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意味の論理構造の哲学
0002考える名無しさん
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2022/03/19(土) 17:14:33.790
存在と意味
0003考える名無しさん
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2022/03/19(土) 17:24:35.470
意味の構造とは意味の意味ではなく、意味の始点と終点であり意味の特異点の事を指す
0004考える名無しさん
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2022/03/19(土) 17:30:38.510
意味の特異点とは、意味が特別さを生じる点ということか?
0006anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/19(土) 18:16:11.130
赤いというのは質だけど、
赤いということに意味はない?
赤いということ、ただそれだけの意味があるということ?
赤が熱いとか、(転じて?)興奮を伴うことは、
赤の意味で、
それを関連づけていることそのものが意味?
なら意味と質は違う?
0007考える名無しさん
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2022/03/19(土) 18:16:51.970
意味とは、自らに感じられる物事を活用することだろう
0010考える名無しさん
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2022/03/19(土) 18:42:26.700
質って実質?
形式と実質なら相反するよね。
意味は実質の作用だと思う。
形式は意味の正反対だと思う。
0011anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/19(土) 18:49:51.010
文脈がわからいから調べたけど、
実質と形式ってのは、法哲学とか社会学の領域の用語なのね
形式は条文を無根拠に信じるのに対して、
実質は原理から演繹するみたいな、
どっちも演繹だと思うけど、並列に対比されるのは、
人工か自然かみたいな話なんかね
そうすると自分が言ってる質とは文脈がずれてるかも
この場合の(自分が言ってる)質とはクオリアのことを指してる
0013考える名無しさん
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2022/03/19(土) 18:57:29.570
quoliaはqualityに近い語だよね。
0015考える名無しさん
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2022/03/19(土) 19:19:33.220
quaの次にlが来るのとnが来るのとでは違いが大きいと思う。
0016考える名無しさん
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2022/03/19(土) 19:24:59.970
例えば、雨が降ってきて水滴を肌に感じる。
それを感じたことに対応して物陰に入るなら、
雨に濡れないようにするという意味があり、
そうでないなら、雨に濡れるようにする
意味が生じる。
0018考える名無しさん
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2022/03/19(土) 21:31:28.970
意味の構造って脳とか認知機能も入ってくる?
0019考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:11:43.240
その意味が
あなたの正しさが錯覚だということを表している
毎日一生懸命錯覚を祈って産み出そうとしているが
働いていないのはあなたであり
働かない限りは
その意味の地獄は終わらない
どうか働いて下さい
無職のゴミ野郎
0020考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:12:27.420
なんか怒って色々なこと誤魔化そうとしてる
だけだから
0021考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:13:23.020
言葉で現実は変えられない
あなたが動かない限りは
0022考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:25:00.560
まずは規則正しく太陽を浴びる
それだけで充分だ
3ヶ月もすれば答えが出るだろう
0023考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:49:45.800
無職は「やめてくれ」っつってるのに改善しようとするよな
0024考える名無しさん
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2022/03/20(日) 08:52:12.260
ニーズのないことくらい人を巻き込まずに一人でやれよって思う
0025考える名無しさん
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2022/03/20(日) 09:10:20.960
一人でやって成功したら独り占めするのが基本。無職は馬鹿
0026考える名無しさん
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2022/03/20(日) 09:19:59.680
意味の構造を考える上で基本的であり、極めて重要でありながら、
ほとんどまともに哲学の対象とされてこなかった問ひがある。
それは、焼くこと、煮ること、蒸すことなどの加熱調理すること
に代表されるが、それには限定されない「料理して食べること
にはどのような意味があるのか」という問ひであり、さらに
その基礎にあるのは、無論、「食べることにはどのような意味
があるのか」という問ひであり、さらにより基礎的なのは、
「食べることと食べられることの関係にはどのような意味がある
のか」という問ひである。これらの問ひを無視して、人が生きる
ことの意味の構成をその根本から考えることはできないだろう。
0027考える名無しさん
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2022/03/20(日) 09:30:25.810
今からなんて働けないのはわかってる
だから「やめてくれ」「手を引いてくれ」「俺をいじくらないでくれ」って言ってる
もう一度言う
今からなんて働けないのはわかってる
だから「やめてくれ」「手を引いてくれ」「俺をいじくらないでくれ」って言ってる
0028考える名無しさん
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2022/03/20(日) 09:50:30.930
人が何かを食べるとき、多くの場合に食べられる対象となるものを加熱調理
するのはなぜか。この問ひに対する応へは、誰にでもただちに明らかである
ように思えるが、それでも、それを確実に言語表現として記述することの
重要性は変わらない。それは、食べることの意味、すなわち、「食べるものと
食べられるものの間で具体的な方向性/《le sens》を確定する」ためである。

そのように考えた場合、「料理する」ことは、食べることを「割に合ふ行為に
するように調整する」ことであると見ることができ、それを焼くこと、煮ること、
蒸すことなどの加熱調理することに狭く限定して考える必要はなく、食べられる
ものをあらかじめ、切り分けること、そこから、食べて消化されにくい部分を
除去すること、水にさらすなどして有害な成分を除去すること、発酵させる
こと、塩漬けにすることなども料理することに含まれることになり、より
広くは、獲物の血を抜くことや、ほとんどの場合、少なくとも口に入れる
前までには獲物の「息の根をとめる」ことまでも含まれるだろう。
0029考える名無しさん
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2022/03/20(日) 09:57:12.340
魚を料理する場合だと、獣を料理する場合に比べて、
料理人の調理の仕方が機械的になっている気がする。
0030考える名無しさん
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2022/03/20(日) 10:07:06.300
料理することは、食べられるものの身体を具体化するように潜在的に
働いている主体性を解消して、その身体を構成する要素に分け、
それらの要素が、食べるものの身体を具体化するのに資するように、
それらの要素を選択的に吸収/排外するように行われる。つまり、
料理は、身体の具体化を方向付けるように/食べることの意味を
確定するようにするための行為であると言うことができる。したがって、
料理したものを食べた結果、食べた側の身体の具体性が損なわれる、
あるいは最悪の場合、失われる結果が生じたとしなら、それは料理の
最大限の失敗である。
0031考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 10:08:25.860
どんだけこいつひとにへばりついて生きようとするのか
0032考える名無しさん
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2022/03/20(日) 10:11:20.880
そもそも人の成功を勝手に定義して
分前よこさないとか
いう空想を一年中繰り返す馬鹿
0033考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 10:16:15.620
はいはい意味の論理構造の話に戻りましょーねえー
0034考える名無しさん
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2022/03/20(日) 10:18:09.490
火を用いることは、神話においても、人とそれ以外の動物を区別する象徴
と考えられる場合があり、そうでなくても、人が生活していることの
象徴と考えられることが一般的であるが、いずれにしても、その火は、
まずなによりも、食べられるものを調理するために用いられることが
前提とされている。人の雑食性は、他の動物とは異なり、人が火を用いて
調理することと結び付いているが、より一般的には、火を用いる
ことに限定されない料理することが、人の雑食性と表裏の関係にある。
0035考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 10:22:31.480
やはり藤原辰史の仕事の影響は大きいな。
近年各所で取り上げられまくってるしな。
0036考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:00:17.630
>>33
では、早速、意味の論理構造の話に戻りますが、「意味」の「味」
とはなんですか?
0037考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:03:28.170
>>36
それは考えたこともなかった。
「中味」の”味”と一緒で、「実質」とか、
上の方で出ている「クオリア」とかと似ているものでは
ないんじゃないでしょうか。
0038考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:03:28.280
>藤原辰史の仕事の影響は大きいな

個人名なんてどうでもいいんだよ。具体的になにをどのように問ひとして
いるのか、何にどのように応へているのかを提示したまえ
0039考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:07:17.980
お前が愛してやれよ(笑)
おっさん
恥ずかしいwww
0040考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:07:49.970
問題の哲学的な考察を提示すると、「そんなことをしても何の腹の足しにも
ならない」というのは、哲学をすることが「無意味である」とする主張
でしょう。であるなら、少なくとも、「腹の足しにもなること」には、
「意味がある」と認識していることを認めるのでなければ、辻褄が合わない。
0041考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:08:32.150
愛してやれよ
とかよく恥ずかしげもなく言えるもんだ
何の他力本願だよ
www
0042考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:09:00.950
「腹の足しにもなること」×
「腹の足しになること」〇
0043考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:11:13.350
愛してやれよの意味がわからない
・なぜ自分でやらないのか
・なぜ俺なのか
そのへんが謎である
0044考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:11:39.000
>>38
食について哲学するにあたってまず、
いかにその基盤が素朴な愛郷心から良かれと思って形成されたとしても、
恐ろしいナチス体制に寄与してしまうものだったかを明らかにしたんじゃなかったっけ。
0045考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:18:30.130
この掲示板で相手を侮蔑するための発言として用いられる表現にも、
よく「オナニー」だとか、「インセル」だとか、「彼女いない歴」だとか、
「素人童貞」だとか、「孤独老人」だとか、「無職」だとか、「ニート」
だとかの言葉が使われる。では、これらは、どのようであることが一般に
侮蔑の対象とされ得るとみなしているのだろうか。

例えば、性的な自慰行為が侮蔑の対象とされることの隠喩として用いられる
場合、それが指しているのは、その行為が生殖活動につながらないこと、
すなわち、子孫を生むこと、子孫の身体を具現化すること、つまり、
その行為をする者の子孫として具体化する可能性がその行為に伴わない
ということであり、それゆえにその行為は、「不毛」であるという
ことだろう。ところで、「不毛」というのは、一般的には、食料と
なる作物が育たないことを意味する。
0046考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:22:39.820
>>44
いかなる行為からもたらされる帰結も、その行為が行われる条件に依存する
のだから、具体的な理路を示さないと、それこそ「無意味」だよ。
予防注射が疫病の感染防止を目的とする善意によるものであっても、
そのために注射される薬物に身体を害する作用があれば、人々に
とんでもない災厄をもたらすだろう。
0047考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:31:26.530
メディアで活躍する言論人というのは、大学で教員や研究者としての地位を
確保しているか否かにかかわらず、例外なく、無反省で大衆的な物事の
評価に依拠して発言している。というのも、そうでなければ、メディアで
発言する機会さえ与えてもらえないからだ。であるからこそ、例えば、
「自慰行為」が無反省に否定的な侮蔑の表現となり、「家族制度を解消
して社会で子供を育てる」というような主張がなされる一方で、
性行為を商業サービスの金銭取引きの対象とすることが、その根拠も
曖昧なまま否定的に評価されることが当然のこととされる(別に私は、
それを肯定的に評価しろと主張しているわけではないので、誤解のないよう)。
0048考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:33:19.430
>>46
だから、その本に関係なくこじつけで書けば、
田園回帰的な流れや有機農法を礼賛する思想の根底に、
都市的な商業資本・金融資本への蔑視があって、
農業生産に不要な不純物=ユダヤ人のせん滅につながってしまう面が
あった可能性はあるな。ナチス体制とそこでの食生活である「ナチス・キッチン」は
必ずしも同床異夢だったわけではなさそう。
0049考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:39:50.080
食べることには、危険がともなう。獲物を捕らえて、息の根をとめて
しまえば、その動物の身体性は不可逆的に失われるので、その身を
自分の身体に取り込んでも、その動物が主体性を回復して自分の
身体が食べられる心配はない。しかし、その動物を生(なま)のまま
食べたなら、その動物に寄生してその身体を栄養にして自らの
身体を具体化していた寄生虫や細菌に、今度はその動物を食べた
自分の身体が食われて、悪くすると、自らの命を失う結果を招く
ことすらある。食べ物に火を入れるのは、そのようなことの起きる
可能性を低くするように食べることの方向性を確定しようとする
行為である。
0050考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:42:21.550
>>49
そのような方向付けにこそ、食べることの「意味」/《le sens》が現れる。
0051考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:46:07.820
>>48
そのように条件付け次第で、どちらの方向にでも容易に議論を誘導することが
できるので、いずれにせよ、思想の言説は、私には、まともに相手するような
価値があるとは思えない。
0052考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:50:09.270
>>51
思想って言うほど深みのある議論じゃないですけど。
想像力(や飛躍すれば構想力)をどう評価するかの問題じゃないですかね。
0053考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 11:56:34.940
大人ぶる無職
0054考える名無しさん
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2022/03/20(日) 11:57:16.250
大人ぶる無職ってウケる(笑)
意外とちゃんとしてない(笑)
0055考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:00:22.160
大人とか子供とかはっきり言ってどうでもいいのよ。
哲学板なんだから青臭い議論をしていいの。
実践は他の様々な板でやって頂戴。
0056考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:02:38.370
お前が後から来たんだろうが
www
0058考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:04:55.090
まあ書くことに希望を見出したあたりは評価しよう
壁蹴るオラウータンよりはマシだろ
0059考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:13:17.380
去年の夏とか普通にホラーだったからな
何回ベッドからダイブしてんだ
ってくらいうるさかったからな
0060考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:13:51.640
それなりにオラウータンなりに
何かを学習したんだろうよ
0061考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:14:29.250
書くこと自体は昔からやってるけどね。
昔から俺は哲学板みたいな板は青臭い話をしていい場所だと思ってたけど、
意外とそう思わない人っているのね。
0062考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:22:42.550
お前の昔がよくわかんねぇ
0063考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:27:31.020
昔は風俗とか行きまくってたけど、
ぴんくちゃんねるには書き込まずに野球とか受験の板に書き込んでた。
0064考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:28:13.150
問答無用で説明抜きに
色々なことやり過ぎなんじゃない?
誰なのかよくわからないし
未だに
ずっとそれ
0065考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:29:31.720
哲学することに価値を見出だせない、これは単なる思考停止である
哲学するとは思考し続けることであり、主体を観念の体系に組み込むことである
0066考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:33:44.700
去年の秋ぐらいは性欲が漲ってきてきつかった。
本を読む時以外思考ができていなかった。
0067考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 12:50:17.090
哲学板は新スレはそこそこ立つが、特定のスレを除き、いまいち伸びが悪い。
人数が少ないこともあるが、みんな遠慮しいではないか?
もっともっと他者とコミュニケーションをしよう。
0068考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 13:12:32.020
普段我々が小説を読むとき、実のところ我々は読まされている
これと同様に、世界を知ることは世界が我々に対して開示されていく過程に外ならず、我々は遂に事物の本性を知るに至らない
つまり、意味の構造を本質的に語り尽くす事は不可能なのである
0069考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 13:22:00.750
>世界が我々に対して開示されていく
世界に対して我々が開示されていく
じゃなくて?
0070考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 13:43:18.580
>>68
何が我々に読ませると考えてる?
「世界」とは?「事物の本性」との関係は?全体と部分の関係?
「知る」とは?
「本性」とは?「本質」とは異なる?
「意味の構造」とは?「事物の本性」との関係は?
「事物の本性」を媒介にして「世界」と「意味の構造」はつながる?
「意味の構造」が開示される私自身だとしても語り尽くすことは不可能?
「本性を知るに至らない」かどうかは別として語ることができる範囲が不明である以上「語り尽くす」ことは不可能だが「語る」ことはできるのでは?

きちんと読む癖がつくとこういう疑問がわいてくる
0071考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 13:47:20.860
>>69
って即興で書いた文章? 
それとも69自身が編み出した文章なのか?
こういう文章って読ませるよね。
0072考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 13:47:24.370
人は一般に、当たり前のことを言語化することを嫌ふが、普通はそれを
言語化することを人が忌避する当たり前のことにこそ現実の基礎がある。

生きているということはとりもなおさず、自らが「食うか食われるか」
の状況に置かれているということである。「食うか食われるか」
と言うと、まず多くの人が思ひ浮かべるのがまず、「弱肉強食」という
表現であり、「弱肉強食」によって想起されるのは、ライオンのような
肉食獣が鹿のような草食動物を狩って食い物にすることであり、その
ように餌を手に入れる競争に勝てない個体が生き延びることができない
ことであったり、「人は人に対して狼である」という諺であるが、
私がここで「食うか食われるか」の状況として考えているのは、その
ようなことではない。
0073考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:08:39.130
お前が愛してやれよおっさん(笑)
0074考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:10:16.670
なんでこいつは異常なほど俺と会話したいのかわからん
キモッ
0075考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:12:42.230
生きているということは、みづから(身づ柄/自ら)の身体があるという
ことだが、「みづから(身づ柄/自ら)の身体は、つねにすでに、そこに
実現された意味の具体化として在る。」

そこにみづから(身づ柄/自ら)の身体があるとは、例えば、その身体の
細胞組織が細菌によって食い尽くされていないこととしてある。
それでも、そのことは、みづからの身体がそのまま保存されてあり
つづけることなどではなく、むしろ、みづからが生存している限り、
その身体はつねに死んだ細胞組織を排外し、自らが食うことによって
吸収した栄養にを活用して身体を具体化する新たな細胞組織を生成させ
つづけている。したがって、身体は自らを構成する細胞組織が活動
できるように食うことによって栄養を吸収しつづけるのと同時に、
栄養を吸収して活動することをやめた細胞組織は食われて、身体から
排外される。身体の組織細胞が食われる一方となれば、命が衰えて
生きていることができなくなることは明白である。つまりは、
みづから(身づ柄/自ら)の身体は、「食うか食われるか」の状況に
おいてみづから(身づ柄/自ら)を具体化しつづけている限りにおいて、
生きて存在している。
0077考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:16:28.490
>>73
>>74
コミュニケーションよりも茶々が好きな奴なんだなw
0078考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:18:00.110
普通に裏口から入って来たやつにお茶出すやついなくね? どんだけ常識がないんだよ(笑)
0079考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:18:33.230
生きることにおいて、全体としてあらかじめ定められた、「食うことと
食われること」の保たれるべき理想的な均衡などというものは存在せず、
存在し得ない。
0080考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:19:05.960
知らねえこの不審者 誰?(笑) 
0081考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:20:31.190
>>80
博愛心のないやっちゃw
0082考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:20:59.440
オレだよ、オレ
0083考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:21:38.200
顔見たことないもん(笑)
0084考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:22:13.850
半島っぽいよね
行動が
0085考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:23:33.080
さて、意味も論理も関係なくおかしな構造になってまいりました。
0086考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:24:47.800
お前らカップルは何なの? 
俺を使って繁栄したいだけ?
一年見てみろよ むしろ貧しくなってんのが
ウケんだよなぁwwwwwwwww
腹痛いwwwwww
0087考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:25:23.640
どんどん奪うから宜しくなwww
0088考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:25:53.400
金があっても買うものがなければ意味ない
0089考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:26:23.840
お前の仕事なんて一ミリも成立する余地がないくらい奪ってやるよ
頼むぞモルモット
0090考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:27:29.150
欲深いやっちゃなあ
奪うものがなくなったらその欲望は無意味だぞ
0091考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 14:27:32.810
誰に言ってんの
0092考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:27:34.020
特に成長してないならその生活やめろよ(笑)
0093考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:28:23.840
お前に言ってんだよストーカー乞食野郎
早く喧嘩買えよゴミ
0094考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:28:36.090
>>92
成長するということは他者から奪うことである。
そのようなことを是とする奴はどうかしている。
0095考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:38:48.910
疑問を疑問で終わらせるという事は単なる思考停止であり、哲学の終焉でもある
つまり、我々が読むというとき、我々は読まされているのである
0096考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:40:44.810
クリトリスの向う側
0097考える名無しさん
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2022/03/20(日) 14:43:35.440
夜空ノムコウってもう22年前になるんだな
年はとったが思考は進化したぞ
0099考える名無しさん
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2022/03/20(日) 15:14:43.690
一昨年辺りからミネルヴァ書房が高校生向けなんちゃらとかいって
学術書の入門本を出しているが、あんなん買う高校生いるんやろか
0100anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/20(日) 15:41:21.110
蒙古タンメン中本初めて行った時、
なんで人間はこんな辛いものを作ったのかと心底思ったが、
いまではたまに急に食べたくなる
0101anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/20(日) 15:44:47.440
料理のレシピは錬金術とか神秘主義の人が、
儀式的な手続きを記録しておくために、
調理の方法に見せかけて作られたとかなんとな

さすがにこの説は無理がありそうだが、
魔術の儀式と料理は歴史的に無関係ではないかもしれないな
0102考える名無しさん
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2022/03/20(日) 15:48:00.920
料理の哲学と言えば廣瀬純
0103anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/20(日) 15:48:15.590
意味とは→だと球面の人が言っていたが
たとえば、料理の意味は美味しさの追求、という文があれば
料理→美味しさの追求、みたいな置き換えができるはずだ

しかしながら、意味を→に置き換えたことで、削ぎ落とされたものがあるなら、意味と→はイコールではない?
0106考える名無しさん
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2022/03/20(日) 15:56:54.750
さあね
どっかに飛んでったんじゃない
0108考える名無しさん
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2022/03/20(日) 16:05:52.480
まあ,
>>94
なんだけどね
0110考える名無しさん
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2022/03/20(日) 16:43:32.170
昔の研究論文や研究書のタイトルに多いよな
〜〜の構造
とか
〜〜の研究
とか
0111anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/20(日) 17:02:42.620
斎藤毅の数学原論って本見つけて、
いっちょ数学やろうかなって思ってる
0112考える名無しさん
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2022/03/20(日) 17:06:58.010
なんちゃら原論って本は難しいことが書かれてある教科書であることが多い
なんちゃら入門って本もちょうどいい難易度でない場合が多い
0114考える名無しさん
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2022/03/20(日) 18:14:20.280
お前にとってはどうなんだ?
そこのお前はお勉強の本とかに興味がないのか?
0115考える名無しさん
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2022/03/20(日) 18:20:49.150
まあ、学習意欲を失ったサルは老いていくだけだからな。
俺は英検準一級の問題集を買って語彙力を強化する。
洋書を読んで単語を覚えるのには限界を覚えたので。
0116考える名無しさん
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2022/03/20(日) 18:26:06.970
読みすぎると頭おかしくなるということも
ありえる
0117考える名無しさん
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2022/03/20(日) 18:30:18.750
洋書はそもそも興味がかなりないと読めないし、
興味がかなりあってもほんのちょっとしか読めない。
意味を取るというより、印象に残ったごく一部分が頭に残るだけ。

あれ、
これって日本語の本を読んで意味を理解しようとしているのと変わらないな?w
0119考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:10:41.460
山内得立の『意味の形而上学』(岩波書店)が関係してきそうなスレだな。
0120考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:20:15.660
まあ、俺は初めの10ページくらいで挫折したけど。
同じく山内の『ロゴスとレンマ』は読書会に参加して7割読んで挫折した。
0121考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:25:56.360
意識の味が意味なんじゃないか
0122考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:26:46.580
自分を見てるのと一緒だ
0123考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:31:48.560
だれて来たら戻すという努力が必要なんじゃないか
お前には
そこまで絶望する必要も見当たらない
0124考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:31:57.300
相手に優しく自分に厳しく
意味あることをやろう
0125考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:33:37.490
最近堕落気味だなと思ったら少し頑張るとか
0126考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:34:54.030
もう一回眺めたら読めそうな気がしてきた。
6年半前に挫折して以来研鑽を積んだからかなw
0127考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:38:12.180
でも脳に障害を負ってしまったから頑張ることには慎重にならんとな。
0128考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:40:56.630
もはや誰が誰かよくわからん
人物像がわからない相手と喋る不毛な時間
0130考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:45:32.630
お前〜をしよう
みたいな提案が最終的に俺の弱点を見出して
寝首をかく
みたいなことだから
一生俺も油断は出来ないだろう
最終的に俺を倒す=お前のゴール
だから戦争 ぐらいしか解決策はないだろうし
0131考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 19:46:59.790
そもそもが俺を倒さないと次に行けない
みたいなゴール設定がもうウザ過ぎて
俺も戦わない理由がないから
潰しにかかるしかない
0133考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:47:51.860
俺の方が先倒れるわw
0134考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:51:52.870
自己責任でお願いします
0135考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:53:43.280
ていうか、あと5年たって俺は生きてる自信ないわ
0136考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:55:58.370
おめでとう
0138考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:57:42.080
おめでとうとしか言いようがないんだよね
こっちも
0139考える名無しさん
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2022/03/20(日) 19:59:02.590
まあ意味の形而上学の序を理解するのに6年半かかったから
廣松渉や梅本克己を理解するのにもそれ以上かかるんだろうな。
それが理解できたら寿命が来るかな。
0140考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 20:02:13.610
また生まれて来いな〜
0141考える名無しさん
垢版 |
2022/03/20(日) 20:03:17.590
生まれ変わりなんかあるかよw
0143考える名無しさん
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2022/03/21(月) 18:10:30.900
視野のある点が赤いとき、その点が同時に青いことはあり得ない。
これが「赤い」ということの意味がもちうる論理的な構造である。
0144anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/21(月) 19:12:56.340
赤と青が重複すれば、
紫ということもありうる
また、粒子も存在確率として重なり合うことがある
しかしながら、古典的な物体であれば、
物体同士の位置が重複することはない
ある物体によって、その位置が占められていると言える
0145anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/03/21(月) 19:15:23.200
ある位置に(つまり沢山の粒子の基準となる杓子定規がひとつだけあって、)粒子が重なり合っているのか、
ある粒子からみた位置と、
別の粒子から見た位置が(つまり粒子の数だけ定規があって、その定規の目盛となる数字が)一致しているのか
0147考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 08:31:04.480
折角、面白い非標準の形の問ひを示してあげたのに、またいつもの型通りの
不毛でつまらない問ひに戻っているな。なぜ、そんなに堂々巡りが好きなのか。
0148塩なめくじ
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2022/03/22(火) 08:38:02.85ID:bYzaK0W50
統語論と意味論の切り分けについてよく示す具体的な文例がある。

Colorless green ideas sleep furiously.
という文は、「非文」ではない文、すなわち名詞や動詞がおかしな所にあったりはしない、統語論的には問題ない文であり(詳細は対象の記事を参照のこと)、実際にたとえば Big furious bears ran quickly.[1] という文は普通に意味をとれるだろう。それに対し問題の文は「色の無い緑」「緑のアイディア」「アイディアが眠る」「猛り眠る」など、どれもまともに意味のあるように意味をとるのは難しいわけだが、この違いがどこにあるのか、といったようなことを議論するのは(統語論ではなく)意味論の側ということになる。

意味は、大きく次の二種類に分類されることが多い。第一に、記号が対象や状況に対して持つ関係。 第二に、記号がほかの記号(特に概念と言われる心的記号)に対して持つ関係。前者は指示的意味(reference)、後者は内包的意味(sense)などと言う。

これら二種類の意味に加え、意味論は伝統的に、真理条件、項構造、主題役割、談話分析などを研究してきた。これら全てと統語論を結ぶことも意味論の課題である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E5%91%B3%E8%AB%96_(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)
0149考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 09:01:44.920
>>72
>生きているということはとりもなおさず、自らが「食うか食われるか」
の状況に置かれているということである。<
>>75
>生きているということは、みづから(身づ柄/自ら)の身体があるという
ことだが、「みづから(身づ柄/自ら)の身体は、つねにすでに、そこに
実現された意味の具体化として在る。」<

ここでとても面白いのは、生きているという現実そのもの、自らが
「食うか食われるか」の状況に置かれていることであるにもかかわらず、
つまり、食うことの方向性を確かなものとしなければ、自らが生きて
ゆくことができないにもかかわらず、生命は、多細胞生物において
明らかなとおり、現に複合的な生命体として具現化していることだ。
このことが示しているのは、生命体はつねに「食うか食われるか」の
状況に置かれていながらも、世代を超えて生き延びながらも、食う
ことの一方向性を確実にしてきたわけではないことを示している。
食うことの意味が、自らの身体の具体性を実現するようにその
「方向性」/《le sens》を定めることと同義でありながら、生命体
の身体そのものが「食うか食われるか」の関係の「方向性」/《le sens》
の複合性として機能し、成立し、繰り返されている。したがって、
このことから、既に指摘した次のことが明白となる。

>>79
>生きることにおいて、全体としてあらかじめ定められた、「食うことと
食われること」の保たれるべき理想的な均衡などというものは存在せず、
存在し得ない<
0150考える名無しさん
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2022/03/22(火) 09:09:10.650
ここまで考察をすすめてようやく、「生きる」ことを表現するのに
ニーチェが用いた、一般に「力への意志」と訳されることが多いが、
その用法からは、日本語の「できることを(しようとすること)」
に対応する"Wille zur Macht"という表現が端的にいかに優れて
いるのかが理解できる。
0151塩なめくじ
垢版 |
2022/03/22(火) 09:11:49.56ID:bYzaK0W50
そうなんだ。
0152考える名無しさん
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2022/03/22(火) 09:12:05.150
誤:状況に置かれていながらも、世代を超えて生き延びながらも
正:状況に置かれて世代を超えて生き延びながらも
0153考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 10:11:27.810
「『意味のない』ことをする」とは、一般に、それをしても「何ら
『成果』の見込めない行為をする」ことだろう。「意味のないこと」
を「糞(くそ)」、すなわち、自らの身体を具体化するのに役立たない
ために身体に吸収されることなく、身体から「排外」される「排泄物」
とみなすことは、日本語に限らず他の言語においても普通である。
逆に言えば、「意味のある」こととは、それが自分にとって「身/実(み)」
になることを具体化するのに役立つ、すなわち、「つか(使/仕)へる」
ことであることになる。

これに関して哲学的に検討することがとても重要に思へるのが、
『古事記』に記載される「オオゲツヒメ(大気都比売神)」のエピソード
である。というのも、「オオゲツヒメ」は、食べることの方向性の
常識に反して、あたかも排泄物を排外するかのように自らの身体
から「成果」を出すからである。

>又、食物を大気都比売神に乞ひたまひき。爾に大気都比売、
鼻口及尻より、種種の味物を取り出でて、種種作り具へて進る時に、
速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて、穢汚※して奉進ると為ほして、
乃ち其の大宜津比売神を殺したまひき。< 『古事記』
0155考える名無しさん
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2022/03/22(火) 11:38:55.800
>>149
誤:生きているという現実そのもの、
正:生きているという現実そのものが、
0156塩なめくじ
垢版 |
2022/03/22(火) 12:36:03.74ID:bYzaK0W50
4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。
4.461 トートロジーと矛盾は無意味だ
4.4611 しかし、トートロジーと矛盾はナンセンスではない

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/4-25ff.html
0157塩なめくじ
垢版 |
2022/03/22(火) 12:36:42.89ID:bYzaK0W50
「意味」という言葉の意味はずいぶん混乱しやすい言葉づかいがされているので、注意してみていく必要がある。
ウィトゲンシュタイン以前の、フレーゲにおいては、Sinn(ジン)が「意義」を示す。つまり他の言葉で言い変えて説明するときの「意味」である。そしてBedeutung(ベドイトゥング…呼戯人さんに教えてもらって、読み方を訂正しました。ありがとうございました)が指示対象を示す。つまり、存在するそのものを指示して示すときの「意味」である。「明けの明星」と「宵の明星」のBedeutungは、どちらも金星を指すので、同じものだが。Sinnは違う意味を持つ。SinnとBedeutungの両者は日本語に訳された年代によってどちらもが「意味」とされている時期がそれぞれあるので要注意である。

(略)

Sinnlosは一般的に「無意味」と訳され、その命題が世界の在り方についての情報を持っていない場合を言う。「指示対象に関する情報が無い」ということである。単なる偽は無意味ではないが、矛盾の命題は常に偽であることにため世界のあり方に関する情報をもてないので「無意味」である。さらに、トートロジーも世界の在り方を語っていないという点で「無意味」である。
Unsinnは「ナンセンス」と訳され、その命題が論理形式違反になっている疑似命題であり、対象を指示するような文になっていないような場合を言う。「対象を指示していない」ということである。

「矛盾とトートロジーが無意味であってナンセンスでない」というのは、矛盾もトートロジーも命題として正しい論理形式を示しているが、その命題が真であるか偽であるかが情報として現実世界を語らないものでしかないということである。
0158考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 13:32:44.710
>>153
>故、殺さえたまへる神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、
二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。<

殺された「オオゲツヒメ」の身体は、頭以外は、食いものとなる。
このエピソードは、どのように理解されるべきものとして書かれたのだろうか。
何も特別な前提を置かずに読めば、このエピソードは、食うことの「意味」/
《le sens》は、他者の身体が排出するものを自らの身体に取り込むこと
ではなく、他者の命を断って、その身を食って自分の身体とすることである
ことを表現しているように思える。実際、食うことが他者の身を食うことには
ならず、自らの身体から排出するものが嬰児(みどりご)、つまり、
み(身/実)ど(取)りご(子)のように他者にとってのみ(身/実)となったと
すれば、食うことによって自らの身体の具体化を保つことはできず、
逆に、その命は衰退する一方となり、亡骸となることになるだろう。
0159塩なめくじ
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2022/03/22(火) 17:35:24.24ID:bYzaK0W50
要素命題を組み合わせたものの集合 ξ は、
要素命題の集合 p (可算無限) の冪集合。
真理関数の集合 N(ξ) は、ξ の冪集合。
0160考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 22:22:21.860
>>158
他者の身体が排出するものを食うのってただのスカトロだしねw
0161考える名無しさん
垢版 |
2022/03/22(火) 22:24:46.840
>>148
だから意味論は机上の空論でしかないので、存在論にとって替わられたんだけど。
0162塩なめくじ
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2022/03/22(火) 22:55:38.34ID:bYzaK0W50
>>161
机上の空論って?「意味」なんてものは無いってこと?
0163考える名無しさん
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2022/03/22(火) 23:05:01.840
意味論を存在論的に考察したのが山内得立
0164塩なめくじ
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2022/03/23(水) 01:19:21.39ID:OmiufQk40
山内得立は分かったけど机上の空論ってどういうこと?
0165塩なめくじ
垢版 |
2022/03/23(水) 01:19:21.80ID:OmiufQk40
山内得立は分かったけど机上の空論ってどういうこと?
0166考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 08:05:54.860
空論は、龍樹じゃなかったのか
0167考える名無しさん
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2022/03/23(水) 08:07:41.940
机上だけに空を限定する理論は、どのような理路に依るのか
0168塩なめくじ
垢版 |
2022/03/23(水) 08:47:46.66ID:OmiufQk40
@
無色の緑の考えが猛烈に眠る。
Colorless green ideas sleep furiously.
→ヴィト用語でUnsinn。真偽値が存在しない。

A
今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。
→ヴィト用語でSinnlos。恒真なので情報量が0。

B
現在のフランス王は禿頭である。
The present king of France is bald.
→フレーゲは「現在のフランス王」に外延が無いので真偽不確定とした。
 ラッセルは主部を分解すると「あるxが存在して、xは現在のフランス王である」等と述べられるとして、偽とした。

C
現在の日本国総理大臣は菅義偉である。
→「現在の日本国総理大臣」は存在するが、単に述部が偽である。

無意味な文のはどれか。(「現在」という言葉を使うと、その語が書かれたor読まれた時期によって真偽が変わるのでややこしい。)
0169考える名無しさん
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2022/03/23(水) 08:48:37.090
>>144
それはその点に紫があるだけだろ
赤や青は存在できない
0170考える名無しさん
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2022/03/23(水) 09:05:42.450
大きさのない点は存在し得ない
物理的に点が存在するなら、何らかの大きさをその点に認めていることになる
大きさを認めることには時空間がかかわり、
その点は、時空間的に0の量ではあり得ない
0171塩なめくじ
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2022/03/23(水) 09:06:42.09ID:OmiufQk40
紫を赤いかつ青いと言い換えることを認めると、白は(光の三原色上)あらゆる色を含むことになる。
「赤い」が「白い」を否定しないなら、赤の補色の「緑色である」を否定しているか?
補色はあくまで人間が持つ3種の錐体を基準とした話で、
人間を基準としなければ周波数のなだからな違いがあるだけで、そこに対立軸は立てられない。
0172塩なめくじ
垢版 |
2022/03/23(水) 09:12:22.97ID:UnwSnsGb0
これは「色」とは何かという話で、「意味」とは何かという話ではないな。
「赤い」ということに意味があるなら、「青い」であれ、「緑」であれ、
何かしらを否定している言明だということだ。
0173考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 10:09:10.050
否定しているかどうかは別として、何かが「青い」と言われるとき、
それが「草が『青々』と茂っている」場合には、それが色としては、
「緑(みどり)」として認識されるかもしれないし、何かが新芽が
「緑(みどり)」であると認識されることは、その新芽が
「み(身)ど(取)り」として現れたことに付随するメトニミーとして
認識されるかもしれない。意味の働きとはそういうものだろう。
0174考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 10:11:49.490
例えば、この掲示板で「『緑(みどり)』のやつ」と言った場合、無論、それは、
「緑(みどり)」の色として認識されることを示しているかもしれないが、
意味しているのは、「『sage』ていない書込みをしているやつ」という
ことだろう。
0175anonymouse ◆Iow/mouse.
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2022/03/23(水) 13:40:35.890
>>169
そういう考え方もあるか
量子も観測すれば、その位置を量子が占めるわけだから、
他の量子は存在できない
なんとなくだけど、BUMPのカルマの歌詞を思い出した
0176考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 14:11:19.590
>>171
>紫を赤いかつ青いと言い換えることを認めると、

無理だろ。人はそんな認識の仕方をしてない
0177考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 14:49:46.650
現代の日本語で「白(しろ)」と言うと、汚れていない、何色にも
染まっていない、色が着いていない、脱色されているなどの
イメージが想起されるが、古代の日本語の用法では、「白(しろ)」
が想起させるのは、まずなによりも、「光を透過させる性質」で、
英語にするなら"translucent"に相当する。その用法は現代では、
ほとんど忘れられてしまっているものの、慣用句としては残っている。
例えば、「白々(しらじら)しい嘘を言う」という表現は、
「見え透いた嘘を言う」と言い換えることができ、この「白々しい」
という表現は、英語で"You're so tranparent"と言う場合の
"transparent"に対応するような用法である考えられる。
0178塩なめくじ
垢版 |
2022/03/23(水) 15:49:06.90ID:OmiufQk40
アンミカの有名な諺で「白って200色あんねん」というように、
紫にも無数の色がある。

藤納戸、ききょう色、紺藍、藤色、藤紫、青紫、菫色、鳩羽色、しょうぶ色、
江戸紫、紫、古代紫、なす紺、紫紺、あやめ色、牡丹(ぼたん)色、赤紫。

もし紫が赤でも青でもないなら、同様にして、紫は赤紫でも青紫でもなく、
藤紫でも古代紫でもない、ということになる。

色即是空
0179anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/03/23(水) 16:04:45.620
個我、梵我、無我ってあるけど、
それぞれが存在のあり方の極致を言っているだけで、
悟りでも開かない限り、存在というものは、
それらの側面をもって、存在しているという程度の話ひ過ぎない

しかしながら、紫は固有の色であると絶対視するのは個我に属すし、
紫とはそもそも、青と赤の複合であると普遍的に捉えるのは梵我的、
色即是空はよくわからんが、そうだというのなら無我だろう

他にも、自我とか真我とか独我とかいろいろあるけど、
存在の仕方というのは難しいな
0180塩なめくじ
垢版 |
2022/03/23(水) 16:21:20.54ID:OmiufQk40
すごいとっ散らかってるな。こうしてとっ散らかってるのも色(しき)を語ってるから。
0181考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 16:22:39.770
盗撮乙
0183anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/03/23(水) 16:27:25.680
例えば3という数字が、
三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3には3しかない固有の性質だとかいうと、個我
3はそもそも奇数で、3はすべての奇数と同じ性質を持っている、というと梵我、
数とはそもそも0を起点にした相対的な値でしかないというと無我みたいな
つまり、個我、梵我、無我の
個、梵、無というのは、
絶対性、普遍性、空性のことをいっている
0185考える名無しさん
垢版 |
2022/03/23(水) 16:31:11.850
まるで自分は違うみたいな
0186anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/03/23(水) 16:32:29.380
×三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3には3しかない固有の性質だとかいうと、個我

◯三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3は3にしかない固有の性質を持っているとかいうと、個我

もっと言えば、3は3以外にない、
3は3という固有の数である、みたいな、伝わるだろうか

紫が200色あって、そのうちの固有の色だみたいな
200色の話が出てこの話をしているんだけど、
0190考える名無しさん
垢版 |
2022/03/24(木) 08:32:16.090
言葉を明確に定義しながら使うことが、言葉を都合よく処理しようとする、
つまり、勝手な動きをしないようにその息を止めようとすることである
とするなら、詩的な言語の用法とは、言葉を上手く捕まえて生簀に飼って
おこうとすることだろう。
0191青争岡市水青水区
垢版 |
2022/03/25(金) 10:29:41.900
>青(あお) は 藍(あゐ)より出(い)でて藍(あゐ)より青(あお)し

日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。

https://kotobank.jp/word/青は藍より出でて藍より青し-422146
(「荀子‐勧学」の「学不レ可二以已一、取二之於藍一、而青二於藍一、
冰水為レ之而寒二於水一」から出た語。青色の染料は藍から取るが、
原料の藍よりも青いの意から) 教えを受けた人が教えた人より優れること
0192清水/水青水(しみず)
垢版 |
2022/03/25(金) 16:15:05.970
>日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。<

https://manyoshu-japan.com/13526/
万葉集 第1巻 52番
>大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の
この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は
背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの
大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや
日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水<
0193考える名無しさん
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2022/03/25(金) 16:26:47.370
「青(あお)」は色の分類であるという思い込みが、感性の働きを麻痺させる。
0195考える名無しさん
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2022/03/26(土) 08:31:13.670
草木が「『青々(あおあお)』と茂る」とは、本来、「『鬱蒼(うっそう)』と茂る」
ことを表現しており、「緑鮮やかに」ということではない。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Henri_Rousseau_-_Il_sogno.jpg

「『青々(あおあお)』と茂る」の「青(あお)」は、色を分類する表現であると
思い込むから、草木の色なら「緑(みどり)色」であるはずだという判断が働き、
感性を働かせることなく、この「青(あお)」が表現しているのは「緑(みどり)色」
であるという移しかえが自動的/機械的に行われる。しかし、この「青(あお)」が
対応しているのは、「『鬱蒼(うっそう)』と茂る」の「蒼(そう)」の方であり、
「蒼」という漢字が「 艸 + 倉」として構成されていることにも反映されている
とおり、それが本来、イメージさせるのは「沈(しず)み込むような深さ」だろう
と考えられる(例えば、関連する漢字である「滄」および「倉」の用法を参照
してみるとよい)。
0196考える名無しさん
垢版 |
2022/03/26(土) 08:48:25.940
「滄」の部首・画数・読み方・意味 - 漢字辞典 - goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp › 漢字辞典

>滄の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア
@あおい。 また、あおうなばら。 うみ。 「滄海」 Aさむい。<

「蒼」は、「鬱蒼(うっそう)」の場合に見られるとおり、草木が
生い茂っている場合に用いられると、その色は「緑(みどり)色」のはずだ
という判断が生じて自動的/機械的にそのように移しかえが行われるが、
「滄」は、「蒼」とイメージを共有する漢字として用いられたはずだが、
「滄海」の場合に見られるとおり、海の様態を形容するものとして
用いられると、その色は「青(あお)色」のはずだという判断が生じて
自動的/機械的にそのように移しかえが行われる。

しかし、「滄」と「蒼」がどのようなイメージを共有するものとして
用いられているのかに注目すると、重要なのは、「空間的な深みに
入り込んでゆく」ようなイメージであることが分かる。
0197考える名無しさん
垢版 |
2022/03/26(土) 08:57:37.100
「倉(くら)」という表現について検索すると、以下のような説明を記載する
サイトがヒットする。

http://gaus.livedoor.biz/archives/15113576.html
1123「倉」はなぜ「くら」の意味か?

>古人は「倉は蔵なり。穀物を蔵するなり」と語源を説いている(『釈名』)。
藤堂明保も王力(現代中国の言語学者)も倉と蔵を同源の語としている。
穀物などを貯蔵する所だから倉には「深くしまい込む」というコアイメージがある。<
0198考える名無しさん
垢版 |
2022/03/26(土) 09:05:03.600
「青(あお)森」という地名について考えてみるといい。
樹木の葉は「緑(みどり)色」なのだから、「青(あお)」が「緑(みどり)色」を
意味するのなら、森が「緑(みどり)色」であるのは当たり前のことで、
「森」を「青(あお)森」と呼ぶことは、何らその特徴を表現すること
にはならないだろう。
0200考える名無しさん
垢版 |
2022/03/26(土) 13:56:10.390
「青木ヶ原樹海」
緑(みどり)色の木という意味ではないだろう。
0201考える名無しさん
垢版 |
2022/03/26(土) 16:20:04.890
言語表現の生成には自然にプラグマティズムが働いている。
言い換えるなら、感性の働きによって捉えられた経験を取り込むように
理性が働いている。しかし、そのようにして生成された言語表現を
「合理的」に解釈しようとするとき、大多数の人は「理性の罠」にはまる。
それは、与えられた理性に合わせるように表現を解釈しようとすること
によるものであり、理性がもともと、感性の働きを「節約する」ように
働くものであることを忘れているのだ。感性の働きを省略すること
ができるように理性を「適用」しようとするなら、それをどこで
どのように「適用」することができるのか、その「勘所」を押さえて
いなければならない。さもなければ、省略された「感性の働き」その
ものが見失われ、合理的であろうとすることが、理性を働かせること
ではなく、感性を無視して、単に理性的であるとされる説明に解釈を
合わせようとすることになる(いわゆる、理屈による「辻褄合わせ」
である)。理性の「適用」は、それが感性の働きを節約しながらでも、
その都度、感性の再活性化させることを怠るなら、形骸化するのである。
0203考える名無しさん
垢版 |
2022/03/28(月) 08:43:43.390
>>191青争岡市水青水区2022/03/25(金) 10:29:41.900
>青(あお) は 藍(あゐ)より出(い)でて藍(あゐ)より青(あお)し

うかつにも、検索してヒットする現代の標準の仮名遣いのまま、「青」を
「あお」とひらがな表記してしまったが、古語の仮名遣いでは、「青」は、
「あお」ではなく「あを」であり、上に引用した決まり文句も、
>「あを(wo)はあゐ(wi)よりい(yi)でてあゐ(wi)よ(yo)りあを(wo)し」
という発音の関係において自然にイメージされるはずのものだろう。
0204考える名無しさん
垢版 |
2022/03/28(月) 09:24:40.640
>日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。<

>重要なのは、「空間的な深みに入り込んでゆく」ようなイメージであることが分かる。<

ここで、「奈良」にかかる「枕詞(まくらことば)」として説明される「あをによし」
という表現を考察すると、「あをによし」は、「青丹吉」と漢字で表記されるので、
一般に「青丹(あをに)よ(良)し」と解釈され、岩波古語辞典にも「美しい青土を
産する意が原義」と記載されている。しかし、「あをによし」は、「安乎尓与之」
とも表記され、この場合に「あを」に当てられている漢字は、「安乎(あを)」であり、
「乎(を)」の表記は、「を」が呼び声として英語の"want"やフランス語の《vouloir》
に相当するイメージで用いられる場合と共通である。そこで、「安乎(あを)」を
検索語として万葉集を検索してみると、「安乎祢之奈久母」/「我を音し泣くも」/
「あをねしなくも」(第20巻 4437番)という表現がヒットし、「安乎(あを)」という
表記がやはり、そのようなイメージで用いられていることが確かめられる。

さらに、このことを踏まえて、「あを」の表記が「青」であれ、「安乎」であれ、
「あをによし」という表現が用いられている万葉集に歌を検討してみると、
やはり、「あをによし」も、ドイツ語を用いるなら、»sehnsuchtsvoll«、英語
にするなら"to be yearned"に相当するような表現として用いられていることが
分かる。この場合、wiktionaryでドイツ語の"sehnsüchtig"の中国語訳として
示される「渴望的」、「想望的」という表現も、「あをによし」にそれなりに
うまく対応しているように思われる。
0205考える名無しさん
垢版 |
2022/03/31(木) 19:39:55.260
襖(あを)
https:/ja.wikipedia.org/wiki/襖#/media/ファイル:Old_okada_house05_800.jpg
0206心深う、あをみたるやうにて、深き山の
垢版 |
2022/03/31(木) 19:51:04.460
>望月のくまなきを千里のほかまで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、
いと心深う、あをみたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、
うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。<
『徒然草』、「花は盛りに」
0210anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/04/02(土) 20:17:02.490
名詞の意味は右向き矢印(→)
〜の意味というと、左向き矢印(←)
0212anonymouse ◆Iow/mouse.
垢版 |
2022/04/02(土) 20:22:30.040
意味とは指向性なんじゃない
座標軸が増えていく空間(ヒルベルト空間的な)
のベクトルみたいなもん
0214null and void
垢版 |
2022/04/03(日) 00:33:40.210
矢印の記号(👉/→)は、インデックス/指標として何かを指し示すように
使はれるわけだが、例えば、日本語における「を」は、まずなによりも、
そこ(発声する身体)に「空虚」があることを「を/wo」という発音を
声にすることによって指し示す行為である。だからこそ、「を(惜)し」
という感覚は、言語の境界を超えてやはり同様に「空虚」を指し示す
行為として表現される。

https://www.wordreference.com/pten/vazio
vacuum n (sense of emptiness)
(figurado) vácuo sm
(figurado) vazio sm
His wife's death left a vacuum in George's life.
A morte de sua esposa deixou um vácuo na vida de George.
0215塩なめくじ
垢版 |
2022/04/03(日) 04:02:48.57ID:pZ1aKmIe0
シニフィアンね。
0216「あを」しのふらむ
垢版 |
2022/04/03(日) 08:15:08.340
>>204考える名無しさん2022/03/28(月) 09:24:40.640

>日本語の「あを(青)」の語源は不明とされているが、「あを」は、
"Middle Chinese: /ʔɑuH/"に近い発音で入って来た「奧(あう)」を
ピジン言語としての「日本語」において「あ・を」として再解釈する
ことによってもたらされた可能性が考えられるように思われる。
https://ja.wiktionary.org/wiki/奥<

なぜそのような可能性が考えられるのかと言えば、それは、日本語
において、「あ」は、「山の『あ』なた」のように指示詞として
不特定に離れた様態を表現するのに用いられるので、「あを」←
「あ」+「を」←「不特定に離れた空虚」という関係性が自然に
推論されるので、「奥(/ʔɑuH/)」を「奥(あを)」と読みかえる
ことは、「奥(あを)」≒「不特定に離れた空虚」としてイメージ
することになるからである。

https://manyoshu-japan.com/10046/
原文:波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読:春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
かな:はるののに くさはむこまの くちやまず あをしのふらむ いへのころはも

https://manyoshu-japan.com/13562/
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし
花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く
そこし恨めし 秋山吾は
0217考える名無しさん
垢版 |
2022/04/03(日) 08:27:24.330
>>216
また、このことから、奈良にかかる枕詞とされる「あをによし(安乎尓与之)」
も、現代語の「あこが(憧)れ」 の語源である「あくが(離)る」を反転した
ようなイメージを想起させる表現であると推察されることになる。
0218考える名無しさん
垢版 |
2022/04/03(日) 09:28:01.810
>>216
ちなみに、私は、リンクを貼った万葉集のサイトをとても便利なもの
として利用させてもらっているが、そこに記載される現代語訳は、
「適切な解釈」を提示することをまったくあてにしていない。
むしろ、そこに提示される現代語訳を「正しい解釈」であるなどと
思うなら、「適切な解釈」をしようとする試みは未然に妨げられる
ことになるだろうと思っている。
0219考える名無しさん
垢版 |
2022/04/03(日) 17:37:48.380
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<

言語表現の基礎にあるこのような発声を、それがそのように
使われていると認めざるを得ない場合ですら、言語学は、
それをただちに「擬音語/擬態語」として分類してしまうが、
その分類そのものが、事象を»vorhanden«に捉えることを
優先する偏見を反映している。しかし、この場合、その
事象を素直に»zuhanden«に捉えるなら、「を/wo」という
発音を声にすることによって「空虚」が示されることは、
行為における身体感覚の活用である。
0221考える名無しさん
垢版 |
2022/04/04(月) 08:27:45.930
言語学に代表される西欧で主流の言語観では、言葉を使うことは、
他の生物とは異なって特別に人に備わった理性の働きによるもの
であり、それゆえ、鳥の鳴き声などにも見られ、言葉を話せる
ようになる前の幼児の発声にも見られる音声の模倣は、「言語
表現を身に付ける前の段階」に属するものであるとされるのだ。
したがって、発話における身体感覚の活用も、それがそのような
ものとして認識される限りにおいて、ただちに「擬音語/擬態語」、
つまり、模倣によるものと分類されて、理性による言語表現に
よりも低い思考の段階に属し、言語の使用において副次的な
ものみなされる。

しかし、この言語観は、根本から誤っている。無論、言語の使用
には理性が強く働いている。だからこそ、人が話す言語がいくら
多種多様で、人々の話す言葉が互いに通じないものであった
としても、それが人々の間で通じる範囲における言葉の用法に
おいては、必ずその文法の記述が、つまり、別の言葉による
メタ言語的な記述なのである。それでも、このことは、理性
による言語の使用が、発声における身体感覚の活用から分離
していることはまったく意味しない。そうではなく、この
場合もやはり、理性は、その都度、感性を働かせることを
「節約する」ように作用しているに過ぎないのだ。
0222考える名無しさん
垢版 |
2022/04/04(月) 08:47:59.630
言語の使用は、言葉として表現するときの発声の身体感覚の活用をその
基礎として、それを理性の働きにより節約して、習慣化することの
積み重ねとして成立している。このため、習慣化した言葉は、それが
使はれるとき、その都度、可能なあらゆる感性の働きを徴用/召喚し
なくても人々の間で安易に通じることになる。その一方で、その
ように合理的に通じるようになった言葉の用法においては、その
言葉による表現がそもそもどのような発声の身体感覚の活用による
ものであったのかを知る感性の働きが忘れ去れ、何を伝えようと
しているのかは、人々の間で表面的にしか伝わらなくなる。
そこで、自らが伝えようとすることが相手にうまく伝わるように
しようとするなら、その際に用いる言語表現は、感性の働きを
再活性化するように発声の身体感覚を活用する必要に迫られるのだ。
したがって、実際の言語表現においては、理性により感性の働き
を節約しようとする方向性の力と、合理化によって働きが
鈍らされてしまった感性の働きを再び呼び覚まそうとする方向性
の力がせめぎ合っているのである。
0223考える名無しさん
垢版 |
2022/04/04(月) 09:02:38.260
物象化された事象の見方では、まず「そら(空)」が存在して、その
「そら(空)」の「いろ(色)」が「あを(青)」であるとされる。
しかし、実際の認識の働きは、その逆である。つまり、
「あを(青)」く≒「不特定に離れた空虚」を感じさせながら、
「明るい」のが「そら(空)」であり、そのような特徴を表すのが
「そらいろ(空色)」とされるのだ。
0225考える名無しさん
垢版 |
2022/04/04(月) 10:33:36.190
誤:別の言葉によるメタ言語的な記述なのである。
正:別の言葉によるメタ言語的な記述が可能なのである。
0226考える名無しさん
垢版 |
2022/04/04(月) 11:26:59.280
身体感覚を活用することの節約は、それが理性の積み重ねとして
成立しているとしても、(自己/)家畜化と表裏一体だろう。
0227考える名無しさん
垢版 |
2022/04/05(火) 14:15:51.020
>>214
ここで注意しなければならないのは、
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である<
と私が指摘するとき、そのようにして指し示される「空虚」は、
あらかじめ「空虚」として物象化されているわけではないということだ。
「を/wo」を発声することによって示されるのは、それを発声する
身体に空虚があるという感覚である。その発声を呼び声として聞いて、
同様に「を/wo」を発声することが、身体に空虚があるという感覚
を確認するこた(応)へとなって呼応関係が成立し、その呼応関係に
よる確認が反転可能な用いられることで初めて、「を/wo」の
発声に対応する身体感覚により、物象化された「空虚」が代表されて
示されることになる。だからこそ、表現の派生の順序としては、
まずは感嘆の「を」が表現として用いられ、それが呼びかけの
「を」とそれにこた(応)へる確認の「を」として利用され、さらに
その呼応関係の成立によって示されることになる物象化された
「空虚」を示す「を」が、「を(惜)し」という表現、すなわち、
「を(≒空虚さ)し(≒〜を生じさせる)」として活用されることになる
と考えられるのである。ただし、無論、私は、ここで、身体感覚が
人々に普遍的に共通するものとして用いられているなどということ
を主張しているのではないことにも十分に注意する必要がある。
その点については、単位として用いられる1と円周率πの互いに
割り切れない関係を比喩として用いて既に別の書込みにおいて
説明したので、ここでは繰り返さない。実際、私自身、日本語の
「を」がそのように用いられていると推論する際、まず自分の
身体感覚を根拠にするようなことは一切せず、日本語の「を(惜)し」
とフランス語の《regretter》の比較を手掛かりにその手続きを始めている。
0228考える名無しさん
垢版 |
2022/04/05(火) 14:37:12.860
一部の鳥類は、人の言葉の発声をとてもうまく模倣することが
できるが、その模倣が同時にはっきり示しているのは、それらの
鳥が、人の言葉を学習することに完全に失敗しつづけていること
である。なぜならそれらの鳥は、いくら長い言葉の発声を真似する
ことができても、人の発話のただの一音節さえ呼応関係とそれに
よってもたらされる物象化において使うことができないからだ。
0229考える名無しさん
垢版 |
2022/04/05(火) 17:34:52.780
言語表現にその息吹を取り戻させる再活性化は、云はば、生のリバース
エンジニアリングであり、全体と部分を交互に物象化する合理化プロセスの
逆プロセスなのだ。
0230考える名無しさん
垢版 |
2022/04/06(水) 08:39:08.460
形容することが物象化をもたらす。
「あを(青)」を「あを(青)し」と形容することによって、
それが「あを(青)きもの」の「あを(青)さ」となるように。
0231考える名無しさん
垢版 |
2022/04/06(水) 09:27:34.970
隠喩とは、それがなまめかしく用ひられる限りにおいて、
物象化とは逆のプロセスを発動する反形容である。
0232考える名無しさん
垢版 |
2022/04/06(水) 09:59:11.850
『枕草子』の言説のスタイルを考えてみるといい。
『枕草子』は、「〜もの」としてどのようにか物象化された「もの」の
具体例を、それぞれの具体例の置かれた脈絡とは無関係に列挙していくことにより、
「〜もの」とされる「もの」の「〜さ」がどのように物象化されているのかを
問ひとして提示している。これは、一見、「〜もの」の分類のようでありながら、
それとはちょうど逆の思考を要求する。例えば、「なまめかしきもの」の
具体例が提示されるとき、そこに列挙される「もの」には、生物も無生物も
含まれ、互いに何の関係もない。「なまめかしさ」が「いきいきとした
しなやかさ」であると理解されるとしても、ここで行われているのは、
「生物」という分類によりその具体例を列挙して、「生物」とその具体例
を交互に物象化するようなことではまったくない。むしろ、
「なまめかしきもの」の列挙から、その「なまめかしさ」が問はれ、
「なまめかしさ」から「なまめく」とはどのようなことかが問はれることに
なるのである。
0233塩なめくじ
垢版 |
2022/04/06(水) 12:05:34.61ID:1JKdq7Ut0
呼びましたか?
0234考える名無しさん
垢版 |
2022/04/06(水) 12:08:21.300
なめくじという言葉ってやっぱり動詞「舐める」の語幹に由来するのかなあ。
0235死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
垢版 |
2022/04/06(水) 12:17:00.150
新体和歌 歌論 死集。
狂刷らば 憑きのパンダに 良霊が 鳥つく島は ヤマト島哉。
0236死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
垢版 |
2022/04/06(水) 12:18:24.430
沙石集 無住 と重ねるリリーック。
0237死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
垢版 |
2022/04/06(水) 12:18:52.940
にくつかしさ。
0238考える名無しさん
垢版 |
2022/04/06(水) 19:46:49.280
>>191-232
「あを(青)」について書いていて、そういえば『青の美術史』という本が
あったなと思い出して、図書館で借りてきた。以前にも借りたことのある
本だが、そのときは、「知の技法」とかのシリーズで話題になった人物
がどういう研究をしているのか少し関心をもっただけだったので、結局、
ぱらぱらとページめくって見ただけで、読まずに返却してしまった。

今回、借りてきてまだ途中までしか読んでいないが、このスレで日本語の
「あを(青)」という表現について書いてきたこと(例えば、>>216)と
重なるようなことが論じられているので興味深い。それでも、この著書
は、主として美術において色として用いられてきた「青」について
語っており、日本語の「あを(青)」という表現そのものは問題にしていない。
ここで論じてきたように、日本語の「あを(青)」が言葉としてどのような
表現であるのか自体を問題として念頭においておくことは、
「こういう『青』もある」、「ああいう『青』もある」という議論に
より、「青」をさまざまに形容するように導かれる、つまり、対象として
の「青」を分類するというような思考回路にはまる罠を回避するのに
役立つだろう。
0239考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 09:48:29.340
『青の美術史』を読み終(を)へた。
この著作は、美術史において現れた様々な「青」という色(いろ)について
語る体裁をとってはいるが、それでもそこから何らかの結論めいた
ものを導き出すとすればやはり、「青」の「青(あを)さ」を追求すると、
結局のところ、日本語においてその語源として想定することができる
「あを(青)」≒「不特定に離れた空虚」に消える、ということに行(ゆ)き
着くほかないのではないだろうか。
「『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消えゆく(むしろ、古語のとおり、「消ゆ」と表現
されるべきだろう)」、そのように「青(あを)」を発散させる方向で
この著作を読むことは、美術史におけ「青(あを)」の様々な具現化を、
特定の「青色」の分類として収束させる方向で読むことと対比して、
著者の論述の意図に反することになるわけではないだろう。
0240考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 10:04:07.320
>『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消ゆ<

このことは、円周率πという「比率(ration)」をあくまでも追求してゆくなら、
それを数値として表現するための「数値のひと(等)しさ」である"1"、即ち、
「単位」の不在に「単位」が消えゆくほかないこと、つまり、言い換えるなら、
「『単位である1(ひと)の不在』にあくまでも単位が消ゆことが円周率π」
であるのと同様だろう。
0241考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 10:50:44.820
>そして、疑いなく青は、その光と闇とがぎりぎりでせめぎあうその境界
の色なのです。それは「生の彼方」を指示する。しかし、同時に、
「生への回帰」をも指示する。極限の空間において、青は人間の徴なのです。<

これを書いたとき、著者は40代の終わりだったという。これが書かれたとき
からもう30年は過ぎただろう。今、著者が「青(あを)」を再訪するとしたら、
同じような思ひを抱くだろうか。ピカソの青のように「境界の色」に自らが
染まっているような感覚であれ、それが「色(いろ)」として具現化するので
あれば、確かに、それは自らが生の「彼方(あなた)」ではなく
「此方(こなた)」にいることの「徴(しるし)」だろう。
しかし、「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。
0242考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 10:58:22.600
https://www.lyrics.com/lyric/4054804/Amor+Sensible

En Valledupar yo canto
Versos de mi inspiración
Si algún día sufro un desengaño
Me voy lejos de esta región

Como pájaro que vuela alegre
Y aunque viaja herido no lo encuentran
Y que en la inmensidad se pierde
Como si lo llevara la pena

Pa´ que cantar el sufrimiento
Cuando el amor sufrir no deja
0243考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 11:05:01.010
人(ひと)は、「生への回帰」を志向する限りにおいて、「生の彼方(あなた)」に
あこがれるとしても、「此方(こなた)」で"mientras tanto"「を」、
"meanwhile"「を」生きている。
0244考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 11:13:39.120
>>240
誤:「比率(ration)」
正:「比率(ratio)」
0245考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 11:35:15.050
>>242
この歌詞を引用したのは、無論、その言語表現が、想定される日本語の
「青(あを)」の語源にも対応するような感覚を、色としての「青」に
対応する表現も、「空(そら)」という物象化された表現も用いることなく、
「あたかもいた(傷)み抱えていないかのように彼方に飛び去って
広大無辺さのなかに消えゆく鳥の姿」として如実に伝へているからで
あるが、"sufrir un desengaño"という表現の語法的な二重性も興味深い。
0246考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 11:56:53.520
スペイン語で"engañar"という動詞は、一般に「騙す」、「欺く」、「惑わす」
などを意味するように用いられる。その名詞形が"engaño"であるが、こちらは
「騙し」、「欺き」、「惑わし」に対応するような用法もあるが、むしろ、
「思い違い」、「勘違い」、「錯覚」などを表現するように用いられることが
多いようである(小学館、『西和中辞典』)。"desengaño"の"des"は、
その逆を示すが、歌詞の"sufrir un desengaño"は、「思ひが叶わずに失恋
する」こととして、日本語の「夢破れる」に対応するような表現ではないか
と思う。だが、日本語でも、「夢破れる」ことは、そもそも最初から、
必ずしも現実可能な夢を抱いていたかどうかとは無関係であるように、
"desengaño"は、「幻滅」、「失望」を意味するだけでなく、「〘複数形
で〙(苦い経験から得た)教訓」、「悟り」、「迷いから覚めること」を
意味するようにも用いられるとされる(小学館、『西和中辞典』)。
0247考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 12:02:59.840
>「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。

私がそのように感じるのは、「青は人間の徴なのです」という表現に、
「夢破れる」ことについて"desengaño"が伝へるような二重性の
自覚の可能性を感じられないからだろう。
0248考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 12:40:47.340
事実誤認の訂正

>>242
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう
0249考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 13:10:11.070
>青は人間の徴なのです

「青(あを)」が指示しているのは、むしろ、それがどのような事象であれ、
「できる」ことの背景としていつでもつねにそこに「な(無/亡)い」もの
としてそこに「あ(在)る」「そら(空/虚)」ではないのか。
0252考える名無しさん
垢版 |
2022/04/08(金) 14:27:05.960
レス番号間違えていた
>>241
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう
0253考える名無しさん
垢版 |
2022/04/09(土) 15:09:32.350
>>147
>折角、面白い非標準の形の問ひを示してあげたのに
どれのこと?
0255考える名無しさん
垢版 |
2022/04/09(土) 20:11:51.710
>>216
理路はまったく別だが、人はやはり同じような発想をするものだね。
検索していて、新たに発見した。

https://baba72885.exblog.jp/8725036/
>谷川健一は沖縄にある「奥武(おう)」に注目し、「奥武」は「青(あお・おう)」であり、
死者の埋葬地に由来する地名であるとした。<
0256考える名無しさん
垢版 |
2022/04/10(日) 12:09:49.990
Wikipediaによると、
「阿武隈(あぶくま)川」の「あぶくま」は、
>『延喜式』には「安福麻」、『吾妻鏡』には「遇隅」とあるため、
古くは「あふくま」と呼ばれていたが、中世以降になると逢隈川、青熊川、
大熊川、合曲川などの用字が見え、「おおくま」と呼ばれるようになっていた。<
とのこと。

私には、この「あふくま」も、もとは「奥/青(あを)隈」であった可能性が
考えられるのではないかと思える。むろ、「あをくま」が「あふくま」に
変化することは不自然だが、「奥/青(あを)隈」の発音が不吉なので、
「あふくま(安福麻)」と変えて呼んだ可能性は、「葦(あし)」→「葦(よし)」
の関係を考えると、あり得ないことではない。
0258考える名無しさん
垢版 |
2022/04/11(月) 10:32:17.150
>>219考える名無しさん2022/04/03(日) 17:37:48.380
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<

私は、これまで、日本語において再帰表現を形成するのに用いられる
「〜ふ」が、「〜」によって表現される作用/動作/様態を「ひっくり返す」
メタ言語的な指示として用いられることから、それがちょうど数式、
x^-1=1/xにおける指数の"-1"のような役割をするように使はれている
と指摘してきた。同様に数学を隠喩として用いるなら、日本語における
「を」は、それが感覚として空虚を示すことにおいて、日本語の表現を
組織化するうえで、数学におけるオイラーの等式、e^iπ=-1のように
中核的な役割を果たしている。したがって、実際の発音において「を」
は「お」と区別がつかないのだから、「お」にまとめて日本語を
「合理化」しようなどというのは、数学の表現において必要なのは
プラスとマイナスの区別だけで、e^iπ=-1における"e^iπ="は不要である
とするような暴挙だろう。ある正の整数が存在するとき、それが
どのような整数であれ、その存在には、e^2iπ=1が隠れているように、
何かの事象がそこにあるとき、それはつねにすでに「を」の呼応関係
(を・を)として成立している。だからこそ、そこにあるものが失われ
ゆくとき、その存在を「を(惜)しむ」感覚、すなわち、「〜を」という
感慨を生じるのだろう。
0259考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 09:17:10.500
ここでおもしろい実験をしてみよう。日本語において「こ」、「そ」、「あ」の
ように指示詞としても用いられる、不特定に離れている様態を表現する「あ」を
動作に用いると、「ある」となる。この「あ(在/或)る」は、英語にするなら、
"be around"を表現するものと解釈できるが、「〜ふ」を用いて再帰的に「あふ」
と表現すると、英語の"encounter"、"meet"、"match"に対応するような動作を
表すようになり、「不特定に離れている様態」が「〜ふ」によって
「ひっくり返される」ことが分かる。特定されるように離れている様態を
表現する「そ」についても、「そ(反)る」(≒"deviate")と「そ(沿)ふ」
(≒"go along")の関係をみれば、「〜ふ」が「ひっくり返す」ことの指示として
働いていることが確かめられる。 ここまでは、既に以前から繰り返し説明して
きたことである。
0260考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 09:46:58.000
ここで実験してみようというのは、「を」についてである。それを
「実験」と呼ぶのは、日本語において「を」の発音が、その発声によって
「空虚」を指し示す行為であるなどという指摘は、私以外に他の誰も
していないように思われるからだ。この認識は、私の無知によるもの
である可能性はあるが、それは別にどうでもいい。要するに、ここで
踏まえておくべきことは、そのような前提そのものが、広く一般に
正しいものとして受け入れられている理解ではないということである。
0261考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 10:11:38.190
さらに、「〜ふ」が再帰表現を形成するという考えそのものが、国語学、
言語学、日本語学のいずれにおいても明示的に否認されており、これも
一般に受け入れられているものではない、私の解釈に独特のものである
ことにも留意する必要がある。

さて、これらのことを踏まえたうえで、「を」の再帰表現について考えて
みよう。それは「を(終)ふ」についてである。「を(終)ふ」は、「〜ふ」
という形式の動詞なのだから、「〜ふ」が再帰表現を形成するとするなら、
当然、「を(終)ふ」も再帰表現として解釈されるはずである。しかし、
「あ(在/或)る」と「あ(合/会/遭)ふ」や「そ(反)る」と「そ(沿)ふ」の
場合とは異なり、「を(居)る」にしても、「を(折)る」にしても、
その「を」をどのように「ひっくり返して」みたところで、「を(終)ふ」
が導き出されるようには思へない。実際、「を(居)る」や「を(折)る」に
用いられる「を」は、「空虚」を指し示しているのではなく、「ゐ(圍/威)」
の作用がもたらす効果に対応するものだろうと私には思える。
0262考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 10:35:59.770
では、「を(終)ふ」は、それでもやはり形式上は(私の独特の解釈によれば)
再帰表現を形成しているはずであり、「〜ふ」によって「を」によって表さ
れる作用/動作/様態を「ひっくり返す」ことの指示に従うはずなのだから、
「を」を発声する行為によって指し示される「空虚」を「ひっくり返す」
表現なのだろうか。しかし、そもそも、「空虚」の指し示しを「ひっくり返す」
などということが「意味を成す」のだろうか。

>>258で、数学記号を喩えに用いて、「〜ふ」を指数関数において指数と
して用いられる場合の"-1"に、また「を」が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へたことを思い起こそう。
だが、ここで、ご都合主義的な数学記号の濫用により、似非数学的に
「を」によって指し示される空虚を"-1"と見なし、「〜ふ」を指数の
"-1"と見なして、"(-1)^-1"を考えてみたところで、"(-1)^-1=1/-1=-1"
であり、結果としてもたらされるのが"-1"であるならば、"-1"=「空虚」
ということになり、この関係性は、呼びかけの「を」に対する応への
「を」の関係の隠喩としては役に立ちそうな気もするが、「を(終)ふ」
という表現の解釈を導き出すのには役立たないだろう。
0263考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 11:00:04.090
しかし、言語表現の解釈は、数学操作ではない。ある意味では説明に便利な
似非数学の利用も、それを数学操作によって導き出される形式に解釈を
縛り付けようとするなら、数学操作との整合性を優先するご都合主義の
辻褄合わせとなって、むしろ、解釈の手枷、足枷としかならない。

「を(終)ふ」の解釈を、似非数学操作の問題としてではなく、「『を』を
発声する行為によって指し示される『空虚』を『ひっくり返す』」ことは
可能か、という問ひとして見るなら、「それは直ちに可能だろう」と
私は応へることができる。なぜなら、言語表現において「空虚」とは、
「完全な欠落」なのだから、それを「ひっくり返す」ことによって
もたらされるのは、"(-1)^-1=1/-1=-1"ではなく、 「満腔」≒
"fullness of the entirety"だからである。ところが、古語における
「を(終)ふ」という表現の用法を見ると、直ちに、それが"to complete"
や"to accomplish"に対応するような意味でつか(使/仕)はれていることを
確かめることができる。さらに、漢字としての「終」そのものも、
「終日」という表現み見られるように、英語の"entire"に相当するように
用いられる。ここで、英語の"complete"の語源的な説明を参照すると、
以下のとおりである。
https://www.etymonline.com/search?q=complete
complete (v.)
late 14c., "make complete, bring to an end, supply what is lacking;
fulfill, accomplish," from complete (adj.) and probably in part from
Latin completus. Related: Completed; completing.

つまりは、英語の語源説明と対応させてみても、「を(終)ふ」は、
「を」によって指し示される「空虚」/"what is lacking"を「ひっくり返す」
ように働いていることになる。
0264考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 11:05:34.320
https://manyoshu-japan.com/10078/
万葉集 第14巻 3500番

>牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓
>紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
>むらさきは ねをかもをふる ひとのこの うらがなしけを ねををへなくに
0266考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 14:47:01.870
意味を追求すると、どこかで必ず破綻し、意味づけすることが出来なくなる
袋小路だ
0267考える名無しさん
垢版 |
2022/04/12(火) 16:05:03.870
意味付け自体に意義を求めていると本質は見失われるからね
0269考える名無しさん
垢版 |
2022/04/13(水) 13:44:26.810
背理法?
0271考える名無しさん
垢版 |
2022/04/13(水) 17:06:41.110
言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。「を」の発声が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へるとするなら、
「酒の友」である「さかな(肴/魚)」として現代の日本語にその名残りを
とどめる一人称/二人称として反転可能な「な(己/汝)」の関係性は、
虚数、すなわち、i=(-1)^(1/2)に喩えることができる。なぜなら、
「な(己/汝)」の関係性は、君/僕の関係とは異なり、「空虚」を指し示す
呼びかけの「を」に対して、その「空虚」を確認する応への「を」に
よって呼応関係を成立させることで、それが反転可能なものであると
しても、君(主)が(従)僕を「を(治)す」ような主従関係を確立する
ものではないからだ。そうではなく、「な」は、それが己を指すように
用いられるにせよ、相手を指すように用いられるにせよ、互いが
よ(依/撚)り合ふことで「を(緒)」となるものとする、「己/汝」を
「かたいと(片糸)」に見立てて相補性を求める呼びかけだからである。
したがって、「を」を英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
対応するものとするなら、「な(己/汝)」の心は、呼びかける相手の
「な(己/汝)」の心がそれによ(依/撚)り合ふことがないなら、
「を(緒)」になることすらなく、フランス語を用いるなら、
《velléité》に留まるからである。と同時に、互いによ(依/撚)り合ふ
ことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する「いとを(糸惜)しさ」
となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、より古い
文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。このことは、「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)に
なぞら(擬)へるなら、「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」
となる関係として見ることができるだろう。
0272考える名無しさん
垢版 |
2022/04/13(水) 17:13:30.560
https://manyoshu-japan.com/10787/
万葉集 第11巻 2791番
>原文 片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉為南 人之可知
>訓読 片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく
0273考える名無しさん
垢版 |
2022/04/13(水) 17:27:25.620
https://manyoshu-japan.com/9160/
万葉集 第20巻 4418番
>原文 和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛
>訓読 我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
0274考える名無しさん
垢版 |
2022/04/13(水) 17:48:25.100
>>271
「な(己/汝)」における互いによ(依/撚)り合ふ関係性は、反転可能な君(主)と
(従)僕の(すなわち、二人称と一人称の)共依存の関係性ではなく、云はば、
虚数人称の相補性である。
0275考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 08:15:45.930
https://manyoshu-japan.com/9246/
万葉集 第20巻 4332番

>原文 麻須良男能 由伎等里於比弖 伊田弖伊氣<婆> 和可礼乎乎之美 奈氣伎家牟都麻
>訓読 大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
>かな ますらをの ゆきとりおひて いでていけば わかれををしみ なげきけむつま

「すら」、「を(wo)」、「ゆ(yu)き」、「い(yi)で」、「わ(wa)か(離)れ」、
「を・を(惜)しみ/をを(雄々)し」、この歌で用いられる発声が互いに
どのような関係性において表現のイメージを想起させるのかに注目するので
なければ、この歌が詠んでいるのは、ただ単に「任務で出てゆく夫との別れを
妻が嘆いた」というだけのことになってしまい、なぜそれが巧みな歌として
選ばれているのかまったく不明となってしまうだろう。
0276考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 08:25:45.020
>言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。<

言語表現に数式による計算を当てはめるて解釈を導き出すような似非数学が
無効であるにもかかわらず、言語表現を似非数学を用いて考えることは、
依然として有効である。その理由そのものをしっかりと言語化して考えて
みることが大切だろう。でなければ、「そんなものは数学ではない」という
数学側からの、また「言語表現は数式ではない」という国語側からの、不毛
で的外れな批判が繰り返されるだけだ。似非数学モデルが有効な理由には、
言語表現の生成における理性と感性(の節約)の関係がかかわっている。
0277考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 08:35:44.920
な(萎)え、なやみ、なほ、なほり、わかれ、ををしなどが互いにどのような
関係にあると考えることができるのかについて、また後で書き込むことにする。
0279考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 10:00:40.360
>265mission complete2022/04/12(火) 11:18:58.740
>説明を(終)はりw

時代、社会、言語の違いにもかかわらず、
この歌で詠まれている「事し終(をは)らば」は、"mission complete"そのものだろう。
https://manyoshu-japan.com/9247/
第20巻 4331番
>事し終らば つつまはず 帰り来ませと
0280考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 10:12:05.190
>>277
https://manyoshu-japan.com/10045/
万葉集 第14巻 3533番
原文 比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
訓読 人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
かな ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし

例えば、この歌に詠まれているイメージを適切に解釈するためには、「なゆむ」と
「をし」がどのような関係にあるのかを考えることが欠かせないはずである。
0281考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 10:25:26.390
>>279
https://manyoshu-japan.com/9247/
第20巻 4331番
>我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
>ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは

この歌においても、「を」の呼応関係によってもたらされる主従関係と
「な」が想起させる相補性の関係の対比をはっきりと見てとることができるだろう。
0282考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 10:29:17.950
誤:我伎氣遠
正:奈我伎氣遠
0283考える名無しさん
垢版 |
2022/04/14(木) 14:05:49.800
>>276
人の話す言語の表現が、弁別される限られた発音から構成される発話に
よって意図を伝へるものである以上、当然、そこには感性の働きを
節約しようとする理性が強く働いている。仮に限りない多種多様な
表現ごとに別々の発音が割り当てられて、その都度、それらの発音
を弁別できなければ、その表現により伝はるはずの意図が不明と
なってしまうのであれば、人々は言葉を使ふとき感性をつねに
最大限に働かせていることを要求されることになってしまうだろう。
理性は、その都度に働かせられることになる感性を節約しようとして、
表現の意図を知るのに弁別されるべき発音を「数量的」にまとめて
しまうのだから、その働き自体が「数学的」であるということができる。
無論、そのことは、理性が、言語表現を数量として認識して、
数式によって処理しているというようなことを意味しているわけではない。
それでも、例えば、私が説明したとおり、日本語の「を(終)ふ」という
表現が、「を」の発音が、その弁別性において「空虚」を指し示す
ように用いられているという認識と、「〜ふ」が「〜」を「ひっくり返す」
ことを伝へる指示として用いられているという認識を組み合わせること
により、「空虚」が示されることから「満腔」がもたらされることを
表現するように「を」の使い方を反転させていると考えるなら、
これは、弁別される必要のある発音の大きな節約となり、この
「ひっくり返す」操作は、それを数式として表現することが
似非数学にしかならないとしても、極めて「数学的」であると言う
ことができるだろう。
0284考える名無しさん
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2022/04/14(木) 20:15:39.060
日本語の「〜ふ」は、その「ひっくり返す」という指示が多様に解釈
されることから、フランス語の《retourner》という動詞の用法に
対応させて考えてみることができる。例えば、手袋を「ひっくり返す」
/《retourner》という指示が、手袋を「裏返しにする」ことを意味する
ように。
0285考える名無しさん
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2022/04/14(木) 20:31:34.600
>>271
>互いによ(依/撚)り合ふことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する
「いとを(糸惜)しさ」となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、
より古い文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。<

括弧内に注記を入れたのは、この場合も私の説明が「いとをし」という
表現についての国語学における定説に「違反する」ものだからである。
では、私の説明は、文献的に何の根拠もない勝手な憶測に過ぎないのだろうか。
しかし、私には、そのようには「感じられない」。「感じられない」と
表現したのは、それがまさしく解釈の「感性」の問題であると私には思われる
からだ。例えば、『万葉集ナビ』のサイトで「いとを」をキーワードにして
検索すると次の4つの歌がヒットする。それぞれの「いとを」がどのように
解釈することが妥当であるのか考えてみるといい。
0286考える名無しさん
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2022/04/14(木) 20:34:29.150
万葉集 第10巻 1987番
原文 片搓尓 絲S曽吾搓 吾背兒之 花橘乎 将貫跡母日手
訓読 片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
かな かたよりに いとをぞわがよる わがせこが はなたちばなを ぬかむとおもひて

万葉集 第10巻 1856番
原文 我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覧
訓読 我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
かな わがかざす やなぎのいとを ふきみだる かぜにかいもが うめのちるらむ
0287考える名無しさん
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2022/04/14(木) 20:35:57.830
万葉集 第7巻 1340番
原文 紫 絲乎曽吾搓 足桧之 山橘乎 将貫跡念而
訓読 紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
かな むらさきの いとをぞわがよる あしひきの やまたちばなを ぬかむとおもひて

万葉集 第7巻 1316番
原文 河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
訓読 河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
かな かふちめの てそめのいとを くりかへし かたいとにあれど たえむとおもへや
0288考える名無しさん
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2022/04/14(木) 20:42:36.400
それにしても、「絲乎 絡反 片絲」という漢字の表記そのものがとても
興味深くないだろうか。私には、あたかもそれが「DNA二重らせん構造」
を先取りしているかのような印象を受けるw
0290考える名無しさん
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2022/04/15(金) 10:49:08.600
>>285-287
これらの歌の原文を参照すると、「いとを」という表現における
「いと」は、漢字として「絲」と表記されている。中国語の漢字として
「いと」を表すのにもともと使われた漢字が「絲」であり、現代の
日本語において「いと」に当てられている「糸」は、その簡略化に
過ぎないのだから、当たり前ではないかと思われるかもしれないが、
これらの歌が想起させる関係性をイメージするのに、「『いと』を」の
「いと」が現代漢字の「糸」ではなく、「絲」であることに気づく
ことはとても大切なことである。なぜなら、「『いと』を」の「いと」
が「絲」として表象されていることに気づいて初めて、縒り合はされて
「絲」をな(成)す片側である「かたいと(片絲)」が「糸」として
イメージされることになるからだ。すると、「絲(いと)」が乱れる
ことも、縒り合された「糸・糸」の関係が「『ゆ』るみ」が生じて、
「糸」+「糸」に分かれて、「緒(を)」として互いを「つなぎ留める」
(引きつける力の働きとしては、"-1"に喩えることができる)はず
の「絲(いと)」が容易に「た(絶)へ」しまうことの懸念として
イメージされることになる。ここで、「いと(絲)を」の「を」
がそのような「緒(を)」を想起させるものであることは、
第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので、「万両」がどのような姿で
あるか画像検索してみるといい。
0291考える名無しさん
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2022/04/15(金) 11:14:41.130
「絲(いと)乎(を)」の「〜を」は、既に繰り返し述べてきたとおり、その根本に
おいて「を」の発声によって「空虚」を指し示す行為であり、その指し示しが
感嘆として用いられ、その感嘆が呼びかけの「を」として応用され、呼びかけが
指し示す「空虚/欠如」に気づかされることによって、それに応へる「を」と
なる。したがって、「絲(いと)乎(を)」は、「水を」がそうであるように、
「絲(いと)」が「欠如している」ことの指し示しであり、「な(己/汝)」
(これもすでに以前から繰り返し指摘するとおり、日本語における「な」は、
フランス語の《entrelacer》に対応するように用いられており、「羅」の
発音を変化させた流用であると考えることができる)が「片絲(かたいと)」、
すなわち、縒り合されるべき「糸」である自己または相手を指すように
用いられるとすれば、その場合、「欠如している」は、「絲(いと)」の
全体ではなく、「糸・糸」の状態である。ここで「・」は似非数学的な
喩えとして「かけあはせ」の操作を意図しているが、そのように考える
ことは、似非数学としてだけでなく、言語表現としても適切だろう。
なぜなら、例えば、「綿」の「糸」と「ナイロン」の「糸」を
縒り合せて「絲(いと)」にすることは、「綿」の「糸」と「ナイロン」の
「糸」の性質の足し算としてより、その掛け算として捉えられるだろう
からである。これは、植物の品種/遺伝子のかけ合はせを考える場合でも
同様だろう。
0292考える名無しさん
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2022/04/15(金) 11:42:38.140
第14巻3533番歌
>比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
>人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
>ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし

「なゆむ」は、岩波古語辞典では、「なやむ」の上代東国方言であると
されている。そう考えることが妥当であるかどうかは別として(私には、
それを検証する材料が今のところない)、いずれにしても、この「なゆむ」
が「なやむ」や「なえ」や、現代語の「なよなよ」に関連していること
には疑いの余地がないだろう。このことから分かるのは、「な(萎)え」
の発音に実際に反映されるかどうかにかかわらず、「な(萎)え」の
「え」も「ye」としてイメージされていることであり、そう考えるなら
「なゆむ」の「ゆ」は、それを表現するのに「由」という漢字が使われる
ことにも反映されるとおり、やはり、英語の"loosen"に相当するような
作用を伝へていると推測することができる。「な」≒《entrelacement》
が「ゆるむ」ことによって「な(萎)え」が生じると考えることにも
整合性があるだろう。掛け合はされた「絲(いと)」において、
「な」≒《entrelacement》が「ゆるむ」なら、「絲(いと)」の状態が
そこ(損)なはれるのだから、「絲(いと)乎(を)し」さ/「愛をし」さが
生じるだろうが、早く我が子のもとに戻りたいという気持ちと比べれば、
馬の脚がそこ(損)なはれることは「を(惜)し」くもない。
0293考える名無しさん
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2022/04/15(金) 11:51:40.730
「花橘を」と「汝(な)が」に注目して、以下の歌を読んでみるといい。

https://manyoshu-japan.com/10339/
第13巻 3239番
>近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に
もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米を懸け 汝が母を 取らくを知らに
汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩と比米と
>あふみのうみ とまりやそあり やそしまの しまのさきざき ありたてる はなたちばなを ほつえに
もちひきかけ なかつえに いかるがかけ しづえに ひめをかけ ながははを とらくをしらに
ながちちを とらくをしらに いそばひをるよ いかるがとひめと
0294考える名無しさん
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2022/04/15(金) 12:00:43.260
https://ja.wikipedia.org/wiki/カリグラム

ギヨーム・アポリネールが『カリグラム』(Calligrammes。1918年出版)
で試みたようなことを、日本語はその形成過程において最初から、
はるかに徹底的にやっている。
0295考える名無しさん
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2022/04/15(金) 12:07:33.720
>「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)になぞら(擬)へるなら、
「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」となる関係として見ることが
できるだろう。<

このような似非数学をモデルとして用いることも、それを公式として当てはめて
言語表現として解釈しようとするような愚行に陥るのでなければ、それなりに
役に立つことを多少は理解してもらえただろうか。
0296考える名無しさん
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2022/04/15(金) 14:04:46.540
ところで、ここでひとつとても奇妙なことに気づく。
それは、上に引用した万葉集 第10巻 1987番において「いとを」に
対応する原文の表記である。私は万葉集ナビの表記をそのまま
貼り付けただけだが「いとを」の原文は「絲S」と表記されている。
無論、「S」というアルファベットは意味をなさない。このサイトの
どこかに注記があるのかもしれないが、なぜ「S」と表記されているのか、
その説明はすぐには見当たらない。そこで、万葉仮名でこの歌の
「絲(いと)S(を)」に対応するものとしてどのような漢字が用いられて
いたのか検索してみると、「絲叨」という表記がヒットする。
つまり、「を」を表すものとして「叨」が使われていたものとされて
いる。ところが、私が便利によく利用されてもらっている万葉仮名一覧
のサイトで「を」の表記を調べても、そのリストに「叨」という漢字は
含まれていない。その一方で、万葉ナビのサイトで「S」をキーワード
にして検索すると、いくつかの歌で「を」に対応する原文箇所が「S」
と表記されているので、確認してはいないが、この「S」は、「叨」
に対応するように当てられているのではないかと推察される。
しかし、本当に不思議に思われるのは、ここからだ。
0297考える名無しさん
垢版 |
2022/04/15(金) 14:20:07.940
>>286-287に引用した他の3つの歌では、「いとを」は、「絲乎」と表記
されており、「〜を」の用法の「を」が万葉仮名において「〜乎」と表記
されるのは一般的なことであり、「を」を呼び声と見なすなら、「口・乎」
で「呼」という現代の日本語でも普通に使われる漢字になるので、
イメージ的にもうまく合っている。しかし、「叨」は、現代の日本語では
見かけることのまずない漢字であり、検索してみると、
>叨の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア
>@むさぼる。 Aみだりに。 かたじけなくも。 おかげをこうむる。
という説明が最上位でヒットする。
「叨」という漢字の用法の説明であるこれらの記載が、「〜を」の用法に
どうもあまりうまく適合するように感じられないとしても、万葉仮名は、
発音を表記するための当て字として用いられるので、それ自体は特に不思議な
ことではない。だが、「叨」をWiktionaryで参照すると、その中国語に
おける想定される中古音は、"Middle Chinese: /tʰɑu/"であり、日本語の
「を」の発音からはかけ離れている。したがって、どのような理由でこの
「叨」という漢字が「〜を」に当てられているのか、とても不思議に思える。
0298考える名無しさん
垢版 |
2022/04/15(金) 14:35:06.500
ここで、https://en.wiktionary.org/wiki/
の記載を詳細に参照すると、
>(ideophonic, of a person near death) gasping for breath; breathing heavily
という記載と、
>Alternative form of 饕 (tāo, “to be greedy for”)
という記載があり、これらの説明は、日本語の「を」が英語の"want"や
フランス語の《vouloir》に対応するように用いられるとする私の解釈には、
好都合であるようにも見える。しかし、私にとって好都合であるという理由
だけで、どのようにして「叨」という漢字が日本語の表記に取り込まれたのか
その経緯を推測させるこの漢字の用例の裏付けなしに、そのようなイメージ
で用いられたのだと考えることは、「我田引水」に過ぎないことになるだろう。
というのも、中国語においても「叨」は、英語の"talkative"に対応するような
使われ方をする方が多いようで、英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
うまく対応するように用いられと見られるような表現は、見当たらないから
である。
0299考える名無しさん
垢版 |
2022/04/15(金) 14:50:10.330
なにか行き止まりにたどり着いたような感じもするが、そこでただちに私には、
アクロバット的な魅力のある解決策が思い浮かぶ。その手がかりは、やはり、
「叨」という漢字が「饕」の代替としても用いられたというWiktionaryの
記述にも求めることができる。日本語の古語では「統治する」ことは、
「をす」と表現されるが、この「をす」によく当てられる漢字は、
「食(を)す」である。この当て字も、私にはとても奇妙な印象をもたらす。
それは、一方では、「食べなければ生活できないのは確かだが、だから
といって、食べることがそれほどまで直接的に『統治する』ことを
想起させるものだろうか、という思いであり、他方で、「食す」の
「食」は、「を」の発音とは無関係ではないか、という思いである。
0300考える名無しさん
垢版 |
2022/04/15(金) 15:08:17.430
ここで、「〜を」に当てられた漢字である「叨」が「饕」の代替として
用いられたという事実を考慮して、「饕」という漢字の構成に注目すると、
「饕」は、呼び声を表現する「号」(号令の「号」である)と「虎」を
組み合わせた「号・虎」が「食」の上に乗ったものとなっていることが
分かる。
https://en.wiktionary.org/wiki/饕#Chinese
https://en.wiktionary.org/wiki/號#Chinese
「食」/"food"を「虎」がその「号」によって「求めるもの」の換喩と
見なすなら、「饕」は、虎がその呼び声によって求めを伝えるイメージを
想起させることになる。したがって、「叨」が「饕」の代替として用いられ
たとしたなら、「食(を)す」という表記も、本当は「饕(を)す」と表記
すべきところを簡略化したものなのではないかという疑念が浮かぶ。
0301考える名無しさん
垢版 |
2022/04/15(金) 15:33:17.840
さて、日本語で「〜を」の「を」を表記するのに用いられた「叨」もやはり、
「饕」の代替として用いられたとするなら、その用法にも「虎が餌を求めて
吼える」ような「号・虎」の呼び声のイメージを想起させたと考えることが
できる。ここであることに気づく。それは、「叨」を「@むさぼる」、
「Aみだりに」というイメージにではなく、呼び声に関連付けることで
ただちに思ひ浮かぶ「文字通り」のアクロバット的な転換の可能性である。

私がこれまでに、日本語の「を」を説明するのにどのような漢字を当てて
きたか思い出してもらいたい。私は、「梅を『をく』」という表現に
おいても、「統治する」ことを「をす」という表現においても、この
「を」の用法のイメージを伝えるのに都合がよいのは、規範的に
それに当てられることになっている「招(を)く」や「食(を)す」ではなく、
「召(を)く」であり、「召(を)す」であると説明してきた。ここで、
「召」と「叨」を比べて見ると、「叨」は、「召」の縦を横にした
だけであることに気づく。つまりは、統治者が「を(食)す」/
「召喚させる」呼び声には、虎が餌を求めるような呼びとしての
「を/叨/饕」が隠れていることになるだろう。
0302さを(食)しか
垢版 |
2022/04/15(金) 15:49:32.460
https://manyoshu-japan.com/9693/
乞食者<詠>二首

>いとこ 汝背の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国の 虎といふ神を
生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳<

>老いたる奴 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと
申しはやさね 申しはやさね<
0304考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 00:40:31.190
「な」と「を」の関係は、次にように考えてみてはどうだろうか。

「な(己/汝)」を指し示すこと自体がそのまま「〜を(緒)」/《vouloir》/
"consuming desire"となるわけではない。そうではなく、それぞれが
「片絲(かたいと)」、すなわち、縒り合ふことで「絲(いと)」となる
その片側である「糸」としての「な(己/汝)」を互いに「掛け合はせる」
ことによって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「〜を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。

例えば、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の関係で考えてみると、
そこに「酒(さけ)」があれば、「『肴(さか(酒)・な)』があればいいのにな」
という思ひが生じ、逆に、そこに「肴(さか(酒)・な)」があれば、
「『酒(さけ)』があればいいのにな」という思ひが生じるが、それは
まだそれが実現することに対する願望/《velléités》に過ぎない。
しかし、そこに「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」がともにあると、
それは、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の「掛け合はせ」と
なって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「〜を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。
0305考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 00:56:08.260
>第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので<

ところで、「『緒(を)』によって『玉を貫く』イメージを想起させ」て
歌に詠まれる「花橘」や「山橘」の別名が「万両(まんりょう)」である
とされること自体がとてもおもしろいことではないだろうか。
というのも、「両(りょう)」は、「双」と同義字であるとされ、
言うまでもなく、「ともにそろっている」ことを表す字だからである。
https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/okusimasyokubutu/manryou.html
0306考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 08:25:21.370
>>301
これは、「『叨』という漢字が『饕』の代替としても用いられた」
というわずかな手がかりと、「饕」という漢字がその構成要素である
「食」において、「統治する」ことを意味する「をす」という表現に
当てられた「食す」と共通しているという事実により、私にはこの
ような連想が生じたというだけのことに過ぎない。では、このような
自分の感性を頼りにした勝手な連想による「憶測」を巡らせることは、
合理的な根拠を欠いているので、全くの無駄なのだろうか。
私は、そのようには「感じ」ない。というのも、そのように私が
勝手に感性を働かせて連想を展開したことが「無駄」であったかどうか
は、その連想によってもたらされた結果を検証する作業に取り組むまで
ははっきりしないからだ。そして、この場合については、私が長々と
憶測を巡らせたことは、検索してみると、そう無駄というわけでも
なかったようである。「饕」を「をす」と併せて検索してみると、
その結果としては何もヒットしなかったが、その代わり、古辞書
には、「饕」の訓読みとして「ヲシム」があったという事実が見出される。
https://kotobank.jp/word/饕(漢字)-2789511
[古辞書の訓]
〔名義抄〕饕 ムサボル 〔字鏡集〕饕・叨 カムガフ・タダス・ムサボル
・カタジケナシ・ムセブ・ミダリガハシ・クラフ・ミダル・ヲシム
0307考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 08:34:27.000
逆方向で考えてみるといい。「饕」という漢字は、現代の日本語の用法では、
まず見かけることがない。偶々、「饕」に関して「古辞書の訓」にそれが
「ヲシム」とも読まれたというこの記述に出会ったとしても、私には、
その孤立した事実をどのように自分に役立てることができるのかさっぱり
分からないことになり、私の関心を引くことすらないだろう。この事実が
私にとても興味深いものに感じられるのは、私が憶測を働かせて、連想に
より表現解釈のネットワークを展開してきた結果としてである。
0308考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 09:06:20.060
これを他人から見たらどうなるだろうか。私が提示している連想の
「合理的な根拠」は、万葉仮名として@「〜を」に「叨」が当てられて
いる事例がある、A漢字として「叨」は、「饕」の代替として用いられた
事例がある。B古辞書には、「饕/叨」の訓のひとつに「ヲシム」という
記載が見られる。たったこれだけのことである。「合理的な根拠」に
則って文を解釈するという姿勢からは、私が展開したような言語表現の
解釈は生じようがないだろう。したがって、私の提示するような解釈
は、「根拠がない、またはまったく不足しているので意味がない」
という「合理的な判断」に基づいて全面的に切り捨てることが正当化
されることになり、実際、大多数の人々は、そのような「合理的な判断」
に従う「禁欲的」な態度を「正しい」ものとして自他に「強制する」の
である。しかし、そのような「合理的な判断」によってあらかじめ
切り捨てられることになるのは、「私個人の感性の働き」に過ぎない
のだろうか。「私個人の感性の働き」を切り捨てることによって、
言語表現の生成にもともと働いていたはずの「共通の感性の働き」
を知る可能性を探るという探求心そのものが切り捨てられることに
なってはいないだろうか。
0309考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 09:13:30.970
可能性の探求は、多大な時間と労力を要するが、「合理的な根拠」に基づく
ものとされる「禁欲的な正しい態度」を示すことは、瞬時の「拒絶」で済む。
本当に「安易な姿勢」をとっているのは、どちらの側だろう。
0310考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 10:27:08.470
「物象化」とはなんだろうか。
それは、まず何らかの「もの(物)」が存在し、その「もの(物)」に
特有の性質があることで、その「もの(物)」が何であるのかが
特定されるという事象の捉え方だろう。
例えば、和歌などの日本の古典の解釈を読むと、「を(緒)」が
典型的に物象化されて説明されている。そのような解釈では、
「を(緒)」が頻繁に表象として用いられる理由をうまく説明する
ことができず、物象化された「を(緒)」が、「短かった」り、
「た(絶)へ」たり、「乱れ」たりする性質を有し、「貫き通す」
のに用ひられ、「留める」のに使はれたりする「もの(物)」と
見なされている。しかし、日本の古典の言語表現がなぜそこまで
「を(緒)」に執着しているのかということについては、説明が
つかないままである。しかし、古典の専門家によるそのような
解釈は、まさしく物象化による「感性の麻痺」を示す事例に
他ならないのではないか。無論、和歌において「を(緒)」は、
「つなぎとめる物(もの)」として物象化されて「応用」されている。
だからこそ、解釈において問はれるべきは、その物象化された
「を(緒)」の性質などではなく、どのような感性の働きが
「を(緒)」として物象化されて表象されているかである。
貫き通して、つなぎ留め、身に引き寄せる「結合力を働かせる」
ことが「を(緒)」として物象化されて応用されているのであり、
その逆ではない。だから、「短い物(もの)」、「絶へる(もの)」、
「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだと
するような解釈は、物象化を優先する逆立ちである。
0311考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 10:33:12.840
誤:「絶へる(もの)」、「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだ
正:「絶へる物(もの)」、「乱れる物(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているのだ
0312ご都合主義とはなにか
垢版 |
2022/04/16(土) 15:29:29.810
なかなかおもしろいことに気づいたので、書き込んでおく。

https://manyoshu-japan.com/11769/
第9巻1809番
>仰天 S於良妣
>天仰ぎ 叫びおらび
>あめあふぎ さけびおらび

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/ed6949a9c7eac87bbbda27fbb63734ce
>仰天 叨於良妣
>叨於良妣 昆地で、叨は口+刂の当字

https://manyoshu-japan.com/13379/
万葉集第2巻 199番
>敵見有 虎可S吼登
>虎か吼ゆると
>とらかほゆると

第2巻199番の歌で「虎可S吼登」において、「S」に置き換えられて
いる文字もやはり、「口+刂」のように見える文字のようである。
しかし、第9巻1809番の場合とは異なり、読みにおいてはその不明の文字
は完全に無視されている。「口+刂」を「叫」という文字の代わりとして
「さけ(叫)ぶ」と読むことはできるが、虎が「さけ(叫)ぶ」とするのは
明らかに不適合で、そのような読みは不都合だからだろう。
0313考える名無しさん
垢版 |
2022/04/16(土) 15:37:41.250
不明な、または標準の漢字として表示されない万葉集に現れる文字については、
これに関連して、別のおもしろいことに気づいたので、後で書き込むことにする。
それは「ウグイス」の「ウ」であるとともに、「梅(ウメ)」の「ウ」とされる
「ウ」の発声についてである。
0314考える名無しさん
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2022/04/16(土) 15:44:38.590
https://manyoshu-japan.com/12741/
万葉集 第5巻 837番
>原文:波流能努尓 奈久夜s隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 s米何波奈佐久
>訓読:春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>かな:はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく
0315考える名無しさん
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2022/04/16(土) 16:51:23.330
>>312
私は自分の業績を評価してもらうために誰かに遠慮して、歯に衣を着せた
ような物言いをしなければならない立場にはないので、私の思ふところを
はっきりと書いておくことにしよう。「叨は口+刂の当字」としている
のは、実際に文献には「口+刂」のようにしか見えない文字で表記されて
いるのだから、「事実には違いない」が、考え方としては完全に倒錯である。
「『口刂』としてしか識別できないものとして書き写されている文字が
『叨』の当て字」であると考える方が妥当である。なぜなら、「口刂」
という文字は、古い文献に現れる文字を書き写す目的以外で未だかつて
通用する文字として存在したことがないからだ。なおかつ、「刂」そのもの
が、「利」の場合を見ると確認できるとおり、「刀」を簡略化した表記で
あるとされているのである。
https://en.wiktionary.org/wiki/
したがって、「叨」の写し間違い、または簡略化であると考えられる
「口刂」という文字を、「叫」という漢字として解釈することは、
「倒錯×ご都合主義による捏造」という操作をしていることになる。
そのような操作が実際の文献の解釈において破綻する、第2巻199番の
歌で「虎可『叨/口刂』吼登」の読みにおいて「叨/口刂」を無視する
ことしかできないことにも明確に表れているだろう。
0316考える名無しさん
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2022/04/16(土) 16:53:35.330
誤:破綻する、
正:破綻することは、
0317考える名無しさん
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2022/04/16(土) 22:21:13.630
>>315
ロリだろ?
0318考える名無しさん
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2022/04/17(日) 01:24:28.390
>>313
いろいろしつこく繰り返し説明した後で、似たようなことを論述として
組み立てるのが少し面倒な気分になっているので、いつもながら私の
連想に基づいた連想による結論だけ簡潔に書き込むことにする。

引用したサイトの万葉集 第5巻837番歌で「s隅比須」(うぐいす)、
「s米」(うめ)と表記される、原文で「s」に置き換えられている
「う」の発音に対応すると考えられる漢字は、いずれも「汙」である。
ところで、なぜ「梅に鶯(うめにうぐいす)」なのかについては、
実際に梅の花にウグイスが来ることはほとんどないので、メジロの
間違いだろうとか、漢詩を真似たに過ぎないとか、いろいろ説が
あるようだが、これは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の
発音が共通のイメージを想起させるものとして捉えられているため
である。「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」に共通で当てられる
漢字には、「汙」、「于」、「宇」があることが検索するとすぐに
分かるが、これらに共通する「于」は、漢字として「乎」と同義字
であるとされる。「うぐいす」と「うめ」で異なる漢字が当てられて、
「うめ」の「う」には「烏」が当てられている事例が見られるが、
そのような場合でもその「う」の発音は、「うぐいす」の「う」と
密接に関連したイメージを想起させる発声として用いられていると
考えられる。
0319考える名無しさん
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2022/04/17(日) 01:37:25.220
>「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の発音が共通のイメージを
想起させるものとして捉えられているためである。<

では、その共通のイメージとはどのようなものだろうか。「汙」は、
漢字としては、現代の日本語の「汚」の変形であると考えられている
ので、この「う」の発音がそのようなイメージを想起させるものでは
ないことは明白である。この場合の「汙(う)」が想起させるイメージ
を最も簡単に説明するには、日本語も中国語も離れて、英語を利用する
のが手っ取り早い。それは、英語の"woo"という動詞である。
https://www.merriam-webster.com/dictionary/woo
つまりは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」で共通する
ものとしてイメージされているのは、"to seduce"とメタ言語的に
記述することができるような、相手を誘惑しようとする声なのである。
0320考える名無しさん
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2022/04/17(日) 01:41:14.330
それは、「う」に用いられている漢字がまったく異なるものの、次の
歌における「『う』ばひ」と「『う』め」の「う」を重ねた用法から
も確かめることができる。
https://manyoshu-japan.com/12728/
第5巻 850番
原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈 伊麻<左>加利奈利 弥牟必登母我聞
訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
かな ゆきのいろを うばひてさける うめのはな いまさかりなり みむひともがも
0321考える名無しさん
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2022/04/17(日) 02:06:49.800
さらに、第17巻 3907番の「 花<咲>乎々理」、第13巻 3266番の
「花咲乎呼里」、第10巻 2228番の「開乃乎再入緒」、第8巻 1421番の
「開乃乎為<里>尓」、第6巻 1053番の「花咲乎呼里」、第6巻 1050番歌の
「花開乎呼理」、そしてさらには、
https://manyoshu-japan.com/12566/
第6巻 1012番歌
>原文 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為
>訓読 春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
>かな はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ
における「乎呼理」などが想起させるイメージについて考えてみるといい。

これらはすべて「ををり」と読まれることにされて、「枝が重みで撓んでいる
様子」をイメージさせるものと解釈されているが、最後の「乎呼理」は、
どうみてもウグイスの鳴き声だろう。そもそも、実が沢山つくなら枝が撓む
ことは理解できるが、花が咲いてなぜ枝が撓むのか説明がつくのだろうか。
また、「ををり」と読まれるとされている表現が、仮にそのように発音され
たとしても、それがなぜ「枝が撓む」ことを表現することになるのか。
花が沢山咲くことで折れそうになった草木を見たことがあるだろうか。
私には、「乎呼理」は、その字面からも推測されるとおり、「誘惑の声」
だろうと思われる。「花」が声を出すのは不合理だから、そのような
解釈は成立し得ないと考える人々は、「春の野山」の誘いに呼ばれる
ような感性を持ち合わせてはいないのだろう。
0322考える名無しさん
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2022/04/17(日) 02:12:01.070
お花畑
0323考える名無しさん
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2022/04/17(日) 08:16:50.220
さて、「さきほこる」というのは、現代の日本語でも慣用表現として
よく使われるが、これは花々が自らを「誇(ほこ)る」ように咲くことを
主要な意味として生成された表現だろうか。

https://kotobank.jp/word/咲誇る-509421
咲誇る(読み)サキホコル
デジタル大辞泉「咲誇る」の解説
さき‐ほこ・る【咲(き)誇る】
[動ラ五(四)]今を盛りと美しく咲く。「色とりどりのバラが―・る」
0324考える名無しさん
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2022/04/17(日) 09:44:43.910
「于」と「乎」が漢字の用法において同義字とされるだけでなく、
万葉仮名において「乎」と「烏」はともに「を」を表記するのにも
用いられ、中国語の想定される中古音において、「乎」は、
"Middle Chinese: /ɦuo/"とされるのに対し、「烏」は、
"Middle Chinese: /ʔuo/"とされて、互いにとても近い発音として
用いられている。それだけでなく、日本におけるその漢字の用法に
おいても、「う」("wu"としてイメージした方がいいだろう)の
発音において、フランス語の《ou》/「どこに?」に相当するような
イメージで「場所的な不在」に対する感慨を表現するように
用いられている事例が見られる。
https://kotobank.jp/word/烏有-441691
烏有(読み)うゆう
〘名〙 (「烏(いずくんぞ)有らんや」の意) 何もないこと。皆無。また、架空
0325考える名無しさん
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2022/04/17(日) 10:20:11.640
私の臆断を書き記しておこう。
「乎々理」、「乎呼里」、「乎再入」、「乎為<里>」などと様々に
表記され、「ををり」(wo・wo・ri)と読まれたとされる「乎呼里」
(ここでは、代表する表記として勝手に選択させてもらった)は、
確かに万葉仮名の表記どおりに「乎/を」を繰り返せば、
「ををり」(wo・wo・ri)となり、「乎/を」の反復・継続を表現する
ことになるが、「乎再入」における「再入」という不思議な表記法に
反映されていることが疑われるように、再帰表現としても意識され、
「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)のように発声されたのではないか。
私には、このように想定される「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)は、
同時に「(咲き)にほひ」という表現も想起される(こちらはやはり
私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)。
というのも、そのように想定するなら、「をほり」(wo・ho・ri)
は、「を(招/召)き」の再帰表現となるだけでなく、「を(招/召)き」
が使われなくなって、「(咲き)をほり」が表現として意味不明に
なると、発音の類似から「(咲き)ほこり」への転換が容易に生じ得る
と考えられるからである。
0326考える名無しさん
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2022/04/17(日) 10:27:17.630
誤:「(咲き)にほひ」という表現も想起される
正:「(咲き)にほひ」という表現も想起させる

誤:(こちらはやはり私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)
こちらは性急すぎたので取り下げておく。
0327考える名無しさん
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2022/04/17(日) 10:47:12.360
>春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく

私が、この「うぐいす」の「う」と「うめ」の「う」に共通して感じる
作用のイメージを英語で記述するなら、"inducing to draw near"という
ことになるだろう。
0328考える名無しさん
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2022/04/17(日) 13:59:37.820
>>320
第5巻 850番
>原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈
>訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花

この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される関連する推測がある。それは、
意味不明とされながらも頻用される「枕詞」とされる「ぬばばまの」に
ついてである。私には、「ぬばたまの」は、「魂を自ずと抜け出させる」
ことを意味するように用いられのだろうと思える。なぜ、そのように
推測されるのか説明しよう。
0329考える名無しさん
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2022/04/17(日) 14:03:38.370
https://kotobank.jp/word/射干玉の-594269
ぬばたま‐の【射干玉の】
>枕 ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかる。
中古以降は「むばたまの」という形で使われることが多い。

>[語誌](1)「万葉」では仮名書き例のほか、「烏玉」「黒玉」「野干玉」
「夜干玉」といった表記が見られる。

>むばたま‐の【射干玉の】
枕 「ぬばたまの」の変化したもの。中古の初・中期の形。のち「うばたまの」
ともなるが、表記の上では後世まで引き継がれる。→ぬばたまの・うばたまの。
0330考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:12:07.120
>この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される<

なぜすぐに「ぬばたまの」が連想されるかというと、「ぬばたまの」は、
「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化したと
考えられているからである。上記に
>重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」
と説明し、上の歌の例ではたしかにそれは「う(有)」の発音とされるが、
「うば(奪)ふ」にはその変形の発音として「むば(奪)ふ」があり、
「うめ(梅)」が「むめ(梅)」と呼ばれたこともよく知られている。
>「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化した
という一般に流通する説明においては、単に意味不明のまま発音だけが
変化していったものと想定されているが、言語表現は、それが用いられる限り、
何らかの解釈を伴うことの方が普通である。「ぬばたまの」の本来の
言葉の意味が見失われたとしても、それが表現するイメージはその後も
ある程度、引き継がれたはずであり、「ぬばたま」の「(玉)たま」が「魂(たま)」
と結び付けられないはずはないのだから、解釈を要するのはは、「ぬば」、
「むば」、「うば」だけであることになる。
0331考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:21:50.170
「うば(奪)ふ」にはその変形の発音として「むば(奪)ふ」があることから、
「むば」、「うば」は、自然に、「うば/むば(奪)」を想起させる。
では、「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」という解釈は
成立する可能性があるのだろうか。ここで、「ぬばたま」という表現の
漢字の表記には、「射干玉」、「野干玉」、「夜干玉」などがあることが
注目される。というのも、「射干」、「野干」、「夜干」は、「ぬば」
という発音には対応していないからである。そこで、「野干」を
Wikipediaで検索してみると、次のように記載されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/野干
>野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)

>日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身で
あると解釈され、平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。
0332考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:26:17.260
>野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天
ということなので、さらにリンクをたどって同じくWikipediaで「荼枳尼天」
の項目を参照すると、以下の通り記載されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/荼枳尼天
>平安初期に空海により伝えられた真言密教では、 荼枳尼は胎蔵曼荼羅の
外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている。

ここで「野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天」は、「奪精鬼」とされているので、
>「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」
と解釈した推測は、はっきりと裏付けられたことになるだろう。
0333考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:29:24.960
では、逆に、
>「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」
の変化をもたらした元の「ぬば」はどのような表現であったのかを問ふなら、
それは、「ぬ(貫/抜)く」の「ぬ」を利用した再帰表現であり、
「ぬば」≒「自ずとぬ(貫/抜)ける/させる」ことを意味していたのだろうと
私には思える。
0334考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:35:50.760
一般に黒いものにかかると説明される「枕詞」として「ぬばたまの」は、
>「黒」「夜」「夕」「宵」「髪」などにかかる
とされるが、「月」、「夢」などにもかかる。
「月」、「夢」が黒いわけではないので、
>夜にかかわるところから
という理屈付けによって「合理的」な説明が付けられているが、
「ぬばたまの」≒「魂(たま)を自ずとぬ(貫/抜)させる」と解釈する
なら、そのような副次的な説明は不要となるだろう。
0335考える名無しさん
垢版 |
2022/04/17(日) 14:44:16.610
言いたいことを言っておかないと、「はらふくるる心地」するが、
別にそれをいくら書き込んだところで、私にそれ以外の何の利益もあるわけ
ではなく、時間と労力をかなり要して、しかも、不用意なことを書き込んで
しまったり、誤記が多かったりすると、それも気分が悪いので、
それなりのストレスも大きい。すこし自制しよう。
0337考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 00:26:46.310
https://ja.wikipedia.org/wiki/カーリー#/media/ファイル:Shyama_Shakespeare_Sarani_Arnab_Dutta_2010.JPG

>野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)
まあ、ジャッカルのような動物としてイメージされた夜干/野干/射干が、
ジャッカルのいない日本では野狐(ヤコ)のイメージになったということかな。
0338考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 11:01:56.600
万葉集で用いられる多くの「枕詞」とされる表現が、その本来の意味も、
かかり方も不明となっているなかで、「たまくしげ」は、それが「もの(物)」
として何を指すのかはっきりと知られており、それにつづく語句に
どのようにかかるのかも明確に分かっている。それでも、「たまくしげ」
を「玉櫛笥/玉匣」と考えて、そのような物象化から歌の言語表現を
理解しようとすることは、感性の働きを硬直化させて、表現の生成に
働いている感性を適切に解釈することを妨げる。

岩波古語辞典で「たまくし【玉櫛】」の項目を参照すると、以下のように
記載される。
>たまくし【玉櫛】《タマは魂(たま)。神聖なの意》神聖な、大切な櫛。
>たまくし【玉櫛笥】@玉飾りのある櫛笥(くしげ)。転じて、女の持つ
手箱の美称。タマはまた、霊魂を意味し、神仙としての霊性とかかわり
のある箱の意。

このように「たまくしげ」という表現を物象化する方向での理解が示され
た後で、「枕詞」として使われるこの表現が、そのような箱として、
「開け」や「明け」、「奥に思ふ」(大事に思うことから)、「二(ふた)」
(つまり、箱の蓋)にかかることが説明される。

このことは、こちらのサイトに記載される説明においても同様である。
https://kotobank.jp/word/玉櫛笥・玉匣-2060491
0339考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 11:16:28.770
最初に断っておくが、私は、「たまくしげ」という表現についてのこれらの
説明が誤っているなどということを指摘したいわけではない。「たまくしげ」
という言葉が詠まれる歌において、この表現が説明されるとおりに「物象化
されて使はれている」ことには疑いの余地がないだろう。しかし、だから
こそ、後に「枕詞」と呼ばれることになった「物象化されて使はれている」
表現は、その多くが死語となり、意味もかかり方も不詳となっていったのである。
したがって、このような表現を「物象化する方向で」解説することは、それに
いくら詳細に、入念に取り組んだところで、表現の生成に働いていたはずの
感性を適切に導き出すのには役に立たないだけでなく、そうしようとする
ことを妨げつづけることにすらなるのである。なぜなら、表現に働いている
感性を知ろうとすること自体が、物象化のプロセスを逆転させることを要請
するからである。
0340考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 11:18:02.630
誤:>たまくし【玉櫛笥】
正:>たまくしげ【玉櫛笥】
0341考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 11:56:00.380
ここで、「物象化のプロセスを逆転させる」という表現により私がどのような
ことを意図しているのかが理解されるなら、もはやそれ以上に説明をつづける
必要すらない。「たまくしげ」を詠み込んだ歌において、それがどのような
感性の働きを表現しているのかを知るには、引用したような物象化する方向での
説明を逆転させるだけで済むからだ。

「たまくしげ」は、「玉櫛笥・玉匣」と表記されるとき、明確に、現代の日本語
にするなら「容器としての箱(はこ)」を指しており、「たまくしげ」の「げ」
の発音にもともとどのような漢字が当てられることになっていたにせよ、
その発音そのものが漢語の反映だろう。
https://www.chinesewords.org/character/.html
>康熙字典解釋
>【唐韻】丘玉切【集韻】區玉切,音曲。匣也。

「たまくしげ」を「たまくし・げ」と切るなら、その物象化された解釈は、
「神聖な、大切な櫛(くし)」を入れる「箱(はこ)」ということになり、
「たま・くしげ」と切るなら、「玉飾りのある櫛笥(くしげ)/美しい手箱」
ということになる。これを英語で簡単に表現するなら、
"a box for precious hair ornaments"または
"a precious box for hair ornaments"と記述することもできるだろう。
しかし、歌において「たまくしげ」という表現が用いられるときに
中心的に働いている感性は、そのような捉え方では、まったく伝はること
にはならない。むしろ、「たまくしげ」として物象化して表現する手法
そのものが、歌に詠むという行為を介して「心を『ひそかに』相手に
伝へる」、すなわち、「隠しながら見せて伝へる」技法なのだから、
物象化する方向だけで解釈することは、その表現によって「伝へようとする
心」を隠蔽することにしかならない。
0342考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 12:22:00.730
説明が長くなったので、結論を簡単に述べよう。
それは、「たまくしげ」という表現を英語に変換してみれば簡単に分かることだ。
「たまくしげ」を物象化して捉えて、
"a box for precious hair ornaments"または"a precious box for hair ornaments"
してみても、歌に詠まれた「たまくしげ」の用法に働いている感性はまったく
伝はらない。なぜなら、この表現において本当に大切なのは、
それが"a box"/「箱」であることでも、その"a box"/「箱」が"precious"/
「大切」、「貴重」、または「美しい」ということでも、その"a box"/「箱」が
"hair ornaments"/「櫛」もしくは"valuables"/「貴重なもの」のためのもの
であることでもないからだ。そうではなく、「たまくしげ」が表現している
のは、「たま(魂)」を「くす(≒「秘める」)」(「奇(くす)し」、「くすむ」、
「くすねる」などの「くす」を考えてみるといい)こと、すなわち、
英語にして表現するなら、"keeping souls undercover"であるからである。
"undercover"であるからこそ、「たまくしげ」は、「開け」や「明け」、
「ふた(蓋)」の掛詞としての「二(ふた)」、「奥に思ふ」などにかかって、
その歌を詠む者の「心(こころ)」を伝へることになるのだ。
したがって、和歌に詠まれる「たまくしげ」という表現に働いている
感性を理解しようとするとき、「玉飾りのある櫛笥」をイメージとして
想起するより、Rolling Stonesの"UNDERCOVER OF THE NIGHT"の
"undercover"を思ひ出した方がはるかに役に立つことになるだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=DVJkfXeTs9Q
0343考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 12:52:31.950
https://manyoshu-japan.com/13485/
>玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜<裳>
>玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
>たまくしげ おほふをやすみ あけていなば きみがなはあれど わがなしをしも

私は、個人として万葉集を所持していないので、このサイトには、その優れた
検索機能も含めて、どれほど助けられていることか知れない。万葉集の歌の
言語表現の解釈について私がここに書き込んでいることも、そのような助け
を借りなければ、ほとんど不可能だろう。それでも、このサイトで提示される
歌の現代語訳には、感性が仮死状態で麻痺しているかのようにまったく
働いていないと感じさせられることが少なくない。例えば、この歌における
「名(な)」は、本当にその現代語訳に示されるような使はれ方をしている
だろうか。「たまくしげ」の用法と併せてこの「な(名)」について考えた
とき、このスレで既に私自身が示した日本語における「な」についての
考え方にも照らして、その現代語の解釈には、強い違和感を覚える。
0344Undercover
垢版 |
2022/04/18(月) 14:56:24.380
>>342
https://manyoshu-japan.com/12943/
万葉集 第4巻 635番
>草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
>草枕旅には妻は率たれども櫛笥のうちの玉をこそ思へ
>くさまくら たびにはつまは ゐたれども くしげのうちの たまをこそおもへ
0345考える名無しさん
垢版 |
2022/04/18(月) 15:09:44.530
https://kotobank.jp/枕詞-135915
枕詞(読み)まくらことば
>主として和歌に用いられる修飾句。通常は一句五音で、一首の主想表現と
直接の意味的関連がなく、被修飾語(被枕詞)だけを修飾する。<

これが一般に通用している「枕詞」とされる表現についての理解である。
「枕詞」とされる「草枕」がどのような表現として用いられているのかについては、
以前に別のスレで長々と説明したので、ここではそれを繰り返すことはしないが、
>>344に引用した歌では、通常は「枕詞」とされる「たまくしげ」が歌として
展開されているだけではなく、それは、枕詞とされる「草枕」との関係において
展開されている。というより、この歌から「草枕」と「たまくしげ」の関係
を除いてしまったら、何も残らないだろう。
0346考える名無しさん
垢版 |
2022/04/19(火) 01:12:08.750
「たまくしげ」の「たまくし」には、「た(手)まくら(枕)」も隠れている。
以下は、しばらく前の私自身の書込みである。

>362考える名無しさん2021/10/04(月) 00:27:54.070
https://manyoshu-japan.com/10713/
万葉集 第12巻 2865番

>玉釼 巻宿妹母 有者許増 夜之長毛 歡有倍吉
>玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき

以下、『萬葉集 三 新潮日本古典集成』、p.310の註釈から
>◇玉釧 「まく」の枕詞。玉釧を巻きつける意でかかる。「釧」は腕輪で、
女性の装身具。女性を心に置いて用いた。◇まき寝る 「まく」は枕にする
意。<

「たまくしろ(玉釧)」と「くさまくら(草枕)」の対比は明白だろう。<
0347考える名無しさん
垢版 |
2022/04/19(火) 09:40:21.980
https://kotobank.jp/word/烏の濡れ羽色-467457
>水にぬれた烏の羽のように、黒くてつやつやした色。「髪は烏の濡れ羽色」

「烏の濡れ羽色(からすのぬればいろ)」という表現があるが、
これはどう見ても、古語の「ぬばたまの」という表現が一般に
通用しなくなって死語となった後に、それによって伝へられて
いた感覚に近いイメージを「後付けの解釈」により表現し
ようとしたものである。既に述べたとおり、「ぬばたまの」は、
「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように
変化したと考えられている。そのように変化することで、
「『う』ばたまの」の「う」に「烏」の字が当てられることに
なったのだろう。ところで、この「烏(う)」は、「うぐいす(鶯)」
と「うめ(梅)」に関する歌について指摘したとおり、英語に
するなら、"wooing"の作用のイメージを伴っている。また、
それだけでなく、「『ぬ』ばたまの」というより古い表現との
イメージ上の関係も思い起こされたはずで、それが「うば」の
発音に「烏羽」を当てるだけでなく、「ぬ(濡)れ」という通用
する表現によって「ぬ」の発音によって想起されるイメージを
導入することを動機づけたのだろう。さらに、もともと
「ぬばたまの」の「ぬば」に当てられた「夜干/野干/射干」
が死骸を食べるジャッカルのような動物としてイメージされた
ことを、同様に死骸を食べる鳥である「烏」のイメージが
引き継いでいるだろう。いずれにしても、これは、物象化する
方向での解釈であり、「ぬばたまの」が本来、表現しようとして
いたのは、だいぶ以前にも同様のことを書き込んだような気が
するが、英語にするなら、"inducing souls to slip through"と
いうことになるだろう。
0348考える名無しさん
垢版 |
2022/04/19(火) 09:49:32.120
「ぬばたまの」という表現が慣用句となり、それが言葉として何を表現して
いたのかが不詳となった後も、それによって想起されるイメージは、
この慣用句が使われる文脈として引き継がれていったものと考えられる。

https://kotobank.jp/word/射干玉-594268
>魂のいでて、とをきかたへもゆき、人にことをもつげ、しらすれば也
名語記(1275)九
0349考える名無しさん
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2022/04/19(火) 10:18:37.600
生きた言語表現は、つねにその解釈の可能性において多層的であり、
だからこそ、言葉の実際の使用には、いつでも「ためらひ」が
ともなふのだ。しかし、その「ためらひ」は、表現のあらかじめの
厳密な規定によって排除されるべき悪しき曖昧さなどではなく、
生きた言葉の身体そのものである。「ためらひ」をともなはない
伝達は、そもそも、言葉として表現される必要すらないのだ。
なぜなら、そのような伝達は、機械的な表示で置き換えることが
できるからである。
0350考える名無しさん
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2022/04/19(火) 11:16:50.080
>>348
>魂のいでて、とをきかたへもゆき、

>>315で指摘したとおり、この「叫びおらび」という読みには大きな問題が
あるが、この歌において表現されているのが、その言葉そのものとしては
歌の語句に現れない「ぬばたまの」であり、「ぬばたまの」を色に関連付け
るなら、それは「黄泉(よみ)」(「黄」という字が当てられているが、
「よみ/やみ(闇)」は黄色くはない)の奥(をく)行(ゆ)きの深さを表現する
「あを」である。その色(いろ)をイメージするには、>>337に貼り付けた
カーリーの像の色も参考になるだろう(「カーリー」という名前そのもの
は、「黒」を表しているとされるが、日本語で表現するなら、それは、
むしろ、「深い闇の色」と考えた方が適切だろう)。

https://manyoshu-japan.com/11769/
第9巻 1809番
>いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや
ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば
茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い
天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に
負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら尋め行きければ<
0351考える名無しさん
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2022/04/19(火) 11:18:13.280
誤:この「叫びおらび」という
正:以下の歌の「叫びおらび」という
0352考える名無しさん
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2022/04/19(火) 20:41:04.110
相手を「な(汝)」として指し示しながら相手に共感を示すことは、
英語をメタ言語として用いるなら"the patronizing we"の生成となる。
このことは、万葉集の歌でもその事例をはっきりと見てとることができる。
なぜそうなるかと言えば、それは、相手を「な(汝)」として指し示す
行為はそのまま、そのように指し示す自らを「な(己)」として指し示す
ことにもなるからである。これは、「さかな(肴)」を「酒(さか)『な』」
と呼ぶことがそのまま、「さけ(酒)」が「さかな(肴)」の「な」となる
ことと同様である。したがって、「な」が相手に呼びかけるのに用い
られているときでも、それを英語の"you"に相当するものとみなすことは
誤りである。なぜなら、"you"と呼びかけることは、そのように呼びかけ
る自らが"you"でないことを前提としているからだ。そのように、相手を
指し示すことが同時に自らを指し示す呼びかけとして、英語の"Yo bro!"
やラテンアメリカのスペイン語の"carnal"があるが、これらは、兄弟関係
や血縁関係に擬せられたものなので、日本語の「な」の場合にように
親密な男女関係を表現する場合には適合しない。
0353考える名無しさん
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2022/04/19(火) 20:44:47.440
以下に以前の書込みを引用しておこう。

468考える名無しさん2021/12/08(水) 23:45:37.120
同じく「なあ」に近い感じがするのは、例えば、英語で相手に尋ねるのに
"you"の代わりに"we"を使う疑問文ですね。これは、いわゆる
"The patronizing we"と呼ばれる用法ですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nosism
>The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you,
suggesting that the addressee is not alone in their situation,
that "I am with you, we are in this together." <

469考える名無しさん2021/12/09(木) 00:41:57.170
「なあ」と呼びかけられて不快に感じることがあるとすれば、
それはまずなによりも、その呼びかけが"patronizing"であると
感じられることによるものではないだろうか。

473考える名無しさん2021/12/09(木) 07:53:44.670
例えば、自分独りで「それはそうだ・な」と何かについて納得するとき、
「な」によって「己が汝(な)としての我に呼びかけている」という
意味で「己/汝(な)」としての「我々」/"we"が立ち現れると言えるのでは
ないだろうか。
0354考える名無しさん
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2022/04/19(火) 20:49:52.800
https://manyoshu-japan.com/11755/
第10巻 1823番
>朝井代尓 来鳴<杲>鳥 汝谷文 君丹戀八 時不終鳴
>朝ゐでに来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
>あさゐでに きなくかほどり なれだにも きみにこふれや ときをへずなく
>朝、井堤に来て鳴く貌鳥よ。あなたまであの方に恋いこがれて鳴き続けるのね。

この歌で行われているのは、仮想の"the patronizing we"の生成である。
そうであることは、この歌における「な(汝)」の用法を検討して、それを
上に引用した"the patronizing we"の説明と比べれば、すぐに気づくはずである。

>The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you,
suggesting that the addressee is not alone in their situation,
that "I am with you, we are in this together." <
0355考える名無しさん
垢版 |
2022/04/20(水) 00:13:20.350
さて、>>334に引用した歌、
https://manyoshu-japan.com/13485/
>玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
において、「たまくしげ(玉櫛笥)」は、「覆ふ」と「明けて」の両方に
かかっているが、この場合、「明けて」は、「夜が明けて」を意味して
いるのだから、当然、「玉櫛笥覆ふ」は、まさしく、"undercover of the night"
を意味しているはずである。「夜陰に乗じて女性のところに通い、明け方まだ
暗いうちに人目につかないように去る」のが普通の通い方だろう。では、
リンクを貼ったサイトに提示される現代語訳は、それをどのように解釈して
いるのだろう。私にはそれを読んでもまったく理解不能である。
「夜が明けてからお帰りになりますが」という訳は、「相手の男性に明るく
なるまでもたもたしているから困ると苦情を言っている」と解釈している
のだろうか。それでは、そもそも「たまくしげ」/"undercover of the night"
が意味をなさないだろう。さらに、「君が名はあれど吾が名し惜しも」の
「名(な)」は、無論、「名」であるが、「な(汝/己)」と掛詞にされている
のではないか。「それでは浮き名が立ってしまいます。殿方のあなたは
それでも構わないでしょうが」というのは、どのような理解に基づいている
のだろう。男性側が「浮き名が立っても構わない」と思っているとしたなら、
なぜ、闇に覆われている間に通わなければならないのか、なぜ明け方に
立ち去らなければならないのか、私にはまったく意味不明の解釈である。
0356考える名無しさん
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2022/04/20(水) 00:26:05.360
誤:"undercover of the night"
正:"keeping souls undercover of the night"
0358考える名無しさん
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2022/04/20(水) 09:31:57.580
言語表現は、行為であって、分類対象としての「もの」ではないので、
それを「もの」のように扱うことでは、発話をうまく解釈することはできない。
例えば、>>354に引用した歌の現代語訳は、「な(汝)れ」を単に二人称の
呼称とみなして「あなた」と訳しているが、この訳は適切ではない。
「あなた」という表現にも「な」は利用されているが、日本語の「あなた」
は、英語の"you"やフランス語の《vous》に対応する表現であって、
それによって"the patronizing we"を生成することはできないからである。
この場合の「な(汝)れ」に対応するのは、フランス語で表現するなら、
《mon ami/e》ということになる。相手に《mon ami/e》と呼びかけることを、
「親しみを込めて相手を二人称として指すという行為」と記述することは、
適切とは言えない。なぜなら、相手に《mon ami/e》と呼びかけることは、
相手を指すだけでなく、それと同時にそのように呼びかける自らを相手の
《mon ami/e》として指すことになるからだ。公園でひとりぼっちで
泣いている小さい男の子に「どうしたの『ぼく』」と呼びかけるとき、
その「僕」という呼びかけが"the patronizing we"を生成することになる。
この「僕」を単に二人称の呼称とみなして、「どうしたの『ぼく』」を、
「どうしたの『あなた』」や「どうしたの『きみ』」と言い換えたのでは、
その言語表現としての発話行為を適切に解釈したことにはならないだろう。
しかし、引用した現代語訳は、そのような言い換えである。
0359考える名無しさん
垢版 |
2022/04/20(水) 10:18:27.690
ここで、>>355に引用した歌に戻ると、
後半の「君が名はあれど吾が名し惜しも」には、その言語表現を表向き
だけで見れば、確かにどう解釈してよいのかとても分かりにくい論理的な
難がある。しかし、フランス語をメタ言語として使用して、この歌に
詠まれている「な(名)」も、その表向きの言葉どおりに「名(な)」/
《renommée》を意味するだけでなく、その裏に「汝/己(な)」/
《mon ami/e》を隠しているとしたらどうなるだろうか。すると、
「君が名はあれど吾が名し惜しも」には、次のようにフランス語の
表現を当てはめることができるように私には思われる。
《vous avez votre renommée(/ton amie) à garder
même si j'ai ma renommée(/mon ami) à regretter》

そして、仮にそのようなフランス語の当てはめが妥当であると
考えることが可能であるとしたなら、この歌の現代語訳は、決して
引用したサイトに提示されているようなものにはならないだろう。
0360考える名無しさん
垢版 |
2022/04/20(水) 10:30:55.150
「酒(さけ)」と「肴(さかな)」の関係を「な」の代わりに「とも(友)」という
言葉を用いて、「酒は肴の友」であり、「肴は酒の友」であると表現すると、
「酒」と「肴」は、共に立つ同志/《comarades》のようなイメージになって
しまう。しかし、「な(汝/己)」によって表現される親密さは、そのような
イメージのものではなく、むしろ、「歌は世につれ世は歌につれ」と表現
される場合の「つれ」をイメージした方が適切だろう。
0361二重らせん構造
垢版 |
2022/04/20(水) 10:44:38.200
《tu as ton amie à garder même si j'ai ma renommée à regretter》/
《vous avez votre renommée à garder même si j'ai mon ami à regretter》

何を言っているか分かるだろうか
0363日本語の論理
垢版 |
2022/04/20(水) 13:17:14.800
片糸としての「な(己)」が、「汝(な)」と「わか(分)れ/わ(離)れ」なければ
ならない状況が、やはり片糸としての「汝(な)」に対する「絲(いと)惜(を)し」
という思ひとなる一方で、「な(己)」が、そのように「絲(いと)惜(を)し」と
いう思ひで片糸として求める「汝(な)」が、現状で分かれている「な(己)」を、
同様に片糸として「絲(いと)惜(を)し」と思ふことがないなら、そのような
「汝(な)」は、「な(己)」に「つれない」のである。
0364考える名無しさん
垢版 |
2022/04/20(水) 13:20:49.220
誤:「わか(分)れ/わ(離)れ」
正:「わか(分)れ/わか(離)れ」
0365考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 07:46:11.520
>>359-364
>玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜<裳>
>玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも

私には著しく奇妙に見える、引用したサイトの現代語訳に妥協した説明の
仕方となってしまい、また、読み解きを容易にすることを優先して、
原文に明示される「雖」に対応させるべきフランス語の《même si》
のかかりかたを逆のままにしてしまったので、提示した説明を少し修正しよう。
0366考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 08:00:45.140
>その言語表現を表向きだけで見れば、確かにどう解釈してよいのか
とても分かりにくい論理的な難がある。<

「妥協した説明の仕方」と言ったのは、このことである。私は、この歌の
「名(な)」が「な(汝/己)」の掛詞として使われている可能性があると指摘
したが、そのような可能性を認める限りで、ここで「論理的な難がある」と
表現してしまうことは、文字通り、この歌の詠み手に「難癖」をつけている
ことになる。なぜなら、そのまま表面的に理解しようとしたなら、論理が
うまく通らなくなり、そのことにより、歌を聴く側に「うらの心」を解釈
するように導くことこそが、掛詞を用いることの初めから意図された目的
だからである。適切に言い換えるなら、「論理的な難がある」ではなく、
「(意図された)論理的な捩(ねじ)れ」があると言わなければならず、
どのように読めば、その「捩(ねじ)れ」が解消されるのかを知ることが、
そこに詠み込まれた「うらの心」を妥当に解釈することになる。
0367考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 08:17:21.740
フランス語の当てはめは、以下のように修正する(ただし、私のフランス語の
運用能力は低いので、それが通用する訳になっているかは保証しない)。

1. 《même si vous avez votre renommée(/ton amie) à garder
j'ai ma renommée(/mon ami) à regretter》

二重らせん構造
2. 《même si vous avez votre renommée à garder j'ai mon ami à regretter》/
《tu as ton amie à garder même si j'ai ma renommée à regretter》

何が言いたいか分かるだろうか。この歌には、「論理的な難」があるのではなく、
日常的な表現として用いられる意味での「ジレンマ」、すなわち、
>ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも
何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態< (Wikipedia)
が生じる関係性を「論理的な捩(ねじ)れ」を「うらの心」として意図的に
詠み込んだものと解釈することが可能なのである。
0369考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 08:33:40.250
私は、理性の役割そのものが、感性による試行錯誤の経験を取り込んで、
感性の働かせ方を節約するようにすることにあると考えているので、
「あらかじめ正しいという裏付けのあることだけを発言すべきだ」
などという考え方は、むしろ、ひどく愚かだと思っている。
哲学の営みにおいては、疑念こそを明示的に言語化して、それを
反芻するように検討しなければならないのである。
0370考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 08:38:40.740
誤:関係性を「論理的な捩(ねじ)れ」を「うらの心」として
正:関係性を「うらの心」として
0371考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 08:51:07.560
万葉集の歌の言語表現は、それを解釈するのに、既知のマニエリスムが
頼りにならず、感性を働かせなければ、そこで用いられている技巧を
読み解くことができないという意味で、表現と感性との関係が「直截的」
なのであって、決して、表現法が直接的で素朴であるなどという
ことはない。
0372読解力試験
垢版 |
2022/04/21(木) 10:41:45.980
https://manyoshu-japan.com/11591/
第10巻 1987番
>>363
>片搓尓 絲S曽吾搓 吾背兒之 花橘乎 将貫跡母日手
>片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
>かたよりに いとをぞわがよる わがせこが はなたちばなを ぬかむとおもひて

なぜ「は『な』・たち・ば『な』(花橘)」なのか、また、なぜ
「はなたちばな・を(乎)」なのか分かるだろうか?
0373考える名無しさん
垢版 |
2022/04/21(木) 10:52:43.440
https://manyoshu-japan.com/10269/
第13巻 3309番

>汝乎叙母 吾尓依云 吾乎叙物 汝尓依云 汝者如何念也
念社歳八<年>乎 斬髪 与知子乎過 橘之 末枝乎須具里 此川之 下母長久 汝心待

>汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをぞも 汝れに寄すといふ 汝はいかに思ふや
思へこそ年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝をすぐり
この川の 下にも長く 汝が心待て
0374考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 00:06:38.140
https://manyoshu-japan.com/13168/
万葉集 第3巻 410番
>大伴坂上郎女橘歌一首
>橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 驗将有八方
>橘を宿に植ゑ生ほし立ちて居て後に悔ゆとも験あらめやも
>たちばなを やどにうゑおほし たちてゐて のちにくゆとも しるしあらめやも

この歌の現代語訳を含め、「たちばな」、「はなたちばな」が詠み込まれた
歌に関して提示される現代語訳は、決定的に間違っているものが多い。
この歌については、誰が誰にそれを詠んでいるのかについての解釈も
完全に誤っているだろう。この場合に「橘(たちばな)乎(を)」、
つまり、「た(立/発)ち・は(離)『な(汝/己)』を」という掛詞に
おいて詠まれている「な」は、この歌を送った相手の「な(汝)」ではなく、
宿に植えられたままにされている「な(己)」である。
0375考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 00:11:37.350
この「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」の掛詞の用法は、
古今和歌集にもそのまま受け継がれている。

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/waka25
>五月まつ花橘(はなたちばな)の香(か)をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする
出典 古今・夏・一三九・よみ人しらず / 伊勢・六〇
0376考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 10:35:25.230
ところで、「絲(いと)」に関連してひとつ浮かんだ疑念がある。
それは、「いとな(営)む」という表現についてである。
岩波古語辞典には、「いとなみ【営み】」の項目で、
>形容詞イトナシ(暇無)の語幹に動詞を作る接尾辞のついたもの。
暇がないほど忙しくするのが原義。<
と記載されている。英語の"business"やラテン語の"negōtium"も
暇なくすることから来ているので、私も単純にその説明を信じていた。
また、この説明は、その直前に「いとなし(暇無し)」という形の形容詞が
用いられたという記載によって裏付けられている。

私に浮かんだ疑念というのは、「暇無し」が本当に「いとなし」と読ま
れたのかということである。というのも、「暇無し」が「いとなし」と
読まれたとすれば、「暇」は、独立して「いと」という表現として成立
していたはずである。ところが、「暇(いと)」の項目は、岩波古語辞典
には記載されておらず、「暇(いと)」が独立して「暇間(いとま)」の意味
で用いられたという用例も見当たらない。また、万葉集でも、「暇」
という漢字は、その読みとして当てられた万葉仮名から見ても「いとま」
と読まれたことは確かだが、「いと」と読まれた形跡は見当たらない。
なぜなら、「いとまな」で検索すれば、それに対応する万葉仮名が
ヒットするものの、「いとな」でヒットする件数はゼロだからである。
0377考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 10:44:21.370
それでも、「いとな(営)む」は、「いと・なむ」という形で形成されている
ことは確かなので、その「いと」という発音から直ちに生じる連想は、
「いとな(営)む」の語源は、「暇無む」ではなく、「絲(いと)並(な)む」
なのではないかという思ひである。

そこで「いとなむ」を検索してみると、古語辞典に次の文例が記載されている
ことが分かる。
https://kobun.weblio.jp/content/いとなむ
>A作り整える。準備する。
出典方丈記 
「老いたる蚕(かひこ)の繭(まゆ)をいとなむがごとし」
[訳] 成長した蚕が繭を作り整えるのに似ている。<

この文例では、明らかに「いとなむ」という表現を「絲(いと)並(な)む」
と解釈している。出典が『方丈記』なので、日本語の歴史においては、
かなり時代を下った文例だが、私には、この文例は、単に「掛詞」として
「いとなむ」という表現を用いているのではなく、むしろ、妥当な語源
を示しているのではないかという気がする。
0378考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 10:49:01.820
この考察をもとに、別のスレに書き込んだレスを、次のように言い換えよう。

>生きるという「絲(いと)並(な)み」の実体化である身体は、固着する(凝る)ことと
流動化する(流れる」≒「な(羅)(汝/己)か(離)れる」)ことの間の「ためらひ」として
具現化している。<
0379考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 11:23:56.570
>>376-377
何事につけても、このように、権威によって正しいと保証されている
説明を、無視するわけではないにしても、軽視して、それについて
「勝手」に考(かむか)へを巡らせて、発言するような振舞ひは、
指導する側の人々からはつねに厳しく叱責され、非難される。
何の権威の裏付けもなく、自分勝手な考(かむか)へを示すのは、
「自分の力を過信している」というわけだ。しかし、そのような
叱責や批判は、そのような振舞ひをする本人の感覚からすれば、
まったく的外れである。というのも、「『勝手』に考(かむか)へ
を巡らせて」と表現すると、あたかも本人がそれを自分の意志
により遂行しているかのような錯覚が生じるが、考(かむか)へ
が巡ること自体が、本人の意志がどうであれ、勝手に連想が
生じてしまうからである。そこで、その連想の働きによって
巡る考(かむか)へについて発言を控へようとするなら、他人に
知られる表向きの行動だけを自粛するように自らを身体的に抑制
しているだけであることになる。
0380考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 11:37:58.710
ところが、このような匿名の掲示板では、指導者は不在で、そのような
「勝手」な考(かむか)へを書き込む不届き者を、誰かが叱責したり、
非難したりする役割を買って出たとしても、発言を自己抑制させる効果が
ほとんど発揮されない。そこで、「無責任」で「勝手」な考(かむか)へを
遠慮することなしに次々に書き込むことが可能となるわけだ。

この場合、その結果としてもたらされたのは、そのような「『勝手』な
考(かむか)へ」をもたらした連想に働いていた「感性」が、はるか昔に
『方丈記』に記されていた表現に見られる「感性」とそのまま重なるもの
であり、その文例は、私の手元にあるわけではないネットで検索可能な
辞書に既に記載されていたという事実の発見である。ここで、そのように
「感性」が働くことが仮に、私と『方丈記』の著者に共通してはいても、
「一般性のない特異なもの」だったとして、そのような発見に導かれる
ように、連想により「勝手」な考(かむか)へを展開することは、それほど
叱責や非難に値するような悪行なのだろうか。
0381考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 11:50:05.500
>「勝手」に考(かむか)へを巡らせて、発言するような振舞ひは、
指導する側の人々からはつねに厳しく叱責され、非難される。<

厳しく叱責し、非難しても、そのような「不規則発言」を自粛しようと
しないなら、その後に続くのは人格攻撃である。そのような考え方を
するのは、「何か人格に問題があるからだ」というわけだ。
通常の制度的な枠組みでは、指導を受ける側が、それでは仕方ない
から自粛して黙っていようと思っても、そうはいかない。
なぜなら、そのようにして、自粛させられて黙っていること自体が、
「反抗的な態度を示している」、または「無能だから何も発言できない」
と評価されることになるからである。
0382考える名無しさん
垢版 |
2022/04/22(金) 11:59:26.650
>その連想の働きによって巡る考(かむか)へについて発言を控へよう
とするなら、他人に知られる表向きの行動だけを自粛するように
自らを身体的に抑制しているだけであることになる。<

一方で発言を自粛するように自らを身体的に抑制するように脅され、
他方で、積極的に発言するように脅され、発言できないでいることを
蔑まれる。そういう環境に長い間閉じ込められていれば、大抵の
人は、健康な心身の状態を保つことが難しくなるだろう。
0384美魔女
垢版 |
2022/04/23(土) 02:58:18.690
壁に耳あり障子にメアリー(目 有り)
0385考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 08:04:15.180
>なぜ「は『な』・たち・ば『な』(花橘)」なのか、また、なぜ
「はなたちばな・を(乎)」なのか分かるだろうか?<

>五月まつ花橘(はなたちばな)の香(か)をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする
出典 古今・夏・一三九・よみ人しらず / 伊勢・六〇<

歌に詠まれる「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、「山橘(やまたちばな)」
も、物象化する方向性での解釈では、なぜ歌に詠まれた心(こころ)が不詳となって
しまうのかを実証する具体例として好適だろう。
0386考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 08:22:45.230
「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、「山橘(やまたちばな)」は、
植物を指し示す名称であるので、歌にこれらの言葉が詠まれていれば、
そのことによって、これらの名で呼ばれる植物の姿が想起されることになる。
それでも、歌の詠み手が、これらの名によって具体的にどの植物を指したのか、
またその植物のどのような姿を想起したのかは、必ずしもはっきりしている
わけではない。それは、例えば、梅とウグイスの組合せが頻繁に歌に詠まれて
はいても、実際に梅の花が咲く時期とウグイスが活動的になる時期はずれて
いるので、具体的なウグイスの生態からは、その様子を想起することが
難しくなるのと同様であり、いくらウグイスを綿密に観察したところで、
あるいは、それはウグイスではあり得ないのでメジロと見間違えたのだろう
と言って、メジロの生態を詳しく調べたところで、想起されたイメージが
明確になるわけではないのと同じことである。
0387考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 08:38:33.900
ところで、歌のと関連で「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、
「山橘(やまたちばな)」を検索してみると、これらの名で呼ばれた植物に
ついて説明されているサイトがヒットする。歌の詠み手も、その歌を解釈
しようとする人々も、これらの名によって自らに親しみのあるなんらかの
植物の姿を想起したことは間違いないので、それがどのような姿であった
可能性があるのかを知ることは役立つ。それは、たとえ梅の花とウグイス
の組合せが現実的ではないとしても、自宅の庭に訪れて鳴くウグイスの
様子を自らの経験によって知っていれば、梅とウグイスが詠まれた歌に
よってイメージを想起しやすくなるのと同様である。
0388考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 09:02:45.390
しかし、では、それぞれの歌の詠み手が、「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、
「山橘(やまたちばな)」によって具体的にどの植物のどのような姿を思ひ浮かべて
いたのかを特定でき、その様子を詳細に知るなら、それらが詠み込まれた歌を
より明確に解釈できるようになるかというと、そうはいかない。例えば、
「花橘(はなたちばな)」は、「花」という言葉から、当然、「花」が咲く様子
が想起されることが前提とされていて、歌に「散る」という言葉と一緒に
詠まれているのであれば、それは花の姿においてイメージされていることになる。
しかし、「花橘(はなたちばな)」も、「橘(たちばな)」や「山橘(やまたちばな)」
と同じく、「玉に貫く」ものとして詠まれるのが一般的であり、それが「花(はな)」
を愛でるための「橘」であってもやはり、「玉に貫く」という言葉からは、
その実が想起されることになる。
0389考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 09:17:56.490
歌に詠まれた「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、「山橘(やまたちばな)」
がどの植物であるか、そのどのような姿であるかを特定して、その花であれ、
実であれ、その植物の詳細な性質から歌を解釈しようとすることは、その性質
(例えば、香り、色、形など)などが実際に歌に利用されている限りにおいて
役に立つのであって、歌に利用されているかどうかがまったく不明な性質を、
単にその植物の特徴であるからとして解釈に適用しようとすることは、
これらの植物名が、「言語表現として」歌に用いられているその用法を誤解する
ことになる。
0390考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 09:31:35.040
「橘(たちばな)」、「花橘(はなたちばな)」、「山橘(やまたちばな)」という
植物の名称いずれもは、まずなによりも掛詞として、つまり、既に指摘したとおり、
「た(立/発)ち・は(離)な(汝/己)」として聞かせる/読ませるように用いられている。
言い換えると、表向きは、物象化された特定の植物を指す名称として歌に
詠み込まれた「橘(たちばな)」という言語表現は、「連れ添って居た、もしくは
連れ添って居たい相手と今、離れている」ことを想起させる表象として用いられ
ている。そのような読み方は恣意的であり、誤っていると思うなら、試しに
「橘(たちばな)」が詠み込まれた歌を可能な限り多く検索して、逐一、自分で
確認してみるといい。
0391考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 09:37:32.300
>五月まつ花橘(はなたちばな)の香(か)をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする
出典 古今・夏・一三九・よみ人しらず / 伊勢・六〇<

五月まつ花橘(は(離)な(汝/己)・た(発)ち・は(離)な(汝/己))
(≒「連れ添って居たが、今は離れている相手」)の香(か)をかげば
昔の人の袖(そで)(≒「昔、『袖にした』人」)の香ぞする

この「花橘(はなたちばな)」の用法について、どこか不明な点はあるだろうか。
0392考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:03:12.830
>「連れ添って居た、もしくは連れ添って居たい相手と今、離れている」こと
を想起させる表象として用いられている。<

「橘(たちばな)」や「花橘(はなたちばな)」をそのような表象として用いる
ことがマニエリスムとして習慣化すると、そもそもなぜ「橘(たちばな)」や
「花橘(はなたちばな)」という言語表現を用いているのかが忘れ去られて、
不明となり、常套句として化石化して残る以外は、なぜそう表現するのかが
不明であるという理由で使はれなくなる。
0393考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 14:11:28.350
このような言語表現の解釈の試みについて、「いくら手の込んだ技巧が
用いられていることが分かったとしても、どっちみちただの『言葉遊び』
じゃないか。そんな無駄なことに時間と労力を費やして何の役に立つのか。
遊んでばかりいないで、少しは役に立つことをやれ。」といったような
反応は、典型的によく見られるものである。確かに、このような取組みに
いくら熱心に専念したところで、言いたいことを言うことで少しは
気晴らしになるという以外、私個人に何ら実際上の利益をもたらすもの
ではない(逆に、個人的な危険はいくらでももたらす可能性はある)。

だが、生き物の身体、つまり、生体自らがおこな(行)ふ、というより、
生体が「みずから(身づ柄/自ら)として」おこな(行)ふ化学的な分子の
結合や分解が、無意味に分子を結合したり、分解したりして遊ぶ
ただの「分子遊び」ではないように、このような「言葉遊び」も、
何の効果ももたらすことなく、無駄に行はれているわけではなく、
有効性が認められるものが残って受け継がれ、無効であったり、
逆に無用な混乱をもたらすものは、無視され、あるいは積極的に
排除されて、「言葉遊び」が行われている言語の身体そのものを形成
しているのである。
0394考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 14:26:51.520
また、そのような「言葉遊び」は専ら、それによって形成され、維持される
特定の言語の身体に限って有効性を発揮するわけではない。というのも、
「言葉遊び」は、それがコモンセンスの働きを反映するものであってこそ、
言語の身体を持続的に形成する効力を有するからだ。
0395考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 14:40:40.020
例えば、
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を<
出典万葉集 三一七

という歌の句について、「駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を」
の「駿河(するが)なる富士」が、「『す(為)る=な(成)る』不死(ふし)」
と解釈される掛詞、つまりは、「言葉遊び」であることを以前から指摘
してきた。ここで、この「言葉遊び」の表現法を、ポルトガル語の作家、
フェルナンド・ペソアの表現法と比較してみよう。ここで問題にするのは、
以下のサイト、http://arquivopessoa.net/textos/388
において引用される文の、
>A gramática, definindo o uso, faz divisões legítimas e falsas.
から
>Que mais se pode exigir da filosofia e da dicção?
までである。(これについては、以前に別スレで、それに続く箇所、
>Obedeça à gramática quem não sabe pensar o que sente.
を引用して提示したことがある。)
0396考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 14:48:29.840
図書館からこの文の出典であるペソアの著作の訳本、『不安の書』(高橋郁彦訳)
を借りてきたので、少し長くなるが、以下に引用させてもらうことにする。

>文法は語法を確立し、正当と不正確とを区別する。例えば、動詞を他動詞
と自動詞に分ける。しかしながら、ものの言い方を知っている人は、普通の
多くの人間のようにやみくもに見るのではなく、感じるものを写真に撮る
ように表現するために、しばしば他動詞を自動詞に変えなければならない。<
p.111
― 続く
0397考える名無しさん
垢版 |
2022/04/23(土) 15:03:47.590
> [中略] しかし、自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在することを
言いたければ、動詞、「存在する(セール)」を突如、他動詞に変える以外に
どのような使い方があるだろうか?すると、意気揚揚と、反文法的に気高く
言うだろう。「わたしはわたし自身を存在させる(ソウ・メ)」と。
短い言葉ふたつでひとつの哲学を述べたことになろう。これは、むやみ
に言葉を連ねて何も言わないよりも好ましくなかろうか?哲学と表現法から、
これ以上に何を要求できよう。< p.111

ここで、ペソアがポルトガル語の表現について述べていることを、日本語の
「駿河(するが)なる富士」/「『す(為)る=な(成)る』不死(ふし)」という
「言葉遊び」の表現と比べてみるといい。「す(為)るがな(成)る」の「が」
を、私は、数学記号である等号「=」で置き換えているが、これも、
以前から再三指摘してきたとおり、日本語の助詞の「が」は、「我」を
同一性を示すように流用したものと考えられるからである。すると、
「す(為)る=な(成)る」という表現は、日本語において「する」という
他動詞を「なる」という自動詞と等号で結んでいることになり、「富士/不死」
が、ペソアの言う「自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在する」
ものとして表象されていることになるだろう。
0398考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:05:28.820
>>263
ところで、その序文の「初春令月 氣淑風和」からら元号「令和」が考案されたと
言われる万葉集の以下の歌における「乎倍米(をへめ)」という表現について、
私は長い間、どう解釈することが適切なのか判断がつかずにいた。

https://manyoshu-japan.com/12763/
万葉集 第5巻 815番
>武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
>正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
>むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ

しかし、今では、>>263に示したとおり、「を(終)ふ」が、「空虚」を示す
ように用いられる「を」を再帰表現を形成する「〜ふ」によって「ひっくり返す」
ことによって、「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができることが分かり、
この「乎倍米(をへめ)」は、やはり「終(を)へめ」と理解され、「楽しき『終へめ』」
という句は、「楽しさを『満喫しよう』」と現代語訳することが妥当であるもの
と考えている。
0399考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:12:44.350
引用したサイトにおいて、この「楽しき『終へめ』」にもともと当てられている
現代語訳は、「楽しいひとときの限りを尽くそうぞ」とされているので、
私が妥当と考える現代語訳とほぼ同じであり、この場合、私が提示した独自の
表現解釈の取り組みによって得られたものは何もないようにも見える。
だが、本当にそうだろうか。
0400考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:23:49.100
この「たのしきをへめ」と読まれる原文の「多努之岐乎倍米」をどのように
解釈することが妥当であると考えられるかについては、歴史的に揺れが
見られることが知られている。「をへめ」は、「終へめ」と読まれるべき
ものではなく、「〜を経(へ)め」と読まれるべきであるとする解釈が
その代表であり、その場合、「多努之岐乎倍米(たのしきをへめ)」は、
「楽しい時を過ごそう」と現代語訳されるされることになる。

次の新聞記事は、「令和」の年号と万葉集について話題にしたものである。
https://www.asahi.com/articles/ASP625QYJP5ZPLZU007.html
「令和」考案?の中西進さん 語った万葉集と「風土」
>――正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ
梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め

(正月になって春が来たら、このように梅を折ってかざして、
楽しみの限りを尽くして遊ぼうよ)<
0401考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:31:07.400
ここで、奇妙なことに気づくはずである。それは、この記事では、
歌の「乎倍米(をへめ)」という表現に「を経(へ)め」という読みを当てている
にもかかわらず、その現代語訳の方は、「楽しみの限りを尽くして遊ぼうよ」
となっている、つまり、「終へめ」という読みによる解釈を示しているのだ。
これは、そのことに気づかずに偶々そうなってしまったのでなければ、
歴史的な揺れに見られる2つの解釈の両方を提示して、暗黙に、揺れを
そのままにして折衷案として示したことになるだろう。
0402考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:41:05.690
そのように考えたとき、先のサイトに提示される、「楽しいひとときの
限りを尽くそうぞ」という現代語訳においても、「ひとときの」という
原文には対応する表現が見当たらない言葉が挿入されていることに気づく。
ところで、「ひととき」というのは、現代の日本語において、通常、
その後には「〜を過ごす」とつづくのが普通で、「ひととき」の後に
「の限りを尽くそう」とつづくことはまずないだろう。したがって、
この現代語訳もやはり、それを基本的には「終へめ」という読みに
対応させながらも、暗黙に折衷案を示している、もしくは、少なくとも
折衷案の名残りをとどめているように私には見える。
0403考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 14:09:53.860
それが折衷案であったとして、いずれにしても、もたらされる現代語訳に
大差はないのだから、何をそんな細かいことを気にしているのだろう、
と思うかもしれない。しかし、そのように感じるとすれば、それは私が
ここで指摘しようとしている問題を捉え損ねている。私が問題としている
のは、「楽しき『終へめ』」という読みにそれなりに意味が通り、
分かりやすい現代語訳を当てることが可能かどうかではなく、
あくまでも「乎倍米(をへめ)」が「終へめ」と読まれる場合の「言語表現
としての解釈」なのだ。

「楽しき『終へめ』」という表現が与えられて、それが饗宴を盛り上げる
歌として詠まれたことが分かっていれば、「終へめ」がどのような表現
であるのかがよく分からなくても、「楽しいことを終わらせよう」と
いう意味ではあり得ないことが常識的に分かる。すると、「終える」
という現代の日本語の用法から、「終へめ」に対して、「最後まで
やり尽くそう」に相当するような表現が、「原文の『乎倍米(をへめ)』
とは無関係に」自然に推察されて思い浮かぶことになる。すると、
「乎倍米(をへめ)」が表現としてどのように生成されているのかに
ついては全く無関心であっても、この歌を解釈することに関する限り
は、それを「(楽しいひとときの)限りを尽くそうぞ」という現代語訳
を当てて、表現を適切に解釈できたと思い込んで満足してしまうこと
になるのだ。しかし、そのような手続きがもたらすのは、言語表現
についてのより一般的な理解ではなく、場当たり的な解決策である。
0404考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 14:25:07.910
場当たり的な解決策は、想定される文脈に依存した現代語訳をアドホックに、
それなりに適切に見えるように当てはめることで、言語表現を解釈することを
回避する。これに対して、連想により言語表現を解釈しようとすることは、
連想によって想起される限りの表現のネットワークの範囲で整合性をとろう
とすることを自動的に要求されることになるのだ。すると、ネットワークに
おいて整合性のとれない表現の解釈は、たとえ、その表現が用いられる
特定の文脈においては、うまく当てはまるように感じられても、疑わしさ
がつきまとうことになる。だからこそ、上の歌における「乎倍米(をへめ)」
という表現は、「を(終)ふ」という表現がどのように生成されているのか
について、私自身に納得できるような解釈に達するまで、その読みも含めて、
よく分からないものと感じられていたのである。「連想は、ただの思いつき
に過ぎないので、そんなものは無意味だ」という人はよくいるが、
私には、そのような人々の考え方、感じ方こそが倒錯しているのではないか
と思える。
0405ささがにのいとかくまでは思はざりしを
垢版 |
2022/04/24(日) 23:22:09.250
「を(終)ふ」という表現が、「を」によって示される「空虚」をひっくり返す
ことによって「満腔がもたらされる」ことを想起させるように用いられると
いう解釈を示したところで、そもそも、現代の日本語でも「終わる」は、
一般に「満了する」ことを意味するように用いられるのだから、「それが
いったいどうしたと言うのか」というのがごく普通の反応だろう。
しかし、ここまでたどり着いたことには、私にとっては、なかなか感慨深い
ものがある。というのも、ちょうど7年ほど前から書込みを始めた連想の
働きによる暗中模索での日本語の表現についての考察が、「を(終)ふ」という
表現の私にとって納得のゆく解釈にまで達したことで、ごく初期の
「をかし」という表現についての検討から蜘蛛の巣のようにネットワーク
を展開することになったからである。
0406考える名無しさん
垢版 |
2022/04/24(日) 23:57:01.000
書き込み始めた当初は、日本語の生成の「起源」を特に意識することすらなく、
単に学校の古文の教科書で教えられたような古語の表現の意味解釈が、
私にはまったく納得のいくようなものではなかったという不満に
別の解釈の可能性を探る試みが動機づけられていただけだった。
そのための方法論として採用したのが、日本語の古語を単に現代の
日本語の表現に置き換えようとするのではなく、英語やフランス語など
の日本語とは別の言語を記述のためのメタ言語として利用すること
であった。
0407考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 00:23:29.560
当初は、様々に生じる連想をどのようにつなげることが妥当なのか、
まったく暗中模索であったため、今から見れば、まったく信憑性のない
トンデモ説を展開しているサイトの記述を手掛かりにしようとする
ことさえあり、また、岩波古語辞典に朝鮮語の語彙との同根説が
数多く記載されていることもあり、朝鮮語が表現解釈の参考になる
かもしれないとも漠然と思っていた。しかし、実際に手続きとして、
日本語の古語の表現を欧米の言語でメタ言語的に記述しようと試みる
ことで浮かび上がってきたのが、日本で使われる漢字の発音を
手がかりとした、日本語の古語と中国語の表現の奇妙な類似だった。
ここで「奇妙な」というのは、その類似は、現代の日本語の漢字の
用法から直接に現れてくるものではなく、あくまでも古語の
表現を欧米の言語をメタ言語として記述することによって
見えてくる、中国語の表現との類似だったからである。
それでも、中国語の読めない私には、中国語辞典や漢語詞典を
自分で参考にしようとはほとんど考えてもいなかった。
0408考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 00:53:55.630
欧米の言語をメタ言語として用いた記述の試みによって、相互性を表現する
「あふ」が再帰表現だろうという思ひを強くもっていたが、その時点では、
まだ、「〜ふ」が独立の表現要素として用いられているという一般的な
説明を受け入れることもなく、ましてや、それが反復継続の助動詞として
用いられているという通例の説明は、私には納得できるものではなかった。
その時点では、日本語の再帰表現は、「〜あふ」によって形成されている
と考えた方がいいのではないかと思っていた。

文字通りの転換点は、メタ言語的な記述によって「〜ふ」が「〜」を、
通例の説明のように「反復継続」ではなく、私が「〜あふ」によって
考えていた「相互性」に限定されるものでもなく、「〜ふ」の「〜」を
反転させるように用いられていることに気づいたことによる。
しかも、その「反転」は、狭義の方向転換ではなく、「〜」によって
表現される様態に応じた「ひっくり返し」であるという極めて特徴的
なものだった。すると、日本語として使われる漢字の発音との
類似から、ただちに「復/覆」が連想されることになり、「〜ふ」は、
中国語では「復/覆」として用いられている表現の、日本語独特の
流用ではないかという疑念が生じることになった。これが、日本語が、
中国語の表現をピジン語として流用することによって生成されている
のではないかという思ひが浮かんで、その可能性を頻繁に探るように
なったきっかけである。
0409考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 01:14:56.250
「を」が日本語においてどれだけ中心的な役割を果たしているかは、
万葉集や古今和歌集の歌を見ても、枕草子の「をかし」の多用を見ても
一目瞭然だが、それだけでなく、日本語の「を」がニーチェの著作の
「力への意志」や「ルサンチマン」と訳される表現を理解するのにも
そのまま役立つことを、フランス語をメタ言語として利用すること
によって示した。また、「を」が統治を成立させるのに、さらには
生きることに欠かせないことも示してきた。その「を」を「〜ふ」
によってひっくり返すことが「を(終)ふ」という表現を生成し、
それが、「『満腔』/"completion"がもたらされる」ことを意味する
表現となっているのだから、そこにたどり着いた私の感慨も
少しは理解してもらえるのではないだろうか。
0410考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 01:26:14.590
>>397
>動詞、「存在する(セール)」を突如、他動詞に変える

ところで、このペソアの表現を、ニーチェの、通常は「力への意志」と
訳される»Wille zur Macht«に相当する日本語の表現として私が当てた訳、
「できること(=《ce qui est à venir》)を」と比べてみるのも
おもしろいのではないだろうか。
0411考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 09:48:30.780
>>410
ここで、ペソアに倣って、「できること(=《ce qui est à venir》)を」に
フランス語でこの発話の主体を一人称として導入し、日本語の「〜を」に、
これまでの説明どおり、フランス語の《vouloir》を対応させると、
「できること(=《ce qui est à venir》)を」は、
《Je veux ce qui est à venir》となり、
いかにもニーチェの「永劫回帰」風の表現となる。
0412塩なめくじ
垢版 |
2022/04/25(月) 15:38:44.22ID:aDaOS/qZ0
>>407
山本哲士か?
0413考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 16:52:12.760
山本哲士という名前は、図書館の雑誌の本棚でよく見かけたことが
あるが、その人が書いたものを読んだことはないな。
この人に関するWikipediaで一緒に名前が上げられている金谷武洋、
藤井貞和の著作については、ざっと目を通したことがあるものの、
私にはまったくの期待外れだった。自分の関心を他人が追求して
実現してくれることを期待すること自体が、土台、無理な話だが。
0414考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:12:39.960
>>411
誤解のないように付け加えておくと、私は、ペソアの論述をニーチェの
表現に結び付けて説明したが、ここで問題にしているのは、表現法の
共通性であって、ペソアとニーチェの思考法が類似していると言いたい
わけではない。ロマン主義的な思想を提唱するエマソンと、ロマン主義
に対して批判的な立場をとるニーチェが、その思考法において、案外、
互いに親密な関係にあるのに対して、ペソアは、革命家や改革者に
醒めた目線を向けることにおいてニーチェと考え方が共通しながらも、
その思考の方向性は、むしろ、ニーチェとは対照的である。
0415考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:24:03.680
少し長くなるが、私には、とてもペソア的であると感じられる一節を
『不安の書』(高橋郁彦訳)(pp.142-143)から引用させてもらうことにしよう。

>いつだったか、ある日わたしは自分がこの世界にいるのに気付いた。それまでは、
むろん生まれ落ちてこのかた、感じることなく生きてきたのだった。わたしが
ここはどこなのかと尋ねると、誰もがわたしを欺き、みんなの言うことは矛盾
していた。どうしたらいいのか言ってくれと頼むと、みんなわたしに嘘を言い、
それぞれ自分のことを言った。わたしが分からないので途中で立ち止まると、
みんなは、何があるのか誰も知らない場所に向かってわたしが進まない、
あるいは後戻りしないのを見て驚いた ー < 
― 続く
0416考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:28:13.490
>わたしは四辻で目覚め、自分がどこからきたのか分からなかった。わたしは
自分が舞台に立っているのに気づいたが、演ずべき役割が分からなかった。
ほかの人たちはやはり何も分からぬまますぐに演じ始めたのだが。わたしは
自分が小姓の衣装を着ているのに気づいたが、女王は与えられず、それなのに
仕える女王がいないと責められた。わたしは手に渡すべき伝言を持っている
のに気づき、それが白紙だと言うと、笑われた。そして、笑われた理由が、
紙はすべて白いからなのか、伝言はどれも推測されるものだからなのか、
いまだに分からない。<
0418考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:45:42.420
ここで似非数学的な喩えを用いてニーチェとペソアの思考パターンの関係を
説明すると(私は、数学そのものをまともに理解していないので、それを
真に受ける必要はない。あくまでも、それは私に思い浮かぶイメージを
説明するものに過ぎないので、他人にはまったく無意味であることも
充分にあり得る)、ニーチェの言説が、絶えず、虚数iに喩えることの
できる「な(汝/己)」の「なつかしさ」と、i*i=−1に喩えることの
できる「〜を!」の間の関係性について語っているのに対して、
ペソアの言説は、ほとんどいつも、−i、すなわち、「な(汝/己)」の
「なつかしさ」とは逆の、「な(汝)」に対する「な(己)」の、または
「な(己)」に対する「な(汝)」の「つれなさ」と、−i*i=1に
喩えることのできる人(「ひと」としての自分/他人)の間の関係性に
ついて語っているように、私には感じられる。
0419考える名無しさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:59:40.750
>ペソアは、革命家や改革者に醒めた目線を向けることにおいてニーチェと
考え方が共通しながらも<

その考え方も引用しておこう。前掲書、p.144

>革命家であれ改革者であれ、誤りは同じだ。生きること(すべてはこれに尽きる)
に対する自分自身の姿勢を、あるいは自分自身の存在(ほとんどこれに尽きる)を
支配し改革することができないので、人は他人と外界を変えようと逃げる。
あらゆる革命家、あらゆる改革者は逃避者なのだ。戦うのは、自分と戦えない
からなのだ。改革するのは、自分を改める気がないからだ。
真の感性と正しい理性を持つ人は、世界の害悪と不正に心を痛めるなら、
当然のことながら、もっとも身近に見られることから始めて、それを
修正しようとする。そして、それは自分自身の存在だと気づく。その
事業は一生かかるだろう。<
0421考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 00:38:44.320
ニーチェの言説に特徴的に強く表れている感覚を、最も短い日本語の
表現で言い表そうとするなら、やはり「(〜)を」ということになる
だろうけれども、ペソアの場合には、それは「わ(侘)び」なのだろう
と私は思う。「わ(侘)び」とは、人(「ひと」としての自分/他人)の
「つれなさ」によってもたらされる感覚である(例えば、現代の
日本語においても普通に使われる「待ち『わび』る」の「わび」も
その応用である)。
0422考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 01:02:06.710
>白露のうへはつれなくおきゐつつ萩の下葉の色をこそ見れ 〈後撰・秋中〉
こちらの歌は、私の似非数学の隠喩を用いると、「うへ」の「つれなさ」
を"−i"とするなら、「した」の「なぐさめ」は"i"として作用して、
−i*i=1となり、人(「ひと」としての自己)の両面性を表現している
ものとイメージできる。

万葉集 第13巻 3343番
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
>うらなみの きよするはまに つれもなく ふしたるきみが いへぢしらずも
こちらの歌の「君」は、死体であり、歌の詠み手がいくらその「つれなさ」
に寄り添ふ気持ちを示しても、もはや甲斐がないことが明白であり、
「つれなさ」が募って、−i*−i=−1という操作による「空虚さ」
のイメージが生じる。

この似非数学の計算は、私が個人的にイメージするためのものなので、
真に受ける必要はまったくない。
0423考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 01:09:43.660
https://manyoshu-japan.com/10484/
万葉集 第12巻 3094番
>物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥さへ
>ものもふと いねずおきたる あさけには わびてなくなり にはつとりさへ
>物を思って寝られず起きた朝明けはわびしいが、庭の鳥さえわびしく鳴いている。

以下は、『不安の書』(高橋郁彦訳)、p.149からの引用である。
>一晩ろくに寝ていないと、われわれは誰にも好かれなくなる。失われた眠り
とともに、われわれを人間的にする何かが運び去られたのだ。あたりの同じく
無生物的な空気にさえ、われわれに対するひそかな苛立ちがあるように思われる。
結局、われわれを見放すのは、自分自身であり、ひそかに火花を散らす駆引きは、
われわれとわれわれ自身との間に行われるのだ。<
0424考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:19:44.390
>>423
ここで「何かが運び去られた」と表現される「何か」とはなんだろうか。
その「何か」を、上記の似非数学操作の隠喩を利用して示すなら、
「運び去られた」のは、人(「ひと」としての自己)を人間的にして
いた、虚数iの作用に喩えられる「なつかしさ」であり、「うへ(上)」
の「白露」の「つれなさ」と「した(下)」の「葉の色」の「なつかしさ」
の両面性により、−i*i=1として導き出されていた自己の「人となり」
から、「なつかしさ」の作用をするiが脱去されて、1/i=−iという
操作により−iが導き出されて、人からその両面性が失われ、自己と
他人の「つれなさ」ばかりが自覚されるようになり、その「つれなさ」
によってもたらされる感覚が、認識される対象(その対象が自己であれ、
自己の周囲の事物であれ)の「わび」として反映されて現れるのだろう、
と説明することができる。

無論、この場合も、示した似非数学操作は、私が個人的に想起する
イメージを整理するのを容易にするために用いているのであって、
他人がそれを公式として機械的に適用することを求めているわけ
ではない。
0425考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:30:29.430
>>423
>わびて鳴くなり庭つ鳥さへ

「庭つ鳥(にはつとり)」は、いつもそこにて常日頃、自らが「な(慣)れ」
親しんでいる自らをとりまく環境の代表であることに留意しよう(つまりは、
偶々、または時々、自宅の庭を訪れる野鳥ではない)。
0426考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 10:22:34.010
訳書からあまりに多くを引用するのはよくないので、ペソアの訳文の引用は
これを最後にしよう。ペソアの散文には哲学的な考えが深く浸透している
いるが、それを読んで理解するのに、哲学(学)を知識として身に付けて
いなければならないというようなことはまったくない。古典の和歌を読んで、
そこに詠まれている感性が自らのものとして分かるなら、優れた訳文の日本語を
介して、ペソアの言語表現に働いている感性も容易に感じ取れるはずである。

>もっとも痛ましい感情、もっとも苦しい想いは、ばかげたものだ ―
まさしく不可能だからこそ不可能なものへの切望、一度も存在しなかった
ものに対する懐かしさ、ありえたかもしれないことに対する願望、
別人でない苦悩、世界の存在に対する不満だ。このような心のなかの
意識のハーフトーンはどれもこれもわれわれのなかに痛ましい光景、
われわれの存在の永遠の落日を描いてみせる。すると、自分自身に
関する感覚は、遠い両岸の間をくっきりと流れていゆく。船の姿も
ない暗い川のほとり、葦の茂みのうら悲しい暮れゆく人気のない野になる。<
『不安の書』(高橋郁彦訳)、p.157
0428考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 11:58:17.980
「流(なが)れ」は、日本語では、「『な(羅、汝/己)』か(離)れ」
として構成されていると解釈することができる(この場合、
「/」は数学記号として用いているわけではないので、誤解のないよう)。
0429考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 20:15:31.750
https://manyoshu-japan.com/9581/
万葉集 第17巻 3997番

原文 安礼奈之等 奈和備和我勢故 保登等藝須 奈可牟佐都奇波 多麻乎奴香佐祢
訓読 我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
0431考える名無しさん
垢版 |
2022/04/26(火) 22:55:33.540
>>428
https://manyoshu-japan.com/10740/
万葉集 第11巻 2838番

原文 河上尓 洗若菜之 流来而 妹之當乃 瀬社因目
訓読 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ
かな かはかみに あらふわかなの ながれきて いもがあたりの せにこそよらめ
0432侘び/solace
垢版 |
2022/04/27(水) 09:19:59.220
美として評価される「侘(わ)び」が、特に日本に独特のものであるなど
ということはない。仮にそのように感じるとすれば、それは、「侘(わ)び」
の感覚をメタ言語的にうまく捉えることができていないだけの話である。

人(「ひと」としての自分/他人)の「つれなさ」がもたらす効果が
「わび」であって、それは、「な(汝/己)」に「かひ(甲斐/効験)」が
ないという感覚である。美として評価される「侘(わ)び」とは、
「な(汝/己)」がその「かひ(甲斐/効験)のなさ」と「宥和する
(≒"reconcile")」ことができるように導く、「な(汝/己)」みづから
(身づ柄/自ら)によるその感覚の認知であり、その認知が、「な(汝/己)」
みづから(身づ柄/自ら)を「なだ(宥)め(≒"comfort")」、
「なぐさ(慰め)(≒"console")」ること(即ち、"solace")になるのだ。
0433考える名無しさん
垢版 |
2022/04/27(水) 09:23:02.990
https://manyoshu-japan.com/9819/
万葉集 第15巻 3759番
原文 多知可敝里 奈氣杼毛安礼波 之流思奈美 於毛比和夫礼弖 奴流欲之曽於保伎
訓読 たちかへり泣けども我れは験なみ思ひわぶれて寝る夜しぞ多き

https://manyoshu-japan.com/9851/
万葉集 第15巻 3727番
原文 知里比治能 可受尓母安良奴 和礼由恵尓 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐
訓読 塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ
0434考える名無しさん
垢版 |
2022/04/27(水) 09:35:44.160
ハチやアリなどの「社会性昆虫」を例にだすまでもなく、生物の個体は、
あらかじめ「わぶ」ように仕組まれているとも言える。
0435考える名無しさん
垢版 |
2022/04/27(水) 17:06:47.650
「〜を」という何かを求める呼びかけが、本来、そこに認められる
何らかの「空虚」を指し示すものであるとするなら、その呼びかけ
が無効に終わることは、「空虚さ」をそこにあると認めざるを得ない
ものとして現出させる。その無効さによって生じた「空虚さ」から
人々を救うものとして唱えられたのが、「空虚さ」こそを呼び
求める禁欲主義だが、その救済策が結局は、生きることに反する
ことになるとして批判したのが、ニーチェである。これに対して、
ペソアは、すべての「空虚さ」を受け入れることにおいて、一見、
ニーチェが批判する禁欲主義に近いように見えるが、表現の論理
から見れば、むしろ、ペソアの思索は、ニーチェの禁欲主義の
批判を裏返しにしたような関係にあると見る方が、ペソアの言説を
うまく解釈することができる。
0436考える名無しさん
垢版 |
2022/04/27(水) 17:16:35.770
他人にとって意味を成すかどうかは別として、私の似非数学的な隠喩を
用いるなら、「〜を」を−1に喩え、「な(汝/己)」の「なつかしさ」
の働きを虚数iに喩えるとすると、「欲望」/「空虚さ」について、
ニーチェの言説が、(−1)^(1/2)=iという関係性を中心に議論を
展開しているのに対して、ペソアの言説は、(−1)^(−1/2)=1/i=−i
という関係性を中心に思索を巡らせているように私には見える。
0437いな(否)を(応)なし
垢版 |
2022/04/28(木) 08:22:59.470
不在(absence)とは、求めである呼びかけに対して応へがないことである
(例えば、授業で出欠(attendance/absence)をとるときのことを
思ひ浮かべてみるといい。)。したがって、呼びかけがなければ、
不在(absence)もない。逆に云へば、存在するとは、呼応関係が成立する
ことに他ならない。

https://manyoshu-japan.com/10108/
万葉集 第14巻 3470番
原文 安比見弖波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加<母> 安礼也思加毛布 伎美末知我弖尓
訓読 相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちがてに
かな あひみては ちとせやいぬる いなをかも あれやしかもふ きみまちがてに
0438否乎鴨
垢版 |
2022/04/28(木) 08:33:34.830
https://manyoshu-japan.com/11039/
万葉集 第11巻 2539番
原文 相見者 千歳八去流 否乎鴨 我哉然念 待公難尓
訓読 相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちかてに
0439考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 09:27:38.270
以下の歌の引用した句の表現を、「を」と「な」の用法に注目して読んでみるといい。
「をす」こと、即ち、「統治する」ことがどのようなこととしてイメージされて
いるのか、よりよく分かるようになるはずである。

https://manyoshu-japan.com/9324/
万葉集 第19巻 4254番
>神奈我良 吾皇乃 天下 治賜者 物乃布能 八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜 食國毛
>神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も
>かむながら わがおほきみの あめのした をさめたまへば もののふの やそとものをを なでたまひ ととのへたまひ をすくにも

「神『な』がら」我が大君の天の下「『を』さ(治)め」たまへば、もののふの
八十伴の「を(男)」「を」「 『な(撫)』で」たまひ整へたまひ 「『を(食)』す」国も
0440考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 10:07:33.550
私は、ペソアの言説の特徴について、次のように指摘した。

>ペソアの言説は、ほとんどいつも、−i、すなわち、「な(汝/己)」の
「なつかしさ」とは逆の、「な(汝)」に対する「な(己)」の、または
「な(己)」に対する「な(汝)」の「つれなさ」と、−i*i=1に
喩えることのできる人(「ひと」としての自分/他人)の間の関係性に
ついて語っている<

ところで、それでも、ペソアは、しばしば、自らが感じる「なつ(懐)かしさ」
について語る。しかし、その「なつ(懐)かしさ」は、>>426に引用した
>一度も存在しなかったものに対する懐かしさ
という表現にも典型的に見られるとおり、いつでも「な(汝/己)」に
対して裏返っているのである。このため、その「なつ(懐)かしさ」は、
自己が「な(汝)」に対する「な(己)」の関係として捉えられる場合ですら、
決して「な(汝)」と「な(己)」の「縒(よ)り合ひ」をもとにした
「いと(絲)を(惜)しさ」を生じることはなく、
>自分自身に関する感覚は、遠い両岸の間をくっきりと流れてゆく
と表現されるとおり、「な(汝/己)」は、「流れる」/「な(汝/己)か(離)れる」
河(ここでは、「感覚」の働きに喩えられる)の両岸のように並行に分かれる
のである。
0441考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 10:26:12.940
このように見ると、ペソアの言説の特徴は、ニーチェのそれとは
まったく対照的であるという私の指摘も容易に理解できるはずである。

>しかし、場合によっては、持続する愛なるものも世の中には生じうる。
二人の人間相互の所有願望が、新たな欲求と所有欲に場所を空け、
彼らを超えた理想を目指す共通の気高い渇望に道を譲るようなことも
ありうるのだ。―しかし、このような愛を知っている者があるだろうか?
このような愛を経験した者があるだろうか。その真の名は、友情である。<
ニーチェ、『喜ばしき知恵』、(pp.82-85)
0442考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 10:34:26.580
ところが、まさしくそのように明白に対照的であることこそが、ペソアと
ニーチェのそれぞれの言説の特徴を、似非数学モデルを隠喩として用いて
互いに関係付けて理解することを容易にするのだ。
0443考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 13:55:53.600
以前から公然と認めているが、私自身は、数学も算数もとても苦手と
している。教養レベルの数学の技法を使いこなせるどころか、
日常生活に必要なレベルでの簡単な足し算や引き算でもすぐに
計算を間違えるし、トランプのゲームで数を足すことが要求される
なら、それだけで面倒に感じる。ではなぜ、それでも私は、似非
数学モデルを勝手に作り上げて、それを自らの考察に利用しようと
するのだろうか。

私は別に、哲学の考察よりも数学の方に権威があって、数式を
用いて説明すれば、自分の説明に数学によるお墨付きが与え
られる、またはそのように偽装できると思っているわけではない。
それどころか、明白に「計算そのものとして認識される行為」ですら、
数式の機械的な適用によっては、適切に説明することができない
と考えている。
0444考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 14:24:02.250
具体例で考えてみよう。
人物Aが人物Bに何らかの物品の代金として600円を支払ってその物品を
譲り受けることに、その両者が合意する。Aは、1000円札しか持ち合わせ
がないので、Bに1000円札を渡し、Bは、600円で譲り渡しを合意した
物品と、渡された1000円紙幣の価値と物品の代金である600円の差額に
相当する400円をAに渡す。

この場合、BがAに差額の400円を渡す行為は、「¥1000-¥600=\400」
を計算する行為である、あるいは、Aに差額を渡す行為に、少なくとも
そのように計算することが伴っているのだろうか。無論、そのように
計算することにより、Aに渡されるべき差額は適切に導き出すことが
できる。しかし、そのことは、「BがAに差額の400円を渡す行為」を、
「¥1000-¥600=\400」として表現し、そのような計算として
解釈することが「必然的に」適切であることは、まったく意味しない。
それどころか、そのように表現し、解釈することが「必然的に」不適切
となることさえあり得る。
0445考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 14:41:54.830
海外に旅行に行って、買い物をしてその代金を支払ったときに、
売り手側が、お釣りの金額を足し算しながら返してくるのを経験した
ことがある人も少なくないだろう。そのようにお釣りを返すときに
行われている行為は、明らかに「¥1000-¥600=\400」 のような
引き算の計算ではない。その行為は、足し算の結果として最終的に
「¥1000=¥600(商品の代金)+\400」という結果がもたらされた
ことを、売り手と買い手が双方で確認するものである。
算数、あるいは数値上の計算としては、1000-600=xという形で
引き算として計算しようと、1000=600+xという形で足し算として
計算しようと、結果として求まるxである400には何も変りはないの
だから、同じことではないか、と考えるかもしれないが、
この足し算による行為は、引き算による行為とは、表現され、
解釈される行為の意味が明白に異なっているのである。
0446考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 14:58:24.440
フランス語で《donnant-donnant》という表現がある。これに英語で一般に
当てられている訳は、"give and take"であるが、英語の"give and take"の
用法は、「互恵関係」としてのニュアンスが強いので、実は、その用法は
ずれている。フランス語の《donnant-donnant》を英語の"give and take"
と理解して、さらにその「互恵関係」のイメージから、それを日本語の
「(困ったときは)お互い様」に変換してしまうと、元のフランス語の表現
の意味合いをまったく捉えられなくなってしまう。日本語の日常表現として
それにうまく当てはまる表現を見出すことができなかったのだろうと
思われる以下のサイトに引用される辞書の記述では、英語からのカタカナ語である
「ギブ・アンド・テイク」をそのまま当てている。
https://kotobank.jp/frjaword/donnant-donnant
donnant-donnant
ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(仏和の部)の解説
[男]((不変))[話]ギブ・アンド・テイク.
0447考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 15:11:13.600
ここで、フランス語の辞書のフランス語による記述を参照してみよう。
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/donnant-donnant/186316
donnant-donnant
>Transaction dans laquelle chacune des parties accorde une compensation à l'autre.

https://fr.wiktionary.org/wiki/donnant_donnant
> Exprime que l’on n’accepte de donner une chose uniquement contre une autre.

要するに、《donnant-donnant》とは、その取引きに関与する双方の間で
どちら側にも平等であると感じられるように交換条件を成立させることを意味している。
0448考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 15:33:53.620
このように見ると、数値の計算としては同じ結果をもたらす引き算の
「¥1000-¥600=\x」によって400円をお釣りとして渡す行為と、
足し算の「¥1000=¥600(商品の代金)+\x」によって等しさが
成立するまで買い手に確認させるように釣銭を手渡して、売り手と
買手の双方が等しい価値を手に入れたことを双方で確認する行為が、
互いに異なるように表現され、解釈される意味をもつことが直ちに
理解できるはずである。それと同時に、この場合も、数式を数学
の計算として理解するのではなく(そのように理解するなら、引き算
も足し算も互いに変換可能であり、同じ結果を求める同じ手続きの
別の表現となる)、似非数学モデルとして利用するなら、多くの言葉
を費やして説明するより、「1000=600+x」という数式の具体例で
足し算によって、天秤が等しくなるように結果としての平等を
双方が確認する行為として、フランス語の《donnant-donnant》
という表現を説明することが可能となる。また、その結果としての
平等を双方が確認する行為が、《on est quite》と表現されることも
容易に納得がゆくものとなるだろう。このようにして、多くの
言葉を費やす代わりに、数学記号の勝手な活用により、はるかに
簡潔に関係性を表現できるようになることが、似非数学モデルの
効用である。また、似非数学モデルの表現によって誤解が生じるなら、
節約していた言葉の表現を補足していくだけで済むことになる。
0449考える名無しさん
垢版 |
2022/04/29(金) 15:51:35.420
ところが、そのような表現法には、数学に慣れ親しんだ側からは、
「そんなものは数学ではない」という的外れな批判が向けられ、
数式など、データの数理的な処理以外に解釈には無関係であると
考えている文系の研究者の側からは、「物事はそんなに単純ではない」、
「そんなものは数学の権威を借りるだけの偽物だ」というやはり
的外れな批判が向けられて、拒絶されることになる。
それでも、例えば、「ひっくり返す」という表現は、それが
逆方向にすることを意味するのではない場合、言葉を尽くす
よりも、x^-1=1/xという似非数学表現を借りた方が、簡単に
その関係性のイメージを伝へることが可能となるのだ。
0450考える名無しさん
垢版 |
2022/04/30(土) 09:41:45.620
ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』が、「『なほ(直)び』の書」
(ここで、「なほび」とは「な(萎)え」/「なや(悩)み」から回復する
ことであり、本居宣長の用いた用語であると考えて差し支えない)である
とすれば、ペソアの『不安の書/不穏の書』(ペソアの"desassosego"と
いう表現の用法に、「不安/不穏」という日本語が想起させるイメージ
はあまりうまく適合していないが、代替の適切な表現を見つけることも
そう容易ではない)は、「『侘(わ)び』の書」であると言えるだろうと
私には思える。
0451考える名無しさん
垢版 |
2022/04/30(土) 10:38:30.490
240 名前:考える名無しさん 2022/04/30(土) 09:14:48.15 0
>美しさとして評価される「侘(わ)び」とは、英語で説明的に表現するなら、
"art of adaptation by self-diminution of exigence"であって、
それは、自らの置かれた状況に適応する己の生きる「術(すべ)」/"art"の
自覚である。したがって、それを「禁欲主義の『をし(教)へ』」に変えて、
他者に「侘(わ)ぶ」ことを要求する/《exiger》ことは、文字通り
倒錯であり、その「術(すべ)」/"art"を実践することに悖(もと)る振舞ひ
であると言わなければならないだろう。<

http://arquivopessoa.net/textos/4267
>ESTÉTICA DO DESALENTO
Já que não podemos extrair beleza da vida, busquemos ao menos
extrair beleza de não poder extrair beleza da vida.
Façamos da nossa falência uma vitória, uma coisa positiva e erguida,
com colunas, majestade e aquiescência espiritual.<
0452考える名無しさん
垢版 |
2022/04/30(土) 10:47:13.720
ニーチェとペソアの考へ方は、既に指摘したとおり、明らかに対照的な
表現を生成するのだが、そのいずれの思考も、生きることに対してリバース・
エンジニアリング的に働くという点でとてもよく似通っている。
0453考える名無しさん
垢版 |
2022/04/30(土) 15:40:51.310
>>262-265
日本語の「を(終)ふ」という表現は、「を」の発声によって指し示される
「空虚」を、メタ言語的な指示として用いられている「〜ふ」によって
「ひっくり返す」ことにより、「満腔をもたらす」ことを意味すると
解釈されると指摘したが、このように「空虚」をひっくり返すことに
よって「満腔」がもたらされるという捉え方は、日本語の話者に限定される
ものではない。次の表現もやはり、前掲のペソアの著作からの引用である。

https://ldod.uc.pt/fragments/fragment/Fr329z/inter/Fr329z_WIT_ED_CRIT_P
>Gosei não ser nada com uma plenitude de bonança espiritual,
cahindo no regaço azul das minhas aspirações.
0454考える名無しさん
垢版 |
2022/05/01(日) 09:13:54.180
https://manyoshu-japan.com/11089/
>橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
>橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも
>たちばなの もとにわをたて しづえとり ならむやきみと とひしこらはも

「たちば『な(汝/己)』」の もとに「わ(我)」をたて しづえとり
「『な』らむ」や「きみ(君)」と とひしこらはも
0455考える名無しさん
垢版 |
2022/05/01(日) 09:28:54.520
こちらは、一年半ほど前の私自身の書込みであるが、この推論を裏付ける
例は、万葉集を検索によっても容易に裏付けることができる。

>587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340
話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、
「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」
(1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた
表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。

https://en.wiktionary.org/wiki/
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/
(Zhengzhang): /*ŋɡaːns/

現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくい
かもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージして
みるといいだろう。<

https://manyoshu-japan.com/10037/
万葉集 第14巻 3541番
>安受倍可良 古麻<能>由胡能須 安也波刀文 比<登>豆麻古呂乎 麻由可西良布母
>あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも

https://manyoshu-japan.com/10039/
万葉集 第14巻 3539番
>安受乃宇敝尓 古馬乎都奈伎弖 安夜抱可等 比等豆麻古呂乎 伊吉尓和我須流
>あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする

ここで「あず」が意味しているのは、「あ(≒崖)ず(≒崩れ)」であると
考えられ、岩波古語辞典でも、「あず」の説明として「がけのくずれた所」
と記載されている。
0456考える名無しさん
垢版 |
2022/05/01(日) 09:48:06.530
誰でも容易に気づくはずのことに私以外の誰も気づかないということは、
まずあり得ないので、それを私以外の誰も指摘していないように見える
ことは、私にはとても「奇異に感じられる」だけでなく、このように
明示的に指摘してさえ、「誰もそれに気づく様子がない」。そのような
「違和感」は、私にとって、この特定の事例に限定されるものではなく、
毎日の生活における日常的なものである。私には、「不安/不穏」と
訳されているペソアの"desassosego"という表現は、そのように
奇異に感じられる、自らと世界の、また「な(汝/己)」と「な(汝/己)」
の「違和」の感覚を伝へようとしているように思われる。
0457考える名無しさん
垢版 |
2022/05/01(日) 09:55:40.440
"desassosego"という表現は、その語源的な解釈をそのまま直訳するなら、
安定感のない「す(据)わりの悪さ」である。

https://en.wiktionary.org/wiki/sossegar#Portuguese
Etymology
From Old Portuguese sessegar, from Vulgar Latin *sessicāre,
from Latin sessus, past participle of sedeō.
0459考える名無しさん
垢版 |
2022/05/01(日) 13:49:58.290
引き続き、ペソアの同じ著作からの引用である。
https://ldod.uc.pt/fragments/fragment/Fr217/inter/Fr217_WIT_ED_CRIT_C
>Ventos altos, chiando em coisas paradas, barulhando coisas presas,
arrastrando coisas moveis, erguiam, entre os brados irregulares da chuva,
palavras ausentes de protesto anonymo, sons tristes e quasi raivosos
de desespero sem alma.<

この一節を読んで、"chiando"の"chi"の発声に日本語の「ちはやぶる」の「ち」
や「こち(東風)」の「ち」と共通するものを感じないとすれば、むしろ、
誰にでも普通にあるはずの感覚が働いていないと言えるだろう。しかし、
その共通に働いている感覚を認めたとしても、多くの人々は、それは
「擬音語/擬態語」なのだからよくあることで、別に珍しくもない
という感想だけで済ませてしまう。ところが、そのように、共通に働いている
感覚を示す表現を「擬音語/擬態語」として分類して理解したことにして
しまうことこそが、そこにどのような感覚が働いているのかを省察する
ことなしに済ませようとする「物象化」なのである。そして、「ちはやぶる」
という古語の表現が意味不詳に感じられるようになることも、その物象化に
起因していると言うことができる。

https://manyoshu-japan.com/13477/
万葉集 第2巻 101番
>玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
>玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
>たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに
0460考える名無しさん
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2022/05/02(月) 09:47:53.010
日本語の「を」を用いた表現法には、私にはまだ分からないと感じられる
ものがいくつもある。そのうちの一つが「をとこ/をとめ」の「をと」である。
現代語では、「おとこ(男)」と「おんな(女)」が対比されているが、
万葉集では、「をとこ/をみな」という対比も見られるものの、
大多数の事例では「をとこ」と対比されるのは「をとめ」である。
岩波古語辞典には、この「をと」を「若返りの水」を意味するように
用いられる「をちみづ」の「をち(「変若」という漢字が当てられることが
多い)」と同根としているが、これは、私には極めて疑わしく思える。
なぜなら、「をちみづ」の「をち」(これも私にはまだ分からない表現
だが)は、まさしく「若返る」という意味合いで用いられており、
「をち」の「ち」を「力(ちから)」に結び付けるなら、「力を取り戻す」
という解釈は成立しても、「若い力がある」という解釈は成立しないように
思われるからである。さらに、「をち」には、これとは別に、「をちこち」
という表現があり、こちらは、現代語では「あちこち」に吸収されたもの
と思われるが、「遠近」という漢字が当てられることもあり、現代語に
するなら「遠い方、近い方」のような意味合いで用いられている。さらに、
この「をち」の「を」には、「越」、「彼」などの漢字も当てられ、
その当てられる漢字に応じた想起されるイメージの揺れをともなっている
ように思われる。
0461考える名無しさん
垢版 |
2022/05/02(月) 10:03:34.870
「をとこ/をとめ」に戻ると、私には、これらの表現が、語源的に「若い男/女」
を意味していたという解釈自体が疑わしく思える。なぜなら、そのような
解釈をもたらす手続きは、暗黙の物象化に基づいているからだ。それは、
まず、ある対象が目の前に存在し、その対象には、「人」という属性が
あり、さらにその「人」に「男性/女性」という属性があり、そのうえ、
その「男性/女性」には、「若い」という属性があるという、物象化した
分類による命名法である。日常的な言葉遣いにおいて何かを指し示す
ように呼ぶとき、普通、人はそのような手続きに従うわけではないだろう。
誰かがそこに居たとして、その誰かを指す言葉は、普通、その指し示し
が自らのニュートラルな態度を反映するなら、「この人」、「あの人」
であり、見下しの態度を反映するなら、「こいつ」、「あいつ」であり、
敬意を反映するなら「この方」、「あの方」であり、そのような捉え方
は、その人物が男性であるか、女性であるかという分類より先である。
しかも、これは、制度的な身分による区別が明示的に排除されるべき
とされる現代の言葉遣いにおいてさえ当たり前のことであるのだから、
まずは制度的な身分を差別することが言葉遣いにおいて要求された
古語の日本語において、最初にニュートラルに対象を「人」として
分類し、それをさらに「男女」で分類し、そのうえで「老若」を
分類するという手続きに従った言葉遣いをしたと考えて、表現を
解釈するのは、あまりにも不自然だろう。
0462考える名無しさん
垢版 |
2022/05/02(月) 10:31:14.830
(他人に納得してもらうために当然、必要とされる)詳しい検討を省略して、
私の先入見による結論だけ述べれば、「をとこ/をとめ」は、無論、
「こ/め」の対比において男女の区別を伴うが、「をと」は、「若い」
ことを意味するのではなく、「『求め』の対象となる」イメージを
想起させるように用いられたのではないかという気がする。また、
この「をと」を「をち」と関連付けるなら、「若返りの水」である
「をちみづ」に関連付けるより、「を(遠/彼/越)ちこち」の
「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる。
というのも、現代の日本語の用法でも、「彼氏/彼女」と表現すれば、
それは、単に三人称的に或る男性/女性を指し示すことになるだけ
ではなく、男女関係にある人を指すことにもなるからである。
ところが、ここで、「彼氏/彼女」の「彼」、つまり、「か(彼)の」が
含意しているのは、「を(遠/彼/越)ちこち」の「を(遠/彼/越)ち」が
そうであるように、話者と話者の相手から三人称的に離れている様態
の指し示しだろう。さらに、「をとこ/をとめ」が対比されるのは、
年寄りの男性/女性というよりも、「やつこ(奴)」ではないかと思われる。
「やつこ(奴)」は、この表現が語源的にどのように解釈されるにせよ、
現代語の「やつ(奴)」の用法にも反映されるとおり、見下される者であり、
使はれる者であり、軽くあしらわれる者であり、古語においては、
三人称的に用いられることも、卑下として自らを指し示すように用いられる
こともある。
0463考える名無しさん
垢版 |
2022/05/02(月) 10:44:41.430
「やつこ(奴)」が私に想起させる外国語の表現は、例えば、フランス語の
《racaille》であり、それに関連する英語の"rascal"である。

https://www.etymonline.com/search?q=racaille
rascal (n.)
mid-14c., rascaile "people of the lowest class, the general mass;
rabble or foot-soldiers of an army" (senses now obsolete), also singular,
"low, tricky, dishonest person," from Old French rascaille "rabble,
mob" (12c., Modern French racaille), as Cotgrave's French-English
Dictionary (1611) defines it: "the rascality or base and rascall sort,
the scumme, dregs, offals, outcasts, of any company."
0464考える名無しさん
垢版 |
2022/05/02(月) 10:50:27.530
ところで、現代の社会思想において、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の
対比は消え去ったのだろうか。「男(おとこ)」と「女(おんな)」の対比ばかり
が議論されるが、実際の社会のイデオロギーにおいては、その表向きの
対立の陰に隠れて、今でも、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の対比の
方が意識に強く働きかけているのではないか。
0465考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 10:26:15.220
>「をと」は、「若い」ことを意味するのではなく、「『求め』の
対象となる」イメージを想起させるように用いられたのではないか
という気がする。<

「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。この「をと」を
「を(復/変若)つ」の活用形と考えて、「をち(復/変若)みず(水)」という
表現に関連付けるなら、それを、岩波古語辞典の記載のとおりに「をちみづ」
から「若い生命力が活動すること」と解釈するより、むしろ、逆に
「を(復/変若)つ」を英語の"to reclaim"に対応するものとしてメタ言語的に
記述して、「をちみづ」の方を"power reclaiming water"と解釈する方が
自然ではないかと思う。これについては、以前に同じようなことを書いたような
気もするが、検索しても見当たらないので、書き込んでおく。
0466考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 10:51:50.170
>「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。<

私には、「をとこ/をとめ」という表現がもともと伝へていただろうその
ような感覚は、現代の日本語にもある程度、引き継がれているのではないか
と思う。その表れであると思われるが、「男/女がすたる」という慣用句
である。岩波古語辞典の「すたれ【廃れ】」の項目には、「すたれもの
【廃者】」という表現について、「世の中から見捨てられた者。役に
立たない者。」と説明される。したがって、「男/女がすたる」と表現
されることは、逆に見れば、「男/女である」こと自体が、立派なこと
(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされていることになるだろう。
0467考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 11:09:14.630
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることの妥当性は、
次の万葉集の歌の「をち」の用法からも確かめることができる。

https://manyoshu-japan.com/9567/
万葉集 第17巻 4011番
>鷹はしも [中略] 手放れも をちもかやすき

https://www.etymonline.com/search?q=reclaim
reclaim (v.)
early 14c., reclaimen, "call back a hawk to the glove," from Old French
reclamer "to call upon, invoke; claim; seduce; to call back a hawk"
(12c., Modern French réclamer) and directly from Latin reclamare
"cry out against, contradict, protest, appeal," from re- "opposite,
against" (see re-) + clamare "cry out" (from PIE root *kele- (2)
"to shout").
0468考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 11:34:25.090
古語の「をちこち【遠近・彼方此方】」という表現は、直訳するなら、
フランス語の《de près comme de loin》という表現の順序を逆にして、
《de loin comme de près》として理解することができ、現代の日本語の
「あちこち」に吸収されたものと考えられる。ところで、「あちこち」
という表現も「あち(遠方)こち(近方)」を表現し、「あち(彼方)こち(此方)」
を表現するのだから、「をちこち」と「あちこち」の両方は必要なく、
「あちこち」だけになっても、表現として伝へられるものは何も
失われていないように思えるかもしれない。しかし、そうではない。
おそらく、口語の発音上、「を」と「お」が区別されなくなったので、
「をちこち」によって本来、伝へられていたイメージを想起させる
ことが難しくなったので、「をちこち」は、「あちこち」に吸収される
ことになったのだろうが、それによって失われたのは、
「深度」(それを視覚的に捉えるにせよ、聴覚的に捉えるにせよ)
である。「あちこち」があちらにも、こちらにもという散在性を
イメージさせる表現であるのに対して、「をちこち」の「をち」は、
単に「あちら」に離れていることをイメージさせるのではなく、
そこからこちらまでの「深度」、《du fond》をイメージさせるのである。
0469考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 11:43:41.320
>「をちこち」の「をち」は、単に「あちら」に離れていることをイメージ
させるのではなく、そこからこちらまでの「深度」、《du fond》を
イメージさせるのである。<

このことは、一般には、「以後」を表現していると説明される
「をち【遠・彼方】」の用法、また「うつつ(現)」の転として、(私に
言わせれば)誤って解釈される「をつつ/をつづ」という表現を見ても、
すぐに確認することができる。この「を」に英語を対応させるなら、
"ever since"の"ever"ということになるが、この場合も「を」は、
遠近法における「深度」を表現している。
0470考える名無しさん
垢版 |
2022/05/03(火) 12:03:59.700
https://manyoshu-japan.com/9484/
万葉集 第18巻 4094番

>伊尓之敝欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敝流 於夜<乃>子等毛曽 大伴等
佐伯乃氏者 人祖乃 立流辞立 人子者 祖名不絶 大君尓 麻都呂布物能等
伊比都雅流 許等能都可左曽
>いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と
佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと
言ひ継げる 言の官ぞ

この「いにしへよ 今のをつづに」が、メタ言語としてフランス語の表現を
用いて説明するなら、《depuis la nuit des temps》に相当し、「をつづに」
の「を」が、フランス語の場合には、《la nuit》によって表現される
遠近法における「深度」をイメージさせるように用いられていることは、
フランス語を知っている人には、一目瞭然だろう。言語表現は、
「近くから」/《de près》丹念に見ているだけでは、適切に解釈
することができないのである。重要なのは、その表現の働きを適切に
解釈することを可能にするネットワークを視野に入れることだ。
0471考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 08:26:31.030
>この「をと」を「をち」と関連付けるなら、[...]「を(遠/彼/越)ちこち」
の「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる

>「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないか

このように指摘したが、それが実際に歌の解釈に役立つかどうか確かめてみよう。

https://manyoshu-japan.com/12206/
万葉集 第7巻 1372番
>三空徃 月讀<壮>士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
>みそらゆく つくよみをとこ ゆふさらず めにはみれども よるよしもなし
0472考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 09:10:47.550
この歌では、夜の月の光に照らされてその姿が見え、別の女性のところに通って
ゆく男性が、「月読壮士(つくよみをとこ)」として月に喩えられている。

>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし

「み空行く」が表現しているのは、「目の前の空間的な広がりを渡ってゆく」
ことであり、「月読(つくよみ)」には、日本書紀において「月夜見尊」として、
また古事記において「月読命」として神格化された月と、「月の出た夜に
(その姿が)見える」、つまり、「夜に月の光に照らされて見える」ことが
掛けられており、「壮士(をとこ)」は、夜ごとに出る月に喩えられると
同時に、夕闇のなかで月の光に照らされてその姿が見える存在である。
「夕さらず」とは、英語にすれば、"every evening without fail"であり、
現代の日本語にすると、「毎夕欠かさず」ということになる。したがって、
「夕さらず目には見れども」は、「毎夕欠かさず(その姿)を目にするけれども」
ということになる。「寄るよしもなし」とは、「自分のところに寄ってくる
わけ/理由もない」ということで、その「をとこ」が異性として自分のところ
に通ってきてくれたならよいのにと願う気持ちと、その願いがかなふことを
期待できる理由がないという自覚を表現している。したがって、この
歌において、「をとこ」は、空間的な遠近法の深度において自分から離れて
いる、つまり、「『そこからここまで』の空間的な離間を感じさせる」存在
であるとともに、「自分のところに来てくれることが願はれるように立派な」
(≒"worthy of reclaim")存在であるとイメージされていることになり、
「をとこ」の「をと」を、「を(遠/彼/越)ち」および「『求め』の対象となる」
ことに関連付ける、私の提示した語源的解釈は、少なくともこの場合には、
うまく適合していると言えるだろう。
0473考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 10:53:36.290
>>467
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることが妥当である場合がある
にしても、「をとこ/をとめ」の「をと」に"worthy of reclaim"という訳を
当てて、"worthy of 〜"という表現を導入するのは、語源解釈として恣意的
ではないかという批判はあり得るだろう。しかし、そのような意訳が恣意的に
見えて気に入らないなら、文法形式に拘って、「をと」に"to be reclaimed"を
割り当ててもよく、すると、「をとこ/をとめ」は、"man/women to be
reclaimed"ということになる。実際、私は、"man/women worthy of reclaim"
という意訳を導いたのは、そこからであり、"to be reclaimed"では、私が
どのようなイメージを想起しているのか伝はりにくいと考えたために言い換えた
に過ぎない。意訳によってそのイメージが伝へられたなら、今度は、元の
文法形式に拘った表現に戻っても何ら不都合はない。
0474考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 11:10:40.230
ところで、今回、「をとこ/をとめ」の「をと」について検索して調べている
間に、少なくとも私には、とても重大に思へることに気づいてしまった。
それはあまりにも重大であるため、日本語を対象とした国語学、日本語学、
言語学の信頼性を根幹から揺るがすように私には思へるものである。

私は、専門の研究者ではなく、ネット検索と地元の図書館を利用する
一般人であり、国語学、日本語学、言語学関連の蔵書が自宅にある
わけでもなく、こららの分野を見渡すことのできるような知識がある
わけではない。自宅にはせいぜい、高校時代に利用した岩波古語辞典が
あるに過ぎない。それでも、今では、ネットで検索すれば、一般的な
日本語の表現であれば、それをキーワードとして検索すれば、代表的な
辞書に記載される簡潔な説明が検索結果としてヒットして、それを
参照することができる。
0475考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 11:31:32.120
ここで私が「とても重大に思へること」というのは、日本語における「音(おと)」
という表現についてである。現代仮名遣いでは、口語の発音に合わせて表記が
簡略化されて、「を」の表記が、助詞として用いられる場合を除き、「お」に
変更されたことは、よく知られている。それでも、古語は、古語の表記において
読まれ、解釈されるのだから、古語の辞書では、当然、旧仮名遣いで項目が
立てられることになり、実際、岩波古語辞典でもそうなっている。

ところが、岩波古語辞典では、「おと(音)」の項目はあっても、「をと(音)」
の項目はない。このため、私は、今回、「をとこ/をとめ」について考察する
ために、「をと」をキーワードにして熱心に検索をするまで、「音」の読み
は、「おと」であることが確定していて、「音(おと)」であることに何の
疑いももっていなかった。しかし、とても奇妙なことに、「をと」で検索
すると、明白に「音」に対応するものとして用いられた「をと」が
おびただしい数で歌に詠まれていることに気づく。そこで、その表記
が用いられている文献がどのようなものであるのかを検索してみると、
それが単純な誤記ではなく、権威があるとされる歴史的に重要な文献
の記載に見られるものであることが判明した。例えば、それは、
次のような文献である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/群書類従
>古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。
寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。
歴史学・国学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。 <
0476考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 11:44:54.770
にもかかわらず、既に述べたとおり、「をと(音)」については、岩波古語辞典
は一切触れておらず、それだけでなく、「をと」&「音」をキーワードとして
検索しても、「おと(音)」と「をと(音)」の表記の違いについて説明する辞書
の記載も、これについて解説しようとするサイトも、私が調べた限りでは、
まったく検索結果としてヒットしない。では、なぜそれが、
>日本語を対象とした国語学、日本語学、言語学の信頼性を根幹から揺るがす
ようなことであると私に感じられるのか。それは、「音」について
考えることは、これらの学問にとって中心的な課題なのだから、
「おと(音)」と「をと(音)」の関係を不問に付しているとすれば、それは
意図的な問題意識の抑圧であるとしか思へないからである。さらに、
「おと(音)」と「をと(音)」の違いが無視されて、表記が「音(おと)」に
まとめられていることは、古典文献の解釈に重大極まりない影響を及ぼす。
0477考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 11:55:34.180
例えば、古今和歌集の次の歌を参照してみるといい。

>紀貫之
あふことは雲ゐはるかに 鳴る神の音にきゝつゝ恋ひわたるかな
読人しらず
片糸をこなたかなたによりかけて あはずは何をたまのをにせん
(古今和歌集巻第十一 恋歌一482.483)<

「鳴る神の音」と表記される「音」は、「おと」だろうか、「をと」だろうか。
検索すると、「をと」と読まれる事例がヒットし、「音」を「おと」と読むのと、
「をと」と読むのとでは、それによって想起されるイメージがまったく異なる。
0478考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 12:06:52.770
さらに、現代の日本語においてもときとして慣用句として用いられる、
「音に聞く」という表現がある。

https://kotobank.jp/word/音に聞く-453239
>おと【音】 に 聞(き)く
@ 人づてに聞く。うわさに聞く。
※万葉(8C後)七・一一〇五「音聞(おとにきき)
目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むつだ)の淀を今日見つるかも」
A 世評が高い。有名である。
※金葉(1124‐27)恋下・四六四「音に聞く高師の浦のあだ波は
かけじや袖の濡れもこそすれ〈紀伊〉」<

この「おと(音)」と読まれるとされる「音」は、本来的に「おと」なのだろうか。
本来は「をと」と読まれるべきものではないのか。というのも、それを「をと」
と読まれるとした場合、これとはまったく無関係の文脈で検討して「をとこ/をとめ」
の「をと」に対応するとした英語の"to be reclaimed"から類推して、この場合の
「音(をと)」には、フランス語の《réclame》という表現がそのままぴったりと
当てはまると考えることができるからだ。偶々にしては出来過ぎてはいないだろうか。
0479考える名無しさん
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2022/05/04(水) 12:09:43.560
人文学は反人文学の総本山なのか?
0481考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 15:13:40.430
>>476-478
これについて、現にそうなっているのとは逆の状況を想定してみれば、
これがどれほど重大な影響を及ぼしているのかに気づくはずである。
逆の状況とは、文献において「をと」と表記されているのを
「音(おと)」という表記にまとめて整理してしまうのではなく、
「をと(音)」と「音(おと)」の表記の揺れを許すことだ。
その場合、「音に聞く」という現代でも慣用句として用いられる
表現も、「音(をと)に聞く」と読まれる可能性が意識されることになる。
すると、その「音(をと)」という言葉の用法から、フランス語を知っている
人であれば直ちに《réclame》が対応する表現として想起されるはずである。
さらにそこで、日本語の「をと」とフランス語の《réclame》の対応関係
を想定したなら、「をとこ/をとめ」の「をと」、「をちみづ」の「をち」、
鷹を呼び戻す場合の「を(復)つ」という表現を解釈するのにも《réclame》
の動詞形である《réclamer》を応用できるのではないかという考えは、
誰にでもすぐに思い浮かぶことになるだろう。つまりは、「音」に対応する
「をと」という表記を無視し、それを「音」または「おと」の表記に変更
して消し去ることで、現代仮名遣いの規範は、そのような解釈が自然に
想起される可能性を、(その結果が意図されたものであるにせよ、そうで
ないにせよ)積極的に阻害していることになる。しかも、この場合、「をと」
という表記の存在の無視と消去は、積極的な変更としてしか行われ得ない
のだから、その説明が不在であることには、抑圧の意図が働いていると
疑わざるを得ないだろう。
0482考える名無しさん
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2022/05/04(水) 15:46:22.190
「を」/《vouloir》に対する応(こた)へがない、あるいはその応(こた)へ
に効験(かひ)がないのであれば、それによりもたらされるのは、
似非数学モデルを利用するなら
−1(≒呼びかけの「〜を」)・1(≒無効性)=−1(≒そこにある「欠如/空虚」)
ということになり、それでも、そのように捉えられること自体が、
そこに「欠落/空虚」があることに対する強い情動を喚起する。

https://manyoshu-japan.com/10234/
万葉集 第13巻 3344番
>嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと
天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども
道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ

しかし、「を」を無視して、それを消去するように「お」にまとめてしまう
ことは、文字通り、「を」/《vouloir》を「な(無)みす」る行為であり、
それをやはり似非数学モデルを用いて表現するなら、
−1(≒呼びかけの「〜を」)・0(≒無化)=0(≒「〜を」があったことの否認)
ということになり、まさしく「を」/《vouloir》の表出の抑圧以外の
なにものでもない。
0483考える名無しさん
垢版 |
2022/05/04(水) 19:28:35.300
>>466
>「男/女がすたる」と表現されることは、逆に見れば、「男/女である」
こと自体が、立派なこと(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされて
いることになるだろう。<

「男/女がすたる」とは逆の表現として「男/女を上げる」という言い方が
ある。この場合、「男/女を上げる」の「上げる」は、英語を用いて
説明するなら、"to be highly acclaimed"という意味合いを表現している
はずである。
0484考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 00:48:53.790
「男/女がすたる」と「男/女を上げる」の対比において問題にされている
のはどのようなことだろう。それは、「『男/女』としての『面目』に
かかわる」ということではないのか。

ここで「面目」について検索すると、次のように記載されている。
https://kotobank.jp/word/面目-643205
デジタル大辞泉「面目」の解説
>めん‐ぼく【面目】
1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
めんもく。「面目を保つ」「面目をつぶす」
2 物事のありさま。ようす。めんもく。「従来と異なった面目を呈する」
[類語](1)メンツ・名誉・名・名聞・体面・一分・沽券・声価・信用・
信望・信・信頼・信任・人望・定評・評判・暖簾・覚え・名望・声望・
徳望・人気・魅力・受け<

ここに列挙される類語の大部分は、それらをフランス語をメタ言語として
用いて説明するなら、《ce qui est à réclamer》として記述できるはず
である。「すたる」/「〜を上げる」は、《à réclamer》(≒「をと」)
を損なふことになるのか、強化されるのかを問題にしていると考える
ことができるだろう。
0485考える名無しさん
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2022/05/05(木) 08:19:57.530
>>258において、私は次のように指摘した。
>数学を隠喩として用いるなら、日本語における「を」は、それが感覚として
空虚を示すことにおいて、日本語の表現を組織化するうえで、数学における
オイラーの等式、e^iπ=-1のように中核的な役割を果たしている。<

「音」という漢字が当てられる表現が「おと」であると考えられるのか、
それとも「をと」であると考えられるのかは、単に「単語」を区別する
弁別性の問題に過ぎないわけではなく、日本語の言語表現の解釈の根本に
かかわる問題である。例えば、「訪れ」は、「音連れ」であるとされる
のだから、その「音」が「おと」であるのか、「をと」であるのかは、
「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。

さらに、現代の日本語では、「おととし」、「おとつい/おととい」
と表記される「一昨年」、「一昨日」は、旧仮名遣いでは、
「一昨年(をと・とし)」、「一昨日(をと・つ・ひ/をと・と・ひ)」
であることを考えてみよう。岩波古語辞典では、この「をと」は、
「ヲチ(遠)の古形」であると説明されるが、それが正しいにしても、
ここまでの検討を踏まえれば、この「をと」は、「を(復)つ」という動詞の
活用形であることが明白である。「をと・とし」は、今を起点に年を
ひとつ「戻った(「を(復)と」)」年を指し、「をと・つ・ひ/をと・と・ひ」
も同様に、今を起点に日をひとつ「戻った(「を(復)と」)」日を指して
いる。すると、「二度と来るな」という意味で用いられる「をととひ来い」
という表現には、「今を起点に日をひとつ『戻った(『を(復)と』つ)』日
に(戻って)来い」という意味合いが明示されていることになるだろう。
0486考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 08:27:58.070
>「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。<

https://kotobank.jp/word/男木-451432
>男木(読み)おとこぎ
精選版 日本国語大辞典「男木」の解説
おとこ‐ぎ をとこ‥【男木・御床おとこ木】
〘名〙 鳥取県などで、山から伐り出し、正月に軒先に立てる栗の木。
年神を迎えるためのもので、門松や若木、年木に当たる。<

この場合も、そのように立てられる木が、「『を』とこぎ」なのか
「『お』とこぎ」なのかは、その象徴としての意味合いを考えるうえで、
決して些細なことではないはずである。
0487考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 09:40:00.540
『男はつらいよ』という映画シリーズがある。
Wikipediaの「男はつらいよ」の項目を参照し、そこからフランス語の
サイトに移動すると、『男はつらいよ』という題名は、
《C'est dur d'être un homme》と訳されている。
私自身はその一作品も見たことがないので、どのようなストーリーである
のかは全く知らないが、それでも、この仏語の表現は、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であることを前提とした場合、
「男(をとこ)はつらいよ」という日本語の表現の直訳にすらなっていない
だろうと思う。というのも、この仏語訳であれば、別に「つらい」
のが「男(をとこ)」ではなく、(この仏語訳の解釈において現にそう
なっているとおり)「男(おとこ)」を「犬」に置き換えて
《C'est dur d'être un chien》にしたところで、何の問題もなく
そのまま通じるものとなるからである。しかし、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であるとした場合、その仏語訳は、
《C'est dur d'être un homme》ではなく、《C'est dur revendiquer
d'être un homme》となるだろう。すると、「男(をとこ)」を「犬」に
置き換えて、《C'est dur revendiquer d'être un chien》とした
のでは、文法的には問題がなくても、意味をなさない表現となる。
なぜなら、「revendiquer d'être」に相当するのが、「をとこ(男)」
の「をと」であり、「犬」には、そのような表現の要素が含まれて
いないからである。
0488考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 10:07:15.290
さて、このようなことを指摘している人は私以外に誰もいないように
私には見える。私が気づくようなことに専門家を含む大勢の人々の
誰も気づかないように見えるという私が置かれているこの状況には、
なにか私を「不安」にさせる(≒"disquieting")ものがある。それは、
私にとって、私が気づくようなことに人々がまったく気づかないように
見えるのが、人々が本当に気づいていないからなのか、それとも気づいて
いるのに、気づいていないふりをしている、もしくは気づいていないふりを
しなければならないという暗黙の規範に従っているからなのか定かではない
からである。フェルナンド・ペソアが"desassossego"と表現したのも、
そのような感覚ではないかと私には思える。私がほとんどつねに
そのような状況に置かれているのは、他の人々とは異なり、私の感性が
狂っているためだろうか、それとも、私が見渡す限りの大勢の他の人々の
感性がどのようにか麻痺させられているためだろうか。
0489考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 10:13:04.760
私は、この最後の問ひについて、ペソアほど割り切った判断を下していないから
こそ、このような場所に書込みをつづけているのだろうと思う。というのも、
私の書込みは、私がそれを非公開の個人的なノートに記すだけなら、私にとって
すら完全に無意味な行為となるだろうからである。
0490考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 15:12:13.430
万葉集で「おと」と読まれるものとされる「音」が詠まれた歌を検索してみると、
作者が大伴家持とされる歌が次々に検索結果としてヒットする。
その原文を確認してみると、この「おと」と読まれるとされる表現には、
「音」という表記の他に「於登」という表記も見られ、「於」が
一貫して「お」と読まれるものとされていることが分かる。
「音」や「於登」が平仮名でどう表記されるべきであるにしても、
大伴家持という人が、その表現に執着と言っていいほどの強い愛着を
抱いていたことが感じられる。ところで、万葉仮名における「於」の
読みについては、万葉仮名一覧を集計した以下のサイト
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/wo.htm
においても、
>「於」は普通オと発音し、ヲとは発音しない。
と記載されている。しかし、本当にこの「定説」は確実なのだろうか。
少なくとも、大伴家持が作者とされる歌においては、「音」は、一貫して
「をと」と読まれるものとするのでなければ、歌として意味をなさない
だろうと私には思われる。そんなものは私の個人的な感想に過ぎない
ということであれば、大伴家持が作者とされるすべての歌に関して、
私が「をと」と読まれるべきものとする「音」についてだけでなく、
その「音」と「をとめ」その他の「を」を用いた表現の用法との
関係について自分で検討してみるといい。

https://manyoshu-japan.com/9590/
>奴婆多麻<乃> 都奇尓牟加比C 保登等藝須 奈久於登波流氣之 佐刀騰保美可聞
>ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
>ぬばたまの つきにむかひて ほととぎす なくおとはるけし さとどほみかも

例えば、ここでは、「ほととぎす なく『お』とはるけし」ではなく、
確実に「ほととぎす なく『を』とはるけし」だろうと私は考える。
0491考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 15:17:43.160
https://manyoshu-japan.com/9117/
万葉集 第20巻 4461番
作者 大伴家持
>保里江欲利 美乎左<香>能保流 <梶>音乃 麻奈久曽奈良波 古非之可利家留
>堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
>ほりえより みをさかのぼる かぢのおとの まなくぞならは こひしかりける

「かぢの『お』との」ではなく、「かぢの『を』との」である。
0492考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 15:28:20.770
https://manyoshu-japan.com/9937/
万葉集 第15巻 3641番
>安可等伎能 伊敝胡悲之伎尓 宇良<未>欲理 可治乃於等須流波 安麻乎等女可母
>暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも
>あかときの いへごひしきに うらみより かぢのおとするは あまをとめかも

この歌の作者は不詳とされ、「音」の原文表記は、「於等」であるが、
これもやはり「をと」と読まれなければ、歌として成立しないだろうと
私は考える。私は、国語学において「於」が「お」と読まれなければならない
とする専門家の間の定説がどのような根拠に基づいてるのかまったく知らない。
しかし、自分で万葉集の歌を確認してみるかぎり、この定説は完全に
誤っているとしか考えられない。
0493考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 15:51:05.600
https://manyoshu-japan.com/11506/
万葉集 第10巻 2072番
>渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶<聲之>不為
>渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
>わたりもり ふねわたせをと よぶこゑの いたらねばかも かぢのおとのせぬ

「ふねわたせ『をと(乎跡)』」に対応する読みが「かぢの『をと』」で
なければ、掛詞にならず、言葉遊びとして成立しないだろう。
言葉遊びとして成立しないとすれば、この歌は、何を詠んだことになるのか。
まさか、専門の研究者でありながら、その程度のことにすら気づかないことは、
通常、考えられないと思うが。
0494考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 16:52:10.470
世の中には、「気づかない方がよかった」、「知らない方がよかった」と
いう人々がかなり沢山いる。私自身は、無駄に好奇心が強いので、その
ように感じることはない。しかし、私が気づいたことについて、嬉々として
書き込んでいる、言いたい放題のことを言っていい気になっていると
思うのであれば、それもまた的外れである。もちろん、私にっとって、
自分が気づいたことについて沈黙しているのは、気詰まりであり、
気が重い。だから、それについて書き込むことには、気晴らしの効果がある
ことは確かである。しかし、私は、自分が書き込むことについて、
自分だけが気づいたのだと思い込むほどの世間知らずではなく、
それほどまでに己惚れているわけでもない。なぜ他の誰もやらないのに、
気晴らしの裏には、私がそれを指摘しなければならない「はめになって
いるのか」という思いが強くある。これは、本来であれば、私のような
者ではなく、専門の研究者が対処していなければならない課題であるはず
である。ただし、そのような課題に専門の研究者が取り組むはずがないこと、
他人に期待することが全くの無駄であることもよく知っているので、自分の
気晴らしを兼ねてそれをやっているだけだ。
0495考える名無しさん
垢版 |
2022/05/05(木) 16:53:37.130
誤:なぜ他の誰もやらないのに、気晴らしの裏には、
正:気晴らしの裏には、なぜ他の誰もやらないのに、
0496うさぎ跳びで校庭一周
垢版 |
2022/05/07(土) 23:13:45.110
>>482
>当時の歌詞は「なに見てはねる」の箇所が「なに"を"見てはねる」であったが、
1941年(昭和16年)の『ウタノホン (下) 』から、"を"の文字を抜いた歌詞
になったとされている。(by Wikipedia)

うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる

「を」/《vouloir》/"want"/»wollen«は、なぜ消し去られたのか?
0497考える名無しさん
垢版 |
2022/05/07(土) 23:20:57.320
Wikipediaの「小槻氏」の項目から:
>小槻氏(おつきうじ/おづきうじ)は、「小槻」を氏の名とする氏族。
第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、平安時代から
小槻宿禰姓を称した。<

>『古事記』では落別王は小月之山公(小槻山君)の祖と記されており、
系図上はこの小槻山君が小槻氏につながる。また『新撰姓氏録』では
「於知別命之後也」と記されている。 <

『古事記』で用いられている表記は万葉仮名なので、「小月」は、
「『お』つき」ではなく、「『を』つき」と読まれるはずである。
さて、「於知別命之後也」の「於知」は、「おち」と読まれるのか、
それとも「をち」と読まれるのか。
0498考える名無しさん
垢版 |
2022/05/07(土) 23:25:01.940
>文化庁蔵本冷泉為相本「新古今和歌集」(承元三年〈1209〉
六月十九日定家書写本 日本古典文学会複製本)<

これを参照して検索すると、「をと」や「をとつれ」という表記が例外ではなく、
基本となっているように見受けられる。
0499考える名無しさん
垢版 |
2022/05/07(土) 23:34:33.940
>>496
>うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる<

問ひが「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
であったとすれば、それに応へる「十五夜 お月さま」は、
「お月さま」ではなく、「を(復)つき(月)さま」、または
「をほ(於保)月さま」=《la pleine lune》であったと解釈できる
可能性があるのではないか。
0500考える名無しさん
垢版 |
2022/05/07(土) 23:46:14.560
万葉集 第7巻 1276番
柿本人麻呂(柿本人麻呂歌集)
(旋頭歌)
>池邊 小槻下 細竹苅嫌 其谷 <公>形見尓 監乍将偲
>池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ

この歌に与えられている現代語訳では、「をつき(小槻)」は、単に
「槻(ケヤキ)」とされ、「池邊 小槻下 細竹」は、「槻(ケヤキ)の
元に生えている細竹(しの)」であると解釈されている。しかし、
この歌が「旋頭歌」であると明示されていることから考えれば、
「をつき(小槻)」は、水面(みなも)に映った「月」で、その下に
生えているとされる「細竹」もやはり、その「月」に向かうように
水面に映っているものと解釈できる可能性もあるのではないか。
0501考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 00:01:06.140
Wikipediaの「保食神」の項目には、次のように記載される。
>月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、
海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、
それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせる
とは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた
天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。<

「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、この読みは、
「食」に「うけ」を当て、「保」に「もち」を当てているはずだろう。
であるとすれば、万葉仮名では「食」は、「食(を)す」に当てられた漢字
でもあるのだから、「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。
『古事記』において『日本書紀』の「保食神」に対応するとされるのが、
「オホゲツヒメ」である。
0502考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 00:12:22.950
>「を(終)ふ」が、「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を
形成する「〜ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、
「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができる<

私は、先にこのような解釈を示したが、仮にこれが妥当であるとした場合、
「を(終)ふ」を活用すると、直ちに
「をふ」(≒"to complete")⇒「をほ」(≒"plenty")という関係性を
類推により導き出すことができるのだから、「於」が「お」と読まれること
に限定されず、「を」と読まれた可能性もあるとすれば、通常、「おほ」
と読まれるとされる表現に、そのような、つまり、「をほ」(≒"plenty")
に近い解釈を適用できる事例もあることが考えられるのではないか。
0503考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 00:17:37.520
例えば、「オホゲツヒメ」の「ゲツ」は、「月」の音読みとしても
解釈され、「オホゲツヒメ」は、「満月/《la pleine lune》ヒメ」
である可能性もあるのではないか。

>plenty (n.)
mid-13c., "abundance; as much as one could desire; an ample supply,"
from Old French plentee, earlier plentet "abundance, profusion"
(12c., Modern French dialectal plenté), from Latin plenitatem
(nominative plenitas) "fullness," from plenus "full, filled, greatly
crowded; stout, pregnant; abundant, abounding; complete,"
from PIE root *pele- (1) "to fill."<
0504考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 00:47:47.820
私は、ここに提示する可能性について、私自身、そうであると確信して
いるわけではない。ただし、日本語の古語の「お」と「を」の関係に
ついては、そのような可能性も含めて、全面的に再検討が必要だろう
と思っている。
0505考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 01:02:04.010
ところで、万葉仮名では、「人(ひと)」も「一(ひと)」も等(ひと)しく、
「比等(ひと)」と表記されている。つまり、日本語において、「ひと」
とはもとから、「比べて等しい」ことを想起させる表現であること
が分かる。したがって、「他人(ひと)と自分を比べない」ように
するためには、自分を「人(ひと)」とは思わないようにすることが
要求される。
0506考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 01:05:24.320
これこそ、国語の論理としてまず最初に覚えるべきことだろう。
0507考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 01:13:47.370
万葉集 第11巻 2442番
>大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
>大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
>おほつちは とりつくすとも よのなかの つくしえぬものは こひにしありけり
0508考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 07:24:41.530
>「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、
[...]「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。<

この解釈によれば、「保食神」は、「満月」/"full moon"を表象して
いることになり、これに対して、「保食神」(≒「満月」/"full moon")
を斬ってしまった「月夜見(つくよみ/つきよみ)(の)尊(みこと)」は、
太陰暦におけるひと月である「1朔望月」を表象する「月夜見(つくよみ/
つきよみ)」、すなわち、"moonligt nights(月夜) watching(見)"である
とともに、「つ(尽)き/くよみ(黄泉/闇)」、すなわち、
"exhausting(つ(尽)き/く) darkness(よみ(黄泉/闇))"であると
解釈することができるだろう。現代では、太陰暦の代わりに太陽暦が
使われるようになったので、女性の「月経」に関する以外では
忘れられがちだが、日本語の古語では、「月(つき)」が想起させた
のは、太陽や地球と対比される「物象化された月という天体」
ではなく、月の満ち欠けであり、その期間であったことを思い起こそう。
0509考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 07:37:36.970
すると、定説では、「月(つき)立(た)ち」の音便変化であるとされる
朔日(ついたち)も、そのような月という天体もしくは月という日数を
最初から物象化した見方ではなく、「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。
0510考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 10:32:30.540
ところで、万葉集の歌に詠まれる「楫の音」は、何を表象しているのだろうか。
「楫の音」をその定説による読みである「かぢのおと」により検索した
だけでも19件のヒットがある。「楫の音」が間接的に含意されて詠まれている
歌の件数を含めれば、さらに数多くの歌があるだろう。

「楫(かぢ)」は、現代の日本語で言うところの、一般に船尾に取りつけられる
「舵」と混同されやすい表現だが、
舵(読み)かじ日本大百科全書(ニッポニカ)「舵」の解説にもあるとおり、
>『万葉集』には「カヂ」が頻出するが、そのほとんどは推進用のオールである。
「漕ぐ」という表現と併せて用いられている事例が多いことから分かるとおり、
「楫の音」とは、現代の日本語にすれば、直接的には「櫂/オールを漕ぐ音」と
いうことになる。
0511考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 10:37:30.420
「舟を漕ぐ」ことに関しては、次の歌に見られるとおり、明白にかなり露骨な
隠喩として用いられている場合もあるが、「楫の音」をそのように限定して
イメージする必要はないし、そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、
望ましくもない。

万葉集 第20巻 4313番
作者 大伴家持
>安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可
>青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか
0512考える名無しさん
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2022/05/08(日) 11:00:21.790
万葉集 第20巻 4360番
作者 大伴家持
>御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝なぎに 楫引き上り 夕潮に 棹さし下り

この歌に見てとることができるとおり、船でオールを漕ぐ必要があるのは、
まずなによりもそれが流れに逆らうからであり、流れに沿って移動するなら、
現代の日本語の慣用句ともなっているとおり、「流れに棹さす」だけでよい。
さらに、ここで、「楫(かぢ)」は、「引く」ものとしてイメージされている
ことが分かり、ここで「引く」は、一般に水路を誘導することを意味する
ように用いられる「水脈引き」という表現に掛けられているが、それが同時に
想起させるのは、櫂/オールを「漕ぐ」動作がそうであるように「楫(かぢ)
を引く」ことが「『み(身)を引き』寄せる」ことにもなることだろう。
さらに説明するまでもなく、私が提示しようとしている「応へ」は、これ
であり、万葉集に詠まれる「楫の音」が表象しているのは、「櫂/オールを
身に引き寄せる」ときに水面から上がる「櫂/オールの音」であるとともに、
「『み(身)を引き』寄せる」作用そのものである。
0513考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 11:03:09.830
このことからも、「をとめ」の「をと」に掛けられる事例も見られる
「楫の音」は、「かぢのおと」ではなく、「かぢの『をと』」と読まれる
べきものだろうと私は考える。
0514考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 12:00:56.210
>>511
>「楫の音」をそのように限定してイメージする必要はないし、
そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、望ましくもない。<

同じことは、直接的には「雄鹿」を意味するものとして用いられる
「さを(棹)しか(鹿)」の「さを(棹)」についても言える。無論、
「さを(棹)」は、「雄(を)」の性別を示すように用いられているのだから、
その表象を否認する必要はない。しかし、「さをしか」の「さを」を
そのように限定して捉えることは、解釈を無用に狭めて、多層的に
用いられている言語表現に対する感性を極端に貧しくするものでしかない。
0515考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 13:13:35.430
「をとこ/をとめ」の「をと」の用法については、ポルトガル語の
"vaidade"という表現、および"vaidade"についてフェルナンド・ペソア
が述べていることを対応させて考えてみると、分かりやすくなるの
ではないかと思う。「をとこ/をとめ」であることが「つらい」なら、
「をとこ/をとめ」であることを「降りて」しまえばよいのである。
それは、「身を『やつす』」ことであり、それなりの身分のある
人々にとっては、制度的には、かつては「出家する」ことを意味する
ことになっただろう。

Vaidade e orgulho

O orgulho é a consciência (certa ou errada) de nosso próprio
mérito, a vaidade, a consciência (certa ou errada) da evidência
de nosso próprio mérito para os outros. Um homem pode ser
orgulhoso sem ser vaidoso, por ser ambas as coisas vaidoso e
orgulhoso, pode ser – pois tal é a natureza humana – vaidoso
sem ser orgulhoso.

É difícil à primeira vista compreender como podemos ter consciência
da evidência de nosso mérito para os outros, sem a consciência de
nosso próprio mérito. Se a natureza humana fosse racional, não
haveria explicação alguma. Contudo, o homem vive a princípio
uma vida exterior, e mais tarde uma interior; a noção de efeito
precede, na evolução da mente, a noção de causa interior desse
mesmo efeito. O homem prefere ser exaltado por aquilo que não é,
a ser tido em menor conta por aquilo que é. É a verdade em ação.
0516考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 13:27:33.640
>>499
誤:「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
正:「なに見て はねる」ではなく、「なに『を』見てはねる」
0517考える名無しさん
垢版 |
2022/05/08(日) 22:55:04.450
大切なところで誤記になっている。

>>508
誤:"moonligt nights(月夜)
正:"moonlit nights(月夜)
0518塩なめくじ
垢版 |
2022/05/09(月) 08:31:21.10ID:F2KBW/780
moonlit moonlight 違い 検索
0519考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 09:01:54.050
万葉集 第20巻 4317番
>秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
>秋野には今こそ行かめもののふの男女の花にほひ見に
>あきのには いまこそゆかめ もののふの をとこをみなの はなにほひみに

この歌では、「をとこ/をみな」という組合せだが、「をとこ/をとめ」の
「をと」を、ポルトガル語の"vaidade"に対応するものと考えるなら、
花咲き「ををる」などのように用いられる「ををる」という表現は
(その「を」をやはり「呼びかけの声」に関連付けるとしても)、
フランス語を用いて説明するなら、《se vanter》ということになる
のだろう。するとやはり、現代の日本語では、「花咲きほこ(誇)る」
という表現が、古語の「花咲きををる」を引き継いでいることになる。
0520考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 09:20:06.450
万葉集 第20巻 4466番
作者 大伴家持
>之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
>磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
>しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ

このように見てくると、「名尓於布(名に負ふ)」のように間違いなく
「お(於/負)ふ」と読まれるとされる表現の場合でさえ、その「於/負」が
「を」と読まれた可能性があるのではないかと思えてくる。
0521考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 09:31:23.420
古語の日本語の表現を解釈しようとするとき、現代の日本語を日常的に
使ふことに慣れている私たちは、それがどのように合理化されたにせよ、
歴史的に「を」が「お」にまとめられて消去されていることを意識せず
に言葉を理解しようとすることが習慣となっており、そのような理解
の方が自然であると感じるように機械的に導かれている(その導きの
意図をどのように考えるにせよ)ことを思い起こす必要があるだろう。
0522考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 09:45:57.920
現代の日本語でもよく使われる「花咲く乙女(をとめ)」の「花咲く」という
形容は、おそらく、古語において「をとめ」の「をと」によって表現されていた
感性を引き継いでいる。というのも、現代の日本語においても、
「一花咲かせる」という表現の用法は、むしろ、「をとこ」としての男性に
関連して用いられることの方が多いように感じられるからである。
0523考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 09:52:15.200
>現代の日本語においても、「一花咲かせる」という表現の用法は、
むしろ、「をとこ」としての男性に関連して用いられることの方が
多いように感じられるからである。<

これは、現代の日本における「男女不平等」が問題にさせるときの
感覚にも結び付いているはずである。しかし、そうであるとすれば、
その感覚が、歴史的は、そもそも「身分制度」と結び付いていること
も思い起こす必要があるだろう。
0525考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 11:47:29.600
『千載和歌集』序文
>やまと御言の歌は、ちはやぶる神世よりはじまりて、
楢の葉の名にをふ宮にひろまれり。<

楢の葉の「名に『を』ふ」と表記されている。

Wikipediaの「千載和歌集」の項目より。
>『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、平安時代末期に編纂された
勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に
撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。<

これほど重要な和歌集の序文で歌の由来について説明する表現において
うかつに表記を間違え、しかも、ずっとそれが間違ったまま後世に
伝へ継がれるものだろうか。
0526考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 13:01:05.300
於菟の尾をつかむことができていい気になっている愚か者
0527朔日/つひたち
垢版 |
2022/05/09(月) 15:02:43.260
>>509
>朔日(ついたち)も、[...]「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。<

以下も前出のフェルナンド・ペソアの著作からの引用である。

>Mas o fim do mundo, desde que o mundo se consumou
dando-lhe a volta, é o mesmo Entepfuhl de onde se partiu.
Na realidade, o fim do mundo, como o princípio, é o nosso
conceito do mundo.<

ここで、Mas o fim do mundo, desde que o mundo
"se consumou"(≒「つひ(費)え」る) dando-lhe a volta, é o mesmo
Entepfuhl de onde se partiu(≒「た(立/発/絶)つ」)であることに注目しよう。
0528考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 15:18:29.160
他の誰もまったく気にしない、どうでもいいと思っているように見える
ことに、そのような他人からすれば、「異様に」私が拘っているのは、
確かに私の「個人的な性格のせい」であるかもしれないが、その結果と
して、定説とは大きく異なる言語表現の解釈の可能性が示されてしまう
ことは、別に私の「性格が歪んでいるせい」ではない。

それに、本当にそのようなことに誰も拘っていないのなら、「うさぎ」
のわらべ歌の「なに"を"見てはねる」という元の歌詞から、なぜわざわざ
「を」が消し去られることになったのだろう。
0529考える名無しさん
垢版 |
2022/05/09(月) 16:06:32.590
>>528
なるほろ感覚。関心の側面が違うのに、相手に合わせることが、そもそもオーダーミスなのかも。時にTPOに過剰に合わせて楽しむのやろ。

そもそも「会話」は思い込みで成り立ってる。
0530考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 13:20:38.580
こんなところにも歌に詠まれた日本語の古語の言語表現を解釈するための
ヒントが隠れている。

保美町(ほびちょう)は、愛知県田原市の地名。
旧渥美町中央部に位置する。東は福江町、南は小塩津町、
北は中山町に接する。

現行字 大原(おおはら)
明治15年当時 大原(をほはら)
0531考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 13:31:11.630
むかし、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、
近衛府にさぶらひける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、
よみて奉りける。
  大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。

伊勢物語絵巻七六段
0532考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 13:37:03.360
相生のをしほの山の小松原 いまより千代のかげをまたなん
(新古今和歌集 大貳三位)

あひをひのをしほの山のこ松はらいまよりちよのかけをまたなん
永保四年内裏子日に 大納言経信
>文化庁蔵本冷泉為相本「新古今和歌集」
(承元三年〈1209〉六月十九日定家書写本 日本古典文学会複製本)を翻刻した。
0533考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 13:40:51.470
「本歌取り」に限らず、歌をやりとりすることそのものが、掛詞の解釈を
含め、詠まれた言葉の発音によって想起される解釈の可能性をメタ言語的に
捉え返す言語行為の実践である。
0534考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 13:57:18.350
>>531-532
ここで私が注目するのは、「大原や小塩の山も」が、「『お』ほはらや
『を』しほのやまも」ではなく、「『を』ほはらや『を』しほのやまも」
と読まれた可能性であり、その読みを「あひ『を』ひの『を』しほの山の」
という表現が受け継いでいると考えられることであり、さらに、「あひをひ」
の「をひ」が、「をほはら」の「をほ」に発音の上で対応するだけでなく、
「あひをひ」の「あひ」が、「をほはら」の「を・ほ」の「ほ」、および
「をしほ)」の「ほ」を独立した表現要素としてメタ言語的に捉えて、
その表現作用を明示化しようとしていると考えることもできることである。
つまり、私には、>>532の歌は、日本語における「を」と「ふ」の
メタ言語的な理解を示そうとしているように見える。
0535考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 15:47:30.560
話が逸れるが、これも前掲のフェルナンド・ペソアの著作からの
表現である。
>o privilégio de deveres cedidos

この"o privilégio de deveres cedidos"というペソアの表現は、
私には、万葉集の歌でよく詠まれている「まけ(任)のまにまに」
という表現によって伝はる感覚とうまく対応しているように見えて
おもしろい。
0536考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 15:51:42.250
しかし、日常生活では、このような感覚を「メタ言語によって明確に
言語化しようとする」と、通常は、制度的に権限を付与された地位に
ある人々から厳しく罰せられるか、少なくとも疎まれることになる
のである。
0537考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 16:02:32.670
哲学をしようとする者は、「言わぬが花」ということについては、
まったく「聞き分けがない」。
0538考える名無しさん
垢版 |
2022/05/10(火) 17:04:11.700
>>534
そのように見た場合、「あひをひ」は、「相(あ)ひ・生(を)ひ」では
あるが、「をほ(大)はら(原)」の「をほ」を「を(生)ふ」の活用形として
見るだけでなく、「を(生)ふ」の「ふ」を、「相(あ)ひ」によって表現
される相互性を表す言語要素として見ていることになるだろう。また、
それにつづく「をしほ(小塩)」の「をし」は、「を(惜)し」との掛詞
として用いられているはずであり、すると、「をしほ(小塩)」の「ほ」
も、それが「をし(教)ふ」の場合とは異なり、「をし・ふ」という
再帰表現との掛詞としての解釈は成立しないにしても、やはり、「ほ」
の発音が「ふ」の活用として「相(あ)ひ・を(惜)しむ」イメージを想起
させるように用いられているように見える。すると翻って、「を(生)ふ」
も同様に、「『〜を』という求めの相互性」を「相(あ)ひ」によって
強調されて想起させることになっているように私には感じられる。
0539考える名無しさん
垢版 |
2022/05/11(水) 08:07:27.520
>>535
一般に、「特権」/"privilégio"を握った者による暴力は、「まけ(任)のまにまに」/
"o privilégio de deveres cedidos"に応じて、その「まけ(任)」、すなわち、
「任せられた責務」/"deveres cedidos"の遂行として行使される。それは、
その「まけ(任)」が「大君」という特定の人物によるものである場合に限定
されず、「天」によるものである場合も含めてであり、「特権」/"privilégio"
を握ることは、「命(みこと/詔)」を賜ることであると同時に/そのことと
表裏一体となって、自らの「命(いのち)」を預けていることでもある。
「任せられた責務」/"deveres cedidos"を遂行することができなければ、
当然、その代償を自らが支払うことになる。その、通常は「言わぬが花」
とされる関係性をしっかりと把握していなければ、社会における「特権」
や「平等」について議論することは空疎となる。
0540考える名無しさん
垢版 |
2022/05/11(水) 08:54:55.890
社会における「特権」や「平等」について行われる議論が実際に
そのように空疎なものとなっている限りにおいて、見方を変えれば、
そのような空疎な議論を展開している人々は、暗黙に「まけ(任)の
まにまに」/"o privilégio de deveres cedidos"に応じて、
実質的に「言わぬが花」が守られている状態が保たれるように
「任せられた責務」/"deveres cedidos"をきちんと遂行している
と考えることもできる。
0541考える名無しさん
垢版 |
2022/05/12(木) 09:49:27.750
「『まけ(任)のまにまに』/『"o privilégio de deveres cedidos"に応じて』」
というのは、それが個々の歌に明示的に詠まれているか否かにかかわらず、
万葉集の集められた歌を編纂する行為そのものの大枠としての意として働いて
いる。だからこそ、万葉集に歌において特徴的に強く表れるのは、主従関係
を確立する「を」の呼応関係に素直に従うことと、「しか(然)」して、その
ことによって「な(汝/己)」が互いに片糸として分かれることになり、
「いと(絲)を(惜)しさ」(ただし、「いとをし」という表現そのものは、
万葉集で用いられてはいない)がなげ(嘆)かれることの対比であり、
それでも「を・を」の呼応関係は、「汝(な)・己(な)」の「いと(絲)を(惜)しさ」
よりもつねに優位に立つのである。

ここで、「を」の呼応関係を成立させることによって確立される主従関係に
おける「主」を、国をを(治/食)す「大君」に限定することなく、そこに、
統治制度の違いにかかわらず、統治主権を代入するなら、"hero/heroine"
の表象のされ方は、時代と地域を超えて互いによく類似していると言うことが
できるだろう。
0542ヒーロー/ヒロインとしての「もののふ」
垢版 |
2022/05/12(木) 09:59:10.550
ここで過去にも繰り返し引用した、統治についてモンテーニュの語った
次の言葉を再び思い起こそう。

「『大海原で激しい風が波を逆立たせていて、他人がさんざん苦労している
のを、陸地から眺めるのは心地よい(ルクレティウス「事物の本姓について」
二の一−二)』人間から、このような性質の萌芽を取り去ってしまったならば、
人間の生き方の根本をなす存在様態を破壊しかねない。同じく、いかなる
統治体制にも、単に卑賤であるばかりか、悪徳な職務が必要とされる。
それらの悪徳は、そこにしかるべき場所を見出して、われわれ人間社会に
おける縫い目として活用される―あたかも毒が、人間の健康の維持に使われ
るように」

「そうした悪徳をわれわれが必要としているのだし、この共通の必要性なる
ものによって、悪という真の性質が捨象されているのだから、それは許容
されるべきだというのなら、その役目を、われわれなどより、もっと
たくましくて、臆病ではない市民たちに演じさせるべきだ。彼らならば、
祖国を救うために、自分の命を犠牲にした昔の人々のように、自分たちの
名誉も良心も犠牲にするはずだ。でも、われわれのような弱虫人間は、
もっと簡単で、危険の少ない役割を引き受けるとしよう。公共の利益が、
裏切りや、嘘や、殺戮を要求するのであり、こういう任務は、もっと従順で、
柔軟な人々にお任せしようではないか。」
モンテーニュ「エセー6」p.13 宮下志朗訳
0543考える名無しさん
垢版 |
2022/05/12(木) 10:13:45.990
「こういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしようではないか」
というのは、言い換えるなら、自らが「『まけ(任)のまにまに』/
『"o privilégio de deveres cedidos"に応じて』」 立振る舞ふことに
美意識を感じる人々にお任せしよう、ということである。
0544考える名無しさん
垢版 |
2022/05/12(木) 10:25:22.660
これを「牽強付会」と感じるような人々は、モンテーニュの『エセー』に
ついては言うまでもなく、ペソアやニーチェの著作、さらには『万葉集』
の歌についてさえ、まともに読めるだけの(知識ではなく)感性を備えている
のかどうか、私個人には極めて疑問である。
0545考える名無しさん
垢版 |
2022/05/13(金) 07:22:57.410
>>531
幸い手元に『伊勢物語』があったので、少しだけページを少しめくってみた。
『伊勢物語』は、この歌を含め、何かの出来事についての手短なエピソードが
記載され、そのエピソードの一環として歌が詠まれたという形式をとっている。
一読しただけでは気づかなかったが、見返してみると、詠まれている歌は、
単に歌のやりとりとして掛詞を駆使しているというより、意図的に「謎かけ」
として詠まれているという印象が強い。したがって、歌にまつわるエピソード
は、何かの実際の出来事の際にその歌が詠まれたという事実を伝えていると
いうよりも、歌の謎解きのヒントとして創作されているように私には考え
られる。特に、>>534に示したとおり、「お」と読まれた漢字が「を」
と読まれた可能性があることを踏まえ、歌の言語表現の要素がメタ言語的に
用いられている可能性に注目すると、歌の解釈は、従来に示されているもの
とはかなり異なったものとなり得るように思われる。
0546考える名無しさん
垢版 |
2022/05/14(土) 08:49:33.520
>>545
『伊勢物語』を、それぞれのエピソードを「物語の断片」と見なして
解釈しようとする大枠の見方そのものが、最初から「ボタンを掛け違えている」
ように私には思える。というのも、エピソードそのものが、通常の意味での
物語の体を成していないからであり、私には、そのどこまでが「言葉遊び」
なのか(私は、言語表現の意図的なメタ言語的な操作の実践を「言葉遊び」
と呼んでおり、「実効性がない」などという意味でこの表現を用いている
わけではない)としての表現なのか判然としない。逆に言えば、歌の背景
とされるエピソードそのものにかなりの程度の遊びが含まれているように
見える。
0547考える名無しさん
垢版 |
2022/05/14(土) 14:04:26.530
>>462-493
ところで、日本語の「を」は、呼びかけとしては、ドイツ語の»rufen«という
動詞に対応させて説明することができ、したがって、「音に聞く」という
表現に見られる日本語の古語における「音」も、それを「おと」ではなく、
「をと」と読まれるべきものとするなら、やはりドイツ語の»von Ruf«
という表現に対応させて考えることができ、その場合、「をとこ/をとめ」
の「をと」もそのような「を」の用法であると解釈することができる。
さらに、この解釈は、「をと」をポルトガル語の"vaiedade"に対応させた
上述の説明にもうまく適合する。

さて、ここで、現代において社会的な課題として議論されることの多い
男女平等の実現ということについて考えてみると、そこで中心的な問題
とされているのは、男女が同等の条件で継続的に»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」ことのできる社会環境が整えられているかどうか
であるように私には見える。言うまでもなく、この»beruflich tätig sein«
という表現における»be・ruf・lich«の»ruf«は、上記の»rufen«や
»von Ruf«の»ruf«と共通である。私自身は、»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」と他人から見做されなくても、そのことによって
家内で下働きすることを強制され、下される指示に応じるしかない
従属的な立場に追い込まれることなく、生活するのに十分な収入が
得られるなら、特に»beruflich tätig sein«/「職に就いている」必要性
は感じないのだが、そうでないことによって、「何らかの欠損」が生じて
いると評価するのが、世の中に普及しているより一般的な見方だろう。
そのような感覚がどのようにして生じているのかを理解するのに、
>>541で触れた「を」と「な」の関係が、万葉集の歌において
表現されるものと、現代でどのように変化しているのかを比較検討して
みることが有益ではないだろうか。
0548唯動論
垢版 |
2022/05/15(日) 02:07:31.260
動きそのものが意味 以上。
0549考える名無しさん
垢版 |
2022/05/15(日) 11:01:08.100
>>546
『伊勢物語』について
>エピソードそのものが、通常の意味での物語の体を成していない
と私は指摘したが、これは、部分的に物語として成立していないという
のではなく、初段からである。その一方で、各エピソードは、明示した
とおりの意味において、通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる。
例えば、初段で印象的なのは、「射(い)る」ことと関連付けることの
できる「い」の発音の用い方であり、現代の日本語にすれば、
「矢継ぎ(古語では、「いやつぎ」または「いつぎ」と表現される)早に」
という表現を想起させる「言葉遊び」となっているのではないかと
私には感じらる。既に指摘したとおり、エピソードの登場する
「女はらから(姉妹)」を形容する「なまめいたる」という表現も、
言葉そのものとしては、初春の柳の枝のような「弾力性のある
しなやかさ」を表現するものであり、それが「狩」に関連づけ
られるなら、当然、弓のしなやかさが想起される。「しの(偲)ぶ」
ことと掛詞にされている狩衣の「しのぶずり」の「しの」も、
「しの(篠)」を想起させるものであり、「しの(篠)」とは、
岩波古語辞典によれば、「細く小さい竹の総称」であり、
「矢などにつくる」ものである。また、「しの(篠)を突く」
という表現は、「雨がはげしく降るさま」に用いられる隠喩である。
このエピソードのしめくくりの文句に用いられる「いちはやき」
という表現も、私には「矢のような速さ/勢い」を想起させる。
0550考える名無しさん
垢版 |
2022/05/15(日) 11:24:18.950
>>545で、『伊勢物語』について、
>「お」と読まれた漢字が「を」と読まれた可能性があることを踏まえ、
歌の言語表現の要素がメタ言語的に用いられている可能性に注目すると、
歌の解釈は、従来に示されているものとはかなり異なったものとなり
得るように思われる<
と指摘した。ここで、『伊勢物語』について検索してみると、図らずも
(実際に私はそのような議論について事前にまったく知らなかったので)、
初段から、「〜となむをいつきていひやりける」という表現の解釈に
関して、それを「をいつきて」のままとするか、「おいつきて」に
変えて解釈するかが問題とされて、それによりこの箇所の現代語訳が
様々なものとなっていることが分かる。それをどう解釈することが
妥当であるか私にはまだはっきりと判断がつかないが、少なくとも
「をいつきて」の「いつき」は、現代語において「矢継ぎ早」の
「矢継ぎ」に対応する古語の「いつぎ」と掛詞になっているだろう
と私は考える。
0551考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 18:04:15.110
『伊勢物語』について、
>各エピソードは、[...] 通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる<
と指摘した。私が『伊勢物語』をそのように形容することに否定的な
評価のニュアンスはまったく込められていないが、一般的には、
「言葉遊び」というのは、「何の『効果/かひ』もない無駄な言葉遣いを
している」といった程度の意味で蔑みの評価であると考えられている。
実際、『伊勢物語』には、「歌の詠み手の心の動きを如実に表現して
相手に伝へる」ことに関しては、何の「効果/かひ」もないことに
おいて無意味/ナンセンスであると感じられる歌が少なくない。
では、なぜそのような無意味/ナンセンスとも思われる歌を詠み込んだ
エピソードを書き連ねているのだろうか。それを問はなければ、
『伊勢物語』に特徴的な言語表現の重要性に気づくことはできない
だろうと私は考える。
0552考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 18:17:59.100
例えば、『伊勢物語』の第七十五段のエピソードは、男が女をつれて
いこうと誘ったが、つれなく断られたというだけのことで、そこに
詠み込まれた男と女の歌のやりとりにおいて女が詠んだ歌が、
次のとおりである。

>岩間より 生ふるみるめしつれなくは 潮干潮満ち かひもありなむ
0553考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 21:32:33.550
この段のエピソードは、言い寄る男と、その男につれない態度をとる女の
関係を歌のやりとりによって伝へているだけで、その話の筋には、人の心を
動かすものはなにもなく、詠み込まれている歌にも、詠み手が自らの心の
動きを捉えて表現しようとするような動機が感じられない。例えば、上に
引用した歌にどうしても心の動きを見てとろうとするなら、そこに見られる
のは、「心の動きのなさ」としての「冷淡さ」ということになるだろう。
しかし、それでは、「言い寄る男を女が冷淡にあしらった」というだけの
ことになり、それがなぜわざわざエピソードを伴う歌のやりとりとして
提示される必要があるのか不明だろう。
0554考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 21:57:40.530
その一方で、この歌の表現手法に注目すると、「かひ」という表現だけでも、
それが三重の掛詞として用ひられていることにすぐに気づく。歌は、
海に関連付けられているので、「かひ」はまず最初に「貝(かひ)」として
読まれるが、「『かひ』もありなむ」という表現において、「効験」
としての「かひ」と掛けられていることが明白であり、さらに「かひ」
は、「潮干潮満ち」につづくことによって、その語源的な用法どおり
に「か(交)ひ」を、つまり、「潮の干満」の「交替」とも掛けられている。
要するに、この歌は、相手とのやりとりにおいては、なぜわざわざ
相手に送られる必要があるのか不明な、詠み手の心を相手に伝へる
ことに関しては無効なもの、その「かひ/効験」がないことにおいて
無意味/ナンセンスなものでありながら、メタ言語的な表現法として
は、「かひ」という言葉の掛詞としての用法をこれ以上ないほどに
簡潔に明確に具体的な事例として提示している。そして、私には、
こちらの方が、そこに読まれる歌とエピソードを創作した主眼であり、
話の筋は、その口実に過ぎないものであるように思われるのである。
0555考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 22:36:49.760
この「かひ」についてのメタ言語的な表現法の有効性は、それを日本語
以外の言語に対応させて考えてみれば、さらに明らかとなる。
無論、他の言語において「かひ(貝)」と「かひ(効験)」が掛詞に
なることはないが、「かひ(効験)」と「か(交)ひ」は、例えば、
ドイツ語の場合であれば、そのまま»Tausch«に対応させることができ、
「かひ(効験)」をマルクス主義的な用語である»Tauschwert«に
対応させることもできる。「生き甲斐」、「働き甲斐」と言えば、
それは、「生きること」、「働くこと」の»Tauschwert«と解釈
することができるだろう。さらに、「『かひ』がない」、
「ふ『がい』ない」という表現も、»tauschen«との関連性から
直ちに、»enttäuscht«という表現と関連させて考えることができる。
試しに、»enttäuscht«をキーワードにして検索すると、次のような
表現がヒットする。

>Fühlst du dich oft von dir selbst enttäuscht?

ここで、»enttäuscht«を辞書の記載により、「失望させられた」と
いったような訳語を当てはめて考えるより、『伊勢物語』の表現法にも
見てとることのできるメタ言語的な捉え方に応じて、
「あなたはよく自分を『ふがいない』と感じますか」とした方が、
はるかに自然で、ドイツ語の原文の表現にも近い解釈が導かれる
のではないだろうか。
0556考える名無しさん
垢版 |
2022/05/19(木) 20:19:38.820
>>555
言語表現をこのようにメタ言語的に捉えることができ、その捉え方が妥当である
ならば、すぐに応用が効く。

「この甲斐性なし!」という日本語の罵りの言葉を英語に訳すとしたら、
どのように表現するだろうか。「甲斐性なし」をネットの辞書で検索
すれば、いくらでも候補として提示される訳語はヒットする。しかし、
では、それらの候補とされる英語の表現は、「甲斐性なし」に適切に
対応するものであることはどのように保証されるのか。実際に提示
される英語の表現は、いずれも相手を罵る言葉なので、それなりに
適合しているようにも見えるが、それだけでは、「罵るために使われる
表現であることが共通しているに過ぎない」可能性がある。しかし、
私が上に示したメタ言語的な捉え方によれば、
>「この甲斐性なし!」⇔"You're such a disappointment!"
という対応関係を直ちに導くことができ、なおかつ、日本語、英語
それぞれの表現を構成している論理からその妥当性を容易に説明する
ことができる。
0557考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:28:21.190
以下はWikipediaの"Enttäuschung"の項目からの引用

Das zugrundeliegende Verb enttäuschen wurde im 19. Jahrhundert als
erfolgreiches Ersatzwort für die aus der französischen Sprache entlehnten
Fremdwörter „detrompieren“ (détromper) und „desabusieren“ (désabuser)
gebildet.

Es hatte zunächst die positive Bedeutung „aus einer Täuschung
herausreißen“, „eines Besseren belehren“, eine Desillusion.

Der negativen Bedeutung von „täuschen“ folgend, entwickelte sich der
negative Sinngehalt als „einer Erwartung nicht entsprechen“.
0558考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:44:43.640
「言葉遊び」という表現を、発言の無効性を非難する否定的な評価として
しかつか(仕/使)ふことのできない人々は、»Enttäuschung«についても、
いつでもその片面においてしか捉えることができないだろう。
しかし、理性とは、本来的に感性の働きを節約することに他ならず、
それは、臨機応変に目的に応じて「違いがないものと見做す」ことであり、
「意図的に『まがふ』」ことなのだ。それ故、理性に従ってそのように
「まがふ」ことにしたものを、単に惰性により「違いがないものと見做す」
ことにするならば、手酷い»Enttäuschung«に遭うことになるだろう。
0559考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:55:24.200
生きることそのものが、試行錯誤による探索活動である。

袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
《Vivre c'est le chassé-croisé de ceux qui pourraient être soi-même.》
(勝手な解釈による自己流の仏語作文なので、適切な訳になっているかどうか、
仏文として通用するものとなっているかどうかは知らない)
0560考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 07:28:47.820
「互(た・が(交))ひ違(ち・が(交))ひ」だからこそ、その交叉において
触れ合いが生じる。そのような触れ合いの作用点("disappointment"の
"appointment"である)が、日本語においては、「か」の発音によって
代表される。
0561考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 07:42:16.410
例えば、次の松尾芭蕉の表現を、「漢語」も含め、日本語として用いられる
「か」の発音に注目しながら、読んでみるといい。

>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、
春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、
笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家

『おくのほそ道』
0562考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 09:57:47.430
>>560
ここで、「か(交)ふ」において、「か」が「『交叉における』触れ合いの作用点」
として現れることは、この場合、「か(交)ふ」の「〜ふ」が相互性を表すように
用いられている再帰性の指示であることにも留意しよう。すると、この場合も、
「か」そのものは、「かろ(軽)し」、「か(枯)れ」、「か(香)」、「か(蚊)」
などに関連して以前から説明してきたとおり、瞬間的に触れて離れる様態
としての"touch and go"としてイメージされることになる。
0563考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 10:18:42.960
ここで、ドイツ語の»Enttäuschung«を形成する動詞の»täuschen«は、
「交換する」ことを意味する»tauschen«と同根の語とされ、»tauschen«
そのものはフランス語の《toucher》(英語の"touch"に対応する)の
借用に語源が求められるとされることにも注目される。

>Etymology
Borrowed in the 16th century from Middle French toucher (“touch”),
from Vulgar Latin *toccāre, *tuccāre (“to beat”).
Doublet of touchieren. Compare Italian toccare. < 
(Wiktionary, "tuschen"の項目から引用)
0564考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 10:53:05.350
このように見てくると、日本語の表現を説明するために私が行っている
メタ言語的な記述は、何か独特の特殊な手続きではなく、辞書の記載が
通常、同一言語の枠内、またはせいぜい同系統とされる諸言語の枠内
で行っているような記述を、そのような枠組みを離れて、互いに関係
の明らかではない複数の言語の表現を用いて行っているに過ぎないこと
が分かるだろう。

日本語において「かむか(考)ふ」とは、「かむ(神)・か(交)ふ」こと
であり、「かむか(考)ふ」という行為そのものが、その発音からも
推察されるとおり、「『交叉における』触れ合いの作用点」を探索
することを要求する。この場合、「かむ(神)」は、以前から指摘して
きたとおり、鏡を意味する中国語の「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」
の語末を開音節に移して借用したものであると私は考えている。
ただし、「かむ(神)」は、単に「鑒」の発音とそれに関連付けられた
概念を借用したに過ぎないものではなく、日本語として移植される
ことに伴って、「か・(ま、み、む、め、も)」の系列において「ま行」
の活用に関連付けられて、累加する内的な反響作用のようなイメージを
想起させる表現となっている。
0565考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 11:56:04.990
>>562
誤:指示であることにも留意しよう
正:指示によるものであることにも留意しよう
0566考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:08:31.790
>>562
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる。

このような記述をすると、必ずすぐに、「いくらでも例外が見つかるので、
そのような対応関係は認められず、恣意的に関連付けているだけだ」とか、
「別の言語では、同様の発音が別のイメージに関連付けれ、同様のイメージ
が別の発音に関連付けられているので、擬音語や擬態語を例外として、
そのような対応関係について推論することは意味がない」といった類の、
あたかも記述が発音とそれが想起させるイメージの1対1対応を主張して
いるかのように誤解しようとする人々が大勢出てくる。だが、
「1対1対応を主張」を前提としているのは、そのような人々の思い込み
の方にしかなく、しかも、自らが暗黙にそれを規範として前提として
しまっているからこそ、系統が異なるとされる別言語の間の、発音
を含めた表現上の類似性を見てとることができなくなるのである。
0567考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:15:45.120
例えば、
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる
という具体例に関して、フランス語の表現について考えた場合、そのように
イメージされた日本語の「か」に対応するものとして私にすぐに想起される
のは、《sec》(クラウン仏和辞典から対応する訳語を引用すると、「乾いた」、
「乾燥した」、「かさかさの」、「(伴うべきものが)伴っていない」、
「素気ない」、「手加減のない」、「辛口の」など)という表現であり、
その発音である。
0568考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:24:16.300
>>567
フランス語の《sec》という表現が想起させるイメージが、日本語では「か」を
用いた表現が想起させるイメージによく対応していることは、誰でも容易に見て
とることができるだろう。それでも《sec》という発音と「か」という発音が
特に互いによく似ているというわけではない。

ところで、《sec》は、ワインが「辛口」であることを形容することにも
使われるが、日本語では、酒について「キレの良い辛口」と表現すること
がよくある。
0569考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:36:01.220
逆に日本語の「キレの良い辛口」という表現から、フランス語の《sec》に
ついて考えるなら、「キレの良い」イメージに関連して、《sec》と発音
が重なり、「切断」を意味して、英語にも取り込まれている《section》
という表現が直ちに連想される。

そこで、《sec》と《section》のそれぞれの語源を調べてみると、《sec》
の方は、ラテン語の"siccus"、印欧祖語として想定される"*seyk-"に由来
するとされ、《section》の方は、ラテン語の"secō (“to cut”) +‎ -tiō"、
印欧祖語として想定される"*sek-"に由来するとされ(Wiktionaryの記載に
よる)、これらの2つの語源は、互いに関連付けられてはいない。
0570考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:44:44.640
では、《sec》と《section》は、想定される語源が異なるので、互いに
無関係なのだろうか。私にはそのようには思えない。なぜそのようには
思えないかと言えば、それは、日本語において「キレの良い辛口」という
表現が自然であると感じられるように、「キレの良さ」に関連づけられる
《section》と、「辛口」に関連付けられる《sec》は、その発音の重なり
からも、互いに自然に結びついてイメージされてきただろうと考えられる
からである。
0571考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:58:08.700
さて、ここで
>ラテン語の"secō (“to cut”) +‎ -tiō"
に注目すると、例えば、スペイン語では、"seco"は、「乾いた」を表現
する形容詞として用いられ、語源的には、"secō (“to cut”) +‎ -tiō"から
ではなく、やはり"siccus"に由来するとされる。ところで、ラテン語の
"secō"にここで当てられている英語は、"to cut"であり、スペイン語の
"seco"に通常、当てられる英語は、"dry"であるが、英語にはそのまま
"cut-and-dry"というよく使われる常套句があり、問題が「単純に
割り切れる」かどうかという文脈でよく使われる。
0572考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 11:40:51.100
>>567-571
日本語の「か」の発音のイメージから出発して、このようにフランス語、ラテン語、
フランス語、英語などの表現を参照してみると、そこで共通して用いられている
のが"k"の発音であることに気づく。「き(切)る」という日本語と英語の"to cut"
の場合でも、"k"の発音が共通している。これは、偶然に過ぎないのだろうか。
私はそうは思わない。日本語において、「く」や「こ」の発音の要素として
、暗い母音と一緒に"k"が用いられる場合には、"k"は「求心性」をイメージ
させることになるが、日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。

例えば、日本語の「か(交)ひ」とフランス語/英語の《intersection》/
"intersection"の対応関係を考えてみるといい。この場合、フランス語/
英語の《inter-》/"inter-"は、日本語の「〜ふ」に対応するように
相互性を表現し、語源的には「切断」を表現する《section》/"section"
は、日本語の「か」に対応していることになるが、《section》/"section"
は、「切断」をイメージさせるだけでなく、互いに交差点で瞬間的に
交はる/"to cross"ことによって瞬間的に触れた後、再び離れることを
イメージさせているはずである。
0573考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 11:49:05.740
誤:このようにフランス語、ラテン語、フランス語、英語などの表現を
正:このようにフランス語、ラテン語、スペイン語語、英語などの表現を
0575考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 13:50:50.070
ある作用の様態のイメージを想起させるようにある発音が、異なる複数の
言語において互いに類似した用いられ方をしているという指摘が、
そのような対応関係の必然性(即ち、1対1の関係)は認められないという
批判を呼ぶことは、それ自体、興味深い問題である。そのような批判を
する人々は、なぜか、そのような対応関係の指摘は、自動的で、機械的
でなければならないという規範を前提としているのだ。しかし、例えば、
生物の身体が、共通性の認められる分子構造を用いている場合に、その
機能を特定するのにそのような規範が前提として成立しないことは言う
までもなく、共通性の見られる物理的な構造とその機能の場合ですら、
そのような前提は規範として成立しない。例えば、軸を中心に複数の
羽がついている構造が存在したとして、それが扇風機の羽に似ている
ことは、その構造体が必然的に扇風機の部品として使用されることなど
意味しない。そのような構造は、風速を測るための風車、風力を利用
して穀物を粉に挽くための風車、回転させて前進する推進力を得る
ためのプロペラ、上昇するためのローター、落下の速度を緩和する
ためのローターなど様々な用途に用いられ、軸を中心に複数の
羽がついている構造が共通しているからといって、それが使われる
機能が1つに決まるわけではない。また、逆にそれが使われる機能が
多用だからといって、その構造の作用の様態の共通性を探ることが
無意味になるわけでもないだろう。
0576考える名無しさん
垢版 |
2022/05/25(水) 09:26:57.710
Chloé
Chasser Croiser – Le Surréel et son écho (livre / CD)

この本、値段が高いから買おうとは思わないけど、面白そうな気がする。
気がするだけで、内容を見たわけではないので分からないが。
0577考える名無しさん
垢版 |
2022/05/25(水) 09:30:00.160
具体性、即ち、体(からだ)を具えた性質とは、
生きることの《chasser croiser》によって形成された意味の多層性である。
0578客人(たびびと)/"guest"としての各自(かくじ)
垢版 |
2022/05/26(木) 09:41:39.230
>>561
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。 <

日本で学校教育を受けた人ならば、その多くが触れたことがあり、
万葉集の歌などと比べれば、現代の日本語の表現との隔たりもそれほど
大きくないため、それなりに理解していると感じているものと思われる
この『おくのほそ道』 の序文の表現も、一般に、その解釈に根本的な
「捉え損ね」が潜んでいるだろうと、私には思われる。というのも、
私自身が、その「捉え損ね」を、これまで特に意識することのなかった
一般の人々のうちの一人だからである。この「捉え損ね」は、「たび」
とはどのような表現であるかにかかわり、また引用した文における
「過客」という表現の"k"の発音の用法にもかかわる。
0579考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:05:50.000
現代の日本語の用法においてほぼ例外なく「旅」という漢字が当てられる「たび」
という表現に、現代の日本語を母語とする人々はどのようなイメージを思い浮か
べるだろうか。「旅立ち」や「旅と別れ」など「たび(旅)」は「立ち去る」こと
と結び付けてイメージされることが多く、「たび」という表現を聞いて一般に
人々が想起するのは、「旅(たび)に出かける」ことだろう。

しかし、古代からの日本語の「たび」の捉え方がそのようなものではなかった
ことは、まず間違いないことだろうと私には思われる。というのも、「たび」は、
「出かけて行く」ものとしてではなく、「たび」に「ある」ものとして
捉えられているからだ。私に言はせるなら、「旅(たび)」に「出かけて行く」
という捉え方がされるようになったことそのものが、「たび」の物象化
である。では、「『たび』に『ある』」とはどのようなことだろうか。
それは、芭蕉の表現にそのまま見られるとおり、「自らが『過客』としてある」
ことである。

まずは、万葉集の歌を確認してみるといい。多くの歌で「たび」が詠まれている
が、そのかなりの割合において、「たび」に当てられている漢字は、「客」、
つまり、英語で表現するなら"guest"である。したがって、「たび」の「別れ」
が詠まれている場合、それは「一時、訪れて、また離れる」ことを表現して
いるものと考えることができる。このことから私に直ちに推測されるのは、
「たび(客)」は、「〜する『たび』に」という表現と語源を同じくする、
「た」によって「接触」を表現した「た・ふ」に由来する再帰表現ではないか
ということである。
0580考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:19:45.160
無論、「『たび』に『ある』」ならば、妻子とは、離ればなれになった境遇
に置かれている。しかし、それを「たび」によって妻子と別れることになった
と理解するのは、誤りだろうと私は考える。なぜなら、「たび」を形容する
決まり文句として「草枕」が用いられることからも明白なとおり、「たび」
という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」
だからである。

ここで私にすぐに連想されるのは、スペイン語の"tocar"という表現だ。
"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は〜」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。
0581考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:26:18.980
実際、「たび」という表現についてこのようにイメージすると、現代の
日本語においても、通常は、訪れるものとして意識される「月日」や
「年月」がなぜ、
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
として、「たびびと」、即ち、「客(たび)人(人)」に喩えられるのか、
よりよく理解できるようになるのではないだろうか。
0582考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:27:08.690
誤:「客(たび)人(人)」
正:「客(たび)人(ひと)」
0583考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:34:31.040
日本語の「か」の発音について、上で次のようにしてきした。

>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる

>日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。<

これに関連して、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 」という
表現において、芭蕉がいかにうまく、日本語の「か」の発音を活用しているか
についても、気づくはずである。
0584考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:43:48.540

不法侵入
0585考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:53:54.460
人に休みを与えない
首無しのデブ
こいつは何様なんだろう
支配者ごっこでもしてるのかな
0586考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 11:58:28.280
passerby as oneself
0587考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 12:09:53.400
This is good thing.
0588考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 13:18:39.570
人はコンテンツでもなければ
イノベーションを産み出すツールでもない
相手の中にそれを探すこと自体が
人間に対する冒涜である
人は想いでしか動かない
0589考える名無しさん
垢版 |
2022/05/27(金) 07:54:58.990
>>578
>その解釈に根本的な「捉え損ね」が潜んでいるだろう

「捉え損ね」は、表現の語源が明らかとなっている場合にさえ、容易に生じ得る。
例えば、英語の"visitor"の語源をonline etymology dictionaryで検索してみると、
次のように記載されている。
>visit (v.)
c. 1200, "come to (a person) to comfort or benefit," from Old French
visiter "to visit; inspect, examine; afflict" (12c.) and directly from
Latin visitare "to go to see, come to inspect," frequentative of visere
"behold, visit" (a person or place), from past participle stem of videre
"to see, notice, observe" (from PIE root *weid- "to see").
Originally of the deity, later of pastors and doctors (c. 1300),
general sense of "pay a call" is from mid-13c.
0590考える名無しさん
垢版 |
2022/05/27(金) 08:22:14.100
"visitor"についてのこの語源説明では、それを「視察する」、「査察する」
といったような文脈で用いられたラテン語の"visitare"に関連付けて、
"visitor"を「視察者」もしくは「査察者」として限定して解釈している。
しかし、そのような限定した解釈は妥当だろうか。無論、"visitare"が
そのような文脈で使われた場合、それを「視察者」もしくは「査察者」
として理解することは妥当である。日本語でも、訪れる人を「物見遊山」
の「見物客」とする捉え方がある。しかし、「一見さん」と表現する
場合はどうだろうか。「一見さん」という表現がやはり「見る」行為に
語源を辿ることは間違いないものの、「見る」行為の主体がどちらの側
にあるのかはそれほどはっきりしない。さらに、訪問客を「お見えの方」
と表現する場合にはもやは、「客」は、「見る」行為の主体ではなく、
そこに「見ゆ」存在である。

私はここでなにも、"visitor"の語源としての「見る」行為を、原理的に
「見ゆ」という中動態に戻して解釈すべきであるというようなことを
主張したいわけではない。しかし、この場合も、「見る」行為の主体を
一方的に訪問してくる側に帰するように限定することはできないだろう
と思われる。上に引用した"visitor"の語源説明では、"Originally of the
deity"と明記されている。するとその場合、やはり、その"deity"を、
「見に来る」存在として捉えるより、訪れて「姿を『見せる』」存在、
もしくは「姿が『見える』」存在、つまり、「お見えになる方」として
捉える方が自然ではないかと私には思われる。
0591考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:17:52.180
万葉集の歌に詠まれた「たび」には、その多くの事例において「客」と
いう漢字が当てられている。だから、現代語の日本語の「旅(たび)」
という表現も、その語源を辿るなら、「客人(きゃくじん/たびびと)」が
「この『たび(度)』はお世話になります」と挨拶するときの「たび(度)」
と同じであると説明したら、人々はどのように反応するだろうか。

人文学系の専門家を含め、その多くは、そんなものはただの語呂合わせ
による「言葉遊び」に過ぎず、根拠が不明で何の意味もないと反発する
人が多いのではないだろうか。それでも引き下がらずに、スペイン語で
「接触する」ことを意味する"tocar"という動詞の"tocar (a+人)"という
形で「(人に)番が回る」ことを意味する用法を説明したとしても、
「たび」の"ta"の"t"と"tocar"の"t"の発音が重なっているだけで、
スペイン語と日本語に何の関係があるのかと、多くの人はそのような
説明に対して不満を露わにして、何の理解も示そうとはしないだろう。
0592考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:31:30.720
ところで、「旅(たび)」に対応する英語の表現はなんだろうか。
「旅」の漢字でWiktionaryの項目を参照すると、日本語の「旅(たび)」に
対応する英語として、以下のように記載されている。
a journey; travel
(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)

また、その語源について、
>May be cognate with 度 (tabi, “the time when something happens”);
both terms have the same pitch accent, the same ancient vowel values,
and some semantic overlap. <
と記載され、私の指摘と同じく(私は、事前にこの記載について知っていた
わけではない)「たび(旅)」と「たび(度)」が語源的に関係している可能性が示唆
されているが、その示唆は、これらの表現の発音が重なっているという理由に
依るものにとどまっている。
0593考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:39:10.460
さらに、この項目では、「旅(たび/りょ)」を用いる熟語がその英訳とともに
次のとおり列挙されている。

旅先 (tabisaki, “destination”)
旅路 (tabiji, “route, itinerary; journey”)
旅立ち (tabidachi, “departure (on a trip)”)
旅券 (ryoken, “passport”)
旅行 (ryokō, “trip, travel, voyage”)
旅団 (ryodan, “brigade”)
0594考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:49:35.670
しかし、「旅」の漢字のWiktionaryの項目における記載からは、私に言は
せれば、日本語の「たび(旅)」という表現に対して、簡潔でありながらも、
最も適切である、そのまま対応する英語の表現の記載が欠落している。
それは、旅行を表すのに最も一般的な和製英語として日本語としても
完全に定着している「ツアー」、即ち、"tour"である。

したがって、逆に言えば、その表現の用法にどのような限定を加える
にせよ、「ツアー」/"tour"が日本語の「たび(旅)」という表現に対応する
ことを否認できる日本語の話者はいないはずだろう。
0595考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:03:09.850
さて、では、ここで"tour"の語源をonline etymology dictionaryで検索して
みよう。すると、次のように記載されている。
>tour (n.)
c. 1300, "a turn, a shift on duty," from Old French tor, tourn,
tourn "a turn, trick, round, circuit, circumference," from torner,
tourner "to turn" (see turn (v.)).

もう誰もが気づくはずである。それは、私が既に次のように指摘して
いることだ。

>"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は〜」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。<

そう、スペイン語の"tocar (a+人)"という形における"tocar"は、
英語の"turn"に対応するように「巡(めぐ)り合はせ」/"turn"において、
「この『たび(度)』は」当(="tocar")番/"turn"となることを表現して
いるのである。
0596考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:24:54.380
「たび(旅/客)」と「たび(度)」が語源的に共通であることを示すのに、
これ以上の説明はもはや必要ないだろう。またそれと同時に、
「旅(たび)に出かける」という表現がなぜ、「たび(旅/客)」の本来的な
捉え方であるよりも、むしろ、その物象化であると考えられるのかも、
もはや容易に理解できるはずである。英語の"a tour"が「各所を巡ること」
を表現しているのだから、「ツアー/旅(たび)に出かける」とは、
本来は、"go for a tour"に対応しているはずであり、"to tour"/「各所
を巡る」ことの方が、もともとの「「ツアー/旅(たび)する」行為である
と考えられるはずのものなのである。そして、「たびびと(旅/客人)」
とは、「ツアー/旅(たび)に出かける人」であるよりも先にまず、
それが本人であっても、「巡って来る人」としてあることなのである。
0597考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:42:23.850
ここで、より一般的で重要なこととして、「旅」の項目でWiktionaryに
記載される説明と照らし合わせると、私を導いた推論が極めて強力で
有効なものであったことにも気づかされる。それは、私が次のように
指摘したことと関連している。

>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」だからである。 <

私は、「たび」についての推論を書き込むにあたり、事前にWiktionaryの
記載を参照していたわけではなかった。したがって、そこに記載される
日本語の「たび」という表現の以下の用法についても知らなかった。

>(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)<

にもかからわず、「たび」という発音からその表現の用法の検討は、推論により、
この用法にもそのまま適合するイメージに私を導く結果となっている。
このことは、方法論的にとても重要であると私には思われる。
0598考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 13:16:00.720
ちなみに、「トラベル」/"travel"は、「わた(渡)り」であって、「たび」ではない。
0599考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 14:13:38.350
人文系の何らかの研究分野を職業的に専門としているわけでもない一般人
として私は、この場合の「たび」のように、普通、人が当たり前に理解でき
ているものと感じている言葉の表現についても、尋常でないほどよく
辞書を調べる。ただし、それは、例えば、「たび」の項目の辞書の記載を
網羅的に調べるということではなく、「たび」によって「私に連想される
表現」を、それが日本語であるか他の外国の言語であるかに否かに
かかわらず、思いつくままに検索して参照するということである。

その一方で、私は、英語で書かれたものは言うまでもなく、自分が教育を
受けたことのない言語で書かれた原書でも、ほとんどまったく辞書を
引くことなしに読む、というより、目を通すことを習慣としている。
「読む、というより、目を通す」というのは、私はそれらの書物で
用いられている言語をまともに学習していないので、当然のことながら、
辞書を引かない以上、その多くの部分は、まったくその内容が不明な
場合も多く、私には、読んでいると言えるほどよく理解できないから
である。だったら、その原書が日本語に翻訳されて出版されている場合
には、無理をせずに日本語の翻訳で読めばいいではないか、と思われる
かもしれないが、ことはそう単純ではない。なぜなら、原書で読んで
分からないものを日本語で読めばよく分かるかと言えば、必ずしも
そうはならないからだ。そこには、万葉集の歌を現代語訳で読めば、
歌に何がどのように詠まれているかがよく分かるようになるか、という
のと同じ問題がある。
0600考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 14:40:42.630
例えば、私は、ドイツ語の教育を受けたことがないので、私のドイツ語の
能力は初歩的なものに過ぎない。それでも、私は、ニーチェの著作を
だいぶ以前に日本語の翻訳だけで読んだときには、その表現が支離滅裂に
感じられ、全体として何を言いたいのかさっぱり理解できず、途中で
読むことを放棄してしまった。しかし、その著作を翻訳で読もうとした
ことがあったことさえ忘れるほど時がたってから、原著のドイツ語に
目を通して見ると、多くの記述は、私自身の言語能力の不足から不明
のままでありながら、所々、あたかも最初から私の母語としての日本語
で書かれているかのように、何をどのように表現しているのかが
よく伝わるように感じられた。ところが、私の理解が適切であるのか
どうかを確かめようと、日本語訳を借りてきて当該の箇所を確認して
みると、やはり私にはさっぱり分からない日本語で表現されている
のである。
0601考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:14:16.060
ここには、方法論的に重大な問題がある。私は、英語を学習するのにも、
ごくたまにしか辞書を引くことがなかった中学生時代を別にして、
英和辞典を使ったことがほとんどない。高校、大学時代のまた一冊の本を
読み通すことが難しいほどの英語力しかない頃から、辞書を引くとすれば、
専ら英英辞典しか参照することがなかった。

基本的な英単語の知識すら不十分なのに、英和辞典を引こうとしないことは、
はるかに英語力のある人々から見れば、「怠惰」、「反抗」、「思い上がり」
の現れである「不遜な態度」であると評価されるのが普通だろう。しかし、
私自身の感覚では、英和辞典を使用することに「拒否反応」が生じること
は、その当時は、言葉でうまく説明できなかったとしても、そのようなもの
ではなかった。学習の初歩の段階で、英和辞典を引くことは、英語の表現に
対応するものとされる日本語の表現を参照することであり、その対応関係
を記憶する作業を要求されることになるのである。これは、「たび」という
表現を例にとって、逆方向で考えるなら、その表現の意味と用法を理解する
のに、「たび」⇔"trip", "travel", "journey", "voyage"を対応関係として
暗記するようなことであり、あらゆる表現について、これを反復作業として
繰り返して、対応関係の知識を蓄積することに他ならない。しかし、
この作業をいくら熱心に繰り返したところで、
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」<であるというような理解はもたらされない。
したがって、「行かふ年も又旅人也」のような極めて単純な表現を適切に
解釈するのにさえ役には立たないことになる。言い換えるなら、
どう理解してよいのかまだよく分からない表現に、既に理解されている
明確な表現を対応させて暗記することにより、「よく分からないことが
既によく分かっていることにされてしまう」のであり、「よく分からない」
という感覚を表明すること自体が抑圧されるのだ。
0602考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:32:46.480
しかし、一般の人々は、「よく分からないことが既によく分かっている
ことにされてしまい」、「よく分からない」という感覚を表明すること
自体が抑圧されることを、むしろ、好ましいと感じているように私には
見える。その一方で、「よく分からないことを、よく分からないこと
として明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことを著しく嫌う。

これに対して、私自身の性格は、その真逆なのである。私は、
「よく分からないことが既によく分かっていることにされてしまう」
のを嫌い、「分からない」という感覚を表明するのを抑圧される
ことに対する耐性が低く、「よく分からないことを、よく分から
ないこととして明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことが
できることを、むしろ好ましいと感じるのである。だからこそ、
ろくに学習したこともない言語で書かれ、その多くの部分がまるで
理解できない内容の本に、まるでその本が読めるかのように、
分からないことは分からないままに目を通すことに何の苦痛も
感じないのだ。世の中のほとんどのことは、私にはよく分からない
ことが定常であると認識しているので、何らかの手がかりに遭遇
して、時たま、よく分かるという状況が生じるなら、私にとって
は、それでよいのである。
0603考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:47:28.680
古語辞典の記載に対する私の不満も、英和辞典を使用することに対する
拒否反応と同じ類のものである。「梅を『をく』」という表現のおける
「をく」に「招(まね)く」という現代語が与えられても、私には少しも
「をく」という表現がよく理解できるようになったとは感じられないの
である。「をく」が、「梅の木の花を咲かせようとする意」に対する
「誘い」、つまり、「〜したくありませんか」と呼びかけること、
この場合には、「花を咲かせたくありまんせんか」と呼びかけること
とメタ言語的に記述することができて初めて、私にはその表現が
理解できるようになったと感じられる。そのようなメタ言語的な記述
がうまく行われているのが、優れた英英辞典である。
0604塩なめくじ
垢版 |
2022/05/28(土) 16:11:21.20ID:iemXpYDa0
誤:「花を咲かせたくありまんせんか」
正:「花を咲かせたくありませんか」
0605考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 16:45:11.060
訂正してくれてありがとう。でも、私は「塩なめくじ」ではありません。
0606考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:06:59.110
万葉集の歌で日本語の古語の「たび」という表現に「客」という漢字が
当てられていることからも窺い知ることができるように、「たび」は、
漢語の「客」にそれなりに対応する表現として意識されたのだろうと
思われる。

ここで中国における漢字の「客」の用法を漢語詞典で検索してみると、
「客鳥」という表現があり、その「詳細釋義」として次のように記載
されている。
>外地飛來的鳥。多喻旅人。
>晉 王贊 《雜詩》:“人情懷舊鄉,客鳥思故林。” 唐 鮑溶 《鳴雁行》

私は中国語も漢語も読めないので、適当な憶測だが、「多喻旅人」
というのは、おそらく「客鳥」という表現が「旅人」の喩えとして
用いられることが多いということだろう。「外地飛來的鳥」は、
現代の普通の日本語では、「渡(わたり)り鳥(どり)」と呼ばれること
になるのではないかと思うので、「客鳥」は、現代の日本語では、
「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。
0607考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:11:00.430
ところで、日本語における鳥類の分類としては、「渡(わた)り鳥(どり)」
とは区別されて用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という分類があるらしい。

日本大百科全書(ニッポニカ)「旅鳥」の解説
>旅鳥 たびどり transient passage migrant
ある一つの地域でみられる鳥のなかで、毎年規則的にある季節にのみ現れて、
その地域では繁殖も越冬もしないものをいう。旅鳥は、普通は春と秋、
またはその片方だけに出現する。
[浦本昌紀]<
0608考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:26:33.570
>「客鳥」は、現代の日本語では、「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。

このように指摘したが、「渡り鳥」の「渡(わた)り」という表現は、元の
漢語の「客」が表現しているイメージにそれほどうまく対応しているわけではない。
無論、「渡(わた)り」は、古くからよく、「離れたところから渡って来る」ことを
想起させるように用いらてきたわけだが、その意味の中核は、「距離をまたぐ」
ことにあるのであって、「渡り鳥」は、「客」のように訪れないで「上空を渡り
ゆく」だけでも、「渡り鳥」であることに違いはない。これに対して、「客鳥」
という表現の方は、明らかに「客のように飛来してきて一時的に留まる」
イメージを想起させるはずである。そのように考えた場合、日本語ので鳥類
の分類に用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という表現の方が、漢語の「客鳥」
にうまく対応していると言える。私は、この「旅(たび)鳥(どり)」という表現
がいつからどのように用いられるようになったものなのか知らないが、
この表現における「旅(たび)」の用法は、古語の日本語の「たび(客)」
の用法をそのままうまく受け継いでいる/反映していると見ることができる。
0610客/旅(たび)鳥(どり)のように行き来する
垢版 |
2022/05/31(火) 11:36:17.280
vogelfrei
Etymology
15th century, from Vogel (“bird”) +‎ frei (“free”). The earliest use was of
persons who were free from feudal obligation and thus enjoyed freedom
of movement. It seems plausible that the use for “outlawed” may be
based on this, in the sense that the outlaw is forced ever to move from
place to place.
0611外れ者
垢版 |
2022/06/01(水) 07:55:29.970
ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる。そのように
理解すると、万葉集において「『たび(客/旅)』にある」ことを形容する
決まり文句として詠まれる「草枕(くさまくら)」が、案外、ドイツ語の
»vogelfrei«によって想起されるイメージと近い感覚を伝へようとしている
ことが分かる。「たび(客/旅」の途中で命を落とした人の姿を見て詠まれた
次の歌は、その「草枕」のイメージの応用である。

万葉集 第13巻 3336番
鳥が音の 聞こゆる海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし
ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば
家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言だにとはず
思へども 悲しきものは 世間にぞある 世間にぞある
0612考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 09:58:51.080
»vogelfrei«を日本語のサイトで検索すると、以下の辞書の記載がヒットする。
>vo・gel•frei, [fóːɡəlfraI]
>[形] (付)(述)〔歴史〕 法の保護を奪われた,アウトローの.
出典 プログレッシブ 独和辞典

私自身はTwitterのアカウントをもっていないが、以前にTwitterを眺めていると、
辞書を引かず、きちんとした教師の指導を受けることなく外国語を読んで
分かったつもりでいると、例えば、ドイツ語で»vogelfrei«は、
「法の保護を奪われた」を意味するように用いられているのに、それを
「鳥のように自由」として完全に間違って理解してしまうようなことがある
のでとても危ういといったような「助言」を見かけたことがある。
私自身は、既に述べたとおり、まともに学習したこともない言語で書かれた
外国の本をまるで辞書を引くことなく「読んでいるつもりで目を通す」ことを
習慣としているので、そのような「助言」に、「月明かりのない暗い夜道
を歩くときには、せいぜい気を付けることだな」といった類の「助言」
だか「忠告」だかよく分からない言葉をかけられるのに似た「気味の悪さ」
を覚えたものである。しかし、私は、そのような「助言」は、それを
その言葉通りに「善意」として受け取るとしても、正直に言わせてもらえば、
とても「浅はか」だと思う。
0613考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 10:21:55.410
なぜそのような考え方が「浅はか」であると思うのかといえば、それは、
そのような「助言」に従うことによって導かれるのが、»vogelfrei«という
ドイツ語の表現に「法の保護を奪われた」という日本語の表現を「自動的/
機械的に対応させることを覚える」ことに他ならないからである。
その結果、»vogelfrei«という表現が、「法の保護を奪われた」
といった文脈で用いられている場合、確かにそれを「正しく訳す」ことが
できるようになるだろう。しかし、そのように「正しく訳す」ことを何度、
繰り返したところで、ドイツ語の»vogelfrei«が表現として想起させる
イメージが、日本語の「草枕」が想起させるものと類似していることなど、
まったく思いも寄らないということになり、それどころか、その類似性
を明示的に指摘されても、何がどのように類似していると指摘しているのか
見当もつかないということになる。そのような結果に導かれることは、
»vogelfrei«に「法の保護を奪われた」という日本語訳が対応するという
説明に対する反応として、(「鳥の自由」と直訳できる)»vogelfrei«が
「法の保護を奪われた」という意味になるなんて「日本(語)の常識と
はまったく考え方が違う」といったような感想がそのまま受け入れられ
ていたことにもはっきりと見てとることができる。
0614考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 10:40:57.090
簡単なことを長々と説明することはやめておこう。
>ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往)』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる<

ここで「ゆ」くの「ゆ」には、「往」の漢字を当てたが、この場合も、もともと
中国語の表現を流用したものであると考えられる日本語としての「ゆ」は、
古語の「〜ゆ(由)」の「ゆ」、「自由」の「由」と同じものである。
したがって、ドイツ語の»vogelfrei«に「たび(客/旅)どり(鳥)のようにゆ(由)く」
を対応させた場合、違っているのは、ドイツ語の表現では暗黙の前提と
なっている「たび(客/旅)」が省略されているか否かだけということになり、
そのように「つれない身」であるという感覚は、万葉集の時代の日本語に
おいてであれ、現代の日本語においてであれ、そのまま通用するものであり、
何らドイツ語の表現に限定されるものではない。

言語表現の意味を理解しようとするのに辞書の記載による説明と対応関係に
ばかり拘っている人は、言葉の意味とは、或る言葉と別の言葉の自動的/
機械的な対応関係を確定することだと思い込んでいる。しかし、
言語表現の意味を適切に解釈するとは、そのようなことではなく、
言葉による表現を手掛かりとして利用して、自らにとっての世界の在り方を
探求して、手応えを探り当てることなのである。
0616考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:08:52.140
「梅を『をく』」という表現において用いられる日本語の古語の「をく」
という動詞は、それを日本語の別の言葉でメタ言語的に説明することが
必要とされるにしても、まずは、ドイツ語の»hervorrufen«に対応する
ものと考えると、とても分かりやすい。

her・vor|ru・fen*, [..ruːfən]
[動] (200) (他) (h)
❶ ((j4))(…4を)呼び出す;(演奏者・俳優など4に)カーテンコールをする.
❷ ((et4))(ある結果4を)呼び〈引き〉起こす
Empörung hervorrufen\憤激を招く.
出典 プログレッシブ 独和辞典
0617考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:20:43.270
>>611
万葉集 第13巻 3343番
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
0618考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:45:38.450
>>616
そのような解釈の妥当性は、それを実際に言語表現として適用してみることで
直ちに検証することができる。

言語表現において発音はまずなによりも、発話の意にそ(沿)ふような
感性の働き「を」「をく」/»hervorrufen«ためにつか(使/仕)はれる。
0619考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:48:39.010
死者を蘇らせることはできないが、死語に働いていたはずの感性を
妥当な解釈を通じて呼び覚ますことにより、死語を蘇らせることはできる。
0620考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:58:01.770
だからこそ、新たに古文書を発見するまでもなく、既に残されている言語表現を
よりよく分かるように解釈しようとする試みは、歴史修正主義の批判などを
持ち出すまでもなく、本来的に「ゆゆ(忌々/由々)しき」ふるま(振舞)ひである。
0621神し恨めし
垢版 |
2022/06/03(金) 08:57:36.460
>>611
第13巻 3346番
>見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む
こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし
草枕 この旅の日に 妻放くべしや
0622考える名無しさん
垢版 |
2022/06/03(金) 09:23:22.560
>>617
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも

これは、入り江の浜の波打ち際に屍(しかばね)が横たわっている
情景を詠んだ歌である。この歌の表現に働いている感性の論理は、
次のようなものだろうと私には思える。

入り江の浜の波打ち際に(死体として)横たわっている君が(=)
家路を知らない旅人であるとすれば、(それを目にしながら
通り過ぎる)旅人である我は、(我も家路を知らないとすれば)
君であり得る存在である。
0623考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 07:52:33.080
>>597
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」

万葉集 第20巻 4348番
>たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
0624考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 09:38:10.430
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、そこに見られる表現から
ふと日本語の古語の不明な表現の可能な解釈が思い浮かんだ。その日本語の
古語の表現というのが、上に引用した万葉集の歌にも詠まれている
「たらちねの」である。その解釈が妥当なものであるかどうかは別として、
なぜ、私がまともに学んだことすらないドイツ語の表現を見て、直接には
何の関係もない日本語の古語の表現の解釈を思い浮かべることになるのか、
その連想のプロセスそのものが、私にとってはごく自然に感じられる、
言語表現の解釈を探求する手続きの具体例となるので、それを詳しく
記述してみよう。
0625考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:00:02.640
当該のゲーテの著作とは、"Dichtung und Wahrheit"であり、この著作は、
『詩と真実』として日本語に訳されている。私は、以前にこの『詩と真実』
を岩波文庫で読み通したことがあるので、その訳文は覚えていないものの、
どのようなことが書かれていたかについてはある程度の記憶が残っている。
したがって、この場合は(いつものことではない)、ドイツ語の原文に「目を
通している」と言っても、ドイツ語で書かれた内容についてまったく何の
手がかりもない状態でそれを眺めているわけではない。ただし、私は、
ドイツ語については、辞書というより、初心者用の英語−ドイツ語の
基礎語彙集としてのとても小さなポケット辞書を所持しているだけで、
それ以外に辞書を所有していない。また、インターネット上でドイツ語の
無料の辞書を利用することは可能だが、そのような辞書を検索しながら
ドイツ語の原文を読んでいるわけではない。

断っておくが、私は、ドイツ語を学習するのに他人がそのような方法を真似る
べきだなどと主張しているのではなく、ただ単に事実を述べているだけである。
ドイツ語をまともに身に付けたいなら、利用できる辞書が手元にあることが
望ましく、分からないと感じたことは、辞書であれ、ネット検索であれ、
何でも利用して、片っ端から調べた方が良いことは言うまでもない。
ただし、私は、辞書に記載される表現の対応関係を暗記するような学習法が、
表現の適切な解釈を導き出すのに役に立たないだろうという見解をもって
いることに変わりはない。
0626考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:15:14.060
さて、私がそれを見て、「たらちねの」という日本語の古語の表現の
解釈をふと思い浮かべた、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit"で用いられている
表現であるが、それは次のとおりだ。

>Mein Freund ließ mich ungern in dieser Einseitigkeit hingehen, von der
er mich nicht abzuziehen vermochte: denn ohngeachtet seiner
mannigfaltigen Studien wußte er doch die Hauptfrage nicht
ins Enge zu bringen.<
Quelle: Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.
Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 217-258.

誰がどうみても、ここに書かれていることは、「たらちねの」とはまったく
無関係である。では、この文の何が「たらちねの」の解釈を私に思い浮かべさせる
ことになったのか。それは、この文中の»ins Enge zu bringen«という表現
であり、より詳細には、この表現が、「たら『ち』ねの」の「ち」を含め、
「『ち』はやふる」、「『ち・ち』(父)」、「ち(血)」、「ち(乳)」、
「『ち』から(力)」、「いの『ち』(命)」、「こ『ち』ら」、「こ『ち』(東風)」
などで用いられる「ち」の発音によって想起されることになるイメージを
メタ言語的に記述するのにとてもうまく適合するように私には感じられたことである。
0627考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:42:48.190
私は、引用したドイツ語の文が日本語訳においてどのように訳されていたのか
覚えていない。また、それをどのように訳すことが適切であるのか、私自身、
よく判断がついているわけではない。それでも、自分が知っている英語の
表現からの類推により、»ins Enge zu bringen«の»ins«の»in«を"in"に、
»Enge«を"England"や"angle"に、»zu«を"to"に、»bringen«を"bring"
に関係付けて解釈しようとすることができる。そして、その解釈によって
もたらされるイメージは、それほど大きくずれたものではないだろうことを
当てにしている。では、その程度のいい加減な解釈によってもたらされる
イメージが、なぜ日本語において「ち」の発音によって想起させられる
イメージとうまく対応するように私に感じられるのだろうか。ここで
留意してもらいたいのは、私は、そのような感じ方を、「私という個人に
特有の感性によるもの」であるなどとはまったく考えていないことである。

そこで、»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係が想起される理由
を反省してみると、私が、「ち」という発音によって想起されるイメージ
を、それを一文字の漢字で置き換えるなら、「注(ちゅう)」によって代表
され得るようなものとして捉えていることに気づく。私は、最近は、
日本語の語源を探るのに、よく中国語辞典や漢詞辞典なども参照するが、
中国語ができるわけでも、漢文が読めるわけでもないので、専ら現代の
日本語において使われる漢字の用法とその発音を手掛かりに、
中国語辞典や漢詞辞典を参照している。「ち」の場合には、その語源を
「注」の発音の流用に求めることができるといったようなことを主張
したいわけではない(ただし、可能性自体は否定しない)が、このように
「ち」の発音から、日本語において漢字として用いられる「注(ちゅう)」
を想起するようなことは、私にとっては、いつもの連想パターンの
一部である。
0628考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:52:48.040
ここで、»ins Enge zu bringen«を辞書で検索しても、またそれがどのように
訳されるのか、それに対応する訳文を検索しても、ヒットはなかった。
その代わりとして、記述がヒットする。
Deutsches Worterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm: ...
1862
... studien waste er doch die 4 ) in die enge treiben ,
in angustum cogere ( vgl . das stärhauptfrage nicht ins enge zu bringen
( zu concentrieren ) .
0629考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:57:55.390
では、「注(ちゅう)」の方は、どうだろうか。Wiktionaryを参照してみる。

1. to pour into; to fill
注射 ― zhùshè ― injection
注入 ― zhùrù ― to pour into
2. to concentrate; to pay attention
注視 / 注视 ― zhùshì ― to look attentively
專注 / 专注 ― zhuānzhù ― to concentrate completely
注意 ― zhùyì ― to pay attention
3. (gambling) stake
賭注 / 赌注 ― dǔzhù ― stake

注 - ウィクショナリー日本語版
意義編集 · (水などの液体を)そそぐ。 注水、注入 · 意識などを集中させる。
注意、注目、注視 · (註の代用字)書きとめる。 注記(←註記)、注文(←註文) ..
0630考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 11:14:38.080
このように見てくると、日本語において「ち」によって想起させられる
イメージを「注(ちゅう)」によって代表させることが可能であるとするなら、
その「注(ちゅう)」に媒介させることにより、
»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定しても
よいように私には感じられる。実際、日本語で「ち」を発音するとき、
その行為は、自らが吐く息を»ins Enge zu bringen«として記述できる
ようなものとなっていないだろうか。

さて、問題は、そのような「いい加減な」対応関係を想定することにより、
「たらちねの」という古語の表現がどのように解釈されることになるか
である。その適切な解釈は、この表現の用法を離れてはもたらされ得ない
はずなのだから、「たらちねの」の「ち」も、ドイツ語の
»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるだけで済ませるわけにはいかない。
0631考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 11:32:50.050
ところで、岩波古語辞典で「ちか(盟/誓)ひ」の項目を引くと、
>日本語のチカヒも「血交ひ」に起源をもつという。
と記載されている。しかし、「『ち』かひ」の「ち」が「血(ち)」の「ち」
と共通であり、「ちかひ」が「血」を想起させたとしても、より一般的に
日本語の「ち」が»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるなら、
「ち」を「血」に限定することなく、
「ちか(盟/誓)ふ」⇔»ein anderen ins Enge zu bringen«のように
解釈しても問題はないのではないかと私には思える。
0632考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:06:44.750
万葉集 第11巻 2364番
>原文 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
>訓読 玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

「たらちねの」という表現において、語義が不明であると考えられているのは、
「〜の」を除く「たらちね」であるが、万葉集には「たらちね」に直接に関連する
表現として「たらち・し」があること、また、「たらちね」から、「たらち・め」、
「たらち・を」という表現が派生させられているから考えて、「たらちね」は、
「たらち・ね」と分けることが可能であるものと意識されたことは間違いないだろう。
さらに、万葉集では「たらち」に様々な漢字が万葉仮名として当てられるが、
「多良知祢」のように1つの音節に1つの漢字が当てられるのではない場合、
「たら・ち」の「たら」には、「垂(たら)」または「足(たら)」が当てられている。
0633考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:22:07.450
したがって、「たら・ち」の「たら」は、「垂(たら)」もしくは「足(たら)」
という作用としてイメージされていた可能性が考えられるわけだが、ここで、
「たら・ち」を、そのように「たら(垂/足)ち」としてイメージされたものと
想定すると、私にはすぐに連想される和製漢語がある。それは、
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」である。Wikipedieaの「本地垂迹」の項目には、
以下のとおり記載される。
>仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、
実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた
権現(ごんげん)であるとする考えである。<
0634考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:28:28.580
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現は、「本地(ほんぢ」と
「垂迹(すいぢゃく)」から構成されるとされ、Wikipediaには、さらに
次のように説明される。
>本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れる
という意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのもの
である法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。
また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、
仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。 <
0635考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:58:50.650
私は、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という考え方についての詳細や、
歴史上の文献に基づく研究についてまったく知らない。しかし、「矛の
先」(私には、「茅(ち)」が想起される)から「しほ」を「た(垂)らす」こと
によって、島が「自ずと生成される」というエピソードは、『古事記』にも
見られ、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」も基本的には、英語で表現するなら、
"bring into being"を表現しているのだろうと思われる。

ところで、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現と、上に引用した
万葉集の歌
>玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
を比べて見ると、「地」を「ぢ」はたは「つ『ち』」として見るならば、
「乳(ち)」との重なりが意識されるほか、「玉垂」(古語において「たま」は、
つねに「魂(たま)」を想起させるものでもある)と「垂迹」において「垂」
が重なっていることとともに、「垂迹」の「迹」と「風跡」の「迹/跡」が
重なっていることも私には意識される。
0636考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 15:31:50.480
あまり長くなっても、「たらちねの」という表現についての私の連想による
解釈がどのようなものであるのか分かりにくくなってしまうだけなので、
省略しよう。

>たまだれの をすのすけきに いりかよひこね たらちねの ははがとはさば
かぜとまをさむ<

私には、この歌は、「たらちねの」という表現によって伝わるイメージを
うまく逆手にとって利用しているように思える。「たら・ち」の「ち」に
よって想起されるイメージが、ドイツ語の»ins Enge zu bringen«に
それなりに対応するものとしてメタ言語的に記述されるものと考えたとして、
「たら」が「垂(たら)」であるのか、「足(たら)」であるのかを確定しよう
とすることには、あまり意味がないだろう。なぜなら、このような言語
表現は、掛詞による解釈の多重性を利用することを最初から意図している
からである。私により重要であると思えるのが、「垂(たら)」であれ、
「足(たら)」であれ、それが「何かを生じさせる行為の様態」として
イメージされているだろうことである。現代の日本語でも「血(ち)を分けた兄弟」
という表現はよく用いられるが、「たらちねの」は、「ち(『いのち(命)』、
『ちから(力)』、『ち(血)』、『ち(乳)』の『ち』)」を「た(垂/足)ら」す
ように我が身に「注(そそぎ)ぎ込む」/»ins Enge zu bringen«ことによって
我が身を存在させた/"brought into being"のが「たらちねの」母であり、
父であり、親ではないのか、というのが私の推測である。現代語でも
「心血を注ぐ」という表現がある。
0637考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 15:54:52.230
私には、上の歌において、「入通来根」と「足乳根之」は、表現として
意識的に対比させられているように見える。万葉集において「たらちねの
はは」が詠まれている歌にひととおり目をとおして見るといい。
母親は、単に子供を「見守る」存在として捉えられているのではなく、
一瞬の「隙もなく」/»eng«、我が子の振舞いひに注意を向けている
存在として認識されている。上の歌は、そのように母親の注意が
向けられている子である女性の立場から詠まれた歌である。
男性が自分のところに通ってくるのに、「玉垂の小簾のすけきに
入り通ひ来」る「風」のように振る舞ふ必要があるのは、「たらちねの
はは」が「我が身」に対して、極めて緊密な/»eng«である関係にある
からに他ならず、そうであるのは、「我が身」そのものが(母)親との関係に
おいて、そもそもそのように生成されているものであるからである。
0638考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 16:37:51.550
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、私に連想された日本語の古語の
解釈について長々と、その連想のプロセスを記述してきたが、これによって
私の「たらちねの」という表現の意味解釈の妥当性が検証されたなどとは
言っていないことに注意してもらいたい。
0640考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 00:11:02.010
日本語の古語の「たらちねの」という表現が伝える緊密さは、案外、
パウル・ツェランの「テネブレ」という詩が表現する近さの感覚と近いのではないかという気もする。
Paul Celan ‘Tenebrae’

Nah sind wir, Herr,
nahe und greifbar.
Gegriffen schon, Herr,
ineinander verkrallt, als wär
der Leib eines jeden von uns
dein Leib, Herr.
Bete, Herr,
bete zu uns,
wir sind nah.
Windschief gingen wir hin,
gingen wir hin, uns zu bücken
nach Mulde und Maar.
Zur Tränke gingen wir, Herr.
Es war Blut, es war,
was du vergossen, Herr.
Es glänzte.
Es warf uns dein Bild in die Augen, Herr.
Augen und Mund stehn so offen und leer, Herr.
Wir haben getrunken, Herr.
Das Blut und das Bild, das im Blut war, Herr.
Bete, Herr.
Wir sind nah.
0641考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 09:16:02.610
>たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り
いぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして
巻十二 二九九一番歌

>「たらちね」の語義は不詳ですが、監視者である母に多用される形容で
あることが指摘されています。
この歌はそんな監視の目が厳しくて恋人に逢うことができなかったの
でしょうか。「いぶせく」すなわち胸のなかが煙でいぶされたように、
心がふさがれて晴れない心理状態にある、恋の辛さを詠んだ一首です。
(本文 万葉文化館 小倉久美子)
0643考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:29:28.450
ところで、現代の日本語に「『て(手)しお』にかけて育てた」という慣用句が
あるが、「て(手)『しお』」は、本来は、「て(手)『しほ』」と表記される
べきものであり、「しほ」が表現しているのは、「塩」ではなく、
「喜びも『ひとしお』である」と表現されるときの「しほ」、つまり、
漢字としては「入」が当てられてきた「しほ」だろう。

ひと−しほ 【一入】
学研全訳古語辞典
[一]名詞
染め物を、一回染め汁に浸すこと。
[二]副詞
一段と。いっそう。
出典古今集 春上
「常磐(ときは)なる松の緑も春来れば今ひとしほの色まさりけり」
0644考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:42:47.540
この場合、「しほ」に「入」という漢字が当てられていることにも
明白に見てとることができるとおり、「しほ」は、「『し』み入っている」
ことを表現している。そのように考えと、現代の日本語では、まず
なによりも物象化された調味料としての「塩(しほ)」を想起させる、
名詞として用いられる「しほ(塩/汐/潮)」という表現そのものが、
「し・ふ」という再帰表現、すなわち、「自ずと『し(浸)』み入る」
作用を表現する動詞から派生させらたものではないかと推測される。
0645考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:56:38.010
つまり、「しほ(入/塩/汐/潮)」とは、英語を用いてメタ言語的に
記述するなら"let-oneself-in"である。

このことは、槍の穂を柄に接合する部分である「しほくび(潮頸・塩首・入首)」
の構造を画像検索で確認することによっても検証することができるだろう。

精選版 日本国語大辞典「潮頸・塩首・入首」の解説
>しお‐くび しほ‥【潮頸・塩首・入首】
〘名〙 槍(やり)の穂先と柄が接した部分。けらくび。ほくび。
※言継卿記‐天文二年(1533)一一月四日「予鑓之さや袋
さかわに口、塩頸、青貝等之事、沢路へ申付候了」
0646考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 11:14:10.530
このような簡単なことにあらためて気づいたとき、私が喜びに浸っている
わけではない。むしろ、私は、それを「とても残念なこと」と感じざるを
得ない。なぜなら、私は、日本語を研究してきた専門の国語学者や
言語学者がこの程度の簡単なことにこれまで気づくことがなかったなど
ということは、あり得ないと確信しているからである。ここにある
大きな問題は逆に、なぜ、その「気づかない状態を正常化する」
ために多くの専門家が、私には「常軌を逸していると感じられる」ほどの
多大な労力は日々費やしているのかである。
0648考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 16:23:07.610
>>645
最近は、リンクを貼ると、すぐに規制で書き込めなくなるので、
興味のある人は、以下のサイトを自分で検索して、
槍の「しほくび(潮頸・塩首・入首)」がどのような仕組みであるのか
を確認してみるといい。

>刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 刀の種類「矛とは」
>柄への固定方法
槍と矛は、柄へ固定する際にも違いが見られます。槍は、
茎(なかご:刀身の中でも柄に収める部分)を柄の内部へ差し、
蔓などを巻いて固定。

>あさひ刀剣
>さて、Cを見てください。C-1は柄の先端部で、ここに口金(くちがね)が
嵌め込まれて、槍の塩首(けらくび)の下部が入ります。
また、C-2は柄を切り落した切断面です。そこに槍の中心を入れた後に
A-1・B-1・C-3・C-4として写っている割箸状の一つの木片が
嵌め(埋め)込まれる構造です。
0649考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 17:24:22.920
>>646
誤:多大な労力は日々費やしている
正:多大な労力を日々費やしている
0650考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 17:43:02.870
本来であれば、多くの人が容易に気づくことになるはずの日本語について
の基本的な事実について、誰も気づかないことが正常であるように思わせる
ように保っている専門家の個々人および集団の命がけの血の滲むような
日々の取り組みには、大いに同情にあたひするものがある(とは、私は
これっぽっちも思ってはいない)。なぜなら、それらの人々の多くは、
事実上の「人生の達人」であり、そのような自認がない場合でも、少なくとも
そのような取組みに協力することによって、それに協力することを拒む
愚か者に対して自分たちが社会的に優位に立っていることをはっきりと
自覚しているからだ。確かにそれらの人々は、「公的善」
(M.メルロ=ポンティ、『ヒューマニズムとテロル』、p.31)
のために自らの骨身を削っているのかもしれないが、それは私に
言わせれば、本人の勝手であり、私としては、モンテーニュに倣って、
「そういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしよう
ではないか」と言う他ない。
0652考える名無しさん
垢版 |
2022/06/06(月) 16:28:30.900
「しほ(潮・塩・入)」≒《s'infiltrant》

気づかないふりをする方が難しい。
0653考える名無しさん
垢版 |
2022/06/06(月) 16:33:45.480
エビデンスがどうのと言ったところで、所詮、世の中の「専門家」が
やっていることも、自覚的な「錯乱坊のチェリー・ピッキング」に過ぎない。
0654考える名無しさん
垢版 |
2022/06/06(月) 17:04:37.430
こういう発言を誰に気兼ねすることもなく書き込めるようになったことは、
感慨も「ひとしほ(一入)」≒《d'autant plus s'infiltrant》である。
0655考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 00:26:45.240
>手塩にかけて育て上げた花や樹木たち

花や樹木に「塩」をかけたら枯れてしまいますが、「てしほにかける」とは、
「『手入れ』が行き届いているようにする」ことでしょう。

>手入れ(読み)テイレ
デジタル大辞泉「手入れ」の解説
て‐いれ【手入れ】
[名](スル)
1 よい状態を保つために、整備・補修などをすること。
「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」
0656考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 00:33:38.580
>手が込む(読み)てがこむ
精選版 日本国語大辞典「手が込む」の解説
て【手】 が 込(こ)む
細工、技巧などが緻密である。また、物事が、こみいっている。複雑である。
※虎寛本狂言・鬼瓦(室町末‐近世初)「あの欄間の彫物などは、
殊之外手のこうだ事じゃなあ」
0657考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 13:37:10.350
汐留(しほどめ)&地名&由来 Google検索

>「汐留」の名は、江戸城外堀に潮の干満が及ばないよう海と堀とを
仕切る堰があったため、この地域が潮溜りとなっていたことに由来する。
汐留 - Wikipedia

「汐留」の地名の由来
>汐留川に由来し、「汐留川が土橋で堀止まりとなるので潮汐の干満が
外堀に通じず、汐が止まる」ため汐留と呼ばれるようになった。

東京都港区 「汐留」の由来
>この「汐留」の地名の由来は、江戸幕府の祖となった徳川家康が
天下普請を行なった際に江戸城の堀に潮の干満が影響しないように
堰を設けたのが元だそう
0658考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 13:46:26.720
「ひとしほ(一入)」とは、思ひが「『し』み・『じ』み」と「身に『し』みる」こと。
さて、食用に使はれる「塩(しほ)」は、もともと、どのようなものとして認識されたのか。
0659塩なめくじ
垢版 |
2022/06/07(火) 13:53:27.65ID:1mrOKtbn0
呼んだ?
0660考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 14:00:23.200
浸透圧は?
0661考える名無しさん
垢版 |
2022/06/07(火) 14:06:49.670
切身(きりみ)に塩(しほ)
精選版 日本国語大辞典「切身に塩」の解説

※浄瑠璃・加賀見山旧錦絵(1782)二「されば其事、
私も切身(キリミ)に塩(シホ)が染(し)み、思ひ当った今日此頃」
0662the elephant in the room
垢版 |
2022/06/07(火) 14:14:00.320
さてね、日本語を長年、専門に研究してきた言語学や国語学の専門家
とされる人々は、本当に「しほ(入/塩/汐/潮)」がどのような表現である
のかについて気づくことなく、またこのように明示的に指摘されて
さえも気づかないのか?「エビデンス」とは何か?w
0663塩なめくじ
垢版 |
2022/06/07(火) 14:33:36.80ID:1mrOKtbn0
呼んだ?
0664塩なめくじ
垢版 |
2022/06/07(火) 14:39:27.38ID:1mrOKtbn0
浸透圧は溶液と溶液の間に発生する力であって
溶液単体を指して「浸透圧が高い(低い)」と
言うことはできないと思ってたけど、間違ってたっぽい。
0665エビデンスであるとは、どのようなことか
垢版 |
2022/06/08(水) 07:27:08.120
さて、「塩(しほ)」が「『塩(しほ)』に見える」とはどのようなことか。
現代の日本語にも語源的な「しほ(入/塩/汐/潮)」の用法が慣用句となって
そのまま引き継がれて示されている表現がある。その表現とは、
「しほ(入/塩/汐/潮)らし(い)」である。

精選版 日本国語大辞典「しおらしい」の解説
@ 上品で優美な様子である。
※禅鳳雑談(1513頃)上「謡はすげなく候ては悪しく候。匂ひの候て、
しほら敷、ぼけやかなるがよく候」
A ひかえめで従順な様子である。
※応永本論語抄(1420)雍也第六「祝はしをらしき者にて、弁舌あり」
B かわいらしい。可憐(かれん)である。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※虎明本狂言・枕物狂(室町末‐近世初)「ゑくぼが、両のほに、
七八十百ばかりいって、ようあらしほらしやと思ふて」
C けなげな様子である。感心である。殊勝である。
相手を見くびっていうこともある。
※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)二「ヤアがきも人数、しほらしい事ほざいたり」
0666エビデンスであるとは、どのようなことか
垢版 |
2022/06/08(水) 07:40:06.030
ここで、「しほ(入/塩/汐/潮)らし」を、フランス語をメタ言語として
用いて説明するなら、それが表現しているのは、
《〜 semble être s'infiltrant》である(ただし、これは、フランス語
をメタ言語として用いた記述であって、このような表現がフランス語訳
として通用するという意味ではないので、誤解のないよう)。
C'est l'évidence même.
0667浸透圧/血は水よりも濃し
垢版 |
2022/06/08(水) 08:46:06.660
さて、「塩(しほ)には、自ずと浸透する作用がある」と述べたとき、
いったい何を言ったことになるのだろうか。

「水臭(みづくさ)い」とは、どのようなことか。
0668証拠隠滅とは、どのようなことか
垢版 |
2022/06/08(水) 08:58:39.300
さて、旧仮名遣ひの廃止/新仮名遣いの規範化は、日本語をつか(使/仕)ふ
人々に何をもたらし、またもたらしつづけているのか。
0669熱き血潮(ちしほ)
垢版 |
2022/06/08(水) 10:36:55.780
血のつながり、あるひは浸透圧としての人情

ち(血)しほ(入/塩/汐/潮)に染まる⇒手(て)しほ(入/塩/汐/潮)にかける

※歌舞伎・心謎解色糸(1810)
大切「他人の手汐(テシホ)に育てられ、二親恋しと尋ねるを」
出典 精選版 日本国語大辞典
0670考える名無しさん
垢版 |
2022/06/08(水) 10:43:03.960
冷血漢の体に流れているのは、血潮(ちしほ)ではなく、血塩(ちしお)でしょうね。
0671考える名無しさん
垢版 |
2022/06/08(水) 15:58:53.620
「エビデンス主義」とは、提示するエビデンスの有効性を否定される側に、
それが否定される根拠を考えさせて、否定されるべき正当な理由を
自己責任で案出させるようにあらかじめ意図的に仕組まれた罰ゲームである。
0672Exception that proves the rule
垢版 |
2022/06/10(金) 09:13:12.020
>>668証拠隠滅とは、どのようなことか2022/06/08(水) 08:58:39.300
>さて、旧仮名遣ひの廃止/新仮名遣いの規範化は、日本語をつか(使/仕)ふ
人々に何をもたらし、またもたらしつづけているのか。<

興味深いことに、表現の表記に旧仮名遣ひが意識的に用いられている例外もある。
その表現とは、国語学の規範によれば、「撓」という漢字が当てられるべきもの
とされる「しをり」である。しかし、ここで注目すべきことは、
この「しをり(撓)」という表記が、この表現を後世に残すことに寄与した
人々の用いた、今では旧仮名遣ひとされる表記を保存するものではなく、
それを「た『わ』(撓)める」ものであることだ。ここで「た『わ』(撓)める」
という表現を使ふとき、私には、これに対応する英語の表現として
"to pervert"( (from PIE root *wer- (2) "to turn, bend"),
Online Etymology Dictionar参照)という動詞が思ひ浮かぶ。

しをり(読み)しおり
日本大百科全書(ニッポニカ)「しをり」の解説
芭蕉(ばしょう)俳諧(はいかい)の美的理念。「さび」の類縁美の一つ。
芭蕉、および芭蕉の弟子たちは、「しほり」と表記した。「あはれ」が、
「あはれ」などの感情表現語を用いずに「姿」として一句に具象され、
そこに余情として「あはれ」を感得できるような句が、
「しほり」のある句といえる。

世界大百科事典 第2版「しをり」の解説
〈萎(しを)る〉の連用形というのが通説であるが,近年〈湿(しほ)る〉
の意に解すべきだという説がある。蕉門俳論では〈しほり〉と表記するのが
一般的。去来は〈しほり〉は〈一句の句がら〉〈一句の姿〉〈一句の余情〉
にあるという。また《俳諧問答》では〈しほりと憐れなる句は別なり。
ただ内に根ざして外にあらはるゝものなり〉とも言っている。
0673考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 09:59:16.870
「しほり」と表記されてきたものを、わざわざ「しをり」と書き換へる
のだから、その行為は明らかに意図的であり、その表記が規範として
示される以上、その意図は、明示されるか否かにかかわらず、もとの
「しほり」という表記は、訂正されるべき誤りであるという判断を
示していることになる。

なせこの書き換へが、もとの表現を「た『わ』(撓)める」/"to pervert"
ものであるのかは、もはやさらなる説明を要さないだろう。なぜなら、
既に示したとおり、「しほ(潮・塩・入)」≒《s'infiltrant》である
と考えるなら、この「しほり」も、「自ずとし(浸)み入る」作用を
示す名詞化に過ぎないからである。上の引用では、「近年〈湿(しほ)る〉
の意に解すべきだという説がある」と記載されているが、重要なのは、
「湿っているか否か」ではない。そうではなく、「湿(しほ)る」という
表現に関連付けるなら、重要なのは、《s'infiltrant》と表裏の関係
において「自ずと生じる"absorption(吸収)"」の作用である。

>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声)
松尾芭蕉、『奥の細道』
0674考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 10:12:09.090
>本来であれば、多くの人が容易に気づくことになるはずの日本語について
の基本的な事実について、誰も気づかないことが正常であるように思わせる
ように保っている専門家の個々人および集団の命がけの血の滲むような
日々の取り組み<

私は、そのような取組みが、個々人および集団としてどれほど大変な労力
を要しているのかを否定する気はさらならない。しかし、それは、私に
とっては、少しも有り難くないものなのだ。というのも、いくらそれら
の人々が「公的善」のために身を切るような犠牲を支払ひつづけている
自負しているとしても、それに私が敬意を表して、おとなしく従わ
なければならないとすれば、私は、「容易に分かるはずのことを、
分からないことにしなければならない正当な理由を自己責任で案出し
つづける」という終わることのない罰ゲームに自発的に参加することを
余儀なくされるからである。
0675考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 10:26:48.370
その根底において「いくらつべこべ言ったところで、
あなたも上から承認/評価してもらえなければ不都合でしょう」
という脅しに支えられているだけで、なぜどのような理由で
その罰ゲームに自発的に参加して競い合はなければならないのか、
私にとっては意味不明なのです。
0676考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 10:33:10.420
誤:支払ひつづけている自負しているとしても
正:支払ひつづけていると自負しているとしても
0677考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 10:44:42.880
この罰ゲームに自発的に参加すると、最も重要なのは、理屈などではなく、
既に与えられているものとして機能している人脈と、承認/評価する
権限を付与されている個人にとっての自分の有用性を示すことが
できる具体的な人脈づくりであることになる。
0678考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 11:09:36.200
>»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定

「ちか(近)し」、「ちぢ(縮)む」の場合の「ち」はどうだろうか。
「ちか(近)し」は、ドイツ語をメタ言語として利用して記述するなら(翻訳ではなく)、
»ins Enge zu bringen lassend«という表現として解釈できるのではないか。
また、「ちぢ(縮)む」の「ちぢ」は、「ち」≒»ins Enge zu bringen«の
反復であり、日本語において同一の発音の反復は、「見す・見す」のように
一般に「継続性」を表現するための手法であり、「む」は、「累加性」を示す
ように用いられるのだから、「ちぢ(縮)む」という表現は、
「ち」≒»ins Enge zu bringen«の作用が継続的に累加することを表現して
いると解釈できるのではないか。
0679考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 11:22:11.240
岩波古語辞典から「ちか(近)し」の項目で列挙される例文を抜粋してみよう。

@「妹が家路近くありせば」(万三六三五)
A「君に別れむ日近くなりぬ」(万四二四七)
B「山川を中に隔(へな)りて遠くとも心を近く思はせ吾妹」(万二七六四)
C「これなむその人のちかきゆかりなるを」(源氏 夢浮橋)
D「卯の花の垣根近う覚えて」(枕二二二)
E「中将なりける人の...七十近き親二人を持たるに」(枕二四四)
0680考える名無しさん
垢版 |
2022/06/10(金) 11:40:38.650
私が、日本語の表現をその構成において解釈可能となる記述するのに
英語、フランス語、ドイツ語などの日本語以外の言語をメタ言語と
して活用するのは、別にそれらの言語の方が哲学的な言語として
優れているからというわけではない。いずれの言語における表現
であれ、その言語の境界として規定される範囲内の表現をメタ言語
として用いて適切に記述することは、本来的に困難なのである。

Auch meinem Freunde Behrisch hatte ich manchmal zugesetzt,
er solle mir deutlich machen, was Erfahrung sei? Weil er aber
voller Torheiten steckte, so vertröstete er mich von einem Tage
zum andern und eröffnete mir zuletzt, nach großen Vorbereitungen:
die wahre Erfahrung sei ganz eigentlich, wenn man erfahre, wie ein Erfahrner die Erfahrung erfahrend erfahren müsse. Wenn wir ihn
nun hierüber äußerst ausschalten und zur Rede setzten,
so versicherte er, hinter diesen Worten stecke ein großes Geheimnis,
das wir alsdann erst begreifen würden, wenn wir erfahren hätten,
– und immer so weiter: denn es kostete ihm nichts,
viertelstundenlang so fortzusprechen; da denn das Erfahren immer
erfahrner und zuletzt zur wahrhaften Erfahrung werden würde.
Wollten wir über solche Possen verzweifeln, so beteuerte er,
daß er diese Art, sich deutlich und eindrücklich zu machen,
von den neusten und größten Schriftstellern gelernt, welche uns
aufmerksam gemacht, wie man eine ruhige Ruhe ruhen und wie die
Stille im Stillen immer stiller werden könnte.

Johann Wolfgang von Goethe, "Dichtung und Wahrheit"
0681考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 08:53:20.080
>「湿(しほ)る」という表現に関連付けるなら、重要なのは、《s'infiltrant》
と表裏の関係において「自ずと生じる"absorption(吸収)"」の作用である。

ここで私が、別に何か私という個人に特有の感性による特殊な関係性の
捉え方を示そうとしているわけではないことは、例えば、湿気や臭いを
吸い取るように使はれる「備長炭」がどのような働きをしているのかを
考えてみれば、容易にイメージすることができるはずである。また、
そのような捉え方が、それを表現する発音との関係を含めて、別に
日本語に特有というわけでもないことは、「しほり」という表現が、
英語をメタ言語として利用するなら、「自ずと生じる"seep in"
(し(沁/染/凍/浸/滲)みる)の作用」の名詞化に過ぎないことからも
確認できる。
0682考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 09:53:49.890
>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
松尾芭蕉、『奥の細道』

Stillness – ah! / seeps into rocks / cicada's voice
(translation in Hiraga and Ross 2013, 26)

Such Stillness … The Cries of the cicadas / Sink into the rocks.
(Donald Keene)

"So still: into rocks it pierces̶ the locust-shrill"
(Harold Henderson)

The utter silence … cutting through the very stone / a cicada's rasp
(by Tim Chilcott)

the stillness … the voice of a cicada / seeping into the crags
(L.P. Lovee)

Ah, tranquility! / Penetrating the very rock, / a cicada's voice.
(Helen Craig Mccullough)

※順不同
0683考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 10:24:39.270
これらは、一番上に引用した芭蕉の句の英訳を適当に拾ってきて並べた
だけで、特に何らかの基準に沿って選別して貼り付けているわけではない。

見比べてみると、他の訳と比べて、最初の"Stillness – ah! ..."はなるべく
直訳を心がけていることを見てとることができる。しかし、「声(こゑ)」
という表現に"voice"を「素直に」割り当てていることにはあまり感心
しない。「声(こゑ)」が、一般に、発音や発声による何らかの表明である
と理解されることを前提にしても、「蝉の声」が直ちに人々に想起させる
のは、それが何らかの表明であることよりも、聴き慣れた具体的な
何らかの種類の「蝉の声」である。他の多くの訳において、「しみ入る」
に、"sink into"、"pierces"、"cutting through"、"penetrating"などの
表現が当てられ、英語の表現上の慣習が優先されて、元の日本語の表現
の意味合いがまったく伝わらなくなってしまっているのに対して、
それを忠実に反映させるように"seeps into"と訳されていることは、
私にはとても好ましく感じられる。
0684考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 10:41:03.650
私は、自分にとって「詩的」であると感じられる表現をとても好ましく感じるが、
それは、私が表現を反省的にメタ言語によって捉えることの助けとなるから
であって、自分で詩作をするわけでも、特に「詩の形式」で書かれたものを
好んで読むわけではない。むしろ、私にとても「詩的」であると強く感じ
られるのは、多くの場合、「散文の形式」で書かれたものであって、例えば、
私は、ペソアの散文の表現は興味深いと感じるが、その詩の表現にはあまり
関心がない。ニーチェ、プルースト、フローベールなどの著作において
私を惹きつけるのは、やはり散文において「詩的」であると感じられる表現
であって、詩人の表現に私が関心をもつのも、それが散文に応用できる場合
に限られる。
0685考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 10:48:34.040
したがって、私は、引用した芭蕉の句をどのように英訳するのが適切である
かを自分で考えてみたとしても、その訳が「(英語の)詩の形式」において
優れたものとなるかどうかには関心がない。これは、私の関心の持ち方で
あって、他の誰かが、芭蕉の句に触発されて、それに対応させるような
形で優れた英語の詩を書こうとする取り組みの価値を否定しようとして
言っているわけではない。以上のことを踏まえたうえで、私が、英語を
メタ言語として利用するなら、この芭蕉の句をどのように理解するのか
を示してみることにしよう。
0686考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 11:13:07.000
まず最初に「閑(しずか)さや」であるが、「や」が何らかの心の動きを
示す感嘆の声であることは間違いなく、貼り付けた英訳でも、
"the stillness …"として、それが「余白として」示されている事例を
以外では、それぞれ、"Stillness – ah!"、"Such Stillness …"、"So still:"、
"The utter silence …"、"Ah, tranquility!"としてそのことが明示されて
いる。それでも、私自身は、「閑(しずか)さや」という表現について、
そのような「読み方」はしない。私はこの句を詠んだ本人ではないので、
その「閑(しずか)さ」によって本人にどのような心の動きが生じたので
あれ、感嘆の声である「や」も、私には、それがどのような心の動きで
あるのかを探る必要があることを示す「問ひ」として作用するに過ぎない。
したがって、この時点ではまだ、私自身には、「閑(しずか)さ」によって
どのような心の動きが伝はることになるのか、判断を保留する他ない。
0687考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 11:41:57.720
次に、「岩にしみ入る」であるが、「しみ入る」という日本語の表現の
意味合ひをそのまま反映させて、それを、引用した事例にも見られるとおり、
"seeps into"や"seeping into"と訳すことが私に好ましく感じられることは、
上に述べたとおりである。Donald Keeneの"Sink into"という表現は、
日本語としては「しず(沈/静/鎮)む」に対応する表現であり、もとの
表現が、"Stillness"/「閑(しずか)さ」に単刀直入に合致するものに
変えられてしまっているので、「しみ入る」によって想起される
イメージを削ぎ落してしまうことになる。それ以外の事例に見られる
"pierces"、"cutting through"、"penetrating"という表現は、日本語
「岩(いは)」の場合でもそうであるように"rock"や"stone"という硬い
物体には、「つらぬ(貫)く」、「き(切)る」、「つ(突)きぬ(貫)く」
というような仕方でしかその内部に入り込むことができないという
常識的なイメージに合わせることを前提としているので、「しみ入る」
によって想起されるイメージを「台無し」にしてしまっていると言える。
0688考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 12:04:24.510
また、L.P. Loveeによる"seeping into the crags"という訳は、「しみ入る」
については日本語の表現に忠実でありながら、(英語においてあまり無理が
感じられないようにするためだろう、)「岩(いは)」を"rock"や"stone"と
訳すことを避けて、"crag"という表現を用いているが、"crag"を辞書で
調べてみると、
>a steep, rugged rock; rough, broken, projecting rock, especially
a sea-cliff," early 14c. < Online Etymology Dictionary
>1. a steep rugged rock or cliff,
2. archaic : a sharp detached fragment of rock< Merriam-Webster
ということで、「岩(いは)」というより「崖」のイメージで、これなら
「入り込む隙間」はいくらでもありそうなので、全体として訳を見れば、
妥協の産物であるように感じられる。
0689考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 13:39:44.500
「岩(いは)」は、"stone"と訳すことも、"rock"と訳することもできるが、
「蝉の声」が「しみ入る」のは、あくまでもその"stone/rock"の内部で
あって、「断崖」のような石や岩が層状に集積しているところに
「しみ入る」わけではないので、「岩(いは)」を単数の"the stone/rock"
とするか、"the stones/rocks"とするかは、それほど大きな問題である
とは私には思えない。ただし、"the stones/rocks"とすれば、明確に
複数性が意識されるので、「岩(いは)」/"stone/rock"に「しみ入る」
作用のイメージも複数に分散されたものとなり、そのことが私には
好ましくないと感じられる。
0690考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 13:59:37.540
最後に「蝉の声(こゑ)」であるが、引用した事例では、それぞれ、
"cicada's voice"、"The Cries of the cicadas"、"the locust-shrill"、
"a cicada's rasp"、"the voice of a cicada"、"a cicada's voice"
と訳されていて、「声(こゑ)」に対する訳語としては、"voice"が
最も多く見られる。しかし、既に述べたとおり、ここにおいて
「蝉の声(こゑ)」が想起させるのは、「岩にしみ入る」効果を感じ
させる「声(こゑ)」の具体的な性質であって、一般に、何らかの
意を表明するものとして理解される「声(こゑ)」/"voice"ではない。
また、英語の"voice"という表現は、私には呼びかけとしての日本語の
「を」の発声を想起させるものであり、「『蝉』が『を!』と呼び
かける」イメージは、私には著しく奇異で不適合なものに感じられる。
0691考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 14:19:50.440
"The Cries"は、一般的には、日本語の「叫び」として理解され、語源的には、
フランス語の"crier"の用法に見ることができるとおり、「きしみ」などの
音も表現するが、この場合に適合しているとは思えない。"the locust-shrill"
については、昆虫そのものを変えてしまっていることが論外だが、"shrill"
は、「金切り声」と訳されることもあるように、この英訳では、"岩"を
「つらぬ(貫)く」ような鋭さがイメージされているのだろう。訳として
適合するものではないが、「蝉の声(こゑ)」をどのようにイメージすべき
かを考えるヒントにはなる。"rasp"は、やすりをかけるときの摩擦音など
表すのに用いられる表現であり、「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」
こととは無関係に、一般的に「蝉の声(こゑ)」のイメージを伝えるのに
かなりよく合っていると言うことはできるだろう。ただし、「やすりを
かけるときの摩擦音」にある程度は近いと言うことができても、
そのような「声(こゑ)」が、どのようにして「『岩にしみ入る』効果を
感じさせる」のかを考える必要がある。
0692考える名無しさん
垢版 |
2022/06/11(土) 14:33:08.030
この芭蕉の句をWikipediaで参照すると、鳴いていた「蝉」が「アブラゼミ」
であったのか、「ニイニイゼミ」であったのかが論争の対象とされたことが
記載されている。確かに蝉の鳴き声は、種類ごとに特徴があり、異なるので、
「蝉の声(こゑ)」の蝉がどの種類であったのかを考えることには意味がある
だろう。それでも、この句において表現として重要なのは、その「声(こゑ)」
が「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」ことであって、蝉の種類を特定
することでも、その蝉が単数であったか、複数であったかを特定すること
でもない。英訳では、単複のいずれかを選択することが要求されるので、
この句にまつわるエピソードに基づいて、蝉の数を単数として特定する
ことは、可能な選択ではあるが、私には、そのような表現解釈の手法は、
好ましいものとは思えない。例えば、梅とウグイスが詠まれた歌では、
実際に梅の花が咲く時期と、ウグイスが訪れる時期はずれるのだから、
そのような表現解釈の手法では、鳥の種類の認識が間違っている、
または歌が荒唐無稽であるといったような解釈が導き出されるが、
そのような歌の解釈の仕方が有益であるとは私には思えない。
0693考える名無しさん
垢版 |
2022/09/19(月) 16:01:50.850
生物学的視点に基づくオブジェクト指向生体機能シミュレーション
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902277633713182

解剖学や生理学でもチンコの話になるとぐっと理解しやすくなるのはなんでなんだろ!
https://tottokotokoroten.hatenadiary.com/entry/20130516/1368716650

ところで「チンポがシコシコする」という日本語表現は、学術的に正しいと言えるのか?

チンポ「を」シコシコするのではなくて、チンポ「が」シコシコする。この場合、「チンポ」は主語となる。

オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンポ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンポ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンポ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、自ら勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。

違うか?

「胸がドキドキする」は良いが、「チンポがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ!
0694考える名無しさん
垢版 |
2022/09/22(木) 17:36:24.130
しこしこ手でしごいてないチンポがシコシコするは誤りだからだめ
                                             
0697考える名無しさん
垢版 |
2023/11/11(土) 08:33:02.800
押忍
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