ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 20 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 19
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1454335694/l50
単著
『ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性』 木田元・財津理訳 朝日出版社:エピステーメー叢書、1980
『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論』 河出書房新社、2000
『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974
『ニーチェと哲学』 江川隆男訳、河出文庫、2008
『カントの批判哲学』 中島盛夫訳 法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1984
『カントの批判哲学』 国分功一郎訳 ちくま学芸文庫、2008
『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『ニーチェ』湯浅博雄訳 朝日出版社、1985/ちくま学芸文庫、1998
『ベルクソンの哲学』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 晶文社、1973
原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ 原田佳彦・丹生谷貴志訳 哲学書房 1986
『差異について』 平井啓之訳 青土社 1989、改訂1992.2000
『スピノザと表現の問題』工藤喜作ほか訳 法政大学出版局、1991
『意味の論理学』 岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987
『意味の論理学』 小泉義之訳、河出文庫上下、2007
『対話』 河出書房新社
『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳 平凡社 1994/平凡社ライブラリー 2002 ドゥルーズは古くはない。と思う。基本概念を書こうと思う。突然だけど。
「差異」とは、? 例えば桜の花が咲くのは、「何度に成ったら咲く」のではなく、温度差に反応している。
温度差それ自身が存在する。 つまり「関係自身」がある。つまり、桜と気候の関係の仕方が複数ある。無限にある。有限だと考えればおかしいという背理法的だが
背理法は「理屈か」「論理」を前提とするので背理法ではない。
これは「生成における同一性」の破壊である。関係は、傾向であり、ベクトルであり、無理数であり、微分方程式である。可能性ではなく、存在でもない。
それと・・。例えば、分かりやすくいうと、「彼らは似ている」・・とかいうとき、実のところ差異について言っている。つまり似ている、同じである
と言えるのは、二つ以上存在するからである。。似ているというとき二つ以上の何かが存在しているからである。
二つのものがある・・それらが完全に一つなら、一つで良いことになる。このリンゴらは似ている・・というときリンゴは二つ以上ある。
二つのリンゴが、完全に同一ならば、それは形、模様、位置も含めすべて「同一」でなければならない。そうすると二つのものは「一つ」になるしかない。 「似ている」「同じだ」ということは、「差異」について語っているのである。
これは「類似」の破壊である。
差異が条件である。二つのリンゴは似ている事象(表現そのもの、事態))、「二つのリンゴは似ているという言うこと」=表現するもの
異なる=(表現されるもの)、。スピノザの神についていえば、様態=表現そのもの(虫、動物、地球とか何でもよい)
、属性=表現されるもの(思惟と延長とか)、神=表現が指示するもの?と言って良いかな、人が語るときに他人が受け取るもの、絶対に自分では分からない。
これは、神は「効果」なのでは?ここらへん(表現のことあれこれ)は正直いうとよく分からないが、まあ許してくださると良い。
「
類比」は、比べるということは、またもや差異を前提としている。
これにより、類比というのが破壊される。 対立というものは、またもや「異なる」を前提としているので、その逆ではない。階級というものは、世代間対立というのは
異なっていることが前提である。それを勝手に「二つに分けている」だけである。なぜ二つなのかと問える。。 記憶の問題と関係がある。記憶は、すべては記憶され、その都度「全体」を反復する・
未来の記憶(言語)、身体の記憶は区別されるが、昔の記憶ほど反復されているため、
強度が昔の記憶がより強く覚えているが、それは「意識に上りやすい」ということではない。
意識(言語)と無意識(身体)の区別が、その境界が限りなく無くなるとき、未来への配慮と過去からの支配(抑圧)
が無くなる瞬間は、記憶がそもまま即自的に出てくるだろう。現前するだろう。その際に現前する記憶は、縮約から発散へなるだろう。
縮約とは、「現在」のことであるが、「現在」は決して現前しない。現在は「縮約」過程だから、死を確信したり、めまいを起こすとき、「縮約」は
行われない。ので過去が即自的に出現するだろう。記憶がどの順番で現前するか分からないが、
まず、炭次郎は、もっとも古い記憶、炭十郎の思い出(演舞=戦いの型であり、戦闘用の型の名残り」から思い出している。しかも「約束=思い出すべき記憶」から
思い出すのは不合理ではない。雪の土地、火の踊り、日の踊り(というとユング的だが)は、今まで思い出していない(相対的に)
なので、もっとも古い記憶から思い出している。思い出す順番に規則はないが、そこはまあ、記憶自信それ自体が、強度順に出てくるのかもしれない。
これに合理的理由はないが、・・。
そして、彼は即自的に「演舞そのもの」=記憶そのものとなり、舞うのである。行動とひとしくなる。父親を反復する。またネズ子はたっぷり寝ていたので「鬼」として
力はついている。しかし、ベクトルは炭次郎を助ける方にt向いているのであるが、母を思い出す、または彼女の中の母が彼女に呼びかけを行う。
こういうときの父、母は精神分析と何にも関係がない。そして彼女は血を爆発させ、炭次郎の刀に付着し、剣が復活し、その剣を振るう炭次郎は
彼女の爆破させている振動と同じタイミングで剣を飛ばす。もしくは剣自身がその血の爆発で剣自身が飛ぶ。
アニメは、現実の合理性(糸は巻くほど強くなる)だとか、アニメ中での合理性(鬼の生存、成長条件がなければならない。 そして、演舞は、円舞であり、耳飾りの蜘蛛の巣を表すような・・それは、ネズ子との同一性をも示しているのだろうか。
また、「相打ち」ではいけないのであり、それは伝承の規則に反するからであろうか。哲学とは関係なかったのであるが
記憶に関して少し気になってついでにいろいろ考えてみた。のであった。 ネズ子は、寝ているのにネズ子こということ、19話だけで解釈するかぎり、
ネズ子、ねずこか?の力の発動条件の一つは逆様で、また「お父さん」も
なぜ「そうなのか」知らされていない。炭次郎も。
まあ、漫画とかよく知っている人は別のことを言ってるみたいで、多分それはそれはそうなのだろうけど。
2〜3個の話を見ただけでも「いろいろ解釈は出来得るのである。つまり、このアニメ?漫画は多元的解釈の余地が
あることにより、魅力がある。ニーチェは言っていた。私の権力の由来は「謎」である・・ということに由来するのだと。 26話において、カマドタンジロウは、コインを投げるとき、まあサイコロでも良いけども、「肯定」の
仕方を知らない。差異と反復の運動を「表が出るまで何度でも投げようと思っていたから」と言うとき典型的な、古典的ギャンブラーになっている。
またもや、キルケゴールやパスカルの間違いを繰り返している。コイン投げを、サイコロ振りは、それらを
法則に従属させてしまっている。 コイン投げは深刻なものでもなく、どの面が出ても良いのである。ギャンブル自体を楽しむことが大事なんだが。
うむ。ちとドゥルーズから逸脱したけれど、。 鬼滅の刃26話の、敵のラスボスらしい人(鬼舞辻無惨=キブツジムザン)が部下を理不尽に殺すシーンがある。ある種の問答法でもある。
パワハラだと言われている。パワハラと言えばそうであるが、「殺す理由を探している」のではなく、反対である。
、因果関係が逆なだけである。まず殺したい部下(下弦のものという一集団)を殺すのであるが。
論理上は「もう死んでいる」(論理上は)。その結果の「理由」を言いたいのである。死んだ理由をつくることに喜びを感じているのである。
どう答えても死ぬので、理由を言いたいために、死なすのである。目的は理屈をいうことである。
実際には(死が決まっている相手=部下)に何かを言わせてそれの応答で論理を組み立てる過程
を楽しんでいるのである。なぜなら、いきなり(ボス)から、死ぬ理由を言えば、ただの荒唐無稽で
(ダサい)だからである。「何々だから・・お前は死ね」とか言うのはただの美しくない(かっこよくない)理屈になるので、死なす理由を作りたいのである。
そしてそういう屁理屈自体を製造することが楽しいのである。禅宗やストア派のように表現
できうる最大、最高の論理をつくるのと似ている。。つまり、「何かのために」何かを言うのではなく、言うために「死なしている」。
今=現在=この瞬間が「もう結果」であり、「即役に立っている」のである。理屈と喜びの同?性の実践である。黙っていれば防げるように思われるが、それは「黙って良いとは言っていない」
という論理で殺される可能性がある。防ぐ方法はないが、普通に悪口をいうのが良い。
程度の低いほど良い。「お前アホか」もいい。反論もダサくなる可能性が高い。殺されるないようにする・・などを考えるのはダメだ。それは決定されているので、ダサい理屈を?わせることが重要である。
(ボス)=鬼舞辻は「かっこよい」セリフを言う事が目的なのだから。殺されるのだから(それを部下は分かっているが工夫に苦労する)。 >959 訂正
「理屈と喜びの同一性」、「それは決定されているので、ダサい理屈を言わせること」 です。 昔から漫画に哲学を求める連中は一定数いるね。
手塚治虫、白土三平、つげ義春なんかをそうした連中が祀り上げてた。 それで言うならアズマン上げないと。
ああいうのはお金になるんだろう。 >https://www.youtube.com/watch?v=WW7a4-DRM00
で、厭夢の鬼舞辻無惨のやりとりを勘違いしている。
アニメ版、鬼滅の刃、26話でキブツジと下弦の鬼らとの問答がある。
で、厭夢が、鬼滅の刃でキブツジムザンの死の宣告による、逃れる方法として、あらん限りの理屈を言うのは
「彼がサイコパス」と何のは関係がない。ムザンによる否定による死を回避する方法で最大限、つまり「ムザンがオレを殺すことは返ってエンムの喜び」になる。喜びを感じるのではなく
「喜びを感じる」という理屈を言っているのである。そうすればムザンがエンムを殺すことは、「エンムの勝ち」になるからである。
ということである。これによってムザンは、論理的にはエンムを「おしゃれな理屈で」殺せなくなった。殺せば、エンムの勝ちになるからである。
一応、言っておく。まあ暇つぶしに・・。 皆、トランプ氏らの行動を「民主主義」の崩壊だのなんだの言っている。
事実は、アメリカの「元々」の人物、農民、工業社、デジタルを扱うのが苦手な、庶民層の怒りなのである。
民主党(ロイター、時事通信、ツウィッター、フェイスブック宣伝媒体の占有)・・つまりユダヤ人(その下のプロテスタント)にアメリカの「野生」が怒っているのである。
民主主義が「崩壊」しているのを、その偽善に気づいたからである。ニーチェはプロテスタントより、カトリックを擁護せよと言ったが、これは賢くずるがしいものより
大地に根ざすものを擁護せよ・・という意味である。もはや、情報、デジタル、を占有するユダヤ人どもは、「民主主義」の名のもとに、
「女性」「マイノリティ」を擁護しているふうに見せて、実は利用している。公平ですよ・・と。
メディアは「アメリカの民主主義」の崩壊だというが、経済のためにヨーロッパ諸国が中国の「ウイグル、香港、台湾、一部モンゴル」の人権侵害に妥協していることについて
何にも言わない。
金を貸してもうける・・・。働かないで儲ける。これはコロナ禍の日本でもよくみるこうぞうである。つまり「家賃収入」で儲ける・・ことだ。
働いているものが損をして、ただ「貸している」ものが儲ける・・。ユダヤ式なのだ。で、トランプ主義者のように「バイオレンス」はいけない・・という。
おかしな世界だ。 pcr検査が無意味だという医者がいる。バカだ。。偽陰性、擬陽性が出るだとか・・・。
もし調べたとしたら、「このような結果にになる」だとか、「調べない想定」でものを考えている。もし・・なら・・だと。
pcr検査は、傾向を探るためにするんであって、正確性の傾向をさぐるんであって、つまり偽陰性、偽陽性の傾向を探ることも含んでいるのである。
アホな医者は、事実(検査)より先に原理(理論)を持ってきて判断している。それが数学的モデルだろうと。モデルは未知のものに適応するべきものだが
検査によって、モデルのタイプを知らない限り、モデルがいかなるタイプを知ることができない。
つまり、検査を行ってから分析すれば良いだけの話で合って、検査する前に検査しない理由を作る宇野に必死なのである。
検査は疫学も兼ねているのであって、そこら辺は彼らは分かっていない。「傾向を見つけるのが」肝要であって、偽陽性、偽陰性も検査なしに、前もって
予想できないからである。彼らは、「・・・であると仮定して」「というが、未知のものに「既知」の基準で測っているのである。
モデルというのはいつも変更される余地があり、それは経験論の「元手を増やし、豊かにする資源」なのである。そして社会的事実(人々が実際に恐れている
検査が必要である・・それが誤解にせよ正解にせよ、そう思っているなら)、そういう観点、そういう事実を見る必要がある。それを考慮しないで、机上の空論ばかりで、
はっきりえいば、狭い観点でものごとを見ている「専門家」どもは・・まあそれが「専門家」たる弱点である。ならば、専門家が「検査すべき否か」は疫学者の領分であり、
疫学者は統計学者でもあるからである。医師は全体を見る専門家でもないし、その能力もないので口出しすべきでもない。これの前提はどうもこの国には「感染症専門家」がいないからである。
また原則、医者は患者を診るものであって、感染症はお断りなどと言う医者は、それは医者ではないのであって、看板に「感染症は見ません」とでも
書いておけばいい。安全が保障されている医者などは形容矛盾である。 千葉雅也『ツイッター哲学』発売 (@masayachiba)
2021/01/11 13:26
宇波彰さんが亡くなったそうだ。
『意味の論理学』の訳は当時まだ研究が進んでいない中で誤訳が多いが、
それでも独特の柔らかな文体が魅力的な訳書だった。今では研究用には使えないが、
あの文体からは影響を受けたと思う。
https://twitter.com/masayachiba/status/1348486370507988994?s=21
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >推論規則として矛盾律があると、AにありえないことがくればBにどんな結論をおいて
もよくなります(「ヴィッセル神戸がJ1で優勝するなら太陽が西から昇る」とか)<
これは、言葉の表現の論理の理解としては失格ですね。
「Bにどんな結論をおいてもよい」のなら、
「ヴィッセル神戸がJ1で優勝するなら太陽が東から昇る」
でもよいはずだが、言葉の表現の論理では、
「ヴィッセル神戸がJ1で優勝する」ことをあり得ないこととしているのだから、
Bの結論も「同様にあり得ないこと」を表現しなければ、論理として成立しない。 こういう基本中の基本をしっかりと踏まえていないと、言葉の論理を扱って
いるはずなのに、言葉の論理とは無関係の別の規則の正しさに拘泥する
ことで、なにか有意義な主張をしているように錯覚することになる。 例えば、「嘘つき」についての議論は、「嘘をつく」ことが言語的な表現行為
として捉えられている以上、言葉の表現の論理に基づいて論じられなければ
ならない。それを、言葉の表現の論理とは別の論理にすり替えて論じるから
大きな混乱が生じる。 結局、「論理国語」と呼ばれるものが推進しようとしてる「論理」の
いかがわしさもそこにある。 言葉というのは常に現実に引き戻されなければならない。
言葉は現実ではないからだ。 例えば出口汪は論理学の教材として小学一年生に以下の問題を用意する。
(もんだい)つぎの えは 「にくを くわえた 犬」の はなしを
えに したものです。はなしの じゅんばんに ならべて
「あ」「い」「う」「え」の きごうを あとの ( )に
かきましょう。
http://2.bp.blogspot.com/-Ejfb7oX6BWU/VHxR-aqxEsI/AAAAAAAAn1U/9SaTZJqnj4E/s1600/ronri3.jpg
出口汪(でぐち ひろし)「論理エンジン 一年生」(水王舎2007)より
こたえ( い→ え→ う→ あ) 不完全性定理は素数を使うから数学の素養は必要だが、
以下の3つの作業の順番を守らないと意味がないから上の小学生用の問題と同じだ。
1定理の目印に素数を使う、2対角線論法で数え尽くす、3背理法で証明する
参考:
《ここで用いられた論法が一種の対角線論法であることに十分注意を払ってもらいたい。一変数の命題
をすべて一列に並べ、f1(y) ,f2(y) ,・・・とし f1(1) , f1(2) ,・・・f n(n),・・・を考察するというの
はまさしく対角線論法そのものである。カントールによって集合の階層構造を引き出すために考案され
た一線論法は,集合論内のパラドックスと絡まりあいながら、ゲーデルによる決定不能命題の発見とい
う20世紀数最高の結果の一つを生み出すにいたったのである。》
(『はじめての現代数学』瀬山士郎著、講談社現代新書p161-163より。早川文庫より復刊)
瀬山は対角線論法の後に不完全性定理のもうひとつの肝であるゲーデル数(ゲーデルによる素因数分
解を使ったコード化)について説明している。
(瀬山も触れいてないのだが)このゲーデル数のアイデアがライプニッツの結合法論そのものだ。
これはあまり言及されないが、もっと知られていい。
「われわれはその事物によって他の事物を表示するために素数を使用するのである。」
(『普遍的記号法の原理』「計算の原理」1679、邦訳ライプニッツ著作集1、64−5頁より)
ドゥルーズ『哲学とは何か』で念頭に置かれているのは多分このゲーデル数だ。
https://twitter.com/lspandc/status/1339515347733377024?s=21
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>975
数学の論理は数学の中では有効だが、現実の世界では無意味だ。 不完全性定理が意味しているのは無限を論理的に扱うのは難しいって話だ。
有限集合について話す場合には完全だ。
ただし、世の中の議論は普通はほぼ無限に関する話だ。 言っていた コロナ禍の。・・つまり非常事態宣言・・に従って家にこもる人がストレスを抱え
通勤などで外に出ている人が「インタビューされ」、その人らは通勤し生活習慣を変えていないである傾向である、そういう人が宣言を継続すべきだと言う。そういう傾向がある。
そのことを鑑み、太郎氏は、「正直者が損している・・云々」という。宮根という凡人はもちろんわからない。
つまり生活習慣を変えられた(ストレスを負わされ、頑張っている人)は、非常事態(ステイホーム)を実行している。(インタビューされていない)
そして生活習慣が変えない通勤の人・・は非常事態を延ばせ・・と言いながら、自分らは通勤している(インタビューされている)。。悪意はない。
これは、ある一面を捕らえている。そして、マスコミの人は、いつもの仕事をしながら、通勤している。そして「ストレスを負わされた人」によって視聴率を上げてもらっている可能性がある。
何が「ストレス」かは、生活習慣を変えられた人、である。金銭の変動を受けた人である。全員そうか・・とは言えないが、籠ることが慣れてる人には良いだろう。でもいつも焼き鳥を売っている人はそうではない。
こういうこと、その他・・いろいろ分かっていない人がMC(宮根とかいう、いかにも胡散臭い人=金儲けしか頭にない)をしているのは残念だ。マスコミは生活習慣を変えないし、警察官よろしく弱いものにしか取材にいかない。
日本財団(笹川良一系統)が作ってある病床があるのに・・病床がないなどと嘘を言う(予約済みなのか)し、入院させないのは「法律違反」なのにそれを言わない。法律違反が常駐することは
「まあ、いいじゃないか」ということっもあるが、だが実は「本体」が「法律」と共立していない印であって、重大なことなのである。(訴えれば勝つぞ)
。。木村氏はマスコミは副作用(なぜか副反応と今は言うらしい)を多く言いすぎる・・と言っていた。それは正しい。マスコミは誘導は「テレワーク」「デジタル化」「投資が増えてる」などと、言いすぎる・・。マスコミが無能というのはたやすい。世の中不平等だというのもそうだが。
トランプ派の人々のヴァイオレンスのようなことが日本に起きないというのは不思議である。 論理の話の途中で、木村太郎の話をしてしまった。だがそれは是非とも言っておかなければならないこだった。
論理・・。 例えば、欅坂(現在:櫻坂46)の土生瑞穂さんの発言がというかぶっ飛んでいる・・という事態がある。それを分析する。
それは、彼女の発言がいつも媒概念の表現を欠いているか、すでに表現されているので、瞬間的には「分かりにくい」ということである。
それは、例えば「欅って書けない」という番組の エピソード、172らへん、土生の生態を探ろう!みたいな回。
土生さんへの問い・・、「紅白歌合戦とかけまして、□□と解きます、その心は□□です」
その問いに対して、土生さんは答えた。「紅白歌合戦とかけまして、紅白と解きます、その心は・・・「どちらかにしぼってくださいです」であった。
これは、媒概念自身(紅白)が表に出ているので、粋(いき)ではないけれど、別に「間違い」ではない。そもそも正解、間違いの尺度で測れない。
ただ、二つの目の命題に共通項があるのでなければ、「間違い」とと言われても仕方ない。で、土生さんのは間違いではない。
ううむ。[ミニスカートとかけて、結婚式のスピーチと解く。その心は、短いほど喜ばれる]、というのがある。byウィキペディア。。
というような、なぞかけで、両者に共通なことをいう遊びで、まあ共通項をいえば良い。
一種のユーモア、イロニーを含むとなお良い・・らしい。音も一緒だとなお良い。
それでお前は何を言いたいんだと言われるが、まず土生さんの数々のぶっ飛び発言は、実はぶっ飛んでない、か独自の媒介項がある。
他の発言からも読み取れる。ただ、。発言が理解されrたり、なぞかけの基本は三段論法である。
基本は三段論法は、柴犬は犬でである。犬は動物である。よって柴犬は動物である。というたぐいの論理で、
一つの概念が、二つ以上(この場合動物が犬と柴犬)の存在を内包している。媒概念を欠いて発言する場合「ぶっ飛んでいる」と
言われる。・・それは、単なる観念の(内包)の違いである。観念と観念の関係は、「水素と酸素」は水だが、・・それらに共通しているのは
「方法」である。「組み合わせ」である。しかし、「差異と反復」の内包と外延のところは、分かりにくいと思うのはオレだ・・けだろうか。訳者の人も困っていたようだが・・。 >>980 訂正
観念、酸素、水素。観念の観念は方法、すなわち「水」は観念であるが「方法」の概念にもなっている。
「火」は「何かから出た物質と「そこに居た酸素」の結合過程である。あるいは酸素自体の崩壊過程」でもある。
酸素自体が酸化してゆくのである。(酸素としての能力を失う過程)。 後年の作品のほうが掘り下げが深い。単純なテーゼ。ピークとかのほうが哲学的。 ドゥールーズってデリダのあとに研究したほうがいいですか? >>985
2人とも研究の対象にはならないだろ。
読んでなにを感じるか、それだけが重要。
学問的な蓄積を求める対象じゃない。 俺がいまここで「ドゥルーズの哲学」を書き込むことで、明日おれが風呂に入りながら考える「ドゥルーズの哲学」は昨日おれが寝る前に。 世界的に見ると高卒の哲学者のほうが多いんですけどね 頭が悪いから、能力がないから大学に行く人がほとんどだと思うけどね。
頭が良かったり能力のある人は、大学に行く必要がないから。
将棋の米長元名人が「兄は頭が悪いから東大に行ったが、俺は頭が良いから将棋指しになった」と公言していたのは有名。 「 角を持ってなかったら、角をうばう・・。・・」。角を持っていない人「は角を持っていない空間」を持っている・つまり空虚、「否定の空間」が存在する。
「棒を持っていなかったら、もう一個棒を与える。」それは角を持っていたら「もう一個角を持つ空間」がある。空虚に位置を与えている。これも「否定」に空虚の位置を与えている。
「弓道」において、目的は矢を真ん中に射ることだが、真ん中を狙うことが「姿勢の美」の手段になっており、目的が的の真ん中に射ることであるが、
同時に的に当てれば良いということではない。スポーツではない。
でも真ん中に射ることが目的でもある。「美が目的」だとも言えない。・・・・これはどういう風に考えればいいのだろう。「目的」の無さとそれの存在が同時だということだろうか?
弓を構えた瞬間、「境界」が出現し、目的や手段の区別がなくなる・・。のかな。 >>996
サルトルの存在と無はそれに対する答えになってるね。 ドーナツの穴は存在か否か、みたいな話だな。言葉の問題なんだよな。
言葉が先にある。言葉によって何か実体らしきものが措定される。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1439日 2時間 39分 46秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。