○●○●競争社会は本当に有益なのか?○●○●
また、人間は何故競争したがるのか?
競争を否定して全員に同じことをさせるのは、そもそも
競争を否定する趣旨である個性の尊重にふさわしい行為
なのか?
人間は、何故、競争や競争でない上辺の平等で性懲りも
なく自分自身の個性を潰しているのか?
競争社会でない「個性社会」とは、どういうものなのか?
以上のことについてのみ議論すべし。 不思議なことに日本国民は、
「競争」を美徳とし、「奪い合うこと」を醜悪なことのように考えている。
この論理でいくと、ヒトラーに忠誠を尽くしたアイヒマンの行為は美徳であり
収容所の中で一片のパンを奪い合った弱い人々は醜悪だったということになる
のだが?www 悲惨な人身事故現場で、「笑いながらスマホで撮影するやつ」というのは、
「奪い合っている」のだろうか、それとも
「競争している」のだろうか? 「競争」を宿命付けるようなアタマの悪い立論に次のようなものがある。
「人間は、何億という精子たちが(競争)して卵子に辿り着き受精という目的を達し命を得るのだから、生まれてからも(競争する)ことは不思議でもなんでもなく当然のことなのだ」
この意見のどこが馬鹿げているかお分かりになるだろうか?
勘の良い人は、もう気付いているかもしれない。
そう・・・・「競争する」のは、あくまで他者とであるということが前提として抜け落ちているのだ。
何億という精子の中に「他者の精子」が混じって「競争する」ハメになっている、というような変態的な生殖行為を、いったい誰がやりたいと思うだろうか?第一そんなことが可能なのだろうか?
それとも「競争したがる変態」というのは、人間の正常な生殖行為では満足できないほど変態なのだろうか? 人間は、精子と卵子が一体となり「命」をいただきます。
「命」とは、そういう意味で「二であり一であるもの」
「一であり二であるもの」ということができるでしょう。
これは分割できないものとしてあります。
「命」は物質レベルでは分割できませんが、AIはそうで
はありません。AIは物質レベルで分割可能です。
また、「唯一無二」という概念で人間を表わそうとする考え
方があります。
しかし、「唯一無二」は「二であり一であるもの」「一であり
二であるもの」という概念とは次元を異にする意味しかあり
ません、
「唯一無二」とは、つまり、存在の外形に特化した概念に
過ぎないのです。
人間とは、分割できない「二であり一であるもの」「一であり
二であるもの」なのであって、「唯一無二」というわけではあ
りません。「唯一無二」であるのは、厳密にはAIにさえ当て
嵌まるからです。 人間の「命」は、競争で出来上がったものではない。
それは、
「不可分のものへ成ろうとする意志」
によって(神に祝福されつつ)生れ落ちたのだ。
だから、この世界内においても人間は、「不可分のものへ成ろうとする意志」を
(神の祝福のもとに)継続している。
可分のものにしかならない競争行為は、そういう意味で
(神に祝福されぬ)呪われた行動であると言うしかないのである。 たとえば
海に潜ることを楽しんでいる人は、海と不可分なのである。
しかし
潜水を競争しているだけの人は、結果次第で海と可分になる。
「潜るのはきみでなくてもいい」という宣告によって。 権力的地位に就いて社会を混乱させる迷惑な奴ほど
競争がなければ科学や文明の進歩もなかったんだと
したり顔で言うが本当だろうか?
たとえば、「電球」は競争の産物だったのだろうか?
たしかに、「殺人兵器」は競争の産物だったと言える
のかもしれないが、それは科学や文明の進歩の産物と
看做せるのだろうか? >>8 訂正。
× 看做せるのだろうか?
○ 看做して良いのだろうか? 資本主義市場経済では労働者階級を永久に機械やロボットやAIを競争させることが至上命令。
すべての個人は市場に参加することを奨励され、「頑張れ」というイデオロギーが社会全体に流布されます。
そのイデオロギーをもっとも体現しているのはスポーツです。
資本主義的マスメディアはスポーツを賛美し、競争の素晴らしさを社会全体に常に宣伝し続けます。
そうすることによって労働者階級をロボットや機械やAIと競争する意欲を駆り立てる必要があるからです。
資本主義の経済成長はこのようにして人々の強迫観念となっていきます。
一種のマインドコントロールです。
このマインドコントロールなしには資本主義経済は維持できないのです。 グローバルな競争に生き残れるのは、飛び抜けて有能な人。もとより家柄、血筋、学歴、容姿、社交性、コネその他有利な条件に恵まれたパワーエリートだけ。
アメリカのプログラマーもインドの同業者に職を奪われ、月並みな努力や工夫では生き残れない。
そんな中、地域商店街的なきめ細かな地元のニーズを埋める小さくともいい仕事は段々、なくなってきている。
でもピンチはチャンス。そんなときにこそ、新たな仕事を創るフィールドが目の前に広がっているかもしれない。 メルカリは、巨大なバザーとネットワークゲームのシステムを組み合わせたいい試み。
オークションみたいに競争を煽る雰囲気は弱い。
あれでリアル店舗はなくても、個人や小集団が手作りのものを売って自立できる 少なくとも副業にはなるルートが大衆的に開けた。 >>10
>資本主義の経済成長はこのようにして人々の強迫観念となっていきます。
資本主義社会の企業に属する「家畜」が、そういう強迫観念?をもっていることに経営
者は何かメリットがあるというのだろうか?
たとえば、一定の広さしかない牧場で、「家畜」どもが生存競争の陣地の取り合いを、
牧場主に無断ではじめてしまったらどうなるだろうか?
そういう牧場が、資本主義社会を維持できるというのだろうか?
資本主義という制度自体に何か怪しげな属性の先入観をもたせ、そういう制度だから
仕方ないんじゃないかという議論が、はたして正当と言えるのか疑問だ。 競争は皆に押し付けることはできないが、巻き込まれたら上昇気流だから、
批判して避けなくてもいい。憎む機微だけじゃない。 >>14
労働者間の激しい競争関係は労働者同士が協力・一致団結して経営者に対抗するのを防ぎ、
労働者の賃金を抑え、資本収益率を上げ、資本家の利潤を最大化するメリットがある。 >>16
>資本家の利潤を最大化するメリットがある。
たしかに、家畜がより美味しい肉を牧場主に提供するために、他の家畜よりも良い
肉質になるように競争してくれれば、牧場主(資本家)にとって大きなメリットだ
ろう。
しかし、そんな家畜が居るだろうか?
家畜が競争するとしたら、しょせんは「家畜の脳ミソ」で競争するのだ。
それは結果的に牧場主(資本家)に利益をもたらすようなことでさえなく、他の
家畜を虐げおのれが快楽を得るために競争するだけなのではないだろうか?
マトモな牧場主(資本家)なら、そんな何の得にもならないことは家畜にさせない
だろう。異常な牧場主(資本家)だけが、そうさせているおのれの権力に酔いしれ
ているこの腐り切った現状を見よ!
優秀な人間を選別するために競争させているだと?
優秀な個体が欲しければ、まるで家畜同士を共喰いさせるような「試験制度」では
なく優秀な個体を客観的データによって選別し、ふさわしい教育を与えてやればいい。
それは家畜同士が血みどろの競争をするのではなく、牧場主(資本家)が個々に
ふさわしい環境を与えてやるというだけの話だ。
数字を出せない他の家畜を虐げる家畜。その愚行(競争)は、牧場主(資本家)に
とって何の意味も無いどころか、牧場の経営自体を崩壊させかねないのだ。
日大のアメフト事件を思い出せ。ブラック企業で起こる様々なパワハラ騒動を想起
するがいい。
悪趣味な牧場主(資本家)が家畜を共喰いさせるが如き競争社会に、いったいどん
な正当性があるというのだろう?