【】中平卓馬の写真論【】
>>633 んーレディーメードかな? 既製品に興味を持ったのは、 ウォーホールの影響を受けた森山大道の方じゃないかな。 テレビ画面や、ポスターを転写した「アクシデント」なんかにそれが出ているのかなと。 本人も、都市の表層を転写するのだといっているし。 本人に会うと変わった面白い爺ちゃん。気さく。 それでいいじゃないか。 あげておこうか それにしても、ちょっと前に出た、新聞みたいな紙の 写真集は買う価値があるのかねぇ。 図鑑写真撮ってる真意は グラフィックス作ってる森山への拒否の心理 そこらへん気付けよ 中平って本当に昏倒したの? 今の姿見てると、中平の思索の延長のように見えるのだけど。 結局大道はセンチメンタリズムやロマンチシズムの 枠を越えられない そこが決定的に中平と違う ■“本質”という言葉に宿る意味性さえもとっぱらった “ありのまま”を現わにしてくれる中平の写真 ■其の物でしか在り得ない、何物でも無い、 しかし何にでも揺れ動く、というような不穏な予感 すらも感じさせてくれている ■そのような事物の不安定な要素まで、まさしく 存在そのものをも許容した彼の写真から、私は 其の彼の写真を鑑賞している私自身の存在にさえ、 最大限の承認を、赦しを与えられているという 底からの安堵を感じるのである 今の中平に オンナ は撮れるのか? オンナをあるがままに撮れば、オトコは発狂せざるを得ないだろう 確か原点回帰の写真集で一人撮ってたよね 少女と女性の中間みたいな印象の女だった 中平だからやっぱり生物・事物的な在るがままだったね 裸にしたから在るがままって訳でもないし 狂気が見えるから迫真にせまってるって訳でもないからね 流石に中平じゃあんま伸びねーな、あげとくか ところで中平好きなヤツって他のジャンルで好き・気になる 芸術家・作家てどんなの? 例えば、佐々木昭一郎とか黒沢清とかってどう捉えてる? >>645 佐々木昭一郎ってNHKの人だよね。 自分は個人的にはとても好きだよ。 「四季・ユートピアノ」あんなの自分でも作ってみたいと思ってる。 自分は詩を書く関係でそっち系の権威と日常的に接触あるんだけど 実際のところよくわかんないよ。 まあ白石かずこなんかはさすがに別格だろうね。 仕事先の諸先輩なんか詩人志望だった頃の中平さんとツルんで なんやらかんやらやってた面々がゴロゴロいるので。 中平さんはデジカメでも行けそう。森山さんは銀塩のほうがカッコイイと思う。 誰がなんと言おうと、 今の中平の写真よりも 「来るべき言葉のために」の写真郡のほうが断然イイ。 高度な詩的感性をもった写真家が切り裂いた「現実」! これでいいじゃないか。 えーー今の写真のほうがカッコイイよー。何とか図鑑最高ーー。 中平に興味を持ったのがごく最近なんであれだけど・・・ 写真家と言うよりも評論家としての功績の方が圧倒的に大きい人だね、オレはそう思う。 今読んでもシビレる評論で挑発し続けた中平卓馬が撮った写真・・・写真自体の評価はそれに尽きるんじゃないかな? もちろん中平自身が写真と本気で向かい合ったからこその挑発行為だったのだから、その結果としての写真は見るに値する事だけは間違いないと思う。 で、オマイラときたら評論家を評論するのに他の評論家の受け売りみたいなひ弱な言葉ばかり並べてw 特に上の方で偉そうに言ってる奴w 数年経ってるけど、読み返せないぐらい恥ずかしいだろw 僕はこんなに中平の評論も読んだし、中平に対する評論も読んで知ってます!だもんな〜 もちろんオレが言える事ではないんだけど、写真家・中平卓馬を評論するつもりなら自身で写真と真剣に向き合ってからじゃないとムリだろw 正直、中平卓馬に失礼だと思うんだ。。 中平はオマイラの様に単に言葉遊びをしていた訳じゃないと思ってるからね。 オレは遅まきながら中平に今、挑発されてるんだよね。さて、オレは写真とどう向き合おうかってね。 ナカタクは写真を乗りこなしていた ライティングスペースへ入っていくための乗り物としてね 「物の味方」を標榜するナカタク批評には 事物の視線を強調するあまり イメージの脈動性を捉え損ねるきらいがあるし モノに対する妙な思い込みがあるせいで 知覚の揺らぎを抑え込むことが現在性の獲得に繋がるのだといわんばかりの 禁欲的な態度が退屈に思えてきたりもするが ナカヒラ☆タクマはかわいいにょ >>649 「図鑑」とか「juxtaposition」とかいった言葉でナカタクが示そうとしたのは 表象への憎悪なのだから写真を撮って発表することに 意味合いを見いだせなくなっていったのは必然 イメージを写真が叩いているというか イメージを産出すると同時に解体するのが写真なわけで いい写真はそのイメージの明滅なり拍動が持続する 中平さんの弟子になりたい人、芸術家ネーム考えました中平田 熊(なかひらた くま)をお使いください。 気絶してから写真が上手くなった人でしょ。上手くというか、迷いが無くなった人。 写真のような文章というか 文章のような写真というか ともかくナカタク的な代補スタイルは最高にクールだYO! 中平はあれだけ事物だ事物だと念仏みたいに唱えていたのに 事物と像のズレをアレブレボケといった仕方で表象してしまう方向に向かったから失敗したんだよね。 ぷぷぶ >>658 失敗なんかしてるか、ボケ! 以下、>>648 を修正増補のうえで再掲 本人を含め、誰がなんと言おうと、 今の中平の写真よりも 「来るべき言葉のために」の写真郡のほうが断然イイ。 高度な詩的感性をもった写真家が切り裂いた「現実」! 挑発する言語と写真との矛盾と乖離! だれでも、この世では矛盾と乖離は避けがたい。 だから生きることは苦しみなんだよ。 これでいいじゃないか。 この矛盾を避けようとすると、悟るか、痴保になるか、居直る、しかない。 迷いがなくなる。 現在の中平卓馬は半ば痴保になって、悟った状態となった。 そして森山大道は居直った。 本日、東京都写真美術館にて「カメラになった男」観てきました。 色んな意味で大変面白かったですw >>663 そういうのは もっとはやく告知してくんろ... >>663 満員だった? 気づいたらもう昼だったのでやめた 整理券配布10時とか早すぎだぜ >>664 スマソ。でもあんまり来られちゃうと俺の分きびしくなりそうだったからさぁ。。 >>666 一応満席だった。開館5分前に着いたけどコレの為に誰もならんでなかったよw でも昼からじゃまにあわなかったかも。 ところで、あの映画なんで公開禁止になったんだろ?誰か知ってる? これからの中平になにが期待できるのか? 自縄自縛の中平に新たな展開は何も期待できない。 ある意味、本人は半ば痴呆となって、救われている。 期待? アンタ写真撮る人? それとも単なる傍観者? 他人に期待ばかりじゃなく少しは自分で何か生み出そうよw 痴呆老人がテキトーにそこら辺の物を撮ってるだけ それを信者が「ありのままに」とか「あるべき姿」とか何とか必死に装飾する こいつの写真では人の心は動かない >>671 写真について@写す(本人不在)→A撮る(本人在宅)→B写る(本人無我)なら、 俺はほぼBだ。もちろん、生み出す人であり、観る人でもある。 <中平卓馬小論> 写真とは「あるがままの事物の姿」であり、写真家とは「無私性でアノニマスな撮り手」であるべきだ、 というのが中平の核心的な写真論なのだろう。 しかし、それであるがゆえに、写真の根源的な魅力であるはずの無意識のノイズ(等価的受用)や、 闇の中に溶解する 強烈な光の触覚性(中平「来るべき言葉のために」の写真郡が全面そうだ)の描写までも否定することは、 不自由で自己満足的な狭苦しい呪縛的タコツボ写真論に他ならないだろう。 現に中平は自己呪縛の結果、タコツボから出られないタコのままである。 *自己意識の解体を経ない日常的な単なる見たままなどは縁起の現観ではない。 写真とは何かを問うことが、中平のように自己とは・生きるとは何かを問うことと等しいと捉え、 かつそれぞれの生の多様性を認めるならば、写真の多様性を認めることも当然だろう。 森山のようにペラペラ叙情グラフィックでもいいのである。 部分訂正 × 自己意識の解体を経ない日常的な単なる見たままなどは縁起の現観ではない。 〇 自己意識の解体を経ない日常的な単なる見たままなどは、 あるがまま=縁起の現観ではない。 現在の中平写真のような順光で素朴実在論的な事物写真は決して“あるがまま”などではない。 結局、大昔の弁証法的唯物論の殻・残滓をも無意識に尻にくっつけたままだ。 これなら、期待するほうが無理というものだ。 森山写真はそこら辺の見たままという表層を 適当に(演歌叙情的に)グラフィック化(自己が見る→先ず自己が観る)しているだけである。 ペラペラ・グラフィックでも本人とファンが満足するのなら、それでイイのだ。 あるがままの事物 すなわち物自体 なんて認識不可能やねんな わたしたちに与えられるのは表象・記号の世界やん? 世界が事物から記号へと推移していくその弁証法的過程をあらゆる場所に見いだすこと そのくらいなら写真にも可能かもしれへんな 話は変わるけど 清野賀子が逝ってしまったのが残念だ 写真に興味もつキッカケになったひとだけに 残念 中平だって一歩間違えてたら 生き方の多様性は否定せぇへんし好きにしたらいいと思うよ そいつの人生やもん わたしの彼氏も(自称)写真家なんやけども 毎日屁理屈ばかりこねくり回してばかりで ちっとも撮影いかへん 酒を飲めば聞きかじりの論考をさも自分が考えたかのように話すわ、 からむわでめちゃくちゃうっとおしいねん 誤りを指摘したらスネるし、言い過ぎたゴメンナサイってやると調子のったてカラダに触ってくるしやな 写真家なんて彼氏にするもんやないでホンマ >>677 >あるがままの事物 >すなわち物自体 >なんて認識不可能やねんな プロヴォーク時代の中平のテーゼを確認しておこう。 曰く、 『世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、 その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。 世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、 その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。』 中平は掴みかけていたんだ。 しかし、「植物図鑑」論で誤ったというのが俺の評価。 >あるがままの事物 というのがカント流の物自体(ding un sich)を意味するなら、 主客相対論上の妄想だとだけ指摘しておこう。 × ding un sich 〇 ding an sich 分水嶺を今度こそ仕切ったる! てのは 表象の臨界点で撮影したる! てことやんな しかし写真のフレームやその傾きも指標記号やねんから また別の表象を呼び寄せてまうし 連鎖反応がはじまるやん分水嶺なんて霧散してしまうやろ デリダのオッサンが書いてたで 視線は止まることができない ええこというわ >>670 >毎日屁理屈ばかりこねくり回してばかりで >ちっとも撮影いかへん 別れなはれ 知行合一、冷淡自智 捨てれば、満つる うちの彼氏はバカやねんバカやけど才能ありそうやしかわいい顔しとるから育てたろと思って 写真集みせたり本読ませたりしとるんやけども あかんもんはあかんみたいやなぁ 中平は「自己意識の解体と再生」を自覚していた。 これは、2,500年前のゴータマ・ブッダの教えを意識していたことを意味する。 >世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること これはまさに(異論はあるが)スッタニパータ→般若心経だよ。 >>674 に書いた→A撮る(本人在宅)→B写る(本人無我)も般若心経がバックボーンにある。 不生不滅=空=中道が掴めないと、あるがまま=縁起の現観には達せられない。 中平は掴みかけていたのに迷妄に陥ったようだ。 おっと、来客。 ではまた! 670相変わらずの池沼ぶりだなw 長文やるなら冷静に正確に書き写せよ >>687 俺は自分で考えたことを書いている。 中平も森山もあくまで自説のためのバネにしか過ぎない。 先人の業績を批判的に摂取して新たな展開を行うべきは、 先人に対する最大の報いと考える。 たとえ自説に誤りがあったとしても、 何もやらずに他人の思考を揶揄するか、真似するしか能のないオマエと 同列にするとは片腹痛いw 先ず自分のオリジナルを述べることだ。 話はそれからだ。 自説というなら中平や森山をいっさい絡めずやってね 引用をベースにもしないでね >>689 >>690 真正馬鹿? 『先ず自分のオリジナルを述べること』もせず、 『何もやらずに他人の思考を揶揄する』しか能が無いことの再証明、ご苦労w >先人の業績を批判的に摂取して新たな展開を行う という俺の手法を明示している以上、批判的引用は当然の手法だ。 その歴史的見本は超天才ナーガールジュナの「中論」の手法にある。 中平の主張した「あるがまま」とは、実はゴータマ・ブッダの縁起の現観のことだという上記の主張は、かつて誰も指摘していない。完全に俺のオリジナルな仮説(自説)だ。 俺は自説をオープンにしている。森山スレ3>>862 での森山『だからぼくの写真はいつどうコピーされてもかまわない。』という森山の態度には共感するからだ。 日常の写真行為もこの線で実行している。 実は仏教的真相にもとずく言語表現不能の深遠なところまで、直覚できているが、 それは言語では不能だし、書いても意味が無い。 森山スレ3の>>852 の閻魔大王は俺だし、相変わらずヘタレは揶揄するしか能が無い。 ゆとり教育の成果とはこんなものなんだろうw ゆとり脳には理解できるか? このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】12 [心と宗教] 【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13 [心と宗教] 【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15 [心と宗教] 上記は明らかに俺の影響だ。すまんの〜 ×真正馬鹿 ○真性馬鹿 ご苦労w 日本語をまず勉強しよう! しん‐せい【真正】[名・形動]真実で正しいこと。本物であること。 http://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E6%AD%A3 ゆえにおまえが真正馬鹿であるとは、 おまえは本物の馬鹿、うすのろ、たわけ、ハクチであることをいう。 ご苦労w 日本語をまず勉強しよう! 用法が違うね <真正>は飾る言葉がポジティブな場合だ 馬鹿が生まれつきの性質、天性である場合、 馬鹿が病気のようにほんもので疑う余地がない場合など ネガティブに言うなら<真性>を使ったほうがいいよ >>695 そんな揚げ足取りより、 おまえのオリジナル<中平卓馬小論>を書いてみろよ。 俺も勉強させてもらう。 もっとも、プロとアマチュアの差はまず、圧倒的な量の差なんだから、 みんなガンガン撮れよ。 最近、おれんちのマンションに引っ越してきたVn科の音大生なんか、 部屋にいれば、1日12〜13時間はVnの練習をしている。 やはりとんでもなく上手い。 >>679 >毎日屁理屈ばかりこねくり回してばかりで >ちっとも撮影いかへん ↑ こんな奴が一番あかん >>696 あれれ、しらばっくれるのねwwww 素直に間違いを認めたらどうなのさ お前の日本語がおかしいから指摘してあげたのに 相変わらずだなw >俺も勉強させてもらう まずは日本語! 「おまえ」が急に「おまい」になったりしてキモいわぁ プロヴォーク頃の中平の写真、森山よりぜんぜんイケてる プロヴォーク頃の中平の写真、森山よりぜんぜんイケてるな プロヴォーク頃の中平の写真、森山よりぜんぜんイケてるよな 急性のアルコール中毒で記憶喪失になった後は知らないけど、 とにかく、若い頃は本当に芸術家としての実力があっただけだとと思う。 ぐだぐだ説明することでもない。あの人は単にタレンテッドな人間なんだろ。 それでその才能は父親譲りなんだろ。 http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/syuuzouhin/kaisetu/sikisi/nakahira.htm 中平写真論の真髄は道元の道 <自己意識の解体と再生> 仏道(写真道)をならふといふは、自己をならふ也。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。 「正法眼蔵(現成公案)」 暮れに横浜の千曲商会のまん前ですれ違ったよ。 連れのおっさんがカメラ店に入ろうと誘う様子だったが、 嫌そうな雰囲気出してた。 数年前に横浜駅五番街で見かけたときより腰が曲がって ちいさい爺さんになっていた。 >>708 現象学と禅は似ているからね。 既成概念や囚われを解体せよ、という思想。 中平はこれを写真でしようとした。 なんか難しい話になってるけど、単純に中平さんは自分の人生を写真で表現してたんだと思うよ。 アレ・ブレ・ボケも、自分の人生を表現するに一番彼がしっくりいったから、使ったんだと思う。 「来たるべき言葉のために」を見たとき、鳥肌が立ったよ。中平さんの心の叫びを聞いたようで。 一方で、森山さんはむしろ写真そのものに向き合ってたような気がする。 「写真よ、さようなら」は、写真を壊わしにかかってると思った。もちろん破れかぶれじゃなくて、次なる可能性を求めてだと思うけど。 結局森山さんの中で写真を再生できたのか正直わからない。とはいえ、森山さんはクールでスマートっていう印象だった。 そういう風にみると、なんか今の中平さんの姿は当然の帰結のような気がする。 そして、それがとてつもなく格好いい。俺にはできないな。挑戦してみたいけど、中平さんほどの根性はないわ。 やっぱり昔の人の生に対する執着と突きつめ方は、やっぱり凄いと思う。 中平卓馬は写真の最終体系を「図鑑」としていたわけだから、「心の叫び」っていうすごく感傷的な感覚で彼の写真を理解することは少なくとも彼自身にとってみれば間違いなわけだ。 どれだけ意図を汲んでその写真を見るかは完全に主観的な問題で、作品は作者から離れて考えられるべきものでもあるけれど。 感性を削ぎ落した地平にある、ミニマムな感性をこそ中平卓馬の写真の意図せざる良さなのではないかと思う。 それは感傷的でもなんでもない。 確かにそうだよね、中平さんの言ってることを忠実になぞれば。 でも、中平さんの深層にある関心は、写真の可能性といったことやもしかしたら写真そのものにさえも無いような気がするんだよね。 そこにたまたま写真があっただけで手段はなんだってよかった、みたいな。 「生きる」意味を探してた、みたいな。 まっ、勝手な解釈だけど。 その点、森山さんは純粋に写真を見つめてるって感じ。だからクールでスマート。 一方、中平さんは熱血だけど常に憂いに満ちた感じ。 だから今の燃え尽きた(?)姿が何故かしっくりくるのよ。 まっ、至極勝手な解釈だけど。 『来たるべき言葉のために』復刻版が出てる ttp://www.bk1.jp/product/03283745 6,930円。。。 俺、買った。 人によって価値は変わるけど、俺には十分安い。 >>721 絶対値上がりするので資産投資にもなります。 ちなみに初版は30万位したはず。 復刻版もアマゾンでは既に 新品より中古の方が高いという訳の分からない状態に… 今回の復刻で削除された「巻末の文章」はどこで読めるのか、 教えてほしい、お願いします。 77年の激闘写真論のパーティーで酔いつぶれ 記憶の一部を失ったというけど どの記憶を失ったの? カメラは撮れるし森山大道の事は分かってるし。 断片的に物忘れ状態なのかね。 ひたすら同じモチーフを撮るというのは怖い。 何をしゃべってんだか分からない。 はぁ?と聞くと失礼だよな。 聞き流すしかないの。 写真評論では視覚的無意識っていうものがよく語られるけれども マレイ/マイブリッジ的な速度の問題を通してそれを語るのは 間違いなんですよね。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる