スリー・ビルボード Three Billboards Outside Ebbing, Missouri ★ 4
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ディクソンがゲイなのは確認できたが広告兄ちゃんにゲイ要素あったか? 上司が自殺して泣きながら同僚と抱き合う時「ん?」ってなったな ディクソンは隠れゲイというか、自分自身でそのことを認められないのが
あの鬱屈の原因の一つだと思う >>255のようにディクソンの内面を想像するのはありだろうけど、>>253とか音楽の好みとかは
証拠にはならないと思うな。
彼のそういう側面はディクソンが他人からゲイ呼ばわりされる原因になっていて、本人はそれを
嫌がっているのだから少なくとも主観的にはゲイではない。 お前をゲイだとバカにする奴が居たら そいつを差別主義者だと告発してやれ >>260-261
そこは、前段があるよね。そうすれば誰もお前をゲイだと思わなくなるだろう、のようなくだりの部分。
プールバーでディクソンが広告屋のレッドにキューバではホモはどうなるか知ってるか?と尋ねる
ところがあるけど、あそこではディクソンがレッドをホモとして扱っているわけでしょ?
自分がゲイの自覚があったらそんなことするかな? >>262
自分をゲイと認められないゲイがゲイを必要以上に貶めるってのはよくあること >>263
前にも書いた通り(>>257)、そういう内面性としての可能性はあるかもしれないが、
本人が認めていないものを決めつけることはできないだろうってことだよ。
じゃあ、ホモフォビアの人たちは実はみんな同性愛者なのかって言ったらそんなことはないだろ。 >>265
むしろゲイではないと主張できる理由がわからんのだが >>266
ゲイだの対偶命題がゲイではない、だから。
なんなら、ゲイかどうかはわからないという意味に受け取ってもらってもかまわないよ。 >>267
待遇命題がゲイではないだからっておかしいでしょ
ゲイかもしれないしゲイではないかもしれないのだから
そこであなたはゲイであることを否定する根拠が本人が認めていない、以外に立てられてないわけだが
で、本人が認めないのはよくあることだという反論に反論できていない
少なくとも、ゲイっぽさを感じさせる描写はたくさんあるわけで
ゲイではないと反論するためには、あなたはそれらの描写に説明を与える必要がある 普通に色んなとこに暗示がこれだけばら撒かれているんだから、
素直に見ればディクソンはクローゼットなゲイとしか言いようがない
ただ、明言されていない以上そう思いたくないんならそれはあなたの自由としか ついでにいえば、本人がゲイであると認めていないかどうかすらわからないのに、なぜ本人が認めていないと言えるのか説明しなければならない 自分がゲイであるからこそ、あのように反発することだってあるわけで、その可能性を排除できる理由を示してほしい >>268
ディクソンがゲイかゲイでないかは二者択一の問でしょ。それと、映画から
彼のセクシャリティーを確定的に読み取れるか否かは別の問題。
「ゲイかもしれないしゲイではないかもしれない」というのは、後者の問題に関して可能な答え。
で、そういう答えで満足ならそれでいいよというのが上の「ゲイかどうかはわからないという意味に
受け取ってもらってもかまわない」ということだが、いま議論しているのはそっちじゃなくて
二者択一の問題の方でしょ?だから、ゲイ説に対しては非ゲイ説を主張しますよ、ということ<対偶命題
署長の手紙に関してはすでに述べたが、ほかにゲイっぽさを感じさせる描写というのを列挙してくれれば
それらについても個々にこちらの考えを示すよ。
>>269
思いたいとか思いたくないとか、別にそうであってほしいことがあるわけじゃなしw
クローゼットなゲイというのが、ディクソンが自分がゲイであることを秘密にしているという意味であれば
今のところそれに同意する理由は見当たらないので、どういうところを素直に見ればわかるのか、
やはり具体的に指摘してほしい。
>>270-271
ディクソンが言葉や行動でカミングアウトしているシーンが存在しないことを指して認めていないと
言っている。また、排除できるとも主張していない。逆であることを示唆するシーンと受け取るほうが
映画の流れの中では自然だというだけ。 >>273
二者択一の問いではないよ
わからないという選択肢がある >>273
そのセクシャリティが確定できるかの話をしているわけで
あなたの最初の2行は詭弁だよ やっぱりアレの自演かw
だんだん長文になってきてんのワロスw この作品は差別や迫害にどう対処するかってのもサブテーマの一つで
それを読み取るには各人のスタンスやポジションを把握するのは必須
この作品に登場する主要人物はみんな「パートナー」が居る
レッドは受付?の女の子を気にしてる描写が初っ端から出てくるし
看板設置してくれた黒人の兄ちゃんもミルドレッドの同僚の女性と出会ってすぐイイ仲になってる
チビ男もそうだけど、異性に興味のある男はすぐにアプローチする様がしつこく描かれてる
ところが作中の主な登場人物でシングルなのはミルドレッドとディクソンだけ(母親の保護下にあるミルドレッドの息子と途中参加の新署長は除外)
旦那と別れたミルドレッドはともかく、いい歳して異性の存在がカケラも匂わないディクソンはあの世界から明らかに浮いてる
で、彼は最初「黒人差別主義者」として説明されるけど、レッドの事務所に殴りこみに行くとこで受付の女の子も平気で殴る
んで「俺は白人も殴る」って言ってるけど、あれはディクソンの性的スタンスのフラットさも表現してると思う
(別に女の子なんて殴らんでも無視すりゃいいし、普通男だったら女を殴るのは流石に少しは躊躇する)
この作品は主要人物の皮を剥がしていくって構成を取ってて、描写の段階がグッと上がる瞬間がハッキリあるんだけど
ディクソンの場合はABBAをノリノリで聞いてて署長の死を知って気絶してメソメソ泣いて男女平等パンチをお見舞いに行くあのシーンなんだよ
あそこでそれまで黒人差別主義者だと思われてたディクソンが性的少数者なんだって情報が一気に提示されてる
ミルドレッドは自分の思いが社会に受け入れられない苛立ちを抱えてて
ディクソンは自分のセクシャルなポジションの不安定さから周囲に怒りをぶつけてる
んで対等なパートナーが欠けてたミルドレッドとディクソンが理解し合って終わる、という構成でもある
だから、ディクソンがノーマルだとするとこの文脈が成り立たなくなる
「ディクソンは何をそんなに怒りを周囲に撒き散らしてんの?」って疑問が宙に浮いたままになるから
もしディクソンがノーマルなら最後理解者になるミルドレッドとは今後恋仲になる可能性を示唆することも出来たけど
そういう気配も全然ない
ハッキリ明言しないにしても明らかに確定的に構成、演出されてるのは事実 仮にディクソンがノーマルだとしても、自分を焼き殺しそうになった女とくっつかんやろ ディクソンがゲイなのはアスペでないなら誰でもわかる
問題はレッドがゲイかどうかと言うこと
バイの可能性もあるしな 毎回手元に欲しいと思った作品が DVDとブルーレイのセットだとブルーレイ単品で販売されるまで待っちゃうんだけど、みんなセットで買うの? >>274
だからそれはわかってるってw
>>275
確定できるかという問いだったら、最初から答えは決まっている。確定できない。
この映画には、ディクソンの想い人は登場しないから。
で、ゲイっぽさを感じさせる描写は出してくれないの?
>>277
ディクソンには「パートナー」がいるよ。彼の母親。
もちろん性的対象という意味ではなく、彼の人生の桎梏としてのだけどね。
母親が彼の人生の重しになってきたことはウイロビー署長も手紙の中で書いている。
外出するディクソンに母親が女に会いに行くのかと半分ふざけて問いかけるシーンがある。
声を荒げてそんな女はいないと答えるディクソンからは、母親の存在が彼の青春を味気ないものに
してしまった呪いを感じなかっただろうか? 実は役柄的にはミルドレッドよりディクソンのほうが複雑なんだよね
この作品は「実は元々こういう人だった」って話だから
ミルドレッドは怒れる哀れな母親、かと思いきや元々粗野なオバサンだったと早い段階で判明する(娘の回想)
ディクソンは完全に悪徳警官として描かれてる(ボス、ちょっと問題が…と連絡するシーンなんかマフィアみたい)
署長も、レッドの事務所で机に足を放り出して、まるで許されざる者のジーンハックマンの悪徳保安官のよう
でもその図式がガラッと変わるのがこの作品の核
ミルドレッドは擁護しきれない点が表れてきて
署長は最初から全てお見通しの人格者だったとわかる
実はレッドとかも少しこの変遷を辿ってる。冒頭はいかにも軽薄な若者っぽく登場するけど
酒場でディクソンに絡まれて署長の余命を知ってミルドレッドに看板やめないか?と掛け合ったり
オレンジジュースのシーンは言わずもがな
メタ的な話になるけど、ディクソンがノーマルだったら「実はこういう人でした」って図式が成り立たなくなる
ただ単に痛い目みて改心した、みたいな安っぽい話になる
ディクソンの役柄が深いのは、「なぜ警官という圧倒的優位な立場で無茶苦茶やってるのか」ってところ
警官なんてまともに働いてりゃ迫害されることなんかない。人を取締る仕事なんだから
なのにディクソンは以前から暴力警官として有名で、劇中ことあるごとに「俺が正しいんだ」と力を誇示しようとする
典型的な思い上がったヤツなのか?と思わせておいて、実はその裏に鬱屈した動機があった、という構図
ディクソンが根はいいヤツだってのは作中最大の賢者たる署長が保証してるから
ディクソンがノーマルだとしたら、構成に一貫性がないわ話が安っぽくなるわ署長の人物像も浅くなるわ、いいことはなにもない >>281
ではなぜゲイではないと言い切れるのか? ディクソンはおそらく女性経験も男性経験もないバージン
こじらせすぎてああなってしまったと推察 >>282
映画全体の構成の話はさておいて、ディクソンというキャラクターがこの映画でどんなふうに
描かれているかといえば、まず注目すべきは母親との関係なのじゃないかな?
ディクソンの性格形成には父親を早くに無くして母親の面倒を見なければならなかったことが
決定的だったことは署長が手紙で書いている。ディクソンが酒場から殴られて帰宅したときの
母親の狼狽ぶりを見れば、父親が死んだときのことも察しが付く。
母親中心の生活を余儀なくされてきたことがディクソンの鬱屈の原因というのが映画が
明瞭に描いていることで、ディクソンのセクシャリティーなんか持ち出す必要はないと思うがね。 ついでに書いておくと、そもそもこの映画では登場人物の恋愛模様なんか問題になっていない。
いちばん濃厚に描かれているのは署長夫婦というすでに成立しているカップルのこと。
>看板設置してくれた黒人の兄ちゃんもミルドレッドの同僚の女性と出会ってすぐイイ仲になってる
こういうのも、あの酒場にディクソンが(元)警官だということを知っている人物を配置するために
使いやすいのを使ったに過ぎない可能性が高いと思う。映画の演出ではよく使う手だ。 >>286
他の人達は映画の描写から類推出来る事実を探っていってるのに対して
あなたは無根拠に設定した自分の仮定に対して映画の多くの描写を無視して類推してるから説得力が無いんだよ
ディクソンと母親が鬱屈した関係だって?どこを見ればそんな風に見えるのか
あの母親は確かに息子に対して甘くて過干渉っぽくはあるけど
当のディクソン自身は真っ当な自立した男として描かれてるよ
母親を嫌悪してる様子も無ければ精神的に支配されてるような子供っぽさもない
自分の暴走でクビにされたことに対して抗議してやろうかという母親に「母親が出て行くなんて変だろう」と真っ当な返しをしてるし
心の底から愛してることもラスト付近の描写でわかる
手紙の件を根拠として引用するわりに「同性愛者〜」のくだりは無視したり、アナタの解釈の仕方には一貫性がない >>287
>この映画では登場人物の恋愛模様なんか問題になっていない。
全く男っ気のないミルドレッドにチビ男が気があるとわざわざ映画前半から提示されてて
終盤の重要な部分に「デート中同士の鉢合わせ」なんて、犯人探しって主題と全く関係ないイベントが配置されてるのにそれはないでしょう
この作品は上映時間が2時間切ってると、この手のドラマ映画にしてはかなりタイトな構成
故に無駄なシーンを挟む余地は全くなく、全てのカット、シーンに無駄がなく有機的に繋がってる脚本
そういう作品を指して「意味なんかない。よくある手法だ」ってねぇ…
ちなみにシーンの主要人物、時間、場所が変わってるのに直前のシーンと同じ登場人物が出てるっての全然「よくある手法」じゃないよ
これもメタ的な方法論の話になるけど、映画の編集は変化が大きいほうがいいとされている
観客は映像の変化が微妙なほうが実はしっくりこない(これに関連した科学的な実験結果もある)
昼の場面の次は夜の場面、騒がしいシーンの後は静かなシーン等メリハリをつけるのが編集の鉄則
例えば昼間の主人公のレストランでの食事シーンの後に、夜の怪しげな一室での悪役の談合シーン。これはよくある構成
これを「主人公の食事シーン→その隣のビルの、同じ時間帯の悪役の談合シーン」とするとあまりしっくりこない
(両者が同時刻に展開していることにドラマ上の意味があるなら別だが)
更に、主人公が居るレストランに客として居た一人が、次の全く関係ない悪役の談合シーンにも居たりしたら、これは相当違和感がある
というか、こんなことされたら観客は何らかの因果を探し始める
ディクソンを「警官だ」と証明するだけならそれこそ冒頭と同じように黒人の兄ちゃんが一人で酒場に居ればいいだけ
そうじゃないってことは意図があるってことだよ
こんな意図的な演出を「関係ない。ただの偶然だ」ってのは映画を読み解くのに真摯な態度とは言えないね ちなみに件のバーのシーンでもシーンの冒頭から「二人組と客と一人で飲んでる奴」という対比的な描かれ方をしてるし
署長の娘も二人、ミルドレッド家の子供も元々二人だったのが一人に欠けたという設定
この作品が「二人一組」というモチーフをしつこく繰り返してるのは確定的だよ
それこそ「よくある手法」だしね
(テーマに関連するイメージやモチーフを繰り返し登場させる「イメージシステム」という演出法) 海外のレビューでは、レッドとディクソンがゲイとして認識されてるよ。
あと、ディクソンの破壊行動は自己嫌悪からくるもの、とロックウェルが言っている。
つまり、レッドを殴りに行ったディクソンの行動は、自分がゲイであることを受け入れられないディクソンの鬱憤が同じ性向をもつレッドに発露したものなんだよね。 ディクソンはゲイであると同時に、マザコン(mama's boy)であると紹介するレビューが多いね。
カットされたシーンの中で、酒に酔ったディクソンが母親のベッドに潜り込むシーンがあったらしい
(コメディとシリアスのバランスが崩れるという理由でカットされたらしいけれど)。
ディクソンが自分のセクシャリティを認め、母親から自立し始めるからこそ、少なからず観客に彼を応援したいと思わせるパワーがあるんだよね レッドがゲイってのはどの描写から言われてるんだろう >>292
へえ…そのシーン円盤の未公開シーンに入ってるのかな >>288
ミルドレッドはディクソンに対して、いつも彼の母親のことを持ち出す。
ママんとこに帰る時間じゃないのかとか、ママはヘイトクライムのこと知ってるかとか、
雑貨店の店員のことでママに入れ知恵してもらったのかとか。
こういうことを「真っ当な自立した男」に対して言うものかな?
クビになった後のディクソンと母親の会話にディクソンの苛立ちが見て取れなかったかな?
黒人の新署長を叩き出せなんて言う母親の言葉に誰も耳を貸さないと顔を背けて首を振る
ディクソンがどんな気持ちだったと思う?そして、金の話を始めた母親に心もち声を張り上げて
知るもんかと答えたとき。
もちろんディクソンは母親をとても愛している。彼女が弱い人間であることもよく知っている。
だから母親を捨てることはできないが、その一方で母親のレイシズムや非常識さにうんざりもしている。
それがディクソンの鬱屈だよ。
>手紙の件を根拠として引用するわりに
無視していないよ。それどころか、>>261が署長の主張の前段を無視していることを指摘すらしている。
>>261と>>262をつなげてみたらいい。それでどういう意味になるか。
>>289
犯人探しはミルドレッドの行動の動機ではあるが映画の主題ではないし、ミルドレッドとチビの
ロマンスがサブプロットになっているわけでもない。一緒に看板を直した後でミルドレッドとチビが
レストランに行くなら、残されたふたりが一緒に飲みに行くのは自然なことじゃないか。
それがたまたまディクソンが飲んでいたバーだったという演出だろう。息子が留守番なのは
しかたないだろう。未成年だからね。 >>295
「自立している」というのは母親に対して、だよ
あなたの言い分ではディクソンにとって母親はしがらみだということになるけど
だったらもっと嫌悪して当然じゃないの?
ディクソンってキャラクターは「本当はそうじゃないのに世間の一般常識ではそう見られてしまう」って
この映画の共通テーマを体現するキャラクターだから
『ミルドレッドはこう弄った』とかってあなたの言い分は「本当はそうじゃないのにそう見られてる人物像」の話なんだよね
だから完全に違うとは思わないけど、このキャラクターの核はそこじゃないでしょう、と
ちなみにディクソンの母親も僅かながら「皮をはぐ」構成になっていて
ディクソンより上位の存在という風な雰囲気だったのが
ディクソンが大怪我して帰ってきてメソメソ泣いて心配する姿で
「実は母親のほうが依存している」という転換を行ってる
(ディクソンは狼狽する母親に動揺せず冷静に諭したり、実は力関係が逆だという表現になっている)
ディクソンが母親の言いなりのように見えるのはディクソンが母親に依存してるからじゃなくて
「頭が悪い(結果的に言いなりのようになってる)」って表現の一貫だよ
だからミルドレッドに「母親の入れ知恵?」ってなじられてから母親の言い分をすぐ受け入れないようになってきてる >>293
・バーでディクソンと話してるとミルドレッドに「女は話してばかり」と言われる
・服装
・女性社員とキャッキャしてる姿が窓越しに見える >>295
>レス下段部分について
ほらまた自身の解釈にそぐわない描写を無視してる
ミルドレッドとチビがデートに行ったのは「以前から気にかけてたチビ男に借り(警察署燃き)が出来たから」であって
打ち上げで飲みに行こー!なんて突発的なものとは全然違う次元のイベントでしょうに
あのデートは要は「前半から伏線が仕込まれてた」入念に用意された重要な部分で
映画の上映時間的にも第三幕に入る前の、第二幕のラストに相当する
(全体的にはディクソンがバーで喧嘩売るのが第二幕のターニングポイントだろう)
特に、ミルドレッドのプロットはあの時点でほとんど終了してて以降は特に行動も変化もなく、ディクソンのプロットの処理にミルドレッドが追随するという形になっているので
実質的にあのデートのシーンこそが、ミルドレッドのサブプロットのクライマックスということになる
そして、あのシーンで「怒りは怒りを来たす」という今作のテーマを一言で表した格言を動物園の娘から学ぶ
「全然関係ないところから不意打ちを食らう」という今作の特徴的な展開の集大成のシーンだよ
ミルドレッドのメインプロット(外的動機)は「犯人探し」で
それが人間模様(サブプロット)に影響され変質するというのが本作の構成だから
デートのシーンでサブプロットが完結したのにまたメインプロット(犯人探し)に戻ろうとするあのラストは
だから独特の浮遊感があるわけ(観客的にはもう整理のついた話に無理やり戻ろうとしてる風に思えるから)
怒りに燃えたオバサンの行動が、なんでもないデートのシーンで幕を降ろす、というのは
この映画のテーマ的に非常に重要な仕掛け
それを「ただの成り行きだ」と疎かにしてる時点であなたの解釈の仕方にはかなり無理があるよ >>293
自分もレッドがゲイというのはピンと来ないんだけど、
大事なことは、キューバ云々の台詞から分かる通り、ディクソン本人はレッドをゲイだと思っているんだよね。
だからこそ自らの性向を認められない怒りの矛先がレッドに向くわけで。 >>280
俺はBlu-rayだけで欲しいんだけどね〜。
仕方がないからセット買って、DVD欲しい奴に安く売りつけてるw いや、アメリカの軍隊でヒントが砂とかイラクやん?
黒人の署長でも上の権力にはだんまりなんだな 初見の俺でもママとディクソンのアベックは真犯人だろうが別人だろうがブチ殺しに行くのは乗り気でないし引き返すし躊躇うわ 俺がレッドだったらオレンジジュース差し入れどころかデスソースを患部に塗りたくるわ 看板屋の人優しすぎだよなとは思った
つーか、同室にする病院の鬼畜さよ・・・
まあ、事情知らないから仕方ないかもしれんが レッドも、あれだけボコられて2階から突き落とされたのに、あれだけ元気なのがワラタw
骨折とかなかったのか、肋骨かな?
若いっていいな >>297
君は、「ディクソン自身は真っ当な自立した男として描かれてる」と書いているが、
劇中では他人からそう見られていないんだろ?なんで君は自分のディクソン理解が
劇中の登場人物のディクソン理解に勝ると決めつけられるのかな。
キャラクターの核がどうとかこうとかって話をする前に、ディクソンが映画の中で他人から
どう見られているのか、まずそれを受け止めなければ話は始まらない。
映画の中で、ディクソンは母親のことで他人から嘲られ、ディクソンはそれに過敏に反応している。
それが劇中における事実なんだよ。母親はディクソンのウイークポイントなの。
>「実は母親のほうが依存している」という転換を行ってる
そんなことは映画観てりゃよほどのバカでなけりゃわかることだよ。だからディクソンにとって
母親はしがらみなの。
>>299
何がそぐわないんだ?看板を直し終えてミルドレッドとチビが約束通りふたりでレストランに
行ったから、黒人ふたりが残されたんじゃないか。「じゃあ、俺たちだけで行くか」ってことだよ。
そして行った先にディクソンが先客だった。そういう展開だろ? >>308
>看板を直し終えてミルドレッドとチビが約束通りふたりでレストランに
>行ったから、黒人ふたりが残されたんじゃないか。「じゃあ、俺たちだけで行くか」ってこと
劇中における事実、とか言っておきながら
劇中で描かれてないことをくどくど前提にするんだねあなた
一貫性がないのは十分わかったからもういいよ >>309
全部劇中に描かれていることじゃないか。
彼らは一緒に看板を直した。ミルドレッドとチビは約束どおりデート。
残ったのは二人の黒人とミルドレッドの息子だ。何か間違いがあるかな?
ここから先は無論想像になるが、前提としてはこれで十分だろう。
君はレストランのシーンがクライマックスだと書いているが、交互に描かれている
飲み屋のディクソンも同様にクライマックスなんだよ。ディクソンが冷静で思慮深い警官として
行動するシーンだ。あのシーンで「二人組と客と一人で飲んでる奴」という対比にどれほどの
重要性があるだろうか? カットとカットがどうつながっているか、ごく当たり前の経験から類推して理解する程度のことを
「想像を前提にしている」なんて言っている人は映画なんか理解できるはずもないw >>312
>カットとカットがどうつながっているか”経験から類推する”
なるほど、こんなことしてるから誤読が加速するんだね
君の理解の仕方は映画が主体になってないんだよ。君の個人的な経験による憶測が主体になってる
映画の理解ってのは「カットとカットが”なぜそうつなげられているのか”」を”作品の文脈から”類推するものだよ。
特にこの手のタイトな構成の計算し尽くされた映画はね
単純な話だよ。君の言う通り「よっしゃ看板設置完了!解散して各々デートに行きますか!」って意味だとして
なぜそのシーンを入れていない?正味一分で済むシーンだろう
大体君の解釈は映画の実際の構成に沿ってないんだよね。
君の解釈「ミルドレッド達が約束のデートに行ったから黒人カップルも行ったんだろう」って類推が成立するのは
【看板のシーン→酒場のシーン→ミルドレッドのデートのシーン】←ココまで来て初めて成り立つもの
「そのうちデートをする」という情報が観客に確約されてたのはミルドレッド達だけなんだから
「予定されたデート」と思わせるなら当然ミルドレッド達のシーンから始めているはず
【看板のシーン→ミルドレッド達のデート→酒場】とつなげていれば「あぁカップル同士でデートに行ったのか」と簡単に類推出来る
なのに実際は、「看板のシーンの、ミルドレッドがフレームアウトして見つめる二人の黒人カップル」というカットから酒場のシーンに移行する
ここに君の解釈との重大な齟齬がある
さらにその直後のカットは、ディクソンが一人で飲んでいる画、パンしてその奥の飲みに来てる二人にピント送りをするという構成になっている
カットとカットの因果を類推する?こんなハッキリした因果の提示があるかい?
冒頭の、レッドに看板設置の依頼をしてるミルドレッドが警察署を見てピントが送られるシーンと同じくらいハッキリした「因果の提示」だろう
(この作品は優れた撮影の映画の常套手段”手前と奥”という構図も多用している)
君はカット割りや構図が明らかに直接的に提示してる因果を無視して
見終わった後にしか出来ない実際の時系列を無視した類推をしてしまっている
この時点でまともな解釈じゃないのは明白だよ
ちなみにこの作品が「二つ」ということを象徴的に使ってるのはブランコからも伺えるよ >>313
>「予定されたデート」と思わせるなら当然ミルドレッド達のシーンから始めているはず
なんでバーのシーンを黒人カップルのデートシーンと解釈するんだ?あれはディクソンに
カメラを返しているの。
この映画はウイロビー署長の死後、ミルドレッドとディクソンふたりの主人公を交互に映し出す。
ミルドレッドたちが看板を修理するシーンの後にディクソンがバーで飲んでいるシーンが来るのは
そのパターンを踏襲しているに過ぎない。
看板を直し終えて、ミルドレッドがふたりにこれからチビとデートだと告げて二手に分かれる?
この映画はそんな説明過剰なシーンの使い方はしない。たとえば、ディクソンが母親に入れ知恵される
シーンの次はもうミルドレッドが署に殴り込みかけるシーンだ。
ディクソンのアップからパンして黒人たちにカメラが向いた時点で、観客は「ああ、仕事帰りだな」と
理解する。ただそれだけのことに特別な想像力を必要とするのかね? ついでだ。
>「ミルドレッド達が約束のデートに行ったから黒人カップルも行ったんだろう」って類推が成立するのは
こんなのは別にミルドレッドとチビのレストランのシーンがなくたってわかることなんだよ。
看板を直しているミルドレッドをチビが手伝っていただろ。それでチビがいるのは仕事の後で
例の約束を果たすのだろうと察しが付く。そして、ペンキ屋に店員が笑いかけたところで
このふたりが良い雰囲気になっていることも観客に伝わる。
生半可なモンタージュ論なんか振り回すまでもない。映像に明瞭に描かれていることを
そのまま理解するだけのこと。 >>317-318
ディクソンにカメラ返すだけなら黒人カップルが”居る必要がない”よねw
あそこであの二人が目撃したことがドラマに関わってくるわけじゃないし
ただ単に機械的にカットバックするだけのシーンにわざわざ不純物入れたっていうの?
「よし次はディクソンが酒場で喧嘩になるシーンだ。
特に意味はないが黒人キャストの二人も撮影に参加してもらおう。
後で編集でミルドレッドのシーンと繋げて因果は保つから」って?w
さすがに無理があるねw何らかのドラマ上の意図がないとこんな回りくどいことしません。
更に言えば、ディクソンの酒場のシーンの途中でミルドレッド達のデートのシーンを挟む意味もない
ディクソンが「冷静で思慮深い警官として行動するクライマックスシーン」なんだろう?
まるで西部劇のような緊迫したシーンなんだからそのまま流せばいい
なのにわざわざ、ディクソンがやりあう前にミルドレッド達のデートも同時進行してることが明かされている
俺は当初、ディクソンの酒場のシーンだけに着目してたけど
この一連のシーンはミルドレッドのデートのシーンと二つで一つだよね。意図的にカットバックさせてある
この二つのシーンに登場するカップル(二人組み)は、レイプ魔を入れると三組
一人なのはディクソンだけ。そして、ディクソンが一人で暴行騒ぎを起こした後に
ミルドレッドもチビ男に愛想を尽かされ「一人」になり、また暴力騒動を起こすか起こさないか、という揺さぶりがある
(当然直前のディクソンの喧嘩のシーンのおかげで緊張感が増す)
明らかに「独り者が暴れるか否か」というシチュエーションを双方のシーンで重ねてるよね
ここでもディクソンのシングル故の粗暴さを表現してる
ミルドレッドも、これまで怒りに任せた行動のせいで自身も周囲も傷つくことは身に染みている
それがラスト、双方眠ってる身内の顔を見て内省して
「二人でドライブする」ことで、ようやく二人の(自傷的)暴走行為に歯止めがかかる、という構成だよね
最後に映される空っぽになったブランコのカットがそれを象徴的に現してる
劇中、心を閉ざしたミルドレッドが署長とディクソンと対等に対話する時に使われたこのブランコが「不在」になったことで
もう使われることはない(精神的に充足した)という明確なシーン >生半可なモンタージュ論なんか
実に君らしい根拠のない決め付けだね
モンタージュに生半可もクソもないだろう?
マイケルベイの映画じゃないんだから、無駄に場面が交互するだけのモンタージュなんかこの映画にはないよ
全て明確な意図を持って設計されてる
君は、君の決めつけにそぐわないところはこうやって
「生半可なモンタージュだ!意味はないただカメラを返してるだけ!」
と事あるごとに思考停止してるわけだ。そりゃ解釈が歪むよw
要は見たくないところは目を瞑って、見たいところだけ繋いだもので自分の勝手なストーリーを作り上げてるんだからw
まあ君のトンデモ解釈のおかげで作品を精査するきっかけにはなったよ。ありがとう AmazonからBlu-rayの到着が6月2日から5日の間って連絡きた >>317-318
もう諦めた方がいいよ。見苦しいから。 2chで「君」って言うやつにロクな奴がいない
無駄に攻撃的だし >>320
なぜ彼らがそこにいる必要があるのかは最初に指摘したはずだが?
もちろんそれだけが彼らがそこに登場する理由ではない。彼らがディクソンを嘲笑うこと、
叩きのめされたディクソンの姿にショックを受けることにも演出上の狙いはあるだろう。
しかし、彼らがそこで演じている一番大きな役割は暴行を止めることだ。
>この一連のシーンはミルドレッドのデートのシーンと二つで一つだよね。
そうだよ。もっとも、このシーンだけがそうなのではない。それ以前から二つでひとつのシーンが
続いている。先に書いた通り、ウイロビー署長の死後は、ミルドレッドとディクソンが交互に描かれる。
ディクソンが広告屋を投げ落とし、ミルドレッドが学生を蹴り上げる。ディクソンが失職し、
ミルドレッドの看板が燃やされる。そして警察署の炎上でふたりが交錯する。その後の展開は
ポジティブな方向へ転換していく。
>明らかに「独り者が暴れるか否か」というシチュエーションを双方のシーンで重ねてるよね
いいや、全然そんなシーンではないね。ディクソンの行動の意味は明らかだし、あそこで
ミルドレッドが暴れると予感する観客は間抜けだけだよ。ミルドレッドはチビに家に帰ると言っている。
彼女の頭にあったのは、看板を燃やした元夫に対する怒りではなく、誤解してディクソンに
大やけどを負わせてしまったという意識だったろう。 彼を「絶対にディクソンを性的マイノリティと認めたくないマンと」命名しよう >彼を「絶対にディクソンを性的マイノリティと認めたくないマンと」命名しよう
問題はそこだな。
ディクソン=ゲイ説を唱えていたのに今はギャラリーのふりをしている連中は、「パートナー」氏が
説得力あるゲイ説を披露してくれることを期待していたのに、今では彼はゲイの件はどこかに
置き去りにして黒人カップルに夢中になってしまっている。
ギャラリーの落胆はいかばかりか、察するにあまりあるねw
よくゲイの人は他人がゲイかどうか直感でわかるとか聞くので、そういう直感でゲイ説を唱えている
のだとすればその直感は尊重すべきなのかもしれないし、反論しようとは思わない。
しかし、それ以外の理由で映画からディクソン=ゲイを読み取ったと主張したいのであれば、
その根拠を示せばいいのだよ。それができないうちは、ディクソン=ゲイ説はヨタ話に過ぎない。 スリビルはショーシャンク並の大名作
映画館で観賞できてよかった >>335
良かったけどそこまで良いとは思わなかったな。 ショーシャンクの過剰高評価はあるが、
この作品もまた過剰評価。 ショーシャンクの凄さが分かんない人にはこの映画の凄さもわかんないだろうね
どっちも何と言っても脚本が優れた作品だから また「俺は分かってるんだぜ」クンが現れたかw
友達いないんだろうな。 ショーシャンクはいい映画だと思うけど、そんなに褒めるほどかといつも思う。
ラノベ的なのかな? 露骨な性描写があるから子供と一緒に見るようなもんじゃないよね。
というか俺一人で見てもあんまり気分良くない。 日本では一時期から謎のショーシャンクアレルギーが蔓延した
海外では普通に古典化してる名作扱い
それと言うのも、日本では昔から「泣ける」という妙な評価基準が絶大な人気で
「泣ける映画」としてショーシャンクが一時期持て囃されまくった
んで、実際ショーシャンクって別に「泣ける」ことがセールスポイントじゃないんで
(エグいシーンもそれなりにある)
それに反発した層が「言うほど泣けない」とか言って
それが次第に「言うほど大した映画じゃない」に変換されていった
実際は海外では優れた脚本の見本としてシド・フィールドが教材として常用してる作品で
米脚本家組合選出の優れた脚本の映画101で22位に選ばれている
IMDbのオールタイムベストランキングでも1位(今は知らんが)
それなりの映画ファンならあれを下げる理由がないね シェイプオブウォーター推しの人は、スリービルボードはダメって人多い気がする。 >>347
いい加減なこと言うな
俺は今のところシェイプとビルボードがツートップだ
僅差で犬ケ島 俺は3位がシェイプで2位がスリービルボードで1位がランペイジだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています