ギリシャ哲学総合スレ [無断転載禁止]©2ch.net

1考える名無しさん2017/04/13(木) 13:41:39.900
なかったので立てましたー

282考える名無しさん2017/11/21(火) 17:13:02.010
自己言及じゃなくて自己言及のパラドックスだろ
自己言及だからと言ってパラドックスとは限らないんだが

283考える名無しさん2017/11/21(火) 17:37:46.320
それくらい承知だろ
哲学板初めてか?

284学術2017/11/21(火) 17:42:24.360
童貞や処女、生娘の哲学をのぞかない率。

285考える名無しさん2017/11/21(火) 17:52:17.030
自己言及が可能で、真理値への言及が可能であれば、その時点で矛盾が生じるよ。

286考える名無しさん2017/11/21(火) 21:14:51.620
>>279
2(i^n)'/i^(n+(i^2)^2)=π

287考える名無しさん2017/11/21(火) 21:23:02.690
>>279
当たり前だがiと2を無限に増殖させることができる。
(((i^2)^2)+((i^2)^2)))(i^n)'/i^(n+(i^(((i^2)^2)+((i^2)^2)))^(((i^2)^2)+((i^2)^2))))=π

288考える名無しさん2017/11/23(木) 19:33:06.690
パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年−没年不明)はギリシアの哲学者で、エレア派の祖。
「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に一元論を主張した。
形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。

289考える名無しさん2017/11/23(木) 19:34:04.660
「あるものはある」「ないものはない」という自明な前提から、存在を論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、
それまでの哲学の常識を覆す途方もない試みであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものだった。

290考える名無しさん2017/11/23(木) 19:35:37.670
イオニア学派の哲学者たちは万物の根源が何であるかを探究し、それぞれが「水である」「火である」「数である」というような答えを導き出した。

その彼らに対し、そもそも「ある」、そして「ない」とは何かという問題を提起したのがパルメニデスであった。

たとえば「水である」という場合の「水」のような主語となるものを想定せず、パルメニデスは「ある」、そして「ない」それら自体を思惟の対象とし、探究の道として二つだけを示す。

291考える名無しさん2017/11/23(木) 19:36:39.440
「なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか」。

この、哲学史上で最も深淵な、ハイデッガーによる究極の問い。

これはパルメニデスに由来する。

292考える名無しさん2017/11/23(木) 19:50:26.090
完全な言葉遊びだなこりゃ

293考える名無しさん2017/11/23(木) 20:06:10.190

294考える名無しさん2017/11/23(木) 21:28:52.850
万物の根源説はタレスからの流れ
弁証法はヘラクレイトスからの流れ
存在論はパルメニデスからの流れ
中庸思想は誰からの流れだろうか?

295考える名無しさん2017/11/24(金) 00:07:30.050
こんばんは
ソクラテスやプラトンはこのスレですか?

296考える名無しさん2017/11/24(金) 00:13:38.160
>>295
勿論です

297考える名無しさん2017/11/24(金) 00:41:36.870
>>294
> 中庸(ちゅうよう)とは倫理学(特にアリストテレスのそれ)において、徳の一つ。
>
> 『ニコマコス倫理学』のなかで、アリストテレスは
> 人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)を挙げた。
> …日本語訳ではこれに中庸という儒教用語をあてた。

298考える名無しさん2017/11/24(金) 00:46:51.240
>>297
うん
普通はアリストテレスを思い浮かべるけど
徳の概念はソクラテス(プラトン)も提示してたしいわゆる倫理学の祖ってソクラテス以前だと誰になるのかなって知りたくてさ
まだ断片集を読破してないから教えて

299考える名無しさん2018/01/10(水) 12:15:28.680
アリストテレスを初めて読むには何が最適かな。
形而上学なら出隆?あとは今道、広川洋一、高田三郎、渡辺邦夫、篠沢和久
三木清、田中美知太郎など。
翻訳は誰が読みやすいさろうか?
ちなみに今道氏は出隆氏のを薦めている。

300考える名無しさん2018/01/13(土) 10:55:48.120
メソテースを中庸と訳したのはあんまりよくないな

301考える名無しさん2018/01/13(土) 11:01:22.410
>>299
断然岩崎勉訳
中古でしか手に入らんけど
簡単に入手できるのは出隆だけど悪くはないけど
後は新アリストテレス全集版に期待するか

302考える名無しさん2018/01/13(土) 14:50:49.980
原語で読め

303考える名無しさん2018/01/13(土) 15:04:01.780
>>302
どの版がいいの?

304考える名無しさん2018/01/13(土) 15:41:56.930
合字使ってなければなんでもいいよ

305考える名無しさん2018/01/13(土) 18:57:13.960
具体的には?

306考える名無しさん2018/01/13(土) 22:00:45.500
底本としては当然オックスフォード版
実体としては Perseus にあればそれで充分

307考える名無しさん2018/01/13(土) 22:38:31.500
perseusめっちゃ読みにくいじゃん

308考える名無しさん2018/01/14(日) 04:25:54.970
読みにくいが便利

309考える名無しさん2018/01/21(日) 16:41:41.090
文庫で4900円はない。
岩崎勉訳復刊すべき。

310考える名無しさん2018/01/22(月) 02:07:22.310
岩波形而上学なんてリプリントの読みにくいのでも版を変えて出し続けてるってことはそれなりに売れてるんだろう
講談社も再販すりゃ岩波より売れそうだが

311考える名無しさん2018/03/07(水) 20:58:30.060
哲学とSM

https://pdmagazine.jp/trend/sm-misaki-11/
『ギリシア哲学者列伝』(ディオゲネス・ラエルティオス)――犬のディオゲネスはSMを打ち砕く|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第11回>

312考える名無しさん2018/03/10(土) 19:23:47.410
“ギリシャ正教の修道院における祈りは、ヘシュカズムと呼ばれる行法に則って行われる。
 ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
 イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
 その際、自己の内面への精神集中の一助として、座法や呼吸法をともなった精神身体技法、心身技法を援用する。
 イスラームはスーフィズムのズィクル(神の名の連禱)や仏教は真言密教の三密(身、口、意)瑜伽行とほとんど変わる処はない。”

― 『ギリシャ正教 無限の神』 落合仁司 (2001)

313考える名無しさん2018/03/11(日) 04:13:36.070
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

42XLH

314考える名無しさん2018/03/11(日) 13:05:11.930
42XLH

315考える名無しさん2018/03/20(火) 21:09:05.530
今道友信の『アリストテレス』が意外に評判いいな。
読みやすいんだろうな。

316考える名無しさん2018/03/21(水) 00:55:00.470
このスレって哲学板の柱なのにあんま伸びないな

317考える名無しさん2018/03/23(金) 14:40:10.890
>>316
哲学に柱はないだろ?

318考える名無しさん2018/03/23(金) 21:52:23.830
ストア派の由来を知らんのか

319考える名無しさん2018/03/24(土) 01:00:53.060
>>318
知らない。

320考える名無しさん2018/04/18(水) 21:03:57.360
自然学の新版を遅まきながら買った。昨日、発行されてることに気がついた。

日本語として、旧版よりもはるかにこなれている。これは、買ってよかった。

321考える名無しさん2018/04/18(水) 21:04:38.430
新版の形而上学が楽しみだよ。

322MC 火照る BACKESS INN SECRARETALY2018/04/18(水) 22:03:02.070
形而粗鬆。

323考える名無しさん2018/06/04(月) 12:38:26.780
『アキレスが、亀のいた地点に追い付くと、その間に亀は少し先に進んでいる。
亀の進んだその地点にふたたびアキレスが追い付くと、その間に亀はまたすこし先に進んでいる。
かくしてアキレスは亀に無限に近づくがけっして追い付けない。』

前提 アキレウスは亀よりも早い。

1 このような状況が実現するにはアキレウスが亀に近づくに比例して、アキレウスは無限に減速し続けなければならない。
しかし、この命題にはアキレウスの減速に関する条件はない。
故に、アキレウスは亀を追い越す。

2 亀が一歩進む間にアキレウスが十歩進むと仮定する。(歩幅については考えない)
これは亀はアキレウスが十歩中九歩進む間は停止しているのと等しい。
亀が停止しているならば、「その間に亀はまたすこし先に進んでいる」という条件は満たされない。
故に、アキレウスは亀を追い越す。

324考える名無しさん2018/06/04(月) 12:52:52.090
『飛んでいる矢は、今という瞬間には一定地点にあり、次の瞬間にも次の一定地点にある。
こうして飛矢は各瞬間には静止しており、静止を積み重ねても運動は出てこない。』

静止は空間位置的に同地点にあること、運動とは異なる地点にあることによって動静は測られる。つまり時間ではなく空間の位置による。
矢の各瞬間ということは運動とは関係なく、矢が違う一定地点にあることによって運動は測られる。
そうすると矢は各瞬間毎に違う位置にあることから、矢は運動していると判断できる。

325考える名無しさん2018/06/18(月) 20:21:56.800
「すべての存在は一であることによって存在である」
「軍団は一つのものとなっていなければ存在しないであろうし、合唱舞踊者の一団も家畜の一群も、一体をなしていなければ、存在はしないであろう。
いや、家でも船でも、一つと言うことを欠いては存在しないであろう」
プロティノス、エンネアデース「一なるもの、善なるもの」より

プロティノスは「一つ」であるということを原因として、その結果「存在している」とするが、むしろ事態は逆で、「一つ」とは結果(あるいは結果に対する判断)のように思える。
プロティノスは「一つであることによって存在(ここでは軍団)である」というが、正確に言えば軍団とは、「何か」が「一つ」であることによって軍団なのである。
指揮官や兵士といった「何か」があって、次に「一つ」となり、軍団となることができる。
プロティノスは「軍団は一つのものとなっていなければ存在しないであろう」というが、軍団(=一つになったもの)以前に指揮官や兵士となりうるものが現存していなければ、
どのようにも「一つ」になりえず軍団になることはできない。
従って指揮官や兵士となりうる存在が前であり、後になって「一つ」ということが加わることによって軍団はなる。
これは指揮官、兵士という「存在」に対して、「一つ」ということは従の立場であることを意味する。
この「一つとなりうる=軍団となりうる」ということは軍団を構成する元となる指揮官や兵士たちに附属しているのであって、どこかから「一つ」がやってきて軍団になるのではないだろう。
これによって、「一つ」ということが軍団の原因なのではなく、一つとなりうる「存在」が実際に軍団の原因であり、軍団を構成した結果を「一つ」としていると考えられる。
これは合唱舞踊者でも家畜でも同じことだと思える。

326考える名無しさん2018/06/18(月) 20:22:21.310
さらに、もしプロティノスの言う通りであるとすると、以下のような疑問が生じる。
プロティノスの言うところによれば、「軍団」も「合唱舞踊者」も「船」も「家」も等しく一ということに関与する。(そうであればこそ一が存在の原因と主張している)。
しかし、一であるということがこのように等しくそれぞれに関与するというならば、どうして「軍団」や「船」などと異なった存在が生じることになるのだろうか。
「一」という原因が同じなのであれば、結果も同じでなければならない。「軍団」や「船」という区別はなく、なにものとも区別されようのない「存在というもの」だけが結果としてあるはずである。
しかし、実際はそうではないし、プロティノスもそれを主張していない(むしろ「一は万有ではない」と述べる)

327考える名無しさん2018/06/23(土) 21:18:17.620
神学綱要 (プロクロス)
命題七 「他を生むことができるものはすべて、生みだされたものよりもすぐれている」
証明 
「生みことができるものは、生みだされたもよりもすぐれているか、劣っているか、等しいかの、いずれかである。……」

これは後のものは先のものよりも劣っていくという流出論の構造の根本に関わる命題であり、その証明が展開されている。
プロクロスは「生むこと」(生成)の意味を明確にせずに論を初めているがそれを明確にしておくが必要がある。
「生むこと」には親から子が生まれるように生物的な生成の意味と、非生物的な生成(たとえば水から蒸気が生じるといったものや、
木を削って箸にするなど人工的なもの)という意味がある。(アリストテレスは自然的生成と人工的生成に分類しているが、自然的生成はさらに上記のように生命的と非生命的に分けられると思われる)
後者の意味だとすれば、そもそもその存在性においては優劣はない(水が蒸気になったからといっても、蒸気は水より劣っているわけでもないし、蒸気から水が生じることもできる)。
プロクロスが言う「生むこと」(生成)とは前者の意味であろう。「親子同等の関係があらゆる産出」などの表現から生物的な生成(少なくとも自然的生成)を想定していものと思われ、かつ生成に優劣という考えを導入できるのは前者のみであろうから。

328考える名無しさん2018/06/23(土) 21:18:55.300
プロクロスは言う。
「まず等しいとしてみよう。さて、生みだされたものは、それ自身の別のあるものを生む力をもっているか、それとも、まったく他を生むことができないものかの、いずれかである。
しかしながら、もし他を生むことができないものであるとすれば、まさにそのことのゆえに、生みの親より劣っている」

このプロクロスの弁は正しい。この場合は(等しいとする)仮定は否定される。

「次の二つのばあいが考えられるだろう。すなわち、その一つは、それ自身がまた自分に等しいものを生むばあいであって、このばあいは、親子同等の関係があらゆる産出に適用されることになり
……存在するものはすべて、互いに同等であって、一方が他方よりすぐれていることはけっしてないことになるだろう。」

これは曖昧である。親と等しく生まれた者が等しい子生めば、等しさの連鎖によってすべての存在に一切の差異がなくなる。しかし現実には差異はあるゆえに仮定は成り立たない、ということであろう。
しかし、そもそも生成とは、類と種に従って生成するのであって、類において等しいものが等しいものを生むというのは当然なことであるが、同時に種による差異があることを否定するものではない。
つまり、「生む」ということは類似と差異の両方を含意するのであり、ある点においては同等ということも成り立ち、ある点においては差異があるということも成り立つ。どちらとも成り立つことになり、プロクロスの仮定の否定のための根拠として脆弱であることになる。
もし「等しい」という意味が、厳密論的として完全に等しいということならば、「生む」の一般的な意味と対立することになり、仮定の否定のためには脆弱となる(そのような厳密論を導入する蓋然性がないから)。

「もう一つは、自分に等しくないものを生むばあいである。このばあいは、生むものは、自分の親とも等しくないことになるだろう」
このプロクロスの弁は正しく、この場合も仮定は否定される。

329考える名無しさん2018/06/23(土) 21:19:47.170
プロクロスは言う。
「生むものが(生みだされたものより)劣っていることも決してないであろう。生みだすものは生みだされたものに実体(ウシア)を与えるから」

生成が類と種に従うって行われる以上は、そのウシアという点においては生みだすものも生みだされるものも等しい故に劣っていることはありえない。この点はプロクロスは正しい弁である。

330考える名無しさん2018/06/23(土) 21:20:29.920
プロクロスは言う。
「生むものは、自己自身の力を強めていくことができるものでもあるだろう。……もしそれが他を完全なものにしあげることができるのであれば、自分に次ぐものよりも先に、自己自身を完全なものとするであろう」

実体は類と種によって、その力(の増加、あるいは成長)には限界がある。故に先に「自己自身を完全なもの」となったとしても、後からのものが先のものと等しくならない根拠にはならない。
すなわち「完全なもの」となるのならば、生みだされたものも(いずれは先の者と)等しくなるであろう。

331考える名無しさん2018/06/23(土) 21:22:19.790
結論
「したがって、生みだされたものは、生むものと等しくもなければ、すぐれていもいないことになる。だから生むものは、どうしても、生みだされたもよりもすぐれていいなければならない」

結局は、この命題の証明は成立していない。プロクロスが否定した「等しい」ということも否定しきれていないし、肯定した「生むものがすぐれていないければならない」根拠も薄弱であるから。
始めにプロクロスの使用する「生むこと」について分析したが、プロクロス自身はそれだけの理解を以て論を始めたのかは疑問に感じる。
その結果、全体の証明自体が曖昧なまま(流出論的結論ありきの)結論を出している。

332考える名無しさん2018/06/24(日) 13:19:19.940
続き

プロクロスが定めるこの命題は、第一者とそれ続く原理的なものものどもについての命題であって、循環的な生成があるこの現実世界についてのことではないのかもしれない。
少なくても、それらにより当てはまるとして、この言を立てたのであろう。
では、その観点から考えてみる。

まず第一者は完全なものである。
この第一者が自身よりも優れたものを生むということは、第一ということにも、完全ということにも反するのでありえないというのは理解できる。
故に、生みだされるものが優れるということはない。

次に、プロクロスの結論、「生みだされたものは生みだすものよりも劣る」ということから考えてみる。
第一者が第二者を生じるが、第二者は、第一者よりも劣るものである。
しかし、完全なものである第一者が不完全なものを生じるということになるのは不合理だ。
世界を存在者の総体であるとすれば、第一者のみであれば、世界は完全である。しかし、第二者が生じたとき、世界は不完全な第二者を含むがゆえに不完全となる。
世界は不完全であるよりも完全である方が望ましいのであり、そうすれば第一者は何ものも生じさせないのが善いことになるであろう。
この命題を認めるとすると、不完全の原因を完全であるはず第一者に帰することになる。しかし完全なるものが不完全の原因となることはありえない。
この点からしても、「生みだされたものは、生みだすものよりも劣っている」のが確実とは言えないことになる。

もし完全なるものが生成するというのならば、生みだされるものも、やはり同等の完全なるものでなければならないことになる。
(その観点からすれば、キリスト教が三位一体内の諸関係をペルソナ以外はすべて同等と見なすのには理はある)
いや、しかし完全な同等のものが生じるとなれば、もはやそこには区別はなく、生むことや生みされるということ自体が意味ないことになろう。
そういう意味であれば、プロクロスが「等しいものが等しいものを生む」ということをありえないものとして否定したことも肯んじられる。

このように同等のものを生みだすとしても、劣るものを生みだすとしてもアポリアが生じることになる。

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