出生とは、致命的な悪手である
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将棋でたとえると、出生は致命的な悪手である。なぜなら、出生がもたらされること
で、人はあらゆる苦、苦痛、害悪、不快に晒されるリスクが常時発生するからである。
そもそも人は、出生の時点ですでに苦と遭遇している。それが産道を通る苦しみと
呼ばれるものである。狭く、暗い産道を通過する苦しみがあるがゆえに、赤子は
誕生と同時にあれだけ激しく泣き叫ぶのであるから。またそれは、この世という
地獄に生まれたことへの悲しみと絶望を赤子らしく表現しているとも言えるのである。
最近ではフランスの17歳少年への警察による射殺でフランス各地で暴動や略奪が
発生している。何のことはない、それは、この世界でのありがちな光景であり、
芥川龍之介が羅生門で描写した修羅の世界と何も違いはない。人々は理不尽な
社会に対して怒り、暴力や殺人まで行い、時には抑圧されてうつ病になったり、
自殺したりする。
だが、こうした諸問題は実は出生という致命的な最初の悪手によってもたらされて
いるのである。出生と苦は光と影のようにセットになっているので、どんな大富豪であっても苦や病、老い、死、その他の不幸を免れることは出来ないのである。
よって、根源的に不幸や苦を無くすには、出生の停止によって、子を安直に産み出さ
ない配慮や優しさが必要になるのである。
我欲に囚われ、己の淫欲に堕する限り、動物的に出生は続いてしまい、事後、それは
必然的にあらゆる種類の不幸や害悪を生じることは必然なので、反出生主義的に
子を持たない選択のみが、唯一の真の救済となるのである。 結局、我々の一生とは、出生というこの最初の致命的な悪手をなんとか挽回しようと
する試みや努力、奮闘に過ぎない。だが、その試みは、シジフォスの神話で石を何度も
頂きまで運び続ける作業に似て、最後は死をもって不毛な形で終わるだけである。 出生というのは、いわば自然の意志、すなわち生命力の発現として作動している。だから、
出生をもたらしている自然の生命的な意志は個々の人間や生物が苦しもうが泣き叫ぼうが
最初から全く意に介していないのである。
自然にとっての関心は、種や生態系を維持し、それを機械的に継起していくことだけ
なので、個々の人間や生物の幸不幸、苦しみなどは全く問題にしていないのである。
よって、このような自然や本能のままに出生を継起させることは、個々人にランダムな
各種の不幸や害悪、暴力をもたらすことになるので、反出生主義的に出生をもたさない
ように努めることが賢明になるのである。 よって、動物的な自然性や本能ではなく、理性によって出生を制御、停止する
ような発想が必要になる。反出生主義は、これに寄与できる思想となる 人々は、現実世界でのあるXやあるYがあるから、その人が不幸であると考えるが、
本当はそうではないのだ。なぜなら出生というαが、それらの不幸の必要十分条件や
土壌になっているのだから、この最初の不幸や苦の種であるαを停止させるようにすれば
いいだけである。この自明性や合理性、もしくはエコロジー含めた経済性に訴求しているのが
反出生主義である。 だから、生命力の発現としての自然は、全体主義者的でもある。全体主義は、個々の
人々の幸不幸ではなく、全体としての系が生き残るような方針と路線を取る。だから、
全体が系として生き残るためには抑圧的なことをしたり、マイノリティーを排除したり、
苦しみや苦役を課すことも厭わない。
戦時中の日本であれば、それは赤紙であり、神風特攻である。全体が生き残るためには
一部の人間が犠牲者になっても良い、という考え方である。ナチスなら、ゲルマン人という
系を守り維持するために、ユダヤ人は皆殺しにしてもいい、という発想に立つ。
実は、生命力としての自然が採用している戦略もこうした全体主義と、基本は同じ発想
なのである。生態系や系が生き残り、継起すれさえすれば良くて、個々の生命が犠牲に
なろうが餌食になろうが、苦しもうが嘆こうが虐待されようが全く意に介さいないのである。
これが自然や生命の本質である。よって、そこには我欲と呼べるものがあるのだろう この世にある、あらゆる害悪や苦、不幸、厄災のレパートリーをいわば負の手品であると
してみよう。だが、このレパートリーに満ちた負の手品の種は、すべて同じである。
そこには、出生という共通の種があるだけなのである。この種を取り除けば、負の
手品を見たり、強制的に体験させられる者(= 非倫理や悪)は、この地上から誰も
いなくなるのである。
そこに顕著な良さや善を認めているのが、反出生主義者である。 このように、自然の系と、出生の継起の持つデメリットに触れてみたが、
そこから翻って、今度は良き生態系を維持するという観点に立てば、今の
地球人口数は確実に環境収容力をオーバーしているので、これから、
地球側からの人口数調整圧のようなものが作動することも十分、予測できる
のである。それが具体的に何であるのかは分からないが、とにかく人口減に
寄与しさえすればいいのである。
たとえば環境ホルモンの影響で人口の多数派がLGBTQになったりすれば
地球人口は大幅に減るだろうし、強毒化した未知の疫病でもゲノム経由の生殖不能な疾病でも
大規模な食料不足でも、何でもいいのである。 ChatGPTのようなAIが近日中に超知性化して、人類へ淘汰圧を加える、でも
よいのである。
いずれにしても、何らかの大規模な人口削減となるような何か未知のXが
これから生じることは十分予想できることである。また、Xは一つでなくても
よくて、X_i(i=n〜∞)がネットワーク的につながっていき、その相互作用で
加速主義的に人口数削減に寄与する、というパターンも当然、考えられる。 >自然にとっての関心事は、種や生態系を維持し、それを機械的に継起していく
ことだけなので、個々の人間や生物の幸不幸、苦しみなどは全く問題にしていない
のである。
こうした観点から、出生の継起は、惑星の公転や自転に近い機械的・物理的なものに
近いことが理解されよう。生物の場合は、出生を促す重み付けとなっているのが、
快感原則であったり、生殖に伴う快楽、ドーパミンなどの脳内物質の分泌による
快楽作用である。
またウイルスであれば、その存在目的は、自己の複製やコピーを作り拡散していく
ことだけである。これも自己選択的であるというよりは、盲目的な機械的な作動で
ある。 アメリカでは多額の奨学金返済の負担が社会問題になっているが、我々の出生自体が、
いわば様々な負債とセットになっているのである。我々は、何とか、この出生という致命的な
悪手、負債や厄災を逃れようと、あるいは、負債を返済しようと一生を通じて努力するのだが、
そうは簡単に完済とはならないのである。
多額の賠償金逃れでフランスに移住しているひろゆきは、今回のフランスの暴動で
またどこか別の国へ逃げ出している、というネットの噂もあるが、人の一生はこういう
災いや負債の回避への試みで終わるのである。権力を恣にした歴代最長の安倍元
総理でさえ、市中で銃殺されて唐突に人生が終わるのである。
出生していなければ、奨学金返済含めて、あらゆる負債は発生し得ないのである。 ひろゆきは、何で反出生主義者は自殺しないんですかね?とか言ってたが、自殺は
出生の肯定と実は同じなのである。自殺は出生の否定ではなく、むしろ、出生の肯定
なのである。ある人間が自殺によって否定しているのは、気に入らぬ己の人生や運命
なのであって、出生全般を否定しているのではないのである。だから、彼は己が気に
入る人生であれば、当然自殺はしないし、その場合は、人生を謳歌したりするのである。
異世界転生をワンチャンで狙って自殺する若者がいるのもそういう理由である。彼は
出生全般は否定していない、己の人生を自殺によって否定しているだけである。
そのため反出生主義は、己の人生が良いとか悪いとかは関係ないのである。
人類全体の生をその歴史上のあらゆる悲惨や災いも含めて総体で考えた場合、
出生はない方が良い、と判断するのが真の反出生主義者だからである。 この考察から分かる通り、真の反出生主義者は出生全般に否を掲げるものである。
だから、大富豪であれ、超美人であれ、天才であれ、天才アスリートや芸術家、
科学者であれ、傍からどれほど恵まれた人生に見えようとも、出生は全般的に良くない、
悪い、と考えるのが真の反出生主義者である。
また、今、どのような人生を送ろうが、一度、出生して存在すればエコロジーを相当
破壊してしまうのであるから、最初から出生していない状態が一番、望ましいのである よく反出生主義なんて主張して何の意義があるのか?という者がいるが、大いに
その意義はあるのである。たとえば、子供を作ろうかと考えている夫妻やカップルが、
反出生主義者の書いたものに接して、その内容に共感して、子供をもうけることを
やめれば、それでその生まれていたかもしれない子供の不幸を防いだことになるから
である。また、その生まれなかった人間の分だけ、エコロジーにも寄与したことになる
のである。
また、たとえ反出生主義の説を見聞きしても、よく考えてから子供を持った場合で
あれば、やはり、反出生主義は役立っているのである。なぜなら、出生におけるリスクや
害悪を反出生主義によって網羅的に知ることで、より注意深く、配慮しながら子育てを
責任持ってすることがある程度は期待できるからである。これは安直なデキ婚で、子を
作り、のちに虐待するようになったり、子がニートになって、家庭崩壊してから家庭内暴力
に怯えたりするような状況よりは、よほどマシと言えるだろう
つまり、子を持つ持たない関わりなく、反出生主義は物事を深く考察する上で
非常に役立つのである。私のようにある程度、長期的、体系的に反出生主義を
考察、展開しているようなものに触れるのは特に良いことである。私は実際に子を持つ
特定の親などを批判したことは一度もないし、今後もないと思われる。
私は出生全般を反出生主義的な観点から否定、批判しているだけである。 生殖や出生は、主体を無防備にこの世界、すなわち、不条理性へ晒すことである また、この人間世界の大半は自分では選べない所与の要素で決まっている。遺伝子や生育、家庭環境を選べる子はいないし、大津波や大地震に遭うのを避けることも出来ない
つまり、主体が自己選択不能な所与と運のまま進むのが我々の生の実相なので、それはどこか隷属的な要素がどこまでも付きまとうのだ 出生の不可解さ、その暴力性は別に人間だけのことではない。なぜ俺はゴキブリに生まれたのだ?と強く憤っているゴキブリがいるかもしれないではないか。こうした場合、カフカの不条理劇はすぐ目の前である。神による、この出生が自分に強制付与された説明がないのであるから、全生命は世界の不条理性と対峙することになるのだ よって、主体性は個人に帰属するのではなく、所与性という外部、あるいは正体の見えぬ深淵にこそ真の主体があると言えるだろう
つまり、我々が普段、自分である、主体であると認識しているものは影や幻のごとき不確かなものであり、真の主体は決して現前していないのである。真の主体のありかは、出生を差配している宇宙のシステムの側にあるのではあるまいか 割りと最近のニュースだかアメリカでランニングを日課としていた若い女性が車でさらわれて行方不明になった、という事件があった。後日、死体が見つかって、レイプされたあと殺されたようだ。
ジョギングをしているだけで、いきなり酷い目に遭うこともあるのが、この世界であり、世界はこれを倫理的に説明できないのである。なぜ、ジョギングしているだけで、女性教師がそんな目に遭わねばならないのか?ヤクザやマフィアが抗争で死ぬことは自業自得で説明がつけられるが、そうでない事件も多い
こうしたランダムな暴力が飛び交うのが、この世界である。 反出生主義は存在しない架空の主体に審判を委ねるという点において、否定神学の様相を呈している。
こういった主体の絶対化はそれをより優位の概念によって位置付づける他無いが、まさにその論理によって主体性を剥奪される事になる。
そして主体性を欠いた人間はその肥大化するエゴに支配された傀儡に成り果ててしまう。
主体とは常にそれ自体によっては完結しない全体の一部分であるが故に、それが否定神学的な破滅願望へと短絡してしまう事になるのである。
主体性を回復するには種としての全体性の内に主体を位置付けなければならないのであり、主体性の回復とは人間性の回復と同義である。
つまり倫理とは他者を契機とする事によって初めて成り立ち得る自己否定の形式なのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています