哲学とは共通了解についての研究である
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
・了解とは何か
・ある命題が了解可能であるための条件とは何か
・共通了解とは何か
・ある命題が複数人にとって共通了解可能であるための条件とは何か
・ある命題がすべての人間にとって共通了解可能であるための条件とは何か
全ての哲学の研究は以上に掲げた事項の研究であると言える
哲学の歴史とは共通了解の探求の歴史である グローバル化、異文化共生、LGBT、情報化、コンプライアンス遵守、南北問題への対応が叫ばれる今こそ哲学が必要なのである お前ら哲学徒は誇りを持て
社会は今こそお前らを必要としている 共通了解こそ哲学の意義
全集中力を共通了解の探求に注げ! 共通了解可能性ってエンターテイメントやホビーにとっても極めて重要だと思う
内輪ノリ、タコツボ化はダサいし臭いから衰退する イスラム圏でも、経済活動の自由や教育を受ける権利はあるだろう
女性にも教育を受ける機会が開かれていってるしな
何も知らずに上等なところから他の文化を見下ろすような態度はやめろ そりゃ統失のお前なんかと分かち合えることなんてねえわな 統失は僕の一部にもない。それが全性質のように偏見を語る輩が多いがな。
そんな偏見持っててどうする。 >>8
じゃあどうしてリベラルとイスラム教徒は上手く共生できないんだ?見下すとか見下さないとかクッソどうでもいいからよぉ、リベラルとイスラム教徒の間で何が分かり合えて何が分かり合えないのか教えてくださいよ先輩ぃ? ムスリムだって色々な人がいるだろう。
自らの自由や権利よりも古くからの規律を守りたいって人も、西欧リベラルな生き方に憧れ、自由や民主的な社会を求めたいって人もいるだろう。後者のみが「ムスリム女性の声」ではない。 自由主義陣営にいる人間には、ムスリムが中世の古い慣習を引きずった不幸な社会であるっていう
上からの決めつけがあるんだよ >>15と書いたところで...
昨今の恐ろしいテロや事件を耳にするにあたり、「ムスリムの規律は守りたい。でも限界がある」って立場も多いのかな。
ただそれを「民主的か非民主的か」「自由な個人か否か」「フェミニズム的か非フェミニズム的か」という西欧の尺度で彼らを巻き込んではならない。 ムスリムを直ちにテロと結びつけて考えるのは偏見になると思うけどな
一般的なムスリムはテロをやる過激な一派に対して我々同様に嫌悪感を抱いているし
その大半は平和的な人々だと言われてる 現象学だけじゃなく社会契約説も共通了解の問題に切り込んでる >>20
共通了解がなければそもそも言語を用いたコミュニケーションは不可能なんだが 言語でも異化された現実にメッセージを発するのであってお互い了承や同じ語圏
でいる必要はないだろう。 国際結婚がいい例だ。その方が愛の絆、コミュニケーションも上等だ。 資本家と賃労働者は共通了解可能ですか?
神経症者と精神病者は共通了解可能ですか?
人間と動物は共通了解可能ですか?
若者と高齢者は共通了解可能ですか?
統治者と被統治者は共通了解可能ですか?
高収入者と低収入者は共通了解可能ですか?
高学歴者と低学歴者は共通了解可能ですか?
理系と文系は共通了解可能ですか?
男性と女性は共通了解可能ですか?
ノーマルとLGBTは共通了解可能ですか?
健常者と障害者は共通了解可能ですか?
労働者とニートは共通了解可能ですか?
資本主義者と共産主義者は共通了解可能ですか?
リベラルとリバタリアニズムは共通了解可能ですか?
リベラルと功利主義は共通了解可能ですか?
デベロッパとユーザは共通了解可能ですか?
教師と生徒は共通了解可能ですか?
都市住民と田舎住民は共通了解可能ですか?
匿名ネットユーザ同士は共通了解可能ですか?
ネット炎上する人とネット炎上させる人は共通了解可能ですか?
加害者と被害者は共通了解可能ですか?
異なる政党の支持者同士は共通了解可能ですか?
親と子は共通了解可能ですか? 多分ここでいう了解って「合意」じゃなくて「概念」のことだと思うんだけど 共通了解可能な事項とそうでない事項がある
それは人と人とのコンビネーションにより異なる
共通了解により普遍性には及ばずと特殊性より優れる、中間的な妥当性が得られる 共通了解可能な事項の次元
@日常的に直接経験可能な事項。
A情報として知る経験可能な事項
B神話的なフィクションの事項 >>31
Bは仮定の話でいいんじゃないか?
仮定の話を更に「論理で推測できる部分」と「誰にもわからない部分」に分けてもいいけど 複数人によって共通了解されるものが存在することは経験によって確認できる
しかし普遍的に了解されるものが存在することは経験によって確認できないし自明であるとも言えない でももしかすると複数人によって共通了解されたと思っているものも、詳しく各人にインタビューするとそれぞれ思い描いている内容は違うことが判明するかもしれない 内容の違いを各自が理解できるための媒体としての言語について、共通の了解が前提として存在しなければならない
そうでなければ、同意された内容の同一性だけでなく、内容の違いの存在も定かでなくなるだろう
結局、共通了解の問題は、共通了解を可能にする言語という共通了解の問題に帰着しる したがって、哲学とは、我々の諸了解を可能にするところの言語の成り立ち、構造についてのメタ了解である
だが、哲学は、まさにいまその構造や成り立ちが問題となっている当の言語を、その真の由来を知らないまま使うことによってなされるほかない
それゆえ、哲学は、言語の生成と一致する 双方の合意で結婚となる法律の方が共通了解などこざかしく夢見て傷つくより
しっかしとしている。 ボクの目の前には、赤いリンゴが見える。
でも、それは、ボクにはそう見えるというだけであり、キミにとっては、そうではないのかもしれない。
人は、他人にはなれない。
自分が認識する世界こそが、世界そのものに思える。
だが、他人はどういう世界を認識しているのか。
それは分からない。
物質が実在するかどうかは証明できない。
それは、幻想の産物にすぎないかもしれない。
この「赤いリンゴ」が、本当に存在しているのかどうかは証明できない。
確実な証拠はない。
でも、キミにとっても、それが「赤いリンゴ」に見えているのなら。
それだったら、そこには「赤いリンゴがある」と認めてもいいんじゃなかろうか?
それが、共通了解。
こうして、物質は「実在」から、「共通了解」へと一歩後退した。 ここにあるりんごを絵に描いてみましょう
健常者にとってりんごという感覚は共用可能なので
似たり寄ったりな絵になります。 赤い色が各々の心にどう現れるか分からないってことは
りんごの形状自体もどう映ってるかわからんよな。色だけの問題じゃない 何だか竹田某というオッサンの「哲学」もどきエッセイに近づいているような笑。 >>45
絵に描くというのも、共通了解へと至る方法のひとつだ >>44
竹田青嗣は初心者向けのフッサール現象学の解説本を何冊も書いている
「共通了解」をテーマに哲学談義をすれば、それと似た話が出てくるのは当然だろう まあ結局のところ言葉や概念の意味を考え直すのが哲学だろうからな
本質はメタ思考にあるんだろうけど人間がメタ思考が言葉ベースでしかできないから結局言葉についての話になる >>51
言葉を使う者たちが、お互いに何かに関することで言葉が通じ合ってる(と思っている)のがそれなんじゃない?要するにコミュニケーションが成立している状況。それも「言語」なのかな? 「言語」という語の意味に予めコミュニケーションの成立している状況が前提されるのだから「言語」でも問題ないだろうか、ないかな?
いや、言語の中にも私的言語、己のみに通じる言語があり、それはコミュニケーションの成立を前提しないのだから「言語」とするのはおそらくは誤りなのでは? いや、そもそも私的言語は不可能。
「言語」の意味が会話の成立を前提する。共通了解とは「言語」に関することなのだろう 言語からコミュニケーションを排除するには物理的にコミュニケーションを避けるしかないから
私的言語を作ろうと思ったらできることはかなり少ないと思うぞ
「自分で後で読み返す用に書き残す」なんてのもなんだかアウトな感じするしな
自分一人にしかわからない言葉なんていくらでも作れる以上は言語はコミュニケーションを前提としないけど、
人間同士が意思疎通できる以上は言葉が存在する時点でそこにコミュニケーションが生まれる可能性は常にあるってことかね
誰かにえ、その言葉何?って聞かれてそれに何か答えたらもうアウトだからな 結局言葉以前に感覚だからな、感覚が共通性を保持してるわけで 言語もさることながら、クオリアを共有できるかが根本問題 いや、クオリアを共有するのは不可能
だから、次善の策として、せめて言語の共有を目指す 「青い」という色彩のクオリアは共有できないが、「青い」という言葉の意味は共有できる 青いという彩りの感覚質をクオリアという、視覚した認識を青という色とその意味として確認しているのは実在しない青を
存在として共有してるだけでね。 現実に?を感じた時点でそう判断されるのは、落としたのち絶対に反論のできない糞ロジックがあるから ここまで広げてしまえば、もう、独我論ってダメだよねって、くらいの意味しかないと思うんだけど? まあ独我論ってなると他人が拡張できない理論になるからな
そうなると一代で消えていく哲学にならざるを得ないわ 仏教は教えを見ればわかるようにとても寛容である
この世の一切は幻想、などと公にできるのは無知無能の地点からスタートしてるから
ゆえに、独逸という現代の仮面をかぶった近代的表現手法とマッチングするのもこの宗教で、結果何が起きるか 仏教だろうがキリスト教だろうが共通理解可能性が無ければ「それってあなたの感想ですよね?」で一蹴できるぞ 独我論でもだれもほとんど自己にしか興味持たないけど、かけがえのないパートナーの独我を考えてみるとか、他人を映す鏡が自己ならいいけど。自分本位の独我論はむなしいし孤独だよ。 子孫の独我論的自我まで考えると、可変性のある多様な心に傷がいかないかと心配だ。 「子孫は自分たちの祖先の生まれ変わりである」というかつて広く受け入れ
られていた捉え方は、遺伝子学的に見れば、あながち誤りでもないだろう。 およそ価値ある知識と考えられるものは全て共通了解しうるものであれば価値ある知識とは何かを考えるメタ学問である哲学が共通了解を研究するのは自然なこと 共通を自分で策定して、想定してることがわがままではないの? 共通するか想定してる分にはわがままじゃないんじゃない
共通しない可能性も想定範囲だから 異化効果 じゃないけど 共通を強制的に干渉して押し付けるなよ。 干渉されている押し付けられているという被害妄想は哲学じゃないから 加害する人がいるから被害になるんじゃないの。第三者の視点で。先に加害する人は
復讐心や強くなるさ。 共通項でくくる、abcdの数学の記号論の方がいいと思う。引用より。 おれ社会学部だから言わせてもらうけど、コンセンサスについては社会学の方が適していて哲学では解釈学が共通了解に遠からずってところだと思う。 ガダマーだね。
あとはハイデガーだよね。了解とかも用語であるよね。 哲学でも共通了解不可能な主張は独断論として退けられる 選挙で選ばれた日本の二世・三世政治家を「世襲でなった政治家」と呼び、選挙すらない中国の二世・三世政治家を「権力闘争に揉まれてきた叩き上げ」あつかいする
こういう日中のダブルスタンダードは、左翼の爺さん達のあいだでは共通了解だが、普通の人にはまったく通用しない >>92
唐突な政治語りも普通の人には共通理解不能だよウヨク爺さん 功を賞し、罪を罰する。これを、けじめをつけるという。
功を賞さず、罪を罰しない。これを、けじめをつけないという。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています