豊臣秀吉、豊臣秀次の女子供39名を処刑 京都・瑞泉寺

瑞泉寺は豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺です。

【秀次事件】太閤秀吉が1595年に、甥である関白・秀次とその小姓らを高野山にて切腹させ、秀次の首は三条河原へ送られた。
三条河原では秀次の首を前に、秀次の幼児や妻・妾ら三十九名が大勢の町衆が見守る中で公開処刑され、遺骸はその場に掘られた大きな穴に投げ込まれた。
その場所には「殺生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を入れた「石びつ」を据えて三条大橋を大来する人々への見せしめにしたという。

「秀次事件」の16年後(1611年)、角倉了以が高瀬川を開くとき 洪水などで荒廃したその「塚」の跡に江戸幕府の許しを得て、墓地と堂を建立した。
寺号は秀次の戒名から「瑞泉寺」と名付けられた。