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イスラム教は何故、日本で広まらなかったのか
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0191世界@名無史さん
垢版 |
2019/01/03(木) 07:20:13.060
中央公論 2019年1月号
●イスラームの波と移民受け入れが交錯する 
日本の「こころ教」とイスラーム「神の法」 
池内 恵

 ・・・日本人の多くが暗黙のうちに前提にし、しばしば言葉の端々に表す宗教観がある。これを「こころ教」と私は試みに呼んでいる。
人間は各人の「こころ」が感じるままに宗教あるいは信じるものを選べばいい、という考え方である。これ自体が一つの信仰といって
もいい。各人の宗教が仏教、キリスト教、神道であっても、あるいは無宗教と自認していたとしても、共通して抱かれている信念である。
これは日本人にとって各宗教を超えた上位の信念と言えるだろう。

 ・・・この「こころ教原理主義」は厄介なところがあり、ムスリム(イスラーム教徒)との適切な関係を個人あるいは共同体として結ぼう
とする時に、やがては障害となって立ち現れるかもしれない。
 これは欧米社会がムスリム移民との関係において抱える問題とも、異なる性質のものである。欧米社会の場合は、個人の人権や
自由といった規範に優越する神の命令に基づく規範を、イスラーム教が信者に課しているということを認知するがゆえに、摩擦や衝突
が生じてくるからである。

 イスラーム教の観点からは、人間が神に命じる法を受け入れるか受け入れないかを選ぶ立場にはない。神はムハンマドを通じて
この法を既に下してしまっている。受け入れないのであれば人間は死後に地獄に落ちるしかない。

 しかし日本では、各人の「こころ」が、その感じるところに従って、当人にとって必要な宗教を取捨選択できるという、ある種非常に
ラディカルな信念が行き渡っており、これが一神教の前提を知らず知らずのうちに覆している。
 このことを一神教徒、特に啓示法の要素が明確に信仰の中核に位置づけられ体系化され現代においても教育によって広められて
いるイスラーム教の信者は、敏感に、驚きをもって感じ取る。日本側はそのような受け止め方の存在を感じ取らない。ここに非対称性
があり、ギャップがある。
(続く)
0192世界@名無史さん
垢版 |
2019/01/03(木) 07:20:47.770
>>191 (続き)
 今のところはこの非対称性とギャップは、相互の無関心によって、問題化することが回避されているが、それはいつまで続くだろうか。
日本が実質上の移民国家となり、これまで以上にイスラーム圏から、当面は特に東南アジアから、移民を受け入れれば、やがては
イスラーム教の規範と、日本社会で無意識のうちに強固に信じられているこの「こころ教」の乖離は、摩擦や衝突に発展するかも
しれない。

 律法を中核とすることによってイスラーム教は、信者に政治的・社会的な共同体への帰属意識をもたらす。イスラーム教徒が帰属
する共同体を、アラビア語で「ウンマ」と呼ぶ。これは「宗教政治共同体」と訳してもよいと私は考える。このウンマは「国」というものとも
「宗教団体」とも違う。特に地理的な範囲は明確ではなく、一人一人のイスラーム教徒はエジプトにいようが米国にいようがインドネシア
にいようが、「ウンマ」の一員である。

宗教団体としてのイスラーム教の「教団」が物理的に、組織として存在しているか否かはさほどの意味を持たない。神が啓示の法を
下してしまった以上、それを受け取った各人はすでにイスラーム教の法を下された共同体に属している。
 その共同体は、本来は、イスラーム法の有力な解釈によれば、指導者としてのカリフ、あるいはイマームに率いられることが望ましい。
しかしイスラーム教徒たちを一つの政体としてまとめ、統治し、率いるカリフが不幸にして存在しなかったとしても、ウンマの実在は全く
疑われることがない。ウンマの存在は神が律法を下して示した以上、人間がそれを組織的に地上に実現できていなくても、厳然として
存在するのである。
 イスラム教徒が所属しているウンマの実在を拒否する権限、そして能力を、人間は持ち得ない。これもまた日本の「こころ教」の観点
からは納得がいかないことだろう。ないものはないはずだ。また、もしあったとしても、それぞれの信徒が嫌なら抜ければいいではない
か、活動に参加しなければいいではないか。参加していなければイスラーム教団に入っていることにもならないだろう、と。目に見えない、
現世の組織としての形を取らないものを認知しない、ある種の強固で頑強な世俗主義が日本には根強い。

(続く)
0193世界@名無史さん
垢版 |
2019/01/03(木) 07:21:19.630
>>192 (続き)

 現代のイスラーム教とムスリムをめぐる諸問題は、人間の側の意志や必要性によって作られる国家と法よりも上位に、神の啓示した
法に基づくイスラーム教の共同体があるという信念が、イスラーム教に元来あり、それがイスラーム教徒の間で再認識される傾向が
続いていることに端を発する。

 アラブ世界では、近代になっても、婚姻や相続といった日々の生活の基本はイスラーム法に従って行われ続けてきた。イスラーム法
の解釈と適用が宗派ごとに行なわれてきたことからも、宗派ごとに社会の紐帯が存在し、政治的な帰属と動員が行われることは自然な
ことである。

イスラーム教の法や共同体は、人間の意志を超えた神の命令として捉えられており、イスラーム法の施行や、カリフ制のイスラーム
共同体の設立が失敗に終わったとしても、それは人間の側の失敗に過ぎないものと受け止められ、神の命令の無効性を示すとの解釈
が公になされることは、まずない。
 むしろ、アラブ世界と中東というイスラーム教の中心で発信されたイスラーム教施行の要求とカリフ制・イスラーム共同体の再興への
訴えは、数十年の時差を持って、今まさにイスラーム世界の周縁である東南アジアに到達しつつある。
 日本は(朝鮮半島と共に)近代以前にイスラーム教の布教が及ばなかった例外的な場所であり、人間の側の「こころ」の思いや受け
止め方、人間社会の都合を全く考慮しない神の法の論理と、神の法に従う者たちが領域や国家を超えて帰属する政治共同体の実在を、
社会の中で目の当たりにした経験を極端に欠く、世界でも稀な地域である。
 中東に発したイスラーム法とイスラーム共同体の復興の要求、すなわち「イスラーム再興」の波が東南アジアにいよいよ本格的に
及ぼうとする時期になって、偶然にも日本は移民に国を開く新機軸を打ち出す。全く異なるこの二つの動きが偶然にも交錯する時、何が
起こるのだろうか。知らず知らずのうちに日本は人類史上稀な実験に踏み出すのかもしれない。
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