【プラトン哲学と共に考える】一神教と天皇制
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西欧思想の根幹である一神教と、日本の天皇制を組織論の観点から科学的に考える。 あいつに協力したら俺たちが不利になる、と思っている社会で有益な共同作業は無い。 恐怖に駆られた者らが他人の上に出ようと競って舶来品=西欧近代
(が生んだ精神性を学ばずに結論=《手本》だけ)を学んだ結果、社会が破滅
この世に於ける完全性・無矛盾性は、宇宙という存在によって体現されている。
それで、人間の思考は様々な制約によってそのままでは不完全であり、
何らかの統制をかけることによって宇宙の完全性・無矛盾性を理解出来るとする。
その発想が、プラトンの著作「ティマイオス」及び「国家」に見られる。
人類を含む万物は宇宙に包含されており、そこから出られずそこでしか生きられない。
だからその宇宙を理解しようという。
この発想が、神によって創造された宇宙を知る、一神教とギリシアの哲学につながっている。 ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/145-146
プラトン全集12 『ティマイオス』『クリティアス』岩波書店
『ティマイオス』解説 種山恭子
>逆に言うと、人間の「理性」と同質の、
>しかしもっと純粋で…もっと強大な「宇宙の魂」が万有を動かしているのだ。
>われわれは先に、『国家』では、個々の人間の構造と、国家全体の構造がパラレルに置かれて、
>どちらにおいても理性の種族が主導権を握る“べき”だと言った。
>本編では、人間の構造が、宇宙全体の構造とパラレルに置かれており、
>しかも、宇宙においては、“じっさいに”、理性を宿す宇宙の魂…がすべてを動かしているのである。
>「天にある理性の循環運動」は、われわれの「思考の回転運動」を矯正するモデルとなるものなのである…
>われわれの理性と同質の、もっと純粋で強力な知的存在が宇宙全体を支配しているという点は、
>…まさにそうした…この宇宙論全体の、大前提をなしているものなのだ
>『国家』では、個々の人間の構造と、国家全体の構造がパラレルに置かれ
>どちらにおいても理性の種族が主導権を握る“べき”だと言った
>本編では、人間の構造が、宇宙全体の構造とパラレルに置かれており
>宇宙においては、“じっさいに”、理性を宿す宇宙の魂…がすべてを動かしている
>「天にある理性の循環運動」は、われわれの「思考の回転運動」を矯正するモデルとなる 日本とは、近代合理主義、啓蒙主義、共和主義、立憲主義的な先進外国から
(予め『こうすれば正しく動作する』と検証済みの)、完成品=《手本》を輸入する者が、
遅れた自国で立身出世して専制的な封建体制を維持して成り立つような文明である。
つまり日本的な近代化=発展とは、近代合理主義、啓蒙主義、共和主義、
立憲主義的な《価値観》と《規律=手続き》が定義された空間から、
専制(=BDNSという精神病理から来るファシズム、全体主義)
的なそれが定義された空間への《写像》になっている。 前者の世界では社会の中に何かの不全(矛盾・不条理)が存在し、
組織全体がその本来の持てる能力を十全に発揮できず、上手く機能していないと感じられるとき、
何者かがその不全自体を社会に向かって明示する。
また、原因を調査分析し不全(矛盾・不条理)の解消案(アイデア)を提示する。
問題を誰もが理解可能な形で表現し、それは世代や地域を超えて受けつがれ、
或るときそれを別の人間が解決する。こうして問題の発見と解決が繰り返されて行く、
ことによってその社会の中から不全(矛盾・不条理)が取り除かれて
組織全体がその本来の持てる能力を発揮できるよう、方向づけられて行く。
それが西欧近代合理主義の持つ機能であり意義だろう。
これはそもそも矛盾と不条理に満ちた人間社会の在り方=構造を、
(非ユークリッド幾何学や、ゲーデル不完全性定理の発見以前まで)
完全且つ無矛盾と考えられていたユークリッド幾何学
(それは宇宙空間を数学的に表現可能な形式の、最初の雛形であった。
そ)の構造に向けて収束させて行こうとするプロセスであった 日本の近代化は、そのような世界から(問題の発見とその解決策の)《結論》を輸入し、
遅れたままの土着世界を睥睨する圧倒的な
(その地位を表すシンボルなり単語〔が示す組織、その構成員〕を見れば
“無条件で”ひれ伏すような社会的公認の)権威に立ち、
自分の思い通りに支配することである
(つまり西欧の幾何学的・合理的世界から輸入した存在
〔それを学んだ人物や学問・手法自体〕が、
無条件の権威を得てその他は只それに従うという呪術的世界のそれにすり替わっている。
偶像崇拝を禁じて成り立つ幾何学的合理性の世界から、
権威や地位を無条件で信じるアニミズムの世界への《写像》
=明治に始まる日本の近代化=テクノロジー・カルト、
これこそが『原発は絶対に安全だ!』で破裂した福島第一原発事故の原因だろう) (そうした構造が、
オオカミのような動物の群れ社会を文化的に昇華した親分子分の階層構造であり、
母子関係を基にした一種の拡大家族であった。
これは一組の親分子分関係を《鎖状》に連結した階層構造で、
これによって上意下達の命令を下まで伝播させるようになっている。
つまり、一番上の親分〔=天皇なり将軍〕の主観的な《思い込み》を、
末端まで強制する仕組みであり、これが一つの巨大な塊として忖度の、
〔恐怖政治に裏打ちされた〕空気による拘束=BDNSを作り出す。 西欧近代合理主義と啓蒙思想はこうした空気による拘束が持つ矛盾と不条理を、
数学的な証明行為を通じて暴露して、その拘束を合理的な判断根拠に置き換えようとする)。
矛盾や不条理を作り出している存在は歪んだ(精神性による)支配=BDNSであり、
西欧世界ではモーセの一神教、
近代合理主義(啓蒙思想)=ユークリッド幾何学「原論」で用いられる証明の様式を手本とし、
歪みや不条理を矯正して行く精神的プロセスを持っており、
それが西欧文明の『歴史』を形成している
(これが福沢諭吉「文明論之概略」が言う、
《文明論とは、人の精神発達の議論なり。その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、
天下衆人の発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。
故に文明論、あるいはこれを衆人発達論というも可なり》であり、
フランシス・フクヤマが言う「歴史」の意味だろう)。 にも拘わらず、日本側では日本人同士の決着のつかない泥仕合
(=例えば応仁の乱、以後)に西欧側で造られた《手本》
(例えばポルトガルの鉄砲、幕末ならアームストロング砲)を使い、
或る特定の者(例えば信長、秀吉、家康)が持つ(独特の恐怖感覚が生み出すBDNS=)
矛盾と不条理世界に支配下の人間を閉じ込めるような構図に(その歴史が)なっている。
つまり、(西欧の歴史が矛盾と不条理から脱却するプロセスなのに対し、日本のそれは)
或る矛盾と不条理を強制する世界から別の矛盾と不条理を強制する世界に移っただけなのだ。
これが《モーセ型国家》に対する《信長型国家》が持つ特徴であり、
明治の近代化も、正に応仁の乱後に
ポルトガルの鉄砲を輸入して実現した《信長型国家》の反復になっている。
それで近代日本は(権力側が叫ぶ)『鬼畜米英』や『原発は絶対安全だ』の世界
(北村透谷が言う『我牢獄』)に閉じ込められてしまい、
破綻に向かってまっしぐらに進むことになったのだ。 結局、(より良い状態を目指し、維持して持続的に生き残るためには)
『何が全体にとって正しいのか』を問わず、
『何が支配者にとって都合が良いか』
だけを考えて上意下達の階層構造を守り抜こうとするために、
常に生成流転消滅している、変化する外部環境・内部状態(人口動態など)から
その階層構造が乖離して最後に破綻する。階層(=支配)構造を守ろうと、
(暴力に裏づけられた)“日本的な”《法》によって支配側への批判や盾突く者を排除して、
一時的に構造は守れても、階層構造の外部環境・内部状態との乖離とその進展は止められない。
むしろ加速する。こうして階層構造は、最終的に外部環境からの圧力によって崩壊する。
これは、後発文明に於ける哲学無き《法》社会という問題を提起する。 日本の学者や知識人は、進んだ西欧から
“予め”『こうすれば正しく動作する』と検証済みの完成品=《手本》を輸入しながら、
それを生み出した西欧的な価値観(近代合理主義や啓蒙思想、立憲主義)を誹謗し、
貶めることで自分らに有利な専制政治(幕藩体制や天皇制によるそれ)を正当化しようとして来た。
それがために、守旧が壊れ西欧を真似た初期には専制的な階層構造が決まってしまい、
後は只、その階層構造を守るために各自が動いて行き、
守旧の矛盾・不条理は別の不条理・矛盾に代わっただけで、
しかし世界は常に生成流転消滅しており
外部環境と内部の(新たな別の矛盾・不条理を抱え込んだ)階層構造
(が当初に前提し、適応しようとした元の環境)との間に徐々に乖離が生じ、
その乖離は段々と大きくなって、
遂に階層構造は外部の環境圧力に耐えきれず崩壊することになる。
それが(クリミア戦争で英仏とロシアが対立し、初の世界戦争で極東の日本に達し、
ユーラシアへの橋頭保を築こうと
ペリーが開国を迫ったところで守旧の幕府が崩れて行った)
幕末だろう。 これを見たとき、かなり衝撃を受けたことを思い出す。
ttp://www.videonews.com/
祝1000回記念 ようやく見えてきたコロナの正体
児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター名誉教授)
マル激トーク・オン・ディマンド 第1000回(2020年6月6日) 児玉龍彦先生《要約》
新型コロナが流行り出したとき、
文科省の命令で大学の教員や研究者は大学に立ち入れなくなった。
つまり研究が出来ない。それで文科省と押し問答をした。
新型コロナのような全く新しい研究をする際には倫理委員会を通過しないといけない。
ところが倫理委員会は単なるペーパーワークで、ペーパーさえ整っていれば、
現実に感染が広がったり、人が死んでも問題視しない。議題に上がらない。
それを変えさせるのにもの凄く苦労する。という倫理委員会の無倫理という問題が有る。
調査をする際に住民台帳から無作為に抽出するというが、
それをネットでやろうとすると応募者にバイアスがかかる。
もう無作為抽出とは言えない。
誰が責任者で誰がデータの精度を確保するのか、責任者が見えない。
しかし予算が付いて下請けや団体にカネだけが出て行く。
結局、公共事業になっていて、効果的な感染症の対策になっていない。
行政側がこれを決めて専門家がその下請けをして、
行政が失敗すると今度はそれを隠すのが仕事になって行く。 私は国家プロジェクトのリーダーや内閣府の研究員をずっとやってよく知っているが、
日本の役人は皆、日本が財政破綻していることを良く知っている。
だから今の日本の役所は破綻企業の財務、総務部みたいな感じになっている。
役人に、諦めやニヒリズムがある。
倒産企業で自分が在籍している間、もてば良いという。
どう、日本を立て直すかを、もう一度根本から考えないともっと酷くなる。
日本の将来に希望を持てない人間が官僚、役人をやっているという不幸が有る。
優秀な人ほど逃げて行く。今の日本は江戸時代末期の幕末のようになっている。 雑誌「選択」2009年09月号
巻頭インタビュー 日本人に政治「劣化」への危機感がない
――なぜ日本の政治は、ここまで劣化してしまったのでしょうか?
イェスパー・コール:
政治が場当たり的になってしまった。
選挙に勝つことばかりで、誰も理想や国家ビジョンを示さない。
自民党の政治は、
家柄のよい二世三世たちがエスカレーター式に出世する、ワンパターンの「お坊ちゃん政治」。
誰ひとり、オバマのような魅力はない。国民は毎日、自己責任を果たしている。でも政治はどうか? ――かつて責任政治はあった?
イェスパー:
中曽根さんとか小泉さんは、欧米型の政治家に近かった。
政策や個別の問題で、自分で判断し決定できる人がいたけど、でも自民党は世代交代に失敗してしまった。
高成長の時に責任政治はそんなに大事ではなかった。
名目経済成長率が四~五%伸びてパイ全体が拡大すると、勝ち組も負け組も皆ハッピーになる。
だから問題も先送りできた。でも今はゼロ成長。経済の成長が止まったことで問題が表面化した。
今、日本には「どうでもいい」という雰囲気が漂っている。
日本人は、「神風主義」。待って我慢していれば、いつか神風が吹くと信じる。
それまで全て、他人まかせ。政治もそうなってしまった。
神風を待っている間に、自民党は静かに死んでいった。
――政治だけの責任でしょうか?
イェスパー:
財界にも責任がある。財界はこの二十年間、
自分の会社のことばかり考えて、国家戦略を全然描いてこなかった。
財界と政治が両輪となって機能しなくなったから、政治は劣化してしまった。
一九八六年に僕が来日したとき、経団連会長というと、まさに「財界総理」の風格があった。 ――-政財界の関係がうまく機能してないと感じますか?
イェスパー:
外国人の眼からみれば、そのあたり、自民党政治は完全にアマチュアだった。
――政権交代が現実となりますが。
イェスパー:
日本にはどうしても成長戦略が必要だが、政治がそれを描けるか。
中国、韓国との通貨圏構想とか、「エアバス」みたいな多国間プロジェクトを提唱するとか、
世界から一目置かれる戦略を打ち出せばいい。
無責任な「お坊ちゃん政治」を続けるなら、世界は日本を見放すだろう。
相手にしても時間の無駄と思われる。
政治は社会を映す鏡。だから、政治の劣化は、社会の劣化でもある。 徳富蘇峰「終戦後日記Ⅱ」
日本の将校がかくまで腐敗した理由は、何であるかといえば、
全く教育の方針が、間違っていた為めといわねばならぬ。
一口にいえば、正しき意味に於ての教養そのものが全く無視せられて、
只だ形式だけの教育を施した為めである。
これを称して鸚鵡教育といってもよし、あるいは猿芝居教育といってもよし。
兎に角訳も道理もなく、唯だ一つの型を作って与えたまでであって、
一度びその型を失えば、全く無教育者も同様となって、
いわば一箇の野蛮人化するべきは、必然である。
即ち彼等が醜態を暴露したのは、
その野蛮人化したる事を、明白に証拠立てたるものといわねばならぬ。 海軍などでは、随分猛訓練を施している。
江田島海軍兵学校の訓練は専ら隼人男児訓練の型を、そのまま襲い来ったものである…
しかしながら悲しい哉、それが全く形式に流れて、
精神の上には殆ど痕跡だも留むるものが少なかった…
精神教育も、当局者は決して閑却したる訳ではない…
しかし悲い哉、それは何の役にも立たなかった。
何となれば、一切が只だ形式に止まって、宛かも役者が、顔を白く塗り、赤く塗り、
また黒く塗りても、それは只だ皮膚の上のみであって、
洗い去れば素の木阿弥であると一般であった。 如何に軍隊では、全ての事が形式であったかは、軍隊の通用語に要領よくやるという言葉がある。
要領よくやるという事は、その当座を巧く誤魔化すという事である…
一等兵となり、上等兵となり、更に下士官とでもなれば要領学を全く卒業して、
遖れの兵士となることが出来る。
即ち要領学という事は露骨にいえば誤魔化し学である。
人の前を飾り、上長官の前を詐り、而してその尻尾を出さぬようにする事である。
例えば中隊に於て、兵器検閲の時に銃砲が不足するといえば、一寸他の中隊から借用し来って、
検閲の当座を誤魔化す事である…
検閲者の眼の前さえ誤魔化せば、跡は何うでも宜いという事を以て、
要領学の極意としているものである。
かくの如き事を以て、軍隊一般がその雰囲気として居る時に於て、
それが常勝軍であり、無敵軍であるという事は、余りにも無理の注文である。 形式教育については必ずしも軍人の教育ばかりでなく、
日本の教育それ自身が全くその為めに大いなる禍根を養い来った。
予は敢て言う。帝国大学あって、日本の腐敗せる官僚政治は出で来り。
士官学校、兵学校あって、陸海軍の腐敗せる幹部は出て来った…
唯だこの場合に於て、如何に帝国大学なるものが、我があらゆる文官の各方面に害を流し、
士官学校兵学校なるものが、また陸海両軍に大いなる禍を胎したかという事…
この形式教育なるものは、人間を全く物体として取扱い、
心というものには、全く触るる所はなかった。
別言すれば、一切の事は法に任せて、人に義務もなければ、責任もないものとした。
いわば日本の官府は、文官も武官も皆な法治国の文官であり、武官であり、
法以外には何物もなかった。所謂法度万能主義であって、
彼らの心掛けは、只だ法にさえ触れず、丸木橋を渡るが如く、
只だ法の筋目を践んでさえ行けば、可なりという事になった… この要領よくという事は、法度の筋目を践み外さぬように、巧くその当座を取り繕う事である。
かくの如く、人間は只だ法度の番人であって、法度そのものが、自動的に動くかの如く考えたる結果は、
例えば配給などでも市場の表に書き出しさえすれば、現実如何にあるとも、無頓着という事になって来た。
即ち某の地方には、青物が何千何百何十貫配給せらるるという事が、書付には出て来ても、
現物には大根一本、葱一筋さえも、出て来ぬという奇怪千万の状態を現出した…。
机の上や紙の上で作ったものが、果たしてその通り行わるるや否やという事には、一切頓着なく、
それを作り上げさえすれば、我が事已むという訳で、自分等は実行も不実行も、何等痛痒を感ぜず、
またそれらの事は、自分等の責任以外と考えて、偶々苦情を持ち込む者あれば、
飛でもない迷惑という風に、それを要領よく追っ払って、済ました顔をしている。
日本の官界で、上下を通じて最も大なる弊害は、法に任せて、人に委かせない事である。
責任を法に譲って、人間は全く無責任の位地に立ち、且つ立たしむる事である。
これが即ち機械的教育の結果であった。 機械的に人間を製造したる、製造所ともいうべき、あらゆる官学は、
文武何れの方面に於いても、点取り競争であって、学生は只だ点数さえ取ればよいと心得ていた…
文武何れの学校でも試験の成績良き者から、採用せられて行く…
一旦緩急となれば彼等は紙で張った人形が雨雪に遭うた如く、忽ちその本性を現して、
役に立たぬ事となった事は…今回の大東亜戦争が遺憾なくそれを暴露している。
要するに彼等の学問には、文武何れの方面にしろ、大切の要点が欠けている。
それは諺にも万能足りて一信足らずというが、彼等の学問の中には、人間学が全く欠乏している…
その為めに目から鼻に抜ける程の秀才先生も、いざとなれば糸の切れた凧の如く、
全く運動の自由を失う事となる。その結果が今回の戦争に極めて明白に暴露せられた…。
学問の目的は、所謂る立身出世である。即ち個人的功利以外には何物もない。
而してその標的に到達する道は、定められたる型通りの筋を践んで行くことである。
所謂秀才とは、その定められたる型に最もよく嵌まりたる者をいう訳であり。
成功者とは、その型に適まって、立身出世をした者をいう事であり。
かくて世の支配階級なる者は、文武何れの方面も、軽佻浮薄、無責任、
無節操の徒輩の寄合となって、飛んでもなき餅を搗き出す事となったのである。 徳富蘇峰「終戦後日記Ⅳ」
武藤氏は、教育の欠陥という言葉に、恐らくは
教育が不足したという意味を、含ませているようだが、我等は教育の不足とか、
僅少とか、不十分とかいう意味でなく、
教育そのものが、根本的に間違っていたのではないかと思う。
改めてここに言えば、現代日本の教育は、
直接とは言わぬが、今回の大いなる敗戦を来たし、我が国家を今日の境遇に陥れたるに於いて、
最も大なる分け前を、働いたものであろうと思う。
別言すれば、日本国は、
日本の現行教育によって、亡ぼされたと言うても、余り過言ではあるまいと思う。
要するに我が官学教育は、形式教育であった。また独善教育であった。
それで軌道の上を走る事は知っていたが、軌道の外に走ることは知らなかった。
こちらの筋書だけの道は、歩く事を知っていたが、それ以外には、一歩も踏み出す事は出来なかった。
而して自分の知っている事を最善と思い、自分の為す事を最上と思い、
相手が何者であるとか、如何なる事をするとかいう事には、一切無頓着であった… 例えば海軍の如きは、予め計画したる真珠湾の不意討だけは、確かに成功したが、
それ以外は、する事為す事、総てとは言わぬが、概ねへまをやった。
それは啻に軍事ばかりでなく、一般の政務についてが、またその通りである。
日本の政治が、所謂る官学の法学士政治であって、
その以外に活動する事を、知らない結果は、一切の政治は、全く机上に於ける文書政治となって、
書附さえ物を言えば、事実はどうでもよいというような事になり、
その為めに物資を統制し、全国に過不及なからしむるを目的としたる統制経済が、
一方には薩摩藷の尻尾も手に入らず、
他方には幾万貫という薩摩藷が、空しく腐敗して、顧る者ないというような、
逆効果を来たすに至った事も、是非もない次第である…
かくの如くにして、日本は形式と独善とで、活きた人間の活動というものは、
何れの方面にも、及ぼす事は出来ず。遂に一人角力を取って、自ら倒るるに至ったのである。 我が官学の教育では、文武何れの方面にしろ、一通りの技術だけは教えたが、
如何にしてこれを用い、如何なる場合にこれを用い、
如何にこれをその時処位に適用せしむるかという事は、一切教えていなかった。
従て官学の秀才は、学校で教えられたる所のものを、そのままこれを鵜呑みにして、
これを実際に応用するという事になったから、
応用せらるる社会こそ、実に当惑千万といわねばならぬ。
要するに総ての学問は、教えられたとしても、
我が官学には、人間学なるものは、全く抜きにして措かれた。
その為に、政治方面に於ては、人間学を知らない地方官、
司法方面に於ては、人間学を知らない裁判官、…軍隊に於ても亦た同様であって、
彼等は唯だ士官学校や、兵学校や、陸海軍大学校で教えたる通りの事を、施すばかりで、
同僚が何者であるか、上司が何者であるか、部下が何者であるか、
敵が何者であるか、味方が何者であるか。それ等の点には、一切無頓着であった。 かかる人間を掻き集めて、彼等に軍国の大事を托したる、日本国こそ不幸なるもので、
遂に今日の状態まで、我れ自ら我れを、引き摺り落として来た。
今更ら誰をか怨むべき。今更ら誰をか咎むべき。
我等は所謂る亡国の種を播いて、亡国の果を収穫したる事の現在を見、
今更らながら、因果応報の恐るべき鉄則に、戦慄する者である。 ttps://twitter.com/yukionoguchi10/status/1598427737748033536?cxt=HHwWgMDSueDj4K4sAAAA]
〇〇〇〇内閣の経済政策も基本的な方向づけが定まらずキャッチフレーズだけが乱発されている。
「分配こそ重要」と言ったかと思うと…
「貯蓄から投資へ」というスローガンが唐突に蘇ったりした。
日本は、いま方向性を失い漂流している。
マクロ経済政策も、基本的な点で深刻な矛盾を含むものになっている。
なぜなら、一方で物価高騰が問題だとしながら、
他方で金融緩和を続けることによって、円安を放置しているからだ。
もっとも恐ろしいのは、日本国民が円を見捨て、
資産を外貨建てに移すという「キャピタルフライト(資本逃避)」が起きることだ。
大規模なキャピタルフライトが生じれば、日本経済は崩壊する。
円安をくいとめるには、日本銀行が金利抑制策をやめ、金利の上昇を認めることが必要だ。
ところが日銀は、こうした政策転換を行おうとしない。
経済のもっとも重要な問題に関して矛盾した政策が続けられているのは、
日本の政策決定体制が深刻な機能不全に陥っていることを示すものだ。
そうしているうちに円安が進み、物価が高騰する。そして賃金は上がらない。
また、日本の国際的地位が確実に低下を続けている。
このような混迷の時期だからこそ考え方や政策の基本的方向づけを確実にする必要がある。
そうしないとさまざまな事象に翻弄され押し流されるだけのことになってしまう。
重要なのはこの状態から脱却して日本経済の長期的な低下傾向をくいとめ、
新しい日本をつくることだ。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >日本は、いま方向性を失い漂流している。
>経済のもっとも重要な問題に関して矛盾した政策が続けられているのは、
>日本の政策決定体制が深刻な機能不全に陥っていることを示すものだ。
>このような混迷の時期だからこそ考え方や政策の基本的方向づけを確実にする必要がある。
>そうしないとさまざまな事象に翻弄され押し流されるだけ…になってしまう 日本の大学は、大企業に就職するための通過機関になってしまっている。
そして、企業は、専門知識を給与に反映させることはなく、
年功序列的な賃金体制を続けている。
このため、大学教育を受けるために要した費用を、賃金によって回収することが難しい。
日本の未来を拓くために、こうした状況を変えることが必要だ。
日本の賃金が20年間上がらない基本的な原因は、労働組合の力が弱まったことではなく、
企業の稼ぐ力が停滞していることなのである。
将来に向かって日本経済を成長させるためには、産業構造を改革し、
人材の質的向上を図ることがもっとも重要な課題だ。
それにもかかわらず、
目の前の問題の処理に振り回されて、基本問題がなおざりにされている。 ttps://www.youtube.com/watch?v=HUV1PTUpB2c&t=669s
【落合陽一】「アメリカは参照すべき国でなくなった」「日本の病理は“玉虫色”」
日本思想史家・先﨑彰容が説く、日本が尊厳を取り戻すために必要な『自己同一性』とは?
2022/11/17
こういう何て言うのかな、自分が国を動かしている感は持てるんだけれども、
それが玉虫色になって、
そして現場に降りてったときには『何一つ社会が動いていない』、っていうね。
この日本社会の根本的な病理を、何か蟻の一穴で変えて行かない限り、
この国はね、おんなじような、
自由化とか、リスキリングとか言ってんだけど、
アメリカほど過剰な競争社会にならないようにして、そら良い面もあるんですね…
だけどそういう形で中途半端な自由化だったり、
それを中途半端に止める保守的な意見とかが、結局玉虫色になって行って、日本を停滞させている。
ぼくはね、これが日本のね、一番の、そのなんて言うかな、異能異才が出てこないとか、
みんないろんな形でどうやったらイノベーションが起きるのかとか言ってるけど、
このマインドを変えない限りね、変わらないと思いますよ。 まあ、工程に最適化された仕事をするのに仕事の8割かかってしまうんですよね…
この工程を最適化させる労力に8割、コンテンツに2割しか時間かけてないなら、
2割でちゃんとしたもの作れる奴っていうのは天才しか残んないだろうって思うんですけど。
いやー、それにしても8割の時間を手順やそこでしか使えないノウハウを埋めるのに、
なんか使ってるってのは、時間の圧倒的無駄ですが、
時間の圧倒的無駄に圧倒的に優秀な官僚の人生を使っちゃうから、
『あんなの労働生産性上がるわけねえだろ』ってぼくはいつも思ってますけど。
いや、ほんとその通りで、とにかく手順のことをして、
とにかくコンテンツをちゃんと作らないんですよ。
コンテンツっていうか、実際の《モノ》ですね。
パワポに玉虫色のものを書く時間はどうでもいいから、
『実地に落とす《モノ》のクオリティを上げて下さい』っていうのが、
全ての国民が望んでいるのに、そこがねー、一番ですね。 中国の場合…そのね、馬力と、その…トップダウン…に対抗できるだけの、ものを、
こちら側が持てるかというのを、突きつけられているぐらいしんどい時代なんですよね。
民主主義が持っている一番良い所は、遅さなんですよ。
手順を踏んで、一人の人が独裁にならないようにやって行くっていうね…
只それが、いま言ったような形で形式的な書類を作るとか、
そういうことの中に時間が忙殺されて行って、そして2割しか出力出来ないっていう状態が、
この国を疲弊させているんだとしたら、
『これは一体何なのか?』ってことは、根本から考え直さないと…。
ほんとそう思いますね、これね。これ未だましな方ですね、これツイッターで探してて、
これが玉虫色ってやつですよ…この世の全てが書いてあるんですね、この中に…この世の全て。
で、『この世の全てが書いてあったら上手く行かないので優先順位を付けてください』
っていうのが、ほんとにそうなんですよ。 先生がご展開されている自己同一化の議論っていうのは、
ま、こういった中でも出てくるような気がするんですけれども、
その自己同一性のお話っていうのをちょっと聞いてみたい…
要するにこの国っていうのは、アメリカっていうのをモデルにして来たんだけれども、
そのアメリカ自体が民主主義の本家本元が、ああいう状態になっていると。
しかもそれを90年代以降に、
アメリカで80年代から始まった新自由主義経済を中途半端な形で90年代から入れた結果、
成長も出来ないし、しかも所得も下がって行ってしまっている、
こう、或る種の夢の無い、若い人たちにとってしんどい社会を作ってしまったわけですね。
そうしたときに、『我々はどういう国造りで今まで失敗して来たのか』、
そしてその中で『一体どういう国造りの在り方が問われるのか』って、
これのことをぼくは『自己同一性を取り戻さなきゃいけない』って言ってるんですね。 ttps://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/307845.html
「ミライを創る『大切な真実』とは」(視点・論点)
2018年10月24日 (水)
京都大学 客員准教授 瀧本 哲史
90年代にはジャパンアズナンバーワンと称され、
世界の時価総額上位企業を日本起業が殆どを占める時代から、
この20年間、日本はその地位を一貫しておとしてきました。
時価総額上位企業は、アップル、アマゾン、グーグルなどアメリカの新興企業が占め、
日本は、中国、インドなど新興国にどんどん抜かれる国になろうとしています。
この間、急に日本人の何かの能力が落ちたり、
日本社会が構造的に変わったという証拠を見いだすのはなかなか難しいかと思います。
むしろ、私はこの原因を外部環境の変化、世界のゲームのルールが変わったことに求めます。 キーワード的にいうのであれば、
それはグローバル資本主義とコモディティ化ということになろうかと思います。
グローバル資本主義は一言で言えば、世界中で最適なものを集めて提供する、
世界で唯一の特徴を持った会社が国境を越えて世界の標準になり、
圧倒的な競争力を持つようになるということです。
アップル、アマゾン、グーグルはすべてそう言う企業です。
実は、日本企業でも、村田製作所、日本電産と言った
唯一の特徴をもった会社は今でも高い今日競争力を持っています。
逆に、顧客から見て優劣がつきにくい状態、つまりコモディティ化が起こり、
特色のない複数の供給者がいる製品はいかに客観的に品質が高かろうと、
価格競争になり易く買いたたかれます。 過去のデータを元に最適化する、
パターン化するのはコンピューターの最も得意とするところです。
「今まで」と「これから」の違いは、「課題を解く」から「課題自体の発見」が大事であり、
「100%の真実」は価値がなく、「半信半疑。少数意見が多数に変わる」に価値が生じる訳です。
「今までの延長で改善」しても「非連続、破壊的な発見」に簡単に上回られてしまうわけです。
実際、グーグルもアマゾンも当初はその将来に対して懐疑的な意見が多数を占めていました。
小型モーターで世界の標準となった日本電産も、
永守社長が元々勤めていた会社の上司、銀行、日本のメーカーは、
彼の考えを真面目に取り上げませんでした。
Facebookの初期の投資家であり、オンライン決済の世界の標準になった
ペイパルの創業者でもある、エンジェル投資家、
創業期の企業を専門に投資する投資家のピーター・ティール氏は
「賛成する人がほとんどいない、大切な真実はなんだろう」と必ず問いかけるそうです。
現代はまさに、この「大切な真実」が大きな価値を持つ時代であり、
すでに判っていることをより一生懸命にやることの価値が落ちている時代なのです。 それでは、どのようにして、
この「大切な真実」を見つけることが出来るようになるのでしょうか。
いろいろな切り口があると思いますが、
過去、新発見をおこなった偉人達の例を研究してみると、
「例え反対する人がいても、現状に対する違和感を大切にする」ことにあろうかと思います。
近代的な病院、看護制度の祖であるナイチンゲールを例にとりましょう。
彼女は、どちらかというと博愛精神的な文脈で注目されがちな人ですが、
科学史の文脈では、統計学者として取り上げられます。
ナイチンゲールの時代には看護の重要性は顧みられず、
看護に当たるスタッフの社会的地位もかなり低いものでした。
ナイチンゲールはクリミア戦争の従軍経験を通じて、この通説に対して強い違和感を感じました。
そこで、兵士の死亡原因を統計的に調査した結果、
戦闘の負傷を直接の原因で死亡する兵士よりも、
その後の看護の質の低さによる感染症などで死亡する兵士が多数を占めることを証明し、
看護の重要性を説きました。 周りの反対を押し切って、自分がつかんだ「大切な真実」を仮説とし、
それを事実をもって証明するというのは多くの新発見で見られる現象です。
実は、「大切な真実」の目の前を通りがかった人は沢山いると思います。
ただ、ナイチンゲールは貴族で数学教育を受けており…ある意味ラッキーだったのです。
さて、以上を踏まえた上で、日本の社会システムは、
「大切な真実」あるいはそれをつかんだ人を大切にするような仕組みにになっているでしょうか。
残念ながら、そうはなっていません。
教育システムは、新しいことを見つけることよりも、今までの知識を覚えて、
それを再現することが重視されています。
もちろん、基礎的な知識、現状を知らなければ、それを打ち破ることも出来ないわけですが、
手段である知識が目的になっており、
「大切な真実」を見つけることとは無関係な、ただのクイズ大会になっています。 日本の意思決定システムや意思決定者である
エリートを選抜する仕組みも同じように「大切な真実」の発見能力よりも、
すでに判っている知識の再現能力や整合性を説明する能力が重視されているように思います。
最も多くの資本を所有し、最も権限を持ち、
従って、最も重要な意思決定をすべき政府、公共セクターにおいて、
この傾向はより顕著と言えるでしょう。こうした仕組みは、
欧米先進国キャッチアップ型国家として最も成功したかつての日本には最適でしたが、
「大切な真実」が世界を支配する新しいゲームのルールになった
現代のグローバル資本主義においては、見直しは避けられないと考えます。 一方、現代社会に合わせた教育改革の方向として、
「すぐに社会に役立つことを教えよう」「社会に役立つ研究を重視しよう」
という方向が打ち出されつつあります。
しかし、これは現代社会に合わせているようで真逆な方向だと実は考えています、
というのも、社会にすぐに役立つことは、
現代においては、「大切な真実」によってそう遠くない将来打ち破られる知識であり、
それを身につけても、安く買いたたかれます。また、新発見を行った研究者は口を揃えて、
「役に立つかはあまり考えなかった。動機は、むしろ知的好奇心だった」と答えています。
今必要なのは、「大切な真実」を追求したくなるような知的好奇心を刺激することと、
貴族でなくても、偶然に恵まれなくても、社会全体が「大切な真実」の価値、可能性を認め、
守り育てていくような仕組みに変えていくということなのではないか、と考えています。
それは、未来の可能性を信じて、すぐに成果が出なくても、
教育や基礎研究に投資していくということではないかと考えています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています