【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net

1考える名無しさん2017/05/12(金) 22:12:11.300
明治〜戦前の哲学を読み直す。

543考える名無しさん2018/06/06(水) 20:48:45.080
“私がギリシャ語などといへば、人が笑ふであらう。彼がギリシャ語をと。
 実際、私はプラトンの一行すらも読むことができない。
 併し私は晩年ギリシャ哲学に興味を有する様になつてから、
 どうしても多少ギリシャ語が分からねばならぬことを痛感した。”

― 『西田幾多郎全集10』 「ギリシャ語」 (2004)p375

544考える名無しさん2018/06/06(水) 20:49:32.050
・西田  数学○ ギリシャ語×
・井筒  数学× ギリシャ語○

545考える名無しさん2018/06/06(水) 20:50:30.700
西田の絶対無は井筒に引き継がれ、形而上学として完成された。


広義に「東洋的無」と呼ばれるもの

・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道(タオ)
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極

意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。

546考える名無しさん2018/06/06(水) 20:51:39.600
>>542
西田は自分の哲学が禅と呼ばれることを嫌ったはずだけど

547考える名無しさん2018/06/06(水) 20:51:40.080
しかし最近のトレンドとしては、
「無」よりも「空」の方が重要視される傾向にある。

548考える名無しさん2018/06/06(水) 20:53:57.350
>>260
> 戦前の思想の反省
> 戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?

とみてきたが、最後の「無(絶対無)」については
既にポールシフトが起きている。


戦前
・西田の絶対無

戦後
・井筒の東洋的無

現在
・大乗仏教 → 原始仏教 → 仏教3.0(無 → 空へ)
・メイヤスーや千葉の偶然性(≒無、此性のある無、シェリング)


東洋哲学の前提が変わりつつある。

549考える名無しさん2018/06/06(水) 20:57:11.250
空といえば和辻。
だが、和辻倫理学体系における「空」の重みに対抗しようとしているのが、
苅部直だ。ちくま学芸文庫から、『初稿 倫理学』というのを出している。

550考える名無しさん2018/06/06(水) 21:04:32.610
>>546
その発言は>>337ね。

>>354-359などは斬新な禅哲学。

551考える名無しさん2018/06/06(水) 21:05:21.160
>>549
ありがとう。その辺読んでみる。

552考える名無しさん2018/06/07(木) 22:26:18.360
例えば、西田→井筒→中沢とすると分かりやすい。

>>515では、アジアと環太平洋を分けているし、
人類学の射程を考えると、東洋という言葉ですら手狭になった。

東洋や無ということに、こだわり過ぎる必要はないのかもしれない。

553考える名無しさん2018/06/08(金) 20:16:23.000
ポスト東洋、ポスト日本というところ

554DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 21:07:04.090
単純3連単のような哲学はちょっといらないなあ。

555考える名無しさん2018/06/08(金) 21:16:34.540
DJナツメロもな

556考える名無しさん2018/06/08(金) 21:44:50.750
>>550
でも西田は禅なんていってほしくなかったはずだけど

557考える名無しさん2018/06/08(金) 21:50:31.260
>>556
>>337には「無識の徒が私を禅などと云ふ場合」とあるでしょ

558考える名無しさん2018/06/08(金) 22:06:43.170
無識な徒=私を禅などと云う

私を禅などと云う=無識の徒

559DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 22:09:46.570

560DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 22:10:38.240

561DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 22:11:15.000

562DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 22:12:03.440

563DJgensei artchive gemmar2018/06/08(金) 22:13:44.700

564考える名無しさん2018/06/09(土) 12:43:26.520
>>552
西田(1870-1945)
・宗教哲学、数学、科学
・東洋

井筒(1914-1993)
・宗教哲学、言語哲学
・精神的東洋(東洋+ギリシャ+イベリア半島)

中沢(1950-)
・宗教哲学、人類学
・アジア+環太平洋

565考える名無しさん2018/06/09(土) 12:44:58.900
西田と井筒の間の世代にあたる人達。
宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。

・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』
・久松真一 『東洋的無』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』

566考える名無しさん2018/06/09(土) 12:46:14.220
井筒も読み返されているところ

567考える名無しさん2018/06/09(土) 12:46:41.660
『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)

序 章 井筒「東洋」哲学
  「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
 a)表層から深層へ
  コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
 b)深層から表層へ
  理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
 c)大地と理性――ロシア的人間
  ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
 a)「空」の徹底
  理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
 b)空と無
  『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
 c)砂漠と死――ジャック・デリダ
  ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
 a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
  「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
    イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
 b)〈いま・ここで=現に〉
  「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
 c)「入てん垂手」
  聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体

568考える名無しさん2018/06/10(日) 17:54:18.750
>>549
確かにその本にある様な話。
・無と虚無主義(ニヒリズム)の違い
・仏教の空は哲学に生かせるか

この種の議論は、他にも沢山ある。

569考える名無しさん2018/06/10(日) 17:54:59.500
>>97
・『「無と空」をめぐって』 上田閑照
・『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝

570考える名無しさん2018/06/10(日) 17:55:59.550
実際、空については仏教をやることになるが、
無については、色々なもと関わりがある。

・哲学
・宗教
・心理学
・数学、物理
・唯物論

571考える名無しさん2018/06/10(日) 18:00:06.310
(1)仏教と空

・『ブッダのことば ―スッタニパータ』 ブッダ、中村元訳 (1958)
 “つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ”〔第1119偈〕

(2)解説書

・『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 (1997)
・『龍樹』 中村元 (1994)
・『中村元選集 22 空の論理 大乗仏教』 中村元 (1994)

(3)更にその先(空以前、ポスト空)

・『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016)

572考える名無しさん2018/06/10(日) 18:10:36.150
西田が禅に嵌まっていたのは40歳くらいまで
それ以降は禅から距離を取り始めていく

573考える名無しさん2018/06/10(日) 19:45:54.030
>>571の龍樹には「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉がある。
これは「空という真理に達したら、そのこと自体もまた空ぜられねばならない(空に執着しない)」というもの。

574考える名無しさん2018/06/10(日) 20:14:40.550
空を絶対視したり空で終わったりするのは駄目なんだな。

575考える名無しさん2018/06/10(日) 23:39:58.400
十牛図では、絵的に見ることもできる。

576考える名無しさん2018/06/10(日) 23:41:29.720
十牛図(牛=仏性を探す図)
https://www.jisyameguri.com/books/jyugyuzu/

(1)尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
(2)見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
(3)見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
(4)得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
(5)牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
(6)騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
(7)忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
(8)人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
(9)返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
(10)入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

577考える名無しさん2018/06/10(日) 23:43:31.640
8が空

578考える名無しさん2018/06/11(月) 20:02:54.420
空を覚知した後、再び現象世界に戻ってくる

579考える名無しさん2018/06/11(月) 21:17:20.890
科学哲学の辺りもみておこう

580考える名無しさん2018/06/11(月) 21:17:58.980
純粋経験と自然科学

“現代の哲学に於て客観主義として最も徹底したものはベルグソンの哲学であらう。
 直接に与えられたる純粋経験が唯一の実在であって自然科学的世界の如きは
 却ってコンベンショナルのものにすぎない。”

― 『西田幾多郎全集12』 「第五講 新カント学派」 (2004) p46

581考える名無しさん2018/06/11(月) 21:18:56.420
“弁証法とは何処までも具体的な思惟でなければならない”

“自己が物の世界に入り、物そのものとなって考へることである。”

“対象認識の科学といふものは具体的実在から推論式的に媒介せられると云ひ得るかも知らぬが、
 哲学は具体的実在そのものの自己媒介から成立する学でなければならない。”

― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p223-224

582考える名無しさん2018/06/11(月) 21:19:30.990
“経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
 生きた全体の過程として見るのである。”

― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238

583考える名無しさん2018/06/11(月) 21:20:10.850
“私の行為的直観とは科学的実験といふことである。
 物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、
 自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。
 そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。”

― 『西田幾多郎全集8』 「絶対矛盾的自己同一」 (2003) p388

584考える名無しさん2018/06/11(月) 21:21:01.890
“数学は人間の工夫であるが、自然と数学との間に偶然ならざる対応がある。
 測定を正確にすればするほど、自然は数学的言表に近づく。
 その為、人は抽象的な数学の原理が自然の中に働く如く想像もした。
 併しそれは測定の程度の低かつた時のことであって、今日は最早さうではない。
 測定の過程を如何に精密にしても、無限にユークリッド幾何学に近づくことはできない。”

― 『西田幾多郎全集8』 「経験科学」 (2003) p432

585考える名無しさん2018/06/15(金) 23:48:11.990
>>576
ハイデガーは十牛図を見てシレジウスと重ねたという。
シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)

586考える名無しさん2018/06/15(金) 23:49:12.880
“神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”

“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”

“神は無であり、すべてである。(197)”

― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992)

587考える名無しさん2018/06/15(金) 23:49:45.330
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。

588考える名無しさん2018/06/15(金) 23:50:26.670
“パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”

“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
 すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
 神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”

― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006)

589考える名無しさん2018/06/15(金) 23:51:11.190
>>588
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷、上田らの編集で、巻末に詳しい解説もある。

590考える名無しさん2018/06/16(土) 09:19:42.530
コピペして自己レスかよw
どんだけ寂しいんだw

591考える名無しさん2018/06/16(土) 11:58:25.800
キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」

“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”

― 「フィリピ」 2:6-7


ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。

592考える名無しさん2018/06/16(土) 11:59:05.790
>>591
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の

・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス

が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。

593考える名無しさん2018/06/16(土) 11:59:41.470
この種の話題も、このスレの扱うところ

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