哲学するってなんのためにするのか?
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>>107
”様々なロ−カル知識や伝統の初期化というのが必要不可欠”と書いているが
その取りと思う。
ただ、”疑う”という思考活動は、外界そして、自身の身の回りの”一切の既成概念”を
疑うことであり、その思考活動の到達点が明証的状態です。この明証的状態というのは、
その人の知識の幅、気力、経験によって、明証的状態の感じ方の個人差が出る。
>>102に記している様に自身が高揚感を持って感じられる”明証的状態”が重要ポイント
となる。 これ以上”疑う”という思考活動を続けられない、と感じたところで中止する。
従って、”明証的状態”の感じ方は、個々人の知識の幅、気力、経験によって異なる。
デカルトも”真に対して少しでも疑わしいものは退ける”と書いているが、その思考活動に
於いて、明証的状態が厳密にこうであらねばならない、とは書いていない。 それは、
個々人によって、明証的状態の感じ方・捉え方があることを理解していたからである。
重要なことは、”明証的状態”が厳密に、こうあらねばならない。と言うことではなく、
自分自身が意識して、一切の既成概念を疑うという”思考活動”が重要な訳です。
その思考活動を自己の能力の範囲内で進め、その結果として到達した”明証的状態”を
受け入れることが最も重要なことである訳です。 明証的状態に達した時に感じられる高揚感はランナーズハイみたいなものだね。
カントの言う”崇高”を思い出した。そういう理解で良いんだろうか。 史実や背景を知れば知るほどソクラテスが死刑にされた理由がわかる。
こんな問題ある人間は死刑になって当然だわ。
ただこういうマイナスフォーマットする思考人間というのは絶対必要であるのだな、とも分からせられる。 >>1
思想は常に時代によって変化や更新を求められるから
常識への疑問や動機として初期化願望があるため。
新しいことへは古さの解体がまずあるため。 未来への前進には皮肉にも古さへの引き算思考が併せて必要不可欠というのが
ソクラテスやナザレのイエスから分からせられる。 高揚感と明証性は何の関係もないよ
自己啓発セミナーでもオウム真理教でも痴漢行為でも当人たちは
高揚感を感じているはず。宗教的な没我や高揚も同じ
ヤク中でも高揚感くらい感じていることだろう オウムは知らんが新興宗教(倫理○人会みたいなのも含む)も自己啓発セミナーも弱者や低脳からの搾取だと思う。 >>123
明証的思考は、忍耐力、そして気力・探求心が求められる。
思考を深めれば深める程、忍耐力と気力が求められ、又、苦しみも加わってくる。
この状態は、登山にも似ている。 しかし、自分の能力と気力の出来うる限りの力を
振り絞り、その結果として、自分の限界に達する状態は、登山での自己の限界まで
挑んだと同じ状態と思う。 自分の限界点が山の中腹であっても、或いは、”真”という
頂上がまだ先にあっても、そこで得る崇高感は、”真”となるものへ近づいたという達成感と
一つになって、自身の意識の中に、じわじわとわき起こってくるのを感じる。
この達成感・崇高感そして高揚感は、明証的思考を重ねるごとに更に強まってくる。
さらなる高みへ行こうとする意識が、自身の内にわき起こって来るのを感ずる訳です。 だから、オウム信者も似たようなことやっているってw
修行してただろう、散々
明証性とは関係なし >>104
明証的状態の中で、カ−ドを並べ ”カ−ドをして語らしめる”という思考活動を
何回か実行しているうちに気がついたのですが、この明証的思考の活動は、普段、我々が
行っている思考方法とは、何か違う様に感じます。
明証的思考と、普段、意識して行っている思考方法とは違いがあるのでしょうか? 物事をはっきりさせる為に突き詰めて考える。それが哲学。はっきりした瞬間に、
神が降りてきたかのような心地がするかもしれないが、
それもまた日常の一コマであり、
変に日常との断絶を持ち込まないほうがいい。 日常の労働や作業としての勉強や反復練習からも哲学できるかもしれないが、
哲学することはある種日常の範囲内での気分転換と見るのが良いかもしれないね。 無意味なものに意味を付与できたつもりになりたいからだろう 哲学することに意味があると決めるのは誰でも良い。
>>137が想定する主体でなくても良い。 >>134
なかなか鋭い観察眼ですね。
我々は、明証的思考を普段の生活に於いて、無意識に行っているのです。
この無意識に行って明証的思考をカ−ドを介して”意識的”行う訳です。
なぜ、カ−ドを介して意識的に行うかというと、問題の解決に対して、より確実に
深く掘り下げて、解決の手順を記録として明確に残す為です。
それから、”明証的思考は普段、意識して行っている思考方法とは違いがあるのでしょうか”
と言う質問ですが、明証的思考を端的に述べると、”前提”を設定しない思考方法です。
”前提”を設定しない明証的思考によってカ−ドに記入された種々の問題等を総合的に
考察し、創造・発想を創出させ、その時代・状況に即した解答・解決策を得る思考方法です。
この様に述べると、まったく新しい未知の思考法に思えるが、実は普段、我々が無意識に
行っている”理性”を意識的に行っているだけです。
一方で、貴方が述べている”普段、意識して行っている思考法”とは、”前提”を設定した
三段論法などの、一般的に言われてる”論理思考”の方法です。この明証的思考と論理思考は
車で言うところの両輪の関係としてある。明証的思考と論理思考の活用により、明証的思考に
より創出された解答(=結果)を論理思考によって、実践的分析と計画、そして手順が考察される。
この明証的思考と論理思考の活用が、これからの時代に理想的な思考方法として取り入れられて行くでしょう。 よくある右脳(直観・無意識)と左脳(分析・意識)による認知モデルと同じこと言っているのかな >>1
『トンキャンするため』ってコイツ↓が言ってかも?
ANIFALAQ
トンネルキャンプキラーだからブロックオススメだよ >>135
”変に日常との断絶を持ち込まないほうがいい”述べているが、その通りと思う。
私の場合は、哲学を総合学問と捉えているので、登山と同じように、初級、中級、上級の
三段階に分類している。初級、中級は日常の労働や作業としての勉強や反復練習として
哲学をする習慣を身につける様に心がけている。日常の生活の中で、哲学(明証的思考と論理思考)を
生かしていく、充実させることは可能であり、上級の哲学とのバランスを取りながら進めている。 >>140
>よくある右脳(直観・無意識)と左脳(分析・意識)による認知モデルと
同じこと言ってるのかな。
>右脳と左脳の働きは関係があるのではないかと考えられるが、明証的思考の場合は、
直観だが無意識ではなく、意識的に行うところが異なっている。又、左脳の場合は
分析・分解、そして組み立てを意識的に行う。
思考手順としては、明証的思考で創出した結果を、論理思考にて分析・分解し、筋道を
たてて組み立てるという思考活動を行う。 哲学は、極限的な思考で、世の中や宇宙が 分かったような気になるため。
人間は 自分だけでは生きていない、当然 分かったような気になりたいと
思うのは 分かったようなことを他人に言いたいから。
こうして、傲慢な人間が多数できあがり、人間の傲慢が膨れ上がり、今日の人類の窮状となっている 知性、理性の信奉者は 神のように極限が分ると妄想しはじめる。謙虚とはほど遠い。 考える力を鈍らせてはいけない
と考える俺はなんの信奉者なんだろう 分かったようなことを言うのはそんな悪いことじゃない気がする。その影響度が大きいときの話だよね。
でもそれ自体は合理的な人間が上に行くシステムである以上はしょうがない事だと思う。脳の専門家が言うには人間は非合理な状態だと頭が不安になったり怒るということらしいからさ。 てか全てを分かるってのは無理だろ。。。って思う僕でした。 少なくとも 囚人番号 >>152 は ろくでもない存在であることが 確定。 分かったことを言うなと分かったようなことを言うために分かったようなことを学ぶんだろう >>149 分かったようなことを言うのはそんな悪いことじゃない気がする。
確かに 傲慢をなしに言うのなら悪いことじゃない、でも人間とは分かったような気がしたとたんに
心の奥底に 傲慢の小さな芽が密かに芽生えている。それに気がつかない人は
なにもしないから、傲慢の芽はがん細胞のように広がっていく。
そして傲慢な人間ができあがり、傲慢な人間の集団である 傲慢な人類は おぞましい状態になっていく >>145
>極限まで考えたら却って謙虚になりそうなものだが。
>私の場合は、極限まで考える前に、いつも自身の能力の限界を感じ、
途中で中止することが多い。 しかし、ハイデガ−哲学の現存在と存在との
連関を考察している時は、自身の限界を感じながらも、その先の極限を想像し、
なぜか、謙虚な気持ちにさせられる。 >>147
>考える力を鈍らせてはいけないと、考える俺は何の信奉者なんだろう>
>我々は、普段の生活の中で、無意識に理性を働かせている。”考える力を
鈍らせてはいけない”と考えるのは、理性に目覚め、”意識的”に理性を働かそうという
気持ちの表れと思う。 これだけ文明が進歩しても嫌な人間との関わりを
拒否できない社会は未熟すぎる
人とか変わらないと生きていけないのも雑魚い 引きこもり向けなのは一要素であることに気付いていないのなら単なる自己紹介になってしまう恥ずかしさがあるな 物事の本質を解明し普遍的な原理や不変的な真理を探究する為に哲学します ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています