デカルト論破

1考える名無しさん2018/02/10(土) 00:58:54.850
「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…

俺「いつまで続くのですか?」

デカルト「無限に続くよ。だからこそ思う主体、そう、我だけが残り、我が存在することが確実なんだよ。」

俺「でも、無限に続くって確認できなくないですか?無限に疑った人っているんですか?無限って疑わしくないですか?」

デカルト「あっ…えっと…。」

俺「論破ああああああああああ!」

163642018/04/01(日) 21:20:47.280
>>161
超越論的主観は、既に「現象学に於ける(既成)概念」
貴方によれば、現象学を懐疑の対象からから除外しては超越論的主観に至らない
そうなのですよね>>82
であるなら貴方は、懐疑の正当性を疑わなければならない(除外できない)」

貴方は
『究極の存在に於ける不可疑的存在としての超越論的主観がある』
そのことを疑わなければならない

なぜ疑わないのですか

164考える名無しさん2018/04/02(月) 04:44:59.610
疑う働きが可能となるのは、コトバがあ
るからですね
コトバがコギトを制約してるんですね
というか、コギトとは、コトバがコトバ自身を自覚するための媒体でしかない
自己とは、コギトの自己ではなく、コト
バの自己だからだ
自己とは、一個の他者だ

165642018/04/02(月) 06:40:03.750
そうね

コトバの起源というか、その源泉は謎だね

166考える名無しさん2018/04/02(月) 12:12:50.590
>>163

>究極の存在に於ける不可疑的存在としての超越論的主観がある。そのことを疑わなければならない。

>超越論的主観を何故、疑わないのかと言うと、>>161でも述べているように、“超越論的主観が、究極の存在として、
『疑うことの出来ない不可疑的存在』であるからです。

167642018/04/03(火) 09:35:54.680
>>166
確認しますが
貴方の言う『疑う』から超越論的主観を除外しても良いのですね
そうであっても超越論的主観を獲得するのに問題はない、と
貴方は考えているのですね

168考える名無しさん2018/04/03(火) 22:07:39.490
>>167

超越論的主観を獲得するには、“疑う”という思考活動を、日常的生活世界に於いて、
方法的懐疑を実行し、そして、究極の“不可疑的存在に至った時に“超越論的主観を獲得する。

従って、“疑う”という思考活動は、日常的生活世界から不可疑的存在としての超越論的主観に至る手前まで行われる。
だから、超越論的主観そのものを“疑うという思考活動”は、無い訳です。

超越論的主観(=超越論的主観領野)に至った次元にて、その領野にある現象が、実的内在→構成的内在(本質観取)へと
思考が進み、意味として現象が構成され、一定の解答が示され、その解答を本質記述する。

現象学的思考は、「方法的懐疑→超越論的主観→実的内在→構成的内在(本質観取)→本質記述」という連動した
思考活動であり、いわば、ある問題を解決する場合に、方法的懐疑から超越論的主観を獲得し、実的内在から本質記述までが
“一セット”として実行される。

従って、解決すべき問題がA、B、C、と別々にある場合は、A,B,C,の問題に対して、それぞれ個別に新たな対応として、
現象学的思考を実行することになる。

169642018/04/04(水) 05:46:43.870
>>168
そうですか、超越論的主観を疑うことは『ない』
つまり超越論的主観は、懐疑から除外されているわけですね、分かりました

しかし貴方によれば、『現象学は懐疑せねばならない』らしい
そうでなければ超越論的主観に至らない、と貴方は言っていますね>>82
ところで現象学とは、厳密な現象学的思考により構築されるものですよね

それでは、貴方の言うところの「現象学的思考」
つまり「方法的懐疑→超越論的主観→実的内在→構成的内在(本質観取)→本質記述」ですが
貴方によればこれは、『連動した一セットの思考活動』ということですが、もしそうであるなら
ここにも懐疑する余地はなさそうです(あるのですか?)

繰り返しますが、厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学ですよね
どうしてそこに懐疑する状況が生まれるのですか

納得できる説明を御願いします

170考える名無しさん2018/04/04(水) 12:38:25.270
>厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学

初心者が間違えるところだよ。

171考える名無しさん2018/04/04(水) 21:41:14.610
>>169
>厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学ですよね。
どうしてそこに懐疑する状況が生まれるのですか。

>フッサ−ルが提唱した“現象学”は、我々を含めて誰しもが認識している客観的な学問としての“現象学”として
理解している。つまり、我々が理解している“現象学”は、『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”として認識
し、理解している訳です。

現象学的思考は、>>168でも述べたように、まず、最初に“方法的懐疑”を実行します。 “方法的懐疑”を実行中に於いて、
“一切の事象を“疑う”ということは、「日常的生活世界の一切の事象を疑う」ことです。 この日常的生活世界の一切の事象の中には、
“日常的生活世界”次元にある“現象学”も入ります。ですから、“現象学”も疑われる訳です。

172考える名無しさん2018/04/04(水) 22:18:53.420
>>164-165
源泉がみえないコトバを認識し影響を受けている純粋な存在がコギトだから、それが真理なんじゃないの? 
>>1 に関しても正体不明の何等かの主体が存在することをデカルトは証明しただけであって、永遠や普遍についての言及ってあったの?
見識不足でスマソ

173642018/04/05(木) 10:23:49.280
一応つぶやいておきますと、>>142にも書いたように
フッサールは、「エポケーから現象学から除外する。」と言ったわけではありません、
ありませんが、しかしそんなことはもはやどうでもいいことです

>>171
貴方の話で腑に落ちない点が二つあります

一つは、『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”、とはいったい何のことなのか
どの本を読めばそんな“学問”を学べるのか、貴方は知っているのでしょう
教えてもらえませんか

もう一つは、もし『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”などというものが“仮に”あったとして
いやしくも現象学の創始者たるフッサールが“現象学”と言う場合に、それが
『日常的な生活世界の学問としての現象学』のことを意味している、などと考えることは、
果たしてまともな思考なのでしょうか(おかしくないですか?)
なぜならフッサールは、『日常的な生活世界』が成立してしまう、その源泉に到達すべく
現象学を建設している途上にあったからです

いつものように適当なときにテキトーなレスをしてみてください、お願いします

174642018/04/05(木) 10:24:50.590
>>173二行目、「エポケーから現象学“を”除外する。」でした、すいません

175642018/04/05(木) 10:46:50.340
>>172
『私(コギト)がコトバを認識している』というのは、まことに健全な話ですが
実際のところ、その『私』などというものは『存在しない』とそう考えることもできます
デカルト的な私というのは、所詮は感覚でしかないからです

なぜなら、思惟は思惟の存在を疑えない、のは確かであるように“思えます”が
だからといって、思惟は「=私」としてまちがいなく存在する、とまでは言えないのです

コトバという普遍的実在が働くことによって、『私』という現象が生まれている、が
それをもって「私は確実に存在する」、と結論する必然性は(心理的な理由の他に)ない
そう考えても別段、無理なことにはならないように思います
ただしこの場合、コトバは、単なる記号以上の内容と、自律的な力を持っていることに
なろうかと思いますが

まあ、これこそ見識の無い、テキトーな妄言ですが

176考える名無しさん2018/04/05(木) 11:02:52.590
「存在」の意味をメチャクチャに使っているようでは困った人だ。
君の使っている「存在」という言葉の定義を言ってごらん。

177642018/04/05(木) 11:15:02.300
>>176
ああそうか

実体としてある

こんな感じで

178考える名無しさん2018/04/05(木) 18:16:15.060
>>173
私が述べている「日常的な生活世界」というのは、フッサ−ルの「生活世界」の意味とは異なる。

私の「日常的生活世界」とは、“超越論的主観領野”と対比する次元の世界として使用している。

つまり、「超越論的次元」に対して、 「非超越論的次元」として、分かり易く理解出来るようにするために

“日常的生活世界”と述べている訳です。

“日常的生活世界”=“非超越論的世界”として用いている。

179642018/04/05(木) 18:31:47.760
>>178
貴方の言うように、“日常的生活世界”=“非超越論的世界”だとして
『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”>>171
とは何のことですか

180考える名無しさん2018/04/05(木) 18:50:39.990
>>173
「純粋意識(超越論的主観)こそ私たちが求めている“現象学的残余”として存在しているものであり、
この純粋意識は、たとえ私たちが求める全世界を、従ってあらゆる事物と生物を、そして、更には“私たち自身をも含めた
すべての人間”をも“排去”した(=そのスイッチを切った)としても、あるいは最っと適切に言えば、それらすべてを“括弧に入れた”としても
それとは関わりなく残存しているのである。」(イデ−ンI)とフッサ−ルは述べている。

上記で、フッサ−ルは「私たち自身をも含めたすべての人間」をエポケ−(括弧入れ)するとのべているのは、これは「主観的存在(自身の学も含む、自身のすべて)」と
客観的存在」の、全ての事象を現象学的還元(エポケ−)することが“正しい現象学”であることを本人自身も論理として理解しているのである。

従って、>>142で「しかるに我々の目指すところは、一つの新しい学的領分、しかもまさに
括弧入れ《 けれどもこの場合は、一定の制限された括弧入れ》の方法によって獲得されるべき領分の発見に
他ならぬのである。」とフッサ−ルが記述しているのは、そこに我々の想像することのできない“自身の学への、こだわりと非常に強い固執”を感ずるのである。
そして、 その為に、正しい“現象学”を十分に理解しながらも、その一歩手前で留まってしまったのである訳です。

181642018/04/05(木) 19:05:22.570
>>180
『強い固執を感ずる』と言われましても、
それは貴方の感じ方の問題に過ぎないわけですから
フッサールが現象学の手前で留まってしまう根拠としては
全く足らないように思われます
そもそも、フッサールの固執しているのは、それが『正しい現象学』であること
に対してでしょうから、そこにこだわるのは当たり前のことですよ

ですから、「フッサールのやり方が方法論として間違っている、あるいは不十分である。」
そのことを示さなければ、フッサールに対する貴方のネガティブな評価は、
「貴方による空転する気分の問題」でしかないということになりますよね

182考える名無しさん2018/04/05(木) 19:12:12.050
>>179

「日常的生活世界(=非超越論的世界)」とは、普段、我々が生きて生活している世界のことです。

学問としての現象学とは、形式論理学、ヘ−ゲルの論理学、或いは、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」、
又は、ウイリアム・ジェ−ムズのフラグマティズム等々の学問と同等レベルとして捉えている。

183642018/04/05(木) 19:20:51.050
>>182
貴方の言うように、「日常的生活世界=非超越論的世界」だとすると
『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”、とは
『非超越論的世界の学問としての現象学』となってしまいますよ

超越論的○○は、現象学の根幹ですから
現象学から“超越論的”を除いたらそれは、“もはや現象学ではない”
(そうは思いませんでしたか?)

いったい、『非超越論的世界の学問としての現象学』とは、何のことですか

形式論理学もヘーゲルの論理学もプラグマティズムも、現象学ではないし、
メルロ=ポンティはフッサールより後の人ですから、イデーンTには関係ないですよね

184考える名無しさん2018/04/05(木) 19:25:03.040
>>17
レスありがとう!
プラトン的イデアみたいなことかな? コトバに普遍性があると。でもコトバは地域のバリエーションが多種多様
だし流動的だよね。単語も用法も無限に増え続ける。もしそれを観測しているのがコギトでないとしたら、どういうことだと思うの?
各種感覚器の個体差が存在するのだから、我々は世界に対して歪んだ認識しかできない。しかしながら歪んだかたちで世界を認識しているということを自覚する『私』が存在するということ
をデカルトは言ってるのだと理解してるんだけど、間違ってない? あっているとしたら、感覚を受動して統合する存在がコギトなのだから、コギト自体は感覚ではないと思うんだけど、それは俺の拡大解釈なのだろうか?

185考える名無しさん2018/04/05(木) 19:44:35.460
>>181

貴方自身は、正しい現象学をどのように理解しているのでしょうか。

186642018/04/05(木) 19:48:05.320
>>184
それは拡大解釈ではないと思いますよ
デカルトはそのように考えたであろうし、哲学の王道です

『世界がどうであろうと、それは“私”にとっての世界である』

(西洋)哲学はこのテーゼから外れない
東洋的に無我と言ったところで、単に『忘れろ』と言っているに過ぎない

だけど、そんなのはおかしい話だと、私は思いますよ
『主観(あるいは意識)からしか話が始まらない』なんて
この人が言うように、鎧を剥ぎ取っていって最後に究極の存在としての“私”が残るのか
なにも残りません
玉ねぎの皮を剥がしていって、最後に『玉ねぎそのもの』が見つかるのか
ありませんよ

コトバにはたしかにバリエーションがあって、違う言語は記号的には互いに排他的です
(使われなくなった未知の言語の記号規則だけを比較しても翻訳できない)
しかし生きている言語同士は翻訳できる
それはなぜか
それは、コトバの意味を成立させるには論理が必要であって、
その論理にはコトバの壁を超えて強力な普遍性があるからです
しかしその理由、そして論理の源泉は謎、のままです

身体が論理と調和するとき、“私”が生まれる
まあ妄言ですが

187642018/04/05(木) 20:11:43.610
>>185
少なくとも、フッサールが正しいと考えていた現象学的還元というのは

世界の自然的見方、つまり「自分を含めた世界」が当たり前に(空間的に)存在している
それはどういう事態であるのか、
人間がそう判断してしまう根源は何なのか
それを見極めるために、一旦、その「自然的見方」を排除してみよう
そのような態度変換によって、対象は対象のまま、超越論的主観に移ることになる
そこから始めてみよう

そういうことであって、
貴方の言うように主観も客観もなんでもかんでもエポケーしたら
『いかなる判断もできなくなる』
それをフッサールは危惧したのですよ、それがイデーンTの32節でしょう

188考える名無しさん2018/04/05(木) 21:14:42.250
いまから思うと、あんなもんを信じていた人がいたのが不思議。
いまだに、平家の落人みたいなのがいるんだから、フッサール教もたいしたもんだよ。

189考える名無しさん2018/04/05(木) 22:23:41.930
>>187

「いかなる判断も出来なくなる。」 だから、客観はエポケ−するが、主観はエポケ−しない。

これが、正しい現象学のあり方と言うことでしょうか。

190考える名無しさん2018/04/05(木) 22:35:25.280
>>186

「身体が論理と調和するとき“私”が生まれる」と述べていますが、なかなか意味深い言葉ですね。

その“私”というのは、“心身合一”した“私”という意味でしょうか。

191642018/04/06(金) 04:35:05.850
『非超越論的世界の学問としての現象学』とは、何のことですか

192642018/04/06(金) 04:39:32.350
>>189
そんなことは言っておりません

そもそも、エポケーは懐疑ではありません

193考える名無しさん2018/04/06(金) 17:57:05.600
論理(言葉)と身体(生物としての生存機能あるいは本能)が融合したときに、自我が生まれるという発想はかなり面白いね。
伊藤計劃のハーモニーを思いだしたわ。https://www.amazon.co.jp/dp/B009DEMA1Q/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
文明的に未発達な地域の言語も、英語や日本語と変わらないボキャブラリーがあって、ジョーク
の質すら変わらないレベルだっていう話をこの前読んだよ。英検の問題テキストだからソースを探るのが難しいんだけどね。それを考慮すると、言語体系はコミニティの
発達に伴って成長するという仮説が成り立たないから、あなたの言うコギトに対する懐疑に説得力が出てくるね。
あらかじめ言葉によって定義されているものしか人間は認知できないような気がしてくる。個性や創造性は誤謬に過ぎないのかと思うと
アイデンティティー不安に陥りそうになるよ。


コギトエルゴスムが破綻しているかは別として、近代的自我の正体に迫るには言語の本質にアプローチする必要があり、デカルトは
その部分に対して明確な説明をできていないということが、理解できたわ。ありがとう!

194考える名無しさん2018/04/06(金) 17:59:24.840
今の>>184にたいするコメントね(汗)

195考える名無しさん2018/04/06(金) 18:11:51.670
>>186だった
みんなの掲示板を荒らしてホントすみませんm(__)m

196DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上2018/04/06(金) 21:43:21.810
私が一番残りにくいものであることを知らないデカルトというバカは貴重だ。

197DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上2018/04/06(金) 22:34:44.700
昔の言葉が多いな。論旨バキャ。

198考える名無しさん2018/04/06(金) 23:05:54.670
>>192

>そもそも、エポケ−は懐疑ではありません

>現象学的還元(エポケ−)は、一切の事象を“括弧に入れる”ことですが、この“括弧に入れる”とは、
一切の事象を“排すること(排去)”することです。

我々は普段の日常的の生活をする中で、自身の論理、哲学、そして、種々の既成概念を鎧(よろい)の様に
身に纏っている。 これらの鎧を“取り除く”ことが、“排する(エポケ−する)ことであり、そして、自身の人生観、論理、哲学等を
“排する(取り除く=エポケ−)”ことにより、純粋な超越論的な自己(私)となる訳です。

他方に於いて、方法的懐疑は、疑うことによって、真と偽を振り分け“偽となるものを斥ける”ことであり、
この“偽となるものを斥ける”ということは、《偽となるものを取り除く(排する)》ことです。 この“取り除く(排する)”という思考活動は、
現象学的還元(エポケ−)と同じ思考活動である訳です。

199642018/04/07(土) 05:55:33.380
エポケー(判断中止)というのは
“ものごとの存在(=世界)に対する見方(自然的態度の一般命題)”を定立させている
働きを除き
定立作用によって定立されていた諸々の対象を括弧に入れ
結果として対象は、意識に於ける事象(≒括弧つきの対象)となる
そのような態度変更のことです

事象を排することでは『全くありません』
“事象そのものへ”が現象学の理念です

以上でお分かりいただけたと思いますが
デカルトの方法的懐疑とは全く違います

200考える名無しさん2018/04/07(土) 13:26:57.560
>>199
>事象を排することでは全くありません。“事象そのものへ”が現象の理念です。

>フッサ−ルが述べている“事象そのものへ”という意味は、
普通、我々が日常的に生活している世界というもののあらゆる認識判断は、肯定や否定、
必然性と偶然性、可能性や現実性、推量や想定、といった一般に「様相」と呼ばれるものをともなっている。

SはPである、SはPでない、SはいついかなるときもPである。等々のように、これらは各々の“命題”の中核をなす「SはP」という
部分が端的に定立化されている。
この論理は、すべての認識判断は、前提化(定立化)による結論という「形式論理学」を基底としている。

この様な定立作用によって定立された諸々の対象(=既成概念)を“括弧に入れる”ことによって主体意識は“本来のあるがままの状態”と
なる訳です。 この“本来のあるがままの状態”とは、諸々の鎧(よろい)を取り除いた(排した)、“ 純粋で明証的な状態”であり、 この状態を
〈事象そのものへ〉という意味に解釈している。

そして、“あるがままの状態(事象そのものへ)”から、超越としてある客観的存在、 そして、主観的存在を明証的な内在領野(実的内在)にて
認識し、そこに現れる現象の本質を構成化する一連の活動を現象学的思考と解釈している。

201642018/04/08(日) 11:23:46.800
>>200
対象を括弧に入れることによって主体意識は本来のあるがままの状態になる
わけでは『ありません』(なるわけないでしょ)

対象を括弧に入れるというのは
対象の「存在妥当(真理妥当)」の“判断作用”を控えるだけです(>>144参照)

貴方のレスに乗っかるなら、「SはP」から鎧を取り除くことでは、『なく』
「SはPである」という判断の意味内容を“排除せずに”宙吊りとしたまま“保持し、
「SはPである」とする判断の『作用のみを停止』する

こういうことです

202考える名無しさん2018/04/09(月) 22:14:19.380
>>201

>「SはPである」とする判断の“作用のみ”を停止する。

>「SはPである」という定立の思考形式を考察してみる

「SはPである」という思考過程を分析すると、この場合は、「S」が前提(定立)であり、
「P」は結論という関係が成立する。この思考活動は「前提」を必ず設定するので、“形式論理思考”である訳です。

フッサ−ルは、前提を設定する“形式論理思考”について「“SはP”という事態の存立=存在を端的に受容することで成り立つゆえに
“原信憑(Urglaube)”と呼び、“SはP”という事態の存立を基盤としている。」と述べている。

つまり、客観的事象、そして、主観的事象を対象とした“すべての認識判断”は、「原信憑」の様相的変様として捉えることができる。

この「原信憑」の様相的変様に対して、フッサ−ルは“、ここで新たに、こうした様相的な変様のいずれでもない特異な変様として、
現象学的還元による「中立性変様(宙づり)」を行い純粋現象(=あるがまま)に至る”ことを述べている。

203642018/04/09(月) 22:31:12.440
>>202
中立性変様は、否定でも取り除く(排する)ことでもありませんので、
『エポケーと方法的懐疑とはぜんぜん違うものだ』
ということが貴方にも分かっていただけたことでしょう

204642018/04/09(月) 23:40:45.270
あ、ついでに
純粋現象は(=あるがまま)ではありませんよね

205考える名無しさん2018/04/10(火) 23:27:52.280
>>199
「定立作用によって定立されていた諸々の対象(客観的存在=世界)を括弧に入れる」の
“定立作用”というのは、「SはPである」という「形式論理」を基底として構成された“実在”の「ものごとの存在(=世界)」を
「括弧に入れる」ということでしょうか。

それから、「結果として対象は、意識に於ける事象(≒括弧つきの対象)となる」と述べているが、
「エポケ−の実行」→「不可疑的領野」→「括弧内の事象の解放」の、手順の中間にある「不可疑的領野」が抜けている。

つまり、“ものごとの存在(自然的状態の世界)を“括弧に入れる”ことにより、内在意識は、明証的で“不可疑的領野”となる。
この“不可疑的領野(超越論的主観領野”に於いて、“括弧に入れられていた事象”が、〈解放〉される。

従って、ここで注意することは、日常的次元の主観(エポケ−前の主観)と超越論的次元の主観(エポケ−後の主観)とは、
根本的に異なっていることです。

>>199の文面を見ると、“日常的次元の主観(意識)”が、エポケ−の実行により、“括弧内の事象”を直接に
“日常的次元の主観(=自然的状態の主観)”から認識できるのだと、誤って解釈されてしまうことです。

206642018/04/11(水) 04:36:52.870
>>205
現象学において「不可疑的領野」に至ることなどありませんし、
括弧内の事象を解放する意味もないでしょう
そもそも、“括弧を付ける”というのは“自然的態度の一般定立を中止した”という
態度変更を示す比喩に過ぎないのです

“括弧を付けたまま”の「純粋意識」としてのそれは、“○○についての(単なる)思い”
となってしまうのですが、さて、そこからどうしたらよいのか、疑問に思いませんか
だからどうなんだ、と     (まあ貴方は思わないのでしょうけど)

フッサールによれば、
純粋意識は、“それが意識である限り”、この『○○について』という『志向性』を持つために、
純粋意識は『意識体験と意識相関者との間の本質的諸関係』という領野になる
(とりあえず領野とでも言っておくしかない)
その内在する領野こそが“世界の意味”を構成する『起源』となっているはずだ(その意味で超越論的)
そこで志向性を手がかりとすれば純粋意識の内実を探求することが可能であり、超越の謎が解ける

と、そのようなことのようです
(それが成功する確証がどこにあるのか、私には分かりませんが)

それはともかくとして
方法的懐疑とエポケーとは全然ちがう、ということはご理解いただけましたでしょうか

207考える名無しさん2018/04/12(木) 18:27:54.710
>>206

私たちは、日々生きて、生活する中で、いろいろな難題に直面する。その“難題”を解決する為には、
どうすればよいのか。 それには、まず、自分自身の頭の中に、こびりついている、諸々のドクサ、自身の人生観、伝統、そして
規制の権威(学など)を取り除くことが必要となる。

これらの“一切の先入見(一切の既成概念)”を取り除く手段として、現象学的還元が考え出された訳である。 
そして、現象学的還元によって“一切の先入見”が取り除かれた明証的な“不可疑的状態”が何故、難題を解決する為に必要なのか
ということです。 それには、“不可疑的状態(疑えない)”の反対であるところの、「可疑的状態(疑う)」がどの様なものとなるかを考察するとよい。

物事を“疑うこと(可疑的)”が出来る状態というのは、普遍性がなく、不確かな状態であるがために、問題解決の結果として出された解決策は
すべて“不完全なもの”になるからである。

まず、現象学的還元、そして、方法的懐疑によって創り出された“明証的で不可疑的な状態”を領野として確保することが、難題を解決へと
導く 第一歩となる訳です。

208642018/04/12(木) 20:54:23.460
>>207
「日々生きて生活する中で直面するいろいろな難題」などというものは
それこそ『日常的次元』の話であって、現象学的還元はそんなものの解決を
目的とはしていませんし、そもそもそれに対して無力ですよ
日常生活での難題に対して有効なのは、日常的な学習能力であって
現象学を実践するかしないか、とは全く関係ありません

現象学というのは、
<そもそも日常的な理解が可能なのは、いったいどういう事態なのか>
について探求する活動、だからこそ超越論的なのです

しかしどうやらここまでくると貴方は
方法的懐疑とエポケーとは全然ちがう、ということを理解できないようですね

貴方は>>63のような、自分で作り出したドクサに絡まったまま
いまだに身動きがとれないのでしょう、難題ですね
解決するために、貴方の考え出した“現象学的還元”を、ご自身で実践してみてはどうですか
なんとかなるかもしれませんよ
なんともならないとしたら、貴方の現象学的還元は、その程度のもの
ということなんでしょう

209考える名無しさん2018/04/12(木) 23:19:14.000
現象学的還元という古語を久しぶりに聞いたよ。
懐かしいね。
時代に取り残されちゃったんだろうね。

210考える名無しさん2018/04/13(金) 12:55:41.820
一人二役で会話するのも論理力を鍛えるのに良いかもね

211考える名無しさん2018/04/13(金) 15:26:10.460
最近はせちがらくなって、
「金儲けに役に立たないもの」は廃れる傾向にあるからね。
現象学的還元が金儲け役に立てば、また復活するよ。

212考える名無しさん2018/04/13(金) 18:24:55.090
わふわふ、プログラミングの話題なのです。

213考える名無しさん2018/04/20(金) 09:50:10.530
デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ―一七世紀の英雄的精神と至高善の探求
エルンスト カッシーラー (著), Ernst Cassirer (原著), 朝倉 剛 (翻訳), 羽賀 賢二 (翻訳)
出版社: 工作舎 (2000/09)

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