【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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インテグリティに訳語を与えられなかったんだな近代日本哲学って
中国では誠信という訳語が存在するのに integrity: 誠実、高潔、品位
という感じか。 京都学派と大東亜戦争の戦争責任を問う問題は今ホットな話題だと思うぜ? 物心二元論を克服しようとした京大系の学者としては
市川浩を挙げねばならないだろうな。
戦前の京都学派の問題意識と通底するところがあるだろうが、
政治や社会のことを論じず<身>と<心>の重なり合いに着目した点では
独自の路線を行ったと言える。
>>752
の問題意識に関係する書物と言えば、
大橋良介の『京都学派と日本海軍』だな。
PHP新書。 田辺元はマルクス主義に関心を抱いてはいたようだが、
エンゲルスの『自然弁証法』には批判的だったようだな。 中沢新一 「「レンマ学」とは何か――惑星的時代のもう一つの知性」(『現代思想2020年1月号 特集=現代思想の総展望2020』)
レンマ学の3つの区分
・現代レンマ学…今現在刷新が必要なもの(AI人工知能の時代、トポスや圏の数学に対応)
・近代レンマ学…京都学派のレンマ学(集合論の危機に対応)
・古レンマ学…レンマ学の起源 三木清や「世界史の哲学」派を戦争協力的と批判するのは容易だけれども
彼らとしては現実政治を少しでも改善する時務論として
公開・提言可能なギリギリの線で抵抗していたわけで
現代という安全地帯から彼らの戦争責任を衝くだけでは本質的批判にはならない気がする
言論場では批判することが多数派でせあり権力側なのだから
和辻の『日本精神史研究』には唯物史観的な階級制批判があるね 確かに、マイルズ・フレッチャーの『知識人とファシズム』を読んで
三木清は悪いやっちゃなあと思ったが、
仮に悪いにしてもどのように悪いのかを知るには、
本人の著作を読まないとダメだと思って『唯物史観と現代の意識』を買った。 312 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:14:17 HMC8p4F10
年貢米
http://s.kota2.net/1581307633.jpg
313 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:29:27 xAWDaQKy0
年貢ってどうしても収められない場合どうだったんだろ
いきなり討ち首じゃないよな
333 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:11:41 BcZTUhaK0
>>313
農村だと村単位で講を作って不作に備えるのが基本
334 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:14:31 CYqYGg0z0
>>313
江戸時代は農民は一方的に搾取されてたようなイメージがあるけど
一揆がおこると領主には幕府からかなり思いペナルティがあるので
実際は領主は農民に気を使っていたことが最近の研究でわかってきている
340 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 11:55:49 6/fDJzON0
>>334
しかも、幕府が「お、ここ要所になるな」と思ったら
幕府がそこの村人を扇動して一揆を起こさせて、
その土地をめしあげて天領地とした 『京都学派と日本海軍:新史料「大島メモ」をめぐって』 PHP新書 (2001)
大橋良介
京都学派の戦争協力に関する決定的かつ最重要の資料。
アジア諸国やアメリカに対する侵略的計画を練る過程が克明に記録されている。
哲学者たちがいかに世界情勢を分析し言語化するのか。
「近代の超克」、「世界史的立場と日本」座談会の背景。
60年の時を経て2000年に、著者によって発見された。
“大島の「大東亜戦争と京都学派」(『中央公論』昭和48年8月号)を再読したとき、
ある個所が気になった。「私の家には、当時のメモ・ノートがまだ保存してある」と。
そこで大島家に、そのようなメモ・ノート類がないかどうかの調査を依頼した。” 二つの座談会
『近代の超克』 河上徹太郎ほか、冨山房百科文庫23 (1943/1979)
『世界史的立場と日本』 高坂正顕ほか、中央公論社 (1943) 「近代の超克」と「世界史的立場と日本」は表向きに編集された議論。
「大島メモ」の内容はそのノーカット版といったところ。
大島メモ「〔大東亜"共栄圏"という語は〕物質的繁栄を主とした安逸(easy-going)感を与へる故、使用を避けるべきである」 無の自覚的限定
非合理なるものは考えられないというのは、そのしかる所以をあきらかにせなければならない。
考えることができないというのは、既に考えることであり、そのこと自身が矛盾でなければならない。
個物的なるものが考えられるというにも、それが考えられるという限り、なんらかの意味において一般者の自己限定として考えられねばならぬ。 『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎 Narrated by: 佐田 直啓 Length: 7hrs 26mins >>764
途中に洋書の出典が挟まるのは青空文庫版か 善の研究だったら方法序説のほうがよくできてる。マルティンブーバー永遠の汝とかも上だ。敵の出現なんてもっと高度に取り交わされてる。国立系は日本はほぼ総崩れだなあ。 西田幾多郎はすっ飛ばす。詩のようでかっちょいい。
カントみたいに辛気くさくない。
不親切だが、いろいろと考えさせる。 論文は伝達こそ一義。
しかし詩は伝達は二義的なものだ。
ということは西田幾多郎の論文は哲学としては失格かもしれないが、詩的思想としては成功しているだろう。 帝大なんて第一志望じゃないところで哲学していいの? だから、冗長な帰納法的瑣末主義のハイデガーは『存在と時間』を完成することができず、かといって、その帰納法の宿命ゆえに、最初から書き直さざるを得なくなったときに、あまりにも辛気臭いその道程に目をそむけ、放棄した、ということ。 夏目漱石の明暗の未完成よりハイデカーはちょっとな。明暗は誰が書いたのかしら。 >>772
吾輩は猫である?
まああれは、ワニが死ぬしょうもない話よりはおもしろい。 話を終らせるためだけに、猫を殺す、なんて発想は愉快じゃ。 >>766
デカルト(400年前)とブッダ(2400年前)
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 真の無の場所とは何か。
有の場所に無の場所を見るのは可能か。
先験的真理=アプリオリ。
先験的空間=一般者。
映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきだろう。
これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。 西田はしかし、私の思想は、善の研究の段階で定まっていたと書いている。
すべては善の研究に対する注釈を重ねていった人生ともいえる。 マールブルクがかいているように、カントにとっての総合とは、思惟と直観との総合なのだが、西田はそこを乗り越えようとしたのだが、はたしてその成果はいかに。 働くものから見るものへ
って善の研究とは全然違う雰囲気を感じたわ。
ちょっとしか読んでないけど。 >>780
『働くものから見るものへ』から西田は無の場所論を繰り広げるようになるからね。
相対的な、つまり有に対する無、だけではない、真の無の場所。
こういうのってカントにはない発想。 目的的統一としての自己の根底は流れ去るものではない、何時でも働いているのである。
元来意識統一というのは目的的統一を意味するのである。
而して目的的統一には何時でも現実を越えて志向するものがなければならぬ。
現われただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を有ったものではない、目的的統一は何時でも無限の根底に結合していなければならぬ、自己というのは此の如き無限の流への結合点に過ぎない。
「直接に与えられるもの」西田幾多郎 いいこというねえ西田
無限となるとレヴィナスが想起されるね。読んだことないけどw いいんじゃないかな。
>>783
レヴィナスの『全体性と無限』も出たし。まあ彼の無限は多分に倫理的過ぎるけども。 「疑いに耐えられない者は、自分に耐えられない。そのような人は
心許なく、成長しないので、生きてすらいない。疑いは、最高の
強者と最低の弱者のしるしである。強者は疑いを持っているが、
疑いは弱者を支配している。それゆえ最低の弱者は最高の強者に
近い状態にあり、自分の疑いについて『私はお前を支配している』
と言うことができれば、最高の強者なのである。しかし果てしない
カオスに耐えるのでなければ、誰ひとり自分の疑いを肯定できない。
われわれの間には全てを言うことのできる人がこんなにも多いの
だから、彼らがどのように生きているかを見なさい。そのうちの
一人が言うことは、極めて多いこともあれば、極めてわずかである
こともある。それゆえその人の生を探求しなさい。
私の語りは明るくも暗くもない。なぜならば、それは成長する
者の語りであるから。」C.G.ユング、『赤の書』、p.420 >>760
入手困難で¥2,400とかになってる。
この本が普通に手に取って読めないのはおかしいな。
これを読まないと、侵略戦争ということの本当の意味が分からないから。
Kindle版はあるらしいけど。 『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開:田辺元哲学選3』 岩波文庫 (2010)
田辺元、藤田正勝 編
京都学派の哲学とも関わりの深い数学基礎論がまとめて読める。
・ヒルベルトの公理主義
・デデキント切断
・カント―ルの集合論
・マルクスの理論。唯物弁証法の限界
ほか 梅本克己は分らぬものを基にして分かるものを攻撃する事を観念的態度と言った。
オカルトとかスピリチュアルとかなんかも実は観念論の分枝なのかもしれない。
ただ、霊魂なんかを真面目に考える事自体は学的態度と言えるだろうし、
宗教哲学の領域に当たるだろう。 俘虜記が有名だけど、専門はイタリア・ルネサンスだったのね。 西哲の主客二元論の思考はマズいんだろうか?
端的に言ってなぜだめなんだろうか 不味いとする考え方は
主体があるものを対象と見なし、客体化することは
それをほしいままにして蹂躙することにつながりかねないからダメだ
というものだと思う。 入門書には、他者とわかり合えない、紛争に繋がりやすいとか戦争云々みたいな説明があったが、
そういうことなのかね?突き詰めていくと
いまいち論理の繋がりが分からない 誰か人を他者と見なしてしまうと、その人を理解できない、その人と仲間になれない、
挙げ句の果てにはその人と対立する、
そういう感じの論理がその入門書には込められているのでは。 そういう理解で読んでいけばいいわけか
そうするとさ、主客未分を目指した京都学派はなぜに帝国海軍と裏で繋がったのか、よくわかんなくなるんだよ 主客の区別は存在してるのにそれをないもの扱いするような思想の方がやべーよ
他人の家いって勝手に飯とか食い出しそう 海軍将校は海軍兵学校という学力エリートの出身者で構成され、
なおかつ海の向こうへ行こうとしたり海外のものを学ぼうとする進取の精神を持った者
の集団であったが、必ずしも陸軍より上だとはみなされず、
同じく京大の哲学科という学力エリートの集団でありながら(西田幾多郎は東大選科出身だから事情は違うが)、
東京帝国大学よりも権威的な意味での序列が上だとはみなされていなかった
者達同士あい惹かれ合う部分があったのではないかといううがった見方を俺は取る。 >>798
かつての長屋暮らしとか近所同士食物を融通し合ってたんじゃないか。 >>800
むしろそういう生活だからこそ礼儀が必要だったんだな >>801
交流する中で繋がり、互いに慣習を共有したりしていただろうね。 カント研究で有名な高坂正顕の息子に国際政治学者の高坂正堯がいるけれども、
政治家の前原誠司が京大の高坂ゼミに入った理由が、
高坂正顕が訳した版かもしれないカントの『永遠平和のために』と、
高坂正堯が著した『国際政治』を読み比べて後者の方が現実的でいいというものだったのは
京都学派、京大人脈がいかに複雑かを表している皮肉なエピソードだと思う。 「日本、中国と戦争すんのか?」
「おー、やれやれ!」
「中国なんて潰しちまえ!」
「アメリカも応援するぜ。」
「ドイツも日本の味方だ。」
「もちろんイタリアも日本の味方だ。」
「黙れ!イタ公」
「失せろ!パスタ野郎」
「帰れ!裏切り者」 真面目な疑問なのですが、オーガズムって純粋経験に当たると思いますか? オーガズムは純粋な主体的経験にしてその絶頂だから、
純粋経験とは正反対の方向になるのでは。
その主体性をゼロに近づけていった時、客体に近づき主客未分となる。 >>808
難しいですね…
純粋経験の例として挙げられる、音楽に聴き入ったり画家が絵を描くのに没頭する
といった忘我的状態とオーガズムは近いと思ったのですが あらゆることが純粋経験でしょ
しかしそれを意識した時点でそこから離れている 純粋経験は所与(他から与えられること。また、そのもの。思考の働きに先立ち、意識や感覚に直接与えられている内容)。
オーガズムは経験に対する事後的な反応だから、まずそこが違う。
忘我(脱我、エクスタシー)もekstasisは「外に立つこと」で、魂が肉体の外に出るイメージだから、没頭の方が近いかな。
人間主体の内面において、精神的・肉体的な判断を挟まず、直接、経験と向き合うというような感じ。
もっと言うと、「音楽を鑑賞する」というより、対象が交響曲であれ、トイレの水音であれ「音として聴取する」といった具合。
そこから、没頭や聴取という態度も消す。 主客未分なんて言語を使わないようにすればなる
あとは○○としての自分になればなれる
本を読んでいて物語の主人公としての自分になるのも
一種の主客未分 コンピュータのことは良く知らないんだが、クラウドやフォグという
言葉が良く使われるようになったのや、最近のメディア学で、情報の
収集の経路が非常に複雑化して、都市のambient大きな意味の雰囲気の
中で生活することで情報を得ているという、主体性に囚われない考え方
が北米で力を増しつつあるという話を聞いたような。
主体性よりも多様性や無作為性に注目すべきということか。
オーガズムって純粋な主体的経験かね?
「逝かされる」とか聞くがw 主客未分→両是→両非→主客分離
主客分離→両非→両是→主客未分 フランス語の翻訳ってフランス語の規範に合うようにどんどん勝手に書き換えるから、
フランス語の勉強にはなっても、原文で著者がどう表現したのかさっぱり不明になる。その点、ドイツ語では、ドイツ語として許容される表現の柔軟性が高いから、
忠実に訳そうとしている場合、構文に相当に無理を強いてでも忠実に訳している。 つまり、フランス語訳は、フランス語の文としてはとても分かりやすくなるが、
原文からであれば読み取ることができたであろう意図がきれいさっぱり消されてしまう。
ドイツ語訳は、分かりにくいと感じる部分を確認してみると、そこで表現に無理が生じていることに気づかされる。 スレチの書き込みしてるやつに
意図が伝わらないとか言われたくないよな
ここに書き込みことに無理がある 九鬼周造は、日本語を哲学の対象にしているが、その表現のスタイルはフランス語的だ。
ドイツ語的に日本語にアプローチしたなら、あのような語りにはならなかっただろう。 ガブリエルあたりになると、その語りは、ドイツ語的ですらなく、グロービッシュ哲学だろう。 三木清については津田雅夫の研究書を読むだけで済ましておいていいか
と思っていたが、研究所の内容が面白いので、三木清全集を2冊買ってしまった。 高坂正顕の『カント』をまだ読んでいる途中だが、
やっぱり彼の文章は名文だと思う。 弁証法に関して、
三浦つとむの本やマルクススレッドで教示してもらったおかげで、
『日本哲学史』の田辺元の章の前で立ち往生していたのが、
なんとか前に進めるようになった。 昭和堂は京都学派哲学と農業の両方を出版しているから凄い。 氣多雅子さんの西田幾多郎本は、西田の生涯を圧縮して述べているのがいい。 藤田正勝の日本哲学史を読み進めたお蔭か、
立ち往生していた田辺元の『種の論理』を読み進めることができた。 『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25)
末木文美士、山内志朗、中島隆博
思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。
そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。
イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。
希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。
特集・未来哲学とは何か
前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。
創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士
特集 未来哲学とは何か
1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗
2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋
3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博
対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学
中島隆博・納富信留
コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎
『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸
二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃
論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也
存在と本質──中世的なるもの 小村優太
AI・仏性・倫理 師 茂樹
モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊
──アシュアリー学派の行為論と偶因論──
革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈
書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士 『全体主義の克服』 集英社新書 (2020/8/17)
マルクス・ガブリエル、中島隆博
中島
“彼(九鬼周造)はシェリング、とくに後期シェリングの著作をよく読んでいました。
そして、シェリングの原偶然性を「原始偶然」と訳した上で、
「驚きの情と偶然性」(1939年)というとても美しい論文を書きました。”
ガブリエル
“わたしは京都で彼のお墓に行ったんです。でも、そのテキストのことは知りませんでした。
それは日本語を学ぶ十分な理由になりますね。” 『日本回帰と文化人 昭和戦前の理想と悲劇』長山靖生(筑摩書房)は
昭和戦前と言いながら岡倉天心、和辻哲郎、阿部次郎、西田幾多郎ら京都学派の
日本論や日本美学と戦争の関係を論じているね。あと文学者のことも 藤田省三著作集第2巻の『転向の思想史的研究』をアマゾンで購入したが、
編者が解題したことしかわからない。一体誰が解題したんや〜〜! ていうか藤田省三が亡くなる5年も6年も前に著作集が出るなんて、
みすず書房は何て用意がいいんだと思う。 戦後日本の教育哲学に関心があれば
高坂正顕、高山岩男、務台理作は外せないな。 自己実現へと溶け込み すべて とひとつになる経験、それは決して、死ぬまで待たなくていい、と理解しろ。
そういうサンマーク出版社的発想の元祖。
つまり悟りとして心得ているひとが多かったのだ、京都学派は。 ゆとりせだい、さとりせだいの読解力のなさからすると、デカルトすら読めてないのだよ?
西田幾多郎を読んだつもりになってるしょんべんくさいおこちゃまが多いのに、このスレが活況になるとおもうか? 今はもう無理だけど、数年前に、
西田幾多郎や西谷啓治を読んで気分がハイになる体験をした。
その是非はともかく、貴重な経験だったと思う。 宗教と縁がない者は、京都学派の人々のテクストを読むことで、
宗教に馴染みができるかもしれない。 学術的にも世間的にも京都学派ルネッサンスが来ているのだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています