スリー・ビルボード Three Billboards Outside Ebbing, Missouri ★ 4
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いや、アメリカの軍隊でヒントが砂とかイラクやん?
黒人の署長でも上の権力にはだんまりなんだな 初見の俺でもママとディクソンのアベックは真犯人だろうが別人だろうがブチ殺しに行くのは乗り気でないし引き返すし躊躇うわ 俺がレッドだったらオレンジジュース差し入れどころかデスソースを患部に塗りたくるわ 看板屋の人優しすぎだよなとは思った
つーか、同室にする病院の鬼畜さよ・・・
まあ、事情知らないから仕方ないかもしれんが レッドも、あれだけボコられて2階から突き落とされたのに、あれだけ元気なのがワラタw
骨折とかなかったのか、肋骨かな?
若いっていいな >>297
君は、「ディクソン自身は真っ当な自立した男として描かれてる」と書いているが、
劇中では他人からそう見られていないんだろ?なんで君は自分のディクソン理解が
劇中の登場人物のディクソン理解に勝ると決めつけられるのかな。
キャラクターの核がどうとかこうとかって話をする前に、ディクソンが映画の中で他人から
どう見られているのか、まずそれを受け止めなければ話は始まらない。
映画の中で、ディクソンは母親のことで他人から嘲られ、ディクソンはそれに過敏に反応している。
それが劇中における事実なんだよ。母親はディクソンのウイークポイントなの。
>「実は母親のほうが依存している」という転換を行ってる
そんなことは映画観てりゃよほどのバカでなけりゃわかることだよ。だからディクソンにとって
母親はしがらみなの。
>>299
何がそぐわないんだ?看板を直し終えてミルドレッドとチビが約束通りふたりでレストランに
行ったから、黒人ふたりが残されたんじゃないか。「じゃあ、俺たちだけで行くか」ってことだよ。
そして行った先にディクソンが先客だった。そういう展開だろ? >>308
>看板を直し終えてミルドレッドとチビが約束通りふたりでレストランに
>行ったから、黒人ふたりが残されたんじゃないか。「じゃあ、俺たちだけで行くか」ってこと
劇中における事実、とか言っておきながら
劇中で描かれてないことをくどくど前提にするんだねあなた
一貫性がないのは十分わかったからもういいよ >>309
全部劇中に描かれていることじゃないか。
彼らは一緒に看板を直した。ミルドレッドとチビは約束どおりデート。
残ったのは二人の黒人とミルドレッドの息子だ。何か間違いがあるかな?
ここから先は無論想像になるが、前提としてはこれで十分だろう。
君はレストランのシーンがクライマックスだと書いているが、交互に描かれている
飲み屋のディクソンも同様にクライマックスなんだよ。ディクソンが冷静で思慮深い警官として
行動するシーンだ。あのシーンで「二人組と客と一人で飲んでる奴」という対比にどれほどの
重要性があるだろうか? カットとカットがどうつながっているか、ごく当たり前の経験から類推して理解する程度のことを
「想像を前提にしている」なんて言っている人は映画なんか理解できるはずもないw >>312
>カットとカットがどうつながっているか”経験から類推する”
なるほど、こんなことしてるから誤読が加速するんだね
君の理解の仕方は映画が主体になってないんだよ。君の個人的な経験による憶測が主体になってる
映画の理解ってのは「カットとカットが”なぜそうつなげられているのか”」を”作品の文脈から”類推するものだよ。
特にこの手のタイトな構成の計算し尽くされた映画はね
単純な話だよ。君の言う通り「よっしゃ看板設置完了!解散して各々デートに行きますか!」って意味だとして
なぜそのシーンを入れていない?正味一分で済むシーンだろう
大体君の解釈は映画の実際の構成に沿ってないんだよね。
君の解釈「ミルドレッド達が約束のデートに行ったから黒人カップルも行ったんだろう」って類推が成立するのは
【看板のシーン→酒場のシーン→ミルドレッドのデートのシーン】←ココまで来て初めて成り立つもの
「そのうちデートをする」という情報が観客に確約されてたのはミルドレッド達だけなんだから
「予定されたデート」と思わせるなら当然ミルドレッド達のシーンから始めているはず
【看板のシーン→ミルドレッド達のデート→酒場】とつなげていれば「あぁカップル同士でデートに行ったのか」と簡単に類推出来る
なのに実際は、「看板のシーンの、ミルドレッドがフレームアウトして見つめる二人の黒人カップル」というカットから酒場のシーンに移行する
ここに君の解釈との重大な齟齬がある
さらにその直後のカットは、ディクソンが一人で飲んでいる画、パンしてその奥の飲みに来てる二人にピント送りをするという構成になっている
カットとカットの因果を類推する?こんなハッキリした因果の提示があるかい?
冒頭の、レッドに看板設置の依頼をしてるミルドレッドが警察署を見てピントが送られるシーンと同じくらいハッキリした「因果の提示」だろう
(この作品は優れた撮影の映画の常套手段”手前と奥”という構図も多用している)
君はカット割りや構図が明らかに直接的に提示してる因果を無視して
見終わった後にしか出来ない実際の時系列を無視した類推をしてしまっている
この時点でまともな解釈じゃないのは明白だよ
ちなみにこの作品が「二つ」ということを象徴的に使ってるのはブランコからも伺えるよ >>313
>「予定されたデート」と思わせるなら当然ミルドレッド達のシーンから始めているはず
なんでバーのシーンを黒人カップルのデートシーンと解釈するんだ?あれはディクソンに
カメラを返しているの。
この映画はウイロビー署長の死後、ミルドレッドとディクソンふたりの主人公を交互に映し出す。
ミルドレッドたちが看板を修理するシーンの後にディクソンがバーで飲んでいるシーンが来るのは
そのパターンを踏襲しているに過ぎない。
看板を直し終えて、ミルドレッドがふたりにこれからチビとデートだと告げて二手に分かれる?
この映画はそんな説明過剰なシーンの使い方はしない。たとえば、ディクソンが母親に入れ知恵される
シーンの次はもうミルドレッドが署に殴り込みかけるシーンだ。
ディクソンのアップからパンして黒人たちにカメラが向いた時点で、観客は「ああ、仕事帰りだな」と
理解する。ただそれだけのことに特別な想像力を必要とするのかね? ついでだ。
>「ミルドレッド達が約束のデートに行ったから黒人カップルも行ったんだろう」って類推が成立するのは
こんなのは別にミルドレッドとチビのレストランのシーンがなくたってわかることなんだよ。
看板を直しているミルドレッドをチビが手伝っていただろ。それでチビがいるのは仕事の後で
例の約束を果たすのだろうと察しが付く。そして、ペンキ屋に店員が笑いかけたところで
このふたりが良い雰囲気になっていることも観客に伝わる。
生半可なモンタージュ論なんか振り回すまでもない。映像に明瞭に描かれていることを
そのまま理解するだけのこと。 >>317-318
ディクソンにカメラ返すだけなら黒人カップルが”居る必要がない”よねw
あそこであの二人が目撃したことがドラマに関わってくるわけじゃないし
ただ単に機械的にカットバックするだけのシーンにわざわざ不純物入れたっていうの?
「よし次はディクソンが酒場で喧嘩になるシーンだ。
特に意味はないが黒人キャストの二人も撮影に参加してもらおう。
後で編集でミルドレッドのシーンと繋げて因果は保つから」って?w
さすがに無理があるねw何らかのドラマ上の意図がないとこんな回りくどいことしません。
更に言えば、ディクソンの酒場のシーンの途中でミルドレッド達のデートのシーンを挟む意味もない
ディクソンが「冷静で思慮深い警官として行動するクライマックスシーン」なんだろう?
まるで西部劇のような緊迫したシーンなんだからそのまま流せばいい
なのにわざわざ、ディクソンがやりあう前にミルドレッド達のデートも同時進行してることが明かされている
俺は当初、ディクソンの酒場のシーンだけに着目してたけど
この一連のシーンはミルドレッドのデートのシーンと二つで一つだよね。意図的にカットバックさせてある
この二つのシーンに登場するカップル(二人組み)は、レイプ魔を入れると三組
一人なのはディクソンだけ。そして、ディクソンが一人で暴行騒ぎを起こした後に
ミルドレッドもチビ男に愛想を尽かされ「一人」になり、また暴力騒動を起こすか起こさないか、という揺さぶりがある
(当然直前のディクソンの喧嘩のシーンのおかげで緊張感が増す)
明らかに「独り者が暴れるか否か」というシチュエーションを双方のシーンで重ねてるよね
ここでもディクソンのシングル故の粗暴さを表現してる
ミルドレッドも、これまで怒りに任せた行動のせいで自身も周囲も傷つくことは身に染みている
それがラスト、双方眠ってる身内の顔を見て内省して
「二人でドライブする」ことで、ようやく二人の(自傷的)暴走行為に歯止めがかかる、という構成だよね
最後に映される空っぽになったブランコのカットがそれを象徴的に現してる
劇中、心を閉ざしたミルドレッドが署長とディクソンと対等に対話する時に使われたこのブランコが「不在」になったことで
もう使われることはない(精神的に充足した)という明確なシーン >生半可なモンタージュ論なんか
実に君らしい根拠のない決め付けだね
モンタージュに生半可もクソもないだろう?
マイケルベイの映画じゃないんだから、無駄に場面が交互するだけのモンタージュなんかこの映画にはないよ
全て明確な意図を持って設計されてる
君は、君の決めつけにそぐわないところはこうやって
「生半可なモンタージュだ!意味はないただカメラを返してるだけ!」
と事あるごとに思考停止してるわけだ。そりゃ解釈が歪むよw
要は見たくないところは目を瞑って、見たいところだけ繋いだもので自分の勝手なストーリーを作り上げてるんだからw
まあ君のトンデモ解釈のおかげで作品を精査するきっかけにはなったよ。ありがとう AmazonからBlu-rayの到着が6月2日から5日の間って連絡きた >>317-318
もう諦めた方がいいよ。見苦しいから。 2chで「君」って言うやつにロクな奴がいない
無駄に攻撃的だし >>320
なぜ彼らがそこにいる必要があるのかは最初に指摘したはずだが?
もちろんそれだけが彼らがそこに登場する理由ではない。彼らがディクソンを嘲笑うこと、
叩きのめされたディクソンの姿にショックを受けることにも演出上の狙いはあるだろう。
しかし、彼らがそこで演じている一番大きな役割は暴行を止めることだ。
>この一連のシーンはミルドレッドのデートのシーンと二つで一つだよね。
そうだよ。もっとも、このシーンだけがそうなのではない。それ以前から二つでひとつのシーンが
続いている。先に書いた通り、ウイロビー署長の死後は、ミルドレッドとディクソンが交互に描かれる。
ディクソンが広告屋を投げ落とし、ミルドレッドが学生を蹴り上げる。ディクソンが失職し、
ミルドレッドの看板が燃やされる。そして警察署の炎上でふたりが交錯する。その後の展開は
ポジティブな方向へ転換していく。
>明らかに「独り者が暴れるか否か」というシチュエーションを双方のシーンで重ねてるよね
いいや、全然そんなシーンではないね。ディクソンの行動の意味は明らかだし、あそこで
ミルドレッドが暴れると予感する観客は間抜けだけだよ。ミルドレッドはチビに家に帰ると言っている。
彼女の頭にあったのは、看板を燃やした元夫に対する怒りではなく、誤解してディクソンに
大やけどを負わせてしまったという意識だったろう。 彼を「絶対にディクソンを性的マイノリティと認めたくないマンと」命名しよう >彼を「絶対にディクソンを性的マイノリティと認めたくないマンと」命名しよう
問題はそこだな。
ディクソン=ゲイ説を唱えていたのに今はギャラリーのふりをしている連中は、「パートナー」氏が
説得力あるゲイ説を披露してくれることを期待していたのに、今では彼はゲイの件はどこかに
置き去りにして黒人カップルに夢中になってしまっている。
ギャラリーの落胆はいかばかりか、察するにあまりあるねw
よくゲイの人は他人がゲイかどうか直感でわかるとか聞くので、そういう直感でゲイ説を唱えている
のだとすればその直感は尊重すべきなのかもしれないし、反論しようとは思わない。
しかし、それ以外の理由で映画からディクソン=ゲイを読み取ったと主張したいのであれば、
その根拠を示せばいいのだよ。それができないうちは、ディクソン=ゲイ説はヨタ話に過ぎない。 スリビルはショーシャンク並の大名作
映画館で観賞できてよかった >>335
良かったけどそこまで良いとは思わなかったな。 ショーシャンクの過剰高評価はあるが、
この作品もまた過剰評価。 ショーシャンクの凄さが分かんない人にはこの映画の凄さもわかんないだろうね
どっちも何と言っても脚本が優れた作品だから また「俺は分かってるんだぜ」クンが現れたかw
友達いないんだろうな。 ショーシャンクはいい映画だと思うけど、そんなに褒めるほどかといつも思う。
ラノベ的なのかな? 露骨な性描写があるから子供と一緒に見るようなもんじゃないよね。
というか俺一人で見てもあんまり気分良くない。 日本では一時期から謎のショーシャンクアレルギーが蔓延した
海外では普通に古典化してる名作扱い
それと言うのも、日本では昔から「泣ける」という妙な評価基準が絶大な人気で
「泣ける映画」としてショーシャンクが一時期持て囃されまくった
んで、実際ショーシャンクって別に「泣ける」ことがセールスポイントじゃないんで
(エグいシーンもそれなりにある)
それに反発した層が「言うほど泣けない」とか言って
それが次第に「言うほど大した映画じゃない」に変換されていった
実際は海外では優れた脚本の見本としてシド・フィールドが教材として常用してる作品で
米脚本家組合選出の優れた脚本の映画101で22位に選ばれている
IMDbのオールタイムベストランキングでも1位(今は知らんが)
それなりの映画ファンならあれを下げる理由がないね シェイプオブウォーター推しの人は、スリービルボードはダメって人多い気がする。 >>347
いい加減なこと言うな
俺は今のところシェイプとビルボードがツートップだ
僅差で犬ケ島 俺は3位がシェイプで2位がスリービルボードで1位がランペイジだな 途中になってしまった
シャッターアイランドみたいな
よりによってラストで
登場人物の言動がこれはどっちなんだろう?と想像させる脚本って
なんかなあ レビューでは勝手に解釈してくれる人がいるにしてもさあ
これはこういう話なんだよあとは勝手に想像しろよって
言われてる見たいで好きではない >>354
じゃあ明確な結末に手取り足取り案内してくれる分かり易い映画見てればいいじゃん 物語の筋をちゃんと追ってれば綺麗に終わったとしか思えないんだけどな
復讐ものだと思い込んだまま見終わる観客が多い模様 犯人の悪業に対して
結局全員に正義があるってことなんだよな
その正義の人たちが互いに傷つけあう非条理劇だろ? 今見終わった
感情的には理解できる犯罪(復讐)
実際は復讐にはならないんだろうけど DVDでみました。
吹き替えでみたけど、レストランで元夫が告白(看板燃やし)したのが
私は、吹き替えでは理解できてなかった。たぶん、ディクソンが、やったんだろうな〜と思って見終わった。
ウィキペディアでストーリー読んで、わかりました。
その後、字幕版で確認したら、元夫がやったのが、わかりました。
細かいことで、すいません。 細かいかどうかよりなんでそれをここに書く気になったのかがわからん。
吹き替えに表現か音声か何か問題があるという主張? 別に普通にここに書くことだろ
吹替えと字幕の訳の違いの話題とか
俺まだ吹替え版見てねーから今度確認しとくわ イマイチだな
ババアが最後まで大暴れする内容で見たかった いやあ〜やっぱハリウッドの役者はうまいな〜
撮り方も演出も巧いな〜さすがだな〜
と思ったけどオスカー7部門ノミネート2部門受賞って聞くとうーんそこまでか?てなる
しずしずと丁寧に緻密に感情を描き出すタイプの映画は好きなんだけどそれにしては
ちょっと派手なことが起こりすぎる
でもまあ売らなきゃいかんしこのへんが落としどころか
ファーゴからずいぶんトシ食ったフランシス・マクドーマンドがやっぱり巧いわ 最初の雰囲気は凄く良かったが、しつこくギャグを入れてくるせいで途中から緊張感が無くなって全てが嘘臭く感じて凄くつまらなかった
まだこれが実話を元にしているなら緊張感を感じられただろうが、フィクションでこんなにコメディ色を強めたらリアリティが無くなって駄目だわ
オスカー取れなかったた理由が良く分かった。正直駄作 社会派サスペンスっぽい雰囲気とコメディが全然マッチングしてなくてどっちも駄目にした感じ
コメディで笑うにはレイプされて焼き殺された遺族の話とか重すぎるし、サスペンスにブラックユーモアなら分かるが単なるギャグをしつこく繰り返すとか食い合わせが悪すぎる こうしてまた燃料が投下されたわけだが、支持派の人たちは頭ごなしに否定したり反論したりする前に
この手の批判的な感想がたびたび繰り返される理由について、この映画に内在する弱さに起因する
ものである可能性を考え直してみてもよいと思う。 はぁ〜い
貴重なご意見どうもありがとう
これだけ懲りずに何度も燃料くべに来てくれるヤツがいるってことは
それだけこの作品が傑作だという証明だね じゃぁどこがコメディだったか箇条書きにしてくれよ
どうせできねぇんだろw >>377
それは質問の仕方がよくないな。コメディはジャンル寄りの用語だから「どこが」と聞くべきじゃない。
この映画にもコミカルなシーンはたくさんある。でもそれはギャグじゃないし、この映画が
コメディということでもない。>>369-370の言葉の使い方はメチャクチャに近い。
しかし、>>372みたいな愚にもつかないくだらないレスよりは頭の体操に使えるだけ意味がある。 いや、監督はブラックコメディのつもりらしい
なんでもたけしの映画に影響を受けてるとか
他の作品で作中に映画館でその男、凶暴につきを見るシーンまであるって >>379
山ほどあるんじゃないか?
看板屋とディクソンのやりとりはコミカルじゃなかったか?
ディクソンから電話を受けたウィロビーが汚い言葉を使ってから
子供たちに謝るところはコミカルじゃなかったか?
警官が広告屋に「俺をセドリックと呼ぶな」と言ったのが、
今度はディクソンとの間で「俺を馬鹿と呼ぶな」と反復されるのは
コミカルじゃなかったか?
この映画の登場人物たちのやり取りにはコミカルなところがたくさんあったと思うがね。 >>380
そうだとすればちょっと外してしまったと言わざるを得ないかな。
そういう点でも、「重すぎる」と書いている>>369-370の感想は案外いいところを
突いているといえるのかもしれない。 >>377,379
ディクソンの全て。わざとらしい演技、セリフ、頭の悪さ。(例: ヒントは砂っぽいところだ→全然分からない……)
麻酔かかったままに署長に尋問されるとこ
元旦那のガールフレンドのキャラ、セリフ
もっと大量にあるけど、上に挙げた例は特に鼻についた部分。特にディクソンと動物園で働く女はやり過ぎていてシリアスな空気感を完全に壊していた
北野武の映画は俺も大好きだし、この監督が武の影響を受けているのは分かるが、武に比べてギャグの使い方が下手糞だな
武のシリアスな映画でのギャグはスリービルボードみたいに雰囲気を壊すような使い方はしてないから
ちょっとしたアクセント程度
スリービルボードのギャグの使い方は武作品でいうなら「TAKESHIS」
決して「ソナチネ」や「HANA-BI」等ではない >>382
自分はたけしの映画は好みじゃないし、しょうじき映画として出来がいいと思えない
そのたけし映画に影響されてるなら…なるほどなあ…と。
なんかもったいないような気がした たけしのはごく初期のを1つ2つ見てから一切見てないな。
ネタがあってもわからん。 北野映画の影響があるかどうかは見たらわかるでしょ。
作品を擁護するかどうかは自由。
俺は良い映画だと思ってるよ。 たけし映画からインスパイアされてるからって
たけしと同じテイストの笑いだと思うのがまず筋違い
あっちの映画界はそんな一枚岩じゃねーよ
この作品は「笑い」なんか入れてない
「滑稽さ」を入れてるんだよ
この作品は、型にはまった物の見方を破壊するってのがテーマの一つだから
当人は真面目にやってることが他人から見たら滑稽に見える、という構図を多用してる
ふがふが言いながら歯医者なんか言ってないっていうミルドレッドのシーンなんかはその典型
ミルドレッドからすりゃヘタすりゃ逮捕されて全部台無しになるのに笑わせようとしてるわけないじゃん
格好つけようとしていまいちつかないディクソンとかもそう
「調子の外し方」こそたけし的なところもあるかもしれんが
笑いと一括りするのは考察があまい 他のサイトでもよく見るこの映画を楽しめなかった人って
結局「サスペンス」とか「コメディ」とか見当違いの型にはめた見方をして「思ってたのと違う」って言ってるのが圧倒的に多い
ジャンル的な映画の見方しかしてないというかね。松崎健夫はソーシャルネットワークを例に出して
「ジャンルを確定出来ないような話の映画もある」って言ってた
色んな面で共通項の多いファーゴもサスペンスだかブラックコメディだかわかんないとこあるしな
「思ってたのと違う」のはソイツの調子の話であって
映画の欠点の指摘にはならない
この映画のシナリオは完璧。アメリカじゃ後々教科書的な扱われ方し始めると思うね この作品が全編通して語りかけてることは「型にはめてみるな」ってことだからね
この作品が急に「調子を外す」のは滑稽なシーンだけではない
取調べ室で火花散らしてる言い合いのシーンかと思いきや吐血して一気に消沈ムードになったり
誰かが支援金送ってきてラッキー♪と思ってたらその裏にとてつもない畏敬の念が介在してたり
幸せな家族団らんのシーンかと思いきや急に自殺したり
「笑い」という間違った括りで見るから「出来てない」と思う
もっと大きな括りで見なきゃ駄目だよ こむつかしいことは置いといて、コメディの枠・サスペンスの枠で楽しまそうって作品ではないな
笑わせよう、和ませよう、スリルで痺れさせようって映画ではない 登場人物が過激すぎて怖かった
広告の人を窓から投げてもケガさせても不問の警官とか
主役のおばさん警察燃やして重傷者出してるのに不問とかあり得なさすぎ
というかこれが当たり前ならアメリカ怖すぎ 問題は、この重い題材で「なぜ笑ってしまうようにしてるのか」ってこと
この作品を「笑い」の観点から語るならここまで踏み込まなきゃ意味がない
「笑い」というのは第三者的な視点から発生するものだと言われてる
自分がバナナの皮を踏んで転んで笑う人なんか居ない(照れ笑い等の反射的なものは除く)
ところが道の向こうの人や、カメラに映った人が転ぶ等の「他人事」だと笑ってしまう
チャップリンは「喜劇はロング、悲劇はアップで」という法則を提示した
「笑い」というのは、ある種の自己防衛だとも言われてる
歯を見せる表情は動物では威嚇であることがほとんど
「笑い」の研究では、いつか自分にも降り懸かるかもしれない他人の不幸ごとを、笑うことで自分を守ってるという有力な説がある
(上記の「転んだ時の照れ笑い」も、自分の失敗や恥ずかしさを誤魔化すために「変換」する反応だと言われてる)
この作品は「当事者」「第三者」という要素が非常に大きいのは誰が見ても明らかだろう
昨日まで笑って過ごしてたことが自分の身に降り懸かるということ
そういう時にその人がどう反応するかで人の本性はわかる ミルドレッドは「なんだあいつ(笑)」と嘲笑する人間にも、「まぁまぁ奥さんここは穏便に(笑)」と笑いかけてくる人間に対しても怒りを感じていた
ミルドレッドは劇中何度か「笑み」を見せるが、そのほとんどが皮肉ったような攻撃的な笑み
そんなミルドレッドが「お前らこれでも笑って済ませてられるか?」と挑発していく物語でもある
ミルドレッド自身もこの渦に巻き込まれていく
神父が「まぁまぁ奥さん(笑)」と言いに来るシーンでミルドレッドは笑いながら上機嫌で帰ってくる
しかし物語の後半、ミルドレッドは「笑う余裕」がどんどん無くなっていく
笑われるのが我慢ならないと行動を起こしたのに、自分も「笑えない状況」に陥っていく
チビ男にも「あんたは何だ?しかめ面で人を非難してばかりじゃないか」と言われる
(ちなみにここ、吹替え版では「ニコリともしない」と言ってるし英語でも「スマイル」って単語が入ってる)
だからこそのあのラスト
散々悩んで自分の罪を告白したのに、ディクソンは冗談を言って返してくる
そこで、ミルドレッドにふっと笑顔が戻る
この「笑い」は、他の連中が自分に向けてた「誤魔化しの笑い」と同じだとも言える
この映画は、どんどん俗世間から離れていくミルドレッドが普通の人に戻る話でもある
事情なんて人それぞれ。人は自分が思ってるほど軽薄でもないし中身がないわけでもない
時には深入りせず、笑い飛ばして済ませるってことも大事
この作品にとって「笑い」はかなり重要な要素のひとつだし、物凄い計算されて上手く組み込まれてる
「コメディ」や「お笑い」という意味の「笑い」ではない
そこを履き違えないように だからね、この作品が「空気の嫁ないギャグを入れてる」ってのはお門違い
この作品の視点は常に冷笑的だから
感情移入すべき主体がどんどん変化していく
つまり「誰を第三者的視点から笑うか」ってのが変化してるだけで
わざと笑わせようとしたりはしてない
(根本的に「笑える」と「笑えない」は視点の所在が違うだけで同質だから)
まあだからこそ「笑えた」「笑えなかった」というのはどちらも正しい感想だとも言えるけど
どういう意図でそういう構造にしてるのかってことが大事
そういう意味でこの作品の「笑い」の使い方は物凄く上手い >>388
>>391が書いてるようにただのお前の妄想
「笑い」か「滑稽さ」かなんて監督にしか分からんから
第一「笑い」だろうが「滑稽さ」だろうがどうでもいい。この映画が面白くない理由は「思っていたのと違う」なんてことではないから
面白くない理由はシリアスとコメディの組み合わせ方とバランスを間違えたから
相反する要素があろうが面白ければそれでいいが、この映画は面白くないんだよ
冷やし中華にマヨネーズを加えてより美味しくなるなら大歓迎だが、この映画は鰻に梅干しを加えたようなもん
単純に不味い、面白くない んだよ >>392
じゃあ何で楽しませるのよ
お前の書き込みみると単純に面白くない映画じゃねえか
変わったことやればいいってもんじゃないんだよ
>>ID:mJmraOLi
わざわざ長文3連投してるけど全部お前の妄想と願望で中身0
>>388では「笑いなんか入れてない」と書いてるのに>>396で「笑いの使い方
は物凄く上手い」とか書いてるめちゃくちゃだから スカッとした娯楽作を観て幸せに帰りたい人からしたら単純に面白くない映画だと思うよ? >>399
ふむ。なるほど。
じゃあ何を期待して観るのよ? >>397
「監督にしかわからない」なんて言い出したら作品を見る意味なんかよ
君にとって「面白くなかった」んならそれでいいじゃん
こっちはこの作品が「笑い」をどう使ってるかを論じてるだけで君に面白いと思ってもらうために書いてるわけじゃない
あとその料理の例えは何の説得力もないよ。君の好みの話でしかないから
>>398
>>388で言っていたのは前述の人らのいう「笑い(コメディ的な)」で
>>396は「笑い」という概念を再定義したうえで言ってる
分かりにくくてゴメンね
ちなみに「シリアスとコメディが相反する」というのは俺の論旨が全く理解出来てない
同じ現象でも、視点によってシリアスにもなるしコメディにもなる
この映画はそういうことを語ってるんだよ?
マーティン・マクドナーはイギリス劇作家として既に実績あるみたいだからね
劇作家がこの手の喜劇論に疎いはずがない。劇作家故の卓越した観点から書かれてるシナリオだから >>389
>この映画のシナリオは完璧。アメリカじゃ後々教科書的な扱われ方し始めると思うね
↑これとか妄想、願望が凄すぎて釣りかと思うよなw
こいつの書いてあることが事実ならオスカー取ってるだろうよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています