>>931
近年の個人的に好きな映画であるイーストウッドのグラントリノを例にすれば
予備知識として必要なものは「アメリカには白人社会ベースの人種差別がある」という事くらい
ほんのちょっと…ほんのちょっとだけ世間への関心が高きゃ誰でも知ってる知識しか要求されない

他全て必要な情報は映画の中で提示されて物語はその中で進んでいく
ここで重要なのは提示される事
これが押井は提示じゃなく説明になっちゃう
キャラの顔芸、漫画演技だったり

素性の分からんキャラが出てきたら、見てる側はそのキャラの情報が欲しがるわけで、映画内でそこに情報を提供するわけだけど
コイツは頑固者だというキャラの情報を『頑固者の演技』で見せてしまうのが押井。つまり説明してしまう
頑固者はどんな考えで、他とどう関わり、何をどう見て、何をどう感じているかを描いて提示するのが映画というものの醍醐味だと思う
例えばプロップガンが玩具感だしたら、「玩具だ」という情報を提示してしまうわけで、そこを「これは本物の銃」と説明したところで観客は玩具と認識する
押井の映画の銃撃戦に臨場感がないのはその提示で失敗してるからだよ

そういう提示の連なりが映画なのだと思う

その醍醐味をインスタントな予備知識や、選民的フィルタで排除するか誤魔化すかするのは映画の素養が足りないからだよ
だからつまらないし世間にも受けない