時間とは何か
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結局時間なんてのは存在しないだろ。
俺たち生物が時間というものを意識することで初めて時間が存在できるんだろ。
つまりおまいら全員に時間があるんだよだからタイムマシーンや時間を遡ることなんて無理 時間の発見、(私時間の発見)
森の中でノソノソと動く動物に遭遇する。
その動物がトラであると確認して初めてトラを発見します。人は確かに時間の中にいるのでしょうが、時間を発見しているでしょうか。
時間が何であるかが判らないのだから、人は時間に遭遇していません。時間の中にいわば
投げられていて、慌ただしい現代ではその中に溺れるかのように過ごしています。そして死が迫って来るような状況において、初めて、時間とはなんだったのかと気がつきます。私の人生はなんだったのかと。それがハイデガーの死への投企です。
時間を解明しょうとする試みは、他者に伝えられるある言説を目指していますが、それはまた時間の改めての発見にもなるでしょう。 >>105
時間の発見、(私時間の発見)
森の中でノソノソと動く動物に遭遇する。
それは動物だと発見して動物がトラであると確認します。人が認識するのに時間を要しますが、時間を発見しているのではない。
時間がなんであるか判っていれば人は時間に認識上で遭遇します。時間の中にいわば
投げられていて、慌ただしい現代人は、その中に溺れるかのようにすごしています。そして死が迫ってくるような状況においても、時間とはなんだったのか気づけないまま彷徨います。私の人生はなんだったのかと。それがハイデガーの時間への投企です。
時間を解明しようとする試みは、他者に伝えられる言説を目指すことで、それはまた改めて私時間の誤解も浮き彫りにするでしょう。 流通時間
人が投げられてあり、時には溺れたようになっている時間は、社会的流通意味としての時間です。これを流通時間とします。
ここで説明しょうとする公共時間は、公共的に、つまり社会的に使用され使用出来る時間ですが、いま、人々が思っている流通時間とは別の『意味』を持ちます。
流通時間の意味は判然としていません。ここで説明しょうとする公共時間は、その意味の判然とした時間です。ただその説明には、もう少し意味の解明と説明が必要な気がしています。 私時間
(十分に)説明された時間が、公共時間で、人はその中にはすでに投げられてはないでしょう。人はその中を泳げるはずです。その個人的な泳げる時間が私時間です。
(しかし、どの様にしたら泳げるか、泳げる為の練習は何かの課題はあります) 現代美術
青いバナナを30ほど、三つに分けてピアノ線にさし、あたかもバナナの木の様に、真ん中にはバナナの木の本体に似せたボールを立てる。その他に若干の演出が必要ですが。これを『バナナ、2018、TOKYO』とします。現代美術です。
さりげなく立て札を立てて、『食べられますが自己責任になります』と書きます。美術展の会期は十日ほどで、やがてバナナは腐り床に落ちます。終わりまでに観客に食べられたバナナが、数本、その皮が無造作に捨てられていれば、『バナナ、TOKYO』は成功です。
ここでは、バナナの意味が問われています。『バナナの意味』が展示されたのです。芸術とは意味への問いかけです。だからフィロソフィアと同類です。 泳げない人が溺れない泳ぎ方を伝えようと創意工夫した私時間は
流通時間という近代美術的な創作泳法を編み出し
独創的な『バナナ、TOKYO』という新たな哲学の途上が試みられ
溺れることなくなんとか泳ぎきり成功に終わった模様です。 芸術家
つまり、芸術家とは泳ぎ難い時間を(流通時間)をなんとか泳ぎたいと試みる者達への呼び名です。そして何時も実際の時間は(社会は)自己を求めて泳ぎたい人には泳ぎ難いでしょう。作品とは、その泳いだ(もがいた)航跡です。これは芸術家の存在論的な実存論的な定義です。
(たぶん世界で初めての) >>108
泳げる時間、ではなく、『泳いだ時間、泳ごうとする時間』とする。 人類史上まれに見る哲学が展開される歴史的瞬間をありがとう 泳げないけど水に浮くように近代化したクロワッサンたい焼きもよろしく 形式上の時間と意味
我々がいま時間と呼んでいるものは、流通時間とした方が良いのです。時間を説明すると、それは公共時間になります。それでその公共時間から私的な意味の私時間を展開したいのですが、うまくいかない。
それは人間存在が、今のその流通時間に囚われているからです。いま囚われているその時間を流通時間としていわば捨て去り、新しい公共時間を把握する必要がある。
時間とは、『世界内の意味のすべてをその中に含んである』と言えます。いま流通する流通時間も形式上、その様な形をしていますが、そこでの意味は様々な『権威によって固められている意味』です。
バナナ、TOKYO、は、そう言った『固められた意味』への疑問の提示にもなっています。疑問と反逆(新しい意味の構築、それが反逆)の提示です。 平泳ぎのバタ足とか、クロールの2〜3 の息継ぎまで。完璧ですよ。
金魚 サバ 様様。 羽があるのとないのと先天後天どっちがありやなしや? 時間はただの変化率だろ
すなわち本質的な議論は「変化しているかどうか」 時間は変化率じゃないでしょ
変化率というのは速度や加速度のことをいう >>130
認識世界のことなのか、認識世界と矛盾しない領域を含んだ世界なのか
存在とは目に見えている物の事なのか、考えのことなのか
変化とはそのうちどれを対象としているのか。
まぁ、いろいろと面倒くさいのよ哲学は。 ややこしくなるから、とりあえずは
人間の認識や意識を度外視して、物質世界
のみを考察すればよい >>132
そもそもなぜ物質世界が存在し物質世界は変化するのか?
シンプルに・・・物質に触れるから存在しているし動かせるから変化する
なぜ?と問うと認識や意識は度外視できないので哲学ができないということで 公共時間と流通時間
公共時間と流通時間の関係が、分かりました。民主主義と同様です。現在のこの国も
民主主義です。一応、同意します。ただ、
未だその実態は不十分である。それで、
デリダも来るべき民主主義と繰り返します。
この民主主義に満足はできません。しかし
それは皆さんで決めて実行して行くもの
なので、とりあえず民主主義と認めても
仕方ありません。
さて、今のこの時間は公共時間です。ただ、
それは不十分な公共時間です。そして私の私時間もその中にあるので、私はこの不十分な時間を公共時間であるとはどうしても言いがたい。この時間は、仕方ないとは言い得ないので、あくまでもこれは流通時間で公共時間とは別ものであると言わざるを得ないのです。
これは公共時間に未だなり得ていない流通時間です。 ハイルシュタイナー🙋
∧__∧
(о´∀`о) 底辺侍参上!
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
"""~""""""~"""~"""~" バナナTOKYO
食卓の上に食べごろのバナナが、三本あればそして家にはバナナの好きな複数の人間がいれば(状況)バナナは明日の夕方までには(経過した時間)すべて食べられてしまうだろう。脇のゴミ箱に、その皮が投げ入れられているだろう。(予想、皮は証拠、痕跡)
『食べられてしまう』(可能、対象)それがこの状況のバナナの意味です。しかしそれ以外にもバナナの意味はあります。バナナ存在の意味は多様で不可解だったり、予想も出来ない意味もあるかも知れません。予想され無い意味が出現するなら、それはある種の事件です。
バナナTOKYOは、それらの『バナナ意味』への問いかけでした。 全ての民というと人間ならぬものに開かれてていいなあ。 民主主義流通時間に行き公共時間着
公共衛生上、時間の流れを私時間で越えられる民はいないね。 お声がけ有難うございます!
皆様の貴重な公共時間をお騒がせさせて頂いております、民主主義の皆様、TOKYOばなな党 党首そんなバナナでございます。
お時間の許す限りそんなバナナの味をじっくりとお楽しみください。ご静聴有難うございました。 Well then (with your permission), I'll take a break. I'll give you a break!
暇をやる。 時間の話し
暇は、私のヒマであるから、私のものである。すると暇で無い時は、誰か他者のものなのか。
(この問いの答えは、私は私の暇を生きている、だから私が仕事をしている時も、私は暇だから仕事をしているのだ、と言う答えだろう)
人間存在、人としての生活は何時でもある社会の中にある。それが人の実存。サルトルは人の実存が何時でもある社会内にある事実を見落としている。
151さんの発言も興味深いです。時間の話しもある種、危険な水域に入りつつある、と言って良いでしょう。 社会科学者ならそうおもうだろう。各種科学によっても時間はゆがんでいて、
人間は身勝手なものだと気づく。僕は人文科学者だ。
昔の時間も今の一瞬も未来の時間もあらかじめ存在しそうだが、いつも同じところに
同じ次元にいるとは限らないだろう。 危険とフィロソフィア
ある社会とは、その中に社会的流通意味の流れる場所である、と考えても良いが、社会とはその社会内に社会的流通時間の流れる場所であるとも言える。(今この社会にゴールデンウィークが流れる、そう呼ばれてその時間は流れる、流されている)
経済的理由で働かなければならない、その社会は、構成員を社会(社会的流通時間)に縛り付けるために設計されている。これはジジェクが言っている事に似ていますが。この設計は歴史的につくられて来ている。
ジジェクは、西側世界で最も危険な哲学者と紹介される。 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」
ジェームス・ジョイス「ユリシーズ」 仕事に縛られて生きていても身体的精神的に造形やファッションがうまくいけばいいが、
ストレスになることも多いだろうなあ。 「時間とは何か」。その真犯人は「不完全性」である。
といっても、ゲーデルの不完全性定理と関係が無い。「完全」の意味が異なる。
「完全とは何か」。このGWに考える課題であるw
必要なものがすべて揃っている。はたしてそれだけで「完全」か?
欠落がない。たしかにそれは必要だ。
必要でもないものがあれば、それは過剰である。「完全」とはいえない。
「必要十分」または「必要最低限のものだけで欠落や過剰のないもの」。
ここでいう「もの」とは「体系」かもしれないが、もうすこし素朴に「集まり」と考える。
そう考えたとき、「不完全」とは「完全」から引いたり足したりしたものである。 「分断」されることによって「アクセス不能」となる「欠落」が生じる。
「自己同一性」あるいは単に「同一性」という「煩悩」による「欠落」である。
「欠落」を補うことで「過剰」になる。
「過剰」を制することで「欠落」に戻る。
とかくこの世はすみにくい。
このシナリオでは「欠落」が「先」ということになるが、「先」などというのは単に「煩悩」であるw
「過剰」が「先」という「煩悩」的シナリオも考えないといけないだろう。
それも「(自己)同一性」に求められると考えるのすなお(楽)だ。
「(自己)同一性」によって欠落あるいは過剰が生じる。
いや、「生じる」なんてことも「(自己)同一性」のしわざである。
と、考えると、真犯人の「不完全性」とは「(自己)同一性」のことでもある。
面倒なので(自己)を外そう。自己だろうと他己だろうと「同一性」だけを考える。
そうすると、「同一性」とは「相違性」でもある。同じか違うか。
この二面性が「不完全」であり、ひとつなのにふたつであり、それゆえに欠落と過剰を繰り返す。
そこまで考えると、ゲーデルの意味での不完全性をも含むことができる(はずだ)。 厳密ないいかたをさぼってゆるく語るとすれば、
「不完全」であるということは「完全」でなければ成り立たない。
「無矛盾」でなければ「矛盾」は生じないのである。
「パラドックス」ではなく、「矛盾」である。
「生じる」という言葉が問題なのである。
無矛盾であれば「生じる」なんてことは必要じゃない。
真犯人としての「不完全性」の正体が「同一性」であり、
「生じる」なんてことはこいつのせいである。
こいつの名前はjanus。
janusが外部から来たのではないとするなら、「無矛盾」として存在しているそのものがjanusである。
janusとはハムスターホイールである。そこに存在する以上、回さねばならないのだ。
バナナの皮も同様である。そこにバナナの皮がある以上、踏んでコケなければならないのだ。
「災厄」であるw
それゆにパンドラの箱に閉じ込められ...
などと考えてしまうと、パンドラ構造体って...アレだったのか!
この宇宙そのものがパンドラ構造体だ!
しかも「閉じて」なんかいない! 箱なんかじゃない!
やはり、「箱」ではなく、パンドラの「壺(ルビン)」がふさわしい。 「うっかり」というのはこの「災厄」によるものである。
それは、われわれが「パンドラの壺」の住人だからなのである。 捨てられてあるバナナの皮
バナナの皮があれば、それは踏まれて転ばな
ければなら無い。それがバナナの皮が捨てら
れてある事の意味だからである。それが最も
華々しい意味である。しかし、バナナの皮が
踏まれずに干からびて風で飛ばされていくのと、どちらがより華々しいかは、主観による。
何れにしても捨てられてあるバナナの皮には
何らかの意味がいずれ将来する。捨てられてあるバナナの皮さえ、意味を持つ世界内存在者
である。 揚げバナナはうまいが、大量の油を使って揚げるのに渋みが油に移って、
油が後で使えなくなるから作る気にならない。 この世界そのものがパンドラの壺であり、「ねばならない」という「災厄」の世界である。
内在者はすべてこの「災厄」に従わねばならない。
それが「存在」における「意味」であり、「意味」というものは「実行」されねばならないのである。
結論。「時間」とは「災厄」によってもたらされたものである。
「時間とは何か?」。それは「災厄」である。
さて、ここまでの話で、アインシュタインの宇宙方程式のパンドラ解をみつけた人がいたら、ぜひともノーベル賞をとってほしい。
これが、おそらく、ゆいいつの、現実的な解である。
謎のヒントは「555」。豚まんは「551」。豚まんではない。
なぜ、宇宙は静的ではなく動的なのか。謎は解けたよワトソンくん。 しゃべりすぎて疲れた喉に、ノーベル賞、飴ちゃん>>174 パンドラ構造体を考える。(パンドラ構造体はオリジナルな考えなので誤解せぬように)
0次元あるいは0ビット次元では同一も相違もないので却下。
1ビット次元では、とりあえずこれを0と1とするならば、0!=1である。
これと"同時"に0==1となるならパンドラ構造体である。
"同時"の意味は先送りするが、「時間」ではない。「&&」が適当かもしれない。
すなわち、(0!=1)&&(0==1)=trueとなるならパンドラ構造体である。
一般的に、これはfalseとなる。(とりあえずjavaで表記している)
&&ではなく排他的論理和であるべきだ。
((0!=1)||(0==1))&&(!(0!=1)||!(0==1))
これは恒真であって、それゆえに無矛盾である。
単純にいって、
(0!=1)||(0==1)
のことである。
0/1という値に惑わされてはいけない。A/Bにしよう。
(A!=B)||(A==B)
となると、最初の形は
(A!=B)&&(A==B)
である。
ふりだしに戻る。
これが「災厄性」であるw
とりあえず、お出かけの時間なので帰って来てから続きを考えよう。 でかけそこねた。昼飯は午後にでかけよう。
振り出しに戻る、とは、波動性である。
なんのことはない、
ψ = α|A> + β|B> である。
1ビット次元におけるパンドラ構造体の性質を波動関数であらわすとこうなるわけだ。 ただし、意図的に混同している。
この波動方程式ではA==Bにはならない。
すなわち、A=0, B=1なのではない。
それをどう克服するか、手法はいろいろあるだろう、その手法のひとつとしてパンドラ構造体を考えているわけだ。 さて、
A==B&&A!=Bが真である。
一方
ψ=α|A>+β|B>である。
前者の、&&の左辺と右辺が真に成るためには、左辺と右辺の位相が異なればよい。
パンドラ構造体によって隠されているのは「位相」である。 この位相の違いという情報からホログラフィックに世界を組み立てるとき、
時間や空間や変化というものが立ち現れてくる。
が、それらは実在ではない。
位相が隠されているというより、位相としてしかとらえることができないのだ。
うん。それでいいのだ。 われわれの宇宙は計算機である。
不完全であることが動力となる。
パンドラ構造体は計算機として機能する。
ブレーンワールドにおける仮想世界であるという痕跡はみつけられるだろうか。
というか、痕跡だらけだから気づけないのだろう。 時間とは何か。
それは不完全であるがゆえにそれを補完するためにうみだされてしまうものである。
(われわれの)宇宙あるいは自然は、不完全であることを資源とした計算機構による仮想世界である。
ユニマトリクス・ゼロである。
この(われわれの)宇宙計算機の外側はあるのか?
一般的な外側・内側という概念は仮想世界内での概念である。
そのことに注意しながらも、軽はずみに想定してみるw
外側の世界をブレーンワールドと呼ぶならば、
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの中にある小さな泡である。
ブレーンワールドからみればウイルスあるいはバグのような存在。
別の想定をしてみる。
ブレーンワールドはわれわれの世界でのブラックホールに似たようなものであり、
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの表面にある。
表面全体か、ちょっとしたくぼみにあるのか、といえば、くぼみにあるとしたほうがよいかもしれない。
ブレーンワールドの表面には情報があり、われわれの宇宙(コンピュータ)は、その情報をホログラフィックに投影した仮想世界である。
これもまあ、ちょっとした泡にすぎない。 少しだけポジティブな世界も考えてみる。
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの生長点のひとつである。
ブレーンワールドは生長点が残した残骸の積み重ねである。
残された残骸(情報)を再生しながらも可能性を計算してあらたな残骸を残しながら成長する。
ブレーンワールドはサンゴ礁である。 過去
過去は自由に活用できるに違いない。過去の事実は変えられ無いが、その意味は変えられる。つまり、事実の解釈である。そして事実の解釈は、現状の把握となり、我々、私は新しい計画を立て得る。やはり事実をしっかりと確定するべきである。出来るだけはっきりと。 過去の情報がブレーンワールドをつくる。ブレーンワールドには時間が無い。
しかし、それではエネルギー論的になんらかの辻褄合わせが必要になるだろう。
このシナリオでは、(自己)同一性さえあれば、この宇宙からブレーンワールドまでをつくることができる。
それは「射」であり、写像というものもあるいは函数というものをさらに抽象化したものである。
なんらかの「射」。それがなければ「時間」などというものもないし、哲学だってない。
哲学は「射」によってなりたっており、究極的には、哲学とは「射」の学問あるいはなんらかの行為である。(いや、学問だって、なんらかの行為だって「射」なのだからあたりまえだ)
ひととおり考えたうえで「射」という振り出しに戻る。 思考
振り出しに戻らないアイデア、思考。その降り出しに戻らない思考は戻らない、つまり戻れないのだ。すべての思考が、正確には、厳密には戻れない。してしまった行為は、完全には取り消し出来ない。思考はある行為である。 降り出しに戻ったら濡れてしまう。
こんどは濡れないで行く準備ができたから振り出しに戻ってみるのだw
先送りにしていた問題を回収しながら最初からたどってみるわけだ。
部屋中の圏論とか位相数学の本を集めて再検討しようと思ったがめんどくさい。
哲学における「射」とはなにか、ということで本を返すついでになにか借りてこようと思ったら、
今日は図書館が休みであった。自分が連休だったのでうっかりしていた。
この「うっかり」こそが問題のひとつでもある。
哲学問題を圏であらわすような仕事をしている学者はいないのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています