心脳問題
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
意識を「ハンガーに掛けた服」に例えるなら、脳は「ハンガー」に相当する
〜アンリ・ベルクソン では自由意志に大きな開きがある。誘うのも自由じゃないし誘われるのも自由じゃないけど、不思議と誘われる方が自由な感じはするね。他者。 何が自由でいつ自由なのか。他者に選択を任せておく方が意外に自由じゃないかな? 自分で判断することが逆にいえば不自由。他者という主体に動かされているという点。他者がいないと無行動に放り出される。 誘う不自由を受け持って誘われる自由を演出すればいいよ。 決定は最後じゃないの。雰囲気気分から入って決断して決定に至る。 >>406
いや、そうじゃないんだよ
1、脳が、「手を伸ばして、目の前の饅頭をつかむ」と決定する
2、「なんだか、目の前の饅頭を食べたくなったな?」という考えが意識に浮かぶ
3、手を伸ばして、饅頭をつかむ
時系列的には、この順番になっている
それぞれ、コンマ数秒ずつの微妙なタイムラグがあるということが、脳科学の実験で明らかになっている
もしも、2→1→3という順番だったら、とても間に合わない。2と3の間に、かなりの時間差が生じることになる だが、このとき、1が意識されることはない。下手をすると、2すら意識されない。
最初から、反射的に3に至ったという解釈になることも少なくない
「饅頭たべたい」という考えが意識に浮かんでから、「手を伸ばす」という行動に移るまで、脳は絶妙なタイミングを演出している
意志とは、脳による巧妙な演出にすぎない 意志だけでなく、感情も同じだ
1、嫌なことが起きる
2、不快物質を分泌するよう、脳が神経系や内分泌系に指令を下す
3、嫌な気持ちになる
通常、人は2を意識することがない。
「嫌なことが起きたから、嫌な気持ちになった」と、ナチュラルに信じている
だが、事実はそうではない。
嫌な気持ちになったのは、嫌なことが起きるのと合わせて、脳がタイミングよく不快物質を供給したのが原因。
単に嫌なことが起きただけでは、嫌な気持ちにはならない。歯の治療をしても、麻酔をかければ痛くないのと同じだ
意志と同じく、感情というのも、脳による巧妙な演出にすぎない このように、見れば見るほど、
「心とは、脳によって演出された錯覚のようなものだ」
ということにならざるを得ない ☆宗教板での、某宗教信者との対話より☆
985 幸福の科学信者 2021/05/23(日) 08:31:43.17 ID:YG6iC+Ha
心を磨く幸福感
この地上を去って持って還れるものは、心しかないのです。
みなさんの心しかないのです。
心しか持って還れないならば、
財産も何も持って還れない、名刺も持って還れない、
心しか持って還れないならば、
その心をよくする以外に、何の方法がありますか。
何の幸福感がありますか。
それしかないのです。
『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(2)』 その大川総裁が言ってる「心」ってのは、仏教の考え方では「偽我」なんだよなあ
考えてみればいい
1、嫌なことが起きる
2、脳が神経系や内分泌系に指令を送る
3、神経系や内分泌系が、不快な気分になるホルモンを分泌する
4、嫌な気持ちになる
時系列的には、こういう順序だ。
人は、「嫌なことが起きたから、嫌な気持ちになった」と解釈する
でも、本当はそうではない。
「脳が、タイミングよく不快物質を供給したから」
それが、嫌な気持ちになった本当の原因だ
このように、「心」というものは、肉体の作用によるものが大きい。
それは、この世のものであり、あの世に持って帰れるものではない
仏教では、このように考える
それが、お釈迦さまの教え ☆信者による反論☆
1、嫌なことが起こる、この「嫌なこと」がなぜ
「嫌なこと」だと分かるか。(伝達前なのに)
2、嫌なこと、という概念を、神経はどのように
伝達するのか。(理念をどう信号に変えるのか)
3、神経から伝達された情報から、どのように
不快な気分になる物質を選択するのか。
4、不快な気分になる物質が分泌されると、なぜ、
嫌な気持ちになるのか。
(その物質が不快だと感じる主体は何か) >>415
例えば、自動運転技術を搭載した車は、障害物があれば回避行動をとります
車に搭載しているセンサーやカメラなどの機能で障害物を認識し、回避行動を指示するプログラムによって車は衝突を回避するわけです
もちろん車と人間は全く違うものですが、
車にとって走行ラインに障害物があったら嫌でしょうね
しかし、自動運転技術を搭載した車は人間のように「思考」をしないとするならば、
走行ラインに障害物があったとしても「嫌なこと」とは認識しません
障害物を認識したら回避行動をするプログラムによって車が障害物を回避するような「信号」を送るだけで、
車体は自動的に回避行動をとります
もし仮に、人間が何も考えられない、「思考」をしない生き物であったなら、
「嫌なことが起きる」とか、「嫌な気持ちになる」という認識をしない可能性があります
人間が五感によってあるものを認識した結果、
脳が神経系や内分泌系に指令を送り、
神経系や内分泌系が、不快な気分になるホルモンを分泌するだけで、
人間は「死」を回避するよう自動的に動くようにできているかもしれません >>416
なるほど!
代わりに答えてくれて、助かりますわ(笑) そうはいっても人間は考えられずにはいられない生き物です
われわれの「思考」は言語によって行われています
頭の中で、あるいは心の中で考える時に使っている言語は、
基本的に物心がつく前に習得していたものであるでしょう
自己意識が起こる以前から、人間は自動的に言語を認識し、
能動的に学習しなくても「言語」を習得します(言語能力には個人差があるでしょうが)
しかし、人間が持つ言語能力というものはDNA由来のものではありません
「言語」というものは主観的世界に初めからあるものではなく、
ある人間が生誕して外界で初めて出会う、客観的な世界に存在しているものです
(もっとも、母親のおなかの中にいる間も、ある程度の言語的刺激を無意識的に受けている可能性はあります)
高度な認識力と処理能力をもった人間という動物は、
「言語」というものを半ば自動的に習得します
そして「言語」を身につけて初めて、われわれ人間は考えることが可能になるわけです >>416
「思考をしないならー認識しない可能性」
これも「心」という言葉があるから、心を存在するものとして考えた結果、
出てきた物語で、
実際には、心を、或いは脳を持たないミミズは、日光に当たると逃げようとして動き回ります。
学者などは、これを「嫌がっている」とは認めませんが、一般的な感覚からすると、どう見ても「嫌がってる」でしょう。
西洋では、キリスト教が自然を作り物としているので、このような常識があり、
これも「言葉」として受け継がれているので、例えばカート・コヴァーンのような人でも「魚には感情がない」とか言う訳だ。
こうした「習得した言語による思考の固定化」というのは、カルトの与太など顕著だが、我々も自覚無しにこの枠の中で思考しているのは間違いないだろうね。
(^。^)西洋哲学とか、言葉遊びにしか見えないし。(笑) >>421
ミミズの場合は実際日光に当たっているわけですから、条件反射的な行動だと思います
しかし「嫌な気持ちになる」のは未来予測です
たとえば、毎日徒歩で通勤・通学しなければならない人ならば、
朝起きたときに土砂降りの雨が降っているだけで嫌な気持ちになるでしょう
この場合は土砂降りの雨自体が嫌なわけではなく、
時間が来たらその土砂降りの雨の中を歩かなければならないから嫌なわけです
言語を持たない動物は感情がないわけではなく、
人間よりも直情的なのだと思います
つまり感情の赴くまま行動をしていると思うのです >>422
因みに、「条件反射」とは後天的に学習した反射の意味です。
また、赤子が大小便をして泣くのも「未来予測」や「嫌なことを認識したから」などという事もありません。
嫌だから嫌なのです。
それは、扁桃体だか、何だかという脳の機能に因るものとされますが、
虫けらでさえ、嫌なことをからは必死で逃げます。
神経細胞が無いはずのミミズですら、です。
他所でも書きましたが、これは「心」などという「言葉」の中で思考した結果です。
(^。^)そして、このような問題は仏教では二千年前に論破された話ですね。(笑) >>423
わたしが「心」という言葉の概念に囚われている、ということでしょうか
二千年前に仏教がこういった問題の解を提示しているのであれば、
今こうしてわざわざ議論などしなくても良いはずです
つまりわたしに限らず多くの人がよくわかっていないことを承狂さんは理解できていると仰っているわけですね
「心」といえば抽象的概念です
なぜこのような表現があるのかといえば、あれば便利だったからでしょう
「心」という言葉は今だ廃れてはいません
わたしは後天的に身につけた言語で思考できるということが、
人間が(動物などに比べて)自由意志を持てる理由だと思っています
もちろん全くの自由意志といえるものではなく、時限的なものでしょうけど、
人間が情動だけに流されない行動を取るのは、思考ができるからだと思えるのです
承狂さんのお考えは違うのでしょうけど、わたしはそう考えています マウントを取るための知識のほうが西洋哲学よりか幼稚ですな、道具的理性ってやつです。 言語というツールで、人類の文明が発展できたし、多様な思考が可能となっていることに、異議は全く有りませんよ。
あと、仏教の下りは、
例えば「心」という言葉に付随されたイメージ、
「正しさと過ち」を「私」が判断してるとか、
「物質世界と精神世界」があるとか、
過去の文化で作られてきたイメージ、
についての認識の一つの視点を仏教で二千年に出されています、という意味で、
勿論、「絶対的な解」という意味ではありません。
因みに、>>421「我々も自覚無しに」という文章には、書き手自身も含まれます。
所詮、人というのは後天的に得た道具の奴隷に過ぎず、「私は」という思いは、独自性ではなく、多様性の現れに過ぎないと、
私は考えてますが、
これがマウンティングに見えてる人が居るようなので、
気持ち悪いからこれでレスするのは止めときます。(笑) こうやって自ら馬鹿なことを書き込んでおいて当たり前のように否定されただけで不貞腐る高卒は始末に負えない 少なくとも、「脳」を抜きにして「心」が成立することはない
これは確か 脳と心は表裏一体
ある角度から見れば「脳」に見えるが、別の角度から見れば「心」に見える 「心とは、脳が生み出している現象である」
これが現代の主流な解釈 実のところ哲学では主流ではないね
大きな声では言わないだけで
余談だけど
天文学者で地球以外の天体に於ける生命の存在を疑う人はいないらしいけど
生物学者の多くはそうは思っていないのだとよ そんなことが理由なのではなく
生物学者は生物を調べていく中で
その存在が「必然的ではない」ことに気づいているわけよ
脳について言えばな
哲学者は、「脳」という物体と「意識」との間に必然性が無いことに気づいているので
懐疑的なんだよ 305 名前:美魔女 2021/07/26(月) 18:41:22.30 0
では、問題
私👰の股間にぶら下がっているものは
何でしょうか?⁉ まあ確かに、生物として生きていく上では、心は必要ない
脳が反応すれば十分だ そうすると、「なぜ、心があるのか?」が大きな謎になってくる
先入観を捨てて考えれば、べつに必要ない >>439
ああ、あるんだよ。
ということは?
優しさや哀れみの情も重要だから。 ワクチンを打って、脳の血管が詰まったり、脳内出血した事例が多数報告されている 脳は、映写機でありスクリーンでもある
心は、そこに映し出された映画に相当する 事実とか言わさないようにしてるんじゃなくて、自由の侵害だから拒否権があるんだよ
内心は心身に迷惑がかかりそうだったら黙っておいていいの
女性の家に忍び込むのは変質者だと思うだろ?君はああいう類だよ。捕まえるのは別問題だな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています