戦前、日本だった頃の台湾 [転載禁止]©2ch.net

1美麗島の名無桑2014/12/23(火) 22:47:58.78
祖母が生まれてから終戦まで台湾に住んでいました。
日本だった頃の台湾の様子を知りたいんだけど、
おまいらのおじいちゃんおばあちゃんで台湾にいた人いない?

622美麗島の名無桑2017/12/17(日) 01:30:25.24

623美麗島の名無桑2018/01/03(水) 12:38:07.46
日本統治時代から残る旧宿舎群で民家を活性化 読書教育の拠点に/台湾

【社会】 2018/01/02 13:21

(台中 2日 中央社)戦後に中国大陸から移り住んだ人たちが暮らした集落「眷村」を活性化させた芸術村「清水眷村文化園区」(台中市)に昨年12月30日、児童向けの文化施設「海湾絵本館」がオープンした。
開館式に出席した鄭麗君文化部長(文化相)は、読書教育推進の重要な拠点としての同館の役割に期待を寄せた。

同園区は日本統治時代、近隣にあった海軍第六燃料廠の新高工場で働く職員の宿舎群とされた。
戦後には国民党政権に接収され、空軍発動機製造工場の職員が住む地域となったが、現在でも園区内では日本統治時代の宿舎の様子を目にすることができる。

新たに開館した同館は園区内の古い民家を再利用し、一年をかけて現在の姿に生まれ変わった。
館長に就任したクリエイターの陳旻イクさんによれば、館内に所蔵されるのは台湾の作者の絵本が中心。
今後は作者を招き、読書会など交流の機会を設けたいと話した。
(イク=曰の下に立)

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201801020002.aspx

624美麗島の名無桑2018/01/03(水) 12:53:11.23
日本時代建設のたばこ工場が台湾文化発信拠点に 南部・屏東の特色伝える

【観光】 2017/12/29 17:29

(屏東 29日 中央社)日本統治時代に建設された南部・屏東県のたばこ工場「屏東エン葉廠」(屏東市)が、博物館・文化発信拠点として生まれ変わろうとしている。
30日には、全24棟ある鉄筋コンクリート造りの建物のうち、すでに修復を終えた「中山堂」が初公開され、
博物館の慣例にとらわれない自由な展示やイベントを通じ、多民族の文化が融合する地元の魅力をアピールする。
(エン=くさかんむりに於)

同工場は、1936(昭和11)年に建てられた「台湾総督府屏東支局葉煙草再乾燥場」を前身とする。
戦後には香蕉(バナナ)、珍珠(パール)、楽園(パラダイス)などの銘柄の紙巻きたばこや刻みたばこが生産された。
しかし、世界貿易機関(WTO)加盟に伴う専売制の廃止や喫煙人口の減少により、2002年に閉鎖。内部には大量の機械・器具が残され、地元のたばこ産業の歴史を物語る資料となっている。

屏東県は2010年、かつて事務所だった中山堂を含む4棟を県の歴史建築に指定。
また今年、広大な敷地に残るその他20棟の建物についても歴史建築群として保留し、一括して再整備する方針を固め、中央政府に4億7000万台湾元(約17億8400万円)の予算を申請している。
今後は、たばこ工場の輪郭を残しつつ、ビン南系、客家系、戦後に移民してきた中国大陸出身者などの
漢民族や原住民(先住民)らがともに暮らす地元の特色を生かし、民族の違いにとらわれないクリエイティブな博物館・文化発信拠点として整備する予定だという。
(ビン=門がまえに虫)

中山堂の初公開に当たっては、「南風博物」と銘打った一連のイベントが企画されている。
「家」をテーマに、地元に住む各民族の家屋を紹介する展示やウイークエンドマーケット、ガイドツアー、映画上映会などで屏東の多様な文化を感じ取ることができる。
開催は1月28日まで。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201712290005.aspx

625美麗島の名無桑2018/01/03(水) 13:03:44.55
日本統治時代建設の手水舎を写した白黒写真 現在の姿とうり二つ/台湾

【観光】 2017/12/31 18:56

(嘉義 31日 中央社)日本統治時代に建設された旧嘉義神社の境内(現・嘉義公園)に残されている手水舎の白黒写真が嘉義市政府文化局出版の写真集「嘉義写真」に収められている。
写真に写っている手水舎が現在の姿と非常に近いことから、現存する手水舎が度重なる改修を経ながらも昔の面影を残したまま保存されてきたことがうかがえる。

同局は今年2月から3月にかけて地元の往年の写真を集めるプロジェクトを実施。手水舎の古写真はその際に市民から提供された。
写真集の編さんに携わった蔡栄順さんによると、写真には1943(昭和18)年に撮影されたことが記されていたという。

嘉義神社は1915(大正4)年に一代目の社殿が完成。参拝需要が増加し、1944(昭和19)年に二代目の社殿を増設。
だが、害虫被害や火災などに見舞われ、今では社務所や手水舎などだけが当時の名残をとどめている。
2015年7月、長らく水の流れを絶やしていた手水舎が復活。
現代風に感応式の自動水栓が設置され、来訪者は手や口を清める日本式の作法を体験することができる。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201712310003.aspx

626美麗島の名無桑2018/01/03(水) 13:05:22.48
日本時代に開業の旧泰安駅周辺、環境改善で夏場にはホタルも?/台湾・台中

【観光】 2017/12/28 19:04

(台中 28日 中央社)中部・台中市后里の泰安鉄道文化園区とその周辺で進められていた再整備計画がこのほど完了した。
山の斜面を利用した景観や公園としての持ち味はとどめつつ、歩行者動線の改善や植樹、水路の設置などによってより生態系に配慮した憩いの場となっており、夏場にはチョウやホタルも見られるという。

同園の前身は、日本統治時代の1910(明治43)年に開業した旧山線の旧泰安駅。
1998年、新線の開通によって旧山線が廃線になったのに伴い、観光スポットに生まれ変わった。
旧駅舎や構内の線路が保存され、これまでに多くの鉄道ファンや写真愛好家らを引き付けてきた。

しかし、駅や周辺施設の老朽化が目立つようになったほか、車やバイクの無断駐車が多くて歩きづらいなどの問題点があったことから、地元選出の洪慈庸立法委員(国会議員)が改善を求めて奔走、中央省庁や台中市政府の支持を得て工事が実現した。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201712280010.aspx

627美麗島の名無桑2018/01/07(日) 01:23:27.38
放置されていた日本統治時代の蒸気機関車、台南市が修繕へ/台湾

【観光】 2018/01/04 13:35

(台南 4日 中央社)南部・台南市内の公園に30年余りにわたり放置されていた日本統治時代の蒸気機関車2両が今年、同市政府によって修繕される見通しとなった。
文化局の担当者は、修繕作業を通じて機関車の価値を引き立てたいとしている。

修繕されるのは、旧台湾総督府鉄道「C55 1」と「D51 2」。C551号機は1935年、
始政40周年記念の台湾博覧会開催に合わせて日本から持ち込まれ、台湾に初めて導入された最新型の蒸気機関車として同年から走行を開始。
D512号機は1940年に投入された。戦後は2両とも台湾鉄路管理局に引き渡され、C551号機はCT251号機に、D512号機はDT652号機に改称された。
台湾に現存するC55形は2両、D51形は4両のみ。

2両は引退後の1983年に台南市政府に寄贈され、体育公園に設置された。
だが、雨風から車体を守る囲いは取り付けられていたものの、解説板も立てられておらず、ひっそりと置かれているのみだった。
市は2015年、その希少性などから、2両をそれぞれ市の有形文化財(古物)に登録。
2016年には日本統治時代のプラットホームの雰囲気を再現しようと、周辺設備の改善工事に着手した。
工事は先月完了し、今月15日から一般公開される。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201801040002.aspx

628美麗島の名無桑2018/01/08(月) 15:03:01.00
日本統治時代の移民村を紹介した新刊 時代の生き証人が歴史伝える/台湾

【社会】 2018/01/07 16:27

(花蓮 7日 中央社)日本統治時代の台湾で最初に官営移民が行われた東部・花蓮県の吉野村(現・吉安郷)を紹介するノンフィクションの新刊発表会が6日、同県で行われた。
当時の吉野村を知る生き証人として本に登場した82歳の男性がイベントに出席し、人々に自身の記憶を伝えた。

同地周辺はかつて、日本人の移民村として栄えた。
現在も残されている記念碑によれば、1905(明治38)年当時、人口は1700人余り。
道路や鉄道が整備されていたほか、医療施設や小学校、郵便局などもあった。
同県で歴史研究に従事する王淑娟さんらが吉野村を知る20人余りのお年寄りをインタビューし、古写真などを探しながら2年かけて本にまとめた。

イベントに出席した張朝栄さん(82)は、吉野村は第二次世界大戦末期、重要な軍事基地だったと語る。
村の東側には堀で囲まれた飛行場が、山には戦闘機などを敵の空襲から守る掩体壕(えんたいごう)が作られた。
戦闘機が飛行場に降り立つ度に、40〜50人がかりで押して山まで運んだという。

兄と共に戦闘機を押したという張さんは、山の斜面が特にきつかったと振り返る。
一日に3回運ぶこともあり、疲れたときには草地で眠った。
体中にはシラミがわき、過酷な環境だったという。

本の出版はお年寄りにとって大きな励ましになったはずだと胸を張る王さん。
本を通じて人々に同地の豊かな歴史について知ってもらえればと期待を寄せた。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201801070002.aspx

629美麗島の名無桑2018/01/14(日) 10:53:34.45
日本統治時代の移民指導所を修繕 客家グルメが味わえる名所に/台湾

【社会】 2018/01/11 11:18

(花蓮 11日 中央社)東部・花蓮県で日本統治時代から100年余りの歴史を誇る建物が修繕を経て、飲食店として再利用されている。同地に多く暮らす客家人に伝わるグルメ、米粉麺の「米苔目」が味わえる名所として人々から親しまれている。
建物を管理する豊裏社区発展協会の黄漢宏理事長は、店で出される米苔目は地元の古老ら直伝の味だと自信を示し、今後も地元の雇用創出や客家グルメの推進に努めていきたいと意気込んだ。

同地は日本統治時代の移民村があった場所。建物は1913(大正2)年、移民村の移民指導所として建設され、土地の配分や農耕、女工、兵役などの事務管理を行っており、重要な役割を担っていた。
村には当時、日本人の農家866人が登録されていたという。

2013年、同県文化局が歴史的建造物に指定、修繕が施された。建設当時はかやぶき屋根だったが、劣化が激しかったため、瓦屋根に付け替えられた。
2017年、労働部(労働省)からの認可を得て公益目的事業として米苔目を販売する店に生まれ変わった。

店は日本統治時代の尋常高等小学校を起源とする豊裏小学校のそばにある。
同校では昨年、剣道場の復元工事が完了し、当時の面影を今に伝えている。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201801110002.aspx

630美麗島の名無桑2018/01/20(土) 13:22:16.44
吉野村の本はこれですね。

來去吉野村:日治時期島內移民生活紀事
http://www.books.com.tw/products/0010775187

631美麗島の名無桑2018/01/20(土) 16:51:13.82
【社会】 2018/01/20 11:46

日本統治時代から残る台北の旧倉庫が移築再生へ 8月にプレオープン

(台北 20日 中央社)台北駅西側の再開発計画によって移築再生が決まった日本統治時代の倉庫で19日、台北市政府主催の上棟式が行われた。
今後、歴史的建造物の記憶を集める「インフォハウス」(記憶倉庫)として地元の歩みを語り継ぐ。本屋や飲食店、展示コーナーなどを開設する予定で、4月に竣工、8月にプレオープンする。

130年の歴史を持つ国定古跡・北門の近くに位置する同倉庫。
建物の正面には三井物産のシンボルマークが刻まれており、大正時代に同社が建設、使用したものとみられることから「三井倉庫」と呼ばれている。
2012年に市の歴史建築に指定されたものの、2016年2月、北門広場と周辺道路の整備のため、元の場所から東に約50メートル離れた現在地への移築が決定した。

式に出席した林欽栄副市長は、再生過程で耐震補強が施され、倉庫がより堅固になることをアピールするとともに、歴史的建造物の多い同地域が再開発で輝きを増すだろうと期待を寄せた。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201801200001.aspx

632美麗島の名無桑2018/01/20(土) 17:25:38.04
旧日本軍は台湾の住民を拉致して生体人体実験を行った

633美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:45:42.68
祖母が生まれてから終戦まで台湾に住んでいました。
日本だった頃の台湾の様子を知りたいんだけど、
おまいらのおじいちゃんおばあちゃんで台湾にいた人いない?

634美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:45:58.56
うちのおばあちゃんは台湾一等地にある旅館のお嬢さんだったんだけど、従業員は全員日本人で、食べる物も見る物も全部日本式。
旅館には内地から有名な横綱や画家がよくいらしてたらしい。

学校へ行くと台湾人の子もいるけどお互い日本語で話す。

635美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:46:18.44
美化していないよ。
ただ当時の様子を知りたくて

636美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:46:33.49
頼むよ
おばあちゃんに伝えたいんだ

637美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:46:51.73
うちのおばあちゃんは北投に別荘が二個あって休みになるとそこで、友人やいとこと遊んだんだって。
高女の時はお揃いのユニフォーム作ってみんなでテニスしたらしい。
よく練習していた公園でよく通る将校さんがいて、その人に求婚されたけど断ったようです。

638美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:47:34.77
おばあちゃんのおばあちゃんは台湾原住民の方に養蚕を教えて大変感謝されたそうです。
だから引き揚げの時に匿うから残ってくださいとお願いされたけど、原住民の生活が出来ないと思い、気持ちだけ頂いて引き揚げたんだとか。

639美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:48:12.60
誰もいないけど書いていく

引き揚げの時は一人千円、着物二枚、下着三枚と決まっていて、お金も大事なものも持っていくことは出来なかった。
おばあちゃんは長女なので張り込んで買ってもらった着物、立派なお雛様、弟たちの兜人形も…
でもなぜかミシンを持ち帰っている。
ミシンの機械の部分だけ布に巻き、弟たちと引きずりながら運んだそうだ。重いのに運ぶの大変だったろう。
船から降りたら白い煙をかけられたそう。
シラミの薬かな?
そして親戚の家に身を寄せます。

他のおじいちゃんおばあちゃんの話も聞きたいなあ。

640美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:48:59.77
>14
子供の頃聞いた時は、上に書いた
着物2枚下着3枚ってのだけが強烈に残ってた
高校の時も調べ学習でおばあちゃんの話聞いたんだけど、
その時の話を今あまり憶えてなくて申し訳ない
最近は聞いたらノートに書くようにしてる

641美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:49:27.80
おばあちゃんの旅館には当時台北に2台しか無い車のうち1台があったらしい
旅館の写真があるけど、
立派な日本家屋で大きくて学校の校舎くらいある
街路樹がソテツなのが台湾らしくて良い
日本庭園には橋が2つあり池には鯉がたくさん
客室は現在の旅館の和室とほぼ同じ
机と座布団と肘掛け、化粧台、文机があって
縁側に籐?の椅子とテーブル
床の間には掛軸と生花と電話
文机の上のランプとか欄間とかおしゃれ
掛軸も見る人が見たらわかるんだろうな
画家の横山大観が来たことあるらしいんだけど
横山大観の略歴ネットで調べても台北に来たっていうことが書いてないんだよね
横綱が来たって話はウィキペディアに
1926年(大正15年)1月に台北で大坂相撲最後の本場所が開催された
って書いてあるから本当かな
もっと文献とか調べたいな

642美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:49:44.16
おばあちゃん曰く中国語はチーチーパッパで全くわからんって
おばあちゃんがいた頃は全く中国語が必要ないんだから当たり前だけど
触れる機会も無かったんだろうな

おばあちゃんが知ってる中国語は
来来(ライライ)
拝拝(パイパイ)
ぐらい

おばあちゃんの影響で台湾に興味持って
中国語勉強してて思ったが
普通に来来って言ってたら、ちょっと来てって意味なんだけど
来!来!って言ってたら命令なんだよね
おばあちゃんの言い方からしてたぶん前者だけど
おばあちゃんお嬢様だから
後者だと唯一知ってる中国語が命令っていうのに勝手に妙に納得してしまった

643美麗島の名無桑2018/01/20(土) 23:50:43.97
>>18
らしいね
おばあちゃんの同級生の台湾人のおじいちゃんは
本当にきれいな日本語を話すよ
8年前くらいに台湾に行った時も
タクシーの運ちゃんとおばあちゃんが
一緒に軍歌歌ってたよ
屋台の注文とかわりと日本語通じるし

644美麗島の名無桑2018/01/21(日) 11:41:40.94
旧日本軍はペスト菌を植え付けた毒饅頭を市街に巻きました

645美麗島の名無桑2018/01/28(日) 11:38:02.32
日本統治時代から残る製糖工場、景観整備で当時の姿を再現/台湾

【観光】 2018/01/27 11:42

(彰化 27日 中央社)日本統治時代にまで歴史をさかのぼる渓湖製糖工場(彰化県)で25日、糖業鉄道の関連施設など部分的な景観工事が開始された。
往年の名残をとどめる扇形の転車台や給油施設、防空壕などが修復されるほか、展示コーナーや花壇、店舗なども整備される。

同製糖工場の前身は1919(大正8)年に開業した大和製糖会社。
戦後、台湾製糖の工場として操業が続けられたが、事業は2002年に停止。
その後、蒸気機関車などが展示され、かつてサトウキビの運搬で活躍したトロッコ列車にも乗れる観光施設として再出発した。
現在は、地元の観光産業をけん引する「糖業鉄道文化パーク」として施設の充実を図る再生計画が進められている。

今回の工事はその計画の一環で、トロッコ列車が発着する「渓湖五分駅」周辺の一部区間が整備の対象となる。
県の歴史的建造物に指定されている同駅は、1921(大正10)年に完成した木造建築。
2016年に修復されており、景観工事が完了すれば、歴史的な味わいがより濃くなることが期待される。竣工は7月の予定。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201801270001.aspx

646美麗島の名無桑2018/01/28(日) 11:38:59.73
視覚障害の子どもたちも大満足 日本統治時代の台北鉄道工場で音楽会

【社会】 2018/01/27 18:08

(台北 27日 中央社)台北機廠(旧台北鉄道工場)の車両組立工場で26日、打楽器の演奏と光のショーを融合させた音楽会「光鼓動」が開催された。
文化面でのバリア解消を目指す文化部(文化省)が実験的な試みとして行ったもので、視覚障害を持つ子ども約100人が招かれた。
子どもたちは、JR東日本から寄贈された583系特急寝台電車や、「英国の貴婦人」と呼ばれて親しまれた台湾鉄道のEMU100型などが保存される特別な空間で、迫力満点のパフォーマンスを堪能した。

台北機廠は日本統治時代の1935年に落成。
台湾最大の車両基地としてメンテナンスや組み立てなどが行われた。
2013年に工場機能が移転した後、跡地が15年に国定古跡に指定され、現在、アジア最大級の鉄道博物館として再利用するための整備が進められている。

文化部の楊子葆次長は、鉄道博物館の目標は各年齢層や心身障害者の文化イベントへの参加ハードルを下げることにもあるとして、文物の保存、収蔵だけにとどまらない、多様性を持つ博物館の未来像を示した。
また、昔ながらの機械が残る古い工場で楽しむ打楽器演奏は車両を修繕する際の音を連想させ、聞き手の共鳴を呼ぶことができるだろうと、音楽会の成果に期待を寄せた。

音楽会は28日まで計4回開催されることになっており、芸術文化団体、外国人、台湾鉄道の元職員やボランティア、鉄道ファンなども招待する予定。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201801270004.aspx

647美麗島の名無桑2018/01/28(日) 11:41:50.29
日台関係 「日米同盟の延長線上にある」=元駐日代表

【両岸】 2018/01/26 13:46

(台北 26日 中央社)元駐日代表(大使に相当)で台湾安保協会名誉理事長の羅福全氏は23日、
安倍晋三首相が22日の施政方針演説で日本と中国大陸の関係改善に意欲を示したことについて、台湾に影響はないとする見方を示した。
羅氏は日台関係は日米同盟の延長線上にあると述べ、日本が対台湾政策の基本方針を変更する可能性について否定的な見解を示した。
中央社の取材で語った。

安倍首相は演説で、今年が日中平和友好条約締結40周年の節目に当たることに触れながら、中国大陸の習近平氏などを日本に招くとともに、自身の中国大陸訪問にも意欲も示した。
「ハイレベルな往来」を深めることで「日中関係を新たな段階へと押し上げる」ことを目指すとしている。

羅氏は北朝鮮問題や中国大陸の海洋進出など不安定な要素を多く抱えるアジア情勢において、日米同盟の果たす役割はより重要になると指摘。
安倍首相の対中国大陸戦略について、中国大陸に日米同盟の強固さを知らしめると同時に対話にも前向きな姿勢を示す「二面的な」手段だと分析した。

「現状維持こそが平和」というのが日米の共通認識だとし、米国も日本のやり方を信頼しているはずだと私見を述べた。

http://japan.cna.com.tw/news/achi/201801260003.aspx

648美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:14:52.44
旧日本軍は拉致した市民にウマの血液を輸血し絶命までのじかんを測定しました

649美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:29:48.14
それとビンロウ(噛みタバコ的な)をタクシーの運転手さんに勧められた。
台湾ではタクシーやトラックの運転手が愛用してるらしい。
日本でいう眠気覚ましのガムみたい感じなんかな?
こわくて断ったけど。

650美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:30:39.72
前に書いたおばあちゃんの旅館に泊まったお相撲さんは
前田山、男女ノ川、常ノ花らしい。

おばあちゃん、小六まで
台湾人のそんぽうさん(尊奉?)がお風呂で体洗ってくれてたんだって
小六で何か変だと思って自分で洗うようになったらしい
おったまげ

651美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:31:10.33
>>24
調べてくれてありがとう
そんぽう、中国語でもそれらしい意味の言葉は無いしなんだろうね

おばあちゃんは台湾原住民族のことは高砂族って言うよ
日本統治時代に日本がつけた名前みたいね

652美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:31:39.82
おばあちゃんは女学校を卒業後、
なぎなたの先生になって女学校で教えている。

http://i.imgur.com/3IvdEWy.jpg
昭和4年の大卒初任給が55円から100円
昭和18年頃に70円もらっていた。
友達は事務とかで40円くらいだったらしい。
公務員だからお給料良かったのかな

653美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:36:17.51
女学校って台北の女学校のことね
おばあちゃんはお給料一度も使わず親に預けてたのに終戦で全てパア
財産の明細を半紙に書いてあって普通は家2軒とか2行くらいで済むのに
おばあちゃんちは半紙2枚にズラズラ書いてあったらしい
今の新北市に旅館の食材作る畑がたくさんあったんだって

654美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:41:54.09
>>28
そうなんだ、ありがとう。
いくら公務員でもお給料良すぎだよね。
戦局が厳しくなって武道を教えることが重要視されたのかな?
最初はひとつの女学校で教えてたけど、
終戦前は頼まれてふたつの女学校で教えてたんだって

655美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:45:33.36
台湾が日本に割譲された翌年に
台湾に渡ったのは慶応生まれのおばあちゃんのおじいちゃん
台湾で総督さんに引き合わされて、おばあちゃんのおばあちゃんと結婚したんだって
おばあちゃんのおばあちゃんのお姉さんが台湾に嫁いでたから、来やすかったみたい

656美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:48:53.80
終戦後、おばあちゃんのお父さんがおじさんと共に連行されて一日で帰ってきたんだって。
やってきた中国人は皆靴を靴箱に入れず部屋の床の間に置いていたらしい。
なんでかというと、盗まれるから。
靴を靴箱に入れるのは当たり前で盗まれるなんて思わないよね。
国が変われば感覚が違うんだなあ。

657美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:52:11.57
今日聞いたお話

おばあちゃんが先生をしていた時、松山の畑でお芋が出来たから生徒と、おばあちゃんちの人力車で行ったんだって。
人力車にお芋のせて帰る時歩いてたら、
人力車の車夫さんが走りたいから乗れ乗れってうるさくて
生徒の手前乗れないのにしょーがないから乗ったら
生徒たちが先生ずるいーってみんなで走ったんだって。

もうひとつは、おばあちゃんが小学校を卒業した時に兵隊さんがおばあちゃんと結婚させてくれって家まで来たんだって。
断っても何度も来て兵隊なのにいつでも家の裏とか色んなとこに立ってて困った。
結局諦めてくれたけど大変だったみたい。
兵隊なのになんでいつでも出てこれたんだろう?

658美麗島の名無桑2018/01/28(日) 12:52:36.56
旧日本軍は悪党

659美麗島の名無桑2018/02/07(水) 17:58:08.62
2018.2.5 10:04

台湾各地で日本建造物保存 歴史観の深まり背景に

台湾で日本統治時代の歴史的建造物を保存する取り組みが活発化している。
2016年発足した民主進歩党(民進党)政権も支援。日本時代も含め、自分たちの歴史を大切にしようとする台湾人アイデンティティーの深まりが背景にある。

人口約70万人の西部・雲林県。郊外の雑木林の中に朽ちた家屋が見える。
同県が修復を計画している、旧日本軍官舎だ。
「貴重な歴史的建造物を壊したら、もったいない」と保存を決めた。同県では既に郡役所など日本時代の施設が保存されている。

台湾東部の花蓮市には日本式の住宅が立ち並ぶ小路がある。
やはり旧日本軍が使用していた官舎で、04年ごろ保存運動が起き、修復された。

蔡英文政権が発足した直後に、文化部(文化省)は地方の保存活動を支援する「歴史現場再生」プロジェクトを立ち上げた。

日本時代だけでなく、それ以前の清朝や、戦後の建造物も対象だが、結果的に開発が大きく進んだ日本時代が多い。

台湾全22の直轄市・市・県のうち少なくとも12で日本時代の建造物が支援対象に入っている。

http://www.sankei.com/world/news/180205/wor1802050016-n1.html

660美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:07:15.44
今日はおばあちゃんとKANO見てきました!
嘉農が甲子園に行った1931年、おばあちゃんは小学生。
みんながワイワイ言っていたのを覚えているそうです。
感動的な映画でした。

661美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:07:30.95
嘉農が泊まった台北旅館、おばあちゃんちの近所です。

662美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:07:46.83
おばあちゃんはチーヤポイヤというお祭りが楽しみだった。
高馬はいて手も棒を持って長い謝将軍と太っちょの范将軍の格好をした人が練り歩いたそうです。
おばあちゃんが大きくなる頃にそのお祭りはなくなっちゃったとか。
調べたら霞海城隍廟に祀られている背の高い謝将軍と太っちょの范将軍のようですね。

おばあちゃんより2歳年上の親戚は沖縄育ち。
沖縄は教育が遅れていたらしく台湾の中学校に入る時におばあちゃんと同級になったそうです。
ある日おばあちゃんの近所の女の子の名前で手紙がきて、開けてみると中学生男子からのラブレターでした。
読ませようと女の子の名前を書いたのです。
このように中学生にからかわれると沖縄育ちの親戚に相手を叱ってもらっていたそうです。
中学生と女学生が言葉を交わすなんて不良だと言っていました。
二中は真面目で商業学校がやんちゃだったそうです。

台湾の教育は内地より進んでいたそうです。
台湾では勉強の出来が普通だったおばあちゃんの友達が内地に転校すると優等生になったり、
内地のおばあちゃんの母の実家に一カ月ほどいた時学校に通ったら、全部勉強したことのある内容だったそうです。

終戦前は一人で自転車で台湾人街に行って野菜を買っていたそうです。

663美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:08:05.12
今日はおばあちゃんと昔の台北の地図を見たよ
同窓会の人が記憶を頼りに書いたらしいけどすごくちゃんとした立派な地図だったよ
町名が日本風につけられてたんだね
学校や公共施設以外は小さな商店がきれいに並んでた
ニコニコ自転車っていう可愛い名前のお店があったよ
緑もあって整然とした街だったんだな
おばあちゃんの家の近くにはプールがあって毎日のように子供たちで行っててお掃除を手伝ってたんだって
刑務所も街中にあったよ
おばあちゃんは板場さんが仕入れて作るものを食べていたからお父さんに買い食いを禁止されてたんだけど朝早くお魚屋さんで鰯を買ってお母さんにお弁当に入れてもらってたんだって
訓練場では家族で代金を支払って飛行機に乗ったって
旅館に泊まった兵隊さんに可愛いがられていたおばあちゃんの弟は兵隊さんに連れられて戦闘機にも乗ったんだって
白いハンカチをふって戦死された兵隊さんの戦友がそのお話を涙ながらに語ってくれたらしい

664美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:08:48.25
>>43
興味もってくれてありがとう
おばあちゃんのお話はまるで昨日のことのようでおもしろいよ
旅館や家、別荘はとうにないよ
数年前台湾に行ったとき見たけど旅館があった場所は一流ホテルが建ってる
戦後のそういう権利ってどうなってるんだろうね?
個人のものも全部とられるものなのかな?
写真も置いてきたけど、おばあちゃんのお母さんやおばあさんが日本の親戚によく送ってたそうで、それを集めたものが残ってる
よくぞ送っててくれた
写真を見ると豊かで穏やかな生活が感じられるよ

665美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:09:11.37
おばあちゃんのお母さんは旅館の女将さん
毎朝、各客室に飾るお花をいけるのが大変だったみたい
客室の写真を見ると生花が飾ってある
旅館に泊まったことないから普通かどうかわかんないんだけど、
生花飾ってあるってすごく素敵だね

666美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:09:24.86
おばあちゃんのおばあさんは養蚕学校を出ていて、工場を建てて鳥来の人々に養蚕を教えたんだって
台湾が日本に割譲されて間もない頃でその時は蛮人と言って怖がって行かなかったのを行ったらしい
鳥来の人々は年に二回くらい旅館にお歳暮的なものをくれて、
みんなで担いで持って来る
その時旅館の車夫の小屋に上がったらしく
それをあの旅館に泊まったって自慢してまわったとか
おばあちゃんたちのお下がりの洋服をあげて、夏に山へ行ったら鳥来の人々はみんなその洋服を着て出迎えてくれたんだって
夏なのにオーバー着てる人もいたとか
かわいいね
戦後おばあちゃんたちは石碑を建てたんだけど排日運動でどけられちゃったとか
今それを取り戻そうとしてるらしいけど石碑はどうなったんだろー

667美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:09:54.95
おばあちゃんのお父さんお母さんの馴れ初めのお話
台湾にいたお父さんはモテて、どうやら遊び出したらしいと誰かから聞いたおばあさんは故郷徳島に直行
女学校の宿舎にいたお母さんを見つけると
徳島で式を挙げそのまま船に乗せて台湾へ
どうやら攫ってきたらしい
女学校を途中で辞めてるから
おばあさんの勧めで台湾で一高女の試験を受けると合格
でもお嫁に来たのになんで学校行かなあかんねんと行かなかったんだって
私からするとひいおじいさんとひいおばあさん
ひいおじいさんは私が生まれる前に、ひいおばあさんは生まれてちょっとしてから亡くなったけど
写真やお話から立派で穏やかで仲睦まじい二人の人柄が伝わってくる

668美麗島の名無桑2018/02/07(水) 21:10:26.51
おばあちゃんの旦那さん私のおじいちゃんの家は台湾の楽天地という小さな市場で紅茶屋さんしていて、おじいちゃんのお兄さんがやっていた
おばあちゃんもお父さんに連れられて行ったことあるらしい
お父さんがそのお兄さんのことを立派だと言っていて
戦後、引きあげて田舎にいたくなかったおばあちゃんはそのお兄さんの弟ならとおじいちゃんと結婚した
おじいちゃんは早くに亡くなったからおじいちゃんの方のお話が聞けなくて残念

669美麗島の名無桑2018/02/09(金) 09:45:39.65
旧日本軍は祖父母の時計と指輪を盗りました

670美麗島の名無桑2018/02/11(日) 16:00:16.60
日本統治時代の名所がテーマの展示会、当時の官庁を使って開催/台湾

【観光】 2018/02/08 14:29

(台中 8日 中央社)日本統治時代、京都の鴨川になぞらえて「小京都」と呼ばれた中部・台中市の名所「緑川」をテーマにした展示会「川游不息−緑川展二○一八」が、1911年に建てられた旧台中市役所(同市西区)で開催されている。
クラシカルな雰囲気漂う建物内で、音楽家リン・チャン(林強)氏をはじめとする各分野のアーティスト12人が、聴覚、嗅覚など五感に訴える作品で緑川の歴史や郷土再生、環境意識などを伝える。

台中駅前を流れる緑川は本来は自然河川。1912年、当時の台湾総督、佐久間左馬太が視察に訪れた際、緑豊かな川景色を見てこの名を付けたと伝えられる。
しかし都市化が進むとともに生活排水が流れ込むようになり、一部がふたで覆われた。

台中市政府は2015年から、ふたの撤去や水の浄化、周辺の緑化などによる景観整備プロジェクトに着手。
昨年には周辺の景観をブランドとして商標登録し、ロゴマークを作成するなどして積極的に川の再生に取り組んできた。関連工事は今年の旧正月(2月16日)までに完成する予定で、新しさの中に往年の面影をとどめるスポットに生まれ変わる。

展示では、リン氏を中心とした音楽家たちが川の水の音、鳥の鳴き声などを収集して作ったメロディーが聞けるほか、フラワーアーティストが花を媒介にして伝える周辺の街のにおい、料理人が紹介する地元の味覚などを通して、緑川の今昔や魅力を感じ取ることができる。

展示会の開催は3月11日まで。

http://japan.cna.com.tw/news/atra/201802080004.aspx

671美麗島の名無桑2018/02/22(木) 17:59:36.23
明治時代建設の水力発電所「竹仔門電廠」修復へ 台湾初の産業遺産

【社会】 2018/02/19 18:43

(台北 19日 中央社)日本統治時代の1910(明治43)年に稼働し、1992年に内政部(内務省)から台湾初の「産業古跡」に指定された南部・高雄市美濃の水力発電所、竹仔門電廠が修復されることが分かった。
同発電所を所有する台湾電力が19日までに明らかにした。文化当局による計画審査を経て着工から約15カ月で完成する見通しだ。

竹仔門電廠は土建業者、古賀三千人の主導で整備された台湾南部初の水力発電所。
設備容量は1950キロワットで、高雄地区の工業の発展を後押しし、発電後の水は約4000ヘクタールに及ぶ美濃平野の農地を潤す。

発電所の敷地内には、日本統治時代から残るバロック様式の建屋や、約100年間も運転が続いたドイツ製の水車発電機4基、施設の建設中に殉職した日本人技術者の記念碑などがあり、事前申請で見学が可能となっている。

台湾電力では竹仔門電廠のほかにも、皇太子時代の昭和天皇の台湾行啓に合わせて1922年に建てられた迎賓施設「太子賓館」や、1898年に創建された「金瓜石神社」(ともに新北市瑞芳)の修復を計画している。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201802190004.aspx

672美麗島の名無桑2018/02/22(木) 18:03:23.41
日本時代創業の書店が紡ぐ歴史 「記録残したい」70歳店主の使命感/台湾

【社会】 2018/02/18 19:11

(台北 18日 中央社)「社会奉仕だと思って続けている。この土地の記録を残したい」――。
日本語書籍を販売する老舗書店「鴻儒堂」の店主、黄成業さん(70)は出版不況といわれる中、親子3代にわたって受け継いだ店を守り続けている。
日本語書籍の出版も手掛け、先月には白色テロの受難者、郭振純さんの伝記を日本語に訳した「意志で生きる命の溜まり」を世に送り出した。
黄さんは「生きている間は店を続けたい」と使命感に燃えている。

同店は日本統治時代の1936年に黄さんの祖父が創業。
当初は古書の専門店として南昌路に店を構えていたが、戦後は台北きっての書店街、重慶南路近辺に移り、「文藝春秋」など日本の有名誌や工業、漁業に関する日本語の専門書籍を取り扱った。
後に著名になった人も店を訪れたといい、李登輝元総統が合作金庫銀行に勤めていた頃、よく本を買いに来たと黄さんは振り返る。

黄さんは1981年に店を引き継ぐと、日本語書籍の出版社を立ち上げた。
戒厳令が敷かれた1949年生まれの黄さんは、国民党による不当逮捕や言論弾圧が行われた時代を経験しており、書籍の出版には一層力を注いだ。
過去には台湾の独立に尽力した黄昭堂氏や史明氏の著作の日本語版の出版を手掛けた。
これらの書籍は今でも店の目立つ場所に並べられている。

店は80年余りの間、場所を転々としながらも台北の街と共に歴史を歩んできた。
店舗面積は全盛期の半分以下
。黄さんの後を継ぐ者はもういない。「書店をやるには根性がいる」と話す黄さん。
1冊1冊売っていれば、買う人は必ずいると強い覚悟を見せた。

http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201802180004.aspx

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