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世界の暦と暦の歴史
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0001世界@名無史さん
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2019/09/15(日) 20:51:59.170
世界には様々な暦があり、それぞれの暦が現在の姿になるまでには色々な歴史があります。
そういったことを語りましょう。
0014世界@名無史さん
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2019/09/20(金) 07:31:03.860
>春分・夏至・秋分・冬至
赤道に近くなるほどそういうのははどうでもよくなる
0015世界@名無史さん
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2019/09/20(金) 19:43:51.740
>>13
いえ、その続きにあるように
ユリウス暦になるときに日数を調整しているので
なんらかの意図があったと思われますね

おいらは後の太陽神信仰との絡みもあり
冬至日はかなり重視されたのではないかと
考えております

またその後の千年ぐらい
世界の天体観測をリードするプトレマイオスさんが
ローマ文明の中の人ですね
0016世界@名無史さん
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2019/09/20(金) 23:30:14.820
>>15
> またその後の千年ぐらい
> 世界の天体観測をリードするプトレマイオスさんが
> ローマ文明の中の人ですね

あっ、そうか、西欧の天文学の祖とも言うべきプトレマイオスは古代ローマ人だったのですね
何か古代ギリシャかどこかだと思ってました、無知蒙昧を反省しています
有難うございました

>>14
> 春分・夏至・秋分・冬至
> 赤道に近くなるほどそういうのははどうでもよくなる

ローマを始めとしてヨーロッパは結構、緯度は高いですよ
(暖流のメキシコ湾流のお蔭で西ヨーロッパは緯度の割にとても温暖ですが)
なので、古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です
0017ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/21(土) 14:13:40.880
>>7>>6

おいらもローマの暦はめっちゃ気になります
特にユリウス暦への改暦と、7妖精への移行
はちゃんと調べてみたいですね


おっしゃるようにエジプト歴がどういった状態になっていたかと
当時のカエサルの状況と
その二点を調べてみたいと思います
0018ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/21(土) 14:20:14.290
>>17

紀元前45年

紀元前45年は、ローマ暦の709年である。ユリウス暦が施行された年である。

できごと

ローマ
1月1日よりユリウス暦施行。
執政官はガイウス・ユリウス・カエサル単独であった。
ローマ内戦
3月17日 - ムンダの戦いでティトゥス・ラビエヌスとグナエウス・ポンペイウス・ミノルを破り、内戦は終結した。
    ラビエヌスは戦場で死亡し、ポンペイウスは処刑されたが、セクストゥス・ポンペイウスは大西洋岸まで逃亡した。

ユリウス・カエサルが編成した第10軍団エクェストリス及び第13軍団ゲミナは解散した。第10軍団の退役軍人はナルボンヌに移住し、第13軍団の退役軍人にはイタリア近郊の土地が与えられた。
ユリウス・カエサルが終身独裁官に指名された。
ユリウス・カエサルはおそらくこの年にCommentariesを執筆した。

誕生
ユッルス・アントニウス、マルクス・アントニウスとフルウィアの息子(+ 紀元前2年)
王莽、新朝の皇帝(+ 23年)

死去
2月 - トゥリア・キケロニス、マルクス・トゥッリウス・キケロの娘(* 紀元前79年/紀元前78年)
3月17日 - ティトゥス・ラビエヌス、共和政ローマ期の軍人(* 紀元前100年)
3月17日 - プブリウス・アッティウス・ウァルス
4月12日 - グナエウス・ポンペイウス・ミノル、グナエウス・ポンペイウスの息子(* 紀元前75年)
12月31日 - クィントゥス・ファビウス・マクシムス
0019ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/21(土) 14:22:30.410
>>17

紀元前46年

紀元前46年は、ローマ暦の最後の年である。暦の調整のため、445日間あった。
この年にユリウス暦が導入されたが、適用されたのは紀元前45年からである。

できごと
ローマ
執政官 - ガイウス・ユリウス・カエサルとマルクス・アエミリウス・レピドゥス
ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)
1月4日 - ルスピナの戦いでティトゥス・ラビエヌスがユリウス・カエサルを破った。
4月6日 - タプススの戦いでユリウス・カエサル軍が元老院派軍に勝利。
4月 - カエサルはマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスが守備するウティカを攻撃。カトが自殺。
4月 - 元老院派のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなどが敗死。
9月26日 - ファルサルスの戦いでの誓いを果たすため、彼の神話上の祖先ウェヌス・ゲネトリクスに神殿を奉じた。
11月 - 抵抗運動の発生を抑えるため、ヒスパニアに向かった。
カエサルがローマ暦を修正し、ユリウス暦を作った。過渡期のこの年は、調整のため445日となった。1582年にグレゴリオ暦ができるまで、西洋では1600年以上も標準的な暦として使われた。
カエサルは甥のオクタウィアヌスを後継者として指名した。
ウェルキンゲトリクスが処刑されると、カエサルはガリアでの勝利を祝った。

ヌミディア
タプススの戦いで元老院派と共に敗北。ヌミディア王ユバ1世は敗死。
ユバの死によってヌミディア王国は断絶して、ヌミディアはローマ属州となった。

死去
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス、ローマの政治家(* 紀元前95年頃)
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ、ローマの政治家(* 紀元前100年/紀元前98年)
ユバ1世、ヌミディア王(* 紀元前85年頃)
ウェルキンゲトリクス、アルウェルニ族の族長(* 紀元前72年頃)
0020世界@名無史さん
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2019/09/21(土) 14:49:35.610
このスレに気づかなかったものですでに質問スレにも書いたのですが
大航海時代16世紀の航海士たちの一日の定義とはどういったものだったのでしょうか?
0021世界@名無史さん
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2019/09/21(土) 16:09:30.890
>>4
俺の想像
砂漠は一年中同じ気候で昼間は暑くて外に出られない
よって外に出るのは太陽が沈んだ夜からとなるが、そうなると月が外に出ている
よって月で暦を作った方が生活に便利となる
0022ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/21(土) 16:20:18.390
これもおもしろいですね


>>5

世界創造紀元

世界創造紀元(せかいそうぞうきげん)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法。ビザンティン暦(英語:Byzantine calendar)とも呼ばれる。
988年に皇帝バシレイオス2世により導入され、1453年の帝国滅亡まで使用された(それ以前のレオーン6世の時代から一部では使用されていた)。



ロシア正教会の歴史

ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立

正教会の伝承によれば、ルーシの正教伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが[2]、
本格的な正教伝道の試みが歴史的に確認できるのはコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス(在位:858-861? 878-886)によるものである。
また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教(正教会)[注釈 1]の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった[6]。

まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、
公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い[7][注釈 2]。

府主教座は当時ルーシ[注釈 3]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた[注釈 4]。

発足当初から長期にわたってキエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の監督下にあり、コンスタンディヌーポリ総主教がキエフ府主教を任命した。
当初は府主教も東ローマ帝国から派遣されたギリシャ人だった[8]。
なお初期の府主教の称号は単に「キエフ府主教」であり、「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は後代になって使われるようになった
(13世紀から使われ始め[9]、恒常的に使われるようになったのは14世紀[10])。

キエフには後にキエフ・ペチェールシク大修道院に成長する洞窟修道院が、アトス山の修道院から出身地ルーシに戻ったアントニイによって1051年に創始された[11]。
0023ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/21(土) 19:00:07.480
>>7

コプト歴はこちらでした

ディオクレティアヌス紀元

ディオクレティアヌス紀元または殉教紀元(じゅんきょうきげん)は、4世紀から5世紀頃、キリスト教徒の間で広く用いられていた紀元。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害によって多くの殉教者(致命者)が出たことを祈念し、ディオクレティアヌスが即位した年の年初(ユリウス暦284年8月29日)を紀元とする。
現在でもエジプトのコプト正教会が用いている。

ディオクレティアヌス紀元の普及

アレクサンドリア教会での復活祭の計算方法に用いられており、そのアレクサンドリア方式が第1ニカイア公会議で採用されたため、キリスト教世界全体に広まった。

325年におこなわれた第1ニカイア公会議は全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決定し、アレクサンドリア方式を採用した。
アレクサンドリアの教会では、復活祭は「春分の日以降で最も早い太陰暦の14日(満月の日)の次の日曜日」に祝っていた。
このとき、春分の日も当時のユリウス暦では3月25日であったが、アレクサンドリアでの春分の日に基づき、3月21日とされた。


>>17

いつも確認するサイトだと
http://www.vdgatta.com/note_fasti.html

七曜制
1週間を7日とするのは、紀元後2世紀からであり、曜日の名称はさらにあとのことである。

これをもちょっと具体的にしていきたいとこです
0024世界@名無史さん
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2019/09/21(土) 21:22:56.990
>>21
なるほどね
それだと、メソポタミアやエジプトみたいな穀倉地帯に所信が広がると
預言者が想定していなかった事になって、信者は困るんだけど
だからという訳じゃなく、別の可能性を考えてる

ムハンマドは教義上文盲だったらしい
そうだとしても、商人としてエジプト人やビザンツ人、ペルシア人と交渉したはず
そうすると、商談で納期の折衝もしたはずで
太陽暦や太陽太陰暦の事も、承知してたと思う

トルコ国旗を見れば分かるように
中東一帯には太陰信仰があった
ttp://rank119.gozaru.jp/img/roma/img73/06.png
だから、アラビアに元々あった月神崇拝の名残じゃないかと
0025ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/21(土) 21:50:13.920
エジプトの戸籍調査は14年毎という情報をみかけましたが
なんでローマは15年にしちゃったのかなぁ

エジプト式の方が都合良さそうなんですが
0026ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/22(日) 05:12:52.030
曜日はここがまとまっててわかり易かったです

>>1

暦からわかる世界の不思議
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Japanese/youbi.html


曜日の呼び名の分布
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Images/koyomi/youbibunpu.jpg

曜日の伝播
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Images/koyomi/youbidenpanzentai.jpg
0027世界@名無史さん
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2019/09/24(火) 01:26:17.610
>>6
> グレゴリオ暦(とユリウス暦にも関係するかも?)に関して一つ疑問があります。

ユリウス暦を採用してたが、
教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、
太陰暦と違って 太陽暦で 年間日数を数える場合は1年の正確な周期と 端数を計算して、
うるう年に うるう日を挿入する事で 365日で進行した場合のズレを数年ごとに挟むことにした、

春分が規定されたことは 同時に秋分も決まり (昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる節)
夏至と冬至も 定まる、 あとは春分の日から カレンダーから逆算すれば 1/1が定まる。

ユリウス暦でも まぁそれなりに精度はよかったんだけど、この上記 春分の日が ずれてたので
(3日ほど 実際とはズレてた)

4年に一度 うるう日を入れてた ユリウス暦が 400年で 3日誤差がでたので
4年に一度 うるう日を入れるが 00の年にはうるう日を入れない で 解決することにした。
( 400年で 100回 うるう日が入るのを -3の 97回に修正した)

これが グレゴリオ暦
0028世界@名無史さん
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2019/09/24(火) 02:14:33.700
>>21

なに 適当に言ってるんだよw

太陽暦に比べて 太陰暦の方が 『月の満ち欠け』を見て 今が今月の何日?が判りやすいんだよ
月の満ち欠けの周期は約29.5日
満月から満月まで 数えれば 約30日 満月から新月が 約15日

https://i.imgur.com/NKkFOQM.png

大昔で 庶民がカレンダーを持ってない時代とかには 『月の満ち欠け (月齢)』を見れば
月の頭(新月)だな 三日月なので 月の3日だな 月のなかばだな(満月)と言うのが
月の満ち欠けで おおよその月の日数30に 満ち欠けの形で 判るようになってた、
アホな庶民でも月の形をみれば おおよその暦が判るので 天文観測を重視しないなら
太陰暦の方がアバウトで勘定がしやすい

月の満ち欠けの 運行を 元にすると 29.5日なので
29日の月と 30日の月 x12月で 一年は 354だと 一年周期に11端数が出る、なので
3年に一度 プラマイ修正として 12月の次に うるう月を入れる。これが太陰暦。
庶民はこれでよかったが

一方で 月齢のままの太陰暦だと 実際の二十四節気(春夏秋冬など)とズレが生じるので、
実際の二十四節気に 出来るだけ合わせるように 大の月 小の月を調整するなど
暦を作る側が毎年難儀してた 暦を作る方は大変

中国の太陰暦では 一年の起点は 冬至を起点としてたので
理屈の上では 太陽暦と太陰暦も そうズレは起こらないはずだが
天体観測の測量機器が中国日本は 欧州に比べて遅れていたので 冬至がうまく予測できてなかった。
幕府の面子は まる潰れであるw
0029世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 02:30:10.100
古代エジプトでは ナイル川の氾濫の時期を 星座を観測して
シリウスの緯度経度で 季節の巡航を把握してたそうだから
(土地が痩せることなく ナイル川の氾濫で 栄養に富んだ土壌を定期的に得られた)

チグリス ユーフラテス河も 洪水が起きた時への建造物(ジグラット)で対応してたから、
星読みが農耕と密接に関係していたのだと思う
これらの地域だと バビロニアからの60進数で天体観測した方が正確なので、
月齢よりも 太陽の運行(星座)を観測した方が重要だったのだと思う

イスラムも航海術などは発達してたので天体観測はしてたと思うのだが(実際そうだし)
なんで 太陰暦なんだろうね 判らぬ
0030世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 18:54:47.360
暦といえば面白いのがフランス革命暦

1年は365日で、革命政府が指定した年が別に閏年となった。
1年は12か月、すべての月は30日で、あまった5日(閏年は6日)は年の終わりに置いて休日とした。
さらに1か月を10日ずつ3つのデカード(décade。週・旬とも訳す)に分け、従来の週 (semaine) と七曜を廃止した。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒とすべて十進法が使われた(十進化時間)。
0031ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/24(火) 19:50:52.300
>>29

イスラム歴はほとんど知らないけど
たぶんコーランかシャーリアの絡みで
使ってるだけかと思いますが
なんかおもしろいところに繋がるんだろうか


>>30

基本のとこエジプト式なんですよね
昼と夜を12分割するとこ以外は

これを何処から引っ張ってきたのかは気になりますね
0032ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/24(火) 20:09:21.670
>>4>>29
太陰暦なのに4年に一度
閏年を入れてるのは正しいんだろうか
これは気になってまいりましたww
0034ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/24(火) 20:29:13.030
これは間違い
>>32

30年に11度の閏年で
月の位置とはあうそうな
入れ方はどこが決めてるのだろうか、、、
0035世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:04:20.140
>>33
現実は従来の暦とかけ離れてるせいで農作物の収穫時期がわからず大不評
結果すぐに元に戻った
宗教的支配からの脱却という着目点は革命らしいけどメートル法のようにメジャーにはなれなかった
0036世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:41:00.990
1983/07/03
0037世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:41:23.910
1969/09/15
0038世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:42:22.000
1980/12/08
0039世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:43:06.940
1930/12/06
0040世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/24(火) 22:44:17.370
2016/09/25
0041ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
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2019/09/24(火) 23:50:32.870
>>30>>31

共和暦とも呼ばれる。国民公会によってフランス革命中の 1793年 10月 24日に施行された暦法。
92年9月に王制廃止の宣言が出されたが,翌年国民公会は西暦を廃止し,カトリック的色彩を一掃するために,
公共教育委員長 C.ロンムに改暦をまかせた。 G.モンジュ,J.ラグランジュらの数学者,F.デグランティーヌらの文学者を含む委員会は,
原案として,以前に古代エジプト暦やペルシア暦をもとに案出されていたマレシャールの暦法 (1788) を審議し,
ほとんど変更なくそれを採用した。第1年はフランス共和国の成立した 92年9月 22日 (共和政成立の日) から始る (第1年は実際には存在しない) 。
1年を 12ヵ月,1ヵ月を 30日とし (12× 30=360日) ,年間5〜6 (閏年) 日の残り (太陽暦に比べて) は,年末におき,「サン=キュロットの日」として共和政祝典の儀式にあてた。
0042世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 01:30:21.470
>>27
> 教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、

つまり、次のようなことだと理解すれば宜しいのでしょうか?

1.復活祭の日付は聖書か何か古い言い伝えによって決まっている
2.教会はこの復活祭は春分の日であったと考え、そう定めた
3.つまり春分の日は古からの言い伝えの復活祭の日付と定義された
4.この春分=復活祭の日付から1月1日を逆に決めてこれをユリウス暦の新年とした

ずっと疑問に思っていた謎が解けてとてもスッキリした気分です
御教示、本当に有難うございました
0043世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 03:04:16.860
いや、イースターは一月七日だろ
0044世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 03:14:27.250
1年が12月なのは、一年に月がまあ大体12日満ち欠けするってことから来てるんだろうけど
なんで1月が西洋でも東洋でも冬なの?冬至でもないし
0045世界@名無史さん
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2019/09/25(水) 05:01:08.530
>>42
復活祭は 春夏秋冬の季節の移り変わりの 『冬(死)〜春(生)』と、
静寂の死から 春の芽吹きの変化を キリストの復活になぞらえて、
春を迎える節を 『復活』として 自然発生的にいつしか広まってた。
(キリスト教の浸透と 説話の理解が広まるのには ここがいつ?という境目はないと思う)

『復活祭の日』は春の訪れの日 としても、 困るのは教会側、
ユリウス暦の頃には キリスト教にも既に各宗派が存在していて各事情が有った、
第1ニカイア公会議 と言うのを 325年に行い、
各宗派ごとでの問題を討議して 「復活祭の時期」も合議で決めて、
公会議で 毎年決めて それで 復活祭の日が決まるように してた。

各宗派が合議出来てた頃はいいんだけど しだいに形骸的に…。

グレゴリス暦は
カソリックのローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を検討させた成果な訳で、
プロテスタントの国は承認せず 正教会も承認しないなど
ヨーロッパでも グレゴリス暦の導入時期はかなり遅れたり 今でも導入してない地域もある。

なので、
> 教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、

は グレゴリウス暦(選定時)での根拠であって、
グレゴリウス暦を採用してない地域もあるから絶対的根拠ではないないです。
0046世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 05:18:50.330
>>44
バビロニア暦では 三月か四月の春が 一年の始まり、

古代エジプトの暦法に由来するコプト暦だと 8月から9月ごろ
ナイル川が増水する時期

古代ギリシャも 夏ごろが新年

ユリウス暦の前身のローマ暦で 1月1日を新年の始まりとしているから、
1月1日を新年の始まりとしているのは 古代ローマの流れだと思います。
0047世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 07:37:57.870
>>16
>古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です
春分・秋分ははっきり認識できるけど、冬至・夏至はどうかな。
冬至・夏至の前後の1週間ほど日の出日没は1分以内。
日没が最も遅くなる日は冬至から半月後、日の出が最も早くなるのは夏至から半月後だし。
むしろ春分・秋分が決まってその中間の日を冬至・夏至としたんじゃないのかね。
0049世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 08:08:21.650
日の出日の入り時刻で曲線を書くと見事なサインカーブになる
0050世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 10:03:23.760
>>44
由来のJanusが始まりを表す神だったので
本来11月だったJanuariusが1月にスライドして2ヶ月ずれた
0051世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 10:14:10.340
>>47
> >古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です
> 春分・秋分ははっきり認識できるけど、冬至・夏至はどうかな。

古代では、日の長さという事よりも、黄道での太陽の移動する位置で 、
天球面で 360度1週するのを一年の周期とみなして
地球から見た 太陽の周回基準で 太陽年(太陽暦)が出来てる。

太陽年は およそ 365.242189日 (平均値)

天体観測(天文学)からの成果だと思います。
0052ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/25(水) 18:39:54.560
>>46
前153年の改暦の目的が
執政官を戦場に送るためだったそうな
春まで待てなかったらしいです


この現実と制度の狭間で
現実側を曲げて認識の向こう側にいくやりかた
おいら大好物ですね
0053ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/25(水) 19:02:18.780
>>44

正月と太陽冬至の差のせいかと思いますね
基本的に冬至がいちばん観測でわかり易かったからかと思いますが



三正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AD%A3

三正(さんせい)とは、中国戦国時代に唱えられた、中国暦の年始をどこに置くかについての3種類の考え方である。

夏正(かせい)・殷正(いんせい)・周正(しゅうせい)の3つを総称したものであり、夏王朝・殷王朝・周王朝における暦(夏暦・殷暦・周暦)で用いられていたと主張される。

12か月に十二支を配当したものを月建と呼び、冬の真ん中である冬至を含む月を建子の月とした。
したがって、春が建寅・建卯・建辰、夏が建巳・建午・建未、秋が建申・建酉・建戌、冬が建亥・建子・建丑の月となる。これには夏正・殷正・周正の違いはない。

夏正では建寅の月を正月とし、殷正では建丑の月を正月とし、周正では建子の月を正月とした。
年始はその月の朔日である。
0054世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 22:33:46.110
>>45
暦法は基本的に権威と絡んでるからね

独自の元号「大化」を導入したことや
朝廷の陰陽師が取り扱ってきた暦を
武士が改暦した事には
革命的な意味がある

個人的に常用暦は重宝してるな
4百年周期で、4百年の日数が7の倍数だから
古代中世の出来事の曜日が、エクセルで分かる

>>35
理屈で考えて、最も整然としてるけど
定規教とか、理知教とか
また別の教権支配の風情が
0055世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 23:03:55.620
一年が365.24219日で
月の満ち欠けの周期は約29.5日なのは人類にとってラッキーだったよな
一年が11ヶ月とかだったら計算が面倒でかなわん
どうせなら指の数も12本だったらもっと楽だったのに
0056世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 23:28:31.290
ググってたら 判りやすいサイトがあった 子供向けの解説だが要点の解説がgood

1年が約365日だと発見したのはどこの人? ★ 時のハテナにせまる!! ★ キッズタイム ★ 時と時計を楽しくまなぼう
https://www.jcwa.or.jp/kids/hatena-3-4.html


https://www.jcwa.or.jp/kids/images/illust_hatena-3-7@2x.jpg

ユリウス暦の改良ヒントは 古代エジプトの暦のから閏年の概念を導入したそうな、

ユリウス暦の導入年度は ズレまくってた誤差の修正の為、
一年の長さが400日以上になった。一年の長さで最長記録だと思うw
0057世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 23:30:49.000
最初の 導入年が 445日だったらしい (ズレまっくてたカレンダーの修正の為にこうなった)
0058世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/25(水) 23:41:37.460
古代バビロニアの バビロニア暦が 太陰太陽暦で判りにくいんだが、

古代エジプトの暦の考え方が めっちゃシンプル

https://www.jcwa.or.jp/kids/images/illust_hatena-3-8@2x.jpg


一年が 30日の月 12月で 360日+神様の祝日として 5日、
シリウスの位置が起点日、
が この方法にも問題があった、 太陽の運行からすると 1年は 365.24日ほど、
0.24日の端数があるので 4年で1日 ズレていく、
古代エジプトでは 4年に一度 閏年に 1日加えて修正することにした。
この考えがナイスだったので カエサルがユリウス暦として導入した。
0059ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/25(水) 23:42:51.410
>>17>>12


けっきょくウィキペディアさんの中の人がいちばん詳しいという、、、
0060世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/26(木) 00:14:59.020
ヌマ暦 めっちゃ適当やなw 太陰暦なのに 29日 31日が周期的に出てる、

太陰暦なら 月齢(約29.5日)に合わせる為、 小の月 29日 大の月30を交互に出して、
月の運行に合わせて 各月を運行するのに
『偶数が嫌い』って言う理由で 29日や31日で布陣、まぁでも 後世に影響残してるなぁw

これは勉強になるわぁw 中国の暦の歴史よりか面白いwww
0061世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/26(木) 00:19:20.600
「2月はどうして28日なのか?」 これも元を探せば ヌマ暦なのだな
0062ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/26(木) 00:45:46.010
>>17
日曜日ができたのはコンスタンティヌスさんの中の人でよいらしい

コンスタンティヌスさん田舎暮らしかと思ってたら
かなり早い段階でディオクレティアヌスさんのところに出向しておりましたよっと
0063世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/26(木) 03:18:48.070
0064世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/26(木) 15:57:27.010
>>45
なるほど、そういう経緯なのですか
詳しく丁寧な解説をして頂きまして本当に有難うございました
15年ぐらい前にハッと気がついてずっと気になっていた疑問が漸く解決しました
心からお礼申し上げます
0065ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/27(金) 02:19:59.810
気になっていて調べてみたいことをメモ

【春分、秋分について】
@春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か
Aその記録が文章に記載された初出はなにか
Bそれを考えるにあたってどういう仮定や前提を必要としたか

【冬至、夏至について】
C冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか
D北回帰線と南回帰線の間を発祥とする文明において冬至、夏至がどのように扱われていたか(特に夏至)
E古代極地方において白夜と極夜は天文現象と絡めてどのように認識されたか


あと歴史上の日時計の取り扱いや
実際の運用がどのように行われたか
いいサイトがないか探したいところですね
0066世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/27(金) 03:29:40.290
>>65
春分や秋分とかにこだわるのは あんまり意味がないと思うよ。
黄道座標系で太陽の位置(実際には地球の公転の位置)で
『一年』を古代のひとが発見したのだと思うし、
円周を360度と考えて 分割して考えた結果だと思いますがね。
(この意味では 60進数を考え出した バビロニアのひとは凄い)

地球を測定したひと
エラトステネス(BC276〜194)は 当時のエジプトの首都アレクサンドリアの博物館の館長でしたが、
夏至の日に エジプトのシエネの町の井戸が 井戸の底まで太陽の光が届くことから、
これに着想して
アレクサンドリアでの 夏至の正午に 太陽陽がさす角度を求めて、
シエネの町からアレクサンドリアの距離から 地球の球体の大きさを計算しました。
(本筋ではないで 詳細には書きません)

夏至や冬至を知ってる古代人が 春分や秋分を知らないとするのはおかしい訳で、
現代に通じる定義をどのように定めたのかになりますから、
天文学(暦の作成)などの歴史になると思います。
天文観測機器はなかなか発達しなかったので 正確な定義はかなり後代だと思います。
0067世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/27(金) 04:01:32.670
中国の暦だと

冬至を起点にしてて 冬至を迎えてから 次の朔(三日月)を新年にしてた、
夏正・殷正・周正があるが 春秋時代-秦-漢 改暦などがあるので
まぁそこは深く調べなくてもいいと思う

旧暦では 冬至は 10月前後
太陽黄経が270度のときで グレゴリウス暦で 12月22日ごろ、
旧暦の新年が グレゴリウス暦で 1/20頃 (閏月などで変わる)なので
暦の修正には冬至の観測の時期が便利そうではある。

二十四節気は 中国の春秋戦国時代の頃に考案されたそうだが、
太陰暦の季節からとは無関係だから 暦にどの程度重要視されてたのかは不明。
0068世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/27(金) 20:39:04.020
>>20
> このスレに気づかなかったものですでに質問スレにも書いたのですが
> 大航海時代16世紀の航海士たちの一日の定義とはどういったものだったのでしょうか?

一般的ではないが、天文学での慣習では 一日の始まりを 12時の正午にしていた、
(夜中に日付が変わると 1晩での観測日付がまたがる煩雑さを回避する慣例)
海上で 正確な経度を測定するのはまだ困難で
緯度は 比較的に容易ですが星座と北極星観測する天文学的知識が必要でした、
一流の素養のある航海士は 天文学での慣習にしたがった 日付を公開日誌を書いていました。

経度が正確に判るようになるにはクロノメーターの登場を待つことになります。

太陽の角度などで(夜は星座の位置)おおよその時刻は判りましたが、精度は よくなかったようです。

時計の精度がまだ充分でなかった頃は時刻を知るのに砂時計を使う場合もあったようです。
0069ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/27(金) 23:44:37.560
>>66
ふむぅ、、、、

天文観測の装置の精度があがったとして
どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか


エラトステネスさんのやつも太陽が点として見えてるのに
どういう理由から角度の差だけで求めることができるとしたんだろうか、、、


おいらのオツムが弱すぎるせいで
疑問だらけでございますww
0070ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/28(土) 00:03:07.870
>>69

このサイトによるとエラトステネスさんの中の人は
次の順番で論証を進めていましたね

http://james.3zoku.com/kojintekina.com/physics/physics090501.html

1.地球の大きさを測る
2.月の大きさを測る
3.月までの距離を測る
4.太陽までの距離を測る
5.太陽の大きさを測る

これは途中までで循環している気がしますが
ほんとにそうだったのかなぁ
0071ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/28(土) 09:23:35.870
>>22

ふむぅ、、、
錯綜しすぎていてよくわからんww


世界創造紀元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%B4%80%E5%85%83

東ローマではいわゆる「西暦」は使用されておらず、当初は古代ローマ時代からの伝統を受け継いで、その年の執政官の名で年を呼んでいた。
しかし、541年に官職としての執政官が廃止され名誉称号になってしまうと、15年周期の会計年度であるインディクティオを使用するようになった。
ただし、インディクティオは15年周期であるために単に「第3インディクティオ」などとすると、どの年のことなのか分からなくなってしまう可能性があった。
そこでこの世界創造紀元が導入されたのである。


4755年 (紀元前753年) :ローマ創建。
5838年(330年):コンスタンティノポリスがローマ帝国の都となる。
6045年 (537年) :ユスティニアヌス1世が勅令で世界創造紀元による年代表記にインディクティオの使用を義務付ける。
6496年(988年):世界創造紀元がはじめて公式に使用される

東ローマ帝国の国教であった正教会では、この紀年法が帝国の滅亡後も長く使用された。ロシアでは西暦1700年まで世界創造紀元を使用していた。



インディクティオ

最初は3世紀後半のエジプト属州で農業や地税の記録で使われていた。
287年に始まった時点では5年サイクルで318年で26サイクル目に到達した。
しかし314年までには15年サイクルが現れている。

ビザンチンの年代記"Chronicon Paschale"によると最初の年は312-313年、933年のコプト文書には1サイクル早い297-298年と書かれている。
4世紀後期までには地中海世界全域で文書の記録に使われていた。
0072世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/28(土) 13:56:27.840
西暦をやたら持ち上げ、全世界これで統一すべきだ、と主張している人は
「紀元前」記数の不合理をどう考えているのだろうか。
紀元前何年などと逆走せず、ローマ紀元やエジプト紀元などで前は数えよう
とは思わなかったのだろうか。
0074世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/28(土) 15:05:06.410
正教の世界創造紀元
今年は7528年
これだけ長かったら紀元前を使う必要ほとんど無いで

ユダヤの宇宙創世紀元も今年は5780年やから紀元前を使う必要ほとんど無いのは同じ
0075ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/28(土) 18:55:50.510
>>72
エジプト紀元って
ソティス周期のやつですかね?

これを起年とする暦ってあったのでしょうか
なんとなくサイクルの気がしてますが


>ソティス周期
紀元139年にこの一致をみたので、逆算すると、紀元前4241年、または、紀元前2781年にソティス暦(太陽暦)は始まったと考えられている。
0076世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 00:35:32.220
普通の暦だと、紀元前と紀元後の計算は面倒になる。

紀元前5年から紀元後6年までの年数は… 6−(−5)−1 = 10年間になる
何とも−1が邪魔だ。

ところが、インドの暦は紀元0年から始まる。だから
紀元前5年から紀元後6年までの年数は… 6−(−5) = 11年間になる
合理的だ!
0078世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 04:01:09.950
>>65
> 気になっていて調べてみたいことをメモ
> 【春分、秋分について】
> @春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

>>69

> どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか

ウルムル氏の考察の前提事項が間違ってます。
よく 『昼の長さと夜の長さが等しくなるとされる日』とマスコミも言っていますが、

https://i.imgur.com/YNAEDlZ.png

実際には
春分の日は 「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」です 逆ではありません
「昼の長さと夜の長さが 等しくなるとされる日」が春分(秋分)では ありません。

昼の長さと夜の長さは 『ほぼ そうなるであろう』と されてきましたが 実際には違います。
(検索すれば なぜ違うのか 色々説明が出てきます)
0079世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 04:57:19.030
春分の日の
日の長さは 実際には 『12時間と 7分ほど』
夜の長さは 『11時間と 53分ほど』になります。昼の方が やや長くなる

日の出が 太陽の中心点ではなく 太陽の極端(端っこが出た瞬間)、
日の入りが 太陽の中心点ではなく 太陽の極端(完全に沈み込んだ状態)になりますので
太陽は 点ではなく 見かけ上の大きさがあるので 太陽の大きさによる観測誤差、と

地球には大気がありますので、大気の屈折率により、
地平線よりも 数度上に 地平線際のものは実際よりかは見えます。

ですので、「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」説明されています、が
昼の長さと夜の長さと言うのは 説明上での要点にすぎず、
現実上での定義ではありません。
0080ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 10:54:52.310
>>78>>79

ふむぅ、、、


そしたら天体観測から昼夜の時間は
絶対にわからないという結論でよろしいのでしょうか?


いまはマスコミが言ってるとして、それを言い始めたのは誰なんだろうか、、、


ちなみにおいらとしましてはBで実際に検証可能と考えております。
0081ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 11:13:55.150
>>77>>76

どうもサカ暦の紀元前1年を紀元にしてるような気がします

おいらの記憶だと勝った記念と追い払った記念だったのですが
両方ともよくわからんらしいですね
0082ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 11:18:46.390
>>81
失礼いたしました

インド国定暦はサカ紀元と一緒になってますね
0083世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 11:51:27.670
>>80
春分・秋分・夏至・冬至などの二十四節気は、
太陰暦とは別に 1年を春夏秋冬に4等分して
更に 12等分や24等分にして区分する方法が考えられた。
中国の春秋戦国時代に考えられた区分法らしいが
その当時に正確な一年の日数は判らなかったし 区分法としては 四季を細分化する手法。
旧暦(中国・日本の太陰暦)では 特定の日にはならず 毎回変わる。

春分などの定義は 天球黄道面 360度を24等分して
天の赤道と 黄道が交わる点を 0度として そこを黄経 0度として、
黄経0度の点に 太陽が位置する瞬間を 『春分』と 天文学的には定められています。
(270度過ぎた点が 冬至、 90度以前の日とも 言える)

https://i.imgur.com/9QUjYPx.png

「春分の日」で ググれば 明確な日時は すぐ出てきますが、
春分の訪れる時間と 暦での「春分の日」は 春分のは6時間ごとズレていき
最大で 18時間ずれますし その「春分の日」でも
大気の歪み や 理想的な地平線の有無でも 昼と夜が等しい日にはなりません。

ですから 上記の 「黄道面での 黄経0度の点 〜」と言う難しい定義よりも
「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」と いう それっぽい説明の方が判りやすいので
説明でよく使われるだけで、
「昼の長さ 夜の長さ」と言うのは厳密な定義とは無関係です。
0084世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 12:06:46.930
>>69
> 天文観測の装置の精度があがったとして
> どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか

昼と夜の時間の長さを測定するのに 時計の発明を待たないとダメでしょう、
16世紀以降の振り子時計の登場と、
グリニッジ天文台からの グリニッジ平均時、
場所の 緯度経度 (測定する場所の正確な位置) 正確な暦

ウルムル氏が言う 昼夜の時間を正確に測るには これらの要素が必要、
特に 時計の無い時代では 測定出来ないので 推論から実証ができない。
0085世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 12:15:46.410
>>80
> そしたら天体観測から昼夜の時間は
> 絶対にわからないという結論でよろしいのでしょうか?

時計の無い時代では 推論は出来ても 実際の観測値で実証ができない、
グレゴリオ暦の時代(16世紀)には もうすでに 『昼長さ 夜の長さ』と言う定義ではなくなっている、
(ユリウス暦の時代に 『春分点』と言う 天球での黄道面での位置に定義が変わっている)

ですから、
古代では 『昼夜の時間の長さは 計測機器がないので不可能』
計測機器の登場した時代には もう定義じたいが変わっていたので そういう考え方は捨て置かれた。
というのが実情だと思います。
0086世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 12:38:53.420
>>65
> 冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか

冬至を天体観測での起点日にしてる文明の方が多いような気がします。

古代中国では 冬至を重要視してますね、ただし暦は太陰暦でしたので、
暦上での冬至が変動してましたので 天文学以外で実生活に影響してたのかはよく判りません。

古代文明などの遺跡から考察すると、
冬至 夏至 春分 秋分などの予測はしていたみたいです。
ピラミッドはシリウスの見える方角と角度 (夏至から3か月ほど後)の時期を
みる観測義とも言われていますし、
ストーンヘンジも天文観測装置ではないかととの説があります。(でも結論がいまだ不明)
0087ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 12:50:43.890
>>84>>85

時計の発明を待たねばならない
のではないかというのは
おいらの推定でも同じなのですが

古代から時計自体は発明されておりましたので
幾つかの仮定をおけば
昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

おいらがずっと思ってるのは
『昼長さ 夜の長さ』と言う定義がされたこと自体が
一度もなかったのではないかという推測と
おそらく地動説が広まって以降で
ある意味で近代的な『昼長さ 夜の長さ』という説明を始めた人がいて
その人がどういう人たちだったのかが知りたいということですね

だから>>85に関しては全く逆の発想です
0088世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 13:13:41.370
>>87
ですから それはウルムル氏の個人的な考え方であって、
歴史的にどうであったか と言う史実での記録を示さないと 単なる個人の推論でしょう?
少なくとも自身の推論を推し進めるのならば ご自身が歴史的根拠を示すべきだと思います。

私は他の方が調べても判るように歴史的な推移や定義などを書いています。

>古代から時計自体は発明されておりましたので
>幾つかの仮定をおけば
>昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

ここは歴史板ですので 貴方の推論の場所ではありません。

○○の時代の××では昼と夜の長さを水時計を用いて記録して示した、
などの歴史的な事例などを示しつつ 持論を展開すべきです。
そうでなければ 単なる個人的な疑問の列挙ですので 質問スレに書くべきだと思います
0089世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 13:34:59.430
正しくは ウムウル氏ですね コテハン名間違えてすみませんでした。

>>65 ですが 興味深い点と 的外れな点が混在してます。
いつであるのか と疑問に思うのでしたら もう少し自分で調べて欲しかった。

> Bそれを考えるにあたってどういう仮定や前提を必要としたか

仮定や前提を必要としたか と言う書き方よりか
『古代ギリシャの○○は ××〜と述べ ◎◎の考え方が以後広まった』と言う風な
歴史の流れで ご自身が展開して欲しかった。歴史板ですので

> C冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか

冬至の方が 北極星が天球の極点として 認識されやすかったので、
北の星座や 北極星の位置で観測基準になりやすかったのではないかと思います。
あと 冬は農閑期などですので、新年の区切りになりやすい、
0090世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 13:52:05.340
>>87
> 時計の発明を待たねばならない
> のではないかというのは
> おいらの推定でも同じなのですが
> 古代から時計自体は発明されておりましたので
> 幾つかの仮定をおけば
> 昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

古代における時計って水時計とか砂時計とかでしょう?(線香とかもありますが)
それに 時間や時刻の定義は各文明でまちまちで
昔の江戸時代だと 不定時法 季節によって 1刻の長さが変化してます。

定時法が定まったのはかなり後代、
定時法の考え方の源流は古代にもあったが その頃には 1時間などの定義がなかった。

> 幾つかの仮定をおけば
> 昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

これを持論で展開するのならば、
歴史の痕跡や 歴史上でだれが述べたとか観測したとか そういう史実を示すべきです、
そうでないとコンセンサス(意見の合意)は得られ難いと思います。
0091ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 13:57:16.100
>>88
ウィキペディア先生によりますと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
紀元前3500年から紀元前500年頃

1日の時刻の測定に使われた初めての時計は日時計だった[10]。
最も古いタイプの日時計は古代エジプトで作られており、緑色片岩を加工したものだった。
紀元前3500年頃に作られたオベリスク(方尖塔)もまた日時計の役割も果たしていた。
パリのコンコルド広場にあるルクソール神殿から移設したオベリスク

エジプトでは日中を10に分けていた。オベリスクはそれに合わせて作られており、
エジプトの人々は午前と午後を、あるいは季節を読み取ることができた。
紀元前1500年頃には日時計の影を作る部分がT字型になり、その形の歪で時刻の補正ができるようになった[14]。

ただし、形をどれだけ工夫しても、日時計は曇りや夜など太陽が見えていない時には使えない。
そこでエジプト人は、水時計、砂時計、天体図などを使って時刻を知ろうとした。
水時計に関して残っている最も古い文献資料は、紀元前16世紀のアメンエムハト(Amenemhet) の墓碑銘で、
この内容から彼が水時計の一つを発明したと考えられている[16]。
いろいろな水時計が考案されており、中には非常に複雑な構造のものもあった。
その一つは容器の底に小さな穴が開けられたもので、水面の高さから時間変化を読み取ることができた。
有名なのは古代エジプト第18王朝の第2代ファラオ、アメンホテプ1世(1525-1504 BC)の墓で見つかったもので、
おそらくこれが古代エジプトで初めて作られた水時計である。

砂時計も古代エジプトで発明されたものと考えられており、その原理は今のものと同じ、2つの容器を細い管でつないだものであった。
水時計と砂時計の大きな違いは、水時計は流れる水の速度が水面が低くなるにつれて次第に遅くなるのに対し、
砂時計はほぼ一定速度で砂が落ちることである。
この砂時計は逆さにすれば再び時を測ることができるものであった[15]。
このほか、星を観察しての時刻測定も行われた。
たとえばメルケット (merkhet) と呼ばれる鉛直線を求める装置や、紀元前600年頃になると北極星から南北線を見つける装置を使って、
鉛直線や南北線と星との位置関係から時刻を割り出すようになった。
0092ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 14:10:48.380
>>90


>>91の説明だけでも
太陽の変位置、星の変位置
それとは別の時計がありますので

昼と夜が同じ現象の別の側面であることを推察できれば
古代でも特定の日に昼夜の長さが等しくなるというのは
じゅうぶんに認識可能ですね。
ほとんど飛躍はないかと思います。


>>79でいうような
日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので
そこに上がっている

日の出と日の入りの定義
大気の屈折率

この二つは基本的に考慮する必要すらないですね
0093世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 14:22:34.360
あなたが >>65

> 【春分、秋分について】
> @春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

こう書いているので、実際にはそうでないですよ。
今の 「春分」の定義はこうですよ
また、春分は 「昼の長さと夜の長さが等しくなるとされる日」ではありません、
実際の観測では こういう理由で 昼の方が長くなる との説明です。

>>92

> >>79でいうような
> 日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので
> そこに上がっている
> 日の出と日の入りの定義
> 大気の屈折率
> この二つは基本的に考慮する必要すらないですね

それに対して こういう風に書くのはアンフェアではないですか?
不愉快です
0094世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 14:25:29.670
ご自分が 『昼の長さ と 夜の長さが等しい日』とか書いておきながら
『日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので』とか 矛盾してませんか?

日の出と日の入りを観測しないのならば 貴方の考え方は無意味です。破綻しています。
0095世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 14:48:09.980
>>91
日時計は 6000年前ぐらいから使われていますが、分単位での時刻は正確には示せません、
また 季節によって 日の長さ 陽の高さが変動しますので、
日時計での時刻は 基本的に 不定時法になります。
日の出から 日の入りを 12等分すれば 夏は 1刻が長く、冬は 1刻が短くなります。

季節によっての時刻の変動を修正する日時計が考案されたのはアラビアです
(いつの時代であったのかど忘れしました 調べ直してきます)

日時計では ほぼ正確な正午が判りますが 夜の正子(0:00)が判りません、
ですから 正子(0:00)が判るようになるのは 機械時計の発明を待たねばなりませんでした。

正確に分単位の測定が出来るようになるのは機械時計の誕生を待たねばなりませんでした。

ウムウル氏の言う 古代での昼と夜の長さの測定は誰がやったのか、
またどのように測定されたのか史実で述べて欲しいです。
0096ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 15:16:46.760
>>93>>94>>95

アンフェアという意味がよくわかりませんが
おいらは>>65を書くにあたって
そもそも時刻という言葉をあえて避けて書いたので
時刻に固執されると困ってしまいますね


まずもって調べてみたいことを書いているのに

>またどのように測定されたのか史実で述べて欲しいです。
>歴史の痕跡や 歴史上でだれが述べたとか観測したとか そういう史実を示すべきです、
>などの歴史的な事例などを示しつつ 持論を展開すべきです。

ここらへんのご意見をいただいても非常に困るのですがww
0097世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 15:28:28.690
>>96
自分のメモ帳ではなく皆が利用してる掲示板で 書き込みしている以上、
レスされるのは当然でしょう?

つぶやきがしたいのであれば twitter
質問がしたいのならば ヤフー知恵袋
0098世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 15:41:13.540
春分、秋分について

春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいくないのが現在では判っている、
(実際には昼の方が少し長い)
また 昼の長さ 夜の長さなどで 春分の日は決められていない
0099世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 15:56:09.720
時刻の正確さが判らなければ、『日の出の時刻』 『日の入りの時刻』も記録できないし、

>春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

昼夜の長さが等しいと言う事が観測できません

>日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので

日の出 日の入りの時刻を記録しないと意味ないと思いますが。
正確な測定具 クロノメータとかの登場を待つと思いますが
この時代では 時刻も記録しいると思います。
0100世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 17:30:46.630
春分・秋分の決定は難しいよね。
日の出・日の入りだって、定義が太陽の上部が水平線上に現れた時…となっているから、単純には計測できない。

多分…日の出の時に、太陽の中心部が真東にあるかってので決定しているのではなかろうか。

あるいは、冬至と夏至の中間を取るとか。
0101世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 17:50:44.920
いや、だから、
太陽の一年動きを 黄道系座標で 360度に投影させて
黄経0度が 春分

春分などの定義は 天球黄道面 360度を24等分して
天の赤道と 黄道が交わる点を 0度として そこを黄経 0度として、
黄経0度の点に 太陽が位置する瞬間を 『春分』と 天文学的には定められています。

こういう定義が直観的でないから
春分の日は 「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」の方が広まるのだろうな

星座で黄道系とか普通の人は気にしないだろうし;;;
0102世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 18:00:55.110
>多分…日の出の時に、太陽の中心部が真東にあるかってので決定しているのではなかろうか。
>
>あるいは、冬至と夏至の中間を取るとか。

理屈的にはそういう感じだけど、
現実論では 東西に山や建物などがあると 理想の地平線が観測できないのと、
私たちが 『地平線だと思って観ているものは 地平線よりも下側になります』

地球には 大気の層と 大気が薄くなる層があるので、
大気の屈折率で 厳密な意味での地平線が観測できません。
↑これらは天文学で確認されました。
0103ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/09/29(日) 18:39:54.290
>>93

ちなみにおいらは誰とどの話をしているのかもわからないので、
誰に対してアンフェアと言われたのかも
よくわからないのですが
>>79さんの書き込みに対して、春分や秋分の定義がおかしいと言ったわけではないですよ

その上で昼夜の長さを比べるのに
必ずしも日の出日の入りの時刻を観測して
比べる必要はないので
べつに>>79さんの書いていることは問題ないと思います
0104世界@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 19:07:19.510
>>27 >>42
復活祭の日はもともと太陰太陽暦のユダヤ暦で決まっていた。
その日を太陽暦に直すために春分の日付(3/27)と月齢を使ったということ。
実際には大人の事情でユダヤ暦とは一致しないらしいけど。
0105世界@名無史さん
垢版 |
2019/10/01(火) 02:19:16.440
>>104
今の1月1日が中途半端な位置にある裏側にはユダヤ暦まで遡るそういう複雑な事情があったのですか
しかも大人の事情まであってユダヤ暦とは一致しないとは (@_@;
教えて下さり、どうも有難うございました
0107世界@名無史さん
垢版 |
2019/10/01(火) 11:12:05.540
暦といえばマヤが有名だが
マヤ暦って実際どれくらいのレベルなんだ?
同時代の西洋(地中海)や中国より進んでいたのか?
0108世界@名無史さん
垢版 |
2019/10/02(水) 09:30:10.180
>>107
> マヤ暦って実際どれくらいのレベルなんだ?
> 同時代の西洋(地中海)や中国より進んでいたのか?

天文学で言うなら
星や星座の観測や記録とかは圧倒的に西洋(ギリシャ・エジプト・バビロニア)の方が格段に上。
バビロニアの60進数の考えかたが 古代エジプトに伝わり、
エジプトの文化はギリシャにも伝わった。
60進数の考えかたは分数を示すのに判りやすく、
( 6/60= 1/10= 0.1などのように分数や小数点以下の値を記すのと約分などの計算がしやすかった)
天文学や占星術など 星や星座の位置を示す角度の単位(分 秒)など
中世以降までギリシャやバビロニアの記述法が支配的になってた。

マヤ暦は文字での記録が圧倒的に少なく他の文明にほとんど影響を与えていない。
0109ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/10/02(水) 20:52:31.550
>>23
しかし、ミスタークリスマスのディオクレティアヌスさんの中の人は
どうしてこんなにキリスト教徒に嫌われてるんだろうか、、、


>>95
夜の正子(0:00)の求め方はなかなかおもしろそうですね
実際のとこどうしてたんだっけかな

わりと力技だった気がしますが
0110世界@名無史さん
垢版 |
2019/10/03(木) 13:03:13.550
そりゃあディオクレティアヌスは歴代皇帝で最大規模のキリスト教弾圧やったんだからしょうがないだろ。
キリスト教弾圧というと誰もがネロ皇帝を思い浮かべるけど、そんなのとは桁違いの弾圧。
0111世界@名無史さん
垢版 |
2019/10/03(木) 18:13:22.480
>>68
18世紀の帆船が太陽時を用いたとする本がありました。
ウィキの太陽時のなかの天文時ってのが正午に日付が変わるとあり
>一般的ではないが、天文学での慣習では 一日の始まりを 12時の正午にしていた、
のとおりですね。また、
>日は、正午から次の正午の間の時間である。
と「時間と時計の歴史」という本に載ってました。
アメリカ人が書いた本ですがアメリカがそうだとは聞いたことがないですね。
0112ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/10/04(金) 00:12:41.170
>>100>>101

実際問題として
どう観測してどう定義するかには
少しの自由度があると考えますね

翻訳のせいもあると思いますが


>>23
こちらはどういう方法で編年されているのかしら、、、

『教会史』と『年代記』の執筆

290年代に入るとエウセビオスは、イエス・キリストに始まりからコンスタンティヌス帝時代に至るまでの教会とキリスト教徒の説話体の歴史である、『教会史』の執筆を開始している。
同時期に天地創造からエウセビオスの同時代に至るまでの世界中の出来事を綴った『年代記』にも取りかかっている。
300年までには、『教会史』と『年代記』の初版をエウセビオスは完成させている[32]。
0113ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP
垢版 |
2019/10/04(金) 00:28:27.450
>>112
これで統一されていたのか
集めた資料別でバラバラに表記したのか
それすらもわかりませぬ、、、

http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/silkroad/seleucus.htm

アレクサンドロス大王配下の武将セレウコスが建国した王国。大王の死後、セレウコスは
実力者のペルディッカスを殺害、前321年のトリパラディソスの軍会でバビロニア総督と
なった。その後、ディアドコイの中で最有力となったアンティゴノスにバビロニアを逐われ
てエジプトに亡命したが、前312年のガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破
り、バビロニアを奪還した。
この年がセレウコス暦元年とされる。翌311年にはアンティ
ゴノスを破り、ユーフラテス川以東の広大な領土を獲得した。
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