自己同一性 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
人間A氏がいる
A氏を構成する物質と全く同じ物質をA氏と全く同じ構造で組み立てて人間A'氏を作る
A'氏はA氏と全く同じ記憶を保持している
A氏にたいして心理的連続性と身体的連続性が満たされたA'氏はA氏と同一人物だと言えるだろうか?
そこで、A氏とA'氏の視界をモニターに映す
今、A氏がリンゴのみを見て、A'氏がナシのみを見る
この時、リンゴを映すA氏のモニターとナシを映すA'氏のモニターの2つがある
両者はリンゴを映すかナシを映すかの違いがある
視界が映すものは体験の情報である
A氏とA'氏は同時刻における体験の情報が異なる
記憶とは体験の総体であるため、体験が異なれば記憶も異なる
よってA'氏は、A氏とは記憶が異なり、A氏に対して心理的連続性がないため、A氏と同一人格ではない。 つまり心理的連続性が成り立つとは、すべての時刻において体験が等しいことをいう。 カフカの変身において、主人公ザムザは身体が虫に変身する
ザムザは身体が変化したことで、認識のあり方が変容した
体験とは主体の感覚と認識を通した世界である
体験において世界は感覚によって感じられた後認識によって主体の精神に再構築される
身体は感覚と対応関係にあり、感覚は認識と対応関係にあり、認識は体験と対応関係にある
よって、身体は体験と対応関係にある
身体が異なれば体験も異なる
よって、虫になる前のザムザと虫になった後のザムザは体験が異なるため同一人格ではない y=x(0≦x<1)のグラフとy=-2x+3(1≦x)のグラフは傾きは違えど連続している
人間ザムザと虫ザムザは感覚は違え度記憶は連続しているため心理的連続性が成り立つ /
{
_________ ,.-‐┬‐┬ァ l
 ̄`ー、_ l::::::::}ヽ l l -ニ、__l_;:='/ ',
`ー┴‐'"´ l l \ ー─‐ i
l l \ l
l l \ }
l l l
l l ,'
/ ヽ ヽ ,'
./{ } } ,'
ヽ、 __ ノ ノ /
¨¨¨` ーテ ´ / チンポ臭いんだよ。チンポくらい洗え
/ l /
ゝ、 j /
,. -‐'"  ̄ `ヽ /____
_,.-‐'" -‐┬‐┬‐┬ュ、_,, / ` ー─-、
 ̄ `ー┴‐┴‐‐'"゙ ̄ /  ̄`ー-、
_ ノ / `ー-、 発狂さん、上げ荒らしやめましょうよ。
10年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 >>1
スマホAを構成する物質と全く同じ物質をスマホAと全く同じ構造で組み立ててスマホA'を作る
スマホA'はスマホと全く同じデータを保持している
スマホAにたいしてデータ的連続性と材料的連続性が満たされたスマホA'はスマホAと同一スマホだと言えるだろうか?
問題にもならんな とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
NO67R 我に返ることを、独我論だと考える人はいるのだろうか? 我に返ることを独我論的であると考えるとすれば、それは、
そもそも、独我論的な我を無条件に前提としているからだろう 孤独 自我 論述 的確というと何か違うよね。翻訳も押韻も完全にはできてないし。
プライバシイってことなんだろうけど、自分一人しか世界に存在が確認
出来ないというのは正しいな。 自我同一性が続くというと腹を抱えて笑うしかないよなあ。 我がまず存在するわけではない。
できることにおいて、我があた(能/値/与)ふ(≒se faire valoir)のである。 壁を押しても壁を動かすことは「できない」が、壁を押した力が反作用
となって表れ、自らの力で壁から突き放すことの「できる」己が現れる。 ところが、そこでさらに反転が生じる。そのように「あた(能/値/与)ふ」
我を、「〜ができるのが自己である」というように所与として捉えてしまう。
さらに、その「『自分は〜ができる』という信念」が裏切られたとき、
我の確実性が揺らいで、何が確実なのかという問ひとなる。 しかし、本来の我の在り方は、そのように、何が本当に確実に「できる」のか
を追求するために「いき(息)む」ことをやめて、「ふ」と息を抜いて初めて、
「ふ」と我に返り、立ち現れるのである。 所与としての我は、常に「できる/あた(能/値/与)ふ」または「できない/
あた(能/値/与)はない」我であるが、我の「在り方」は、そのようなもの
ではない。 「ふ」と我に返ることが、本来の我の在り方であり、それを忘れることが
存在忘却であるとすると、我を忘れないようにするためには、「できない/
あた(能/値/与)はない」と自己が否定されても、むきになってはいけない。
人々を階層化するための仕組みは、人々が「できない/あた(能/値/与)はない」
と否定されることに反発して、他者より自らの方が「できる/あた(能/値/与)ふ」
ことを示すように競わせることによって成立している。しかし、いくら、
自らが「できる/あた(能/値/与)ふ」ことを示そうと必死になっても、
階層化は、下位の人々に「できない/あた(能/値/与)はない」と思い知らせる
ようにしか機能しない。そのような仕組みにおいて成功を収めた
ところで、せいぜい、そのように下位の人々に思い知らせるための役割を
与えられるに過ぎず、決して我に返ることにはつながらないのである。
人は、自分が「できる/あた(能/値/与)ふ」ことを示そうとすることによって
ではなく、誰でもない者として自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことを
しようと努めることによってのみ、本来の我の在り方に返ることができる
のだろうと思う。 「できない/あた(能/値/与)はない」ことによって生じる「いた(痛/傷)み」が
習慣化されることが、「いた(痛/傷) んだ自己」としての「うつ病」だろう。
例えば、火傷していた(痛/傷)めた指先で熱いものに触れることを忌避する
ように、「いた(痛/傷) んだ自己」は、「できない/あた(能/値/与)はない」
ことによって再び「いた(痛/傷)み」が生じることを恐れて、動きがとれなく
なる。その意味で、「うつ病」の人に「頑張れば大丈夫」、「やればできる」
と励ますことは、指を火傷して痛がっている人に、このくらいの熱さなら
だれも火傷しないから大丈夫と言って、熱いものを我慢して握るように
迫っているようなものである。
ところが、人々を階層に組織することは、自らが「できない/あた(能/値/与)
はない」ことを、階層のより下位の人々に思い知らせることを必然的に要請
している。さもなければ、上位の人々の方がより有能であるという階層化の
原理の正当性そのものがが揺らいでしまう。 したがって、階層化の原理に順応しようとする限り、人々は、自らが「できない/あた
(能/値/与)はない」と評価されることに反発して、自分にも「できる/あた(能/値/与)ふ」
ことを示そうと競い合い、「できない/あた(能/値/与)はない」と競争相手に思い知ら
せることができることが自らの有能さの証明となる。 しかし、階層化の原理における、そのような上からの「できる/あた(能/値/与)ふ」
ことに関する評価は、より下位の人々が上位の人々に「つか(仕/使)へる」か
「つか(仕/使)へない」かだけを基準としている。その基準に照らせば、
自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことをすることは、全く評価の対象ではない。
さらに、行ひは、単に評価の対象とされないというだけでなく、別の基準を
人々の間に導入してしまうことになるので、階層の組織化をかく乱すること
につながる。だからこそ、階層組織は、階層化を徹底しようとするなら、
自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことをしようとする者を徹底的に監視して、
その勝手な振舞ひを阻止し、取り締まることになる。 自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことをすることによって、
人に「つか(仕/使)ふ」、それが本当の意味での、人として
「我に返る」ことだろう。 階層組織は、自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことをしようとする
人間を徹底的に妨害することによって、「できない/あた(能/値/与)はない」
ことを思い知らせ、組織の評価基準を無視するような「思い上がり」を
戒めようとする。では、孤立させられた個人は、組織に対して完全に
無力であり、組織に評価されること以外は何も「できない」のだろうか。
そのような諦めに陥るなら、「できる」ことは、組織による評価に従属
するか、無気力に陥る他ないようにも思える。しかし、どれほど妨害を
受けても、「できる」ことはあるのである、というより、そのような
妨害を徹底的に受けることで初めて「できる」ようになることがある。
それは、組織が、自らに「できる/あた(能/値/与)ふ」ことをしようと
する者を阻止するために、どのような手法を用いるかつぶさに観察し、
記述し、理解しようとすることである。むしろ、そのような試みを
放棄したなら、人文学は、人文学と呼ばれるにあた(能/値)ひしない
だろうとすら私は思う。 社会が企業を中心として組織化され、個々の世帯が企業の活動を支える 役割を
担わされる限りにおいて、会社で「つか(仕/使)へない」と評価 される人間は、
世帯でも「できない/あた(能/値/与)はない」者として 評価されることになる
のは不可避でしょう。
会社の仕事で「つか(仕/使)へない」と評価され、その仕事で疲れ果てて 家事でも
「つか(仕/使)へない」と評価されたら、どこにも居場所が なくなりますよ? 人はみな平等であるべきだと訴えるとき、「私の方がずっと『つか(仕/使)へる』
のに、こんなに『つか(仕/使)へない』人が私より優遇されているのはおかしい」
と感じて、自分の方がいかに「つか(仕/使)へる」かをアピールしようとする
ことは、階層化された組織を上から管理する側にとってどれほど都合がいい姿勢
であるかを、少なくとも自覚する必要があるのではないでしょうか。 階層組織の安定は、どのようにその正当化が保証されるにせよ、
組織的に行使することのできる暴力の潜在性を、体系的に
下位の人々の負い目/負債にうまく変換しつづけることに成功する
ことに依拠している。 「好きなことを仕事にするとつらくなる」と言われることがある。
「好きなこと」とは、熱意(passion≒"readiness to accept suffering")を
もって取り組むことのできることであるが、それを仕事(「つか(仕/使)へる」
こと)に変えてしまうと、つらくなるというわけである。なぜそうなるか
と言えば、人を「つか(仕/使)へる」ように管理することは、まさしく、
使われる(「つか(仕/使)へる」)側の「『好き』なようにはさせない」こと
により成立しているからである。熱意の赴く/面向くように物事に取り組む
ことができないよう抑え込まれてしまえば、もはやその取組みは、
「好きなこと」ではなくなり、つらさ(suffering)だけが残る。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています