空圏は対象も射も持たない。
空圏はid射を持たない。
それは空圏という圏の内部の話であって、空圏そのものを対象として扱う限りはid射を持つ。
空圏だけを対象とする終圏を考えると、これまた集圏自体は対象ではないのでid射を持たない。
とすれば、終圏を対象とする終圏はどーなるのか。
この外側の終圏と内側の対象としての終圏は同じものなのか。
終圏を世界とすれば、マルクス・ガブリエル的に「世界は存在しない」のか、
あるいは、そのような形で「世界が存在する」のか。
あるいは、バナナの皮が自分自身を踏んでコケることでバナナの皮が存在することになるのか。
とりあえず、自分で自分を踏むことで存在してしまうという可能生を検証してみようw
そう、マルクス・ガブリエルを「世界存在仮説」として逆読みしてしまうのだ。
とすれば、そのようにして「意味場」がつくられるということに...
そこから抽出されるのは「意味場」「現象」「存在」。
「意味場」において「現象」することが「存在」であり、
「意味場」に「存在」することが「現象」であり、
「存在」という「現象」が「意味場」をつくる。