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社会思想史
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0001考える名無しさん
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2020/04/15(水) 08:47:19.890
哲学者たちは、天下国家を語ってきた
0071考える名無しさん
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2020/12/24(木) 20:49:12.070
democracyは手続きに過ぎないという見方もある。
民主政とか民主制という訳語を取る人の見方がそう。
0072考える名無しさん
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2020/12/26(土) 22:43:15.070
思想史の「史」が大事。
0073考える名無しさん
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2020/12/30(水) 17:48:57.400
学部の卒論を書いた時、発表会で
「我流の思想史は後で痛い目に遭いますよ」と言っていた教授がいたが
その人の専攻はもともと哲学だったので、我流が哲学では許されたりしてたのかな
とか思った。
0074考える名無しさん
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2021/02/16(火) 05:34:08.730
カール・マルクスも忘れ去られていきそうだな

ジャン・ポール・サルトル程度の存在感になりそう
0075考える名無しさん
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2021/03/13(土) 11:56:36.080
サルトル並み?

さすがにそれはないだろ
0076学術@死狂廃神龍騎禅師
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2021/03/13(土) 12:38:19.140
戦争で決着付けるんだったらサルトルが負けるだろう。
0078考える名無しさん
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2021/03/14(日) 07:41:49.490
思想史など、我流で書くのが普通だろ

ヘーゲルなんか、その極みだ
0079考える名無しさん
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2021/03/14(日) 08:05:39.790
サルトル式の甘い理想論は政治よりかむしろ学校教育の方に浸透していると強く感じる
昔は、才能のない馬鹿には夢見ないで現実みろと言い放ったし実際そのほうが本人のためだろう

どう頑張ってもブスがファッションモデルになるわけないし親がグズなのに
スポーツや勉強で成功する訳ない
0080考える名無しさん
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2021/03/30(火) 09:24:57.560
マルクス主義とは、マルクスとエンゲルスによって体系化された、社会主義的思想体系です。彼らが主張したかったことは、ざっくり説明すると下記の通りです。

資本家が独占する資本を、社会の共有財産とし、資本をいたずらに拡大する賃金労働を廃止し、協同、協力によって運営する社会を目指す。

我々は日々労働をして生活をしていると思いますが、貧富の差を全く感じずに生活している人は少ないでしょう。
これらは、資本家が富を独占することによって引き起こされていると、マルクスは考えました。

資本家ばかりが、資本を拡大してお金持ちになるのに、労働者は一向に豊かにならない当時の社会を見たマルクスは資本主義社会の限界を予見しました。
そこで、資本家の資本を社会に帰属させて分配するべきだと考えたわけです。
0082考える名無しさん
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2021/03/30(火) 15:39:40.160
貧富の格差が広がった

いまこそマルクスを読み返す
0083考える名無しさん
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2021/04/02(金) 09:49:47.050
もはや現代のアメリカは、革命を起こすしかない
0084考える名無しさん
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2021/04/20(火) 06:16:46.570
これほど貧富の格差が広がった社会

もはや持続困難なのではなかろうか?
0085考える名無しさん
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2021/04/20(火) 12:49:13.730
20世紀共産革命の失敗で既存の経済システムを覆すことはまず不可能だと証明されてしまったからな
誰が政治を担ったとしても貧富の差は消しされない、格差は経済社会の本質だから
0086考える名無しさん
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2021/05/30(日) 01:59:27.890
マルクス主義は終わったな
0087考える名無しさん
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2021/06/04(金) 16:07:05.270
まだだ、まだ終わらんよ
0088考える名無しさん
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2021/06/26(土) 06:47:35.380
極端な貧富の差

しかも、ますます急拡大している

これが人類にとって、いまや最大の課題
0089学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍師悪魔召喚居士
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2021/06/26(土) 09:08:02.820
覗きたかり性暴力を除けば、貧富の差はほぼない。
0090考える名無しさん
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2021/07/31(土) 05:49:48.920
ヘーゲルによると、市民社会は国家や家族と違って、普遍性と直接に統一しない倫理形 態であり、市民社会において普遍性は「特殊的なもののうちにただ映現するもの」 である。

つまり、市民社会は、倫理態の分裂態として、個々人の特殊的行動を通して普遍 性を間接的に表現する形態です。
0091考える名無しさん
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2021/10/15(金) 16:40:16.530
植村邦彦は働き者だ。
0092考える名無しさん
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2021/10/15(金) 17:39:50.660
日本では政治思想学会と社会思想史学会があって両方に所属する研究者もいるが、
前者の設立年度の方が遅いんだな。
0093倭人 ◆ECDFPE0sWw
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2021/12/19(日) 06:13:29.810
自然状態が理想

社会状態は堕落

文明が人類を不幸にした

・・・ルソーは、このように社会の誕生を悪の起源と見なした
0094倭人 ◆ECDFPE0sWw
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2021/12/19(日) 06:14:04.980
東浩紀は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、
「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。
これは社会思想家としては稀有な立場である。
ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった」
と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。
0095倭人 ◆ECDFPE0sWw
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2021/12/19(日) 06:16:07.480
ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。

……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、
少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、
おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、
自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。
彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。

……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。
そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。
種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。

— ルソー、『人間不平等起源論』、本田喜代治、平岡昇共訳、岩波文庫、1972年、80頁。
0097◆PTn2SERsGc
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2021/12/19(日) 08:31:38.890
0098考える名無しさん
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2021/12/19(日) 10:13:51.500
日本の思想哲学業界が、いくら海外の哲学や思想をさかんに紹介し、
それについて議論しつづけたところで、それらの言説と日本語で
考えることが分離している限り、哲学をしていることにはならない。
「〜の議論を援用する」などというのは、思考停止の正当化と
なっているだけである。

例えば、私がわざわざそれに目を通すことはほとんどないが、ここ
数十年の間に「レヴィナスの他者論」や「デリダの歓待論」という
ような類の題目を掲げた言説がどれほど多く展開されてきたこと
だろう。この場合、「レヴィナスの他者論」や「デリダの歓待論」
について日本語でさかんに語られ、多くの言葉が費やされてきた
ことは、日本語で「他者」や「歓待」についての哲学的な議論が
深められてきたことになるのだろうか。むしろ、そこで典型的に
見られるのは、輸入言説と日常的な日本語の用法の奇妙な分離
ではないだろうか。
0099考える名無しさん
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2021/12/19(日) 10:30:11.820
例えば、日本語で「他者を歓待する」ことの代表的/典型的な事例とされる
のは、「訪れる客を『もてなす』」ことだろう。つまり、日本語では
「もてなす」という表現が、「歓待する」ことや「厚遇する」ことを
意味するものとして用いられ、日本語の「もてなす」≒フランス語の
《entretenir》であることが分かる。「もて・なす」の「もて」は、
「もて・はや(囃)す」の「もて」と共通であるが、《entre・tenir》
の《tenir》とちょうど対応することからも分かるとおり、この「もつ」
「も(持)つ」の派生形である。さらに、「も(持)つ」/《tenir》という
表現の用法からすぐに気づくとおり、「も(持)つ」/《tenir》が表現
しているのは、「たも(保)つ/た(手)も(持)つ」こと、「持続する」こと
である。したがって、「もて・なす」は、「(良好な)関係性をたも(保)つ/
持続させる」ようにする行為であって、そのままフランス語の《entretenir》
に表現の形態としても対応していることが分かる。
0100考える名無しさん
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2021/12/19(日) 10:49:01.680
私は、既に述べたとおり、日本語で「レヴィナスの他者論」や「デリダの歓待論」
について書かれたものに目を通すことすらほとんどないため、このようなこと
については、それらの議論においても多く言葉が費やされているのかもしれない。
だが、私が、輸入言説と日本語で哲学をすることの間の分離を強く感じさせられる
のは、そこではない。

「もて・なす」、「もて・はやす」が、「厚遇する」ことや「歓待する」こと
を意味し、そこにフランス語の《entretenir》との対応関係を見るなら、
そのまま直ちに、「モテ」、「非モテ」について議論することは、
「厚遇される/歓待される」こと、「厚遇されない/歓待されない」こと
について議論することになることが理解できるはずだろう。であるとするなら、
「モテ/非モテ」について思想哲学業界の人々が語るとすれば、
「レヴィナスの他者論」、「デリダの歓待論」についての議論から得られた
知見を援用する(そのようなことが実際にどれだけなされているのか、
いないのかすら私は知らないが)などということではなく、それがそのまま
日本語で「他者論」や「歓待論」について哲学することになっていなければ、
輸入思想について語る言説と日本語で考えることの間に奇妙な分離が
生じていると言わざるを得ないだろう。
0101考える名無しさん
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2021/12/19(日) 11:10:26.390
むしろ、逆の指摘をすべきなのだろう。
「他者論」や「歓待論」について思想哲学的に議論するなら、
それが、日本語における「モテ/非モテ」に直ちに結びつかないなら、
思考の奇妙な分離、切断が行われていることになるのではないか。
0102考える名無しさん
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2021/12/19(日) 11:12:13.990
これはそのまま、海外でも活躍する有名人の「○○をもて・はやす」ことが
どのような行為なのか省察することにもなるはずである。
0103考える名無しさん
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2021/12/19(日) 11:14:57.540
「デリダの歓待論」について議論するなら、「『デリダをもてはやす』歓待論」
がその基礎にあるべきではないのか。
0104考える名無しさん
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2021/12/20(月) 09:03:40.440
哲学、あるいは「持続する愛」としての「『みずから』の『もてなし』」

哲学することが、「自己との対話」であるとすれば、それはとりもなおさず、
「自己をもてなすこと」/《l'entretien de soi-même》でもあるわけだ。
「自己をもてなす」とは、
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことであり、であるとするならば、哲学をすること自体が、「己(な)を
汝(な)として主(あるじ)する」ことによる「な(己/汝)」の関係性、
英語で表現するなら、"The patronizing we"の生成であるとも言うこと
ができるだろう。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nosism
>The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you,
suggesting that the addressee is not alone in their situation,
that "I am with you, we are in this together." <

「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことにおいて、「な(己/汝)」の関係性を生成しつづけ、己(おのれ)を
乗り越える。これは、いかにもニーチェ的なテーマであるようにも見える。

>しかし、場合によっては、持続する愛なるものも世の中には生じうる。
二人の人間相互の所有願望が、新たな欲求と所有欲に場所を空け、
彼らを超えた理想を目指す共通の気高い渇望に道を譲るようなことも
ありうるのだ。―しかし、このような愛を知っている者があるだろうか?
このような愛を経験した者があるだろうか。その真の名は、友情である。<
ニーチェは、『喜ばしき知恵』、(pp.82-85)
0105考える名無しさん
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2021/12/21(火) 23:46:47.290
誤:「『みずから』の『もてなし』」
正:「『みづから』の『もてなし』」
0106考える名無しさん
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2021/12/23(木) 09:17:16.440
「できることをしようとする」ことが、自然と、
「『みづから(身づ柄/自ら)』/《soi-même》を『もてなす』」こと/
「(その時々に訪れる)みづから(身づ柄/自ら)をあるじ(主/ホスト)する」
ことになる。
0107天のめぐ(恵)みとは
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2021/12/23(木) 10:36:52.520
みづから(身づ柄/自ら)に「できることをしようとする」ことにより、自然と
《La plénitude sans aucun manque de ce qui est à venir à travers soi-même》
がもたらされる。
0108考える名無しさん
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2021/12/23(木) 10:38:38.030
いつものとおり、自己流の仏語作文なので、フランス語として通用するかどうかは知らないが
0109考える名無しさん
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2021/12/23(木) 10:41:28.900
ここで、《manque》は、日本語の呼びかけの「〜を」に対応することに
留意しよう。つまり、ここで、《sans aucun manque》とは、「を(惜)しみ」
を生じることがないことを表現している。
0110ohne Schonung
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2021/12/23(木) 10:49:27.460
こちらは他人の論文からのニーチェの言葉の引用だが、「当たりをつけて」検索すると
こういう表現がすぐにヒットして見つかる。

https://edoc.hu-berlin.de/bitstream/handle/18452/17760/lee.pdf?sequence=1&;isAllowed=y
>In Nietzsches Worten: „Das Leben selbst [∙∙∙] (ist – S.B.L.) ein Handwerk
[∙∙∙], das von Grund auf und stätig gelernt und ohne Schonung geübt
werden muss“.<
0111考える名無しさん
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2021/12/23(木) 10:52:14.010
このようなニーチェの表現は、ゲーテを直接に引き継いでいる印象を受ける。
0112考える名無しさん
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2021/12/23(木) 13:49:35.280
「できることをする」というのはなにも、何か積極的に行動を起こすこと
だけを指すわけではない。なぜなら、静かに「不在が訪れるのを待つ」
ことも、「できることをする」ことだからだ。

みづから(身づ柄/自ら)を通して「訪れる不在の満ち渡る豊かさ」を
感じることがなければ、平穏の豊かさというものは存在し得ないだろう。
0113考える名無しさん
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2021/12/23(木) 13:59:39.200
むしろ、「訪れる不在の満ち渡る豊かさ」を「永続的な調和の実現」と
錯覚してしまうことが、人々をニヒリズムに導こうとする禁欲主義的
な教への正当化として利用されるのだろうと思う。
0114哲学はなぜみずからをもてなす必要があるのか
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2021/12/27(月) 09:57:19.590
>The hearing ear is always found close to the speaking tongue,
and no genius can long or often utter any thing which is not
invited and gladly entertained by men around him.<

"The Selected Writings of Ralph Waldo Emerson", p.547
0115考える名無しさん
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2021/12/29(水) 08:34:11.460
「原存在」&「呼応」というキーワードで検索してヒットしたハイデガー
からの引用で、論文自体は読んでいないが、このようなハイデガーの表現
を見ても、いかに日本語が哲学をするのに有利な言語であるかがよく
分かるはずである。

https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.php
PDF
Title ハイデガーにおける現存在の「身体性」の問題性格 ...

>ただし ハイデガが次のようにボスに告げていることにも注意してお
きたい しかし 現存在として実存する 人間は その世界の開けから
自分に語りかけてくるものへと それを聞き取るという仕方で本質的に関
係づけられていることにおいて この語りかけてくるものに向かってそれ
に対する自らのふるまい (Verhalten) でもって呼応するように つまり応
える (antworten) ように要請されているのです それも 出会ってくる
ものを自分の保護下におき その本質が展開するよう可能な限りそれを助
けるという仕方で応えることを要請されているのです [ZS, S. 292] <
0116考える名無しさん
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2021/12/29(水) 08:50:58.650
>>104
>「己(な)を汝(な)として主(あるじ)する」ことによる「な(己/汝)」
の関係性、英語で表現するなら、"The patronizing we"の生成である<
0117考える名無しさん
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2021/12/29(水) 09:52:31.740
日本語が、哲学をするのにどのように有利かと言えば、それは、
例えば、この場合、哲学的な表現としてハイデガーが用いる
「現存在」/»Dasein«という用語に縛られて考えを進めようとすると、
ただちに、哲学から思想に容易に逸れていってしまうことになるのに対して、
その表現を用いることによってハイデガーが伝へようとする関係性を
日本語で考えるなら、日常用語を用いたまま、そのまま哲学をする
ことになるからである。

その理由は明白だ。ハイデガーが、表現して伝えようとする関係性と
「現存在」/»Dasein«として概念化すると、そのことによってすぐに
関係性が名詞化されて、物象化されることにつながる。
「現存在」/»Dasein«そのものが、呼びかけとそれに対する応へ
である「呼応関係の具現化」としてしか生じ得ないはずであるのに、
「『現存在』/»Dasein«が呼びかけられ、『現存在』/»Dasein«が
その呼びかけに応える」といった類の、非本来的な二重化された
表現の方が、当たり前ものとして通用するようになってしまうのである。

日本語の表現でも、そのような非本来的な二重化された表現の方が
当たり前のものとして用いられている典型的な例がある。それは、
「う(膚)」が「さ(裂)」た「う・さぎ」が泣いてというような
エピソードがそこかしこに散りばめられた「神話」としての『古事記』
である。そのような表現法は、その解釈の鍵とともに秘密を伝授する
という意図的な目的で用いられるのでなければ、すぐに意味不明の
ものとなってしまい、哲学をするのには不向きである。
0118考える名無しさん
垢版 |
2021/12/29(水) 09:55:01.320
誤:「原存在」&「呼応」というキーワードで
正:「現存在」&「呼応」というキーワードで

「現存在」くらいデフォできちんと変換しろよと思うがw
0120考える名無しさん
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2021/12/29(水) 11:06:54.460
>>117
なによりも、日本語で考えることにより、様々な哲学者による「独自の概念化」
によって名詞化され、物象化されて、一見したところ、「ばらばら」になって
しまった哲学の議論が、日本語のごく日常的な表現法により、自然に互いに
関係づけられることになる。
0121考える名無しさん
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2021/12/29(水) 11:22:54.170
>「己(な)を汝(な)として主(あるじ)する」ことによる「な(己/汝)」
の関係性、英語で表現するなら、"The patronizing we"の生成である<

"The patronizing we"を生成することによって、みづから(身づ柄/自ら)
を「を(治/食)さめ」ることは、その都度、自らを「(立て)なほ(治/直)す
(≒"to redress")」ことでもあるのだろう。
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