プロが使うカメラは、何より耐久性が優れている。酷使されるからだ。ファインダの視野率や、測距精度などにも留意して作られる。
大伸ばしすることを前提として撮影するときには、レンズは高画質なものが選ばれる。すべて必要に応じた機能性能と言える。

 ただし、その代償として、重く、高価になる。

 だが、誰もが大伸ばしに堪える高画質を必要とするわけではないし、すべてのレンズが究極の画質を保証するものだったら、一般にはとても手の届かない価格になってしまう。
それに、プロ用カメラの耐久性や精度は、万人が必要とするものでもない。

 したがって、アマチュア向けの普及機は、シャッタの耐久性やマウントの強度などの相対的な設計目標は低く、その代わり軽く、安価に作られる。
実際、ちょっとした観光旅行などに、わざわざ高価で、大きく重いプロ用機材を携行するというのは、一般には無意味な話だ。

 必要に応じた機能性能が提供される。それだけのことで、別に普及機が高級機に対して、道具として劣っているわけではない。これが、道具の合目的性、合理性というものだろう。
言わずもがなの話だが、使用目的に応じて道具は設計される。
 
 以前、普及型一眼レフのレンズ・マウントが、それまでの金属製から、強化プラスティックに替わったとき、コスト・ダウンによる改悪、「手抜き」だ、と言われたことがあった。
あるいは、安価な一眼レフに附いてくるズームのキット・レンズが粗悪品だと言われた。自分も、そう思った。

 今思うと、その頃の自分は、あまりに「ものづくり」の現場を知らなかったともいえるし、道具というものを知らなかったともいえるし、あるいは、ユーザとして被害妄想的だったようだ。
いち機材マニアの視点でしか、カメラという道具を見ていなかった、とも言えるかもしれない。

 いろいろな制約の中で最高のものを作ろうとしている開発者の思いや苦労を知らずに、「手抜き」と断じることは易しいが、その視野の狭さは、今となっては恥ずかしい。