古代朝鮮総合スレ2
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古朝鮮(衛氏朝鮮・箕氏朝鮮・檀君朝鮮?)・辰国 原三国時代(高句麗・扶余・沃沮・濊・三韓・漢の四郡) 三国時代(高句麗・百済・新羅・伽耶/任那) 統一新羅 後三国時代(後高句麗・後百済・新羅) 以上の時代・国家を中心に朝鮮半島の古代史について総合的に語りましょう 前スレ: 古代朝鮮総合スレ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1541508581/ 高句麗の高句麗語での名称がコマクリ Komakuri(=貊の城)である可能性について傍証 高句麗の突厥語での称: ボクリ Bökli テオフィラクト・シモカッタの記録における「タウガス(拓跋の音写と考えられるが中国のこと)に隣接する極めて勇武の民族」: ムクリ μουκρι 上記2つはコマクリ komakuriの前側が落ちて後ろ側を音写したものと思われる 前半を音写した日本語の「コマ(高麗・狛)」とは対照的である 古朝鮮の位置はズバリ言って遼東半島 以下ソース 浿水出樂浪鏤方縣,東南過臨浿縣,東入于海。 (註) 許慎云:「浿水出鏤方,東入海。一曰出浿水縣。」 《十三州志》曰:「浿水縣在樂浪東北,鏤方縣在郡東。蓋出其縣南逕鏤方也。」 昔燕人衛滿自浿水西至朝鮮。朝鮮,故箕子國也。箕子教民以義、田織、信厚,約以八法,而不知禁,遂成禮俗。 戰國時,滿乃王之,都王險城,地方數千里。至其孫右渠,漢武帝元封二年,遣樓船將軍楊僕、左將軍荀彘討右渠,破渠于浿水,遂滅之。 若浿水東流,無渡浿之理。其地今高句麗之國治, 余訪番使,言:「城在浿水之陽。其水西流逕故樂浪朝鮮縣,即樂浪郡治,漢武帝置,而西北流。」 故《地理志》曰:「浿水西至搨n縣入海。」 又漢興,以朝鮮為遠,循遼東故塞至浿水為界。 考之今古,於事差謬,蓋《經》誤證也。 6はこれの補足説明 地理志云 浿水出遼東塞外,西南至樂浪縣西入海。 ←これは正しい じゃあこれでなんで古朝鮮が遼東半島になるかと思いきのあなた 6の文章をよく読んで見てね 答えはきっと見つかるから! 当時の朝鮮半島が遼東の一部とみなされていただけだ 遼河の東は全て遼東 遼東の東限を鴨緑江とするなどという定義はまだ存在しない 《十三州志》 東晋時代の地理書 浿水縣在樂浪東北,鏤方縣在郡東。蓋出其縣南逕鏤方也。 ばい水県は楽浪の北東に在り、鏤方(ろうほう)県は(楽浪)郡の東に在る 蓋(けだ)し其の県(ばい水県)南は鏤方をなり 昔燕人衛滿自浿水西至朝鮮。朝鮮,故箕子國也。 昔、燕人衛滿がばい水から『西』の朝鮮に至った 朝鮮とは古(いにしえ)の箕子国なり ここで、朝鮮の所在がばい水の西にあると言ってる (ここ重要) 若浿水東流,無渡浿之理。其地今高句麗之國治, もし、ばい水が東(方向)に流れているなら、ばい水を渡る理(ことわり 理由)は無い (もしそうしたのなら)そこの土地は今は高句麗の国が治めているので この文章を眺めていると、水源を一にして東西別々に流れる一つの河か、 あるいは2つの水源が非常に近い2つの川が、それぞれ東と西に向かって別れていることを想起せざるを得ない 鏤方を水源とするなら、そこから出ておそらくばい水県を通ってるのだろう なんせ「ばい水」県と言うくらいだから 余訪番使,言:「城在浿水之陽。其水西流逕故樂浪朝鮮縣,即樂浪郡治,漢武帝置,而西北流。」 余訪番使 余は編者自身か? 番使はばい水の警備を担当してる吏(地方役人)か? そこの番使が言うには、城はばい水の陽(太陽が出る方向=東か)に在る その川は古の楽浪朝鮮県の西を流れる 即ち楽浪郡治を漢の武帝が置いたところである しかして北西に流れる 故《地理志》曰:「浿水西至搨n縣入海。」 古の(漢書)地理志曰く ばい水西至り搨n県で海へ入る 10は訂正 其水西流逕故樂浪朝鮮縣 その川は古の楽浪朝鮮県の西を流れる X その川は古の楽浪朝鮮県を通って西へ流れる ○ まとめ ばい水県 (北) 鏤方県 (南) ばい水の西が朝鮮 (東が高句麗) ばい水は鏤方からばい水県を通って北西に流れて海に入る 東向きの流れの川をわたると高句麗である >東向きの流れの川をわたると高句麗である 流れを右手に見てという意味ね(どんどん説明がくどくなっていく) 要するにこういうこと https://i.imgur.com/Y2Q97Or.jpg 文大統領の伽耶はなぜ世界遺産になれないのか http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/01/24/2020012480034.html 文化財委の世界遺産分科委、7対1で圧倒的反対 卓越した普遍的価値」に達せず ユネスコ「韓国は要注意国」 →読んでると笑いが抑えきれないw >>14 場を読め。 ここはそういう場所ではない。 おれみたいな反主流派が正しいと確信してる人間から言わせてもらうと 主流派・定説派と言われてる人たちの論文はおかしくてしかたない 例えば、主流派学説の魏志東夷伝(高句麗条)について某論文より引用させてもらうと その1 ”遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光について 『後漢書』卷五・安帝紀・建光元年(121年) 一二月条に「高句驪・馬韓・穢貊、玄菟城を圍む。夫餘王、子を遣わし、州郡と力を并せて之を討破す」” と取り上げているが、「馬韓」について完全にスルー もし朝鮮半島に楽浪郡なるものがあった場合それを飛び越えて馬韓が遼東を攻めたとことについて なんの疑問ももたないのだろうか まだ、つづく その2 ”『後漢書』高句驪伝では、「質桓の間、復た遼東の西安平を犯し、 帶方令を殺し、樂浪太守の妻子を掠得す」” ”西安平県の城址は、、遼東郡の属県一八のうちの一県(『漢書』地理志 より) とすれば、「道上に於て」というのは、鴨緑江の流域か河口附近でのこととみなければならない。 帯方県は、楽浪郡の中の一県であり、『漢書』地理志の楽浪郡含資県の原註に「帶水、西して帶方に至りて海に入る」とあり、帶方県が、含 資県を流れる帶水の河口附近にあることがわかる。その位置については、大きく、ソウル説と、黄海南道安岳説、黄海北道鳳山説などに分かれる。 帶水が西流する大河であるとすれば、安岳や鳳山ではおかしいことになる。 いっぽうソウルは、漢江に面しており、帶水を漢江にあてることができれば、ソウル説が妥当ということになる。” このように主流派の学説に立つと支離滅裂で不合理でまるで分裂症のような論を展開し、それについて自らジレンマに陥り悩むw まだまだ、つづく 最後に ”(高句麗では)住んでいる所の左右に大きな小屋を建てて、鬼神を祭っている。” ”『魏志』東夷伝では、馬韓にも「鬼神を信じ」「鬼神に事え」ることがみえる。” 以上 お終い >>17 >もし朝鮮半島に楽浪郡なるものがあった場合それを飛び越えて馬韓が遼東を攻めたとことについて 平壌市楽浪区域土城洞から「楽浪」と銘された多数の瓦や楽浪郡の官吏の職印が多数発掘されていることはどう言い訳するんだ? 楽浪郡は朝鮮半島にはなかったとか今時主張してるのは北朝鮮ぐらいで韓国の国定教科書ですら半島内にあったということは認めているのに 日本海側の嶺東七県は穢の酋長を県吏に任命しての間接統治なので 穢が背いた時点で素通りできるのは当然だろう 馬韓 magar は 固馬加羅 koma-gara 即ち「熊韓」で熊津 komonara(くまなり)を中心とした韓(カラ)の一地方という意味ではないだろうか? 当時の朝鮮半島南部に騎馬の技術は入っておらず、仮に馬がいたとしても外国から齎された珍獣程度の認識だっただろう。 故に三韓地域の地名で「馬」が入っている場合実はそれは「熊」のことであると看做すべきである。 例えば辰韓の「馬延国」は前半を「熊」を意味する koma、後半を「及ぶ」という意味の michiで訓読して「コマミチ koma-michi」が韓語での固有名だったと推測することができる (実際三国史記に記録された地名として「古馬弥知県」があることに注目) >>21 まあ韓国でも古田武彦みたいなトンデモ扱いだからね >>25 それは無茶がある 平壌からは「楽浪郡初元四年県別戸口簿」という木簡が見つかっており 当地が楽浪郡治であったことは疑いようがない 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」 これについても十分検証が必要 今の所楽浪郡の情報を持っていた現地人(副葬品、墓制から)にしか過ぎない この被葬者に関しては楽浪郡吏の職印すら出てきていないのだから ついでにいうと「論語」の竹簡も見つかってる 平壌がどういう場所かというと当時も鉄の産地 したがって遼東方面にも鉄を供給するために交易をしてたことは十分考えられる だから封泥なんかもたくさん見つかっているのだろう >>27 もうそれTDN屁理屈やん とにかく他所にはそういうのすらないんやから平壌楽浪じゃない説は邪馬台国韓国説並のデムパで確定や >>27 貞栢洞364号墳からは漢代の役人が身に着けていた帯鉤も見つかっているのですけど 「楽浪」区域という地名の場所から漢代の役人の墓が出土し中から楽浪郡の人口統計簿が見つかっているのだから平壌にあったとみて確定 検証の余地など無いお前が必死こいて史料斜め読みした解釈など何の証明にもならない 悔しかったら遼東に楽浪郡があった根拠となる遺構でも発掘して来い >>30 >貞栢洞364号墳からは漢代の役人が身に着けていた帯鉤も見つかっているのですけど 情報ソース頼む >「楽浪」区域という地名の場所から ん?循環論法? 大宰府から大宰府の文物が出ても循環論法にはならないけど 楽浪ならなるの? 「楽浪」区域という地名の場所 近代になって名付けたんだがw 平壤城,漢樂浪郡也(三国史記) 樂浪即平壞城(三国遺事) 西京留守官平壤府(略)漢武帝元封二年遣將討之定爲四郡以王險爲樂浪郡(高麗史五十八巻地理三) 朝鮮半島の史書では一貫して楽浪とは平壌のことであるという認識 万葉集には「楽浪」と書いて「さざなみ」と読む歌があるが 楽浪郡とはそんなさざ波が立つような穏やかな海に面した地を意味するのだろうか? 楽浪と伝わってる場所から楽浪の文物が出ても循環論法には当たらないな 楽浪郡は遼東半島にあったんだよ 古朝鮮と東西に接していた 高句麗は遼東半島の漢の四群に支配下組み込んで遼東半島までを支配していた この簡単な図式ですら日本の歴史家は歪曲しているのだからな 倭国(九州)と倭(ヤマト)が異なっていたように楽浪も2つあったのだろう 漢の治めていた楽浪は遼河下流つまり遼東半島にあった地名 高句麗支配下の楽浪郡は高句麗が後から名付けた平壌近辺の郡名 高句麗の後継国家の渤海国も実際に渤海に面していた訳ではないが渤海にあやかって名前が付いた 古代にはそういうことが多くあった 楽浪の名前に遼河の向こう側というイメージでもあったのだろう 高句麗自体がもとは漢の玄菟郡の一県に過ぎない 集安にある国内城の石城の下から土城の跡が見つかっているが これが漢代の高句麗県治と見られている >>41 >高句麗は遼東半島の漢の四群に支配下組み込んで遼東半島までを支配・・・・・・・ 高句麗が漢の四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を支配下に組込んでいた? 初耳だが、西暦〇〇年にそうだったと言われるのか? 倭王の「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」って自称の欲張り感、嫌いじゃない >>50 安東大将軍ってどれくらい権威あるんだっけ? 二品だと思う 安東将軍だと三品だから前の王からずっと大つけろって主張してた >>54 百済も南宋に臣従していたのではなかったか? この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、 倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる[5]。また、倭王の将軍号は 高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、 これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる。 (ウィキペディア) >>35 成立時期と楽浪郡が存在してた時期と時代が乖離してる それと新羅の記録だよね?確か 新羅はもともと漢字を使ってないとされてる なぞの古代文字をどこかの時点で漢字に翻訳したのだろう おそらく だからその時点で誤謬してる可能性すらあるぞ 普通にw 金東昭の韓国語変遷史って本読んでるんやがおもろい トンデモだらけの韓国人の中で一番マシな部類の研究者のレベルがこれかと感心させてくれる ただ三国時代の各国の言語は全て同じというイデオロギーありきになっていて地域差や充てられている漢字音の種類や固有語にしかない音韻の状況を無視していて 古代には/h/は存在せず全て/k/か/s/、./ts/も/s/、有気音も存在しない、母音調和は存在せず5母音体系と主張してるのが乱暴すぎて気になった 上古漢語の復元データも古いし、アップデート必要やでこれ >>54 百済の蓋鹵王は倭王武が求めていた安東大将軍よりも格上の鎮東大将軍にすでに叙されていたのよ だから倭王武の求めていた号をそのまま追認してしまうと格上の将軍が格下の将軍にあるというおかしなことになるので削られた ちなみに大将軍は同じニ品同士でも序列があって四征>四鎮>四安の順になる 雄略天皇としては。 弱い南宋ではなく、強い北魏に臣従する選択肢はなかったのか? >>63 山東半島が南宋領から北魏領になったのは5世紀終盤らしいが。 万年支那大陸の傀儡か植民地 それが朝鮮半島 故に主体思想というカルトじみた民族主義思想が出てくる >>67 主体思想は民族主義に基づいた普通の社会主義思想だぞ 少なくとも教育勅語読ませてたジャップよりはマトモだと思うけどな 朝鮮半島はカルトを生み出しやすい傾向がある 統一教会、オウム真理教、パチンコ 1000年以上前の、そんな時代に「半島と、この列島との区別」なんて=存在しな かったの、じゃないか?? ( その時代に。東京の政治家たちは、どー思っていたのだろう? 北海道にロシアが攻め て来たら、アメリカは助けに来るのだろうか??・・・その時代に ) >>70 ありうる 江戸時代まであった李朝は600年間続いたまれに見る長さの国 中国の軍事支配と儒教以外弾圧で国内はがちがちになっていた 支那か日本がガチガチに外から押さえつけないと統一を保てないのが朝鮮半島 >>68 民族主義も社会主義も先進国では評価されない . ' . ; ' . ・ ' . ; ' 彡⌒; ' ミ ∧_∧,〜 <丶`/ /Д´> ((⌒ ̄ `ヽ _ / / / \ \ \ `ー'"´, -'⌒ヽ ⊂ )/ / ノ\_つ /∠_,ノ _/_ ( _⌒ヽ /( ノ ヽ、_/´ \ ヽ ヘ } 、( 'ノ( く `ヽ、 ε≡Ξ ノノ `J /` \____>\___ノ ────────────/───‐‐/__〉.───`、__>.────── / 日本の歴史を正しく認識するための正しい用語集 縄文人 = プレアイヌ / プロトアイヌ 縄文語 = アイヌ語・夷語 弥生人 = ムムン・コリアン (無文土器時代 朝鮮人) 弥生時代 = ムムン統治時代 皇室 = 列島総督府 日本語 = 百済語・古代高麗語 天孫降臨 = コリアン・インベージョン 神武東征 = コリアン・コンクエスト 征夷大将軍 = コリアン・インベーダー 蝦夷征伐 = 東北アイヌ大虐殺 日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。 倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。 弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。 「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。 5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。 国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって「日本に渡った脱落者」という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。 在日朝鮮人が二世になると相当に変わり、三世からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。 (写真1) 「縄文遺跡群」の世界遺産への推薦を祝う日本人(渡来人の子孫) https://image.prntscr.com/image/MTkd9msPTC_Qa0ybcjlrWA.png 【悲報】韓国人さん、古代も倭人に支配されていた 神功皇后 摂政5年(205年または325年)3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしかんき)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。 神功46年以降は『百済記』が構文されている。[6] 神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。 神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自㶱(ひじほ)、南加羅、㖨国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。 神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。 神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。 295年 春 王が臣下に向かって 『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。 私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見 はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が 「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。 王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 これに対して、舒弗邯、弘権が、 ▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。 冒険的な遠征をすれば、 不測の危険があることを 恐れます」 ※当時から海に不慣れな新羅人が明確。 この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。 『キムチの発音が違う』 脅迫・暴行容疑で韓国籍の男2人を逮捕 東京都・新宿区の焼肉チェーン店「牛丸」でアルバイト店員(24)に対して大声で脅したり暴行を加えたとして、韓国籍の男らが脅迫罪・暴行罪の疑いで逮捕された。 逮捕されたのは、忍者道場経営者・金 承煕(キム・スンヒ)容疑者(30)と、無職・朴 星日(パク・スンイル)容疑者(22)の2名。金容疑者は「間違いありません」と容疑を認めているが、朴容疑者は容疑を否認している。 調べに対し金容疑者は、「キムチの発音を勝手に変えられ、カッとなってやった」 「チョッパリ(日本人野郎)にキムチ宗主国の地位を奪われるのではないかと思い腹が立った」と供述している。 金容疑者は「ハットリ・キム」と名乗り、アメリカのバージニア州ブラックスバーグやロサンゼルスなどで「服部朝鮮忍者道場」を経営していた他、「朝鮮忍者寿司」や「朝鮮忍者ラーメン」などの飲食店も経営していた。 × → 「日本人もアイヌもみな縄文人の子孫!」 ○ → 「日本語族は1億 総在日コリアン」 東アジアの言語地図 (オハイオ大学の言語学者 J. Marshall UNGER 氏が作成) https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg 日本人のパヨク学者 「古事記や日本書記の記述はデタラメ!全く信用できない!」 「日本書記によると、渡来人の日本への貢献は計り知れない、渡来人が日本を作ったようなものだ」 ご都合主義乙wwwww 「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] 橋本繁訳 @ 渡来人の故郷、飛鳥 飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。 日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。 飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。 五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、 六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。 百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。 韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。 日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。 法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。 七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。 薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。 この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。 それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。 我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。 「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 A 百済人、加耶人の移民開拓史 日本に住んだこともなく何の縁もない私が、日本で故郷のように感じる場所がある。 今も日本というと最初に思い浮かぶのは、奈良県高市郡明日香村を中心とした地域、通称飛鳥である。 明日香村は今日ではとても小さな村にすぎないが、もとは大和政権の中心だった。 日本史でいう飛鳥時代を開いた歴史の現場である。日本という言葉が初めて現れたのも飛鳥時代だった。 この飛鳥政権を建設した主役は、推古女王から統治権を委任された聖徳太子と、百済系渡来人と推定される蘇我氏一族であった。 当時、蘇我氏の権力は大変なもので、聖徳太子の母親も蘇我氏の血を引いており、推古女王の母親も蘇我氏だった。 蘇我氏は四代にわたり一〇〇年もの間、大和王朝の大臣となったので、飛鳥時代は蘇我氏の時代であったといえる。 そして、その蘇我氏の力を支えたのは、他でもない、渡来人だった。 飛鳥南側の山裾の、高松塚古墳が眺められる檜隈には、東漢氏と呼ばれる渡来人集団がいた。 彼らは、土木、養蚕、製鉄技術者としての扱いを受けて大和政権に奉仕していたが、蘇我氏の没落とともに徐々に歴史の舞台から消えていった。 しかし、彼らの子孫は絶えることなく「渡来人出身」として、僧侶、技術者、学者、官吏として活躍した。 特に、坂上氏は、東北地方の先住民である蝦夷の征伐に功績を立てた、奈良時代の代表的な武人家門になった。 今もこの村の奥深くには、渡来人の祖先を祀った於美阿志神社が残っている。 七一〇年、大和王朝が都を奈良に遷すとともに飛鳥の栄光は終わり、それから一三〇〇年過ぎた現在では、偉容を誇る寺院も、宮殿跡も、邸宅もない。 しかし、飛鳥を包み込む山裾のあちこちに、飛鳥時代の遺跡がひしめき合っている。それを半日かけて巡るのは、夢の旅路といえる。 韓国人にとっての日本踏査一番地は、やはりここ飛鳥である。 朝鮮半島=日本よりも統一が350年遅れた中国植民地 朝鮮語=日本語よりも文章語の成立が250年も遅いオランケの言語 朝鮮民族=日本の記紀から400年も経ってやっと三国史記・三国遺事が作られるほど未開 朝鮮半島の公用語=日帝支配まではずっと漢語。李氏朝鮮時代には声調まで規定された漢文で公務がなされた (『東国正韻』により規定された中期朝鮮漢文の発音例:https://www.youtube.com/watch?v=eGoYSW1_8s8 ) 高句麗語・百済語=朝鮮語族、書き言葉が存在しない土人語 高句麗=朝鮮系民族、日本でもツングースでもなく、書き言葉は漢語 百済=朝鮮系民族、475年の漢城陥落以降倭の属国 新羅=朝鮮系民族、倭人によって開かれた倭人の傀儡国 弥生人=縄文人男が韓人女を日本列島に連れて行って混血したことで誕生、男系の過半が在来種 日本語=漢語からの借用語は無数にあるが、朝鮮語からの借用語は殆どなし 言語の文明度 中国語>>>>>日本語>>>>>(記録の古さと文献数の越えられない壁)>>>>>朝鮮語>(そもそも文章が存在せず単語単位でしか記録がない)>高句麗語・百済語 こんな体たらくの分際でどの口が日本語はウリナラ起源ニダーってファビョれるのか? 「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 B 「安らかに宿るところ」から「明日の地」に 日本には飛鳥という地名をもつ場所が四〇カ所もあるという。 『日本書紀』『万葉集』などの古代の文献には、飛鳥の表記が「安須可」「飛鳥」「明日香」「安宿」などさまざまに出てくるが、すべて「あすか」と発音する。 そのなかで、初期の渡来人が住んでいた大阪河内の「近つ飛鳥」というところは、本来「安宿」と表記したという。 「安らかに宿るところ」という意味である。 そうだとすると、朝鮮半島を遠く離れた厳しい旅の末に、ようやく平穏に留まれる場所を得たという意味ではないだろうか。 その後、この地は新たに来た渡来人が溢れるようになった。 彼らを今来とよんだ。彼らは、ここを離れてまた別の飛鳥を捜し出した。彼らが到着した場所が、今の飛鳥である。 この時から大阪の飛鳥を「近つ飛鳥」、奈良県の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶようになった。 ところで、遠つ飛鳥をなぜ明日香または飛鳥と表記したのだろうか。 これについて李御寧先生は、吏読式の朝鮮語で読むと飛鳥は飛ぶの「ナル」、鳥の「セ」で「ナルセ」すなわち「明日」になり、明日香の明日はそのまま「明日」で香は郷と発音がちかいので、どちらも「明日のサト」という意味になると解釈した。卓見である。 明日への希望! 故郷を離れてきた渡来人の希望がこめられた地名である。 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 @ 縄文人、エミシ、アイヌ 縄文人とは、現在の日本人とは異なるアイヌの祖先をいう。 北海道に住むアイヌは、蝦夷または毛人と書き、エゾまたはエミシと読む。 髭が濃いが、その髭がエビのように長くて立派だということで蝦と毛が入る名前で呼んだのである。 縄文人が狩猟・採集に満足して定住せずに生活していたのに対して、朝鮮半島ではすでに紀元前一〇〇〇年から櫛目文土器の新石器時代を清算して青銅器時代に入って、新たな文明を開拓していた。 日本は国土の約七〇%が山岳地帯であり、豊富な降水量を持っており、木がとてもよく育つ。 クリ・ドングリ・クルミのような実のなる木が多い。さらに、島であるため海産物も豊富である。 カキや貝はいうまでもなく、毎年戻ってくるサケは手でも捕まえられるほどであった。 しかし、それは、縄文人が文明の次の段階に飛躍しうる契機を遮断する結果を生んだ。 彼らは、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。 自然の豊饒のために文明の発達が遅れたアメリカ先住民の没落過程と似ている。Easy-goingが産んだ結果だった。 紀元前三〇〇年頃に突然、弥生人が登場した。彼らは定住生活をしながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器という文明的な金属器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。 こうした弥生人に、縄文人は敵わなかった。一部の縄文人は、弥生人と血を分けて暮らしたが、結局、生活の場を奪われて環境が劣悪な北方に押しやられてしまったのである。 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 A 吉野ヶ里遺跡 弥生時代とは、紀元前三世紀頃から紀元後三世紀までの六〇〇年あまりを指す。 一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。 縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。 その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。 おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。 二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が朝鮮半島から照らされました。 稲作と青銅器文化が北部九州朝鮮半島から入ってきたのです。 弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。 朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。 農業文化という文明の光が入ることで、弥生人の生活が豊かになりました。 農業を始めると共同作業が必要となり、そのため氏族が集まり、自然に村が生まれて初歩的な社会を構成するようになります。 剰余農産物という富が創出されることで階級が生まれ、略奪と戦争が起きることで氏族が連合して部族国家に発展していくのは、人類史の普遍的な足跡そのものです。 それを文明の段階的発展過程といいますが、そのすべてが朝鮮半島の渡来人がもたらした稲作と青銅器文化から始まりました。 日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。 ジョン・ホイットマンは、日本語族を朝鮮半島ムムン文化を経由した水稲栽培の広まりと関連付けた。 彼はさらに、朝鮮語族は北方の遼寧地方から遼寧式銅剣文化とともに到来したと提唱した。 「北東アジア言語生態学、韓国・日本における稲作農業の到来(2011)」 Whitman, J. Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan. (2011). https://doi.org/10.1007/s12284-011-9080-0 自閉症者は1か0かでしか物事を判断できないので二つの物事があるとどっちが強いのかブンドドして対立させようとする とてもバカ 「隋書」 列伝第四十六 倭国 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 (訳)倭国は文字を知らず、だた木に刻みを入れたり縄を結んで記録する程度であったが、仏法を敬い百済から経典を求めて得たことによってはじめて文字を読めるようになった。 >>100 / ̄ヽ、___〉 ( / 〈 _,,,ィ''´ _/´ _,/ 栄 r'´ ,,( 養 ___,r‐''´ ヽ;-、_ 失 } 〉 調 < 〈 ``ヽ、 ・ソ´`` __∧ ,,<r __ / ヘ ' `ゞソヾリハ´ ヘ ,, 。_〈 統 ヘ 。rfffミ. 合 } <,ハ 失 { リ}. 調 (_, _§ / ゚ {= / ;,゜〔 _r__ィァ-ノ ´゚。 。;, 〕 /Qo。O ‥ o ソ∨ミ 日本書記読むと朝鮮人ありがとうが多すぎて泣けてくる 三国史記読むと倭人が襲撃してきた女を要求してきた飯をたかりに来た我々の奴隷を受け取ったで笑えてくる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる