悟りに近づくために10
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筋肉が緊張する病の場合、身体のあらゆる部分について、「皮」を掴んで、押しつぶすようにすると、回復する。
耳たぶや、お尻、脚など、どんな場所でも効き目がある。 自力本願でもない、他力本願でもない、皆力本願だ!!! 現代物理学について調べた上のことなのか?
調べないで書いているなら、それこそ、無根拠な思い込みだ 問題に感じられても、答えがない場合もある。だからといって、考えの行為自体が無意味であるわけではない。
単体の問題だけではなく、繋がりあって何らかの意味が感じられるようになっていることが、かなりあるはずだ。
個人にできるのは、答えがないかあるかに関わらず、一生懸命に考え詰めることだ。
考えより行動だ、などの問題が浮かんできても、それは、人を屈するということになってはいけないし、
それに対して、お前は従えなどと、いう圧力が感じられることもある。
それに対するためには、考えて、その正当性を調べ、自分が感じる不満、憤り、不信に対して、
答えを導こうとする思惟について、それがまず絶対最初に、自分の自由でできる、そして、大事なことなのであると、
思わなければならない。答えを与えず、命令するといったたぐいの感覚について、馬鹿のように従う必要はない。
哲学をやるのなら、考えが仕事だと、思いたいはずだ。僕は個人の意見として、右に倣えでなければいいと思う。 哲学とはもっと柔軟に考えることなんじゃないか?
「常識的にありえない」で終わらせてる人が多いように思う >>858
短く言うと「その言い方が気に食わん」か 無から何かが始まるなら、何かが無に帰しても、それは終わりではなく、
始まりでしかないだろう。何も終わらない。何も終わらないのに、
始まりだけがあるのか。 >>860
うーん、内容の方が気に食わない気がするのだけれど、言い方っていうのも、実に問題となることではある。
>>861
サークルゲームっていうやつですかね。
https://www.youtube.com/watch?v=V9VoLCO-d6U 僕の頭の中では、全てが自立していて、全てが親密だよ。 2+2=80という社会的常識を信仰するよりも、2+2=4という科学的事実を悟る。それが、仏教徒の生き方だ。 みんなが言ってるから常識を信仰する?
みんながどう言おうと現実を悟る? 誰かが言っているから信仰するか?
誰がどう言おうと悟るか? 妄想でなければいいのですよね。そこに、仏教の正当さがあるはず。頼れるほどの考えである、哲学的にはいかに、人、
自己を救うかというテーマがある。大木のように伸びる、仏教宗教の、存在性。迷うことが生きること、
覚めることが悟ること、つまり、自分が一番よく知っていること、それはすなわち、考えの達成。
どこから、いつ、悟りに向けた生き方の、ことを、頭の隅においておけば、文化は豊かになり、
ばちが当たるということは、内的に理解されるものであるという、素晴らしい精神性を、言葉にして、
概念を伝えて、自己について、徹するほどに、自分のペースでいいのですから。 よくわからないことも愛する。
未来も過去もなかったとしても。
一次的な不調にやられるわけにはいかず、
何も覚えていなくても何かはあると信ずる。
そしてすべての差別を撤廃する。
死ぬからこそ生きる。
わからないことが、悪いことだと思わずに、
自分の心を預ける。
他者の悟りと我が悟りは、同じであるとわかるだろうと信じる。 信仰とは、怨念であろう。
宗教信者は迷妄を作り、そのことを信仰と呼ぶ。
耐え難い現実に、迷妄を作ってやり過ごす。
悟りとは、迷妄を除去して耐え難かった現実に適応して行くこと。その過程でたくさんの怨念が、封印を解かれて昇華していく。
だから、信仰=怨念で、悟り=成仏で、迷妄は信仰するもの、真理は悟るもの。 ある問題が解けなくても、ある程度のところで、「自分の意志を使って」諦めほかのことへ考えを移せ。そして、
色んな事を、考えたり、移ったりして、沢山の問題を抱えていて、それを考えていることになる。それが効率が良く、悟りでもある。
意志を持つこと、意志を使うことであり、他人をうらやむ気持ちは、全くなくなる。こだわらず、いくつかの問題を、同時に抱えながら
生きることになる。それが、普通な、良い方法なのである。誰にも、何にも、過剰にコントロールされないのである。
気持ちが楽になる、限界を責められない。
なんとすればそれは、課題の問題を、自分の問題として自分の能力で片づけることである。 >>871
怨念は、反省していることの証拠(問題化はしているから)。迷妄の除去は、一種のセオリーを導き出すことによる。
その段階によって、悟りの段階が違う。真理とは、自分ではどうしようもないもの。であるから、色即是空と、放り出すことに、
悟りの態度が見られる。 アブサロムが父のダビデに叛逆し、それでもダビデがアブサロムの死を望まなかったのには、なんらかの背景があると思うの。なんだろう、それは? >>875-876
フォークナーの小説からとったのですが、Wikipediaによると、
「人工の基準や環境のもとで一人の人間が他の人間よりも優越し威張るのは間違いだという信念です。彼は少年の時、ある大きな家を
訪ねたが、その家の召使いから、裏口へ回れ、と言われました。彼は自分に誓いました。おれもあんな大きな家に住む人間になろう。
そのためにはどんな手段もかまわない。かくして彼は人間の品性も名誉も憐憫の心も捨てさったのであり、そのために運命から復讐をうける。」
というのが小説の主題だそうです。
とても綺麗な表紙で、僕は、永遠を感じたのです。 >>877
そうですね、神話の意味というのは、深いものがあるでしょうが、父と息子というのに、矛盾した感情があるでしょう。
もちろん血がつながっているし、顔も似ているでしょう。許し、分かり合うはずだったけれども、別の部下が、
殺害することになってしまいます。そして、その死によって、神話が、神話としてあるテーマを絶対化する
という機能を果たすことになったのではないでしょうか。 ブッダ
↑
サイコパス
↑
普通の人
↑
自己愛人格 注:880のブッダは、ガウタマ・シッダールタ個人を指す固有名詞としてのブッダではなく、悟りを開いた人を意味する一般名詞としてのブッダの意。 身体的にも精神的にも、富める者が貧しき者を嗤うなど、話にならぬ。 「悟りなんてもともとない」と理解することが、即ち悟りなんだよ 超社会性人格=悟りを得た者
↑
非社会性人格=サイコパス
↑
社会性人格=普通の人
↑
自己愛性人格 日本語を捨てて英語を母国語にしろってくらい無茶な要求。
そんな要求は誰もしていないから、もしそう強要されているとしたら心の病気だな。 未来がある限り
言葉はある
今ここにいるつもりなら
言葉はいらない 一般社会人僧(不出家出家者)
在家出家者
出家して僧侶になることなく、一般社会で生きながら、同時に悟りを求めて修行する。聖俗両界を同時に生きる二足のわらじである。
その生活は、僧侶と一般人の両方を同時に行うのだから極めて厳しいだろうが、過酷なその修行で悟りを得て、一般社会にも適応し、得られるものは大きい。 今日は温度計が示す気温の割りに暑い感じ
湿度が高いのだろうか >>890
執着無くしては俗会で生きられない
一方で出家は執着をなくしていくこと
生き方のベクトルが全く違う
両方やると中途半端になりそう と言うより日本の仏教で悟るのはほとんど無理ゲー
素直に上座部圏で瞑想したほうがよろし 娑婆も修羅も祇園精舎もサンスクリット語から来ている
禅 も元はサンスクリット語で「瞑想」を表す
昨今 親が世間の為にニートを殺して
問題になっているが
この日本人の呪縛の世間もサンスクリット語から来ている 世間の原語であるサンスクリット語のローカ「loka」は、「砕く」という意味の動詞「luj」から派生して「滅すべきもの」の意味である。
要するに世間は滅ぼすものであり
今回の事件は官僚の親が 世間という漢字の裏側にあるインドのローカの神様の呪いから
解脱出来なかったと考える方が早いだろう >>894
なるほどー。世界観が変わりますね。世間や社会といったものの性質が、インドでは哲学的に、言葉からきている感じでしょうか。
言葉においてこそ、場所が普遍性に開かれてもいる。 引き寄せの法則
自己愛性人格は自己愛性人格を、
社会性人格=普通の人は社会性人格を、
反社会性人格=サイコパスは反社会性人格を、
超社会性人格=ブッダは超社会性人格を、
引き寄せる。 社会人は社会的にどうなのか
共同体としてどうなのか
家族として考えてどうなのか
と考える
瞑想は 自分の全人生を賭けて
どうなのか
悟りとは何か 全生涯を賭けて
何なのか と考える
存在とは何か と
これの違いかな
仮に出家制度をどのような基準で決めるか
となると こういうことだろう 家を出る
仏門を開く
山奥で修行する
とかはあまり関係ないだろう
共同体にいながらでも
労働をしながらでも
瞑想は出来る
存在とは何か
問うことは出来る
要は心持ち次第
従ってあらゆる宗教や個人や大衆や
俗世間が求めていることと変わらない
それは己の魂はどこにあるのか
ということ なまじっか知っても根拠がなくあやふやに己を高しとするだけだから
出世の頂点を極めてから職を引かれたらよろしいかと。 逆だ
根拠がないから久遠の安楽があるのだ
喜びが自分のモノに出来ないと同様に
悲惨さも実は自分のモノには出来ない
どうして悲惨さのみが
己の責任と言えるのだろうか
喜びや快楽は
私が起こしました とは言わないでしょう
それは出世感の悪魔である この世(此岸)=身体世界(身界)
あの世(彼岸)=精神世界(心界) 悟りとは
超簡単に言えばブラフマンに出会うことである
あるのかないのかわからない
言葉の記述の伝言ゲームで2000年も
この教えが持つだろうか 生きとし生けるもの皆を自分自身を愛するように愛する。 生きるのが苦手で、ひきこもりはどうしたらいいのでしょう 一時的に不安になってイライラするときは、手で体を触ったりして、体を動かすと、けっこう落ち着けると思います。
結局、他人が恨んでいるとか、悪意であるとか、いじめとかでなければ、なんとなくの不安は、解消できるものですね。 人間は、過去を現在に持ち込むことができる。それは、確かにイメージでしかないが、もともと人間は現実の全ての姿を得ることは
出来ないのであり、特に過去について、厳しく制限する見方をしないこともできる。
時の運航や、モノの世界に、影響を及ぼすことができなくても、個人にとって、例えば時間感覚がおかしくなった場合、
それから回復するには、思い出す過去を、現在において組み合わせることで、より新しい人間的感覚に、人間として正しく、
個人としてより快適、創造的に、生きることができるのである。人間が新しく創造することは、悟りの段階を上がることでもある。
もちろん、仏教においては、多数の真理問題を扱っており、その真理を、逃れられぬ限界として認めつつ、
自分が真理から引き出せる何かを持つならば、それが、例えば過去と現在を組み合わせることで見えて感じられること、
そこに安心を見出すものであるという道程を付けることは、大きな意味があると考える。
個人の精神、認知、観点といったものを、豊かにすることが、生きるためにまずは一つ大切な、価値なのである。 悪魔や妖精の世界に興味ない?意固地な僧侶は無能でしょ? >>910
いやあ、あります!「夢幻の心臓」シリーズが好きでした。容赦なく殺されるんですよね、プレイ方法分からない状態だと。
なんか、暗い感じの悪魔とか、からかう妖精とか、めちゃ面白い。僕は割と意固地な僧侶ではないですし、意固地でない
僧侶と、議論したこともあります。僧侶に意固地性が加わってくるのは、一体何でなんでしょうね。世代理解も
重要かも? 眼鏡のつるを調整すると、精神病が治ります。漫画家がヒットを続けられないのも、多分目の使い過ぎによって、目の筋肉が、
おかしくなって、身体に不調を起こすことが度々あるからだと思います。例えば仮説として、統合失調症の遺伝子が、
そういう不調へと、至るような要因を持っていることがあるかもしれないというふうに思います。
つまり、ある年齢において病状が現れるということは、目が悪くなって、だんだんといろんな段階を経て、環境(目の酷使)に起因する、
病原のトリガーが引かれてしまうという風に、自己解決を目指して達成した例は、一個はあるわけです。
それが、何らかの運命を予感することを、引き受ける、ある種の受難として、先々の未来を生きるために必須とされる、
生きている死を味わうという特別な経験が、重要さを変えるべきであると、予知的に、大きな影響を与えるキーの一つとして、
回復したなら、死からの生還と呼んでよいような経験であって、そこから何らかの社会が回る際に、気を付けて、
アドバイスを与えていくことに、優しく優れたお医者様であれば、そう言った可能性を研究されるということが、
重要な課題として、私の意見を、必ず見過ごしてはいけない重要さを含んでいることを、予知しておきます。 仏教徒が腹を立てないのは忍耐力を鍛えたから・・・ではなくて
腹を立てる事象がそもそも虚構だとわかっているから 怨念をなだめになだめて、やっと成仏して頂いたのである。 「冷静になる」ことは、非常に大切です。そういう態度を身につけて考えることが、論理的な考えをすることに、慣れ、
不安、不満、その他の不利益な問題を、解いていくという、かすかに人間ができること、そして個人にとっては命であること、
それらを解くことができて、感情によって避けてしまっている問題も解けるのではないかと、考えます。
不快感と、愚かさとには、強い相関関係があると思います。 無生物→エントロピー増大。
生命体→エントロピー減少。 自分のためにこそ笑う、瞬きをする。運転も、自分が危険であるからこそ、安全に運転する。車に衝突したら死亡であるから。
対人関係(店員との応対など)も、全て自分のためとして行為せよ。生きるのは、全て自分のためである。全ては、自分のた
めであり、自由は自分のために使うしかない。それはもちろん、他人のためでもあり、社会のためであり、他人も自分を幸せに
するしかない。そのうえで、人を幸せにすることができる。 他人が自分を越えたものと思っていることに対して、それを妬み嫉み、否定しようと思う権利はない。 漫画が面白いのは、人にはイメージを次々と作る能力があるからだ。時間が進む中で、概念の連なりによって、文章も、絵も、視界も
音楽も、理解できる。そして、その連なりこそが、人間の最も優れた能力、つまり想像力である。無意識のうちに獲得されたその能力も、
失ってしまえば、取り戻すまでは時間がかかる。だが、コツを掴めば、もう、個人は思考力について悩まずに済むだろう。
その思考力を働かせてこそ、生きる意味と、楽しさ、嬉しさが、ありがたく得られてくるだろう。 土地に建物が建っている。
極めていい建物ならば、そのまま住めばよい。
リフォームする必要があるのならば、リフォームすればよい。
建て替える必要があるのならば、建て替えればよい。 何も飾らずにストレートに描写すると、昨今の日本の文芸活動から
導き出された解答は、こいつらが精神の疾患及び勃起障害に悩む病者である
ということ、という元も子もない話になってしまう。
ここはやはり状況描写に文芸の力をお借りしたいところだ。 私の考えだが、ポジティブシンキングというのは、次々と積み重ね、未来を得ていくような考え。逆に、ネガティブシンキングとうのは、
過去を振り返って悩むという考え方。 本当に責任を全うしたのならば、責任転嫁などする必要がないはずだ!
俺は、死ぬときに言い訳などしたくない!!! 仏教の救いとは、生きる人間を救うということである。なぜ救うと思うのかは、人間の全ては、孤立して悟ることはできず、煩悩を
得た状態を自覚せざるを得ない、というほどに苦しむ人間を、自分の姿と同じととらえ、結局は、救うことを、心の底から
湧き上がる思いによって、救いたいと思うからだ。つまり、煩悩の裏返しが悟りを求めること、また同時に信仰であるのだ。
私の考えでは、煩悩で頭がいっぱいになるほどの思いを受けること、この状態は悪くない。そこを足掛かりにして、
考える。
それはすなわち、理論を立てることである。日常的な作法、人間関係、愚かさゆえの悩み、そういったものを、解決できる
方法は、常に常に、理論を立てることである。これはこういう理由でこうなっている、ということ、物事の進め方として、理解をもち
応用できるならば、それは良い理論である。物事は、だいたい、理論化することで、解決する。
頭がいっぱいになること、自分で立てた理論でいっぱいになること、こうした状態からこそ、解決することの意味深さ、
rewardはあるはずである。
一般人の悩みは、一切皆苦として、確かにある。生老病死は訪れる。そのとき、頼れるものこそ、自分の理論構築能力である。
能力の程度ではない。行為意図、つまり悟りだ。そういったことに自覚的であるということは、少ないのではないか。
物事の認識が、理論的であるということ、こういった常識を、私は、愚かさ故にであろうか、全くわからなかった。
だが、前述のように、今は知った。 社会において個人というものは、自分で方法、能力を身につけなければならない。具体的な例を言えば、
道に迷ってしまう。ここで、人に道を聞くことは良い。だが、例えば地図を持っていて、私は地図が読めないので、
「代わりに読んでください」と言えば、唖然としたことだ。ありえないだろう。
だが、そうでもない場面もある。それは、「育てる」ということだ。
親は子を育て、教師は生徒を育て、新入社員は仕事ができるよう育てられる。
また例えば、人間は、植物を育てたりする。植物が水が足りなくて、枯れそうなとき、「苦しいよー、苦しいよー」と思っている
かもしれない。それは、植物が何も言わなかったとしても、水をやらねばならない。
つまり、育てるということは、特別な関係なのだ。一種、自然なことなのだ。
釈尊は、イメージにおいても天才であったと思う。最後の言葉、「自灯明、法灯明」を聞くと、自らが灯りを灯し、
法が灯りを灯している、感動的な光景が、浮かぶのである。解釈にはいろいろあるだろうが、私が思うのは、
自分と法が、それぞれ別の原理であったとしても、法と自分が別のものでなくなるような世界の知り方もある、
ということだ。私が灯し、世を理解する。法が、世の人それぞれに火をともす。法には、差別がないのだ。
私自身にも、もちろん自分で自分を差別するなんてことは、ないだろう。
「この世は救われている」ということを気づかせることを、釈尊は見出されたのではないだろうか。 人間関係
身体的関係
肉体関係のことではなく、損得の結び付きのこと。
精神的関係
恋人や親友などの特別な関係のことではなく、善悪の結び付きのこと。
二つ合わせて人間関係 公案
いい人は、いいお坊さんと仲良くなる。
悪人は、悪僧とつるむ。
これも、何かの因縁なのであろうか? 悟りを得る目的は輪廻転生から逃れるためでしょ?
そうしたら現代の人はそんなもの元々ないと分かってるのだから、みんな悟ってるということなんじゃないのか? 悟りとは
手の上に棒を乗せてバランスを取る曲芸がいつでもできること。これが、悟りである。24時間365日この曲芸をしていることが悟りなのではない。 こ悪業を積んでるひとにこれ以上悪業を積まないように、善意でポアしてあげるのはありですか? 日本語の「神(かみ)」とは、甕(かめ)がその内部で働かせるような
反射作用のことだと思うのです。
悪業を積んでる人を善意でポアしてあげる必要はありません。
自らの悪業の結果が反射作用として自らに向かうようにしてあげればいいだけです。 人間には、二種類の世界がある。一つは、現実の空間、現実のイメージ。そして、それだけではなく、夢を見るということに
証拠を求められるような、空想の世界、空間、イメージ。空想の世界では、あらゆる種類の動画がイメージできる。
そして、寝るときにするように、飽きずにいつまででもその中で遊んでいられる。二つの世界は、お互いにあまり
干渉しあわなくて、むしろ、両界を行き来することになる。そして、普通に得られる現実の世界と、
なかなかの存在である空想の世界を、行き来できるという脳の力によって、何らかの創造を成し遂げることができるだろう。
生老病死は、自分の体に起こること。精神病は、現実も、空想も、どちらも働かなくさせる。したがって、
精神病に陥った人間は、まさに体までも感覚を損なっており、ない体で、無際限に生老病死を抱え込むことになる。
だから、精神病は、心身の両方をなくすことだと言える。だから精神病は、治さなければならない。
その方法は、体を治すことにあると、私は考える。特殊なので、余り参考にはならないかもしれないが。
あえて言っておけば、首を斜め上に、伸ばすことである。そのようにして、首の骨が、固まっていたものが、
一斉にほぐれるのである。
さて、生老病死をどうとらえるかだ。それは、空想世界の独立性を、使うことだ。空想世界ではあらゆることが可能だから、
生老病死を自由に取り扱うことができる。心頭滅却すれば、火もまた涼し、という言葉の通りである。
空想界による、悟りへのアプローチは以上である。現実に手ごたえを感じて、現実を自由に操る。
この二つの行為こそ、健全な人間としての、生誕である。
苦しさは、空想で取り扱えばいいのである。現実は、もともとの資源である。
一つではなく、二つあること、このことが、個人の尊厳を、強く支えるものである。
何も、筋力がなくても、生きる上で大した支障はない。二つの世界に、考えを託すことによって、強くあれる。
死の実態は不明であるが、空想がその苦しみを、包むように思う。死を受け入れるためには。この二つの世界が、
自分から離れていかない、最終的な力なのだと思う。
精一杯、自分の好きなことを、出来るはずだ。そして不安も、怒りも憎しみも、全て解消される。 偽悪家は、悪人。
善人は、偽善者。
偽善者は、悪人。 悪人は、悪人。
偽悪家も、悪人。
偽善者は、悪人。
善人も、偽善者なので悪人。 偽悪家が善人なら、善人は偽善者であり、偽善者は悪人なので、偽悪家は悪人。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。