ニーチェは仏教をニヒリズムだと勘違いしてた低脳 [無断転載禁止]©2ch.net
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ニーチェは無と空の区別もつかない馬鹿だよな。西洋哲学はこの程度の
レベルなのかよ。 仏教を信じろとか
侮辱するなとか
とことん逆のことやってない? >>157
ニーチェはその場の思いつきを体系立てずに書いていたから矛盾だらけだとカール・レーヴィットが言っていた
ただし一見矛盾してみえる主張に深いレベルで一貫性が保たれているとも
そういう部分に注目して初めてニーチェの妥当な評価ができるのでは ニーチェやショーペンハウエル、サルトルなど実存哲学に囚われて価値ある生とは何か
ということばかり拘るやつが自殺を美化しがちだな ニーチェはギリシャ神話に優れていて、彼らは自分の損得が道徳的善悪の基準であった。しかしキリスト教を信じる奴隷達が価値観を逆転することでルサンチマンを抑えていて、今に至る。
ニーチェはこれを知っていた。しかし奴隷のいない今、神を信じて奴隷的道徳には意味がないだろうと価値観をキリスト以前に戻した。
だから彼は以後の哲学者に学ばれた。
ニーチェは好き嫌いあってもこの価値観の逆転は大きな業績。ベイビー崇拝主義は理解できないけど ニーチェのようなわかりやすい二元論をやるだけでアッという間に馬鹿は騙されてしまうが
道徳ってのは元来、宗教とは別個のものとして存在した
即ち生活慣習が掟となり後になって宗教が生ずるという仕組みだ
限られた資源の中で僅かならがらの知恵を駆使しなんとか生活していた人類に
清貧が求められたのは当然
それを金持ちになれない妬み、ルサンチマンだと決めつけることの馬鹿馬鹿しさ 清貧ってのは資源が豊富にあった時代よりもむしろ資源の枯渇や環境破壊に直面した現代のほうが遥かに切実なんじゃないか
ニーチェの時代には、森を切り開き、未開の地を開拓し、資源を貪るという事になど何の疑問も抱くことはなかったろう Fカップ乱
僕は大学機構の出身じゃないよ。行政法人や 明石の上智将オデッセウス
みよかし。5chanellar 。 釈迦が悟ったのはこの世に神はいない、ということだ。
ニーチェがどう解釈したかは別の問題だ。 宗教的でなさすぎるとDQNっぽくなって問題だが、宗教的すぎても厨二病が過ぎてそれはそれで問題。 宗教と哲学と科学の関係でいえば
宗教の定義は「科学で否定してはいけないもの」ということ
これは数学で「ゼロで割ってはいけない」のと同じレベルの掟
したがって哲学で宗教の否定を試みたニーチェは健全な人
科学で宗教の否定を試みたホーキングは馬鹿 本当にそんな事言ってるのかだよ
ニーチェの著作を翻訳した人が理解してなかったので
あの変な文章になってるんじゃないか 欧米人は仏教を虚無思想だというからな
ニーチェがそう思ってても不思議はない >>170
>宗教の定義は「科学で否定してはいけないもの」ということ
>これは数学で「ゼロで割ってはいけない」のと同じレベルの掟
ソースは? キムタクは自社買いの数字操作ばっかり
youtubeにも曲があがってるけど
再生回数が多いのにコメントオフになってる
曲をアップしてコメントオフなんて聞いたことがない
アルバムが売れてるなら買った人もコメントするからオフにする意味が無い
どう考えても
youtubeの再生数も数字を買ってるから
コメントが少ないと辻褄が合わないからコメントオフにしてるんだろうな
売れた売れたと言っても
キムタクの曲は誰も知らない
アルバムの感想を言ってる人が誰もいない
今さら捏造なんてバレるのにやってることがおかしい
今さらキムタクをゴリ押ししてまで
新しい地図潰しに必死のジャニーズ デジモン(デジタルモンスター)シリーズVSドラゴンボール超
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> 限られた資源の中で僅かならがらの知恵を駆使しなんとか生活していた人類に
> 清貧が求められたのは当然
そうかな?
大昔だって貴族もいれば奴隷もいた
ニーチェが批判したのは、奴隷が「善」を主張し、貴族を「悪」と決めつける道徳、
今でいえば、社畜が「善」を主張し、自由に仕事をする人を「悪」と決めつける道徳、
そして「悪」を公然と叩き、嘲笑し、引きずりおろそうとする風潮だわな そんな兆候だけを切り取って道徳全体を敵に回す必要はないだろう
人類史というのは中世的な貴族社会だけでもないしそれだけで語り得るものでもない
ただし無用な闘争を避ける知恵を豊富に持ってた貴族社会は決して悪ではなく
歴史的な必然だと言えよう 虚無というのは近代の大前提だ。
だからニヒリズムも近代の大前提で事実だ。
中世に虚無はない大前提は神だからだ。
問題はニヒリズムではなくそれをネガティブに受け取るかどうかだな。
前提が虚無であろうが、神を信じ肯定する自由な意思があるだろう、それが近代。 「詩人は嘘をつきすぎる」というのは、ニーチェが自らに向けた言葉だ。
ニーチェの言葉は、詩的な形式や表現にひきずられて、しばしば、哲学
としての表現の厳密さや一貫性を犠牲にしてしまうが、ニーチェ自身、
そのことを自覚している。だから、ニーチェの詩的な表現を翻訳する
ときに別言語においてさらに詩的な彩りを添えようとすることは、
嘘をさらに大きくして、何を表現しようとしているのか、その一貫性
がとても捉えにくくなるのだ。 ニーチェに限らずはなから言語化されたものに
頼るから事実が見えない。
真理を垣間見たければ言語化されてないものを
自ら読みとらなければならない。
誰であろうと言語化されたものにたよるから
ニヒリズムを支配者としサタンの僕と化してまうのだ。
それでは生の意味も虚無として後ろむきにしかうけとれなくなる。
だが虚無を前提にするならば神に仕える道はさらにせまい。 >>182
おいおい聖書に限らずすべて虚構だよ
ニヒリズムに屈したやからは虚構をネガティブに捕らえる
そうやって虚構でしかない現実を放り出し無関心つまり空虚になる。
>>183
ニーチェとは何か
哲学とは何か
深く思考もしないで言葉を発するのは
君こそニーチェや哲学にそもそも関心がないのは明白
ニヒリズムを支配者とあがめる奴らは
そもそもいってる言葉に関心がないから言葉が無責任
それがうそや虚構であっても神を信じろよ
自分だけで生きているわけじゃないんだから
といってもネガティブな虚無主義者は社会や他人に関心がないから
永遠にいってもむだ。
言語化されないとポジティブになれない根底の価値観の問題だ。 関心がないくせに平然とでたらめをいう輩のあばきかたは
ソクラテスが問答法で暴いてくれた。
はなから暴力ありきでだから関心がないということ。
ニーチェというかニヒリズムを崇める輩とは
所詮、ソクラテスの暴いた輩のことを
最言語化したにすぎない
だから言語化しなくても事実としてここにも、あそこにも
あちらにもそういうのはうようよいる。 >>182
宗教とは何か
キリスト教とは何か
現実という虚構に無関心となるとまるで宗教が戦争を引き起こしたと
という虚構にとりつかれる。どちらも実は虚構だから始末がわるい。
だが社会を構成するのが人間ならばコモンセンスを重視すべきだ。
このコモンセンスという虚構を無視した
悪しき社会現象を社会学者の宮台真司教授あたりはへたれのクズとか人どもき
とかいっているな。
私はどちらかというと比較神話学が専攻だが、教授の話はわかる。 他者の尊厳を尊重するか、そうでないあり方
どちらの虚構を選ぶかは
生まれながらの人間性の問題
つまり私は現実的な社会秩序を守るためには
DNAレベルと結論づけるという虚構も容認している。
思想良心、宗教、言論の自由が理解できない輩ばかりなんだから
中華式社会信用制度も悪くはない。
香港みたいな結末がいやならあんま虚構だからと世を舐めないことだね
所詮、ほとんど超人にはなれない。ただのコモンセンスのある程度の
自由自発、内発的な近代人なのだけどね。
といったところでニヒリズムに屈した連中はそもそもこういうことに
関心がないっても無駄ということも十分に理解してるよ。 ニーチェの名前を出しているだけで、ニーチェとは無関係だな。
ニーチェがニヒリズムとして想定されるものとどう関係しているのか
すら定かではない。 問答されて困るような実は関心がない
うわべだけのキーワードを並べてリビドーを満たしたいだけのあさましさ全開で
そもそも人間性ある人間をやる気がはなからないくせに
なにが聖書だ、何が仏典だ、なにが哲学、なにがニーチェだ。
まず、言語化の最初である神話から理解して来い。
そして神話さえ言語化だからいらんと言えるように
なったら、一人前だ、それから哲学や宗教をやれ。
クリエイターでない物がえらそうに人を見下ろすな。 ニーチェは宗教が得意でもない。仏陀のことも体験はないだろう。
しかし、キリストにあれだけシビアだったのに仏教になると戦う気がない。 ここでごたごた言ってる 場末のおっさんたちは なんで、偉そうなことを 語ってんだ。
酒の勢いか、もう残りの人生 妄想に浸りきるより生きる術がないのか。仏教もキリスト教も
ニーチェも 偉そうなこといえるような面してるのが一人もいない。 >>191
おまえが妬みの塊だからそういう風にしか感じられない。
他者を上から目線とか感じているだろ?だから成長しないんだよ ニーチェってキリスト教を批判しただけで、決して宗教を否定していたわけではなかった
のだな 「神は死んだ」←これってキリスト教を批判しているだけじゃないの? http://www.zeno.org/Philosophie/M/Nietzsche,+Friedrich/Zur+Genealogie+der+Moral/Dritte+Abhandlung%3A+Was+bedeuten+asketische+Ideale/21-28
28
Sieht man vom asketischen Ideale ab: so hatte der Mensch,
das Tier Mensch bisher keinen Sinn. Sein Dasein auf Erden enthielt kein Ziel;
[...]
Und, um es noch zum Schluß zu sagen, was ich anfangs sagte: lieber will
noch der Mensch das Nichts wollen, als nicht wollen... 言い換えるなら、人は、何も「することができない」という思ひに囚われたまま
であることを余儀なくされるよりは、「無になろうと『することができる』」こと
の方が望ましいと感じるのである。 「することができる」と悟った時点で、それが「生きること」であったことに気づく。 だから、"Yes, we can/Wir schaffen das!"という呼びかけは空虚に響き、
むしろ、「できないことのあは(憐)れさの自覚」をルサンチマンとして鬱積
させることになる。 "Nein, wir schaffen das nicht!"という応答の方に多くの人々が
勇気づけられるとすれば、それは、"Wir schaffen das!"という呼びかけ
に「自分は何もすることができないこと」を自覚させられたとしても、
そのような呼びかけを拒絶することだけは、「自分にもできる」ことに
気づかせられるからだ。 "Lust"とは、「できることをしようとすること」であり、
「できることをしようとすること」が永劫回帰として現れるのである。 イスラム教、キリスト教やユダヤ教などアブラハムの宗教に比べて、
仏教はiconやidolについて、余りネガティヴなイメージを持ってないことが、
仏教についてニーチェに特異な印象を与えたんだろう。 >>198
人はする事ではなく、するべき物しか理解できない。
>>201
することができないのは、本質を捉えられないからだ、
感じずに理解し意味づけようとした時に本質は失われる。
人が思うことは常に歪んでいて、心に写したそれは心という曲がった
鏡の虚像しか認知できない。
信じるに値することが、自分ではなく、何を言っているかわからない
相手を信じる術をしらないならば、妄想は幻想に変化し
まがい物の虚実を創造してしまう。
まがいものかどうか?それは結果として的中しているかどうか
知ることで判断できる。
自身が得たそれを真実かどうか問えないものは、捉える能力すらまがい物である。 統治の仕組みとしては、従属して諂ふ以外には生きる術がない状況に追い込んで
やればいいんですよ。そうすれば、そのように追い込まれた人が「できること」は、
自らの死を望むこと以外になくなる。そこで、さらに追い打ちをかけて、
「自ら命を絶つことは大きな罪である」、または「死にたいと思うことは、
病的な精神的な弱さの表れである」という一般的なコンセンサスを制度的に
形成してやれば、もはや逃げ場はなくなる。そこで、逃げ場を失った人々に
「救いの手」を差し伸べてやることにこそ、「病める畜群の予定された
救済者、牧者、弁護人」の本来的な役割がある。それでもその「救いの手」
を拒絶して、自らの命を絶つ人は、「もはや救いがたい異常な人間」で
あったことになるので、凡て物事がまるく収まるのです。
>「われわれの見るところでは、禁欲主義的僧侶なるものは病める畜群
の予定された救済者、牧者、弁護人にほかならないのだ。」<
ニーチェ全集11、信太正三訳、『善悪の彼岸・道徳の系譜』、pp.529-530 学歴の歴史
4 :学術 :2019/05/03(金) 20:14:22.70 0
中央ICUがいいんじゃないか。立教も若いし。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556877056/4 会社経営(マネジメント)もしたことがない、わからない無能、低脳
が逃げ場所として哲学に走るから日本の文系は終わったと言える。
ニーチェのあたりにはそういうのがたくさん群がってくるから笑えるわw
情けないおのが無思考を隠す為にニーチェを盾にすんなよwみっともないw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています