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現象学倶楽部
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0001
垢版 |
2019/06/12(水) 20:51:02.280
様々なことを現象学してみましょう。

※現象学とは何なのか(「現象学」の現象学)も、ありです。
0003考える名無しさん
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2019/06/12(水) 21:05:14.240
たまごボーロ
0004考える名無しさん
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2019/06/12(水) 21:11:07.360
実を言うと現象学の方法論自体がよく分からん。まずはエポケーする所からだったよな?合ってる?
0005考える名無しさん
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2019/06/12(水) 21:54:41.670
エポケー🤤
0006
垢版 |
2019/06/12(水) 22:52:14.820
そうです。
エポケーして意味を宙吊りにします。

竹田青嗣氏によると、現象学は「確信成立の条件を問う学問」とされます。
例えば、目の前に「緑色」があるとします。何故、緑色があると言う確信が成立するのか、それを考えるのが現象学だと思います。
0007考える名無しさん
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2019/06/12(水) 23:07:05.170
そう、その「確信成立の条件」の条件とは何だろうか。内在で構成される、例えば何らかの構成物→「色」の条件とはある種の知覚で合ってる?
0008考える名無しさん
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2019/06/13(木) 04:14:24.920
波平
0009考える名無しさん
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2019/06/13(木) 05:00:50.420
丸山ワクチン
0010
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2019/06/13(木) 07:25:59.330
竹田青嗣さんがよく使う林檎の例で言えば、林檎があるという確信成立の条件は「つやつや」「丸い」「赤い」などでしたね。

では、色があることの確信成立条件(色の本質)ですが、おっしゃるように「知覚」とも言えそうですね。
或いは、郵便ポストの色を赤と言うなどの色に関する知識からでしょうか。

所で九鬼周造の著作に『いきの構造』がありますが、これも現象学のお手本的テキストとして参考になるかもしれません。
九鬼によれば「いき」の本質は@性的媚態A仏教的諦念B武士道的気概から成り立っていると言うのでした。
0011
垢版 |
2019/06/13(木) 11:42:17.570
ただ、「知覚」は存在者一般の成立要件かもしれません。何故なら、先の「林檎」も知覚なしには成立しないからです。
存在者の中でも、色彩にのみ特有な条件が見出だされないと、色彩の本質とまでは言えないのではないでしょうか?
0012
垢版 |
2019/07/03(水) 12:15:27.350
全然レスが付いてないですが、やる気ないのかな?
0013考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 17:20:04.020
  
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     /\    `\|,  |.,/ \   /,)^|    ( ̄)
     /   ";,     ├ ┤    ",   |  |  湯 ( ̄)
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0014考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 19:22:50.390
>>10
>林檎があるという確信成立の条件は「つやつや」「丸い」「赤い」

「つやつや」「丸い」「赤い」これだけでリンゴがあるという確信できる?ぴかぴか光ってる赤信号もそうじゃん。
0015考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 20:40:27.860
まずエポケーするとして
その認識を他人と都合し合うことができないとなると、全ての学問の基礎とするには説得力に欠ける
自分の中だけの世界は芸術かオカルトにしかならない
0016
垢版 |
2019/07/03(水) 22:09:46.380
14
ではあなたはどうして赤信号とリンゴを区別できるのですか?
15
現象学には「間主観性」と言う評価があるはずです。
0017考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 22:18:44.720
逆に、科学では美やオカルトの領域を語り得ないと言うことがあります。
モナリザの絵を見たときにMRIを撮って脳が激しく活動していると言うような分析や作品や絵の具の年代分析のような事をいくらやっても美の本質には到達できない事になる。
かといってハイデガーの四方界のような「思想」をどのように評価するのかと言うような問題もあると思う。
その「正しさ」と言うのは、共感や共鳴のレベルではなかろうか。
0018考える名無しさん
垢版 |
2019/07/04(木) 16:35:50.600
「つやつや」「丸い」「赤い」→りんご
というのはまだまだ条件不足してるんじゃないかな。赤信号でもそうだし。
『「りんご」という名称の果実だ』という知識からの直観があれば方向性は定まりそうだけどね
0019考える名無しさん
垢版 |
2019/07/04(木) 17:38:39.460
まあ、まだ条件不足でしょうね。丸い(球体)と円は違うだろうしね
交差点でそれを見たか、屋内かと言う文脈やシチュエーションも関係するだろうしね
0020考える名無しさん
垢版 |
2019/07/04(木) 17:57:05.420
球体であるなら、りんごではない。
少なくとも、リンゴを球体に加工したのでないとすれば。
これは確実である。球体に育つリンゴの果実は存在しない。
0021考える名無しさん
垢版 |
2019/07/04(木) 18:42:21.590
もちろん不完全な球体であることが自然物であることの条件とも言える
0022考える名無しさん
垢版 |
2019/07/04(木) 18:46:13.460
少なくとも赤く、つやつやしており、手に収まる程度の大きさの、不完全ながら球形の物体をリンゴ畑で見掛けたら、リンゴだと確信する確率は高いでしょうね。
齧ると甘くて酸っぱい味がしたら、ますます、それがリンゴ以外のものと考えることが難しくなる。
0023考える名無しさん
垢版 |
2019/07/05(金) 06:06:52.170
現象学的リンゴの本質
丸形
つやつや
赤もしくは青みがかった黄色
手で持てるくらいの大きさ

植物学上のリンゴの本質(定義)
バラ科リンゴ属の落葉高木樹。またはその果実のこと。植物学上はセイヨウリンゴと呼ぶ。春、白または薄紅の花が咲く。多くの品種については果実は熟すと赤く、生食または調理を経て食用にされ、球形で甘酸っぱい。
0024考える名無しさん
垢版 |
2019/07/05(金) 06:29:48.140
ではお待ちかね。
『現代社会』を本質直観してみましょう。
0025学術
垢版 |
2019/07/05(金) 06:55:40.820
リンゴの名前には意味はなくそこに味は匂いはない。リンゴを食べるからリンゴの意味が後からついた。
0026
垢版 |
2019/07/05(金) 13:10:48.440
今、レスター・エンブリー著『使える現象学』を読んでいる。
序文に「現象学は過去の巨匠たちが書き残した現象学のテキストを学ぶものになりがちである。
確かにそれは重要だが、目的であってはならない。あくまで、現象学を学ぶのは現象学をすることを促す為である。」と言うような事が書いておりましたが
尤もなことだと思います。
まずは、しっかりと、方法を学び実践していきましょう。
00271
垢版 |
2019/07/05(金) 21:08:52.520
要は、過去の巨匠たちの「リンゴ論」を参考にしつつも、
リンゴという「事柄そのもの」を探求することを忘れてはならないということです。
例えばハイデガーは現代技術社会の本質を「ゲシュテル」(総駆り立て体制・集立)と述べましたが
我々は彼の「ゲシュテル論」もエポケーしつつ、事柄そのもの(ここでは現代技術社会なるもの)に向かわなくてはならない。
0029考える名無しさん
垢版 |
2019/07/05(金) 22:38:23.940
りんごを信号機として使ってる国があるかもしれないが、その時はどうしてくれるの。
0030考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 01:01:05.120
それさ信号がどのような「状態」かではなく、どのように「実感」されるかでしょ。現象学的には的外れな問い
0031考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 19:49:11.690
「彼らは我々の文化で言うリンゴを我々の文化で言う信号機として使っているように見える」と記述すれば良いのではないかな?
0032考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 20:14:08.030
「つやつや」「丸い」「赤い」というものをりんごと見るか、信号機と見るかは人間の意志(志向性?)が必要。
0033考える名無しさん
垢版 |
2019/07/06(土) 21:53:08.990
確かにデュシャンの『泉』も見る側の意識によって便器にも見えるし美術品にも見える。
勿論、デュシャンはこう言った認識の不安定性をも作品の中にテーマとして盛り込んではいるのだろうが。
0034考える名無しさん
垢版 |
2019/07/07(日) 16:13:46.460
スーパーリアリズム絵画では、「つやつや」で「丸く」「陰影がある」リンゴを描くことで
リンゴの本質を、哲学以上にうまく表現していると思います。
余りにも現実そっくりなので、本当にリンゴがそこに存在しているかのように錯覚します
0035学術
垢版 |
2019/07/07(日) 17:18:10.620
リンゴのイデアやタマシイなのでは。脚色。リンゴ売りもあやしいし。
0037考える名無しさん
垢版 |
2019/07/07(日) 21:09:43.520
現象学ってこんな自分で手動で確かめていくんやね
0038
垢版 |
2019/07/07(日) 22:00:29.220
これは冗談で5ちゃん掲示板のペイント機能を使って私が描いたものです。
ハイパーリアリズムの絵画とは関係ないが
しかし、物事の本質の表現を可能とする分野が哲学だけではないということは言えるでしょう。
00391
垢版 |
2019/07/07(日) 22:14:59.160
もっと言うと、現象学と芸術には「本質の記述」という意味で非常に近縁性があるのではないか
と、考えてもいます。
0041考える名無しさん
垢版 |
2019/07/08(月) 09:34:38.310
「イカロスの墜落のある風景」、ブリューゲルの絵画を模倣した1560年代の
作品とされるけど、どう見ても、ブリューゲルから着想を得て、現代までに
蓄積された絵画の技法を駆使して作り上げた偽ブリューゲルにしか見えない。
ブリューゲルの作品より技法が高度。大量の作品を手掛けていなければ、
これほどの技は実現できないし、それをブリューゲルと同時代に発揮していた
としたら無名にとどまっていたなんてあり得ないだろうと思う。
0043考える名無しさん
垢版 |
2019/07/08(月) 20:05:16.450
 
 
               -‐- 、
            , '  /V ヽ ヽ
             ! i iノノ)ノリ)〉 !   。
               |l l | -‐ - || i ゚ o
               || |iト、" ' /!リ     ♪コーヒー飲みながら
              || /´LX」\|    )    少し話そうよ
             ||<__/<∧>i/i  (
            |/ ス, || / ! _'
           ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄!_i》
 
0044学術
垢版 |
2019/07/08(月) 20:13:50.370
現象学は飛び道具だよな。射撃の才能だ。
0045学術
垢版 |
2019/07/08(月) 20:14:15.710
闇の弾丸の方がいいぞ。光の弾丸より。
0046考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 09:11:37.760
 
         .| ,. '"::::::::::::::::::::::::::::::::::::`ヽ、
 失 や 精   |´::::::::::::<::::::╋::::::>:::::::::::::::::ヽ.
 せ る 神  |::::::::_,.-─‐-ァ-─-::、::::::::::::::::ヽ
 ろ か 安  |,. '"    /      `ヽ、::::::::::〉
    ら 定  | / /  i ハ ヽ 、   ヽ::/
.      剤  ノ/  /.ゝ!、ハ i  ! ,!ィ! ハ  !ハ
ヽ       i ハ   ハ'T7ヽ!ヽ! レ7'"7T'! /   i
 `''ー---‐'^ヽ!/ ヽハ .!'ト___リ     ト__,.リ レ'  /
     ほ  〈ヽ、  ! "        "/! rイ
     れ   ヽ. ヽ.ヽ、   r─ 、  ,.イノ ノ
          〉ヽ、ヽ.>.、.,,___-' ,.イハイ
          ヽ/ ´ ̄`ヽーr‐'"i´ ̄:::ヽ、
        __ rイ、__、___   iヽ--‐ヘ::::::ヽ:::ヽ.
      と__ ̄`ヽ、ニ、 ヽr」/ . 十::::`ヽ.::::::::::::>、
      ,. '", θ:..`ヽ、!,イ .   十::::::::::!、_r:、_rン
     /./7 ,.  .  !ン `   - ''^:::::::-イ、   ヽ.
     `´ / /7 ハ !ヘ       十::::::::iィ´   ノ
       (     /:::::::::::::::::::::::::::::::i
 
0047訂正の訂正
垢版 |
2019/07/09(火) 21:44:09.950
小さいスペースでコピペ繰り返すと、誤りだらけになるな。
スレッドの書き込みができなくなったので、誤爆させてもらう。

そこで、さらに手がかりを得るために中英辞典を引いてみると、
次のように記載されている。

https://www.wordreference.com/zhen/垄;
垄 ridge

まさしく、イメージしたとおりである。
そこで、今度は逆に"ridge"に対応する中国語の表現を引いてみる。
その文例からすぐに私が想起するのは、「乗鞍岳」という山の名前にも
見られるような重量が「『の』る」というイメージそのものである。
https://www.wordreference.com/enzh/ridge
0048龍(long)の尻尾をつかむ
垢版 |
2019/07/10(水) 09:31:04.000
中国語の表現をピジン語として用いたと想定した場合の、日本語」における
「の」のイメージについては、龍/隆/垄(long)の尻尾をつかむことができた
ように感じる。中国語において"long"が想起させるイメージは、英語で表現
するなら"ridge"に相当するものであり、「せり上がり」としての曲線を、
極言するなら、指数関数のような昇り方をイメージさせ、それが本来の
隆起における「隆(long)」であり、「龍(long)」が昇るイメージであり、
畑の「垄」がせりあがるイメージなのだ。

日本語の「の」がその「龍/隆/垄(long)」を流用して、吸収していると
すれば、「の(伸/延)ぶ」は、本来は、そのままその上に伸びる曲線の
イメージを再帰形として用いたものであることになり、「の(乗)る」は、
その曲線が生じている様態を、平面に何らかの重量が乗った状態として
イメージしたことに依るものであると考えることができる。そのような
反転が容易に生じることは、「龍/隆/垄(long)」≒"ridge"としての
山の尾根や、背中から背骨が浮き上がる様子、法隆寺のように湾曲
して空に向かう屋根(ちなみに法隆寺には龍が彫られているらしい)を
思い起こして見れば、直ちに理解できるはずである。

さらに、「のるかそるか」という慣用表現として現代語に残っている
「のる」の用法も、古語としての「上に曲がるように伸びる」ことを
表していたものと考えられる。辞書では、「真っ直ぐに伸びるか、
曲がるか」を意味するものとしてエピソード的な解釈が加えられて
いるようであるが、エピソード的な解釈はほとんどの場合、間違って
いる。なぜなら、エピソード的な解釈は、用いられている言葉の
活力が失われて、意味が見失われたことの証左であり、後付けで
辻褄を合せるようにもたらされる場合がほとんどだからである。
人々は、直観的な表現を好むのであり、エピソードによって説明を
要する表現は、排除する。「のるかそるか」という表現は、
「意図に合うような曲線で理想的に伸びる(つまりうまく発展
する)か、その曲線から逸れるか」を表現していたものと見るべき
だろうと思う。
0049考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 09:44:54.610
このように見ると、「の(伸/延)ぶ」が、本来は、そのような「の」という
作用/動作/様態を再帰表現として表す動詞であり、「のぼ(昇/登/上)る」
は、「のぶ」という作用/動作の結果としての状態である「のぼ」
(「のぼせ」という表現を考えてみるといい)が生じるようにすること
を意味する、「のぶ」の再動詞化、つまり、「のぼ+る」であること
が分る。再動詞化の過程としては、「のぼ+り」という名詞化が先に
行われて、それを動詞として用いるために「+り」⇒「+る」となる
のだろう。
0051考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 10:09:30.270
1つだけ付け加えさせてもらいます。
中国語の「隆(long)」や、それに対応すると想定される日本語の「の」の
イメージの共通性が見失われるのは、それらが、「重さのかかったせり上がり」
だけではなく、マウンドのような「盛り上がり」も表すように用法が拡張
されることによってである。この拡張は、中国語で既に生じている。
0052考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 13:23:14.130
悪い癖で、前言を翻してすぐに補足したくなるな。少しだけ辛抱してもらおう。

のぎ(芒・禾)とは何か?
https://kotobank.jp/word/芒・禾-354203
>@ 稲・麦などイネ科植物の実の外殻にある針のような毛。のげ。

この説明は、「のぎ」という表現を正しく解釈しているのだろうか。
「のき(軒)」を岩波古語辞典で引くと、「屋根の端の、四方へ
垂れてさし出された部分」と説明されているが、「のき」は、
本当に本来的に古来から「『垂れて』さし出された部分」を表していたのか?

ちなみに、中国語で漢字の「禾」は、日本語の「のぎ」を意味していないが、
「禾雀花」を検索すると、こういう画像が出てくる。
https://img1.3lian.com/2015/w9/76/d/81.jpg
0053考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 13:56:25.220
「軒(のき)を争(あらそ)ふ」という表現があるが、低く垂れさがった部分を
争そうというのは、本来的には、どうにもありそうにない感じがする。

精選版 日本国語大辞典の解説
のき【軒】 を 争(あらそ)う
@ 草などが高く伸びて軒をおおい、すきもなく生い茂る。
※源氏(1001‐14頃)蓬生「しげき蓬は、のきをあらそひて生ひのぼる」
A 軒と軒とが重なり合うように家が建てこむ。人家の密集している様子のたとえ。軒をきしる。軒を並べる。軒をつらねる。
0055
垢版 |
2019/07/10(水) 19:05:50.250
今日は特に無い。

何かトピックスを振ってくれるとありがたいです。
0056学術
垢版 |
2019/07/10(水) 19:06:40.660
0057考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 20:32:00.090
中国語の"long"の発音が、中国語の表現をピジン語として用いた
日本語の「の」の発音に移され、吸収されたという想定は、突飛に
思えるかもしれないが、例えば、韓国の元大統領ののノ・テウ(노태우)
の「ノ」は、漢字で書けば「盧」であり、中国語の辞書を引くと
"lú"と発音されることが分る。つまり、"lú"という発音が「の/노」
の発音に移されているのである。

だからと言って、私は別に朝鮮語が日本語のベースにあると主張したい
わけではない。ただ、中国語の"long"の発音は、日本語の「の」に
吸収されたと想定するのは、それほど突飛なことではないことが、
この例からも理解できることを指摘しているまでだ。
0058考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 20:55:01.640
>>56
「野(の)」は、せり上がるイメージにも、重さがかかっているイメージにも
合致していないね。と同時に「野」は、「や」とも読まれるように、中国語
では「yě」と発音され、「野(の)」は、中国語の発音をまったく反映して
いない。つまり、「の」によって表現されていたイメージに「野」という
漢字の意味がある程度、重なるために、この漢字を当てたものだ。
この場合、「の」に対応する中国語の候補として考えられる表現は、
「怒 ピンインnù」ではないかと思う。
https://cjjc.weblio.jp/content/
勢いがすさまじい,猛烈である.⇒心花怒放 xīn huā nù fàng .
用例
百花怒放=さまざまな花がどっと咲く.
草木怒生=草木が勢いよく芽吹く.

https://cjjc.weblio.jp/content/
勝手気ままである,野放図である,放逸である.
0059考える名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 20:56:22.160
後は野となれ山となれ
0060考える名無しさん
垢版 |
2019/07/11(木) 09:05:15.040
ああそうか、それでご祝儀袋に「熨斗(のし)」をつけるんですね。

のさばる、幅をきかせる、増長する

https://idioms.thefreedictionary.com/throw+weight+around
throw (one's) weight around
To assert oneself in a controlling, domineering, or authoritarian manner;
to exercise one's position of authority, power, or influence, especially to
an overbearing or excessive degree.
0061考える名無しさん
垢版 |
2019/07/11(木) 15:53:20.190
>>60
ちょうど、英語の"overbearing"≒日本語の「の」だな。
重さをかけるイメージと上にの(乗)るイメージが一体化している。
0062
垢版 |
2019/07/11(木) 19:39:05.160
やる気ないんでしょうかね。
残念です。
0063考える名無しさん
垢版 |
2019/07/11(木) 19:59:07.980
やってのけるには、それなりに気概が必要ということでしょう
やって「退/除(の)ける」という解釈はおそらく正しくない。
単に片付けるだけなら、やってのけることが立派なことにはならないでしょう。
やることが乗り越える(≒"surpass")ことになるから、立派だとされるのではないでしょうか
0064学術
垢版 |
2019/07/11(木) 20:29:13.810
無迅で矢を架けるがごとくの方天画戟×七星剣の二人。
0065学術
垢版 |
2019/07/11(木) 20:29:46.390
ようゆうわ。バスケットボール。
0068考える名無しさん
垢版 |
2019/07/11(木) 23:20:21.120
806 :名無しさん@ピンキー :2019/07/11(木) 23:10:20.88 ID:AiwF0rVi
うちの嫁は初めて入れたときは
これまでにはない喘ぎ方をして2分で果てた
果てた後は抜いた後も5分くらいブルブル痙攣してたよ
0069考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 08:55:38.540
記号論で扱われる"sign"を「記号」と考えるから、最初から記号論的な
アプローチの理解を誤る。"sign"とはまずなによりも「徴候」であり、
記号論とは、「徴候」によって何がどのように「合図」されているのか
を解釈しようとする試みである。さらにその試みは、ジャンケンの
グー、チョキ、パーがそれぞれ、「石」、「鋏」、「紙」を表している
というような約束事についての知識を収集して、集積しようとする
ようなものではない。記号論の試みは、「←」という記号を見て、
「これは矢を表している」というような貧しい理解を大量に蓄積しよう
とするようなことではないのだ。
0070考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 10:09:24.550
「言葉の意味とはその用法である」とよく言われる。これは、どういう
ことだろうか。例えば、「←」は確かに矢を表しているだろう。
だが、矢に「←」が表示されていても、鉛筆に「鉛筆」と記されて
いるのと同程度に無意味だろう。では、矢筒に「←」が示されている
場合はどうだろうか。矢筒に矢が数多く入っている状態なら、その
「←」の意味を見出すことは難しいかもしれない。だが、矢筒が空
であったなら、その「←」は、その筒が、別の何かを入れる筒では
なく、矢を入れるための筒であることを示すことになり得るし、
さらに矢が数本入った状態で矢筒に下向き方向に、つまり、「↓」
が示されているなら、「鏃を下に向けて入れるべきこと」を示す
注意表示の意味を有し得る。さらに、「←」が矢筒ではなく、
いくつかある部屋の前のドアの脇の壁に記されていたら、その部屋
が矢筒のように矢を入れるべき場所であると理解する人はまず
いないだろう。「←」は、「そのドアから入るべきこと」を意味
するものと理解される。同様に室内でドアの脇の壁に「←」が
外に向かうように記されていれば、「そのドアから出るべきこと」
を意味するものと理解され、複雑な分岐のある通路に複数、
順次に「←」が示されているなら、その「←」は、「辿るべき
順路」を意味していることになるだろう。また、別の脈絡で
2つの「←」が互いにその先を向け合っているなら、
その2つの「←」が一緒になって、何かが「合わさること」を
意味し得るし、「←」と「→」が互いに平行に重ねられて
いるなら、何かが「双方向的であること」、「相互的である
こと」、「互換的であること」、さらには「互いに等しい」
ことさえ意味するものと理解される可能性が生じる。
0071考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 10:15:15.320
つまり、「←」の意味を理解するとは、それが矢を代表して
いるという貧しい限定的な解釈にとどまることなく、それが
どのように用いられているのかを適切に解釈することに他ならない。
まったく同じことが言葉の発音、及びその組合せについても
言えるのであり、言葉の表現を記号論的に理解しようとするとは、
言葉がどのように用いられていると解釈するのが妥当なのか、
試行錯誤しながら探ることである。例えば、日本語の「〜ふ」
という再帰形の動詞における「ふ」は、「←」の例に喩えるなら、
ちょうど、「←」と「→」が互いに平行に示されているような
「合図」であるものと考えることができ、そのために、相互性を
表すようにも、反復を表すようにも、作用が自らに返ることを
表すようにも用いられているものと解釈され得る。
0073考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 14:58:45.480
⇄たび
⇄、ふ、复/複(ピンイン fù)

https://cjjc.weblio.jp/content/fù;
复(復)ピンイン fù
・重複する,重なる
・返事する,回答する
・繰り返す,反復する
・元どおりになる,回復する
・再び,また
0074考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 19:41:16.680
現象を理解するというのは、徴候を通じて現れるイメージの戯れを身体的に
組織化して、自らがその戯れの共演者となることだろう。
0075考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 20:16:50.430
ここで、「イメージの戯れを身体的に組織化する」ことは、
「自らがその戯れの共演者となる」ことと同じである。
なぜなら、「みづから」とは、「身つ柄(から)」であり、
身体性に他ならないからだ。
0076考える名無しさん
垢版 |
2019/07/12(金) 20:58:41.440
だからどうした。それを知ることが普通の人の生活にどう影響するのか?
0078論理国語(「ふ」の用法)
垢版 |
2019/07/13(土) 08:48:19.920
→  矢

→| あ(当)たる


⤴  あ(合)ふ

→← あた(値/能)ふ
* 打ち消し合うそれぞれの矢印の大きさがあたひ(値)
_
⤵  そ(反)る、そ(逸)れる

⤵⤵ そ(沿/添)ふ
0079考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 08:56:30.440
⤴ の矢印をつなげてぐるっと一周させれば、「ある(歩)く」(古語では、
「ありく」)≒"go around"の意味が表される。
0080考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 08:58:32.160
論理国語が「表現の論理」を教えるものでないとするならば、
「『論理』国語」の「論理」とは一体、何を意味するのだろうか?
0081考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 09:03:14.590
日本語の表現の論理を理解することはそのまま、諸外国で用いられる
言語における言葉の表現の論理を理解することの助けにもなる。
0082考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 09:46:21.630
>>79
ここで、⤴ という同じ方向を指し示す矢印をつなげてぐるっと一周
させることによって「ある(歩)く」(古語では、「ありく」)≒
"go around"という意味が表されるわけだが、同様に矢印を一周
させても、矢印の指し示す方向をばらばらにするなら、動きの
方向性は失われ、単に、不特定の位置で「あた(辺)り」にいる
≒"be around"ことだけが表されることになる。つまり、
「ある(歩)く/ありく(≒"be around")」ではなく、
「あ(有/在/或)る」≒"be around"の意味が表現されることに
なるのだ。このことからも、「あるく/ありく」という表現は、
「あ(有/在/或)る」から派生させられたと推測することが
できる。
0083訂正
垢版 |
2019/07/13(土) 09:47:21.640
誤:「ある(歩)く/ありく(≒"be around")」ではなく
正:「ある(歩)く/ありく(≒"go around")」ではなく
0084考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 09:49:44.270
A: 「何か食べるものは?」
B:「あるよ」
A:「どこに?」
0085考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 10:02:17.880
実は、国語教育も外国語教育も表現の能力を身に付けさせるためにやって
いるのではなく、ダブルバインドを実践するための口実/手段として
利用しているだけ
0086考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 10:05:11.250
人畜を管理するための看守の役割を誇りに感じているのは誰か?
0087考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 13:14:47.930
さて、ここで質問です。
言葉の表現において、様態/作用/動作、つまり、副詞/動詞と
名詞とでは、どちらがより中心的であると考えられるでしょうか?

矢という名詞と、矢のような様態/作用/動作とでは、どちらが
先立つと考えるべきなのか。ここで、副詞と動詞のどちらが先か
を問ふことは無意味でしょう。なぜなら、様態、つまり、「〜のよう」
であることは、その「〜のような」作用/動作としてしか現出し
得ないのだから。静止している場合でさえ、そのような様態の
作用としてしか現れ得ない。

矢があることと、矢のような作用があることはどちらが先なのか。
値(あたい)が存在することと、あた(値/能)ふことはどちらが
先なのか。矢がなくても、矢のような作用を生じさせることが可能
であるからこそ、矢を存在させること、つまり、矢を作ることが
可能なのではないか。
0088考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 15:54:46.010
>>47-57
日本語の「鎬(しのぎ)」という表現は、英語の"ridge"に対応している。
https://riverstone-roofing.com/basic/20150626_shinogi/
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/kakubumeisyouhtm.htm

その一方で、「しの(凌)ぐ」という表現は、古語では、
@おさえ伏せる。上におおいかぶさる。A山・波などを押し分けのりこえる
を意味するように用いられていたことが、岩波古語辞典に記載されている。

このことから、「鎬(しのぎ)」と「しの(凌)ぐ」はともに、
ピジン語としての日本語が「の」の発音に吸収したものと想定した
中国語の龍/隆/垄(long)にうまく対応していることが分り、それぞれ、
「し・のぎ)」、「し・のぐ」と分解され、これらの「のぎ」、「のぐ」
は、「芒/禾(のぎ)」や「軒(のき)」という表現に関連している
のだろうと推測することができる。
0089考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 16:43:45.830
「しのぐ」ことが、「のりこえる」ことや「のりきる」ことを意味する
ように用いられているとすれば、「しのぐ」は、英語を用いるなら
"surpass"に相当するように用いられていると言うことができ、その
場合、「し・のぐ」の「し」は、"pass"に相当する意味を担わされて
いると考えることができ、中国語の表現では、やはり、「疏(疎)
ピンイン shū」に対応していることになるだろう。
0090考える名無しさん
垢版 |
2019/07/13(土) 16:48:48.150
私の想定が妥当であるとするなら、中国語の表現は、日本語において便利に
利用されているという程度をはるかに超えて、日本語の表現の中核を形成
するほど日本語に深く入り込んでいる。にもかかわらず、日本語が決して
中国語化することがなかったのは、中国語の表現を大々的に利用しながらも、
そうしている話者には、自らが中国語を話しているという意識が働いて
おらず、「相手との意思疎通の目的で」中国語の表現を利用していることが
絶えず意識され、中国語の規範に合せて自らの話し方を修正するような
動機が働かなかったからだろう。
0092考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 10:03:16.540
どうせ完全に過疎って、だれも現象学についての議論など書き込まない
ようだし、記号論はそのまま現象学でもあるので、前言を翻して、また
少し書き込ませてもらうことにします。
0093考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 10:14:27.390
日本語の「あ」は、「こ、そ、あ」の指示詞として用いられる場合以外
にも、「あ(有/在/或)る」、「ある(歩)く/ありく」、「あた(辺)り」、
「あ(悪)し」などに見られるように、しばしば、「不特定に離れている様態」を
表すように用いられている。ここで、日本語が中国語の表現をピジン語として
利用することにより形成されたものであると想定した場合、そのような用法
における日本語の「あ」に対応するような中国語の類似した発音の、類似した
イメージを伝える表現を見出すことができるだろうか。

だが、そのような中国語の表現の候補を見つけることは、そう容易ではない
ように思える。というのも、私の列挙した事例における日本語の「あ」が
「不特定に離れている様態」を表すように用いられているという私の考え
が正しかったとしても、「不特定に離れている様態」というイメージは
きわめて漠然としているからだ。さらに、実際、これらの事例における「あ」
にあ(当)てられている漢字を見ても、ばらばらであり、それらの漢字
の中国語における読みの発音は、いずれも「あ」とはかけ離れている。
0094考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 10:26:38.200
では、手がかりはないのだろうか。「あいうえお」の「あ」のような単純な、
しかも、これ以上ないほど一般的な母音について、系統関係の確立されていない
言語の間でそのような対応関係を探ろうという考えをおこすこと自体が馬鹿げて
いるというのは、日本語学者、言語学者にとどまらず、一般的に学問とかかわり
のある人々の普通の反応だろう。だが、私のように想像(そのような普通の人々
から見れば、単なる妄想)をたくましくするなら、手がかりは意外と簡単に
見つかる。それは、単純に岩波古語辞典の「あ」の項目の並びを眺めてみること
である。
0095考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 10:40:48.690
では、同辞典に記載されるとおりの順序で項目と意味の説明を
簡略に列挙してみよう。

1.あ【吾・我】 わたし。あたし。
2.あ【彼】 遠くにあるものを指す。あれ。
3.あ【足】 あし。
4.あ【畔】 たんぼの境界。あぜ。
5.あ【網】 説明省略(発音の想定される由来の詳述)
6.あ【案】 字音「あん」の「ん」を表記しない形
0096考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 11:06:38.500
ここで、1〜5までが、一般に「大和言葉」とされる表現であり、6だけが
漢字の音読みに由来する。2は、私が「不特定に離れている様態」と記述
した用法そのものであり、1〜5までのそれ以外の表現がそのような
イメージと結びついていると考えられるかどうかは別として(私は、結び
ついているだろうと考えるが)、6の「案(あ)」が表す意味は、どう見ても
そのようなイメージとは無関係であるように見える。引用されている例文は、
「あ(案)の如く...」というものであり、「あん」の「ん」の発音が
「の」の「n」の発音と連なっているために「の」の発音の側に吸収された
だけだろうと思える。だが、その一方で、1〜5までの漢字は、中国語の
読みの発音を調べても、やはり「あ」とはかけ離れており、ここで私が
目的としているのは、「あ」について、中国語で類似した発音の類似した
イメージを想起させる表現の候補を見つけることなのだから、発音について
の手がかりとして、とりあえず、「案」を中国語辞典で引いてみることにする。
0097考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 11:21:07.520
https://cjjc.weblio.jp/content/
案 ピンインàn

(長方形の)机.
((法律)) 事件,裁判事件,訴訟事件
議案,提案.⇒方案
按(案)
ピンインàn
((文語文[昔の書き言葉])) (確認するために)参照する,照合する.

やはり、中国語の「案」という漢字によって表現される意味は、
日本語の「あ」が想起させる「不特定に離れている様態」とはあまり
関係がないという印象を受ける。しかし、ここで諦めずに、その発音
である「ピンインàn」のリンクをたどってみる。

すると、ただちに出てくるのが、「岸 ピンインàn」である。
ここで、中国語における「岸 ピンインàn」の用法を、前掲の
岩波古語辞典の「あ」の項目のリストと見比べると、少なくとも
私には、既に候補は「岸 ピンインàn」で決まりであるように
感じられるだけでなく、少なくとも一部の事例における「あ」の
イメージの由来さえ明確に理解できたような印象を受ける。
0098考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 11:42:42.280
日本語を使う一般の人々が「岸」という漢字を見て思い浮かべるイメージは
どのようなものだろう。砂浜の広がる海水浴場のような海岸のイメージだろうか。

しかし、その用法からみて、「岸 ピンインàn」が伝えるイメージは、
そのようなものではないだろう。日本語の「あ」の用法に対応するものとして
の中国語の「岸 ピンインàn」から受ける印象を伝えるのに最もふさわしい
表現は、日本語としても用いられる「傲岸」という漢語である。

https://www.wordreference.com/zhen/
II 形 (书)
1 (=崇高) lofty
伟(偉)岸 wěi'àn

日本語の古語で「あしひきの」という枕詞は、「語義・かかり方未詳」
とされている。しかし、私は、まさしく、「あしひきの」≒"lofty"
だろうと考える。
https://kotobank.jp/word/岸-469124

きし【岸】
1 陸地の、海・川・湖などの水に接している所。みずぎわ。「岸に打ち寄せる波」
2 土地の切り立った所。がけ。
「あしひきの山かも高き巻向(まきむく)の―の小松にみ雪降り来る」〈万・二三一三〉

続きはまた後で書き込むことにしよう。
0099考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 13:27:36.210
私が受ける印象の妥当性について論じるより前にまず、誰でも簡単に
確認できる事実だけ指摘しておこう。

中国語の「岸 ピンインàn」に対応する英語の表現は"bank"である。
これは、>>98に貼り付けた中英辞書でも確認できるし、日英の辞書
を引いてみれば、日本語の「川岸」に対して"the bank of a river"や
"riverbank"が提示されることからも確認できる。ところで、
>>95に記載した「あ」のリストの4番目、「あ【畔】」の英訳は
何だろうか。「あ【畔】」は、「たんぼの境界。あぜ。 」を意味して
いるのだから、これも当然のことながら、"bank"ということになる。
疑いをもつなら、"rice-field banks"で検索してみればいいし、
次のような記述からも確認できる。
https://www.dpi.nsw.gov.au/__data/assets/pdf_file/0007/829330/RGG-accessible-22Aug2018.pdf
Field banks
Rice field banks should be a minimum of 40 cm high at their lowest point.
Higher banks (up to 60 cm) might be needed around the outside of the field
if soils are prone to leaking or cracking through.
0100考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 13:37:14.560
ここで、そもそも私が「あ【畔】」について、この表現が大和言葉だと
考えられているとしたのが誤りで、「あ【畔】」は、中国語の
「岸 ピンインàn」に別の漢字を当てただけなのだから、英語にすれば
"bank"として同じになるのは当然で、他の「あ」の用例とは無関係
である、という反論があり得るだろう。

だが、そのような反論はむしろ好都合である。なぜなら、「あ【畔】」が
そもそも中国語の「岸 ピンインàn」と同じ表現であるなら、その事実に
よって、少なくとも発音に関して、「案(àn)」の文例のように後ろに
「の」が続かなくても、「àn」という中国語の発音が「あ」という日本語の
発音に移されたことが実証されることになるのだから。
0101考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 22:58:20.370
古臭い言語論を記号論と勘違いして悦に入る単なる物知りの戯言。
0102考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 23:13:09.380
さて、ここで日本語の「畔(あぜ)」を中国語辞典で引いてみると、対応する
中国語訳の表現のリストには、「垄 ピンインlǒng」も含まれる。いい加減な
言い方をするなら、「畔(あぜ)」だろうと、「畝(うね)」だろうと、
人為的に土を高くした形状を指しているのだから、似たようなものだろう。
ちなみに「畔」という漢字は、中国語では、「pàn」と読まれるようだが、
中英辞典を引くと、やはり、"bank"や"riverbank"を意味し、田畔(tiánpàn)
という表現で、日本語の場合と同じく"edge of a field"を意味するとされる。
https://www.wordreference.com/zhen/

ところで、「傲岸不遜」とは、「おごりたかぶって人を見下すさま」である
とされる。ここで「岸(àn)」が担っているのは、「高い」イメージであり、
「あ(上)がっている」(「思い上がる」という表現を想起してみるとよい)
イメージなのだ。要するに、日本語の「畔(あぜ)」と中国語の「垄(lǒng)」
の関係は、「あぜ」が、「岸(àn)」⇒「畔(あ)」の関係から、さらに
「+せ」によって、土の「『せ』り『あ』がり」のイメージとして「畔(あぜ)」
を表現しているのに対して、「垄(lǒng)」は、土が「(上に)『の』る」こと
(同時に下を圧すること)によって高まるイメージを表しているという違いに
過ぎないように思われる。「せり上がり」と言い換えてしまうなら、「畔(あぜ)」
だろうが、「垄(lǒng)」だろうが、似たようなものなのだ(ここには、当然、
名詞が先なのか、態様が先なのかという問題がかかわっている)。
0103考える名無しさん
垢版 |
2019/07/14(日) 23:27:49.430
ここで、>>95のリストの最初に記載される「あ【吾・我】 わたし。あたし。」
について考えてみよう。「あ【吾・我】」が、既に検討した「わ」と同様に
自らを指していることは明らかであり、実際、ここで「あ」に当てられている
「吾」、「我」という漢字は、日本語ではいずれも「わ」とも読まれる。

しかし、これが重要なことなのだが、いずれも自らを指し、同じ漢字が当て
られているこの「あ」と「わ」の用法は、互換的ではない。「わ」が、
「わたし」、「われわれ」として現代語にも残っているのに対して、一人称
の「あ」は、「我孫子(あびこ)市」のような固有名詞として化石的に
残るだけで、現代の日本語では使われなくなっている。私は、一人称の
「わ」については、それが中国語の「微 ピンインwēi」に対応するだろう
という想定を既に示した。では、同じ漢字が当てられる「あ(吾/我)」
は、どのようなイメージを想起させる用法なのだろうか。私には、その
答えは、もう出ているように思われる。それは、英語の"your highness
(殿下)"という表現に便乗するなら、"my loftiness"とでも言えるような
表現である。
0104考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 00:13:02.770
「わ」が親しみを表す接頭辞として用いられる場合、その「わ」は
縮小辞として用いられていると考えることができる。岩波古語辞典では、
「あ」も同様に接頭辞として用いられ、「相手を親しんで呼ぶときに
関する語。転じて、軽蔑の意も表す」と説明している。しかし、
「あ」は、「あなた」という二人称からも明らかなとおり、縮小的
な意味はまったく表していない。

では、接頭辞としての「あ」は、どのようにして「軽蔑の意を表す」
のだろうか。それは、高所から見下ろす「あなづ(侮)り」として
である、というのが私の考えだ。

以前、「あなづり」の意味について論じたとき、私は、「あなづり」の
「あな」は、「おの(己)」の母音交代形として岩波古語辞典に説明
される「あな(己)」だろうと解釈した。しかし、今となっては、この
解釈は、不十分であるように思える。確かに、「あなづり」の「あな」が
自らを指しているという考えは今でも変わらない。しかし、発音は、
イメージの変化を伴わずに単に変化したりはしないのである。「あな」
の「あ」は、一人称の「あ(吾)」と同じものであり、「上位」から
都合よく引き回すから、「あなづり」が「見くびり馬鹿にする(岩波
古語辞典)」イメージを伴うのだろう。
0105考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 00:33:01.560
>>97に引用したとおり、「岸 ピンインàn」が、(=崇高) lofty という
イメージを想起させる。その一方で、日本語の「あ(上)ぐ」は、"lift up"や
"elevate"を意味し、「さ(下)ぐ」という表現との対比からも、「○ぐ」
の「ぐ」は、「上方への動き」の様態を表すことを担っていないのだから、
それを担っているのは、「あ(上)ぐ」の「あ」の方だと考える他ない
だろう。さらに、「あこがれ(古語では、あくがれ)」や、「(山/雲の)
あなた」など、同様に「あ」が上方に関係していると思われる表現を想起
することはいとも容易である。「岸 ピンインàn」⇒「畔(あ)」という
想定が妥当なものであるとするなら、これらの上方に関連する表現に
おける「あ」も、その発音と、それが想起させるイメージにおいて、
「岸 ピンインàn」と重なっていると考えるのが自然だろう。

さらに川岸に高く生い茂る「葦(あし)」はどうだろうか。「足(あし)」
もやはり、地面から高く伸びていないだろうか(私のような例外はある
にしても)。
0106考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 05:46:10.880
【警告】
今すぐコピペを止め、レスを削除せよ
0107La vie est ailleurs
垢版 |
2019/07/15(月) 08:44:56.000
「あくが(憧)れ」とは、ここにいながらも、あなたを求めるつづけることだろう。
0108考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 09:08:34.740
岩波古語辞典で「あくがれ」を引くと
「所または事を意味する古語アクとカレ(離)との複合語。もともと
居るべき所を離れてしまう意。後には、対象にひかれる心持を強調
するようになり、現在のアコガレに転じる。」と説明されている。

だが、「よし」と対比される「あし」も、「良い」ことが本来の事物
があるべき状況に「よ(寄)っている」ことを表しているのに対して、
「あし」は、事物がそのような状況から「離れている」ことを表して
いるだろう。したがって、「悪(あく)」そのものが、「不特定に離れ
ている状況」のことであるはずであり、「あくがれ」が、「本来
いるはずの場所からふらふらと離れる(岩波古語辞典)」を意味して
いたのも、「あく(悪)か(離)れ」としてだと考えることができる。
0109考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 09:10:17.580
ここにいる他ないわたしがあなたをもとめつづけることは、悪なのか?
0111考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 10:51:39.510
逆説的なことに思えるかもしれないが、日本語の表現の意味を解釈するのに、
中国から輸入された漢字を重視する文字中心主義が、中国語と日本語の関係
を表面的にしか見ないことにつながっている。中国語においても同一の表現が
便利に使い回されることによって、用法に応じて発音が弁別され、用法の別に
合うように異なる漢字が当てはめられていることを無視して、その当てはめ
られた漢字という文字自体が、言葉の本来の意味を表しているはずだと無批判
に思い込んでしまうのである。だから、「岸」という漢字を見れば、それが
「海岸」や「川岸」のような何らかの対象物を表している、つまり名詞である
と思い込んでしまうのだ。しかし、中国語においても、この「岸」という
漢字が当てはめられている「àn」という表現に本来的な対象物があるとする
なら、それは、「海岸」でも「川岸」でも「田んぼの畔」でもなく、「高く
なっている/あがっている様態」である。漢字を当てはめることは、言ふなれ
ば、様態を分類するための便利な手法であり、様態を表現として使い回す
ための名詞化である。
0112考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 11:02:59.110
分類によって用法が明確になることは、そのように明確に規定された分類が
先に用いられていたことを意味しない。「岸」が「川岸」や「海岸」を指す
名詞として先に存在して、それが「傲岸」のような表現に隠喩として流用
されるようになったのではなく、川や海において「高くなっている/あがって
いる様態」が「岸」と呼ばれるようになったのだ。つまり、「○○のようである」
ことは、「○○がある」ことに先立つのである。
0113考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 11:29:23.230
その逆の順序を信じ込むように導かれているとすれば、その方が、確立された
秩序を維持しようとする側には都合がいいからであり、哲学をすると自称
する者まで、「○○がある」ことの方が「○○のようである」ことに先立つ
なとと人々に信じ込ませようとしているなら、何らかの裏の動機を疑うべき
だろう。
0115考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 11:59:59.270
からごころを排することによってからごころのふところに入ることになる
というクラインの壺
0116考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 12:18:20.150
いい加減にしろ

コピペを書き込むのを止めろ

謝罪して書き込んだ内容を全て削除するように運営に土下座して来い
0117考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 12:57:17.970
コピペではありません。
気分を害されたのなら謝りますが、コピペを書き込んでいる
というのは誤解なので、削除を要請することはしません。
それなりに言いたいことは言ったので、
もうここに書き込むことはやめます。
0118考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 15:07:28.630
哲学板ってこういう変な人多いよね
文字すら読めない人が文字を語るなんてよくやるわ
いや、本人の中ではこれが「現象学」だった?
0119考える名無しさん
垢版 |
2019/07/15(月) 17:34:04.950
独りよがりな哲学者にもなれない、哲学オタクにはなりたくない。
0122考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 17:04:46.680
日本語の「の」は、下を圧して、上に「『の』る」イメージを想起させる
ことにおいて、中国語の龍/隆/垄(long)に対応して、中国語の発音を
日本語に移したものだろうと考えられることを指摘してが、このことは、
発音の異なる中国語の別の表現を介しても検証することができる。

日本語の「の」について上に指摘したとおりの想定をするなら、
「のこ(残)り」という表現は、「のく」という動作/作用がもたらす
結果としての状態を表す「のこ」の名詞化だろう。結果の状態を
表す「のこ」に活動を表す接尾辞として「り」が加えられて
「のこ+り」という名詞が造られ、それが再動詞化されて「のこる」
という形が派生させられる。
0123考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 17:10:53.270
ところで、英中辞典を引くと、残り≒"residue"は、中国語で
「剩余 Pinyin: shèng yú」だが、「剩」という漢字の構成に
含まれるとおり、"shèng"の発音は、「乘」と共通であり、
この漢字は、中国語でもやはり「『の』る」ことを表すように
用いられる。つまり、意味の側からも、日本語の「のこり」
の「の」と「のる」の「の」のイメージの共通性を見て取る
ことができる。
0124考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 17:14:30.970
現象学について議論したいなら、邪魔をするような書き込みは控えるよ。
誰も書き込まないなら、ときどき書き込むかもしれない。
0127考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 18:10:49.690
気にかかることがあると、他の仕事をしていても連想が勝手に並行処理を
始める。連想を忘備録として目につくところに書きつけておくと、
並行処理を休止させることができる。自分のパソコンに記憶させておく
方が却って、何を考えて書き込み、どこに保存したのかを思い出すのが
難しくなる。
0128考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 18:13:42.570
自分だけのスレッドとか、ブログとか考えられないな。論外。
連想を窒息させる。
0129考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 18:46:21.270
クソスレはいっぱいありますよ
どうしてそこで書かないのですか

貴方は、「よい匂いがする場所」で踊りたいのかもしれませんが
その場合には自分の撒き散らす臭いに自覚を持ってください
0130考える名無しさん
垢版 |
2019/07/17(水) 19:08:47.080
どのような条件なら他のスレに行こう、と思うだろうか。現象学。
0131考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 01:13:46.220
「恋愛」を現象学してみませんか?
0132考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 06:36:48.030
「あの人は私の事が好きなのではないか?」と予想することは恋愛初期にありがちなことである。「目と目があった」「話しかけるといつも笑顔」などの直観がこれを保証する。
しかし、いつもそのような直観が得られるわけでないと「疑心」が生じる。
「好きなのか?嫌いなのか?」観念が交錯する。志向は予想に向かっており、堂々巡りが続く。これを打ち破るには「告白する」と言う仮定が必要になる。しかし、「フラれたらどうする?」と言う「自己保身」が過ったりする。
予想の充実が実現するにはこの自己保身を打ち破る必要がある。では、「自己保身」はどのようにして打ち破られるだろうか。
それは「死を先駆する事」によって打ち破られる。死の運命を直視することで保身する自己の永続性の幻想が破られ、純粋な行為が生じる。
0133考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 06:42:06.200
↑仮定が× 過程が○

恋愛に限らず「決心」を必要とするケースでは、「死の覚悟」が必要になることは多い。
意識の志向は予測の段階に止まっているが、決心と決断によって、ダダダダーンと運命の扉を開くのである。それを可能にする条件が死の覚悟性と言えるだろう。
0134考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 07:33:47.350
あまり哲学的でも、現象学的でもないようですね。

>「フラれたらどうする?」

「フラれる」とはどういうことでしょうか?
「フラれたらどうする?」
"What if I were shaken off?"

モテる人なら、そんな心配をする前にこう言ってのけるでしょう。
"Shake it up, baby!"
0135How dare you?
垢版 |
2019/07/18(木) 07:50:26.010
哪(nǎ) 走(zǒu)
な 〜 そ
How 〜 go, proceed(wend your way)?
0136考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 08:21:44.030
恋は人に突然到来する。「あの人の事が好きだ、あの人以外の事は目に入らない、考えられない」、という盲目で。盲目にあるとき、惹かれる相手の美点を尽く創出する。
相手の肉体のみならず、精神の部分まで全て自分の理想型となる形で。この現実離れした内容を含む想像が極まり、自分にとって理想の人格を成し、相手にそれが何度も投影されることで、人は現実界に自分の「理想」の人間がいるのだと思う。
そして、それとの永遠の肉体的・精神的結合を目指す。しかし、実際に結ばれても、予想された程の肉体でも精神でもなく、理想が理想で現実に不可能な存在である事が明らかとなれば、恋愛の持続性が失われる。
理想は理想で幻なのである。二人の間にある陽炎の見えるが如き近接性こそ恋愛の条件である。
0137考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 08:53:31.400
揺さ振りにかけてみなければ、どういう振舞ひをするか分らないでしょう?
そんなものは理想でも何でもありませんよ。
0138考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 13:23:19.850
単なる小説表現と現象学の違いをはっきりさせなくては成らないのではないか?
0139考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 15:23:10.100
自分の経験を言葉にしようとすることは大切だけど、
何が記述に値するのかを判別する感覚を磨く必要があるんだよ。
現象学の記述が追求すべき日常的な一般性を平凡さと混同してはいけない。
0140考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 17:15:12.850
主観的であり過ぎても、普遍的(科学的)であり過ぎても、現象学的な記述は出来ない。この均衡で記述されるからだ。始めからそれが出来れば苦労はしないのだが、難しい。
0141
垢版 |
2019/07/18(木) 19:07:37.650
>140
なるほど、確かにそうですね。


例えば、「痛みは感じないけど癌は進行していた」と言うような場合。
現象学は、基本的に感覚的な世界の記述なので(?)、感覚出来ない世界に所属する癌細胞は「存在しない」と言うことになるだろうか?
後に、胃カメラなどを覗いて「発見」することは出来て、その時は、過去に遡って、癌細胞が進行していた事を「知覚」(自覚)する事になる。この辺りは、『四方構造論』のハーマンの議論に近いかもしれない。感覚的対象と感覚的性質の違い、或は現実的性質との関係。
0143考える名無しさん
垢版 |
2019/07/18(木) 20:18:19.890
豆頁 犭王 ιよ 米青 礻申 禾斗 ιこ 彳亍 ιナ
0144学術
垢版 |
2019/07/18(木) 20:24:23.040
教会や仏教寺院、モスクにいった方がいいと思うぞ。病院はフロイト家でも意外に詳しくない。
0145考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 08:53:04.930
別の板のスレで重要な指摘があったので、忘備録として書き込んでおく。

それは、「岸(àn)」は、13世紀以前は、「ngàn」と発音されて
いたので、中国語の「岸(àn)」の発音とイメージが日本語の「あ」に
利用されているとは考えられないという指摘、「哪(nǎ)」という
漢字は、古い漢字の事典には記載がないという指摘、ならびに
後の朝鮮語においては、朝鮮語の話者が語頭の「ng」を発音でき
なかったために「岸(àn」も「安」も区別されなくなったという指摘だ。

これらの指摘は、二重の意味で重要である。ここには、一方で、
文献学的に研究する人がどのような規範に縛られるかがよく現れ
ており、他方で、なぜ中国語と日本語の対応関係が見過ごされがち
になるのかについてのヒントが現れている。
0146考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 09:05:25.700
時間があまりとれないので、ポイントのメモだけ書き込んでおく。

文献による時代考証に専念すると、発音の変化があたかも時代によって
規定されているかのような錯覚に陥る。しかし、例えば、「ハシモト・ヒロシ」
という日本人がフランス語に住むことになって、フランス語の話者に自己紹介
したとしよう。当然、いくら私は「『ハシモト・ヒロシ』という者です」
と正確な発音を相手に伝えようとしたところで、フランス語しか話さない
相手には通用せず、「アシモト・イロシ」と呼ばれることになるだろう。
それを繰り返すうちに、「イロシ」と呼ばれることに慣れ、いちいち相手に
自分の名前を正確に発音してもらおうなどという気は失せる。言葉の発音の
変化とはそういうものである。

「哪(nǎ)」という漢字が見当たらないから、現代の中国語の「哪(nǎ)」に
相当するような表現はなかったはずだ、という思い込みは深刻な文字中心主義
の症状を見せている。発音で考えるなら、「ナ」に相当する発音が古くは
中国語に存在しなかったなどと主張する人はいないだろう。反語的な
「哪(nǎ)」の用法が文献で確認できないことは、「ナ」の発音がそれでも、
そのように用いられていた可能性を全く排除しない。
0147これはコピペ
垢版 |
2019/07/19(金) 18:08:04.270
「に」の場合もそうだが、日本語は、中国語の発音とそのイメージを流用して、
身体感覚によって再編成して、日本語として形成している感じがする。

中国語の「泥(ní) 」には「ぐにゃっ」として柔らかいイメージが
伴っているが、「ぐ『に』ゃっ」という表現にも見て取れるとおり、
日本語でも「に」は、柔らかいイメージを表現するのに用いられ、
古語の「にこげ(和毛)」や現代語の「にこにこ笑う」などにはっきり
とその用法を見ることができるが、それと同時に「に」は、「ぬ」
や「ね」のイメージにも関連付けられて構造化されている。
「ね(練)る」や「ね(捻)じる」の「ね」は、中国語の「nia」の
発音との対応が見られるが、「泥をぬ(塗)る」という場合の「ぬ」は
中国語には対応していない。それでも、日本語では、「に」を
身体感覚に基づいて「なにぬねの」の関係において構造化する
ように捉えている、というより、そのような構造化によって
日本語が形成されたと見ることができる。

「埴輪(はにわ)」とかの「はに」は、赤い粘土を指していて、
中国語で粘土のような土は、「泥(ní) 」であり、赤は、
「红(hóng) 」なのだから、日本語の「はに(埴)」は、
中国語の表現を借りた「红+泥(hóng+ní)」という造語だろう。

https://kotobank.jp/word/埴-603838
埴(読み)ハニ
きめの細かい黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料。

ついでに、埴輪(はにわ)の「わ」も中国語の「环(環)huán」に
対応してるんじゃないのかな。

https://cjjc.weblio.jp/content/环;
0148考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 20:41:42.370
初心者でもわかる現象学の本ないですか?
竹田さんの現象学は竹田現象学と呼ばれているようなのですが、他の現象学と何が違うのですか?
0149考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 21:05:55.130
竹田さんが書いていることでわ
0150考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 21:38:53.290
>>148
竹田現象学は現象学を「確信成立の学」と「仮定」している。これがそう言われる所以。
竹田氏の言う所、フッサールの「意」を汲めばそうらしい。
0151考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 21:48:36.970
>>148
それと、やはり現象学の入門書としては竹田氏の入門書が他の現象学入門書より頭抜けて分かりやすく書かれている(と思う)。だから竹田現象学をおすすめする
0152sage
垢版 |
2019/07/19(金) 23:39:16.190
やっぱり竹ちゃんか。竹ちゃんの本はニーチェ入門が素晴らしかった。
現象学については他の書評など見ていると谷徹ちゃんも良いらしいが。
0153考える名無しさん
垢版 |
2019/07/19(金) 23:51:37.910
竹田氏は谷氏についても言及している。どうやら「原印象」について勘違いしてるとかなんとか(確か「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」に)。
0154考える名無しさん
垢版 |
2019/07/20(土) 00:02:12.910
谷氏の本も見たのだが、意識経験を超えることに関してフッサールが述べていたとも思えないし、竹田氏の解釈が妥当だと考えた。ただ自分は原著を全く読めないので、何方がより妥当かはそれを読んでみないといけないんだけどね。
0155
垢版 |
2019/07/20(土) 08:07:06.460
フッサール自身の著作でも『現象学の理念』と言う初期の現象のまとめ的な著作がありますよね。割りと入門的な本かと思いますが。
0156考える名無しさん
垢版 |
2019/07/20(土) 08:18:44.660
フッサールのあの読みにくいったらない悪文を薦める勇気はない
0157考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 14:11:17.600
これは、現象学に直接に関連することなので書き込んでおこう。

岩波古語辞典の記載
うつし【現し・顕し】 目に見えるように存在する。神の世界ではなく、
この人間世界に生きている。
うつせ【空・虚】 から。うつろ。
うつそみ/うつせみ この世の人。
うつつ【現】 現実。正気。

ところで、日本語の「う」という発音は、「表面」や「表面化」を
想起させるように用いられており、この「う」の用法は、
中国語の、「虚 ピンインxū」という発音とイメージをそのまま
利用したものであると推測することができる。日本語において、
「うつつ」が「現実」や「正気」という意味を有するのは、
それが「う(≒地表)」に「つつ(≒継続的についている)」こと
としてであり、つまり、英語で表現するなら"down to earth"
としてである。

https://cjjc.weblio.jp/content/
うわべだけの,形式的な,表面的な.
0158考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 14:45:06.680
「上(うへ)」の反対語は、通常、「下(した)」であると考えられているが、
表現の上から見れば、「上(うへ)」の反対は、「うつ(伏せ)」という表現
に見られる「うつ」である、というより、「表面につく」ことを表す
「うつ」を反転させた表現が「う(虚/空)+ふ(复/複)」(「うぶ(産)」を
派生させた)であり、「うへ」は、その派生形であると推測される。
0159学術
垢版 |
2019/07/21(日) 14:56:46.950
おっぱいか 腰の括れが 上下を表す。
0160考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 16:10:57.960
日本語が、中国語の表現をピジン語として利用することによって形成されて
いることはもはや、覆い隠しようもないだろう。その程度のことをいつまでも
隠蔽しようとするなら、日本語で哲学をすることなどできるはずがない。
0161学術
垢版 |
2019/07/21(日) 16:13:12.520
中国語というか語のまえの発声方法に似た言語や遺伝言語学的見地が優先。
0162考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 20:20:53.870
素人が片手間に探求して気づくような対応関係に、今まで専門家が気付かなかった
はずはないのである。意図的で制度的な隠蔽を強く疑うほかないだろう。
0163考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 20:25:15.210
中国語の分析をしている者は哲学板か語学板に自スレを立てるなり、ブログでやったらどうなのか?
0164考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 20:31:27.060
どのような考え方をすると、「うつつ(現/顕)」が現象学に関係ないと思えるのか?
0165考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 20:36:55.180
そりゃあんた
カブトムシの生態を語るときに
「そもそも兜とは」を言い出すバカはいないってことですよ
0166考える名無しさん
垢版 |
2019/07/21(日) 21:22:16.010
中国語ニキはコテつけてくれや
邪魔やから、あぼーんしたいんやが
0168考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 07:46:03.740
ところで、数の数え方はいつどのような状況で入ってきて
定着したのか、詳しく解説した研究書はあるのだろうか。
数の数え方だけ入ってくることはあり得ないのだから、
それと関連して同時に入ってきた表現にはどのようなもの
があるのだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ビン南語
漢字 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
文読 it lī sam sù ngó͘ lio̍k chhit pat kiú si̍p
0169考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 07:57:46.400
時代考証もなにもなく、それこそ考察が雑すぎるだろう

https://ja.wikipedia.org/wiki/数詞

日本語の数詞には、原日本語に由来すると考えられている固有の和語の
数詞(ひとつ、ふたつ、みっつ、…)と、漢字とともに中国から持ち込まれ
日本語化した漢語の数詞(いち、に、さん、…)の二つの系列の数詞が
併用されている。
0170考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 08:08:55.610
これまで詳しく研究されていないわけがないのに、その成果がまとまった
形ではほとんど一般に知られていない。

忘れられたシルクロードの痕跡 : ?南語と日本 語の繋がり
https://st.agnes.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common...

商鍾嵐 著 - ‎2017 - ‎関連記事
2017/03/31 - はじめに. 私が大学で日本語の勉強を始めたとき、
よく知り合いに「君は、閩南出身だから、日本語の勉強は. 簡単でいいね」と
よく言われた。そのとき、なぜ閩南出身者にとって日本語は勉強しやすいもの
かは. さっぱりわからなかったし、閩南語 ...
0171考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 08:50:18.030
海流の関係で国境がコントロールされた時代でさえ日本への密航が容易だった
のだから、古代から多くの人々が渡ってきたと考えるのは自然だろう。
日本語の研究において、漢字と漢語以外にかんしては、中国大陸との関係
が完全に軽視され、こじつけ的に朝鮮語に語源を求める解説や、アイヌ語
および北方系の民族の言語や、ポリネシアなどの南方の言語、さらには
突拍子もないタミル語との関係などばかりが大きな話題とされてきたのは、
結局のところ、追求されると何らかの理由で不都合であると考えられる
明確な手がかりや対応関係から、目を逸らすための意図的な誤誘導なのだろう
と思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/福建省
海流の関係で日本に近く、近世には倭寇と結託して密貿易を行う福建人が多かった。
近年日本に渡った在住華僑の多くは閩東の福清や福州を中心とした福建出身であり、
また蛇頭による日本密航も福建を出発地とすることが多い。
0172考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 10:33:52.570
ここは「現象学倶楽部」なので、「他者と共に考えること」も意識して書き込みをしてほしい。
0173考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 10:40:32.960
では、「うつつ(現/顕)」とはどのようなものであるのか一緒に考えていきましょう。
0174考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 10:54:34.080
日本語を「うつつ(現/顕)」として理解するとは、どのようなことか。
それを方法論的にしっかりと言語化することができるなら、
それはそのまま、現象学を実践していることになるでしょう。
0175考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 11:05:03.300
我々は「うつつ(現/顕)」を離れることができるのか?
例えば、「日本語の起源」を探求する場合、我々は、日本語の過去を
「掘り下げる」ことによって、「うつつ(現/顕)」を離れて、
日本語の「内実」に触れることができるのか?
0176考える名無しさん
垢版 |
2019/07/22(月) 13:09:13.930
「うち(内)」という表現は、表面から中に入り込むこと、「う(虚/空)」+
「ち(刺)」を表現している可能性が考えられるのではないか。その場合、
「うち/つ(内)」と「う(打)ち/つ」は、語源的に共通していることになる
だろう。
0177考える名無しさん
垢版 |
2019/07/23(火) 07:13:36.340
>>176
多重の解釈を生じる言葉の表現の騙し絵としての性質はここにもよく現れている。
「う(打)つ」は、「底を打つ」、「太鼓を打つ」のように表面と接触する
イメージを想起させるが、「注射(針)を打つ」、「釘を打ちつける」などの
表現では、表面から入り込むイメージを想起させる。これは、「つ」の
発音が接触のイメージに結びつき、「ち」の発音が細く通るイメージに
結び付きながらも、日本語においては、互いに関連するように構造化されて
いるためだろう。だから、「うち(内)」も、「中に入り込む」イメージと、
「うつむ(俯)き」と関連するような「内向き」のイメージの両方を想起
させる。
0179考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 15:33:51.330
日本語が中国語の表現を利用したピジン語として形成されたという想定に
基づいて、日本語の「む」の音について考えていたら、「主(ぬし)」と
「大人(うし)」と「牛(うし)」と「群(む)れ」と「村(むら)」と「連(むらじ)」
と「主(あるじ)」の関係が、少なくとも私の連想においては、解けてしまった。

連続して書き込むつもりはないが、これについては後で書き込むことにしよう。
0181考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 15:43:45.860
牛が「モー」と鳴き声を上げるとき、その声は、
あたかも招集しているかのように聞こえるのだ。

https://en.wiktionary.org/wiki/

Pronunciation
Mandarin
(Pinyin): mù (mu4)
Cantonese (Jyutping): mou6
Min Nan (POJ): bō͘
Wu (Wiktionary): mu (T3)
Middle Chinese: /muoH/

Definitions

to levy; to raise
to summon
to recruit
0182考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 18:00:23.350
では、話の焦点を絞って「現(うつつ)」とは何なのか?と言うことをテーマにしてみましょう。
0183考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 18:42:47.970
「主(ぬし)」については、検索すると次のような説明がヒットする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヌシ
>ヌシはウシ(大人)が語源でノウシ(助詞ノ+大人)の短縮形である
とされる。

この説が正しいものとして、では、「ウシ(大人)」とは何かというと、
岩波古語辞典には、「領有・支配する人の称」と記載されるが、なぜ
そのような人が、「ウシ」と呼ばれるのか、ましてや、「牛(うし)」と
関係があるのかどうかについての説明は一切ない。
0184考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 18:51:41.610
ところで、リンクを貼ったWikipediaの説明では、「ヌシ」の語源が「ウシ」に
あることの根拠として、「汙斯王(ウシキミ)とウシを用いて記している」と
記載される。そこで、「汙斯王」で検索してみると、
https://ja.wikipedia.org/wiki/乎非王
というサイトがヒットし、
>系譜の直系のみを示せば、「凡牟都和希王 ―若野毛二俣王 ― 大郎子
(意富富等王) ― 乎非王 ― 汙斯王 ― 乎富等大公王」
と記載される。
0185考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 18:58:52.550
ここで、万葉仮名を調べてみると、確かに「汙斯王(ウシキミ)」の「汙」
という漢字は、「う」の発音に割り当てられている。ところが、である。
ここで、中国語辞典を引いてみよう。すると、
https://cjjc.weblio.jp/content/汙;
>污(汙・汚) ピンインwū
であり、この「wū」の発音は、万葉仮名で「を」に割り当てられている
「烏」、「嗚」、「於」と同じ発音なのである。
0186考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 19:09:24.920
日本語において「を」の発音が、呼び寄せの声を表すように用いられて
いることは、既に繰り返しも指摘してきた。「う」として「を」と
区別されている「汙」が、実は、変異形として「を」と同じものであった
と考えた場合、「大人(ウシ)」の「ウ」も「をさ(治)める」や「をす」
や「をさ(長)」の場合と同じく、やはり、「呼ぶ」ことを表している
可能性が考えられる。では、「大人(ウシ)」の「シ」の方はどうだろう。
「汙斯王(ウシキミ)」の「斯」は、万葉仮名で「シ」に割り当てられている
漢字であるが、これをやはり中国語辞典で引いてみると、
>斯 ピンインsī
であり、この「sī」の発音は、
>司 ピンインsī
>(職務・業務などを)担当する,主管する,つかさどる.
と共通している。すると、「連(むらじ)」は、岩波古語辞典でも、
「ムラ(村)ジ(主)の意か」とされるのだから、「むらじ(連)」、
「ぬし(主)」、「あるじ(主)」、「うし(大人)」に共通して、
「シ」は、「司 ピンインsī」である可能性が見えてくる。
0187考える名無しさん
垢版 |
2019/07/25(木) 19:21:38.690
さて、ここで「牛(うし)」である。「モ/ムー」という牛の特徴的な鳴き声が、
中国語では、招集することを意味する「募」の発音と重なって聞こえる
ことを指摘した。この牛の声には、「哞」という漢字が当てられるが、
この漢字の発音は、「牟」によって代表されており、面白いことに、
「汙斯王(ウシキミ)」の祖先や妻の名前にも「牟」の字が見られる。

それはさておき、牛の鳴き声が「募/哞」と聞こえ、あたかもその
声が「む(群)れ」を招集しているかのように思えるなら、「むれ」
や「むら(村)」という表現自体、「招集されたもの」を表していると
解釈され得るのではないか。さらに「連(むらじ)」が、そのように
「招集された集団を司る者」を表すのであれば、「牛(うし)」は、
「募/哞」と呼びかけることによって「を(呼)し(司)」と同定される
ユーモラスな名付けであると理解され得るのではないか。
0188
垢版 |
2019/07/25(木) 19:28:08.630
うつつの話からそれるなら他所でやってくれ
0190考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 07:46:45.920
>>181
模合(もあい)の「も」も、本当は、「摸」ではなく、「募」の意味で用いられた
のではないか。
0191考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 08:04:01.820
日本語をうつつとして理解すると言うのは
言語表現が「現実」の構成要素であり、日本語を分析することが「日本人の現実世界」の本質を知る事に繋がると言うことでしょうか?
0192考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 08:04:53.820
今日もむんむんと蒸し暑くなりそうだが、「むんむん」、「蒸(む)し暑い」
の「む」については、中国語の「闷 ピンインmēn」に発音も想起される
イメージもそのまま対応している。

https://ja.wiktionary.org/wiki/
広東語 イェール式: mun

ttps://cjjc.weblio.jp/content/闷
(気圧が低く,空気の流通が悪く)うっとうしい,むっとする.
(密閉して空気を通さず)蒸らす.
0193考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 08:08:17.980
このような対応関係に気づかない専門家がいるはずもなく、日本語の理解
についての長年にわたる制度的な隠蔽や誤誘導も、日本語の現実を構成
している。
0194
垢版 |
2019/07/26(金) 09:02:50.270
日本語教育が中国語との類似関係を隠蔽していると言うことでしょうか?
とは言え、「平仮名は漢字の崩し」説は胡散臭い面もあれど一般化していますね。
0195考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 11:02:06.430
日本語と中国語の間では、表現の形成のレベルできわめて多くの対応関係
を容易に見出すことができる。

「は(這)ふ」は、「は」によって表される動作/作用が再帰的に働く
ことを表現している。この「は」は、中国語の「pá」の発音とイメージ
にそのままうまく対応しており、日本語の「は行」の発音が古代には
「ぱ行」の発音であったとする説に従うなら、「は(這)ふ」という
表現は、「爬(ぱ)」+「複(ふ)」として中国語の表現をそのまま
活用していることになる。


https://cjjc.weblio.jp/content/

ピンインpá
動詞
(昆虫・は虫類が)はう,(人間が四肢で)はう.
0196考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 11:04:37.670
このことは、日本語と朝鮮語の類似を指摘する研究に見られる説明が、
表現のそれぞれの解釈においてばらばらであり、まるで仮説として
ネットワークを形成しているようには見えないことと極めて対照的である。
0197考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 11:18:59.490
日本語起源論争に関しては、朝鮮語起源説、アイヌ語起源説を含む北方系民族
の言語を起源とする説、ポリネシアなどの南方の民族の言語に起源を求める説、
タミル語説など、様々な説が唱えられ、注目を集めてきたが、明らかに最も
関係のある中国大陸の言葉との関係について、漢語や漢字の輸入の文脈を
離れて、少なくとも公には、徹底した洗い出しが行われているようには見え
ないことは、とても奇妙であると言わざるを得ないだろう。
0199学術
垢版 |
2019/07/26(金) 12:37:21.490
笑いが流行ってるみたいだな。
0200
垢版 |
2019/07/26(金) 14:04:56.250
中国語と日本語の類似性の研究が行われないのは何か政治的な理由があるのでしょうか?

とは言え「ナウい」は英語のnowから来ているように、現代日本語への影響力と言う視点では、現在進行形の影響関係を考えた方がよいのではないかと言う気もします。
確かに中国語は日本語の初動に与えた影響力は強いと思われますが、現在では、中国語が日本語に影響を与えている割合は非常に低い。
どちらかと言うと内部から核分裂的に新たな表現が生まれてきているのが現状ではないでしょうか。
0201考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 14:08:26.440
現代の言語類型論からしたら
邪馬台国論争みたいなもんだな
0202考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 19:26:18.510
日本語がどのように中国語の表現を利用して形成されているのかを、
日本語と中国語の対応を詳細に洗い出すことによって明らかにする
ことは、既存の言語からどのように新たな言語が生成するのかに
ついての具体例として興味深い。日本語が形成される過程で、
中国語の表現は大々的に流用されたものと見られる一方で、
そのまだ「日本語」とすら呼ぶことのできない言葉は、それでも、
どの時点でも中国語ではなかったものと思われる。その言葉の
使い手に中国語を話しているという意識が働いていたなら、
規範とされる中国語に合せて言葉を修正しようとする動機が生じて、
「日本語」が生成されることはなかっただろう。日本語は、
その中核となる部分においてさえ。中国語の表現を流用しながら
も、中国語における語源にかかわらず、認識される発音の類似性
によって独自に構造的に編成しなおすことによって、中国語
とはまったく別の言語として自らを生成していると考えることができる。
0203考える名無しさん
垢版 |
2019/07/26(金) 19:31:23.720
日本語による中国語の表現の利用の仕方を検討していたら、
もう何がどのように論じられていたかも覚えていないが、
昔読んだ「ピカソ 剽窃の論理」という本のタイトルを思い出した。
0204
垢版 |
2019/07/27(土) 06:38:16.720
まあ、そうですね。
現代でも様々な英単語や日本語英語が「日本語」の中に流入していますが、日本語の文法を英語にしろと言う声は聞かれません。
また、中国語は英語と同じように動詞が主語の後に付くパターンの言語だと思いますが、日本語にはそう言った原則は無いですね。
哲学の言葉で言うと、フィーレー(素材)としての単語は別の言語圏から輸入するが、形相(文法体系)は変えない、と言う原則があるような気がします。
0205考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 07:45:22.010
日本語と中国語の関係について、そのような素材(単語)と形相(文法体系)
として見ることはできないだろう。なぜなら、日本語が、漢字とともに
漢語が大量に輸入されるようになる前から大々的に流用している中国語の
表現は、様態を表しているからだ。単語というと、名詞をまず思い浮かべる
ことが多いが、日本語は、助詞や指示詞、助動詞的として使われるような
表現まで中国語に由来すると思われる様態の表現を汎用的に流用して
いて、そこでは、様態の表現が、名詞として使われるか、指示詞として
使われるか、助動詞や副詞として使われるかという文法的な整理がある
だけで、確立した文法体系に素材が取り込まれているというような関係
にはない。むしろ、取り込まれる素材を、認識される発音の類似によって
構造的に構成しなおすことによって文法体系が生成されていると見る
方が妥当だろう。
0206考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 08:00:36.520
>>195
爬虫類(はちゅうるい)という表現を人々が使うようになったのは、現代に
なってからだろうが、「爬虫類(はちゅうるい)」という表現を使うとき、
それが地を「は(這)ふ」生き物の類であるというイメージは自然に想起
され、「は(這)ふ」という表現が中国語に由来するかどうかなどという
ことは一切意識されない。「爬虫類(はちゅうるい)」の「は」が
「は(這)ふ」の「は」と重なっていることがイメージとして自然に感じら
れるだけである。
0207
垢版 |
2019/07/27(土) 08:00:58.960
私は中国語にそこまで詳しくないのではっきりしたことは言えませんが、古代日本では中国語の流入と共に日本語の文法を構築してきたと言う事でしょうか?
しかし古代日本語の体系があったからこそ、完全に中国語そのものにはならず、流入してくる中国語を「さばく」ことによって、中国語と部分的に合体した「新日本語」が生まれた、このような理解でしょうか?
0209考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 08:15:54.450
>>207
表現の要素の流用の仕方をみると、取り込んだ比較的少ない数の素材を
汎用的に都合に合わせて使い回している程度があまりにも大きいという印象
を受けるので(そのために、元の中国語の表現の用法/文法とはかけ離れたもの
となっている)、そのように中国語の表現を用いた「日本語」は、ピジン語
として形成されたのだろうと私には思える。つまり、だれの母語でもなかった
のだ。それぞれの集団にはそれぞれの集団内でだけ通じる、広域的には
まったく通用しない言葉があっただろう。別々の集団の間で意思の疎通
を円滑にするために、それらの集団が共通で接触していた中国語から
表現が借用されて、ピジン語が流通するようになったのだろうと思われる。
中国語を母語とする集団が存在していても、中国語の表現を流用した
ピジン語が広域的に流通しているのなら、中国語を母語とする人々も
、広域的にはそのピジン語の用法に合せて言葉を用いる必要性が生じる。
ピジン語は、その流通性によって自らの体系性を確立し、自らを生成
しつづける。すると、体系化されたピジン語に対して、そのピジン語が
元は中国語の表現によって形成されていたとしても、新たに入ってくる
中国語の表現は、外来語としての性質を帯びることになる。
0210考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 09:01:14.480
「正統な」語源を確立することにこだわる人々がいるが、語源は、それが
明らかに知られている場合でさえ、学問の世界においてさえも、規範として
は十分に機能しない。その一方で、それが語源によって正当化されるか
否かにかかわらず、認識されてしまう既存の表現との類縁関係は、暗黙
に規範として強く働き、さらに表現の類縁関係の認知には、発音の
類似性と体系化が強く関与している。
0211考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 09:19:10.730
ピジン語に関連してネットを検索していたら、日本語のピジン語化を懸念する
書き込みが目にとまった。「○○氏からtel、要コールバック」のような連絡
メモは、軽薄で日本語のピジン語化を招くというような趣旨である。その
ようにピジン語化を不快に感じる人でも、「○○は要注意ですよ」のような
表現なら、別に気にも留めないだろう。「要注意」が受け入れられて、
「要コールバック」が受け入れ難いとするなら、それは、「要○○」と
いうような表現が生成力をもって使われてしまうことが、危険に感じられる
ということなのだろう。おそらく、その不快さは、私が、ジャパニーズ・
イングリッシュが生成力を帯びるような仕方で使われているのを見る
ときに感じるのと同様のものだ。私は英語のネイティブではないが、
日本でしか通用しない「英語表現」を理解するように自分が馴らされる
ことが、自分が「自然な」英語の表現の用法に慣れようするのを邪魔する
のが気に入らないのである。
0212考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 11:20:38.240
>>195 >>206
ここで注意しなければならないことは、「は(這)ふ」という表現の「は」が
中国語の「爬 ピンインpá 」が想起させるイメージと重なり、実際に
中国語の表現を利用していると推定されるとしても、それが中国語の表現
に由来しなければならない「必然性はない」ということである。

日本語で用いられる「ぱ」、「は」、「ば」の発音は、中国語の表現で
そのような発音が広く平面的に広がったイメージと結びついて日本語に
入ってきていて、日本語としての発音もそれと矛盾しないような表現の
用法で使われるという限りで、中国語の表現を利用している。しかし、
このことは、それらの発音がそもそも中国語に限ってそのようなイメージを
想起させたことは意味しない。
0213考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 11:37:58.850
例えば、汎ゲルマン主義(はんゲルマンしゅぎ、独: Pangermanismus、
英: Pan-Germanism)という表現を見た場合、漢字の「汎」は、中国語の
読みでは、"fàn"として水の表面に浮いて広がるようなイメージと結びついて
いるようだが、英語として用いられる"pan"も、やはり平面的な広がりを
イメージさせる発音であると考えられる。

https://www.etymonline.com/search?q=pan
>This is supposed to be from Latin patina "shallow pan, dish, stew-pan,
" from Greek patane "plate, dish," from PIE *pet-ano-, from root *pete-
"to spread."

ここで語根として想定される"*pete-"のリンクをたどってみると、
再構築された印欧祖語として、以下のように説明されている
https://www.etymonline.com/word/*pete-
>*petə-, Proto-Indo-European root meaning "to spread."

"*petə-"は、カタカナで表記するなら「ペタ」であり、平面的な
広がりをイメージさせる表現としてそのまま現代の日本語として通用
するだろう。
0214
垢版 |
2019/07/27(土) 13:00:10.140
なるほど。中国文化圏の人々との「交易言語」(ピジン言語)が、元々日本列島で話されていた現生言語を圧倒して広まり、原日本語が形成されていったと考えているのですかね。
0215考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 14:03:47.400
そうです。そのように考えた方が日本語の地理的な広がりも理解しやすい
のではないかと思います。言葉には流通によって地理的に広がりをみせる
傾向と、集団内でしか通じないように孤立化する傾向の両方が見られる。
日本語は、地理的に見ればかなり広い地域で使われ、方言差にもかかわらず、
互いに共通性を保っている。もとは「リングワ・フランカ」として使われて
いた言葉が、それぞれの集団によって用いられていた母語を駆逐する
ことになったのではないかと推測される。
0217考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 15:09:09.130
>>216
そこで、>>174-175
>日本語を「うつつ(現/顕)」として理解するとは、どのようなことか。
という問ひに戻るわけですよ。
0219考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 15:47:37.250
むしろ、疑似の「学問的」解明を排除していくことにつながるのではないかと思います
0220考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 15:58:02.040
コジツケならいっそそういう態度に
しちゃったほうが気が楽だしね

よくわかるよ
0221考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 16:39:48.510
そう感じるのなら、気が重いが、コジツケではないと信じるアプローチを自分で示せばいい。検討は、どこからでも始めることができますよ?
0222考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 16:45:52.960
あほだな
学問でほとんどロクな手がかりがない
分野なんていくらでもある
音にフォーカスした日本語起源論はそのひとつ

ヒマ人の連想ゲームのくせに偉そうなこと抜かすな
0223考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 17:09:49.080
>学問でほとんどロクな手がかりがない
>分野なんていくらでもある

歴史修正主義批判の批判ですかw
0224考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 18:47:08.080
現象学的に重要なのは、どのようなアプローチが可能であり、妥当である
と考えられるのか、そのアプローチによって何がどのように分るのか/
分らないのかを明確に言葉によって記述しようとすることでしょう。
0225考える名無しさん
垢版 |
2019/07/27(土) 23:58:15.450
なにをどのような証拠を認めるのか/認めないのか(どのように認められないのか)、
具体的に検討していけばいいんですよ。いずれにしてもそれを明示的に言葉に
していくことが、妥当であると認められる方法論を明らかにすることでしょう。
0226考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 02:19:13.710
現象学では論理的誤謬の成立条件についてどう説明してるんだ
0228考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 07:58:44.640
>成立条件についてどう説明してるんだ

経験に照らして記述していけばいいだけでは?
0229考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 09:09:51.250
何かを自分が正しく理解している(知り得ないと理解している場合も含め)と
感じているとして、自分がどのようにその理解に達しているのかを検討して、
言葉として明示化しなければ、方法論は成立しないでしょう。なぜ、
その手続きを飛ばして結論だけに固執しようとするのか、そこに働いて
いる動機も自問してみる必要がある。
0230考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 10:29:03.100
何にどのようにアクセスできるのかについて、
なぜ言葉として表現することを、そこまで拒むのか
根拠の不明な否定的な言葉であれば、気軽に口に出すのに
0231考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 14:45:35.850
フッサールは元々厳密な学としての哲学、数学の基礎づけってのをやろうとしてたんだから論理的誤謬の分析は現象学において重要なトピックなんじゃないのかね
なんで君達そんなにやる気がないんだね
0232考える名無しさん
垢版 |
2019/07/28(日) 15:35:58.650
どうせ数学の基礎づけの論理的な手続きなんてごく少数しか関心がなくて、
数学者ですら馴染みのないことを問題にしているのだから、そんな重箱の
隅をつつくような問題をわざわざ対象にするのではなく、だれでもが
日常的に慣れ親しんでいると感じて、なおかつ、自分自身で検証する
ことのできる具体的な問題を対象にした方がいいのではないかな。

日常的な言葉の表現なんかは、まさにそういう事例としてうってつけ
だと思うが。
0233◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2019/07/28(日) 15:53:58.450
自分の立ち位置やポリシーやを明確にして、人に自分をよくみせようとするは人間の業だ。しかし逆に言えば、おまえは何者かと問われて悪鬼でござる、という人間がどこにいる?
みんな自分はこれこれのこういう良いところがある人間です、というのが人というもの。
自分を良く見せようとしていることに対して批判する人間が時々いるが、それはお門違いである。自分のことを良く見せようとすることを批判しているのではなく、よくみせられてないから腹がたつのが本当だ。
そんなこともわからんのか最近のおばさんは。
0234
垢版 |
2019/07/29(月) 05:15:10.940
現象学の方法は、簡単に言えば「何でそう思うか」と繰り返し繰り返し問いかける事でもあるのではないかと思うのですが。
何でそう思うかと言うと入門書にそう書いていた記憶があるからです。
すると最近のトピックを例に取れば「何故、日本語の源流がピンイン語だと思うのか」を記述すると言うことになるでしょうか?

ところで発言者が誰かわからないので、ナンバーでも良いので発言者は仮のコテを付けていただけますか?
0235考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 06:58:18.670
確からしいと思える知識とはどのようなものでしょう。
「〜の古層」という言い方があるが、「日本語の古層」と呼べるような
ものにアクセスすることは可能なのか。そのようなものにアクセスしている
ような感覚は、どのように生じているのか。例えば、鉄剣に刻まれた文字が
出土する。その鉄剣は「本物」なのか。「本物」とはどのようであることを
意味するのか。いくつかの文字が判読できたとして、それらの文字は、
判読されるとおりに理解されるべきものなのか。「判読されるとおり」
とは何を意味するのか。知識の確からしさは、何を拠り所としている
のか。
0236考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 07:05:30.250
日本語の起源がどうであれ(それをどのように考えるにせよ)、現代の日本語の
「は(這)う」という表現は、中国語の「爬 ピンインpá 」という表現に対応
していることは確かであるように感じられる。この「確からしさ」の感覚は、
私的なもの、つまり、自分だけにアクセスを許された特権であるとは言えない
でしょう。すると、この「確からしさ」は、或る程度、多くの人々に分有
される感覚、すなわち、「共通感覚/コモンセンス」であると言うことができる
ことになる。
0237考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 07:10:53.480
では、「は(這)う」という表現は、どのようにその表現の意図を伝えていると
考えられるのか。「は(這)う」が「は(這)う」を意味するように用いられている
と理解されるとすれば、この表現は、少なくとも、他の表現から弁別される
ことによって、その意図が特定されていると言わなければならないでしょう。
その弁別はどのように行われていると考えるのが、「共通感覚/コモンセンス」
として「確からしい」と言えるのか。
0238考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 08:43:51.920
>ところで発言者が誰かわからないので

各自が自分で確かめるべき共通感覚を追求するのに、発言者が誰であるかが
分る必要はない。意図的に議論を混乱させようとする成り済ましが書き込む
ことは避けられないが、それでも、そのような成り済ましは、主張を個人
の属性に帰することによってしか成立し得ないので、議論が共通感覚の
追求を目指すなら、そのような個人的な主張を解体することによって
混乱を解消に向かわせることができる。

書き込みを特定の個人と結び付けることは、特定される個人をキャラクタ化
して、ナンセンスでまったく矛盾した非難を向ける常套手段によって
個人を自己防衛しなければならない立場に追い込むことを可能にし、
議論の健全性の確保のためにむしろ有害である。
0239考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 08:49:29.550
個人的な非難の応酬にもちこむこと、これは残念ながら、制度的な学問の世界
でも用いられている常套手段なのです。議論が個人的な非難の応酬に変換される
なら、その時点で制度的に下の立場にいる者の負けが確定する。そのような
立場に相手を追い込むことを最初から目的として、あからさまにナンセンスな
矛盾した非難を下の立場の人間に向ける。
0240考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 09:01:05.630
掲示板などのメディアの場合でも、書き込みが個人の属性に帰せられるなら、
そのメディアの運営に近い側や、メディアの制度的な仕組みに組織的に
精通している側が、圧倒的に有利な立場を確保することになる。

だからこそ、個人の書き込みが常軌を逸していて、メディア側がきんちんと
管理できていないという印象操作が繰り返される。
0241
垢版 |
2019/07/29(月) 09:33:17.930
中国語の「爬(パ」が日本語の「這う」の語源ではないかとのことですが、中国語の予備知識が無いからなのか、特に私にはその確信は生じて居ませんね。

コテの件は保留と言うことにしましょう。
0242考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 09:38:29.300
爬のイメージが合うねえっていうだけの
言葉エッセイならいいんだけど
いちいち学問っぽく振る舞うから狡いんだよ
0243考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 09:45:50.960
アプローチを明確に言葉によって表現して、その手法をまねること
によって確かな手応えが得られるという感覚が分有されることにより、
アプローチの学問ぽさが形成されていくのですよ?
0244考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 09:50:11.520
>特に私にはその確信は生じて居ませんね。

それはそれでいいんですよ。でも、語源についてどう考えるにせよ、
「は(這)う」(本来は、「はふ」)という日本語の表現が、中国語の
「爬(パ」という表現に対応しているという確信は生じているのではないですか。
0245
垢版 |
2019/07/29(月) 09:58:36.820
例えば、古代ヘブライ語と現代の日本語が非常に似通っているから日本人は古代の失われた部族の末裔ではないかと言う人も居ますね。
中国語の「爬」と「這う」もそうですが、有りそうな事とは言え、一般的に過去の出来事の実在を「客観的」に証明すると言うのは中々難しそうです。考えてみれば、昨日の夜ご飯に何を食べたかも「客観的に」証明するのは難しいですからね。
0246
垢版 |
2019/07/29(月) 10:02:15.590
Google辞書で確認した後は、這うと爬の意味に類似性があると言うことは言えるのかもしれない、と言う感じはしていますね。
しかし、それは何かの拍子にひっくり返るかもしれないので、「確信」とまでは言えないかもしれません。Google辞書の信頼性への確信が100%ではないですからね。
0247
垢版 |
2019/07/29(月) 10:06:05.390
ただ、「荒らし行為なのかコピペなのかよくわからない書き込み」が、「現象学を意識した対話」によって、理解可能なものになった、と言うことは評価できるのかもしれません。
雑音だったものが、意味のある文章になり、一応、対話が可能になっていますね。
これは現象学の成果と言うことも出来るでしょうか?
0248考える名無しさん
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2019/07/29(月) 10:06:17.090
>>244
その対応とやらが言葉が似ていることを認めるって
話ならそうだろうが、それじゃたいした意味はなくなる

結局たいしたことないことを複雑に語っているだけ
0249考える名無しさん
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2019/07/29(月) 10:08:46.730
発音の重なりが偶然であるか、必然であるか不明でも、発音が重なって
しまったら、そのことが表現に影響を与える。これは確かでしょう。

よく知られている話ですが、カルピス・ソーダを米国で販売しようと
したら、"Calpis"という商品名を英語で発音すると、それが"cow piss"、
つまり、「牛の小便」という発音と重なってしまい、"Calpico"という
商品名に変更せざるを得なかったという。不都合に発音の重なる表現
は、発音が変更され、好都合に発音の重なる表現は、その発音の重なり
が便乗的に利用される、ということは言えるのではないでしょうか。
0250考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 10:10:46.140
ところで、日本語の語源がどうであれ、日本語に中国語から大量に表現が
輸入されていることは確かでしょう。
0252考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 10:14:03.860
では、発音とイメージの重なりが便乗的に利用されるプロセスが長い年月に
わたって繰り返されたとすると、どうなるでしょう。
0253
垢版 |
2019/07/29(月) 12:47:49.910
>>252
どうなるでしょう。例えば、アメリカでも2chをパクった「4ちゃんねる」というサイトがあるようです。
ちゃんねるも2も英語ですから、便乗の便乗の便乗で意味が重層的に形成されていますね。
0254考える名無しさん
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2019/07/29(月) 15:28:09.800
私は東北の内陸部に住んでいるのだけれど、たまに東北の沿岸部から移住してきた人と話をすると感謝を表現する時に「おおきに」って言うんだよ。
東北地方なのに沿岸部はイントネーションや一部の単語が関西弁と融合している。
元々漁港なので近江商人などと交流があったからかもしれないが、面白いよね。
0255考える名無しさん
垢版 |
2019/07/29(月) 19:19:52.590
起源論や哲学にならんで申し訳ないが
文選よみは日本語文体のなかで表現として
現代まで残っている気がするな

キンキンと冷え込んだ朝
とかそういうフレーズの作り
0257
垢版 |
2019/07/30(火) 05:57:19.060
256
確かに対応関係がありそうです。
一般に日本文明は「孤立文明」であるかのような印象がありますが、実際は古来より大陸との関わりのなかで自己を形作ってきた現証かもしれませんね。
0259
垢版 |
2019/07/30(火) 07:43:36.890
言語論と同時平行して、様々な事も論じてみたいと思います。

先程、平原卓さんと言う哲学者のサイトで、ハイデガーの技術論について論じているものを読んだのですが、
平原さんは竹田青嗣さんのお弟子さんのようですが、
竹田さん自身がハイデガーには辛い評価をしていると言うこともあるかもしれませんが「ハイデガーの技術論」に対する評価がちょっと表層的過ぎはしないか、と言う気がしました。

かいつまんでいうと、「ハイデガーは近代技術の本質は徴発だと言うが、古代エジプトでも徴発はあったではないか」と言って
古代エジプトの農業の壁画の画像を貼っているのですが、ハイデガーの言うことを鵜呑みにするべきではないとはいえ、ちょっと悪意も感じられないでもない解釈かと思いました。

恐らく、師匠(竹田さん)のハイデガー観を受け継いでいる部分もあるのだと思うが、
ハイデガーが近代技術の本質をそれ以前の社会と異質のものとして書き出しているのは、ウェーバーが「近代資本主義」をそれ以前の「資本主義」と異質のものとして論じている事と近接関係があると思います。

前近代の農業が生活の「必要」を満たす為に行われたのだとすると、近代の農業は農家の生活自体を徴発し「事業」に捧げると言うような特徴がある。
同じ農業でも根底にある発想が違うと言うことではないか、と言うことだと思います。
0260考える名無しさん
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2019/07/30(火) 08:18:44.770
ハイデガーの技術論について論じるのなら、言語論と切り離す必要はない
でしょう。というより、技術論を言語論と切り離してしまうなら、
ハイデガーが何を問題にしているのかも不明になってしまうのではないか。
というのも、私はハイデガーの著作に詳しくはないものの、「存在と時間」
や「現象学の根本問題」などを読んでも、ハイデガーの技術論は、「用具性」
の概念と結びついていて、「用具性」の概念が重要性を有するとすれば、、
それは、言語表現はどのように理解されるべきかという問題と切り離す
ことができないのではないかと思われるからです。
0261考える名無しさん
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2019/07/30(火) 08:29:19.050
「言葉の意味とは、その用法である」とよく言われます。これは、
ウィトゲンシュタインの主張として知られているという印象を受けますが、
別に特定の個人に帰せられるべき特別な思想ではないでしょう。

言葉の意味を理解するとは、その言葉がどのように使われているかが
分ることであり、言葉が使われるのは、「何であるか」を伝えるため
というより、まずなによりも、「どのようであるか」を伝えるためで
あると考えられます。
0262考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 08:50:14.870
誰かと道を歩いていて、その人が「車!」と発言したとすれば、それは
大抵の場合、「自動車が接近していて、避けるようにしないと危ない!」
ということを意味しているはずです。「車!」という発言は、
どのように危ない状況になっているのかを伝えられるなら、その目的
を果たすことになり、それが「その言葉の意味」であることになる。
「車!」と声を掛けられて、私が「プリウス?」などと聞き返した
とすれば、たとえ、接近している車が本当にプリウスだったとしても、
声を掛けた人は、私が「車!」という言葉の意味を理解しなかった
と判断するでしょう。

言葉を使うことが、「どのようであるか」を伝えることを目的として、
「何であるか」を伝えるのは二の次であることは、私たちが、コンピュータ・
ソフトウェアのような機械処理を相手にコミュニケーションをとろうと
する場合に感じる「もどかしさ」からも分るはずです。人を相手に
「何か冷たいものはない?」と尋ねた場合、喉が渇くような状況であれば、
すぐさま「麦茶ならあるけど?」というような答えが返ってくるはずです。
冷たいものの選択肢として「ドライアイス」を提示されたなら、「冷たい
もの」の意味がうまく伝わっていないと感じるでしょう。
0263考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 08:59:57.870
私が、日本語の歴史も、中国語の歴史もろくに知らず、中国語を学んだことが
ないばかりか、ピンインの発音表記法すらまともに把握していないにもかかわらず、
日本語が中国語の表現をピジン語として利用することによって形成されたのが
「確か」であると、私には感じられることも、「どのようであるか」を伝える
発音において、日本語の表現に対応する中国語の類似した発音の表現を容易に
見出すことができ、しかも、それが、日本語において代替の表現がないような
基本的な言葉においても数多く見られることによります。いつの時点において、
そのような重なりが生じたにせよ、重なりは現実に生じており、しかも、いつ
から使われているか分らない古語においてそれを見出すおとができる。
0264考える名無しさん
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2019/07/30(火) 09:20:15.870
語源が同一であるかどうかは別にして、「も(萌)ゆ」や「も(燃)ゆ」は、
本来の日本語、いわゆる大和言葉であると一般に認識されているでしょう。
「別の表現で言い換えてください」と求められても、適切な代替の表現
を見つけるのは容易ではないはずです。そこで、唐突に、「『も(萌)ゆ』も、
『も(燃)ゆ』も、外来語で、中国語に由来するに違いない」などと主張
したなら、「何を馬鹿なことを」というのが普通の反応ではないかと
思います。では、「『もうもう』と煙が立ち上る」という場合の「もうもう」
はどうでしょう。「濛濛/朦朦」などと漢字が当てられるので、日本語
なのか中国語由来なのか、よく分らなくなるのではないでしょうか。
そこで、中国語辞典を引くと、声調を無視するなら、「濛」も「朦」も
現代の中国語では"meng"と発音されることが分り、「萌」もやはり
「ピンインméng」と発音されることが分ります( 芽生える,
(事が)起こる.)。さらに"meng"のリンクをたどると、「猛」も
やはり類似した発音であることが分ります(猛 ピンインměng
形容詞 (砲火・火力・攻撃・風雨などの力・勢いが)猛烈である,
激しい,荒々しい.)こうなると、どこでどのように線引きすることが
できるのか、よく分らなくなってくるというのが正直なところでは
ないでしょうか。
0266考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 13:04:32.450
動詞と分類される言葉は、「どのようにか作用/動作する」ことを表現し、
副詞とされる分類される言葉も、作用/動作が「どのようである」かを
より詳しく表現するために用いられる。そのような要素として組み合わ
されて用いられる言葉の要素が、その発音とそれが想起させるイメージ
において中国語の表現と重なっている。「〜を」のような助詞と分類
される言葉さえ、もとは感嘆を表していた用法において、中国語の
感嘆の表現と重なっている。繰り返すが、無論、そのように重なっている
ことは、そのような「日本語」を話すようになった人々が、もとは
中国語を話していたことは意味しない(中国語を母語とする集団が
そこに含まれていたとしても)。そうではなく、中国語の表現を利用
することなしには、日本語そのものが日本語としての規範を有して
形成されることがなかったのではないかと推測されることを意味
している。
0267考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 14:04:21.310
規範のない言語なんてないが

日本語が漢文の大きな影響を受けて変形してきた
のは確実だが

話言葉はそのままで保存されていないのだから
よくわからない
0268考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 14:06:06.300
今の日本語が漢文なしには成立しなかった
ことは単なる歴史的な事実を認めるというだけ
で別にたいした意味はない
0269考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 14:46:12.320
日本語の使用という現象に限らず、現実/うつつは、常にうつろふ。
それでも、人は、過去の出来事も含むものとして現実/うつつを
どのようにか理解している。
0270考える名無しさん
垢版 |
2019/07/30(火) 15:54:38.820
議論から何を導き出すことができるかではなく、異様に結論ばかりに拘る奇妙な人々
0271
垢版 |
2019/07/30(火) 20:51:13.220
確かにハイデガーは彼の哲学的な考察において「言語分析」特に「語源分析」を重視していますね。例えば《テクネー》と言う言葉が、古代においては何を意味していたか。

それは単なる手仕事における技量のことではなく、芸術を表現するものでもあったのだし、《熟知》と言う意味合いもあった。
そして熟知とは一種の開蔵(アレーテイア)であると述べる。また、テクネーはポイエーシスでもあり、ポイエーシス(こちらへと、前へと、もたらすもの)とはポエム、ポエジーとしての意味を残しており
、テクネーとは一種の芸術的直観と同義?だったが、現代技術の本質としての集・立は真理に覆いをかけるのだと。
現代に置ける技術と言う言葉にはポイエーシスやアレーテイアの意味合いはない。

つまり、現代的な意味での技術が支配する、つまり、
技術と言う言葉から真理の顕現と言う意味合いが抜き取られてしまった今日は
まさに真理が覆われてしまっていることを意味する。
と言うようなことかもしれませんね。


新井白石は、日本人の世界観は唐言葉に汚染されてしまった。
元々の大和心に戻れと言うことを言って居たようですが、
日本語に置ける古代中国語の影響を考えると言うことは、
古代から現代までの日本人の現実を相対化することにも繋がるかもしれませんね。
0272
垢版 |
2019/07/30(火) 21:15:09.340
ところで、縄文時代には文字言語が無かったと考えられています。
四万年もの長い間、日本人は文字を持たなかった。話し言葉はあったかもしれないが、それは、結局、漢字の訓読みと言う形でしか記録出来なかった。
中国語で雨は「イー」だが、我々は「アメ」と読む。発音に全く類似性が無い。
つまり、文字がない時から、天から降ってくる水をアメと読んでいた可能性が高いし、天の事も「アメ」「アマ」と呼ぶ。(中国語では「ティェン」)
天をテンともアマとも読む二重性が日本人の現実世界の特徴とも言えるね。
天には天帝、天意のような男性的で運命を支配する強力な力を感じるが、アメやアマは女のことも言う女性的な側面がある。
中国語を取り入れることで、律令的な世界秩序も取り入れた訳だが、根源的な宗教や情緒の部分では大和言葉を残した。さらにカタカナ語によって西洋文明の三重構造の世界に住んでいるのが日本人なのかもしれない。
0273考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 01:10:00.010
日本語の雨(あめ)と天(あま)、中国語の雨(yǔ)と天(tiān)の
関係については、それらがどのような表現であるのかを検討してみる
必要があるのではないかと思います。日本語の「アメ(雨)」と「アマ(天)」
は、表現として明らかにつながっていて、「アメ」が「アマ」と
互換的に用いられているようにも見える。しかし、中国語の雨(yǔ)と
天(tiān)にはそのような互換性はない。つまり、中国語の雨(yǔ)
は、表現として見たとき、本来は、、日本語の「アメ(雨)には
うまく対応していないわけです。
0274考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 01:22:36.430
私には、「雨(アメ)」という表現は、「雨(あめ)降(ふ)り」という表現に
由来しているように思える。日本語の「雨(アメ)」が中国語の雨(yǔ) に
対応していると見なすなら、「雨(あめ)降(ふ)り」="rainfall"という
ことになるでしょう。しかし、「アメ」と「アマ」の互換性を想定する
と、そのような解釈は後付け的であると言わざるを得ないのではないか。
むしろ、「雨(あめ)降(ふ)り」とは、本来、「天(あま)振(ふ)り」という
表現、つまり、「天(あま)」が「ふる(振)ふ」ことではないのか、
という感じがします。「雨(あめ)」は、「天(あま)振(ふ)り」によって
もたらされるものとして「対象化」されることによって初めて、雨(yǔ) に
対応している、または逆に、雨(yǔ) に対応するように捉えられること
によって初めて、「天(あま)振(ふ)り」が「雨(あめ)」になるのではないか、
というのが私の推測です。
0275考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 01:35:12.210
では、「あま(天)」は、中国語の表現とは無関係なのでしょうか。
「はま(浜)」、「ぬま(沼)」、「やま(山)」、「独楽(こま)」、「玉(たま)」
などを考えてみると、どうも「あま(天)」の「ま」は、日本語の「ま」
の発音の用法にきわめて広く見られるように、「まる(丸)い」ことや、
「ま(曲)がっている」ことを表しているような気もします。
例えば、「はま(浜)」であれば、湾曲した砂浜が想起されます。

中国語辞書で日本語の「天」を検索すると、「穹苍 ピンインqióngcāng」
という中国語訳が示されますが、「あま」の「ま」は、ちょうど、「穹
qióng」に意味的に(発音においてではなく)対応しているように思えます。
https://cjjc.weblio.jp/content/

ところで、日本語の古語では、田んぼの「畔(あぜ)」は、「あ」であり、
これが、高く離れている様態を表す中国語の「岸(àn)」に由来するであろう
ことは、既に指摘したとおりであり、山/雲の「あなた」の「あ」について
も同様です。すると、「あま(天)」という表現は、「あ(≒lofty)+ま(≒sphere)」
を表現しているという解釈も成立するように思えます。
0276
垢版 |
2019/07/31(水) 06:07:33.020
グーチョキパーが中国語の石、切、紙の発音に似ていると言う話があったが、「ジャン」「ケン」「ポン」はヘブライ語で「隠す」「準備」「来い」に当たると言う。
「アナタ」の事はヘブライ語で「アタ」であるし、囲むとか護るは「カゴ」
最果ての地は「イズモ」
スメラミコト(天皇、王)はスメラミガッドであり、様々な対応関係があるように見える。
これは偶然なのだろうか?何か意味があるのか?
0277
垢版 |
2019/07/31(水) 06:13:10.930
我々の先祖はをMountainをヤマ、riverをカワと読んでいたのだろうか?
それとも中国語との影響関係でヤマやカワと言う言い方が生まれてきたのだろうか?
0278
垢版 |
2019/07/31(水) 06:22:57.860
天アマのアを岸(アン)との対応で考える意見もあったが、高いは中国語でそのまま「高」(カオ)である。岸(アン)からの発生と言うのは、ややこじつけ感も感じられるが
0279考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 06:54:11.200
彼岸や傲岸という表現における岸であり、中国語−英語辞書でも"lofty"と
訳されているので、こじ付けとは言えないでしょう。それに岸も田んぼの
畦(あぜ)も、英語で表現するなら"bank"となることは既に指摘したとおりです。
問題は、「岸」は、日本語の音読みでも「ガン」と読まれるとおり、
遡ると、"an"ではなく、"ngan"であったことですが、「ガン」という読み
において"n"の発音が落とされたように、日本語が形成されるプロセスで
話者に"ng"を発音/認識することが苦手な人々が相対的に多ければ、
"ng"が発音から落とされる可能性は十分考えられます。だからこそ、
"ngan"から"an"への「経時的」変化も生じたのでしょう。
0280
垢版 |
2019/07/31(水) 06:55:47.870
さて、日本人のうつつの研究であるが、現代日本語文法の特徴として「完了形の欠如」と言う点が指摘されている。
これは八木雄二さんの本に書いていたのだが、かつて日本語には「けり」「たり」と言う表現があり、
過去のある時点からある時点までの継続と言うニュアンスが表現できていたが、現在では全て過去の行為として扱っている。

しかし、欧米では今も会話で頻繁に過去完了が使われており未来完了も使われる。

これはキリスト教予定説の影響が考えられ、欧米人は全ての行動を計画性の中で考えており、

基調低音にあるのは「神の予定」の考え方であるが、現在日本には欠落した発想だが、過去にはあったと言う。
だとすると過去の日本人は予定説的な世界観を持っていたと言うことだろうか?
0281考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 06:57:52.290
>>276
そのような例はすべて孤立した類似の指摘に過ぎません。
つまり、"What time is it now?"が「掘った芋弄るな!」に聞こえる
という類の類似です。孤立した類似の例をいくら連ねても、表現が
どのように形成されたのか見えてこないので、表現として対応して
いるとは認められないでしょう。
0282考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 07:09:58.040
日本語では、「天(あま)」に関連するものとして「高天原」という表現があります。
Wikipediaによると、上代では、「高天原」の正当な訓とされていたのは「たかまのはら」
もしくは「たかあまのはら」であったとのことです。私には、後者の「たかあまのはら」
という読みは、「『天』という漢字に『あま』という読みを割り当てたこと」に
引きずられたのではないかという気がします。なぜなら、「たか+あ+まはら」では
「たか」と「あ」が想起させるイメージにおいて冗長になってしまうからです。
「高(たか)」という表現自体が、「丈(たけ)」や「た(長)ける」という表現と
同じ語源から発生していると考えることに異存はないでしょう。この場合も、
これらの表現のイメージの重なりから類推して「た・く」という動詞を考えた
場合、この「た」の発音とそれが想起させるイメージは、中国語の「到
ピンインdào」に対応しているような印象を受けます。
https://cjjc.weblio.jp/content/
0283考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 07:15:37.200
>276
そのような対応を考慮した場合に、そのような解釈から、>>272に言うところの
>現代に置ける技術と言う言葉にはポイエーシスやアレーテイアの意味合い
が見えてくるでしょうか?むしろ、それは、機械的な対応(ハイデガーであれば、
それを現代の技術の特徴と捉えたのかもしれません)を示しているに過ぎないので
はないでしょうか。
0284考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 08:41:44.410
表現のナンセンスな機械的な対応を示されただけでも、そこに意味を読み取って
しまうのは、パソコンの誤変換で日常的に経験することです。表示された誤変換
に奇妙な意図が現れているように見えて、それを面白がる人々も少なからず
いますが、その「面白さ」は駄洒落と同質のものです。

乱数発生器によって無作為にアルファベットを並べても、大量にアルファベット
が並べられるなら人はそこに意味のある文を見出すことができるでしょう。
このことは、偶然の要素の並びであれ、人はそこに意味を見出そうとする
なら、何らかの作為/意(ポイエーシス)を求めることになることを示している
に過ぎません。
0285
垢版 |
2019/07/31(水) 17:45:54.650
確かにヘブライ起源説はパソコンの誤変換に意味を読み取ってしまうようなこと
かもしれません。その可能性はあるでしょう。
しかし、それは中国語のピンイン起源説も同様の誤謬に陥っている可能性を
常に意識しなくてはならないのではないでしょうか。
そして、現象学的還元と言うのはまさにそう言うことでしょう。
0286考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 18:54:17.340
既に繰り返し指摘してきたことですが、表現というのは、常に多重の
解釈の可能性が生じる騙し絵なんですよ。どのような解釈の仕方が
妥当性を帯びるかが重要であり、そこに「ポイエーシス」がかかわって
いる。妥当性を帯びる解釈というのは、ポイエーシスの働きが認めら
れる解釈なのです。
0287考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 19:16:04.640
中国語の「天」は、それが古代に日本に入ってきたころも、"tian"と発音されて
いたのか、"tien"と発音されていたのか、"thien"と発音されていたのか、私は
よく知りませんが、いずれにせよ、「てん」として現代の日本語になっている。
お天道さまの働きとしてまず何よりも先に挙げられるのは、地を「て(照)らす」
ことでしょう。天(てん)の働きは日照りをもたらすことであり、この場合、
「てん」の「て」と、「て(照)り」の「て」が重なっている。これは偶然
でしょうか。別に早急に結論を出さなければならないことはありません。
0289考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 19:38:37.570
ポイエーシスの働きを認めるとは、どのようなことでしょう。

日本語を話す一般の人々に、日本語についての質問として、例えば、
「蝶々(ちょうちょう)と畳(たたみ)はどのように関係しているのですか?」
と尋ねたなら、怪訝な顔をされて、質問の意味を理解しようとするどころか、
相手にせずに早く立ち去った方が無難な変な人だと思われるのがオチでしょう。

しかし、日本語で「蝶」が「ちょう」と読まれるように、「畳」も「たたみ」
と訓読みにされるだけではなく、4畳半の場合であれば、「じょう」と音読み
にされ、「畳」による広さは、しばしば、「帖」という漢字で置き換えられる
ことからも分るとおり、単独での音読みは「ちょう」のはずです。

さらに、実際、「蝶」と「畳」は、「蝶番(ちょうつがい)」を介して
ドラマチックに再会しているのではないでしょうか。というのも、「蝶番」
は、蝶のようであるとともに、畳まれるものでもあるのですから。
続きは、後で書き込むことにします。
0290考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 20:50:28.020
さて、「蝶(ちょう)」は、古語では、「てふ」と記載されますが、
中国語由来の言葉です。Wiktionaryを見ても以下のとおり記載されています。

https://ja.wiktionary.org/wiki/
発音 呉音: ジョウ(デフ)、漢音: チョウ(テフ)

では、「畳」の方はどうでしょうか。
https://ja.wiktionary.org/wiki/
発音 呉音 : ジョウ(デフ)、漢音 : チョウ(テフ)(表外)

「蝶」も「畳」も音読みではまったく同じであることが分りますね。
さらに、いずれも、古語では「てふ」と表記されるものの、「てふ」
と発音されたわけではありません。中国語から日本語に入った当時
の発音について私は知りませんが、中国語辞典を引くと、現代の
中国語では、「蝶(砨)」は"dié"、「叠(疊・曡)」も"dié"と
発音されるようで、やはり同じ発音であり、さらに、日本語の
「てふ」の「て」の母音に対して2重母音が対応していることが
分ります。つまり、ネコの鳴き声の「ニァウニァウ」が「ねうねう」
と表記されたのと同様に、二重母音を表記する手段がなかったので、
"tie"のような発音を認識しながら、それを「て」と書き写し、実際に
は、現代の日本語の「ちょう」の発音につながることになった
発音をしたものと考えられます。
0291考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 21:05:41.790
「畳」という漢字を見ると、昭和世代までの日本で育った人々がまず想起する
のは和室の「畳(たたみ)」だと思いますが、これは、「畳む」という動詞の
名詞化であり、「畳(たたみ)」は、「畳まれている」だけではなく、「畳み
込まれている」ので、中国語の「畳」の意味には含まれない過剰なイメージが
付け加わっているものと考えられ、日本語の古語の「てふ」に対しても、
やはり過剰であるものと思われます。

「畳」を中国語辞典で引いてみると、日本語の「たたむ」という表現に
そのまま対応する用例が記載されており、「畳」は、英語を用いるなら、
"fold"に相当することが分ります。

https://cjjc.weblio.jp/content/
(衣服・紙類などを)畳む,折り畳む.
用例
你叠一叠纸吧。〔+目〕=紙を折り畳みなさい.
孩子们在桌子上叠着玩艺儿。〔+目〕=子供たちは机の上で折り紙を折っている.
0292考える名無しさん
垢版 |
2019/07/31(水) 21:25:21.110
ここまでくるともう、「蝶」と「畳」が「てふ」としては、共通のイメージを
想起させることは説明するまでもないでしょう。折りたたんだ1枚の紙を
ひらひらさせると、その様子が「蝶(てふ)」に似ていることは、誰にでも
分るはずです。つまり、「蝶(てふ)」は、「(羽を)折りたたむもの」を
指す名称として用いられたことが推測できます。

日本列島のどこでも見られるごく身近な生物である「蝶(ちょう)」の名称
が中国語由来であり、しかも、「てふ」と呼ばれる以前にどのように
呼ばれていたのかも明らかではないというのは、とても面白いことですね。
さらに私に面白いと感じられるのは、「蝶」と「畳」に共通する「てふ」の
「ふ」の発音です。対応する中国語の表現には、「ふ」に相当するような
発音は含まれていません。すると、この発音はどこから来たのでしょう。
しかも、この読みは、訓読みではなく、音読みなのです。

この場合も私には、「ふ」は、再帰表現を作るために中国語の「複/复
 ピンインfù」を流用したものである可能性が感じられます。そのように
考えた場合、大和言葉とされる表現において多用されることになった
「〜ふ」という再帰形の動詞表現は、漢字の音読みに既に入り込んでいる
ことになるでしょう。無論、現時点では、これは、単にそのような可能性が
考えられるという示唆に過ぎません。性急に結論を出そうとすべきでは
ないでしょう。
0293
垢版 |
2019/07/31(水) 22:18:53.940
そう言えば蝶々は古語では「ディップルディップル」とかそう言う発音だったと言うような動画がYouTubeでありましたね。
0294考える名無しさん
垢版 |
2019/08/01(木) 08:53:50.660
君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
『万葉集』巻十五3724
0295考える名無しさん
垢版 |
2019/08/01(木) 12:51:18.150
>>292
そのように考えた場合、「(蝶)てふ」は、今では、単に特定の生物種につけられた
名前であると見なされ、名詞であると考えられているものの、表現としては、
「畳(たたむ動作)」+「複/复(助動詞として用いられて作用が反復/再帰する
様態を表す)」によって「自らをたたむ」ことを表していたと解釈することが
できる。さらに、これを手がかりとすると、類似した例はすぐに見つかる。
0296考える名無しさん
垢版 |
2019/08/01(木) 13:07:52.140
以前、「○ふ」という表現が再帰形であるのかどうか自体を検討していたとき、
数多くの「○ふ」の形の表現の具体例が、「○」によって表される作用/動作の
再帰表現としてただちに解釈できることが分ったものの、「ねぶ」という表現
に行き当たったとき、これをどのような再帰表現と理解していいのかうまく
解釈できないでいた。というのも、「ね」という発音は、「ねちねち」という
擬態語にも見られるとおり、「柔らかい密着」のようなイメージを想起させる
からだ。「ねぶ」の「ね」も同様のイメージの動作/作用を表していると考えた
場合、その再帰形がなぜ「おとなびる」や「成熟する」(岩波古語辞典)ことを
意味するようになるのか理解できなかったのである。その後、「ねぶ」を用いた
文例をいくつかさらに検討しているうち、この「ね」は、「柔らかい密着」
とは特に関連しておらず、「ねぶ」という表現全体で、英語を用いるなら、
単に動詞の"age"に対応しているらしいことに気づいて、意外な印象を受けた
ものである。その頃は、まだ「日本語の起源」に関係するような問題は一切
念頭になかったので、日本語と中国語の関係についても意識すらしていなかった。
0297考える名無しさん
垢版 |
2019/08/01(木) 13:19:52.790
しかし、ここで、「ねぶ」も、「てふ(蝶)」の場合と同様に中国語由来の表現
であると想定してみよう。すると、「てふ」の「て」が、中国語の"tie"のような
発音に対応しているように、また、「ねうねう」と記載されるネコの鳴き声
が"niau・niau"という発音に対応していると考えられるように、「ねぶ」も、
本来は、"nia"+"fu"に対応しているのではないかとすぐに思い浮かぶ。
「ねぶ」は、意味的には単に英語の"age"という動詞に対応するようなので、
ここで、中国語辞典で「年」を引いてみると、「年(秊)ピンインnián」
であることが分り、日本語における「年」という漢字の音読みの「ねん」
という発音においても、「ね」が"niá"に対応していることが確認できる。

すると、結局のところ、「おとなびる」や「成熟する」(岩波古語辞典)ことを
意味するとされる「ねぶ」という表現は、「年(nia)」+「複/复(fu)」として、
その発音においても、意味においても、「年をとる」ことの再帰表現(「年を
重ねる」と表現してもいいだろう)として無理なく説明できることが分る。
0298
垢版 |
2019/08/01(木) 17:23:39.130
まあ、これも現象学としましょう。
0299考える名無しさん
垢版 |
2019/08/02(金) 00:52:59.740
我々が暗黙の裡にどのような先入観に囚われているのかについて反省を
促すのは、現象学の役割でしょう。

現代では、日本語が日本国で用いられている言語であることは自明の
ことであり、日本語が古代から連続性を保って日本列島において形成
されてきたことも明白なので、我々は、暗黙の裡に日本語を日本列島
独自の言語であることを前提としてしまうが、古代については、
回顧的に現在の日本語と連続性を保っていると認知することのできる、
独特の言葉の用法が、日本列島に住む人々の間で生まれたのかすら
確かなことではない。私自身もそのようなことについて、これまで
意識することはなかったが、江戸時代までの日本の学者にとっては、
それを自問することを迫られることの方が当たり前であると感じられる
問題だったのでしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/太伯・虞仲
>イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、神武天皇は
>太伯の2番目の弟である季歴(虞仲と季歴を混同したものか)の第6代の
>子孫であるとしている。
0300考える名無しさん
垢版 |
2019/08/02(金) 01:04:00.760
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョアン・ロドリゲス

ロドリゲスは、日本語能力を買われ、通訳として、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ
とする支配者との交渉に係わっただけでなく、イエズス会においてとくに高位の
ものに許された最終誓願をも立てた修道士であり、日本管区の経営にもふかく
係わった。また、その随一の日本語能力から文法家としても重要な著作を残している。
0301考える名無しさん
垢版 |
2019/08/02(金) 01:11:13.950
このような問題意識がすっかり忘れ去られること自体が、
我々が常に歴史修正主義を生きていることを明らかにしているのです。
03021
垢版 |
2019/08/02(金) 17:50:14.510
なるほど。非常に意義深い研究だと思います。
今後も続けてください。
ただ、スレッドが一つの傾向で埋まってしまうので、後々ツリー型掲示板などが搭載されているブログ
などに移転することも考えようかなと思います。
0303考える名無しさん
垢版 |
2019/08/02(金) 18:37:50.760
安心してください。スレを占拠するつもりはありません。
当分の間、書き込みは自粛しますので、ご自由にどうぞ。
0304
垢版 |
2019/08/03(土) 07:45:17.650
ある程度まとまったらネット書籍にしてもよいかもしれないですね。

私は最近アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読んでいる。別にスレッドを立てたのでそちらを参照してもらってもよいが、あちらは読書会的なスレッドとして、こちらでは哲学的な考察を書き込もうと思います。
0305
垢版 |
2019/08/03(土) 07:51:25.980
上巻の10章まで読んだが、ニコマコス倫理学の趣旨は善(アガトン)の研究であり、善の究極目的は幸福であると言う。
そして、真の幸福とは運命や外的条件に左右されるものではなく、卓越性(アレテー)を発揮して生きることだと言う。
0307
垢版 |
2019/08/03(土) 19:45:03.520
「卓越性に基づく活動が存在する場合にあっては、人は働いていることが必要であり、それもよく働いていることが必要であろう」(『ニコマコス倫理学』1巻8章)

この辺りの記述もヘーゲルを想起させますね。
例えば、サッカーの才能が有るだけでは幸福ではなく、実際にサッカーをすると言う活動を通してそのような本性を持った人は快適さを感じ、幸福を享受すると言うことになります。
0308
垢版 |
2019/08/04(日) 08:34:09.410
アリストテレスが言う卓越性を発揮させるとは、現代的な意味で「個性を伸ばす」とか「得意なことをやる」と言うことかとも思ったが、
その後の論述を見ると、「人間としての卓越性」を意味しているようだ。つまり「勇気」とか「節制」、「寛容」のような一般的な美徳のことである。
0309
垢版 |
2019/08/04(日) 13:37:56.680
確かに、犬や牛、ノミや植物に、「勇気」や「寛容」「節制」があるのかと言えば、微妙だろう。
ハイデガーが分析するように、人間(現存在)は他の動物と違って死を先駆し得る存在だからこそ、それらの美徳が宿る面もあると思う。しかし、そのような一般的な美徳を備え、発揮し、活動することが、幸福の本質と言うことは出来るのだろうか?
0310
垢版 |
2019/08/06(火) 06:49:57.820
ニコマコス倫理学で展開されるアリストテレスの人間の分析はカントの実践理性批判にも先行する仕事だろうと思う。

アリストテレスは二巻で美徳の分析をしている。そして中庸こそが最善と言う結論を出しているが自分でも言っているように中庸をとらえるのは難しい。
例えば、怒るべき時に怒らないのは臆病だったり無気力だったりするが、常に怒っているのはただの「怒りんぼ」だし、度が過ぎれば身を滅ぼす。適時適切に怒るならば義侠とか義人とされる。
しかし、右翼から見ると中庸は左翼に見えるし、左翼から見ると右翼に見えるし、潔癖な人から見ると中庸はズボラに見える。
まこと中庸を取るのは難しい。
そんなこともあってか中世哲学では、アリストテレス的な自力思想から、「イエス・キリストを信じれば全ての美徳が備わり、適切な時に適切に発揮される」と言う絶対他力思想に変化した。(ルター『キリスト者の自由』参照)
0311考える名無しさん
垢版 |
2019/08/06(火) 07:33:54.060
さて、現象学だが、「善とは幸福である」「幸福と言う状態を作り出すのは卓越性に基づく活動である」「卓越性とは中庸の美徳である」
と言うアリストテレスの主張を一端エポケーして、実践倫理について自分なりに考えてみよう。
0312
垢版 |
2019/08/06(火) 07:48:17.740
アリストテレスやカント、ハイデガーの哲学が具体的な実践生活で役に立つかどうかの検証でもある。

例えば、善について、日常生活を鑑みれば、家族や同僚、隣人の間でもしょっちゅう「善の対立」があることが見て取れる。
0313
垢版 |
2019/08/06(火) 12:43:17.060
韓国と日本の政治対立も結局は「善の対立」であり、韓国は善いことだと思って慰安婦像を設置しているのだし、日本も善いことだと思って韓国への貿易規制を発動したのだろう。
0315
垢版 |
2019/08/06(火) 18:16:09.080
実際は善の対立と言うよりは、何も考えず感情的に反応しただけといった方が正確かもしれない。
行為に置いて「選択」が成立するには思量することが必要になる。
0316
垢版 |
2019/08/14(水) 08:26:24.590
以前は現象学を用いて「オカルト」を研究シテみたいというのがあったんだよね。
例えば、スピリチュアリズムの文脈で、「あの世」と言うのは夢の世界であるという言明がある。肉体が滅ぶと意識だけになるので、罪悪感が強い人生を送ると潜在意識が「無間地獄」のような世界を作るし、晴れやかな善い人生を送ると「極楽」に行く。
死んだ人も、意識だけになって精神世界に存在していると。
この言明が正しいのかどうか現象学で探求することは出来るのだろうか?
0317考える名無しさん
垢版 |
2019/08/14(水) 15:25:14.360
それが正しいのかどうかより、なぜそれを正しいと思ったのかという観点からなら認められると思う。
つまり、なぜ「あの世」が存在すると思ったのかと。そして何を意識したから「あの世」があると思ったのかと。
03181
垢版 |
2019/08/18(日) 11:45:37.230
>>137
一つには、「夢」の世界が、余りにも、荘厳であったり、壮大緻密なものであると
その中の幾つかは「私」の「脳みそ」が創造した創作物とは思えないものであるという感じがした。
瞬時に、行ったことも無いような「古い街並み」などを空想とは言え、描けるだろうか?

或いは「あの世があってほしい」という有限な存在者としての自分の願望が投影されているのかもしれない。

正確には「あの世があるかも」であり、「あの世がある」と言い切れるほどの確信は全くない。
0319
垢版 |
2019/08/18(日) 11:57:55.460
アリストテレスの話に戻ると、アリストテレスは「善とは幸福である」と述べる。
これは当たり前といえば当たり前だが、この「当たり前」が歴史的にみると、そうそう当たり前とは言えないんだよね。

というのも、現代人でも「会社の発展のためには自分を犠牲にするのは当たり前」という観念は強いし、一昔前は「国家のために死ぬのは当たり前」
であった。「善(アガトン)の目的は幸福である」という命題は、むしろ「当たり前すぎて斬新」という面がある。
多くの地域では「神の為に働くのが善である。主君のために働くのが善である」という命題の方が普通で、善の目的を幸福としたのは当時としても特異な言説であった面はあるかもしれない。
ただ、アリストテレスが、この後、ポリスの善と個人の善の一致や不一致についてどのように考えているか、冷静に見ていく必要がある。
現在のところ、アリストテレスは「善の目的は『幸福』」であるといっている。
意図的になのか何なのか「個人の幸福」とも「ポリスの幸福」とも言っておらず、ただ「幸福」とだけ言っている。
0320
垢版 |
2019/08/18(日) 12:05:31.130
また、近代においては「労働」の価値が余りにも過大に評価されすぎているという面もある。
アーレントが言うように、古代や中世では、「活動」や「仕事」の価値の方が上位であった。

現代でも、労働は「最高善」である様相を見せている。
「法事」であっても「給料をもらってするシゴト(労働)」が優先されるし、日々の労働よりも「遊び」を優先すれば白眼視どころか
罪に問われることもあるだろう。
その意味では、アリストテレスの言う「善の目的は幸福である」というテーゼは、そんな現代であればこそ、破壊的な威力をもたらす面がある。
0321
垢版 |
2019/09/03(火) 12:02:48.950
再び現象学自体の考察に戻る。

現象学は、何故そう思うかの確信の構造を問う考え方である。
0322考える名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 14:18:09.760
>文化庁のウェブサイトに記述がありました。
>もとは、邦楽(義太夫節)の聴かせどころを指した言葉なのだそうです。
>それが、最近では初めの部分という意味で捉えている人が増えているそうです。

文化庁w
言葉を表現としてとらえていないから、こういうトンチンカンで馬鹿なことを
平然と言ってのけるハメになる。「さはり」はイントロなんだよ。なぜなら、
「差障り」の「障り」と派生関係(どちらが先であるにせよ)、「さ(障)へ」
が、進行を妨害するように何かを「(間隙に)差し込む≒導入する≒introduce」
ことを意味しているからだ。何かの冒頭ではなく、中間に「導入」された
としても「イントロ」は「イントロ」だ。

イントロ=導入部分=先頭という「定義」から理解を押し付けようとするから、
「さはり」が「イントロ」ではないなどというトンチンカンな非常識を
押し付けることになる。
0323考える名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 14:39:16.760
派生関係(どちらが先であるにせよ) ×
派生関係(どちらが先であるにせよ)にある ○
0324考える名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 14:52:29.030
もう9月か
早く仕事決めないと・・・

こんなゴミスレにずっといる羽目になる
0325考える名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 16:00:09.010
「さし・さはる」の「さし」、つまり、「さす」は冗長性によって
「さはる」という表現の意図を明確にするために付け加えられている
と考えることができる。

さ・く
さ・す
さ・へ
さ・はり(さ・ふ+り)
0326考える名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 20:26:07.890
ここで、「さし・さはる」の「さし」が「さはる」という表現の意図を
明確にするために付け加えられた冗長な要素であることを認識すると、
ただちに、「さしさは(差障)る」という表現がさらに、「ささ(支)へ」
という表現にも似ていることに気付く。

岩波古語辞典では、「ささ(支)へ」を「さ(指)し」+「あ(合)へ」の
短縮形として説明しているが、むしろ、「さし」+「さ(障)へ」と
理解する方が自然ではないのか。実際、「ささへ」から派生した
「ささはり」という表現も存在し、「さまたげられる」ことを意味
している(岩波古語辞典にもそう記載されている)。

そのように解釈した場合、「ささ(支)へ」は、本来的には、「手を
差し出すことによってさらに動くのを妨げる」ことを表現していた
ことになるだろう。
03271
垢版 |
2019/09/05(木) 07:26:57.070
ロラン・バルトはフッサールの間主観性からヒントを得て「間テキスト性」を主張したらしいですが、
実際「チラシの裏への書き込み」だと本当の落書きにしかならないんだよね。
だから匿名掲示板であっても、読者がいる場所でこそ「思想」は生まれる。
ところで、私は大学時代「半引きこもり」のような体験をしたことがあった。
地方から上京して大学生活を送っていたのだが、どうしても体が動かない。
あらゆる属性にかからわず、自分で自分をコントロールしたいという意思が働いているのだが、実際は体も心も動かない。
しかし、大学にだけは行けるんだよね。
逆に言うと、大学にしかいけない。
これも、間身体性というか間社会性のようなものが働いていたのではないかと思う。
0328考える名無しさん
垢版 |
2019/09/05(木) 08:04:09.260
「チラシの裏への書き込み」w
両面印刷が普及していなかった世代の人かな?
0329
垢版 |
2019/09/05(木) 12:29:25.560
そんなところに突っ込まれるとはw
勿論、比喩表現だけど、「間5ちゃん性」というものもあるのかもしれない。
我々は、我々が存在している「場」の影響を受けるし、何かを為そうとするときに「場」に飛び込んで行かなくてはならない。
ボクシングのチャンピオンになりたければ、「稽古場」に行かなくてはならないし、「プロのリング」に立たなくては成らない。
そして「稽古場」から個体に働きかける逆側の力もある。
と、同時に場を生み出しているものが、「志向性」でもあったりするわけだ。
この関係について分析してみることは有意義かもしれない。
「チラシの裏」(メモ帳とか便所の落書きでも良いが)はチラシの裏に書き込むこと自体が目的ではなく、読者を想定している。
そう言う意味では5ちゃんねる掲示板とチラシの裏では同じ機能を持たせること自体は可能である。
0330考える名無しさん
垢版 |
2019/09/05(木) 13:31:08.210
さ・す
ささ・る
ささ
「さ」には、細く、狭く入り込むイメージがある
春と夏の間に入り込んだ月だから、「さ・つき(五月)」と言うのだろうか
0331シャープですね
垢版 |
2019/09/05(木) 13:33:09.400
大辞林 第三版の解説
さとい【聡い・敏い】
( 形 ) [文] ク さと・し
〔「悟る」と同源〕
@ 感覚が鋭い。敏感である。 「耳が−・い」
A その分野にたけている。 「利に−・い」
B 理解が早い。明敏である。 「世に知らず−・う賢くおはすれば/源氏 桐壺」
0332
垢版 |
2019/09/13(金) 08:04:03.760
例えば、「歴史を忘れた民族に未来は無い!安部は滅べ!」と絶叫する韓国のおばあさんと
「韓国は日本への恩義も忘れて好き勝手ばかり言うな」とヘイトスピーチを繰り返す日本の右翼などは
決定的な現実認識の対立がある訳です。
これを現象学的に調停することは可能であろうか。
お互いに現象学者であればそれは可能であろう。
それぞれの志向性が独特の現実認識を生み出しているからである。
しかし、「人は必ず現象学者でなくてはならない」という法律も無いので、「信念対立」は永遠に続いていくわけです。
0333
垢版 |
2019/09/13(金) 11:26:20.260
アリストテレスの話に戻ると、彼は、純粋知性的な活動が人間の卓越性であり、究極の幸福であると考えていたようです。
中庸とか勇気や温和の徳などは、社会生活を滞りなく行い、観照的な生活を送るための次善の準備的な能力であるかのうな位置付けでしょうか。
0334学術
垢版 |
2019/09/13(金) 12:38:06.020
人や人間が劣等だからコンプレックスが補償されて克服して形態が変わり、能力が上がるチャンスがあるから、人間がまだ奴隷制度の中で下級の出だしなことを
忘れているアリストテレスぐらいからおかしい。サイズも動きも。
0335学術
垢版 |
2019/09/13(金) 12:38:51.140
反抗すると反乱軍に配属され全滅しないような軍の奴隷制度がない国はおかしい。
0336学術
垢版 |
2019/09/13(金) 12:39:26.400
ソクラテスは失言をしていないだろう。プラトンは筆を誤ったか。
0337学術
垢版 |
2019/09/13(金) 12:40:50.910
自分をすごいと思う自我が無駄でとにかく相手や他者に驚いて、上位に見てびっくりするのがわりに
弁証法的知覚にあうだろう。
0338考える名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 13:03:35.160
学術は

  | ̄ ̄ ̄|  ___|___          ___   \
  |      |     /.|ヽ    .   __     |_|   |  
  |───|   / | \     /|  \   |_|  | |  \
  |      | ./   .|   \   /  /    l ._|_|_ | |
  |___|     ̄| ̄    ヽ/     丿.     |    \_ノ
0340喋喋(てふてふ)とは
垢版 |
2019/09/22(日) 00:42:12.660
デジタル大辞泉 - 喋喋しいの用語解説 - [形][文]てふてふ・し[シク]1 口数が多い。
https://gfycat.com/aliveentirebarnacle
0341考える名無しさん
垢版 |
2019/09/22(日) 08:20:20.360
駆け込み需要さえ無い、という現象

18 :名無しさんの主張 :2019/09/22(日) 00:30:53.58 ID:GVDuA7+Y
しかし消費税増税という一大イベントに駆け込み需要すら発生しないのマジでやばいな。
実は駆け込み需要なんてある種のお祭りだからな、どうせ一生分貯められるわけじゃなし、ちょっとした抵抗気分と欲しい物を買う言い訳に過ぎんからな。
だがもう今の日本人にはそんな祭りを踊る元気もないらしい。
0342考える名無しさん
垢版 |
2019/09/22(日) 09:47:45.130
駆け込みで本2冊注文した
英国から1冊、フランスから1冊、送料込で2000円未満だから
日本の書店で買うよりずっと安い
0343考える名無しさん
垢版 |
2019/09/22(日) 23:46:03.230
343じゃろろ?
0344考える名無しさん
垢版 |
2019/09/23(月) 03:25:23.410
864 :学術 :2019/09/22(日) 08:58:03.56 ID:bogyRhxh
宗教や信仰をするきっかけが大事で僕はほぼ偶然導かれた。

905 :学術 :2019/09/22(日) 11:28:53.89 ID:bogyRhxh
卑弥呼の霊術の方が宗教より例えば日本で優れていないか?

906 :学術 :2019/09/22(日) 11:35:57.48 ID:bogyRhxh
ついでに言うと三蔵の妖術、源氏物語出典の幻術などの下が宗教ではないか。

907 :学術 :2019/09/22(日) 11:37:00.81 ID:bogyRhxh
陰極太極で幻妖なり。陰陽師も使えてる宰相安倍な。



907 :学術 :2019/09/22(日) 11:45:03.40 ID:bogyRhxh
キリストは霊を術で紡いでいなくて身体的だよな。
0346考える名無しさん
垢版 |
2019/09/23(月) 14:07:47.960
508 :学術 :2019/09/23(月) 13:46:37.75 ID:QG/8gbUx
宗教家も常にピークじゃないから墓から出てきたレコードがこえれるかだよ。
しかしな反省でホーリーな時だけを刻んでいる敗北自覚型はそれなりに旧約聖書より新しい時代だ。
0347考える名無しさん
垢版 |
2019/09/24(火) 06:40:03.890
130 :学術 :2019/09/23(月) 17:53:29.87 ID:QG/8gbUx
神と悪魔の相性は?アクマを殺して平気なの?


131 :神も仏も名無しさん :2019/09/23(月) 17:56:49.80 ID:Swq3AkBw
>>130

あんたは病気になったら病院に行かないのか?

それと同じ。
0348考える名無しさん
垢版 |
2019/09/24(火) 17:41:30.400
30 :学術 :2019/09/24(火) 17:08:26.00
サンガリアコーヒーのほうがユンガリアンとかへ―ゲリアンよりいいのに。
0349考える名無しさん
垢版 |
2019/09/27(金) 09:59:26.130
「のっけから」という表現があるが、「のっけ」の語源は不明であると
されているようである。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%91-597028
>「のっけに(仰━)」と同語源とする説もある。

とのことだが、「仰」はこの場合、当て字だろう。中国語でも、
「仰」は、「の」の発音とは無関係のようである。
その一方で、「のっけから」という表現は、「立ち上がりから」を
意味すると考えた場合、「隆」という漢字にうまく対応しているように
感じられる。「隆」が中国語では「lōng」と発音され、この「lōng」
が日本語の「の」の発音の用法に対応すると考えられることは、
他のどこかで既に述べたとおりである。
0350
垢版 |
2019/10/05(土) 14:43:27.430
アリストテレス哲学とプラトン哲学の対立というのは実に根深いものがあり、
その後の2500年の西洋思想の歴史に夥しい影響をもたらしてきたように思われる。
そして、実際は、ソクラテス以前の初期ギリシア思想(イオニア自然哲学)において既に
この思想の対立の傾向は存在していた。
それがはっきりとした形で現れたのが、プラトンとアリストテレスの師弟の対立である。
理想主義と現実主義。実在論と唯名論。実存論と存在論。
0351
垢版 |
2019/10/05(土) 14:58:40.420
参考文献リスト
日下部吉信『ギリシア哲学30講』
八木雄二『神を哲学した中世』
竹田青嗣『カント純粋理性批判入門』

西洋哲学の俯瞰的な視点を持つには日下部氏の著作がよいと思う。
日下部氏はソクラテス・プラトン思想の徹底的な批判者でもある。
一方で、八木氏はこう言った所謂「現前性の形而上学」への批判を受け入れつつも
なおかつ、プラトン思想こそが王道の哲学であると述べる。
竹田氏もカントを論じつつカント的な理念の哲学を擁護する立場を打ち出していると思われる。
微妙に、或いは決定的に立場が違う優れた論者たちの議論を俯瞰できるのは、非常に楽しい。
0352学術
垢版 |
2019/10/05(土) 19:19:15.560
純粋理性批判はいいものだな。司書から勧められた。専門が文学で、月の文化史をいま
読書中だ。月と六ベンツという筆名で成績が世界トップだったよ添削ね。
0353学術
垢版 |
2019/10/05(土) 19:24:17.170
Z会ね。最高神官最高法官に昇格した。図書券も有益。
0354学術
垢版 |
2019/10/05(土) 19:25:37.370
ゼット会は150点満点、駿台ハイレヴェル模試は200点満点。板の点数のシステムも変えないと149/150
とかいろいろに。
0355学術
垢版 |
2019/10/05(土) 19:26:05.720
模試でも国内トップだったよ。マチウさんもそのくちだ。
0356
垢版 |
2019/10/18(金) 09:23:29.380
アリストテレスは師匠のプラトンがイディアを説いたのに対して質量と形相が一体であることを強調したようだが、その後の自然科学は質量と形相の分析が主になり、目的因や始動因については忘れ去られてしまった。
現代科学でも、素粒子の性質や構造、基体を調査するが「何故、それが在るか」と言う事に関しては考察することがない。
言わば始動因として神々の力や目的因としてのこの宇宙全体のプロジェクト(究極善)についての考察が完全に抜け落ちているのである。
0357学術
垢版 |
2019/10/18(金) 09:28:20.480
生まれるときは受動的になぜを問うが生きて恋に死ぬと能動性でその解を解くだろう。
0358学術
垢版 |
2019/10/18(金) 09:30:58.780
既にあるものを問うより恋すること。不条理に生き死は完成する。
0359
垢版 |
2019/10/18(金) 09:33:45.150
ところでこのアリストテレス以来の形而上学とインド哲学や仏教哲学を総合することは可能なのだろうか?
現代では古今東西の様々な思想が溢れている現状で、東洋哲学の絶対無の思想と西洋の存在の哲学が一人の人間の中に同居してしまっていることが珍しくはないと思う。

つまり、アリストテレスvs釈迦vs私と言う構図である。
0360
垢版 |
2019/10/18(金) 09:33:45.490
ところでこのアリストテレス以来の形而上学とインド哲学や仏教哲学を総合することは可能なのだろうか?
現代では古今東西の様々な思想が溢れている現状で、東洋哲学の絶対無の思想と西洋の存在の哲学が一人の人間の中に同居してしまっていることが珍しくはないと思う。

つまり、アリストテレスvs釈迦vs私と言う構図である。
0364考える名無しさん
垢版 |
2019/10/18(金) 13:19:41.050
ふとしたことから、ハイネの回想録のようなものを読んでみようと
思って、数百円で海外の書店から買ったんだが、地元の図書館で
ハイネ著の書籍を検索してみたら、岩波文庫の詩集だけしか
蔵書がなくて驚いた。自治体の図書館とはいえ、結構、いろいろと
揃えている図書館なのにどうしてだろう。
0365学術
垢版 |
2019/10/18(金) 14:41:02.180
貧乏人は空母も軍事基地施設も宇宙船(木馬)も持っていないらしいな。
0366学術
垢版 |
2019/10/18(金) 14:51:33.610
ロマンチストはなあ。
0368考える名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 12:45:42.930
おすすめの本教えれ。
0369考える名無しさん
垢版 |
2020/04/18(土) 13:53:20.870
おすすめというより入手したい本。電子書籍はいらない。

Come Giuda: La gente comune e i giochi dell'economia
all'inizio dell'epoca moderna (Saggi Vol. 732) (Italian Edition)
Giacomo Todeschini
0370考える名無しさん
垢版 |
2020/04/23(木) 15:50:24.880
      ,.r''-'''""'''ー-、_
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0371考える名無しさん
垢版 |
2020/06/28(日) 13:26:33.580
現象学的還元
0372考える名無しさん
垢版 |
2020/11/22(日) 12:07:55.850
みんなで現象学的還元のブレーンストーミングをしよう
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