JAL123便のクルーについて語る
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今年も慰霊の夏が近づいてきましたのでスレを立てました。
クルーについて熱い思いを語るのは自由ですが、亡くなられた方への尊厳や
ご遺族への配慮を忘れないよう、よろしくお願いいたします。 機長が笑顔でシェーしてる写真とご家族写真を見た辛い 例の空港エピといい、頼れる昭和オヤジ感が大好きだ ほんま最高のクルーやで 事故後1ヶ月
佐々木副操縦士の妻S子さんはこの1ヶ月つらかったと涙ながらに語った。
事故直後から根強くあった操縦ミス。
最後に操縦かんを握っていたのは夫だった。
遺族に申し訳ないと眠れぬ日々が続いた。
しかしCVRが公開され「夫が最後まで努力してくれたことがわかったのが
唯一の救いでした。」
そして残された子供たち。
テレビに食い入るようにしてみて
「息子がお父さんを尊敬していると。そのあの子がお父さんと同じ道を目指す
というのです・・・」
家の前では兄妹が仲良く無邪気にボール遊びをしていた。
「お父さんは優しかった。でも悪いこと事をしたり同じ問題を何度も間違えたら
ゲンコツ。お父さんは休みの日はよく本を読んでいたな。
たくさん読んで勉強していたよ。事故の前日はプールに連れて行ってもらった。
妹とお母さんも一緒で楽しかったよ」
21年前すでに息子はパイロットになると決意していた 子供たちは2人ともお父さん子で仕事から帰ってくると競って
父のそばにまとわりついて今日あったことを報告していた。
お父さんは息子に「何事もbetterじゃだめだ。
常にbestでなければ」とよく語っていた。
事故後テレビでCVRの内容が公開されるとき息子は
「お父さんの最後の声を録音するんだ」とレコーダーを
持ち出した。が当時はまだ文章のみで音声では公開ず父の声を
聞きたいという希望はかなわなかった。 副操操縦士の故佐々木祐氏、出生地不詳って・・・
ちゃんと調べろよ。熊本出身だろ。
上田、有田の先輩にあたる熊本県立済々黌卒。 航空機関士 福田博(ふくだ ひろし)
昭和14年生月日不詳 山梨県八代市出身
同市の工業高校を卒業後の昭和32年4月1日日本航空入社
整備士を経て昭和40年より航空機関士に(9月8日取得)
ボーイング式747型(昭和47年11月7日取得)の他にDC-6、B727、DC-8の
乗務歴がある
総飛行時間は9,831時間03分(B747は3,846時間31分)
事故当時千葉県佐倉市在住、子息がJAL現職副操縦士との情報有
事故当月に実家に帰省した際、親族に「これからはもっと多忙になる」
と技術教官としての近況を語っていたらしい 佐々木副操縦士を確認
日航ジャンボ機墜落事故で、群馬県藤岡市民体育館での遺体の身元確認作業は15日午前7時過ぎに再開された。
・・・・・・・・(略)・・・・・・・・
午前9時20分、作業再開後初めての遺体の身元が判明した。
事故機の123便の副操縦士、佐々木祐さん(39)=千葉県四街道市。
義兄の内藤稔さん(41)が顔などから確認した。
毎日新聞 : 昭和60年8月15日付け夕刊 《補遺》ー佐々木祐(ゆたか)先輩の思い出ー
これは、すでに一部の方々にはお伝えしたことですが、
実際に、JAL123便で操縦桿を握っていた副操縦士の
佐々木祐(ゆたか)氏は、実は、私が卒業した小学校
(熊本市立白坪小学校)時代の、憧れの先輩でした。
佐々木家は、熊本市内有数の名家です。
先輩の御祖父様は、かつて、熊本市の助役(今で言う副市長)をしていらっしゃいました。
たいへん人望の厚い方だったと伺っています。
私の幼少年時代、実家近くの神社の境内で遊んでいますと、夕方頃、羽織を着た立派なご老人が、実に丁寧に参拝している姿を、見掛けました。それも、ほぼ毎日なのです。
白く、長い髭をたくわえた、何とも威厳のある雰囲気でした。
そのご老人こそ、佐々木先輩のおじい様でした。
先輩のお父様は、隣町で果樹園を営む資産家でしたが、母の言によりますと、たいへん深い精神性を備えた方だったとのことでした。
例えば、終戦直前、日本は、徹底抗戦(いわゆる「本土決戦」)を選ばず、無条件降伏の道を選択しました。
しかし、当時の陸軍の一部には、まだ、「本土決戦」を主唱する将校たちがいました。
そんな中、昭和天皇は、「無条件降伏」を受諾されたのでした。
このことについて、佐々木氏は、周囲の人々に、こう語っておられたそうです。「天皇陛下が、私たちを救って下さいました」と。
今の時代感覚では、なかなか理解しずらい内容の話ですが、母は 晩年、そのことを度々、とても懐かしそうに語ってくれました。
今考えますと、佐々木家と我が家は、とても深い繋がりがありました。
つまり、お互いに助け合うような間柄でした。
5歳年長の先輩とは、親しく話したことこそありませんでしたが、
同氏は、周囲の人々を包み込むような優しさがあり、何とも言えぬ
”カリスマ性”を備えていました。
中学・高校時代の同氏は、とても色白で、少しふっくらとした感じでした。それこそ、平安時代の若き公達を見るような風情でした。
人の顔というものは、時と共に、また環境の変化で、ずいぶんと変わるものです。
日航パイロット時代の同氏は、日々、充実こそされていたのでしょうが、
たいへん緊張の多い日常ではなかったかと拝察いたします。
先輩は、中学卒業後、市内の名門、済々黌高校に進学されました。
その当時、同高校は、質実剛健を旨として、男子生徒は丸刈りで、黄色い線の入った帽子を被っていました(今は、そうではありません)。
私事で恐縮ですが、私が小学6年生の頃でしたか、その帽子を
被られた先輩が、青空の中で(つまり、中空で)、ニコニコと微笑んでおられる姿が、急に目に飛び込んで来たのです。 それこそ、まさに、”天空に浮かぶ巨大なイメージ”でした。
空の青と帽子の黄色の線が、余りにも鮮明でしたので、今も、強く目に焼き付いています。
でも、何故、そのような”白昼夢”を見たのか、当時は、全く理解できませんでした。(正直、それは、今も全く同じ状況です。)
実は、拙ブログ中の”天空に浮かぶ巨大なイメージ”というのは、60年近く前の、その時の印象を思い出したものなのです。(内容は、全く異なりますが。)
ところで、佐々木邸の裏庭には、とても美しいガクアジサイが 咲いています。
毎年毎年、まるで、佐々木先輩の御霊(みたま)のご帰宅を、待ち続けているかのような風情です。
今年の梅雨時にも、きっと美しく咲いてくれることでしょう。
また、正直申しまして、私が昨日、ナカソネ氏に関して、
あのような激烈な文章を書きましたのには、一つのワケがあります。
それは、佐々木先輩始め、同機で犠牲となられた方々のご無念を、
少しでも晴らしたいという思いがあったからなのです。
佐々木家と我が家(すでに、熊本地震で被災して、駐車場になっていますが)は、200メートルと離れていません。
1985年、先輩のご葬儀が、ご実家で営まれました。
母も参列いたしましたが、気丈な先輩のお母様は、母に、
こう語られたとのことです。「息子は、戦死しました」と。
これは、生前の母から、直に聞いた言葉です。
この平和な世の中で、亡き愛息の墓前で、こう語る母親の言葉は、
一体、何を物語るのでしょうか?
私たち日本国民は、次の言葉を、今一度、心に深く刻むべきだと思うのです。
ある墓碑銘には、こうあります。
「日航123便で死亡した520名の犠牲者1人1人がどうして
死ななければならなかったか、関係するあらゆる事実を解明し、
将来の安全に役立てることこそ、真の供養である」と。
(2004年8月12日 航空安全国際ラリー組織委員会) 何回聞いても福田さん冷静ですごい
修羅場のコックピット内にいるとは思えない
オールロスしてきちゃったですからなぁとか
どおぞーとか
おっとりしたユーモアのある人だったのかも
そう 四六時中飛ばしてる伊丹-羽田を1回飛ばすたびに、7000kWh"火力"発電した際に発生するのと同等のCO2を排出
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私権侵害と地球破壊が自由主義だの国際秩序だのとほざいてプーチンを非難するキチガイダブスタ洗脳バカは、
金銭授受の選挙違反で一方的に当選宣言した世界最悪の殺人テロ組織カルトソーカ公明党斉藤鉄夫(蓄財3億円)に汚染された
国土破壊省とJALだのANAだのテロリストが、力による一方的な現状変更どころか憲法すらガン無視でIPCCをバカにしながら
国会でカンコー連呼して都心まで数珠つなぎで私権侵害気候変動国土破壊殺人テロやってる覇権主義公明党をぶっ潰してから寝言ほざけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています