仏教哲学総合スレ6
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俺だって将来殺人犯にならないとも限らんね。
親がボケて手に負えなくなって、老人ホームに入れる金も無し。介護するのはキツ過ぎる。そうなれば親殺して楽になろうとか考えるかもね。
泥棒とか詐欺だって絶対やらないと確信して言えるものかね。
ナマポだっていつ打ち切りになるかもわからん。
俺は今は働いているが、将来没落して盗人になる他ないなんてこと普通にあり得る。
まあ仮に泥棒になるにしても頭悪いから詐欺は無理だろう。せいぜい受け子か。喧嘩も強くないから強盗は無理。
刑務所で他の囚人に虐められまくるんだろうな。それで自殺するか。
ホームレスとか嫌だよな、風呂入れなくてよ。潔癖症の俺がホームレスになるなど人生最悪の屈辱だろう。ちゃんと風呂入れるなら囚人の方がまだ幸せかも。
盗人や人殺しやホームレスになるかもしれんが、強姦魔にだけは絶対なりたくねえ。
盗むのも人殺すのも乞食するのも生きるためには仕方がないこともあるかもしれん。だが、強姦だけは生きるために仕方がないことではないからな。 無法地帯に行ったら弱くなる奴は本当は弱い奴
無法地帯に行ったら強くなる奴は本当は強い奴 なぜフェンスが建てられたかを理解するまでは、決してフェンスを外してはならない イエス・キリストの奇跡講座によると、この世界では確かにゼロサムゲームです。
りんごを10個持ってたとして、5個他人にあげれば、自分は5個減って、5個になります。
しかし、5個他人から奪えば、15個になります。
つまり与えれば失い、得るためには奪わなければなりません。
このゼロサムゲームが、受験戦争、出世競争、経済の理論の土台をなしています。
しかし、天国(涅槃)では与えたら得るのです。
これが神の法則です。
神がご自身のすべてを、神の子に与えたように、天国では与えれば増えるのです。
そして、私たちの救済はこの「与えれば得る」という法則によって達成されます。 「与えれば得る」という法則は、心に適用されます。
私たちは自分のアイデンティティーを、肉体と同一視しているので、気が付きにくいですが
私たちの正体は心なので、心は与えれば得ます。
例えば、他人を赦せば、その赦しは自分の心に与えられます。
この神の法則では、他人も自分も赦しを受け取ります。
私たちの救済はこの法則にかかっています。 自然の原則と人間の原則という矛盾する二つの原則の両方を尊重できるのが大人である 例え身内の者や、あるいは自分自身に対してすら批判を加えることができるのでなければ、反社会的であると言えよう。 阿弥陀仏は必要悪のみを許す。必要悪でない悪を許しはしない。 .
輪廻転生はインドで信じられていた迷信に過ぎない。仏教の根本的に間違っている所はここなのだ。まぁ、嘘も方便かもしれないけどね。
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輪廻転生はインドで信じられていた迷信に過ぎない、と思うなら仏教じゃなくてチャールヴァーカの思想を勉強すればいいよ。まぁ、仏典を素直に読めば釈尊が輪廻を説いていたのは明白。 日本では、いじめられっ子の不登校が心の病気扱いされ、カウンセリングの対象となる。
しかし、外国ではいじめっ子の加害行為が心の病気扱いされ、カウンセリングの対象となる。
いじめ、虐待、犯罪、戦争犯罪、不倫、そういったものは、懲罰の対象であるばかりでなく、精神治療の対象でもあるのかもしれない。 あそこまで徹底的に考えた人が安易に輪廻を受け入れているようにみえるところがなかなかわかりづらいところだ。
わかりえない無記に属する事柄だといまだにおもふ。 >あそこまで徹底的に考えた人
本人の著作もないのによく分かるね 著作がないから、なんて言い出したら、なにもかたれなくなる。 君たちほど理性的な人間が、著作がない人間の正気度をなぜ測り得るのかね。
ゴータマ・シッダールタが業も輪廻も本当のことだと受け入れたという考えが受け入れられないのは自己投影ではないかね
文献を素直に読解しよう 自分が豚だったら人間に食われていたし、豚が人間だったら豚を食っていたのだ。 人類の平均より善人にならなくともよいから人類の平均より悪人にならぬように >>125
嘘も方便と言った人だよね?だったら結構重要な概念が方便としての嘘だった可能性もあるんじゃない?
そもそも、当時の多くの人が信じていた輪廻転生という概念を否定しちゃうとみんな信じてくれないと思うから、聡明で多くのひとに教えを広めたい人は既存の宗教の一部を肯定すると思う。
輪廻転生もそういうものだったのかもよ。
あと、文献の解釈の仕方の違いを、相手に内在する問題ではないかと言うのは、自由な解釈を阻む権威主義的な態度だと思いますよ?あまり好ましい姿勢ではないと思います。 地球の歩き方【インド編】
寒さと暑さと、飢えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
ゴータマ・シッダールタ SDG sとかいう以前に
全員が自分て
知ってるから
そんなローマ字4文字
並べなくていいよ 民意とか読む必要あるのか?
一億人
全員俺にかかって来いよ
俺が相手してやる
絶対負けてやる 江戸時代の日本とか
高齢者とか肉親の死に対して
そんなにうろたえなかったと思う
今が弱すぎると自覚した方がいいと思う
そろそろお別れの時間か
ほいじゃあな
みたいな
イヌイットみたいに
けして冷たいという意味ではなく
もはや時間じゃないんだよね
大切さって >>128
私の解釈は、釈迦自身はなにも書き残していない。つまり残っているのはまわりにいた人の聞き書きです。
まわりの人々の解釈が当時のあたりまえである輪廻をなんの疑問もなく受け入れている状況で釈迦の言葉を解釈したからなんだとおもいます。 >>128
文献の正確な読解と自由で開かれた読解はちゃんと区別して考えようね
じゃないとトンデモ解釈になっちゃう 真言宗の十住心論について、どう思いますか?
法華経に書いてある事が八番目というのはなぜでしょう?
華厳経が九番目らしいですが、華厳経ではどのようにして法華経より上に位置づけられたのでしょうか。
結局は言葉じゃ伝えられないほど深遠なのは分かりますが、法華経が上座部も大乗も包括して法華経こそ1番みたいな感じだったと思います。
華厳経が法華経より上に位置付けられ、言葉で語れる限界みたいに扱われてるのはなぜでしょうか? >>136
天台宗の境地より華厳宗の境地のほうが抽象度が高い、くらいの意味なんじゃないかと。 >>134
阿含経は、
かようにわたしは聞いた。
・・・・・
だからな。 愛には四つのパターンがある
相手を人として愛すること
相手を物として愛すること(サディズムに通じる)
相手から人として愛されること
相手から物として愛されること(マゾヒズムに通じる)
いい奴が人助けを買って出るのは、これは人としての愛である。
好色な男が美人を好むのは、これは物としての愛である。 自己正当化が上手くできれば自己肯定感は上げられる
他者正当化が上手くできれば他者肯定感は上げられる ⚪︎人のために生きるのではなく
自分に素直に生きなさいと説くが、
⚪︎我欲を捨て去り、滅私して
人のために生きなさいと説く。
⚪︎執着を捨て去り生きるという心がけ
⚪︎念ずれば・という、諦めない心がけ
表層だけだとは思いますし、
私の表現上の語弊もあると思います。
そして上記2つは似てますけど、
どう解釈すれば一元化できるか
それぞれの矛盾について
ご教示ください。
自分がまだ解らないのは
上記の2点だけです。 何時からどこでだれからどう執着を捨てるか仏典には書いてない。一元化もそれに関係ある。 若いうちから悟りきっては恋性が激しくない。冷めてる。 自我意欲の拡大という我執が手ごわい。その時はエゴを捨てるべきさ。 まあ哲学で張り合ったら何も奪えず同じことをしながら壊れてくしかない。 地動説と両立可能な仏教系宗教はありますか?
例えば浄土教では西方極楽浄土と言ってますがこれは天動説ですよね、日が沈む西の方に浄土があるとか、天が動くとか地球が平面だと思ってるからそうなる。
だから、そういう部分がない仏教の宗派ってありますか? 天動説と地動説は両立します。そういう宗教は結構あると思う。 複雑にメビウスをネヴュラスみたいに。聖闘士星矢のムウはどう? ていうかそれしか真理はないじゃないか。昔の人はそんなことで殺しあった。 銀河も法則だけじゃないけど。騎馬も使うし宇宙船も使う。 だから両方間違ってるんじゃないのオンリー地動説とオンリー天動説。 ブッダはアンドロメダの王子だけど幸せにボケてるところがある。 仏教なんて坊さんも武士もディスコで虚飾で踊ってるという感じで、
それに冷めたとこから仏教が始まったと言われています。変な心理だけど独自だよな。 もっと女といい恋愛になる方法なんじゃないのハウツーみたいな。熱く激しく。 インド神話とギリシャ神話では構造が違って起承転結があるか、あるいは雑多に途切れているか
本気か浮気の差でしょう。 アンドロメダの夜景が仏陀プロデュースであることは間違いない。 質問:即身成仏を主張する仏教の宗派にはどんなものがありますか? >>154
地動説を説いてる仏教はないんじゃないかな
でも華厳宗とか良いと思いますよ
蓮華蔵世界なら方角は関係ないし
事事無礙法界とか現代的だし 仏教徒は、正しい間違いはないと考える。
虚無主義者も、正しい間違いはないと考える。
しかし仏教徒は、正しい間違いはないという考えもまた正しくはないと考える。(仏陀はアンチ宗教ではなかった)
一方の虚無主義者は、正しい間違いはないという考えは正しいと考える。(ニーチェはアンチ宗教であった)
ニーチェは善悪の否定こそ善と考えていたのだろう。仏陀は、善悪の否定すら否定したのだ。
つまり、善悪の否定が虚無主義だとすると、仏教は善悪を否定し、かつ善悪の否定すら否定する。(善悪の否定の否定も否定する。善悪の否定の否定の否定の否定も…以下略)
仏教徒でも仏教的な考え方をするとは限らず、仏教徒でなくとも仏教的な考え方をする人はある。 苦があるから苦なんじゃないんです。
一時の苦があったり一時の楽があったり、すべては一時であって、どんどん変化していくという、そのこと全体が苦だというのです。
一切皆苦だというのです。 労働(production)と 生殖(reproduction)の否定。
言葉にしてしまえばこれだけのことだけれども、これはあまりにも厳しい。
家庭を営み子育てをするという生活の完全否定である。
出家という概念を導入せざるを得なくなる。 仏教は戦うがニーチェは読んで書いている。
仏教は敗北したし、ニーチェの信仰は割けた。
歴史に残るのは汚点その低点の失点の自白だけが教典や文献に並べばいい。 精神分裂的というと二つの戦いを見るに流行の時宜がある。 負けたり恥かいたり振られたり流産したり怪我したり病気したり死んだりした時だけの
発言作文にすればどんなに世界が気持ちいいだろう。性の部分でも。 そこから意識無意識を考えると解離や分裂や統合も意味がある。 ニーチェは精神病どまり、仏陀は寺院どまり。精神障碍者は新しい。 損傷率死の回数が人生の欠落価値をきめる。予後の問題。 そう思うとなにか権威のようなものが軟弱に見えて、身近な苦労が尊く見えるだろう。 現代の体験は重なる。過去の体験はつながる。
統合失調症感〜 陰陽図についての宏智禅師の言葉「陰極まって陽を生ず」。
陰が行き着くと陽となり、陽が行き着くと陰となる。
“陰極而陽生、力窮而位転。((冬至の日は、)陰の気が極まり陽の気が生じる日である。それと同じように、あらゆるものの力は限界に至るとその様相を転ずる。)”
― 『道元「永平広録・上堂」選』 大谷哲夫、講談社 (2005) p44-47 いじめ隠蔽やらハラスメント隠蔽やら上級無罪やら戦勝国無罪やらあるが、そもそも世界は強弱という現実の土台の上に善悪という妄想の建物を建てており、土台がなければ建物はない。
現実を考えずに妄想を主張するのは、砂上に楼閣を建てるのと同じことだ。
例えば、動物愛護と人権尊重は本質的に同じことである。
世界には、動物愛護よりは動物虐待の方が量的にも質的にもはるかに多く、人権尊重よりは人権侵害の方が量的にも質的にもはるかに多いのである。 「人間はいざとなったら共喰いする。本当の友達など得られない。」という孤独を「そんなことない!」と泣きながら拒絶することでは、本当の友達は得られない。それは子供の友情だ。
このシビアな現実を認め、「それでも俺はお前らと共に生きる。」と言える者が、本当の友達を持つことができる。それが大人の友情だ。 障碍者であってもな、
ゴータマ・シッダールタが説かれた八正道を正しく認識して正しく実行すれば
この世の憂いから離れることができるんだよ。 生きていれば、あらゆる病気の治療法がどんどん作られていく。それは千年後かもしれないし、一年後かもしれない。あるいは今日かもしれないのだ。 さてね、なにが病気であり、なにが病気ではないのか
人を含めた動物は、年齢を重ねれば、いずれそのうち病気になって死ぬ。
遺伝子操作の技術で、年齢を重ねても細胞の再生力が衰えず、
神経細胞も老化することなく、動物が「病気」にならなくなったら、
それは幸せなことなのか。 普通、生物の個体の生存に支障をきたす条件が身体に生じることが
病気と呼ばれているが、なにが病気であり、なにが病気ではないのかは
自明なことではない。 新型コロナ・ウイルスに感染していても、本人が無症状なら病気ではない。
それは、人が腸内細菌に感染していたところで、それによって感染者本人
の生活に支障が生じないなら、病気ではないのと同じことだ。
各人で細菌やウイルスに対する耐性は違うので、健康な人同士が接触
しても、接触した人が感染によって体に不調が生じるリスクはつねに
ある。そのリスクは、高齢になればなるほど高まるだろう。
では、そのリスクを減らすために高齢者とその介護者を
他の活動的な人々との接触から完全に隔離することが望ましいのか。
これは、いくら感染予防のための薬を開発したところで、最終的に
解決される問題ではない。 公益社団法人 日本小児科医会のブログには、
>わが国の小児における新型コロナウイルス感染症の状況は、
成人に比べ感染者数がはるかに少なく、感染者においても症状は
極めて軽いか無症状の場合が多い。<
と書いてある。
その一方で、
>感染してしまった場合の他者への感染リスクの増加、10日以上にも
渡る行動制限の必要性と困難性などを考慮すると、
― 中略 ―
>具体的な接種方法などについて十分な議論と準備の上で本ワクチン接種を
実施することが求められる。<
と提言している。 言っていることが何か変ではないですかね。
>感染者においても症状は極めて軽いか無症状の場合が多い
のであれば、それらの大多数の小児の場合には、ワクチンを接種しても
接種しなくても、何も変わらないはずでしょう。ワクチンを接種したら、
ウイルスによる免疫によって病気の発症が抑えられて、他者に感染
させるリスクが低減されるというのであれば、そもそも、もともと
病気を発症しないのであれば、他者に感染させるリスクもあまり
変わらないのでは? どのように合理的に説明がつくのか、詳しい人、ご教示ください。 ワクチン接種は、それによって身体が免疫力を獲得するために行うんだよね。
だとしたら、ワクチン接種をしていない場合にウイルスに感染しても無症状
であるなら、身体がそのそのウイルスに対して既に免疫力を獲得している
ということになるはずで、ワクチン接種によって免疫力を獲得した人と、
自然に免疫力を既に獲得していている人の間で、他人にウイルスを感染させる
リスクに大きな違いが出る合理的な理由がまったく不明に思えるんだけど、
そのリスクの差は、疫学的にどのように説明され、理解されているの? 仏教って宗教の中で異質で神なしに行われる真理探究なんだよね。思想は簡単で無になることのみ。それだけー 自分の心に蓋をして目を背ける者は、他者の心にも蓋をして目を背けるものだ。 対象が誰であろうと何の組織であろうとあるいは自分自身であろうと、自分にとって都合よく動いてくれと期待するのは甘えである。それは悪いことではないが、その精神状態は幼稚であろう。 未来を大切にせよ。決して蔑ろにしてはならぬ。未来を笑う者は未来に泣くのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています