クルト・ゲーデルはこの板で語ろうか
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不完全性定理は数学者だけのものではなく、物理学者、政治学者、小説家、そして哲学者にも語られている
数学の哲学とも言われる分野ではゲーデルの不完全性定理は外せないだろう
語ろう ヘーゲルの否定の否定の法則は
対象をその否定で理解し、また
それを否定するのだが
科学革命の分析から導かれたのだろう。
つまり論理は自然とは否定関係なんだと。 >>94
物理現象「理解」には影響する
不完全は論理全般の問題 >>101
> 物理現象「理解」には影響する
それならばOKだ
数学は物理現象を言葉として捉える枠組みとしての物理理論を記述し論証するための言語だからね
不完全性が数学と言う言語の表現能力と論証能力との関係に一つの限界を与えているのだから
当然ながらそれは、数学と言う言葉を使って記述され論証される物理理論にも限界を与え、
従って、物理現象を言葉として捉え論証する=物理現象を理解する上での限界にもなる
>>92が「物理現象まで影響を及ぼす」と書いたから反論したんだよ
>>95
現象そのものと現象の理解あるいは現象の記述&それに関する論証とをきちんと区別できないド素人ならば口を挟まずに黙ってろ Undecidability of the Spectral Gap
https://arxiv.org/abs/1502.04573
このへんっすかね。物理における不完全性定理のようなものつーと。 >>102
ゲーデルの不完全性定理 1930年クルト・ゲーデルが証明
ω無矛盾という条件がつく
チャイティンの不完全性定理
情報理論の分野で不完全性定理を得た
ゲーテルの場合は、数学の極めて限定した条件(ω無矛盾)で不完全性定理を証明したが、
チャイティンの場合は、情報理論という物理現象において(限定的であるが)不完全性定理を証明した
つまり、数学の限定された理論のみで不完全性定理が有効なのではなく、物理現象においても不完全性定理が有効なことを証明した。 >>104
物理現象と物理現象の記述との区別が付かないで哲学を論じようとするとはどうしようもない人間だね。
チャイティンの本、例えば彼の情報理論について最も基本的な彼自身によるテキストであるAlgorithmic Information Theoryすら正しく理解できていないみたいだな。 物理現象においても不完全性定理が表れることが証明された。
つまり観念の世界である数学世界だけでなく、実体である物理世界においても不完全性が存在する。 >>105
不完全性定理を数学的に理解しておらず、すべての哲学的なことを言語的理解のみで理解しようとしていないか。
だからそんな頓珍漢なレスになる。 >>107
何も理解できていないのは君の方だ
不完全性定理の証明ぐらいは理解しているよ
ゲーデルの不完全性定理は数学を形式化することによって通常の数学者の殆どが抱いている数学での概念や定義に対するイメージつまり意味を排除して得られる
完全に構文的なものとしての数学理論(公理系とそれから導かれる定理の集まり)に関する定理だ
しかし物理現象は構文的なものではない
物理現象を形式化された数学を記述言語として公理的に組み上げられた物理理論を用いて記述することによって、その現象の記述は初めて構文的な対象となり
不完全性定理との関係について議論できるものになる
チェイティンの情報論的な不完全性定理もゲーデルのそれの一種の言い換えに過ぎないから同じことだ
チェイティンの不完全性定理は物理現象に対する制約を与えるのではなく、物理現象の記述に対する制約を与えているだけだ ゲーデルの不完全性定理の本質的要素だった自己言及は
物理現象の記述の中にも生じうるの? ゲーデル文かぁ。
不完全性定理は自己言及の問題ではないものの、
「証明不可能」なゲーデル命題として自己言及が用いられてる。
なかなかおもしろい。
自然は「矛盾」から成り立っており、「自己言及」による「幻想」である。
やっと「幻想学」をでっちあげられそうだw
哲学板を散歩しながら思うのだが、
数学は形而上学における知的なゲームであり、哲学に数学は必須だなと。 >>109
違う違う。
意図的に誤解させようとしている奴がいるが、物理現象に不完全性が認められた。
物理現象の記述方式に限界があるのではない、ここ重要だから。 >>108
自然現象のなかに不完全性(不確定性にあらず)を見つけて証明したの。
君の主義主張と同じことを言ってる著名な本とそのページ数を教えてよ。
君は元論文を読んだと主張するかもだが、君の語学力的な問題、語学力をクリアしても数学的理解力の問題がある可能性がある。
なので君の主張と同じ著名な本を教えてよ。それが第一歩だ。 通りすがりの外野です。
物理現象とは自然おける記述であり、すなわち物理現象(自然というものも)は「文学」である。
われわれの世界は「記述された」ものだと。
さきほど「自己言及」からインスピレーションを得まして図書館まわって資料を借り出したのに、
「記述」系の話が始まる前に外出してしまったのは残念。あの本とかあの本とかいろいろ借りてこられたのになぁ。 >>111
> 意図的に誤解させようとしている奴がいるが、物理現象に不完全性が認められた。
> 物理現象の記述方式に限界があるのではない、ここ重要だから。
不完全性は論理的な推論体系や理論(命題の集合)に関する性質だぞ
そうじゃないと主張するのならば、物理現象が不完全であるとはどういうことか、その定義をきちんと与えてくれ
あるいはちゃんとした定義を述べているページのURLを示してくれ
>>112
君へのレスは上の>>111 へのレスと基本的に同じだ
自然現象は論理でも理論でもなく単なる事実だから一つの自然現象に関して完全も不完全もない
> 自然現象のなかに不完全性(不確定性にあらず)を見つけて証明したの。
自然現象が不完全であることの定義を与えてくれ
あるいはちゃんとした定義を述べているページのURLを示してくれ はいはい、言葉遊びをしている奴も、ページのURLを示してくれと言ってる奴もやめやめ
議論しているときは自らが定義を示してソースも示しましょうね。
「現象」とは「理解」とは「記述」とはと自らの頭の中で思っていても、相手がどう思っているかは違う。
さらに、仮に自分と相手が同じ理解だったとしても、
言い負けたくないから、あとから実は「現象」とは「○○」ではなく「△△」だったのだと、相手の答えを聞いてから前提を変えることなどいくらでもできる。
ゴールポストを動かすというのに近い。
言葉の解釈を意図的に変えて、議論に負けないというやつだな。 物理学の反証フリー性、だけではなくすべての信念の決定不全性
というとデュエム-クワイン・テーゼとかあるね
アド・ホックな改訂の万能感 underdeterminationとincompletenessの関係もおもしろいな。
ゲーデルの不完全性定理ではなくゲーデルの半端定理と訳してしまうのもおもしろい。
半端者として日本にはふるくから「ちょん」という言葉あるのに言葉狩りされてしまった。
「自然」は「完全」ではなく「半端」だからこそ「自然」なのである。
この「半端」であること、すなわち「不完全性」は、「完全」であることによって「必然的」にうみだされる。
とすれば、「自然」とは「必然」のことである。 チャイティンのも含め、不完全性定理の本質というのはまだ十分にわかっていない
何かもっと強力な理論が欲しいわけだが、進展してこなかった
物理との関連性で言ったらカオスやそのランダム性の文脈である程度研究されてはいる
この辺は錯綜していてわかりにくいが、情報理論を統計力学やカオスと関連付けてある種の物理系にも
記述的なランダム性を見出だすことができる
しかし、この場合にも物理の絶対的なランダム性を明らかにしたのかどうかが不明
そもそも平衡統計力学自体が結局最終的に何なのかも不明
要するに殆どの事柄がまだまだわかっていないと言える
個人的にこの辺も調べている 今日は黒霧島。下町のポナレオンも競馬場から好きだけどね。 自然という対象を理解する
対象ー認識ー表現の構造
対象は運動する
論理は理解する側で対象の否定
つまり静止
天動説は理解である静止が実在するという誤り
静止、座標原点は理解に必要だが自然に実在しない 対象をその否定で理解する
だから決定不能になる
クレタ人の逆説は理解の本質 生物分類は進展すると生物非生物の区別がつかなくなる
つまり差異を否定で理解しているから
分類できない対象は分類そのものの問題
ウイルスは分類とは無関係に存在する
不完全性定理もまた論理の問題 >>125訂正
だから自己言及すると
ヘーゲルの運動定義は決定不能ということ
決定不能=矛盾 ゼノン、クレタ人、カント、ヘーゲル
科学の問題は理解するから >>115
> はいはい、言葉遊びをしている奴も、ページのURLを示してくれと言ってる奴もやめやめ
> 議論しているときは自らが定義を示してソースも示しましょうね。
>
> 「現象」とは「理解」とは「記述」とはと自らの頭の中で思っていても、相手がどう思っているかは違う。
もっとも分かり易い意味での自然現象とは人間によって感覚的に知覚された自然のアクションだよ、人間の解釈を極力加えていない段階のね
例えば稲妻が光ることを雷の科学的理論について無知な人間でも視覚で知ることとか、雷の雷鳴やガイガーカウンタが音を発する(のを物理学に無知な)人間であろうと音の知覚として知ることとかね
その程度のことも弁えず、現象がどうしたと言って周囲を批判している君のほうが無意味な存在だね
定理は公理的に組み立てられた体系の中で演繹的に証明された命題に過ぎない、つまり人間が勝手に約束事として決めた言葉の一部分に過ぎない
雷が人間の決めた自然科学の理論に従って稲妻を発し雷鳴を轟かせなければならない理由はないのだよ
実際、自然科学の理論の発展の歴史は正しいと思って立てた理論が新たな自然現象の発見(人間による実験を通しての古い理論の否定も本質的にはこれ)ことの繰り返しだ
でどうしたのかね、君の現象とやらは? きちんと定義すら言えないんだろ 生物分類を進めると生物非生物の区別が
つかなくなるのは、人間の生命観が
出鱈目だからで、差異を肯定しないと
差異も差異として認められない。
ウイルスをウイルスと分類しなくても
無関係に存在するといえるのは
ウイルスとして肯定して理解済みだから。
ヘーゲルの運動定義が決定不能なのも
決定不能=矛盾
と肯定理解して、決定不能=自己矛盾
する存在と理解、規定したくないから。 >>132
> ウイルスをウイルスと分類しなくても
> 無関係に存在するといえるのは
> ウイルスとして肯定して理解済みだから。
最後の行がダウト
「ウィルスとして肯定して理解する」ことがなくても正体不明な何かが存在しているとは言える
例えば病気の人の患部の細胞の電子顕微鏡写真に健常者やその病気ではない別の病気の患者の同じ組織の細胞の写真には決して見つかったことのない
不思議な正体不明の粒子が見えるとかね
××であると肯定などしなくても存在それ自体は高い蓋然性を以って主張できるのよ、たとえその段階では仮説としてであるかも知れないけれどね まあ真偽は実験が基準だし
バークレーがニュートン否定しても
そう仮定したら計算通りだし、で終わり
限りなく0に近いが0ではない、というのは決定不能ということ
運動という有を静止という無で理解するからこの規定になる
数学の0もまた同じ
論理とはそういうこと 座標原点は実在しない
数は部分を持たない
つまり一致する
数学の規定を科学は裏付けた 数は理解の手段
自然という運動する対象を否定の静止で理解する
0は実在しない
無は文字通り自然には無い 数学というか論理に決定不能がつきまとうのは理解するから
そしてそれは対象である自然が無矛盾だから なんでコテやめたの?中身変わらないのに
自然過程説さんですよね。 まあ哲学は理性が基準だし、バークレーがニュートン否定しても、そう仮定したら計算どおりも知性の限界
決定不能ということ、運動を静止で理解し、規定するのも、数学の0も知的限界だと理解し規定された観念ということ。
数学というか論理に決定不能がつきまとうのは、「理解する」で観念したから。それ以上論理的に扱えないというだけ
対象である自然が無矛盾なのは、対象を対象としている己の知性を自然を、超越した対象に棚上げしているから。
主張が認知の限界を裏付けているということ。 圏論から考えると、「存在」とはidentity morphismを持つことである。
これは「自己言及」でもある。
この構造が「自然」というものを作り出す「大きさ」や「変化」の元/基/素/本/下/許となる。
第一不完全性定理は「自然」の定理であるとも考えることができるだろう。
「矛盾」あるいは「不完全」あるいは「ゝ」。
ネーターが生きていれば「不変」ということとの関係を聞いてみたいものだ。 いうなればこの「自己言及」は「自然」の「心臓」である。
コンピュータでいえばCLOCKだ。
「心」にもこのような「CLOCK」がある。なければ「心」という活動は無い。
以前、「555宇宙」として考えた。
(哲学すら含む)大統一理論を考えるならば「CLOCK」だけで構築できるだろう。
(ま、ここでいうCLOCKとはスピンやヒモや対称性をさらに抽象化した考えなわけだがね) >>140
自然が無矛盾なのは理解された自然が実在ではないから
自然という対象は有限を媒介して理解される
ただ、こういう物理条件下だと物体Aはこうなる、Bはこうなるというだけで、実は理由は無い。
わたしはこの意味で不可知論者なんだ 静止が実在しない、つまり運動が自然の存在形態であり無矛盾となる
つまり理解可能
理解は無の存在という矛盾
無矛盾で理解可能な自然は無という矛盾で理解される
理解自体は理解不可能
自然自体は理解可能
理解された自然は矛盾だから実在を否定され、自然自体は無矛盾に還る 理解の本質はクレタ人の逆説が指摘しているが、科学の場合自然が無矛盾だから運動は決定不能
結局自然存在は理解不能
自然自体は理由もなくただ在る 相対性は文化にも言える
ただ人間は絶対を希求する
基準の相対性認識は人間の本能が忌避する
宗教は不滅 人間は個人も類も進展するにつれ新たな相対性を認識していく
ある意味宗教は最後の砦かな 理解された自然は天動説
それが自然自体ではないことを理解した者が天動説という過ちから免れる 自然科学は自然を理解することだが
そのまま理解できる訳ではない
そして自然以外は対象外
自然科学だから
ただし自然を理解する論理は理解しなければならない
論理を媒介して理解するから、論理とはという理解は当然なさなければならない 論理の産婆は自然だろう
対象を理解する
大地は静止してみえる
天体は運動して見える
ただし、同一として理解する
自然は変化していく 差異を同一と理解する
自然は運動変化の過程として在る
これらも理解とは何かを知るヒントになる そう見える=自然ではない
このことを天動説から学ぶ
そして同一として理解する論理の性格を理解する
同一は自然に実在しない 差異を同一、運動を静止
無限を有限で
対象を否定で 過程さん この動画是非
【第3回AI美芸研】「「意味」のわからないAIのために」斎藤環(精神科医) 03/04 #AI美芸研
https://www.youtube.com/watch?v=72EI7IM14Wo 天動説でも地動説でも他者を客観内在化して、地球科学とか進めるべき。
それが天体法則の中、共存的である方が認識意識が言いわけで。 >>163
明日の法事の準備で忙しいので。
明日の夕方ゆっくり見させて頂きます
悪しからず 冠婚葬祭で豪華にに食うてこうかな。将来。贈答経済とかも。 >>140
ああ、そうか、今わかった
前提設定するけど、その正当性は展開することによってしか問えない
自然はとにかく対象として現前している
「存在」という規定は正当だが、それは対象の否定としてということ
頭が限界だな
疲れているからこれまで
同時性はやはり認識、理解された自然でしょう
同時かつ同時ではない、なんてのは直接の自然ではないのでは?
光が理解の媒介であること・・
久しぶりに相対性理論考えています
今考えているのは双子のパラドックス 理解の在り方に規定された自然認識
やはりもう頭が
寝ます >>140
> 対象である自然が無矛盾なのは、対象を対象としている己の知性を自然を、超越した対象に棚上げしているから。
>
> 主張が認知の限界を裏付けているということ。
そうでしょうね 理解された自然
即自の自然
自然という規定・・
ゼノンの無限に対する理解 >>152
赤ん坊→家族→地域→社会→世界→歴史
地球→太陽系→宇宙→過程としての宇宙
認識→認識自体の相対性の認識
何か足りない気がします 光速度一定の原理は相対的に自然を理解していることを明らかにした
自然は絶対だが理解が相対なのでは?
理解を媒介にした自然は自然そのものではない 光速度一定の原理はある意味最終理論の礎であり、また出発点
分類をしたら対象は差異であり一であるという理解になった
光速度の原理は自然を理解していくと、差異としてあり、否定関係は実在しないことを示した
ゼノンもまた自然が一であることを示した 無は理解の媒介であり、無はまさに無い
観念に在る無は無いものが在るという矛盾 三浦つとむさんの「弁証法はどういう科学か」を少し書き直したい
滝村氏がいうように認識論の大家ではあるが、思想としては駄目な気がする
氏のインパクトは大だが
良い本ほど毒を含む
吉本隆明 何もわからなくなり、うずくまっていたわたしに光を射し込んだ恩人です
わたしにはこれしかないのですが 結局ヒトは「地球へ・・」の最後のページになるのでしょうか
私たちはその中でやるしかないのだと 「真夜中の太陽」
今好きな曲
互いに支えあった人を喪い、病をえて
亡くした人に精一杯報いたいのではありますが
「朝の扉をひらく時」
「一人でお帰り」
人間とは、生きるとは
学問はそれに尽きるのか
さて法事です http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/4517
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/4517/hs17-167.pdf
《私の課題はラッセルの論理学を内部から攻撃することではなく,外部から攻撃することである。
即ち,ラッセルの論理学を数学的に攻撃するのではなく,〜もし数学的にであれば私は数学を営むことになる〜
ラッセル論理学の位置,職務を攻撃することである。
私の課題は,例えばゲーデルの証明について論じるのではな く,その証明の傍を通りすがりに論じることである。》
(『数学の基礎』第VII部19節)
一言でいえば,数 学者ゲーデルよりも哲学者ゲーデルをウィトゲンシュタインは批判したのである。 光速度一定の原理は座標原点で理解し
その実在を否定する
つまり理解の理解
理解は否定
その否定を否定する
光速度一定の原理=否定の否定の法則 光速度一定の原理が示すことは豊穣だ
パルメニデスを裏付け、量子力学の自然理解というか、認識の在り方を示している
わたしは、エネルギー保存則と共に自然理解の基礎だと主張する 不完全性定理はクレタ人の逆説が本質で
運動定義と同じです
運動を定義すると、規定とは否定だから決定不能となる
自身は対象の否定です
決定不能は理解自身が持つ遺伝子です カントの二律背反をホーキングは一行で片付けいた。
神の方程式とか無規定な数学的理性の暴走でしょう。
結局私たちの現在はその程度なんでしょう。 わたしの限界が仄かに見えてきたかな
まとめていますが、うーん
古本屋にディースカウ、シューベルト二十二枚組歌曲集、九千円!
買いたいが、さて 決定可能とは、effective methodが存在するかどうかという実利的な問題であって、
不完全性や矛盾などとは関係ない。(もちろん関係はみいだせるがw)
混同しないように。 決定可能 decidable
完全性 completeness,totalness,exactness,perfectness,fullness
完備性 completeness
矛盾 contradiction
これらを、数学という文脈から切り離してしまうと、また違う意味になる。 矛盾を許容してしまうと、決定性も完全性(完備性)も限定された中でしか成り立たない。
同様に、決定不能性も不完全性も限定された中で...
あらゆるものを存在させたり考えたりするためには矛盾があればよい/必要である。
ただし、矛盾はパンドラBOXに閉じ込めねば使えない。限定的ではあるが、別名を「公理」ともいうw
自然は矛盾からできている。あるいは、自然は矛盾によって駆動されている。
矛盾を仮想粒子として考えるとき、矛盾は「大きさ」のようなものを持つだろう。
たまにこいつをアザトースとも呼んでいる。
ネーターの定理あたりからこいつを召喚できるのではないかと考えているのだが...手ごわい 哲学、科学、数学が理解出来れば何でも良い
現状は納得出来ないだけ
納得しているのは鵜呑みにしているだけのようにわたしには映ります ホーキングの説明とか風船の喩え、鉛筆・・
本当にわかりますかね? >>188
二十三枚みたい
谷山浩子さんの曲、なかなかま惹かれます
感覚は変容しますから
野菜が美味しくなるのは味覚の鈍化だと読んだことがあります
音楽はさて
いえ、先年ミヨーの歌曲聴いて、感じ入りまして、それが果たして・・ 直感的に理解できないのであれば、圏論などを利用して「(自然)変換」で扱うというのはいかがでしょうか。
数学が得意でないのであれば、また別の方法を考えます。
単純に、暗黙的に語られている部分がひっかかっているのだと思われます。
その暗黙的部分を無視して公式を記憶するだけの理解はつまらないと思うし、わたしも耐えられません。
語りえないものには沈黙する、のではなく、語りえないものを語らずに扱う。
それが(哲学的手法のひとつとしての)科学的手法です。 わたしたちは現在いるところを過程として見ないで、固定して見てしまう。
資本主義はまた修正されていくだろうし、社会主義は国家制度としては駄目なことは証明されているが、ある程度は採り入れるべきだろうと思う。
学問は科学でさえまだ怪しい。
数学、哲学もしかり。
どこまで確かと言えるのかがわかれば、それは凄いことらしい。
わたしは基礎を確立したい。
理解しがたいものは理解の本質の問題でもあるのだとわたしは理解している。
わたしたちは後世に貢献できるのか、はたまた鴎外になってしまうのか。
ただわたしには現在の路線で科学が突き進むとはとても思えない。
ラーナーが語るように第二の科学革命が必要な時でしょう。
日本がその時に付いて行ける様にと思わざるを得ません。 日本の知的レベルは世界有数らしい。
それは戦国以来の外人たちの証言でも伺える。
短期間で欧米列強に伍する国力をつけることで証明されている。
ただし、原理的なところでは古来より外国文化を押し戴き、それを発展させることが得意で自ら考えることはほとんど無い。
根本順吉?さんだったかな、気象学者がと学会の擬科学批判の在り方について批判的に書いていたが、彼らは第二の鴎外に成りそうではある。
この会は、あまりにも現在の知を固定して捉えすぎている。
彼らはいたって知の発展を阻害する勢力になるだろう。
それは学問の常ではあるのだろうが。
現在の知は、根本として考え直さなければならないのだと思える。
現在の日本の文化状況は、新しい事態を切り拓くことは可能にしているとさえ思える。
どうかニュートンが日本から出現しますように。
若い人たちに十分豊穣な知の土壌に耕し、提供することがわたしの夢です。 わたし自身は能力は生成するものだと考えている。
可能性としては個々の差はそれほどなく、どんな土地に植えられ、栄養を与えられ
それをどう選ぶのかが能力生成の鍵ではないかと。
現状はあまりにも偶然に頼りすぎていて、歩留まりが低すぎるのが現状でしょう。
日本では様々な教育法が実験されているようです。
学校で秀才でなくとも、学問で秀才になることがありますし、社会で上手くやれる人は必ずしも学校の秀才ではありませんし。
バブルで上手く切り抜けることができたの人は必ずしも学校の秀才ばかりではありません。
中学しか出ていない人が、こんな時は危ないと手を打っていたりしていて、体験を生かしたりしています。
わたしの父母も、知り合いもまたそうでした。
知り合いなど漢字がまあ読めないこと!
いろんな意味で人間の現在はそれほどではないが、それでも優劣は擬制でも決めなきゃいけない。
また、それで劣等感を抱く必要はないわけです。
ただしそれはあまり言ってはならないことかも知れません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています