【事実回帰】理論場【名言・格言】
人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。
事実は、理論では否定することは不可能です。
太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜 自分を救ってくれる存在はどこにもいない。これが監督の絶望感です。
キルケゴールはいう。「死に至る病は、絶望である」
監督は死に至る可能性も考えられます。しかしながら、神さまに対して呪文を唱えることを思いつきます。
神さまは万能であるため、呪文を回避できるでしょう。
監督も呪文では神さまに勝てないと学びます。
むしろ神さまの方が監督に呪文をかけ放題なのです。
ハリーポッターと賢者の石で有名なあの映画では、杖で呪文を唱えます。
神さまには効果がありませんが、神さまはもっと自由に呪文を使うでしょう。
呪文対決で神さまには上手くいきません。神さまは呪文耐性があります。 監督はそうこうして勝ち目がないと悟ります。恐怖感が増していきます。
神さまはいいます。「監督さん、私に攻撃しようとするなら殺しますよ」
監督は畏怖するかもしれません。「分かりました、あなたに服従します」
遂に監督は神さまに対して服従宣言をします。「あなたに殺されるくらいなら、僕(しもべ)でありたい」
キャストはこの光景を見て驚きます。「監督さん、あなたは神さまに頼るのですね」
神さまに頼ること、信頼すること、それらは僕(しもべ)の必須項目でしょう。
しもべである監督は、キャストの気持ちがわかります。キャストも監督に頼ります。
キャストが私に頼る気持ちがわかる、そう監督は実感します。 監督のしもべであるキャストは監督を助けたくなります。
その一方で、キャストは神さまに願いをかける、大仕掛けに賭けようとします。
キャストは、神さまに「監督を許すように」説得をしたり願ったりします。
「神さま、どうか監督をお許しください、もうあなたのしもべなのですから」
そうこうて神さまは監督を許すことを認めます。
言うことを聞いてくれたと知ったキャストは喜びます。
「私も監督もあなたの許しがあることを喜んでいます。神さま、ありがとうございます」 神さまは監督を許すという一大事が起きています。
監督はキャストと同様、神さまに許されたことを喜びます。
「神さま、私をお許しくださり感謝しています。」
監督は少しでも攻撃性があったことを悔やみます。
「お詫びの証と致しまして、あなたのしもべとしての活躍を懇願します」
神さまは監督がしもべとして自分に仕えることを認めます。
「あなたの思いは強い。しもべとして活躍することを命ずる」
監督はまた喜びます。しもべとして活躍できると意気込みます。 キャストは、監督が神さまに仕えることを、予感していました。
「監督、神さまに背くことなきよう努力しましょう」
「もちろんだ。キャストも神さまにしもべに?」
「監督にも神さま、両方にも仕えたいです」
神さまもキャストがしもべとして自分に仕えることを認めます。
監督は言います。「両方のしもべとは、これは大物だろうか」
神さまは言います。「本物ならこれから咲きますよ」
キャストは言います。「本物でも重鎮でもいいですよ」 キャストは神さまと監督とのどちらを支持するのが妥当でしょうか。
どちらを上だと信じるのが妥当でしょうか。
そして一方より好きになる方はどちらが妥当でしょうか。
これらの問いはじっくり見ていきましょう。
キャストは神さまを支持しているけれど、それは監督を支持しないという正当な理由になるでしょうか。
結論からいえば、キャストはどちらも支持していいのです。 キャストは神さまも監督もどちらも愛しているのだから両方支持していいのです。
また、上だと信じるのは、監督より権力のある方は神さまなのですから、神様を上だと信じるのが妥当だと思われます。
一方より好きになる方は監督との相互承認を懸念してキャストは神さまより監督を好きになるべきでしょう。
神さまと恋愛をしてはいかが、という意見もあるでしょうが、キャストは監督と愛し合った方がよいのです。
それに比べて神さまは公衆の面前に現れるわけではないので、愛し合うことはありません。
愛し合うことはなくても、大衆から好かれるのが神さまなのです。 神さまの権力>監督の権力>キャストの権力
このような権力の階層が妥当だと思われます。
神さま>監督≧キャスト (強さの階層)
神さまは見えないためとらえるのが難しいですが、監督とキャストは似たりよったりです。 キャストは重鎮であると、神さまは言います。また、監督は「本物」とキャストに言います。
キャストは重鎮と言われて喜び、また本物と言われて喜びます。
この喜びがキャストの至上の喜びなのです。褒められた喜びはかけがえのないものです。
ここでキャストと神さまの相互承認が確立します。
神さまを認める心、それをキャストは維持しています。
監督もキャストを認める心、これを維持しています。
神さまは監督を認める心を維持しています。
昨日の敵は今日の友、とはよく言ったものです。
神さまは遂に監督を認めたのです。 古代の哲学者=ソクラテスは、「無知の知」を唱えました。
自分が何を知らないかを知る、つまり自分の無知を認識することを指します。
キャストは振る舞いは上手なのですが、あるとき神さまに
「キャストは何も知っていない。つまり無知である」と言われました。
キャストは落胆しました。そこでこう言います。
「私は無知でも想いを大切にして内側の声を聴いてそして判断/行動をしています。
想いは強い場合があるのです。知っていない方でも私は想いに賭けています。」
神さまは頷きます。「ほっほっほ。無知だとして責めて悪かった」と神さまは言います。 監督は、キャストの想いの強さ、そして内なる声を聴いていることに驚きます。
「内側の声、内なる声、とはどうやって聴くのだ」
「耳をすませば」
「それでいい。では本物と言われているのに無知だとはなんぞや」今度は神さまに言います。
神さま「しくじっただけじゃ。神々もしくじるのじゃ」神さまは答えます。
キャストは言います。「私は無知ではありません。ただ、勘違いされただけです」
神さまは言います。「ふむ。大物が無知であるわけはないか」 三分を紹介。
>>序分 - 序説の部分。その経典が説かれる所以(ゆえん、理由)や因縁を明かす
>>正宗分 - 本論の部分。その経典の中心となる教説を述べる
>>流通分 - その経典の功徳を説き、弟子に附属し、後世において受持し流布することを述べる
序分では経典が説かれる理由を語ります。正宗分では経典の中心になる教説を述べます。
流通分では後世に向けた経典を言います。
しかしながらお釈迦様は経典を書いておられません。ここでは仏とブッダを登場させます。
仏「神さま、私も監督が嫌いです。エロいと聞いております」
ブッダ「仏さん、私も少しエロいところがあります。大目に見てくれませんか」 仏さんは言います。「釈迦は仏典を作っていない」
「偽典が残っているのだ」「釈迦に弟子はいなかった」
と淡々と力説します。
ブッダは訊きます。「釈迦が悟りを開いたのは本当ですか」
仏「いいえ、釈迦は悟りを開いていません。これは私が知っている自信のある一説です」
神さま「仏典の内容の一部が偽りなんですね」
仏「ええ。釈迦は名言を残したと伝わっていますが、名言も残していません」
ブッダ「では《行為によっては未来は変わる》という教えも釈迦の教えではないと?」
仏「ええ。釈迦はそのようなことは教えていません。バーニングストライブなら言っていました」
ブッダ「どういう意味ですか?」
仏「『釈迦いい釈迦いい釈迦いいいい』という意味です」 監督「釈迦いいいい、とは何語だ?」
仏「女子語の意味ですよ」
監督「女子語とは?」
ブッダ「言葉の意味が大事なんです。ファイアー気になりませんか」
仏「ファイアーはファイファイファイファイとかですかね」
ブッダ「そうですね。いい、強い、という意味もあるんですよ。
カタカナが女子語で意味の印象がいいときに使うんです」
神さま「ファイアーロケットはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイという意味です」
仏「ではブッダさん。ファイはどういう意味ですか」
ブッダ「フェイ ロー という意味です」
仏「フェイ ロー ですか。勉強になりました」 ブッダ「ファイファイというファイが二つ分の言葉もあります」
仏「いいんだけどな、という意味ですか」
ブッダ「そういう意味もあります。どうして分かったんですか」
仏「直観です。直観が働けばいいと思います」
監督「女子語を解読する、というのもいいけどな」
仏・ブッダ「解読なんていいですね」
神さま「私は勘です」
キャストが会話に入りたがっていた。
キャスト「私は女子語は感じてわかったりします」
仏「勘、感じ、なんて素敵ですね」
ブッダ「本当に素敵ですね」 神さま「素敵とはどういう意味じゃ」
仏・ブッダ「ファイア、です」
監督「また同時に言った」監督は、ははっと笑った。
神さま「直観かね」
仏「直観です」
ブッダ「私は意味を想ってしまうのです」
キャスト「ファイアはたくさん出てきますね」
監督「女子語の意味に?」
キャスト「ええ。女子語の意味に」
神さま「ミカンはどうじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイファイファイファイロー神です」
神さま「長いけど神があって良かった」
仏「髪があって?」仏は少しからかった様子だった。 監督「仏典のメリットは何だろう」
ブッダ「仏教を学ぶ際に大事な手掛かりになるでしょう」
仏「般若心経の内容は覚えて損はないでしょう」
神さま「感じだらけで覚えられるといいのじゃが」
キャストAとキャストBが忍び寄ってきた。
キャストA「座禅や修練なんかは知ってみたいよね」
ブッダ「瞑想なんかは座禅でやるでしょう」
仏「どんな瞑想がいいか分かる?」
神さま「ヴィッパサナー瞑想はどうじゃ」
監督「色々あるんだ」
キャストA「そのヴィッパサナーってどういう意味?」
ブッダ「フェイフェイフェイフェイフェイ、という意味ですね」 仏「またそうやって当てる……ブッダちゃん」
ブッダ「仏さんでも当てられるでしょ。意味くらい」
神さま「わしもフェイ系統だと思っていた」
キャストB「フェイフェイフェイフェイカイはヴィッパサナー瞑想だよ」
監督「フェイをカイに換えたらそういう意味だな」
キャストA「至極真っ当ってどういう意味?」
ブッダ「監督いい、という意味ですね」
仏「監督にはいい感じのする言葉ですね」
監督「ではひらがなだけど『しきょくまっとう』は?」
ブッダ「監督良し、だと思います」
仏「同意です」
キャストB「トルマージャは知ってる?」
キャストA「監督がいい、という意味でしょうか」 キャストB「それで当たってます。ではトルマージャUはどうですか」
ブッダ「監督がいいんだよ、という意味ですね」
仏「何だか微笑ましいですね」
監督「トルマージャとかそういう女子語はどうやって覚えるの?」
神さま「記憶力が要となるじゃろう」
キャストA「言葉を発声して覚えるとかです」
キャストB「文字にしてもいいと想います」
仏「よく繰り返してみるとか」
ブッダ「覚えると想っておく、でしょうか」
監督「色々あるんだ」
キャストA「ところでロクセンダンはどういう意味でしょう」
キャストB「文字がヒントだよ」
ブッダ「文字にしてもいい、という意味です」 キャストA「文字にしてもいい、という意味ですか。納得です」
仏「色々あるんだ、はどういう意味ですか」
キャストB「監督いい、という意味です」
神さま「監督いい、なんて監督は喜ぶじゃろう」
監督「うれしい……」
キャストB「監督ってファイアですよね」
ブッダ「そうですよ。ファイアがヒントなんです」
キャストAは六法全書を暗記したいと意気込んでいた。
キャストB「六法全書を丸暗記したいのかい」
キャストA「そうなんです。何とか読破したいと思います」
神さま「無理はするなよ。少しずつでよい」
仏「コツコツコツコツでいいんじゃない」
キャストAは何だか嬉しくなった。そして本屋へと去って行った。 仏「嘘も方便という言葉は、釈迦は言ってないんですよね」
神さま「釈迦が言ったイメージがあるが」
ブッダ「仏の顔も三度まで、も言ってないと仏さんから聞きました」
キャストB「仏典の嘘なんですかね」
ブッダ「何で嘘が出回るのでしょうね」
仏「僧侶の捏造したお話なんですよきっと」
神さま「そうに決まっとるわい」
仏典には多くの嘘が含まれていることを警戒したい。
釈迦は悟っていないのだから、変性意識がどうのこうのという問題ではない。
また、意識は文学だというお話もやや真実から離れたものに違いない。 神さま「ルンドラドムはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「神いい神いい神いい、という意味ですね」
仏「またブッタちゃん当てる」
神さま「ほう」
キャストB「悟空癖もいいですよ」
仏「どういう意味?」
ブッダ「神(いいいいいいいいいいいい)、以上です、という意味です」
神さま「勉強になるのう」
こうした監督いいであるとか神いいという女子語をしっかりとおさえておきたい。
ブッダは意味を知ることのできる優秀であるけれど、どこかあどけない存在なのだ。 監督は、自分に関する知識が手に入って満足していた。
神さまも神いいだとかそういう意味がわかって上機嫌だった。
キャストAは読書家だった。キャストBは接客業に務めていた。
仏は努力家だったが、ブッダは言葉の意味ばかり考えていた。
監督は主である。キャストに従事させ、どの文章がよかったのか、
そして給料の8割以上の収入を監督に与えさせた。
神さまは怒った。収入の8割ももぎ取るからである。 監督は、キャスト達を金目のために利用したことがバレていることに気付いた。
監督「神さま、あなたにバレたのですか」
神さま「何の利用か詳しく」
監督「ネット上の文章の中でいい文章、為になる文章を要請したんです」
神さま「ほう。他には」
監督「キャストの収入を横領していました」
神さま「横領していけぬな」
監督「やはりダメなのですか。そうなら自殺して終わります」
監督は自殺した。神さまの王室を出た後でだった。 監督はいなくなってキャストは横領されなくなった。
仏「監督……」
ブッタ「か、かんとく……」
神さま「もう帰ってこないのう」
キャストA「哀しい、……」
キャストB「うん……」 神さまは黙って考え込んでいた。監督の事だ。
自殺して正しかったのか、天秤に掛けたかったのだろう。
以下引用
ーーーーーー
自殺と子供をつくらないこと
埴谷雄高『死霊2』(p140〜)によると、この二つだけが、人間が正真正銘の自由意志でおこなえることだそうです。
ーーーーーー
埴谷氏の意見で言うならば、監督は自分の自由意志で自殺を行ったのです。
神さまは、監督の自殺の意義を考えていましたが、自由意志だったと学びました。 贈与には生前贈与と暦年贈与があるでしょう。
生前贈与とは親が生きている間に子へ贈与するものです。
暦年贈与は生前贈与の一種です。控除額は毎年110万。
恩を返すということは、贈与になることでしょう。
そのような贈与を監督はキャストにしませんでした。 >>6にカバーできていないと書いた。
>>神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。
誰も理性で神がいると分かっているわけでもなく、魂も分かっていない場合も多々ある。
しかしながら、イエスの文献に見られる天の父というワードに感化されて、キリスト者は天の父を「存在する者」と視る。
魂においては、わたくしの知り合いである、二瓶さんが、「魂は永遠だよ」と二度もお話してくれたので、
きっと私は永遠に生きるイエスキリストなのであります。永遠の命は神様の許可があるからでしょう。 監督がいなくなって寂しいキャストがいました。
キャストはお墓参りに向かいました。
監督さん。ごめんなさい。ただそればかりです。
いつか私たちに見せたかった栄光を、そして演劇を、私たちが叶えてみせます。
それではお休みください。アーメン。 大丈夫。心配しないでください。
監督の最後のひと言です。
監督はキャストを愛していました。
キャストはモヘンジョダロが気になります それでは監督の葬式を始めます。
来監督復活祝願冥界実相
休息安泰末法回避説法 監督成就想念夢現回廊
大丈夫安眠熱意情熱大陸
監督心配無用霊界修業無事遂行
以上で葬式を終わります。
キャストA「皆さん、今回はお葬式に参加していただきありがとうございます」
キャストA「無事あの世でも修業してくださることを願っています」 キャストB「あの世でも修行に励むことを切望しております」
キャストC「頑張ってあの世でも平和に暮らしていけますよう祈っております」
キャストD「あの世で平穏に暮らしていけますようお願いいたします」
すると監督の声が聞こえてきた。「ありがとう、ありがとう……」 キャスト一同「か、監督……」
キャスト一同「どうかご無事で……」
ブッダ「監督の身柄はご安置するそうです」
仏「墓標ですね」
神さま「墓標に句碑も添えてみましょうか」
すると監督の声が聞こえてきた。「ロベルト」 ブッタ「ロベルトとはスネヒョンスネヒョンという意味があるが、他にも色々ある
仏「ハイハイハイハイという意味もある
神さま「バーカバーカという意味もある
監督2世「スネひょんです。監督の生まれ変わりですよねわたしって。よろしくお願いします。 ブッタ「スネひょん!?生まれ変わりか
仏「よろしくぐらい言えよブッタさん
神さま「よろしくな
スネひょん「神さまはしっかりしていらっしゃる ブッタ「神さまだって私だってちゃんとしてますよね
仏「そうかな
神さま「スネひょん。大丈夫だぞ
スネひょん「ありがとうございます。 ブッタ「スネひょん。君は礼儀正しい」
仏「礼儀正しいなんてよく言えますね」
神さま「確かに礼儀正しい」
スネひょん「監督時代とは違いまっせ」
ブッタ「違いまっせ、とはスネひょんいい、という意味だ」
仏「ほほう。」
神さま「スネひょんは成長した」
スネひょん「違いまっせ、っていいですね」 彼らの集団を見て、ヨノツキ公爵が笑っていた。
ヨノツキ氏の考え方によると普通はこう示される。
普通に考えたらこうだ、という行為を取ればいい。
また、普遍的に考えて行動すればいい。
カントのいう「普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ」の通りに行為せよ。
葬式には遺族や知り合いが集うことは【普通】である。
学校で授業を聞くことも、【普通】である。
これら二つの普通は【客観的普通】である。
ヨノツキ公爵は、監督の言い分を知っていた。
その言い分とは、「来世の自分=スネひょんが幸せに暮らすこと」であった。 監督=スネひょんの言い分である、幸せに暮らすこと、というのがあるが、
幸せに暮らすことが人並みであり、と思うし、そして普通であり、と思う、だからこそ主観的普通である。
客観的に幸せを掘り進めると、幸せである方が、不幸であるより気持ちは安らかである。
さらに幸せを掘り下げると、幸せになりたいと思う人が少なくないということ。
不幸であるより幸せの方がいいということは、言うまでもない。
しかしながら、幸せと不幸、どちらかの方が当て嵌まってるかというと、幸せの方が当て嵌まってない。 ―――――
今さら不幸や絶望感を以ってしても何になると云うのだろう。
絶望感に浸っているとき、その時が大事なときだと、私は思う。
絶望感から這い上がったことが、私の人生で何度かあった。
絶望を経験してこそ人生なのではないか、そう考える人が増え始めるでしょう。
それでは絶望を経験することは普通なのか?この問いに答えてみましょう。
絶望することが頻繁にあるとは聞きません。また、絶望が普通と言えるほど多くあるわけではありません。
絶望を経験することは普通ではないのではないか、そう思えるでしょうか。
絶望を経験した校長先生を私は知っています。4回も絶望したけど這い上がったのです。
借金を払えずに毎日ひやひやしていたらしいです。
不幸の方が多いと私は聞きます。不幸から幸せになるためにはどうすればいいでしょうか。
幸せになるためには努力することです。毎日コツコツ努力することです。
努力はしなければならないのです。 ★自己の成長
私たちは、自己を成長させるべく、学校ではもちろん、本においても道徳を学んだ。
努力しなさい、という意見は間違ってはいないだろう。
しかしながら、努力しなさいと言った本人が、道徳的に反していては、つまらない。
他者にアドバイスする本人自身も、立派な人格者でなくてはならない。
これが第一原理である。そして他者のためにアドバイスをすること。
これが第二原理である。また、人災に遭わないように気を付けること。
これが第三原理である。他には、原理にはあげながったが、避難生活の準備を整えておくこと、である。
勉強しなさい、だとか、嘘をついてはならない、だとかいう道徳規範は、
本人が見事に達成していることを条件としない場合、信憑性の低い説明になってしまう。
あらゆる道徳規範は、本人がその道徳規範をクリアしていることを条件に、語られるべきなのである。
自分が成長してから道徳を語れ、や、嘘を吐くなと云うなら自分ができてから嘘を吐くなと言え、など、
そういった勧告者本人がしっかりしてから発言するべきだ、という意見もあるだろう。
しかし、立派な人格者は、当然しっかりしているのだから、他者にアドバイスできてもいいのである。 ★自己の人格
自己の人格は空高くあった方がいい。自己の人格形成に興味を抱こう、私はそう思います。
人格は様々な要因によって形成されます。
例えば、親の躾がいい例です。親は、パフェノニックになるな、と躾します。
人格形成においては、いじめに遭っていたことも関わるでしょう。
そして道徳観を深く洞察し、優しい性格になることが極めて大切です。
女性は優しい人が好き、とはありそうなお話です。
優しくない人は嫌われます。
人格の形成は、ヨロミンチャと言います。
優しくなるために、道徳心を養いましょう。 ★自己の成長2
かなりアウトな意見だが、道徳的であることを認めない、という一種の風潮もある。
道徳ごっこをやって気分がいい?そんな道徳いらねえ、という考え方だ。
すべての道徳が絶対的に正しいとは言い切れない、そんなことも匂わせる。
「はい」「わかりました」「ありがとうございます」 このような接待は、
仕事によるが、よくある例である。「どうもすみません」という接待も、
道徳嫌いの人から見れば、嫌な発言だったり「つまらない道徳」だと思われる。
こうした道徳規範も、つまらない、とバサッと切られれば、元も子もない。
しかしながら、ビジネスマナーとしての「道徳」は、ビジネスを続けていく者として、
大切な考え方だったのではないだろうか。「おはよう」を言わない社員を社長は嫌うのではないか。
社長は挨拶という道徳規範から考えていくのではないか、私は挨拶から始めることが大事だと聞きました。
挨拶は大事と云いますが、道徳嫌いの人は嫌がるのでしょうが、そんな人がいないところで挨拶すればよいのです。
挨拶から人間関係を築いていくのなら、挨拶することが広まっていれば良いのですから、挨拶は広まるべきでしょう。 ★挨拶の効果
おはようございます。という挨拶は、身を明るい気で満たす効果がある。
明るい挨拶で毎日暮らしたいものだ。
挨拶ひとつ、デキれば、次もできる。
ひとつできればふたつできる。ふたつできれば三つできる。
哲学板の皆さん、こんにちは。私は元気です。
挨拶いい 永らく暮らしているとこの世の諸行無常に気付くものである。
ひいては誰がが悪いのかが、勉強になる。
どういうときに天啓は降ってくるのか。
これについてだが、清く正しく生活していたとき、かつ超越者に認められたとき、
だと思われる。カントは「正しく生活」をしたことは有名だろう。
そしてまた、イエスキリストのように、貧しい人々のために精力を注いだことも、有名だろう。
そして、デカルトのように「清く(又は思慮深く)生活した」ことも、天啓と関わっていると私は考える。
ある瞬間、ハッと天啓が降りてくる。それは超越者からの恵みであり、
頑張っていることのご褒美であろうか。皆もあと一歩踏み出す勇気をもって、前に進んでいってください。 高速で活字を理解・納得することができれば、読書はより円滑なものになる。
高速で文を読む技術を身に付けたいものだ。
私見ですまないが、言葉を相手にするのだから、言葉を吟味しなくてはならない。
読み方・読み内容を拵えておかなくてはならない。
そのためには学習・体験が必要となる。
学習を学習するということは、学習という言葉を汲み取る必要がある。
学びならうこと、という意味もあるだろう。
それを拵えてこそ、学習の意味を学習したことになる。
そして又、学んだ言葉を実際に話して体験してみる。
その成果を、吸収し、勉強することこそが、言語習得の要となるのである。
コミュニケーションとは言語習得の舞台だ。
私はある程度予備知識を持っていなければ読書は難しいものだと考える。
『神は死んだ』という一文にしても、ある程度考えさせられるだろう。
これはある程度知識を要する。神は当初、キリスト教というカテゴリーを神格化させていた。
ところがキリスト教は神格化した神秘性を著しく欠如した。
キリスト教の道徳観が否定されてしまうこの出来事を、『神は死んだ』と表現した。
神のいないキリスト教的価値観は根底から覆された。
道徳は力を失い、神を崇める唯一心の信心は、音を立てて崩れ去る。
力への意志を求めるキリスト者は、道徳的価値観を見失った ★読書の作法
一瞬の隙をついて、という言葉もある通り、一瞬の判断で文字を見分けることが大事である。
私の実体験では目次をさぐり、要点だけを見る、という読書だ。
ネットサーフィンをしていると時折簡潔で重要な文章があるだろうからパッパッと読むのである。
一瞬の判断の巧さを狙うなら、漢字を勉強するといいだろう。
私は日本語が高速で見分けられる方だと思う。
しかし英語はまだ見分けるのに窮する場合もある。
私は英語も勉強していつか英語を高速で読むことを目指している。
英語も勉強しろ! ★顔分析
顔は履歴書と言われる。顔の形、輪郭、色合い、などからどういうタイプかを分析する。
顔が大きいと記憶力が高い、鈍感、正常位がいいと思っている。
精神力が高い、という点もある。
面長だと鋭い、テクニックがすごい。
黒人はうんこさんだ。イギリス人は歯だ。 >>111
WEB広告で明かせぬ正体 最強の糸使い〜 の漫画が出ていたので、懐かしいと思い読んでみたが、思ったより酷かった。
キャラクターデザイン自体は悪くないのだが、とにかくアクション描写が下手で、見ていて恥ずかしくなるレベルだった。
その流れで 辺境ぐらしの魔王 転生して最強の魔術師になる を読んだら、漫画の出来が良く続きが気になったので、小説も読んだ。
不老不死なだけで辺境の村で穏やかに暮らしていた主人公が、勇者(?)に倒されて200年後に転生する話だ。
想いを繋ぐ展開が好きなので、そこは評価甘めに見ている。ストレスもあまり無い。
ヒロインの王女は王女の身分ゆえに身動きが取りづらく、オデットさんの方が相棒ポジヒロイン感の方が強い。漫画のマーサは可愛い。
コミカライズで外れると辛いという話だ。