論理学・集合論 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>99
つまり、「数学的帰納法が成り立つ集まりと1対1に対応する集合」であることは
有限集合の定義ではなかったわけだ あのさあ、一々俺から言質とらないと自分の理解度も分からないの?
>>20には「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素と1対1対応する集合」と書いてある
おまえが「数学的帰納法の成り立つ集まと1対1対応する集合」だと思い込んで迷走してたんだろ >>32はなかなか味わいのある定義だと思うぞ
なぜなら、無限集合とは、「有限集合ではない集合」であるために
その要素には『最大値となる要素が無い』ということになるわけだからな 馬鹿者w
やっぱり>>32も理解してないじゃないかw
>>32の内容も、>>32が有限集合の定義として採用できる理由も、全く >>102
ああつまりおまえは、「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素」を
「いくつかの有限な自然数」に読み替えたいわけだ
しかし「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素」が有限であることは
どうやって示すつもりなんだ? 自然数を素朴に信用したら駄目なんだよ
少なくとも有限集合を定義する際にはな、気を抜くと循環定義に陥るから >>106
だから、「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素」は、すなわち有限なのか?
どうなんだ >>105
「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素」を使って、そこから有限集合を定義するんだぞ?
そんな基本的な状況すら理解せずここまで来たのか?
松坂和夫には書いてなかったと思うけど、ωと表される集合な(ω無矛盾性のωの由来) >>108
だから、「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素」はすなわち有限集合ってことでいいのか?
それがお前の見解だな ということは、だ
無限集合とは、「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素1対1に対応する集合」ではないってことだな
そういうことなんだな なんだ今度は俺に妙な因縁つけるつもりか?
あるいは自身の思考力を試すとかいうやつかね
哲学が目的なら松坂和夫を真面目に読んでも意味ないぞ
おまえが疑問を持つであろう点に関しては言及すらしてないからなw そうした場合にだ、無限集合、たとえば自然数全体の集合を
どうやって考えるつもりなんだ?
数学的帰納法が成り立たない、とするのか
それとも1対1が成り立たないのか?
なあ
集合論、ぶっこわれるな
俺はいいけど、おまえはどうなんだ、そこんとこ 松坂も持ってるが、赤とか松村とか上江洲とかあるな
読んで分かるなら苦労はしない
これは前にも言ったな これまでは何をどう勘違いしているか何となく推察できてたんだが、いよいよ何が言いたのか分からなくなってきた
俺はいいけど、おまえはどうにかしろよ
思考力を試す前にまずは鍛えろよ なんだもう吠え面かくしかないのか
はやく>>110に答えてみそ
仕返しするなら、もっと準備しとけよ
頭の悪さを知識量でごまかそうなんて、せこいのだよ君は この兄ちゃんには馬鹿にされたが、>>103は割りといい話だと思うぜ
無限の怖さというか、人間の悪意というか >>110は>>20の文面を借りたものだから別解釈の余地があると既に指摘されているよな
まずはお前自身の言葉で>>110を別解釈の余地のないよう表してみな
おまえが自分でも理解してないことを書く人間だということは何度も見てるんだよ >>116
全然駄目
もしかしておまえ、最近、微分積分の教科書も読んだんじゃないか?
そいつを無限集合の定義と無理やり絡めてるように見える 俺が理解できているか、できてないか
それは俺には分からんな
ここで分かるのは、おまえが俺より頭が悪いってことだけ
数学は理屈だからな
理屈による力技 微分積分なんざ、もう忘れたわ
なんて言いたいところだが
俺はエネルギー管理士だからな
おまえより計算は得意かもしれんわ >>117
だから>>32でいいのだよ
有限集合で重要なのは、「上限nが存在する」ってことだろ
そのnをさらに詰めたいと思うなら、それはペアノの公理なり使えば良いわけでな あのな、俺は意地悪で>>110を書き直せと言ってるわけじゃないんだよ
おまえ自身も理解しているかどうか極めて疑わしい、別解釈の余地のある文章
こいつに俺が同意したとして、おまえがどんな意味不明な因縁ふっかけるかわかったもんじゃない
あるいは思考力を試したいだけなら格好の問題だ >>121
>>104に書いただろ
おまえは>>32の文面通りの内容すら理解し損ねている >>116
デデキントの切断に少し似てるよな
実は俺もその類似性を発見してな
少しばかり世界が見えた気がしたわ
いやこれも人間のあれだな、あれ >>122
だったらもう少し時間をやるから>>20をさらに修正したらどうだ
それでは話にならんだろ
よく>>112を読み返してな >>125
言い方は悪いが、これはおまえへの課題だ
俺も答えを教えてやるわけにはいかんぞ
先日も今日もこの無理解から話がこじれ始めているが、いくら説明しても通じないなら後は本人の努力に任せるしかない おまえは理屈を通すことができない
数学で理屈を通せないなら、負けなんだよ もし有限集合の定義が
「数学的帰納法の成り立つ集まりの要素1対1に対応する集合」>>20
であるとするなら、無限集合の性格はどうなるのか
無限集合とは、「有限集合ではない集合」のことであるから
その場合に、無限集合の要素には数学的帰納法が成り立たないのか
それとも、無限集合から無限集合には1対1対応が成立しないのか
どうなんだろうなー 昔から2が素数であることに違和感があった
なぜなら無限にある素数のうち、2以外は全て奇数だから
しかし2が素数だからそれ以外の素数は奇数なのだ >>20は有限集合ではなく、可算集合の定義だな
頭が悪いというのは悲劇だな、罪ではないが ピンポン玉をある高さから床に落とすと
反発係数に応じて“必ず”跳ね返るわけだが
そうすると、ピンポン玉は永久に跳ね返り続ける
いやいや 完全なランダム
キーボードを”全く無意味に”叩き続けると
無限に叩くならば、トルストイの戦争と平和と同じ内容が
どこかで“必ず”出現する
これはつまり「無限であること」に、そこまでの力を与えますよ、と
そういうことだ なぜ“逆”数学的帰納法は成り立たないのか
それは自然数全体には『最後の数』が無いから にも関わらず人間は、数学的帰納法は成り立つと考えている
これはつまり、可能的な無限が実無限を覆うと
そう信じているのか
それとも気づかぬふりをしているのか 0から1の間にある点の数は、自然数全体の要素の個数より多い
その流れで言うならば
ゼノンのパラドクスとは頭の悪い混乱にすぎない
つまりそれは、『無限の過程を経るためには無限の時間を要するはずだ』という
怠惰な思い込みによる
なぜなら、有限の時間内に無限の過程を経ることに、
論理的な不都合など無いはずだからである 三平方の定理を満たす直角三角形の辺の長さa、b、c
このa、b、cが『互いに素な整数』であるような組み合わせの個数は
無限でしょうか、有限でしょうか
そんな問題があったとして、もしこれを人工知能に考えさせるとするなら
どういう回答を出してくるのだろう 命題P「AならばB」に於いて、前提Aが偽ならばBの内容に関係なくPは真である
この論理の気持ち悪さは、どこに起因するのだろう 『もしリーマン予想が正しければ、Xは正しい』とされる定理予備軍Xが
世の中に大量に作られている、らしい
もしリーマン予想が偽であったとき、Xの扱いはどうなるのか
これも気持ち悪い話 数学的帰納法を正しく使うことの正しさは、何がそれを保証するだろう
それを適用する対象がエッシャーの絵ではないことを、どうやって確かめるのか >>137
その気持ちの悪さから「様相論理」(のもととなったもの)が生まれている。 私は小学校4年のあるとき、自分が1/3+1/4が分からないと気づいて
パニックになり、母親に訊いたらなぜか逆ギレされ、夜になって父に
教えてもらうことになるのだが、その時にはちんぷんかんぷん
結局これは5年の授業で習うことになる
最近は、分数ができない大学生もいるらしい
みんなしっかり頑張ろう 主要5教科のうち、何が一番重要だろうか
私は、それは当然に国語だろうと思っていた
だが最近、予備校教師の林先生が「ダントツで数学が重要です」と言っていたのを
偶然に見、佐藤優氏も同様のことを書いていたので
おお、そういうもんなのかと ある致命的な病気の遺伝子Y
この遺伝子を持っている割合は1万人に1人
Aさんが検査を受けたところ陽性となってしまった
検査の精度は99%
Aさんが本当にこの遺伝子Yを持っている確率はどのくらいか マジックワード 『すべての』
多くの論理学の参考書には次のような話が載っている
命題A:「どんな大きな数も30字以内(の日本語)で表せる」
リシャールによれば、この命題は正しい
なぜなら、もし30字以内で表しえない数があれば、その最小のものは
「30字以内の日本語で表せない最小の数」という30字以内の日本語で
表せてしまうので、背理法に従い命題Aは正しい
ばかばかしいですか
しかしそうはいえない
なぜなら、いまや我々は「全ての自然数(=自然数全体)」という有限の表現によって
無限の要素を含む集合を規定してしまったわけだから
任意の数を30字以内で表現することと、「自然数全体」という表現を受け入れること
何が違うと言えるだろうか 納得できること、できないこと
モンティーホール問題を納得できない人に対し、教科書的な確率論の計算を
示したところで、やはり納得させることはできない
1)確率は3分の1のまま変わらない
2)確率は2分の1に上がる
3)確率は3分の2に上がる
正直ものの常識人は1)を支持する人がが多いかもしれない
まっとうな数学者の多くが2)こそ正しいとした
論理の奥に分け入って3)と回答できる人間はあまりいない
3)が事実として正しいことは、コンピュータのシミュレーションによって
実証されている
だが論理を擁護するためにはその結果だけでは不十分であり
『上手に説明できる』ことを示す必要がある
ウィキにいろいろ書いているが、文字通り、いろいろと並べてあるだけだ
私は自分自身に説明するための理屈を思いつくまで、まるまる一日かかった
説明が上手であることは単なるテクニックの問題なのか、
それとも世界の真理とつながる何事かなのか
いやそもそも上手な説明などなく、単なる自己満足の勘違いなのか 豆
C♯とD♭はピアノの鍵盤上では同じ鍵だが
本当は違う音
同じだけど違う
世界にはそのようなことが多い
論理はそこに寄り添わねばならない ピアノの音は狂っている。
ピアノという楽器の狂気。
この狂気こそが宇宙をつくっている。 豆2
C♯とD♭の違いは、バイオリンなら実現できる
これは厳密な和音の成立と関係している
だから弦楽四重奏曲ではその違いを意識して演奏している(と思いたい)
音楽は深い、そして怖い 確率の一様性
理想的なサイコロを振ったとして、一の目が出る確率は、
6分の1、、、なわけです
6回サイコロを振ったとして、一度も一の目が出ない確率は、
確率論的な計算によれば、ぼほ3分の1です
その場合に、六回目に1の目が出る確率は3分の2なのか、と言えば
そうではなくて6分の1
もし100回振って、一度も一の目が出ないとしても、101回目に
一の目が出る確率は6分の1
確率論はそのように主張するわけです
それは恐らく事実としても正しい
理屈ではそうだと知っていたとしても、もし100回も一の目が出ないとしたら
我々は否応なく次のように感じるでしょう
1)次こそは一の目が出る(一の目が出る確率は上がっている)
あるいは
2)ここまで出ないのには、何か『理由』がある
この「感覚」は全く的外れの錯覚に過ぎない、のでしょうか
そう決め込んでしまうのは少々もったいない 大雨特別警報
これは「数十年に一度あるかないかの大雨」が予想されるときに出される警報、
のようです
つまり「めったにないこと」なわけです
「めったにない」という言葉そのものは、めったにないことが『起こった理由』については
その理由が「ある」ことを否定しません(どちらかと言えば肯定している)
しかしそれ以上は踏み込まない
(記号列によって個人個人に個々に成立するデリケートな中身は窺い知れず、神頼みですが)
一方で、「数十年に一度の大雨」という事態が実際に起こった場合には、その事態は必然であり
確率論を説くことにあまり意味はありません(感傷的な意味はある)
なぜならそれは「起こるべくして起こった」事態であり、直接的な起こった理由があるからです
しかしそれは、その雨がそのような雨であった理由ではありますが、
それが『めったにない』雨である理由ではありません(・・・分かりにくいか)
では「めったにない」こと、それ自体の意味とは、いったい何なのでしょうか 量子力学は確率の力学です
しかし確率論ではありません
確率論は、「簡単で納得しやすい基本的な確率」を最初に決めてから論を展開する
虚構上の公理系のようなものです
一方で量子力学は、基本的な「変動する確率」の振る舞いを決定論的に計算する、という
なんとも妙竹林なしろものです
そもそも虚構でしかなかった確率が、それ自体の振る舞いを与えられ、
実体化しているわけです
そうして、むき出しの確率が成立します
空間も重力も、そもそも幽霊のようなものだったわけですが
似たような経緯で実体の地位を得たわけです
確率は未だ、その地位を得るまでには至っていないようです
『確率は一般化にほかならない』(ウィトゲンシュタイン) サイコロを振ったら、必ず一の目でも二の目でも出るけれど、
量子力学の確率では、目が出ないのが常態で、目を出そうとすれば、
観測なりなんなり特別なことをしなければならないんでしょう。 めったにないことはめったに起こらないからめったにないことなのである
この台詞に意味があるのかないのか、また余裕があるときにでも
俺は意味があると思っているわけだが 観測とは特別なことなのだろうかな
そうは思わない
なぜなら、人間がいようがいまいが現象するものは現象している
私はそういう立場だから
読んでもらってありがとう 量子力学は確率的な決定論といわれる。
一方でニュートン力学ではビリヤードの玉のような決定論。
どうして、どこから、ミクロの「確率的な」から、
マクロの「確率的でないようには見える」決定論に移行するのか? こんな簡単な話ではないが
確率はそのものは測定不可能だが、世界が確率的に振る舞うならば、
その莫大な集まりの測定可能な振る舞いは決定論的になる
たとえば、表が黒、裏が白のオセロの駒を100万個ランダムに並べた盤を2組作るとして
それを遠方から眺めたら、どちらの色も同じ濃さに見えるだろう
雑だな
そのうち、もう少し気の利いた話をしよう 一つ言い忘れたが
量子力学は、たしかにモデルとしてはミクロを扱うのだが
その基本的なところで『観測可能な事態』を要素に組み込んである
この観測可能な事態は必ずマクロだから、量子力学は“現象としてはマクロを扱っている” 論理は言葉なのか
“人間は言葉で考える”
これはあちこちで言われる定説のようなものですが
子供の頃は、これに対して非常な抵抗がありました
同じように感じる人もおられるかもしれない
思考というのは言葉に限定されるようなものじゃなく、もっと広いものだ
言葉にできない“思い”はいっぱいある
と、そんな感覚というか確信があったわけです
ところがそこそこ歳をとって、浅知恵がついてまいりますと
言葉で表現できないようなものはそもそも思考ではない
それは単に上手く説明できない自分に対しての悶々とした気分にすぎないのだ
などと思うようになりました、いい加減なものです
しかし子供の頃に感じたあの確信は、果たしてそのままゴミ箱に捨ててよいものなのか
たとえば、計算はそれ自体、言葉なのか
それがもし言葉でないとするなら計算は思考ではないことになるが、そうなのか ゲーデル数という奇妙奇天烈
記号論理に於ける個別的命題を、一つの数で表そうというのがゲーデル数のようだが
しかしゲーデル数で表現できるのは論理命題に限らない
原理的にはほぼ任意に言葉を表現できる
たとえば、言語を構成する記号の種類は有限だから
個々の記号に対して異なる自然数を割り振る
あ→1、い→3、・・・、こ・・・→19、・・・、た→31、・・、ま→61、ん→93 としても良い
その対応のやり方は任意である
単語は言葉の単位だから、各単語ごとに素数に上の数(31,61,19)を累乗したものの積を作る
上の対応に従って「卵(たまこ)」を表現すれば、2^31・3^61・5^19
百均の計算機では計算できないような数だが、「素数の上の累乗」であることの約束があるので
その数を素因数分解をすると、もとの単語が復元できる
言葉は単語の列だから、各単語毎に同様の操作を行い、単語の切れ目には
別のゲーデル数を与え、全ての積を作れば、一つの文(命題)を一つの数で表現できることになる
『数が意味を担う』わけである 波平はこうやって自演キャラを複数駆使して
何か新しいことやってるつもりなんだろうけど、
客観的に見ると哲学板で数学の板違いで荒らしてるだけなんだよね。 おまえがそれで良ければ波平と呼ばれても支障はない
しかし私はAKBに全く興味が無いし
安倍は全く評価してないし
反原発だ
それから前にも言ったが
数学基礎論は数学というより神話だ
だが注意しなければならないのは
神話だからなんでもあり、ではないってことだな
神話を区別せよ
形而上学を区別せよ
分かるとは分けることだから
最後は桂枝雀の受け売りだ 可能性と存在性
不完全性定理について、一般向けの解説書をいくつか見ましたが
その中で数論に触れるようなものは、あまりないようです
論理の直観的なパラドクスに訴えるものが多いかと思います
つまり、ゲーデル数は不完全性定理を理解するための絶対条件ではないわけです
いったい、ゲーデルはゲーデル数などという妙竹林なものを作り出して
何がやりたかったのでしょう
今なんとなく思うのは、「証明可能性」を「自然数の存在性」に書き換えることによって
形式を超える「わけわからん」ものを、形式の内部に取り込もうとしたのだろうか
というようなことです 真理と証明
フェルマーの最終定理は、わりと最近まで証明がなされていませんでした
ワイルズが証明するまでフェルマーの定理は真理ではなかったのか
「そう、真理ではなかった」とほざく“哲学者”も、世の中にはまあ多分いるわけですが
フェルマーの予想が偽であった時代など、太古から一瞬として存在しません
そもそも、証明したという事実が、れ以後はもちろん、それ以前にまで遡及して
真理を支える効力を持つものでなければ、証明の普遍性はゆらぎ
証明することの意義などなくなってしまうでしょう
そうすると、数論に於いても、まだその内容が予想されてもいない『真理』が存在しても良いし
まず間違いなく存在するわけです
しかし証明とは何でしょう たとえば、ある公理系に於いて命題Aを述べることが可能であるとして
『命題Aは証明できない』ことは証明できるでしょうか
もしそれが証明できたとするなら、その公理系では証明できない命題が存在する
そういうことになります
またそれが証明できないときには
「命題Aが証明できないことは証明できない」ことが証明できるか、という問題を考えます
それが証明できたなら、やはりその公理系では証明できない命題が存在するわけです
これを続けると、どこまでも証明できない命題を作ることができます
しかしそもそも、命題Aが証明できたらどうなるのか
その場合には、「命題Aは証明できない」ことは偽である、ということになって
「命題Aが証明できない」ことは証明できないわけです
証明を規則的に構成しようとすると、おかしなことになります 命題A:『命題Aは証明できない』
>>166の最後は掟破りです
真であるものは、それを偽であると証明することはできない
もしそれができてしまうなら、それは矛盾した体系
一方で、ゲーデルの不完全性定理の内容とは
「この命題は証明できない」を公理系に於いて形式的に表現できるが
この命題は真偽不定となり証明できない
そういう話のようです
分かるような分からんような
いったいどこに>>166との違いがあるのか
破壊的自己言及?
まあそうなんだが、しかし世の中そういう表現は多いですよね
そしてちゃんと機能している
よく分からんね ウィトゲンシュタインの論理哲学論考は、正直なところ何が言いたいのか
よく分からんところが多いわけですが、最後に有名な次の台詞があります
「私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越え、
最後にそれがナンセンスであると気づく。」
つまり、「俺の言ってることに意味などないよ」とぶっちゃけるわけですが
そう言われても困るわけで、意味などないと言われた諸命題は
結果として哲学を混乱させたようです
次の法令にははたして意味が無いでしょうか
「この条文は○年○月○日をもって失効する。」
いまその期日を過ぎて失効するとすれば、実は失効していないことになる
しかしだからといって実際の業務が混乱することはない
十分に意味が通るからです
全ての意味を形式に還元することはできるのでしょうか 数学っていかに間違っていても一つの新しい定理などを、発見すると、
途端に認められるものなのかなあ。 感じるのか
だがそれは“語りえぬもの”ということだ
論考は、語り得ぬものについては沈黙せねばならないと言いつつ
語りえぬものを饒舌に語っているってことだな
これは傑作だ マトリックス レボリューション
見るのは2回目
示唆とトリックに富んでいて見てしまうな
多分人間は、プラトンの昔から本能的にあの世界観を受け入れることを拒否しない
むしろどうしようもなく、世界をあのように見たいのだ
根が深すぎて、いまさらひっくり返す手立てなど、私には見当もつかない
なぜなら、論理を生成するだろう母体(マトリクス)の何事かについて
(それを物自体とするしかないが故に)それを記述するために論理を使用できるかどうか
分からないから
あの映画はダブスタだと思う
しかし無限そのものに対して論理を適用できるぐらいだから、しても良いのか
人間とはまったく
・・・いや、まさかな 形式主義と存在
凡そ『無条件にこれだけは存在する』と万人に認められるようなものは
残念ながら一つもありません
そもそも、存在の意味を厳密に定義しようと詰めていくと、それが何のことか
人間には理解できません、矛盾してしまうからです
一般人は多分、もろもろの数学概念が実在するとは思っていません
円周率とか黄金率とか素数とか対数とか確率とか、そういったものは
人間が作り出した虚構でしかない、と
だいたい、みんなそう思っている
一方で、『数学概念は世界の実態の何らかを表現しており、それは存在している』と
思っている数学者は結構いるような気がします
「存在する」あるいは「存在であること」の必要十分条件とは何でしょうか
誰にも分かりません
いや、「俺には分かる」と信じている奴はいるでしょうけど、それを万人が納得するように
説明できた人は一人もおりません
ヒルベルトによれば、「存在=無矛盾性」です
これは時間論も含め、割りとあちこちで目にするテーゼです
それを『原理』として受け入れたとして、しかしもし
「存在が無矛盾であるとすれば矛盾が生じる」
場合にはどうするのか
前提が間違っていたのだから、背理法により「存在=矛盾」ということになりますが
しかしその場合、そもそも論理を適用できなくなるので、背理法を適用することも間違っている・・・
いま思うのは、「存在=無矛盾」なのではなく
「存在が存在であるために矛盾を永遠に回避し続けなければならない」
・・・・永遠にそれが可能であることは保証されない、ようですが 大小でも、高低でも、前後、左右、上下でもいいけど、
対比が存在するというのは、何が存在することなの? 人間とは不連続な存在だからこそ連続性を求めるのです。 まず大小がなければ、等さは存在しないわけで、等さが存在しなければ
単位が存在しないでしょう。で、大小があるとは、どういうことなの? 大小がなければ数すらないだろう。では、大小はどこにあるのか? 勝があれば、負けがある。
勝ちだけがあって、負けがないことはないし、
負けだけがあって、勝ちがないこともない。
さて、勝ちが大きく、負けが小さいのだろうか?
負けが大きく、勝ちが小さいことはあり得るのか?
勝ちと負けに大小はなく、勝ちと負けは等しいのか?
勝ちが能動態で、負けが受動態?
能動態や受動態よりも先に中動態がある?
よく分りませんね。 >君の心の中にある
私の心の中にあるのなら、私の心の外の方が、私の心の中より大きい
ことを既に前提にしていることになりませんか?
中の方が外より大きいこともある? >>140
様相論理のもととなったもの、とは具体的に何のことでしょうか?
>>147
世界の真理とつながる何事かは、コンピュータのシミュレーションによって実証させる、テクニックで、納得させるべし、という帰結を得たのですね。
>>160
分割分離分断などです。
>>164
「可能性」を「存在性」に書き換えて、形式を超える「わけわからん」ものを、形式の内部に摂り込もうとしていたわけですね。
>>169
ウィト当人ははたして気がついていたのでしょうか。
>>173
論理を生成する母体の何事かについて、それを物自体とするしかないが故に、それを記述するために論理を使用できるかどうか分からない。
であるとき、当該論理を直接使用するのでなく、当該論理の代替として新規に言語文法をいくつか構築し、その新言語を媒介として論理を適用し、よって母体へ達する、考えはありますか。
>>174
「永遠にそれが可能であることは保証されない」などは存在しない、のをコテさんは認めますか。同時に、やっぱり自身の言及は矛盾であった、のを認めますか。 形式の内部に取り込む
>>168
ウィト当人は気がついていたのでしょうか。 >>187
おまえは意味でしか思考ができないようだな、意味で思考すれば常に情報は四捨五入され
最適化されるんだよ、そして意味ではない思考とは哲学でも学校でも教えてもらえない、
お前が学ぼうとしても得られるものじゃない。 「おまえは意味でしか思考ができないようだな、」?
「常に情報は四捨五入され最適化されるんだよ。」?
「意味ではない思考とは哲学でも学校でも教えてもらえない、」?
「お前が学ぼう」?
力任せにゴミを散らかすだけのあなたに用はないです、よ? 1910年ごろ、Clarence Irving Lewisが、「実質含意が日常的な『含意』と異なる」という「気持ち悪さ」から「厳密含意」となるものを研究しはじめ、それがのちの「様相論理」につながった。
(と、理解しているが、その当時おれが生きてたわけでもないので本当かどうかと問われれば確信はないw
「気持ち悪さ」は、おれ個人の感想です) >>191
朝っぱらから、ご丁寧にありがとうございました、数
学基礎論のような論理集合計算系統の人間さんは、別
の板に全て追い出されてたので哲学板ではゴミが無分
別に散らかり、そんな形式的意味的ゴミ未満の文章や
、文学的詩学的価値もない文章に、とほほ、飽き飽き
していました、なので、少しは楽しめそうで、いわゆ
る高知能でない、腑抜け腰抜け腰砕け、ばかりがこう
べを並べていた、のが厳密な原因であろう、と気分的
に考えなくもない、です、ね。 対比(能動態 vs 受動態)が等さを生む(中動態)ことが数が現れること
であり、対比と等さのいずれかが時間的に優先するということではない。
むしろ、対比が等さを生むことが時間の前提であり、在ることの基礎である。 725 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 04:32:22.53 0
こういう感じで、数学というのは、非常に論理的なところが面白い。
逆に、数学が苦手だったり、嫌になる理由も、そこにあると思う。
文系やアナログ脳全開の人たちには、数学はあまりに論理的過ぎて、
「あなた、つれないわ」、という感じになるのだろう。
哲学好きで、数学が苦手というのが、両者とも高度な論理性を要請するので、よく判らないのだけどね。
726 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 04:40:27.50 0
>数学ではなくても、厳密な定義から始めて、厳密な手続きに従えば、厳密に正しい結果が得られると思い込む場合も同じことだ。
そうかもしれない。数学は演繹の体系なので、公理やそこから導き出された定理に厳密に従っているだけ、とも表現出来る。公理や定理の外部にあるような論理には数学ではアクセスしづらいだろうね。
727 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 07:58:19.41 0
理系の学問というものを「理系哲学」とすれば、「文系哲学」と何らかのすみわけがある。
どこが異なるのか?
理系哲学を「形式的」というならば、文系哲学は「非形式的」である。
「哲学」とするならばどちらも含む。
非形式的よりの哲学のひとつに日常言語派(哲学)があるのだろう。
それでも「形式」をすてているわけではなく、「非形式的」な「核」のもとで「形式」も援用されている。
理系も文系も、哲学であるなら「理性」に訴えねばならない。
形式的に理性に訴えるのか、非形式的に理性に訴えるのか、そこの違いなのだろうか? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) 中動態がどうのというのは、図書館の待ちリストが長すぎて、まだ読んでない
んだけど、宣伝文に書かれていたことが変に感じられたから気になっている。
名詞的なことは、どう考えても順序的には、先ではなくて、後だよ。 中動態>>193のことですか。これらは、それぞれをもっと正確に理解してれば、順序的先後のところも含めて、言わんとしている意図は妥当です。が、今は理解が浅いので混乱してるだけです。 引用して使えるような洞察が宣伝文に含まれているかどうか、それが私が本を
購入する気になるかどうかの分かれ目となっている。 >>187
>当該論理を直接使用するのでなく、当該論理の代替として新規に言語文法をいくつか構築し、
>その新言語を媒介として論理を適用し、よって母体へ達する、考えはありますか。
ない。なぜなら
巨大な計算機でも人工知能でも、そしてそれが人間でも良いが
計算という作業によって、その当の「計算のためのアルゴリズム」に達するとは思わない。
人間が計算をしているとき、それに必要な脳内活動を認識できるわけではない。
仮にその『計算機』が計算のアルゴリズムを認識できた場合
その作業に於いては「計算のアルゴリズムを認識するための“アルゴリズム”」が働いており
その“アルゴリズム”にまでは達していない。
いかなる新言語を用いようと、その新言語を言語として成立させるための活動を
新言語が表現しているわけではない。
さらに悪い事に、以上の推論は、「“架空の”世界観(=マトリックス、水槽脳)」を前提としており、
それは「「システムの階層構造」ということになるわけだが、その世界観が正しいことは
そもそも言えない(正しいとも正しくないとも言えない)
なぜなら世界観とは、世界がそのようであって欲しいという欲求を根拠としているだけだから。 >>187
>「永遠にそれが可能であることは保証されない」などは存在しない、のをコテさんは認めますか。
何を根拠にそれが『存在しない』と貴方は主張するのか、よく分からない。
1)何が矛盾しているのか。
2)仮に何かが矛盾しているとした場合、貴方は「矛盾するようなことは存在もしない」
という主張を支持しているのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています