生まれ変わりはあるかね? [無断転載禁止]©2ch.net
生まれ変わりはないよ。当たり前のことだけど、死んだら無になるだけだよ。
世界を認識したり、自己を認識したり、物を考えたりする作用は、脳の活動によるものだから、死んでその脳がなくなっちゃったら、単に無になるだけで、魂なんてものはないよ。
魂はないんだけど、再び「自分」が生まれてくる可能性は哲学的に考えてありうるだろう。
自分から見て他人は「他人」だけど、その他人から見ればその他人は「自分」であるわけだ。世の中には無数の「自分」がいる。
自分にとって「自分」は自分一人だけで、自分が生きている間は他人の「自分」を体験することはできないわけだが、死んで「無」になってしまえばその「自分」はなくなってしまうわけだから、いずれかの他人の「自分」を「自分」として認識することになるというわけだ。
つまりまあ、これが一般には輪廻転生と呼ばれているものに該当するというわけだ。ただ前の「自分」といまの「自分」との間には何の関連性もないわけだけどね・・・
生まれ変わりはない。だが「自分」はまた出てくるわけだから、安心して死んでいいよw ,: /> <\ :,
,::</ \>:, ヘッヘッヘッ
,:.-≼☉≽-i、-≼ⓞ≽-´,
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,:: / ー-' ヽ. :.', 波平くん純一くん
. /.: :.| ト‐=‐ァ' |.: ::.', いるんじゃろろ〜?
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┌、. / ヽ ー‐ <.
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∨ 〈-=、.__ } >>3
自分にとってつねに「自分」はこの自分だけである。
つまり自分が存在するために、自分は他人の「自分」を体験できない。
ならばこの自分が死んで無になってしまえばどうか?
他人の「自分」を認識できない唯一の障壁となっているのは、まさにこの自分の存在のためであるから、その障壁がなくなってしまえば、結果他人の「自分」を自分の「自分」として認識できるわけである。
その他人の「自分」を自分の「自分」として認識する自分と、以前の自分の間に何かのつながりはあるだろうか?
いや何もつながりはない。以前の自分もいま他人となった自分もただ「自分」であるだけだある。
もし生きていれば、いまの新たな他人である自分はまったくの他人であったはずだが、自分が死んで無になったことによって、その新たな他人が「自分」となったわけである。
ここで「無」は完全な無かという疑問がわくだろう。
宇宙はその誕生以前は無であった。しかし完全な無ではなかったようである。
完全な「無」というのは観念の中にのみ存在するもので、現実には存在しないものかもしれない・・・
ヒトは死んで無になるが、それは誕生以前の宇宙と同じ状態のもので、完全な無ではないのかもしれない・・・
完全な無というものは存在しないのだから。 |┃
|┃ 三
|┃ /''~⌒`´⌒~''ヽ
|┃ ガラッ / ∧ ヽ
|┃ 三 l ノー;;;;;' ll ゙;;;;;;-'ヽ l 待たせたようじゃな♪
|┃ 彡 ,,◞≼🍮≽◟◞≼🍨≽◟ ,,, ミ
|┃ 三 /.( )( 🐽 )( .)\
|┃ ~リ〈∵;∴) ll (∴;∵〉ソ~
|┃ ノヽ. / ∈🍈∋ ヽ ノヾ ぷりろっ ぷりろっっ!
|┃ 三 / ヽ:.__;;;;;;;;;;__.ノ ヽ
,⊆ニ´⌒ ̄ ̄" y .;ヽ
゙⊂二、,ノ──-‐'´: ・ 人 ・ ,.y i
|┠ ' |  ̄  ̄ .| .|
|┃三 | ノ. ノ
|┃ |. (x) 9 /
|┃ | 彡 イ >>5
遺伝。ここで混同が見られる。
子は自分にとって「他人」だ。それは赤の他人が自分にとって「他人」であるのと少しも変わらない。
子は「自分」ではなく「他人」だからだ。自分の特質や性向を継承していたとしてもだ。
DNAを引き継いでいるかいないかは関係ない。「自分」であるか「他人」であるかだけが、問題なのだ。
子は自分にとって「他人」である。
孫も大方の場合、自分にとって「他人」である。
だが子を産んで早死にした場合、孫が「自分」である可能性はあるだろう。
まったくの赤の他人が「自分」であるのと、同じくらいに可能性があるだろう。
「自分」の再出現と遺伝との間には何の関係もない。 自分の親が亡くなったら、自分の親が、自分の親を認識しているときの親を認識しているって意味わからんけど
[自分]っていう国語的な意味の出現が
1とか2とかいう数字のような数学的で抽象的な意味の出現と変わらんのか
円の外線は中心から同一距離だとか
消ゴムの[1]と鉛筆の[1]が相違ないということと、その構造そのものが異なるということは無関係だとか >>8
>>自分の親が亡くなったら、自分の親が、自分の親を認識しているときの親を認識しているって意味わからんけ
それは意味がわからん。自分の親が亡くなっても、自分の親が、自分の親を認識しているときの親は認識できん。それは当たり前である。
キミは自分の論理に従って、当方の言った意味を捻じ曲げて捉えている。
ここでは「自己」と「他者」のみを問題にしている。自分の親は自分ではなく他人であるので、「自己」と「他者」の観点から見た場合、まったくの赤の他人と同じである。
親であるか子であるか赤の他人であるかはどうでもいいことで、「自分」であるか「他人」であるかどうかだけが問題である。
自分がいる限り、他人を「自分」として認識することはできないが、自分が死んで無になることで、その他人を「自分」として認識することができない障壁がなくなるので、以前の自分から見て他人であったはずの者を「自分」として認識することが可能になるということだ。
それはつまり、生まれ変わりとはいえないが、結果として、生まれ変わりと少しも変わらないということだ。 ずいぶんと変わった論をお持ちのようで、
死んで無になると考えていながら
輪廻するという論は、めったに聞かないですね
肉体が死んで輪廻するなら、肉体以外の何かが
存在するごとになると思いますが… AIは死を超越している点を利用して
個の体験の記憶(オリジナルな思考フロー、映像)を
常にクラウドに記録しておいた場合
汎用AIにそのクラウドの個人データをロードすると
どうなる? >>12
同じ知能を複製して完全一致の1000体のロボットがそれぞれの行動を見ればいい >>10
輪廻はないです。しかし結果として輪廻と同じようなことになるという考えです。
死んだら何もなくなり無になります。
死ぬ前の自分と、次の自分は完全に別物です。
ただ「自分」という点だけが共通している。
例えば自分も「自分」を認識している。他人も「自分」を認識している。
その「自分」という点が共通しているのと、同じです。
しかし自分が生きている間は他人の「自分」は認識できません。
死んで無になることによって、他人の「自分」が他人のものではなくなるのです。
これが輪廻はないが、現象面で輪廻と同じようなものはあることの説明です。 >>13
脳をコピー&ペーストしても、100人の「自分」はできません。
哲学的に「自分」は必ず一人だけであり、他のコピーされた知性体はすべて「他人」です。
「自分」とそっくり同じな99人の「他人」ができるだけです。
自分と同じであるか、異なっているかは、「自分」の移動には何の関係もありません。 >>17
魂はないよ。当たり前のことだけど、死んだら無になるだけだからね。
だが「無」とはなんだろう…?
宇宙は無から始まった。しかしそれは完全な「無」ではなかったらしいのだ。
百歩譲ってその不完全な「無」のことを、魂といってはどうだろう?
不完全な「無」とはどういう状態なのか?それは誰にもわからない。
だがひとつだけ確実に言えることは、その不完全な「無」である魂には心はないということだ。
何故なら、自分を認識したり、下界や他者を認識したり、モノを考えたりする作用な、すべて脳の働きによるものだからね。
だからその脳がなくなってしまえば、当たり前のことだけど、心もなくなってしまうということだ。
百歩譲って不完全な「無」である魂の存在を認めるならば、それはどんな形の精神作用も有しない、どんな意味での心も持たないものだということだ。
つまり魂に「心」はないということ!! >>18私が思う、これが確からしいって論ではですね、覚者、聖者、悟者ってのは、貴方の言う通り、本質は無のようなものなんです、だから意識も無いし心も無いのはほぼ同意。でね、それが人間に内蔵された時、その肉体には精神も思考も心も装備されてるんです。そんな感じ 無のようなものから微量分離して、人間という複合体(肉体、精神、思考)に内蔵されるんです。でね、覚者じゃない普通の人は、内蔵された本質に気付かづに、人間という複合体を自分だと思い込んで生きてるんです。なんとこの複合体は自動で動くぬいぐるみなんですよw この複合体が、ぬいぐるみであると気付いて、ぬいぐるみを脱ぐ事が出来たらいいんですが、九分九厘の人は気付づかないまま死ぬんです、
すると、ぬいぐるみ複合体の内の肉体以外が、輪廻するんです、輪廻の時は肉体だけは新品になるんですね、そしてまた自動で動くんです いいですか、この時、前世のカルマを背負いますよ、気を付けてね。
自動ぬいぐるみ複合体(肉体、精神、思考)の事を自我といいます。
ぬいぐるみを脱ぐ=自我を捨てる
なんですね^^ んで、その自動で動く自我が、自動で思考して自動で怒ったり泣いたり気づついたりしてるんです、そして自分の本質はその自動で動いてる自我が自分だと思い込んでいるんですよ、自我から離れてみれば、何が起こっても平常心で居られるんです。哲学してるのは自動自我ですよ こういう事を知ってる人が
無知の知を理解してる人なんですね 認識する能力は脳によるものであって、脳が破壊されることによって他人の自分を自分として認識するできるようになるのは脳の機能に因るものなのか? >>27
詳しくは
>>25
を検索して読んでみて下さい
様々な事が分かると思いますよ 自分という人間が細胞分裂してふたりになった。
そのうちひとりは「自分」で、自分とまったく同じもうひとりは「他人」である。
しかし自分がいなかったら、もうひとりの他人が「自分」になったであろう。
では自分が死んだら、自分はその他人に乗り移るか?
そうはならない。自分は無になり、もうひとりは他人のままである。
死ぬ前に他人になったものが自分になることはない。
自分は死んだ後に、どこかの他人に現れる。 >>30
自分の不思議
「自分」が細胞分裂してふたりになった。
そのうちひとりは「自分」で、自分とまったく同じもうひとりは「他人」である。
ではひとりだけが「自分」をそのまま引き継いで、もうひとりは「自分」を引き継がず「他人」になったのか?
いや、もうひとりから見れば「自分」は「自分」をそのまま引き継いでいるのであり、こっちの「自分」のほうが「自分」を引き継がず「他人」になったように見えるのだ。
つまり両方の「自分」が「自分」をそのまま引き継いでいるわけだが、「自分」が同時に2カ所に存在することはあり得ない。
片方から見ればもうひとりの「自分」は「自分」ではなく、あくまで「他人」なのだ。
この部分は非常に理解が難しい部分だ。 >>31
当たり前だ。人間はアメーバやゾウリムシではない。人間は細胞分裂などしない。
「自分」と「他人」について説明するために喩えて使ったまでだ。
そのくらい分かるだろう?わかってることをわざと言うな!!! >>18
キムチさんのお考えに、ほぼ同意です。
特に「自分」が「自分」を認識することに於いての輪廻の考えなど、非常にわかりやすい。
しかし、魂が無く、死んだら無になる根拠は何でしょう?
私達が出来る、哲学的な思考と科学の知識を持ってして、
魂が無く死んだら無になるという結論は妥当で、私もそう考えています。
しかし、どんなに妥当でも、仮説の域を出ず根拠がありません。
なぜなら、死んだ後のことは、
死んでみないとわからないからです。
生きている時分さえ、「魂」というものが在るか無いか、
「無」というものが、どういうものかも言いきれないのに、
なぜ断言出来るのでしょう。
もし、根拠、理論などありましたらお聞かせ下さい。 >>19 〜 >>24
仏教思想に於ける、俗に言う
「輪廻転生」「自我」の考えですよね。
>>20 無のようなものから微量分離して
>>21 ぬいぐるみ複合体の内の肉体以外が、輪廻するんです
これって、単純に「魂」といってもよいですよね?
そうすると、キムチさんの輪廻の考えと違うのは
>>22 いいですか、この時、前世のカルマを背負いますよ、気を付けてね。
固有の「魂」が輪廻し「転生」、生まれ変わるという点です。
つまり、「自分」が「自分」を認識し、哲学している「自動自我」ではない別の
「魂」のようなものが死ぬと「ぬいぐるみ」を脱ぎ、また転生し、新しい「ぬいぐるみ」を着ると。
そして、前世のカルマを背負うということは、絶対無二で固有の「魂」が「輪廻」していることになります。
この考え、思想を否定するつもりじゃないんですが、
これが真理だとすると、絶対無二で固有の「魂」が在ることが前提となります。
絶対無二で固有の「魂」が在ると断言する、根拠は何でしょう?
また、その無のようなものから微量分離してぬいぐるみ複合体の内の肉体以外の「魂」のようなものが
「輪廻」し「転生」すると言える根拠は何でしょう?
よろしければお聞かせください。 連投すいません。
根拠、根拠ってうるさいかもしれませんが、
結構、マジで生まれ変わりについては考えてたもの。 字足らず、すいません
結構、マジで生まれ変わりについては考えてたものなので。。。
です。 人間は細胞分裂しないってところにつっこまないのかよ
アイドルはウンコしないだろうみたいな
中世の未開人のあぶない感じ >>35さんへ>>28の通り
>>25を検索して下さいませ
私も修行中でして明確な説明は出来かねます
>>19〜>>24は私なりのダイジェスト版です >>19 今更ながら訂正ですm(._.)m
>意識も無いし心も無い ←×
>意志も無いし心も無い ←○ >>39
ダイジェスト版と言うか"つかみ"ですね^^ >>35
当方、魂という言葉は好みません。
魂というとそこに意識を持っていそうな誤解を招きやすい言葉だからです。
当方魂ではなく、無という言葉を使用したいですね。
輪廻転生については、その主体がなければなりません。当方、輪廻転生に主体はなく、
「自分」が死ねば「無」になる。そして再び「自分」が出現する。と考えております。
だから当方の考える輪廻転生は厳密には輪廻転生ではなく、哲学的に「自分」は必ず存在するものだから、そうなるとでもいうべき考え方です。
無論以前の「自分」といまの「自分」との間には、何ひとつつながりはありません。いまの「自分」は「自分」ではありますが、以前の自分から見れば「他人」です。
」 >>34
>>しかし、魂が無く、死んだら無になる根拠は何でしょう?
死んでなくなるものは、意識です。自己や世界を認識する作用、それらはすべて脳の活動によるものなので、死んで脳が活動しなくなれば、なくなってしまいます。
魂を「無」という言葉に置き換えれば「無」はあるかもしれません。
「自分」は死んで「無」になり、そしてふたたび「自分」が現れるのです。
この「無」は宇宙誕生以前の「無」に似ていると思いますが、それがどのような状態なのか?・・・そこまではわかりません。 >>42
>>輪廻転生については、その主体がなければなりません。当方、輪廻転生に主体はなく
この「主体」があると仮定して考えると、その「主体」は身体と一体しているはずなので、私達はそれを知覚し認識はすることは出来ません。
腎臓のみを知覚しろと云われ、出来ないのと同じです。
だからといって、「主体」が在るとは云えませんが、私の思考では反証が出来ません。
「主体」は実態のないものだからない!と切り捨てることも出来ますが、実体のない時間や空間は在ります。
輪廻転生に於ける前提の「主体」がないと考える根拠は何でしょう?
質問ばかりですいません。 >>44
主体を「無」という言葉に置き換えてよいなら、主体はあるでしょう。状態が「無」である主体なら、あると考えます。
ではその「無」の状態とはどういうものか?それはわかりません。
完全な「無」ではなかったといわれる宇宙誕生以前の「無」に近いものではないかと推察します。
ちょうど心や意識を持たない、石ころのようなものではないでしょうか?石ころには実態がありますから、「無」は石ころよりももっと無に近いものでしょう。
もし人間に魂があると仮定するならば、それは石ころの「魂」と何ら変わるものではないでしょう。
つまりどんな意味での意識や精神活動を一切持たない、まったくの完全な「沈黙」です。
それこそがあなたが「主体」と呼ぶところの「無」ではないでしょうか? 私が死んだときとあなたが死んだときの状態は違うと思いますか? >>46
私が死んだ時もあなたが死んだ時も、同じ状態になると思います。
何らかの意識も何らかの活動もまったくない、100%の「沈黙」。したがってそこに区別はないでしょう。
区別はないけれども、その「無」から「自分」が生まれたり「他人」が生まれたりするのでしょう。
ひとりの人間をコピーして2人にした場合、1人は「自分」でもう1人は「他人」であるのと同じように・・・
区別のないものからでも「自分」と「他人」が生まれてくるのです。 >>43
「意識」がなくなることを根拠に、死んだら「無」になるのですね。納得です。
しかし、そうなると少し奇妙なことにもなります。
生きている間も、「意識」はなくなるからです。
寝ている時や植物人間状態になった時などです。
この場合、「死んだら無になる」という意味合いの、なにもなくなる「無」ではなく、厳密には「有」になります。
なぜなら、「生きている」からです。
しかし、奇妙ではあるが問題はないですね。
>>43 >>「無」はあるかもしれません。
「無」が「在る」ということに於いて、「無」は「有」であり
>>18 しかしそれは完全な「無」ではなかったらしいのだ。
キムチさんが言及しているように、「無」とは厳密には「有」であるだけです。
単に死んでいようと生きている間だろうと、「無」という現象は起きているに過ぎない。
そうなると、死んだら「なる」、「無」とは「有」なのだから、
生まれ変わりはあるか?という問いをもう少し考察する必要がありますが、
ここまでくると「有」である「無」というものについて語り、解明しなければいけないので無理ですね。
そして、おそらく「無」より大事なのは「在る」ということ、
「存在」というものを解明しなければ「無」というものはわからないと思われます。
確実に無理ですねw
納得したので、まとめて去ります。
死んだら「無」に「なる」が、その「無」とは無ではなく、厳密には「有」である「何」かである。
かしこ。 「無」は「自分」を認識することはできない。
その意味で「無」に「自分」はない。
「自分」を持たないもの。それが「魂」だろう。
ではどの「無」も同じものなのか?
「無」に独自の傾向はないのか?
それは非常に難しい問題だが、「無」に傾向はあるかもしれない。
「無」の傾向のことを「カルマ」というのかもしれない・・・ 石ころは心を持たず、考えたり感じたりすることはできない。
何故なら「脳」がないからだ。
だが魂はあるかもしれない。「無」という名の魂が。
これは考えることができないという点で「人間」の魂と同じ構造のものだろう。
だが波長というか傾向の違いはあるかもしれない。それは「カルマ」と呼ばれるものである。
したがってその「無」の波長に応じて、石に生まれたり、人間に生まれたり、無から生み分かれる。 輪廻転生がないという証明は死んだら全てが無になるからでは説明できていないのでは?
死者は沈黙するから死後についてのその答えを生者は永遠に得られない。
あるかないか不確定なものは空想的に存在しているのでは?
転生前の記憶があるものは?
意識的に記憶を作り出しているだけ?
輪廻転生を否定することには少し足りない。
死んだら無になるということは身体的な死により意識やいわゆる魂という精神的なものも強制的に閉じられる。
行き場の喪った精神的なものが辿り着くところへは誰も一緒には行けないのだから。 >>51
うーん、意識や精神的なものを抜きにすれば「魂」は認めてもいいよ。
といっても「魂」というとどうしても意識や精神的なものをくっくけたがるだろうから、ホントは「魂」という言葉は使わずに「無」という言葉を使ったほうがいいのだけど・・・
この部分は、何回言っても、議論が振り出しに戻って意識や精神的なものが「魂」にくっついてしまうだろうから、当方疲れるんだけどね・・・w
当方意識や精神的なものがないという意味で「無」という名の「魂」を認めてもいい。 >>52
これはしっくりきた。
無なのだけれど有。非物質的なもの。質量のない光に近いものだと思う。 魂に無と言う言葉を冠するのなら、もはやそれは此れ此れであると示せるような対象ではなくなる
インド哲学で魂に相当するとされるもの、アードマンは認識するものと説くが認識するもの自体を
認識することはできないので本来的な意味において対象化できる魂には相当しない
仏教の無は、空と呼び変えて差し支えないが空と言うのは満たされた過不足のない状態を
指すので何もないことでも無ければ物質でもなく1つの概念を指す 生きている間にも死に近い状態は誰でも経験している。
それは熟睡状態である。
生理的には熟睡状態でも脳は活動しているのだろうが、少なくとも当人にとって意識や精神的なものが働いているという感覚はまったくなく、つまり完全に無になった状態にある。
自分の存在を自覚することも外界を認識することもなく、まったくの無になっている。
死後の魂とはこれに非常に近い状態ではないだろうか?
魂が自己を認識する時、それは再び生まれた瞬間だろう。 >>55
なるほど。転生までの時間が短い人がいるから前世の記憶を持つ人が偶発的に生まれると考えるとしっくりくる。 >>55
>生きている間にも死に近い状態は誰でも経験している。
>それは熟睡状態である。
仏教では、熟睡している時や、気絶している時でも、
阿頼耶識や末那識は働き続けていると考えられているよ。
つまりキムチ氏は、仏教的に見れば表層意識的なものを「自分」と考えているんだろうね。
キムチ氏は『「自分」が死ねば「無」になる。』と書いているけれども、
私たちが普段「自分」と思っているもの(表層意識的に見られた「自分」)は、本当の「自己」ではない、
というのが、仏教の無我説だね。 うーん
催眠から目覚めた今日の自分が昨日と同じ自分だと断言できるのは何故?
それは昨日の記憶があるからでは?
死んでないから脳が日々を媒体し、断続的に毎日が続いていく
脳が勝手に記憶しているものに自分の意思はない
もし日本人Aの記憶がある
アフリカ人Bがいてこの人は日本に触れ合う機会も全くないのに確かに日本人Aの記憶がある
この場合は確かにAとBは別物
でもAとBは同じ記憶を有している
私たちは決してAの記憶を有しているBをAだとかAの紛い物だとか言わない
確かにBだとおもう
これは輪廻転生じゃないの?
これを否定する根拠が欲しい
あるようでない魂?
では記憶はどう説明するの?
Aの記憶はあるけどAの意思はないBはなんなの?
Bのよくできた妄想がAの記憶と重なっただけ?
AとBは全くの別物だよ、でもAの記憶を有しているBは何者?
他人だとは認めてる
自分ではないと知ってる
そもそもキムチさんと私の前提が違うだけ?
キムチさんの輪廻転生は何をいうの?
全く同じ自分が死んでから生まれること。輪廻転生というの?
それだと何か違うんじゃない? 私、馬鹿だなー
全然、理解できない
キムチさんの生まれ変わりと輪廻転生は意味が違うの?
生まれ変わりも輪廻転生もAとBは別人だと認めてる言葉じゃないの?
なのにBは自分Aになりえないってどういうことなんですか?
誰か賢い人助けて! 生まれかはり、死に固定 ハンドルネームと 名無しさん。 >>58
Aの記憶を有しているA'はAの続き。
Aの記憶を有しているBはAの続き>
A’もBもAから連続した自己同一性を等しく保持している。
しかし「自分」は同時存在はできないので、A'とBは他人。
A'はBの生まれ変わりでもない。A’とBはただの他人。
ではA'が死んだら、BはA'の生まれ変わりとなり得るか?
いや、「自分」は同時存在はできない理由から、「自分」が存在している間に既に「他人」として存在していたBは生まれ変わりにはなり得ない。
A'が死んだら、新たに生まれてくるまったくの「他人」こそがA'の「自分」になり得る。 生まれ変わりといっても親からもらった体を一度として捨てるわけにはいかないだろう。
生は流転するのみ。 >>62
難しいー!
A´はどこからきたの?
わたしにとってAはわたしでBはあなたであのひとはCだ
それ以外に何もない
あともちろんだけど
Aの記憶を有しているBはもちろんAより後の生まれだよ
死んでしまった人間の記憶を何故か知っている、全くの赤の他人Bを否定するにはどうしたらいい?
わたしにはそれができない
だから生まれ変わり、輪廻転生はあり得ると思っている
生まれ変わりの定義は曖昧だ
まず生まれ変わりの定義が必要
人間から犬になったり
虫から人間に生まれ変わることもある
人間が人間に生まれ変わる根拠はない
肉体的にも精神的にも同一の生まれ変わりはもちろんあり得ないのではないかと思っている
生きる時間が違えば別人だ
わたしが生まれ変わりの肯首だから理解できないの?
ならごめんなさい <<64
A'はAからきた。BもAからきた。
もしAがまだ存命なら、Aから見てA'とBは他人。
もちろん物理的にはAこそがAの正当後継者、というよりかAはそのままA。
しかしA'の視点から見たら、A'こそがAの正当後継者。
Bの視点から見たらBこそがAの正当後継者。
そしてA、A'、Bはお互いにそれぞれ他人。 >>63
>親からもらった体を一度として捨てるわけにはいかないだろう。
物理的には心、精神、意識も親からもらったもの。何故ならそれらは「脳」の働きだから。
「脳」のないところに心、精神、意識はない。したがって「魂」には心、精神、意識はない。
「魂」とは限りなく「無」に近い、単なる情報体、エネルギー体のようなもの。 シンプルに
生まれ変わりはあるのか
それともないのか
では生まれ変わりの定義は?
死んだ人間の次に生まれてくる存在が
身体的に同一であることをいうのか
同じ記憶を有しているのか
同じ意識を有しているのか
でも現実的に死んだ人間との連続性を証明できるのか?
できない
することは不可能だ
未来は常に未知である
死んだら無になるから
これは解答になりえるか
未知な未来への証明だね難しいのは 生まれ変わりがあるってことは命の総数が決まってるってこと
命の総数は増えてるから生まれ変わりはない 因果残した人は転生するとか、当人死んでも物理的に遺伝子半分現世彷徨っちゃうからね 生まれ変わりがあったとしてどんな価値があるんだ?
記憶が引き継がれないなら価値が何もない
PCだって記憶装置の中身が重要だろ
本体なんて壊れても中身を移せばそれで十分
輪廻転生なんかに価値はない
はい論破 例えば記憶の完全なバックアップができ別の体に移す技術が隔離したとしよう
目の前で同僚が事故死しても翌日にはバックした記憶を写した新しいカラダの同僚がくれば大抵の人間はそれで皆満足するだろう?
容姿が変わっても業務に支障はないし友人付き合いも変わらない
勿論モデルや俳優などなど容姿が業務に直結する職業では問題がある為高めの保険に入る必要はでてくるだろうが つまり魂とは情報である
明確な形を持たず受け継がれていく情報であり文化であり遺伝情報
既に魂とは何かと解析されているんだよ そんなこと言うなら他に妥当なものがあると言うの?
お花畑の向こうの世界や死後に何グラムか消えるとか言うよりまともだと思います >>73
これはしっくりくる。
何か伝承され受け継がれていくものを魂というしね。師弟関係で魂を受け継ぐとか。精神や思考に力として作用する形のないもの。オカルトフォースだった万有引力に近いものだと思う。ただファクターが質量ではなく遺伝情報とかそこらへんなのかな? >>68
納得しそうになった
けど絶滅している動物とかいるよね
人間から人間との生まれ変わりだけでなく
人間からその他の生まれ変わりがある
とすると
命の総数は増えてないのかも? >>77
そもそも命というリソースの総数を君は把握しているのか
それも明かさずに決まっているというのはおかしなことだ
前提条件に合理性が何もないのに納得する点が見当たらない
物質保存の法則化それとも出玉と入れた球の総数などを勝手に想像して納得しているようだがそれと難の関係もない話で錯覚しているだけだ 人にとって何が価値ある事なのか
先ずはそれを良く考える事だ
既にAIは目に見える範囲で人の知性を上回り
脳の解析もMRIの進歩などにより進んでいる
遺伝情報も解明され倫理や法を無視すれば
遺伝子プリンターであらゆる動物や植物との合成生物すら作れる時代に既になっている
勿論クローン人間も技術的には問題なく作れる時代であり恐らく既に作成しいるだろう
そういった時代において人間とは思考なのか肉体に依存するものか
真剣に考える時代が目の前にきている
恐らく今生きている人たちの多くがこれから取り組むべき問題だ
魂を最も尊いものと捉えるならば
魂とは肉体に宿るのか記憶や宿るのか明らかにしなければならない
既に肉体と記憶は分かつ事が出来る時代に差し掛かろうとしているのだから 生まれ変わりを肯定的にとらえるやつは
必ず失敗する。これをやって失敗した宗教はいくつもある
絶対的差別に繋がりやすいのよね
そもそも死んだことも無い人間がわかるわけがない
つまり詐欺確定。 >>81
性別を入れ替えることが出来る
肉体を入れ替えて若返ることも一気に大人になる事もイケメンになる事もお金次第で出来る
無茶やって体を壊す事に悩む必要もない >>77
ビックバン宇宙論を正しいとするなら、ビックバン直後は命の総数はゼロ >>84
ありがとうございます!
すごく納得できました
馬鹿なんで失礼いたしました
>>79さんの命のリソースとか分からないですけど
命の総数が0だった頃から
地球がいくつもの命を育んでいき
多様な意思・記憶・情報が溢れるようになった
その中で意思・記憶・情報の同一性や類似性が見られるようになった
けれど人間という単位では一人として同じものはなく、例え一卵性双生児だとしても、互いは他人同士である
よって死んだら無になり
生まれ変わりなどありえない
けれど死後の世界を誰も証明できないから
概念的には生まれ変わりというものを否定することはできない
と皆さんのレスで納得しました
こんなんでいいのかな? 否定する前に肯定する事すらできない
つまり妄想の類で現状議論に値する価値がない >>67
生まれ変わりはあるのか?ないのか?
生まれ変わりはないだろう。
死んだら宇宙に溶け込んで「無」になると思われる。
しかし次の「自分」は生まれてくる。
この「自分」は現在の自分とは何の関係もない自分だ。したがって生まれ変わりはない。
ただ「自分」であれば充分だ。「自分」であれば充分だろう。
したがって生まれ変わりはないが、擬似的な生まれ変わりはあるだろう。
生命の総数。それは特に決まってはないのではないかと思う。生命は宇宙から沸いてくる神秘的なエッセンスだから、その時々で1の時もあれば100兆の時だってあるだろう。 なんで溶けて無になるのか
そもそも何が溶けるのか
そして次の自分とやらは何ですか?
そしてなんで生まれてくるんですか?
何一つ説明がないんだけど
どう言う事?w
中2病が 酷過ぎる 以下の中で一番強いのはどれだと思いますか?
全(全て)、無、どうなってもいい、考えない、痛む、痛みに耐える、なんでもあり
観測者不在、不定、自由自在、想像することすらできない、感じることすらできない 意識が無 を経験すると 意識身体精神が有 の状態になります。
永遠に生きる義務はないが、永遠に生きてみてもいいでしょ。 >>94
踵を削ぎ落としても生爪を全部剥がしてもね
水虫は治らないんだよ
おばさん 自分から見れば他人は「他人」だが、他人から見ればその他人は「自分」である。
自分が死んで次に生まれてくる「自分」というのは、この「自分」によく似ている。
いまの自分から見れば次の自分は「他人」だが、次の自分から見れば次の自分は「自分」である。
生まれ変わりはないが、擬似的な生まれ変わりはあるというのは、こういうことである。 死んでみないと死後のことはわからないという人がいるが、考える行為、見る行為、認識する行為はすべて脳の働きによるものだ。
死んだら、この脳が停止してしまうので、死後のことはわからなくなる。
死んだらわかると考える者はバカだ!
生きているからこそ、死後のことを考えたり推測したりすることができるのだ。 そうじゃ無いよ
死後の世界があろという人がいて真実を語っているのなら脳の活動と思考能力は因果関係が無いという前提で考えているんだよ
君は論理的思考能力が低く問いを正しく理解できていない 少し別の話でテレパシーが量子もつれで生じ、
似通ったDNA配列間でのみ強く起こるのであれば、電子等の素粒子の相互作用がそれらに関与しているというのが論理的帰結であるが、魂というのがそういったミクロな世界の事象であるならばマクロな脳の活動そのものの挙動には関与しないとも考えられる。