フッサールについて語ってくれ [無断転載禁止]©2ch.net

1考える名無しさん2016/05/27(金) 12:02:55.440
勉強中ゆえたのまーす

160考える名無しさん2018/01/26(金) 10:08:09.220
>>153-154
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の主題から説明しておこう。
論理とか哲学とはなにか、ということだ。
論理、哲学そのものに関する論考だ。

論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
だから、「7 語りえぬことについては,沈黙するしかない」ということになる。
その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。

この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる。
君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。
有名好きの君の解釈が、だれかの解説のつまみ食いでなければ幸いだ。

僕に悪態をつく前に、自分の書き込みがジャーゴンの無自覚な流用であることぐらいには気が付いたほうがいい。
ジャーゴンのひとつでも明確な分類も定義もできていないのだから。

君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。
余計なお世話だが、ジャーゴンのすり合わせをすれば、君と彼(彼女)がそれほど違っていないことがわかるかも知れない。

161FW2018/01/26(金) 11:49:11.790
>>160も僕だ。
記入漏れご容赦。
内容でわかるとは思うが、念のため。

補足として、ヴィトゲンシュタインを3行でまとめておこう。

哲学は言葉によって成立する。
これまでの哲学はその言葉の使い方を間違えている。
言葉で表現できないものは哲学にならない。

162DJ学術 2018/01/26(金) 13:11:48.260
方法序説> 論理哲学考

悪霊供犠か 言の葉遊ぶ。

163DJ学術 2018/01/26(金) 13:12:29.190
言語表象 >深層心理

164DJ学術 2018/01/26(金) 13:13:25.480
深海→浅瀬→山岳移動力

165DJ学術 2018/01/26(金) 13:16:20.900
六本人→ 六甲。

1662018/01/26(金) 19:44:31.020
>>160
論理が飛んでいるのでさっとレスするが、

>論理も哲学も(記号を含む)言葉によって表現される。
そんなことは知っている。

>その意味での「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」なのだ。
ここも有名な。当然知っている。

>この大前提において、言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の
>共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる

俺はフッサールとヴィトゲンが同じなんて書いた覚えもないし、フッサールの超越的自我なんかより
ずっとヴィトゲンのいう「世界の境界としての私」のほうが真実に迫っていると
理解している、という文脈で出したので、何でこんなことを書いているのか
理解に苦しむ。

>君の勘違いは、その前提を見過ごして、ヴィトゲンシュタインが実在や人間自体
>を対象とした「存在論(哲学)」を展開していると思いこんだところから来ている。

「存在論=哲学」なんて俺は理解してないし(認識論、感性論・美学、倫理学とかも
哲学)、かつ、おれはヴィトゲンを存在論だと言った覚えもない。

言っても考えてもいないことで、攻撃されてもな。

>君と他の人とのやりとりもそうだが、議論するには、まず定義と対象を明確にする必要がある。

これはむしろ俺にとっては君に言い返したい言葉だが、
おそらく議論の前提が最初からずれまくっているだけだと思う。

1672018/01/26(金) 19:48:46.350
「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近いだろう。

だが、ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこと
もよく知られた事実ではあるけどね。

また論考から探究への過程でヴィトゲンの問題意識もかわっていく。

個人的に論考の魅力は、私の捉え難さって点に気付いていた点にあるとは
思う。これはあくまで個人的に感じていることに過ぎないが、

このひとはたぶん、文句をやたらつけたがるので、何か書いてくるんだろねw

1682018/01/26(金) 20:00:34.510
でも考えたら、

>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。

ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。

どういう意味で「真逆」と表現したのか?

俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
こんなことを言ってしまったのか。。

1692018/01/26(金) 20:09:14.850
>俺がヴィトゲンをフッサールと同類と誤解していたゆえに、
>こんなことを言ってしまったのか。。

ここは、日本語が通じてないな。

俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解していたがゆえに
こんなことを書いてしまったのだろうか?

と訂正。

170考える名無しさん2018/01/26(金) 21:43:29.450
>>155
私は>>94で、「デカルトが方法的懐疑によって“疑っている私は疑えない”という究極の“真”としての私を超越論的自我というが、
 問題は、デカルトが方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの”を何故“純粋な精神(=私)”と定義したかである。
本来、人間の“心(精神)と体(物質)”は、“一つのもの”として存在している。思惟・思考する以前に“心と体”はもともと一体化しているものである。」と
記述した。

上記の通り、方法的懐疑による究極の思考過程に於いて認識した“あるもの(=超越論的自我)とは思惟・思考する以前にあるものであり、
“心と体”の合一した“一つのもの”として認識するのが正しいと解釈している。

私たちは、方法的懐疑の思考を究極にまで深めている過程で“疑っている私は疑えない”という超越論的な“あるもの”を、
認識するが、その“あるもの”は思惟・思考する以前の“心身合一”した存在として捉えられている。

この“あるもの”を冷静に分析すると、体(物質)から分離した“純粋な精神(心)”だけが超越論的自我として認識されて
いるのではないことに気がつく。

それから、デカルトが“疑っている私は疑えない”という“私(超越論的自我)”が、“純粋な精神”として認識されるという
論理的な根拠をデカルトは示していない。“私”が純粋な“精神”であるならば、誰しもが理解出来る倫理的根拠を示す必要があった。

171考える名無しさん2018/01/26(金) 21:54:19.160
>>170
訂正

  倫理的根拠を示す
       ↓
  論理的根拠を示す

1722018/01/26(金) 22:23:39.000
>>170
なんとなく理解はできたし、もう一人の人よりよほど真面目に書いている分
面白いのだけれども。

超越論的主観 に対応する概念として 超越論的客観 なんて概念をもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れないとは思うし、
ハイデガー理解とはずれるとは思う。

俺はハイデガーをそこまで評価しているわけでもないが。

デカルトが思惟する実体を特権化してしまったのだが、元をだどると、
プラトンが、ソーマとセーマとかいって、肉体拒絶の方向性をすでにうちだしては
いるんだよ、

俺自身は、思惟を特権化したのがそもそも間違いであって、
思惟していない、普段の生活においてすでに、肉体も私も不可分なものとして
存在しているのが重要だと理解している。その点でハイデガーとも立場が違う。

そんなに偉そうにいえるほどの哲学体系を持っているわけではないけどね。

そう考えると、超越論的主観を心身合一として理解する必要性もないとは思っている。

173考える名無しさん2018/01/26(金) 22:49:18.620
>>172
>思惟してない普段の生活において、すでに、肉体(物質)も、心(精神)も、私も不可分なものとして存在しているのが
重要だと理解している。

>私も、その通りだと理解している。この日常の非本来性の次元より、方法的懐疑、或いは現象学的還元という
思考法の活用により種々の問題を解決するのが、新しい哲学の方向性と考えている。

174DJ学術 2018/01/26(金) 23:05:32.910
疑っている自分をがナルシストくささ。疑いえないなら〇。他人を疑えない純粋さが悪霊に気に入られたんだろうな。自 己 はあるようでないと思う。多動性はあっても
受動性や、自動性というとおかしい。悪霊に料理されずに食われたから世界が出来上がるが、魔性だよな。

175DJ学術 2018/01/26(金) 23:07:06.260
心と体の一体化は古いな。心と体は最初が違う異質なものだが。

176DJ学術 2018/01/26(金) 23:07:59.360
先鋭やリソ-スの違う。

177考える名無しさん2018/01/26(金) 23:08:14.080
陰毛ふっさーるかね?

178考える名無しさん2018/01/26(金) 23:22:03.050
>>173
現象学的還元 って言葉にこだわるなら、フッサールともハイデガーとも
違う方向でそれを考えないとならないとは思うね。それが現象学的還元という
言葉を使うのが正しいかは疑問だが。ハイデガーの本来性・非本来性の区別ってのは
いろいろ問題が多いし、結局それがファシズムに結び付いたとは理解している。

ハイデガー派のひとは、あれはエピソードに過ぎないとは言い張るだろうが。

1792018/01/26(金) 23:23:41.930
おっと、178は 俺(あ)な。

180FW2018/01/27(土) 12:31:56.190
>>166
>論理が飛んでいるので

いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
別に構わないが。

>そんなことは知っている
>当然知っている

哲学が言葉である(言葉に過ぎない)ということは理解してるんだね?

それなら、僕が>>160に書いた「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆ということになる」ということも理解できるんじゃないか?
ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
フッサールは、哲学は言葉ではないものを哲学にしようとした。

>ヴィトゲンは「私」の問題については、フッサールよりはずっと優れた視点を持っている
>ヴィトゲンはフッサールのように、超越論的自我を設定してしまわないという点で

君は、>>123>>133でこう書いた。
つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。

>俺がヴィトゲンとフッサールを同類と理解している、と誤解

だから、君が二人を同類としてみているというのは、僕の誤解ではないのだ。

181考える名無しさん2018/01/27(土) 12:44:37.980
>>167
>「論理哲学論考」は、むしろ、カント的認識論に問題意識は近い

カント的認識論てなに?
これは質問じゃなくて、君のジャーゴンの曖昧さを指摘してると思ってくれ。

>ヴィトゲンシュタインがハイデガーにわりと好意的な発言をしていたこともよく知られた事実

君の有名病は、やっぱり誰かの解説のつまみ食いから来てるんだろうな。
断片的な発言やエピソードで「哲学」を理解するのは無理だと思ったほうがいいよ。

ヴィトゲンシュタインについては>>161に3行でまとめておいたが、冗談で書いてるわけではなく、そのままなんだよ。

ちなみに、論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。

182考える名無しさん2018/01/27(土) 12:45:21.920
>>168
ヴィトゲンシュタインの「哲学」上の「私」は、言葉としての「私」であって実在としての私ではない。
フッサールは態度や共同性を含めた実在の「私」だ。
このふたつの「私」は、まったくの別概念だ。

ここでもまた、君の言葉の定義の曖昧さが出てしまっている。

183考える名無しさん2018/01/27(土) 12:47:47.580
>>181
論及 ー> 論考

失礼。

1842018/01/27(土) 20:09:05.800
>>180
>いつも逃げの言葉を最初に持ってくるんだねw
それは君の主観だな。逃げというよりバカバカしいのでウンザリというか。

>「言葉によらない(エポケーという)態度や(精神の共通性のような)超越論的主観性を設定するフッサールとは無関係だし、真逆と
「私」をどう捉えるか、という問題では、比較することは当然可能。
そして俺はその点で挙げたのみ。

>ヴィトゲンシュタインは、哲学は言葉に過ぎないと指摘している。
おそらく論理実証主義は(ジャーゴンとかいうなよ、知らないなら検索しろよ)
その点でヴィトゲンを重視した。

だが俺の関心は、ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点。

>つまり、ヴィトゲンシュタインとフッサールの「私」を、同類の「私」としてとらえているわけだ。
なんでそうなるか理解に苦しむ。

例えば永井均はこう書く。「私自身は、ドイツ観念論や現象学の主格的で反省的な
自我理解にまったくリアリティを感じないのに対し、ヴィトゲンシュタインには、
ほとんど肉感的といえるほどのリアリティを感じるのである」。

わりと俺の実感に近い。私の把握、という点で、ヴィトゲンに共感するのは、
同類にしていると同義ではない。

185考える名無しさん2018/01/27(土) 20:11:29.900
>>172
>超越論的主観に対応する概念として、超越論的客観 なんてもってくると
新たな二元論を作り出しているのではないか、という批判は免れない。

>自己(主観)と外界(客観)とは、日常的な普段の生活において密接に関連している。そして、
超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)も、“方法的懐疑と現象学的還元”を通して密接に関わりあっている。

だから、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、日所的な生活次元に関わっている主観(自己)と客観(外界)との
延長線上にある。

私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。

1862018/01/27(土) 20:15:21.980
>カント的認識論てなに?

純粋理性批判のカントの関心は、人間の認識がどこまで
およぶもので、どこからが認識で捉えられないものかにある。
悟性や理性という言葉がでてきた理由。物自体という概念などを考えるといい。

ヴィトゲンも言葉にこだわったりはしているが、どこからが言葉で捉えられないか
を問題にしている。

>なみに論及から探求へと変化したのではなく、論及を具体的な現実に当てはめたのが探求だ。

これはヴィトゲン全体に関係することなので、
今君と論じあう必要性はまったく感じない。君自身のヴィトゲン理解として
大切にしてもらいたい。

1872018/01/27(土) 20:17:53.590
しかしまだ肝心な点には答えられてないのだよ。

>どう読んでもも、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
>なんて結論になるわけないのだがね。

ここについてはちっとも、このひとは答えることができてないんだよなあ。

どういう意味で「真逆」と表現したのか?

俺は基本、今はここしか尋ねていない。

188考える名無しさん2018/01/27(土) 20:24:19.050
>>185
  訂正

  日所的な生活次元
       ↓
  日常的な生活次元

1892018/01/27(土) 20:24:20.880
今レスしてくれたのか。

>私は、超越論的主観(自己)と超越論的客観(外界)は、“一つのもの”であり、両概念を例えて言えば、コインの表と裏の連関にあると捉えている。

君の概念ではそうなのだろうけど、

超越論的客観=外界 ってのは俺はやはりひっかかる。

ベルクソンやメルロ=ポンティ の考えに近いんじゃないだろうか。
あるいは、もしかしたらシェリング。 いろいろ考えてはいるのだけれども。

1902018/01/27(土) 20:25:53.820
ごめん、レス番号つけるの忘れていた。

189は >>185 へのレス。

面白いのだけれども、これ以上今はレスできんわ。

191考える名無しさん2018/01/27(土) 21:15:24.440
>>124
>その違いはどこから生じるのかというと、“前提を設定する思考法”の方法的懐疑と、
“前提を設定しない思考法の違いにある。

この質問に対して、「そう考えてハイデガ−は、現象学を解釈しなおそうとして、フッサ−ルと喧嘩することになった。」と述べているが、
思考法に於いて、〈前提を設定する〜前提を設定しない〉は、非常に重要なところなので、ここのところのフッサ−ルとハイデガ−のやり取りを
貴方の知っている範囲内で教えてもらえますか。

1922018/01/27(土) 22:47:14.460
>>191
説明しづらいなあ。やり取りについては、歴史的な事実だけ紹介すればいいと
思う。

ハイデガーはフッサールの元で学んで講義を受け持ったりしていたのだけれども、
初期の講義、19年の「現象学の根本問題」あたりでは、すでにかなりフッサールを
攻撃しているんだよ。そういうことはフッサールは知らなったらしい。
現象学とは私と君のことだ、などとハイデガーに言っていたくらいだから。

27年にフッサールが「ブリタニカ草稿」、百科事典の現象学の項目をハイデガーに
書かせて、その内容が自分の考えとはまるで違うことに気付き、
また「存在と時間」を読んで、自分の現象学とはまるで違うことに気付き、
この頃からハイデガーへの距離が生まれた。

もっとも影響をうけて、生活世界とか言い始めたりするのだが。

ハイデガー側からすると、現象学って言葉は引き継ぎながらも、
初期(10年代)からまるで違う方向に進んでいたし、名指しでフッサールの
悪口を講義では言っている。

193考える名無しさん2018/01/27(土) 23:20:09.930
>>184
>比較することは当然可能

比較というのは同じ方向がなければ意味をなさない。
違う方向での比較なら、それぞれの方向を明示したうえで、どこがどう比較できるのかを検討しなければならない。
水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。

>ヴィトゲンが言葉で捉えられないのは何かを問題にしている点

ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
有名だろ?

>永井均はこう書く

また他人の解説のつまみ食いかよ。
ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。
気取った言い回しが大好きな永井らしい感想といえばいえるかも知れない。

君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
それができれば、見当違いのヴィトゲンシュタイン理解から少しは離れることもできるだろう。
ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。

194考える名無しさん2018/01/27(土) 23:32:07.010
>>186-187
>どこからが言葉で捉えられないかを問題にしている

ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
それが言語ゲームだ。
人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。

>大切にしてもらいたい

君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。

>答えることができてない

何回も答えているが?
何回同じことを書けばいいんだろう?

ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
これが無関係ということでもあり、言葉と肉体という方向性としてとらえれば真逆ということにもなる。

これ以上どんな説明がいるというのだ?
君が引用した永井の感想の真逆ではあるがw

1952018/01/27(土) 23:58:56.290
>>193
君の場合、いちいちレスすると膨大なレスになるだろね。かいつまんで。

>水と砂を比較するには、それ相応の視点が必要だ。
「私」の把握の仕方、という視点で。フッサールのように超越論的自我を
まず設定してしまうのか。それとも、ヴィトゲンのように、言語分析からはいりながら
世界の限界として私を理解していくのか。
どちらがより共感できる私の捉え方か、という視点で。

>ヴィトゲンシュタインは、言葉でとらえられないものは語ってはいけないと言っている。
初期ヴィトゲンな。
「語る」とはいっていない。「なにが語れないのか」、を語ると言う点で。

>ヴィトゲンシュタインになにを感じるのも自由だが、それを解説とするのはヴィトゲンシュタインからは最も遠い。

解説を目的とした文章ではなかったな。
いずれにせよ、現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例に過ぎない。

>君には、ひとつでも、自分が並べ立てているジャーゴンをきちんと定義、説明できるのかを自問しなければいけない。
俺には君の方が何一つ説明できていないと見える。

>ジャーゴンの明確化を言い回しで誤魔化しているような永井にもいえることだが。
別に永井信者でもないが、俺には、君よりか永井のほうが遥かに明確に定義できている
ようには見える。

196考える名無しさん2018/01/28(日) 00:08:09.580
>ヴィトゲンシュタインは、それまでの哲学の全否定ともいえる、言葉の構造を考えた。
>それが言語ゲームだ。

今は言語ゲームは問題にしていない。

>人間の認識の範囲の問題ではなく、そういいたければ、認識と言語の乖離の問題だ。
「探究」の一解釈として成り立つがそれを今問題にしているわけではない。

>君が少しでも哲学の不毛性に気が付くことを期待してる。
そんなの期待してどうなるw 哲学は俺の考えでは単に生き方の問題だ。
西洋哲学の終焉なんてハイデガーも言っている。

>ヴィトゲンシュタインの「私」は、哲学に表れる言葉としての「私」だ。
>フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。
>これが無関係ということでもあり

「フッサールの「私」は、肉体を持った実在としての「私」だ。」

ここ完全に間違いな。フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
肉体と同時に死ぬようなものではない。

かつこれでは、
>>「世界に属さず世界の限界としての主体=私」とは無関係、というよりむしろ真逆だということがわかるから
の説明にはなっていない。

真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明
しなければならない。

197考える名無しさん2018/01/28(日) 00:11:49.170
>>195
>言語分析からはいりながら世界の限界として私を理解していくのか

ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
だから、君の理解は見当違いだと指摘している。

>「なにが語れないのか」、を語ると言う点で

そんなことは語っていない。
哲学で語られていることを否定しているだけだ。

>現象学とヴィトゲンシュタインを私を視点として比較した例

比較できる対象ではないと指摘している。

>俺には君の方が何一つ説明できていないと見える

なにを説明して欲しいんだ?

>永井のほうが遥かに明確に定義できているようには見える

具体的に並べてみせてくれ。

198考える名無しさん2018/01/28(日) 00:17:52.910
>>196
>西洋哲学の終焉

そんなことを言ってるんじゃない。
哲学は言葉の遊びだと言っている。
ドゥルーズがヴィトゲンシュタインを「哲学の暗殺者」と評したとおりだ。

>真逆というからには、ヴィトゲンは主体は世界に属している、と述べていたと証明しなければならない

あまりバカなことは言わないように。
正方向にも逆方向にも、基準がある。
どの基準での正逆であるかを十分に説明した。

199考える名無しさん2018/01/28(日) 00:23:11.360
>>196
ひとつレスを忘れてたw

>完全に間違い

フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。
死ぬとか死なないとかいう個人の問題でないのは明白。

2002018/01/28(日) 00:30:01.180
>>197
>ヴィトゲンシュタインは、「私を理解」しようなどとはしていない。
言葉尻をとらえて攻撃しているだけだな。
「私の把握」という意味で捉えたらいい。

>そんなことは語っていない。
>哲学で語られていることを否定しているだけだ。

これは俺と理解の仕方が違う。

>比較できる対象ではないと指摘している。

これも俺と理解の仕方が違う。哲学者が「私」をどうとらえたか、
これは比較できる。当然、私の内実が違うことはある。

>なにを説明して欲しいんだ?
今はヴィトゲンの件だろな。哲学終焉の件も。だが、どうやら無意味に
思えてきたな。
じゃあ、これを聞こう。君にとって、哲学とは何だ?

>具体的に並べてみせてくれ。
何を具体的に?w 永井の本の解説せなあかんの。やなこった。
ずっと納得のいく説明しているってので十分。これは当たり前のことだぞ。

2012018/01/28(日) 00:34:41.480
>>198
>哲学は言葉の遊びだと言っている。
だからどーした。

>どの基準での正逆であるかを十分に説明した。
それは、俺がヴィトゲンの私をフッサールの私と同類だと把握している
と「誤解」した上での、逆ってことだけだな。

おそらく。

もしもそうなら、いくらなんでも説明の仕方が乱暴すぎる。

君は、最初、「むしろ逆だ」としか書いていない。

>フッサールの純粋自我というのは、人間に備わった肉体的な特性といったようなもの。

フッサールは純粋自我を肉体的な特性として理解していない、ってことだよ。
純粋、という言葉にこだわるように。

202考える名無しさん2018/01/28(日) 00:41:16.140
>>200
>君にとって、哲学とは何だ?

言葉の遊びだ。
その点はヴィトゲンシュタインと同じだ。
フォイエルバッハとヴィトゲンシュタインによって、哲学は現実の解明に解体、移行した。

>これは当たり前のことだぞ

当たり前ではないから、ヴィトゲンシュタインは言葉の遊びだとして哲学を解体した。
永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。

その他のことは、君がヴィトゲンシュタインに興味を持ってからにしよう。

203考える名無しさん2018/01/28(日) 00:43:21.900
>>201
フッサールのことなので、ひとつだけ。

>純粋自我を肉体的な特性として理解していない

それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw

2042018/01/28(日) 00:46:00.920
元をたどると、

俺が、191さんの、超越論的自我と本質直観の問題にたいして、レスしていた
だけのところに、

いきなり別人だとも名乗ることもなく(それが失礼だが)、
その文脈でFWがレスしてきたってだけだな。

フォイエルバッハだのヴィトゲンだの
あげて、まあ哲学の不毛性をいいたいだけなのだろうが。

ヴィトゲンの件も、もともとは、フッサールの私の把握と、ヴィトゲンの私の把握
の違いで、ヴィトゲンのアプローチのほうが共感できるってだけのコメントだったが。
そりゃあ、純粋自我が問題だったからね。

かみついてきたうえに、
まったく今は関係のない言語ゲームの話にどうももっていきたがっているように見える。

2052018/01/28(日) 00:50:26.160
>>202
>言葉の遊びだ。
じゃあ勝手に遊んでおけ。俺は相手にしきれんが。

>永井はその哲学をヴィトゲンシュタインの中で復活させるという、おかしなことをやっている。
君は遊んでおけばよろしい。

>それだとフッサールは幽霊の存在を認めていることになるw

それはまた、えらく飛躍のある論理展開だ。
どうして、幽霊がいきなりでてくるの? 肉体に依存しない純粋な私と、
幽霊との関係性は? フッサールは幽霊をどう定義しているの?
フッサールが幽霊について言及していないなら、どのようにしてつながるの?w

206考える名無しさん2018/01/28(日) 09:58:08.390
>>205
>フッサールは、純粋自我は死なない、と述べている。
>肉体と同時に死ぬようなものではない。
>肉体に依存しない純粋な私

これが幽霊じゃなくてなんなんだよw

君としては、二人を相手にしたので集中できなかったのかも知れない。
気の毒になってきたから、もうやめる。

207考える名無しさん2018/01/28(日) 19:36:22.410
デカルトの「超越論的主観(コギト)」が純粋な“精神”であるという論理から、“心身二元論”が創出しており、
哲学はデカルト以来ヨ−ロッパに於いて「主客の一致」はあるのかという重大な『謎』が提出されてきた。

ここから、バ−クリ−やヒュ−ムの徹底的独我論(世界の現実存在の想定は、まったく無根拠)のような考えや、またこれに対抗して
カントの「物自体(世界それ自体は人間には認識できない)」などの議論が現れた。

上記の問題点は、デカルトが超越論的主観(コギト)を“純粋な精神だけが主観を構成する”と定義したからであり、
この“純粋な精神である主観”を基底とすることにより、心身二元論が創出している。

これからの哲学の方向として、超越論的主観(コギト)が“心身合一”したものとして存在しているという論理は、
メルロ=ポンティの「精神と物質、あるいは、心と体は二つの異質な実体ではなく、むしろ二つ異なった水準の“ゲシュタルト”に
他ならない。」と述べている様に、 思惟・思考する以前に、我々の“心と体”は“心身合一”したものである訳です。

この様な存在への捉え方は、ハイデガ−に於ける「現存在」の概念にも見られる。

208考える名無しさん2018/03/11(日) 04:03:47.630
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209考える名無しさん2018/03/11(日) 13:00:54.040
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210考える名無しさん2018/03/21(水) 18:59:56.370
近代哲学の父といわれるデカルトから始まる“心身二元論”が、いろいろな意味において、
現代の民主主義の理念、そして、機械論的世界観から現代科学の基盤となっている論理実証主義を創出し、
今日の物質的科学文明へと至っている。

フッサ−ルは、デカルト哲学を真摯に継承し、深く論究して新しい現象学を確立した。そして、デカルト哲学の
良い面と悪い面の分析の中から、『ヨ−ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を著し、西洋文明に警鐘を鳴らしている。

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