デカルト
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最近パリから送られてきたフランスの週刊誌『アール』に、
現代フランスの大学生の思想傾向を調査したアンケートが出ていたが、
「最も好む古典」という問いに対しては聖書についでデカルトという答えが多かった。
しかし私がいっそう興味深く感じたのは「最も重要だと思う徳目」という問いに対する答え
そこには勇気、誠実、友愛、正直等々といった徳目があげられているが、
圧倒的な多数で第一位を占めていたのが知性という答えである。
最も大切な「道徳」は、ときかれて「知性」と答える、これはいかにもフランスらしい。
デカルトの伝統は死んではいない…というよりはむしろ
現代は他のいかなる時代にもまして「道徳としての知性」が求められている時代であろう。 >デカルトを読むことなしには哲学をすることは出来ないというのは少しも誇張ではない
>なぜデカルトはかくも大きな影響を与え、その思想の光芒を現代にまで強く投げかけているのであろうか。
>その理由は極めて多いであろうが、少なくともその最も根本的な理由の一つは、
>考えるという人間能力をデカルトが最も徹底的に深く究めたところに求められよう。
>結果である体系は知識の進歩によって時代遅れになるかもしれないが、
>この体系の源となった思考そのものは、その徹底的な深さの故に時代を超えて生き続けている
>人間を高邁な自由意志の主体として把握していたデカルト哲学の重要性は、
>人間の危機が意識されればされるほどいっそう大きなものとして輝くであろう
>或いはまたこういう風に言ってもよい。
>わが国でデカルトがひろく読まれる時は民主主義が日本に根をおろす時であろう、と オレ自身、ロジャー・ベイコンという人を
この江崎玲於奈氏と司馬遼太郎氏の対談で初めて知ったのだが
そのロジャー・ベイコン「大著作」には、
『哲学の探求こそが神学の探求であり、哲学を解く鍵は数学に有る』と書かれていた。
日本人は宗教というと人間の“心の”問題で、理学系よりも文学系の問題のように思っているが、
一神教は人間の心に問いかけるよりもその前に、
(種山恭子氏の「ティマイオス」解説)に在るように)遥かに自然科学=哲学=宇宙論とつながっている。
それが何で最終的に人間心理とつながることになるのか。
それは心身二元論の問題があるからだ。 《個》は自分自身が誰よりも優先して、且つ快適に生き延びたいと思っており、
その衝動は己の肉体(の奥)から発してくる(抑えがたい衝動である)。
一方、《個》は必ず先行する別の《個》である雌雄の合体によって《種》の中から生まれて来る。
故に《個》の生存と別の《個》の生存、
そして(《個》を生み出す)《種》の生存という、相反する問題が生じて来る。
《個》の生存はその《個》が持つ(“個別の”)肉体の生存の問題で、
他の《個》の生存と(過去と未来を含んだ《個》全体から成る)《種》の生存の問題とは齟齬を来し、
故にその《個》に対して“外から”或る強制が加えられることになる。
その強制を感受して自己に強いる力こそが意志になる。
こうして或る一つの《個》の中に自己の肉体から生ずる《生衝動》
(とも言うべき“己が”『生き延びたい』と願う情動)と、
外から加えられた強制を(他人の命令としてではなく、今や)己の意志として自己に強制する心
(=超自我が併存し、そ)の“葛藤が”生じて来る。
これが(フロイトが探求した神経症の原因となる)心身二元論の由来である。 《個》が持つ《生衝動》は
あくまで自己が誰よりも優先して且つ快適に生き延びたいと願う情動であり、
心=意志とは他の《個》が持つ意志
(その《個》に対し、外からの強制で形成された意志と己自身の《生衝動》が混じったもの)、
最終的には《種》が持つ意志“のコピー”になる。
故に意志は《個》が持つその《生衝動》の一部、或いは大部分を否定しようとする(場合が生ずる)。
大部分を否定しようとする場合とは、例えば或る専制的な独裁者が民衆を抑圧する
(正にこれは21年3・4月の〇〇〇〇ーで起こっていることだ)、
また、横暴な親や雇用主が子供や従業員を搾取しているような場合である。
だからこの意志=超自我を如何に(万人に対して正しく、公正に)構成するかが問題となる。
それが一神教、哲学の問題で、
それで(人類の或る先進的な考察が最終的に獲得した)この意志を代弁する、
或いは裏打ちする声こそが宇宙(=神)からの声となる。
そしてそれがモーセの一神教、プラトン哲学ということになる。 よく、『デカルトの《心身二元論》は間違いだ』と言う者が居る。
『心身が分裂しているのはおかしい』(統一をこそ図る哲学が在るべき)と。
だが《心身二元論》とはつまり《個》(が持つ肉体)〔=部分〕と《種》(が持つ意志)〔=全体〕の問題で、
両者(部分と全体と)は必ず齟齬を来す。それでもそれを如何に(正しく)調停するか、
がモーセの一神教、プラトン哲学が考究しようとした問題となる。
つまり、《個》(が持つ肉体、から発する情動・衝動)による専制か、
《種》が持つ意志による(無数の《個》を調停する)統合か。
それで《個》による専制を打ち負かして成り立つのが近代合理主義=啓蒙思想=立憲主義、
ということになる。その際に参照するのが宇宙、の原理である。
だから現代の《リベラル・アーツ&サイエンス》は
プラトンの宇宙論=『神がこの世界を創始した』=モーセの一神教を土台にしているのだ。 結局、人間社会は《天動説》を採るのか《地動説》を採るのかという話で、
《天動説》は単に地球という“天体が”宇宙の中心に鎮座して動かない、
動くのは『天の方だ』という話ではなく、人間集団の意識に関わる『政治的な話』なのだろう。
森羅万象(=神の創った世界)が“俺を中心に”して動いているのか、
それとも神を中心にして俺を含む森羅万象がその周りを動いているのか、
それが専制政治か立憲主義か、の分かれ道になっている。
日本は結局、意識は中世の戦国時代のまま、
外国からの《借り物の技術》で自分を“強化して”ここまで来てしまった。
しかし『それは限界である』と、明治のお雇い外国人(例えばトク・ベルツ)は言っている。
だからその忠告を聴かなかったから原爆投下を、福島第一原発事故を招いているのだ。
いい加減に悟れ阿呆。 プラトン全集12 『ティマイオス』『クリティアス』岩波書店
『ティマイオス』解説 種山恭子
本編には、そうした自然学説を批判しながら、『国家』の理念を支えるような宇宙論を展開している
『国家』では、魂の正常なあり方と、国家の正常なあり方とがパラレルに置かれて、
次のように論じられていた…個々一人一人の人間にも、理性、激情、欲望の三種類の魂が宿っており、
それに応じて、国家の成員にも、理性的人間、激情的人間、欲望的人間が存在する。
その三種のどれが主導権を握るかによって、個人のあり方も、国家のあり方も左右される
他人の生殺与奪の権を握ることや、自分の欲望の無際限な拡張と充足とに、無上の生甲斐を感じる手合い
(『ゴルギアス』中のカリクレスが代弁しているような連中…)が、政界をまかり通る時に生じる破綻は、
アテナイの現実からも十分見て取れるところであったろうが、
プラトンがまた、「権力政治」から「金権政治」へ、そこから「民主政治もしくは衆愚政治」へ、
そしてついに、最悪の形態たる、
個人の恣意にすべてが委ねられる「専制政治」への必然的な雪崩現象を予測していたこともつけ加えておこう。 「激情の種族」も「欲望の種族」もたしかに、個人においても国家においても、主導権を握る資格のない存在である。
国家で政治の枢要の位置を占める資格のあるものは、「名誉心に憑かれた者(ピロティモス)」でもないし、
「金銭に執着する者(ピロクレーマトス)」でもなく、ただ「知を愛する者(ピロソポス=哲学者)」――
つまり、冷静に推理し、全員にとって何が真に“善い”かを追求し、それを最大の関心事とする者――
だけであろうし、個人においても、衝動的・盲目的な「激情」や「欲望」でなく、
「理性」が主導権を握る状態が、もっとも正常なのである。
逆に言うと、人間の「理性」と同質の、しかしもっと純粋で…もっと強大な「宇宙の魂」が万有を動かしているのだ。
われわれは先に、『国家』では、個々の人間の構造と、国家全体の構造がパラレルに置かれて、
どちらにおいても理性の種族が主導権を握る“べき”だと言った。
本編では、人間の構造が、宇宙全体の構造とパラレルに置かれており、
しかも、宇宙においては、“じっさいに”、理性を宿す宇宙の魂…がすべてを動かしているのである。
「天にある理性の循環運動」は、われわれの「思考の回転運動」を矯正するモデルとなるものなのである…
われわれの理性と同質の、もっと純粋で強力な知的存在が宇宙全体を支配しているという点は、
…まさにそうした…この宇宙論全体の、大前提をなしているものなのだ デカルトを小ばかにしている奴なんて碌なもんじゃないね… ttps://www.youtube.com/watch?v=_ye7iXRx2_k
涙をこえて シング・アウト 合歓の郷 実況録音 1969.7.25 合歓ポピュラーフェスティバル69
惣領泰則 樋口康雄 江崎和子 作詞:かぜ耕士 作曲:中村八大
zyazzxj731 2022/02/28 というか哲学者の著作って自分の妄想を淡々と書いてるだけなんだけどね もちろん、そのような批判は可能なんですけど
その【妄想】の上に科学が造られているのです
そしてそのことを暴くのはこれまた哲学なんです 重力の存在も証明できませんし
熱の存在も証明できませんし
電気の存在も証明できませんし
エネルギーの存在も証明できませんし
生命の存在も証明できませんし
意識の存在も証明できませんし
時間の存在も証明できませんし
科学などというものはそもそも机上の空論ですね
しかしよくよく考えてみますと
存在するものはその存在が証明され得る、などという必然性は
無いわけでありまして 大勢の人が存在すると認めている
それが客観的事実とかいわれる
それだけのこと ははあ
客観的事実であることが存在の証明だと
そしてそれは「大勢の人が存在すると認めているから」
なるほど、多数決こそ真理(まじっすか)
いやでもね皆さん
初めて分子とか原子を言葉として認識したときのことを思い出してみましょうよ
物質が分子、さらには原子とか電子で出来ている、などというのは
教育によって頭からそう洗脳されてるだけ、ではないですか?
原子論は古代ギリシャ時代にデモクリトスが唱えましたけど
それから1000年以上の間、大勢の人がそれを認めたわけではありませんでしたよね
大勢の人が認めていることが机上の空論でしかなかった
そういうことはあってもおかしくないわけです
むしろ大抵はそうだったわけです
妄想Aから解き放たれたと信じているが、妄想Bへと移っただけ
人間の歴史というのは、そういうものですよね ttps://twitter.com/hontwa_bonjin/status/1671346837691990018
近代日本は民主制はじめ西洋由来の考え方を真似してきたが、
実はこれらを正しく受容するには、旧約聖書から新約聖書へ至るキリスト教への理解が不可欠。
しかし日本はそのような文化圏にないので、すべては借り物に過ぎない。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 旧約聖書がわかる本: 〈対話〉でひもとくその世界 (河出新書 055) 新書 ? 2022/9/21
並木 浩一 (著), 奥泉 光 (著)
旧約聖書とはどんな書物なのか。
その世界はあらかじめ神からの絶対的な答えが用意されているようなものではない。
人間はただ神に従うのではないし、そこには〈対話〉がある。
問いかけ、働きかける姿勢があれば、驚くほど面白くなってくるテクストなのだ。
旧約聖書研究のプロとその下で学んだ異才の小説家が繰り広げる〈対話〉に誘われ、小説のように自由で、思想書のように挑発的な旧約聖書の本質がほんとうにわかる!
加藤陽子さん(東京大学教授/日本近現代史)推薦!
「あまりの面白さに、ベッドから跳ね起きてメモをとる。
神を外部に創造し、人権を基礎づけた旧約聖書の真の姿がグッと身近に迫ってくる。」 書評『旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』 並木浩一、奥泉光〈著〉
朝日新聞 2022年11月12日 評・柄谷行人(哲学者)
権力超える「思想的な抵抗の書」
本書は、対話形式による、旧約聖書への読書案内である。
対話を担うのは、聖書学の第一人者と、その教え子である異才の小説家である。
ジャズの「スタジオセッションのようにして行われた」というこの対話は、
軽快な調子で読みやすいが、内容は深遠である。また、ここで提示される旧約聖書の並木訳は新鮮だ。 聖書は、神の啓示として読む人もいれば、文学作品、または歴史資料として読む人もいる。
本書は、そのいずれとも異なり、
誰が、どんな状況で、いかなる意図をもって書いたのか、という観点から考察する。
その過程で、イスラエルのような弱小民族がなぜ
国土を失って離散しながら生き残ることができたのか、それがいかに奇蹟的なことであったか、
また、その民族の苦難の結晶である旧約聖書が、いかに圧倒的独自性を持つものであるのか、
さらにはそれがなぜ、自由、平等、人権といった
近代的理念の淵源とされるまでの世界史的影響力を持ちえたのか、
といったことが、浮かびあがってくる。
旧約聖書は、何百年ものあいだに複数の人々によって書かれた、
きわめて多様な文書をまとめたものである。彼らが生きた古代イスラエルは、
「当時の巨大文明圏、エジプトとメソポタミアの狭間にあって、
たえず両文明から圧迫される、あるいは吸引される状況下にあった」。
民族消滅の危機の中で、
「自分たちのアイデンティティを確立し保持していくことが大きな課題だった」。 そうした状況にあって、イスラエルの民は、
メソポタミアでもエジプトでも支配的であった王権と国家のあり方を批判し、
国家ではない「アソシエーション」のような社会を希求した。
著者たちは、旧約聖書は、何よりもこのような「思想的な抵抗の書」であると見る。
たとえば、冒頭にある天地創造のくだりは、「神話」のように見える。
しかし、そうではない。神話というものは一般に、
現行の支配体制と支配者の神的な起源を語って、それらを正当化する性格をもつ。
つまり、王(権力)と神が、実質的に等しいとみなされる。
しかし、天地創造を読み解いていくと、権力と神とは対立するものである、という思想が見えてくるのだ。
つまり、権力は人間がつくった悪しきものにすぎず、神はそれをはるかに超える力をもつ。
示唆されるのは、現状は、必然でも運命でもなく、変えることができること、
そして人間は平和を築いていくべきであり、
神はその仕事を人間に託したのだ、という信念である。 ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/555-567
中央公論 1998年2月号 木田元「『哲学』とはなんであったのか」
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/561-563
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/585-591
新潮45 1995年10月号 木田元「日本人に哲学がわかるか」 ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1635849331/262-274
木田元『日本人に「哲学」がわかるか』新潮45 1995年10月号
それにしても、「哲学」とはいったい何であろうか。
私自身のことを考えてみても、ほとんど半世紀近く哲学の勉強をしてきたそのあいだに、
「哲学」についての考え方はずいぶん変わってきた。
はじめのうちは私も、誰でもが考えるように、哲学というのは普遍的な知だと思っていた。
つまり、哲学とは、どの文化圏にもどの時代にもなんらかのかたちであるような
人生観・世界観のたぐいだと思っていた…ところが、だんだんそうは思えなくなってきた。
哲学というのは、「西洋」と呼ばれる文化圏に特有の知の在り方、ものの考え方であって、
われわれ日本人には決定的に分からない部分があるのではないか、と思うようになった…
中央大学に就職して、自分で講義をしてみると、いっそうその思いが強くなってきた。
しゃべっていて、自分で納得できないことが多いのである。 私がそんな疑念をもつようになったキッカケは、西洋の近代哲学、
たとえばデカルト哲学の中心概念の一つである「理性」の概念にひっかかったところにある。
「理性」というのは近代哲学のもっとも中心的な概念の一つであって、
これが分からなければ近代哲学はまったく分からないといったほどに重要なものである。
たとえばデカルトが『方法叙説』の本分の冒頭で、
「良識はこの世でもっとも公平に配分されているものである」と言うときの
「良識」(ボン・サンス)も実は理性にほかならない。
当然私も、はじめのうちはそうした理性をちゃんと持ち合わせているような顔をしていた。
先生も先輩もみなそんな顔をしているし、これが分からないなどと言い出したら、
哲学をやる資格がないと言われかねない雰囲気だった…しかし、内心では、
いくら自分のうちを探してみても、そんなものはとても見つかりそうもないと思っていた。
われわれ日本人が「理性」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、
われわれのもっている…認知能力のうちの比較的高級な部分であろうが、
近代の哲学者の言う「理性」とはそんな生やさしいものではない…
われわれがもっているような理性概念を持ちこんだりしたら、
近代の哲学書は一ページも理解できないにちがいない。 西欧近代の哲学者の言う「理性」とは、
他の人間的諸能力より程度が高いといったようなものではなく、それらとはまったく質を異にする。
それは、神が世界創造の最後の段階でおのれに似せて創造した
すべての人間に分け与えた特別の能力、
つまり世界創造の設計図になった神の理性の派出所・出張所のようなものであり、
人間のうちにはあっても、一種超自然的な能力なのである。
だからこそ、「すべての人間に公平に配分されている」ことにもなるわけだし、
他の人間的能力(たとえば感覚機能)の働きを停止し、この理性だけを正しく働かせれば、
万人が真だと認める普遍的認識を手に入れることもできることになる。
同時にその認識は、世界創造の設計図の写しのようなものであるから、
客観的妥当性(世界の存在構造との合致)を保証されていることにもなる…
近代の哲学者たちは、数学的認識にそうした理性的認識(感覚的経験の助けを借りずに、
理性の力だけで得られる普遍的かつ客観的認識)の典型を見ていた。 こんな理性概念は、どう考えてみても、
キリスト教的世界創造論のような特殊な前提の上に立たなければ生まれえないものであろう。
たしかにカント以降の近代哲学は、そうした神学的前提は取り払ったが、
しかしカントの「意識一般」の概念にしても、無条件に「汝なすべし」と命ずる定言命法にしても、
所詮右のような理性概念のヴァリエーションでしかない。
つまり、右のような理性概念から出発し、
それに必要な修正をくわえることによってはじめて形成されうるようなものなのである。
こんな「理性」が、そうした神学とまったく無縁なわれわれのうちに見当たらなくても当然である。
しかし、私にしても、はっきりそう確信して、
こういうことを言い出すようになるまでには、ずいぶん時間がかかった。
右のような理性概念はそれほど自明のものとして、受け容れられていたのである。
では、そうした超自然的能力の想定はもっぱらキリスト教にもとづくものかというと、そうも言えない。
というのも、すでにキリスト教に先立つ古代ギリシア哲学のうちにも、
たとえばプラトンの説くイデアや
それを直感する能力であるヌースのような超自然的な契機が認められるからである。
むしろ中世や近代初頭の「理性」概念が
このヌースのキリスト教的変容として生まれたと見るべきであろう。 哲学の勉強をはじめた当初、私にはこのプラトンのイデア論も分からないものの一つであった。
なにしろプラトンは哲学の元祖のような人、
その思想に疑念を感じるなんてことはとうてい許されることではなかったが、
それでも私には、どうして永遠に不生不滅不変不動な
イデアのような超自然的なものを想定することが当然だとされるのか、いっこうに納得できなかった。
こんなふうに考えているうちに、
どうやら「哲学」というのは、こうした超自然的原理を設定し、
それに照らして自然なり世界なりを見ていこうとするかなり特殊なものの考え方、
思考様式ではないかと思うようになった。
われわれ日本人の思考圏には、こうした超自然的な原理はまったく見当たらない。
これは別に私だけではないと思う。われわれにとっては自然がすべてであり、
それを超えたものなどおよそ考えに入ってこない。いや、これは日本に限らず、
およそ「西洋」以外の文化圏では一般にそんな超自然的原理など持ち出すことはなく、
自然をそのままに受けとっているのではなかろうか… こんなふうに考えると、超自然的原理を設定し、
それを参照にしながら自然を捉えようとする思考様式
――この特殊な思考様式がどうやら「哲学」と呼ばれてきたようだが、
これはむしろ形而上学的(メタフィジカル)(=超自然的)な思考様式と呼んだ方が分かりがいい――は、
「西洋」という文化圏に独自のかなり特殊なものの考え方だと見てよさそうに思えてくる。
中世以降のキリスト教神学やそれに支えられた近代の理性主義哲学は、そのヴァリエーション、
あるいはその中世的および近代的更新と見ることができよう。
この種の考え方には、われわれ日本人にとって
決定的に分からないところがあるし、あって当然なのである。 ところが、西洋の哲学といっても、現代哲学になるとだいぶ話が違う。
これはわれわれにもかなりよく分かるのである。私はもともと、
ハイデガーやメルロ=ポンティをはじめとする現代のドイツ・フランスの哲学を勉強してきたのだが、
よほど特殊な思想家を除けば、現代哲学には近代哲学に感じたような違和感はもたなかった…
はじめのうち私は、近代哲学に感じる違和感は時間が隔たっているせいで、
現代の哲学者たちの考え方は、時代を共有しているから分かりがいいのだと思っていた。
しかし次第に、どうも…思想の質が近代と現代とでは決定的に違うからだと、考えるようになった。
というのも、ニーチェ以降の現代の思想家たちは、
プラトン以来の形而上学的思考様式を懸命に乗り越えようとしているからである。
彼らは、この特殊な思考様式こそが近代ヨーロッパ文化の形成原理として働いてきたことに気づき、
はっきりと先の見えてきたこの文化を克服するために、
当面その批判の矛先をこの形成原理に向けるのであるが、
その際彼らが批判の拠点にするのが「生きた自然」という概念である。 たとえばニーチェや、その思想動機を継承するハイデガーは、
ソクラテス以前の思想家たちの自然観に着目する。
つまりソクラテス/プラトン/アリストテレスと三代にわたる師弟が活躍する
ギリシア「古典時代」に先立つ時代であり、この時代をニーチェはギリシア「悲劇時代」と呼ぶ。
そしてこの時代は、アナクシマンドロスやヘラクレイトスに代表される
いわゆる「ソクラテス以前の思想家たち」の生きた時代でもある…
アナクシマンドロスやヘラクレイトスといったこの時代の思想家たちは、
一様に「自然(フュシス)について」という同じ題で本を書いたという伝承があるし…
彼らの関心がもっぱら自然に向けられていたことは確かである。
アリストテレス以来これまでの哲学史家は、この「自然」を外的・物質的自然と解し、
ソクラテス以前の思想家たちは物質的自然の基本的構成要素を探しもとめ、
それを水だ、火だ、地水火風の四元だと主張する
いわば幼稚な自然科学的研究にふけったのだという俗説を流布させてきた。
この俗説を打破したのがニーチェである。
彼はソクラテス以前の思想家たちの言う「自然(フュシス)」は、決して外的・物質的自然…を指すのではなく、
むしろありとしあらゆるもの、「万物(タ・パンタ)」、つまり存在者の全体を指していると主張する。 こうした自然観は、アニミズムの洗練された形態であり、
日本に限らず農耕民族にとってそれこそ自然な自然観であって、
われわれ現代人の意識の「古層」にもひそかにいきづいている…
むしろ特殊なのは、そうした「自然」の外に、
生成消滅をまぬがれた超自然的原理を想定した「西洋」と呼ばれる文化圏の方である。
その結果、西洋はそうした超自然的原理を目指して自然を離脱し、
自然に離反する方向で、つまり反自然的な文化形成、
結局は不自然な文化形成をおこなうことになったのであり、
そこからいわゆる技術文明も形成されてきたわけだが、
そのいわば作戦本部の役割を果たしたのが「哲学」だったのである。
私が西洋の哲学には決定的に分からない部分があると言った意味はお分かりいただけたかと思う。
そんな西欧の哲学を、最高の普遍知、ひたすら有難いものとして受け容れ、
分かったようなふりをするのもおかしなことである。
どうやらこれがこれまでの日本での西洋哲学研究の基本的態度だったわけだが、
もうそんなことはやめて、
自分に素直にものを考えてみようというのが、私が「反哲学」を提唱する意味である。
私はこの「反哲学」の立場に立ってはじめて、
日本で西洋哲学を勉強するということにつきまとう居心地の悪さを脱却できたような気がしている。 反時代的密語 梅原猛 朝日新聞
近代という時代は二つの哲学によって支配されている。一つはデカルトの哲学…
それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然を対立させ、
人間が自然の法則を認識することによって自然を支配し…
武力と経済力を獲得することを最大の善とする思想…
もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブスの哲学…
それが理性によって人間が他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。
この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。
デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。
天台本覚論は、動物…すべての生きとし生けるものに仏の性があり、
それらはやがて仏になるという思想…
プラトンに始まる西洋合理主義の文明が科学技術文明を生んだが、
今この科学技術文明は人類の滅亡を招く危機を生んでいる…こ
の人間中心主義が、近代哲学の開祖となったデカルトにおいてより明確に現れる。
文明の危機を免れるには、
このような人間のみが持つ理性を聖化する人間中心主義を厳しく批判しなければならない。 旧約聖書がわかる本: 〈対話〉でひもとくその世界
80年代にポスト・モダンが流行ったり、
90年代に木〇元や梅〇猛がプラトンやデカルトを否定
(することで一神教のような超越的理念を同時に否定)しようとしたときに、
何故、超越的理念や一神教を
(村〇〇〇郎や木〇元らが決めつけるような存在では全くないことを)正しく説明しようとしなかったのか。
西欧人らが信ずる《唯一絶対の神》とは、
その他を否定する『極めて狭量な価値観である』(それに比べて多神教は…)
と吹聴する日本人エリートに、とんでもない、
一神教から自由、平等、博愛の、人権思想という、近代的理念が生まれたのだという、
それを何で説明しなかったのか、対抗しなかったのか。
(〇〇〇議や〇〇〇会に侵食された〇〇政権が、戦後憲法を明治憲法に戻そうとしたり、
気に喰わないニュースキャスターやジャーナリストをテレビから追放したり、
公文書改ざんやGDPデータの書き換えなど、やりたい放題を許した)
今ごろこれを言うのは証文の出し遅れではないか?言わないよりは遥かにマシだがね。 ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1409864848/161-178
米本昌平「再建せよ 科学者の社会的責任を 特集 オウムの教訓」 中央公論 1995年7月号
科学技術の社会的倫理的問題を考察…している以上、
オウム真理教事件について、科学技術倫理ともいうべき視点からコメントをつけろと言われる…
この種の依頼は…ほとんどをお断りした…
問題の核心は、依頼し…た側が考えているよりもはるかに深い…と思ったから…
イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』…は
「理性的人間にとってのカルト」という巻頭評論を掲げ…
カルト集団であるオウム真理教は、毒ガス製造…だけではなく、核兵器まで手に入れようと考えていた…
戦慄すべきこと…科学情報という点から…核兵器製造の情報を得るのは容易…
しかし幸い…に、これまでの科学教育は非合理に対抗する態度を育成してきた。
驚くべきことは…その科学者たちは何が魅力でオウム真理教に加わったのか、ということ…
オウムは…何か特別な利益を提供したのか、
あるいは…現在の科学教育が世界の合理的理解ということから…遊離し、
いまや科学者さえもカリスマ的カルトを簡単に信じ…
どこにでもいる人間と同じになっ…たのか、という疑問である」
ここでは、われわれ日本人が、高学歴とカルト集団の関係を問題にするよりも、
はるかに異質の明晰さで問題の設定がなされている… 『ニュー・サイエンティスト』の議論の根底には、科学者とはその本姓として、
実証的な思考手続きを踏んだ理性的世界観にたつ人、という固い信念がある…
タイトルのカルト(熱狂・邪教)は蔑称であり、
これと理性的人間=科学者とが対比的に並べられている…
オウム問題につなげると、八〇年代前半の日本の出版業界は、
アメリカ社会の片隅で少しばかりはやっていた疑似科学的言説に
ニューサイエンスという名をかぶせて導入し、一時的に読者需要を掘り起こし…
これに…日本の少なからぬ知識人は、
これを世界的な科学思想の流行であるかのような素振りで、追認…
どれが妥当な自然観であり、どこからが非科学的…臆説であるか…
日本の知識人・科学者集団は行うことなく放置した…
これは…市場原理に知的権威を代行させてしまう…本来ありえないことを是認…
西欧近代はその歴史の中でlearned profession という特殊な専門職能集団を育ててきた…
社会のなかで、非常に特殊な専門知識や技術を扱う…
神父、医師、法律家という…職能集団がこれ…いったん資格を獲得すると、
半自治的な職能集団(ギルド)に属す…独自の厳格な倫理規定に従うことが求められ…
特別の職分として…価値中立性が求められる… たとえば、場の状況や依頼者の身分によって専門的サービスの内容が左右されない…
医師であればどんな状況下にあっても救命を最重視する…
その代わりに、そう簡単には一般の社会的責任を問われないという特権が与えられる…
オウム真理教事件に関与した弁護士や医師たちは、
このような現代社会における専門職能集団としての規範原理を根底から踏み破っている…
ところが今回の組織犯罪に多数かかわった医師たちは、このような懲罰を受けることはない。
日本医師会は任意加入の社団法人でしかなく…
つまり日本の医師制度は、プロフェッションとしての自治、
もしくは職業倫理を遵守するための仕組みという点で、致命的な欠陥を抱えている…
この視点を拡張することで、
彼らをも含めたオウムの科学者一般が抱えている問題点も、見えてくる。
専門教育を受けた者…の研究動機や…倫理性…世界解釈のあり方が問題にされるべき… 日本の大学のなかで若手科学者が置かれている現状は想像以上に劣悪で…
教育の理想からはほど遠い状態…ともかく論文を書くことを求められ、
ほとんどそれが自己目的化し…
自分が行っている研究の意義を自問している余地はゼロに近く、研究費も乏しい…
しかし、そのような物理的な条件が魅力だったと言うのであるならば…
それほど深刻ではない。研究条件を改善すればいい…
だが事態は全く逆で、『ニュー・サイエンティスト』の結びにあるように、
現在の科学教育、とくに日本の大学における自然科学教育が、
何か決定的に重要なものを伝えてはこなかった事実が、
とり繕いようもなく赤裸々になってしまった…
三十歳、四十歳という…人間としても分別盛りの…医師や科学者たちが、
オカルト教義に…心もゆだね、組織犯罪の中心的機能を果たしてしまった…
この事実は、日本の専門家教育の知の伝達の場が、
伝えるべきもの…を無意識のうちに溶解させてしまっていることを示している… 近代科学を生んだ欧米では、科学研究に従事することは、
科学的世界観の拡張という哲学的目的の一角を担うことという共通了解が…なお存在する。
この意味で、研究者は明らかに知的エリートであり、
実証主義的手続きと合理的世界解釈は…単なる文言ではなく、
彼らの世界に対する哲学的態度そのもの…
こういう研究動機の切実さは、日本の研究者には希薄…
その一因は、科学研究そのものが約百年前から移植された外来物で…
哲学的衝動までをも伴ったものではなかったから…
これは、大学のカリキュラムを変えればいいという次元の話ではない…
近代科学の実利主義的な面の制度化と研究の社会からの隔離は、
日本の大学アカデミズムにとってその出生以来の本姓…
しかし、今回の事件で明らかになったのは、日本の研究者社会が、
他先進国におけるのと同等の、
専門家集団としての社会的責任やこれを果たす機能をもっていなかったこと…
それを引き受けるだけのエネルギーと志とを枯渇させてしまっていたこと…
日本の大学が、高等教育機関としても研究機関としても、言い換えれば
知の伝達・保存・創出のあらゆる点で、時代錯誤の状態にあることは、繰り返し指摘されてきた。 しかし何も変わらず…オウム真理教事件が起こった…
これまでは水面下に隠されていた日本の専門教育の巨大な欠陥が、
世界的な次元で暴露されてしまった…
今回の事件の背後には冷戦後の権威の崩壊があるとする指摘は、確かに正しい…
その意味するところは、「構造化されたパターナリズム」社会である日本を、
冷戦時代のように体制・反体制という
イデオロギー的図式で説明したつもりでいることが許されなくなること…
冷戦時代には無自覚にイデオロギー色をこめて解釈していた権力や社会制度を…
社会システムとして把握しなお…す…ため…
その中で、日本の大学アカデミズムはやはり徹底的に俎上にのせるべき対象…
ところが日本だけは、大学アカデミズムを中心とする公的研究部門が、
このような先進国型社会の…波に洗われないまま放置されている。
その理由の一端は、政治的には「構造化されたパターナリズム」社会として、
主要な社会的決定を無根拠に中央に委ねてしまう構造だったから…
大学アカデミズム…も、問題志向的・政策志向的な研究動機に乏しく、
専門分化という硬直化が進みすぎ…たからでもある…
こういう権力機構の運転休止状態はそれ自体、
日本の政治空間が深い知的脱落感に覆われていることの明確な証拠…
オウム真理教事件を「偏差値エリートの犯罪」と指摘してみせるのではなく、
その背景と素地を確かに形成してしまった、日本の知性の知的怠慢と退廃をこそ直視すべき >オウム問題につなげると、八〇年代前半の日本の出版業界は、
>アメリカ社会の片隅で少しばかりはやっていた疑似科学的言説に
>ニューサイエンスという名をかぶせて導入し、一時的に読者需要を掘り起こし…
>これに…日本の少なからぬ知識人は、
>これを世界的な科学思想の流行であるかのような素振りで、追認…
>どれが妥当な自然観であり、どこからが非科学的…臆説であるか…
>日本の知識人・科学者集団は行うことなく放置した…
>これは…市場原理に知的権威を代行させてしまう…本来ありえないことを是認… >これに…日本の少なからぬ知識人は、
>これを世界的な科学思想の流行であるかのような素振りで、追認…
>どれが妥当な自然観であり、どこからが非科学的…臆説であるか…
>日本の知識人・科学者集団は行うことなく放置した…
>これは…市場原理に知的権威を代行させてしまう…本来ありえないことを是認… これがもう直ぐ30年前の話だ。大事件は有ったけれど、教訓も立て直しも出来ていない。 >しかし、今回の事件で明らかになったのは、日本の研究者社会が、
>他先進国におけるのと同等の、
>専門家集団としての社会的責任やこれを果たす機能をもっていなかったこと…
>それを引き受けるだけのエネルギーと志とを枯渇させてしまっていたこと…
>日本の大学が、高等教育機関としても研究機関としても、言い換えれば
>知の伝達・保存・創出のあらゆる点で、時代錯誤の状態にあることは、繰り返し指摘されてきた。
>しかし何も変わらず…オウム真理教事件が起こった…
>これまでは水面下に隠されていた日本の専門教育の巨大な欠陥が、
>世界的な次元で暴露されてしまった…
>その中で、日本の大学アカデミズムはやはり徹底的に俎上にのせるべき対象…
>ところが日本だけは、大学アカデミズムを中心とする公的研究部門が、
>このような先進国型社会の…波に洗われないまま放置されている。
>こういう権力機構の運転休止状態はそれ自体、
>日本の政治空間が深い知的脱落感に覆われていることの明確な証拠… >日本の大学が、高等教育機関としても研究機関としても、言い換えれば
>知の伝達・保存・創出のあらゆる点で、時代錯誤の状態にあることは、繰り返し指摘されてきた。
>しかし何も変わらず…オウム真理教事件が起こった…
>これまでは水面下に隠されていた日本の専門教育の巨大な欠陥が、
>世界的な次元で暴露されてしまった…
>その中で、日本の大学アカデミズムはやはり徹底的に俎上にのせるべき対象…
>ところが日本だけは、大学アカデミズムを中心とする公的研究部門が、
>このような先進国型社会の…波に洗われないまま放置されている。 >こういう権力機構の運転休止状態はそれ自体、
>日本の政治空間が深い知的脱落感に覆われていることの明確な証拠… >その中で、日本の大学アカデミズムはやはり徹底的に俎上にのせるべき対象…
>ところが日本だけは、大学アカデミズムを中心とする公的研究部門が、
>このような先進国型社会の…波に洗われないまま放置されている。
>こういう権力機構の運転休止状態はそれ自体、
>日本の政治空間が深い知的脱落感に覆われていることの明確な証拠… ペリーに起こされるまで、江戸時代が250年続いた理由が分かるw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています