すごいことに気がついた
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税金という搾取によって民草が縛られているから。
本当は働かずとも食べて行ける。
しかし1%の強欲な政治家や資本家が自らを太らせる為に俺たちを苦しめている。
この恨みは絶対に忘れるな。 それは調理済みでタレがかかっていたので、私はごみ箱にそれを捨てた。その唐揚げは、元々は生きている鶏だった。しかし、人間の体の一部になるために鶏は生を剥奪された。 その鶏の肉が私の手によって加工され、それを要求する人間の体内に吸収されるはずだった。しかし、私は、その鶏肉をごみにしてしまった。 鶏の霊が私の後ろに立っていたら、自分の肉がごみになってしまった光景を見てがっかりしているだろうなと思った。 そして、私は次にヒレカツをカットするという作業をした。 人間の感覚で言うなら死体を損壊した奴はどうでも良くて殺した奴を憎むだろうな。 その時に、この気づきは起こった。
ちなみに、私はこの仕事があまり好きではない。とくにやりがいを感じないからだ。だからこんな作業と関係ないことを考えているのだが。今までは、この仕事をする目的は収入を得るため、という事以外に思いつかなかった。 私は目の前にあるヒレカツを見て思った。私のこの仕事の本当の意味は、豚の肉を今必要としている人の元に届けること、すなわち豚の命を人の命に繋げる役割をしているのだということ。 そしてこれが只の綺麗事ではないことにも気がついてしまった。
私たちの実体の99%は物質であるのである。 今日、教科書や学問において語られる人間というのは、概念的なものに片寄っていると思う。 それは、例えば、文学の中の人間であったり、宗教の中の人間であったりする。
だが、学問において、人間というものを正確に捉えることはできない。なぜなら、人間は言葉ではないからだ。人間は抽象ではないからだ。 人間の実体は、そこら辺を歩いている野良猫やペットの犬と同じように、肉体なのである。 また、言葉は生死を表現することができない。
どういうことかというと、300年前の人間が書いたエッセイに出てくる「人間」と、今、存命の作家が書いたエッセイに出てくる「人間」は、前者は既に死んでいる人間で、後者は今も生きている人間なのだ。 >>15
私たちがお互いを生かすというとき、それは道徳で習うような心のあり方だけではなくて、お互いが肉体を維持できるようにするということでもあるのだ。 私は、仕事についてこう考えた。私たちは、仕事を通して、お互いをよりよく生かし合っているのではないかと。私たちは、無意識的に、より高度な生存ができるように発展していっているのではないかと。 その時、細胞が体内で必死に私を生かそうと働いているように、私たち1人1人が神の体内に生きる細胞のように感じられた。 私たちは生きているのではない。
自身の魂によって生かされているのだ。
確かにこれはただ事では無い。
本来なら動く必要の無い肉片を、世界を担う役割として無意味に働かせ続けねばならないのだ。 明察は私たちを自由にしてくれる。
己の魂と語り合い、思考を続けろ。
その鋭い感性は決して無駄なものではない。
日々、魂の育成と訓練を絶やすな。
現の幻影に惑わされていては、真の世界へは行けない。 >>19
続き
聖書等の宗教において語られる「人間」は、神の子であり、崇高なものだ。
しかし、人間というのは、本質はそのようなものであっても、実体は獣と同じ肉体なのである。
つまり、生きるということは、ただ、自分や他人をそのような崇高な人間であると信じ、宗教や道徳的な教えに従うという意味ではないのである。
人間として生きるというのは、肉体を伴うことである。人間の本質は神性であり肉体がそれに劣るものという間違った認識が、殉職や滝に打たれる等、生命を危険にさらす行為を正当化してしまう。 >>22
そう、だから、微生物が一生懸命生きているのと同じように、人間は自らの種族を繁栄させるために、本能に従って正しく動物的な営みを送っていたのである。
微生物の活動と、人間の仕事というシステムが、種の存続の為に行なわれているという点において、(人々は無意識であるが)同じ事だと思った。
私は今まで人間は生物として間違っていて、人間的な活動すべてにエラーが表出しているのだと思っていた。
だから、こんな無意味な仕事というものを人間は続けているのだと。
しかし、人間は、しっかりと、無意識に愛の中に生きていた。その事に私は気づいてしまったのだ。人間は正しく生命であるのだと。正しく宇宙の一部であるのだということが、その時分かった。 私たちはウイルスのようにしたたかに、自分の種の繁栄のために生きているのだ。 それは生物として。人間は限りなく他の動物と同じように生きている。 人間は、肉体がその本質の99%であるということの自覚を失ってしまったために、思い込み(理想)と現実との差に悩み、もがき苦しむようになってしまったのである。
石は自らが物質であることを受け入れている。人間は自分の体が物質であることを受け入れたら、人間として生きる楽しみを見い出せるだろう。 人間は考える葦と思い込むことは、この持って生まれた貴重な肉体を無力化するということだ。 哲学の主流が人間を研究するとき、人間の意識にしか目を向けない。
だから、かの有名な「人間は考える葦である」という命題は意識のない人間を人間と仮定できないのである。
黄色いタコの形をした人間や、象の見た目を持った人間がいたとして、哲学者はそれを人間という対象に含めることができるだろうか?
その生物は、人間以外の意識生命体として扱われるのではないだろうか?その場合、哲学者は人間の定義を人間としての肉体に見出したということになるのである。
それはつまり、人間という定義は「人間という肉体に意識が宿ったもの」であるということを証明している。
過去の哲学者が人間の定義を意識にだけ求めるようになった原因は、宇宙に存在する意識生命体が人間だけであると考えていたからではないだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています