哲学することが、「自己との対話」であるとすれば、それはとりもなおさず、 「自己をもてなすこと」/《l'entretien de soi-même》でもあるわけだ。 「自己をもてなす」とは、 「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」 ことであり、であるとするならば、哲学をすること自体が、「己(な)を 汝(な)として主(あるじ)する」ことによる「な(己/汝)」の関係性、 英語で表現するなら、"The patronizing we"の生成であるとも言うこと ができるだろう。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nosism >The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you, suggesting that the addressee is not alone in their situation, that "I am with you, we are in this together." <
>しかし、場合によっては、持続する愛なるものも世の中には生じうる。 二人の人間相互の所有願望が、新たな欲求と所有欲に場所を空け、 彼らを超えた理想を目指す共通の気高い渇望に道を譲るようなことも ありうるのだ。―しかし、このような愛を知っている者があるだろうか? このような愛を経験した者があるだろうか。その真の名は、友情である。< ニーチェは、『喜ばしき知恵』、(pp.82-85) 0105考える名無しさん2021/12/21(火) 23:46:47.290 誤:「『みずから』の『もてなし』」 正:「『みづから』の『もてなし』」 0106考える名無しさん2021/12/23(木) 09:17:16.440 「できることをしようとする」ことが、自然と、 「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/ 「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」 ことになる。 0107天のめぐ(恵)みとは2021/12/23(木) 10:36:52.520 みづから(身づ柄/自ら)に「できることをしようとする」ことにより、自然と 《La plénitude sans aucun manque de ce qui est à venir à travers soi-même》 がもたらされる。 0108考える名無しさん2021/12/23(木) 10:38:38.030 いつものとおり、自己流の仏語作文なので、フランス語として通用するかどうかは知らないが 0109考える名無しさん2021/12/23(木) 10:41:28.900 ここで、《manque》は、日本語の呼びかけの「〜を」に対応することに 留意しよう。つまり、ここで、《sans aucun manque》とは、「を(惜)しみ」 を生じることがないことを表現している。 0110ohne Schonung2021/12/23(木) 10:49:27.460 こちらは他人の論文からのニーチェの言葉の引用だが、「当たりをつけて」検索すると こういう表現がすぐにヒットして見つかる。
https://edoc.hu-berlin.de/bitstream/handle/18452/17760/lee.pdf?sequence=1&isAllowed=y >In Nietzsches Worten: „Das Leben selbst [∙∙∙] (ist – S.B.L.) ein Handwerk [∙∙∙], das von Grund auf und stätig gelernt und ohne Schonung geübt werden muss“.< 0111考える名無しさん2021/12/23(木) 10:52:14.010 このようなニーチェの表現は、ゲーテを直接に引き継いでいる印象を受ける。 0112考える名無しさん2021/12/23(木) 13:49:35.280 「できることをする」というのはなにも、何か積極的に行動を起こすこと だけを指すわけではない。なぜなら、静かに「不在が訪れるのを待つ」 ことも、「できることをする」ことだからだ。
みづから(身づ柄/自ら)を通して「訪れる不在の満ち渡る豊かさ」を 感じることがなければ、平穏の豊かさというものは存在し得ないだろう。 0113考える名無しさん2021/12/23(木) 13:59:39.200 むしろ、「訪れる不在の満ち渡る豊かさ」を「永続的な調和の実現」と 錯覚してしまうことが、人々をニヒリズムに導こうとする禁欲主義的 な教への正当化として利用されるのだろうと思う。 0114哲学はなぜみずからをもてなす必要があるのか2021/12/27(月) 09:57:19.590 >The hearing ear is always found close to the speaking tongue, and no genius can long or often utter any thing which is not invited and gladly entertained by men around him.<
"The Selected Writings of Ralph Waldo Emerson", p.547 0115考える名無しさん2021/12/29(水) 08:34:11.460 「原存在」&「呼応」というキーワードで検索してヒットしたハイデガー からの引用で、論文自体は読んでいないが、このようなハイデガーの表現 を見ても、いかに日本語が哲学をするのに有利な言語であるかがよく 分かるはずである。