「選ぶ」ということについて
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「選ぶ」とはどういうことなのか。考えを交わしてみたいです。 なるべく日常の言葉で話してください。話を大きくそらさないでください。 考えがまとまったり、気になったりしたときにこのスレに来るかもしれません。 あとは自由に話してください。 選択には3つの不可欠な要素がある。 1.選択肢の認識 選択の為に何の選択肢があるのか認識がある 2.選択肢の決定 選択肢を意思決定する要素がある 3.選択肢の実行 決定した選択肢を実行する行為がある。決定したものと違うものが実行された場合、選択したとは言えない なので、選択の本質とは、意思決定した選択肢を実行すること、であるだろう こんなに早く返信が来るとは思っていませんでした。 私もちょうど同じことを考えていました。しかし、そのプロセスに関して懐疑的です。 長くなりますが、下に今の時点で考えられていることを載せます。 稚拙な文章でメモ書き程度ですが、読んでみてください。 「選ぶ」とはどういうことなのか? ・例:私の目の前にあるいくつかのリンゴの中から、このリンゴを一つ食べるために選ぶ。 このような場合(文)を考えてみる。この時、私は他のリンゴとこのリンゴを比べて、どちらが食べるのに適しているか、という点を比較して「選んでいる」。 ここから見て取れるのは、「選ぶ」ために私は比べることをしていること。そして、どのような観点で比べているのか、その目的が決まっていること。 1. 一つのものから「選ぶ」ことが成立するのか、考えてみる。 目的は決まっているので、このリンゴを食べるか、食べないか、しか私の取れる行動はない。 どのリンゴを選ぶか、ではなく、そもそも食べるのか、という点での是非が問われているため、「選ぶ」ということは、一つのものから「選ぶ」のか、複数のものから「選ぶ」のか、で振る舞いが変わってくるらしい。 しかし、この場合も比べることはしているため、選ぶことは成立していると言えるだろう。 また、ゼロ個のものから、や、マイナス個のものから、などについては、現実世界で想定しないためにここでは思考を保留する。 2.食べるために、という目的が決まっている必要性について考えてみる。 これは、ものを無作為に「選ぶ」ことは可能か?という疑問と同一だろう。 例えば、レストランでメニューから何を注文するのかを「選ぶ」として、これを目を瞑りながら行ったとしたら、どうだろう? メニューをめくって指をさす。指がささったそれを注文したら、これは、私は「選んだ」ことになるのだろうか? これは比べることはしているが、私にとって、実質的にどのページのどの位置のものを注文するのか、ということになっている。 これでは比べることの次元が違う。曖昧だ。 こう考えると、比べることにはスケールの違いがあるらしい。 では、もっと根本的に、そもそも注文すらしたいのかどうか分からない、という状態を考えてみる。 このとき、私はメニューの中にどのようなものがあるかどうかは気にしていないのだから、 そしてまた、それでもしかし「選ぶ」という行為はするのだから、 これは先ほどの、どのページのどの位置のものを注文するのか、という状態と同じなのではないだろうか。 そうでなくても、これに準ずる何かの状態になっているだろう。 つまり、目的もなく「選ぶ」ためには比べる次元を落とす必要がある、ということだ。 2.続き いや、これは間違いだ。 食べるために、という本来の私の目的はここでは目を瞑ることで無視しているが、しかし、それでは私はどうして指をさすところをあるページのある位置一つに決められたのだろうか? 目を瞑って「選んだ」としても、目的は消えずに、指をさすために私は「選んでいた」、と言える。 具体的な目的として食べることを無視できたとしても、想定上無視するために取った別の行動の目的が出てきてしまう。 抽象的な目的はいかなる手段を取ろうとも、必ず比べることと一緒に存在する。 ただ、これは本当なのだろうか? そもそも私は比べて「選ぶ」ことをしていたのだろうか? 根本的に比べるためには何かの基準が必要である。 魚が好きか、それとも肉が好きか? 朝が好きか、それとも夜が好きか? 猫派か、犬派か?など。。。 この基準のことを比べる次元と言っている。 基準に沿って目的を果たすためにする行為のことを手段と言っている。 こういう意味で、目的と手段と比較はそれぞれが異なることである。 しかし、時には目的と手段は一致することがある。比較はどちらにも重ならない。 私(人)は「選ぶ」ときに、状況を認識→目的を確認→手段の比較→手段の実行→目的の達成という一連のプロセスをとっている。(ということは自明だとして。) はじめの、注文することが目的だとはっきりしている例では、目的を確認するときに注文をすることがはっきりしていて、手段の比較では決まった行動しかとれなかった、つまり、一つの部分でのみ本来の「選び方」から離れていたためにその違いが分かった。 しかし、次の、注文することが目的なのかはっきりしていない例では、目的の確認、手段の比較の二つで不確かであったために錯覚をしてしまった。 こう自己分析できる。 しかし、さて、目的の確認単体だけ分からなくして、目を瞑らずに「選ぶ」ことを想像してみても、やはりどういうことなのか分からない。 では、これはこのプロセスが間違っているということなのかもしれない。。。? 「選ぶ」行為が本当に最終的な選択の実行がないと成立しないのか、も疑問です。 「選ぶ」という言い方と、決めるや比べる、考えるなどの言い方では何が違うのか? 単にリンゴを「選んで」、それでもやめた。と言う時も自然ではないでしょうか? ここら辺も考えがまとまったら、また来ようかと思います。 レスびっくりしました。それに、嬉しかったです。初めて使ったもので、少し戸惑ってます(笑) 人工知能に何かを選択・決定させる過程や命令の手続きをイメージしてみるといいよ。 あらゆる無限の選択が想定される「フレーム問題」や組み合わせ爆発で、 AIがフリーズしないためには、どう計算させるのがいいのか。論理だと選択は、 選言のOR文扱いになるけど、それが階層やレイヤーを作って、入れ子状にネストして いるアルゴリズムや関数もイメージできるな。つまり、選択やそれ基づく決定が多重に 連鎖しているかのような感じ。その要素を分解していくと、君の言うような単純に見える 選択にも、実は複雑な構造があることが分かるかもな。 返答もしたいが、その文章の意図と大きくズレた解釈をしている可能性があり、難しい ここでは文章を明瞭に書く義務等は無いが、主張を整理して貰えると、考える分には楽である… ラムダ計算(lambda calculus)は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の 評価(evaluation)と適用(application)としてモデル化・抽象化した計算体系である。 ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習から その名がある。アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって 1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の 決定可能性問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とはなにかを 定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、計算機科学の いろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellといった 関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の ユニバーサルなプログラミング言語であるということもできる。ここでいう 「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。 これは、ラムダ計算がチューリングマシンと等価な数理モデルであることを意味している。 チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算は よりソフトウェア的なアプローチをとっている。 この記事ではチャーチが提唱した元来のいわゆる「型無しラムダ計算」について 述べている。その後これを元にして「型付きラムダ計算」という体系も提唱されている。 元々チャーチは、数学の基礎となり得るような完全な形式体系を構築しようとしていた。 彼の体系がラッセルのパラドックスの類型に影響を受けやすい(例えば論理記号として 含意 → を含むなら、λx.(x→α) にYコンビネータを適用してカリーのパラドックスを 再現できる)ということが判明した際に、彼はそこからラムダ計算を分離し、 計算可能性理論の研究のために用い始めた。この研究からチャーチは一階述語論理の 決定可能性問題を否定的に解くことに成功した。 つまり、人間であれ、人工知能であれ、プログラムであれ、選択という行為が成立する ためには、そこに計算可能性が作動していると言えるのではないかな。計算できない、 計算機リソースが不足して計算しきれないものは選べない。それが「フレーム問題」や 「組み合わせ爆発」という人工知能やプログラム上の発散というエラーの問題となる。 フリーズして判断不能に陥った状態。 だから、選択することが出来るということは、たとえ、それが人間の場合だと意識に 上ろうが、無意識での判断や意思決定であろうが、その人なりの計算が成立している、 と仮定してみるのもいいのではないかと思われる。 型無しラムダ計算や組合せ論理などの特定の数学的な計算形式化においては、すべての式 は高階関数とみなすことができる。これらの形式化では、不動点コンビネータが存在する ことはすなわち、すべての関数が少なくとも1つの不動点を持つことを意味する。さらに、 関数は複数の異なる不動点を持つことができる。 単純型付きラムダ計算などの他のいくつかの体系では、十分に型付けされた 不動点コンビネータを書くことはできない。それらの体系で再帰をサポートするには、 明示的に言語体系に組み込む必要がある。それでも再帰データ型によって拡張された 単純型付きラムダ計算などでは不動点演算子を書くことができるが、ある種の 「実用的な」不動点演算子(常にいずれかの適用を返すもの)は制限される。 多相ラムダ計算(polymorphic lambda calculus、システムF、英: System F)では 多相不動点コンビネータは型∀a.(a→a)→aを持つ(aは型変数)。 Yコンビネータ 型無しラムダ計算においてよく知られた(そしておそらく最もシンプルな) 不動点コンビネータはYコンビネータと呼ばれる。これはハスケル・カリーによって 発見されたもので、次のように定義される。 Y = (λf . (λx . f (x x)) (λx . f (x x))) 実際に関数gを適用することによって、この関数が不動点コンビネータとして動作する のが分かる。 Y g = (λf . (λx . f (x x)) (λx . f (x x))) g (Yの定義より) = (λx . g (x x)) (λx . g (x x)) (λfのβ簡約、主関数をgに適用) = (λy . g (y y)) (λx . g (x x)) (α変換、束縛変数の名前を変える) = g ((λx . g (x x)) (λx . g (x x))) (λyのβ簡約、左の関数を右の関数に適用) = g (Y g) (第2式より) これをそのままラムダ計算で使うと、評価戦略が値渡しだった場合には (Y g) が (g (Y g)) と展開された後も、引数の値を先に求めようとして (g (g (Y g))) →...→ (g ... (g (Y g))...) のように無限に展開され続けて 止まらなくなってしまうので、次節で示すZコンビネータのように修正する。 評価戦略が名前渡しの場合はこのまま使える。 このカリーによるコンビネータのみを Yコンビネータとすることもあるが、実装などでは不動点コンビネータを指す名前として 他の形であってもYという名前を使っていることもある。 SKIコンビネータ計算では次のようになる。 Y = S (K (S I I)) (S (S (K S) K) (K (S I I))) つまり、選択とそれに伴う意思決定は、高階関数のような構造を有している、と仮定 してみるのも面白いんじゃないかな、と。高階関数は、関数の中に引数として、関数が 入っている関数の構造。入れ子式で、さらにその引数の関数が別の関数を引数に取る、 みたいな構造を何層も取ることができる。 すなわち、意思決定まで選択には高階関数的な多層の意思決定が必要であり、その すべてのプロセスを経た段階で、ようやく最終的な意思決定や選択が成立する、という風に 数学的にモデル化してみると、選択とそれに基づいた行動というものが興味深いもの 計算可能な数学的なものとして表現できるものと、言えるかもしれないよ。 女性が一人でいるか、多数いるかの根源的なところだろうな。 とても面白そうな議題なので参加。 >>4 >・例:私の目の前にあるいくつかのリンゴの中から、このリンゴを一つ食べるために選ぶ。 似たようなリンゴの中から比較して最も食べたいという目的に沿うものを選ぶ。 こっちの方がおいしそうとか、色が良いとか、大きいとか、近くにあったとか・・・ 比較してみて、そんな感じの違いを発見してから、良いものを選ぶ。 というのはね、確かに感覚的にはあってるけど、実は不思議がひとつ。 脳科学本で知ったことだけど『選んでから、選んだ理由を脳が勝手に後付け』することもあるらしい。 つまりリンゴを適当に選んでから「え? 理由?…うーん、大きかったからかな?」みたいな。 で、その人の中ではそれが事実になる。 ”自分は大きさで選ぶ人なんだ!”って妙に納得して、次回選ぶときは大きさで選ぶようになっちゃう。 >>18 の追記 リンゴを手に取ってから「あ、自分っておなかすいてたんだ」 っていうこともありうる。 つまり”無意識”で選んで、それをあとから”意識で選んだことにする” 普通は意識で選ぶんだろうけど、似たような選択肢の時は無意識がまず対応するってことかな その経験が次の意識的な選択をするときに役立つって寸法かと。 難しい単語は嫌いだけど、”精神的な対称性の破れ”が起こるって言ったほうが簡潔かな 無意識は意識がない、という意味ではなく、意識に完全には上らない、という意味。 つまり、それが無意識の選択であっても、それは意識が選択しているという意味。 そのプロセスが瞬時になされるので、意識に上らないだけ。 リンゴは身であり匂いであり味であり満腹感であってリンゴというモノは特にない。 リンゴという特別な認識存在として、リンゴというモノは実在している なるほど、でも無意識の選択と意識の選択はやはり決定的に違うと俺は思う。 無意識ってさAIのディープラーニングだっけ?あれのブラックボックス問題と同じじゃないか? 膨大なデータから導かれた答えの”思考プロセス”が全然わからないっていうやつ。 人間も同じ。物心がついた時から数十年かけて集められた膨大な人生のデータ、 その中から目的に沿った判断基準を探しだして、選択肢を比較する。 つまりAIと同じレベルの思考方法をする、これが無意識だ。 たしかに>20が言う通り意識は無意識の延長線上なんだろうが、 その二つを分ける決定的な境界…うーん、言語化できるかどうかかな?これが重要な気がする。 >>20 の >プロセスが瞬時になされると意識に上らない の理が正しければ完全に意識に上っていない時点で 意識が選択しているという意味にはならないわけで >>24 認識を粒度で考えてみるといいよ。意識は粒度が大きい。だから知覚しやすい。 無意識は粒度が小さい、だから認識しづらい。だが、粒度の小さい無意識の認識であっても、 それは元々の大きな粒度である意識的認識を細かくしたものに過ぎないので、意識と 無意識は別々のものではない。単に解像度の違い。紫外線や赤外線は目に見える可視光 ではなくても存在しているし、光のスペクトルにも入っている。 よって、無意識の選択と言っても、それはより粒度の小さい認識の意識による選択となるので、 意識と無意識は別々のものではない。サブリミナル広告というのが前に流行ったかもしれないが、 意識に上らない微小な広告やメッセージが入っているが、消費者はそれに気付かぬまま、 サブリミナル広告に誘導された消費選好を示すようになるのも、そうした機制で説明できるだろう。 >>25 解像度か、すごい良い表現だね。使わせていただきます。 ”思考の状態”の解像度が低めなのを無意識、高めなのを意識というんじゃないか? あと”認識しづらい”という文があるけど 認識できた瞬間こそが意識的になったと言うべき事態じゃないかな。 『思考が認識できない内は無意識、できたら意識』という感じ。 認識とは思考を始める切っ掛けだから、そうだな… ”フィードバック可能という特殊な状態を意識と呼ぶ”のかもしれない。 サブリミナルこそ意識と無意識の差を示す例だと思う。 だって意識的に広告を見たら「別に買わなくてもいいんじゃね?」と思える。 つまり思考にフィードバックすることで、より最適な答えを見つけられるってわけだ。 >>25 最適度を粒で考えてという条件、この>>25 が抽象した喩えを前提条件にして認識させると 読み手の前提意識がそれ以上抽象度が上回らない限りニーズが一致するのは当たり前。 この手の確証バイアスを助長する思考プロセスは哲学的ではないかな。 なんでも鑑定団の時点でこりゃ失敗するなってわかってたんだ 世界、事物の根源のあり方・原理に 匹敵する理性が伴わなければ 哲学として通用しないからな 選べないことって、結構、あるよね。 遺伝子、生まれる国や地域、年代、あらゆる初期条件、初期値の属性、家族、性格、才能、容姿、体質など だから、基本的な条件を自分で全く選べないまま存在することは、どこか強制の観を呈する。 今日のランチくらいは選べても、肝心な基礎的なことは全然選べない。 そのため、どこまで自由裁量の領域を拡張できるかが、人間的な試行や存在としてポイントに なる感じがする。哲学の意義の一つに、いかに自由を拡張していくか、というのがあっても いいだろう。あるいは、逆に、いかに不自由を忍ぶか、というのがあってもいいだろう。 どれだけ自由度を有して生まれてくるかは選べないけど 自由に考えることが可能だという哲学的な自由が人間の特権だからね リンゴを右手で取るか左手で取るかも選択 どのくらいのスピードで持ち上げるのが、どういう指の形で掴むのかも選択 つまり選択とは概念でしかない 複雑ないくつもの要素が重なった人間の行動を1つの基準をもって分類して把握することが「選択という言葉を用いる」ということ 行動から1つの要素を取り出して、その要素に関して別の行動とその結果を想像することが「選択」ということ 選択の意思を持って選択することは、のちに選ばなかった未来に想いを馳せることを想定するということ , ― 、 / | v」||v / l トユユイ はうっ! / ノ| | lヘヘイ〉 ┌、 / / l | ヽ フ ,−-¬ \ ー' _ -‐ | | { } // _ / / ヽ / γ ⌒ ⌒ `ヘ l// ( / ー' イ "" ⌒ ヾ ヾ l { __ 、_‐―/ ( -☉=- -=ⓞ-ヽ)ヽ l l zュZユヽニィ ( / ー-' ヽ. ヾ ) l l イZユエ7/ ∠ゞ (. ::.| ト‐=‐ァ' |.:.ノ.ノ | l  ̄ ' -‐|_LLLゝ、、ゝ .\`二´'/ ノソ _|、 | l / /.: ゝ、、ゝノ ,, ノ ノ ´ \ヽ l / _ --‐へニ`ニイニへ ヽ、 | / _ -‐ Zユ」_〉  ̄ ―- _ l l  ̄ ‐- _ LNヽ二>  ̄ ―-┘ ` ‐- __ __ ー-‐ 、\ヽーニ>ユュz_  ̄ ‐‐-、 l ヽト「ユvユイZ ヽ 〈 ` ヽ ) L「 ___ / \ / ヽ / ヽ │ .│ f''|:◞≼🌔≽◟.ii◞≼🌖≽◟ ;| ヘ /::';:ト  ̄ i  ̄ |';!::ヽ ハ: :し| ;; \ ^-^丶 / lヽ:i::l |:.::ト、:ヾ| ;; / 米\ : :/ :ノ:i::.| {:.:.ト、ヾ..:ヽ :│ ヽ__ノ│:/_,::ノ.:i.ハ ヾ::ヽゞ\.:\ ` : ::./:::ノ::.ノ:ノノ , '" ヾ\ \:::::::/.` .ー. '.:.ノ:ノ::;:ノ;;;; / 川 リllVハ. ( i\,イ//;;丿;; こうかね? / |l ̄`ヽ ノ `メ、::;;;ノ;;;; ,/ {:} `ー'- ニ_;; ,/ _∠ |l \ , \ / _ ,. イ´: |l \ ,λ / -‐‐‐-<´ .! / |l ' , _,ィ'ンy} 〈 \ .ノ`ー斗rェ,,_,_,_|l ,.ir'彡イy-´ ! `ヽ、 ` ' <._ {jt=t-t-ミ`^Yーrヘr-彡'水k} !:} .ノ ` ー- .._ ` -ヽ. l`亠^{:i ̄ {:リ |ハ ノノ/ノ _,. -‐ '  ̄ ´ ̄` ー- 、 \{{ {:l {:i ノ_,ィニ_ン´ // `ヽ 、\ \ {:l {∠ニァ--' / / `ヽミニ>ァ┴ '´ 選ぶは高次の能力が必要だ 選ぶだけではどちらか決めることができないからだ 優先する能力を使い、一方を選んだり、一方を先に使って他方を後に使うなどをすることができる 優先の能力が選択を決定する ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる