にあるのではない。こういうことがわからぬ
のは、あらゆる感官がめくらであるか、ユダヤ的悪臭のクロロホルムで完全に麻酔にかかっているに相
違ないのだ。世界はわれわれが使うためにこしらえたものではなく、動物はわれわれが使うための製品で
はない。こういう見解はユダヤ人の教会堂や哲学の講堂にまかせておけばよい。この二つは、べつに本
質的に大差はないのである。これに反し上述の認識は、動物を正しく取り扱うための規則をわれわれに
手渡してくれる。狂信的にいきまく連中や坊主どもに対して、この問題ではあまり反対しないようにわ
たしは勧告する。というのは、この場合、真理だけではなく、道徳までもわれわれの味方についている
からである。

 鉄道がもたらした最大の恩恵は、そのおかげで何百万の輓き馬が苦役を免れたことだ。――
 イギリスには菜食主義者というのがいるけれども、北方に押しよせて行って、そのために白色になっ
た人間が動物の肉を必要とするということは、残念ながら真実である。しかしその場合でも、クロロホ
ルムを用いたり、致命的な急所をすばやく一撃を加えたりすることで、動物たちがその死を感じないよ
うにしてやるべきだ。しかもそれは旧約聖書が言いあらわしているような「憐れみ」からではなくて、
われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質に対する
どうしようもない責任からである。屠殺されるあらゆる動物にはあらかじめ麻酔をかける必要があろ
う。これこそ人間の名誉をそこなわない高貴なやり方と言えるだろう。西洋の高度な科学と東洋の高度
の道徳が、このやり方ならば手に手を携えて行けるであろう。バラモン教や仏教はその掟を「隣人」に
限定することなく、「生きとし生けるもの」をその保護のもとに包容する域に達しているからである。
0201幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 01:41:33.910
 ユダヤ的悪臭のためにその頭が朦朧となっていない人、倒錯した考え方をもっていない人ならば、だ
れにでもおのずからわかる真理、端的に確実な真理が、あらゆるユダヤ的神話や坊主どもの威嚇をしり
めにして、いいかげんヨーロッパでも認められるべきであり、これ以上握りつぶされるようなことがあっ
てはならない。それは動物が、主要な点で、本質的に、われわれとまったく同一なものであり、その差
はたんに知性の度合い、すなわち頭脳の活動にあるだけだということだ。もちろん知性の程度は、動物
の種の異なるに応じて非常なひらきがあるけれども、この真理を認めることによって、もっと人間らし
い取り扱いを動物たちにあたえることができよう。というのは、あの単純であらゆる疑問をこえた真理
が民衆にしみわたったときになってはじめて、動物たちはもはや権利をもたないものとして放置された
り、粗暴な悪童どもの意地悪い気まぐれや残忍性の犠牲になったりすることもなくなるからである。
――そして今日行なわれているように、あらゆる藪医者どもが、自分の無知からくる冒険的気まぐれ
を、無数の動物の身の毛のよだつ苦痛によって実験するような勝手なまねもできなくなるだろう。もち
ろん今日では動物もたいがいの場合クロロホルムで麻酔がかけられることを頭におく必要はある。おか
げで手術中も苦痛をまぬかれるし、手術後は急速に死をあたえて彼らを救うこともできるのである。し
かし今日しばしば行なわれている、神経系統の活動とその感受の度合いをしらべる目的の手術では、麻
酔という手段はとうぜん使うことはできない。つまりまさに観察しようとする活動が停止するからであ
る。そして残念なことには、生体解剖に最も頻繁に用いられるのは、あらゆる動物のなかで道徳的に最
も高尚な動物、すなわち犬である。しかも犬はその神経系統が非常に発達しているため、苦痛の感受度
は他の動物よりも高いのである。良心のやましさを感じるような動物の扱い方は、ヨーロッパでもこの
あたりでやめなければならない。――
0202幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 01:53:10.470
 犬について: 犬を鎖につなぐことの残虐さについて。人間のこの唯一真実な仲間、最も忠実な友、Fr.キュ
ヴィエのことばで言えば、かつて人間が獲得したなかでもいちばんだいじなこの腹心、しかも最高にものわ
かりがよく感受性も鋭敏なこの生き物を、まるで犯罪者のように鎖につなぐとは! つながれた犬は朝から
晩まで、自由と運動にあこがれるばかり。その切なる願いもかなえられることなく、その一生は緩慢な拷問
と化すのだ! こうした残虐さのために、はては犬も犬の本性を失って、かわいげのない、野性むきだし
の、忠実さの欠いた畜生となり、また人間という悪魔にいつもおののいて、びくびくはいつくばる姿に変
わってしまうのである! このようなみじめな姿がもしわたしのせいであり、あけくれその歎きを見ていな
ければならないとしたら、むしろわたしは犬など飼うのをやめて、泥棒にあったほうがましだと思う。(あ
る貴族と彼の鎖につないだ犬については、第一五三節参照。)籠の鳥も恥ずかしいおろかな残虐行為だ。こ
んなものは禁止されるべきで、この場合も警察が人間性の代役をなすべきだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 動物界についてのユダヤ的見解は、道徳にそむいているから、ヨーロッパから一掃される必要があ
る。本質的に、また主要な点で、動物がまったくわれわれと同じものである、ということ以上に明白な
ことがあろうか。そういうことを見誤るようでは、五官のすべてがめくら同然であるにちがいないか、
あるいはむしろ見ようという気がないにきまっているのだ。それというのは、だれでも真理よりは飲み
しろのほうがありがたいからだ。
0203幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 13:16:10.270
  第一七八節 有神論について

 多神論が自然の個々の部分と力を人格化したものであるように、一神論は全自然を――打って一丸と
して人格化したものである。――

 ある個人的存在者のまえに立ったわたしが、そのかたに向かって次のように言う。「わが創造主よ!
わたしはかつては無でありました。しかしあなたがわたしを生みなしてくださったおかげで、わたしは
いま何ものかであり、しかもわたしというものなのです。」――さらにつけ加えて、「この恩恵に対しわ
たしはあなたに感謝いたします。」――そして最後に、「わたしがなんの役にも立たなかったとしたら、
それはわたしの罪です」とさえ言う。ところでそういう場面を思い描こうと試みた場合に、わたしは、
自分が哲学を研究したりインドのことを勉強したために、わたしの頭がそういう考えを受けつけられな
くなっていることを告白せざるをえない。わたしがこういうことを考えたのは、じつはカントが『純粋
理性批判』(「宇宙論的証明が不可能であることについて」の節)で次のように述べているからで、いわ
ばその対幅にすぎないのだ。「われわれは次のような場面を考えないではおれないが、しかしそういう
考えに耐えることはできない。すなわち、ありとあらゆる存在者のなかで、われわれが最高の存在とし
て思い描くかたが、いわばひとりごとをなさるのだ。《わたしは永遠から永遠にわたって存在する。わ
たしのほかには、わたしの意志によっていささかのものであるもの以外には、なにものも存在しない。
ところでこのわたしはいったいどこからきたのであろうか?》と。」――
0204幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 13:40:41.450
 ついでながら言っておくが、この最後の問いも、いま引用した節全体と同様、カント以後の哲学教授
連が、絶対者、つまり平たくいえば原因をもたぬものを、しょっちゅう彼らの哲学的思索の主題にする
ことを押しとどめはしなかった。これこそまさに彼らにうってつけの思想なのだ。一般にこの教授連は
救いがたい人種だ。彼らの書物や講演のために貴重な時を失わぬよう、わたしは切にすすめてやまない。

 木や石や金属から偶像をつくろうと、抽象的概念からそれをつくろうと、結局は同じだ。人格的存在
者をまえにして、それに犠牲をささげたり呼びかけたり、感謝したりすれば、とたんにそれは偶像崇拝
になる。自分の羊を犠牲にささげるか、それとも自分の気持ちをささげるかは、根本においてそれほど
違ったことではない。どんな儀式あるいは祈祷も、文句なく偶像崇拝の根拠である。だからあらゆる宗
教の神秘的宗派は、その最奥義を究めた人に対しては、いっさいの儀式を抜きにする点で、一致するの
である。
0205幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 14:54:21.410
  第一七九節 旧約聖書と新約聖書

 ユダヤ教の根本性格は現物主義と楽天論だ。この二つは血筋の近いもので、本来の有神論の条件であ
る。というのは、有神論は物質界を絶対に現実と見て、人生をわれわれのためにつくられた、快適な一
種の贈り物とみているからである。これと反対に、バラモン教や仏教の根本性格は、精神主義と厭世観
だ。というのは、バラモン教や仏教は、世界を一種の夢のようなものと見ており、人生をわれわれの罪
の結果と見ているからである。周知のようにユダヤ教の源流であるゼンド・アヴェスタ教では、厭世的
要素を代表するものにアフリマンがある。しかしユダヤ教では、このアフリマンがサタンになって、従
属的地位を占めるにすぎなくなる。といってもサタンが蛇やさそりや毒虫の元祖であることは、アフリ
マンと同様である。ユダヤ教はサタンの化身である蛇を人間の堕落に登場させる。つまり楽天観という
ユダヤ教の根本的誤謬を修正するために、サタンを利用するのだ。ところでアダムとイヴの堕落は、明
白な真理には絶対必要な厭世的要素をユダヤ教にもちこんだもので、この宗教では最も正しい根本思想
である。ただし罪に堕ちるということは人間生存の根拠であり、生存に先行するものとして叙述される
はずのものであるが、アダムとイヴの堕落はこれを生存の経過へ移しかえているのである。

 エホバがオルムズドであるという適切な確証を提供しているのは、七十人訳エズラ書・第一巻、すな
わちο ιερευς Α(六の二四)だが、ルター訳では省かれている。「王キュロスはイェルサレムに主の家を
建造せしめた。そこでは不断の火によって主に犠牲がささげられていた。」――またアカベア第二書・第一
章および第二章、さらに第三章、最八節も、ユダヤ人の宗教がペルシア人の宗教であったことを証明
している。
0206考える名無しさん
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2015/08/30(日) 15:29:58.800
キリストも復活したすぐ後に昇天しないで、そのまま地上で説教を続けていたとしたら、
人々からゾンビ扱いされて、救世主と見なされることはなかっただろう。
0207幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 19:41:31.340
 というのは、バビロンの捕囚に連れ去られたユダヤ人たちは、ネヘミヤの導きのもとに、あ
らかじめ聖火を乾いた天水槽のなかに隠しておいたため、水につかることになったが、そちに奇蹟に
よってふたたび火があおりたてられたので、ペルシア王に大なる感化をあたえた、と語られているから
である。ユダヤ人と同様、ペルシア人もまた偶像崇拝をきらい、したがって神々を像の姿であらわすこ
とはなかったのである。(シュピーゲルもまた、ゼンド宗教について、それがユダヤ教徒親近性をもっ
ていることを説いているが、しかし彼はゼンド宗教がユダヤ教に由来すると主張している。)――

 エホバがオルムズドの一変形であるように、アフリマンの変形がサタン、すなわちオルムズドの敵対
者なのだ。(ルターは七十人訳で、「サタン」となっているところを「敵対者」と訳している。たとえ
ば列王紀略上・第一一章、第二三節。)エホバ崇拝はヨシュア王の治下にヒルキアの援助によって生じ
たらしい。すなわちゾロアスター教徒によって受けいれられエズラによりバビロン追放から帰還した
さいに完成したと思われる。というのは、ヨシュアやヒルキアまでは、あきらかに自然宗教・星辰崇
拝・ベル崇拝・アスタルテ崇拝などがユダヤ王国で行われていたからであり、ソロモン王治下でも同
様である。(ヨシュアおよびヒルキアについての列王紀略を見よ。)
0208考える名無しさん
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2015/08/30(日) 19:56:25.870
うむ
0209考える名無しさん
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2015/08/30(日) 19:56:57.190
うむ
0210幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/30(日) 20:14:17.950
 列王紀略: キュロスやダリウスが(エズラ以降)ユダヤ人に好意を示し、その神殿を再建させているが、
これはおそらく、それまでバアル、アスタルテ、モロッホなどを崇拝していたユダヤ人たちが、バビロンに
おいて、ペルシア人が勝利をしめしたときから、ゾロアスター教を受けいれ、エホバという名のもとでオルム
ズドに仕えるようになったせいではあるまいか。そうでなければ、あの好意は不可解である。キュロスがイ
スラエルの神に祈りをささげた(七十人訳聖書のエズラ書・第一巻二の三)ということも、このことと符合
する(そう考えなければ筋が通らないだろう)。旧約聖書のあらゆる先行諸書はのちに、すなわちバビロン捕
囚以後に作成されたが、あるいはすくなくともエホバの教えはのちに挿入されたかしたのだ。とにかくわれ
われはエズラ書・第一巻・第八章および第九章によって、ユダヤ教の最も恥ずべき面を知る。この選ばれた
民はここでその祖先アブラハムの不快・無道な手本にならって行動している。すなわちアブラハムがハガー
ルをイスマエルとともに放逐したように、バビロン捕囚のあいだにユダヤ人と結婚した婦人たちは、ただ人
種的にMauschelでないという理由から、その子供とともに追放されたのだ。この民族のより大規模な非行
を曲飾するために、あのアブラハムの非行があみだされたものでないとしたら、これ以上卑劣なことはほと
んど考えられない。
0211幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 11:22:02.350
 ユダヤ教の起源がゼンド宗教にあることを確証するものとして、ここについでながらあげておきたい
ことは、旧約聖書やその他のユダヤの典拠によれば、天使が雄牛の頭をもったものになっており、エホ
バがそれに乗って歩くということだ。(詩篇九十九の一.七十人訳聖書列王記略・第二書六の二、および二
二の一一。第四書十九の一五には「ケルビムの上に座したまう汝〔エホバ〕」とある。)エゼキエル書・
第一章および第一〇章の記述などに見られるように、半ば雄牛で半ば人間、また半ば獅子といったこう
した動物は、ペルセポリスにあるいろいろな彫刻、ことにモズルやニルムードで発見されたアッシリア
の彫像のなかに見られる。それどころかヴィーンにある彫像を施した石には、オルムズドがこのような
雄牛のケルビムに乗った姿が描かれている。このことの詳細はヴィーン文学年間一八三三年九月「ペル
シア旅行記」にある。なおユダヤ教のゼンド宗教起源についての詳しい説明は、J・G・ローデがその
著『ゼンド民族の聖なる伝説』で提供してくれる。これらすべてはエホバの系譜に光をあたえるものだ。

 これに反して新約聖書はとにかくインド的な由来のものであるにちがいない。道徳を禁欲に移すまっ
たくインド的なその倫理、その厭世観およびその降化がこれを証拠立てている。しかし、まさにそのた
めに新約聖書は旧約聖書と決定的に内面的に矛盾することになり、けっきょくアダムとイヴの堕罪の物
語だけが、両者のつなぎになったのである。というのは、あのインドの教えが約束の国にはいってきた
とき、この世が堕落していて悲惨であり、したがってそれを救う必要があるという認識、降化をはじめ
として、自己否定と懺悔の道徳によって救われるという認識を――ユダヤ的一神教ならびにその楽天的
な「すべてはたいへん良かった」に結びつける課題が発生したのだ。そして、それは事情のゆるすかぎ
り、つまりこれほどまったく異質的な、否、対立的でさえある二つの教えを結びつけうるかぎりにおい
て、成功したのであった。
0212幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 11:41:49.910
 支柱や手がかりのいる常春藤のつるが、荒削りな棒杭にからみついて、どんなところでもその不格好
な形に順応し、その形を再現しながらも、自分の生命と優雅でそれに覆い、こうして棒杭ではなしに、
こころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキリスト教の教えが、これ
とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そしてもとの形のうちで保存
されなければならなかったものは、キリストの教えによってまったく別のものに、いきいきとした真実
なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは別なものなのだ。

 つまりこの世と切り離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主
を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕落し、それ以後、罪・
堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われることになるからだ。仏
教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示すからである。――「す
べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものが「この世の君」(ヨ
ハネによる福音書一二の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな
く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあるのだ。この世におけ
る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神である。しかしこのような世
界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳においては、報復権の
かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取ってかわって、永生の約
束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわって、すべてを庇護する
聖霊が立ちあらわれるのである。
0213幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 13:32:08.430
 こうしてわわわれは新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを
見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と一致するようになった
のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだされる。しかし、無か
ら生命をあたえられ、しばしの時をおくるこの神のこしらえものである人間が、歎きと不安と困窮にみ
ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝してもじゅぶんではな
く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダヤ的な考え方は、ヒン
ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、インド的知恵の精神が、は
るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知されるけれども、旧約聖
書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないからだ。この堕落論は楽天観的
な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであり、じじつまた新約聖
書はこれを唯一の手がかりとして、堕落論に結びついたのである。

 さてある種を徹底的に知るには、その類を知る必要があり、またその類そのものはふたたびその種
的様相においてのみ認識されるものだ。それと同様に、キリスト教を徹底的に理解しようとすれば、世
界否定的な二つの他の宗教、すなわちバラモン教と仏教を知る必要がある。しかも確実に、できるだけ
精密に知る必要があるのだ。というのは、サンスクリットがギリシア語とラテン語を真に徹底的に理解
する道をわれわれにひらいてくれるのと同様に、バラモン教と仏教こそ、キリスト教を真に理解する道
であるからだ。
0214幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 18:52:27.980
 いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がインドの諸宗教と親縁
関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえいだいているわたしだ
が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見られる「生存の車輪」
(逐語的には「発生の輪」)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ
た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レミュザの『仏国記』訳
二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わりもないからである」と
書かれており、一七九頁には「車輪は仏教徒にはなじみの象徴である。その意味するところは、魂がさ
まざまな形をとる生存の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁
には、仏陀自身が「真理を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい
る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要な個所を見いだす。
「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動かないものであり、それ
には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる道を破壊することによ
り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東洋の修道生活』(ロン
ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこには死と生誕の規則正
しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因は業なのである」と。
同書一九三頁および二三三頁参照。また『プラボード・チャンドロー・ダヤ』(第四幕・第三場)には、
「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見える。継起する諸世界が不
断に生じては消えてゆくことについて、ビルマ原典によるビュナカンの仏教の説明(『アジア研究』第
肋間一八一頁)には、『世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ
れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長い文章ではあるが、同
じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にもる。)
0215幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 19:37:30.670
 グラウル専門語辞典によると、Hansa とは Saniassi の同義語である。――Johannes (これからドイ
ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠における隠遁生活)と
奸計が或るのではあるまいか。――

 仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその発生地では優勢では
ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言わざるをえないことだ。

 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、
と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ
て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人
間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全
能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、
イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、
つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場
合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、
のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。
0216幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/08/31(月) 20:24:23.270
というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは
ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、
そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている
という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると
説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この
種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから
だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。

 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環
境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお
とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、
しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい
た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情
で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと
はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ
て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作
されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな
かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明
敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった
であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放
者にすぎなかったのだ。
0217幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/01(火) 14:29:44.600
 こういう挿入がなされたというのも、福音書の起草者たちが、こうした個所をふくむ同時代のいろいろな
記録ををもとにして仕事をしたからだと思われるのだ。というのは、信者たちのあいだで口伝えにつたえら
れていた伝説でさえも、信仰に不都合をきたすようなことは落としてしまったと想定されるからだ。ついで
ながら、ライマールスが彼の仮設にとくに好都合な個所をいろいろ見落としているのは不可解だ。たとえば
ヨハネ一一の四八(この個所を一の五〇、六の一五と比較すること)、マタイ二七の二八ー三〇、ルカ二三
の一ー四、三七、三八、ヨハネ一九ー二二である。しかし、この仮説を真剣に妥当・貫徹させようと思うな
らば、次のような想定が必要となるだろう。すなわち、キリスト教の宗教的・道徳的内容は、ヒンドゥー教
や仏教の教義に精通したアレクサンドレイアのユダヤ人たちによってつくりあげられたのではないか、そこ
へひとりの政治的英雄が悲しい運命を背負って現われたので、もともと後世のメシアであったものを天上的
な救世主につくりかえることによって、これらの教義の結び目にされたという想定である。もちろんこの想
定は矛盾する点が非常に多い。しかし福音書の物語を解明するためにシュトラウスが提示した神話の原理は、
すくなくともその細部に対しては、たしかに正しい。それにしても、この原理がどこまで及ぶかをきめるこ
とは、むつかしいであろう。一般に神話的物語がどういう事情にあるかは、もう少し手近な疑義の少ない実
例について明らかにしなければならない。たとえば中世全般にわたって、フランスでもイギリスでも、アー
サー王はきわめて事蹟の多い、驚くべき人物ではあるが、輪郭ははっきりしており、いつも同じ性格をもっ
て、同一の従者を伴って登場する。王の円卓やそれを囲む騎士たち、王のかずかずの前代未聞の英雄的行為、
その風変わりな執事、その不貞な妃、妃の愛人ランスローなどといったお膳立てで、この王は何世紀もの詩
人たちや物語作者のおきまりの主題になっているが、これらの作者たちはすべて同じ性格をもったもろもろ
の同一人物を登場させており、事件の点でもかなり一致しているのである。ただ服装や習慣の点では、作者
自身のそのつどの時代に応じて、相互にひどく違っているだけの話だ。
0218幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/01(火) 14:47:16.410
 ところで数年前、フランスの内閣は、アーサー王の伝説の起源をしらべるために、ド・ラ・ヴィルマルク氏
をイギリスへ派遣した。そのときの結果は、伝説の根底にある事実については、次のようなことであった。す
なわち、六世紀の始め、ウェールズにアーサーという名の小領主がいて、侵入してきたサクソン人と根気よく
戦ったけれども、そのささいな事蹟は忘れられてしまった、というのである。してみると、この男が、どうし
てだかわからないが、幾世紀もつうじて無数の歌謡・物語詩・物語のうちに讃えられてきたあの輝かしい人物
になったわけなのだ。ヴィルマルケ著『古代ブルターニュの民話。アーサー王の円卓にまつわる叙事詩の起源
についての試論付』(二巻、一八四二年)を見られたい。この『アーサー王伝』では、アーサーは霧のなかの
人物のようにぼんやりとした遠くはるかな存在としてあらわれているが、それでも現実的な核心がないわけで
はない。――中世紀全体をつうじての英雄であるロランについても、事情はほとんど同じである。ロランも無
数の歌謡・叙事詩・物語で讃えられ、さらにロランの甲冑騎士柱像によって称揚され、ついにアリオストにま
でもその素材を提供して、この作品から変容して復活するようになったのである。ところでロランについては、
歴史はたった一回、たまたま、しかも三語をもって言及しているにすぎない。すなわち、アインハルトが彼ロ
ランをロンセスヴァリエスに滞在した名士のなかに「ブリテン王辺疆伯」(Britannici limitis praefectus)
たるロードランドゥスとして数えあげているのだ。そしてこれがわれわれのロランについて知っているすべて
であることは、ちょうどイエス・キリストについてほんとうにわれわれの知っていることが、タキトゥス
(『年代記』第一五巻・第四四章)の一個所につきるのと同様なのだ。別の例を示すものに、世界的に有名な
スペイン人シッドがある。
0219幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/01(火) 15:36:56.400
多くの伝説や年代記、とりわけあの有名なすばらしい『ロマンツェーロ』におさめられている民謡、はて
はコルネイユの最上の悲劇までが彼を讃美しており、しかも主要事件については、とくに妻になったシメ
ーネのことではだいたいにおいて一致している。ところがわずかな歴史的資料が彼について伝えているこ
とは、彼はなるほど勇敢な騎士、すぐれた将軍ではあったが、非常に残酷・不実な性格の持ち主であり、
それどころか、ときによって仕える党派を変え、キリスト教徒に奉仕するよりもむしろサラセン人に味方
するほうが多かったような節操のない人物であり、それはまるで一介の傭兵隊長に類するが、シメーネの
ひとりと結婚している、といったこと以上に出ないのである。こうしたことの詳細は、はじめて正しい
典拠に行きついたと思われるドージの『スペイン史研究』(一八四九年)第一巻から知ることができる。
――イリアスの歴史的根拠ははたして何であろうか?――じっさい、こうした問題の実態につきあた
るには、ニュートンのりんごの逸話を念願におくがよいのだ。この話に根拠がないことについては、わ
たしはすでに第八六節で説明したとおりなのだが、それでも何千という本でくりかえされているところ
で、現にオイラーさえも、『皇女あての書簡』の第一巻で、麗々しく述べたてているのだ。――およそ歴
史的事実はたいせつにすべきものである以上、残念ながら現状に見られるように、われわれは大嘘つき
であってはなるまい。
0220幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/01(火) 16:29:39.780
  第一八〇節 宗派

 原罪ならびにこれと結びつく点を教義にかかげているアウグスティヌス主義は、すでに述べたよう
に、理解のゆきとどいた本来のキリスト教である。これに反してペラギウス主義は、キリスト教を粗
野・平板なユダヤ教とその楽天観に逆転させようとする努力である。

 教会をたえず二分してきたアウグスティヌス主義とペラギウス主義の対立は、その究極の根源までお
しつめれば、前者は事物の本質そのものを論じているのに対して、後者は自分では本質と思いながら現
象を問題にしているにすぎない、というふうに還元できよう。たとえばペラギウス派は、まだなんにも
していない子供には罪がないにきまっているという理由から、原罪を否定する。――こういうことを言
いだすのは、なるほど子供は現象としては存在しはじめたばかりではあるけれども、物それ自体として
はそうでないことを、彼らが見ぬいていないからなのだ。意志の自由についても、救世主の贖罪の死に
ついても、恩寵についても、要するにすべての点について、同じことが言える。――それがわかりやす
く平板であるために、ペラギウス主義はいつでも優勢であるが、現代ではとりわけ合理主義として幅を
きかせている。ギリシア正教教会はペラギウス主義をやわらげたものである。トリエント公会議いらい
カトリック教会もこれと同様で、そのためカトリック教会は、アウグスティヌス的立場に立つがゆえに
神秘的な思想をもったルターや、さらにまたカルヴァンに対抗しようとしたのだ。同様にイエズス派も
半ばペラギウス主義的である。これに反してヤンセン派はアウグスティヌス主義を奉じており、彼らの
見解がおそらくキリスト教の最も純正な形であろう。というのは新教は、独身や一般に本来の禁欲を否
定し、禁欲の代表者である聖者を否認したことによって、すりきれた、あるいはむしろ画龍点晴を欠い
た腰くだけのキリスト教になってしまったからだ。こうなってはどうにもならない。
0221幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 01:27:18.920
  第一八一章 合理主義

 キリスト教の真髄は、アダムとイヴの堕落・原罪の教えである。すなわち、われわれの自然の状態は
度しがたく、自然的人間は堕落しているという教えであり、これに救世主による代理と贖罪が結びつ
き、われわれはこの救世主に対する信仰によって贖罪にあずかるというのである。このためキリスト教
は厭世観とみられるのであって、したがってユダヤ教の楽天観や、またユダヤ教の正統の子供である回
教の楽天観にはまさに対立するが、バラモン教や仏教とは類似するものとなるのである。――すべての
人はアダムにおいて罪を犯し、永劫に罰せられているが、救世主において救われるということには、人
間の本来の本質と真の根源が個人にあるのではなくて、人間の(プラントン的な)イデアである種にあ
るということ、個人は時間のうちにくりひろげられるイデアの現象にすぎないということも、表現され
ているのである。

 もろもろの宗教の根本的差異は、それが楽天観であるか厭世観であるかという点にあるのであって、
一神論であるか多神論であるか、三神一体であるか三位一体であるか、汎神論であるか、それとも(仏
教のように)無神論であるかといった点にあるのではない。だからこそ、旧約聖書と新約聖書はたがい
に正反対なのであって、これを結びあわせると一個奇怪な半人半馬ができあがるのだ。つまり旧約聖書
は楽天観、新約聖書は厭世観だからだ。旧約聖書はたしかにオルムズド教に由来するが、新約聖書はそ
の内面的精神からいえば、バラモン教や仏教に親縁で、たぶん歴史的にもなんとかこれらの宗教から導
きだすことができよう。音楽にたとえれば旧約は長調、新約は短調だ。ただ人類堕落論だけは旧約聖書
のなかでひとつの例外をなしており、キリスト教が唯一の接点としてふたたびとりあげるまでは、利用
されないままに一種の前菜にとどまったのである。
0222幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 02:27:36.500
 右に述べたキリスト教の根本性格は、アウグスティヌス、ルター、メランヒトンがきわめて正しく把
握しており、これを最大限に体系化しているのであるが、われわれの現代の合理主義者たちは、ペラギ
ウス派の亜流として、この根本性格をできるだけ抹消し、あらぬ解釈をほどこして、キリスト教を味気
ない、利己主義的・楽天観的なユダヤ教に還元しようとしている。そこへ彼らはよりよき道徳をつけ加
え、論理的に徹底した楽天観が要求するものとして来世を説くのだ。つまりこのすばらしい人生があま
りに早く終わらないようにというわけだ。つまり彼らの楽天観的見解を大声で打ち消すやつ、しかし結
局は石の客として陽気なドン・ファンをおとずれるあの死神を片づけたいわけなのだ。――

 こうした合理主義者たちは誠実な人種ではあるが、平板な頭しかもっていない連中だ。彼らには新約
聖書の神話の深い意味など、見当もつかない。彼らは自分たちの把握できる、また彼らにふさわしいユ
ダヤ的楽天観を超えられないのである。その欲するところは、歴史的な面でも、教義的な面でも、むきだ
しの無味乾燥な真実で、われわれは彼らを古代のエウヘメロス主義に比較することができる。もちろん
超自然主義者の唱えるところは、本質的には一個の神話である。しかしこれは重要で深遠な真理をはこ
ぶ車なのであって、真理を大衆の理解に近づけるには、他の方法では不可能であろう。ところでこれら
合理主義者たちが、キリスト教の意味と精神を認識するどころか、その見当もついていないことは、た
とえば彼らの偉大な使徒ヴェークシャイダーがその素朴な教義論で示しているところだ。すなわち彼は
その『教義論』(第一一五節および注)で、原罪ならびに自然的人間の本質的堕落についてのアウグス
ティヌスや宗教改革者たちの深い発言に対して、『義務について』の諸巻に見られるキケロの気のぬけ
たおしゃべりを対置してはばからないのである。彼にはこのおしゃべりのほうがずっと気にいるから
だ。われわれはじっさい、この男がなんのこだわりもなく自分の無味乾燥ぶりと平板さをさらけだし、
それどころかキリスト教の精神に対する理解が皆無であることを見せびらかすのを見て驚かざるをえな
い。しかし彼はたんに「多くのなかのひとり」にすぎない。
0223考える名無しさん
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2015/09/02(水) 06:21:41.300
ペシ

ズム

あんっ
0224考える名無しさん
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2015/09/02(水) 08:57:21.290
ショーペンハウアーは長生きしたけど、どんな生活してたのかな??
労働はしなかったでしょ、結婚もしなかった、作家としても晩年から評価されたし
そんな沢山書いてない、友達も少なそう・・
0225幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 12:08:38.140
現にブレトシュナイダーは、原罪と救済がキリスト教の精髄であるのに、原罪を聖書からしめだすよう
な解釈をほどこしているではないか。――

 他方、超自然主義者はときとして、もっと始末のわるい存在、すなわち言葉の最もわるい意味での坊
主であることは否定できないことだ。そこでキリスト教はまるでスキュラとカリュブディスのあいだを
どうしたらきりぬけるかという羽目になるのだ。両派の共通の誤謬は、ともに宗教のなかに、ヴェール
をかぶらない。無味乾燥な、文字どおりの真理を求めていることだ。しかし真理は哲学においてのみ追
究されるもので、宗教の有する真理は、民衆に適合した、間接的・象徴的・比喩的真理にすぎない。キ
リスト教は、ある真実な思想を模写しているひとつの比喩である。しかし比喩そのものは真理ではな
い。にもかかわらずそれを仮定することが、超自然主義者と合理主義者に共通する誤謬なのだ。超自然
主義者は比喩をそれ自身真実であると主張する。合理主義者はひねくった解釈をこねまわしたすえ、彼
らの尺度なりに比喩がそれ自体として真実たりうるようにしようとする。こうしておいてから両派はた
がいに適切・強力な論拠をひっさげて論争する。合理主義者は超自然主義者にむかって、「きみたちの
教説は真実じゃない」と言い、これに対して超自然主義者は、「きみたちの教説はキリスト教じゃない
よ」と合理主義者にやりかえすのだ。両者ともその言いぶんにまちがいはない。合理主義者は理性を尺
度としていると信じているが、じつは有神論と楽天観の前提にとらわれた理性を尺度としているにすぎ
ない。それはちょうどあらゆる合理主義の原型であるルソーの『サヴォワ副牧師の信仰告白』のような
ものだ。それゆえ合理主義者がキリスト教の教義のなかで残しておこうとするのは、彼らが本来的意味
で真とみなすもの、すなわち有神論と霊魂の不滅以外にはない。もし彼らがこの場合、無知の厚かまし
さで純粋理性に訴えるならば、われわれは彼らに純粋理性批判をお見舞いしなければならない。
0226幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 12:29:51.770
それは彼らに否も応もなく次のことをわからせるためだ。すなわち、彼らが理性にかなったものとして選
びだして保持している教義は、内在的原理を超越の世界に適用しているにすぎないということ、したがっ
て彼らのその教義は、カントが『純粋理性批判』の各ページで叩き、まったく無価値なものと立証してい
る、あの無批判的な、支持できない哲学的独断論にすぎないということである。こういう不合理を犯し
ている以上、合理主義者という彼らの名前からして、じつは彼らが合理主義に敵対するものであること
を示しているのだ。したがって、超自然主義にはそれなりの比喩的真理があるけれども、合理主義には
どのような真理も認めることはできない。合理主義者の言いぶんはまったく筋が通っていないのだ。合
理主義者を志す者は、哲学者にならなければならない。哲学者である以上は、あらゆる権威から解放さ
れなければならず、なにものにもひるむことなく前進しなければならない。しかし神学者を志す者は、
その一筋を通すべきで、権威の基礎を見捨ててはならない。たとえ権威が不可解なことを信じよと命令
する場合でも、うしろを見せてはならないのだ。ひとは二君に仕えることはできぬ。理性に仕えるか、
聖書に仕えるか、あれかこれかである。この場合、中庸とは二つの椅子のあいだにすわること、不可能
事を意味する。信仰するか、哲学するか! どちらでも選んだほうに徹底すべきだ。ところが、ある点
までは信仰してそれ以上に進まず、同じように、ある点までは哲学してそれ以上に進まぬということ、
――これこそ合理主義の根本性格をなす中途半端というものだ。ところで合理主義者は、彼らがまった
く誠実に仕事にあたり、だますといっても自分自身に限られている点では、道徳的に是認できるけれど
も、超自然主義者のほうは、単なる比喩にすぎないものを本来的意味の真理だと言いはることによっ
て、たいがい故意に他人をだまそうとするのである。とはいえ、超自然主義者の努力によって、比喩の
なかにふくまれている真理は救われるのだ。
0227幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 13:52:55.890
ところが合理主義者は、その北方的冷静さと平板さから、比喩に含まれた真理を投げだすと同時に、
キリスト教の全真髄をも惜しげもなく捨ててしまい、それどころか、八十年まえにヴォルテールが一
気に行きついたところへ、一歩一歩と進みながらも結局は行ってしまうのである。彼らが神の特性
(通性原理)を定めるにあたっては、いわゆる「神」という単なる言葉・標語ではとうていまにあわ
ないのだが、それが人間でもなく自然力でもないという、ちょうどその中間を射当てようと慎重にね
らっている彼らの様子を見るのは、ときとして愉快な見ものだ。だが、そういうことはもちろん困難
なことである。ところで合理主義者と超自然主義者がそうして戦っているうちに、ちょうどカドモス
がまいた龍の歯のたねから生まれた甲冑の勇士たちのように、両派ともたがいに疲れはててしまう。
そのうえ、ある側面から活動を開始する似非信心が、この事態にとどめを刺す。イタリアの諸都市の
謝肉祭で、冷静に、まじめにそれぞれの仕事にはげんでいる人々のあいだを気ちがいじみた仮面が走
りまわっているのが見られるように、今日のドイツでは、哲学者・自然科学者・歴史家・批評家・合
理主義者のあいだを、もう何世紀もまえの衣裳を身につけた似非信心の徒が騒ぎまわっているのが見
うけられる。その効果は、とくに彼らが熱弁をふるうときには滑稽だ。
0228幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 15:39:45.790
 信仰は愛情のようなものだ。強制できないのであるだから、国家的手段で信仰を採用したり固定し
たりしようとするのは、不都合な試みである。というのは、愛情を強いようとする試みが憎しみを生む
ように、信仰を強いようとする試みこそ、かえってほんとうの不信仰を生みだすからだ。信仰をおし進
めるには、あらかじめ周到な用意をととのえて、間接的にやらねばだめだ。つまり信仰が伸びるような
いい土壌をととのえる必要があるのだ。この土壌がすなわち無知なのである。だからイギリスでは昔か
ら現代にいたるまで無知に気をくばって育ててきたので、国民の三分の二は文盲というありさまだ。
だから今日でもイギリスでは、ほかの国でさがしても見つからぬような盲信がのさばっている。しかし
政府はいまや国民教育を僧侶の手から取りあげつつあるから、やがて信仰も下り坂になるだろう。――
そういうわけで全体としてはキリスト教は、たえず科学によって足もとをくずされながら、しだいにそ
の終末にむかって進んでゆくのだ。それにしても、原典をもたぬ宗教だけが滅びるという考察からキ
リスト教にも脈はあると見ていいかもしれない。ギリシア人やローマ人、これら世界を支配した民族の
宗教は滅びた。これに反して軽蔑されたユダヤ民族の宗教は残った。同様にゼンド民族の宗教も拝火教
徒のあいだで維持された。だが、ガリア人、スカンジナヴィア人、ゲルマン人の宗教は滅亡した。しか
しバラモン教や仏教は存続して栄えている。この二つの宗教は、あらゆる宗教の中で最古のものであ
り、詳細な原典をもっているのである。

 ※宗教にうしろめたいところがあるにちがいないことは、宗教を馬鹿にすることがじつに重い刑罰で
禁止されていることからも推しはかられる。ヨーロッパの諸政府は国教を攻撃することを禁じている。
ところがこの政府自体は宣教師をバラモン教や仏教の諸国に派遣しており、彼ら宣教師はその国々の宗教
をさかんに徹底的に攻撃している、――彼らの輸入した宗教が割りこめるようにと。それでいて、ひとた
びシナの皇帝やトンキンの大官がこういう人たちの首をはねたりすると、政府筋は悲鳴をあげるのだ。――
0229幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/02(水) 19:23:31.330
 第一二八節

 一つの個別的出来事を基礎とする宗教、しかも、これこれの場所、これこれの時に起こった事件を世
界ならびに生存の転回点にしようとする宗教は、基礎そのものが薄弱だから、人びとがいくらか反省す
るようになると、たちまち存立することができなくなる。これにひきくらべ仏教で何千という仏陀を想
定しているのは、まことに賢明ではないか! これはキリスト教の二の舞を演じないためだ。キリスト
教では、イエス・キリストがこの世を救済したことになっていて、キリスト以外に救いはありえない、
――だが、エジプト、アジア、ヨーロッパにその堂々たる記念碑を残している四千年の歳月は、キリス
トのことなんか知るはずもなく、このキリスト以前の諸時代が、あらゆるその壮麗さとともに、とつぜ
ん悪魔にくわれてしまったとは! たくさんの仏陀が必要なわけは、ひとつひとつのカルパを終わるご
とに世界は滅び、そしてこの世界とともに教えも滅びるので、新しい世界ごとに新しい仏陀が求められ
るからなのだ。救いはつねにあるわけなのだ。――

 文明がキリスト教的諸国民において最も高いということは、キリスト教が文明に幸いするせいではな
くて、キリスト教が死滅していて、ほとんど影響力をもっていないためなのだ。キリスト教が影響力を
もっていたあいだは、文明はおくれていた。すなわち中世がそうだ。これに反し、回教、バラモン教お
よび仏教は、いまでも人生に対して徹底的影響力をもっている。影響力がいちばん少ないのはシナで、
だから文明もその高さにおいてヨーロッパにほとんど比肩する。すべての宗教は文化と敵対関係にある。――

 宗教は昔は軍隊でもその背後に駐留して隠れることのできた森であった。現代で同じことをやろう
としても、うまくいかない。というのは、さんざん伐採したから、この森も藪になってしまって、たま
にぺてん師が身をひそめるくらいになってしまったからだ。だからわれわれはなんにでも宗教を引き入
れようとする連中を警戒しなければならない。そしてこういう連中には、さきに引用した格言「十字架
のうしろには悪魔がいる」で対抗すべきだ。
0230幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/03(木) 15:53:04.490
   第一六章 サンスクリット文学に対する二、三のこと

  第183節

 サンスクリットで書かれたものでは、わたしは宗教および哲学方面の作品は大いに尊敬するけれど
も、文学作品には、ただまれにしか楽しみを見いだすことができなかった。ときには、これら文学作品
の無趣味で奇怪なことは、これを生みだした諸民族の彫刻に劣らないという気がしたこともある。彼ら
の戯曲をわたしが評価するのも、宗教的信仰や風習に対してたいへん教えるところの多い説明や例証が
そこにふくまれているためにすぎない。すべてこうしたことは、詩がその本性上、翻訳できないために
起こることだろう。というのは、詩では、思想と言葉があたかも「胎盤における子宮の部分と胎児の部
分」のように緊密・強固に癒着しており、この言葉を外国語に置きかえると、思想を傷つけざるをえな
いからだ。もともと詩として韻をふんだものは、思想と言葉がとりむすんだ一種の妥協ではないか。し
かしこれは事の性質からいって、思想の生まれてきた母胎であるそれ自身の地盤でのみできることで、
われわれがそれを移植しようという外国の地盤、しかもたいがいの翻訳者の頭のような不毛な地盤では
できない相談だ。およそ何が対立するといっても、詩人がその感興を自由に吐露し、それがおのずから
本能的に韻律となってあらわれる場合と、翻訳者が冷たく打算的に、痛々しいばかりに四苦八苦して
綴りを数え韻をさがす場合にまさるものがあろうか。しかもヨーロッパには直接われわれに話しかけて
くる詩的作品にはこと欠かないが、正しい形而上学的知見には大いに不足しているから、サンスクリッ
トから翻訳する人たちが、文学作品などにはあまり苦労しないで、むしろその労苦をヴェーダやウパニ
シャッドや哲学的著作にふりむけるべきだと、わたしは考えている。
0231幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/05(土) 11:12:18.680
  第一八四節

 ギリシア・ローマの著述家のものでさえ、これをほんとうに正しく、精確に、いきいきと理解するに
は、そのために周到に養成されたえりぬきの教師に助けてもらい、何世紀ものあいだに成就されたすば
らしい文献学的補助手段を使っても、なかなか困難なことである。しかもギリシア語やラテン語は、な
んといってもヨーロッパにおけるわれわれの先輩の言葉であり、現に生きているもろもろの言語の母で
あるのにひきくらべ、サンスクリットは千年もまえに遠いインドで話されていた言葉であり、これを学
びとる手段も比較的まだ非常に不完全である。こうしたことどもを考慮にいれ、さらにそこへ、ヨー
ロッパの学者たちがサンスクリットから訳したいろいろな翻訳が――ごく少数の例外を除いて――わた
しにあたえた印象をつけ加えてみると、われわれのギムナジウムの三年生あたりがギリシア語のテクス
トを解するよりも、われわれのサンスクリット学者がその原典を理解する力はべつにうわまわっていな
いのではないかといった疑いが、わたしの胸にしのび寄ってくるのだ。しかしこうした学者は子供でな
く、知識も悟性もそなえた立派なおとななのだから、もちろんいろいろなまちがいが「才能しだいで」
まぎれこむことはあっても、彼らが真に理解したことから、全体としてはほぼおおよその意味は伝えて
いると思われるのだ。しばしば暗中模索のていのヨーロッパのシナ学者のシナ語ときては、はるかにひ
どいものがある。これはシナ学者のなかでいちばん徹底した学者たちでさえ、おたがいに訂正しあい、
ひどい誤謬を指摘しあっているのを見れば、このことにまちがいはないという確信が得られるのだ。こ
の種の例はアベル・レミュザの訳した『仏国記』にしばしば見いだされる。
0232幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/05(土) 11:43:50.900
 話かわって、アウラングズィーブの兄にあたるダーラー・シュコー回教主がインド生まれでインドの
教育を受け、しかも思索的で好奇心をもち、学問もあったから、つまりわれわれがラテン語を解する程
度にはサンスクリットを解しえたであろうし、そのうえ多数の学者を協力者としてもっていたことを考
えると、彼がウパニシャッドをペルシア語に訳させた仕事は立派なものにちがいないという思いが、なに
はさておき、わたしにはするのである。さらにわたしは、このペルシャ語をアンクティル・デュペロン
がいかにも深い、事柄にふさわしい畏敬の念をもって取り扱っているのを見る。すなわち彼はこのペル
シア訳を一語一語ラテン語に訳したのだが、ラテン語の文法を無視して、ペルシア語の文章構造を精確
に再現し、回教主が訳さないでおいたサンスクリットの単語もそのままにして、ただこれを語句註解で
説明するにとどめているのである。さてこそわたしはこのラテン語を心から信頼して読むのだが、うれ
しいことにこの信頼はただちにむくわれるのだ。なぜなら、この『ウプネカート』は完全にヴェーダの
神聖な精神を呼吸しているからだ! 勤勉に読むことによって、この比類ない書のペルシア語・ラテン
語に精通した者は、心の奥底からあの神聖な精神にとらえられるのだ! なんと一行一行が、明確に限
定された、全体的に相呼応する意味にみちみちていることか! 全体に一種の高い神聖な厳粛の気がた
だよっていながら、どの頁からも、深い、根源的な、崇高な思想がわれわれを迎えてくれるのだ。ここ
ではすべてがインドの大気と自然にかよう根源的な存在のいぶきを呼吸している。そして、おお、精神
はここで、なんとすがすがしく洗われることだろう! この精神にはやくも注入されたいっさいのユダ
ヤ的迷信、ならびにこの迷信に迎合するあらゆる哲学から洗い清められるのだ!(サンスクリットの原
典を除けば)、これはこの世で可能な最もむくわれることの多い、心をたかめてくれる読みものだ。そ
れはわたしの生涯の慰めであった。それはまたわたしの死の慰めともなろう。――『ウプネカート』が
ほんものであるかどうかに対してもちだされたある種の疑いについては、わたしの『倫理学』の二七
一頁(第二版二六八頁)の欄外注を指示しておく。
0233考える名無しさん
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2015/09/10(木) 20:27:11.100
             キチガイ

              去れ
0234考える名無しさん
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2015/09/17(木) 11:05:26.350
幸福については読みやすいし
自分への戒めにもなる
代表作などは難しそうで手出せない
0235考える名無しさん
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2015/09/19(土) 06:36:52.010
『意志と表象としての世界』ぐらい読もうね

書店になければアマゾンで買えるからね
0236幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
垢版 |
2015/09/29(火) 23:37:09.630
 ついでながら言っておくが、この最後の問いも、いま引用した節全体と同様、カント以後の哲学教授
連が、絶対者、つまり平たくいえば原因をもたぬものを、しょっちゅう彼らの哲学的思索の主題にする
ことを押しとどめはしなかった。これこそまさに彼らにうってつけの思想なのだ。一般にこの教授連は
救いがたい人種だ。彼らの書物や講演のために貴重な時を失わぬよう、わたしは切にすすめてやまない。

 木や石や金属から偶像をつくろうと、抽象的概念からそれをつくろうと、結局は同じだ。人格的存在
者をまえにして、それに犠牲をささげたり呼びかけたり、感謝したりすれば、とたんにそれは偶像崇拝
になる。自分の羊を犠牲にささげるか、それとも自分の気持ちをささげるかは、根本においてそれほど
違ったことではない。どんな儀式あるいは祈祷も、文句なく偶像崇拝の根拠である。だからあらゆる宗
教の神秘的宗派は、その最奥義を究めた人に対しては、いっさいの儀式を抜きにする点で、一致するの
である。
0237幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/30(水) 00:08:58.790
 さてインドの聖典やインドの哲学者たちの著作のヨーロッパ語訳をこのデュペロン訳と比べてみて、
わたしはこれらの訳からは正反対の印象を受ける(もちろんきわめて少数の例外はある、たとえばシュ
レーゲル訳のバガヴァド・キタ、コールブルック訳のヴェーダのニ、三の個所)。これらの訳が提供す
るのは複雑な文体の文章で、その意味は一般的・抽象的であり、ときに動揺して不明確であり、その関
連もゆるく、原典をもつ思想の漠然とした輪郭しか得られず、その埋め草にはわたしはなにか異質のも
のを認める。往々、矛盾もすけて見えるし、全体として近代的で空虚・平板で味気なく、意味貧弱で西
洋的なのだ。それはヨーロッパ化され、イギリス化・フランス化され、(いちばん悪いことだが)ドイ
ツ的に霧がかかっていたりする。つまり、明確な意味のかわりに、漠然とした冗漫な言葉が提供される
だけなのだ。たとえば「インド文庫」四一号(カルカッタ、一八五三年)におけるレーアの最近の訳など
だ。これを見ると、複雑な文章を書きなれているいかにもドイツ人という感じで、はっきりしたことを
考えることは他人におまかせしているのだ。それに「ユダヤ的悪臭」もぷんぷんにおってくる。こうし
たことはすべて、この種の翻訳に対するわたしの信頼を弱めるものだが、とりわけこれらの訳者がその
勉強をパンを稼ぐためにやっていることを考えると、なおさらだ。ところが人格高潔なアンクティル・
デュペロンは訳にあたってそういう私事を求めたのではなく、学問と悟りに対する純粋な愛によって訳
業に駆りたてられたのであり、回教主ダーラー・シュコーがその報酬として得たものは、皇帝である弟
アウラングズィーブが彼の足もとにひれふしたその叩頭だけであったのだ、――「神のさらに大なる光
栄のために」。ウパニシャッドの真の知識、したがってヴェーダの真実な教義の奥義は、今日まで『ウプネ
カート』によってのみ得られるというのが、わたしの確信するところである。他の訳を読了してみても
問題の見当さえつかないのだ。そのうえ回教主ダーラー・シュコーには、イギリスの学者たちが手にし
えたよりも、はるかに良い完全なサンスクリットの写本が提供されていたと思われるのである。
0238幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/30(水) 00:39:23.160
  第一八五節

 ヴェーダのサンヒターは、ウパニシャッドと同じ作者の手になるものでもなく、時代も違っている可能
性がある。ローゼンの訳したリグ・ヴェーダのサンヒター第一巻とスティーヴンソンの訳にかかるサ
マ・ヴェーダのそれをあわせ読むと、そういう確信が得られる。いずれも祈祷と祭式からなっている
が、かなり素朴な星辰崇拝の趣がある。ここで呼びかけられる最高神はインドラであり、インドラとと
もに太陽・月・風・火があげられる。あらゆる讃歌をつうじ、これらのものにきわめて卑屈な追従の言
葉がささげられ、また犠牲もささげられる。牛・飲食・戦勝などに対する懇願もある。讃えられる唯一
の徳は、犠牲と、僧に施しものをすることだけである。

 オルムズド(のちにこれがエホバになった)は(J.J.シュミットによれば)もともとインドラで
あり、さらにミトラも太陽神であるから、ゾロアスター教徒の拝火はたぶんインドラとともにペルシア
人に渡ったものであろう。――ウパニシャッドは、まえにも述べたとおり、最高の人間叡智の産物であ
る。これはまた学識のあるバラモンだけがひもとくべきことになっている。だからデュペロンも「ウパ
ニシャッド」を「秘すべき神秘」(奥義書)と訳している。これに反しサンヒターは秘伝でなく、間接的
であるが一般人のためのものである。典礼、すなわちおおやけの祈祷や犠牲の儀式がその内容だから
だ。したがって、右にあげた訳から判断すると、味のない読みものだ。もちろんコールブルックも『ヒ
ンドゥー教徒の宗教的儀式について』と題する論文で、サンヒターの他の諸巻から讃歌を訳してくれて
いるが、これはウパニシャッドに似た精神のいぶきを呼吸している。とりわけ第二の論文『形をとった精
神』などにある美しい讃歌はそうで、これはわたしが第一一五節で訳出しておいたところである。
0239幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/30(水) 02:24:59.320
  第一八六節

 巨大な石の寺院がインドに建てられた時代には、おそらく物を書く術はまだ発明されておらず、この
寺院に住む多数の僧侶たちがヴェーダの生きた容器であったのだろう。つまりひとりひとりの僧ある
いは各派で、その一部を暗記して伝えたのである。ドゥルイド僧がやったように。のちになって、やは
りこの寺院で、したがってきわめてふさわしい環境のなかで、ウパニシャッドは起草されたのであろう。


    第一八七節

 サーンキヤ哲学は仏教の先駆とみられているが、われわれはウィルソンの完訳でイーシュヴァラ・ク
リシュナの『サーンキヤ・カーリカー』(数論頌)にこれを見ることができる。(この訳もやはり不完全
で、霧をとおして見る思いではあるが)。この哲学は、あらゆるインド哲学の主要な教義、たとえばこ
の悲しい存在から救われることが必要であるとか、行動に比例して魂が移りゆくとか、悟りこそ救済の
根本要件であるなどということを詳細に、また厳粛に説いているかぎりにおいて、興味ぶかく、また教
訓的である。インドでは数千年らい、こうした教義に心を向けることに、きわめて真剣なものがあった
のだ。

 この哲学がとかくするうちに、ひとつの誤った根本思想、すなわちプラクリティとプルシャに分か
れる絶対二元論によって台なしにされるのをわれわれは見る。これがまたサーンキヤがヴェーダからは
なれていく点でもある。
0240幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/30(水) 02:56:09.490
――プラクリティとは明らかに「能産的自然」であると同時に物質それ自体で
ある。すなわちいっさい形をとらないから、考えられるだけで、具体的には見ることのできない物質そ
のものなのだ。こういうふうに解釈してみると、すべてのものがそこから生まれてくる意味で、プラク
リティは「能産的自然」とまったく同一視してさしつかえない。ところでプルシャとは認識主体であ
る。なぜならこれは知覚するものであり、行動しない単なる傍観者であるからだ。ところでこの二つの
ものは、絶対的差異をもったもの、たがいに無関係なものと受けとられている。そのため、どうしてプ
ラクリティがプルシャの救済のために骨を折るのか、その説明が不十分になってくる(六〇詩節)。さ
らにプルシャの救済こそ究極の目的であるということが、全作品をつうじて説かれている。ところが
(六二、六三詩節では)とつぜん、救済されるべきはプラクリティであるとなっている。――こうした
矛盾は、プラクリティとプルシャには共通の根があるのだと仮定すれば、すべてなくなるであろう。教
祖カピラの意に反することではあるが、全体はなんといっても、そういう共通の根を示唆しているの
だ。あるいはプルシャはプラクリティのひとつの変態だと仮定してみるのだ。そうすればいずれに
しても二元論は解消することになろう。――わたしは事をわかりやすくするために、プラクリティに意
志を、プルシャに認識主体を見ざるをえない。

 サーンキヤに見られる独特なせせっこましさと形式的拘泥は、数論、すなわちあらゆる特性その他を
数えあげ番号をつけることだ。しかしこれは、仏典などにも同じ行き方が見られるから、インドでは普
通に行なわれていることのように思われる。
0241幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/09/30(水) 03:55:12.770
    第一八八節

 インドのあらゆる宗教に見られる輪廻の道徳的意味は、われわれが犯すあらゆる不正に対して、われ
われはつぎに生まれかわったときにつぐないをつけなければならない、というだけではなく、われわれ
がこうむるあらゆる不正は、前世におけるわれわれの非行のむくいとして、当然なものと見なければな
らない、ということでもある。


    第一八九節

 インドの四姓のうち上の三つがふたたび生まれた者とよばれる理由は、普通いわれるように、若者た
ちの成年式にあたって神聖な血統に従ってそれぞれの世襲階級に編入することが、いわば第二の誕生で
ある、ということから説明されるかもしれないが、じつは本当の理由は、前世において顕著な功績をあ
げた結果としてのみ、生まれながらにそのカーストに属するのであった、つまり前世でもすでに人間とし
て存在したのに相違ないのにひきかえ、最下層ないしは、もっと卑賤な身分に生まれた者は、前世では
畜生であったかもしれない、というにあるのだ。

 きみたちは仏教の永遠であるカルパを馬鹿にしている! ――キリスト教のとった立場からは須臾の
時が見渡せるだけだが、仏教の立場からは、無限の時間と空間のうちにあらわれてきて、その主題とな
るのだ。――

 ラリターヴィスタラもはじめは単純・自然なものであったのに、次から次へと宗教会議のたびごとに
新しく改訂されて、複雑にして驚異すべきものとなったのだ。同じことは教義自体についてもいえる。
単純・壮大なわずかな教説が、しだいに綿密に仕上げられ、空間的・時間的に叙述され、擬人化を受
け、経験的に制限されたりして、しだいに多彩・乱雑・複雑となったのだ。それというのも、それが大
衆の好みに合うからだ。大衆の精神は幻想的な仕事をほしがる。単純で抽象的なことには満足させられ
ないのである。
0242考える名無しさん
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2015/09/30(水) 11:22:24.440
   たぶん
  唯物論派の哲学は
 神秘を遠ざけるから
何の深みも無いだろう
0243考える名無しさん
垢版 |
2015/10/01(木) 11:12:21.490
素粒子理論は物質概念を破壊し
唯物論者に神秘を開示した筈だが
凄味さえ感じさせる鈍感さで
足場を築き直している様に見える
0244考える名無しさん
垢版 |
2015/10/01(木) 12:05:08.060
素粒子理論の根本問題はどうしても我思うゆえ、になってしまう。
そこに足場を築いたところで各国の宗教観、世界観と同じでバラバラになる。

わざわざ液状化する危うい場所に家を建てる馬鹿はいないんだよ。
賢明な物理学者はそれがわかっている。
0245考える名無しさん
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2015/10/01(木) 13:50:06.920
>>244
>賢明な物理学者 ってどういう人のこと?
やはり唯物論者? あるいは不可知論者?
0246幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/01(木) 14:40:07.640
 バラモン教のもろもろの教義、ならびにブラームとブラーフマー、パラマートとジーヴァートマ、
ヒラニヤ・ガルバ、プラジャーパティ、プルシャ、プラクリティなどの区別は(これらについての簡潔
な叙述は、オブリのすぐれた著作『ニルヴァーナについて』インド、一八五六年に見いだされる)、つ
きつめたところ、端的に本質的に主体的存在しかもたないものを、客体的に叙述しようとする意図から
なされた神話的虚構にすぎない。だから仏陀はこうした区別を捨てて、輪廻と涅槃しか認めなかった
のだ。なぜなら教義というものは、複雑・多彩になればなるほど、神話的になるからだ。この理を最も
よく理解しているのが、ヨーガ行者あるいは遁世者(サニアッシ)だ。彼らは方法論的に自己を正して、
外にむかっている感覚のすべてを内にひきもどし、全世界を忘れ、ついには自分自身をも忘れて無念
無想となる――そのときまだ意識のなかに残っているのは、根源的本体だけというわけだ。ただしこ
れは言いやすくして行ないがたいことではある。――

 かつてあれほど栄えたヒンドゥー教徒が沈滞したのは、彼らが七百年にわたって回教徒からおそろし
い圧迫を受けたためだ。回教徒は強引に彼らを回教に改宗させようとしたのである。――今日ではイン
ド人口の八分の一だけが回教を奉じている(『エディンバラ評論』一八五八年一月号)。――


    第一九〇節

 エジプト人(エチオピア人)あるいはすくなくともその僧侶たちがインドから渡ってきたということ
を示す証拠に、テュアナのアポロニウス伝の第三巻・第二〇章、第六巻・第一一章もあげることができる。
0247幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/01(木) 14:59:44.870
 ギリシア語およびラテン語が、あれほど離れているのにサンスクリットと似ているように、ギリシア
人およびローマ人の神話もまたインドの神話に似ているということは、ありそうなことであり、エジプ
トの神話がギリシア・ローマの神話に類する点もこれまたありそうなことだ。(コプト語はヤペテ語族あるい
はセム語族に由来するのではなかろうか?)ゼウス、ポセイドン、ハデスはもしかしたらブラーフマ
ー、ヴィシュヌ、シヴァに相当するのかもしれぬ。シヴァは三叉の矛を持っているが、これが海神ポセ
イドンではその使用目的がわからなくなっている。ナイルの鍵、柄のついた十字形、金星のしるし♀
は、まさにシヴァ宗のリンガムとヨニである。オシリスあるいはイシリスはもしかすると主なる神イス
ヴァラに相当する。――エジプト人もインド人も蓮を敬う。

 ヤーヌス(これについてはシェリングがアカデミーで講義をしており、根源的一者と説明している)
は、二つの顔、ときには四つの顔をもっている死神ヤマではなかろうか。戦時には死神の司る門があけ
られるのである。ひょっとしたらプラジャーパティはイアペトスではあるまいか?――

 ヒンドゥー教徒の女神アンナ・プルナ Anna Purna(ラングレス『インドの記念物』第二巻一〇七頁)
は、たしかにローマ人のアンナ・ペレナ Anna Perenna だ。シヴァの変え名のひとつであるバギス
Baghis は予言者バキス Bakis を思いだされる。(同上第一巻一七八頁)。『シャクンタラー』(六幕の終
わり、一三一頁)にインドラの添え名としてディヴェスペティル Divespetir というのが出てくるが、あ
きらかにこれはディエスピテル Diespiter だ。
0248考える名無しさん
垢版 |
2015/10/01(木) 19:44:57.030
象徴言語の不明さにより物質文明以前の精神文明の収穫に
全く気付かない現代人は見渡す限りに居る
0249考える名無しさん
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2015/10/01(木) 20:12:42.340
唯物論こそ全てです。

肉体があり魂がある。

肉体なきところに魂の所在を証明することはできない。

あなたはその辺の空間に意識が漂っているという。

すべては証明なのです。それができなければ敗北者です。

我思うでノーベル賞を貰えるのは文学だけですよ。

この世界は実利・物質が支配しているので

それらの否定は負け犬の戯言に過ぎませんよ。

さぁ、涙を拭いてください。
0250考える名無しさん
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2015/10/01(木) 20:14:37.860
年収が人の価値を決める。

これは覆せないルールです。

人はお金を払わなければパンを得られないのです。

お金を払わなければ泥棒となるでしょう。

これがルールです。

これがルールです。
0251考える名無しさん
垢版 |
2015/10/01(木) 20:46:13.780
たしかにショーペンハウアは共産全国民労働化による年収階層唯物史観
遅すぎる地位の差の示威ゲームなんだネ
0252考える名無しさん
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2015/10/01(木) 22:50:00.600
>>249
唯物論信者君

君の大師が物質の正体を知ったとでも? 笑
0253考える名無しさん
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2015/10/01(木) 22:54:16.770
>>250
超高額年収のカスを糞ほど知ってるが 君は知らんの? 笑
0254幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/02(金) 11:10:15.820
 (ラングレス『記念物』第二巻によれば)水曜日(Wodans-day)は☿にも仏陀にも神聖な日という
が、これは仏陀 Buddha がウォダン Wodan と同一であることを大いに証している。――『ウプネカ
ート』にも出てくる「コルバン」Corbanは、マルコによる福音書七の一一に「コルバン Κορβαν すなわ
ち供え物」として出てくる。――しかし最も重要なことは次のことだ。水星☿は仏陀にとって神聖で、
あるていど仏陀と同一視されるものであり、水曜日は仏陀の日なのである。ところでメルクールはマイア
の息子であり、仏陀はマーヤーMaja (摩耶)夫人の息子である。これは偶然ではありえない! シュ
ヴァーベン夫人が「そこに楽人が埋められている」と言うとおりだ。しかし『仏教便覧』三五四頁のノー
トおよび『アジア研究』第一巻一六二頁参照。――

 ある種の祭式で僧に贈られる衣は一日のあいだに織りあげられねばならないと、スペンス・ハーディ
(『東洋の修道生活』一二二頁)は報告しているが、同じことはヘロドトス(二の一二二)も報告して
いる。――

 ドイツ人の元祖はマヌス Mannus とよばれ、その息子はトゥイスコン Thuiskon だ。――『ウプネ
カート』第二巻三四七頁、第一巻九六頁では、最初の人間の名はマン Man とよばれている。――

 周知のようにサトヤヴラティ Satyavrati はメヌ Menu もしくはマヌ Manu と同じものであり――
他方ノア Noa とも同じである。ところでサムソンの父は(土師記・第一三章)マノア Manoe とよば
れている――つまり Manu, Manoe, Noa となる。七十人訳聖書は Μανωε および Νωε と書いてい
る。Noe というのは、まさに Manoe ではあるまいか。つまり最初の綴 ma が脱落したのではないか?――

 エトルリア人ではジュピターにあたる神がティナ Tina とよばれていた。これはシナ語のティエン
Tien と関係があるのではなかろうか? エトルリア人はヒンドゥー教徒のアンナ・プルナを奉じてい
たのではなかろうか。

 こうした類似点はすべてウィルフォードおよびバー (Burr) によって徹底的にしらべられ、『アジア
研究』におさめられている。
0255幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 01:17:04.370
   第九章 法学と政治によせて

  第一二〇節

 自分の足もとにあるようなものを雲の中に求めるのが、ドイツ人特有の欠点だ。哲学の教授諸公が
自然法を取り扱うやり方など、その尤なるものである。自然法の素材になっている単純な人間の生活関
係、すなわち正と不正・所有・国家・刑罰権などを説明するのに、およそ法外な、抽象的きわまる、つ
まり最も包括的で最も中身のない概念がもってこられる。そしてこの概念から、それぞれの教授の特殊
な気まぐれに応じて、あれやこれやのバベルの塔が雲のなかに打ち建てられるのだ。かくて、きわめて
明瞭な、単純きわまる、われわれに直接関係する生活の事態が、わけのわからぬものに仕立てあげられ
る。こういう学校で教育を受ける若者たちこそ迷惑だ。じつは問題そのものはきわめて単純・明快なの
で、それはこの問題についてのわたしの叙述(『道徳の基礎について』第一七節、『意志と表象としての
世界』正編・第六二節)によって納得できよう。ところが、ある種の言葉、たとえば権利・自由・財
産・存在(この無内容な不定形詞の連辞)といった言葉を聞くと、ドイツ人はすっかりめまいを起こし
て、たちまち一種の精神錯乱におちいり、最も包括的で最も空っぽな概念を技巧的にならびたてなが
ら、なにも言っていないくせに大げさな空言を弄しはじめるのだ。実際は現実にこそ着目すべきであ
り、これら抽象概念のもとになっている。したがってその真の内容をなす唯一のもの、事柄や事態を具
体的に見ればいいのに、ドイツ人はそれをやらないのである。
0256幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 02:18:30.490
  第一二一節

 正あるいは権利と言う概念が積極的なものであるにちがいないといった先入見から出発して、これを
定義しようとくわだてる人は、失敗するだろう。つまりそれは影をつかもうとして亡霊を追いかけ、一
種の「非存在」を求めているものだからである。正あるいは法の概念は、自由の概念と同様、否定的・
消極的概念であって、その内容はたんに一種の否定にとどまるからだ。不正あるいは不法の概念こそ積
極的概念であり、最も広い意味での損傷、つまり「侵害」と同義である。損傷は人にも財産にも名誉に
も該当する。――こう考えれば人権を定義することは簡単にできる。各人は、他の人を傷つけないかぎり
どういうことをしてもよい権利をもっている、ということになる。――

 あることへの権利をもつとは、他人を傷つけないかぎり、そのことをしてさしつかえないということ
であり、あることに対する権利をもつというのは、だれかほかの人を傷つけなければ、それを受けとっ
て利用してよいという意味にほかならない。――「単純明快さは真理の目じるし」なのだ。――この論
法でゆくと、いろいろな問題が無意味であることがわかる。たとえば、われわれに自殺する権利がある
かどうかといった問題だ。他人がわれわれの一身にかんしてもちうる権利の話ならば、これはわれわれ
の生命をそこなわないという条件に制約される。だからこの条件がみたされないかぎり、そういう権利
はない。だが、自分ではもう生きていたくないという人に、ひとさまのためにただの機械になって生き
つづけるべきだというのは、行きすぎた要求だ。
0257幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 02:28:03.680
     第一二二節

 人の力量には差があって平等ではないが、人間としての権利は平等である。それはこの権利が力量に
もとづくものではなくて、権利の道徳的性質からいって、どの人にも、生きんとする同一の意志が、こ
の意志の客体化の同じ段階であらわれているためである。しかしこのことは、人が人として有する根源
的・抽象的権利についてのみいえることだ。めいめい各人がその力量によって手に入れる財産とか名誉
などは、この力量の程度と種類しだいであって、その権利の及ぶ範囲は広くなる。つまりこういう問題
では平等ということはなくなる。しかし財産の多い人とか活動的で名誉にめぐまれた人とかは、それだ
け獲得するものが多いからといってその権利が大きくなるわけではなくて、権利の及ぶものの数がふえ
るだけなのだ。


   第一二三節

 わたしの主著(続編・第四七章)で説明しておいたとおり、国家は本質的に単なる防衛施設である。
対外的には国全体を外的の攻撃から守り、対内的には個人がおたがいに攻撃しあうことをふせぐための
施設なのだ。以上のことから結論されることは、国家が必要なゆえんは、つまるところ、天下周知の人
間の不正にあるということだ。人間が不法なことをやらなければ、国家など考えられもしないだろう。
そうなれば自分の権利をおかされはしまいかと思う人もなくなるわけだし、たんに野獣の攻撃をふせい
だり天災を避けたりするためのただの団体というのだったら、国家と似ても似つかないものになるはず
だからだ。大げさな美辞麗句を使って、国家こそ人間存在の最高の目的であり精華であるなどと述べた
とて、俗物根性讃美まるだしにしている似非哲学者どもの馬鹿さかげんと平板さは、この観点からすれ
ばはっきりわかる。
0258幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 03:50:41.280
   第一二四節

 もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外
に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた
人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全
ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている
というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量
に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有
する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。――こういう法概
念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ
うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ
の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。――市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では
依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく
も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと
に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる
かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か
ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、
個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは
他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ
とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、
機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧せよ。
0259幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/03(土) 04:10:27.840
というのは、もしきみがその機を逸する場合、いつの日か、それは敵陣に寝返りを打って、隣のやつの好機
となり、きみが制圧される羽目に追い込まれるからだ。もちろん好機を逸したいまの世代の罪のつぐないは、
次の世代が背負うことになるわけだ。このマッキャヴェッリ的原則は、大統領演説なんかに見られるみえす
いた嘘のトリックなどより、掠奪をくるむ覆いとしては、はるかに品のよいものだ。ましてや、兎のほうから
犬に襲いかかったという有名なお話に帰着するようなまっかな嘘などより、礼節にかなっている。要するに
すべての国家は他の国を、好機到来と見るやただちに襲いかかる強盗の集団と見ているわけである。


   第一二五節

 ロシアなどの農奴制度とイギリスあたりの大地主制度の違い、一般に農奴と小作人・借家人・抵当
権設定者などとの違いは、実質よりも形式にある。百姓そのひとが農奴として自分のものであろうと、
小作人が食ってゆく土地そのものが自分のものであろうと、あるいは鳥とその餌、果実とその木のどち
らが自分の所有に属しようと、本質的にはあまり違いがない。現にシェークスピアもシャイロックに言
わせている。

  わたしの食ってゆく手段をおとりあげになれば、
  あなたはわたしの生命をおとりあげになることになる。

 自由な百姓はいくらも広い世間へ出かけられる利点はあるものの、農奴や「土地に所属した奴隷」の利
点はおそらくさらにこれを上まわるものがある。つまり不作とか病気とか、年をとって働けなくなれ
ば、主人のほうがその面倒をみなければならなくなるからだ。だから、不作の年ともなれば、農奴にパ
ンをくれてやる手だてをあれこれ考えて、主人のほうが眠れない一夜を輾転反側するのに、農奴自身は、
高枕で寝ていられるのだ。だからすでにメナンドロス(ストバイオス『抜粋』第二巻三八九頁、ガイス
フォルト編)も言っている。

  自由な身空で みすぼらしく みじめに暮らすより、
  よい主人に身を寄せたほうが よっぽどよい。
0260幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/03(土) 05:41:05.430
 自由人のもう一つの取りえは、なにがしかの才能によって、いくらかましな境遇に移れる可能性があ
ることだが、奴隷にもその可能性がまったくないわけではない。奴隷が比較的高級な種類の仕事をやり
とげて、その主人にひけをとらないようになれば、やはり主人扱いを受けることになる。現にローマで
は、手工業者・工場長・建築家、それどころか医者までがたいがい奴隷だったし、現代のロシアには農
奴で大銀行家になっている人もあるという話だ。またアメリカでよくあることだが、奴隷もその稼ぎで
自分を買いうけて自由になりうるのである。

 貧困と奴隷とは同じ事態の二つの形式にすぎない。いや、ほとんど名前だけが違っているのだといい
たいくらいのものだ。その事態の本質がどこにあるかといえば、その人間の力が大部分は自分自身のた
めには使われないで、他人のためにふりむけられるということだ。このことから、労働の荷重というこ
とも起こってくるし、自分の欲求をみたすことが乏しいということにもなる。というのは、自然はよく
したもので、自分にさずかった力を適当に働かせて、自分の食いぶちを大地からかちとるだけの力しか
人間にはあたえておらず、だれでもありあまる余力などもって生まれてはいないからである。ところで
人類の相当部分のものが、人類が食ってゆかねばならぬという共同の重荷をまぬかれれば、それだけほ
かの人たちの荷が勝つことになり、悲惨になるわけだ。こうしてさしずめ、奴隷とかプロレタリアート
といった名のもとで、いつでも人類の大多数の者に重荷がのしかかるというあの禍が起こってくる。
その遠因は贅沢だ。つまり二、三の少数の者がなくてもすむもの・余計なもの・洗練されたものをもつ
ことができ、それどころか、ひとひねりしたような欲求を満たすことができるために、現在高がきまっ
ている人力の大部分がそんなことにふりむけられ、したがって不可欠なものを生産するという肝心かな
めの必要なことには手をぬくということになる。
0261考える名無しさん
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2015/10/03(土) 12:31:23.730
>>260
君はどういう人? 自己紹介よろ
0262幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 15:16:53.680
 何千という労働者が、自分の掘っ建て小屋も建てられ
ないのに豪荘な邸宅の建築に従事したり、自分や家族のために粗末な布地を織るかわりに、金持ちの
ために精巧な絹のものやレースまで編むわけで、一般に彼らは富める者らを満足させるために、くさぐ
さの贅沢品をつくっているのである。都会の人口の大部分は、こういう贅沢品の生産に従事する労働者
からなっており、百姓はためにこの都市労働者や、またこういう贅沢品を注文する連中の肩がわりをし
て、耕作したり、種をまいたり、放牧したりしなければならず、けっきょく自然がもともと彼に課した
以上の仕事をもつことになる。そのうえ彼はその力と土地を、穀物・馬鈴薯・牧畜にふりむけるより
は、むしろ葡萄・蚕糸・ホップ・たばこ・アスパラガスなどに割かねばならない。さらに、砂糖・コー
ヒー・茶などを輸入するために造船業や航海に従事する要員をそろえる必要から、たくさんの人間が耕
作から引きぬかれてゆく。こういう余計な品物の生産は、何百万という黒人奴隷の悲惨の原因となる。
彼らがその生国から強引に拉し去られるのも、彼らの汗と苦役によってあの嗜好品を生産させるためな
のだ。これを要するに、人類の力の大半は、少数の者のためにまったく余計でどうでもいいものを調達
するために、万人にとって必要欠くべからざるものの生産活動から引きぬかれてゆくのだ。したがって
一面において贅沢が行なわれているかぎり、他面においてはプロレタリアートの貧困という名のもとで
あれ、奴隷制度の奴僕という名のもとであれ、必然的に過重労働と粗末な生活が存続せざるをえない。
奴隷とプロレタリアートの基本的違いは、奴隷のほうが暴力にその発生原因があるのに対して、貧乏人
は策略にその原因を帰さねばならぬということだ。社会のきわめて不自然な状態、悲惨をまぬかれよう
とする一般的戦い、多数の人命を犠牲にする航海、錯雑した商業上の利害、最後に以上すべてのことが
機縁となって起こる戦争――これらすべての唯一の発生源は贅沢にある。しかも贅沢は、これを享受す
る人を絶対に幸福にするどころか、むしろ病的に不機嫌にするのである。したがって人間の悲惨を軽減
する最も有効な手段は、贅沢をへらすか、さらには贅沢をやめることであろう。
0263幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 17:39:05.520
 こういう考え方全体に真実な点が多々あすことは議論の余地がない。それにもかかわらず、この考え
方は、経験によって確かめられる別の考え方によって、結果的に反駁されるのである。すなわちあの贅
沢に営々と奉仕する労働によって、人類はその必要欠くべからざる目的にふりむける筋力(刺激性)の
点では失うところがあるのだが、そのかわりに、まさにそういう機会に(化学的意味で)遊離してくる
神経力(感受性、知性)によって、その穴埋めが徐々にではあるがいろいろなされるということであ
る。というのは、神経力のほうが高級な力であるから、その仕事もまた筋力の仕事にはるかにまさって
いるからだ。

  一つのよき献策はしばしば多くの手にまさる。
               (エウリピデス『アンティオペ』)

百姓だけ集まっても、発見や発明はできぬ。手が遊んでいると、頭が働くようになるのだ。芸術や科学
はそもそも贅沢の子供であり、贅沢という金主に借金を返してゆくのだ。科学は、機械工学・物理学・
化学などのすべての部門において、テクノロジーを完成した。それは現代において機械を昔では想像も
できなかった水準にもちあげ、とりわけ蒸気機関や電気によって、昔の人なら悪魔のせいにしたと思わ
れるほどのことをやっている。今日ではあらゆる種類の工場や手工業において、ときに農耕において
も、機械のはたす仕事はたいへんなもので、いま遊んでいる裕福な連中・インテリ・頭脳労働者の総力
を結集しても、したがってまたあらゆる贅沢をやめて、すべての人が百姓の生活を送ることにしても、
とうてい問題にはならぬのだ。こうした企業の製品は金持ちにだけ役立つわけではなくて、すべての人
が恩恵を受けるのである。
0264幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 21:01:42.180
 昔ならほとんど手のとどかぬような品物が、今日では安く大量に手にはいる
し、最下層階級の生活もいちだんと快適さを増してきている。中世期ではイギリス王も、フランス大使
に謁見を給うさいに、貴族のひとりから絹の靴下を借りたものだ。エリザベス女王でさえ、一五六〇年
のお年玉に絹の靴下を一組はじめてもらったときには、びっくりしてひどく喜んだものだ(ディズレー
リ、第一巻三三二頁)。ところが今日ではそれくらいのものはどんな売り子でも持っている。五十年前
に貴婦人の着た更紗の服は、いまでは女中が着ている。この調子で機械がいましばらく進歩すれば、人
間が力を労することはほとんど完全にまぬかれるところまで行きつけるであろう。現に馬力の大部分は
すでにそうなっているのだ。そうなればもちろん、人類全体に精神文化が及ぶことも考えられよう。人
類の大部分の者が肉体的重労働に従わねばならぬかぎり、そういうことは不可能な話である。というの
は、つねにどのような場合にも、一般的にも個別的にも、刺激性の筋力と感受性の神経力は敵対関係に
あるからだ。つまり両者の根底にある生命力は一定しているためだ。さらに「芸術のわざは風習をやわ
らげる」と言われるとおり、やがて大にしては戦争、小にしてはなぐりあいや決闘も、おそらく完全に
この世から姿を消すっであろう。あと二つはすでに今日、はるかに珍しくなっている。しかしここでユ
ートピアを描きだすことが、わたしの目的ではないのである。――

 しかしこれらの理由を別としても、贅沢を廃してあらゆる肉体労働を均等に分けるべきだという右に
述べたあの論拠に対して一考すべきことは、人類という大集団は、いついかなる場合にも、それぞれの
問題に応じて、さまざまな姿で、指導者、指揮者、助言者をかならず必要とするということだ。裁判
官・統治者・将軍・官吏・牧師・医者・学者・哲学者といった人たちがこれにあたる。こうした人たち
はすべて、大多数の、まったく能力のない、倒錯した連中を人生の迷路をつきぬけて案内する使命をお
びている。
0265幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 22:21:40.300
 したがってこうした人たちは、めいめいそれぞれその地位と能力に応じて、その視野に広い
狭いはあっても、人生の見通しをもっているのである。こういう指導者が肉体労働から解放されるとと
もに、卑俗なことの欠乏や不便にわずらわされないということ、それどころか、その大きな仕事の程度
に応じて、普通の人より所有や享受の点でまさるものがなければならないということは、当然・至当の
ことである。大商人でさえも、彼らが国民の需要の見通しをつけてこれに応じるかぎり、労働を免除さ
れるあの指導者階級に数えいれるべきである。


   第一二六節

 主権在民の問題はつきつめたところ、およそだれかが根源的に、ある国民をその意志に反して支配す
る権利をもちうるかどうかという点に帰着する。そういうことが筋を通して主張できるとはわたしは思
わない。ともかく国民に主権はある。しかしこの主権者は永遠に未成年の主権者を、いつまでたっても
後見を受ける必要があり、自分で自分の権利を行使すれば、かならず無限の危険をまねく。とりわけこ
の主権者は、すべての未成年者と同様、扇動政治家とよばれる術策にとんだぺてん師に簡単に乗じられ
るのである。――

 ヴォルテールは言う、「最初の王は運のいい兵隊だった」と。

 もともとすべての君主はなるほど常勝の将軍であった。そしてこの特性を生かして長いあいだ支配し
てきたのである。常備軍をもつようになると、彼らは国民を、自分ならびにその兵士たちを養ってゆく
手段とみた。つまり面倒をみるのは、毛や乳や肉をださせるためといった一種の畜群と見ていたわけ
だ。これは(次の第一二七節で詳論するように)もともと、つまり本性上、この世で幅をきかすのは正
義ではなくて暴力的権力ということ、第一占有者の特権はあらゆる正義に優先するということに
もとづく。
0266幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/10/03(土) 22:56:18.290
   第一二四節

 もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外
に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた
人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全
ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている
というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量
に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有
する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。――こういう法概
念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ
うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ
の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。――市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では
依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく
も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと
に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる
かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か
ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、
個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは
他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ
とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、
機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧せよ
0267幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/03(土) 23:19:14.150
 したがってこの権力は絶対に破棄できず、この世から片づけるわけにはいかないもので、い
つでもこれを代表する者がなくてはならない。権力が正義の側に立って、これと結びつくというような
ことは、ただ要望できるだけである。そこで君主はこう言うのだ。「わたしはおまえたちを支配する。権
力によってだ。わたしの権力は他のすべての権力を排除する。なぜならわたしは、わたしの権力となら
ぶいかなる権力にもがまんできないからだ。外からやってくる権力であろうと、国内において甲が乙に
対して有する権力であろうと、わたしは甘受できない。おまえたちは権力をこういうものとして納得せ
よ」と。こういう仕上げができてしまうと、時の進むにつれて、王権はまったく別のものになってしま
い、暴力的権力といった概念は背景にしりぞいてしまって、たまにそれがちらつくと亡霊のように見ら
れるまでになる。暴君といったイメージに取ってかわって、国君、すなわち国の父という概念があらわ
れる。かくて国王は、あらゆる法的秩序、したがってまたすべての人の権利がそれに支えられることに
よってのみ存続できるといった、確固としてゆるぎない大黒柱になってしまう。さてこういうことがで
きるというのも、国王には生得の特権があるからにほかならない。この特権は、いかなる権威も匹敵で
きないような権威を、国王に、しかも国王にのみあたえる。この権威を疑ったり攻撃したりすることは
できない。いやそれ以上に、すべての人が本能的にこれに従うのだ。さてこそ君主が神の恵みを受けて
「天佑を保全する」とよばれるのは当然であり、つねに国家において最も役立つ人物であり、どんな無
鉄砲な王室費を計上しようとも、その功績にむくいるにはじゅうぶんではないということになるのだ。
0268幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 00:25:11.100
 ところでマッキャヴェッリは最初に述べたあの中世期的概念の君主から断固としてその論を展開して
おり、自明のこととしてこれを説明することなく、暗黙の前提として、その上に彼特有のさまざまな助
言を基礎づけている。一般に彼の本は、当時まだ幅をきかせていた実践を理論に遡及し、体系的に首尾
一貫して論述したもので、まさにその理論的形式と完成によってきわめて辛辣な趣を呈することになっ
たのだ。――ついでに言えば、ラ・ロシュフコーの不滅の書についても、辛辣ということは言えるが、
その主題は公の生活ではなく私的生活であり、その内容は献策ではなく感想である。いずれにしてもこ
のすばらしい本の表題には文句をつけることができよう。それは大部分「箴言」でもなければ「反省」
でもなく、ただの「落想」だからだ。したがって「アペルシュー」とでも題すべきところだろう。
――それはそうと、マッキャヴェッリにも私的生活に応用できるものはいくらでもある。


    第一二七節

 正義自体は無力である。本来のさばるのは暴力的権力なのだ。ところでこの権力を正義に導き、権力
手段によって正義が行なわれるようにすること、これこそ統治術、すなわち政治の問題なのである。そ
してこれはたしかにむずかしい問題だ。ほとんどすべての人の胸のうちに無限の利己主義が巣くってい
ることを考えれば、これが難問題であることがわかろう。しかも、たいがい利己主義に加わってくるの
は、たまりにたまった憎悪と悪意のたくわえで、「憎しみ」のほうがもともと「愛」をはるかに凌駕す
るのだ。さらに考えられることは、こういう性質をもった何百万という個人を、秩序・平和・安寧・合
法といった枠のなかにおさえようというのである。ところが各人は、もともとどんな人にむかっても
「おたがいさまじゃないか!」という権利をもっているのだ。こうしたことをじゅうぶん頭においてみ
れば、現に見られるように、世の中がともかく全体として平静・平和に、正しくまともに動いているこ
とに驚かざるをえない。しかもこのことは、なんといっても国家というからくりひとつで達成されてい
ることなのだ。――
0269考える名無しさん
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2015/10/04(日) 00:26:58.870
この長々と書いてるのはなんて作品なの??
0270幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 06:38:45.800
 というのは、直接に効果的なのはいつでも肉体的暴力というやつだ。普通の人間が
受けいれて考慮を払うのは、これだけなのである。このことを経験によって確かめてみたければ、いっ
さい強制しないという条件で、利害に反してでも理性や正義や公平を守るべきだなどと、口をすっぱく
して普通の人間に説いてみることだ。返事に帰ってくるのは嘲笑くらいであろう。ただの道徳力だけで
は無力なことが、いやというほどわかるだろう。つまり考慮が払われるのは肉体的暴力だけなのだ。と
ころがこの力はもともと大衆のものだ。そもうえそのお相手をつとめているのが、無知・愚鈍・無法と
三拍子そろっている。したがってさしずめ統治術の課題は、こういう困難な事情のもとで、それにもか
かわらずこの肉体的暴力を精神的優越性である知性に従わせ、これに役立てることである。しかしこ
の精神的優越性が正義ならびによき意図と組んでいない場合には、それがうまく運んだとすると、そう
いう仕組みの国家はあざむく者とあざむかれる者とからなる、という結果になる。しかしこのことは、
どれだけ大衆の知性化を妨害しようとしても、大衆の頭が進んでくれば、しだいに明るみに出てくるこ
とで、結局は革命に行きつくわけである。これに反し正義ならびによき意図が知性の側についている場
合には、人間の世界の尺度からは、完全な国家ができることになる。この場合、非常に役立つことは、
正義ならびによき意図が事実としてあるというだけでなく、これを公表・周知せしめ、公の批判と検討
にまかせることである。しかしこのさい、多数の者が参画することによって、国家が内外に対して働き
かける必要な権力の中心点が、その集中と力の点でマイナスにならぬよう、用心しなければならな
い。現にこのことは、共和国においてほとんどつねにみられることなのだ。以上すべての要請に国家の
形式をとおしてこたえることが、したがって統治術の最高の課題であろう。しかし現実においては、統
治術は、その素材としてそれぞれの国民的特性をそなえた所与の国民を念頭におかねばならぬのであっ
て、この仕事が完全にはこぶかどうかには、この素材の性質がつねに大きな影響力をもつだろう。
0271幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/04(日) 07:26:37.970
 国家共同体に不正の残存することができるだけ少なくなるていどに、統治術が以上の課題を解決する
ならば、それだけでもつねにたいしたことであろう。なぜなら、不正が影も姿もなくなるなどというこ
とは、ただ近似的にしか達成できない理想的目標にとどまるからだ。というのも、一方で不正を片づけ
れば、他方からまたしのびこんでくるからで、不法ということは深く人間の本性にひそんでいるからに
ほかならぬ。われわれは憲法の人為的形式と法の完備によって、あの目標に到達しようと努めているの
であるが、これはしかし百パーセントには近づかぬ一種の漸近線にとどまるのである。というのも、法
律の条項の概念をどんなに確定してみても、個々の場合すべてをつくすことはできず、ひとりひとりの
個人的場合に及ぶことは不可能であって、それはいわばモザイクの石ていどに近づけられるものの、と
うてい絵筆のニュアンスまでは出すことができないからである。そのうえ、政治においては、すべて実
験は危険である。なにぶん相手はいちばん扱いにくい素材、すなわち人間であり、その取扱いは爆発す
る雷金の扱いとほとんど同じくらいに危険だからだ。この点で、出版の自由が国家機関に対してもつ意
味は、安全弁が蒸気機関に対するのと同様である。というのは、どういう不平・不満も、出版の自由が
ありさえすれば、ただちに言葉で発散させることができ、それどころか、材料があまりない場合には、
言葉だけで種切れになるからだ。しかし種が多い場合には、機を失せずそれを看破し、はけ口をつけ
てやるがよい。不平をむりやり閉じこめ、それが卵をかえし、発酵し、煮えたぎり、伸びほうだいに伸
びて、ついには爆発するよりも、このほうがはるかにうまくいくのだ。――他方、出版の自由は毒物販売
の許可のようなものとみるべきだ。毒物といっても精神と気分に対する毒物だ。というのは、知識も判
断ももたない大衆の頭にどんなことが浮かぶか、わからないではないか。とりわけ目先に利益や儲けと
いったことをちらつかせる場合、なにを考えだすかわかったものではないからだ。
0272幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/04(日) 08:52:34.180
 いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。
だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりはしまいかと、非常におそ
れるものである。とりわけどんな苦情でも法的に訴える道が開かれているから、なおさらである。いずれ
にしても出版の自由は、いっさいの匿名を厳に禁止することを条件にすべきであろう。――

 一般的に次のような仮説を立てることができよう。つまり法は、純粋に遊離して析出することのでき
ないある種の化学的物質と似た性質をもっている。この物質は、担体の役割をはたしたり、あるいは必
要な濃度をあたえてくれるごく微量の混ぜものを要するのだ。たとえば弗素、アルコール、青酸のたぐ
いだ。法もこれと同じことで、現実の世界に根をおろして支配しようとするからには、気まぐれや暴力
といったものをほんの少しつけ加えることがどうしても必要だ。法本来の性質は、純粋に理想的な、つ
まりエーテルのようなものだが、この現実の物質的世界に存立して作用を及ぼし、ヘシオドスに見られ
るように気化してこの世から天上へ飛んでいかないためには、その必要がある。すべての生得権・相続
特権・国教そのほか多くのものは、こういうやむをえない化学的塩基もしくは合金とみなすべきであろ
う。この種の恣意的にきめられた基礎のうえに立ってはじめて、法も流通し、矛盾なく施行できるであ
ろう。いってみれば、こういう基礎は法の「立つべき場所」であろう。

 リンネの人為的な恣意的に選ばれた植物体系を自然の体系でとりかえることはできない。たとえ自然
の体系がどれだけ理性にかなっていようとも、またじつにしばしばそういう体系がこころみられたにし
ても、それはできないのである。というのは、自然の体系には、恣意的・人為的体系のそなえているあ
の概念規定のしっかりした確実さがないからである。同様に、右に示唆したような憲法の人為的・恣意
的基礎を純粋に自然的な基礎でとりかえることはできない。自然的基礎は上述の諸制約を非難して、生
得の特権のかわりに人格的価値こそ特権をもつべきだとし、国教のかわりに理性的探究の成果をすえよ
うなどとするものだ。
0273幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 09:06:59.780
こうした言いぶんがどんなに理性にかなっていようとも、そこには国家共同体の
安定性を確保する、あの諸規定の確実さが欠けているのである。たんに抽象的な法だけが具体化されて
いるような憲法は、立派は立派でも、なにか人間以外の存在のためのものであろう。というのは人間の
大多数は、きわめて利己主義的で不正であり、思いやりもなければ嘘もつき、ときには邪悪でさえあ
り、知性などろくにそなえていないからだ。さてこそ一身に権力を集中した人間、法や規則に超然とし
てなんの責任ももたぬ権威、すべてのものがそれに屈服する権力、いちだんと高い存在とみなされる、
いわゆる天佑を保全せる支配者が必要になってくるわけだ。こうしてはじめて、人類は長期にわたって
制御・支配されうるのである。

 これに反して、北アメリカの合衆国では、こうした恣意的基礎をすべて完全に排除して処理しようと
する試み、すなわちまったく混ぜもののない、純粋・抽象的な法を施行しようとする試みがなされてい
る。しかしその成果はかんばしくないのだ。というのは、この国は物質的に繁栄しているにもかかわら
ず、低劣な功利主義が支配的志操としてのさばっており、これにはかならずつきまとう相棒の無知が、英
国教会的な偏狭な頑信、おろかなうぬぼれ、ばかばかしい女性崇拝と組んだ残忍な粗暴さといったもの
のお先棒をかついでいるのである。さらにもっと始末のわるいことが一般的に行なわれている。すなわ
ち、罰あたりな黒人奴隷制、奴隷に対する極端な残酷、自由な黒人に対する不法な抑圧、リンチ法、頻
発するにもかかわらずしばしば処罰されないで終わる暗殺、ひどく残忍な決闘、ときには公然たる法の
無視、公債の支払い拒絶、詐欺同然の腹立たしいくらいの隣接した州の政治的接収、その結果として起
こる富める隣国への貪欲な掠奪行、それをまた最高の筋が、その国のだれもが嘘と知っていて笑ってい
るような出まかせで弁護すること、いよいよ高まってゆく衆愚政治、右に述べたような上層部の法の無
視が一般の道徳性に及ぼす結果としての堕落といったことどもである。
0274幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 15:19:44.610
 そういうわけで、この地球の裏側における純粋な法形態の見本は、共和国の肩をもつものでなく、いわ
んやこれを模倣したメキシコ、グァテマラ、コロンビア、ペルーにとってはさらに黒星である。共和国と
いうものにつきまとうまったく特別な、いわば逆説的な不利のひとつは、共和国においては卓越した頭脳
の持ち主が高い地位につい直接政治力を及ぼすようになることが、君主国におけるよりは困難であるとい
う点だ。というのも、偏狭・薄弱・平凡な頭のやつらが、それこそ断然、いつもあらゆる場合に、そして
あらゆる関係において、卓越した頭脳に対して天敵同然に謀反をおこし、あるいは本能的に結託し、すぐ
れた人物に対するその共通した恐怖によって大同団結をむすぶからである。このつねに多数を占める馬鹿
者どもの集団には、共和体制の場合、卓越した人物たちを抑圧し閉めだし、これらすぐれたものたちに凌
駕されまいとすることは、容易に成功するであろう。なにぶんここではもともと同権で、しかもつねに五十
対一となるからだ。これに反し、君主政体では、どういう場合にも当然おこるこの団結、すなわち愚かな者
がすぐれた者に対して徒党を組むということが、あることはあるけれども、それはたんに一方的に、下から
起こるだけで、上からは理性と才能が自然なとりなしと保護者を見いだすのである。というのは、まっ
さきに君主そのひとの地位はあまりに高くかつ堅固であるから、およそだれかと競争しなければならな
いといった心配はいささかもいらない。そのうえ君主自身は国家に奉仕するにあたって、自分の頭だけ
ではじつに多方面にわたる要請にとうていこたえることはできぬから、その頭脳よりもむしろその意志
を働かせるのである。すなわち君主はつねにひとの頭を使わねばならない。そして当然のことながら、
自分の利害が国の利害としっかりからみあい、不可分・一体となるように顧慮して、自分にとっていち
ばん役に立つ道具である最上の頭脳を優先的にえらび、これに目をかけることになる。ただしそれは人
材を見つける能力あっての話であるが、誠実にさがせば、これはたいして困難なことではない。
0275幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/04(日) 15:35:00.840
 同様に大臣たちも声望のある為政家たちをいちだんと抜いているゆえ、これを嫉視するはずもなく、君主
の場合と同様の理由から、すすんですぐれた頭脳を抜擢し、その力を利用するために活躍させるであろう。
このようにして君主政体では、悟性が、いたるところにいるその仇敵、すなわち愚昧さをおさえる好機を、
共和政体よりも見つけやすいのである。これはしかし大きな長所だ。

 一般に君主政体のほうが人間には自然な政治形態だ。蜜蜂や蟻・空を渡る鶴・移動する象・掠奪のた
めに群をなして集まった狼・そのほかすべてなにか事をなす場合に、一匹だけを先頭に立てる動物に、
この形態が多く見られるのとほとんど同じといってよい。そのうえ人間の場合も、すべて危険を伴う企
図、たとえば行軍とか船舶はかならず一人の指導者に従うのである。どのような場合も、指導する意志
は一つに限られねばならない。動物のからだでさえ、独裁君主的体制をもっている。つまり頭脳だけが
すべてを牛耳る支配者、ヘゲモニーを握る指導者なのである。たとえ、からだ全体が存立してゆくには
心臓・肺臓・胃がはるかに寄与するところ多いとはいえ、これら俗人どもに比すべき器官は、なんら指
揮・指導することはできぬのである。それは頭脳だけの問題であり、すべて指揮はただ一つの点から出
発しなければならぬ。太陽系でさえ独裁体制をもっている。これに対し共和体制は人間にとって自然に
もとるものであり、いちだんと高い精神生活、つまり芸術や科学にとっても不都合なものである。以上
すべてのことに応じて、古今東西、全地球上において、文明が進んでいようと野蛮であろうと、あるい
はまたその中間段階にあろうと、いろいろな民族がいつでも君主体制で支配されているのが見いだされ
るのである。

   多頭政治は便利なものではない。唯一の支配者、
   ただひとりの王があるべきだ。
                    (ホメロス『イリアス』二の二〇四)
0276幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 18:53:41.430
 君主体制的本能が人間にもともとあって、ただひとりの人を自分たちにふさわしいものとして君主に
祭りあげるということは、もしなかったとしたら、何百万、いな億という人たちが、あらゆる時代に、
いたるところの国で、たったひとりの男に服従し、ときにはたったひとりの女性、暫定的にはたったひ
とりの子供にさえ唯々諾々として従うなどということが、どうしてありえようか。なぜなら、これは考
えてできたことではないからだ。どこでも王はひとりときまっており、しかも普通は王位は世襲的に継
承される。王はいわば全国民の人格化、あるいは頭文字であり、王において国民は個性をもつようにな
るのだ。この意味で王は「国家、それはわたしである」と言って当然なのである。だからこそシェーク
スピアの歴史劇においても、イギリス王とフランス王はたがいにたんに「フランス」あるいは「イギリ
ス」と呼びかけ、(『ジョン王』第三幕・第一場では)オーストリア公に「オーストリア」の一語で話し
かけているのが見られるのであって、いわばたがいに自分をその国民性の権化と見ているのである。こ
うして君主制はまさに人間の本性に適しているのだ。だからこそ世襲君主は、自己とその家族の安全を
国家の安寧と不可分なものと見るのである。これに反し選挙による首長の場合は、たいがい二つが分か
れるのである――教会国家を見よ。シナ人は君主制しか知らず、共和制がどんなものであるか、ぜんぜ
ん理解できないのだ。一六五八年、オランダ公使がシナに赴任したとき、オランイェ公をオランダ王と
して説明せざるをえない破目になったものだ。そうしないとシナ人は、オランダなど首長をいただかな
いで生活している海賊の巣とでも思いかねなかったからだ。(ジャン・ニュホフ著『シナ帝国派遣諸国
連合東洋商会の使節』ジャン・ル・シャルパンティエ訳、一六六五年ライデン発行、第四五章参照。)
――ストバイオスは「君主政体が最上のものであること」という見出しをつけた独特の一章で、古代人
が君主政体の長所を説明した最上の個所をいろいろと集めている。共和政体はまさに反自然的であり、
人為的にこしらえたもの、反省に由来するもので、したがって全世界史をつうじてまれな例外とし
て出現するだけである。
0277幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/04(日) 22:48:22.830
 すなわちギリシアの小型共和国、ローマおよびカルタゴがそれで、これらはす
べてその人口の六分の五、ひょっとすれば八分の七までが奴隷だったという特殊事情がつけ加わる。共
和国アメリカ合衆国も一八四〇年に一千六百万の人口に対し、三百万からの奴隷をかかえていたではな
いか。そのうえ、古代の共和国の存続期間は、王政のそれにくらべれば、非常に短かったのである。
一般に共和政体は打ち建てるのはやさしいが、維持するのは困難であり、君主政体にはまさに逆のこと
があてはまるのだ。

 ユートピア的計画を求められるなら、わたしはこう言おう。この問題の唯一の解決は、最も志操の高
い男性たちを最も賢明にして才気煥発の女性たちと結婚させ、生殖の方法によって生みだされた真のア
リストクラシー、生粋の貴族に属する聡明で高貴な人たちが専制政治を行なうことであろう、と。この
提案はわたしの「理想郷」であり、プラトンのそれに相当するわたしの「国家」である。

 立憲君主はエピクロスの神々にひどく似ている。すなわち人間界のことには口ばしをはさまず、なん
ら煩わされることのない平安と至福のうちに、上のほうの天国に鎮座ましますのだ。ところが断然これ
がいまや流行となって、ドイツのほうぼうの小粒の君主国に、英国型憲法の真似事が上演され、上院・
下院から人身保護令・陪審制度まですっかりそろえるしまつだ。こうした形式は、イギリスの国民性な
らびにイギリスの事情に由来し、またそれを前提としてはじめて、イギリスの国民には適当なものであ
り、また自然である。それはちょうどドイツ民族には多くの部族に分かれていることが自然なのと同様
だ。ドイツの諸部族は、まことに数の多い、実施に政務をみる王侯のもとにあり、頭には皇帝をいただ
いて、この皇帝は内には平和を保ち、外にはドイツ帝国の統一を代表している。こういう形式がドイツ
民族にとって自然だというのも、それがドイツの国民性とドイツの事情に由来しているからだ。ドイツ
がイタリアの二の舞いを演じたくなかったら、仇敵ナポレオン・ボナパルトによって廃された帝位をで
きるだけ効果的に復権すべきだというのがわたしの意見である。
0278幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 00:36:54.900
 なぜならドイツの統一はこの帝位にか
かっているのであり、これなしには統一といってもただ名ばかりであるか、あるいはおぼつかないと思
うからだ。といってもわれわれは、皇帝の選挙に真剣にとりくんだギュンター・フォン・シュヴァルツ
ブルクの時代に生きているわけではもはやないから、帝位の冠は一代かぎりの条件でオーストリアとプ
ロイセンに交互に渡すべきであろう。小国家群の絶対主権などというものは、いずれの場合も、絵にか
いた餅だ。ナポレオン一世がドイツに対してやったことは、オットー大帝がイタリアに対してやったこ
と(『略奪されたバケツ』の註解を参照)とまったく同じで、つまり「分割して統御せよ」の原則にも
とづいて、独立した多数の小国に分けたのだ。――

 イギリス人が昔からの制度・風習・慣習を神聖なものとして変えず、そのねばり強さを極端に押しす
すめて笑いものになるのも辞さないという点に、彼らの頭のよさが示されている。というのは、こうし
たものはのんびりした頭のなかで孵化されたものではなくて、徐々に周囲の力と生活の知恵から生いたっ
てきたもので、したがって国民としての彼らにうってつけのものだからだ。ところが愚直なドイツ人は
先生から「英国式燕尾服など一着に及んで闊歩しなくちゃだめさ。断然、似合うよ」などと吹きこま
れると、親父の反対を押しきって手にいれたはよいが、まことにぎこちなく、ぎくしゃくとして、その
かっこうは笑止千万なのだ。ところでこの燕尾服というのが田舎者のドイツ人には窮屈きわまるものだ
が、その最たるものが陪審制度だ。これは読み書きができれば死刑も免除されたような未開のイギリス
の中世紀、アルフレッド大王時代からあるもので、刑事裁判で最もやっかいなしろものだ。というの
は、こそどろ・人殺し・ぺてん師がたくらんだ罠や仕掛けを日夜解くことで頭も白くなり、こうして事
件の手がかりをつかむことを覚えた腕ききの学問もある判事にとってかわって、仕立て屋や手袋屋と
いった面々が裁きの席にすわり、その遅鈍・粗野・とんまで不慣れな頭をひねり、それどころか小一時
注意を集中する習慣さえないのに、知恵をしぼって、欺瞞と見せかけの目もくらむような織物のなかか
ら真実を見つけだそうというのだからだ。
0279幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 00:53:16.940
 おまけにそうしているあいだにも、商売の布地や革のことも
考えねばならず、家へ帰りたくてうずうずしており、いわんや蓋然性と確実性の区別などちんぷんかん
ぷんで、むしろ一種の確率をそのにぶい頭に打ち建て、それによって平然としてひとさまのいのちを断
つのである。彼らにあてはまるのはサムエル・ジョンソンの言葉だ。彼はある重要な問題でひらかれた
軍法会議にあまり信を置かず、こう言っているのだ。すなわち、この軍法会議に陪席した者のうち、お
そらく、ただのひとりも、その生涯において、蓋然性をつらつら考えることでただの一時間も送った者
はあるまい、と(ボズウェル『ジョンソン伝』一七八〇年の記事。ジョンソンの年齢は時に七十一歳)。
しかしこういう連中こそ不偏不党だ、と言う意見もないではない。――あそこにいるあの「あさまし
い民衆」がそうだというのか。まるで一方に偏する執念は、被告と身分の同じ者の場合よりも、被告と
完全に縁のない、まったく別の領域で暮らしている判事、職務の名誉を自覚している解任できない刑事
事件の裁判官のほうがひどいような話ではないか。ところで国家ならびにその首長に対する犯罪や出版
法違反の罪まで陪審制度でさばくなどということは、文字どおり猫に鰹節の番をさせるものだ。


   第一二八節

 いたるところ、あらゆる時代に、政府や法律や公の機構に対する不満が絶えたことはない。しかしそ
れは大部分、人間の生活に不可分離にくっついてくる悲惨、神話的にいえば、アダムが受けた呪いであ
り、アダムとともに人類全体が受けた呪いともいうべき悲惨を、いつでも政府や法律などのせいにする
からにほかならぬ。しかしそういう誤ったなすりつけを「いまどき」の民衆煽動家以上に、嘘っぱち
の鉄面皮なやりかたでやったものはない。彼らはキリスト教の敵としての楽天主義者なのだ。
0280幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 08:01:00.880
世界は彼らにとって「自己目的」であり、したがってそれ自体において、すなわちその自然な性質のうえ
で、完全にすばらしくできあがっているのであり、至福の棲み家である。これを打ち消すような世界の巨
大な禍を、彼らはすべて政府の責任に帰するのだ。政府がその責任さえはたしておれば、地上に楽園が出
現し、万人がなんら苦労しないでもたらふく食い、鯨飲し、おたがいに宣伝しあったうえ、くたばること
ができるというのだ。じつはこれは彼らの称する「自己目的」をわたし流に言いかえたもので、彼らが
はなやかなきまり文句で倦むこともなく唱えている「人類の無限の進歩」の目的とするところなのだ。


    第一二九節

 昔は王冠を支えるおもなつっかい棒は信仰だったが、いまは信用だ。教皇ご自身でさえ、彼の債権者
が自分を信用してくれることよりも、彼の信者が自分を信頼してくれることのほうがよけい気にかかる
などということは、ほとんどあるまい。昔は世の咎(シュルト)を嘆いていたものだが、いまは世の借金
に目をそそいで、おじけづくのだ。昔は世界最終審判という予言があったが、いまは大がかりな債務の
免除、一般的な国家財政の破綻といった予言がなされる。しかし、自分だけはそういう目に会うまいと
あてにしていることは、まえの場合と同様だ。


    第一三〇節

 所有権(占有権)は倫理的にも合理的にも生得権とは比較にならないくらいうまく基礎づけられるに
しても、じつはこの二つは親類筋のもので癒着している点がある。だからこれを切り離すと、所有権が
あやしくなる可能性がある。というのは、たいがいの所有は親ゆずりのもので、つまり一種の生得権だ
からだ。現に昔の貴族はその世襲地の名を名乗っていたが、つまり名前でその所有をあらわしていたわ
けだ。――だからすべて有産者は、生得権をもっている人を羨んだりしないで、少し頭を働かせて、生
得権支持にまわるべきだろう。
0281幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 08:24:45.470
 一面には王の所有権を、他面では王の生得権を支持する助けになっているというのが、貴族がはたし
ている二重の効用である。というのは、王はその国における貴族の筆頭で、したがってまた普通は貴族
たちを身分の低い親戚として扱うのであり、どんなに信任が厚かろうとも、ただの平民とはぜんぜん別
の扱いをするのだ。その祖先がたいがい自分の祖先の第一の奉仕者であり、つねに側近であった者たち
に対して、王がより多く信頼を示すことは、これまた当然・自然な話である。だから貴族がなにか疑い
をかけられて、自分の忠誠と帰依は変わらないと王に誓うような場合に、自分の名を引き合いにだすこ
とも当然である。わたしの読者にはおなじみのことだが、たしかに性格というものは父親ゆずりのもの
だ。その息子であるくせに、そのことを見ようとしないのは、愚かで笑止なことだ。


     第一三一節

 まれな例外はあるにしても、女はすべて浪費癖がある。だから、彼女らが自分で稼いだといった珍し
い場合は例外として、すべて手もとにある財産は彼女たちの愚かさから守る必要がある。だからこそわ
たしは、女というものは完全に成年に達することなく、いつでも男の監督を受けるべきだという意見
である。現にインドではそうなのだが、その男は父でも夫でも息子でも、あるいはまた国家でもいいの
だ。したがって女は自分で稼いだものでないような財産については、絶対に自分の一存で処理しては
ならぬという考えをわたしはもっている。父親がその子供たちに残した財産の管理役・後見役に母親を
あてるようなことは、わたしはゆるすべからざる破滅的愚行とみなすものだ。父親が子供たちのことを
考えて一生営々と働いて稼いだものを、たいがいの場合、母はその情人といっしょになって使いはたし
てしまうであろう。その情人と結婚してもしなくても、同じことだ。こういう警告はすでにホメロス爺
さんも発していることである。
0282幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 09:52:00.550
  女心とはどんなものかそなたにはわかっている。
  自分をめとったその人の家を富ませたがり、
  まえの子供や愛する夫のことは、
  死ねばもう思わず、尋ねもしない。
                    (『オデュッセイア』一五の二〇)

ほんとうの生みの母親であるのに、夫が死んでしまうと継母根性になるひとがよくある。「継父のよう
な」という言葉は絶対に使われないが、「継母のような」という言葉があるように、愛情のない継母は
昔から評判がわるいのだ。しかしヘロドトス(四の一五四)の時代には、母親にも信用があって、掛け
で取引ができたものだ。いずれにしても、女はつねに後見を必要とし、自分が後見役になることは絶対
ゆるせない。一般に夫を愛していなかったような女性は、その子供をも愛さなくなるものだ。つまりた
んに本能的な、精神的に自分のものでないような母性愛の時が過ぎてしまうと、そういうことになるの
だ。――さらに、裁判に対しては、女の証言は、それ以外の状況が同じ場合には、男の証言ほど重んず
べきでなく、たとえば男の証言が二つもあれば、女の証言の三ないし四ぐらいに当たるという意見をわ
たしはもっている。というのは、わたしの見るところでは、女は、ひっくるめて言うと、毎日、男の三
倍ぐらいの嘘をつき、しかもそれが男の場合にはどうしてもうまくゆかないのに、いかにも正直な真実ら
しい趣を呈するからである。回教徒はわたしとはまた違った側で極端だ。教養のある若いトルコ人がい
つかわたしにこう言ったことがある。「わたしたちは女を精子をまく土壌とみています。だから女がど
ういう宗教をもとうと、かまわないのです。わたしたちはキリスト教徒の女のひとと結婚できますし、
しかもべつに改宗を求めることはいたしません」と。回教の托鉢僧も結婚するのか、とわたしが尋ねる
と、彼は答えた。「もちろんですよ。だって預言者マホメットも結婚したじゃありませんか。連中がマ
ホメット以上に神聖になろうなどと望むことは、ゆるされませんよ」と。――
0283幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 11:15:32.760
 日曜日なんかなくして、そのかわりに毎日の休息の時間をそれだけふやしたほうが、いいのではある
まいか。日曜日の、寝ている八時間を除いた十六時間は退屈で危険なものだが、せめてそのうちの十二
時間だけでも週の毎日に分けることにすれば、ありがたいことだろう! 宗教的な礼拝には、月曜日の
二時間だけでもたくさんで、それ以上の時間がささげられることはほとんどなく、敬虔な瞑想にふける
時間はさらに少ない。古代人は週末の休みなんか知らなかった。もちろん、こうして得られた毎日二時
間の閑暇を人びとにほんとうにもたせて、ほかのことにふりむけないようにするのは、至難のわざでは
あるだろうけれども。


      第一三二節

 永遠のユダヤ人アハルフェルスは、ユダヤ民族全体の人格化にほかならない。彼は救世主・世界の救
済者に対してひどい仕打ちをしたため、この地上の生活とその重荷から絶対に解放されず、ふるさとも
なく異郷でさすらうことになったのだ。じっさいこの小さなユダヤ民族が、まことにふしぎなことに
も、その住まいを追われてやがて二千年、依然として存続し、ふるさともなくさまよっていることは、
彼らのあやまちであり運命である。ところで一方、この片隅の民族など、それにくらべれば名をあげる
にも値しないようなじつに栄光にみちた偉大な民族の多くは、すなわちアッシリア人・メディア人・ペ
ルシア人・フェニキア人・エジプト人・エトルリア人などは永遠の眠りにはいって完全に消え去ったの
だ。こうして今日なおこの土地なき民、諸民族のうちで国もなくエホバに嘉せられたこの民族は、どこ
をも家とすることなく、しかもどこをも異郷とすることなく、全地球上に見いだされるのであり、類例
をみない頑固さでその国民性を主張し、それどころか、カナンの地に異邦人として住んでいたが、神が
彼に約束し給うたように、徐々にこの土地全体の主となった(創世記一七の八)アブラハムを忘れるこ
となく、――どこかにほんとうに腰をすえ根をはって、土地を得ようとしているのである。なぜなら土
地がない民族など、宙に浮いたボールのようなものだからだ。
0284幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 11:41:28.740
 ユダヤ民族は今日まで他の民族とその土地に寄生しているが、それにもかかわらず自国民に対する旺
盛な愛国心をもってこり、一人のユダヤ人はすべてのユダヤ人に代わり、すべての者がまた一人に相当
するといったきわめて頑固な団結で、天下にそれを示している。したがってこの祖国なき愛国心は、他
のどういう愛国心よりも熱狂的な働きをするのだ。ユダヤ人の祖国は他のユダヤ人すべてであり、それ
ゆえ彼はユダヤ人全体のために、「祭壇と炉辺とのために」、つまり彼らの宗教と祖国のために戦うの
であり、地上のどのような共同体もその団結において彼らにまさるものはない。このことから判明する
ことは、ある国家の政府あるいは行政にユダヤ人があずかることを容認しようなどということが、いか
に不条理かということだ。この場合、もともと彼らの国家と融合一致しているその宗教が主要な問題点
となるのではなくて、むしろ彼らを結びつけている靭帯、彼らがおたがいにそれによって仲間を見わけ
る集合地点と軍旗が問題なのだ。宗教が問題点でないことは、普通の背教者ならばほかの人たちの憎悪
と嫌悪を自分一身にかぶるのに、キリスト教に改宗して洗礼を受けたユダヤ人ではそういうことは絶対
になく、むしろ普通は、こちこちの正統派を除いて、改宗者も依然として昔どおりの友であり仲間であ
ることに変わりはなく、改宗者もほかの人たちを真の同国人として見ることをやめないということでも
わかるのである。それどころか、ユダヤ人が定時に祈祷をささげるには十人集まる必要があるのだが、
そういう祈りに一人欠けた場合でも、改宗したユダヤ人ならばその代理をつとめることがゆるされる
が、ほかのキリスト教徒は絶対に代行できないのだ。こうしたことは、ほかのすべての宗教的行事につ
いてもあてはまるのである。かりにキリスト教が凋落してなくなったと仮定すると、この事態はいっそ
うはっきりしてくるだろう。つまりそうなってもユダヤ人たちはユダヤ人どうしで集まり一致団結する
ことをやめないだろうからである。したがってユダヤ人をたんに宗教的なセクトと見ることは、きわめ
て皮相な誤った見方だ。
0285幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 12:39:33.020
 いわんやこの誤りを押しとおすために、ユダヤ教を、キリスト教会から借りて
きた言葉で「ユダヤ的宗門」などというのは、故意にひとを誤らせることをねらった根本的にまちがっ
た表現で、断じてゆるすべきではない。むしろ「ユダヤ国民」というのが当たっているのだ。ユダヤ人
には宗門などというものはない。一神論は彼らの国民性と国憲の一部なのであって、ユダヤ人には自明
のことなのだ。まちがいなくわかってもらいたいが、一神論とユダヤ国民とは、そのまま取りかえるこ
とのできる相関概念なのだ。――ユダヤ人の国民性につきものの周知の欠点はかずかずあるが、なかで
もいちばん顕著な欠点は「内気」という言葉で表現されるいっさいのものを奇妙に欠いているという
ことだ。もちろんこれは一種の欠如であるが、それでもおそらくなんらかの積極的特性よりも、世間
を渡ってゆくには助けになる欠如である。わたしが言いたいことは、こうしたかずかずの欠点は主とし
て彼らが受けた長期にわたる不当な弾圧のせいであり、恕すべき点はあるにしても、欠点でなくなるわ
けではないということだ。古くさい寓話・ごまかし・偏見を捨てて、洗礼を受けることによって、名誉
も利益ももたらさぬ(例外的には利益がある場合もあるが)彼らの仲間社会から脱出する理性あるユダ
ヤ人を、わたしはだんぜん賞讃せざるをえない。その場合、キリスト教的信仰に対して非常にまじめで
なくてもかまわぬのだ。だって、若いキリスト教徒が堅信礼のさいに「わたしは信じます」で始まる信
仰箇条をのべるとき、だれも彼もが大まじめとはかぎらないではないか。しかしユダヤ人にこういう改
宗手続きをとらせることなく、この悲喜劇的な奇態な制度全体に世にもなごやかな行き方で引導をわた
す最良の方法は、ユダヤ教徒とキリスト教徒間の結婚をゆるすこと、それ以上に奨励することだ。この
ことに対しては、キリスト教会としては、使徒自身の権威の裏づけ(「コリント人への第一の手紙」第
七章一二〜一六)もあるから、なんら異議を唱えることはできないのである。こうして百年以上もたて
ば、ユダヤ人など影もうすくなって、やがては亡霊も完全に祓われ、アハスフェルスも埋葬されること
になって、選ばれた民自身が、どこにそういうものがいたか、わからなくなるだろう。
0286幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/05(月) 13:10:25.960
しかしユダヤ人解放を極端に押しすすめて、彼らがキリスト教国の行政にあずかるようになれば、この願わ
しい結果も水泡に帰することになろう。なぜなら、そうなれば彼らはいよいよ「愛着をもって」ユダヤ人で
ありつづけるであろうからだ。彼らが他の人びとと同様、同じ市民権をもつべきことは、正義を求めるとこ
ろである。しかし彼らに国政に参与することを容認するのは、馬鹿げている。彼らはいつまでたっても異
質の東洋民族であり、したがってつねに定住した外国人とみなされねばならぬのだ。約二十五年まえ、イ
ギリスの議会でユダヤ人解放問題が論議された折り、ある代議士は次のような仮説的場合をあげた。あ
るイギリスのユダヤ人がリスボンへやってきて、二人の男がひどい窮境におちているのに出会った。し
かし彼には二人のうち一人しか助ける力があたえられていないとする。個人的にはふたりとも彼には縁
のない者とする。しかしひとりはイギリス人でキリスト教徒であり、もうひとりの男はポルトガル人で
ユダヤ人であったとする。どちらを彼は助けるだろうか、というのである。――どういう答えが出る
か、分別に富むキリスト教徒でも、正直なユダヤ人でも、だれひとりとして疑うことはあるまいとわた
しは思う。しかしこの答えこそ、ユダヤ人にどういう権利を認めていいかの尺度をあたえるものだ。


    第一三三節

 どのような事件でも、宗教が直接また顕著に、実践的・物質的生活に食いこんでくることは、誓いの
場合にまさるものはない。宣誓によって、甲の生命および財産が、乙の形而上学的信念によって左右さ
れるようになるのは、まことに始末のわるいことだ。将来いつか、そういう心配がないわけではない
が、宗教という宗教がすべて凋落して、あらゆる信仰がなくなったとしたら、誓いはいったいどうなる
だろうか。――
0287幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/05(月) 22:49:51.030
 したがって、誓いというものに、純道徳的な、あらゆる既成宗教とは無関係な、しかも
明確に概念化できるような意味があるかどうかも研究してみることは、おそらく骨折りがいのあること
だろう。たとえそういう意味が、宗教的誓いの華麗で力強いのにひきくらべ、いくらか貧弱で無味乾燥
であろうとも、これこそ純金でできた神聖このうえないものとして、例の世界的教会炎上をも切りぬ
けうるものであろう。

 誓いの明白な目的は、たんに道徳的な方法では人間があまりにしばしば嘘をつくところから、真実を
申し述べますと、宣誓者自身が認めているその道徳的義務を、ここに加わってきた、ある並々ならぬも
のを考慮にいれることで、高めると同時に、いきいきと自覚させることによって、嘘をつくことを防止
することにある。わたしはここでわたしの倫理学に従って、いま述べた例の義務を強調することが純道
徳的な、あらゆる超越と神話的要素にかかわらない意味をもつことを明確にしようと思うのである。

 わたしはわたしの主著・正編・第六二節三八四頁(第三版四〇一頁)で、さらに詳細には『道徳の基
礎について』の懸賞応募論文、第一七節二二一頁より二三〇頁(第二版二一六頁より二二六頁)で、あ
る場合には人間に嘘をつく権利があるという、あの逆説的ではあるが真実な命題をうちたて、徹底的な
説明と論証によって、これを基礎づけたのであった。嘘をついていい第一の場合は、正当防衛と同じよ
うに他人に暴力をふるっても文句を言われないときであり、第二の場合というのは、みだりに質問をう
けて、その返答をことわっても、また正直に返事をしても、いずれも自分の不利を招くような場合で
あった。以上のような場合には、嘘をつく権利が議論の余地なく発生する。
0288幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/05(月) 23:12:42.900
それゆえ、重要な事件の決定がその人の申し立ていかんで左右される場合、あるいはその約束を履行することが
重要な意味をもつ場合には、本人が正当防衛はこの場合存在しないことを承認すること、すなわち他から暴力を
加えられたり暴力でおびやかされることなく、正義が行なわれるということを洞察し心得ていること、同様に自
分に差しだされた質問がたしかに然るべきものであることを承認すること、最後にまた、この質問にかんする自
分の現在の申し立てですべてが左右されることを知っているということをまず力強く厳粛に宣言する必要がある。
この宣言は、そういう事情で嘘をつく場合には、はっきり自覚したうえで、不正を犯すことになるということを
含んでいる。なぜならその人が正直であると信頼されたうえで、正・不正いずれの場合にも使えるような完全な
権力を渡された人として宣誓者は立つからである。そうなってもまだ嘘をつけば、自由な権力を持っている場合
には、冷静に熟考したうえでも、その権力を不正なことに使うような仲間のひとりになるという明確な自覚を本
人はもっているわけである。偽誓はその当人に自分自身についてこういう人物証明書をあたえることになるのだ。
ここにさらに次の事態が結びつく。どのような人もなんらかの形而上学的欲求をもたないわけにはいかないから、
たとえはっきりしなくても、だれでもいだいている確信がある。それは、この世はたんに形而下的意味をもつば
かりでなく、同時に形而上学的意味をもつということだ。したがってわれわれの個人的行動はたんにその道徳
性による結果をもつばかりでなく、経験的世界において他に及ぼす結果以上に、はるかに重要な、ぜん
ぜん別種の結果をもつのであり、したがって真に超越的な意味をもつということである。この点にか
んしては『道徳の基礎について』のわたしの懸賞応募論文の第二一節を指示するにとどめ、ただひとこ
と、自分の行為に対して経験界に限られる意味以上になんらの意味はないという人は、こういう主張自
体にかならず内的矛盾を感じ、自分に強制を加えざるをえない羽目になるだろう、ということを付言す
るにとどめる。
0289幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/05(月) 23:21:13.090
 さて、誓いの要請によってわれわれは、はっきり次の立場に立たされる。つまり自分が、
右に述べたような意味で道徳的存在であり、そういう性質のうえで自分のあたえる決定が自分自身に
とって非常に重要なものだということを自覚せざるえないということだ。誓いを立てたいまは、それ
以外のあらゆる顧慮は完全に姿を消すまでに委縮せざるをえないのである。――このようにしてかきた
てられた確信が、われわれの存在には形而上学的であると同時に道徳的な意味があるということを、た
だぼんやり感じとっただけにしても、あるいはまたそれがいろいろな神話や寓話の衣裳をつけていて、
そのためにいきいきしていようと、あるいは明晰な哲学的思惟になっていようと、この場合には非本質
的なことである。以上のことから帰結することは、誓いの形式があれやこれやの神話学的関係を言いあ
らわすにしろ、あるいはまたフランスで行われているように「わたしいはそれを誓います」という完全
に抽象的なものであろうと、本質的には問題にならぬということだ。誓いの型は、宣誓者当人の知的教
養の程度に従って選ばれねばなるまい。現にそれはその人その人の既成宗教的信仰によって、違った型
が選ばれているのである。問題をこのように見れば、宗教を信じない人でも、宣誓の場に立つことが許
されてよいわけになろう。
0291幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/06(火) 02:19:17.830
 性の名誉については、もっときめのこまかい観察が必要であり、この名誉の原則を根本までさかの
ぼってしらべてみる必要があるように思われる。そうすると、もともとすべての名誉は、役に立つかど
うかという考慮に最終的には依存していることが確かめられる。

 性の名誉は、その性質にしたがい、女の名誉と男の名誉に分けられる。そしてこれらは、男女両性の
側から自明の理とされる「団体精神」である。前者は後者よりもはるかに重要である。それは女性の
生活にあっては性関係が眼目だからである。――女の名誉について一般には、娘はいかなる男にも身を
まかせないこと、妻はおのれのつれあいだけに献身することにあると考えられている。この見解の重要
性は次の点にある。女性は男性からすべてを、すなわち、女性が欲し使用するものすべてを求め、期待
している。いっぽう男性は女性から、まず、直接的にただ一つのことを求めている。したがって、男性
は女性からこの一つのことを獲得できるかわりに、すべてに対する配慮を、とりわけ女性との結婚から
生まれでてくる子供たちの面倒をみることをひきうけるような仕組みがつくられなければならない。こ
の仕組みに全女性の幸福が依存している。この仕組みを確立するために全女性はかならず結束し、「団
体精神」を証明しなければならない。だが一団となって結束した女性は、もともと心身ともに力でま
さっているためこの世の財貨のすべてをわがものとしている男性を、共通の敵として打ちやぶり征服し
なくてはならぬ。そして、男性の所有物をわがものとすることによって、この世の財貨のすべてを手に
入れなくてはならない。この目的のため、結婚する以外に男に身をまかせてはならないというのが、す
べての女性にとっての名誉の格率である。こうして女性はだれでも一種の降服である結婚を強いられる
ことになるが、このしきたりによって全女性は扶養を受けることになる。だがこの目的は例の格率をき
びしくまもることによってだけ完全に達せられる。そこで全女性は真の団体精神に燃えて、同性の者す
べてがこの格率を遵守するよう監視する。
0292幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/06(火) 02:39:38.980
そうした事情から、婚外交渉をして全女性に裏切り行為をし
た娘は、もしこうした行為が一般化すると全女性の安寧はそこなわれるという理由から、全女性から排
斥され汚名をかぶせられる。こんな娘は名誉を失ったのだとされる。この娘はどの女性も交際するこ
とは許されない。彼女はまるでペスト患者のように避けられる。同じ運命は姦通した女にもふりかか
る。それはこうした女が、夫に対し行なった降服条件を守らず、こうした例を示すことによって男性
を結婚から尻込みさせるようになるからである。なんといっても結婚に全女性の安寧が依存しているの
だ。だから姦通した女はそのうえ、誓いの言葉を破り、行動をつうじて人をあざむいたために性の名誉ば
かりか、市民の名誉も失う。こうしたことから、かんべんしてやるという意味あいを含めて、「転落し
た娘」という表現が用いられるけれども「転落した妻」とはいわれない。誘惑者は、「転落した娘」の
名誉を結婚をつうじて回復させることはできる。だが姦通した男は、たとい相手の女が離婚したあとで
結婚しても、女の名誉をもとに戻すわけにはいかない。――こうしたいきさつをよく頭に入れ、たしか
に有益なばかりか必要な、それでいてじゅうぶんに計算ずみの、利害にもとくく「団体精神」を女性の
名誉の基礎として認めるならば、女性の生存にとって最も重要であり、絶対的とはいえないまでも相
対的に生とその目的をしのぐほど強力であり、生そのものと引きかえにされるほどの価値を、この団
体精神に与えることになるだろう。こうしたことからすれば、あまりにもはりつめ、悲劇的茶番にまで
変質してしまったルクレティアやウィルギニウスの行為を賞讃することはできないだろう。じつにこう
した点からしても、エミリア・ガロッティの結末はあまりにも不快なものであり、観客はすっかり沈黙
したまま劇場を去ることになる。これに反し、性の名誉が何をいおうと、『エグモント』のクレールヘ
ンには同情せざるをえない。女の名誉原則もあまりにも極端に走ると、他の多くの原則同様、手段のた
めに目的を忘れることになる。
0293幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/06(火) 02:53:02.960
それというのは、本来ならば性の名誉は、他のすべての名誉より以上
に、たんに相対的な価値をそなえているだけにもかかわらず、あまりにも過大に考えられるために、絶
対的価値ありとされるようになるからである。いや、そればかりではない。トマジウスの『畜妾論』を
ひもとけば、性の名誉などは単なる慣習的なものだということができよう。『畜妾論』によれば、マル
ティン・ルターの宗教改革まではほとんどいつの時代でもいかなる国でも畜妾は法律的に許され、容認
された制度であり、おめかけさんもそれなりの名誉をもっていた。このさいバビロンのミリッタ(ヘロ
ドトス、一の一九九)のことまで言及する必要はあるまい。もちろん、とくに離婚が行なわれないカト
リックの国々では、結婚という外的形式を不可能とする市民の制度が存在する。だがわたしの考えによ
ると、いやしくも支配する君主たるものは身分の低い家柄の娘と結婚するよりは、側室をおいたほう
がはるかに道徳的に行動することになる。いちど娘を王侯の奥方にまつりあげた家からは、時代が移っ
て王侯の嫡流の子孫が死に絶えたとき、王位継承権を主張する者が現われる。そのため、たしかにきわ
めて遠い因縁にはちがいないけれども、こうした身分違いの結婚から内乱が起こる可能性もある。それ
にもともと身分違いの結婚、すなわち、すべての外的な事情にもかかわらずこれを無視して結ばれた結
婚は、もとを正せば、できるだけ譲ることのないよう配慮すべき二つの階層である女と僧侶に大きな譲
歩をすることになる。さらにどの国でも、男はだれでも好みの女と結婚できるにもかかわらず、一人だ
けはこうした自然の権利を奪われている。その一人とは、哀れな君主であるということを考えに入れて
おく必要がある。君主の手は国に属しており、その手には、国家理性つまり国の福祉にあうかどうかに
よって妻が与えられるのだ。だがそうはいっても君主も人間であり、いつかはおのれの心の好みに応じ
て生きたいと思う。こうしたことからも、君主が愛妾をかかえるのを拒んだり、畜妾を非難するのは不
公平であり、君主に報いる道でもなく、さらにあまりにも偏狭な態度である。
0294幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/06(火) 03:29:19.760
もっともその場合、愛妾が政治に嘴を入れないということが前提となっていることはいうまでもない。
いっぽうこうした側室たちは、性の名誉については例外的な存在であり、一般的法則から除外されている。
なぜなら彼女たちは、自分たちとしても愛しているし相手からも愛されてはいるものの、けっして相手に
結婚してもらうことはできない男だけに身をささげているからである。――だが一般的に、女の名誉原則
がけっして純粋な自然な源から出たものではないことは、この原則がもたらした数多くの血なまぐさい
犠牲――嬰児殺しや母親の自殺――が証明している。それはともかくとして、法に即さずに身をささげた
娘は、同性全体に対し背信したことになる。ただしこの場合の貞節は、ただ暗黙のものであって、決して
口に出して誓われたわけではない。そしてふつうの場合、問題の娘の利益は最も直接に被害を受けること
になるのだが、それも、彼女が悪いというよりは、彼女があまりにも愚かだったからである。

 男性の性の名誉は女性の性の名誉から派生するのだが、女のそれとはまったく対立した「団体精神」
に依存している。この団体精神は、相手がたにとって有利な降服条件、つまり結婚生活にはいった者は
だれしも妻が結婚の掟を厳守するよう監視することを求めている。それは結婚の掟がなおざりにされ裂
け目が生じてくるうちに、いつのまにかいかげんな結びつきに変化し、男たちがそのすべてを犠牲に
することにより代償として受けとるもの、すなわち妻を独占することすらあぶなくなるようなことが起
きないためである。したがって男の名誉は、妻の不貞を罰すること、すくなくとも離婚によって妻をこ
らしめることを求めている。妻の不貞を知りながらそれをこらえている夫は、仲間の男たちから誹謗さ
れる。そうはいってもこうした男の恥は、性の名誉を失った女がこうむるほど根の深いものではなく、
むしろ「あまり意味のない汚点」にすぎない。なぜなら男というものは、性的な事柄よりも他のもっと
多くのたいせつな事柄にかかわずらっており、性的な事柄は第二義的なものだからである。近世の二人
の偉大な詩人が、ともに二度にわたって男の性の名誉のテーマをとりあげた。
0295幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/06(火) 03:30:19.240
すなわちシェークスピアが『オセロ』と『冬物語』で、カルデロンが『おのれの名誉の医師』と『秘められた
恥辱には、秘めら れた復讐を』を書いている。それはそれとしてこの名誉は、女を罰することだけを求めており、
単なる 「余分の行為」をしただけの間男の処罰を求めていない。このことからも、この男の名誉の源は男の
「団体精神」であるという仮説の正しさが証明される。――
0296幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM
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2015/10/09(金) 20:11:01.130
 日本を訪れた次のアメリカ船乗組員の発言は、彼が人類はすべて純粋のユダヤ人からなる
にちがいないと割りきっている単純さのために、なかなか愉快である。一八五四年十月十八日付の
「タイムズ」紙は、バー船長が乗るアメリカ船が江戸湾に着いたところ日本人から歓迎されたことを
伝えたあと、最後に次のように述べている。

 「彼も日本人が神の存在を否定し、礼拝の対象として都にいる精神的皇帝あるいは他の日本人を選
んでいることを理由に、日本人は無神論の国民であると主張する。彼は通訳から、以前には日本人の
宗教は中国の宗教と類似していたが、最高存在に対する信仰は最近まったく消滅した。自分は神を信
じていると《アメリカ化した日本人》が宣言するのをきいて、彼らは衝撃を受けていると聞かされた、云々。

 アルトゥール=ショーペンハウエル著『意志と表象としての世界』
0297幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/11(日) 13:01:28.050
           動物磁気と魔術

 一八一八年、わたしの主著が刊行されたころ、動物磁気ははじめておのれの存在を確保したば
かりであった。しかしこの現象の説明にかんして、たしかに消極面では、つまり患者がどのよう
なありさまになるかについてはいくらかはっきりしてきた。それというのも、ライルが強調した
大脳組織と神経組織の対立が、説明のための原則とされたからである。これに反し、積極面、つ
まり磁力所有者という治療師にこうした現象を起こさせる動因は、いぜんとしてわからないまま
である。そこでありとあらゆる物質による説明原則がさがしだされた。そのなかには、メスマー
のいう万物に浸透する世界エーテル、シュティーグリツが原因としてかかげる磁力所有者の皮膚
からの発汗などが含まれた。それに、神経霊なども説明原則にされたが、これなどは、たんにわ
からない事柄につけられた名称にすぎない。たといこの道に熟練した人の実際のやり方を知った
としても、やっと真相がわかりはじめたというだけのことである。しかしわたしは、こうした磁
気現象から、わたしの学説の直接の保証を得ようなどという気持ちはさらさらない。

 しかし「過ぎ去った日は、これから来る日を教える」ということもある。あの当時から、偉大
な師である経験は、例の現象の深奥にひそむ動因はじつは磁力所有者の意志にほかならないこと
を明らかにした。――もともと磁力所有者から発生した現象は、法則どおりの自然の経過にあま
りにも反する結果を生むために、これはおかしいという疑いがもたれ、絶対に信じないとする者
が出てきたばかりか、かのフランクリンやラボワジエを委員とする委員会によって断罪された。
0298幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/11(日) 13:45:26.920
もっとも、この動物磁気に対抗して、第一期および第二期に行なわれたことはすべて、完全に許
容されるべきものであろう。(ただし、イギリスでつい最近まで猛威をふるった、調査ぬきの粗暴
かつ馬鹿げた断罪は別である。)ともかく今日では、洞察をもって治療にあたる者のなかで、現
象の動因が磁気所有者の意志であることについて疑いをさしはさむ者はいないとわたしは信じて
いる。したがって、このことを確証する磁気所有者の無数の発言を例挙するのは余計なことであ
ろう。「欲せよ、そして信ぜよ!」というピュイセギュールおよびフランスの古い磁気所有者の
解答は、たんに時を経ても正しさを保っているばかりでなく、現象自体についての正しい洞察に
まで発展した。キーザーの『大地主義』は動物磁気についての最も基本的かつ詳細な教科書だ
が、この本は、磁気の動きが意志なくしては生起しえないこと、これに反し意志は外的行為なく
してもあらゆる磁気的作用を起こすことができることを、じゅうぶんに指摘している。触診は意
志行為とその方向を固定し、いわば具体化するための一手段にすぎないように思われる。この意
味でギーザー(『大地主義』第一巻三七九頁)は次のように述べ江いる。「人間の行為する活動
(つまり意志〔ショーペンハウアー〕)を最もはっきり表現する器官としての人間の手が、磁気をか
けるさいの活動する器官であるかぎり、磁気的な触診が発生する。」この点については、いっそ
う正確にフランスの磁気所有者ド・ローザンヌが、『動物磁気年刊』一八一四〜一六年・第四刷
のなかで、次のように述べている。
0299考える名無しさん
垢版 |
2015/10/11(日) 14:14:22.740
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       @@@@@@@@
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    @@@@,、 _, ' '、_ }    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    @@@ `´        `i < 朝から晩までオナニーやってないで 働いておくれよ
   @@(6    ,(oo)、  }   \_________
     /    /-===-、 i 
   / \ 、ヽ  ヽ こ ノノ  
  /      ` ー-- '  \
   かあちゃん
0300幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/11(日) 14:32:29.070
 「磁気所有者の活動は、もちろんただ意志によって拘束され
ている。しかし人間は外的な知覚できる形態をもっている以上、人間の使用に供せられるものす
べて、人間に作用するものすべてが、やはり外的な知覚できる形態を必ずもっていなくてはなら
ない。しかも意志が作用するためには、意志は一種の行為を利用しなくてはならない。」わたし
の学説にしたがえば、生体は意志の単なる現象、可視性、客体化、すなわちもともと頭脳のなか
に表象として直観された意志そのものである。したがって、触診という外的行為は内的な意志行
為と一致する。したしたとい触診が行なわれないとしても、同じことを迂路をつうじて人工的に
生起させることができる。空想が外的行為を、ときには人の存在を代用することもあるのだ。し
たがって触診なしで事を行なうのはずっと困難であり、めったいに成功しない。こうした事情から
してキーザーは、夢遊症患者に向かって、大声で「眠りなさい!」あるいは「そうしなくちゃい
けない!」と叫ぶほうが、磁気所有者の単なる意志よりも強力に作用すると述べている。――こ
れに反し、触診や外的行為一般は、もともと、磁気所有者の意志を固定させ活動させるうえで、
誤つことのない手段であう。それというのも、身体やその器官は意志の可視性自体である以上、
意志のまったくない外的行動などはありえないからである。このことからして、磁気所有者がと
きには、意識された意志の努力もなくほとんど無考えに磁気療法を施しても効果を生むことが説
明できる。一般に、磁気的に作用するのは、意志の意識や、それについての反省ではなく、純粋
にすべての表象からできるだけ分離された意志そのものである。したがってキーザーが書いた
(『大地主義』第一巻四〇〇頁以下)磁気所有者のための規則のなかにも、医師および患者が両者
の行為や苦しみについて行なうすべての思考や反省、もろもろの表象がよび起こすあらゆる外的
な印象、医師・患者間のあらゆる会話、あらゆる第三者の介在、それに日光のはいることなどが
はっきりと禁止され、すべてが、共感治療についてもあてはまるように、できるだけ無意識に行
なわれるよう奨められているさまがうかがわれる。
0301幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 14:58:18.440
 これらすべてについての真の基礎は、ここで
は意志がその本源性において物自体として活動しており、意志からは異なった領域にある第二次
的なるものとしての表象ができるだけ除外されることが要求されている。磁気をかけるにあたっ
てもともと作用するのは意志であり、あらゆる外的な行為は、意志の運搬具にすぎないという真理
を事実のうえから裏づけするものは、磁気に関する最新・良質のすべての著作のなかに見いだ
される。このことをここで繰り返すのは、不必要な脱線であろう。それでもわたしは、そのうち
のひとつを掲げておくことにする。それというのも、この文献がとくに異常だからではなく、意
外な人によって書かれており、そうした人の証言として独特の関心がもたれているからである。その
人とはジャン・パウルである。彼はある書簡(『ジャン・パウルの生活の真相』第八巻一二〇頁
に転載されている)のなかで次のように述べている。「わたしはある大きな会合でK夫人を、だ
れにも悟られないうちにたんに意欲をこめて見ただけで眠らせてしまった。しかもそれ以前に、
K夫人は動悸がしたうえに顔面蒼白となり、S氏が助け舟を出さなくてはならなかった。」今日
でも通常の触診では、患者の手をたんにつかんで保ち、それとともに患者をじっと見つめる方式
が大きな成果をあげている。それというのも、こうした外的な行為が、意志を一定の方向に固定
するのに適しているからである。だが、意志を他人に向かって行使しようというこうした直接の
力を、他のだれよりもまずデュポテ氏とその弟子たちが、奇妙な実験をつうじて明らかにした。
デュポテ氏らは、さらにパリで公開実験を行ない、その間に彼は、いくらかの身ぶりに支援され
た単なる意志によって、縁もゆかりもない人間を思うがままに操縦し、さらには、こうした人び
とに前代未聞の奇妙な体形をとらせるにいたった。このことについての簡単の報告を、一見した
ところきわめてまじめに作成されたカール・ショルの小著『磁気の奇妙な世界への最初の一瞥』
(一八五三年)が行なっている。
0302幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 17:39:53.110
 いま問題にしていることの正しさを別な角度から保証するものに、『ドレースデンにおける女
夢遊症患者アウグステ・Kにかんする報告』(一八四三年)がある。アウグステは、五三頁で次
のように述べている。「わたしは半分眠っていた。弟が彼の得意な曲を演奏しようとした。しか
しその曲はわたしの気に入らなかったので、わたしは彼に演奏しないように頼んだ。それでも彼
は演奏しようとした。そこでわたしがこれに反抗する賢固な意志をかためたところ、弟はいくら
努力しても、問題の曲を想起することができなくなった。」――しかしこの意志の直接の力は、
生命のない物体にまで及ぶときに最高潮に達する。このことはたしかに信じられないように思わ
れるけれども、ぜんぜん別の方面から伝えられたこれにかんする二つの報告がある。すなわち、
いま紹介した『アウグステ・Kにかんする報告』の一一五、一一六、および三一八の各頁はでは、
証人の引証つきで次のようなことが述べられている。アウグステというこの女夢遊症患者は、磁
石の針をいちどは七度、つぎは四度、四回にわたってくりかえし動かしていたが、そのさい彼女は手
をいっさい用いず、単なる意志の力で、眼を針に注ぐだけで、こうしたことをやってのけたので
ある。――つぎにイギリスの雑誌『ブリタニア』は、一八五一年十月二十三日付の『ガリニャー
ニ通信』にのった次のような記事を紹介している。パリから来た女夢遊症患者プリュダンス・ベ
ルナールは、ロンドンで開かれた公式会議の席上、たんに彼女の頭をあちこちに回すだけで、磁
石の針をそうした頭の動きをそのままに運動させた。そのさい物理学者の息子であるプリュースタ
ー氏と、観衆のなかの二人の紳士が、みずから審査委員の役にあたった。
0303幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 18:55:14.410
 わたしが物自体、すべての存在における唯一の現実、自然の中核としてかかげた意志が、人間
個人から出発して動物磁気のなかで、さらにはこれを越えて、因果の結合すなわち自然の法則に
よっては説明できないようなこともなしとげるばかりか、自然の法則をいわばご破算にして、現
実に遠隔への作用を行ない、それとともに超自然的な、つまり自然に対する形而上学的支配を行
なうことを、われわれは考察してきた。したがってわたしはこれ以上に、わたしの学説を事実の
うえではっきり裏づけするものを望むことができない。そればかりか、磁力所有者のソパリ伯爵
は、疑うまでもなくわたしの哲学についていっさい知らず、おのれの経験を積み重ねてゆくうち
に、『動物磁気、魂の身体、および生の精髄』(一八四〇年)という自著の題名を説明するため
に、次のような熟考すべき言葉をつけ加えた。「本書の副題はいうなれば、動物磁気の流れはす
べての精神的・肉体的な生の要素であり意志であり、原理であることを物理学的に証明するものと
いうことになろう。」――こういうわけで、動物磁気はまさに実用的形而上学として登場する。
すでに、ヴェルラムのベーコンも諸科学を分類するにあたって(『学問の一大改革』第三巻)、魔
術を、この種のものとして記述した。魔術は経験的あるいは実験的な形而上学ということにされ
たのだ。――さらに動物磁気においては、物自体としての意志が登場するために、単なる現象に
属する「固体化の原理」(空間と時間)はやがて適用しなくなり、個人を分かつ境界は突破される。
磁気所有者と夢遊症患者とのあいだでは、空間はなんの境界でもない。思考および意志運動の共
通性が登場する。透視の状態は単なる現象に属し、空間と時間によって制約された関係である遠
近や、現在と未来を超越する。
0304幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 21:25:02.320
 このような事実があるために、まったく正反対の主張や偏見があるのにもかかわらず、動物磁
気とその現象はかつての魔術の一部と同じであるという意見が出てきたばかりか、これは確実な
ことだとされるようになった。もともと魔術は悪名高い秘儀で、これをきびしく迫害したキリス
ト教成立後の各世紀ばかりではなく、未開人をも含めた地球上の全民族によって、あらゆる時代
をつうじて信奉されて伝えられてきた。しかも魔術の悪用を、ローマ人の十二表、モーセの五
書、それにプラトンの『法律』第一一章さえ、死罪に値するとしている。アントニウス治下の最
も啓蒙された時代のローマでも魔術がいかに大まじめに受けとられていたかは、アプレイウスが
自分に向けられた、彼の生命をもおびやかす魔術師という訴えに対して法廷で行なった、美しい
自己弁護の言葉が証明している(『魔術についての弁明』ビポンティウム版一〇四頁)。この弁明
のなかで、彼は、おのれに向けられた非難を取り除こうとけんめいに努力したけれども、魔術の
可能性をいっさい否定せず、むしろ中世の魔女裁判で行なわれるのを常としたように、ばかばか
しいほど微に入り細をうがった話をした。ただ十八世紀のヨーロッパだけが、こうした魔術信仰
について例外を形づくっている。しかもそれは、バルタザール・ベッカー、トマジウス、それに
他のいくたりかの人びとが、残忍な魔女裁判を一掃しようという善意から、あらゆる魔術は不可
能であると主張した結果である。十八世紀の哲学にも認められたこうした考えは、学者や教養あ
る階層の人びとの支持を得ただけである。民衆が魔術信仰をやめなかったばかりではない。とく
にイギリスでは、動と反動の法則、酸とアルカリについての法則をこえるようなすべての事実を
とり扱うにあたって、教養ある階層の人びとは、宗教問題についての彼らの品のない炭鉱夫なみ
の信仰と、トーマスあるいはトマジウス流の抜きがたい不信仰とを結合させた。
0305考える名無しさん
垢版 |
2015/10/11(日) 21:36:00.840
動物磁気は本当にあるね。エナジーヴァンパイアも昔からあるね。

これ全部魔術だから。
0306幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 23:32:30.620
そして彼らは、天上・地上には彼らの哲学が夢想する以上のものがあることを偉大な同国人にはっ
きり語らせようとはしなかった。――往時の魔術の一部は、民衆のあいだではいまでも大っぴらに、
毎日実施されている。こうした魔術は福祉に役立っている。つまり感応療法に使用されているが、
この種の治療の有効性については疑う余地がない。最も普通に実施されているのは疣の感応療法で、
これが効果があることを、慎重で経験的なヴェルラムのベーコンも、すでにおのれの経験にもと
づいて確証している(『森また森』第九九七節)。さらにこれは顔面に生ずる丹毒の治療にもしば
しば効果的であるために、これなら大丈夫という確信をもつことができる。また同様に発熱のさ
いの治療にも成功した例がある。――このさい本源的な動因となるものは無意味な言葉や儀式で
はなく、磁気療法のときと同じく治療にあたる者の意志であることは、すでに磁気について述べ
てきた以上、詳細な説明を必要としないだろう。感応療法の実例は、この種の治療となじみのな
い人でも、キーザーの『動物磁気のための記録』第五巻・第三冊一〇六頁、第八巻・第三冊一四
五頁、第九巻。第二冊一七二頁、それに第九巻・第一冊一二八頁に見いだすことができる。『感
応的手段と治療について』(一八四二年)と題するモスト博士の著書も、この問題と、当面なじ
みになるうえで役立つ。――したがって、動物磁気ならびに感応療法という二つの事実は、経
験のうえから、物理的なるものとは対立する魔術的作用の可能性を確証してくれる。前世紀にお
いては、物理的なるもの、すなわち把握できる因果の結びつきから導かれた作用以外のものが
まったく承認されなかったために、魔術的作用は決定的に非難された。
0307幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/11(日) 23:50:45.270
 現代になって行なわれたこの種の見解の修正が薬学からはじまったことは、幸運であった。な
ぜならこのことは同時に、意見の振り子が、まったく逆の方向にむかう強い衝動を再びもつこと
はなく、われわれが粗野な時代の迷信にまたもや投げ入れられることがないことを保証している
からだ。しかも、よくいわれているように、動物磁気ならびに感応療法によってその有効さが救
いだされたのは、魔術のなかのごく一部分である。同じ魔術といっても数多くある。その大部分
はさしあたり、昔と同様に有罪の判決を受けたままであるが、それとも死滅したものとみなされ
る。しかし他の一部は、動物磁気と類似していることからも、少なくともありうることだと考え
なくてはなるまい。ということは、動物磁気と感応療法は、治療を目的とする福祉的な作用を及
ぼすのだ。これらの作用は、魔術の歴史のなかで、スペインでいわゆる「サルダドレス」の仕事
として出現したもののやはり教会の有罪宣告をうけた作用と類似している(デルリオ『魔術論』
第三巻二〜四頁および七頁およびボディヌス『悪魔の魔術』第三巻・第二章)。これに反し、魔
術は、ずっとひんぱんに、腐敗した意図のもとに利用されてきた。類比推理をした結果によれ
ば、他人に直接作用しつつ効果的な影響を与えることのできる内在的な力は、少なくとも、他人
に有害に、破壊的に作用する点でも同様に強力であることは確かだ。したがって、動物磁気なら
びに感応療法にもとずくもの以外の古い魔術が有効であるときは、これはまさしく「妖術」、
「たぶらかし」として特筆されているものであり、ほとんどの場合、魔女裁判のきっかけをつ
くっている。前掲のモストの著書のなかにも、明らかに妖術とみなすべき二、三の実例がのって
いる(四〇、四一頁、それに第八九号、九一号、九七号)。またキーザーの例の記録のなかにも、
第九巻から第一二巻までつづく、ベンデ・ベンドセンの病歴をあつかったくだりに、転移させら
れた病気、とりわけこれがもとで死亡したイヌの症例がたくさんのっている。
0308幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/12(月) 08:34:42.630
デモクリトスは「たぶらかし」をすでに知っており、これを事実として説明しようと試みたことが、
プルタルコスの『疑問の饗宴』のなかにうかがわれる(第五問、七の六)。もしここに書かれた物語
が真実であるとされるならば、魔法使いによる犯罪の謎を解く鍵となろう。この物語によれば、熱心
な魔女迫害はけっして根拠のないことではない。たしかに、魔女迫害は、ほとんど大多数の場合は誤
謬にもとづくものである。そうはいってもわれわれは、祖先の人びとが、じつはなにごとでもな
い犯罪をあのような残忍なきびしさで何世紀にもわたって迫害するほど眩惑されていたとは、考
えるべきではあるまい。こうした観点からすれば、今日にいたるまで、すべての国において、な
ぜ民衆がある種の病気をがんこに「妖術」のせいであるとし、かたくなにこの考えを変えよう
としないのかがわかってくる。――したがって、たといわれわれが時代の進歩の波に乗って、例
の悪名高き技術の一部を過去数世紀におけるように無益・無価値なものと考えないとしても、
ネッテスハイムのアグリッパ、ヴィールス、ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトらの
著作にふんだんに見うけられるような、いんちき、いかさま、でたらめのごみ箱から、一条の真
理を見いだそうとするときには、他のどんな場合よりも用心が必要である。なぜなら、世界いた
るところにある嘘いつわりでも、自然の法則から離脱し、ひいては自然の法則が廃止されたと宣
言されるところほど、自由に闊歩できる場所はないからである。したがってわれわれは、同じ魔
術でも真であるとされるわずか少数の魔術の貧弱な基盤の上に、このうえもないほどひどい冒険
で埋められた童話と、とてつもないしかめっつらの装飾がついた天までとどくような高い魔術と
いう高層建築が立っているのを見ることになる。しかもこうした魔術のおかげで、血なまぐさい
残忍さが、数世紀にわたって大手を振って行なわれてきた。このように観察してくると、まった
く信じられないそれこそ無限に無意味なことを人間の知性が受け入れている点や、こうしたもの
をひたすら残虐・非道な行動によって封じこめようとする人間の心のあり方を、ぜひ深く心理学
的に研究してみなくてはなるまいという気持ちになる。
0309幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/12(月) 15:49:44.150
 今日のドイツの学会で魔術にかんする判断を変化させたものは、ただたんに動物磁気だけでは
ない。こうした判断の変化は、この分野でも他の分野でも、根本的には、ドイツ人の教養と他の
ヨーロッパ諸民族の教養とのあいだに基本的な区別を立てたカントによる哲学の変革によって、
準備された。――すべての秘密の感応、あるいはあらゆる魔術的作用を一笑にふすためには、世
界のことをすべて、すみからすみまで、ことごとく承知していなくてはならない。それにもかか
わらず、およそ平板なまなざしでしか世を見ることができない者が魔術的作用を馬鹿にしてい
る。こうした連中は、われわれがもろもろの謎と不可解な事柄の海中に沈んでおり、直接、事物
についてもわれわれ自身についても、根本的にはなにも知っていないし、わかってもいないとい
うことについての予感すらもちあわせていない。こうした平板な考え方にまっこうから対立する
事実がある。それは、偉大な人物には、そのほとんどすべてが、時代と民族の相違にかかわりな
く、一種の迷信家の傾向があったことである。もし通常の認識方法がわれわれに物自体を、した
がって、物と物のあいだの絶対的に真実な関係や関連を提供してくれるものであったとすれ
ば、もちろんわれわれは、未来のことにかんする予知のすべて、不在の者、死の床にある者、い
わんや死者が出現することのすべて、それに魔術的作用を、ア・プリオリに、したがって無制限
に非難する権利があるであろう。ところが、もしカントが教えるように、われわれが認識するの
は単なる現象であり、その形式・法則は物自体にまで及ばないのであれば、いま述べた魔術作用
などに対する非難が行きすぎであることは明らかだ。それというのも、こうした非難が依存して
いる法則の先験性は法則のあてはまるところを現象界だけに限っており、これに反し、われわれ
自身の内的な自我が属している物自体には法則は無縁だからである。
0310幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/12(月) 16:12:35.670
しかし、物自体もわれわれと関連があり、そうしたものから前述の不可思議な過程が発生する。した
がってこれらの過程についてア・ポステオリに決定をくだすことはできても、まえもって先取するこ
とはできない。イギリス人やフランス人がア・プリオリを排斥するにさいしてこうした過程に固執す
るのは、もともと彼らが本質的にはロック哲学に従属しているからである。ロック哲学に従えば、わ
れわれは、たんに感官の感覚を除去しさえすれば物自体を認識できるのである。そういうわけで、物
質の世界の法則は無制限にあてはまり、身体と魂、物質と精神の交互作用以外のなにものをも認め
られないことになる。そこで彼らはたしかに物理学は信用するけれども、形而上学は信用せず、
したがって、いわゆる「自然魔術」以外のものをもちあげることはない。ところが「自然魔術」
という表現は「超自然物理」と同様に、「形容詞における矛盾」である。そして後者がただいち
ど冗談としてリヒテンベルクによって用いられただけなのに反し、前者は、何度ともなく、しか
も大まじめに使用されてきた。これに反し大衆は超自然的な影響一般をつねづね信奉しており、
たしかに感じたままではあるけれども独特な方式で、われわれが知覚し理解するものは単なる現
象であって、物自体ではないという確信を表明している。こうした言いまわしが行きすぎではない
ことを、次のカント『道徳形而上学の基礎づけ』の一節が保証してくれるであろう。「ここにひ
とつの考え方がある。これをうちだすには、ことさらに微妙な熟考を必要としない。およそ平板
な分別しかもちあわせていない者でも、それなりの仕方で、感情とふつう言われているあいまい
な判断力を行使することによって、こうした考え方をつくりあげるといってもよいだろう。
0311幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/12(月) 20:53:13.040
ではそれがどんな考え方かというと、われわれの恣意なくしてやってくるすべての表象(感官の表
象のようなもの)は、対象がわれわれを触発するのと別の方式で対象をわれわれに認識させること
はないし、そのさい、対象がそれ自体で何であるかは、われわれには不可解なままであるという
ことだ。それとともに、この種の表象にかんしていえば、われわれが悟性の提供しうるかぎりの
注意力と明瞭さをいかに駆使しようとも、単なる現象の認識に到達するだけで、けっして物自体
に達することはできない。そしてこうした区別が一度なされるやいなや、現象の背後に、現象で
はないなにか別のもの、すなわち物自体を認め、これを受容しなくてはならないという考え方で
もある」(第三版一〇五頁)。

 D・ティーデマンの『魔術の起源問題についての講義』という表題をもつ魔術史(マールブル
クで一七八七年に出版され、ゲッティンゲン学会から懸賞金を受けた論文)を読むと、いついか
なる土地でも、多くの失敗にもかかわらず人類が魔術思想を執拗に追求してきたのに驚かされ
る。そしてこのことから、そもそも魔術思想とは、事物一般とはいわないまでも少なくとも人類
の本性に深く根ざしでおり、けっして勝手に考えだされた気まぐれではないことが推し測られ
る。魔術の定義は著述家によってさまざまだが、根本思想はけっして誤りとされることはない。
すなわち、いつの時代でもどこの国でも、事物の因果の結びつきをつうじてこの世に変化をもた
らそうとする規則どおりの方式のほかに、因果の結びつきにはまったく依存していない別種の方
式がほかに存在しているにちがいない、という考え方が生まれた。
0312幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 07:51:12.530
しがたって、その手段を第一の方式の意味において理解しようとするならば、これは明らかに不合理
このうえもないやりくちのように思われる。それというのも、これぞと意図した結果を生むために用
いられている原因がそれこそ不適当であることが明らかであり、原因・結果のあいだの結びつきが不
可能だからである。ところがこうした方式には、じつはこれから述べるようなさまざまな前提がある。
まず、「物理的な結びつき」もとづくこの世における諸現象間の結合のほかに、すべての事物の本質
を貫く別種の結合があるはずである。これは一種の地下の結合であって、これによって、直接現
象の一点から、他の一点に、形而上学的な結びつきをつじて作用することができる。したがっ
て、事物への内部からの作用においては、外部からの作用とはちがって、すべての現象にわたっ
て同一なる本質それ自身をつうじての現象から現象への作用が可能であるに相違ない。われわれ
が「創造された自然」として因果的に作用するように、われわれは「創造する自然」として作用
することもできるであろう。そして一瞬間、小宇宙を大宇宙としてうちだすことができるだろ
う。固体化と分離の壁はたしかに厚いものがあるが、それでも、いわば舞台裏で、あるいはテー
ブルの下での手品のように、ときには一種の伝達が行なわれる。たとえば夢遊症患者の透視で
は、個人個人によって認識が孤立されているような状態が消滅するのと同様に、個人個人に
よって意志が分断されているありさまがなくなることもありうるのだ。こうしたさまざまの前提
や考え方は、経験にもとづいて発生したものでなければ、たしかにあらゆる時代をつうじてすべ
ての国で保持されてきたとはいえ、経験によって確かめられたわけでもない。
0313幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 08:42:53.710
なぜなら、ほとんどの場合、経験はこうした考えとは逆の姿を見せるからである。したがってわたし
は、全人類をつうじてきわめて一般的に普及しており、もろもろの経験や、通常の人間の分別とはあ
からさまに対立しながらもの、けっして消滅させることのできないこうした考えたかは、きわめて深
いところ、すなわち意志自体の全能さについての内的感情に求められなくてはならないと考えている。
この意志たるや、人間の内的本質であるとともに全自然の内的本質である。またこうした考え方
は、それに結びついた前提、つまり、意志の全能さはいつか、なんらかの方法によって個体から
も発動されるという前提のなかに、求められるべきであるとわたしは考えている、物自体である
意志にとって、そして意志の個々の現象のなかにおいて、いったいどのようなことが可能である
かを探求し分析することはできない。ただ容認できるのは、意志が、ある状況下においては、個
体化の制限を打破することもありうることだ。なぜなら、これまで述べてきた例の感情は、経験
から押しつけられた認識に執拗に反抗し、次のような詩句となって出てくるからだ。

  わたしの胸のなかに住む神は、
  わたしの最も内なるものを深くゆり動かすことができる。
  わたしのすべての力を越えて座を占める神でも、
  なにものをも外から動かすことはできない。

 このようにして展開された根本思想にしたがって、われわれは、魔術のためのあらゆる試みに
おいては使用される物理的手段がつねに形而上的なるものの伝達物であるとみなされたことを
発見する。それというのも、そうでなくしては、明らかにこうした物理的手段は意図した結果へ
の関係をもちえないからである。ともあれこうした手段としては、外国ふうの言葉、象徴的なし
ぐさ、図型、それに蝋人形などがあげられた。しかも例の本源的な感情にしたがって、われわれ
は、こうした伝達物に担われたものは、とどのつまり、つねに、人びとがそれに結びつける意志
の行為であることを発見する。これについてのきわめて自然な契機は、人びとがおのれの身体の
動きのなかに、あらゆる瞬間において、完全に説明不能の、したがって明らかに形而上学的意志
の影響を知覚することであった。
0314幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 15:53:28.840
人びとは、こうしたものは他人の身体にまでひろがってゆくことができないだろうかと考えた。
そのための方途を見いだすこと、すなわち、あらゆる個人において意志がおかれている孤立を廃止
し、直接の意志の領域を、意志する人の身体を超越して拡大させることこそ魔術の課題であった。

 そうはいうものの、もともと魔術を発生させたものであるように思われるこうした根本思想
が、ただちに明らかな意識に移行して抽象的に認識され、さらに魔術がおのれ自身をいちはやく
理解するということは、なかなかならなかった。以前の各世紀における主体物に物を考える博
学な著述家のなかだけに、やがてわたしが実例をあげて示すように、意志自体のなかに魔術的な
力が存在しており、悪霊を招きよせたり結びつけたりする手段とされている奇想天外なしるしや
行為、またそれらに随伴する意味のない言葉は、じつは意志の単なる伝達物であり固定手段であ
るといった、はっきりとした思想をもっていたことが見いだされた。さらにそれによって、魔術的
に作用すべき意志行為は、単なる欲望であることをやめて行為となり、(パラケルススが言うよ
うに)「肉体」を獲得し、そのうえ個人の意思についてのいわば明白な説明が行なわれ、個人の
意志はいまや一般的な意志そのものとして力を発揮するようになったことも発見された。なぜな
ら、あらゆる魔術的行為、感応療法、あるいはその種のものにおいては、外的行為(結合手段)は
磁気療法におけるおさすりと同じであって、もともと本質的なものではなく、唯一の本源的な動
因である意志が物質世界へ向かう方向・行くえを定め、これを現実界に出現させるための伝達物
にすぎない。――
0315幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 17:24:17.320
 あの時代の他の著述家にあっては、例の魔術の根本思想に即して、ひたすら勝
手に自然に対する絶対的支配を実行しようという目的だけがはっきりしている。しかし、こうし
たことは直接的であらねばならないという思想を彼らはうちだすことはできず、ただいちずに間
接的な方途ばかり考えていた。なぜならいたるところで、諸国の宗教は、自然を神々と悪霊の
支配のもとに置いたからである。彼らをおのれの意志どおりに操縦し、使役に従わせるべく強制
しようというのが魔術師の努力であった。自分にとってうまくいってほしいことを、魔術師は神
々や悪霊のせいにした。その間の事情は、かのメスマーがはじめおのれの磁気療法で成功をおさ
めたとき、その原因を真の動因であるおのれの意志ではなく、手にもつ磁石の棒であるとしたの
と同じである。かくしてこのことは、多神教を信ずるすべての民衆に受け入れられた。そして、
プロティノス、とくにイアンブリコスは魔術を神的秘術(トイルギー)として理解したが、こう
した表現をはじめて用いたのはポルピュリオスである。こうした解釈にとっては、多神論という
この神の貴族政体が好都合であった。それというのも多神論は、自然のもろもろの力についての
支配を、少なくともその大多数が人格化された自然力である神々や悪霊に分配しているからであ
る。これによって魔術師は、あるときはこの神、またあるときはあの神をおのれのために獲得し
たり、あるいは使いこなすことができた。ところが全自然が唯一者に服従する神の君主制におい
ては、この唯一者と個人的に同盟を結ぶばかりか唯一者を支配しようと欲することは、あまりに
も大胆すぎる考えであろう。したがって、ユダヤ教、キリスト教、あるいは回教が支配するとこ
ろでは、前述の解釈に対して唯一神が立ちはだかり、これに対しては魔術師としてはなすすべも
なかった。
0316幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 18:03:58.270
魔術師は、自然に対していぜんとしていくらか権力をもっているこうした反逆者、あるいは、アリマン
なる悪魔の直接の子孫と同盟を結び、これによってそうしたものからの援助を確実にした。これが
「黒い魔術」である。それではこれに対立する白い魔術とはどんなものかというと、魔術師は悪魔と
親交を結ばず、天使に頼んで唯一神の許可あるいは協力すら求め、たとえばアドナイといった奇妙な
ヘブライ語の名前や題目をしばしば唱えることによって悪魔を呼びだし、悪魔に対してはなんの約束
もしないのにもかかわらず、悪魔に服従を強いるのである。――これが地獄の強制である。――
しかも事物についてのこれらの単なる解釈や表現は、いずれも事物の本質であり、客観的な過程
であるととられた。したがってボディヌス、デルリオ、ビンズフェルトといった、魔術をみずか
ら実施せず他人から聞きかじっただけの著述家のすべては、魔術の本質を、自然力に依存したり
自然の道程を通るのではなく、ただ悪魔の援助によってだけ作用するものであると定義した。たし
かに、場所により、支配する宗教によってニュアンスのちがいはあるけれども、どこでもこうし
た考え方が一般的にあてはまるものと認められたし、いまでもそうなっている。しかもこうした
考え方が魔法使いを禁止する法律や魔女裁判の基礎であった。それと同様に、魔術の可能性を主
張しようとする者は、ふつうこうした考え方に挑戦した。しかし、この問題についてのこうした
客観的な理解や解釈は、古代や中世にヨーロッパで勢いをふるいデカルトによってはじめてゆさ
ぶられた決定的な現実主義のために、当然のことながら、出現せずにはすまされなかった。
0317幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/13(火) 21:57:42.620
それまでは、人類はおのれの内部の秘密に満ちた深奥には理論を展開しようとはせず、すべてをおの
れ自身の外に求めた。そして、おのれのなかに見いだした意志を自然の主人とすることは、当時
の人びとにとってあまりにも大胆すぎる考えであり、もしそうしたものに直面すれば、きっと驚
いて腰を抜かしたであろう。したがって人びとは、意志を虚構の実在に対する主人とした。当時
の支配的な迷信は、意志を少なくとも間接的に自然の主人とするために、自然に対する力を意志
に認めていた。さらにありとあらゆる種類の悪霊や神々は、形而上学的なるもの、すなわち、自
然の背後に横たわり、信者に存在と力を与え、したがって彼らそのものを支配することになるも
のを、人種や党派をとわずすべての信者につねに理解させてくれる基礎である。そういうわけ
で、魔術が悪霊の助力によって作用すると言われるときは、こうした考え方の基礎にはつねにい
ぜんとして、魔術は物理学的ではなく形而上学的な道程をつうじて作用するのであり、また自然
ではなく超自然の作用なのだという意味がある。しかし、われわれが魔術が現実にあることを保
証するいくつかの事実、つまり動物磁気と感応療法のなかに、ほかのときはただ欲望をもつ個人
の内部で勢いをふるうだけだが、これらの場合には欲望をもつ個人の外部にも直接、勢いをふる
う意志の直接作用を認識するとき、さらにまた、わたしがまもなく示すように、そして決定的に
はっきりとした実例をつうじて確かめられるように、古い魔術に通じた人びとは魔術のすべての
作用をただ魔術師の意志だけから導きだしたことを観察するとき、これらのことはすべて、形而
上学的なるもの一般、つまりただ表象の彼方にのみあるもの、世界の物自体は、われわれがおの
れの内部に意志として認めるものにほかならないというわたしの学説を、強力に、しかも経験的
に確かめてくれる。
0318幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/14(水) 13:14:11.970
 例の魔術師たちが、意志がときたま自然に対して行使する直接の支配を、たんに間接的な悪霊
の援助によるものと考えたとしても、一般にこうしたことが生起したことが見いだされさえすれ
ば、なにも問題の作用を妨げるものとはならなかった。なぜならこの種の事物においては、意志
はその本源性において、したがって表象とは分離して活動するために、知性の誤った概念が意志
の作用を妨害することはなく、理論と実践がここでは渾然一体となって分離しないからである。
理論が誤っていても実践の邪魔にはならないし、正しい理論も実践には役立たない。メスマーは、
はじめおのれの作用を手に持った磁石の棒のせいであるとし、そののち動物磁気の奇蹟を唯物論
の理論にしたがい、万物に浸透する微妙な流体によって説明したが、それにもかかわらずメスマ
ーの作用は驚くべき力を発揮した。わたしの知っているある地主のところで働いている農夫たち
は、昔から、彼らのあいだで熱病が流行しても、慈愛あふるるご主人のおまじないで治してもら
えるという習慣があった。地主としては、この種のことがすべて不可能であることを確信してい
たけれども、好意にもとづいて、伝統的な方式を用い、農夫たちの意志に従ってきた。するとし
ばしばすばらしい効果をあげた。地主は、農夫たちの深い信頼感のおかげで生じた効果だとおもっ
たが、同じようにまったく効力のない薬がしばしば、信頼感をもつ多くの患者の治療に役立って
いるにちがいないことを、考えてみようともしなかった。

 前述したように、大多数の者にとっては、神的秘術や悪魔学が事物の単なる説明、衣裳、単な
る外殻にとどまるとしても、事物の内部を見ぬき、なんらかの魔術的影響下に作用するものは
まったくもって意志にほかならないことをじゅうぶんに認識した人びとがいないわけではない。
しかし、このように深い洞察を行なった者は、魔術とは無縁であるばかりか魔術に絶対的な態度
をとる人びとのあいだには、見うけられない。
0319幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/14(水) 14:21:59.110
しかもこうした縁なき衆生が、大部分の魔術にかんする書物の著者なのだ。彼らは魔術について、たんに
魔女裁判の記録や証人の喚問をつじて知っているだけであり、したがって、たんい外面的なことしか記述
せず、本来の訴訟手続きのなかで被告の自白をつじて明らかにされたことは、魔術使用による恐るべき犯
罪を普及することになるとして黙して語らない。ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトあはこの
種の徒輩である。これに反し、われわれがこの問題の真の本質についての鍵を求めるべき人びとは、迷信
が勢いをふるったあの時代の哲学者や自然探究者である。しかし彼らの陳述には、魔術について
も、動物磁気についても、真の動因は意志にほかならないことがきわめて明瞭に示されている。
このことを敷衍するために、二、三の引用をしなくてはなるまい。ロジャー・ベーコンはすでに
十三世紀に次のように述べた。「だれか悪意をもつ人間が、はっきり他人を害そうと考えるとき、
しかもその人間がはげしくこれを願ったうえに、おのれの意図を明らかにこれにさしむけつつ相
手を真に害することができると確信するとき、自然がその人間の意志に服従するであろうことは
疑う余地がない」(『大著作』ロンドン、一七三三年、二五二頁)。しかし魔術の内的本質につい
て他のだれよりも多くのことを解明し、さらに裁判の訴訟手続きについて詳細に記述することを
恐れなかった人は、ほかならぬテオフラストゥス・パラケルススである(一六〇三年、シュトラ
ースブルクで刊行されたフォリオ版第二巻の著作集。とくに第一巻九一頁、三五三頁以下および七
八九頁、第二巻三六二頁および四九六頁)。彼はまず第一巻一九頁で次のように述べている。
0320幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/14(水) 15:17:05.060
「これを蝋人形について見るがよい。もしわたしが自分の意志のなかに、ある他人に対する敵意を
いだいたとしよう。そのとき敵意は、ある媒体つまりなんらかの物体をつうじて実行に移されねば
ならない。したがって、わたしの精神が、わたしの身体のたすけを借りずとも、わたしの熱心な
欲望をつうじて、わたしの剣で他人を刺したり傷つけたりすることもありうる。さらにまた、わ
たしがおのれの意志によって、わたしの敵の精神を人形のなかに具現させ、これをわたしの好き
なように曲げたりこわしたりすることも可能である。……諸君は、意志の作用は医学のなかの重
大な点であることを知るべきである。なぜなら、ある人物に好意をもたないばかりか憎んでいる
者の呪いが実現することは、可能だからである。なぜなら、呪いは精神の曇りから生ずるから
だ。したがって、像が、病気等々になるように呪われることもある、等々。……これらの作用は牛
のなかにも生ずる。しかもその場合は人間よりもずっと容易に生ずる。なぜなら人間の精神は、
牛の精神よりもずっと強く反抗するからである。」

 三五七頁。「このことから像が他人を魅了するということが出てくる。性格の力や同種のもの
からでも、蝋製のマリア像からでもなく、想像力がおのれ自身の星座を克服するために、想像力
はおのれの天の意志、つまりおのれの人間を完成させる手段となる。」

 三三四頁。「人間のすべての想像力は心臓から来る。心臓は小宇宙における太陽である。そし
て小さな小宇宙の太陽から来る人間の想像力は、物となるものの種子である、等々。」
0321幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/14(水) 16:06:33.000
 三六四頁。「諸君は、すべての魔術の仕事の発端である厳格な想像力が行なうことをよく知っ
ている。」

 七八九頁。「したがってわたしの思想は、ひとつの目的を洞察することである。わたしはおの
れの手を用い、眼を目標に向けることはできない。こういうことを、わたしの欲するがままにし
てくれるのは、わたしの想像力である。したがって、歩行についても理解すべきことがある。す
なわち、わたしは歩きたいと欲し、そのように決心するために、わたしの身体も動く。わたしの
考えがしっかりしていればいるほど、わたしはさきへ進む。そうしたわけで、想像力だけがわた
しの歩行を動かすものである。」

 八三七頁。「わたしに敵対して用いられる想像力は、わたしが他人の想像力によって殺される
かもしれない以上、慎重に用いられるべきである。」

 第二巻では二七四頁に次のように書いてある。「想像力は欲望と欲情からなる。欲望はねたみ
や憎しみを生じる。なぜなら、こうしたものは自然に生ずるのではなく、諸君がこうしたものに
ついての欲望をもつからである。そこで諸君が欲望をもったとすると、それにつづいて想像力の
いとなみが行なわれる。こうした欲望は妊婦の欲望のように、せっかちではげしく、しかもすば
やい、等々。……ふつうの呪いは一般に実現する。なぜだろう? 呪いは心臓からやってくる。
そして、心臓からやってくるということのなかで、精子ができ生まれてくる。したがって、父の
呪い、母の呪いも、やはり心臓からやってくる。貧しい人びとの呪いもややはり想像力の所産であ
る。等々。囚人の呪いもまた想像力の所産で心臓からやってくる。
0322幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/14(水) 20:15:12.700
……こうしたわけで、だれでも、他人をおのれの想像力をつうじて突き刺し、かたわにしようと
するときは、その人間は物と道具をまずおのれのなかにかかえこまなくてはならない。そのあと
その人間はこれを外に放出してもよい。なぜなら、いったん中にはいったものは、たとい思考の
なかであろうとも、あたかもそれが手を用いて行なわれたのと同じように、再び外に出てゆくこ
とになるからだ。……女は男よりも、こうした想像力においてはずっとすぐれている。……それ
というのも、女は報復において男よりも強烈だからだ。」

 同じく二九八頁。「魔術は、ちょうど理性がおおやけの偉大なる愚劣さであるように、偉大な
る隠された賢知である。……魔法に対しては、いかなる鎧を着ても身を守れない。なぜなら魔法
は人間の内なるもの、生命の精神をそこなうからだ。……いくたりかの魔法使いは彼らが心にか
けた人間の形をした像をつくり、釘をその足の裏に打ちこむ。すると当の人間は不可視のものに
打たれ、像から釘が抜きだされるまでずっとそのままでいる。」

 三〇七頁。「われわれは、ただ信仰と強力な想像力によって、あらゆる人の精神をひとつの像
のなかにもちこむことができるということを、知るべきである。……これにはなんらの誓いもい
らない。しかも儀式、円を描くこと、香を焚くこと、封印をすること等々はいずれも純粋の猿ま
ね、まどいにすぎない。……「小人間」と像がつくられる、等々。……そのなかでは人間のすべ
ての作業、力、意志が完成する。……人間の心情は偉大なるものであり、だれでもこれをはっき
り表現することはできない。神そのものが永遠であり不変であるように、人間の心情も永遠であ
り不変である。もしわれわれ人間がわれわれの心情を正しく認識しうるならば、この地上に不可
能なことはないであろう。……星からやってくる完全な想像力は、心情のなかに発生する。」
0323幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/15(木) 11:15:34.430
 五一三頁。「想像力はなにかがほんとうに起こるのだという信仰によって確かめられ、完成す
る。なぜなら、あらゆる疑念は仕事をこわすからだ。信仰は想像力を証明しなければならない。
それは信仰が意志を完結するからである。……しかし人間がつねに完全に想像し、完全に信仰す
るということから、技術はたとい完全・確実なものであるとしても、やはりあてにならぬものと
いわねばならない。」――この最後のくだりの説明のためには、『精神と魔術の意味について』の
カンパネッラの著書の一節が役立つであろう。「外からの影響によってただ〔できないと〕信ずる
だけでその人の生殖行為がはたされないようなことが起こってくる。なぜならその人は、自分が
実行できると信じられないことを実行することができないからである。」(第四巻・第一八章)

 同じような意味のことを、ネッテスハイムのアグリッパが『哲学の神秘について』のなかで次
のように述べている。(第一巻・第六六章)。「身体は、他人の身体の影響と同様に、他人の精神の
影響下におかれている。」さらに第六七章にはこう書いてある。「強力な憎しみを感じ命令する精
神は、害を与え破壊する作用をもつ、この間の事情は、精神が〔きわめて〕強力な欲求をかかえて
いる場合にも、つねにあてはまることである。なぜなら、精神が文字、像、言葉、〔会話、〕態度な
どをつうじて行ないかつ命令するものすべてが魂の欲求を支持し、ある種の不可思議な力を獲得
するからだ。それは、この瞬間そうした欲求が魂をとくに満たしたとき作用すべく〔つとめる〕よ
うな力であることもあるし、精神をこうしたゆさぶりにもちこむような天からの〔機会および〕影
響の側から生ずる力であることもある。」――つぎに第六八章はこう述べている。「人間の精神
には、事物や人間を規定し、さらにこれらを精神が欲することに結びつける力が内在している。
そして精神が、おのれの結びつけたものを克服するほどなんらかの情熱ではげしくゆさぶられる
か、あるいは行動力を発揮するとき、すべての事物は精神に服従する。この種の結びつきの原因
は、魂自体のはげしい無制限の興奮である。」
0324幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 12:24:42.080
 またこれと同じようなことを、ユリウス・カエサル・ヴァニヌスが、『隠れた自然の驚異につ
いて』(第四巻・対話五、四三四頁)で次のように述べている。「精神と血液が服従するはげしい
想像力は、表象のなかでとらえられた事物を実際に表現させることができる。それは、内である
と外であるとをとわない。」

 これと同じように、ヨハン・バプティスト・ヴァン・ヘルモントは、魔術において意志を強調
するために、悪魔の影響をっできるだけ値引きしようとさかんに努力した。彼の著作の集大成であ
る『医学提要』から、個々の著作名をあげながら、その一部を紹介してみよう。

 『注射の処法』第一二節。「なんとしても自然の敵(悪魔)は、自分自身ではなにごともなしえ
ないために、女魔術師のなかにはげしい欲望と憎悪の観念を植えつける。こうした精神的・恣意
的な媒体をかりておのれの意志を転移させた悪魔は、すべてに影響を与えようとする努力をする。すな
わちこのために彼は、欲望と恐れの観念をあわせもつ呪いを、最高にいまわしい豚どもに植えつ
ける。――第一三節。「なぜなら例の欲望は空想力における情熱に等しいため、まったく空虚で
はなく、実際に作用し、魔法をひき起こす表象をも生みだすからだ。」――第一九節。「すでに述
べたように、魔法をかける主な力は、女魔術師の自然の表象によって拘束されている。」

 『物質の注射について』第一五節。「女魔術師はその自然な性格からして、想像力のなかに、恣
意的、自然、かつ有害な表象を形成する。……女魔術師は彼女らの自然な力によって作用する。
……人間は自分自身のなかから人をまどわす異様な、流出し命令する媒体を放出する。この媒体
がはげしい欲望の表象である。欲望とこれが欲求されたもののほうに動いてゆくこととは不可分
である。」

 『感応療法について』第二節。「すなわち欲望の表象は、たとい対象が距離的に遠くにあろうと
も、天を通る影響の道を経て大正のなかにはいりこむ。なぜなら、こうした表象は、特別な対象
のなかに向かう欲望によって操縦されるからだ。」
0325幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 18:31:49.560
『隠れた自然の驚異について』四四〇頁。「アヴィケンナの言をかりれば、ラクダを倒そうと強力に思考
するだけで、その目的を達することができる。」また同書四七八頁で、彼は紐でつくった細工物について
次のように言う。「こうした魔術が使われると、だれしもが女と同居することはできない。」さらにつづ
けて述べるには、「ドイツでわたしはいわゆる死者をよびだす者たちと語りあったが、彼らははっきりと、
民衆が悪霊について伝えることは単なるおしゃべりの生んだ考え方にすぎないと言った。しかし彼らは自
分では、ある種の草木を用いて空想力をゆさぶったり、彼らが考えだした最高に愚劣な呪文に対する強
い信仰と想像力によってなにごとかをなしうると明言した。それも無知な女たちにこうした呪文を教
えたときに起こるのだが、女たちとしては、あの種の祈りの言葉をうやうやしく述べると、ただちに魔
術が行なわれると信じきっている。なんとしても物事を信じやすい女たちがしんそこから呪文の言葉を述
べると、彼女たちがみずから信じているように、言葉や文字の力によってではなく、彼女たちが魔術を
かけようというはげしい欲望に燃えて吐きだす(精気に富んだ)息によって、彼女たちのそばにいる者
どもが魔術をかけられてしまうことになる。そういうわけで、おのれにかんすることでも他人にかん
することでもよい。死霊を呼びだすことにたずさわる者が単独で仕事にかかるときは、不可思議なこ
とはけっして起こらない。それというのも、彼らには、なしとげようとう信仰がなにもないからだ。」

 『磁気療法について』第七六節。「したがって、血のなかにはある種の弾力があって、これが燃
えるような欲望になってゆさぶられると、外的人間の精神をつうじて、現在はそこにないなんら
かの対象のほうに導かれる。この弾力は外的人間には隠されているが、いわば潜在的に存在して
り。そして、この弾力は、想像力が燃えさかる欲望あるいは類似の手段によってたきつけら
れ、みずからもゆさぶられないときには、実効がない。」――
0326幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 21:10:52.680
第九八節。「完全に精神である魂(つまり肉体的である)が生の息吹、さらに骨や肉を動かしたり
ゆさぶったりするためには、次のような状態にならねばならない。すなわち、魂に内在する力で魔
術的・精神的なるものが、魂から精神や肉体のなかに下降してゆく状態になることである。いかな
る方式によって肉体的精神が魂の命令にしたがうのか、それも、精神とそれにつづいて肉体を動かす
こうした命令が存在しなかったとしたらどうなるかを、言ってほしい。しかし諸君はただちに、こう
した魔術的な運動力について、こうした力がそれ自身の自然な住家にとどまらねばならないことに反
発するだろう。したがって、われわれがこうした力を魔術的なものと名づけたとしても、これはただ
名称の悪用、誤用である。それというのも、本来の迷信的な魔術は、その基礎を魂から得ることがで
きないからである。なんとしても魂は、おのれの肉体の外部でなにものかを動かしたり、変化させ
たり、ゆさぶったりすることはできないであろうと、諸君は反論するであろう。これに対してわ
たしは次のように返答しよう。まず例の魂にとっては自然な、外部に向かって働きかける力と魔
術は、人間が神の似姿であるということによって、すでにひそかに人間のなかに隠されており、
いわば眠っている状態となって、(原罪を犯したあとは)ゆさぶりを求めている。しかしこうした
力と魔術は、たとい眠りこけており、いわば泥酔しているとはいえ、とにかくわれわれのなかに
つねに存在している。こうした力と魔術は、おのれの肉体のなかで機能を果たすぐらいのことは
やってのける。そうしたわけで、人間には魔術についての知識と能力があり、ゆさぶりを受ける
とこれが活動するようになっている。」
0327幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 21:41:02.810
第一〇二節。「したがって悪魔はこうした力を、彼と契約した者のなかによびさますことになる(こうした力は
普通眠っており、外に向かう人間の意識によって抑圧されている)。こうした力は、強者の手中にある剣のよう
に、魔女の手のなかで自在に用いられる。しかも悪魔は、ただ人間のなかに眠っている霊の力をよびさますこと
だけによって現実の殺人に関与している。」――第一〇六節。「魔女は遠くへだたったところにある厩の馬を殺
すことができる。一種の自然の作用力が、悪魔からではなく魔女から放出される。魔女は馬の息の根をとめ、首
をしめて殺すことができる。」――第一三九節。「わたしは磁気の守護霊を、天からくだってきた霊だとしたこ
とはない。まして地獄からやってきた霊などを問題にしていない。こうした守護霊は、小石のなかに火が発生す
るように人間のなかに発生する。すなわち人間の意志によって、影響力の大きい生命の霊からそのごく一部が取
りだされる。そしてこの一部の霊が理想的な本体となる。つまりおのれを完成するためにいわば一つの形をとる。
こうした本体となった、つまりは形の完成したあとでは、霊は一種肉体的なるものと非肉体的なるものと
の中間の状態になる。しかしこの霊は、意志が操縦するところにはどこにでも向かってゆく。霊
の理想的な本体は……場所、時間、距離といった制限によってなんら妨げられない。これはけっ
して悪霊やその種のものの作用ではなく、われわれにもたいへんなじみがあり親しい人びと、し
かしこうしたものに打たれた人びとの精神的作用である。」
0328幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 22:24:40.930
第一六八節。「このような巨大な秘密を明らかにするために、わたしはこれまで次のようなことを、手に
とるごとくわかるようにすべくつとめてきた。すなわち、人間のなかには一つの精力があり、そのおかげ
で人間は、単なる意志と空想によっておのれの外部に作用し、ある種の力を発揮することができる。さら
には、持続しつつ、たとい遠くはなれたところにも到達できる影響力を行使することが可能である。」

 さらにポンポナティウスも、(著作集所載の『魔力』一五七六年、四四頁で)次のように述べ
ている。「そうしたわけで、この種の力を自由自在に駆使する人びとが出現することになる。こ
の種の力が想像力と欲望の力によって実際に行使されることになると、そうした作用力は現実に
あらわれ、血と精神に影響してくる。この種の力は蒸発によって外部に働きかけ、同種の作用を
ひき起こす。」

 この種のきわめて注目すべき謎ときを、イギリスのクロムウェル時代における神秘的な女神知
学者で幻視家のポーデージの女弟子ジェーン・リードが行なっている。彼女はまったく独自の道
を歩んで魔術に到達した。おのれの自我とおのれが信ずる神との合一を教えるのがあらゆる神秘
家の持続的な基本であるが、ジェーン・リードもそのひとりであった。しかし彼女の場合には、
人間の意志と神の意志との合一の結果、人間は神の全能にも関与し、これによって魔術的な力を
得るにいたったとする。したがって他の魔術師が悪魔との同盟に負うと信じているものを、彼女
はおのれの神との合一のおかげであるとした。そこで彼女の魔術は、すぐれた意味において白い
魔術である。そうはいっても、このことは、結果や実践においてなんらの区別をなすものではな
い。彼女の魔術も、当時としては当然のことながら控え目であり、しかも秘密に満ちていた。
0329幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 23:15:55.720
だが彼女の場合には、魔術が単なる理論の所産ではなく、理論以外の知識や経験から発生したもの
であることがうかがわせる。主要な個所は『啓示のなかの啓示』(ドイツ語訳は、アムステルダム
で一六九五年に出版された)の一二六頁から一五一頁まで、とりわけ、「放出された意志の力」と
いう題がついたあたりに見うけられる。ホルストは、『魔術文庫』第一巻三二五頁以下にこの本の
一部を転載したが、それは一一九頁(第八七および八八節)についての言葉どおりの引用ではな
く、むしろ一種のまとめとなっている。「魔術的な力は、これを所有する者を創造主の状態にお
く。つまり、こうした者に植物=動物=鉱物界を支配させ、更新させる。したがって、一者のな
かで多者が魔術的な力を共同して用いることになれば、自然は楽園のように変化させられるこ
とになろう。……われわれはいかにしてこうした魔術的な力に到達できるだろうか? それは、
信仰をつうじての新生によって、つまりわれわれの意志と神の意志との一致によって行なわれ
る。なぜなら、われわれの意志と神のそれとの一致の結果、パウロの言うように、すべてがわれ
われのものとなり、すべてがわれわれに服従せねばならなくなったあかつきには、信仰は世界を
われわれに隷属させるからである。」ホルストのいわゆる引用はこれまでである。――ジェーン・
リードの著作といわれるものの一三一頁で彼女は、キリストがおのれの奇蹟をおのれの意志の力
によって行ない、そのさいライ病患者に「わたしは清められることを望む」と述べたくだりを次
のように説明した。「しかし彼らが主に対する信仰をいだいていることが確かめられたとき、主
はしばしば彼らの意志に関与された。そのさい主は彼らに向かって、《わたしがおまえたちにし
てあげようと思うことを、おまえたちは欲するのか?》と言われた。こうして、彼らにとって最
善のこと、とりもなおさず彼らが彼らの意志のなかで、ひそかに、主にしていただきたいと願っ
ていることが行なわれた。
0330幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/15(木) 23:36:26.630
前述した救世主のこうした言葉は、たしかに注目に値する。それとい
うのも、そもそも意志が至高存在の意志と合一しているかぎり、最高の魔術は意志のなかにある
からである。人間の意志と神の意志が車の両輪のように進行し、いわば合体一致ということにな
れば、最高の魔術が出現してくる。」等々。――一三二頁では彼女は次のように書いている。「ど
うして神の意志と合致した意志に反抗することができようか? こうした意志はどんなところで
もおのれの企てを実行できる力をもっている。こうした意志は、おのれの衣裳や力を欠く裸の意
志ではない。こうした意志は克服されざる全能をそなえており、これによって、根こそぎ抜き
とったり、植えつけたり、殺したり、生かしたり、結んだり解いたり、病をいやしたり悪化させ
たりすることができる。そうした力はすべて堂々とした、自由となった意志のなかに集中し、ま
とめられている。さらにわれわれが精霊と一体となるか、あるいいはひとつの霊、本質として合体
したあと、われわれはこうした意志の認識に到達することになろう。」――一三二頁には次のよ
うに書いてある。「魂の混合した要素から生じた多くの各種各様の意志をわれわれはすべて蒸発
させるか、水中に沈めるか、奈落の淵に落とさなくてはならない。このような奈落からやがて処
女の意志が出現し、高くのぼってくる。こうした意志は、変質した人間にかかわりのある事物に
隷属することなどけっしてなく、完全に自由に、純粋に、最高・万能の力と結合し、けっして誤
つことなく万能の力と似た果実や結果を生みだすことになる。……かくて精霊の燃えあがる油が
生じ、そのなかから飛散する魔術の火花が燃えあがってくる。」

 ヤーコピ・ベーメも『六つの点の解明』のなかの第五点で、魔術をいまここで述べたのとまっ
たく同じ意味で語っている。とくに彼は次のように述べる。「魔術はすべての実在のなかの実在
の母である。なぜなら魔術はおのれ自身をつくり、欲望のなかで理解されるからだ。――真の魔
術は実在ではなく、実在の欲求する精神である。――結論をいえば、魔術は意志=精神における
行為である。」
0331幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/16(金) 00:53:38.170
 意志こそ魔術の真の動因であるとして展開された見解を、確証するとはいかないまでもとにか
く説明だけはしてくれるものとして、かのカンパネッラが『事物の感覚と魔術』第四巻・第一八
章でアヴィケンナにしたがって語った次のような奇抜な逸話がある。「数人の婦人が暇つぶしに
どこかの公園に行く約束をした。そのうちひとりはやって来なかった。そこで他の女たちは冗
談にオレンジを取りだし、これを鋭い針で突き刺しながら、次のように言った。《こうやってわ
たしたちは、いっしょに来ようとしなかったあの人を突き刺したのだわ。》そのあと彼女たちが
オレンジを泉のなかに投げ捨て、帰宅すると、不参加だった例の婦人が苦しんでいるのを見いだ
した。彼女は、女たちがオレンジを突き刺してからというものは、まるで鋭い針で体をつきぬか
れたような感じをもちつづけたのだ。彼女は、例の者たちがオレンジから針を抜きとり、彼女の
健康と発展を祈るまでは、たいへん苦しい思いをさせられた。」

 ヌカヒヴァ島で、未開人の僧侶が、殺人的魔術でいわゆる効果をあげているが、この場合のプ
ロセスは現代の感応療法と酷似している。このことについてのきわめて注目すべき詳細な記述を
クルーゼンシュテルンが『世界周航記』(一八一二年)のなかに残している(第一部二四九頁以
下)。――この記述は、ヨーロッパ的伝統とまったく隔絶した土地でもヨーロッパと同様に事が
とり行なわれていることを示していることからしても、とりわけ注目すべきである。この記述と
比較されるべきは、ベンデ・ベンドセンがキーザー編『動物磁気のための記録』の第九巻・第一冊
についての注釈の一二八〜一三二頁で述べたくだりである。ベンドセンは、切りとられた髪をつ
うじてその髪の持ち主に魔法をかけ、頭痛を起こさせたのだ。このことをあつかった注釈の末尾
に彼は次のようなことを述べた。「わたしが経験したかぎりにおいて、いわゆる魔法は悪意の意
志作用と結びついた障害を与える魔術的手段の準備と適用以外のなにものでもない。これこそ悪
魔とのいまわしい同盟である。」
0332幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/16(金) 12:38:16.260
 クルーゼンシュテルンは次のように述べている。「島民全員から重視されている魔術への
一般的信仰は、島民の宗教になんらかの関係があるように思われた。なぜなら、たしかに民衆の一部
の者は、おそらく他人におのれに対する恐怖心をいだかせて贈物を持ってこさせるために、秘密を保
持しているような顔をしているけれども、島民の話によれば、こうした魔術の力を駆使できるのは僧
侶たちだけだからである。彼らのもとでカハとよばれている魔法は、怨恨をもつ人間を緩慢なやり方
で殺すことである。それに必要とされる期間は二十日間である。そのさい、次のようなしくみで仕事
にとりかかる。すなわちおのれの復讐を魔法によってなしとげようとする者は、ねらった敵の唾液や
大小便を、なんらかの方法を用いて獲得しようとする。これが得られると粉末をまぜ、こうしてでき
た混合物を特別な方式で編んだ袋のなかに入れ、土に埋めるのだ。最も重要な秘密は、袋の編み方と
粉末のこしらえ方である。袋が埋められるやいなや、魔法をかけられた人間に対する作用がはじま
る。この人物は病気になり、日に日にやつれ、もろもろの力が失われて、二十日後には確実に死んで
しまう。逆に、この人間が敵の報復を妨げようとするならば、おのれの命を豚やなにかほかの重要な
贈物によって買いとるようにする。そうすれば、十九日目でも助かることができる。なんとしても袋
が土のなかから堀りだされさえすれば、おかしな病気はたちどころに退散するからだ。この人間は日
に日に回復し、数日後には完全な健康体に戻ってしまう。」
0333幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/16(金) 12:50:07.850
 これらの著作家がすべて相互に一致していることもさることながら、近年、動物磁気によって
養われた彼らの確信が、結局のところ、わたしの理論的教説にしたがって推し測られるものと一
致していることは、きわめて注目すべき現象である。この点については、成果を生んだかどうか
はともかくとして、これまで行なわれた魔術にかんするあらゆる試みが、わたしの形而上学の先
取りにもとづいていたことが確かである。それというのも、これらの試みのなかには、因果律は
たんに現象の紐帯であり、事物の本質そのものは因果律に拘束されないという意識、さらに、事
物の本質そのもの、したがって、内部から直接自然に働きかけることが可能であるならば、そう
した働きかけは意志そのものをつうじてのみ行なわれるという意識が表明されているからだ。し
かし、もしここでベーコンの分類にしたがって魔術を実用的形而上学と定めるならば、この形而
上学と正しい関係にあるべき理論的形而上学は、世界を意志と表象とに分つわたしの方式以外の
なにものでもない。

 いつの時代にも協会は魔術を迫害したが、その熱心さをローマ教皇庁の『魔女の槌金』という
文書が、まったく恐ろしいばかりに示している。ではなぜそのようになったかというと、それは
たんに、魔術にしばしば結びついている犯罪的意図やまた前提とされる悪魔の関与のせいではな
いように思われる。教会の魔術迫害の熱心さの一部は、教会が自然の外の領域への追放を命じた
原初的な力を魔術が正しい源泉にひきもどそうとしているのではないか、という予感と不安にも
とづいているらしい。こうした憶測を保証するものとしては、心配性のイギリスの聖職者が動物
磁気に対して示す憎悪をはじめ、彼らが同様に無害な卓子回転にきわめて熱心に反対しているこ
と、さらにやはりこれに対して、同じ理由からドイツ・フランスの聖職者もたえず呪いの言葉を
投げつけていることがあげられる。
0334幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/22(木) 00:58:29.600
    第三二章 狂気について
         (本章は正編第三六節の後半と関係する)


 精神の真の健全さは、追憶が完全であるという点にある。追憶が完全であるとはいっても、もちろん
これをわれわれがすべてを記憶にとどめているという意味に理解してはならない。というのは、来し方
を顧みる旅人には、たどり来った道もその空間が収縮するように、われわれの人生行路も、たどり来っ
たあとではその時間が収縮するからである。個々の年を区別するのが、ときとしてわれわれには困難に
なる日になると、たいていは知るよしもなくなってしまう。しかし事の真相は、まったく同じ出来事が
何度も繰り返され、その像がいわば重なりあって記憶のなかで合流し、個々に識別することができなく
なるにすぎない。これに反し、なにか独特の、あるいは重要な出来事なら、どういう出来事でも記憶を
さぐればふたたび見つけだすことができるに相違ない。もっともこれは、知性が正常で力があり、まっ
たく健全な場合のことであるが。――わたしは正編で、記憶というものは、このように内容がますます
空漠としたものになり、ますます不明瞭なものになりながら、むらなく継続するものであるが、この
記憶の糸の寸断されたものが、すなわち狂気にほかならぬと述べておいた。次の考察が、その確証に役立
てば幸いである。

 健全な人間の記憶は、彼がその目撃者であった出来事に関して、それが確実であることを保証する。
そしてこの確実性は、現に彼が或る事柄を眼前に見聞きしているのと同じぐらい確実で動かしえないも
のと見なされる。そこでこの出来事は、彼が誓言すれば法廷で確認されることになる。
0335幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/22(木) 01:12:59.780
これに反し、狂気ではないかと疑われるだけでただちに、証人の陳述は無効になる。すなわちここに、精神が
健全かそれとも発狂しているかを判断する基準がある。わたしが、自分の記憶している出来事が実際に起こっ
たかどうかを疑うやいなや、わたしは自分自身に狂気の疑いをかけているのである。もっとも、それが単
なる夢でなかったかどうか自分に確信のない場合は別であるが。他人が、わたしが目撃者として語って
いる出来事の真実性を、わたしの言葉に嘘のないことを信じながら疑うならば、彼はわたしを気違いだ
と考えているのである。がんらい自分が捏造した事件をなんども繰り返して話すうちに、ついに自分自
身の言葉を信ずるようになれば、その人はほんらい、この一点ですでに狂っている。気違いにも、気の
きいた思いつきとか、ひとつひとつをとってみれば賢明な考えとかあるいは正確な判断さえ不可能でな
いことは認めてもよいが、過去の事件に関する彼の証言だけは認めるわけにはいくまい。周知のように釈
迦牟尼の伝記である『普曜経』には、釈迦生誕のおりに、全世界の病ある者はすべて癒え、盲たる
者はすべて物が見えるように、聾せる者はすべて音が聞こえるようになり、狂せる者はすべて「その記
憶を回復した」と語られている。記憶の回復に関しては、二個所にもわたって述べられている。

 これは、わたし自身の多年にわたる経験から推測するようになったことであるが、狂気は、俳優の場
合に比較的もっともひんぱんに現われる。じっさいまたこの連中は、彼らの記憶をなんと濫用すること
であろう。彼らは毎日、新しい役を覚えこむか、古い役を思い出さねばならない。ところがこれらの役
は、すべてなんの関係もなく、それどころか相互に矛盾撞着することさえあり、彼らは毎晩まったく別
な人間になるために自分自身を完全に忘れ去ろうと努力している。これがまさに狂気にいたる道を開く
のである。
0336幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/22(木) 10:03:22.160
 われわれの利害や誇り、あるいは願望をひどく害する事柄を考えるのが、われわれにとっていかにい
やなことであるか、こうしたことを自分自身の知性でいっそう厳密かつ真剣に調べてみようと決心す
ることがわれわれにとっていかに困難であるか、ところが無意識のうちにそこから飛びだすか、あるい
はこっそり逃げだすほうがわれわれにとっていかに容易であるか、またこれと逆に、愉快な事柄はまっ
たく自然にわれわれの心に浮かび、追い払えばまたしても忍び寄ってきて、そのためわれわれが数時間
もそのことを反芻することがある、などということを思い出せば、狂気の発生に関して正編で述べてお
いたことが、いっそうよく理解できるであろう。意志は、自分の心に染まぬことを知性によって照らし
だすことに抵抗するのであるが、この抵抗が、狂気が精神に襲いかかることのできる場所である。すな
わち、新しい出来事はどんないやな出来事でも、知性によって同化せられねばならないとしても、つま
り、その出来事のために、いっそう満足な事柄が、その事柄のいかんを問わず追いだされねばならない
としても、われわえの意思とその関心に関係のあるもろもろの真理の体系のなかに、このいやな出来事
も席を獲得しなければならない。これがなされてしまえば、この出来事の与える苦痛は、はるかに減少
する。ところがこの同化の操作そのものがしばしば非常に苦しいもので、しかもそれがたいてい、抵抗
を受けながらおもむろにしか逆行しない。ところで、この操作がそのつど正確に遂行される場合にか
ぎって、精神が健全だと言いうるのである。これに反し、或る特殊な場合に、認識した事柄の受容にた
いする意志の抵抗ともがきが激しくなりかの操作が障害なく遂行されなくなると、そのため或る種の出
来事や事情が知性に完全に隠蔽されることになる。それは、意志がそれを見るのに堪えることができな
いからである。そしてつぎに、このために生じた空隙が、関連が必要なため勝手に埋められることにな
る。
0337幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/22(木) 10:23:38.340
 ――こうして狂気が現われる。というのは、知性が意志の歓心を得るためにその本性を放棄したか
らである。人はいまや、ありもしないものを想像する。とはいえ、こうして生じた狂気が、いまは、忘
れがたい苦悩を忘却させるレーテの河となる。狂気こそ、苦悩を性とするもの、すなわち意志にたいす
る、最後の救治療であったのだ。

 ついでながら、わたしの見解にたいする注目すべき証拠を、ここで述べよう。カルロ・ゴッツィは、
戯曲『トルコの怪物』第一幕・第二場で、忘却をもたらす魔法の飲料を飲んだひとりの人物を登場させ
ているが、この者の所作を見れば、まったく狂人同様である。

 そこで以上述べたところに従って、なにか或る事柄をむりやり「自分の頭から叩きだす」ことが狂
気のもとである、と見ることができる。ところがこの「自分の頭から叩きだす」のは、なにか或る他の
事柄を「自分の頭のなかに押しこむ」ことによってのみ可能なのである。これより稀なのは、経過が逆
になることである。すなわち、「自分の頭のなかに押しこむ」のが第一で、「自分の頭から叩きだす」の
が第二になる。しかし、こういう経過をたどるのは、そのために発狂するにいたった誘因となるものを
つねに念頭に置き、それから脱れることができない場合である。たとえば、多くの恋狂い、色情狂の場
合がそうである。この場合には、誘因となったものが終始頭にこびりついて離れない。また。とつぜん
生じた驚愕すべき出来事から起こった狂気の場合もそうである。こういう患者は、一度思いこんだが最
後、偏執的にそれに執着し、そのため、ほかの考えが、少なくともそれに対立する考えが、どうしても
思い浮かばないのである。しかしこの二つの経過を見ても、狂気の本質は同じである。すなわち、追憶
がむらなく連なりあうことが不可能なのである。ところでこのような追憶が、われわれの健全な、理性
的な思慮の基礎である。――ことによると、ここで述べた、狂気の起こり方に見られる対立は、よく判
断して用いれば、真の妄想を鋭くかつ深く分類するための証拠の代わりにならぬものでもあるまい。
0338幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/22(木) 10:58:49.110
 ところでわたしがこれまで考察してきたのは、もっぱら狂気の精神的な起源、すなわち、外的・客観
的な誘因によって生ずる起源であった。しかし狂気はそれよりも、純粋に身体的な原因、すなわち、脳
やその外皮の畸形、あるいは局部的な解体とか、また他の病的に衰弱した部分が脳髄に及ぼす影響な
どにもとづく場合のほうが多い。まちがった感覚的直観や幻覚が現われるのは主として、のちにあげた
種類の狂気の場合である。しかしこれら両種の狂気の原因は、たいていは互いに関係しあい、とくに精
神的原因は、身体的な原因を伴う。これは自殺の場合と同様である。自殺が外的な誘因のみによって生
ずるのは稀であって、或る種の肉体的な苦痛が自殺の根底にあり、この苦痛が達する程度に応じて、必
要とされる外部からの誘因が大きくもなれば小さくもなる。苦痛が最高度に達した場合にのみ、外部か
らの誘因がまったく不必要となる。したがって、どれほど大きな不幸であっても、すべての人に自殺を
決心させるとはかぎらず、また、どれほど小さな不幸であっても、それだけでもう自殺へ導く場合があ
る。わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ
た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ
られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ
れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ
ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無
理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変
敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に
は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。
0339幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/22(木) 11:31:00.330
 発狂を伴わない躁病があるということは、ピネルが説き、エスキロルがこれに反対したが、爾来これ
にたいして、賛否両論が大いに戦わされてきた。しかしこの問題は、経験によって決定する以外方法は
ない。ところで、こういう状態が実際に現われるとすれば、それは次のことから説明できる。すなわ
ち、この場合には、意志は知性の、したがってまた動機の支配と指導から完全に脱れ、そのため意志は
盲目的で凶暴な、破壊的な自然力として登場し、途を塞ぐいっさいの妨害物を壊滅せずんばやまない執
念となって現われるのである。そうなると、このように解放された意志は、堤防を破った河や、騎手を
振り落した馬、制動するねじを抜きとられた時計に等しい。しかし、こういう休止状態に見舞われる
のは、理性すなわち反省的な認識だけであって、直観的な認識までそうなのではない。というのは、直
観的な認識までそうだとすると、意志にはなんの指導も与えられず、人間は動くことができないからで
ある。むしろ躁病患者は、客観〔事物〕に向かって襲いかかるのだから、客観を知覚しているのである。
また彼は、現在の行為を意識もしておれば、あとになってこれを思い出すこともできる。しかし彼に
は、反省、すなわち理性による指導がいっさい欠けており、そこで、現に存在しないもの、すなわち、
過去と未来に関する事柄を熟慮したり顧慮したりすることが、いっさい不可能である。発作が終わり理
性が支配を回復すると、理性の機能は正常に帰る。というのは、この場合には理性自身の活動は狂って
もそこなわれてもあらず、ただ意志が、理性からしばらく脱れる手段を発見したにしぎないからである。
0340幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 00:00:58.800
     個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁


   人生を支配するは偶然にあらず。調和と秩序とのみ。
                    プロティノス『エンネアデス』四、四巻三五章

 私がここに伝えようとしている考えはしかるべき実を結びそうになく、むしろ形而上学的幻想と
よばれるべきものかもしれない。けれども私はこれを埋もれたままにしておく気になれなかった。少な
くとも同じ問題について自己の抱懐するところと比較するために、これを歓迎する人士もいようから
である。しかしながらかかる人士にたいしては、以下の考えはあらゆる点で、すなわち解決はおろか
問題すらもあやふやなのだ、ということを指摘しておかねばならない。したがって人はここでは断じ
て決定的な解決を期待してはならず、むしろまことにあいまいな事柄の風通しを多少よくしうる程度
と考えてもらいたい。しかもその事柄たるや、おそらくだれの場合にもその人生行路において、ある
いは半生を回顧するにおよんで、心底にしばしば湧きおこったことのあるものである。とはいえ著者
の考察は暗中模索の域を出ないかもしれぬ。暗がりでは何かがありそうにおもえても、どこに何があ
るか、しかとわからぬものなのだ。にもかかわらず私がときとして積極的な、いやむしろ独断的な
調子でものをいう場合ありとすれば、それは、このさいいっておくが、疑問と推測に満ちたいいまわ
しを反復することによって、だらけたしまりのない文章になることを避けるためにほかならない。で
あるから文字どおり深刻におとりにならぬがよい。
0341幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 00:18:03.580
 個人の人生行路に特殊な摂理ありとし、あるいは出来事を導く超自然のものありとする信念は、い
つの時代にも世人に愛好せられきたったものであり、しかもものを考えるほどの、あらゆる迷信をし
りぞける人びとにおいてさえ、この信念はときに牢乎として抜くべからざるものがあって、しかもな
んらかの既成の教義とのいかなる関連もなしにそういうことになるのである。――まず第一にこの信
念にたいして断言しうることは、それはすべての神信心と同じく、そもそも認識からではなく意志か
ら生じたものだということ、すなわちさしずめわれらの欲求の子なのだということである。というの
は、かかる信念に論拠をあたえたのは認識のみであるとしても、その論拠はおそらくつぎのごとき事
実、つまりわれわれにむかっていろいろと意地悪でうまく仕組んだ陰険な仕打ちをする偶然なるもの
に帰着するからである。かかる場合われわれは偶然のなかに摂理の手を認めるのであり、偶然が、わ
れわれ自身の洞察に反して、いや、われわれが嫌悪した道程をたどって、ありがたい目標にまでわれ
われを誘導してくれたときは、とりわけ明瞭にその手を認めるわけである。このときわれわれは《難
破したとき、わたしは無事航海を終えていた》というのである。選択〔個人が行う選択〕と誘導〔個
人を超えたものからの誘導〕とが相対立することはまぎれもない事実であるが、同時にこの対立は誘導
のほうに有利であると感じられるものだ。まさにこの理由からして、われわれは逆境にあるときも、
「これはなにかのプラスになるかもしれぬ」というたびたび確かめられた言葉でみずからを慰めるこ
とになる。――これはもともと、《偶然は世界を支配しているが、また誤謬を共同統治者にしており、
われわれは等しく両者のもとに隷属しているから、いまわれわれに不幸とおもえるまさにそのことが
幸運であるのかもしれぬ》という理解から生じたものである。かくてわれわれは偶然から誤謬へと訴
えかけることによって、世界支配のひとりの独裁者の仕打ちをのがれて他の独裁者へと移るわけなのだ。
0342幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 00:49:49.490
 しかしこの点を別としても、単純明白な偶然のなかになにかの意図が隠されているようにおもうの
は、盲蛇におじずの人を食ったものの考え方なのである。けれども私は何ぴともその人生において、
少なくとも一度はこの考えを手にとるようにはっきりつかんだことがあろうとおもう。またこの考え
はあらゆる国民に、またあらゆる信仰箇条とならんで見いだされ、とりわけ回教徒の場合に明瞭であ
る。これは理解の仕方によってはまことに馬鹿げているようにもまた深遠きわまるようにもみえる考
え方であり、他方この考えを立証する実例にたいしては、たといその実例がときには目をみはらせる
ようなものであろうと、いつも次のような非難攻撃が行なわれる。《もし偶然がわれわれの件をじょ
うずに、というよりわれわれの理解や見通しよりももっとじょうずに裁くことがまったくないとすれ
ば、それこそ最大の驚きであろう》と。

 およそ生ずることはすべて例外なしに厳密な必然性のもとに生ずる。ということは、ア・プリオリ
に理解しうる異論のない真理である。私はこれを《論証可能な宿命論》と名づける。これは私の懸賞
論文『意志の自由について』(六二頁)に、先行のあらゆる研究の結果として出ている。この真理を
経験的にかつア・ポステリオリに確証するものは催眠術にかかった夢遊病者、透視力(千里眼)を授
けられた人間、否ときには通常の睡眠中の夢も未来を正確無比に予言するというもはや疑う余地なき
事実である。生ずることはすべて厳密な必然性のもとに生ずるという私の理論が経験的に確かめられ
るのは透視力の場合に最も顕著である。というのは、透視力によってかなり以前に予言せられたこと
が、その後まことに正確に、また予言せられた副次的事態のすべてを伴って生ずることがあり、しか
もそれを払いのけるべく意図的にあらゆる手をつくしたとき、あるいは出来する事柄が、報じられた
未来図のごとくならぬように――少なくとも副次的事態においては――と、努力がなされたときです
ら、やはり結果は同じだからである。
0343幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 01:09:07.580
 これらの努力はつねに徒労に終わり、まさに予言を無効にする
はずのことがつねにそれを招きよせるのに役立つ。それはまさしく古代人の悲劇や歴史において、神
託や夢で予言された不幸が、それにたいする防遏手段のためにかえって招きよせられるのと同断であ
る。実例として多数のなかからオイディプス王と、ヘロドトスの第一巻三五〜四三章の、クロイソス
とアドラストスの楽しい物語のみをあげておこう。これらの話によく似た透視力の事例がキーザーの
『動物催眠文献』八巻三冊に、正直そのもののベンデ・ベンツェンによって報じられている。(とくに
第四、一二、一四、一六例)。ユング・シュティリングの『幽霊学の理論』一五五節の一例も同様で
ある。さて透視の能力はまれにしか見られぬが、もし逆にありふれたものであったとすると、無数の
出来事が予言せられたとおりに正確に起こり、一切万事は厳密な必然性のもとに生ずるということの
否定しがたい事実的証明が、だれの手にもとどくところに普通に見られることになったであろう。そ
のときには、事柄の経過がいかに純粋に偶然なものに見えようとも、根本においてはしからず、むし
ろすべてのこれらの偶然事そのものが、深く隠されたひとつの必然性(宿命)――偶然その
ものはこれの道具にすぎない――によってとらえられているという点にもはや疑問の余地がなくなる
であろう。この必然性を見ぬくことが古来すべての占卜術(予言術)の努力目標であった。ところで、
想いおこされる実際の占卜術からしていえるのは、じつはあらゆる出来事が完璧な必然性のもとに生
ずるというにとどまらず、それらがなんらかの仕方ですでにあらかじめ決定的かつ客観的に確定せら
れているということ、しかも予言者の目には眼前の事柄として姿を現わす、ということである。もっ
ともこれなどはまだ、因果連鎖の結果としての出来事の必然的出現にすぎない、ということもできよ
う。
0344幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 09:23:32.880
 いずれにしても《いっさいの出来事のかの必然性は盲目的な必然性ではない》という洞見ある
いはむしろ見方、したがってわれわれの人生行路が計画的かつ必然的に経過するという信念は、いち
だんと高次の宿命論であって、単純な宿命論のごとく証明しうるものではないが、しかもなお各人が
早晩これにつきあたり、各自の考え方に準拠しながら、一時的または永久的にこれに固執するので
ある。われわれはこれを通常の証明可能な宿命論から区別して超越的宿命論とよぶことができる。こ
れは単純な宿命論と違ってほんとうの理論的認識に由来するものでも、また理論的認識に必要な研究
の結果でもなくして――この方面の能力のある人は少ないであろう――、自己の人生行路の諸経験か
ら徐々に沈殿するものなのである。すなわち各人の経験のなかには、とくにきわだって或る種の出来
事があって、それは一方ではとりわけその人にとって大いに目的にかなっているために精神的ないし
内面的必然性という刻印を帯び、他面では外的なまったくの偶然性の刻印をはっきりと帯びている、
ということがあるものだ。かかることがよく起こるので、各個人の人生行路はそれがいかに入りくん
で見えようとも、内部統一のある、一定の傾向と教訓的意味を有する、考えぬかれた叙事詩のごとき
ひとつの全体であるとの見方になり、この見方はしばしば確信ともなるものである。けれども人生行
路をつうじて彼に授けられた教訓は彼の個人的な意思――結局は彼の個人的錯誤なのだが――にのみ
かかわるものであろう。なぜなら計画と全体性は大学教授の哲学が夢想するのとは違って、世界史の
うちにあるわけではなく、個人の人生に存するからである。諸民族というものは概念的に存在するに
すぎず、実在するのは個々の人間である。ゆえに世界史は直接的な形而上学的意義を有せず、元来ひ
とつの偶然的配列にすぎない。私はここで『意志と表象としての世界』正編三五節においてこれらに
ついて述べたところを指摘しておく。――かくて各自の個人的運命について多くの人の心にかの超越
的宿命論が生まれるわけで、自分の生涯を注意深く観察するなら、生涯を織りなす糸がかなりの長さ
にまで紡ぎだされたのちには、おそらくだれにでも一度はこの宿命論に到達する機会が訪れるであろう
0345幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 11:26:14.580
 否、人生行路のこまかい点をひとつひとつ考えぬくならば、その行路は彼にとっては、いっさい
が画策されたようにみえることもあろうし、また登場する人間たちは彼にはまるで俳優のようにみえ
もしよう。この超越的宿命論は多大の慰藉となるのみならず、多くの真実をも含んでいよう。ゆえに
いつの時代にもこれは教義として主張されもしたのだ。まことに率直な見解としてここに引用する値
打ちがあるのは、世故にたけた宮廷人の証言、しかもネストルの年齢〔高齢〕に及んでなされたもの
であって、九十歳のクネーベルは一書簡でこう述べている。「仔細に観察すると、たいていの人間の
生涯には一種の計画が存在する。それは自分自身の性質によりあるいはその性質を導く四囲の事情に
よって、いわば彼らの眼前に描きだされたものだ。彼らの生涯の諸状態がいかに変転きわまりないも
のにもせよ、結局はそれらは相互のあいだに或る種の一致がみられるごときひとつの全体として現わ
れる。…………或る特定の運命の手が、いかに隠れて働こうと、手の動きが外的作用によると内的衝
動によるとを問わず、はっきりと姿を現わす。否しばしばその手の進む路で、矛盾する動因が働くこ
とすらある。経過がいかに入りくんでいても動因と方向はつねにそれをとおして姿を現わす」(クネ
ーベル『文学的遺稿』二版、一八四〇年、三巻四五二頁)。

 さて以上に述べた各人の人生行路における計画性はたしかに部分的には、生まれつきの性格の不変
なること、あくまで固定的であることから説明できる。これらは人間をつねに同じ軌道へと連れもど
すからである。各自は自分の性格にとって何が最適であるかということをはなはだ直接的にかつ的確
に認識するがゆえに、一般にはこれを明瞭な反省された意識へと取りあえることをせず、人はいわば
本能的にこれに従って行動する。このたぐいの認識は、明確な意識に達することなく行動へと移行す
すかぎりにおいて、マーシャル・ホールの《反射運動》に比較することができる。
0346幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 13:22:55.840
この運動によって各人は、みずからに事情の説明できぬまま彼個人に最も適切なものを追求し把握する
のであり、そのさい外からも、また彼自身の誤った概念や偏見からも圧力がかかるわけではない。砂中
で太陽によって孵化され、卵殻からはいでた亀が水を目にしえなくとも、すぐさまその方向へ歩みはじ
めるようなものだ。したがってこれは、唯一の適切な道へと正しく各人を導く心の羅針盤、隠れた性癖
であり、しかもその道が一定の方向を保っていたことは、通過し終えてのちはじめてこれに気づくもの
なのである。――しかしながら外部事情の強い影響や大きな圧力にたいしてはこれでは不十分とおもわ
れる。またその場合、この世で最も大切なもの、つまり多大の行為と心労と苦悩をつうじて購われた人
生行路が(たといこの人生を導く残りの半分、つまり外からくる部分だけにせよ)真に盲目の、そ
れ自身はなにものでもない、いかなる秩序をも欠いた偶然の手から、その部分のすべてを獲得するな
どとは信じられない。むしろ善人はこう考えたい。――《歪象》とよばれる(プイエ、二の一七
一)或る種の像は、肉眼にはゆがんだ不具の怪物にしかみえぬが、円錐形の鏡でみると正常の人間の
形姿となって現われる。――これと同様に世界の過程の純粋に経験的な把握はかの像を肉眼で見るの
に似ており、これにたいして運命の意図を追究するのは散乱せるものを結合し秩序づける円錐鏡での
観察に似る、と。けれども以上の見方にたいしてはこれと対立する見方も成りたつ。すなわち、人生
の出来事に計画的関連性が感じとれるようにみえるにしても、それは、ものごとに秩序をつけ図式を
あてはめようとするわれわれの空想力が無意識に作用するためであり、これは、まったく盲目的な偶
然によって壁面に汚物がまきちらされたのに、そこへ計画的関連性を読みこむ結果、明瞭な美しい人
物像や群像が見てとれるといった場合の空想力に似ている、と。
0347幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 17:59:16.290
 ところで、われわれにとって言葉の最も高度な真実の意味において正しきもの有益なるものとは、計画
されるのみでついに実現に至らなかったもの、つまりわれわれの脳裏以外には存在せず――アリオストの
《陽の目をみぬ空しき計画》――、偶然による挫折をそのあと一生涯くやまねばならぬもの、おそらくそ
ういったものではなかろうとおもわれる。そうではなくて、現実という大いなる図像のなかにほんとうに
刻印されたもの、それが目的にかなっているところを見とどけたのち、それについてわれわれが確信をも
って《そうなる運命だったのだ》といえるもの、おそらくそういうものであるだろう。したがって、この
意味における偶然と必然の統一によって。この統一のおかげで人生行路を進むさいに、本能的衝動として
現われる内的必然性が、つぎには理性的な熟慮、そして最後に外部からの四囲の状況の働きかけ、これら
が相互に手助けをしあって、人生が終わりをつげたところで、それを円熟し完成したひとつの芸術作品
として現わす。ただしそれ以前、人生の進行の過程においては、着手されたばかりの芸術作品と同じ
く、計画も目的も認識されぬことが多い。けれどもその完成ののち仔細に観察する人ならば、だれで
もかかる人生行路を、慎重きわまる予見と知恵と忍耐の作品として驚きの目をみはるにちがいない。
ところでこの作品の意義は全体的にみれば、それの主体が普通一般のものか、それとも例外異常のも
のかということに応じてきまるものであろう。この観点からすると吾人は、偶然が支配するこの《現
象界の基底にはいたるところ《思惟界》があり、それは偶然そのものをも支配するものだ、とのは
なはだ超越的な思想に達することもできよう。――むろん自然はすべてのことを種族のために行なう
のであって、個体のためにではない。自然にとっては種族こそすべてであり、個体はなきに等しいか
らである。しかしながらわれわれが《作用する》としてここに前提したのは自然ではなく、自然のか
なたにある形而上学的なものであって、これは各個体のうちにおいて完全な不分割の姿で存在し、し
たがってあらゆる個体がそれにあずかるところのものである。
0348幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/23(金) 18:58:19.990
 いったいこれらの事物についてはっきりとした考えをもつためには、むろんまず次の問いに答えなく
てはなるまい。人間の性格と運命がまったく相容れないということがありうるのか? ――それとも
大ざっぱにいって、いかなる運命でもいかなる性格にも適合するのか? ――それとも、劇の作者に
も比すべき秘密のとらえがたい不可解な必然性があって、両者をそのつど便宜適合するのであるか?
――だがしかし、まさにここがわれわれの明確にしがたいところなのである。

 一方でわれわれは、一瞬一瞬のわれわれの行為がわれわれの左右しうるものであるごとくに信じて
いる。ところが、自分のいままでの生涯をふりかえり、とりわけわれわれの不幸な歩みとその結末を
眼中においてみると、どのようにしてこれをなしえたのか、またあれを中断しえたのか、という点が
わからぬことがよくある。それで、ほかの力がわれわれの歩みを導いたかのごとくにおもえてくる。
だからシェークスピアも、

  運命よ、力をお見せ。わたしたちではどうにもならぬ。
  定めはまぬかれようがない。なるようになるがよい。
                                『十二夜』一幕五場

といったのだ。

 古代人は詩にせよ散文にせよ運命の全能を飽くことなく強調し、そして運命にたいする人間の無力
を指摘した。いたるところにみられるのだが、これは彼ら古代人にしみこんだ確信であり、彼らは事
物の関連を感じとる場合に、はっきりと経験されるものよりも神秘的な、いっそう深みのあるものに
より強く惹かれた。(ルキアノス『死者の対話』一九、三〇、ヘロドトス『歴史』一巻九一章、九巻一
六章)。
0349幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/23(金) 19:52:25.980
 ギリシア語中にこの概念を表わす語が豊富なのはこのためで、ポトモス、アイサ、ヘイマル
メネー、ペプローメネー、モイラ、アドラスティア、その他まだあるであろう。これにたいして《プ
ロノイア(先知、先見)》の語は、《ヌース(精神、知性)》すなわち第二次的なものから出ているので、
運命というものの概念を混乱させてしまう。この語によって概念はむろん平板明快になるが、また皮
相で誤ったものにもなってくる。ゲーテも『ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』(五幕)で「われ
ら人間と申すものは、われとわが身が意のごとく導けるものではない。われらが身を左右する力はす
べて魔の手に委ねてあるのじゃ。その彼らが思うままに邪念をふりまわしてわれらの悲運をつくるの
じゃ」と。また『エグモント』(五幕最終場)では「人間というものは、自分では自分の生活を導き自
分みずからの舵をとっているつもりだが、そのじつ内心そのものがあらがう術もなく自分の宿命のほ
うへ誘いよせられてしまうものです」といっている。いやすでに予言者エレミヤはいった。「人の道
はおのれによらず、かつ歩む人はみずからその歩みを定むることあたわざるなり」(一〇章二三節)。
こうしたことはすべて、われわれの行為が二つの要因の必然的所産であることにもとづく。そのひと
つ、われわれの性格は不変で固定しているが、ア・ポステリオリにのみ、すなわち徐々にしか知るこ
とができない。他は動因であってこれは外部にあり、この世の動きによって必然的に招きよせられ、
そして性格を、その固定的特性を前提としつつ機械的ともいうべき一種の必然性をもって限定する。
さてそのような経過をたどるのを判断する自我は認識の主体であり、それ自身は前記の二者にたいし
て無縁のまま、ときにはむろん驚きの目をみはることはあるにしても、たんに両者の作用の批判的傍
観者にすぎない。
0350幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/24(土) 00:22:29.230
 一八五二年一二月二日の『タイムズ紙』に次のような供述がのっている。グロスターシャー
のニューエントで検屍官ラヴグローヴ氏のまえでマーク・レーンなる男の溺死体の検屍が行なわれた。溺
死者の兄弟は《マーク行くえ不明の第一報をきいて、ただちにそれは溺死だ″とわたしは答えました。
それはわたしが昨夜この件を夢で見たからです。わたしは深く水につかりながら彼を引きあげようとした
のです》と陳述した。次の夜彼はまたしてもマークがオクスンホールの水門の近くで溺れ、マークのそば
で鱒が一匹泳いでいる夢を見た。翌朝別の兄弟とともにオクスンホールへ出かけた。するとそこで水中に鱒が
一匹みえた。彼は即座にマークがそこにいるにちがいないと確信し、じっさいその場で死体をみつけた。
――一尾の鱒が眼前を泳ぎさえるといった些細な出来事でさえ、数時間もまえから一秒の狂いもなしに予見
されるわけである!

 過去のいろいろの情景を正確に想いおこしてみると、たくみに構想された小説におけるがご
とく、そこではすべてがじゅうぶんに計画されたもののごとくに見える。

 われわれの行為もわれわれの人生行路もわれわれのなす業ではない。ただしわれわれの本質
と存在は別である――だれもそうは考えぬが。というのは、われわれの行為と人生行路はこの本質と存在
の基礎の上に、また厳密な因果の結びつきのもとで現われる四囲の事情と外的な出来事の基礎の上に、完
璧な必然性をもって進行するからである。したがって人間の生誕のさいすでに彼の人生行路の全部がこま
かい点にいたるまで決定的に定まっているのだ。だからきわめて能力のある夢遊病の女は人生行路を正確
に予見しうるのであろう。われわれの人生行路と行為と苦悩とを考察し評価するにあたって、この大いな
る確実な真理をしっかりと心にとどめておくべきだとおもう。
0351幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/24(土) 01:47:05.580
 ところで、ひとたび以上の超越的宿命論の視点を把握して、さてその立場から個人の人生を観察す
ると、出来事が明らかに物理的(外面的)には偶然であるのに、精神的(内面的)には形而上学的必然
性をもつという対照の著しさに、いかなる演劇にもまさるすばらしさを眼前に見る思いのすることが
ある。しかも形而上学的必然性のほうはけっして論証しえず、むしろ依然として想像されるのみなの
だ。こうした点を万人周知の実例によって――同時にこの実例は極端などころがあるから典型的な例
になるのだが――はっきりと思いえがくには、シラーの『鉄工所への用足し』をみるがよい。フリー
ドリーンの遅刻はミサの務めのためにまったく偶然にひきおこされるが、他方それは彼にとってはな
はだ大切で必要なことなのである。おそらくだれでもじっくり考えてみれば、かりにそれが格別重大
だとかはっきり印象に残るとかいうのではないにしても、自分の人生行路に類似の場合を見いだすこ
とができるにちがいない。かくして次のような見方をせざるをえない人も少なくなかろう。《秘めら
れた説明不可能な或る力がわれわれの人生行路の紆余曲折のすべてを導くが、それはわれわれの一時
の意図にさからってであるにしても、結局は客観的全体と主観的合目的性に副うように、つまりわれ
われの真の幸福に役立つように導くものである》と。だからわれわれは、愚かにも逆向きの願望をい
だいていたのだという事実に遅まきながら気づくこともよくあるわけだ。《運命は意欲ある者を導き、
意欲なき者を引きずる》――セネカ『道徳書簡』一〇七〔一一〕。さてかかる或る種の力はすべての事
物を見えざる糸で引きつらねながら、因果の連鎖がなんら相互の関連もつけずに放置しておく事物を
も連結して、必要なときにそれを出会わせることになろう。つまりこの力は現実生活の種々の出来事
を、あたかも劇詩人が劇中の出来事にたいしてなすがごとくに、思いどおりに動かすであろう。偶
然と錯誤、これはさしむき直接的には事物の規則正しい因果応報をかき乱すものであるから、かの見
えざる手のたんなる道具なのであろう。
0352幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/24(土) 17:29:56.400
 必然性と偶然性が奥深い根底でひとつにつながっていて、そこからかかる端倪すべからざる力がで
てくるのだ。という大胆な臆説にわれわれが駆りたてられるのは、なによりもまず次のようなことが
考慮されているからである。すなわち、自然的、倫理的、知的な意味での各人独自の個性は、彼という人
間のすべてであり、したがって最高の形而上学的必然性に由来するに相違ない。だがいっぽうこの個
性は(和足が主著続編四三章で明示したごとく)、父親の倫理的性格、母親の知的能力および両者の全
結合の必然的な結果として生ずる。しかも両親のむすびつきはたいていはあきらかに偶然な事情によっ
て惹起されたものだ、ということである。ここにおいて、必然性と偶然性は究極的に統一的たるべし
との要求ないし形而上学的・倫理的要請が抗しがたい力でわれわれに迫ってくる。けれども両者を統
一する根底をはっきりした概念として把握することは不可能であろうと私はみるもので、ただ言いう
るのは、両者はともに古代人が《運命》(ヘイマルメネー、ペプローメネー、ファトゥム)とよ
んだもの、彼らが各人を導く《霊(守護神)》の語で理解したもの、またいっぽうキリスト教徒
が《摂理》として尊重したものであろう、ということである。この三者は、ファトゥムが盲目、
他の二つ――ゲニウスとプロノイア――は目がみえると考えられている点でたしかに相違しているけ
れども、しかしこうした神人同形観的な区別は、事物の内奥の形而上学的本質を問題にするさいには
消滅し、いっさいの意味を失うものである。しかもわれわれはそこに、かの偶然と必然の説明不可能
な一致――人間界万般の神秘的な導き手として現われる――の根本を探究しなくれはならない。
0353幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/24(土) 18:21:56.460
 各個人にそなわっていて、その人生行路に采配を振る《霊》という概念はエトルリア起源とされ、
古代人には広く親しまれていたものである。その中心的内容がプルタルコスの引用したメナンドロス
の詩句にみられる(プルタルコス『心の平静について』一五、ストバイオス『抜粋』一巻六章四節、
アレクサンドレイアのクレメンス『ストロマテイス』五巻一四章)。

  生誕のときからすべての人に良き霊(ダイモン)が、
  人生行路の影の導き手として
  付きそいとなるものだ。

 プラトンは『国家』の末尾で、各人の霊魂が反復される再生をまえにして、自分に適した性格
をくじで引くさまをえがき、次にこういっている。《さてすべての霊魂たちが自分の生涯を選びおえ
たとき、みなくじの順にならんで、ラケシスのところへ進みでた。ラケシスはそれぞれに各自の選ん
だ神霊(守護霊)をつけてやり、生活の守り役、各霊魂の選んだ生活の実行者たらしめた》(一〇巻
〔一六〕六二一)。この個所についてポルピュリオスは熟読の価値ある注解を書き、ストバイオスがそ
れを『抜粋』二巻八章三七節(三韓三六八頁以下、とくに三七六頁)で伝えている。ところでプラト
ンはもう少しまえのところ(六一八)でこれについていう。《神霊が汝らをくじで引きあてるのでは
なく、汝らのほうが神霊を選ぶのだ。最初にひく番の者は最初に生涯を選びとるがよい。その者が必
然的にしばりつけられる生涯を。》――これをホラティウスは美しくいい表わしている。

  それを知るは守護神、生誕を導く友、人間性の神のみ
  そは各々の生涯に即して死すべきもの、
  相貌はうつろいやすく、明るくあるいは暗し。
                       『書簡』二巻の二の一八七〜一八九
0354幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/24(土) 22:09:46.140
 これが《霊》について一読に値するアプレイウスの『ソクラテスの神について』二三六頁にあ
り、短いが有意義な一章がイアンブリコス『エジプト人の秘儀について』九の六、《特殊な霊につい
て》にある。さらに注目されるのがプロクロスのプラトン『アルキビアデス』への注解のなかの個所、
クロイツァー版七七頁である。《われわれの全生活を導き生誕以前に選択されたわれわれの人生行路
を現実たらしめるもの、宿命と運命の神々の賜物を分与し、さらに節理の光明を提供し分配するも
の、これこそ霊である。云々。》テオプラストゥス・パラケルススは同じ思想をとりわけ深く把
握してこういっている。「各々の人間が一つの霊を有し、霊は人間の外部に住み、かつその座を上
天の星辰中に置くのは、《運命》がよく認識されるようにするためである。霊は人間が仕える主人の
独自の性格を利用する。出来事の兆を事前と事後に主人に示すのはこの霊だ。これらの兆は出来事の
後までも残るのであり、かかる霊が《運命》とよばれている」(テオプラストゥス『著作集』シュト
ラースブルク、一六〇三年、二巻三六章)。注意すべきは、まさにこの思想がすでにプルタルコスに
みえていることで、地上の肉体のなかに埋めこまれた霊魂の部分のほかに、より純粋な部分が外部の
頭上に浮遊していて、星として現われ、当然のことながら霊(ダイモーン、ゲニウス)とよばれる。
それは彼を導き、また賢い人はすすんでこの霊に従う、というのである。問題の個所はここに全文を
引くには長すぎる。『ソクラテスの霊について』二二章〔五九一E〕にあり、主要な文章は次のごとく
である。《さて肉体内に埋められた部分は霊魂とよばれるが、消滅をまぬかれる部分は多くの人び
とがこれを精神(知力)とよび、自分たちのなかに宿ると考える〔……〕。正しい見方をする人びとは
外部にあると考えており、それをダイモーンとよぶ。》ついでにいえば、キリスト教は周知のごとく
異教徒の神々や霊どもをすべて悪魔にしてしまったが、この古代人の《霊》からは学者や魔術師た
ちの守護神(スピリトゥス・ファミリアリス)をつくりだしたようである。――キリスト教の摂理の
観念はよく知られているから、ここでくどく述べる必要はなかろう。
0355幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/25(日) 20:53:48.280
――ただし以上のすべては、問題になっている事柄の比喩的・寓話的なとらえ方である。一般にわれ
われは、きわめて深遠なかくれた真理を図像や比喩以外の方法でとらえることは不得手なのであるが。

 ところでじつは、外部からの影響をさえ左右するかの隠れた力は、やはりわれわれ自身の神秘的な
内部にしかその根をもたぬのに相違ない。全存在の始めと終りはけっきょくわれわれ自身のうちにあ
るからだ。しかしその単なる可能性でさえ、われわれがこれを見きわめるのは、最も幸運な場合でも
類推と比喩によるのであり、しかもそのわずかなものをさえはるかに遠くから見るのみである。

 さて、かの力の支配の身近な模型をわれわれに示すのは自然の目的性である。それは合目的なるも
のを、目的の認識なしに生ずるものとして示す。外的合目的性、すなわち種々のものとくに異種のも
ののあいだに、無機物にも生ずる合目的性が現われるときにはとりわけそうである。たとえばその著
しい例が流木であって、流木はまさに樹木のない極地方へ海の力で大量に押し流されるものである。
もうひとつの例に、地球の大陸は完全に北極のほうへ偏っていて、北極の冬は天文学的理由で南極よ
りも八日短く、そのためにずっと温和だという事実がある。しかしながら、独立の有機体内で明瞭に
現われる内的合目的性、つまり自然の技術と自然の単なる機構とを、すなわち目的因と作用因とを媒
介する驚くべき一致(これについては私の主著続編二六章三三四〜三三九参照)、この一致からし
てもわれわれは類推によって、いろいろの点、否、遠くへだたった点から発するもの、見かけ上縁な
きものが、それにもかかわらず相互にしめしあわせて究極目的にむかい、そこでぴたりと出会う、し
かもこれが認識によって導かれたのではなくて、あらゆる認識の可能性に先んずる高次な必然性によっ
てそうなる、このような有様をながめわたすことができる。
0356幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 00:52:21.740
――さらにまた吾人は、カントおよびの
ちにはラプラスによって提唱された惑星系の成因にかんする学説を――これが正確である度合いはか
なり高いであろう――はっきりと思いうかべ、かつ私が主著続編二五章三二四頁で試みた考察方法に
達し、かくして、不変の法則に従う盲目的な自然力の動きからついにこの秩序ある驚嘆すべき惑星の
世界が生じた事情を考えあわせるならば、ここでもまた或る種の類推がえられ、次の事態がありうる
ことを一般にまた遠方から見わたすことができるようになる。すなわち、個人の人生行路さえも、出
来事がしばしば盲目なる偶然の気まぐれのしわざであるにもかかわらず、やはりいわば計画的に導か
れ、その人の真の究極的な幸福にかなうものだ、ということである。かく考えてみると、摂理にかん
する教義はどこまでも神人同形観的な見方であるから、そのまま文字どおりに真実だとはいいえまい
が、しかしそれはひとつの真理の間接的、寓意的かつ神秘的な表現であり、あらゆる宗教的説話と同
様実用向きに、また主観的安心立命のためにはじゅうぶん事足りるものである。たとえばカントの道
徳神学の場合がそうで、これは精神修養のプランとしてのみ、つまり寓意的にのみ理解されるべきもの
である。――要するに一言でいうならば、それは真にあらざるも真に近し、であろう。かの鈍重かつ
盲目的な自然の原動力――その相互作用から惑星系が生じた――において、のちに世界で最も完璧な
現象〔人間〕中に登場する《生への意思》はすでに内部作用者、教導者であり、かつ厳密な自然法則
に従い、目的にむかって活動しつつ、世界とその秩序の建設のための基礎をすでに準備している。た
とえばまことに偶然な衝突ないし震動が黄道の傾斜と公転速度を永久的に決定し、最終結果は、かの
意志の本性全体の現われであるに相違ない。なぜならこの本性はすでにかの原動力そのもののなかで
働いていたのだからである。――さてこれと同様に、ひとりの人間の行動を規定するすべての出来事
と、それを招きよせる因果の結びつきは、この人間自身にも現われるのと同一の意思が客観化された
ものにほかならない。
0357幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 11:14:59.490
 ここからして、出来事がこの人間の最も特殊な目的にすら合致し適合せざる
をえないことが、たといおぼろげにもせよ見通せるわけで、この意味で出来事は例の神秘的な力を形
づくるのであり、この力が各人の運命を導き、彼の霊とか摂理とかいうふうに寓意的に表現される
わけである。しかしながら純粋に客観的にみれば、これはあくまでもいっさいを包括する例外なしの
一貫した因果連関なのであり――この因果連関によってこそ、生起するいっさいは徹頭徹尾必然的に
生ずるのだが――、この連関は単なる説話ふうの世界支配に取って代わり、否、世界支配を名のる権
利を有するものである。

 以上の論点をいっそう明らかにするには、次の一般的考察が役立つ。「偶然的」とは、因果的に結
びつきのない事柄が時間において出会うことを意味する。ところで絶対的な意味で偶然的なものは皆
無であって、最も偶然的な事柄ですら遠い道から近づいてきた必然的なものにほかならない。因果の
連鎖の上位に位置する決定的な原因が、その事柄がまさに今、つまり他のことと同時に生じなければ
ならぬ、ということをとうの昔に決定的に定めたのだからである。個々の出来事は、時間の方向に前
進する因果の連鎖のひとつひとつの環である。しかしかかる連鎖は無数に、空間というもののおかげ
で相並列して存在する。しかもこれらの連鎖は相互にまったく無縁無関係というわけではなく、むし
ろ十重二十重に入りくんでいる。たとえば、いま同時に作用し、相互にも作用しあういくつかの原因
は、遠く共通の原因から発し、したがってひろりの祖父の曾孫たちのごとく、相互に縁者の関係にあ
る。またいっぽう、いま生ずる結果のひとつひとつは多くの相異なる原因の出会いを要することもし
ばしばあって、これら諸原因のそれぞれは、自分自身の連鎖の一環として過去のなかから近づいて
くるものである。かくて時間の方向に前進するすべての因果の連鎖は共通の、幾重にももつれあった
大きな網をなし、この網が幅いっぱいにひろがりながら時間の方向に移動しつつ、まさにこの世の推
移そのものを形成する。
0358幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 16:47:14.800
 つぎにわれわれは、かの個々の因果連鎖を時間の方向に走る縦線で思いうか
べてみよう。そうすると、同時的なもの、しかも同時なるがゆえに直接の因果連関なきものはいかな
る場合にも横線で暗示されることができる。むろん同一横線上にあるものが直接相互に依存しあうわ
けではないが、しかし網全体の入りくみ、すなわち時間の方向に進展する因果の全体によって、やは
りそれは間接的には、遠くへだたるにもせよ、なんらかの意味で結びついているのである。したがっ
て現在の同時性は一つの必然的な同時性となる。高度な意味における必然的な出来事が生ずる場合、
それの起こる条件のすべてが偶然に出会うのは右の事情にもとづいている。――つまりそれは運命の
欲した事柄が出来したというべきである。たとえば、民族移動の結果野蛮の潮がヨーロッパに氾濫
したとき、たちまち『ラーオコーン』『ヴァティカンのアポロン』等々のギリシア彫刻の最高傑作は、
舞台の迫り出しを使用するごとくに忽然と姿を消して地下にもぐり、そこで、無傷のまま千年のあい
だ、芸術を解し尊ぶ高尚穏和な時代が来るのを待った。そしてついて十五世紀末、教皇ユリウス二世
の治下にこの時代が到来するや、保存のよい芸術の見本、人間的形姿の真の典型の範例として再び陽
の目をみたということは右の点にもとづいている。また個人の人生行路における重大かつ決定的な動
機や事情が適時に生ずることも、否、最後に、前兆が現われることさえ同じ事情にもとづく。――前
兆にたいする信念は一般に行きわたっていて抹殺しうべくもなく、にわかにものを信じない人びとに
さえもこれがみられるのはまれでない。――というのは、絶対的な意味で偶然的なものは存在せず、
むしろいっさいは必然的に生ずるのであり、人が偶然とよぶ、因果的に関連しないものの同時性さえ
も、必然的な同時性だからである。否、現在同時的なるものは、すでに遠い過去における原因によっ
てそのようなものとして規定されたのだ。
0359幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 19:34:17.910
 かくていっさいはいっさいのうちに反映し、おのおのはおの
おののうちに反響し、そして有機体における相互作用によくあてはまるかの有名なヒポクラテスの
言葉は事物の総体についてあてはまる。《体流はただ一つ、体気はただ一つ。すべては共感》
(『滋養について』キューン版著作集二巻二〇頁)。――前兆を貴ぶ抜きがたい人間の性癖、内臓所見、
鳥占、聖書占い、カード占い、鉛占い、コーヒー出がらし占い等々は、人間が理性的根拠を欠く次の
ごとき前提に立てることの証左なのだ。すなわち現在の状態、眼前の明瞭なものを手がかりに、時
間的・空間的に隠蔽されたこと、遠くのことや未来のことを認識するのはなんらかの意味において可
能であり、したがって人間は、暗号を解く真の鍵さえ手に入れれば、おそらく占卜からして未知なる
ものを読みとることができもしよう、との前提がそれである。

 いま問題にされている超越的宿命論を別の方面から間接的に理解するのに役立つ第二の模型である
が、これは夢であって、そもそも人生はとうの昔から夢のごとしと認められており、またよくそうい
われてきた。そのためにカントの先見的観念論すらも、意識あるわれわれの存在のあたかも夢のごと
きこの状態をきわめて明瞭に叙述したものとみうるほどである。このことは私の『カント哲学の批判』
でも述べておいた。――かの神秘的な力は自分の目的を達するために、われわれに影響をあたえる外
部の現象をもわれわれ同様に支配し操縦する。ところで、この力がわれわれ自身の不可思議な本性の
奥底に根源をもつのはどのようにしてであるか、という点を漠然とではあるにせよどうにか見とおし
うるのは、この夢との比較によってなのである。すなわち、夢においてもわれわれの行為の動機とな
る四囲の事情は、外的な、われわれから独立した事情として、いやしばしばうとましい事情として、
まったく偶然にぶつかりあう。しかしそれにもかかわらずその事情のなかには神秘的で合目的な結合
があるのだ。
0360幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 20:57:58.150
 夢のなかのすべての偶然事を支配する隠れた力は、これらの事情をも、もっぱらわれわ
れとの関連において操縦し決定するからである。この場合なによりも不可思議なことは、この力は要
するにわれわれ自身の意思以外のなにものでもありえず、しかもこの意志たるや、或る立場からすれ
ば、われわれの夢見つつある意識のなかへはいってこない、ということである。したがって、夢のな
かの出来事はしばしば夢のなかのわれわれの願望とまったく相反し、われわれを驚倒せしめ、立腹せ
しめ、否、恐怖と死の苦悶につきおとし、しかもわれわれがひそかに自力で操縦している運命はわれ
われを助けにきてくれない、ということになる。また、われわれが熱心にものをたずね、驚くべき答
えを得、あるいはまた――われわれ自身がたとえば試験かなにかの場合のごとく質問を受け、答える
ことができず、ほかのものが肯綮にあたる答えを出してわれわれを恥ずかしめることもある。しかもい
ずれの場合も、解答はわれわれ自身の素質から出る以外には出ているはずがないのだ。夢のなかの出
来事がかくも神秘的にわれわれ自身によって誘導されていることをいっそう明確にし、その過程をよ
り詳細に理解するには、それに適する説明がなおもうひとつあるが、しかしこれははなはだ猥褻なも
のにならざるをえない。ただし私は、本書を読むほどの読者はこれによって不快なショックを受ける
こともまた問題を滑稽な面からとらえることもなかろうとみなす。周知のごとく夢のなかにはその性
質上或る物質的な目的に役立つものがある。たとえば充満した精嚢を空にするという目的に役立つ。
こういうたぐいの夢はむちろんみだらな情景を呈する。しかしかの目的をまったく有しもせず、また達
することもない他の夢も往々にして同じ効果をもつ。ただしここには相違も出てくる。はじめのたぐ
いの夢のなかでは美人やチャンスがすぐに好都合なように到来する。かくして自然はその目的を達す
る。これにたいして第二の部類の夢のなかでは、われわれが最大限に願っている事柄につねに新たな
邪魔がはいり、これを克服せんとしても無駄で、結局は目的に達しない。
0361幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 21:37:46.470
かかる妨害を行ない、われわれの切なる願いをつぎつぎと挫折させる者はだれかというに、これがわれわれ
自身の意思にほかならぬのである。けれどもそれは、夢のなかで表象を行なう意識をはるかに超えた領域か
らくるのであり、夢のなかでは仮借なき運命として登場する。――現実生活での運命と計画性――おそらく
だれもが自分の人生行路において運命からこの計画性を読みとるのだが――は、夢のなかで示される運命と
類似の事情をもつこともあるのではなかろうか? ときにはこんなことも起こる。われわれがひとつ
の計画を立て、それを鮮明に把握しながらそれがわれわれの真の幸福にとってまったく不都合であっ
たことがあとになって明らかになったりする。われわれがその計画をあくまで熱心に進めようとして
も、これに反対する運命の陰謀を経験することになる。運命は計画を挫折させるべくあらゆるからく
りを動員するからである。かくて運命は結局われわれの意思に反してはんとうにわれわれに適合す
る道へとわれわれを押しもどす。このような抵抗の裏になにか意図がありそうな場合、「そうすべき
ではない」といういい方をする人もいるし、それを不吉とよぶ人も、あるいは神のお導きとよぶ人も
いる。しかしともかくだれもが次の点では同意見である。《運命が或る計画にたいして非常に露骨な
頑固さで反対する場合には、われわれは計画を放棄すべきだろう。なぜなら計画は、われわれにか
んする自分自身すらも知らない決定に適合しないのであれば、実現される可能性がないし、またわれ
われはその計画を意地をはって押していっても、われわれが最後に正道にもどるまでは運命から手き
びしい突きを食うだけであり、あるいはまた、無理な計画遂行が成功したところで、それはわれわれ
の損失と破滅になるだけだからである》と。さきに引いた《運命は意欲ある者を導き、意欲なき者を
引きずる》はここにおいて完全に確かめられたわけだ。或る場合にはかかる計画の挫折がわれわれの
真の福利にとってまことに有益だったことが、あとになって明らかになる。それがわれわれに知られ
ない場合などとくにそうであって、われわれが真の福利を形而上学的・精神的なものとみなすならばと
りわけそういうことになる。――
0362幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/26(月) 22:29:24.520
 さてそこでわれわれが、私の全哲学の主たる帰結すなわち《世界の
現象を現示し維持するものは、各個体内においても生きて働く意思である》を回顧し、同時に人生
と夢が類似すると一般に認められていることを想起するならば、いままでのいっさいをまとめていう
と、《各人が自分の夢の隠れた舞台監督であるのと同じく、われわれの現実の人生行路を支配するか
の運命も結局はやはりなんらかの仕方で、われわれ自身のものたるかの意思から発しており、しかも
意志は、それが運命として登場する人生行路においては、表象する個体としてのわれわれの意識をは
るかに超えでた領域から作用することが可能だ》と、一般論としては考えられる。これにたいしてわ
れわれの意識は、経験的に認識可能な個人的意思を導く動因を提供し、したがって、この個人的意思
は、運命として現われるかの意志――われわれの導き手である霊、「われわれの外部に住み、かつそ
の座を上天の星辰中に置く霊」――とはげしく相争わねばならぬことが多い。霊は個人の意識を広く
見わたしたうえ、この意識に発見してもらうわけにはいかぬもの、さりとて見のがしてもらいたくも
ないものを、外部からの強制として、仮借なくこの意識にたいして用意し確立する。

 以上の大胆な主張の有する奇怪な側面、否、度はずれた特質を緩和するには、まずなによりもスコ
トゥス・エリウゲナの一節が役立つかもしれない。そこで彼の《神》は認識を有せず、また時間・
空間や十個のアリストテレスの範疇を述語とすることができず、それには、意志という唯一の述語が
残されるだけである――、これはあきらかに私の場合の《生への意思》以外のなにものでもない、と
いうことが注意されねばならない。いわく、《神においては、またもう一種の別の無知がある。すな
わち、神が予知し予定したことも、現実の事物の過程において経験上いまだ現われぬかぎりは、神は
それを知らぬのだといわれる場合がそれである》(『自然の区別について』オクスフォード版八三頁)。
またそのすぐあとでいう。
0363幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/27(火) 09:46:22.650
《神の無知の第三の種類とは、行為・行動という経験をつうじて、結果と
して明確に現われたのでないものは、たとい神が、見えざる根拠を自己自身のうちに――みずから造
り、みずからに熟知されたものとして――所有しているにしても、神はこれを知らぬのだ、という場
合のことである》〔同、八十四頁〕。

 さてわれわれは、上述の見方を多少明確にするために、一般に認められている個人生活の夢の類似
性を引き合いに出したわけであるが、他面次のごとき相違にも注意が肝要である。すなわち、ただの
夢にあっては、関係は一方的であって、つまり一個のわたしが意志をもち感情をもつのに、他の人び
とは亡霊にすぎない。ところがこれにたいして人生という大きな夢においては、相互的な関係が生じ
て、甲が、乙の夢のなかでまさにそうあってほしいように登場するのみならず、乙もまた甲の夢のな
かに現われる。かくて現実的な一種の《予定調和》によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従っ
て自分にふさわしいことのみを夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自
は自分に都合のいいものを経験し、同時に他人に必要なことを実行するわけである、したがって世界
的な大事件も数千の人の運命にとって、それぞれの個人に独自の仕方で適合する。であるから、ひと
りの人間の生涯におけるいっさいの出来事は根本的に相違する二種類の関連のうちにあるといえる。
第一は自然過程の客観的・因果的関連であり、第二は主観的関連で、これは出来事を体験する個人と
のかかわりでのみ存在し、かつ彼自身の夢のごとく主観的である。しかし第二の関連においても、出
来事の継起と内容はやはり必然的に規定されているが、ただしそれは、劇の諸幕の継起が劇詩人の計
画によって規定されているがごとくにである。さてこの二種類の関連は同時に成立し、しかも同一の
出来事がまったく相違なる二つの連鎖のひとつの環として両者に適合し、その結果一方の運命はつね
に他方の運命に即応し、各人は自分自身の劇の主人公であり、かつ同時にまた別の劇の端役だという
こと、これはたしかに、われわれのあらゆる理解力を絶するもの、まことに奇異なる《予定調和》に
よってのみ可能と考えられるなにものかである。
0364幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/27(火) 13:35:30.340
 けれども他方から考えると、作曲家が彼の交響曲の
一見入り乱れる多数の響きに統一と調和をあたえうるごとく、あらゆる人間の入りくんだ人生行路
もこれと同じ程度の統一と調和を有する、ということがありえないと考えるのは、偏狭な小心者のす
ることではあるまいか? また人生という大きな夢の主体は或る意味では唯一のもの、生への意思で
あること、多種多様な現象は時間と空間に条件づけられていること、などを想起するならば、このス
ケールの大きな思想をまえにしてそうひどくたじろぐこともなくなるであろう。それはかの一つの存
在者(意志)が夢見る大いなる夢である。しかし同時にその夢をすべての人物がともに夢見るわけだ。
だからいっさいは相互にからみあい、適合しあうのである。さて人が以上の点に同意し、あらゆる出
来事のかの二重の連鎖を仮定するならば――この連鎖によって個々の人間存在は一方では自己自身の
ために存在し、その本性に従って必然的に行為し働きかけ、自分の道を進みつつ、他面ではまた別の
存在を把握しかつそれに働きかけるために、夢のなかの像のごとくまったく規定され、適合している
――、もしそう仮定するならば、人はこれを全自然界に、つまり動物や認識なき諸物にも拡張せねば
なるまい。すると前兆、予感および異象がありうるという見込みもでてくる。自然の歩みに従って
必然的に生ずるものもやはりまた他面では、わたしにとっての単なる象徴として、わたしの夢の人生
の点景として、わたしとのかかわりでのみ生じかつ存在し、あるいはわたしの行為や体験の単なる反
映・反響としてみなすこともできるからである。したがって或る出来事の自然的側面と、原因から証
明しうる必然的側面があるからといって、その出来事の吉凶を廃棄しうるわけでもなく、逆に吉凶
が自然性・必然性を排除するわけでもない。もし人が、或る出来事の自然的・必然的な諸原因を非常
に明確に――それが自然現象である場合には学者顔で物理学的に――証明し、それでその出来事の到
来の不可避なことを立証するなら、それは出来事の吉凶を除去したことになるのだ、と考えるとすれ
ば、これはとんでもない誤りを犯しているのである。
0365幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/27(火) 15:41:47.530
 理性的な人間はだれもかかるもの〔自然的諸原
因〕を疑わぬし、前兆を奇蹟だなどとは何ぴともいわぬであろう。そうではなくて、無限に後退する
原因・結果の連鎖、その独自な必然性と思議すべからざる予定、これが、この出来事の到来を
かかる重大な瞬間に不可避的なものに定めたのであり、まさにそのことから、その吉凶が生じてくる
のである。だからかの小ざかしい連中にむかっては、とりわけ彼らが物理学を解する場合には、《こ
の天地にはきみの哲学が夢想するよりもずっとたくさんのことがあるのだ》(《ハムレット』一幕五場)
の一句をとくにはっきり聞かせてやるべきである。それにまたわれわれは、前兆を信ずるとすれば占
星術にも門戸が解放されていることがわかる。前兆として通用するごくわずかな出来事、たとえば鳥
の飛びざま、人間のしぐさ等々があたえられた或る時刻において、算定可能な星辰の位置と同じよう
に、無限に遠い、はなはだ必然的な因果連鎖で条件づけられているからである。ただ星辰はむろん非
常に高所にあるから、地球の住民の半分は同時にこれを眺めうるのに反し、前兆は当該個人の圏内で
のみ現われるものである。ちなみに前兆が可能であるということを比喩によって手に取るごとく明ら
かにしたいならば、われわれは、人生行路において、結果がまだ先のことではっきりしないような重
大な場合に一歩を踏みだすにあたり、吉兆あるいは凶兆を目にし、それで警告を受けあるいは勇気づ
けられる人がいるとして、その人を一本の弦に比することもできよう。一本の弦は、弾かれるとき
自分自身の音を聞くことはないが、しかしその振動によって共鳴する他の弦を聞きわけるともいえる
からである。

 カントが物自体をその現象から区別したこと、また私が物自体を意志へ、現象を表象へと還元した
こと、それによって三つの対立のそれぞれを一本化するということが、不完全不十分ながら見通せる
ようになってきた。
0366幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/27(火) 16:01:37.830
その対立とは、

(一) 意志の自由そのものと、個人のいっさいの行為を貫く必然性との対立。
(二) 自然の機構と技巧との、すなわち作用因と目的因との、あるいは自然の産出物の純因果的な
説明根拠と目的論的なそれとの対立(これについてはカントの『判断力批判』七八節および私の主著
続編二六章三三四〜三三九頁参照)。
(三) 個人の人生行路におけるいっさいの出来事の明らかな偶然と、それの形成にあずかる精神的
(内的)必然性――これは個人のための超越的合目的性による――との対立。通俗の言葉でいえば自
然過程(自然のなりゆき)と摂理の対立である。

 これら三つの対立のそれぞれを一体化しうるというわれわれの見解は、むろんどの場合にも完全で
はないけれども、第一においては第二の場合よりもはるかに明確であり、第三において最も明確さを
欠いている。他面これら三対立のいずれか一つの一体性を理解することは、よしそれが不完全な理解
であろうと、必ず他の二つに光明をあたえる。つまり比喩ないし象徴として役立つのである。――

 さて最後に、以上考察してきた個々人の人生行路にたいするこの神秘的な操縦は、全体としていっ
たい何を狙いとしたものであるか、という点になると、ごく一般的にしか答えることができない。個
々の場合にとどまるかぎり、かの操縦はわれわれの現世における、一時的な安穏を眼中においている
かにみえることも多い、けれどもこれは、その微弱、不完全、空疎かつ不安定さからみて、まともな
意味でその究極目標ではありえない。だからわれわれは目標をわれわれの永遠の、個人の生活を超え
た存在のうちに求めなくてはならない。その場合ごく一般的にいえるのは次の点である。われわれの
人生行路はかの操縦により次のように調節される。すなわち、人生行路をつうじてわれわれに現われ
てくる認識の全体からして形而上学的にみてまことに有効な印象が意志にむかって生じてくるよう
に、である。
0367幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/27(火) 16:32:04.260
 意志は人間の核心であり本性そのものであるからだ。というのは、生への意思は、その
努力の表われとしての世界の歩み一般のなかに解答を得るのであるけれども、しかしやはりおのおの
の人間こそが個別的な唯一の仕方によってかの生への意思となるのであり、いわばかの意志の個体化
された作用だからである。したがってそれへのじゅうぶんな解答は、彼独自の体験においてあたえら
れる、世界の歩みの完全に限定された形成でしかありえない。さて私の真摯な哲学(ただの教授哲学
や冗談哲学に対立する)の結果からして、生からの意思の離脱を現世の生存の究極目標として認識し
たのであるから、われわれは次のように想定しなくてはならない。すなわち各人はそれぞれ自分に適
した仕方で、ときには回り道をしながら、そちらの方向へ徐々に導かれてゆく、ということである。
さらに、幸福と悦楽とは本来この目的をはばむものなのであるから、これに応じて、不幸と苦悩がど
の人生行路にも必ず織りこまれること、しかもその程度はさまざまで、過度になることつまり悲劇的
結末に終わることはきわめてまれであることがわかる。悲劇的結末にさいしては、意志はほとんど暴
力的に生の回避〔死〕へと追いやられ、いわば帝王切開をもって再生に達するごとくにもみえる。

 かくして、見えざる、あるかなきかの光のなかに現われるかの操縦は、人生の本来の結果でありま
たそのかぎりで人生の目的である死に至るまで、われわれに随行するわけである。死の時がくると、
神秘的なすべての力(もともとはわれわれ自身に根をもつものだが)、人間の運命をたえず規定する
力がいっせいに押し寄せてきて行動を起こす。これらの諸力の葛藤からして、彼がいまや歩むべき道
ができあがる。つまり彼の再生がいっさいの快苦とともに準備され、これらの快苦は再生のなかに
含まれ、爾後再び撤回を許されぬように定められる。――臨終の厳粛な重大な荘厳な恐るべき性
格はここにある。臨終は言葉の最もきびしい意味において《分かれ目(危機)》――ひとつの世界審判
なのである。
0368幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/27(火) 23:26:15.400
     視霊とこれに関連するものについて


   では教えてやろう。
   太陽や星ばかりにこだわらず
   さあ、暗い国へ向かってわたしについて来い。
                              (ゲーテ)

 理知が過度に重んじられた前世紀には、それ以前の時代とはちがい、もろもろの幽霊が、かつての魔
術のように追放され、軽蔑された。ところがこうした幽霊も近々二十五年間にドイツで復興してきた。
それもおかしいとばかりはおそらく言えないだろう。なぜなら、幽霊の存在を否定する論拠のひとつ
はおよそ不確かな理由にもとづく形而上学的な論拠であり、もうひとつは次のようなことしか証明でき
ない経験的論拠だからである。すなわち、偶然にあるいは故意につくられた像が発見されないときは、
光線の反射によって網膜に、あるいは空気の振動をつうじて耳の鼓膜に作用するであろうような、なに
ものも存在しないということしか証明できない論拠なのだ。しかしこの論拠は、いまあるかどうかにつ
いてはだれもはっきり主張できない物体の存在が問題になるときだけ、あるいは物理学的方法を用いて
は霊が存在することの正しさが示されるときだけ通用する。それというのも、もともとすでに霊の概
念のなかには、霊の有無は物体の有無とはまったく異なった方法でわれわれに知らされる、ということ
が含まれているからである。おのれ自身をよくわきまえ、おのれを表現することが巧みな視霊者の主張
は、直観する知性のなかに存在する像は物体によって光と眼をつうじてひきおこされるものの、実際に
はそうした物体が存在しない場合に生ずる像とはまったく区別できないということである。たとえば、
どんなときにこうした像が生ずるのだろう。それはなにかが聞こえてくるとき、すなわち騒音、音声、
響きなどが耳にはいってくるときだ。
0369幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/28(水) 09:07:38.160
 これは振動する物体と空気をつうじて耳のなかにもたらされるも
のとまったく同じえある。ところが、じつは振動体があるのでもなく、また振動体が運動しているので
はない場合がある。霊的存在の有無を論ずるすべての議論のなかに示される誤解のもとはここにある。
すなわち霊的現象は、物体の現象とまったく同様にあらわれるという考え方である。もしそのように霊
的現象があらわれるのでなければ、霊的現象などはあるはずがないという見方である。霊的現象と物体
の現象との区別はむずかしく、専門知識つまり哲学的・生理学的な知識を必要とする。なぜなら大切な
のは、ある物体によってひきおこされるのと同じ作用が、かならずしも、なんらかの物体の存在を前提
としてはいないという事実を理解することだからである。

とくに重要なのは、わたしがこれまで何度も詳述してきたことをふりかえり、しっかりと心にとめる
ことである。(とりわけ、拙著『根拠律の四つの根について』第二版・第二一節、『視覚と色彩につい
て』第一節――ラテン語論文『色彩論』第二章、『意志と表象としての世界』正編一二〜一四頁〔第三版
では一三〜一五頁〕それに続編・第二章である。)すなわち、われわれの外界についての直観はたんに感
覚的なばかりでなく、主として知的である。(客観的に表現すれば)脳的であるということだ。――感
官は、それぞれの器官のなかに単なる感覚以上のものを与えない。したがって因果律と、やはりア・プリオリ
に悟性に内在する時間と空間という形式を適用することによってはじめて、物体の世界がつくられる。
こうした直観行為への刺激は、覚醒した普通の状態であればもちろん感官の感覚から生ずるが、こうし
た感覚も、もとはといえば、悟性によって設けられた原因の結果である。しかし、いつか、まったく別
の側から、いうなれば内部から、生体自身から生じた刺激が脳に達し、ついで脳から脳特有の機能と
機構をつうじて、あのような感覚を生ずることがありえないであろうか? それに脳がこうした加工を
してしまえば、もとになる材料がちがっていたことなどは、もはや見分けがつかないであろう。乳糜に
なってしまえば、もとになった食物がなんであったかわからなくなるのと同じ事情にある。
0370幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/28(水) 09:48:34.390
実際になんらかのこの種の場合に遭遇したときには、これによってもたらされた現象の原因はいかに遠いと
いっても、生体の内部以外には求められないのではないか、それとも、たといその現象の原因がなんら感官
の感覚に由来しないとしても、もちろん物理的あるいは物質的なものでないにしても、とにかく外的なも
のではないかという疑問が生じてくるであろう。さらには、与えられた現象がこうしたかけ離れた外的
原因の状態になんらかの関係をもっているにせよ、こうした外的原因がはたして問題の現象の指標を示
すばかりか、現象の本質を表現しているのだろうか、とう疑問が生じてくる。こうした事情からして
も、この問題を扱う場合にも、物質の世界を扱う場合と同様に、われわれは、現象と物自体との関係は
どうなっているかという疑問に導かれるだろう。だがこのことは超越的な立場に立つことであり、そし
ていったんこの立場に立つ以上、おそらく、霊の現象とても周知のように不可避的に観念論に従わざる
をえない。したがって、霊の現象も、大きな迂回をしてはじめて物自体に、つまり真に現実的なるもの
に達することのできる物体の現象と寸分変わらぬ観念性に従うことになるという結果が出てくるであろ
う。ところがわれわれは、この物自体は意志であることを認識している。したがって物自体は物体の現
象とまったく同じように霊的現象の基礎にあると推測される。霊的現象についての従来の説明はすべて
唯心論的であった。そうであったからこそ、ここでは観念論的な説明をしてみようと思う。――

 このようにざっと展望し、何が出現するかを予想したまえおきを終えたあとで、いよいよつまびらか
に問題をしらべてゆくわけだが、わたしはテーマに即してゆっくりと歩をはこぶことにする。ただし
ここで取り扱われる事柄が読者にはすでによく知られているものとわたしが前提としていることを指摘し
ておこう。
0371幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/28(水) 10:46:20.020
 それはひとつには、わたしの専門は物語をすること、つまりものごとをあれこれと述べたて
ることではなくて、ものごとの理論にとりくむことであるからであり、またひとつには、もしわたしが磁
気に関係する病気、夢、幽霊現象など、われわれのテーマの基礎となる材料であって、すでに多くの本
のなかに書かれていることすべてを再びくりかえすとなると、それこそ巨大な本を書かねばならないか
らである。そのうえ、偉そうな態度をとってはいるものの、このところ日に日に信用を失い、じきにイ
ギリスだけで余命を保つようになる無知からくる懐疑主義に戦いを挑むことなどは、わたしの務めでは
ないからである。今日では動物磁気ならびに透視が明白な事実であることを疑う者は、たんに信仰がな
いばかりでなく無知であるといわれる。しかしわたしは多くのことを前提としてかかげなくてはならな
い。少なくとも、霊の出現あるいは霊についての他の報告をとりあげた現存する巨大な量の本の幾冊か
について読者が熟知していることを前提としなくてはならない。そこでわたしは、とくにきわ立ったこ
とが書いてあるところ、論争点になっているところが出現したときだけ、そうした本から引用したこと
を明らかにしよう。その他の点については、わたしは、読者がすでにわたしの他の著述を知っているも
のと考える。そこでわたしがなにかを事実上確立したものとして示した場合には、その基礎資料は確か
なものであるか、それともわたしがおのれの経験に照らして確実だとしたものであることについて読者
の信用がえられるのを確信している。

 ここでまず問題となるのは、実際にわれわれの直観する知性あるいは脳のなかで見られる像は、外的
感官に作用する物体の存在によってひきおこされる像と完全にまったく区別なく、しかもこうした外の
物体に影響されずに生ずるかどうかである。幸いにも、われわれときわめてなじみの深い現象が、この
点についてのあらゆる疑念をとりはらってくれる。それは夢である。
0372幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/28(水) 13:07:12.680
 夢を単なる思考の遊びあるいは単なる空想が生みだす像とすることは思慮の不足あるいは公正さの欠
如を示している。なぜならこうしたものは明らかに夢とはまったく異なっているからだ。空想が生みだ
す像は、いずれも弱々しく、うすぼけており、不完全、一面的であり、それにごく一時的である。した
がって人は、眼のまえにいない人の像を、数秒間もまざまざと思い浮かべるわけにはいかない。それば
かりか、いかに空想力をたくましてしても、空想が生みだすものは、夢がわれわれに与えてくれる手で
とらえることのできるような、はっきりした現実とはほど遠い。夢のなかでのわれわれの表現能力は、
われわれの想像力をはるかに凌駕する。夢のなかで見える対象は、空想力をたくましくしてもけっして
及びもつかないほど現実とまったく同じく、きわめて偶然的な特性にいたるまで、いずれも真実、完全
さ、それに首尾一貫した全面性をそなえている。そのため、もしわれわれが夢の対象を自分で勝手に、選
びだせるとすれば、夢はわれわれに、まったくすばらしい光景を提供してくれるであろう。空想が生み
だすもろもろの像が、同時に受ける現実の外界からの印象によって妨げられ弱められる、という事情に
もとづいて夢を説明しようとするのは、まったく誤っている。なぜなら、真夜のきわめて深い静けさの
なかでも、空想は夢がもたらす客観的ないきいきとした明瞭さに匹敵するようなものを生みだすことが
できないからだ。それに空想が生む像は、つねに思考の連鎖あるいは動機によってもたらされ、こうし
た連鎖、動機の勝手気ままな意識に伴われる。これに反し夢は、ちょうど外界のように、まったく異質
的なもの、われわれの力とは関係なく、そればかりかわれわれの意思に反して迫ってくるものとしてあ
らわれる。それに、きわめて些細なものであっても夢の動きがまったく予期できないことも、夢には客
観性と現実性があることのはっきりした印を与えている。夢のなかのすべての対象は、現実さながらに
はっきり、明白にあらわれる。
0373幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/28(水) 13:25:19.000
 そのことは、たんにわれわれに関連のあるところ、すなわち、平面的・
一面的な、あるいは、おもな一般的な輪郭のなかばかりではなく、最も小さな偶然的な個々の点まで、
つまりわれわれにとってしばしば妨げとなり、われわれの進路を阻むような事情のこまかい点について
まで、はっきりと示される。夢のなかでもすべての物体は影をもち、すべての物体は、いずれもそれぞ
れ特有の重さにしたがって重力によって落下し、あらゆる障害物は、まったく現実におけるのと同様に
しなければ取り除くことができない。また夢がまったく客観的であることは、夢のなかの動きのほとん
どがわれわれの期待に反し、しばしばわれわれの希望とは逆に進むばかりか、ときにはわれわれの度胆
をぬくことによっても示される。さらに、登場人物が、それこそ言語道断の無遠慮さでわれわれに立ち
むかうこと、また夢見る人はだれでもシェークスピアであるという適切な言いまわしを生んだように、
彼ら登場人物が、夢のなかで、純粋客観的な性格と行為について劇的な真実性をそなえていることも、
夢が客観的であることを示している。なぜなら、夢が全知全能であることによって、夢のなかでは、自
然のあらゆる物体は本質的な性質どおりに活動し、また夢のなかではあらゆる登場人物はそれぞれの性
格に完全に即して行動し、かつ語るということになるからだ。これらすべての事情からして、夢が生み
だす幻想はあまりにも強力である。そこで、覚醒したときわれわれが直面する現実自体ですら、いった
ん夢と戦い、もはや夢は存在しなくなったのだ、単なる夢だったのだと夢の迷妄についてわれわれに確
信させるためにおのれ本来の姿を示すまでに、かなりの時間をかけなくてはならない。ものごとを想起
するにあたっても、とりわけ些細なことを思いだそうとするときには、われわれはときに、あのことは
夢のなかで起こったのか、それとも実際に生起したのかを疑うこともある。これに反し、だれかが、あ
るものごとを思いだすとき、これは実際に生起したことであったのか、それとも自分がたんに空想した
ことであったのかと思い悩むようなことがあれば、その人はおのれに狂気の疑いをかけることになる。
0374幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/28(水) 14:29:32.700
これらのことすべては、夢はわれわれの脳がもつまったく特有の機能であり、単なる空想力とその反芻
とは異なっていることを証明している。――アリストテレスも「夢の像はある意味では知覚である」と
言っている。(『夢と覚醒について』第二章)。また彼は、われわれは夢のなかでさえ、現にないものを空
想によって思い浮かるという微妙にして正しい指摘をしている。このことからしても、夢のなかでも
空想は役に立つが、空想自体は夢の媒介物でも器官でもない。

 他方、夢は狂気と否定できない類似点をもつ。夢見る意識と覚醒した意識とのおもな違いは、夢見る
意識には記憶が欠けていること、あるいはむしろ首尾一貫した思慮深い追憶が欠けていることである。
われわれは驚くべき、そればかりか不可能な状況や事態のなかで夢を見るが、そのさいわれわれは、こ
れらの状況や事態と登場しない人物との関連や、これらの人物がいざ登場した場合の原因を探ることは
思いつかない。われわれはつじつまの合わない行動をするが、それはわれわれが、これらの行為と対立
したことを思い浮かべないからである。夢のなかでは、かなり以前に死んだ人がいぜんとして生存者と
して姿をあらわすが、その理由は、夢のなかでわれわれが彼らの死んだことに思いをいたさないからで
ある。しばしばわれわれは、若いころの状況に再び身を置き、当時の人びとに囲まれ、すべてが昔のま
まという夢を見ることがある。それというのも、その後はいりこんできた変化や変貌をわれわれが忘却
しているからである。したがって夢のなかでは、すべての精神活動のうち記憶だけはあまり役立ってい
ないというのは、ほんとうのことであるように思われる。この点に夢と狂気の類似性があるのだが、こ
のことは、わたしがすでに(『意志と表象としての世界』正編・第三六節ならび続編・第三二章で)示
したように、本質的には、記憶能力があるていど混乱することに帰せられる。こうした見方に立てば、
夢は短期の狂気、そして狂気は長期の夢と名付けられよう。したがって全体として夢のなかでは、眼前
の現実の直観はまったく完全なきめこまかなものである。
0375幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/28(水) 22:01:30.370
これに反しわれわれの視界は、欠けているも
の、過ぎ去ったものが、それも偽りのものであってもほんのわずかしか意識のなかにあらわれない以
上、まったく限られている。

 現実の世界では、あらゆる変化がかならず、それに先行する他のものつまり原因の結果としてだけあ
らわれるように、われわれの意識のなかへのすべての思想や表現の登場は、根拠律にしたがっている。
それゆえ、こうした思想や表象はいつも、感覚に対する外的印象、あるいは連想の法則にしたがい(こ
れについてはわたしの主著続編第一四章に書いてある)、先行するものによって出現しなければならな
い。それ以外にはこうした思想や表象はあらわれない。われわれにとって存在するすべての対象を拘束
し制限する例外のない原則である根拠律には、もろもろの夢も、それが出現するさいにはしたがわなく
てはならない。そうはいっても、夢がこの原則にいかにしたがっているかを解明するのはきわめて困難
である。なぜなら夢の特徴は、これがもともと眠りによって制約されていること、つまり頭脳と感官の
普通の活動が停止されていることだからである。これらの活動が休止して、はじめて夢が登場できる。
その間の事情は、部屋の照明が消されてはじめて幻燈の像があらわれるのと同じことである。したがっ
て夢の出現、ひいては夢の材料も、まずは感官に対する外的印象によってひきおこされるものではな
い。浅い眠りのさい、外部の音、それに匂いなどが意識のなかにはいり、夢に影響を与える個々の場合
もあるが、わたしはこれらを特別の例外として無視することにする。だが、夢が思考の連鎖をつうじて
ひきおこされるものでないことも注目すべきである。なぜなら、夢は深い眠りのただなかに、したがっ
て完全な、それこそまったく無意識な状態とみなされるべきであり、思考の連鎖の可能性などはみじん
もないような、脳の本源的休止のときに生ずるか、それとも、夢は眠るとき、ということは覚醒した意
識から眠りへはいる移行のさい生ずるからである。そのうえ、眠りにはいる寸前にも夢が出てくる。
0376考える名無しさん
垢版 |
2015/10/28(水) 22:30:51.240
一生懸命書いてるところすまんが、誰も読まんと思うぞ。
自分のロジックがあるならブログか何かに移動すれば?その方がよっぽど人の目に触れると思うよ
0377幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/29(木) 00:16:25.970
 また夢はなんらかの思考の連鎖によって覚醒時の表象と結びつくことはなく、その材料と登場する機会
を、われわれが知らないどこかから取ってくる。したがって、夢は覚醒時の思考の連なりの糸とは無関
係であることを確信できるようになる。眠りにはいった人がまず見る夢の像は、容易に観察できるよう
に、眠りにはいるときのその人の思考とはなんの関連もないばかりか、こうした思考とはまったく異質
的である。そのために、まるで夢が、世界におけるすべての事物のなかで、われわれが最も少なくしか
考えていなかった事物をわざわざ選びだしたかのように思えてくる。したがってこのことを熟考する人
は、いったい何によって夢の選択と夢の状態が定められるのかという疑問をもつ。彼らは、これについ
て(ブールダハが『生理学』第三巻で、微妙にしかも正しく指摘したように)眠りにはいったとたんに
あらわれる夢はけっして首尾一貫した出来事をあらわしておらず、われわれも他の夢のときとはちがっ
て、ほとんどの場合、行動する者としてはあらわれない。さらにこの種の夢は、眠りにはいったとたん
にあらわれる個々の像からなる、純粋客観的なドラマかあるいはきわめて単純な出来事かのいずれかで
あると特徴づけられている。われわれはこんな夢を見ると、しばしばすぐに目をさます。そのようなとき、
われわれは、こうした夢が、眠りにはいる寸前に存在した思考とは似た点などは少しもなく、類比しよ
うもないほどかけはなれており、あるいはまったく無関係であることを完全に確信できる。むしろわれ
われは、眠りにはいるまえの思考の動きとあまりにちがっている夢の内容の異様さに驚かされる。そ
のありさまは、ちょうど、現実のなんらかの対象が覚醒時に、あまりにも偶然な経路でとつぜんわれわ
れの知覚のなかに出現するのと同じである。しかもこうした夢の現われ方は、しばしばくりかえされ、
夢の内容もあまりにも驚くべきほど盲目的に選ばれるため、まるで、くじ引きかそれともサイコロの目
によってそれがきめられているかのようだ。――根拠律がわれわれの手中に与える糸も、夢のなかでは
内と外の両端で切断されたかのように思われる。しかしそんなことは不可能であり、考えることもでき
ない。
0378幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/29(木) 01:14:29.700
 必ずや夢のなかに、もろもろの像をもたらし夢の状態をはっきりときめるような何らかの原因が
あるにちがいない。したがてこうした原因から、たとえばわたしが眠りにはいる寸前までは他のこと
を考えていたのに、眠りにはいるやいなや、ほかならぬ風に軽くそよぐ豊かな樹木が、やにわにあらわ
れるのはなぜか、また他のときには頭上にかごをのせた娘が、さらに他のときには兵士の一群などがあ
らわれるのはなぜかということが解明されるにちがいない。

 ところが、眠りにはいったとたんでも、眠ってからしばらくたってからでもよいが、とにかく夢があ
らわれてくると、すべての表象の唯一の座であり器官である脳において、外界および身体の内部からの
感官をつうじての刺激が思考によって中断される。そんなわけで、脳は生体の内部から生ずるなにか純
粋な生理的な刺激を受けるのだというほか説明のしようがない。脳に対するこの種の影響には神経およ
び血管の二つの道が開かれている。生命力は睡眠中、したがってすべての動物的機能がとまっていると
きは、まったく有機的な生そのものに還元させられる。生命力はそのさい呼吸、脈搏、体温、それにほ
とんどすべての分泌活動をいくらか減少することによって、もっぱら緩慢な再生産、害を受けたあらゆ
る個所の治療、就眠前にはいりこんできたすべての無秩序の除去にとりくむことになる。したがって睡
眠こそ、その間に「自然の治療力」があらゆる病気に治療効果のある峠をつくり、のさばる害悪に決定
的な勝利をおさめる時間である。そのため眠りのあとの病人は、病気がなおるときも近づいたというはっ
きりした感情に満たされ、心も軽く嬉々として目ざめるのである。いっぽう健康者の場合にも同じよう
なことが起こるけれども、その効果は、すべての必要な点について、病人とくらべればずっと少ない割
合でしかあらわれない。そうはいっても健康者も、目ざめたときには再生、更新の感情に満たされる。
とくに睡眠中、脳は覚醒時には入手不能の栄養を獲得する。その結果えられるものは意識の明瞭さであ
る。
0379幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/29(木) 13:25:47.710
 これらすべての操作は、形成的な神経組織、ということは体全体のなかでおもな神経の線と他の線
とを結びあわせることによって巨大な交換性神経あるいは内的な神経群を形成するすべての巨大な神経
節の指導と制御のもとにある。これらの操作はもっぱら外的関係の指導にあたり、そのために外部にむ
けられた神経器官と、これによってもたらされる表象をかかえる外的神経群つまり脳とは、まったく分
かれ、孤立している。したがって普通の状態ではこうした操作は意識にのぼらず、感じられることもな
い。しかもこの操作は、かぼそくわずかに吻合するだけの神経をつうじて脳組織と間接的な弱い結びつ
きをもつだけである。異常な状態のもとで、あるいはさらに内的部分が損傷したときこの操作が行なわ
れると、例の孤立であるていど揺るがされ、鈍い鋭いのちがいはあれ、そのことが苦痛として意識にの
ぼってくる。これに反し普通の健康状態では、きわめて複雑でしかも活動的な有機的生命の仕事場にお
ける動きや運動、それにこの仕事場の軽やかなあるいは重々しい発展からは、この経路をたどっても、い
かにも弱々しい失われた反響しか意識に到達しない。有機体の生命の仕事場での成り行きは、脳がおの
れ自身の操作、すなわち外部の印象を受け入れること、そのさい物を見ること、考えることに忙殺されて
いる場合には、まったく知覚されることなく、たかだかひそかな無意識的な影響を及ぼすだけである。
こうした影響から客観的理由によっては解明されえない気分の変化が生ずる。ところが、外からの印
象が活動を停止し意識内部での思考の活発な動きもしだいに消滅してゆく睡眠のさいには、有機的生命
の内的神経群から間接的な経路をたどってあらわれでる例の弱いもろもろの印象も、脳の血管に波及す
る血液循環のわずかながらの変化とともに実感されるようになる。そのありさまはちょうど、夕闇がせ
まってくると蝋燭の火が輝きはじめ、昼間は他の物音のために聞こえなかった泉のほとばしる音が夜に
なると耳にはいるようになるのと同じである。覚醒した、つまり活動する脳に作用するにはあまりにも
弱々しいもろもろの印象も、脳の活動がまったく停止したときには、その個々の部分の軽い動きとこれ
らの動きを表象する力を生み出すことができる。――
0380幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/29(木) 14:59:57.060
 そのことは、竪琴が、外部の音に共鳴しなくても
静かにつりさげられていると、おのずから音を発するのと同じ事情にある。この点こそ、例の眠りに
はいったとたんにあらわれる夢の像の原因、ひいては、この種の夢の像のきわめてはっきりとした規定が求
められるにちがいない。さらに、深い眠りにはいったときあらわれる、劇的な結合をもつ夢の原因そ
の規定もはっきりするにちがいない。最も深い眠りのさいに見られる夢は、なんとしても脳がすでに完
全に休止し、栄養をとることに専念している以上、内部からいっそう強力な刺激を必要とするにちが
いない。したがって、個々のしかもきわめて限られた場合に生ずる、予言的な夢あるいは事実と一致す
るような夢は、この種の夢だけである。ホラティウスはこれについて正しくも次のように歌っている。

     ほんとうのことを夢みるのは真夜中を過ぎてからだ。

 けだしこの点については、朝まだき見る夢も、眠りにはいるときに見る夢と同じ事情にある。それは、
じゅうぶん休み、飽きるほどくつろいだ脳はふたたび、いささか刺激に応じやすくなるからである。

 したがって有機的生命の仕事場からの反響は、感情鈍磨ああるいはそうなりつつある脳の意識の活動の
なかにとびこみ、たしかに異常な方法によっておりしかも覚醒時とは別の面ではあるけれども、こうし
た脳の活動を少しくゆさぶる。しかし他のすべての刺激に対する戸口が閉ざされているため、この有機
的生命の仕事場からの反響が基礎となって夢の像形成のための機会と材料がつくられる。そのさい夢の
像と例の反響の印象とはおそろしくちがっていてもかまわない。なぜなら機械的な振動や内部神経の痙
攣によって眼も、外の光がもたらす明るさや光とまったく同じ感覚をもつことがあるからである。それ
に耳は、内部の異常な動きの結果、あらゆる種類の音を聞くことがしばしばあるし、嗅覚の神経は、な
んらの外的原因もないのに特別の限定された匂いを感じることがある。さらに味覚神経も似たような方
法で刺激される。けっきょくすべての感官の神経は、内部からも外部からも、それぞれ固有の感覚を刺
激される。
0381幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/29(木) 21:28:32.440
 これと同じぐあいに脳も、生体内部からの刺激によって、空間を満たすもろもろの形姿を見
る機能をはたすようになる。そのようにして出現した像は、外的原因によってよびおこされて感覚器官
のなかに生じてくる像とはまったく区別されない。このことは、胃が取り入れたすべてのものから乳糜
をつくり、はいりこんできたすべてのものから腸は糜汁をつくるが、これらの乳糜や糜汁は原材料とは似
ても似つかぬものである、ということと同じような事情にある。これと同様に脳も、脳特有の機能を発
揮して、脳に到達するすべての刺激に反応する。第一の反応は、脳自身の直観形式である空間に、三次
元すべてにわたるもろもろの像をくりひろげることである。それにつづく反応は、これらの像を空間の
なかで、因果律にもとづいて動かすことである。時間と因果律にしたがってゆくことは脳特有の活動機
能である。なぜなら脳はつねに、脳特有の言葉を語らなくてはならないからだ。したがって、こうした
言葉によって、脳は睡眠中、内部からやってくる弱いもろもろの印象を翻訳する。その間の事情は、覚
醒時に外部から強力なしかもこれときまった印象を受けたときと同じである。内部から受ける印象もも
ろもろの像をくりひろげるが、これらは外部から感官を刺激されるさいに生じるもろもろの像とまった
く変わらない。もっとも、内外からの二重の印象をいかにして受けるかという経路には少しも類似点は
ない。しかし内部からのこうした印象を受ける人の態度は、耳に到達したいくつかの母音をもとに、も
ちろん誤ってはいるものの、なんとはなしにまとまった文章をつくりあげる耳の悪い人の態度にそっくり
である。あるいは、偶然にちょっとした言葉が耳にはいると、やにわに固定観念にもとづいてものすご
い妄想をたくましくする狂人の態度とも似ている。ともかく脳のなかまで踏み迷い、夢をつくる機会を
与えるのは、生体内部のある種の動きの弱い反響である。したがって夢はこの反響の印象の種類にした
がってそれぞれ独特の姿を示す。少なくとも夢は霊の印象から合図を受ける。そればかりか夢は、たと
い霊の印象とはまったくちがったものであるにしても、どことなくそれに似ているが、少なくとも象徴
的に対応している。
0382幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/10/29(木) 22:16:43.470
 このことは深い眠りにはいったときに脳を刺激する印象について、とくにはっきり
言える。それは、こうしたときこそ印象はきわめて強力なものとなるにちがいないからだ。そのうえ、
有機的生命の内的な動きは、外界の知覚にたずさわる意識に異様かつ奇妙な方法で作用するために、こ
うした経路で生ずる夢のなかの視覚は、まったく予想外のものであり、こうした夢を見るまえに存在し
た思考の動きとは完全に異質的かつ異様な形姿にとりくむことになる。われわれも、眠りこけたとき、
そしてすぐに目ざめたとき、このことをみずから観察できる。

こうした説明のすべてはさしあたり夢があらわれる直接の原因、あるいはその機会を教えるだけであ
る。しかも夢のあらわれる原因や機会はたしかに夢の内容にも影響を与えるけれども、夢の内容とはあ
まりにも異なっているために、両者の類似性がいかなる性格のものであるかはいぜんとして解明しがた
い。そのうえ、もともと夢が出現する場所である脳内部の動きはますます謎に満ちている。眠りは脳の
休止だが、夢はいくらかではあるが脳の活動である。したがってわれわれは矛盾におちいらないため
に、脳の休止といっても相対的なものであり、いっぽう夢見る脳の活動はきわめて制限された部分的な
活動であると、説明しなくてはならない。だが、どういう意味で夢が脳の制限つきの部分的な活動であ
るのか、それは脳の一部の活動あるいは活動の度合いの少なさなのか、あるいは脳内部の運動の種類の
ちがいなのかといったこと、それに、もともと夢を覚醒時の状態から分けるものは何かということをわ
れわれは知っていない。――夢のなかで活動しないような精神力はない。それでも夢の経過や、夢のな
かでのわれわれの振舞いは、しばしば異常なまでの判断力の欠如や、すでに述べたように記憶の喪失を
示している。
0383幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/30(金) 00:54:31.490
 いまとりくんでいるテーマに関連して、われわれは空間を満たす対象を見てはっきりと表象したり、
ありとあらゆる種類の音や声を聞きかつ理解する能力をもっているが、両者の能力はともに感官、感覚
の外的な刺激を夢のなかでは必要としないこと、他方、覚醒時にはこうした感官による感覚の外的刺激
はわれわれの直観に材料あるいは経験的基礎を与えるもととなるものではあっても、けっしてわれわれ
の直観と同一ではないという事実がある。なぜならわれわれの直観はまったく知的であり、けっして
たんに感覚的ではないからである。この点についてはわたしは何度も述べてきたし、それぞれ関連する
場所で説明しておいた。この疑う余地のない事実はしっかり心にとめておかなくてはならない。なぜな
らこの事実こそ、われわれのこれから述べるすべての説明のもとになる原現象だからである。そしてわ
れわれは霊の能力のいっそう幅広い活動の説明にとりくんでいくことになろう。スコットランド人は、
経験の賜物である適切な機転に導かれてきわめて意味深長な言葉を選び、この能力を最もすばらしく表
現した。彼らはこの能力の現われ方あるいはその用途の特別な持ち味に目をつけた。彼らのその表現は
「セカンド・サイト」つまり第二視覚である。なぜなら、いまここで述べている夢を見るという能力は
じじつ第二の能力であり、外的感官をつうずる直観能力、つまり第一の能力ではないけれども、その対
象となるものは、種類・形式からして第一の能力と同じだからである。このことから推論されるのは、
第二の能力も第一の能力同様、脳の機能だということだ。したがって例のスコットランド人の命名は、
関連現象のすべての種類を記述し、これらひとつの根本能力に帰するうえで、たしかに最適のもので
あろう。しかしこの言葉を発明した人はこれを第二の能力の、めったにあらわれない特別な注目すべき
表現を記述するときにだけ用いている。したがってわたしとしては、どんなにこの言葉を用いたくと
も、霊の直観の種類、もっと正確にいえば、これらの直観のなかに展開される主観的能力すべてを名づ
けるために使用するわけにはいかない。
0384幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/10/30(金) 16:48:17.200
 それに代わるものとしては、いまのところ夢の器官という言葉
以上に適切なものはない。これならば、だれにでもよく知られており、周知の現象のあらわれをつうじ
て、問題の直観方式をうまく表現できる。そこでわたしはこの言葉を、これまで示してきた感官への外
部からの印象とは独立した直観能力を記述するさいに用いることにする。

夢の器官が普通の夢のなかで示す対象を、われわれはまったく幻想的なものとみなす傾きがある。そ
れはこうした対象が覚醒と同時に消失するからである。ところが、いつもそうだとはかぎらない。われ
われの主題にかんしては、例外をおのれの経験に照らして熟知することがきわめて重要である。おそら
くだれでも、それ相応の注意力をこのことに向けるようになれば、じゅうぶん納得することができるだ
ろう。すなわち、われわれはたしかに眠り、夢を見てはいるのだが、それとともに、われわれをとりま
く現実自体もいっしょに夢見ているという状態がある。こうした場合には、われわれは寝室とそのなか
にあるものすべてを見ているし、さらに寝室にはいってくる人の姿を見る。そしてわれわれは寝台に寝
ながらにして、これらすべてを正しくそしてじゅうぶんにわきまえている。それでもわれわれはまっ
たく眼を閉ざしたままである。われわれは夢を見ている。しかしわれわれが夢で見ているものは、真実
であり現実である。これはまるで、われわれの頭蓋がすっかり透明になり、そのため外界はもはや感官
のせまい扉を通る迂路を経るのではなく直接脳に到達したかのよおうな状態に他ならない。この状態は
普通の夢とちがって、覚醒時の状態とほとんど区別しがたい。だがそうはいっても(これについては
『意志と表象としての世界』正編・第五節一九頁、〔第三版一九頁以下〕を参照のこと)覚醒は、目ざめ
た状態と夢のあいだの唯一の基準であり、夢ではその客観的なおもな側面の半分がなくなる。すなわ
ち、これまで述べてきたような種類の夢からさめると単にわれわれの主観的変動が生ずるだけだが、こ
れはわれわれが突然われわれの知覚器官の変化を認めることにある。
0385幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/11/01(日) 17:18:14.470
 しかし認めるといっても、かすかにやっと認めるという程度である。それはなんら客観的な変化に伴わ
れていないため、気づかれないですまされることもある。こうした事情のために、現実を示す夢には、多
くの場合、現実には属さない像が混合され、こうした像が覚醒と同時に消失するとき、あるいは、そのこ
とについてはすぐに後述するが、こうした夢の濃度がきわめて濃いときにかぎって夢を見たことが知覚さ
れる。いま述べたような種類の夢はふつう睡眠中の覚醒といわれる。それはなにもこの種の夢が覚醒の中
間にあるからではなく、この種の夢は睡眠しているあいだに覚醒すること自体を示しているからである。
したがってわたしはむしろこれを正夢と名づけようと思う。たしかにこの種の夢については、ほとんどの
場合、早朝あるいは眠りにはいってからしばらくたったあとの夜間、自分が見たことに気づくであろう。
それはただ夢を見た記憶が残っているのは眠りが深くなく、すぐ目ざめる機会があるときだという事情が
あるからだ。じつは、この種の夢がはるかにひんぱんに深い眠りのさいにあらわれることは確実である。
夢遊症患者の眠りが深ければ深いほど、彼らはよりはっきりと夢見ているというのが通例となっている。
だが彼らは、自分が見た夢についてなんらの記憶も残していない。これに反し、この種の夢が浅い眠り
のさいによくあらわれるということは、眠りが浅いときには、催眠術にかけられて見る夢からさえ例外的
に記憶が意識のなかに残っていることによって説明できる。このことについての実例はキーザーの『動物
磁気のための記録』第三巻・一三九頁に見いだされる。それによれば、こうした直接に客観的な
正夢の記憶は、われわれがすぐに目ざめるような、たとえば朝の浅い眠りのなかに出現したときだけ残っ
ている。

 身近な眼前の現実を夢見るという特徴あるこの種の夢は、夢見る人の視野を拡大させ、その人を寝
室から出て行かせることによって、ただでさえふしぎな性質をさらにいっそう謎めいたものにする。
0386幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/11/09(月) 19:04:39.310
――すなわち、夢見る人にとって、窓のカーテンや雨戸が視覚の障害とならなくなり、これら障害物の
背後にある内庭、庭園、道路あるいは道路に面した家々などをはっきり見るようになることである。し
かし見るといっても実際に生理的視覚が出現するのではなく、ただ単に夢なのだということを考えれ
ば、なにもそんなに驚くことはない。そうはいっても、ここで見ているものは、いま現実にあること、
したがって正夢であり、さらに、光線の間断のない通過という条件には束縛されない夢の器官をつうじ
ての知覚である。もともと頭蓋自体が、まず知覚の特殊な性格をそのままそっくり保っておく最初の隔
壁である。ところがこの隔壁がいくぶんか取り除かれれば、カーテン、ドア、壁のたぐいは知覚にとっ
ての障壁ではなくなる。ではどうしてそのようになるかということは、いぜんとして謎である。われわ
れにはここではほんとうのことが夢みられていること、つまり夢の器官による知覚が生じたということ
以上はわからない。われわれの観察にとって基本的な事実はこれで終わりであろう。もしそうしたこと
ができるとして、われわれがこの説明のためにできることは何であろうか? それはまずこれに結びつ
いているすべての現象をとりまとめ、段階的に整頓することである。しかもその目的はおそらく、問題
の現象の真髄をもっとよく洞察できるのではないかと期待しつつ、諸現象相互のあいだの関連を認識す
ることである。

 ところで、自分でこうした経験をいっさいもたない人でも、夢の器官をつうじての前述の描写の正し
さを、本来の自然な夢遊症によって信じるようになるだろう。この病気にかかった人がすっかり眠って
おり、眼ではなにものも見ることができないことは確実だ。それにもかかわらず夢遊症患者は身近な環
境のすべてがわかり、あらゆる障害物を避けて長い道のりを歩き、きわめて危険な谷間にかかる狭い橋
を通り、まちがいなく目標に達することもできる。こうした患者のうちのいくたりかは、睡眠中であっ
ても正確にきちんと日常の家事をかたづけることができるし、他の患者は、まちがいなく文案を練り文
章を書くことすらできる。
0387幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/11/09(月) 22:58:36.340
これと同じような仕方で、催眠術をかけられた夢遊症患者は、まわりの環境
がわかり、透視ができるようになると、きわめて遠いところにあるものを知覚するようになる。ある種
の仮死状態にある人が、体が硬直して腕一本動かすことができずに寝たきりなのにもかかわらず、身のま
わりに起こることを知覚することがあるが、この知覚もあきらかに、この種の夢遊症患者流の知覚と同
じである。この仮死状態にある人も現在の環境を、感覚とは別の経路で意識にのぼらせている。こうし
た知覚の位置、あるいはそのための生理学的器官がどこにあるかをつきとめるために、数多くの努力が
払われてきたけれども、これまでに成果らしい成果はあがっていない。夢遊症の状態が完全に出現した
とき、外的感覚の機能がまったく停止することは、論争の余地のない事実である。そのさい、外的感覚
のなかでも最も主観的な感覚である自分の肉体についての感覚もまったく消滅するために、きわめて苦
痛を伴う外科手術を催眠中の患者に行なったにしても、その患者はそれについての感覚をいささかも示
すことはないだろう。この最も深い眠りの状態にあるときには、脳もまったく活動していないようだ。
夢遊症患者自身の発言、供述なども加味して考えると、次のような仮説が立てられよう。すなわち、夢
遊症の状態にあっては脳の力はまったく奪われ、生命力は交感神経のなかに集められる。交感神経のな
かでも大きな網状組織つまり「太陽叢」はいまや意識の座に変化し、代行として脳の機能を受けもつよ
うになる。この代行機能はなんらの外的器官の道具のたすけによることなく、しかも外的器官よりはる
かに完全に作動する。これが問題の仮説である。わたしが信ずるところによればライルによって立てら
れたこの仮説には、もっともらしさがないわけではなく、これが発表されていらい高く評価されてい
る。この仮説の支えとなっているのは、透視ができるほとんどすべての夢遊症患者が、彼らの意識の座
は完全にみぞおちに移り、かつては頭で行われた思考や知覚がいまやみぞおちで展開すると述べてい
ることである。
0388幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/11/10(火) 22:41:28.590
 これら夢遊症患者の多くははっきり見たい対象を胃のあたりに置く。それにもかかわら
ず、わたしはそんなことはありえないと思う。「腹腔神経叢」ともよばれているこの器官「太陽叢」を見
るがよい。まったく小型であり、神経物質が環状になっていて、多少ふくれあがっているだけの、それ
こそきわめて単純な構造だ! もしこうした器官が物を見たり考えたりする機能を果たせることになれ
ば、他の点ではどこでも確かめられている「自然は無駄なことをしない」という規則があてはまらない
ことになる。それというのも、もしそうなら脳はいったい何のためにあるのかということになるから
だ。大多数の人びとにあっては三ポンド、特別の人でも五ポンドの重さしかないけれども、脳はきわめ
て貴重であり、じゅうぶんに保護されている。脳の各部分はいずれもきわめて芸術的につくられてお
り、複雑にいりくんでいる、そのためにこの器官の構成の関連性を理解し、内部の多くの部分の驚くべき
形態と結合についておおよそのイメージをつくりあげるためにも、各種各様の解剖分析をくりかえし行
なう必要がある。第二に考慮すべきことは、夢遊症患者の歩みと動きがすこぶる迅速で、夢の器官に
よってのみ知覚される身のまわりの環境に性格に適合していくことである。したがって夢遊症患者は、
敏捷に、どんなに頭のはっきりした人でもかなわないほど巧みに、あらゆる障害物をあわやというとき
によけ、やはりきわめてじょうずに、これと定まった目標へと進んでいく。ところが原動力となる神経
は脊髄から出ている。しかもこの脊髄は延髄をつうじて、運動の規制をする小脳と結びつき、そして小
脳は、もろもろの表象である動機が鎮座する大脳と結びついている。このような結びつきがあるおかげ
で、瞬間的にどんなに速い運動でも、それこそすばやい速さで通過する知覚に適合することが可能とな
る。しかしもし動機として運動を規定するもろもろの表象が、困難で頼りにならぬ迂路をとって間接的
に脳と結びつくことがやっとできるだけの「腹腔神経叢」のなかに置きかえられたとしよう。
0389幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
垢版 |
2015/11/10(火) 23:54:56.560
そうすれば(われわれは健康状態にあっては、われわれの有機的生命力の強力で休みない活動をまっ
たく確かめることができない)この神経叢のなかに生ずるもろもろの表象は、いかにしてそれも電光の
ようなすばやさで、危険がいっぱいの夢遊症患者の歩行を導くことができるのだろう? ――ついでなが
ら言っておくが、夢遊症患者がきわめて危険な道を、覚醒時にはけっしてできないほどなんらの失敗や
恐怖心もなく進んでいけるのは、こうした病人の知性が完全無欠でなく一面的であること、すなわちその
知性がおのれの歩行を導くのに必要なだけしか活動していないことから説明できる。こうした事情があ
るために、このような病人にあっては、反省やそれに伴うためらいとか戸惑いといったものがすべて消
失する。――少なくとも夢は脳の機能のひとつであるということは、トレヴィラヌスが(『有機的生命
の諸現象について』第二巻・第二部一一七頁で)ピエルカンにしたがって提示した事実によって実際上
確立されたものであることが、ついに判明した。「ある少女の頭蓋骨はカリエスによって一部損傷を受
けた。そのための脳髄はまったく露出し、覚醒時にはとびだし、睡眠中はひっこむようになった。静か
な眠りのさいにはこのひっこみ方がいちじるしい。活発に夢を見ているさいには、組織の緊張状態が生
ずる。」だが夢遊症も夢とただ度合いの点でちがっているだけだということは明らかである。夢遊症患
者の知覚は夢の器官によって生ずる。こうした人はいわば直接的正夢を見ていることになる。

 ところで、反駁されている例の仮説を次のように変更できるであろう。すなわち腹腔神経叢はみずか
ら意識の座となるのではなく、意識の外的な道具の役割、つまりやはり完全に代行された感覚器官の役
割を演ずる。それとともに、脳に伝えられる外からの印象を受け入れ、それを脳の機能に即して加工
し、外界の状況を、通常時に感覚器官での感覚にもとづいて行なうように図式化し形成するというので
ある。だがこの主張でも難点がくりかえされる。それはこの内的神経の中心部で受けたもろもろの印象
を、きわめて遠方にある脳の電光のようなすばやさでいかにして伝えるかということである。
0390幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB
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2015/11/11(水) 23:27:12.440
しかもこの場合、太陽叢はその構造からして、思考の器官とともに視覚や聴覚の器官となることにも適して
いない。それに皮膚脂肪、筋肉、腹膜それに内臓による厚い壁は光の印象をまったく遮断する。さらに夢遊
症患者の大部分が(これについては、フォン・ヘルモントが『医学の園』一六六七年、「狂気」第一二節
一七一頁に詳述している)、たとい彼らの見ること考えることは胃のあたりで生じていると証言してい
るにせよ、われわれは、これを客観的に妥当であるとはただちに受けとれない。それに夢遊症患者のう
ちのいくたりかがこのことを否定している以上、なおさら受けいれるわけにはいかない。たとえば、か
の有名なるカールスルーエのアウグステ・ミュラーは(この女性夢遊症患者をあつかった報告の五三頁
で)自分はみぞおちではなく眼で見ていると述べ、さらに他の夢遊症患者の多くはみぞおちで見ている
と述べている。そして「思考力もみぞおちに移しかえられるのか?」という質問に対し、この夢遊症患
者は、「そうではない。しかし視力、聴力は移される」と答えている。キーザーの記録の第一〇巻・第
二冊一五四頁に出てくる他の夢遊症患者の供述はこれに即応している。この患者は、あなたは脳全体で
考えるのか、それとも脳の一部で考えるのか?」という質問に対し「わたしは脳全体で考える。だから
そうするとたいへんくたびれる」と答えている。これら夢遊症患者のすべての証言の成果は、彼らの脳
の見る活動への刺激や材料は覚醒時のように外から感覚をつうじてやってくるのではなく、夢の場合に
説明したように、生体内部からくるということ、また生体を制御し指導するのは周知のように巨大な交
感神経叢であり、これは神経の活動にかんするかぎり、頭脳組織を別として、生体全体を代行し、代表
するものであるということにあるように思われる。これらの証言は、われわれがじつは脳のなかで感じ
ているにもかかわらず足で感じられているように思っている痛みは、足に至る神経の糸が中断されるや
いなや消失するということと比較できる。したがって夢遊症患者が胃のあたりで物を見たり読んだりす
るばかりか、こうした機能を指、爪先あるいは鼻の先ではたすことができると主張しているのは、まっ
たくの迷妄である。
0394考える名無しさん
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2016/02/07(日) 18:14:56.290
白水社の全集買ったのだが、翻訳は全部これ読めばいいかね?
(西尾訳とかは読まなくていい?)
0396考える名無しさん
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2016/02/16(火) 21:22:29.940
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
0398考える名無しさん
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2016/04/03(日) 00:14:08.480
そう思いたい人はそれでいいと思う
0399考える名無しさん
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2016/05/07(土) 20:56:14.560
土屋誠一
例えば、『けいおん!』を読んだ後に、ショーペンハウアー読んだって構わないわけだから、
文化の階層はフラットになり、コンテクストももはやあまり意味がないわけだが、
俺、『けいおん!』もショーペンハウアーもない世の中は、さすがに嫌だわ。マジで。
2016年5月5日
0400考える名無しさん
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2016/05/18(水) 11:34:46.910
ニーチェの語る「神の死」は、19世紀を生きるニーチェが恐らく直観的に感じていたものであろう。
しかし、ショウペンハウアーの著作『意志と表象としての世界』に出会い、初めてはっきりとした認識に至った。
  ニーチェが出会ったショーペンハウアーの主張は次のようなものである。
 
 我々の生とは自己保存のための戦いであり、存在の根本にあるのは<生きんとする意志>である。
各人は<生きんとする意志>に発する自分の欲望が満たされないために悩み苦しんでいる。つまり、意志は意志であることに苦悩している。
 苦悩から救われ、生の苦痛が軽減されるためには、この生とその欲望を否定し、すべからく断念と諦念のうちに生きねばならない。
http://www2.odn.ne.jp/oasalc/sakuhin/soturon.htm
0401考える名無しさん
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2016/05/22(日) 00:18:39.090
永澤 護
ショーペンハウアーはニーチェよりはるかに偉大であり賢いという観点:
ショーペンハウアーは30歳足らずでパラダイムを変革したが、
ニーチェは「ショーペンハウアー革命」の枠内で可能になる「通常科学」を営んだに過ぎないという観点がそれである。
#ショーペンハウアー #ニーチェ #哲学
2016年5月18日
0402記憶喪失した男(愛知県)
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2016/09/07(水) 18:32:43.010
カントへの反駁は、ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」では不適切と判断を下す。
フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」は適切であるとみなす。
0403記憶喪失した男(愛知県)
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2016/09/07(水) 18:58:49.910
ショーペンハウエルは、物自体を前提に世界観を築く時、
主観と客観の関係に異変をもたらすことに気づいた。
ここまではよい。
だが、主観と客観を意志と表象に置き換える作業は、
主観を表象として、その根拠となる客観を物自体=意志であるとしたのは誤謬であるといえる。
物自体を前提に、主観と客観を再構成することに成功していない。

主観と客観は。フッサールがいうように、物自体を想定すると、客観は一切認めることができないものとなる。
0404考える名無しさん
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2016/09/07(水) 21:27:08.820
「意志と表象」は「物自体と現象」と言い換えることは出来ますが
「客観と主観」と言い換えることはしませんね
もしかすると読み違えてませんか?
0405記憶喪失した男(中部地方)
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2016/09/11(日) 18:14:49.040
意志を物自体と言いかえることがまちがいだといってるのだ。
0406考える名無しさん
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2016/09/11(日) 18:34:46.160
フッサールが間違っているんだよ
0407考える名無しさん
垢版 |
2016/09/11(日) 18:35:44.740
人は物自体を捉える事が出来ないからね
0408記憶喪失した男(中部地方)
垢版 |
2016/09/11(日) 23:24:06.200
意志は「我思うゆえに我あり」でとらえることができるのに、
なんで、物自体の言いかえになるわけ?
0410考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 00:11:26.610
書いてあることを認めるかどうかは別として
大雑把に言えばデカルトの引用で捉える意思は客観的に捉えているものだとしている
0411記憶喪失した男(中部地方)
垢版 |
2016/09/12(月) 08:51:37.550
意志が客観的なもののわけがないだろ。
明らかに主観的だ。
0412考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 09:48:59.040
それが君の限界だ
0413考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 10:26:10.790
「意志」という言葉を使っていることに批判的な人もいるが
これ以外の言葉を充ててもピンとこないね

>>411
ショーペンハウエルは物自体は客観界のどこをさがしてもないのだから
(客観界でそれをさがせば客観自体、素朴実在という鬼火をさがすこととなる)
物自体は主観的なものだと言っている

意志と表象としての世界は難解ではないが
ショーペンも言う通りカントを読んで誤読しない程度の下準備は必要なのかもね
0414考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 10:38:37.860
そもそも、デカルトの二元論に留まっているのであれば
カントが読めないんだけどね
0415考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 10:50:39.530
>>406
フッサールの現象学は物自体を炙り出そうとするものではないからね
そもそも考えてないね
0416記憶喪失した男(中部地方)
垢版 |
2016/09/12(月) 11:59:41.100
>>413
客観界がどこを探してもないというのは正しい。
だが、物自体が主観的なものだというのはまちがっているのではないかな。

物自体が存在して、我々の意志はすべて物自体の表象であり、
客観は存在しないというのがフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」だ。
0417考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 12:25:20.710
>>416
違いますってば
「客観が存在しない」は「直接与えられた表象が存在しない」というのであって
そんな事は誰も言ってません
客観界に物自体を探す事が出来ないと言っているわけです
0418記憶喪失した男(中部地方)
垢版 |
2016/09/12(月) 14:25:18.550
>>417 直接与えられた表象が客観であるというのはショーペンハウエルがいっていることであって、
客観が存在しないというのはフッサールがいっている。
0419考える名無しさん
垢版 |
2016/09/12(月) 14:34:16.390
>>418
ショーペンの場合は形而上学です
この存在をこのようにならしめるのは何か
意思の一元論で世界を記述する

フッサールの場合は、主観に嵌まり込んだ存在である人間がどのように信を形成するのか

ともに、客観に対し「真に客観的なもの」など想定していないんですよ
ですから矛盾する立場では無いんです
0420記憶喪失した男(中部地方)
垢版 |
2016/09/12(月) 23:28:03.590
>>419 フッサールは真に客観的なものは想定していないが、
ショーペンハウエルは「意志と表象としての世界」で意志を客観としているというのが、
あなたの意見だったのではないのか。それはまちがっていると指摘しただけだ。
0421考える名無しさん
垢版 |
2016/10/26(水) 20:32:50.140
ドイツ語読めないのですが、翻訳なら英語じゃなくて日本語でいいですよね?
その場合、主著だけなら、西尾幹二訳でいいですか?
0422考える名無しさん
垢版 |
2016/11/05(土) 19:56:17.860
フッサ−ルは客観的存在を認めていたが、その客観的存在を
現象学的還元によって、構成的内在(主観領域)に於いて捉えている。
つまり、西田幾多郎の「絶対無」の論理と同じ様に「世界が自己となる」という論理
として、構成的内在に於いて捉えられている。従って、構成的内在が主観的領域と言っても、一般的な
主観領域の概念とは異なる。つまり、現象学的還元による“本来的次元”に於ける“主観概念”である
ことに留意しなければならない。
0423考える名無しさん
垢版 |
2016/12/01(木) 21:42:10.570
ショーペンハウエルの幸福論が愛読書の人っていますか?
0426考える名無しさん
垢版 |
2017/03/03(金) 00:44:38.710
笑うショーペンハウアーって面白いですか?
必読ですか?
0429考える名無しさん
垢版 |
2017/06/29(木) 18:05:41.550
同意
0431考える名無しさん
垢版 |
2017/07/29(土) 21:14:22.900
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
0432考える名無しさん
垢版 |
2017/08/11(金) 17:28:07.150
ちょっとあまりに基礎的な質問で恐縮ですが
新潮文庫の「幸福について」と白水Uブックスの「孤独と人生」の内容は同じなのですか?
0433考える名無しさん
垢版 |
2017/08/24(木) 22:58:11.400
意志と表象としての世界を買って読もうと思ってるんですが、西尾幹二の翻訳の質ってどうですかね?
西尾幹二じゃない翻訳の方を読んだ方がいいと思いますか?
0434考える名無しさん
垢版 |
2017/09/20(水) 22:52:07.210
アッー!
0435考える名無しさん
垢版 |
2017/09/25(月) 06:10:00.110
ケーベル先生に学んだ夏目漱石氏、その同僚の姉崎正治氏、その親友の高山林次郎氏によって
日本にショーペンハウエルは紹介されたけど、その後影響を受けた太宰治や芥川龍之介が自殺してしまっていたり、
もしかしたら日本はショーペンハウエルの悲観主義や反出生主義の側面ばっかり強調して知らずのうちに社会に
取り込んでしまったのかも知れないね。
0436考える名無しさん
垢版 |
2018/01/02(火) 16:17:27.470
和辻の卒論がショーペンハウアーなんだよな。
0437考える名無しさん
垢版 |
2018/01/02(火) 19:57:57.810
>>435
ペシミズムは悲壮感から来るものだが、死を強く意識する点では武士道に通じるものがあって
日本人の国民性と親和性が合致したのかもしれない
それにしてもこれほど死を美化する民族って他にいるんだろうか
0438考える名無しさん
垢版 |
2018/01/02(火) 20:17:16.640
ハイデガーの母国もそうなんじゃないの。
人間の本来性は死を覚悟するものだということで。
0440考える名無しさん
垢版 |
2018/01/26(金) 00:29:41.630
この人よりも説明が簡潔で分かりやすい哲学者はいないと思う、ヘーゲルとは正反対だ
0441考える名無しさん
垢版 |
2018/01/26(金) 01:14:51.220
ショーペンハウアーの正体はヒトの生態調査に来たエイリアンなんじゃないか?
0442考える名無しさん
垢版 |
2018/01/27(土) 14:26:08.450
スレタイが最悪だな
ショーペンハウアーに最初にペシミストのレッテルを貼ったのはただのキチガイ素人哲学者のマインレンダーだしその風評被害を持ち込んだ森鴎外はそもそもショーペンハウアーの著作もマインレンダーの著作も読んだことがない又聞きだけの野次馬だし
ショーペンハウアーに対してペシミストのレッテルを貼るのはまったくもって不当だ
0443考える名無しさん
垢版 |
2018/01/27(土) 19:14:32.390
ショーペンハウアーは、生きてても良いことなんてないと言ってる訳で
実際ペシミズムな訳だが
0444考える名無しさん
垢版 |
2018/01/28(日) 05:24:07.970
悲観主義を前提に「それでも」何かを成そうと生きることに意義があるという文脈でないかな。
0445考える名無しさん
垢版 |
2018/01/28(日) 05:35:12.010
西尾維新氏の作品を支持してる読者はどれくらい自覚的な実存主義者なんだろうな。
武器の名前が「自殺志願(マインレンデル)」だったり異能の力が「過負荷(マイナス)」だったり芥川龍之介、夏目漱石、太宰治の言葉を引用してたり、
直接ショーペンハウエルの言葉を散りばめるんじゃなくて、後から影響を受けた人物からの引用が目立つ。
0446考える名無しさん
垢版 |
2018/01/28(日) 12:54:31.340
ショーペンハウアーの意志と表彰の世界をちゃんと読むにはその前に書かれた論文である根拠律の論文や色彩論の論文も読まないといけない
第1巻の時点でショーペンハウアー自身が自分が以前に書いたそれらの論文で説明しているので本稿では説明を省略すると断っている記述が大量に、しかも理論の基盤となる重要なポイントで出てくる
一冊で完全な体系として残してくれれば俺の財布に優し買ったのになぁ、やっぱシリーズ全部買わせたいというショーペンハウアーの父親譲りの商人気質がここに現れてるんじゃないか
0447考える名無しさん
垢版 |
2018/02/01(木) 18:31:03.960
ショ−ペンハウア−哲学の客観(=物自体)とは、“何らかの主観に認識された対象物”と定義されている。

従って、カント哲学での「物自体」とは、大きく概念が異なっている。ショ−ペンハウア−は、“世界のすべての事象(客観的世界)”は
自己の主観を通して認識されるとしている。

カントの主観と客観(物自体)との連関に見られる“物自体”の捉え方は、形式論理思考(三段論法)に基づく主観の認識を基底として
“物自体”を捉えている。当然、形式論理思考からは“物自体”を導き出すことはできない。

従って、カントの場合は、主観と客観との関係は、完全に切り離されて定義化されている。
0450考える名無しさん
垢版 |
2018/02/22(木) 00:14:09.910
ショーちゃん誕生日おめでとう!!
0451DJ学術 
垢版 |
2018/02/22(木) 07:35:19.690
主観だけじゃ世界が欠けるだろう。客観があるから物は見えている。
0452考える名無しさん
垢版 |
2018/02/22(木) 09:20:24.500
客観があるから見えてると言うのは、結局は誰にも分からないとして経験論では無視してた訳だが
そういう態度でいるのが妥当だろうな、カントのように分からないけど確かにあると前提することで
有効な法則性を抽出しようと言う試みにも一定の意味はあるだろうが
幽霊がいるみたいな不確かなことを断定的に定義しようとするのやはり信仰だ
0455幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/03/10(土) 19:21:08.790
学習院でショーペンハウエル研究やるんだってな。ついに皇室まで動き始めたか。
0456考える名無しさん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:00:45.610
>>446

後のエッセーで「私の主著、私の主著」と繰り返し言及してるから、
「これ一冊を読めば十分なんだな?」と思ったんだが。

そうじゃなかったのか。
0457幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/03/10(土) 21:17:16.810
「根拠律の四つの根」はラテン語が原文だからな。私はショーペンハウエルの伝記を、ロシア語で読んだ。
恐らくドイツ語よりも読みやすい筈。
0458考える名無しさん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:30:51.800
時間・空間の考え方なんかは、思いっきりカントっぽいな?
0460幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/03/11(日) 02:24:47.830
>>457
どんな罪なんだよ? 幸ちゃんはショーペンハウエル大先生と同じ仏教徒だから、
原罪という考え方はしない。
0462考える名無しさん
垢版 |
2018/03/11(日) 02:59:36.700
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

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0465幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/03/14(水) 09:56:49.560
何故第一印象で未来の妻を可愛いと思ったのだろう?

この答えは「自然の大意志」としか言いようがない。つまり、自然が幸ちゃんにこの女性に将来
子供を産ませるように命じたわけだ。様々な妨害のために長い年月を経てしまったが、
今やっと過去の記憶の大切な部分が戻った。やはり儀式じゃなくて認識なんだ。
愛の告白? バカバカしい。我々が1年半感情を共にしたことを、何で自然は忘却させていたのか?
いや、逆に忘却という狂気によって種族の霊は我々二人を守ってくれたのだ。
ショーペンハウエルはこう述べている。「幸福は、どんな時でも、決してありえないような場所にしか、存在しない」と。
本当にその通りだな。心が満たされるとどうなるか? 感情がなくなって、食欲と性欲と睡眠欲が残るだけだ。
それ以外の感情はない。つまり、生まれたばかりの赤ん坊と同じで、本能のみになり、理性もなくなる。
だが、理性がなくなっても、倫理は残るし、肉体的苦痛もあるわけだから、神経だけで動くということだ。
いくら他の女が誘惑しようと、無反応なら、もう誘惑すらされなくなる。これこそ、「完全な結婚」なのだ。

じじつまた、激しい熱情は通常、一目見たときに生ずるものである。

  真に恋し者にして、ただ一目見て恋せざりし者のあるべきや 
                     (シェークスピア『お気に召すまま』第三幕・第五場)


要するに4歳の幸ちゃんが「この娘可愛い」と思ったことが「激しい熱情」だったわけだ。
勿論、幼児の幸ちゃんにはそれを表現する方法は限られている。そこで未来の妻は、
熱情を結婚に変換するための「儀式」を仕組んだわけさ。女は直接的にしか愛を確認する
すべがない。それが茶摘みの手遊びだったわけだ。そして幸ちゃんはそれに勝利し、愛を
勝ち取ったわけだが、幼児には結婚もセックスもまったく理解できない。そして忘却の薬を
飲まされて狂気に陥った。長い年月を経て記憶を回復し、狂気から脱し、今度こそ本当に
「愛とは単なる性欲の表現手段に過ぎぬ」と幸ちゃんは証明した! これならショーペンハウエル
もフロイドもユングも納得であろう!!
0470考える名無しさん
垢版 |
2018/03/26(月) 23:04:19.340
今ショーペン先生は、その主著というよりは、その倫理観によって反出生界隈で注目を浴びつつありますね
0471考える名無しさん
垢版 |
2018/04/03(火) 16:31:52.800
精神的に参って、こうなったらむしろドン底まで落ちてみようと思い
この人の著作を一通り読んだんだがむしろ元気が出ちゃったよ、どうしてくれるんだよ。こいつ本当はプラス思考だろ。
ありがとうショーペン先生
0472幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/04/08(日) 02:23:20.890
フランス革命以降の、近世が終わって近代が始まる期間と、ショーペンハウエルの生きた時代は重なる。
この辺を掘り下げると興味深いな。
0473DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上
垢版 |
2018/04/08(日) 07:27:40.100
子供より二人の関係が永遠にあること、信仰が別々にでも永遠に続くこと。
0474DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上
垢版 |
2018/04/08(日) 07:28:22.510
そこから芽生えるものの方がいとおしい。
0475考える名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 11:46:09.130
クーデターにショーはつきものである
0476考える名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 12:14:17.030
>>471
もともと、ウツ病で自殺寸前くらいの人に愛読される書物だろ
0477考える名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 12:15:08.870
ブラックホールが、ホワイトホールに通じてるのと同じだ

究極の後ろ向き思想は、究極のポジティブへとつながる
0478考える名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 12:16:15.740
>>9
仏教でいう「無明」の翻案
0479DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上
垢版 |
2018/04/08(日) 14:10:31.210
小便 這う獲る。
0480DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上
垢版 |
2018/04/08(日) 14:48:15.080
介護もほふく前進か、簡易トイレ(おむつ新製品)を使えば。

〜笑止 停止の時代より〜
0483幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/04/15(日) 13:51:31.990
869幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/04/15(日) 13:49:53.87ID:0DcrEf5C0
神道の日本人も、道教の中国人も、ヒンドゥー教のインド人も

全員多神教だよね。
0485幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/04/24(火) 10:56:04.020
育ての親のフローリス=ショーペンハウエルは、1773年のベルリン滞在時に
カール大帝に見染られて謁見を受けた大商人のブルジョア銀行家だった。
その15年後にアルトゥール=ショーペンハウエルは誕生した。
産みの母は、倉庫で出産した子供アルトゥールを捨てたのだろう。
0486幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/04/24(火) 10:59:00.920
ダンツィヒもこの150年間でかなり埋め立てたんだな。以前のモトワヴァ川の中州の島は、
今では陸続きになっていて、ショーペンハウエルの生誕地の倉庫があった場所は、
グダンスク=オルニヤ駅から続く鉄道のヤードになっている。
0488幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/04/30(月) 06:34:23.810
 (たとえばキーザーの記録の第三巻・第二冊にある少年アルストの話や、やはりキ
ーザーの記録の第一〇巻・第三号八―二一頁に出てくる夢遊症患者コッホの話のほかに、一八二四年版
ユスティヌス・ケルナー『二人の夢遊症患者』三二三―三三〇頁に出てくる少女の話などがあるが、ケ
ルナ―に出てくる少女は「この視力の場所は、目がさめているときと同様に脳である」とつけ加えて述
べている。)なぜなら、たといわれわれが胃のあたりなどの神経の感受性がきわめて強度のものになると
考えようとしても、本来の意味での視覚は、すなわち光線の媒介をつうじる視覚は、たとい問題の部分
のように厚くおおわれておらず光が通ってゆくところであっても、光学的器官がないところではけっし
て生じないからである。視覚を可能にするのはたんに網膜の高度の感受性ばかりでなく、眼球内のいた
るところにあるきわめて芸術的で複雑きわまる光学的器官である。物理的な視覚はたしかにまず第一に
光に対して敏感な面を必要とする。しかしこれにつづいて、この面上に光彩ならびに光を屈折させるき
わめて複雑につくられた透明な媒体をつうじて、外部からあいついで到達する光線をふたたび集中させ
ることを必要とする。そしてこれによって像―もっと正しく言えば外の対象にきちんと適合した神経
の印象―が生じ、さらにこの像をつうじることによってのみ、悟性に微妙な素材が与えられ、これら
の素材をもとに悟性は、知性的な、因果律を適用する過程を経て、空間ならびに時間における直観をも
たらすのだ。これに反し、みぞおちや指先は、たとい皮膚、筋肉などが透明であったにしても、たんに
孤立した光の反射がえられるにすぎない。したがって、みぞおちや指先で見ることができないのは、す
きまのある暗箱では集光ガラスがなければ写真がとれないのと同じ事情である。さらに、体のなかの
まったく奇妙な部分が感官の機能をはたすことができるなどと称しても実はそれは本来の機能ではない
こと、またこうした場合は光線の物理的作用をつうじて物をみているわけではないことを証拠だてる実
例がある。それはキーザーが言及した少年の場合である。
0494考える名無しさん
垢版 |
2018/06/19(火) 20:30:54.670
「意志と表象としての世界」ということは
魔道士アレイスター・クロウリーの「魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり業である」と関連があるのではないか?666
0498考える名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 05:31:41.970
>>鹿取信二

>>これらの大学では、聖書の逐語霊感論(or 聖書無誤説)に立っていませんから、そうなります。 そんなに驚いているのを見ると、聖書学の本を何も読んだことがないんですね。
だったら、『聖書解釈の歴史』(日本基督教団出版局、同様のが三種類あります。よかったら全部)を読んでみてください。 聖書は人間の原語で、特定の文化の下で書かれているので、その意味で制限があります。
また、古代の人と近代以降の人とでは、文章を書く上で、その精神性に大きな違いがある。このことをあなたのような人が「誤りや矛盾」があると騒ぎ立てているわけですね。
なので、そういうことを「誤りや矛盾」と言っていいのだとすれば、それを知ったうえで、聖書の啓示としての神の言葉の部分を読み取っていこうというのが、多数派の聖書学の立場なわけです。
あなたは、おそらく現代の聖書学の本を一冊も読んだことがないようなので(無神論者なのでしょうがないいけど)、「爆弾発言」だなんて、無知ぶりをひけらかしているのではなく、図書館
にでも行って専門書を見てみてくれませんかね。
そうすれば、信じようと信じまいと、何が常識的なことなのかがわかると思いますから。 すべての人に開かれていることです。
0499幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/07/23(月) 00:45:58.760
 この少年は厚い木綿の靴下をはいていても足
の爪先が物を読むことができるし、また本気でそうしたいと望んだときは、指先で物を見ることができ
るけれども、そのまえにいちおう室内を手で触れて歩くのである。このことを少年自身が彼の異常な知
覚について述べたことが裏書きしている(前掲書一二八頁)。「彼(少年)はこの異常な知覚を視覚とは
名づけず、"いま起こっていることがどうしてわかるのか"という質問に対し、"なにか新しいことだか
らわかるのです"と答えた。」やはりキーザーの記録の第七巻・第一冊五二頁で、ある女の夢遊病患者
は、彼女の知覚を。「これはたしかに見ることであるが、けっしてふつうの視覚ではなく、直接の視覚
である」と言っている。一八一八年シュトゥットガルトで刊行された『カールスルーエの透視者アウグ
ステ・ミュラーの物語』の三六頁は次のように伝えている。「彼女は、われわれならば眼のまえの手で
すら見わけのつかないようなまっくらやみのなかでも、人びとや対象をすべて、このうえもなくはっき
りと見、かつ認識する」夢遊病者の聴覚にかんして、キーザーの陳述(『大地主義』(テルリスムス)初版・
第二巻一七二頁)は、同じようなことを証明している。すなわち、周知のように音の伝導体としては綿は最悪の
ものであるにもかかわらず、木綿糸はとくに良好に音を伝えるというのだ。こうした点についてとくに教え
るところが多いのは、上述のアウグステ・ミュラーについての本のなかの次のような個所である。「注
目すべきことは、他の夢遊症患者のなかでも観察されるように、アウグステは部屋のなかにいる人びとのうち
彼女のすぐそばにいる人の発言でも、直接話しかけられたのでなければ、なにも聞きとれないことであ
る。これに反し、たとい大ぜいの人びとがそれぞれ勝手気ままに話しあっているさいちゅうでも、どん
なに小声であろうと彼女に向かって発せられた言葉のすべてを彼女ははっきりと理解し、返答する。文
章が朗読される場合も同様である。彼女のために文章を声を出して読んでくれる人が、文章以外のこと
を考えたとたんに、彼女はなにも聞こえなくなってしまう」(四〇頁)――
0500幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2018/07/23(月) 01:04:18.820
 さらに八九頁には次のよう
なことが書かれてある。「彼女の聴力は妨げられないからだ。」――同じように、一八四三年刊の『ドレ
ースデンの夢遊症患者アウグステ・Kの睡眠生活からの報告』のなかで、彼女がときには手のひらだけ
を用いて、さらにしかも、まったく音をたてず唇を動かすだけで話すのを聞いたとくりかえし述べてい
る。三二頁では彼女自身が、この能力を普通の意味での聴力ととってはならないと警告している。

 したがって、あらゆる種類の夢遊症患者にあっては言葉の本来の意味での感覚的知覚は問題にならな
い。彼らの知覚は、奇妙不可思議な夢の器官をつうじて生ずる直接的正夢である。知覚しようとする対
象を額やみぞおちのそばに置いたり、前述の個々の場合のように夢遊症患者がひろげた指先を対象に向
けたりすることは、その対象がそれぞれ夢遊症患者の正夢の主題となるように接触をつうじて夢の器官
をその対象に指向させるための単なる手段にすぎない。夢遊症患者のこうしたしぐさは、彼らの注意力
をはっきりと問題の対象にさし向けるために、技術用語を用いれば、彼らをこれらの対象と近い関係に
おくために生ずるのである。そのさい、夢遊症患者はこうした対象を夢に見るが、それもたんに見るば
かりでなく、対象を聞き、その言葉をわきまえ、その匂いもかぐのだ。それというのも、多くの透視者
たちは、彼らの感官のすべてはみぞおちに置きかえられると証言しているからだ(デュポテ『睡眠術全
般にかんする論文』四四九−四五二頁)。したがって、催眠術を実施するさいに両手を用いることも似
たような事情があるからで、両手が物理的に作用するのでなく、催眠術師の意志が作用するのである。
そうはいってもこの意志は、両手を使うことによって方向が定まり、決定的となる。なぜなら、相手に
接触する場合も接触しない場合もあるが、とにかく遠くから、壁の向こうからも行なう催眠術師のあり
とあらゆるしぐさがもつ効果を理解するたすけとなるのは、肉体は意志と完全に同一であり、肉体は脳
のなかに生ずる意志の像にほかならないというわたしの哲学に示されている洞察だからである。
0501幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/07/23(月) 01:28:49.930
 夢遊症患者の視覚が光によって物理的に仲介される普通の意味での視覚ではないことは、千里眼も度合いが
高まれば壁によっても妨げられず、ときには遠方の国々にまで達するということからもすでに明白であ
る。この間の事情をとくに判然と説明するのは、千里眼も高度になるとおのれの内部を見とおすことが
できるようになることだ。こうした場合、千里眼をそなえた夢遊症患者はおのれの主体のあらゆる部分
をはっきりと正確に見てとる。ところが、そうした場合は、光がまったく欠如しているばかりか、当の
夢遊症患者が見ている部分と脳のあいだにある隔壁は、物理的視覚がえられるすべての条件を消滅させ
る。このことからわれわれは、どのような種類のものであれ、夢遊症患者の知覚のすべてを導きだすこ
とができる。それが外部のはるか彼方のものを見るときでも、一般に夢の器官をつうじて直観するとき
でも、言いかえれば、夢遊症患者が外部の対象を見るときでも、夢を見るときでも、白昼夢を見るとき
でも、千里眼が活動するときでも、はたまた死んだ人がまるで生きかえったように出現するときでも、
すべて同じ事情にある。なぜなら前述のおのれの肉体のなかの部分を見ることは、おそらく神経節組織
の慣習的形式のなかで手を加える。こうした作業の結果、外向けの感官から由来する直観と同様な直観
が生ずるが、この直観も外向けの直観と同じ尺度、同じ感覚で、直観された事物に適合している。した
がって夢の器官をつうじて見ることのすべては、通常の外からの印象のかわりに、内からの印象によっ
て刺激され物を見るという脳機能の活動である。しかしこうした活動が外界の事物ばかりか遠方との事
物にも関係する場合でも、客観的な現実性と真実さをもつことができるということは、形而上学的方法
によってのみ説明できる事実である。すなわち、すべての固体化を制限し物自体に対立する現象を分離
することによってのみ説明できる事実である。
0502幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/07/23(月) 02:14:21.760
 すなわち、すべての個体化を制限し物自体に対立する現象を分離
することによってのみ説明できるのだが、これについては再度述べることにしよう。しかし一般に夢遊
症患者の外界との結合が、われわれの覚醒時における外界の結合とはまったく別物であることは、透視
者の感覚がおのれ自身のいっさいの印象を受け入れない反面、催眠術師の印象をすべて感じとること、
たとえば、透視者は催眠術師が嗅ぎタバコをつまむとくしゃみをし、催眠術師の食べものをそのまま味
わい、さらに、同じ家でも遠方の部屋で演奏される音楽が催眠術師の耳にはいるときはやはりともにそ
の音楽を聞くというような、かなりしばしば発生する事情が最もはっきりと証明してくれる(キーザー
の記録、第一巻・第一冊一一七頁)。

 (1)医師の記述によると、強硬症が運動神経の完全に麻痺することである反面、夢遊症は感覚神経
    がまったく麻痺することである。それを夢の器官が代行するわけだ。

 夢遊症患者の知覚にさいしての生理学的な動きは困難な謎だが、これが解明されれば真の夢の生理学
の第一歩となるであろう。すなわち夢のなかではどのような種類の脳活動が行なわれるか、これはいっ
たい何によって覚醒時の活動と区別されるのか――そして最後に、夢のなかの脳活動はどこから刺激を
受けるのか、さらにその活動の成り行きをきめるのは何かということなどがはっきりと確実に認識され
ることになる。ただこれまでも睡眠中の直観し指向する活動のすべてについて、次のことだけは確実に
わかっている。第一に、脳が相対的に休止している睡眠中には、脳の物質的器官が活動するにほかなら
ないこと、また第二に、夢のなかで物を見るために与えられる刺激は、感官をとおして外から来るもの
ではない以上、生体の内部から来るにちがいないことである。しかし夢遊症患者の場合に、夢のなかで
の像が外界と誤りなく正しい正確な関係におかれている事情は、いまだに謎に包まれている。わたしも
それに解答を与える気持はなく、ただいくつかの一般的暗示をするにとどめておこうと思う。これに反
し前述の夢の生理学の基礎となるもの、つまりわれわれが夢のなかで物を見ることにかんする説明とし
て、わたしはまったく確実な次のような仮説を考えた。
0503幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/07/23(月) 02:30:48.080
 睡眠中、脳は空間に展開する諸像を見るうえでの刺激を、前述したように覚醒時のように外からでな
く内から受けるために、その刺激の影響は、普通一般の感官からくる影響とはまったく正反対の方向を
たどらなくてはならない。その結果、そのすべての活動、したがって脳繊維の内部での振動あるいは波
動は、普通とは逆の方向に、いわば蠕動運動を起こす。普通はこの運動は感覚を受ける印象の方向
に、つまり感覚神経から脳の内部に波及するのだが、夢のなかでは逆の方向と順序をたどる。しかもこ
れによって体の他の部分でもすべてが逆行する。したがって、たしかに脳の上面のかわりに脳の下面と
はいかないまでも灰色の皮質の器質のかわりに白い髄質の器質が、逆に活動しなくてはならない。睡眠
中は脳がちょうど逆に活動する。このことから、夢遊症患者の活動が覚醒した本人になんらの記憶も残
さない理由がまず説明できる。それというのも、脳が脳繊維によってまったく逆の方向をたどることに
なり、したがって、まえにあった状態つまり睡眠中のことについては、あらゆる痕跡が失われるからで
ある。ちなみに、この考え方の正しさをとくに保証するきわめて平凡だがやはり奇妙な次のような事実
がある。それは、われわれが最初に眠りこんだすぐあとに目ざめたとき、空間的な方向感覚がおかしく
なっていることだ。そのさい、われわれはすべてをまったく逆に把握する。寝台の右側にあるものが左
側に、後ろにあるものが前にあるように想像せざるをえなくなる。しかもこの感覚は極度にはっきりし
ている。そこで、どんなに頭がしっかりしていても闇のなかでは逆の感覚が神輿をすえ、誤った想像を
打ち消すことができず、いちおうさわって物を確かめる必要がある。しかも夢のなかでは事物がまった
くいきいきと見え、夢のなかに知覚される対象のすべてが、まえにも書いたように現実と見まごうばか
りのいわば生き写しの状態になっている。このことについて、われわれの仮設は次のように説明する。
いったん生体内部から発生し、ついで中枢部から発信する脳活動の刺激は、普段の経路とは逆の経路を
たどり、最後には全経路を通って感覚器官の神経にまで達する。これがさらに普段のように外部でな
く、内部からゆり動かされて現実の活動に踏み込むことになる。
0504幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/07/24(火) 02:57:53.160
 したがって、われわれは夢のなかでも
実際に光、音、匂い、それに味の感覚を持っている。ただそれらの感覚は普段のように外的原因に
刺激されて生じるのではなく、内部からの刺激によって、それも逆の方向、逆の時間的順序で生じる。
このことから単なる空想とはいちじるしく異なっている夢のいきいきしたありさまが説明できる。(覚
醒時の)空想力が描く像はつねにただ脳のなかだけにある。なぜなら空想が描く像は、たしかに形こそ
変わっているが、感官をつうじて生じた脳活動の刺激、それも過去にほんとうにあった刺激のなごりだ
からである。これに反し夢にあらわれる像は、たんに脳のなかばかりでなく感覚神経のなかにもある。
そしてこれは、内部から生じて脳のなかまで浸透し物質的・現実的に作用する感覚神経の刺激の結果と
して発生する。なんとしてもわれわれは夢のなかで実際に物を見ている。したがって、睡眠中のトラシ
ルスの両眼をシャリスがえぐり出そうとしたときアプレイウスが彼女に言わせた言葉、すなわち「生涯、
おまえの両眼は死んでいるだろう。おまえは眠っているあいだしか見ることはない」(『変身譚(メタモルフォーセス)』
第八巻一七二頁)はまことに適切な、微妙でしかも熟考されたものである。それゆえ夢の器官も、覚醒時
の意識の器官および外界を見る器官と同じである。ただ、いわば逆の末端でとらえられ、逆の順序でも
たらされるという違いがある。そして覚醒時でも夢を見ているときでも活動する感覚神経は、内部の末
端のみならず外部の末端からでも作動する。その状態はちょうど、内部が空洞化した鉄球を内部からで
も外部からでも灼熱できるのと同じである。夢の場合、最後に活動するのが感覚神経であるために、感
覚神経は脳がすでに覚醒し夢の像が普段の直観と交替したときにはじめて動きだし活動する。そうなる
と、われわれはすぐに目ざめ、現実と完全にしかもなんらの歪みもなく適合する明白さと客観性をそな
えて種々の音声、たとえば、声やドアをたたく音、銃の発射音などを聞くようになる。そのさい、われ
われは、これらの音は外部からの現実の音であることを知り、こうした音を聞いた結果、われわれはは
じめて覚醒したのだと確信するにいたる。
0507孔雀 ◆yvcytaqvOAPM
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2018/07/24(火) 03:13:54.260
 あるいはわれわれは、これはめったにないことだが、完全に
経験的現実性をそなえたもろもろの形姿を見ることになる。このことはすでにアリストテレスが『不眠
について』第三章の末尾で述べている。――だがここに記した夢の器官こそ、これまで詳細に論じてき
た夢遊症患者の直観、透視、第二視覚、その他ありとあらゆる種類の幻覚を出現させるものである。――
 では、こうした生理学的観察から前述したような正夢の現象に戻ろう。正夢はふつう夜の眠りのなか
にも登場できる。またこの正夢が、ほとんどの場合がそうであるように直接的なとき、すなわち現実の
身近な環境で展開されるときには、夢を見たことが覚醒と同時に確かめられる。さらに、これはあまり
ないことだが、夢でまわりの環境を多少はみだし、眼前の壁の向こう側に行ったときでも、事情は変わ
らない。しかしこうした視野の拡大がさらにすすみ、たんに空間的ばかりではなく時間的にも拡大する
場合がある。その証拠に、透視能力のある夢遊症患者は、最高潮の状態に達したときには、それと定め
たあらゆる任意の場所を自分が見ている夢の知覚のなかにもたらし、その場のもろもろの動きを正しく
伝えることができる。そればかりではなく、ときとして彼らは、いまはまったく存在せずとも未来の胎
内には存在しているもの、つまり時がたち、無数の偶然に関連したこまかな原因が作動してはじめて現
実に登場するものについても、報告できる。なぜなら、人工的につくられたものであれ、自然に夢遊症
患者の視覚中に出現したものであれ、すべての透視のなかに登場する覆われたもの、存在しないもの、
はるか彼方にあるもの、未来のものについての知覚は、いずれも正夢の知覚とは寸分違っていないから
である。これらの対象は、夢の像と同様に、知性にはっきりいきいきと示される。そうしたことから
も、夢遊症と同様に、神秘的な、外部の印象に拘束されず、夢をつうじて知られる例の直覚が、現実の外界
とは知覚の関係にあることについて確実な証拠を握っている。もっとも、両者の関連がどうなっている
かは謎のままである。ふだん夜見る夢と、透視や夢のなかの覚醒との区別は、まず前者が外界との例の
関連をまったく欠いていることである。
0509幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/10/05(金) 02:06:47.560
252幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:52:01.47ID:74THyRWz0>>254
『異史 明治天皇伝』を読んでいるが、福沢諭吉は実に開明的な人物だったんだな。
福沢諭吉は適塾時代に緒方洪庵からオランダ語で医学を学んだのだが、緒方洪庵は
フーフェラントの『医学全書』を『林氏医戒之略』として30巻の大著を翻訳した。
そのフーフェラントはショーペンハウエルにとってはゲッティンゲン大学医学部の先輩だ。
ローマン主義時代の欧州の啓蒙思想が幕末日本で福沢諭吉に伝わったのは興味深い。

254山師さん@トレード中2018/10/05(金) 01:53:00.23ID:IBAOAUqpp>>257
>>252
お前は適当すぎる、諭吉叩いてただろ

257幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:54:27.95ID:74THyRWz0
>>254
幸ちゃんは福沢諭吉の「百姓や車曳きに学問を教えたのは間違いだった」という晩年の言説を引用しただけだぞ。
福沢諭吉は封建制の身分制度が大嫌いだったんだがな。結局身分制度は必要だったと痛感したのであろう。

264幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 01:57:38.80ID:74THyRWz0
福沢諭吉は大坂の適塾で学んだが、最初は大坂で腸チフスを患って緒方洪庵の弟子の治療を
受けてから、本貫のある大分の中津に戻っているんだな。適塾は明治元年に閉鎖されて、
後に大阪大学医学部になった。それゆえ阪大医学部と慶応医学部は兄弟みたいなもんだ。

273幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 02:03:01.52ID:74THyRWz0
>>266
日本語版ウィキペディアの緒方洪庵の項目には、幕末の1857年にフーフェラントの
『医学全書』を『林氏医戒之略』として30巻の大著を翻訳した件についてすっぽり抜け落ちてる。
日本語版ウィキペディアは実にいい加減な編集をしていると言わざるを得ない。
どうせヤブ医者組合の都合なのだろうが。

277幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/10/05(金) 02:04:24.81ID:74THyRWz0
第8回 緒方洪庵:扶氏医戒之略
https://istudy.konan.ed.jp/renandi/materialcontents/107929/101920/2016PreLabo08.pdf
0510考える名無しさん
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2018/10/05(金) 12:54:24.580
なんだこいつは
0511幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2018/12/22(土) 20:12:14.570
    、,-ー- 、_,.,r-r,.;r';"´ ゛ヽ,
  .;r゛  ' , ,.ミ' ー--、ilr;r _   'i
  Y  ,: r'       ヾ  ;r '';
  (ヽ , r'        ,ノ   彡
    i' j!    ;     i .:::.  ;'
    ヾi. 'rtr::.' .:-':tテ、:. `i r'"t
    i:i. ' ´':  、` 、 ,i i _/
     い、 'ー-‐' ヽ  i j',!ヽ
     iヽ': '´二 ´`  r''/:::::::::i、
     r ! ヽ._   _, -' .r'::::::::::::;!:::ヽ、     アルトゥール=ショーペンハウエル 1788ダンツィヒ〜1860フランクフルト
    /::::::´:〉- 二  `/::::::::::::::/::::::::::::::ヽ、
  r'::::::::::::::::7Tl T /´::::::::::::::/::::::::::::::::;r::::::::::-、
0514アッシジのフランチェスコ
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2019/04/20(土) 08:55:56.890
地球を生きものの楽園に
0515考える名無しさん
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2019/04/28(日) 18:35:47.900
http://meigetu.net/?p=7082

かつて角川文庫で出ていた石井立訳「女について」が復刊の様子
0516考える名無しさん
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2019/04/30(火) 17:39:10.100
パットンという連続殺人犯は人間社会に出ることはまず出来ないとのこと。
とっくに相当、人外らしい
0517考える名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 17:56:01.220
幸福については何度も読んでるな、最近出た鈴木訳のもかなり読み易かった
アインシュタインも孤独と人生が愛読書だったとか言われてるね
0518考える名無しさん
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2019/05/09(木) 13:08:07.870
「読書について」、はイチローが本を読まない理由にも通ずるもんがあるな
本を読むと主体性を失う
だが、知識がないと考えるってことも限定的になってしまうのもまた事実だな
0519考える名無しさん
垢版 |
2019/05/09(木) 23:52:26.210
精神に好影響な良書を読みまくることはいいことだと思うよ
知識欲を満たすこともいいし、読書のメリットは何より理性に引き戻される感がいいよね
0520考える名無しさん
垢版 |
2019/05/09(木) 23:59:32.260
イチローとかアスリート系の人は寧ろ読書とかしない方がいいんじゃないかと思う
言い方は悪いかもだけどスポーツ選手はちょっとバカの方が良いというか

知性よりも筋肉の方が必要だから
0522考える名無しさん
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2019/05/11(土) 19:23:23.920
スポーツは肉体の感覚を頼りにして進歩していく世界だから
知識は先入観に繋がり邪魔になることもあるだろうな
ただ、指導者やトレーナーとなり自らが掴んだ感覚を後進に教えることで
成果を得ることも事実としてあるのでそれが全てとも言えないが
イチローにはそのやり方が正しかっただけで正解ないだろう
0523考える名無しさん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:30:42.220
絶大知者のショーペンさんを観てても解る様に知性と鬱はワンセットだからね。
スポーツに励んだことある人なら解るとは思うけど、長期的な持続したトレーニングとか頭の活動を停止してある意味バカにならないと打ち込めない部分もある。

もちろん身体のコンディションを整える知識を初めとした筋トレの方法や栄養学とかメンタルトレーニングも必要だしそして何より野球での合理的な身体の使い方の感覚と言うこういうアスリート分野の知性は物凄いし、まさに天職だと思う。
0524考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 12:16:10.170
運動好きや現役アスリートは統合失調症にならないという説がある
逆にいえば身体動かさないインドアの「怠け者」が頭でっかちなった結果糖質になるともいえる
頭使いすぎて結果壊れて脳筋よりバカになるとは皮肉だね
0525考える名無しさん
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2019/05/17(金) 21:19:45.120
でもアスリートも無理し過ぎて身体を壊し心も…てあるからほんと気を付けないといけないね
0526考える名無しさん
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2019/05/23(木) 11:26:10.910
知性の仕事もアスリートもストイックさは必要だけど、いわゆる濃密に太く短くか緩やかに細く長くかの人生があるよね。
それでも人生80年、若き日はアスリートだったけど年老いて研究者になってるとかそういう色々なことを経験して楽しむことは大切だよな。
0529考える名無しさん
垢版 |
2019/05/27(月) 12:27:21.650
30代から能力は低下するよ
勉強は積み重ねだから引退後の中年になってからだと研究者は厳しい
0530考える名無しさん
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2019/05/27(月) 21:14:31.830
確かにショーペンさんも35歳位までが神経力というか頭のピークだよみたいな話してたよな
0532考える名無しさん
垢版 |
2019/06/09(日) 02:09:24.910
知性の「分ける」「曖昧をつくらない」って根本に欠陥がある気がする
どっちみち厭世のまま終わってしまう人は、物に対する判断と人に対する判断を混同している
もちろん人を知性でさばいて行くことでしか生き渡っていけないのは事実だが
0533考える名無しさん
垢版 |
2019/06/09(日) 13:50:01.780
厭世的になって「自殺を考える子供」というのがなかなか存在しない様に知性が発達して様々な現実を知ることの欠落もあるのかなと
人生で一度も死や自殺を考えたこともない知的障害者はある意味幸福かもしれないね
0535考える名無しさん
垢版 |
2019/06/09(日) 23:50:28.370
>知性の発達の欠陥

あるだろうな
ニーチェの「天才とは耐え難い存在である」
ってのは天才は凡人の嫉妬や羨望を煮えたぎらせるから、って他人目線で長く解釈してたけど
天才本人の「天才という状態」に対する耐え難さを現した主観からの話なのかなと思うことがある
0540考える名無しさん
垢版 |
2019/06/23(日) 23:36:39.770
生涯親の遺産で生きた子供部屋おじさんじゃないけどほぼ同じような人
0541考える名無しさん
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2019/06/24(月) 10:50:13.930
隠遁してなるべく知的なことを楽しもうと言ってる訳だけど、ショーペンさんの思想は仏教や禅道に似てるのもあるよね。
0542考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 13:32:06.780
人生で心身の健康とお金が何よりも重要なのは当たり前のことだよな
0543考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 13:39:46.530
論文バカにした母親にキレて親子ゲンカしたりヘーゲルの講義にわざと合わせて失敗したりネタが尽きんな
0544考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 13:54:47.330
大抵の人は祖先が暴力で他人から奪った土地や財産の上に築かれた財産
を引き継いだ親に養育されて今の生活をしてるんだから、みんな多かれ
少なかれ子供部屋おじさん/おばさんみたいなもんじゃないのか?
0546考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 14:10:16.730
先祖代々の資産を管理して、他人の労働力を活用して生活を成立させるのが
上層階級で、受け継ぐ資産がなく、自分の労働を糧に変えることしか
生きる術がないのが下層階級だった
0547考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 14:22:05.230
状況がどう変わろうと、常に自らが裁く側にいるように自らの立場を確保する
ことが、自己保全のために最も重要
0548考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 16:35:07.870
働かせる働かされる裁く裁かれるとかから徹底的に逃れて生きて行けよとショーペンさんは説いてる様だけど
0549考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 17:26:34.250
逃れ、かつ生きるためにショーペンがやってた内容がどれ程のこどおじ度だったのか
やっぱり修行部屋おじさんなんじゃないか
0550考える名無しさん
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2019/06/24(月) 18:50:34.270
自由に外にでられても社会に対して何の影響力も及ぼせないお前らのが悲惨だろ
0551考える名無しさん
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2019/06/24(月) 20:54:07.910
そもそもショーペンさんの思想のことをペシミズムや厭世とか言い始めたのは誰だろう
超現実主義と言うのが正しいと思うけど
0552考える名無しさん
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2019/06/24(月) 21:12:38.450
>>535
それについても幸福についてでアリストテレスの引用で「天才は皆憂鬱質」だと言ってるよな
0554考える名無しさん
垢版 |
2019/06/27(木) 18:48:57.120
社会の生存競争や人間関係の煩わしさから離れて悠々自適にってことだよな
退職して哲学や物書きと趣味の毎日だったシヨーペンさんは理想の生活を送ってたんだと
0555考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 11:49:18.460
生活のために労働時間割かれるのは仕方ないが、哲学好きは、金儲けして贅沢するより自分の自由時間確保を優先している人が多そう。
0556考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 12:00:58.160
だなー俺みたいや
ただ、問題があるとしたら俺の考えは深遠すぎてショーペンのように一般化されてないし
誰にも受け入れられてないってことだ
0557幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2019/08/08(木) 12:54:50.660
近代の劇は、人間の意志または性格から必然的に生じ来る悲劇をのみ書こうとする。しかしそ
のように意志や性格の分析または総合などによって論理的に因果づけられた平板な近代劇などで
は割り切れぬ神秘的な力が、人間の上には働いている。そこでその神秘的な力は、必ずしもギリシャ
劇における運命のごとくに悪意ある支配力として、悪魔的なものとしてではないにせよ、偶然
の巡り合わせから人間の建設的な意志を、調和と秩序とを破壊して悲しむべき事態をもたらす。
而してかくの如き悲劇を醸成するものは人間の情熱であり愛欲である。けれども人間の高貴なる
意志が、良心が、悲壮な覚悟をもってこの破壊された道義的世界秩序の再建のために命を捧げ
るとき、深刻な感動が見物の心を捉えるのである。このような劇は果たして運命劇であろうか、それ
とも性格劇であろうか。我々はここに名称のために論議することは差し控えたい。しかしながら
シラーのこの劇における運命は、ソフォクレスの描いているような運命とはよほど性質を異にして
いる。オイディプスの運命はすでに予定されており、いかにしてもこれを避けることの不可能
なものであった。その運命から逃れようと努力した結果が、かえってそれを成就することとなる
からである。従って我々は主人公に対して何等の責任をも罪をも負わせる気にはならない。作者
は当時民衆の間に行われていた運命観によって、かくの如き劇を作ることができた。

 フリードリヒ=シラー 『メッシーナの花嫁』 解説より 岩波文庫 1950年4月 相良守峰
0559考える名無しさん
垢版 |
2019/08/08(木) 16:31:21.250
>>551
レッテル貼りをして黙殺しようとする人たち
0561考える名無しさん
垢版 |
2019/10/04(金) 20:46:35.350
動かされているという感覚についてもショーペンさんは敏感だったんだろうなと
0562考える名無しさん
垢版 |
2019/10/14(月) 15:58:50.510
なんだかんだで長生きしたショーペンさん。
そういうとこも強い。
0563考える名無しさん
垢版 |
2019/11/07(木) 16:40:49.050
厭世言ってもショーペンさんみたいな人ほど長生きするんだよな
0564考える名無しさん
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2019/11/14(木) 19:59:51.250
厭世といっても生きている限りは持続を求める死に際しての苦痛は皆一様だからね
最初からこの世に存在がないという状態が最も望ましい
0566考える名無しさん
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2020/01/02(木) 11:18:33.060
幸福についてを読んだけど直接的に反出生主義っぽいことは書いてないよね?どの本に書いてあるの?
0567考える名無しさん
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2020/01/02(木) 21:23:55.490
意識と表彰のなんとか
0568考える名無しさん
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2020/01/17(金) 18:23:11.340
反出生思想も自分は子供作らなければいいだけの話だよな
他人の人生や選択に口出しできる問題じゃないと思う

人間も生物的動物的に種の保存の為の生存がそもそもの目的だけど、そこから脱却する為の思想は惹かれるけど
0569考える名無しさん
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2020/01/19(日) 10:47:38.940
古今の文学史全体を見ても、ヘーゲルの哲学と肩を並べるほどの虚名をはせた例はまずあるまい。
すべてがあれほど劣悪で、明々白々な嘘っぱちと出まかせ、いや、紛うかたなきたわごとは、どこを探しても見当たるまい。
加うるにあの論述ときては、反吐の出そうなとびきりの不快さが見るも腹立たしい破廉恥や鉄面皮と連れ立っている。
こうした一切合切が、これまで世界が拝むことのできた最高の叡智、最高の光輝として讃えられたためしは、あの徹頭徹尾無価値な似而非哲学をおいて他にない。
0570考える名無しさん
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2020/01/19(日) 10:57:51.720
ヘーゲルの哲学は脳味噌の白痴化の手段として比類のないものである。
あのようなチンプンカンプンのおまじない、あのようなへらず口は、この哲学の化け物じみた構造のなかであり得べからざる思想や純然たる矛盾を思考する任務を理性に負わせることで、知性の完全な麻痺をもたらすものだからだ。
0571学術
垢版 |
2020/01/19(日) 11:18:28.980
ヘーゲルは頭脳の構造より単純ですがね。
0572学術
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2020/01/19(日) 12:25:01.130
世界や人間を写し取るならもっと複雑、難解なことが出来たはずだ。
0573幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/06(木) 23:02:42.370
安倍首相補佐官 海外出張でも公私混同の疑い 厚労省女性幹部とコネクティングルーム宿泊
https://bunshun.jp/articles/-/31861

和泉洋人首相補佐官(66)が、大坪寛子厚生労働省大臣官房審議官(52)との海外出張の際、ホテルの部屋割りを
めぐって…

スプーンでア〜ン(^^♪
https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/9/7/1500wm/img_97a13d66348b246ed7780d2e5efe24be107899.jpg


これ動物磁気を使った催眠術じゃないか!("゚д゚)

性奴隷だ!(`・ω・´)
0574考える名無しさん
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2020/02/06(木) 23:48:22.230
 底辺忍者参上!

    X
  ∠ ̄\∩
  (о´∀`о)ノ
 〜( ニ⊃
  ( ヽ/
  ノ>ノ
  UU


  ∠ ̄ヽ
 〜(о´∀`о)/
  / y⊂)
 (ノ〉 ⌒i
 /(_ノ^U


     臨

 前  ∠ ̄ヽ  兵
    (о´∀`о)
在  〜(_ξ)   闘
   //  <
 列 (_ノ_)  者
    ∪ ∪
   陣  皆
0575幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/09(日) 03:46:04.970
安倍側近の和泉補佐官と“公費不倫”の厚労省・大坪寛子審議官がコロナ会見に堂々と登場! 東出・唐田に大騒ぎのテレビはなぜ沈黙するのか

加藤茶と綾菜夫人、実は「創価学会婚」 夫婦円満の秘訣は「池田先生」の言葉
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/02071125/?all=1

スプーンでア〜ン(^^♪
https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/9/7/1500wm/img_97a13d66348b246ed7780d2e5efe24be107899.jpg
https://www.dailyshincho.com/wp-content/uploads/2020/02/2002100557_1.jpg
0576幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 02:11:44.230
Ανδρόγυνο
https://el.wikipedia.org/wiki/%CE%91%CE%BD%CE%B4%CF%81%CF%8C%CE%B3%CF%85%CE%BD%CE%BF

Η λέξη ανδρόγυνο προέρχεται από την Ελληνική γλώσσα
και συνδυάζει τις λέξεις άνδρας και γυνή, δηλαδή γυναίκα,
και χρησιμοποιείται για να περιγράψει άτομα που
συνδυάζουν αντρικά με θηλυκά χαρακτηριστικά, είτε σε
θέματα προσωπικότητας ή μόδας, είτε σε όσον αφορά το σώμα
τους (ίντερσεξ). Στην ελληνική γλώσσα η λέξη ανδρόγυνο
σημαίνει ερωτικό ζευγάρι γυναίκας με άντρα.

Ως ταυτότητα φύλου

Ένα ανδρόγυνο ως ταυτότητα φύλου είναι ένα άτομο
που δεν ταιριάζει ούτε στο ρόλο φύλου του άνδρα
ούτε και της γυναίκας όπως ορίζονται στη κοινωνία
στην οποία γεννήθηκε ή ζει.


日本人の死因のトップは「結核」
0577幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 13:10:40.130
第6章 年齢のちがいについて

ヴォルテールはきわめて美しく次のように言った。

その年齢相応の精神をもっていない人も、
その年齢特有の苦労をかかえている。

こうしたことからも、この幸福についてのもろもろの考察の末尾に、年齢のちがいがわれわれにもたら
すいろいろな変化について一瞥を投げかけるのは、適切なことであろう。

 われわれの一生をつうじ、われわれはつねに現在のことだけを考え、そのほかのことは無視してい
る。それでいて年齢のちがいをつくるものは、たんにわれわれが生涯のはじめには長い未来を目前に控
えているのに対し、生涯の終わりのころになると、長かった過去のことばかりが目にはいること、さら
にわれわれの性格はそんなことはないが、われわれの気質はいくつかのはっきりとした変化をとげ、その
ためにいつでも現在の色あいが異なったものとして現われることだけである。 ――

 わたしは、主著続編・第三一章三九四頁以降(第三版四四九頁以降)で、われわれはなぜ、子供のこ
ろは、欲求するよりもはるかに認識するという態度をとっているかということの説明を与えた。われわれの
0578幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 13:28:39.850
生涯のはじめの四分の一が幸福なのは、まさにこの点にある。したがって、この時期は、年をとる
につれて、失われた楽園のように思えてくる。われわれは子供のころはあまり多くのかかり合いをもた
ず、要求も少ないために、意志がゆさぶられることもあまりない。われわれの本質の大部分は、した
がって認識に取り組むことになる。――すでに七年目に完全にじゅうぶんな大きさになる頭脳のよう
に、知性は、成熟とはいかないまでも、若いときに発達をとげる。そして子供は、すべてが新奇な魅力を
そなえている世界、おのれが生を受けたばかりの世界のなかで、たえず栄養をとろうとつとめる。そう
したことによって、われわれの子供時代が不断の詩になるという事情ができてくる。すなわち、すべて
の芸術と同様、詩の本質はプラトン的なイデア、すなわち本質的なもの、あらゆる個物のなかにあって
すべてのものに共通するものの把握のなかにある。われわれは、子供のころめぐりあったもろもろの場
面では、つねにただ一度だけの個々の対象あるいは事件とだけかかり合っていた。しかも、そうした個
物の対象なり事件なりが、われわれのそのときどきの欲望に興味をそそったからだというように思われ
るけれども、根本的にはけっしてそんなことはない。すなわち子供のころは、生は、そのすべての意義
をこめて、なおまだ新しく鮮やかなままの姿をみせており、何度も繰り返されることによって生の印象
を鈍化させてしまうというようなこともない。したがって、われわれは子供のころは幼稚そのものの営
みを行なっていようとも、ひそかに、それにはっきりとした意図はなくとも、個々の場面や動きについ
て、生そのものの本質、生のくりひろげるもろもろの形象や表現の基本的な型を把握すべくつとめてい
ることになる。スピノザが述べたように、われわれはすべての事物、人物を「永遠の相のもとに」見る
のでる。われわれが若ければ若いほど、それだけますます個物はその全種類を代表するようになる。
0579幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 13:44:42.720
こうしたあり方は年とともにつねに薄らいでいく。しかもこの点に、事物がわれわれの若いときと年
とったときに与える印象のちがいがある。したがって幼少年期に得た経験や知識は、その後のすべての
認識ならびに経験の固定した典型および法則となる。こうした典型や法則は、たしかにつねにはっきり
と意識されるわけではないけれども、われわれが後年獲得するものすべてを包摂するいわば範疇(カテゴリー)とな
る。したがって、はやくも子供のころにわれわれの世界観の固い基礎がつくられる。われわれの世界観
のこうした基礎には、深いものも浅いものもあろうが、とにかくわれわれが年をとるにつれて、それは
しだいにみがきをかけられて完成していく。そうはいっても、本質的にはまったく変化するものではな
い。このように、幼少期にとっては本質的な純粋客観的な、しかもそのために詩的な見解のおかげで、
さらにそのころには意志がまだじゅうぶんな精力を貯えて姿を現わすまでにはいたっていないという事
情から、われわれは子供のころは、欲求するよりもはるかに多く認識するという態度をとる。したがっ
て多くの子供のまなざしは、まじめな観照的なものであり、かのラファエッロもこれを彼の描く天使の
なかに、とりわけシスティーナの聖母像(マドンナ)の天使のなかにうまく化身させた。こうした事情からしても、
子供のころはきわめて神聖なものであり、幼少期の回想はつねに憧憬につきまとわれることになる。
――子供のころわれわれはまことに熱心に事物の直感的理解にもっぱら取り組んでいるが、一方では教
育がわれわれに概念を植えつけようとけんめいになる。しかし概念などはもともと本質的なものを与え
ることはない。むしろこうした本質的なものは、つまりわれわれのすべての認識の基盤ならびにその真
の内容は、直観的な世界の把握のなかに存在する。だがこれはただわれわれ自身によって得られるので
あって、なんらかの方法でわれわれにもたらされるのではない。したがってわれわれの道徳的な価値
も、はたまた知的な価値も、外からわれわれのなかに来るのではなく、われわれ自身の本質の深奥から
0580幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 14:16:53.180
湧出するものである。そのため、たといペスタロッチ流の教育方法を用いようとも、生まれながらの愚者
を思考する人間に仕立てあげることはできない。けっしてできない! こうした人間は愚者として生ま
れ、そして愚者として死ななくてはならぬ。――本章のまえの部分で記したような、最初に接した眼に
見える外界についての意味深長な把握ということから、われわれの子供のころの環境や経験がなぜ記憶
のなかにはっきりと植えつけられているかということが説明できる。すなわちそのころのわれわれは、
外界の把握になんら心を乱されることなく集中しており、そのさい気を散らすことなど少しもない。そ
こでわれわれは眼のまえにある事物を、まるでそれだけがそれらの種であるように、そればかりか一般
にまったく単独に存在するかのように見なしている。その後、年がたつにつれて、われわれはもろもろ
のわかりきった対象の一群によって勇気と忍耐を奪われることになる。――ここでわたしの主著のなか
の問題のくだり(三七二頁以下、第三版四二三頁以下)で述べたこと、すなわち、すべての事物の客観
的存在、つまり単なる表象のなかの存在はまったく楽しいものであるのに反して、欲望のなかに存在す
る主観的存在は苦痛と憂いによって強く汚染されているという教説を思いおこす人ならば、この間の事
情の簡潔な表現として、すべての事物は見ればすばらしいが、それがあることは恐ろしい、という定理
がうちだされても異存ないであろう。こうしたことに関連して言えることは、子供のころは、われわ
れにとって重要なのは意志の側面つまり存在の側面よりは、表象つまり客観性の側面、いうなれば見る
側面であるということだ。この側面は事物の愉しい面であるために、われわれには主観的で恐ろしい面
がまだ知られていない。したがって幼少のときの知性は、現実や芸術が眼前にくりひろげる形象のすべ
てを、やはりほんとうにとても幸せなものと受けとる。そしてこうした子供は、もろもろのこうした形
象は見た目にも美しいものだから、もしこうしたものが実際にあるとしたら、もっとずっと美しいだろう
0581幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 14:37:14.890
と考える。したがって、その子の眼のまえの世界はエデンの園のようなものである。これこそ、われわ
れすべてが生まれあわせたアルカディアである。そのために、少し年がたつと、われわれをこの世の喧
騒のなかに駆りたてていく現実の生への渇望、行為と苦悩への衝動が生ずる。そしてこの世のうちで、
われわれはやがて事物のほかの側面、すなわち、一歩を踏みだすごとに立ちはだかってくる欲望の側面
を学ぶようになる。こうしてしだいに幻滅はつねにますます大きくなり、ますますひどいものとなる。こう
した事情によって、子供のころは、われわれにとって生は遠くから劇場の装飾を見るようなものだが、
老年には同じものをごく近くから見るようなものだと言うこともできる。
※おお幼年時代よ! そのころにはまだ時間はきわめて緩慢に進み、事物は未来永劫をつうじて
 いまのままとどまるために、ほとんど停止しているように思われる。
 子供のころが幸せなのは、最後につぎのような事情もある。春さきにはすべての木の葉が同じ色でしか
もほとんど同じ形をしているように、われわれも小さい子供のころは全員がおたがいによく類似し調和
し、したがっていずれもすばらしい。ところが思春期になると、分散が起こり、それが中心から遠のく
円の二つの半径間の距離のようにどんどん大きくなるということだ。
 生涯の後半よりははるかにすぐれた点のある生涯の前半の残りの部分、つまり青年期を暗くするも
の、そればかりか不幸にするものは、生のなかでいつかはめぐり会えるにちがいないという前提に立っ
て幸福を追求することである。このことから、つねに希望がかなえられないことが生じ、さらにこれか
ら不満足が生ずる。青年期のわれわれの眼前には、夢で見たはっきりしない幸福の像が、勝手気ままに
選ばれた姿を取り、揺れながらただようため、われわれはいたずらにそのもとの姿をとらえようとつとめる。
0582幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/16(日) 15:04:21.310
 したがってわれわれは青年時代には、それがどんなものであろうと、われわれの置かれた状況や
環境にはほとんどの場合不満である。それはわれわれがまったくほかのことを期待していたために、い
まになってお近づきになった人間生活にはつきもののむなしさ、まずしさをわれわれの置かれた状況や
環境のせいにしてしまうからである。――もし人がタイミングよく人に教えられ、若いときに、この世
では多くのものを獲得できるという迷妄を根絶やしにすることができれば、得るところには大きいであろ
う。だがほとんどの場合、われわれは生を現実よりも早くフィクションによって知るようになるという
事情から、逆のことが起こってくる。もろもろの文芸作品によって描きだされた場面は、なんといって
もわれわれが若くていわばあけぼのの時代にあるために、眼のまえですばらしい姿をくりひろげる。そ
こで、われわれはそれを現実のものとしたい、虹をつかみたいという憧憬に駆られる。若者はおのれの
生涯も面白い小説のかたちをとるよう期待する。そこでわたしがすでに前述の主著の続編(三七四頁、
第三版四二五頁)で述べた迷いが生ずる。なぜなら小説中のもろもろの形象に魅力が与えられているの
は、じつはこれらの形象がたんに絵空事であって現実のものではなく、したがってわれわれとしても、
それを鑑賞するにあたって純粋認識の平穏さと満足感に安住するからである。現実のものとなるという
ことは、欲望によって満たされることを意味する。そしてこの欲望が不可避の苦痛をもたらすのだ。こ
の問題に関心のある読者はわたしの主著のこのことを扱ったくだり(四七二頁、第三版四八六頁)を参
照されたい。
 こうして人の全半生の性格が幸福への満たされない憧憬であるとすれば、後半生を特徴づけるもの
は、不幸への配慮である。なぜなら、人生も後半にはいると、すべての幸福はたわごとであり、これに
反し苦しみは現実のものであるという認識が多少なりともはっきりと身につくからである。したがって
0583学術
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2020/02/16(日) 16:27:38.780
タロットの愚者引いたよ。カードゲームもなんかいいぜ?
0584考える名無しさん
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2020/02/16(日) 18:00:47.360
研究書読むと弟子がいたそうだけど、弟子達の翻訳がない
読んでみたかったな
0585考える名無しさん
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2020/02/16(日) 20:05:35.710
>>584
よく見たらシュ夕(ゆう)イナーだけじゃなく
ルドノル(のる)フ・シュ夕(ゆう)イナ一(いち)になってるじゃん
「シュタイナー 5ch 27」でググったら普通に出てくるけどw
0586考える名無しさん
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2020/02/16(日) 22:53:04.930
>>584

よく見たらシュ夕(ゆう)イナーだけじゃなく
ルドノル(のる)フ・シュ夕(ゆう)イナ一(いち)になってるじゃん
「シュタイナー 5ch 27」でググったら普通に出てくるけどwww
0587幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/17(月) 18:29:45.960
Arthur Schopenhauer
https://cs.wikipedia.org/wiki/Arthur_Schopenhauer

Ve Frankfurtu proslul svou samotářskou povahou i mnohým podivínstvím
(na dlouhých procházkách vedl rozhovory se svým pudlem Atmou, léta chodil plavat do Mohanu).


ショーペンハウエルはフランクフルトに引っ越してから、数年間はマイン川で泳いでいたそうだ。

この情報はどこにもないぞ?(*^^*)
0589幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/17(月) 21:23:25.440
この年配になると、少なくとも理性的性格の持ち主は楽しみよりもたんに苦痛のないこと、わずらわされ
ないことを目ざして努力するようになる。――わたしも青年時代には、ドアで呼鈴が鳴るといい気持ちに
なった。それはわたしが、やっとそれ(楽しみ)が来たと思ったからだ。ところが後年になると、同じ
ことが起こっても、わたしは恐れに似たなにものかを感ずるようになった。「ついにあれ(不幸)が来
たか」と考えるわけだ。――人間生活に対して、すぐれた、しかも素質に恵まれた人びとは二つのまった
たく対立した感覚をもっている。なんとしても彼らは完全に根っから人間社会に属しているわけではな
く、したがって、彼らの卓越性の程度に応じ、多少なりとも孤独の境地に立たされるという事情があ
る。ともかく彼らは若いときにはしばしば、人間社会から捨てられたと感じるが、年をとると逆に、人
間社会から脱却したと感じる。この二つの感覚をもつわけだ。はじめの感情は人間社会となじみになっ
ていない不愉快なものであり、あとの感情は、人間社会のことを知りつくしたあとの快いものである。
――この結果、人生の後半は音楽の楽段の後半のように、野心は前半のように多くはない反面、落ち着
きをそなえている。一般に、どうしてそのようになるかというと、それは人は若いときには、この世は
幸せや楽しみにめぐり会えるすばらしいところだが、ただ実際にはそうしためぐり会いはむずかしいの
だと考える反面、年をとると、この世で幸せや楽しみを得ることはできるわけはないと、このことにつ
いては完全に心を鎮めており、どうにか我慢できるという現在に満足し、そのうえささやかなことにも
喜びを見いだすようになるからだ。――
 壮年に達した人がそれまでの生涯の経験をつうじて獲得したもの、そしてこの人に、青少年期とはち
がったふうにこの世を見るようにさせたものは、ものにこだわらないという態度である。この人はまず
なにはともあれ、事物を単純にながめ、そのあるがままの姿で受け入れる。ところが青少年のころは、
0590幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/02/17(月) 21:44:38.620
自分でつくりあげた気まぐれ昔から伝わってきた偏見、それに奇妙な空想の合作による虚像が、真の
世界を覆いかくし歪曲しているのだ。なぜなら経験が取り組んでまず見いだしたものは、若いころにつ
くりあげられた妄想や誤った概念からわれわれを解放することだからである。こうした誤ったものから
若者たちを保護するのが最良の教育であることはいうまでもない。このことはたしかに消極的なことで
はあるけれども、きわめてむずかしい。このためには、子供の視野をはじめはできるだけ狭め、しかし
そのなかでは、子供に純粋ではっきりとした正しい概念を与えるようにしなくてはならない。そして子
供が狭い視野のなかにおかれたものすべてを正しく認識するようになったあとは、つねにぼんやりした
ものや生半可な、あるいはまちがって理解したものがそのまま残存することのないよう注意しながら、
子供の視野をしだいに拡大していくことだ。このようにしていけば、事物や人間関係についての子供の
正しいものとなる。したがって、それらの概念は拡大させることは必要だとしても、矯正する世話はい
らない。こうして青年期まで進めていくことだ。この教育法はとりわけ子供に小説類を読ませることを
許さず、これをたとえば、『フランクリン自伝』やモーリツの『アントーン・ライザー』(1)のような適当
な伝記類によって代替させることを求めている。――
 (1)ドイツの作家カール・フィーリプ・モーリツ(一七五六―九三)の自伝的作品。
 若いときにはわれわれは、自分たちの人生行路のなかで、重要なしかも影響するところの大きい出来
事や人物は太鼓やラッパの鳴りもの入りで登場すると思っている。ところが年をとって回想してみる
と、重要人物や大事な事件はすべて、まったく静かに、裏口から、ほとんどだれの注意もひかず忍びこ
んできたことがわかる。
0591幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2020/02/17(月) 22:05:54.960
 これまで考察してきた点について、さらに生は刺繍した布地に比較することもできる。だれでも人生
の前半にあってはその表の側を見、後半にあってはその裏側を見ることになる。裏側は美しくはないけ
れども、教えるところは表より大きい。それは裏側が糸の結ばれぐあいをわからせてくれるからであ
る。――
 精神的な卓越性は、最大のものですら、いざ会話になると、四十歳をこえてはじめてその決定的なす
ばらしさが現われるようになる。それというのも年齢の円熟、経験の豊かさは、たしかに精神的な卓越
性によっていろいろの面で凌駕されることはあるけれども、これによって取って代わられることはけっ
してないからである。そればかりか、年をとり経験豊富なことは、きわめて平凡な人にも、相手が若い
かぎりでは、相手のきわめて偉大な精神力にあるていど対抗できる重みを与えてくれる。わたしはこ
こではたんに人格について言っているだけで、作品のことを問題にしているのではない。――
 どこかにすぐれたところのある人、つまり自然があまりにもわずかしか恵んでくれなかった六分の五
の人々に属さない人は、四十歳をこすと、ある種の人間嫌いにまったく染まらないでいることはむず
かしい。なぜなら、きわめて当然のことだが、この人は自分のことから他人のことを推しはかり、しだ
いに幻滅し、やがてはほかの人びとは頭の面で、それとも心の面で、しかしほとんどの場合は両面で自
分より遅れており、自分とはどうしてもうまが合わないことを悟るからである。そのためこの人は、彼
らと交際することを喜んで避けるようになる。それは、一般にだれでも、おのれにそなわる内面的価値
の程度に応じて、孤独を、すなわちおのれひとりを相手どることを愛したり、あるいは憎んだりすると
いう事情があるからである。この種の人間嫌いのことを、カントも『判断力批判』のなかの第一巻・第
二九節「一般的注意」の終わりのところでとりあげている。
0592幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/24(火) 00:53:43.500
 若者が人びとのやることなすことに、いちはやく適応するようになるばかりか、すぐにそこに安住
し、まるであらかじめ用意していたように、こうしたただなかに埋もれていくことは、知的ならびに道
徳的に見て好ましくないしるしである。この若者は凡人となることがすぐわかる。これに反し、他人の
やることなすことに対して、どうしてもなじめないといった態度、とまどった、ぎこちない、おかしな
態度をとることは、その若者がずっと高級な種類の本質をそなえていることをほのめかしている。
 われわれが若いとき、朗らかで活力に満ちているのは、ひとつには、そのころのわれわれは登山の途
中であって、死を見ないからである。死は山の向こう側にあるからだ。ところが山頂を越えると、われ
われはそれまではただ伝聞をつうじてだけ知っていた死を、実際に見ることになる。それというのも、
その年配になると生命力は退潮しはじめ、活力も減退するからだ。したがって、こうした時点では、陰
うつな真面目さが若々しい尊大さを駆逐し、それが顔つきにも現われてくる。われわれは若くありさえ
すれば、だれがなんと言おうと気にかけず、生を無限のものと考え、その気持ちのまま時をすごしてしま
う。われわれは年をとればとるほど、時間をますます惜しむようになる。なぜなら年をとるとわれわれ
は、やりすごした一日についてもつ気持が、一歩ごとに処刑台に導かれていく犯罪者がもつ感情と似た
ようになるからだ。
 若者の立場から見れば、生は無限に長い未来であり、老人の立場から見れば、生はきわめて短い過去
である。したがって人生の終わりになると、接岸レンズをとおして見たときのようなありさまを示す。
生がいかにも短いものであるかを認識するには、老人とならなければ、つまり長生きしなければならな
い。――時ですら、われわれの若いときには、はるかにゆっくりとした足どりを見せた。したがって、
0593幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/24(火) 01:09:02.640
われわれの生涯のはじめの四分の一は、最も幸せであるばかりでなく最も長いので、きわめて多くの記
憶を残してくれる。そしてだれでも、生涯のこの時期が話題にのぼれば、この時期についてそれ以降つ
ぐく二つの時期よりも、ずっと多くのことを騙ることができるであろう。さらに、一年のうちの春のよ
うに、生涯のこの時期には、いやになるほど日が長い。人生および季節の秋には日は短くなるけれど
も、それはいっそう朗らかで落ち着いたもんとなる。
 生も終わりに近づくと、人は生がいずこにとどまっているのかを知らない。だがなぜ年をとると、こ
れまで過ごしてきた生涯があんなに短く見えるだろう? それは、生涯の記憶が少ないために、自分
の生涯そのものも短かったと考えるからだ。すなわち、自分の記憶のなかから、すべてのささやかなも
の、多くの不愉快なものが取り去られるため、記憶全体としてもいくらも残らないことになる。学んだこ
と、体験したこと、この二つがいずれも忘却の淵に沈まないようにするためには、それぞれ練習したり
熟考したりしなくてはならない。だがわれわれは、ほとんどの場合、些細なもの、そして不愉快だった
ものをあらためてよく考えていこうとはしないものだ。だがほんとうは記憶のなかに保存するために、
こうしたことについて熟考することは欠かせないことだ。しかしささいなことは増加するいっぽうであ
る。それというのも、なんども、そしてしまいには無限に繰り返されることによって、われわれにとっ
てそれことはじめには重要に思われた多くのことが、しだいにつまらないものに思われてくるからだ。
したがってわれわれは、若いときのことを年をとったときのことよりもずっとよく覚えている。われわ
れが長生きすればするほど、記憶のなかに固定させるには不可欠の反芻を行なうほどに事物の動きが重
要かつ意義深いものとは思われなくなる。したがってさまざまな出来事も、過ぎ去ったとたんに忘れられる。
0594考える名無しさん
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2020/03/25(水) 00:23:59.740
仏教は、究極の後ろ向き思想
0595考える名無しさん
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2020/03/25(水) 00:25:05.420
ドイツの観念論と、インドの唯識論を統合した
0596考える名無しさん
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2020/03/26(木) 12:55:21.700
ショーペン思想もネガティブ過ぎる
それでも共感しまくるけど
0597考える名無しさん
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2020/03/26(木) 13:55:52.010
でもほんとに知性があったらいろいろ克服して人生を楽しめる生活ができるものだと
「幸福について」もそうだけど、やっぱり不幸回避的なことになるかなとは思う
0598幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/27(金) 23:27:38.010
豪猪(ヤマアラシ)の一群が、或る寒い日に、寄り合い、銘々の体温で暖め合って凍えるのを防
ごうと、ぴったりとくっつき合った。しかし、間もなく、彼らは、銘々の棘の痛さを感じて、
やがて、離れ離れになってしまった。だが、再び凍えそうになると、暖まりたくなって、またも、
くっつき合ってはみたものの、前に起こった災いが、同じように繰り返され、こうして、
これら二つの苦痛の間を、行きつ戻りつ、やっているうちに、とうとう、互いに或る
適当な間隔を保てば、その状態で最も具合がよくじっとしていられるということを見つけ出した。
―― 人間でも、ちょうど、それと同じように、自己の、内心の空虚さと単調さとから生じた
「社交の欲求」が、互いに寄せ集めるけれども、人間がそれぞれに持つ多くの厭うべき
特質と堪えがたき欠陥とは、再び、彼らを互いに突き放す。彼らが最後に発見した − そこで、
どうやら一緒になって生きてゆくことが出来そうな ― 中庸の距離間隔が、則ち、礼譲といい、
上品な風習というものなのである。この大切な距離間隔を保てぬ人がいると、イギリス人は
″KEEP YOUR DISTANCE!″(あなたがたの距離を守りなさい!」)と言ってたしなめる。――
なるほど、このような距離間隔があるために、銘々の温まろうとする欲求は、とても完全に満たさ
れるわけにはいかないが、その代わりに、棘で刺される苦痛を感じないですむ。――しかしなが
ら、自己のうちに多くの暖かさを持っている人は、寧ろ、社交から遠ざかってしまう。そう
すれば、他人に迷惑をかけないし、自分も迷惑をこうむらずにいられるから。
0599考える名無しさん
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2020/03/28(土) 01:17:07.540
丸1日誰とも話さない孤独な生活はやはり異常に思える
ゆえに社交性は大切
0600考える名無しさん
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2020/03/28(土) 01:28:33.620
なんか知性ってやっぱり地球を少し遠いところから眺める様な感覚なのかなとは思う
そういう風に悟ったら自分のことすらちょっと他人に思えてくるだろうし実は存在すら無いようなものだと

家族や友人とか社会や労働から離れるとこんなことを考えてしまうね
0603幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/29(日) 17:28:09.820
 さてわれわれがこうした実地の応用はひとにまかせ、われわれの本来の見地、すなわち、倫理的・形
而上学的な見地に帰るならば、第四一章の内容と本章の内容とを結びつけることによって次のような結
論が生じよう。この結論は、あくまで経験を超越したものであるが、しかし直接の経験によって保証せ
られている。――先祖から現在の嫡男にいたるまで一族のすべての子孫のなかに生きているものは、同一
の性格、すなわち、個別的に規定された同一の意志である。しかしこれらの子孫のなかのどの子孫の
場合も彼には別の知性が、すなわち、程度においても種類においても異なる別の認識が授けられている。
そのためこれらの子孫のなかのどの子孫の場合も生が彼にたいし別の側面から別の光に照らされて現わ
れる。彼は生の新しい根本的見解、新しい啓示を獲得する。なるほど、知性は個人とともに滅び去るた
め、この意志は、一代で獲得した知見を他の代で獲得されるごとに、その結果として彼の意欲自
身が別の方向を与えられ、またその方向によって変化を受け、こうして、これが大事なことであるが、こ
の変化に応じてあらためて生を肯定するか、否定するかしなければならない。こうして、生殖のために
男女の両性が必要であるということから生ずる自然の配備、すなわち、意志と知性の組合せがつねに変
わるという自然の配備が、救済の秩序の基礎となる。というのは、この秩序のおかげで、生は意志(その
模像と反映が生である)にたいしたえず新しい面をさし向け、いわば、彼の見守るまえで休みなく回転
して見せるのであり、生を肯定するか否定するかはともに彼の自由であるが、この両者いずれかを生の
見方の変わるごとに彼を決断させるために、手を変え品を変え絶えず別の生の見方をもちだし、彼に
たいしてその効果を試みさせるのである。
0604幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/29(日) 17:35:33.400
 ただし、彼がいったん否定の方向の道を決断したとなれば、彼のまえに見られる
全現象は死とともに消滅する。そこで同一の意志にたいし救済の道を開いておくものが、
新しい世界観を授けるほかならぬ知性の不断の更新と完全な変化であり、しかも知性は母親から伝えら
れるのであるから、これが深い理由をなすものと思われるが、あらゆる民族(例外は非常に少なく、い
や、例外かどうか、それもあいまいなくらいである)は兄弟姉妹間の結婚を忌避し、これを禁止してい
る、いやそれどころか、実際に男女の愛は兄弟姉妹間に生じないのである。ただし、彼のうちの一方が
私生児か、でなければ衝動の不自然な倒錯にもとづく非常にまれな例外の場合は別であるが。というの
は、兄弟姉妹間の結婚が行われれば、両者ともに両親のなかにすでにある同一の意志と同一の知性が
結びつき、そのため、すでに存在している現象をあてもなくくり返すだけだからである。
0606考える名無しさん
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2020/03/29(日) 23:39:57.480
5chは長すぎると改行しないとレスできないんだぞ
長文書いたことないのかな
0608幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/31(火) 12:49:13.710
>>593の続き

こうして時は、ますます足跡を残すことなく経過していく。――さらにわれわれは、不愉快なこと
を好んで考えてみようという気持にはならない。とくに、ほとんどの不快事がそうであるように、わ
れわれの虚栄心が傷つけられたことなどはとくに反省してみようという気にはなれない。なぜなら、わ
れわれ自身のせいではない苦しみなどは、ほとんどわれわれにふりかかってくることなどないからだ。こ
うして、多くの不愉快なこともやはり忘却される。些細なこと、不快なこと、この両者を忘れるために
われわれの記憶はますます少なくなる。しかも記憶の素材である人生が長ければ長いほど、比較的最近
のものしか記憶できなくなる。人が乗っている船から遠ざかっていく岸辺の対象がどんどん小さくな
り、ぼんやりとし、しまいには見分けるのがむずかしくなるように、われわれの過ぎ去った歳月、その
ころの振る舞い、体験なども、時間がたてばたつほどあいまいになる。それでもときには、記憶と空想力
がわれわれのはるか昔の生活の一場面を、まるで昨日のことのようにいきいきと再生し、まったくわれ
われの身近なものとして迫ってくることもある。なぜこのようなことが起きるのであろうか? それは
なんといっても、現在とあのころとのあいだの過ぎ去った年月を同等に想起することができないからで
ある。これらの年月は一つの像のなかにおさめて見るわけにはいかないし、その間に起こったことの大
部分は忘却されている。そして、このことについての単なる一般的認識が抽象的に、つまり直観ではな
くたんなる概念として残るだけである。こうした理由で、かなり昔に過ぎ去ったことが、個別的にはまる
で昨日のことのようにわれわれにきわめて身近に現われる。それでいて、そのころと現在とのあいだの
時間は消滅しているため、全生涯が不可解なほど短いものに思われてくる。そのうえ年をとると、とき
には、われわれがあとに残してきた長い過去と、さらにわれわれ自身の年配とが、一瞬間、まるでおと
ぎ話のようなものに思われてくるときがある。一般になぜこうしたことが起こるかというと、それは、
0609幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/31(火) 13:01:11.070
われわれは年をとってもいぜんとして、つねに同じ現在を見ているからである。だがこの種の内面的な
動きは現在のところ、われわれの本質そのものでなくわれわれの現象だけが時間のなかにあるのであ
り、現在は客観と主観の接触点であるという事情にもとづいている。――それならばふたたびきくが、
若いとき人は、今後にひかえている生をなぜあのように果てしないほど長いものと思うのであろうか?
それは、若者が胸にいだく果てしない希望、そしてこれを実現するためにはメトシェラでさえ早死に
だったと思われるほどの長い年月を要する希望のために、場所を用意しなくてはならないからであ
る。これらの歳月についての記憶のなかには素材が充満しており、したがってこれらの歳月は長い。な
んとしても新奇なことはすべて重要に思われ、つねに反芻されるため、記憶のなかでしばしば繰り返さ
れ、記憶のなかに定着するのだ。
 ときどきわれわれは、はるかな場所に行ってみたいとあこがれることがある。しかしほんとうは、こ
のときわれわれはただ自分たちが若く溌剌としていたころ送った時に憧憬を感じているのだ。そうなる
と、空間の仮面をかぶった時間がわれわれをあざむくことになる。われわれが旅に出ると、この迷妄に
気がつく。――
 高齢に達するためには、「欠かせない条件」としての欠点のない体質とともに、二つの方法がある。
これを二つのランプの燃え方を例にとって説明することができる。一方のランプは長くともる。このラ
ンプにはあまりたくさん灯油ははいっていないけれども、しんが長いからである。もうひとつのランプ
も長くともる。それは強力なしんがあり、灯油の量も多いからである。種類、方法のちがいはあれ、と
にかく灯油は生命力であり、しんはその消費である。
0610幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/31(火) 13:14:16.310
 生命力について言えば、三十六歳までは利子生活者に比することができる。きょう支出したものは、
あすはふたたびはいってくる。だがこの年齢あたりからわれわれは、元本にまで手をつけはじめた
金利生活者とそっくりになる。はじめのころは、いったいどうなっているかはあまりよくわからない。
支出の大部分はつねにおのずと還ってくるので、多少の赤字は問題とされない。ところが赤字はしだい
にふえ、しかも赤字がとまる見込みはない。したがって物体が落下していくときのように、欠損はつねに
促される。そして最後にはなにも残らなくなる。ここで比較してた二つのもの、つまり生命力と財産
がともに実際に失われようとする姿はまったく物悲しい。まさにこうしたことから、年をとるとともに
所有欲が高まる。――これに反し、生まれてから青年に達し、さらにそれからしばらく年をとるまでの
われわれは、生命力という点では、利子を資本蓄積に役立てる者と似ている。すなわち支出したものが
保護者の配慮が加わっていれば、ときには同時に金についてもいえることになる。おお、なんと幸せな
若者であろう! そしてなんと悲しい老人であろう! ――それにもかかわらず、人は若いときの力を
いたわるべきである。アリストテレスは(『政治学』最終巻・第五章)オリンピック競技の勝利者のな
かでは、ただの二、三人が少年のときも勝ち、また大人になってからも勝ったと指摘した。それという
のも、まえまえからの準備を必要とする青少年期の鍛錬は、もろもろの力をあまりにも使いつくしてし
まうために、こうした力は、そちに大人になったときに消滅するからである。筋肉の力についていえる
ことは、すべての知的な業績を生み出す神経の力についていっそうぴったりとあてはまる。したがって
温室内での教育が生み出した神童たちは、たしかに少年期には人びとを驚かすけれども、その後はふつう
人並みの頭脳しかもてなくなる。
0611幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/03/31(火) 13:30:52.730
そればかりか。多くの学者たちの頭脳が後年きわめて弛緩し、判断力も
なくなるのは、彼らが若いときに、無理に古典語を学ばされたせいかもしれない。――
 わたしは、ほとんどすべての人の性格は、それぞれの年齢にうまく適合しているように思われると指
摘した。そのために、人の性格がその年齢にぴったりと合ったときには、その人が受ける利益はいっそ
う大きなものになる。一部の人びとは愛すべき若者であったが、もっと年をとるとそうはいかなくな
る。また他の人びとは壮年期には力強く活動的だが、年をとるとこうした価値は失われる。多くの人び
とは、老人になっていちばん利益を受けるようである。彼らは老人になると、なんとしても経験がいっ
そう豊かになり、しかも落ち着きを増すために、より柔和になってくる。こうした人びとはしばしばフ
ランス人のあいだに見うけられる。どうしてこのようになるかというと、それは、そもそも性格にはそ
れぞれ若者らしいところ、あるいは壮年めいたところ、それとも老人のようなところがあり、それに
よって性格がそれぞれの年齢に適合したものとなるか、あるいはこれを矯正するものとして作用すると
いう事情があるからである。
 船に乗ると、その動きが、ただ岸辺の対象がしだいに遠のき、したがって小さくなっていくことに
よってのみわかるように、人は自分が年をとり、さらにもっと老人になっていくことを、どんどん年を
とっていく人びとが若いように見えるということによって悟るようになる。
 すでにまえにも、人が見ること、なすこと、体験することのすべてが、年をとるにしたがってますま
すわずかしか精神のなかに残らなくなるという状態やその理由を述べておいた。この意味で、人はただ
若いときだけじゅうぶんな意識を備えて生きていくが、老人になるとわずか半分の意識しかもってい
ないようになるということが主張できる。事物はなんらの印象も残さず、急いで過ぎ去っていく。
0613考える名無しさん
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2020/04/03(金) 17:13:20.920
脱俗隠遁の生活で経済活動からどれだけ逃れてやって行けるかがやはり重要だなと
今の時代に自給自足はもちろん無理があるけど、まずはなるべく消費しない(お金を使わない)ことだよね
0614考える名無しさん
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2020/04/03(金) 17:20:40.030
著書の幸福についてで心構えや解釈については延々と語られてるけど、
お金や実生活のことについては殆ど触れられてないのはやはり経済的な不安無い財産で生活できてたからなんだろうな
0615考える名無しさん
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2020/04/03(金) 17:23:38.900
その辺のこと(実生活について)はソローの森の生活とかで語られてるかな
0616考える名無しさん
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2020/04/03(金) 18:32:19.040
仕事や家庭も含めた「生活に追われる生活」ではなく、まずは健康や平静を重視した日々を送ること
0617考える名無しさん
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2020/04/03(金) 18:38:58.570
今世の中はコロナだけど、それに影響されることもない立ち位置に居ることが必要なんだろうな。
0618幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/07(火) 08:44:55.380
これは、千回も見た芸術作品がなんの印象も与えないのと同じような事情にある。人はしなくてはならない
ものをするけれども、あとになると、自分がそんなことをしたかどうかもわからなくなる。そもそも生
は、それが完全な無意識にむかって突進するにつれて、つねにますます意識されないものとなってくる
が、まさにこのことによって、時の流れもつねにいっそう促進されることとなる。子供のころは、すべ
ての対象、あらゆる出来事の新しさが意識にのぼる。したがって日は果てしなく長い。同じことが旅に
出たときにも起こる。そこで旅行中の一か月は、家にいるときの四か月よりも長いように思われる。こ
うした事物の新しさによって、若いとき、そして旅に出たときの二つの場合には、それぞれ年をとったと
き、あるいは家にいるときよりも長いように思われる時間が、実際に「長い」ことになってもおかしく
はない。そうはいっても、長いあいだこの習慣によって、しだいに知覚や知性がすりへらされてしま
うために、すべてのものがつねにますますなんらの刺激も与えないで過ぎ去っていくということもあ
る。こうなると、毎日はますます無意味なものとなり、しかも日はいっそう短くなる。少年時代の一時
間は、老人の一日よりも長い。したがってわれわれの生の時間は、ちょうど斜面をくだり落ちる球のよ
うに加速される運動である。さらに回転する円盤状の中心から遠い点ほど、より速く回るようなもので
ある。したがってだれでも、その人の誕生のときから遠のくにしたがって、時間はつねに速く過ぎ去る
いっぽうである。こういう事情からして、われわれのこの間の気分を直接たしかめるにあたって、年月
の長さはわれわれの年齢の長さと逆の係数の関係にあるというふうに考えることもできる。たとえば一
年がわれわれの年齢の五分の一にあたるときは、同じ一年でも、一年がわれわれの年齢の五十分の一に
しかあたらないときの十倍も長いものに思われる。時の歩みが異なっていることは、どの年齢をとって
も、われわれの存在のすべてのあり方に最も決定的な影響を与える。
0619幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2020/04/07(火) 09:00:06.210
その第一の影響は、たといそれが
わずか約十五年にすぎないにしても子供時代は一生のうちの最も長い時間であり、したがって記憶のな
かに最も豊かに残されるということである。さらにわれわれが、われわれの年齢の高さに反比例して退
屈にさらされるという影響も出てくる。なんといっても子供たちは、遊びでもよい仕事でもよい、つね
にひまつぶしのたねを必要とする。もしたねぎれということになると、彼らは一瞬恐ろしいばかりの退
屈に襲われる。青年でもまだ退屈に陥りがちであり、そのため彼らは充実されていない時間が心配でな
らない。壮年では退屈はだんだんなくなる。老人になると時はつねに短く、日々は矢のようにすみやか
に過ぎていく。ここでわたしが人間について語っているのであって、年とった牛について語っているの
ではないことはおわかりだろう。こうして時の歩みが加速されるために、老年になるとほとんどの場
合、退屈は退散する。それに、苦痛を伴うもろもろの情熱も黙りこむ。したがって、あまりにも
高齢となって体も弱くなり、さらに苦労もふえるようになるまえの年配を「最良の年」とよぶこともで
きる。われわれの快適さについては、たしかにこの年配はほんとうに最良の年であろう。これに反し、
すべてのものが印象を与え、あらゆるものがいきいきと意識にのぼる若いころの歳月は、精神を実らせ
る時であり、精神に花を咲かせる春であるという長所をもっている、意味深長なもろもろの真理は、た
だ観照されるだけであって、けっして計算できるものではない。その手はじめとなる認識は直接的なも
のであり、瞬間的印象によって呼びおこされる。したがってこうした認識は、瞬間的印象が強く、いき
いきとしかも深いときにだけ登場する。こうしたことからしても、すべてが若いときの利用いかんにか
かっている。もっと年をとると、われわれは他のことに、そればかりか世間のことに、より多くかかり
合うことになる。それは、われわれ自身が完成し、それなりに固まり、もはや印象に左右されなくなるからだ。
0620考える名無しさん
垢版 |
2020/04/07(火) 09:27:59.130
         、_,i|::::::::::|:::::i::::::::|:::i:::::i::::::|::::::::i//.::::::::::::::::/.::::::ヽ._ノ
.              /i|:::::::::{::::i:|:::::::::_;L:::ノ>く:::::::::::/:/.:::::.f
            〈:八:::::::::ヽj」-'′            ゙̄Y:::/.::::::::}i:,
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            ∨ヘ:::::〉                         \i|:::::::∧
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                ,゙                           V}
             :                  /             ゙:
             l         \      ,             i
             l           ヽ、ヽ ノ  今 日 も 終 日 中 年 ひ き こ も り 板
            l              ^ 入!              !     
                ゙.  __________r´_|______   !
              Y゙´ ̄`゙'ー-=ニ   ∞    _ニ=‐-'^ ̄ ̄ ̄Y  
                '.         `丶、   γ'´         ! 
                 '.           ^「こ:r′            |
                 '.          |⌒|               |
                   ゙.              |  |       .       |



今日も過疎5ちゃんで がんばってね

ダメ人間
0621幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/09(木) 13:11:09.830
だがそうなると、世界はわれわれにより少なくしかはたらきかけなくなる。この時代はした
がって行為行動の時である。いっぽう若いときは本源的な把握と認識の時である。
 若いときには直観が、年をとると思考が勢いをふるう。したがって若いときは詩のための時代であ
り、老年は哲学のための時代である。また実際面でも、人は若いときには、自分の眼に見えたものとそ
の印象によって、老年になると、ただ思考によってのみ左右される。どうしてそうなるかというと、そ
れはひとつには老年になってはじめて自分の眼で見てきたものの数がこれでじゅうぶんというほど多く
なり、しかもこれらのものに豊かな意味、内容、信頼感を与えることができるほどの概念がそなわり、
それと同時に自分が見聞きしたものの印象を、習慣的に適度に制御することができるようになるからで
ある。これに反して若いとき、とくにいきいきとした空想力に富む頭脳を有する者の場合には、自分が
見たものの印象、つまりは事物の外面から受ける印象があまりにも強力なために、世界をひとつの像と
見なすようになる。したがって彼らにとってもたいせつなのは、主として、いかにこの像に対処する
か、そしていかなる態度を示すかということである。彼らにとってはこうしたことのほうが、自分がそ
のさいいかに考えるかということよりもたいせつになる。このときはすでに、若者が個人的虚栄心が強
く、やたらと着飾ってみようという気持をもっていることにも現われる。
 精神力の最大の精力と最高の緊張は、疑うまでもなく若いときに出現する。おそくとも三十五歳まで
に現われる。それからあとは、こうした精神力のエネルギーや張り切り方はきわめて緩慢ではあるけれ
ども、とにかく減少していく。そうかといって、中年、いや老年でも、精神的な代償がないわけれはな
い。中高年齢層に達して初めて、経験・学識は豊かなものとなる。この年配になった人には事物をあら
ゆる側面から観察し、考察するための時間や機会にたっぷり恵まれる。
0622幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2020/04/09(木) 13:23:08.260
彼らはあらゆるものをあらゆ
るものと関連づけ、それらの接触点や連絡ルートを見いだすことができるために、やっとこの年になっ
て、事物の結びつきのありさまを正しくわきまえるようになる。すべてのものがはっきりわかるように
なったのだ。したがって中高年齢層の人びとは、すでに若いときから知っていたことをいまやずっと根
本的に理解するようになる。それはあらゆる概念に対して、その正しさを証明するものがずっとふえて
きているからである。人は若いとき知っていると信じていたことを、老年になってほんとうにわきまえ
るようになる。それに老年になると、人は実際にも多くのことを知るようになるうえに、あらゆる面に
ついて熟考し、それによってまったく本質的に結合した認識を得る。いっぽう、若いときのわれわれの
知識などはどれも抜けたところだらけであり、しかも断片的である。なんといっても年を重ねた人は、
生について完全にしかも適切な考え方をもっている。それはこうした人は生を全体としてとらえ、その
自然の成りゆきをもわきまえており、他の人びとのように生を入口からばかりでなく、出口からも見と
おしているからである。そのためこうした人は、とくに生のむなしさを完全に認識する。これに対し他
の人びとは、これだというすばらしいものがやがて姿を現わすだろうという迷妄にとらわれている。老
人とはちがって、若者にとっては構想ばかりが先に立つ。したがって人は若いときには、自分が知って
いるわずかなものから多くのことをなしとげることができる。しかしその人も年をとると、判断力や、
物に浸透してその根底をきわめる力がついてくる。人は独自の認識、創造的な基本構想、つまり世界の
すぐれた精神の持主に贈られることになっているすべてを、すでに若いときに集めているけれども、そ
の人がおのれの集めた材料を使いこなす巨匠となるのは、もっと年をとってからである。こうしたこと
からしても、偉大なる著述家は彼らの傑作を五十歳のころ提供する場合がほとんどであることがわか
る。たしかに木の梢が実を結ぶのはさきの話にしても、若いときはなんといっても認識の木の根もとである。
0623幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
垢版 |
2020/04/09(木) 14:03:19.630
だが、たといそれがどんな貧弱な時代であっても、あらゆる時代が、自分たちの時代をずっと昔
の時代や過ぎ去ったばかりの時代とくらべてより賢明であると考えるように、人生のあらゆる時期も、
以前の時期よりも賢いと思っている。だが時代にせよ、人生の一時期にせよ、このように考えるの
はまちがっていある。われわれの精神力も認識も日々に向上する体の発育期にあっては、きょうは軽蔑の
念をもってきのうを見くだすものだ。こうした習慣は、精神力が衰えはじめ、きょうはむしろ尊敬の念
をもってきのうを見るべきときになっても、やはり根強く残っている。したがってわれわれは、その業
績についても判断についても、われわれの若いときのことをあまりにも過小評価している。(1)
 (1)〔原注〕だが多くの場合、われわれは時間が最も貴重である青年時代に時を浪費し、老年になってはじ
めて時を惜しむようになる。
 たしかに人間の性格や心のように、人間の知性つまり頭脳も、その根本的な特質については生得のも
のであるけれども、知性は心や性格ほどには不変のものではなく、多くの変化をとげるばかりか、こう
した変化が全体として規則的に現われるということを、このさい一般的に指摘しておく必要がある。知
性がこのように変化するのは、ひとつには知性が肉体的基盤をもっていること、もうひとつには知性が
経験的材料をかかえていることによる。したがって、知性それ自身の力は絶頂に達するまでしだいに成
長し、それからあとは痴愚にいたるまでしだいに衰退してゆく。だが他方ではそのさい、これらすべて
の力をとらえ、活動させる材料、したがって思考や知識の内容をはじめ。経験、見識、練磨、さらには、
これによって得られる洞察の完全さは、いつかはっきりとした弱体化が現われてすべてが消失するまで
は、たえず生長をつづけていく。そもそも人間は一方ではまったく不変のものからなり、そして他方で
は、二重のしかも対立したしくみによって規則的に変化するものからなっている。このことが、さまざ
まな年齢における人間の竚まいや精力のちがいを説明してくれる。
0624幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/09(木) 14:16:19.940
 広い意味にとれば、われわれの生涯の最初の四十年は文章そのものであり、そしてその後の三十年は
われわれに文章の真意と脈略を、道徳ならびにそのあらゆるニュアンスとともに、はじめて正しく解明
してくれる解説書であるということもできる。
 人生も終わりごろになると、仮面が取りはずされる仮面舞踏会の終末近くのようなものになる。その
ころになると、人は、自分の生涯のなかで接触してきた人びとがほんとうは何者であったかがわかって
くる。なぜなら、人びとの性格は明るみに出、もろもろの行為の結果も判明し、多くの業績をもそれ相
応に評価され、すべての虚像が退散するからである。だがこうしたことすべての実現には時間が必要
だ。――だがなんとしても奇妙なのは、人はその生涯の終わりごとになってはじめて、おのれの目標や
意図を、それもおのれと世界、おのれと他者との関連において、ほんとうに認識しかつわきまえるとい
うことだ。いつもそうであるとはかぎらないけれども、たしかに人はおのれの目標や目的を、老年にな
ると、若いときにかかげた場所より低目におくようになることが多い。それでもときには、高目におく
こともある。なぜそのようなことになるかというと、それは、そうした人は、この世はむなしいものだ
ということがじゅうぶんにのみこめず、したがって、より高い目標なり目的なりをかかげることになる
からだ。こうしたことからも、いったいその人がどんな人なのかということもわかってくる。――
 ふつう、若いときは人生の幸福なときであり、老年は人生の哀れなときであるといわれている。もし
情熱が人を幸せにするならば、このことも正しいであろう。だが若者は、もろもろの情熱によってあち
こちへと引きまわされ、喜びが少ないのに苦しみばかり多くなる。年をとって冷静になった人は、情熱
に駆りたてられることがなく、すぐにものごとを観照する態度をそなえるようになる。それは認識が自
由になり、優位をしめるようになるからだ。
0625幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/09(木) 14:33:53.490
 なんといっても認識はそれ自身苦痛のないものであるため
に、意識のなかで認識が支配すればするほど、それだけますます幸福になる。もろもろの情熱が人を幸
せにできるものでなく、また老人は多くの楽しみを味わうことができないからといって悔むべきではな
いということを理解するためには、すべての楽しみは消極的である半面、すべての苦痛は積極的である
ということを熟考するだけでよい。なぜなら、あらゆる楽しみはつねにただなんらかの欲望を鎮めるこ
とでしかないからである。したがって、欲望がなくなるとともに楽しみもなくなるということは、食事の
あとはなにも食べることができないことや、夜よく睡眠をとると、あとは眠れなくなることと同じよ
うに、あまり悲しむべきことではない。プラトンは(『国家』のはじめで)、老人になると、それまでた
えず人を不安にさせてきた性欲からついに解放されるという点で幸福だとしたが、この考えはきわめて
正しい。そればかりではない。性欲がよびさます多種多様の無限の気まぐれと、こうした気まぐれから
生ずる激情は、人が性欲、つまりその人がつねに憑かれたままになっている悪魔の影響下におかれてい
るかぎり、その人をいつも軽度の狂人の状態にしておくが、その人でもいったん性欲が退散すると今度
はきわめて理性的になる、と主張することもできる。だが確かなことは、一般的にいって、個人個人の
環境、状況などをすべて度外視すれば、若者にはある種の嘆息と悲哀が、そして老人にはある種の
朗らかさがつきものだということだ。その理由は、若者は例の悪魔、性欲の支配下におかれている
ばかりか、そのために苦役させられているために、自由な時間にはほとんど恵まれていないこと、それ
に例の悪魔が、人間にふりかかるか、あるいは人間を威すほとんどすべての災いの直接的あるいは間接
的に元兇となっていること以外にはない。だが老人は、長いこと引きずらされてきた足かせから解きは
なされ、いまや自由自在に動けるために朗らかになる。
0626幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/09(木) 14:48:25.130
 ――しかし他方では、性欲が消滅すると、生の
本源的な核も失われ、ただその外皮しか残らないこと、さらにこうしたありさまは、はじめは人間に
よって行なわれたものの、しまいにはその人間の衣をまとったロボットによって終幕まで演ぜられる喜
劇そっくりであると言うこともできる。
 それはともかく、若いときは不安の時であり、老年は平穏の時である。すでにこのことからも、両者
にそれぞれの楽しみがあることがおしはかられる。子供は眼前の色とりどりのさまざまな形をしたもの
すべてにむかって、のびのびと、望みにもえて両手をさしのべる。それは、子供のもつ感覚がなお新鮮
で若々しいために、これらのものすべてによって刺激されるからである。同じことが若者になるといっ
そう力強く現われる。若者も、色とりどりの世界とそのなかのもろもろの姿によって刺激される。そし
て、若者の創造力はたちまちのうちに、世界がこれまで与えてくれたもの以上のものを生みだす。その
ため若者はなんともはっきりしないものをむやみに欲しがり、これに恋いこがれる。このことが若者か
ら、それなくしては幸福は得られない平穏さをうばい去る。若者たちが、ただそれがある場所さえわかっ
たならば、この世ですばらしいものを入手できるのだと思っている半面、老人たちは、『伝道の書』の
言う「いっさいは空しい」という考え方に満たされており、すべての胡桃はいかに金鍍金が施され
ていようと、中身は空だということを知っている。というのも、老年になると、すべてのものが平穏
となるからであって、それはひとつには、血が以前より冷却され、感覚への刺激がいっそう少なくなる
ためであり、またひとつには、事物の価値、楽しみの実質がいかなるものであるかが経験によって明ら
かになり、さらにはそれによって、以前には自由に事物を見ることを阻んだり歪めたりしてきた幻想、迷
妄、偏見のたぐいからしだいに解放されるためである、そのため、老人はいまやすべてのことをより正
しく、よりはっきりと認識し、存在するものから、多少なりとも、この世の事物はすべて虚しいという
洞察をひき出すようになる。
0629幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/13(月) 14:23:01.120
『ドクトルたちの奮闘記』の執筆舞台裏 「芝居の前狂言」になぞらえた新刊ご案内 
石原 あえか 東京大学大学院総合文化研究科准教授
https://keio-up.co.jp/kup/sp/doctor/

 2009年度にお世話になったイェーナ大学の独文学研究所は、江戸の蘭学医たちに影響を与えた名医フーフェラントの旧居でした。
このフーフェラント、ゲーテが彼に自邸サロンでの講義を頼まなければ、無名の開業医として一生を終えたかもしれません(これは
ドイツの研究者間ではよく知られている話)。ところが帰国してみると、その貴重な重訳である緒方洪庵の『扶氏経験遺訓』も
杉田成卿の『医戒』も、初版和綴本を母校・慶應義塾図書館が所蔵していました。これを使わないのは勿体ない! 俄然、研究心が
湧きます。また本書で紹介するひとり、日本人女医として最初にドイツに留学した高橋瑞子の下宿探しは、こともあろうに
デュッセルドルフ・ゲーテ博物館の展示図録によって、見事正解が得られました。その後、さらに不思議なご縁で彼女の遺骨とも
対面し、また彼女の死後出版された私家版歌集も入手できました。いろいろエピソードはあるのですが、要するに日独医学交流史
というテーマに向き合い始めたら、次々と課題が出て、勝手に発展していきました。こんな風に仕事が仕事を始めたら、研究者
たるもの、絶対に逆らってはいけません。
0631幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/16(木) 23:12:31.720
まさに、このことが、ごく並みの能力しかない者を含め、ほとんどすべて
の老人に賢明さの一端を与えることになる。これが老人を若者から区別する。だから主として、この賢明
さによってすべての精神的な落ち着きがもたらされる。なんとしても、このことは幸せを主として形づ
くるものであるばかりでなく、もともと幸福の条件、本質となるものである。
 さらに、老人の宿命は病気と退屈だと考えられている。しかし病気は、とくに高齢に達した人の場合
には、なにも老人特有のものではない。なぜなら、「年をとるにつれて健康も病気も増加する」からで
ある。つぎに退屈については、わたしはすでに、なぜ老人が若者とくらべて退屈に襲われることが少な
いかということを述べておいた。どうしてそうなるかという原因はすぐ説明がつくが、ともかく老人に
はかならずつきものの孤独に、退屈は必然的に同伴するものではない。退屈に襲われるのは、感覚や、
社交以外の楽しみを知らず、自分の精神を豊かにすることも、自分の力を発展させることもしなかった
人びとだけである。たしかに老年になると、精神のもろもろの力は弱まるけれども、退屈を相手に戦う
ことができるくらいの力はいつもまたじゅうぶんに残っている。さらに老人になると、まえにも述べた
ように、経験、知識、復習、熟考などをつうじて正しい洞察はたえず向上するいっぽうとなり、判断も鋭
さを増し、ものごとの関連性もはっきりわかるようになる。老人はあらゆるものごとについてますます
すべてを包括する観点を獲得できるようになる。そうしたことから、老人は積み重ねられた経験を、と
きにこれをより充実させることに新しく結びつけることによって、つねにあらゆる方面におけるおのれ
の新奥の自己形成の発展に取り組み、精神を活動させ、満足させ、そして報いていくのだ。これらすべ
ての作業によって、まえに述べたある程度の精神の弱体化は償われる。とりわけ、よく言われるよ
うに、老年では時の歩みがいっそう速まり、これが退屈を予防することとなる。
0632幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/16(木) 23:25:46.940
肉体のもろもろの力が
弱まることも、そうした力を仕事に必要とするのでなければ、それほど害のあることではない。年とっ
てから貧しいことは、大きな不幸である。こうしたことがなく、しかも健康が保たれていれば、老年は
生涯のうちでまったくしのぎやすい時期である。快適なこと、安全なことだけが老人のおもな欲望であ
る。したがって、人は老人になると以前にもまして金を愛するようになる。それは金が、もろもろの力の
弱まったことの代償となるからである。ヴィーナスに逃げられた人は、好んでバッカスのもとで朗らか
な気分になろうとする。見たり、旅したり、学んだりする欲求のかわりに、教えたり、話したりする欲
求が現われる。だが老人になっても、自分の研究への愛情、また音楽熱、演劇熱など、一般に外的なも
のへのある種の感受性が残っている人は幸福である。もろもろこうした感受性は、一部の人びとにあっ
ては、かなり高齢になってもつづいている。
 相当の高齢になってはじめて、人間はホラティウスの言う「なにごとにも驚かず」という境地がその
まま完全にわかるようになる。すなわち、この世のすべての事物がむなしいものであり、この世のあら
ゆるきらびやかなどは、空虚なものであることを、正しくしっかり確信するにいたる。迷妄は消滅する
のだ。老人は、自分が心身の苦痛から解放されているときはいつでもありのままに味わうことのできる
幸せよりも、宮殿のなかでも小屋のなかでもよい、どこかにもっと大きな幸せがあるなどとは信じな
い。老人にしてみれば、この世の尺度ではかられた大きなものも小さなものも、あるいは偉大なものも
卑小なものも、もはや区別できないことになる。このことが老人に精神の落ち着きを与える。この境地
にある老人は、世の中の仮象などは笑って見くだすだけである。老人は完全に覚醒している。そして人
間の生は、それをいかに飾りたて化粧をほどこすにしても、じきに、すべてのこうした安物の飾りつけ
などを透過して底の底まで見透かされることを知っている。また老人は、人間の生は、どんなに
0633幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/16(木) 23:36:51.400
表面的に彩られ飾りたてられていようと、本質的にはいたるところすっかり同じものであること、さらに存在の真の価値
は、楽しみがあること、あまつさえきらびやかなことなどによってではなく、苦痛のないことによって
はかられるべきことを知っている(ホラティウス、『書簡集』第一巻、一二の一−四節)。高齢者の根本
的特質は、迷妄からさめていることである。それまではその人の生に刺激を与え、その行動に拍車をか
けたもろもろの幻想は消滅する。その人は、この世のすべてのすばらしさ、とりわけ華麗、栄光、高貴
とされているもののむなしさ、空虚さを認識する。その人は、ほとんどの人びとが欲求している事物
や、大多数の人びとがあこがれている楽しみはあまり実質がないことを知り、われわれの全存在がいか
に哀れな、むなしいものであるかということをしだいに洞察するようになる。七十代にはいってはじめ
て人は『伝道の書』の最初の詩句を理解するようになる。だがこのことは老人にどことなく気むずかし
げな外見を与えるものでもある。――人が「おのれ自身にそなえる」ものは、老人のときほどありがた
いものになることはない。
 もちろん、いつも愚鈍であった大多数の人びとは、高齢になるとますますロボット化してくる。彼ら
はつねに同じことを考え、語り、行ない、そしていかなる外的な印象も彼らのこうした生き方をあまり
変えることはできず、さらに彼らからなんらかの新しいものを引きだすことはできない。この種の老人
に語りかけるのは、砂の上に字を書くのと同じことである。印象はほとんどすぐに消失してしまうの
だ。この種の老境は生ける「しかばね」にすぎないことはいうまでもない。――自然は高齢になってふ
たたび子供に帰ることを、めったいにないことだが、三番目の歯を生やさせることによって、象徴してい
るように思われる。
0634幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/17(金) 00:54:31.010
 老境にはいるにつれてすべての力が消滅していくこと、それにその消滅の度合いがつねにいちじるし
くなっていくことは、もちろん哀れなことだが、やはりこれは必然的なこと、いやそればかりか有益な
ことである。それというのは、もしこんなことがなければ、すでにその人に下工作をはじめている死が
あまりにも恐ろしいものになってくるだろうからである。したがって、きわめて高齢に達することがも
たらしてくれる最大の利益は、自然死である。自然死は、病気によって先導されることもなく、なんら
の痙攣をも伴わず、きわめて楽な、しかもなんの感覚にも襲われない死に方である。自然死については
わたしの主著続編・第四一章四七〇頁(第三版五三四頁)の記述を参照してほしい。(1)

(1)人間の生涯はもともと長くも短くもない。なぜなら人の一生は結局、われわれが他のすべての時間の長
さを測る尺度となるからである。――ヴェーダの奥義書ウパニシャッドには、自然の寿命は百歳であると記し
てある(『ウプネカート』第二巻五三頁)。私も確かにそれは正しいと信ずる。なぜなら、ただ九十歳
をこえた人だけが自然死に与れることにわたしも気づいたからである。こうした人びとはなんの病気
もなく、卒中、痙攣、それに喉をゴロゴロならしたりすることもなく、そればかりか、ときには顔色があお
ざめることもなく、ほとんどの場合は腰かけたまま、しかも食後に死んでいく、こうした人は死ぬのではな
く、むしろただ生きることをやめただけのことなのである。九十歳以前に死ぬ人は、たんに病気によって死
ぬ、つまり早死にするのだ。――旧約聖書(『詩篇』九〇の一〇)では人間の寿命は七十歳、最高までいっ
ても八十歳となっている。自信がいっそう強かったヘロドトス(一の三二、三の二二)も同じことを言って
いる。だがこれらの説は誤っており、日常の経験をうわすべりにいいかげんにとらえた結果である。なぜな
ら、もし自然の寿命が七、八十歳であるとしたら、七十から八十歳までの人びとは老衰で死ぬにちがいない
ことになる。だが実際はそうではない。彼らは、自分たちよりも若い人たちと同様、病気で死ぬのである。
しかし病気は異常なことである。したがってこれは自然な終末ではない。ふつうは九十歳から百歳のあいだ
で死ぬ人がはじめて、老衰で倒れるのだ。
0635幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/17(金) 01:09:25.710
彼らは病気でもなく、死ぬまえに痙攣することも、喉をゴロゴロ
いわせることも、震えることもないばかりか、ときには顔があおざめることもなく死ぬ。これこそ自然死と
よばれるものだ。したがって自然の寿命を百歳としたウパニシャッドはこの点でも正しい。

 たとい人は長生きしても、不可分の現在以外はけっしてなにものも持っていない。だが記憶が毎日忘
却によって失うものは、記憶が物をおぼえて貯めこむものより多い。――人は年をとればとるほど、人
間的な事柄いっさいがますます卑小なものに思われてくる。若いときにはしっかりと安定して
われわれの眼前に存在していた生が、老年になると、はかない現象の迅速な遁走として示される。すな
わち、すべてが無であることが暴露される。
 若者と老人とのあいだの根本的な違いは、若者が生を待ち受けているのに、老人は死を待っているこ
と、したがって若者が短い過去と長い未来をもっているのに、老人は逆の立場にあることである。老年
期の生は悲劇の第五幕に似ている。すなわち、人は悲劇的結末が近いことを知っているが、それでい
て、それがいったいどのようなものになるかがわからない。もちろん人は年寄りになると、目のまえに
死を有っているだけである。そこで問題になるのは、どちらの立場がより危険かということである。さ
らに全体としてみれば、生は、うしろに残してきたもののほうがこれから先に過ごしていくものよりも
ましだということなのかどうかという疑問が生じてくる。だがすでに旧約聖書外伝の『伝道の書』(七
の二)も、「死亡の日は誕生の日よりもましだ」と述べている。ともかく、きわめて長生きすることを
望むことは僭越な欲望である。なぜならスペインの諺も、「長生きする者は、いやなことをたくさん経
験する」と言っているからだ。――
 たしかに、占星術が望むように個々人の人生は惑星のなかにあらかじめ記されいるわけではな
い。そうはいっても人間の生涯一般についていえば、人間の年齢はそれぞれひとつのきまった惑星に順を
追って対応しており、したがって、人の生は連続的にすべての惑星によって支配される。
0636幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/17(金) 01:20:12.250
――十歳では水星が支配する。その年代の子供は水星のようにすばやく軽やかに、もっともせまい環のなかで動
く。この子はつまらないことで気分を変える。しかし狡猾さと弁論の神の支配のもとにあって、たやす
く多くのことを学ぶ。――廿歳とともに金星の支配がはじまる。恋と女がこの年配の人をわがものに
する。三十歳になると火星が勢力を握る。この年配の人は、いまや熱情的で強力であり、勇敢でけんか
早く、不敵である。――四十歳では四つの小惑星が支配する。この年配の人の生はしたがって大幅に広
がる。こうした人はケレスのおかげで役に立つものに奉仕する。またヴェスタのためにおのれ自身のい
ろりをもつ。こうした人はパラスによって自分が知るべきことを学ぶ。そしてユノとして、大多数の人
びとより長く生きながらえたことになる。彼らは現在活動中の世代の人びとよりもすぐれていると思っ
いる。彼らはまだおのれの力を楽しんでおり、知識、経験も豊かである。彼らは、(それぞれの個性
や置かれた状況にしたがって)おのれをとりまくすべての者に対して権威をもっている。したがって彼
らはいまや最適の人物となる。かくて木星は絶頂に達する。そして木星とともに五十歳の人は頂点
にある。――だが、それからあと六十歳には土星が来る。そして土星とともに、鉛のような重さ、緩慢
さ、しつっこさが現われる。

 だが年寄というものは、まるで死んだ人間みたいに
 大儀で、のろまで、陰気臭くて、鉛のように血の気がない。

(シェイクスピア『ロメオとジュリエット』第二幕・第五場)
0637幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/17(金) 01:33:13.330
――十歳では水星が支配する。その年代の子供は水星のようにすばやく軽やかに、もっともせまい環のなかで動
く。この子はつまらないことで気分を変える。しかし狡猾さと弁論の神の支配のもとにあって、たやす
く多くのことを学ぶ。――廿歳とともに金星の支配がはじまる。恋と女がこの年配の人をわがものに
する。三十歳になると火星が勢力を握る。この年配の人は、いまや熱情的で強力であり、勇敢でけんか
早く、不敵である。――四十歳では四つの小惑星が支配する。この年配の人の生はしたがって大幅に広
がる。こうした人はケレスのおかげで役に立つものに奉仕する。またヴェスタのためにおのれ自身のい
ろりをもつ。こうした人はパラスによって自分が知るべきことを学ぶ。そしてユノとして、家の女主
人、つまり妻が支配する。(1)――人生五十歳になると木星が支配する。この年になった人は、大多数の人
びとより長く生きながらえたことになる。彼らは現在活動中の世代の人びとよりもすぐれていると思っ
いる。彼らはまだおのれの力を楽しんでおり、知識、経験も豊かである。彼らは、(それぞれの個性
や置かれた状況にしたがって)おのれをとりまくすべての者に対して権威をもっている。したがって彼
らはいまや最適の人物となる。かくて木星は絶頂に達する。そして木星とともに五十歳の人は頂点
にある。――だが、それからあと六十歳には土星が来る。そして土星とともに、鉛のような重さ、緩慢
さ、しつっこさが現われる。

 だが年寄というものは、まるで死んだ人間みたいに
 大儀で、のろまで、陰気臭くて、鉛のように血の気がない。

(シェイクスピア『ロメオとジュリエット』第二幕・第五場)
0638幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/17(金) 01:33:32.720
最後に天王星が来る。そうなると、よく言われているように人は天にのぼる。海王星(残念なことに頭
の悪い者がこんな名をつけた)については、計算に入れないことにする。なぜなら、わたしがこれをほ
んとうの名前、エロスとよぶことが許されないからである。そうでなければ、わたしは、いかに終わり
が初めと結びつくかということ、つまり、いかにエロスは死とひそかに結びついており、そのためにエ
ジプト人のオルクス(2)あるいはアメンテス(プルタルコス『イシスとオシリスについて』第二九章)が、
「たんに取るばかりでなく与えるもの」であり、死が偉大なる生の貯水池であるということを示したで
あろう。したがって、こうしたことからして、オルクスからすべてが出現する。そしていま生きている
者はすべてオルクスのもとにすでにいたことがあるのだ。もしわれわれがこうしたことが起こったもと
となる手品使いの手口をつかみとることさえできれば、すべてのことが明らかとなるだろう。
(1)〔原注〕その後新しく発見されたおよそ五十個の小惑星は、わたしが周知しようとは思わない新参者で
ある。したがってわたしはこれらの小惑星を哲学教授なみに扱うことにする。すなわち、わたしは彼らをわ
たしの趣味にあわないために無視するわけだ。
(2)地下の世界の神。死および死者の国をも意味する。
0641考える名無しさん
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2020/04/24(金) 17:30:59.120
ショーペンハウアーってバカだよな
孤独になる事をすすめるって
他人と交流することで心身が整うってことが分かってない
0642考える名無しさん
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2020/04/24(金) 19:14:36.630
0か100かでしか物事を考えられないお前こそバカだろ
0643考える名無しさん
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2020/04/24(金) 21:30:24.470
心身健やかに面白おかしく生きてくことにどんな社会的意義があるんだ?
健康なだけのムダな人生
0644考える名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 21:35:57.980
心身ボロボロで退屈でつまらなく生きていくことにどんな社会的な意義があるんだ?
苦痛なだけの最悪の人生
0645考える名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 21:40:32.660
ショーペンハウアーは誰とも付き合うななんて言ってないからな
恋人もいたし、ゲーテなど知識人との交流もあった
孤独に耐えられずにくだらん奴らと付き合うのは無駄だし疲れるからやめろと言ってるだけ
0646考える名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 21:41:38.270
不健康との比較を問題にしてる訳ではないだろ文意も読めないド池沼くん
0647考える名無しさん
垢版 |
2020/04/24(金) 21:42:49.010
>>644
こういう揚げ足取りと皮肉だけの人間と付き合うのは確かに無益ですね
0648考える名無しさん
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2020/04/24(金) 21:49:04.390
社会的意義を問うてるのに個人の人生の良し悪しを問題にしてるアホだからね
0649考える名無しさん
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2020/04/24(金) 21:49:40.370
644の人気に嫉妬w
0650考える名無しさん
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2020/04/24(金) 21:54:47.980
連投悔しいねえ
0651考える名無しさん
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2020/04/24(金) 21:55:25.950
誰が何に反論してるのか全然わからない
0653幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/25(土) 04:26:16.090
(Caly Yougam) 432,000÷10=43,200
Drapar 432,000×2=864,000
Trita 432,000×3=1,296,000
Salya 432,000×4=1,728,000
Aggregat of Maha yug 432,000×71=30,672,000
0654幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/04/27(月) 23:27:58.600
О нищете духом

Само Блаженство открыло мудрые уста Свои и сказало: (Блаженны нищие духом,
ибо их есть Царствие Небесное). Все ангелы, и все святые, и все, когда-либо
рожденное, должны умолкнуть, когда говорит вечная премудрость Отца; ибо вся
мудрость ангелов и твари - ничто по сравнению с мудолстью Божьей, которая бездонна.
И эта мудрость изрекла, что нищие блаженны.

Over armoede in de geest

Gelukzaligheid zelf opende zijn wijze lippen en zei: (Gezegend zijn de armen in geest,
want voor hen is het koninkrijk des hemels). Alle engelen en alle heiligen en allen die
ooit geboren zijn, moeten zwijgen wanneer de eeuwige wijsheid van de Vader spreekt;
want alle wijsheid van Engelen en schepselen is niets vergeleken met de wijsheid van God,
die bodemloos is. En deze wijsheid heeft gesproken, dat de armen gezegend zijn.

Tentang kemiskinan dalam pikiran

Membuka mulutnya dan berkata: Semua malaikat dan semua orang kudus dan semua
yang pernah dilahirkan harus diam ketika kebijaksanaan abadi Bapa berbicara. untuk semua
kebijaksanaan Malaikat dan makhluk tidak ada dibandingkan dengan kebijaksanaan Allah,
yang tidak terbatas. Dan kebijaksanaan ini telah diucapkan, bahwa orang miskin diberkati.
0655考える名無しさん
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2020/04/30(木) 21:18:35.600
>>650
ド低脳のド池沼様が今更戻ってきて発狂
やっぱり馬鹿でした
0656考える名無しさん
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2020/05/01(金) 21:07:33.550
今更戻ってきて発狂してるのはお前だろ…
0658考える名無しさん
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2020/05/09(土) 01:09:56.740
ペシミズムは人生の休憩所みたいなものだと思っている。また飛び立つまで休むのに必要。
0659幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 02:08:44.730
 第四二章 種族の生命

 前章において指摘されたのは、生への意志の十全な客観化たる存在者の初段階の(プラトン的)イデ
アは、個体が認識をなす際には時間なる形式に結びついているから、種族としてすなわち生殖の絆で結
ばれる継続的な同種類の諸個体として、現われるのだということ、したがって種族は時間においてばら
ばらに引きはなされたイデア(エイドス、スペキエス)(1)なのだということであった。それゆえおのおの
の生物の本質そのものはさしずめそれの種族のうちに宿るのであるが、しかしながら種族はといえば、
これは諸個体をおいてほかにその存在の場をもつわけではないのだ。ところで意志が個体においてのみ
自己意識に達するのであるとしても、したがって直接的には個体としてのみ自分を認識するのであると
しても、自分の本質が客観化される場こそがまさに種族なのだという深層の意識は、やはり次の点にお
いて現われてくる。すなわち、種族そのもののなすべき仕事、つまり性的関係、出産ならびに育児とい
うものは他の何にもまして重要喫緊のものだということ一事においてである。動物においては欲情はま
さにここに由来するのであり(その激烈さについてはブールダハの『生理学』第一巻・第二四七節、二
五七節に見事な叙述がある)、また人間の場合性欲の満足のために相手となる個体を入念にあるいは行
きあたりばったりに選ぶ際もこれと同様で、その選択たるや情熱的な愛にまで高まることもある。これ
の詳細な考察には別に一章を設けるつもりである。最後に、子供たちにたいする両親の度はずれた愛情
も同一事に由来するものであろう。
0660幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 02:28:48.660
 (1)〔訳注〕本全集第一〇巻一〇三頁、本巻四〇頁参照。
 第二巻への補足においてわたしは意志を樹根に、知性を樹冠にたとえた。内面的にはつまり心理学的
(霊魂論的な)にはそのとおりなのであるが、しかし外面的すなわち生理学的には生殖器が根底であり頭
部が頂上である。なるほど営養を司るのは生殖器ではなくて内臓の絨毛である。けれども個体は生殖器
によって自己の根源たる種族と関連するのであるから、根底はやはり絨毛ではなくて生殖器である。と
いうのも、個体は形而下的には種族の一産物であるが、形而上学的にはイデアの、すなわち時間の形式
において種族として現われるイデアの、大なり小なり不完全な写像だからである。脳髄ならびに生殖器の
活力と衰弱は以上に述べた関係と相即しかつ結びついている。性欲というものは、個体の生命が芽ばえ
るべき樹木(種族)の内的性向のごときものであって、それは樹葉が樹木によって養われるいっぽう樹
木への養分供給に助力するのに似ている。だからこそかの欲望はまことに強烈であり、またわれわれの
本性の奥底から湧出するものなのだ。或る個体(個人)を去勢するということは、いわばそれが芽ばえ
る場としての種族という樹木からそれを切り落とし、かくて他から断絶せしめてその者を枯死させるこ
とに他ならない。精神力と体力が衰微するのはこのためである。――いかなる動物個体にあっても種
族の勤めすなわち受精(結実)につづくものは一時の憔悴とあらゆる活力の弛緩であり、多くの昆虫に
あってはそれは即座に招くことさえある。それゆえケルスス(1)は「射精は霊魂の一部を捨てることだ」
と述べている。人間の場合には交合の力の消失はその個体がいまや死に向かいつつあることを示す。ま
た年齢を問わずかの力の濫費は生命を縮め、他方節制はすべての体力とりわけ筋力を強健にする。だ
から節制はギリシャの競技者のトレーニングに数えられていた。さらにこの節制は昆虫の生命を来春ま
で引きのばすほどである。
0661幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 02:47:27.630
 ――さて右に述べたことのすべてが示すのは、個体の生命は結局種族か
らの借用にすぎず、生命力のすべてはいわばダムで一時堰き止められた種族の力だ、ということである。
しかしこれは、生命の形而上学的基盤は、直接的には種族において、かつ種族を介してはじめて個体にお
いて現われるということなのだ。だからインドでは男根石と女陰石は種族とその不死性の象徴として
崇拝され、死の反対物として、死を司る神格シヴァにむけてその属性として付与されている。
 (1)〔訳注〕A.C.ケルスス(前三〇 ‐ 後四五)『医学』の言葉といわれる。
 神話や象徴はさておき性欲の激烈さ、あらゆる動物と人間とがその用を達する際の熱意と真剣さとが
立証するところは、動物は性欲に役立つ機能によって、その真の本質が宿る場としての種族に所属する
のだということなのである。いっぽうこれ以外のすべての機能と器官は直接的にはもっぱら個体に役立
つのみであり、またその個体の存在はじつに副次的なものにすぎない。さらにまた動物の全存在の集中
的発揮たるかの欲望の激烈さのうちには、「個体は存続せず、したがって真の存在の場たる種族の維持に
すべてをかけねばならぬ」との意識が表わされている。
 次に以上の点を解明すべく欲情に駆られて交尾を行なっている動物を何かはっきりと思いうかべてみ
よう。するとそこには平生には見られぬ真剣さと熱意がうかがえるものだ。ではこの場合何が起こっている
のであろうか。――この動物は自分が死ぬものたること、そして現在の行為によって新たな、しかし自
分とそっくりの個体が生じて自分の代わりとなるであろうことを知っていようか。――考えるというこ
とがないのであるから、右のことは何ひとつ知らない。しかも動物はあたかもそれらをすべて知ってい
るかのごとくに熱心に、時間における種族の存続のために配慮するのである。というのは、動物にも生
命をたもち生存を欲するという意識はあり、この意欲の最大限を交尾なる行為によって表現するからだ。
0662幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 03:41:57.060
以上がこの場合動物の意識に生ずるすべてである。かつまた諸生物の存立のためにはじゅうぶん
事足りる。意志が根本であり、認識は付髄的であるのだから。このために意志は一から十まで認識に
よって導かれる必要はなく、むしろ根源たる意志が何ごとかを決意するやいなや、この意欲はおのずか
ら表象としての世界において客観化される。かくて、われわれが心中思いえがいていたかの或る〔種族に属す
る〕形態の動物がもしかりに生命と生存とを欲するとすれば、その動物は生命・生存一般を欲するので
はなくて、まさにこの形態におけるそれらを欲するはずである。だからこそ同類の雌において自分の形
態を認めるやいなや交尾への意欲が勃然として起こってくる。この意欲は、外部から時間の形式のもと
でこれをながめるときは、無限の時間にわたってかかる動物の形態として維持されることとなり、それ
は一個体による他の個体の永久に反復される交替によって、つまり死と生殖の交互作用によってなされ
る。かくみるならば、これらの反復と交互作用はもはや、いっさいの時間をつらぬいて持久するかの形
態(イデア、エイドス、スペキエス)の単なる脈動としか思われない。われわれはこれを引力と斥力に、
物質はこの両者の対抗関係から生ずるのだが、この二つの力に比することができる。――以上動物にお
いて立証されたことは人間についてもまた通用する。すなわち、人間の場合、生殖行為は、その目的原
因の完全な認識がこれに伴っているとはいうものの、この認識によって導かれるというごときものでは
なくて、直接的には生への意志から、この意志の集中的発揮として生ずるものだからである。ゆえにそれ
は本能的行動のなかに数えられてしかるべきだ。というのも動物は交尾に際して目的の認識によって導
かれることがないが、同様に工作衝動においても目的の意識が欠けているからである。工作衝動におい
ても意志は主として認識を媒介せずに表出される。いずれの場合も認識の裁量にゆだねられているのは
微細なことがらのみであるがゆえに。生殖はいわば最も讃嘆に値する工作衝動であり、その作品はいわ
ば最も人間を罵倒せしめるにたる作品なのである。
0663幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 04:31:06.590
 性の欲求が他のいかなる欲求ともはなはだ異なる性格をもつのはなぜか。これは以上の考察から明ら
かになる。この欲求は最も強いばかりでなく、他のいかなるものに比べても格別に威力にみちている。
それはいたるところ必然不可避のものとして、改めていうまでもない前提であり、他の願望のごとく
趣味や気分の問題ではない。というのもこれこそ人間の本質そのものをなす願望だからである。だか
らこの欲求と戦う場合には、勝利が確実ということよりも強い動機は存在しない。かくてそれは肝心要
のことであるから、その満足がえられぬときは他のいかなる快楽をもってしてもこれを補うことはでき
ない。また動物も人間もこのためには危険を冒し戦いを挑むものである。この天然自然な類の意識を率
直に表現するが、かの有名な看板、ポンペイの妓楼(ポルニクス)の、男根(パロス)の装飾をつけた
戸口にかかげられていた「ここに幸あり」(Heic habitat felicitas)である。この看板は登楼する男には
率直な感じのものであり、帰りの嫖客に皮肉、またそれ自身はユーモアたっぷりだった。――真剣さと
威厳に満ちたところでいえば、生殖欲の圧倒的な力には、オシリス(1)が永遠の神々のために記念柱
を建立して刻みこんだ碑文に表われている(スミルナのテオン(2)『音楽について』第四七章)。
「精神にして天空、太陽にして太陰、大地たるとともに夜と昼、有りかつ有るであろう万物の父、愛
(エロス)に」。――ルクレティウスの開巻劈頭にある美しい呼びかけの詩行についても同様のことが
いえる。

 アエネアスの子ら(ローマ人)を生みし者、人間と神々の快楽(けらく)
 実り多き美神(ウエヌス)よ……
0664幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 04:49:41.400
 (1)〔訳注〕エジプト神話の冥界の神。
 (2)〔訳注〕二世紀の哲学者
 人間界において性的関係が演ずる重大な役割は右のすべてに対応するもので、この世界では元来それ
があらゆる行動・営為の見えざる核心をなしており、それにいかようにヴェールをかけようともいたる
ところで顔をのぞかせている。それは戦争の原因であり講和の目的であり、真直さの基礎、諧謔の目標
であり、つきることなき機知の源泉、すべての暗示を解く鍵、あらゆる秘密の合図、あらゆるあいまい
な申し出、あらゆる盗み見の意味でもあり、青年の、ときには老人の日常の工夫努力、遊冶郎の頭にこ
びりついた考え、純潔な男の場合にもその意志に反して絶えず繰りかえされる夢、いつもながら笑い
の種なのだが、これひとえに性的関係の根底に最も奥深い真剣さが宿るゆえである。ところであらゆ
る人間はこの大切な用務がひそかに行なわれ、表向きはできるだけ知れないようになっているというの
はこの世の皮肉であり、お笑い草だ。実際はいついかなるときもこの用務はこの世のほんとうの世襲の主
としてその全能により祖先伝来の玉座に腰をおろす。そして、われわれ人間がこの用務を抑制し監視し、
少なくとも限定し、できることなら隠しとおすかあるいは、それが人生のまったく付随的なついでの用
件として現われるよう自由に支配すべくいろいろと工夫したことがらを、その座から見下ろしつつ軽蔑の
眼差しで嘲笑するわけである。――ところで以上のすべては性欲が生への意志の核心であり、したがっ
ていっさいの意欲の集中発揮であることと一致する。だからこそわたしは本文中で生殖器を意志の焦点
と称したのだ。しかり、人間は性欲の権化だとさえいえる。なぜなら彼の発生、彼の願望中の願望は交
合行為であるし、またこの欲望のみが彼の全現象を恒久化し締めくくるのであるから。なるほど生への
意志はさしあたっては個体保存のための努力として表われる。がしかしそれは種族保存の努力への一段
階にすぎない。
0665幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 05:45:04.100
そして後者は、種族の生命が持続、延長ないし価値の点において個体のそれを凌駕する
程度に応じてよりいっそう激烈でなくてはならない。それゆえ性欲は生への意志の完璧な表われであ
り、最も明快に表現されたこの意志の典型なのである。そこからの個体の発生ならびに、自然人にお
けるこの意志の他のいっさいの願望を超える優位性は、右の点と完全に一致する。
 ここでなお生理学的な点をひとつ指摘しておくが、これはわたしが第二巻で述べた基礎学説を逆に
明瞭ならしめることになる。すなわち、性欲は欲情の最も激烈なるもの、願望中の願望、われわれのいっ
さいの意欲の集中的発揮であり、したがって個人的なつまり或る特定の個人にふりむけられた願望にぴたり
と応ずるような満足感は最高最大の幸福であり、人間の自然的努力の究極目標であって、そこに到達す
れば彼はいっさいを得、それに失敗すれば彼はいっさいが失敗したに等しいのであるが、われわれは
この欲望の生理学的相関物を客観化された意志つまり人間の生体組織において見いだす。というのは精
液をさすのであって、これは分泌物中の分泌物、あらゆる液汁のなかの精髄、あらゆる有機的機能の最
終的な結果である。かくてわれわれは、肉体は意志の客観化、表象の形式をとった意志するものにほか
ならぬという点についての再度の確証をつかんだわけである。
 生殖には子供の養育が、性欲には両親の愛が結びつく。つまり種族の生命はここにおいて継続され
る。したがって動物の子供への愛は性欲と同じくまことに強烈で、特定の個体にのみ向けられた努力を
優に凌駕する力をもっている。最も穏順な動物といえども子供らのためには生死をかけた異常な闘争を
買ってでるし、ほとんどすべての種類の動物にあって子供の庇護のために母親はいかなる危険にも、い
な、場合によっては確実な死にむかってさえも突進してゆく。人間の場合はどうかというに、この本能
的な親の愛は理性によって、つまり思慮分別によって導かれ媒介され、ときには抑止されもするもので、
0666幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 06:24:36.690
性質のよくない人間の場合にはこの親の愛をまったく放棄することにもなりかねない。したがって
われわれは最も純粋な形ではこの愛の働きをむしろ動物において観察する次第なのだ。もっとも人間の
場合、親の愛はそれ自身としてみればけっして弱いわけではない。人間においても個々の場合には子供
への愛情が自己愛を完全に圧倒し、自分の生命を犠牲にすることさえある。たとえばつい先ごろもフラ
ンスの諸新聞はロート県のシャアールで或る父親が、兵役のくじに当たった息子のために、つまり息子
が寡婦の長男となって兵役をのがれられるようにと自ら命を断ったと報じている(『ガリニャーニの使
者』一八四三年六月二二日付)(1)。けれども動物の場合は思慮分別がないから本能的な母性愛が直接か
つ純粋に現われ(雄は自分が父であることをたいていは意識しない)、したがってその現われ方も明瞭
であるし完全な強さを発揮する。じつのところ動物の母性愛は、彼らの真の本質が個体におけるよりも
いっそう直接的に種族に宿るものであり、それゆえ子供の身において種族が永続するためなら、必要
とあれば自分の生命を犠牲にするのだという彼らの意識の表われなのである。かくて性欲の場合と同様
に、彼らの意識が、それが宿る個体を超えて種族にまで及ぶという意味において、生への意志はいわば
超越的でさえあるのだ。以上に述べた種族の生命の第二の表われを単に抽象的にではなく、それがいか
に大きく現実的なものであるかを読者に具体的に知ってもらうために、本能的母性愛の圧倒的な強さを
示す二、三の例を挙げたいとおもう。
 (1)〔訳注〕一八一四年から国際的相互理解を目的としてパリで発行された英文日刊紙。
 ガリニャーニはイタリア系のフランス人父子。
 らっこ(猟虎)は追いつめられると赤子をつかんで水中にもぐる。呼吸のためにふたたび水面に出て
きたとき自分のからだで子供を覆い、自らは漁師の矢を受け止め、その間に子供は助かる。――
0667幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 06:42:07.890
母鯨をおびきよせるには子鯨を倒しさえすればよい。母親は子鯨のところへ急ぎ、銛を何本か打ちこまれても
生命のあるかぎり子鯨から離れることはないのだ(スコールズビ『捕鯨航海日誌』クリース訳一九六頁)。
ニュージーランド近海の三王島には海象ともよばれる巨大なせいうち(学名 phoca proboscidea)
が棲息する。きちんと群をなして島の周囲を遊泳し魚類を食とするが、しかし水中にわれわれの知らな
い恐るべき天敵がいて、これによって彼らはよく深手を負わされる。そこで彼らの集団遊泳には独特の
戦術が必要となる。すなわち雌が岸にあがり、そして雌が授乳しているあいだ、これは七、八週間であ
るが、すべての他の雄はその周囲に円陣をつくり、雌を妨害して飢えて海にはいることがないようにする。
雌がこれをしようとするとかみついてこの邪魔をするのである。かくて彼らすべては相共に七、八週間
飢えてまったく瘦せ衰えるわけだが、しかもこのことたるや、子供らが泳げるようになり、また突いた
りかんだりしてみせて教えこんだ大切な戦術を彼らが実行できるようになるまで水にはいれないという
ただそのために行われるのだ(フレシネ『南極旅行記』一八二六年)。ここでもまた、意志のあらゆ
る強烈な奮闘と同じく母親の愛がいかに知能を高めるかということが示されている(第一一九章六参
照)。――鴨、グラースミュッケ〔うぐいすの一種〕その他多くの鳥類は漁師が巣に近づくと高声で鳴き
ながらその足元を飛び、まるで翼がなえたかのごとくにあちこちばたばたとはばたいて、漁師の注意
を子供からそらせ自分のほうへ引きつける。――ひばりは自分自身が犠牲となって犬を巣から引きはな
そうとする。鹿や野呂鹿の雌も同様で、子供たちが襲われぬように自分自身が追われるべくしむける。
――つばめは子供を救うために、あるいはいっしょに死ぬために向得ている家のなかへ飛び込むもの
だ。デルフトで大火があったとき、こうのとりが、まだ飛べないひなを捨てきれずに自ら巣で焼け死ん
だ(H.ユニウス『オランダ事情』)。大雷鳥とやましぎは巣で卵をだいているところを捕まえることがで
きる。
0668幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/10(日) 06:45:55.080
ムスキカパ・テュラヌス〔ひたき〕は勇猛心をふるいおこして巣を守り、鷲にむかって抵抗をす
る。――蟻を二つに切り離すと前半分はなおも自分のさなぎを安全な場所へ運んだという。――一頭の
雌犬の腹をさいて子供たちを取りだしたところ、死にかけているのに子供のところへはって行って、な
めてやり、子供を取りあげられたときになってやっとくんくん鳴きはじめたという(ブールダハ『経験
科学としての生理学』第二巻および第三巻)。
0669考える名無しさん
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2020/05/12(火) 21:45:04.810
331 :学術 :2020/05/12(火) 15:40:38.78 0
魔法で、意識脳溶け行く恍惚のあとの夜景のおのれという他者の光源にはえる魔力を手に入れたという話。
0670幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/05/16(土) 12:57:45.880
 音楽は、世界じゅうどこでも理解されるほんとうの普遍的な言葉だ。だからこの言葉はあらゆる国々
において、すべての世紀をつうじて、たえずまじめに熱をいれて話され、語るところの多い、意味のあ
る旋律(メロディー)はすぐに世界中に広まるのに、意味の貧弱な、内容のない旋律はすぐ立ち消えに
なって死んでしまう。これは旋律の内容が極めて判りやすいものだということを証している。しかしこの
音楽という言葉は、事物について語るのではなく、意志にとっての唯一の現実である喜怒哀楽のみを語
るのである。それゆえ心に訴える一方、頭に対しては直接には何も語らない。だから描写音楽のように
内容を求めるのは音楽の濫用で、これは絶対にしりぞけねばならぬ。ハイドンやベートーヴェンはその
錯誤を修正できなかったが、私の知り得る限り、モーツァルトやロッシーニにはそういった事実はなか
った。なにぶん、情熱を表現することと事物の描写とは、まったく別のことだからだ。
 ラモー(1)によってその基礎をすえられた、この普遍的な言葉の文法は、きわめて精確に規定されてき
た。これに反し、この言葉の辞書にいたっては、わたしがそれを企てる前には、真剣に試みられる
ことさえなかった。わたしが「辞書」というのは、右に述べたとおり、音楽の内容がもっている重要
な、疑うことのできぬ意味の解明ということで、つまり、音楽が旋律や和声(ハーモニー)で述べた
ことが何であり、何について語っているのかということを、もちろん概説的にしかできなくとも、
理性的に把握できるように仕向けることを言うのだ。――かかる試みがわたしには以前になかった
のは、他の多くのことと同様、人間というものが反省・熟考に傾くことがいかに少なく、どんなに
ぼんやりと暮らしているかを証明する。ただ享楽しさえすればよい、考えることなどできるだけ少なく
しようというのが、いかなる場合でも彼らの意図だ。こうなったのは、彼らの本性のせいで、だから
こんな連中が哲学者の役割を演ぜねばならぬと思ったりすると、ああいう茶番劇になってしまう。
わが哲学の教授諸公を見れば一目瞭然で、哲学だ、真理だと大いに熱をいれながら、あの素晴らしい
仕事はどうだろう。
0672考える名無しさん
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2020/05/21(木) 16:33:59.770
ニーチェが、いつもはすぐに本なんて買わないのにデーモンに囁かれたとか言って
自宅で貪り読んだショーペンハウアーの本って「意志と表象としての世界」なんですか?
0676文系バカ
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2020/06/02(火) 10:19:20.410
やっぱり理系の人たちが羨ましく思うな
実用性やビジネスの面も大きいけどそれよりも工学分野に知性を感じるのが大きい
現代の建築から家電までほんと凄い発展を遂げてるなと思うよ
0677考える名無しさん
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2020/06/02(火) 10:24:04.130
でももちろんいわゆる文系のものも素晴らしいと思う
人生の苦悩や喜びを語った物語や音楽を聴いて美しく感じる人間の感性とか大切なもんだと
0679考える名無しさん
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2020/06/21(日) 02:26:45.450
ウィトゲンシュタインも哲学書は
意志と表象としての、、、だけしか読まなかったらしいな
0682幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
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2020/06/22(月) 02:05:28.110
人の生は その芽生え
女の胸の乳房から湧いてあふれてきたものを……
おまえの稚ない片言は 女の口から教えられ
おまえが初めて流す涙は 女に優しくなだめられ
おまえの最後の吐息でさえ 女ひとりに吐かれることがしばしばです
かつて自分を導いた人の臨終を看取るいやしいつとめを
男がためらって なさぬときには……

バイロン著 『サルダナパール』第一幕第二場
0683考える名無しさん
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2020/07/22(水) 14:54:40.730
>>679
そんなことはない
LWはちゃんと色々読んでるし
ショーペンハウアーのことは晩年酷評してる
「駄目ですね。
私はショーペンハウアーが自分の哲学から何を得たのかをまったく明瞭に理解できると思う
──しかしショーペンハウアーを読むと、きわめて容易にその底が分かるように思える。
彼にはカントやバークリーが深いという意味での深さはない」
0684考える名無しさん
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2020/07/22(水) 15:57:49.580
ボン!
ボン!
バカァ!
ボン!
バカァ!
ボン!
ボン!!
おろわ!!
0686考える名無しさん
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2020/09/09(水) 13:39:08.480
834 :学術@死神騎士 :2020/09/09(水) 12:51:41.25
いいことも的外れ多い。逮捕は知らないけどとがめ立てないのがおかしい。
0687考える名無しさん
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2020/11/09(月) 18:33:00.370
読書について他二編って面白いですか?
0688考える名無しさん
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2020/11/24(火) 15:06:59.800
隠者正義
村上春樹は正しかった
0689考える名無しさん
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2021/01/23(土) 14:48:18.920
哲学書を一冊だけ読むのなら、迷わず「意志と表象の世界」
0690考える名無しさん
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2021/01/23(土) 16:22:34.730
「意志と表象の世界」は手に入りにくい
去年の初夏に密林に発注したが、発送が2回くらい延期されて、
まだ届かない。来月には届く予定だとされるが、どうなることやら
0691673
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2021/01/28(木) 08:15:25.040
おまえも意志と表象としての世界にしてやろうか?
フハハハハ
0692考える名無しさん
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2021/02/12(金) 13:33:10.280
予想はしていたけど、やはり発送がまた延期になった。
発注してかから8ヵ月くらいで、これまでに2回発送延期。
生きているうちに届くことがあるかどうか疑わしいw
0693考える名無しさん
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2021/02/12(金) 13:34:09.670
以前に少なくとも2回は発送が延期されているから、今度で少なくとも3回目の延期だ。
0695考える名無しさん
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2021/04/08(木) 07:50:50.680
盲目的な生きんとする意志

それが「物自体」の正体だった
0696考える名無しさん
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2021/04/10(土) 18:17:50.180
ショーペンハウアー的にはそうです。
0697◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2021/04/10(土) 18:20:48.130
助けて
0698◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2021/04/10(土) 18:21:11.080
みんなのこと助けてあげて
0699考える名無しさん
垢版 |
2021/04/10(土) 18:56:06.570
>>698
生きんとする意志だな
0700考える名無しさん
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2021/04/10(土) 23:47:59.400
本当に届くのか半信半疑だった「意志と表象の世界」、しばらく前に届いた。
読み始めるのはかなり先になりそうだが、分厚いから、存在感があって
他の本に埋もれてしまう心配はない。
0701考える名無しさん
垢版 |
2021/04/11(日) 09:28:10.420
>>700
哲学書の中では非常に読みやすい部類

カントやヘーゲルとは文章力が段違いだ
0702考える名無しさん
垢版 |
2021/04/13(火) 06:53:24.620
文学作品としても読めるぜ
0703◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2021/04/13(火) 07:07:11.470
>>699 リングリングプロジェクト
0704◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2021/04/13(火) 07:07:47.070
>>702 マルセル・プルースト「失われた」
0706考える名無しさん
垢版 |
2021/04/18(日) 22:50:19.520
ショーペンハウアーによれば、この世はマーヤーだ
0707考える名無しさん
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2021/04/18(日) 22:56:28.450
"souffrance de ce qui"という句で検索しただけで、
すぐにショーペンハウアーが2件ヒットしたw

>Pour Schopenhauer, la vie est une oscillation permanente entre la souffrance de ce qui nous manque, et la nostalgie de ce que nous avons perdu.

>Et les hommes ont tort de croire au progrès, de sacrifier tout au
progrès car la réalité ne peut être autre chose que l'éternelle
souffrance de ce qui vit.
0708考える名無しさん
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2021/04/18(日) 23:00:38.850
>>707
実際にショーペンハウアーがどう言ったのか知らないけど、こういう見方は、
明らかに片手落ちだな。
苦労が無ければ、喜びもないし、欠乏を感じなければ、満足感もない。
トーナメントで全部不戦勝で戦わずに優勝しても、誰も喜ばないだろw
腹が減らなきゃ、うまいものを食って満足することもないし。
0709考える名無しさん
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2021/04/18(日) 23:07:13.950
初登頂を競っていた頃の登山家だって、命がけで苦労して登頂に成功する
ことに喜びを感じていたわけで、ヘリコプターで山頂に下してもらうことが
できたとしても、何の喜びもない。

生活のなかで何の苦労もなく、不足もなければ、苦労も不足もないこと
そのものが、生きている意味を見失わせるように、何も生じないという
「出来事の欠如」として精神的に耐えられないものになる。
0710考える名無しさん
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2021/04/19(月) 09:14:00.140
衣食住が足りていて、生きていくのに不足はないものを与えられて
いるのに、不平不満を言うのは「贅沢だ」とされるわけだが、
飼われている犬や猫でさえ、なにもできない状態で屋内の
狭い空間に孤立して閉じ込められて餌だけ与えられていれば、
正常ではなくなる。
0711考える名無しさん
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2021/04/19(月) 20:59:41.790
文明的価値観の中で人間は正常ではいられないから不幸になっていくしか無いんだけどな
かといって文明から逆行して動物に戻ることはできないので
そこをなんとか克服しようではなくて滅びていくのが生物としての正しいありよう
0712考える名無しさん
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2021/04/19(月) 21:36:12.850
ヨーロッパがインドに興味を向け始めた時代に、いち早くインドの思想を取り入れ、自身の哲学と結びつけたのがショーペンハウアーであった。

1813から1814年にかけての冬にショーペンハウアーはヘルダーの弟子でインド学者のフリードリヒ・マイヤーによって『ウプネカット』の存在を教えられる。

ショーペンハウアーは生涯この『ウプネカット』を愛読書とし、
「これはこの世で可能なもっともむくわれることの多い、心をたかめてくれる読みものだ。それはわたしの生涯の慰めであった。そしてまたわたしの死の慰めともなろう 」
とまで言って称賛した。
0713考える名無しさん
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2021/04/19(月) 21:36:48.300
インド人の太古の聖賢は次のように語っている。

「やがては死すべき人間の眼を蔽って、それを通して人間に世界を見させているのは、マーヤーである。欺瞞の面紗である。
世界はあるともいえないし、また、ないともいえない。
なぜなら世界は夢に似ていて、旅人が遠くから見て水かと思う砂上の陽光のようなものだし、また旅人が蛇かと思う投げ棄てられた縄にも等しいからである」
(この種の比喩はヴェーダやプラーナのいたるところで無数にくりかえされている)―

ところでこれらのひとびとが以上のように考え、説いていることは、本書がいままさに考察しつつある当面の問題に外ならない。
すなわち根拠の原理に従う「表象としての世界」である。

(ショーペンハウアー著 『意志と表象の世界』)
0714考える名無しさん
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2021/04/20(火) 06:08:52.760
ショーペンハウアーによれば、この世界はマーヤー(幻影)だ
0715考える名無しさん
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2021/04/20(火) 06:09:21.280
【あずま】東浩紀601【システム】


25考える名無しさん2021/04/20(火) 01:29:29.760
キモくて金のないオバサンは救われてキモくて金のないオジサンは救われない世界なんてあるの

26考える名無しさん2021/04/20(火) 02:30:44.500
オバサンは実際には救われないけど(何か変わりそうな)雰囲気で救われてる
オジサンは雰囲気で守られる事もなく、生のまま捨て置かれている

27考える名無しさん2021/04/20(火) 02:39:53.120
東浩紀と村上隆のせいで五輪めちゃくちゃだな

28考える名無しさん2021/04/20(火) 03:00:36.170
キモくて金のないオバサンは雰囲気で守られるどころか視界から消されそう

29考える名無しさん2021/04/20(火) 03:50:36.960
女ならブサイクで貧乏でも精神疾患なければなんとかなってるイメージだけど

30考える名無しさん2021/04/20(火) 04:17:51.440
話題にもならず存在しない事になってる
0716考える名無しさん
垢版 |
2021/05/19(水) 15:24:55.770
ショーペンハウアーによれば、この世界はマーヤー(幻影)だ
0717考える名無しさん
垢版 |
2021/05/19(水) 15:25:47.680
芸術によって、苦悩を紛らわすことはできる

だが、それは一時しのぎにすぎない
0719考える名無しさん
垢版 |
2021/05/20(木) 15:52:34.160
バルタザール・グラシアンの著作を愛読していたらしいな
0722考える名無しさん
垢版 |
2021/05/29(土) 08:05:06.400
ショーペンハウアーの特技は語学

多数の言語に通じていた
0723考える名無しさん
垢版 |
2021/05/30(日) 10:53:26.710
インド哲学の精髄を明晰判明に語り尽くした
0724考える名無しさん
垢版 |
2021/06/04(金) 15:10:48.000
インド哲学を読むより、ショーペンハウアーを読んだほうが良い
0726考える名無しさん
垢版 |
2021/06/05(土) 16:56:34.750
ショーペンハウアー自身が、「短編より主著を読んでくれ」と言っていた
0727考える名無しさん
垢版 |
2021/06/09(水) 08:43:42.920
>>723
正に「幸福について」は仏陀の教えを社会的な視点でアップロードして解説されたバイブルだよな
アインシュタインも愛読してたらしいし、隠遁と健康に重きを置いて平静を保ってなるべく知的なことや芸術を楽しむ生活しようと言う話
0730考える名無しさん
垢版 |
2021/06/17(木) 18:03:14.250
>>727

> 隠遁と健康に重きを置いて平静を保ってなるべく知的なことや芸術を楽しむ生活しようと言う話

それは、仏教というよりストア派っぽいな?
0731学術@死神酔天魔法狂廃鬼神龍騎禅軍呪妖幻術師悪魔召喚居士
垢版 |
2021/06/17(木) 18:05:34.860
エピクロス派の方に似ている意外にに消極的さ。快楽主義は。
性欲をお互い湧かすすべなんじゃないのその心理機構。むしろ。
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