漢字が読めずに哲学書は読めるのか? [転載禁止]©2ch.net
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> 168: 第三の波平 ◆JXLBbnYqTY 2011/11/01(火) NY:AN:NY.AN 0 AAS
> 中国の歴史書に日本(倭国)が初めて登場するのは、初めて中国を統一した始皇帝の秦の次、漢時代である。
> 有名な双国が貢ぎ物を送り、正式な倭国の代表とみて認められて金印を授かる。
×双国
○奴国
> 176: パルメゾーン ◆JXLBbnYqTY 2011/11/01(火) NY:AN:NY.AN 0 AAS
> 次、漢時代である。有名な双国が貢ぎ物を送り、正式な倭国の代表とみて認められて金印を授
> かる。漢は初めて儒教を国学として認めたが、双国が認められるには、ある程度漢字を操り、
×双国
○奴国 >>137
フッサ−ル後期哲学に於いて、キネステ−ゼを基盤とした“心身合一”により、
現象学的還元をする論理へと深化しているが、この“心身合一”の心が「精神(=意識)」のことであり、
身が「物質的要素(=物質)」です。 この“心身合一”を基底として現象学的還元(括弧入れ)を実行した場合に
心(精神)と同時に、身(=物質)も還元される。そして、現象学的還元が実行された後の『純粋な現象(純粋現象)』
は“純粋な精神”と“純粋な物質”の〈合一したもの〉として現象する。
この純粋な状態での“物質的様態”を、私は「純粋物質」と呼んでいる。
フッサ−ル哲学の前期での現象学的還元は、「一切の既成概念を“宙づり”として捉え、その現象を『純粋意識』として捉え
本質観取することですが、客観的存在を還元(宙吊り)により、内在意識としての“純粋意識(=純粋精神)”として捉える
あり方に、今1っ、しっくりしないものを感じていた。
しかし、フッサ−ル後期哲学に於いて、“心身合一”を基底とした現象学的還元による、純粋精神と純粋物質の
“合一”としての本質観取がなされるという在り方によって、客観的存在等を内在現象として捉えることに実感を
持てる様になった訳です。 ああつまり貴方が勝手に「純粋物質」とか言ってみただけで、
フッサールの用語でも、現象学の用語でもないわけですか
それでは誰にも通じませんよ
貴方を見ていると、現象学とは言葉のゴミ捨て場のようですね >>140
私が勝手に「純粋物質」と言ってるわけではない。フッサ−ルのキネステ−ゼ(身体)を基底とした
「心身合一論」から導かれる。つまり、この場合の「身」とは、我々人間の物質的要素(=細胞等)のことであり、
純粋意識(=純粋精神)が還元(宙づり)により導き出されているのだから、物質的要素(物質)が還元によって純粋物質として
導き出されるのは正しい論理の方向性を示している。 >>141
フッサールが「純粋物質」などと言っているのですか
どこに載っているのか教えてください キネステーゼにしても、いきなり「心身合一」とか
どれだけ雑な脳を持てばそんなことになるのか
キネステーゼのもともとの意味は「運動感覚」でしょう
フッサールに於いては、運動と感覚の不可分な結合を意味する用語
>>127の野家さんが言っていることというのはつまり
知覚とは静的なものではなくて、身体の運動可能性が知覚を構成する
よって現象としての物体を物体として規定する当の超越論的自我はしかし
物体である身体と結びついている
そういうことであって、そこに「純粋物質」などというアホな念仏が入り込む余地は
1oも無い >>125
>大事な遺産が残されているかもしれない
そうなんだよね。
そこに気が向いてからがスタート。 >>143
どの様な論理も完全なものはない。
君は、他人の論理を根拠として批判するクセがある様ですね。
君自身は、現代哲学への意見・論理を持っているのだろうか。 マイ用語を勝手に捏造して使うのが貴方にとっての現象学なんですね
私の意見は度々表明している
現象学は、馬鹿ホイホイにしかならない
その典型的なサンプルがいまここに展開されている
方法序説もまともに読めない奴が、フッサール読むだけ無駄でしょう 哲学には動機が必要ですよ
『世界のほんとうが知りたい』
その強い思いが無ければ、単なる連想ゲームに墜ちる
哲学が何の役に立つのか
哲学では自動車を動かすことはできない
だが哲学で『人間』を動かすことができる
それが哲学の力
哲学に力を与えたまえ 務台理作の本は旧字体以外はさほど難しい漢字は使われていないな。
古本で買った『哲学概論』や『現代のヒューマニズム』は、
マス・プロダクション、マス・コミによって疎外状況に人々が陥っているとした上で、
唯物論と観念論を対照させて現実と切り結ぶ地点を見定めている感じだな。 西田幾多郎の『善の研究』は難しい漢字を使ってはいるけど、
岩波文庫だからルビが振ってあって助かる。
全集だと振ってないんだろうな。 >>149
「世界のほんとうが知りたい。」と君は述べているが、この「世界のほんとうが知りたい」という意味は、
ハイデガ−の述べている「存在」の本質を知りたいということかな? 言葉と概念
馬鹿につき合って現象学ごっこをしてきたわけですが
何でも良いから、誰か一人にでも、何か意味のあることが成立したのなら
ここまでのレスが損したというようなことはないだろう、なんて思いますが
>>75が『超越論的主観性』とかほざいたことで、こんなことになったわけですが
そもそも“超越論的”とはいったい何のことなのか、分かります?
私は長い間、もう何年も、さっぱり分かりませんでした
結局、今でも理解できていないのかもしれません
なぜなら、理解というのは結局、当該の言葉に纏わる諸々を相対的に捉えることで
やっと一段落を見るからです
>「超越論的」の意味に於いては、カントの場合は、ア・プリオリ(先天的)な認識を
>基礎づける概念としてであり、 フッサ−ルの場合は、現象学的還元の後に確保される
>認識の構成の働きのことを言う。 >>78
この説明で分かります? まあ分かると言い切れる人もいるのかな
超越論的(transzendental)は超越(transzendenz)を踏み台にして作られた言葉でしょうけど
そもそも超越という概念が面倒なので、超越論的はさらに面倒なことになります
何事かが“超越している”と言うためには、この“世界”が『“超越”に意味が生じる世界』であることが
既に前提です
ここで言う“世界”とは、素朴な意味の自然的世界ではなく、
右とか左とか、前とか後ろとか、以前とか以後とか、内部とか外部とか
そのような思考が可能であるとするような、通常の懐疑が及ばないぐらいの当たり前が
ひょっとして当たり前では無い、その可能性を考えた上で、しかし当たり前とする、
そのような“世界”です
その世界にあって初めて、超越にも意味が生じるわけです
ですから、「真の世界は経験を超越している」などと無造作に言えるようなことは
本当は当たり前のことではなく、条件付きのこと、なわけです そこで『超越論的』ですが、この言葉の作ったのは一応カントだと
そういうことにして、カントによる超越論的の定義はこうです
『わたしは、対象にではなく、対象を認識する我々の認識の仕方に、この認識の仕方が
アプリオリの可能である限りに於いて一般に関与する一切の認識を超越論的と称する。』
分かります?これで分かったらすごいですわ
一般的な解釈はこうです
我々は幾何学の問題を解くのに先天的(アプリオリ)な能力を使いますが、
その能力は超越論的とは違う
超越論的とは、「我々は幾何学の問題を先天的に解く能力を持つ」という
その事態をも認識することができる、その認識を超越論的と呼びましょう
そういうことなんですが、分かります?
カントは、当たり前の世界を当たり前としている先天的な認識について
それがいかに可能であるかを自分はこれから問題としますよ、と
多分、そのぐらいのことが言いたいのでしょう >>157
キリスト教の、イエス・キリストと信者の関係が『“超越”に意味が生じる世界』ではないかな。
実際に現実世界で起きている事実でしょう。 何を考えるのも自由ですよ
私の話なんて所詮、インスピレーションのネタぐらいにしかならない
しかし、超越について私が言いたいこと、があるとして
それに対する私の説明が足らないのだな
つまりな、我々は個別的な感覚から「外界」のありようを構成する、と
そのような説明は、近代哲学では非常な説得力を持って君臨してきたわけでしょう
だから、「そこにある」と信じている物体は、実際には感覚から直接に知られるわけでは
なくて、感覚を素材として精神によって“作られたもの”ということになって、
それが「思ったままのもの」として存在していると信じることは“超越的である”、と
そういうことになってきたわけです
しかしそもそも、『我々の精神が“世界”を構成している』というのは、
“よくできたお話”に過ぎないわけなんですよ
なぜなら、それを証明しようがないから
証明しようがないのだけれど、「感覚が私の前に現れる」という強力無比な確信があって
そこを覆すようなことは、まずしない、そこが基本
しかし覆してもいい、と私は思う
なぜなら、それは論理を破壊するまでの行為とはならないから
そのように考えるならば、超越というのは、不可知な何事かに対する言及ではなくて
意識がこのようにある限り意味として生成してしまう根拠の無い幽霊のようなもの、
ということになって、超越は超越に意味が成立する世界でしか超越しない
・・・そういうことが言いたかったわけだが
わたしは説明下手だな
結局まだ自分でもよく分かってないのだろうな
ごめんなさいね >>161
「感覚が私の前に現れる」という確信を覆してもいい、と述べているが
その確信を君は、覆すことが出来るのでしょうか。 「このわたし」などというのは、統一感を伴うユニークな感覚にすぎないのですよ
つまり『意識を主観的に見つめる場合に形成される幻影』なのです
ノエマ、ノエシスにしてもそうです
「意識の内部構造を主観的に分析する」という行為は、その行為による結果の普遍性を
保証することも不可能ですし、確認し合うことも不可能です
記述された内容は、頓珍漢な勘違いとなって伝わり、自分勝手な“納得”が拡散するだけとなるわけです
それが証拠に、>>136>>139>>141は、
『現象学的還元によって純粋精神と純粋物質の合一がなされる』とか言ってますよね
この人は「純粋物質」という言葉を使うことが、良い理解であると思っているわけです
哲学的な確信というのは、その程度のことなんですよ >>164
君は「“このわたし”とは、“意識を主観的に見つめる場合に形成される幻影なのです。」と
述べているが、君にとって「主観」、或いは「客観」という概念は、どのようなものと解釈しているのかな? >>164の“主観的(に)”は、日常用語としての
・ 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま
・ 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま
ぐらいの意味で良いと思いますよ
哲学用語の『主観/客観』は、またそれとは別の、面倒な概念
それについて何か論じたいことが貴方にあるのならつき合います
まあ多分、またゴミが増えるだけ、ですけど >>164
「主観的意識(このわたし)」を、統一感を伴うユニ−クな“感覚”と述べている。
意識を主観的に見つめる場合に形成される“感覚の幻影”と述べているが、“感覚が幻影”であるということを
証明することが出来るのでしょうか? 「主観的意識」の内容がよく分からない
「このわたし」とは、デカルトの“私”
フッサールに従うなら「純粋精神」に相当するでしょう
貴方はそれを「主観的意識」と呼ぶのですか
問われている内容もよく分からない
まず“感覚の幻影”などといった言葉を私は使っていない
「感覚」について問われているのか、「このわたし」について問われているのか
敢えて貴方の気持ちを忖度して
「感覚は幻影なのか?」ぐらいに問われているのだ勝手に解釈するとして
その場合の問題は大きく二つある
一つは
・感覚は対象の存在について何を知覚できるのか
という意味での感覚の不確かさ
これについては、VRにあれだけの力があることが、事実として確かめられている
我々の感覚は「対象の何事か」として「事物の“射影”」を知覚することによって
ありもしない「事物そのもの」を捉えてしまうが、これは幻影です
もう一つは
・たとえ感覚が対象に一致せずとも“感覚そのもの”は存在している、という確信は正しいのか
という認識の根幹に係わる問題
それについては>>100に一応の説明をしたつもりですが、少しは納得できますか >>100
「世界がどうであれ、“ここにこうやって居るこの私が、今これと共にあること”たとえ神であっても
否定することは出来ない。という絶対の領域があって、それを無条件に信頼することになります。」と、
述べていますが、 この“絶対の領域(=超越論的領域)は、デカルトによれば“疑うことのできない領域”です。
つまり、“不可疑的領域”であるので、「感覚」・「知覚」をも疑うものとしての対象であり、それら一切を“排した(斥けた)”
次元が“絶対の領域”と解釈している。 >>173
そうですよ
小学生でも分かることです
そして、それが幻影だと言っているわけです >>174
日常的意識次元での「感覚」と、方法的懐疑の後の「私(超越論的主観性)」とは次元が異なる概念です。
つまり、日常的意識次元に於ける日常的一般での「感覚」と、方法的懐疑の後の「私(=理性)」は異なる様態としてある。
従って、日常的意識世界の概念としての『感覚』に固執することによって、貴方の解釈は対象化される全てのものに対して、
“感覚の不確かさ”という呪縛から抜け出すことが出来なくなっているだと思います。 >>174
それが幻影だっていうことは、この板じゃいまさら感が強すぎるかな 漢字の意味を問うならば、漢字の起源を知りたまえ、
そして分野ごとにある方言が違う意味をなすことも受け入れて
柔軟な態度で認めろ、
俺正義の思考は哲学ではない >>176
日常的な感覚とは当然違います
ですから“ユニークな感覚”と申し上げている
しかし「感覚」という言葉は不用意なのかもしれない
話の流れからいって「現象」が適当でしょうか
すいません
純粋精神とか超越論的主観性などというものも、所詮は現象
しかも、それが普遍的な現象であることを証明しようがない
個人的個別的に、それぞれ納得してもらう以外、意味が成立しないただの念仏
実際、貴方も現象学がよく分からないでしょう
ふらふらと「・・と解釈している」と頓珍漢な解釈を場当たりに言ってみるだけ
問題は、それが貴方だけではないってことです 任意の単語の漢字の発音が読めても、その観念となる体系を理解することは
できない。
辞書の乗せられた形骸化した説明を暗記しそれが正解だと理解してしまえば
元の意味となる言葉の起源とはまったく別解釈の比喩である用法で
その単語を利用してしまう。
たとえばマナーとルールという英単語があるが、日本語で使うそれは
英語では別の意味なのに解釈する日本語側では完全に同じ意味としか
認知できないあやしい若者が量産されている >>180
マナーは「やり方・方法」でルールは「規則・規定」だから日本語でも全然違うし、そんなことは若者たちも知り切っているよ。 気が向いてから、とか
知り切っている、とか
日本語おかしいだろ
波平かよ honnnou tekini kasikoiwarsi ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています