その2

”『後漢書』高句驪伝では、「質桓の間、復た遼東の西安平を犯し、
帶方令を殺し、樂浪太守の妻子を掠得す」”


”西安平県の城址は、、遼東郡の属県一八のうちの一県(『漢書』地理志 より)
とすれば、「道上に於て」というのは、鴨緑江の流域か河口附近でのこととみなければならない。
帯方県は、楽浪郡の中の一県であり、『漢書』地理志の楽浪郡含資県の原註に「帶水、西して帶方に至りて海に入る」とあり、帶方県が、含
資県を流れる帶水の河口附近にあることがわかる。その位置については、大きく、ソウル説と、黄海南道安岳説、黄海北道鳳山説などに分かれる。
帶水が西流する大河であるとすれば、安岳や鳳山ではおかしいことになる。
いっぽうソウルは、漢江に面しており、帶水を漢江にあてることができれば、ソウル説が妥当ということになる。”

このように主流派の学説に立つと支離滅裂で不合理でまるで分裂症のような論を展開し、それについて自らジレンマに陥り悩むw

まだまだ、つづく